日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕③

さてそれでは、ローリエ内閣(1896-1911年)は何をなしたか。筆頭に挙げるべきは、英本国に対する自治獲得闘争であろう。それは自由党の伝統的政策であり、ローリエがフランス系首相であったことにもよる。
1897年、イギリスはビクトリア女王即位60年祝賀祭を機会に、ロンドンで植民地会議を開催した。ジョーセフ・チェンバレン植民地相の目的は、英帝国統合を図るため英帝国参議会を設立することであった。しかしローリエは、イギリスの帝国主義的・中央集権的支配を恐れて、この提案を丁重に断った。
①ヴィクトリア(英語: VictoriaAlexandrina Victoria1819年5月24日 - 1901年1月22日) Александрина Викторияは、イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)、初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)・・・9人の子女(4男5女)が欧州各国の王室・帝室と婚姻を結んだ結果、ヴィクトリアは「ヨーロッパの祖母Grandmother of Europe」と呼ばれるに至った。例えば、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世Wilhelm IIとロシア皇后アレクサンドラАлександра Фёдоровна(ロシア皇帝ニコライ2世妃)は孫にあたる。

②ジョゼフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain, 1836年7月8日 - 1914年7月2日)Джозеф Чемберленは、イギリスの政治家・・・ロカルノ条約でノーベル平和賞を受賞したオースティン・チェンバレンAusten Chamberlain外相やナチス・ドイツへの宥和政策で知られるネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain首相は息子である。
1899年には南アフリカ戦争が勃発し、イギリスはカナダに即刻参戦を強要してきた。だがローリエはカナダ独自の判断により、志願兵を募り、現地へ派遣することにした。これはカナダ国内にイギリス支援を主張するイギリス系と、不関与主義を唱えるフランス系の対立があったため、両者間の妥協を求めた策でもあった。さらにイギリスは、カナダに英帝国海軍増強への協力を要請してきた。ローリエはこれも拒否し、代りに1909年、カナダ独自の海軍を創設する法案を提出し、議会はそれを可決した。
①ボーア戦争(BoerenoorlogenボーアせんそうGuerre des Boers、英語: Boer Wars、アフリカーンス語: Anglo-BoereoorloëАнгло-бурські війниは、イギリスとオランダ系アフリカーナー(ボーア人あるいはブール人とも呼ばれる)が南アフリカの植民地化を争った、2回にわたる戦争。南アフリカ戦争、南阿戦争、ブール戦争ともいう②カナダ海軍(カナダかいぐん 英語: Royal Canadian Navy, RCN フランス語: Marine Royale Canadienne, MRCКоролевский военно-морской флот Канадыはカナダが保有する海上兵力。
ローリエ時代は、カナダ史では未曾有の繁栄を画した時期として知られている。これは世界景気が回復したことと、かつての毛皮交易に代って、カナダの小麦が世界市場を席捲するようになったからである。この小麦ブームは、カナダの気候・風土に適するような品種改良が行われたこと、イギリスをはじめ欧米諸国の工業化が急速に進展して工業製品を交換に小麦の需要が高まったこと、小麦を生産する開拓移民が西部平原地帯に大量に流入してきたことによってもたらされた。
カナダは1898年から第一次大戦までに約250万人の移民を受け入れたが、これはクリフォード・シフトン内閣が欧米に移民取扱い所を設け、組織的に移民の勧誘に努めたことと、アメリカのフロンティアFrontierが消滅し、開拓意欲に燃える人びとがカナダへ津波のように押し寄せてきたことによる。お蔭で西部平原地帯には新たに二つの州ーアルバータ州とサスカチュワンーが誕生し、1905年にコンフェデレーションに加入した。

①Sir Clifford Sifton, PC, KCMG, KC (March 10, 1861 – April 17, 1929), was a Canadian lawyer and a long-time Liberal politician, best known for being Minister of the Interior under Sir Wilfrid Laurier.

②アルバータ州(英: Alberta [ælˈbɜrtə])Альбертаは、カナダの州。カナダ西部に位置する、プレーリー3州のひとつである③サスカチュワン州(サスカチュワンしゅう、英: Saskatchewan[səˈskætʃəwən / -əˌwɑːn] )Саскачеванは、カナダの中西部に位置する州の1つ。
注目すべきは、これら移民の五分の一はイギリス系やフランス系でない人たちで、カナダの「モザイク社会」も同時に開拓されたことである。小麦、鉱物資源、木材そして移民を運ぶために、グランドランクとカナディアンノーザンという二本の新たな大陸横断鉄道が建設されたことも、ローリエ内閣の業績の一つであった。
①Françaisフランス語→La Compagnie de chemin de fer du Grand Tronc du Canada (Grand Trunk Railway Company of Canada en anglais)Гранд транк рейлуэй, couramment appelé le Grand Tronc, est une compagnie de chemin de fer canadienne, créée en 1852, pour relier Montréal à Toronto②The Canadian Northern Railway (CNoR)Compagnie du chemin de fer Canadien du Nord was a historic Canadian transcontinental railway. At its 1923 merger into the Canadian National Railway (reporting mark CN), the CNoR owned a main line between Quebec City and Vancouver via Ottawa, Winnipeg, and Edmonton.
1911年の総選挙でローリエを退陣させたのは、イギリス系とフランス系とのアイデンティティの相剋と、ローリエ自身が創出したカナダ・ナショナリズムの高揚であった。争点は主に、南アフリカ戦争に対する政策、カナダ海軍の新設、アメリカとの互恵通商条約である。
第一の問題に関して親英帝国主義者Imperialist(インペリアリスト)たちは、カナダはもっと積極的にイギリスを支援すべきであると主張したのに対し、フランス系は彼らと同じような境遇にあるブーア人に同情的で、イギリスの植民地戦争に荷担したローリエを激しく非難した。

①ボーア人(ボーアじん アフリカーンス語: Boere, 英:BoersБурыは、17世紀から19世紀の南部アフリカにあったKaap de Goede Hoopケープ植民地Cape of Good Hopeの東境でオランダ語を話していた喜望峰開拓者 (Free Burghers) の子孫であり、ブール人やブーア人とも言う。この名称は、オランダ語およびアフリカーンス語で「農民」を意味する単語"boer"に由来する②アフリカーナー(アフリカーンス語: AfrikanerАфрыканерыは、アフリカ南部に居住する白人のうち、Kaapkolonieケープ植民地Cape Colonyを形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノーHuguenot、ドイツ系プロテスタントProtestantismus教徒など、信教の自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植した人々が合流して形成された民族集団である。
この両民族間の相剋は第二の問題で一層深刻になった。前者は、カナダが”ブリキ鍋”に等しく海軍を持つよりも、イギリスの海軍増強にこそ協力すべきだとの論陣をはった。後者は、カナダ海軍の必要性を認めず、かえってそれはカナダをイギリスの帝国主義政策に巻き込み、危険に陥れるものだといって反対した。フランス系カナダ人にとって最も大切なことは、ケベックという孤塁を守り、その中でカトリック信仰をはじめ「フランス的事実」を残存することであった。
こうしてローリエ自由党政府は、イギリス系インペリアリストとフランス系ナショナリストの両方から鋭く攻撃されることになった。そこへ第三の問題が起り、すべてのカナダ・ナショナリストは、互恵協定はアメリカ主導の北アメリカ大陸統合主義を促進するものだと憤慨した。そして、「ヤンキーとの交渉・貿易お断り」というスローガンを掲げた保守党が政権を担当することになった。
1914年8月4日、カナダがFirst World War第一次世界大戦Première Guerre mondialeに参戦したことによって、民族的対立は一時的に解消した。フランス系ナショナリストの指導者アンリ・ブーラサまでが、「フランスとイギリスの勝利に貢献することはカナダの義務である」と主張するありさまであった。

*Françaisフランス語→Henri Bourassa, né le 1er septembre 1868 et mort le 31 août 1952 à Montréal, était un journaliste et homme politique québécois.
軍需景気でカナダ経済は活況を呈し、海外派兵による労働力の減少は、女性の産業界への進出を促進し、彼女らの社会的発言権を増大した。こうした潮流にのって、1917年、軍人家族には性別を問わず選挙権が与えられ、遂に3月には、連邦議会選挙における婦人参政権が全面的に認められるようになったのである。
参戦はまた、カナダが英・米・加のいわゆる「北大西洋三角形(ノース・アトランティック・トライアングル)」から脱皮し、はじめて国際政治の舞台で活躍する機会をもたらした。カナダ軍は英本国から独立した編隊を組織することを許可され、国家の名声をあげるために大奮戦した(戦死者は6万人、アメリカよりも約1万2000人も上回った)。
*The North Atlantic triangle is a theoretical construct for studying the history of Canadian foreign policy.
お蔭でカナダは、Traité de Versaillesベルサイユ条約Treaty of Versaillesの締結にも、国際連盟や国際労働機関の創設にも独自に参加することができた。こうした動きが、やがてカナダが外交自主権を獲得する道を開いていくことになるのである。同時にカナダは、ローリエ時代の繁栄と戦時中の経済成長により、1920年末までに近代的産業資本主義の時代に入っていた。
1911-20年まで首相を務めたロバート・ボーデンは病気のために引退し、その後を最も有能な部下の一人であるアーサー・ミーエンが継承したが、1921年の総選挙で自由党指導者ウィリアム・ライオン・マッケンジー・キングが首相になった。彼はこの時から1948年まで(1930-35年の間は保守党が政権を担当)、約四半世紀の長きにわたってカナダ首相に君臨した。

①Arthur Meighen PC QC (/ˈmiːən/; June 16, 1874 – August 5, 1960)Артур Ме́йен was a Canadian lawyer and politician who served as the ninth prime minister of Canada from 1920 to 1921 and from June to September 1926.

②ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング(William Lyon Mackenzie King、1874年12月17日 - 1950年7月22日)Уи́льям Ла́йон Макке́нзи Кингは、カナダの第12・14・16代首相。所属政党は自由党。
20年代で特筆すべきは、カナダ主導の下に、1926年の英帝国会議で「バルフォア宣言」がなされたことである。同宣言はカナダや他の自治領に実質的外交自主権を与え、近代英連邦の礎を築いた。すなわち英連邦は、そのメンバーは地位において平等であり、「国王への共通の忠誠心によって結びついてはいるが、国内あるいは対外事情のいかなる面においても決して互いに従属せず、英連邦に属するものとして自由に交わる自治共同体へ、と定義された(K・マクノート『カナダの歴史』)。

*バルフォア宣言(バルフォアせんげん、英語: Balfour Declaration、ヘブライ語: הצהרת בלפור‎)Декларация Бальфура (1917)とは、第一次世界大戦中の1917年11月2日に、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアArthur James Balfourが、イギリスのユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルド卿ウォルター・ロスチャイルドLionel Walter Rothschildに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のציונותシオニズムZionism支持表明。この宣言をארגון ציוני אמריקהシオニスト連盟Zionist Organization of America "ZOA"に伝えるようロスチャイルド卿に依頼した。
この趣旨が正式に法制化されたのは1931年の「ウェストミンスター条例」であるが、カナダはその間にすでにアメリカ合衆国、フランス、日本と外交関係を樹立していた。
*ウェストミンスター憲章(ウェストミンスターけんしょうStatut de Westminster de 1931、英語:Statute of Westminster 1931Вестмінстерський статутは、1931年12月11日にイギリスの議会が発表した憲章である。
30年代の特色は、不況、セクショナリズムの勃興とそれに連動した地域政党の台頭、および外交面における不関与主義(孤立主義)である。
カナダは大恐慌によって最も深刻な打撃を受けた国の一つであった。外国貿易に大きく依存し、産業化はちょうど発展の緒についたばかりだったからである。ちなみに、1929年には3%であった失業率が、1933年には23%に跳ね上がった。だがキング自由党内閣は為すすべを知らず、1930年に保守党のリチャード・B・ベネットに政権を奪取された。
①世界恐慌または大恐慌(せかいきょうこう/だいきょうこうGrande Dépression、英: The Great Depression)Вялікая дэпрэсіяとは、1930年代にアメリカを皮切りに世界的に起こった深刻な経済恐慌のことである。

②リチャード・ベッドフォード・ベネット(Richard Bedford Bennett、1870年7月3日 - 1947年6月26日)Рі́чард Бе́ннетは、カナダの政治家。保守党の党首を務め、1930年から1935年までカナダ首相の地位にあった。
彼は緊急救済事業のために2000万ドルの支出を特別議会で決定し、関税を50%近くまで引き上げて産業の保護にあたる一方、英連邦諸国とは特恵的関税引き下げ協定を締結した。それでも不況は一向に打開されなかった。
そこでベネットは、連邦政府主導による諸計画立案と社会保障を柱にカナダ版「ニューディール」を推進しようとしたが、時はすでに遅すぎた。民衆の不満は爆発し、彼らは「キングか混沌Chaos(カオス)か」を叫んだ自由党に政権を委譲してしまった。それは「ニューディール」が発表された1935年初夏から三ヶ月後のことであった。
*ニューディール政策(ニューディールNouvelle donneせいさく、英: New DealНовый курс Рузвельтаは、1930年代にアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが世界恐慌を克服するために行った一連の経済政策である。
「カオス」は単に経済的なものだけではなく、社会的、政治的状況も意味した。この時代までに、沿海諸州、ケベック州、オンタリオ州、西部諸州は、それぞれ個性的社会に成長しており、大戦中は一時的に国家として統一が見られたものの、その後はセクショナリズムが跋扈するようになっていた。おまけに、カナダ憲法の基本法である「英領北アメリカ法」では、民生福祉は各州の管轄に属していた。そこで合州には、まちまちに不況対策を掲げる新党が台頭してきた。
アルバータでは、抵当の支払いに窮している農民や牧場労働者に「社会的配当金」を政府が支払うという社会信用党(SCP)が、1935年に「リジャイナ宣言」を発し、全国にも多くの支部を創設して、とくに同州とブリティッシュ・コロンビア州で勢力を伸ばした。ケベック州では、保守的なフランス系ナショナリズムに訴えたユニオン・ナシオナル党が、1936年に州権を掌握した。
①The Social Credit Party of Canada (French: Parti Crédit social du Canada), colloquially known as the Socreds,[3] was a populist political party in Canada that promoted social credit theories of monetary reform. It was the federal wing of the (Mouvement créditiste canadien)Canadian social credit movement②The Regina Manifesto was the programme of the Co-operative Commonwealth Federation (CCF) and was adopted at the first national convention of the CCF held in Regina, Saskatchewan, in 1933. The primary[citation needed] goal of the Regina Manifesto was to eradicate the system of capitalism and replace it with a planned socialist economy. The CCF was a Canadian democratic socialist party founded in 1932 by farmers, workers, and socialist groups against the backdrop of the Great Depression③Françaisフランス語→L'Union nationale(Québec)Национальный союз (Квебек) était un parti politique québécois d'idéologie conservatrice et nationaliste.
以上概観したように、隣国のアメリカではフランクリン・D・ローズベルトの「ニューディール」による中央集権化が進行したのに、カナダでは逆に地方分権が発達したのである。ただしこれは州レベルで起った現象であって、連邦レベルではベネット、キング両首相とも、大恐慌に対して中央集権政策でのぞもうとしたーが失敗したー『企図』を抱いていたことは、ここで確認しておくべきだろう。
*フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語:Franklin Delano Roosevelt、[ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt]、1882年1月30日 - 1945年4月12日)Франклін Делано Рузвельтは、アメリカ合衆国の政治家。
第一次世界大戦で多大の犠牲を払ったカナダは、それに懲りて、爾来、孤立の「殻」に閉じこもるようになった。したがってカナダは、国際連盟規約第10条の定める集団安全保障体制にも反対であった。
カナダはヨーロッパやアジアの危険な長からは遥かに離れた”耐火住宅”に住んでいるので、不関与主義ないしは孤立主義を守っている限りその”お家”は安泰であった。1931年の満州事変Incident de Mukdenにはじまる日本の大陸侵略Japanese invasion of Chinaも、1935年のイタリアのGuerra d'Etiopiaエチオピア攻撃campagna d'Etiopiaも、カナダはそれを見て見ぬふりをしていた。
ところが、ヨーロッパの状況が風雲急を告げるようになり、もはやおちおち”耐火住宅”に住んでいられなくなった。イギリスとフランスが、急速に拡大していく全体主義体制打倒のために戦争に乗り出したとき、カナダは第一次世界大戦のときと同じように両国を支援するため、また自らの民主体制を守るために、しかし今度は独自の意志で、1939年9月10日に宣戦布告したのである(第四章参照)。
もう一つ、カナダ対外関係史における重要な変化は、従来”ヤンキー”呼ばわりし、アメリカ合衆国からの圧力に抵抗してきたカナダ人が、30年代後半から、その”ヤンキー”に接近しだしたことである。それは、マッケンジー・キングとフランクリン・D・ローズベルトとの”友情”に象徴的に示されている。
カナダとアメリカとの友好関係は、両国が同じ北アメリカ大陸にあって境遇を一にしたこと、1935年に互恵通商条約を結んだこと、1938年にローズベルト大統領がカナダとの緊密な軍事提携を発表したこと等により深まっていったのである。

*第二次世界大戦(Zweiter WeltkriegだいにじせかいたいせんLa Seconde Guerre mondiale, ou Deuxième Guerre mondiale、英: World War II、略称:WWIIВторая мировая войнаは、1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)までの6年余りにわたって続いたイギリス、フランス、アメリカ、中国、ソ連などの連合国陣営とコミンテルン陣営対日本、ドイツ、イタリアなどの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営との間で戦われた戦争で、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、多くの犠牲者を生んだ。
(2)第二次大戦後のカナダ
1945年6月11日の総選挙で、マッケンジー・キングが継続して自由党内閣を組織することになった。
同内閣が意図したのは、「安全保障と安定」をスローガンに福祉国家を建設することであった。そのためには、戦時の非常事態中に形成された中央集権制を戦後も維持していく必要があった。そのためには、換言すれば、とくに税制において、連邦政府の権限をできるだけ大きくしておくことであった。キング首相の最初の計画では、中央政府が連邦全体の経済システムの主導権を握り、計画経済によって、国民の健康保険、老人福祉、長期失業対策等の社会保障制度を確立するつもりであった。
この問題を討議するため、同年8月に「再編成に関する連邦・州会議」が開催されたが、諸州、とくにオンタリオとケベックは連邦の徴税権の拡大に猛反対して、会議は流会した。そのため連邦・州関係調整委員会が設立され、さらに二度にわたって「再編成に関する連邦・州会議」がもたれた結果、さまざまな修正が加えられ、遂に1946年の秋、ケベックとオンタリオを除く他州は、税収分与につき連邦政府との合意に達したのである。
繁栄と福祉をめざすカナダは、もはや未成年ではなく、独自の意志をもつ青年へと成長しつつあった。戦争ブームともあいまって、国民総生産は1939年の56億ドルから45年には118億ドルに倍増した。戦後も好況は続き、イギリスや疲弊したヨーロッパ諸国に二億ドルもの借款を与えるほどの”実力”を示すにいたった。
人口も移民や難民で急増した。そして何よりも、連合国の勝利に大きく貢献したという自負心が国民に強く根ざしていた。それらが彼らの間に、国家意識を高揚させる大きな要因として作用した。
カナダはもはや伝統的な不関与主義を守って世界政治の辺境にとどまってはいなかった。自らを、大国ではないが小国でもない『ミドル・パワー』として位置づけ、その機能と役割を積極的に模索するようになった(第四章参照)。また、原子爆弾の時代となって、世界情勢も、カナダを否応なしに国際政治の中へ引きずり込んでいった。
カナダが世界で第四番目の工業貿易国に浮上したことと、事実、カナダは大きな余剰食糧と工業物資をもつ数少ない国の一つであったこと、それに「新興国」としてのナショナリズムが、カナダをいろいろな場面で「国際国家」として活躍させることになった。
*ミドルパワーMoyenne puissance(英語: Middle powerMittelstaatとは、超大国や大国ではないが、一定程度の穏健な国際的影響力を持つ国家を指す。日本語では「中堅国家」と表記されることが多い。
たとえば、国際連合救済復興行政機関(UNRRA)の指導的メンバーとなったほか、1947年から二年の任期で国連安全保障理事会の非常任理事国に選ばれた。また経済社会理事会、国際司法裁判所、原子力委員会、世界食糧機構、国際航空輸送協会(IATA、世界各国への民間航空会社の団体、本部はモントリオール)の主要な一員ともなった。こうした国際的活躍にともなって、カナダ外務省は大きく拡張され、官僚中のエリート集団とみなされるようになった。
①連合国救済復興機関(れんごうこくきゅうさいふっこうきかんAdministration des Nations unies pour le secours et la reconstructionUnited Nations Relief and Rehabilitation AdministrationАдминистрация помощи и восстановления Объединённых Наций (ЮНРРА)とは、第二次世界大戦中に枢軸国による侵略を受けた諸国に対する救済援助を目的として、1943年に設立された機関である。略称はUNRRA(アンラ)②国際航空運送協会(こくさいこうくううんそうきょうかいL’Association du transport aérien international、英: International Air Transport Association IATAМіжнародна асоціація повітряного транспортуは、世界の航空会社で構成される業界団体。
また1947年には、「カナダ市民権法」を制定し、カナダ人は自国の市民権(それまではイギリスの臣民)を獲得するにいたった。”大英帝国”の衰退によって、青年カナダはイギリス人からようやく”乳離れ”したのである。けれども一般人の国民感情(フランス系を除く)は、依然としてイギリス第一主義であった。これにアメリカとの協調主義と国際主義を加味したものが、戦後カナダ外交の基調であったといえる。
1948年8月9日、自由党大会でキング首相は引退を表明し、後継者としてケベック州出身のルイ・サンローランが選出された。サンローランはローリエにつぐ二人目のフランス系カナダ人の首相であり、彼はローリエを理想像として描いていた。”植民地的メンタリティ”から抜け出せないと評されたキングと比べて、サンローランは、イギリスとの間に一線を画し、カナダを独立独歩の繁栄した国家にしたてあげることを企図した。

*Françaisフランス語→Louis-Stephen St-Laurent (baptisé Louis-Étienne)Луи́ Стефа́н Сен-Лора́н , né le 1er février 1882 à Compton, mort le 25 juillet 1973 à Québec, est un avocat, professeur et homme d'État canadien. Il est le 12e premier ministre du Canada du 15 novembre 1948 au 21 juin 1957.
1947年に、彼は、イギリスの枢密院への技術制度を廃止した(それまでは、カナダの諸事件の最高判決はイギリスの枢密院に仰いでいた)。この結果、カナダの最高裁判所が最高機関となったのである。同年、カナダの連邦議会は、州権を除く憲法修正権も、イギリス議会からかちとった。そして1952年には、カナダははじめて、イギリス人ではなくカナダ人のビンセント・マッセイを総督に仕立てあげることに成功した。マッセイはかつて自由党のまとめ役であり、ワシントンでは公使として、ロンドンではカナダ高等弁務官として活躍した外交官であった。

*Charles Vincent Massey PC CH CC CD FRSC(hon) (February 20, 1887 – December 30, 1967) was a Canadian lawyer and diplomat who served as Governor General of Canada, the 18th since Confederation. Massey was the first governor general of Canada who was born in Canada after Confederation.
なお、国家統合には、マスコミュニケーションが重要な役割を果たすが、全国を結ぶネットワークをもつ、「カナダ放送協会(CBC)」の開設も50年代に入ってからその実現をみた。
現代カナダの版図が最終的に決定したのは1949年春のことである。それまでニューファンドランドはカナダのコンフェデレーションには加入せず、イギリスの植民地としてとどまっていた。第一次大戦後は、一時カナダと同等の資格をもつイギリスの自治領となったが、30年代の恐慌で破産宣告をうけ、自治領の地位を返上してイギリスの植民地に逆もどりしたのである。
第二次世界大戦の勃発で、ニューファンドランドは、北アメリカ大陸共同防衛上、アメリカ、イギリス、カナダの重要な軍事基地となった。また、それらの軍隊がもたらす資金でこの島の財源はうるおい、自活できる状態にまで経済は回復した。
しかし最後のニューファンドランドは、再び孤立してやっていけるか自信がなかった。1947年7月の住民投票で、カナダとのコンフェデレーション派が僅差で勝利を収め、1948年12月、オタワで連邦加入条約が調印され、翌年の4月に発効することになった。ニューファンドランドは、コンフェデレーションに加入することにより、カナダの社会福祉計画、貿易の発展、投資にあずかろうとしたのである。
新しい州となったニューファンドランドは、カナダ上院に六議席と下院に七議席を獲得し、独自の州政府も確立した。これでやった現在のカナダの領土が確定したのである。
1949年ともなれば、冷戦はたけなわであった。その年の6月、サンローラン政権にとって最初の総選挙が行われた。対抗馬は、オンタリオ州の”タカ派”で、反共主義を叫んでいた進歩保守党(1942年12月の保守党大会で改名)のジョージ・ドリューであった。一方、サンローランはフランス系ではあったが、完全に英・仏二ヶ国語を駆使し、強力な連邦国家の育成を主張していた。彼は、フランス系カナダの生存は、よく統合された堅固なカナダ連邦国家が存在してのみ可能との信念を抱いていた。

①George Alexander Drew PC CC QC (May 7, 1894 – January 4, 1973)Джордж Александр Дрю was a Canadian politician. He served as the 14th premier of Ontario from 1943 to 1948 and founded a Progressive Conservative dynasty that would last 42 years②カナダ進歩保守党(カナダしんぽほしゅとう、英語:Progressive Conservative Party of Canada、フランス語:Parti progressiste-conservateur du CanadaПрогресивно-консервативна партія Канадиは、かつてカナダに1867年から2003年まで存在した、中道右派・保守主義政党。現在のカナダ保守党の前身である。
選挙の結果は、193議席対41議席という大差で「ルイおじさん」と親しまれていたサンローラン率いる自由党の圧倒的勝利に終った。カナダでは、お隣のアメリカ合衆国で見られたような狂気じみた「マッカーシー旋風(反共主義)」は、巻き起らなかったのである。
*マッカーシズムMaccarthysme(英: McCarthyismМаккартизмとは、1950年代にアメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。
戦後カナダのプリオキュペーションは、国家としてのアイデンティティの模索であった。外交面では「ミドル・パワー」としての機能と役割を果たすことにそれを見出したが、精神面ではまだそれが確立されていなかった。
そこであたかも青年が自分は何であるかを問いただすように、カナダの”文化”とは何であるかが真剣に追究された。そのため、1949年4月に、前出のビンセント・マッセイを委員長とする芸術・文学・科学に関する政府委員会が設立された。同委員会は、国立映画製作局、国立美術館、国立博物館、公文書館、さらにこれから設立されようとしている国立図書館についてのみならず、文化全般にわたる幅広い調査を行うことになった。
その当時のカナダは、文化面においてはいたって”後進国”であった。いやむしろ”植民地”的状況にあったといえるかもしれない。戦後、新進気鋭の作家、芸術家、詩人、音楽家は台頭しはじめていたが、その数はまだ非常に少なかった。また、彼らの作品を展示したり、催したりするまともな美術館や劇場もほとんどなかった。1948年にカナダの書店が出版した書物数はわずかに75冊で、同年に出版されたイギリスやアメリカのそれと比べると、前者に対して3%、後者に対して4%にすぎなかった。
他方、カナダはアメリカからの大きな”文化侵略”に直面していた。民衆はアメリカの映画、音楽、小説、雑誌ー『タイムTIME』や『リーダーズ・ダイジェストReader's Digest』はとくに人気を持していたー、テレビ、ラジオ番組を愛好した。それはまさに、アメリカによる「文化的植民地化」といってもよい状況であった。
有能なカナダの学者・教授陣はアメリカに流出し、逆にアメリカから多くの知識人がカナダの大学に流入してきた。それは究極的には、カナダのパーソナリティが、歴史が、そして政治・司法システムまでもが侵食されていくことを意味した。『マッセイ報告書』は、率直に「カナダ人の文化的生活は貧血状態にあり、これに栄養を補給するためには金がかかる」ことを指摘した。
こうして1956年秋、カナダ・カウンシルが設立され、アメリカの文化とは異なるカナダ独自の文化の育成が奨励されるようになった。同カウンシルは、劇場やバレエ団から書物や雑誌類に至るまで、多種多様な分野に下賜金や給費を与えて、カナダの文化的アイデンティティを構築することに貢献した。

①The Canada Council for the Arts (French: Conseil des arts du Canada)Совет Канады по искусству, commonly called the Canada CouncilСовет Канады, is a Crown corporation established in 1957 as an arts council of the Government of Canada②Françaisフランス語→Le Conseil des arts du Canada est une société de la Couronne fondée en 1957 pour agir à titre de conseiller artistique du gouvernement du Canada, créée pour promouvoir et protéger l'étude, le partage et la production des œuvres d'art. 

このようにカナダ・カウンシルの設立は、カナダ独自の文化生活を豊かにするのに大いに貢献したが、その背景には50年代のカナダ社会全般にわたる繁栄と近代化・都市化の急速な進行がみられた。
国民総生産は1945年の118億ドルから50年には180億ドルに、そして57年には319億ドルに達した。同期間中の工場労働者の平均週給は30・47ドル→44・03ドル→64・96ドルに上昇した。また農村と都市人口は、1941年には前者490万人、後者650万人であったのが、56年には前者530万人、後者1070万人となった。水道の普及率も、1941年の61%から61年には89%に増大した。そして50年代の終り頃には、70%に近い家庭が少なくとも一台は自家用車を持つようになった。
自動車時代の到来とともに、ハイウェイの建設が急がれたが、中でもトランス・カナダ・ハイウェイの着工は注目にあたいする(1965年に完成)。この頃には、自動車のみならず、テレビ、冷蔵庫、洗濯機等の電化製品も各家庭にいきわたるようになった。
*トランスカナダハイウェイ(英語:Trans-Canada Highway、フランス語:Route transcanadienneТрансканадское шоссе캐나다 횡단도로Трансканадське шосеはカナダを東西に横断する幹線道路網。日本語では「カナダ大陸横断高速道路」と書かれることもある。

都市には高層ビルや新しい住宅がどんどん建設され、ネオンサインの輝きや雑踏は、アメリカやヨーロッパの大都市とみまちがうばかりとなった。このようなブームをまき起した要因の第一に、世界貿易がカナダに有利に作用したことがあげられる。カナダの食糧、原料、製造工業品は、ヨーロッパが復興するにあたって格好な市場を見出した。一方、日本やドイツはまだ輸出競争から脱落していた。
第二に、カナダの生産能力・工業力は第二次大戦中に飛躍的な発展をとげた。第三に、資本はアメリカ合衆国からふんだんに投入された。第四に、戦争中抑圧されていた消費物資に対する内需が急速に高まった。第五に、労働力は移民を含む人口増加によって充分供給された。ちなみにカナダの人口はこの10年間のうちに1400万から1800万に増加した。ヨーロッパからの移民は技術者や医者等の専門職の人たちも多かったが、たとえばイタリアからの14万人に近い移民の多くが、1954年に開通したトロントの地下鉄工事に従事したりした。

1957年6月21日、22年ぶりに進歩保守党が政権についた。自由党の敗因の一つは、あまりにも長く権力の座に居座りすぎた、と人びとが感じたところにあった。サンローランが75歳になっていたことは、それを象徴した。
長期政権には驕りや弛緩がみられがちであるが、カナダの自由党もその例にもれなかった。貿易・通産大臣であったC・D・ハウは、優れた政治的・経済的手腕でもってカナダの繁栄に大いに寄与したが、防衛・産業大臣の職も兼任し、「万能大臣」とか「全能大臣」とか呼ばれるほどの暴君ぶりを発揮するようになっていた。(彼はキング内閣時代からずっと大臣職にあった)。

クラレンス・ディケーター・ハウ(英: Clarence Decatur Howe、PC、通称はC・D・ハウ、1886年1月15日 - 1960年12月31日)Достопочтенный Кла́ренс Деке́йтер (К. Д.) Ха́уは、カナダ自由党を代表する強力な閣僚である。カナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングとルイ・サンローランの内閣で1935年から1957年の22年間を連続して閣僚として務めた。
そのハウが、1956年、トランス・カナダ・パイプラインが建設されれば、当然オンタリオ州やケベック州の工業発展に利することが期待されたが、リスクが大きすぎた。しかも、この建設事業はアメリカの民間会社が遂行し、カナダが融資することになっていた。野党はこぞってこのハウの”賭け”に反対したが、自由党は数にものをいわせて議会での討論を打ち切り、強引にその案を通過させてしまった。こうした強硬なやり方は野党を激怒させたのみならず、議会制民主主義のルールを無視したとの強い批判を世論からあびることになった。
*The TransCanada pipeline is a system of natural gas pipelines, up to 48 inches (1.2 m) in diameter, that carries gas through Alberta, Saskatchewan, Manitoba, Ontario and Quebec.
選挙にあたって、進歩保守党の党首ジョン・G・ディーフェンベーカーは、自由党の横暴を強く非難するかたわら、「カナダ主義」を強調した。彼は「ルイおじさん」-今やおじいさんーに比べカリスマ的指導者で、民衆の間に潜む反米感情と親英感情に巧みに訴えかけた。

*ジョン・ジョージ・ディーフェンベーカー(英語:John George Diefenbaker、フランス語:John George Diefenbaker、1895年9月18日 - 1979年8月16日)Джон Джордж Ді́фенбейкерは、カナダの政治家。第18代首相(在任:1957年6月21日 - 1963年4月22日)。
民衆の反米感情は、アメリカの経済侵略に根ざしていた。ハウはカナダの発展のために、アメリカからの投資を歓迎したが、そのためカナダの産業はアメリカの支配下におかれることになった。たとえば、カナダの石油・天然ガスはその70%、鉱業は52%をアメリカ資本が支配していた。さらにエジプト大使であったE・H・ノーマンを自殺(1957年4月4日)に追い込んだアメリカの反共「Witch-hunt魔女狩りChasse aux sorcières」にも、カナダの民衆は立腹した。

* Deutschドイツ語→Egerton Herbert Normanエドガートン・ハーバート・ノーマン (* 1. September 1909 in Karuizawa, Japan; † 4. April 1957 in Kairo) Эгертон Герберт Норман war ein kanadischer Japanologe und Diplomat.
また、保守主義者の中にはレスター・B・ピアソンの国連緊急軍創設は、快く思っていない人たちも多かった(第四章参照)。

*レスター・ボールズ・ピアソン(Lester Bowles Pearson、1897年4月23日 - 1972年12月27日)Лестер Боулс Пи́рсонは、カナダの第14代首相(在任:1963年4月22日 - 1968年4月20日)。20世紀後半のカナダで最も偉大な政治家と評する見方が一般的である。
従来の首唱はみな”建国の二民族”のイギリス系かフランス系であったが、ディーフェンベーカーはドイツ系であった。彼がオンタリオやケベックの出身ではなく、西部出身の首唱であったことも、彼の存在を特徴づけた。それは、戦後カナダが移民の国であり、西部が発展しつつあることを物語るものであった。
しかし1957年の選挙は、自由党との差わずかに七議席という少数内閣を成立させたため、58年3月に再び総選挙が実施されることになった。自由党は外交の大立者で、ノーベル平和賞に輝くレスター・B・ピアソンを党首に選出した。ピアソンが主に外交問題を選挙戦術にしたのに対して、ディーフェンベーカーは国内の発展を強調した。

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