日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕④

彼はカナダが物質的な繁栄の中にあって、今度は精神的な豊かさを築く必要性を主張した。とくにアメリカの支配に肯んぜず、「カナダ主義Canadianisms」を謳歌した。カナダは独自の「ビジョンVision for Canada」を持つべきであるとも唱えた。それは一種のニュー・ナショナリズムであり、戦後十数年間に培われた物質的発展を土台とした民衆の意識を高揚させるものであった。
選挙の結果は、265議席中、進歩保守党が208議席を獲得し、カナダ史上空前の大勝利を収めた。
60年代のカナダは、その内部でケベック問題が惹起してきたにもかかわらず(第二章参照)、総じてニュー・ナショナリズムの時代であったということができる。そのナショナリズムの象徴としての国歌がつくられたのは、1965年のことである。それまでカナダは、国家を代表する国歌をもっていなかった。縦と横の比率が1対2で、真ん中に深紅の楓を描いたカナダ国旗は、そのデザインに異論もあったが、とにかく国家統合のシンボルとして国会議事堂や軍事施設、その他全国の公共の建物にひらめくようになった。

①カナダの国旗Drapeau du Canadaは、赤白赤の縦縞で、中央に赤いサトウカエデ(英: Sugar maple)の葉が配置されており、英語ではThe Maple Leaf Flag캐나다의 국기Национальный флаг Канады 「メイプルリーフ旗」Прапор Канади)、仏語ではL'Unifolié하나의 잎(「一葉旗」)とも呼ばれる。現在の図柄は1965年2月15日より用いられ、現在に至っている。

②カエデの葉(カエデのはFeuille d'érable、英語: Maple leafКленовый листは、カエデの樹の特徴的な葉である。本項目ではカエデの葉の文化的意味合いについて解説する。カエデの木の葉は一般にカナダの象徴とされる[1]。단풍잎1834년 몬트리올 성() 세례자 요한회(Société Saint-Jean-Baptiste de Montréal)
カナダ人はその国旗を誇りに思い、外国へ旅行するときは、アメリカ人と間違えられるのを嫌って、カバンやTシャツの背中にまではりつけたものである。日系人もポーランド系もイタリア系も「われわれは皆カナダ人」という意識が盛り上がってきたのは60年代になってからのことである。ディーフェンベーカーが主張した「カナダ主義」はそのことを如実に物語っていた。
ディーフェンベーカーの進歩保守党は国内問題、とくに老齢者、身体障害者、復員軍人への年金の増額、農産物の価格保証などを通じてなされる農業保護、沿海諸州への補助再調整、所得税の軽減などの方策を導入した。
進歩保守党は、1960年、基本的人権を保障する「人権憲章」を議会立法として採択したが、これは、ディーフェンベーカーによれば、「サー・ジョン・A・マクドナルド(カナダ初代首相)の『英領北アメリカ法』を管制させるもの」であった(同法には「人権憲章」がなかった)。これにならって、各州も次々と「人権立法」を成立せしめた。
*The Canadian Bill of Rights[1] (French: Déclaration canadienne des droits) is a federal statute and bill of rights enacted by the Parliament of Canada on August 10, 1960.
また、外交面にも、アメリカとは違った独自の「ビジョン」を打ち出そうとした。したがって米州機構(Organization of American States)には参加せず、1962年の「Cuban Missile Crisisキューバ危機Crisis de los misiles en Cuba/Карибский кризис」のときにも局外者の立場をとった。また、アメリカ製のポーマック・ミサイルを購入はしたが、それに付着すべき核弾頭ーポーマック・ミサイルはそのためにつくられたのであるがーは買わなかった。
*米州機構(べいしゅうきこうOrganisation des États Américains、英語: Organization of American States、略称:OAS、OEAOrganización de los Estados Americanosは、1948年4月に調印されたボゴタ憲章(米州機構憲章)に基づいて、1951年12月に発足した国際機関である。本部はアメリカ合衆国のワシントンD.C.にある。Организация американских государств (ОАГ)
ディーフェンベーカーの「ビジョン」の骨子は、北方開発にあった。彼は、北方開発の問題と北方ビジョンを強調することにより、マクドナルドの「ナショナル・ポリシー」、つまりユニークなカナダの経済的夢と同様のものを20世紀に唱道しているのだ、と説いた。
この北漸への道は多くの新しいプロジェクトー南サスカチュアンのダム、プリンス・アルバータの橋、資源をつなぐ多くの道路と鉄道ーを実現した。彼は全カナダの資源目録を作り、それを開発する計画をたてた。しかし、北方開発がすべてうまくいったとは限らない。確かに北極の多くの油田開発はなされたが、石油の生産はなされなかった。
*北極(ほっきょくArctique、英: ArcticАрктикаとは、地球などの惑星・天体の地軸と地表が交わる点のうち、北側のものである北極点の周辺地域、もしくは北極点そのものを指す。地球上では北極海などを含む地域で、特に白夜・極夜の見られる区域を北極圏と呼ぶ。
結局、ディーフェンベーカー時代、一つの金鉱とタングステンの鉱山が発見されたが、逆に北方の二つのウラン鉱山と銅・ニッケル鉱山が閉鎖された。それに北方開発は非常に経費がかかり、採算にあわなかった。しかもディーフェンベーカー時代は失業率が高く、成長率は緩慢で常に赤字財政にみまわれていた。
1963年4月、レスター・B・ピアソン率いる自由党内閣が誕生した。ディーフェンベーカー内閣は、アメリカからの核兵器受入れ問題をめぶってダグラス・ハークネスDouglas Harkness国防相とグリーンHoward Charles Green外相が辞任し、内部分裂をきたしたのである。その背後には高まる失業と不況がしのびよっていた。
ピアソン内閣はケベック問題に関しては「二言語・二文化政府委員会」を設立し、「史上最大の国家的危機」を回避するための具体策として、フランス語を英語と同様カナダの公用語とすること、中央の官公庁職員の採用や企業管理に関して機会均等の原則を認めること、等を勧告した。その結果、多くのフランス語系カナダ人が公務員として採用されるようになった。
さらに1965年の総選挙では、”ケベックの三賢人Quebec's Three Wise Men”として知られる、労働界のジョン・マンシャン、ジャーナリストのジェラール・ぺルチェ、法律畑のピエール・E・トルドーを起用することによって、また連邦政府内にケベックの「特殊地位」を認めることによって、連邦の統一を強化しようとした。

①Françaisフランス語→Jean Marchand, né le 20 décembre 1918 à Champlain et mort le 28 août 1988 à Saint-Augustin-de-Desmaures1, est un syndicaliste et un homme politique canadien-français②Gérard Pelletier (né le 21 juin 1919 à Victoriaville, mort le 22 juin 1997 (à 78 ans) à Montréal)1 est un journaliste, homme politique et diplomate canadien.


③ピエール・エリオット・トルドー(トリュドー、Pierre Elliott Trudeau、本名:Joseph Philippe Pierre Yves Elliott Trudeau、1919年10月18日 - 2000年9月28日)Жозеф Филипп Пьер Ив Эллио́тт Трюдо́は、カナダの政治家。第20・22代首相を務めた。カナダ史上初めての20世紀生まれの首相で国家としてのアイデンティティーを明確にし、多文化主義や途上国援助などでカナダの再構築に大きな貢献をした④ジャスティン・ピエール・ジェームズ・トルドー(英語:Justin Pierre James Trudeau、1971年12月25日 - )Джа́стин Пьер Джеймс Трюдо́はピエール・トルドーとその妻マーガレットMargaret Joan Trudeauの長男。
ピアソン内閣が直面したもう一つの問題は対米・対仏関係であった。アメリカ合衆国の経済侵略に対する脅威への懸念は、蔵相に著名な経済コンサルタント、ウォルター・ゴードンを起用したことによって示された。少数派内閣の悲哀もあずかって彼の予算案は大幅な改訂を余儀なくされたが、その政策の骨子は、カナダにおける直接外国投資の抑制、企業のカナダ化の奨励にあり、1971年のカナダ開発会社の設立へと結実した。当時はまだVietnam Warベトナム戦争Guerre du Viêt Namたけなわの頃であり、ピアソンはアメリカによる「北爆」を痛烈に批判した。さらにカナダはアメリカの意に反して、以前から中国の国連加盟Chinese Participation in the United Nationsにも賛成であった。このようにして、1967年初期までに、加・米関係は冷却しきっていた。そうした事情で、リンドン・B・ジョンソン大統領は1967年のカナダ建国100年祭にもあやうく出席しないところであった。
*Walter Lockhart Gordon PC CC CBE (January 27, 1906 – March 21, 1987) was a Canadian accountant, businessman, politician, and writer.

*リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson、1908年8月27日 - 1973年1月22日)Ліндон Бейнз Джонсонは、アメリカ合衆国の政治家。同国第36代大統領(在任: 1963年11月22日 - 1969年1月20日)。
おまけにフランスとカナダの関係もうまくいっていなかった。ドゴール大統領は、1967年、モントリオールで「自由ケベック万歳」の演説をぶって、ケベック・ナショナリズムを扇動し、オタワ訪問をとり止めて帰国してしまった。ピアソン首相は緊急会議を招集し、「カナダではすべての人たちと、すべての州が自由であり、カナダは〔他者から〕解放される必要はない」との声明を発表した。一方、ケベック州は、1965年、フランスとの間に「教育協定」と「文化協定」を締結した。通常、協定は条約の一種とみなされ、一地方自治体が他国と協定を結ぶのは異例の出来事である。オタワは急遽「枠組協定」をフランスとの間に締結し、それらの協定がその「枠組協定」の範囲内で成立したものであるとの体裁をととのえた。
①シャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール(フランス語: Charles André Joseph Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)Шарль Андре́ Жозе́ф Мари́ де Голль は、フランスの政治家、軍人。同国第18代大統領(在任:1959年1月8日 - 1969年4月28日)

②自由ケベック万歳!(フランス語: Vive le Québec libre! 発音: [vivᵊ ləkebɛk ˈlibʁᵊ] 'Long live free Quebec!'«Да здравствует свободный Квебек!»は、モントリオール万国博覧会のためにカナダのケベック州モントリオールを訪問したフランス大統領のシャルル・ド・ゴールが、1967年7月24日にモントリオール市庁舎のバルコニーにおいて行った演説の中で繰り返した絶叫である。カナダ首相のレスター・B・ピアソンもこの演説に反論して「カナダ人は解放される必要など無い! Canadians do not need to be liberated!」と強い憤りを表明し、両国間の緊張を引き起こした。ド・ゴールの演説は半世紀以上経過した今日のフランスとカナダの関係にも暗い影を落とし続けている。
これらの問題の他、いくつかのスキャンダルも発覚し、ピアソン政権は末期的症状を呈していた。それにピアソンの健康状態もかんばくしなく、世論調査では、進歩保守党の人気が自由党を凌駕していた。こうした状況の下で、ついに1967年12月14日、ピアソン首相は辞意を表明した。
1968年6月25日の選挙は、自由党候補のピエール・E・トルドーと進歩保守党のロバート・スタンフィールドとの一騎打ちとなったが、結果は自由党の155議席対進歩保守党の72議席に終った。トルドーが勝利したのは、彼がフランス系カナダ人で、ケベック問題や対仏問題を処理するのに最適任者だと思われたからであった。
トルドーの外交路線で注目すべきは、彼がカナダ人はもはや「ミドル・パワー」ではなく、どちらかと言えば小国の部類に属すると断言したことである。彼の言によれば、「われわれが興味をいだいているのは、何がカナダにとって良いかということであり、国外の出来事を決定することではない」というのである。

*Robert Lorne Stanfield PC QC FRCGS (April 11, 1914 – December 16, 2003)Роберт Стэнфилд was a Canadian politician who served as the 17th premier of Nova Scotia from 1956 to 1967 and the leader of the Official Opposition and leader of the federal Progressive Conservative Party of Canada from 1967 to 1976.
こうした趣旨にそって、1970年6月には、「カナダ人のための外交政策」が樹立された。三ヵ月後、ケベック解放戦線(FLQ)がひき起こしたいわゆる「10月危機」に対しては(第2章参照)、トルドー連邦政府首相はカナダ全土にわたって戦時措置法を発動して、その騒動を鎮圧した。

①ケベック解放戦線(ケベックかいほうせんせん、仏: Front de Libération du Québec、略称 FLQФронт визволення Квебекуは、カナダ・ケベック州の独立運動を主張してきたカナダの左翼テロリストグループ。1963年から1970年にかけて、発砲による2件の殺人、少なくとも3人が死亡した爆弾テロ、銀行強盗、誘拐を含む200件以上のテロ行為を行った。特に1970年に引き起こした連続要人誘拐とテロは「オクトーバー・クライシス」として知られる。

②オクトーバー・クライシス(英: October Crisis, 十月危機Crise d'OctobreОктябрьский кризис (Квебек)は、1970年10月にカナダのケベック州で発生した、ケベック解放戦線 (Front de Libération du Québec, FLQ) のテロリストによる2件の政府要人拉致事件の呼称。当時のカナダ首相ピエール・トルドーが、(短期間ではあるが)戦時措置法を発動し、ケベック州とオタワにカナダ軍が展開された。
他方、フランス系ナショナリズムに対する緩和策としては、1969年、「公用語法」を制定し、連邦政治の場で、英・仏両語が同等の権利をもつようにした。さらに広く文化面においては、アメリカのような「るつぼ」ではなく、多文化主義政策を採用することによって、カナダの独自性を発揮しようとした。
1979年5月22日の総選挙で11年間つづいたトルドー政権は瓦解し、弱冠39歳のジョセフ・クラーク率いる進歩保守党に政権の座を譲ったが、1980年2月28日の総選挙でトルドーは再び返り咲いた。その後トルドー首相が挺身したのは、憲法改正問題である。

*ジョー・クラーク(Joe Clark、本名:Charles Joseph Clark、1939年6月5日 - )Чарльз Джозеф Кларкは、カナダの政治家、実業家、大学教授で、元ジャーナリスト。1979年6月から1980年3月まで、第21代首相を務めた。
カナダの憲法は1867年に制定された「英領アメリカ法」と政治的慣例や裁判上の慣行、それに数々の法令で構成されている。だが、基本法たる「英領北アメリカ法」の改正は、イギリス議会で行われることになっていた。その手続きを修正し、同法をカナダへ「返還」したいということと、ケベックの「主権=連合」に代る新しい連邦体制を形成すること、および人権憲章を挿入したということが修正の主な動機であった。
これまで修正の試みは何度かなされたが、連邦政府と州政府との折合いがつかず、失敗に終ってきた。しかし、1981年11月、改正憲法について、連邦政府と、ケベック州を除く九つの州が合意に達したので、1982年3月25日、イギリス議会の承認を経て、「1982年憲法」は4月17日に公布された。これでやっと憲法はカナダのものとなり、カナダは名実ともにイギリスから完全に独立した主権国家となったのである。

「1982年憲法」は「カナダ法」と呼ばれ、その最も重要な部分は第一章の「権利と自由の章典」である。そこには「基本的自由」として、(a)良心および信教の自由、(b)出版および他の通信手段の自由を含む思想、信条、所信および表現の自由、(c)平和集会の自由、(d)結社の自由、が謳われている。
「民主的権利」としては、「すべてのカナダ市民は、下院および州立法議会の議員の選挙において選挙権および被選挙権を有する」と定められている(上院は任命制)。
また「平等権」としては、「すべての個人は法の下に平等であってー人権、国民的・民族的血統、皮膚の色、宗教、年齢、精神的または肉体的障害に基づく差別を受けることなく、平等に法の保護および利益を享受する権利を有する」と規定されている(以下日本外務省訳)。

*1982年憲法法(1982ねんけんぽうほうLoi constitutionnelle de 1982Constitution Act, 1982Конституционный акт 1982 годаは、カナダ憲法典の一部。1982年にイギリス議会により制定された1982年カナダ法別紙Bにより制定された。1931年のウェストミンスター憲章制定により、独立国家とあまり相違のない高度な自治権を得ていたが、なお憲法典の改正などについてイギリス議会が権限を留保していた。本憲法の制定に伴い、カナダのイギリスからの独立プロセスが完了し、イギリス自治領としてのカナダの歴史は終わりを告げた。"自由と権利に関するカナダ憲章"(The Charter of Rights and Freedoms)が34条までの第一章として記されている。なお、ケベック州は本憲法を承認していないが、同州においても有効とされる。

その他公用語として英・仏両語の平等性も条文化されて、イヌイット(エスキモー)、インディアン、メティスら先住民の既存の権利も確認・認知された。
「1982年憲法」は、連邦・州の権限分担に関してはあまり触れていないが、次の二点は注目に値する。第一は連邦政府の歳入を恵まれない州の援助に使うという、地域格差是正の原則を確認したこと、第二は、州内の非再生天然資源に対する州の専属的開発・管理権を確認し、他州への資源の販売や非再生資源の間接課税に関し、州に新しい権限を与えたことである。
このようにトルドー首相は、カナダ憲法のイギリスからの「返還」という偉業をなしとげ、1984年4月、辞意を表明した。自由党はジョン・ターナーを新党首に、進歩保守党はM・ブライアン・マルルーニーを新党首にそれぞれ選出して、1984年9月4日の総選挙にのぞんだ。

①ジョン・ネイピア・ウィンダム・ターナー(英: John Napier Wyndham Turner、1929年6月7日 - 2020年9月18日)Джон Тернерは、カナダの政治家。第23代首相を務めた。

②マーティン・ブライアン・マルルーニー(英語:Martin Brian Mulroney、フランス語:Brian Mulroney、アイルランド語:Brian Mulroney、1939年3月20日 - )Ма́ртин Бра́йан Малру́ниは、カナダの政治家。第24代首相(在任:1984年9月17日 - 1993年6月25日)。進歩保守党所属。アイルランド系である。
結果は、進歩保守党211、自由党40、新民主党30、無所属1議席と、進歩保守党の大勝利に終った。

*新民主党(しんみんしゅとう、英語: New Democratic Party、略称:NDP、フランス語: Nouveau Parti démocratiqueНова демократична партія Канадиは、カナダの中道左派・社会民主主義政党。
進歩保守党の勝因というよりもむしろ自由党の敗因は、後者が足掛け16年もの長きにわたって政権を牛耳り、民衆に嫌気がさしたことと、M・ブライアン・マルルーニー進歩保守党党首が英・仏を駆使するケベック州出身であったので、その大票田が進歩保守党に流れたためである。
マルルーニー首相に突きつけられた国内の最大の課題は、なんとかしてケベック州をコンフェデレーションの枠内に収めることであった。彼は就任早々このことに専念し、1987年春、ケベック州から「ミーチ・レークの合意」を取り付け、その難関をほぼ解決した(第3章参照)。
③Françaisフランス語→L'accord du lac Meech(Lake Meech Accord) Мичское соглашениеest un projet avorté de réforme constitutionnelle négocié en 1987 entre le premier ministre du Canada Brian Mulroney et les premiers ministres des dix provinces canadiennes.
しかもマルルーニーはそうすることによって、かつてA・レイプハルトやその他の政治学者が亀裂を内包している国家の政治的安定を図るモデルとして提唱していた「多極共存型民主主義(consociational democracy)」にカナダを接近させることにも成功した。
*アーレンド・レイプハルト(Arend Lijphart、1936年8月17日 - )Аренд Лейпхартは、アメリカの政治学者。オランダ・アペルドールン生まれ。
対外関係では、ピアソン→トルドー自由党政権下で疎遠になった対米関係を修復することが急務であった。
マルルーニー首相は1984年9月17日に政権につくや、一週間後にロナルド・レーガン米大統領を表敬訪問し、翌年の三月、今度はレーガン米大統領が返礼訪問して旧交を温めた。そして1988年1月2日には、カナダが主導権を発揮して「加・米自由貿易協定」を締結した。果たしてカナダがアメリカ合衆国の広大な市場に食い込み、繁栄の21世紀を迎えるか、それともアメリカ支配下の北アメリカ統合が進むか、その判断を下すのは時期尚早である。

*ロナルド・ウィルソン・レーガン(英語: Ronald Wilson Reagan、1911年2月6日 - 2004年6月5日)Ро́нальд Уи́лсон Ре́йганは、アメリカ合衆国の政治家、俳優。同国第40代大統領(在任: 1981年1月20日 - 1989年1月20日)。
1988年6月19日から開催された「トロント・サミット1988 Toronto Summit (先進国首脳会議)では、マルルーニー首相は議長を務め、「妥協と協調」というカナダの国民精神(カナダ外交の基本原則でもある)を生かして、会議を円満におさめた。そして、11月28日の総選挙でマルルーニー首相は再選された。
これからの世界は、穏健で平和主義的なカナダのような国家をもっと必要とするようになるであろう。と同時に、『21世紀の国家』建設を目指していまカナダが行なっている「実験」にも、われわれはもっと注目すべきである。ではカナダは、どのような「実験」をなしているのであろうか。これからそれを観察してみることにしよう。
*Canadiansカナダ人 (French: Canadiens)Канадцы are people identified with the country of Canada. This connection may be residential, legal, historical or cultural. For most Canadians, many (or all) of these connections exist and are collectively the source of their being Canadian.캐나다인Канадці加拿大人Người CanadaKanadyjczycyקנדים

第2章 カナダの新しいアイデンティティ
ーケベックの分離・独立運動から二言語・多文化主義へー
1 新しい国家像を求めて
ある調査によれば、世界の過半数の国家がいま分離運動に悩まされているという。BreizhブルターニュBretagneEuskalバスクBasqueCatalunyaカタロニアCataluñaTuaisceart Éireann北方アイルランドNorthern Ireland ශ්‍රී ලංකාஇலங்கைスリランカSri Lanka等々、世界各地で少数民族はいまもその解放、自治、場合によっては独立さえも求めて活発な動きをみせている。ベルギーにはワーロン語系Walonとフラマン語系Vlamingenの対立が見られ、東欧諸国はもちろんのこと、ソ連や中国にも少数民族問題はある。アフリカの多くの諸国では激しい部族闘争が行われている。
このように分権・分裂志向は、政治体制の如何を問わず、また、国家の歴史の古さや新しさに関係なく、先進資本主義国にも、社会主義諸国にも、第三世界の国々においても見られる。その対立要因は、政治問題、言語問題、宗教問題、あるいはもっと広く文化的・民族的アイデンティティの確立といった具合に、一様ではない。
闘争の方法も、大々的な内戦から、モロ民族解放戦線Moro National Liberation FrontMNLF)やエリトリア解放戦線Eritrean Liberation FrontELF)のようなゲリラ活動、かつてのケベック解放戦線(FLQ)や Óglaigh na hÉireannアイルランド共和国軍Irish Republican ArmyIRA)のようなテロ活動、合法的手段に訴えようとしたケベック党やブルターニュ利益連携研究委員会Comité d'études et de liaison des intérêts bretonsCELIB)に至るまでさまざまである。いずれにしても、いま、従来の一元的な「Nation-state国民国家État-nation」の虚像が多くの国々であばかれ、またそれが危殆に瀕していることは確かである。
*ケベック党(フランス語: Parti QuébécoisКвебекская партияは、カナダ・ケベック州の社会民主主義政党。ケベック州の分離独立を目指している。
60-70年代、ケベックの分離・独立運動が盛んであった頃のカナダもそうであった。その頃、カナダは国家崩壊寸前という「史上最大の危機」にみまわれた。だがカナダはその危機を梃子とし(危機とは、二コロ・マキャベリNiccolò Machiavelliが指摘したように「危険」と「好機」が一緒にやって来たものである)、二言語主義・多文化主義を採用することによって、みごとに国家的危険を克服した。
そればかりか、この二つの主義をアイデンティティとし、新しい国家建設に乗り出している。
それは、「21世紀型」の国家形成を目指している、といってもよい。そのようにしていまカナダは、多民族間の「平和共存」を図ろうとする国家的実験を行っているのである。この「実験」は、次章で述べる多極共存型連邦制の導入とあいまって、現在、血なまぐさい民族紛争や分離・独立運動にさいなまれている多くの多民族国家にとって、一つの注目すべき指標となるであろう。
では、なぜ「国家的危機」がカナダを襲ったのか。二言語・多文化主義はその危機を解消するのにどのような効用を果たしたか、その軌跡=奇跡を辿ってみることにしよう。

*静かなる革命(英語: Quiet Revolution、フランス語: Révolution tranquilleТиха революціяは、1960年代にカナダ、ケベック州で行われた、政治、経済、教育等に関する一連の改革のことである。
2 ケベック州の分離・独立運動
(1)「静かなる革命」
ケベック解放戦線の指導者で、政治犯として囚われの身(1966年9月)となったピエール・バリエールは、「アメリカの黒人と同じ境遇にあるフランス系カナダ人は、その虐げられた極度に閉塞された状況から、いますぐ、そして未来永劫に自己を解放しなければならない。われわれの闘争は、われわれを過去三世紀にわたって支配してきた搾取、不正、犠牲、不安、諦めに終止符を打ち、公平で兄弟愛に満ちた共同体を築き上げることにある」と主張した。バリエールのこの叫びは、1960-70年代、ケベックの大半の民衆が求めているものを最も簡明に表現した。ちなみに1961年のケベック州の統計によると、英語のみを話す人びとの平均年収は6049ドルであったのに対して、フランス語のみを話す人びとのそれは3107ドルしかなかった。職業においても、貧農、掃除夫、日雇労働者、その他ブルーカラーの仕事の多くはフランス系であり、企業家、資本家、専門職、管理職のほとんどがイギリス系によって占められていた。

*Françaisフランス語→Pierre Vallières, né le 22 février 1938 à Montréal et mort le 23 décembre 1998, est un journaliste et écrivain québécois. Il est surtout l'auteur d'essais militants et de livres traitant de l'indépendance du Québec. Il devient membre du FLQ en 1965.

フランス系カナダ人にとってもう一つの大きな不満の種は、文化的抑圧と疎外であった。言語は文化の母体であり、意識的・無意識的思考にかかわりなくわれわれの『生活世界』(A・シュッツ、P・L・バーガー、T・ルックマンら)の根幹をなす。ところがケベック州では、住民の八割がフランス語系であるにもかかわらず、通用語としては英語が圧倒的に優勢であった。仕事の上でも、英語系はフランス語を使う必要はなく、フランス語系が英語を話すことを強いられる場合が多かった。

*The Social Construction of Reality/La Construction sociale de la réalité: A Treatise in the Sociology of Knowledge is a 1966 book about the sociology of knowledge by the sociologists Peter L. Berger and Thomas Luckmann. The book was influential in the creation of the field of social constructionism.Социальное конструирование реальности
この事実は「ボスは皆〔私に〕英語で話す」とか、「私は仕事するときには、いつも、コートと一緒に母語もハンガーにかけて〔しまって〕おかねばならない」といった、「二言語・二文化政府委員会」のアンケート調査が如実に物語っている。
どの言語が優勢あるいは常用語であるかということと、社会的階層構造には相関関係が見られる。つまり言語的優勢は同時に、文化的・民族的支配をも意味する。さらにそうした支配体系は、善悪や優劣といった社会全体の価値構造をも規定する。
ということは、カナダ全般にわたっては無論のこと、ケベック社会内においてすら、イギリス的生活様式、価値観、世界観が支配的となり、「フランス的事実」は、生存はおろか残存すら次第におぼつかなくなることを意味した。1960年からケベック州で「静かなる革命」が起る基盤はここにあった。まさに、危機に瀕した「フランス的事実」を挽回するために、つのる搾取や抑圧あるいは疎外から、フランス系カナダ人(とくにケベック州内の)が、自己を解放するために。
一口にいって「静かなる革命」の目的は、自分たちの”祖国”にいながら”異邦人”であったフランス系カナダ人が「わが家の主人」になることであった。この決意に至った背景には、彼らの大きな意識改革が見られる「非政治的人間(S・リプセット )あるいは「植物的存在」(F・マイネッケ)であった人たちが長い眠りから目覚めて、自分たちの共同体、自分たちの民族国家を形成するために立ち上がりだしたのである。
①シーモア(セイモア)・マーティン・リプセット(Seymour Martin Lipset、1922年3月18日 - 2006年12月31日)Се́ймур Ма́ртін Лі́псетは、アメリカ合衆国の社会学者、政治学者。専門は政治社会学②フリードリヒ・マイネッケ(Friedrich Meinecke, 1862年10月30日 - 1954年2月6日)Фридрих Майнекеは、20世紀前半のドイツを代表する歴史学者。
この国民意識の覚醒をもたらしたのは、第二次大戦後のカナダ経済の全般的な躍進にともなう。ケベック州自体の経済発展、工業化、都市化、マスメディアの発達、教育の進歩、世俗化といった大きな社会変革であった。それが、農村生活とカトリック教会に依拠していた保守的で諦観にみちた伝統的社会の紐帯を、ずたずたに切断しはじめたのである。
こうした動向は、二つの重大な結果をもたらした。一つは、農本主義的・カトリック教会中心主義的因襲の衰退であり、もう一つは、そうした伝統的共同体に代替する、なにか新しい集団的アイデンティティの模索である。
経済発展や工業化(ケベック州の水力発電は1941-61年間に約3倍、鉱業生産高は同期間中に4・5倍に増大)が、一般に、科学的・分析的・合理的・計画的思考を醸成しやすいことはよく知られている。識字率の上昇や教育の発達(ケベック州の就学率は1931-61年間に、10-14歳グループでは88・3%→96・4%に、15-19歳グループでは23・6%→50・1%に増加)が、結果として、政治意識の覚醒をもたらしたことも確かである。しかしもっと重要なのは、マスメディア、とくにテレビの普及であった。
1952年から、カナダ放送協会(CBC)は、テレビのフランス語放送を開始したが、それは今まで何十マイルも隔離されていた村々をはじめて連携させることに成功した。こうしてフランス語放送はフランス系カナダ人たちの間に、一つの意識連帯を形成したのみならず、おりからの世界の植民地の独立への動きや、次いで60年代にはアメリカやヨーロッパにおける、「対抗文化」の運動もどんどん伝えることになった。ここにケベック=「植民地国家」の解放という「静かなる革命」のスローガンが生れてきたのである。
こうした背景のもとに1960年、J・ルサージュ自由党州政権が「静かなる革命」で意図したことは、(1)ケベック社会の近代化、(2)「わが家の主人」となるための社会主義経済改革、(3)フランス系カナダ人による政治的自治の拡大であった。

*Françaisフランス語→Jean LesageЖан Лесаж né le 10 juin 1912 à Montréal et mort le 12 décembre 1980 à Québec, est un avocat et un homme politique québécois. Il est le 19e premier ministre du Québec, fonction qu'il occupe du 5 juillet 1960 au 16 juin 1966. Il est souvent vu comme le père de la Révolution tranquille. Jean Lesage était associé au Parti libéral du Québec.
まず、近代化の推進力となった教育改革では、ルサージュ政権(1960-66年)は州の教育行政を統轄する文部省と非宗教的な「諮問委員会」を創設して、教育を従来の教会支配から切り離した。カトリック教会が運営していた「古典学校」は「専門学校(CEGEP)」に、教課目も哲学、神学、芸術といった古典教育から、もっと近代社会に役立つような社会科学、自然科学、専門的技術指導に重点をおくよう改変されることになった。フランス語系のモントリオール大学やラバール大学に加えて、もう一つ新しい総合大学の設置計画もすすめられた(ケベック大学として1969年に完成)。
①Françaisフランス語→Un cégep Écouter (acronymie de collège d’enseignement général et professionnel)Колле́ж о́бщего и профессиона́льного образова́ния est un type d'établissement d’enseignement collégial public et unique au Québec

②モントリオール大学(英語:University of Montreal、公用語表記:Université de Montréal
Монреальский университетは、ケベック州・モントリオール市に本部を置くカナダの国立大学である。1878年創立、1878年大学設置。大学の略称はUofM, UdeM。


③ラヴァル大学(ラヴァルだいがく、仏語:Université LavalУніверситет Лаваляは、カナダ・ケベック州ケベックシティーにある総合大学④L’Université du Québec est un réseau universitaire québécois, créé par le gouvernement du Québec en 1968 The University of QuebecКвебецький університет
経済改革の主眼は、75%をイギリス系および外国系に支配されているケベックの諸産業(石油、石炭は100%)を、いかにしてフランス系カナダ人の所有に移転するかということであった。1962年、ルサージュ政府の資源相ルネ・レベック(後のケベック党党首・州首相)は、「手段は経済だ。国家のみがフランス系カナダ人を彼ら自身の経済の主人とすることが出きる」と民衆に訴えて、水力発電所の州有化を州民投票で勝ちとった。また、州有のケベック製鉄公社も新設され、フランス系中小企業を援助する一般融資公社も設けられた。福祉・厚生面においても、州政府自身がそれまでの教会慈善事業の肩代りをし、ケベック年金制度や医療保険の運営にあたった。さらに、こうした改革に必要な資金調達のため、ケベック預金・投資金庫制度も設立された。

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