日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕⑥


こうした国益を追求するにあたって、「英領北アメリカ法」は連邦政府に多大な権力を与えた。なぜなら同法によれば、それらの事業はみな連邦政府の権限に属していたからである。そしてもし州がこれらの政策に反対しようとすれば、マクドナルド首相は、副総督Lieutenant-gouverneureの権力を十二分に活用した。副総督は連邦政府の「助言advice」により英本土の君主から任命され、各州内において、ミニ君主兼連邦政府の代理人という二重の役割を果たしていた。
マクドナルドの思考方式によれば、国益を代表するのは連邦政府であり、州政府は連邦政府が手をつけない地方的残余権限のみを享受するものとされた。そこには、連邦と州の二つのレベルの政府が、平等の地位を有するという今日的考え方は微塵もなかった。
ガース・ステブンソン(Garth Stevenson. Professor of Political Science at Brock University. Brock UniversityMcGill University and Princeton University. Canada)によれば、全州法のうち77%までが連邦政府によって却下されているが、そのほとんどが1911年までに生じたものであるという。また、大原祐子(Françaisフランス語→Yuko Ohara大原祐子 (Ohara Yuko , 21 novembre 1937-東京都出身 ) est une historienne japonaise . Ancien professeur associé du Collège des arts libéraux de l'Université de Tokyo . Spécialisé en histoire du Canada)は、「連邦議会がによる州法の不裁可〔却下〕は1867年より今日まで112回に及ぶが、そのうち72回までが1867年から95年の間に生じた」と指摘している(『概説カナダ史』)。
1867年以来、集権的連邦制度が発達してきたのは、主に次の三つの要因による。すなわち、マクドナルド首相の「国家」のビジョン、アメリカ合衆国からの脅威に対する防衛、そしてカナダ自体が国家建設の途上にあったことである。それらの要素にマクドナルドの個人的魅力と鋭い政治的手腕が加味されて、連邦政府はすべての州を睥睨するようになった。
重要なことは、マクドナルド首相が死去した1891年までに、単なる青写真にすぎなかった「英領北アメリカ法」の諸規定が社会に定着し、連邦国家の礎が築かれたことである。そのほか、連邦議会は1873年に北西部騎馬警察の創設を可決し、これは後にカナダ国家警察へと発展した。
マクドナルド保守党政権下によらないこの間の制度的刷新として注目すべきものは、1875年、マッケンジー自由党政権が樹立した最高裁判所ぐらいである。
(2)集権と分権の交叉
しかし、分権的連邦制の兆候は、1880年代後半から一挙に噴出しはじめた。まず、大西洋岸諸州がマクドナルドの「ナショナル・ポリシー」に不満を示した。鉄道の発達は沿海地方の海運業に大打撃を与え、保護関税も中央部の工業発展を促進こそすれ、沿海地方では重荷に感じられた。折からの世界的不況ともあいまって、この地域の経済は衰微し、1886年にはノバスコシア自由党政権は、自治領からの分離を決議した(しかし実施はされなかった)。
*The Nova Scotia Liberal PartyParti libéral de la Nouvelle-Écosse is a centrist provincial political party in Nova Scotia, Canada and the provincial section of the Liberal Party of Canada.
マニトバ州は、連邦政府からカナダ太平洋鉄道会社に与えられた20年間の独占輸送特恵に逆らって、国境に達する新しい路線開設を許可する州法を制定した。だが、連邦政府はこの州法を却下した。さらにオンタリオ州では、分権的連邦主義の唱道者オリバー・モワットが、1872-96年の間、自由党政権を牛耳っていたが、集権的連邦制の傾向に比例して、彼の連邦政府に対する批判も鋭くなっていった。そして、1887年には自治領創設の四州がすべて州権擁護を標榜する自由党の支配下におかれるようになった。
こうした状況の下、集権化の胎動に各州が鬱憤をぶつけたのが、1887年10月に開催された「第二のケベック会議」であった。ケベック州首相オノレ・メルシェが提案したこの州際会議には、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシア、マニトバの五州が参加し、議長はオンタリオ州首相オリバー・モワットが務めた。この会議では22もの決議がなされたが、その中心課題はいうまでもなく肥大化する連邦政府の権力をいかにして抑制するかであった。

①Honoré Mercier, né le 15 octobre 1840 à Saint-Athanase et décédé le 30 octobre 1894 à Montréal, est un avocat, un journaliste et un homme politique canadien-français1,2,3. Il est le 9e premier ministre du Québec, fonction qu'il occupe du 29 janvier 1887 au 21 décembre 1891

②Sir Oliver Mowat GCMG PC QC (July 22, 1820 – April 19, 1903) was a Canadian lawyer, politician, and Ontario Liberal Party leader. He served for nearly 24 years as the third premier of Ontario.
だが会議では五州が大同団結して連邦政府にあたるというよりも、むしろ各州の多様な要求が露呈した。それでもこの州際会議は後に発展してくる「政府間関係Intergovernmental relations」の先例となったことや、以後、連邦政府による州法却下の権限を大幅に削減したこと等、分権的連邦制の推進に少なからず貢献をなした。なお、連邦政府による州法留保の権限は1937年以来、却下は1943年以来、まったく行使されなくなった。
州際会議の前後に起ったルイ・リエルの処刑とマニトバの学制問題は州権主義に深甚な影響を及ぼした。それらの事件にも増して分権的連邦制に荷担したのは、1880年代と90年代に、英本国の枢密院司法委員会が下した一連の憲法上の判決である。
それらはおしなべて、集権的連邦制をはばむものであった。とくに、1892年のニューブランズウィック州の提訴に起因する判決は、連邦政府と州政府は権威と地位において平等である、と言明した。同判決は「
『英領北アメリカ法』は州政府を中央の権威に従属せしめるのではなく、・・・各州は自立Independenceと自治Autonomyを保持する」との裁可を下している。1949年まで、カナダにとっての最終審は連邦最高裁ではなく、英本国の枢密院司法委員会であったため、こうした判決は集権と分権のダイナミズムに大きな波紋を投じた。
以上のような経験もあって、1896年7月には、州権強化を綱領にかかげたウィルフレッド・ローリエ率いる自由党内閣が誕生した。だが、この内閣もまた長期政権で1911年まで続き、マクドナルド時代ほどではないにしても、次第に集権的連邦主義の傾向を示すようになった。逆に野に下った保守党が、1905年以降オンタリオ州の政権を掌握した保守党の同志と共に、州権擁護を唱和した。
爾来、州権対分権の抗争は二大政党を交叉し、連邦の権力の座についた党が連邦主義を、在野の政党が州権主義を主張するというシーソーゲームがパターン化していくことになる。第一次、第二次世界大戦期はカナダ全体をナショナリズムの渦中に巻き込み、二つのタイプの連邦主義をめぐる論争は、政治家にとっても、知識人にとっても、あるいはまた民衆にとっても、関心外の問題であった。
ただ現実的には、戦時中はいずれの場合も、集権的連邦体制がとられた。たとえば、1941年から46年まで、連邦政府とすべての州政府との間に「戦時税務協定」が結ばれた。これは州政府が戦争遂行に協力するために、所得税、法人税、相続税の徴税権を連邦政府に貸したもので、その結果、連邦政府は1945年には、連邦・州・郡の三つのレベルの政府によって集められる税金総計のうち71・4%を徴税した(1930年には、連邦政府は33・4%の税金を集めていた)。
第二次世界大戦前にもう一度集権的連邦体制が見られたーというよりも一般大衆から期待されたーのは、大恐慌のときであった。しかし集権体制はマクドナルド時代のそれと様相を大いに異にした。後者は国家建設・鉄道・資本家が密着したものであったが、前者は老齢者、失業者、製品の売れない一次産品製造業者を救済するために強力な中央政府を必要としたのである。しかしこの集権体制を取ろうとした試みは、第1章で見たように、結局失敗に帰した。
第二次世界大戦前、右の三つの時期以外は、概して分権的連邦主義の傾向が見られた。こうして歴史を通観すれば、集権的連邦主義は1880年代中頃をピークに、分権的連邦主義とシーソー・ゲームを繰り返しながらも、徐々に下降線を辿っていったといえる。その端的な一例証は、マクドナルドと彼の後継者たちによる保守党政権が瓦解した1896年から1920年の間に、連邦政府が州法を却下したのは二回目、1921年から43年までが16回、それ以後は前述したとおり一度もなされていない。
もう一つ興味深い現象は、二大政党に対抗する社会信用党とかユニオン・ナシオナル党等の地域政党が1930-40年代に台頭し、しかもそれらの政党が、アルバータやケベックの州政府を掌握する場合がでてきたことである。
(2)分権的連邦主義の趨勢
分権的連邦主義まてゃ州権擁護を最初に提唱したのは、オンタリオ州のオリバー・モワット、ケベック州のオノレ・メルシェ、それに1882年から1925年までの長期にわたって自由党が政権を担当したノバスコシア州政府であった。彼らは特に州の立法権を主張し、その理論武装に「盟約論(コンパクト・セオリーCompact Theory)」を用いた。この理論の淵源はコンフェデレーション結成期まで遡り、要するにコンフェデレーションは、三つの盟約によって打ち立てられたものであるとす。一つはイギリス系・フランス系民族間、二つは各州間、三つは連邦・州間である。
*The compact theory of the Canadian confederation is the idea that the constitution is the product of a political agreement (or compact) among the country’s constitutive parts.
これらの盟約の基本精神は「妥協」であり、盟約の各当事者は相互に自立と自治を尊重することである。この主張に依拠すれば、州政府は連邦政府から自立しており、自治権を享受しているのであった。マクドナルドのように連邦政府が州政府の上に君臨し、国家統合を図り、州には連邦政府の強大な権限の残余部分だけを与えようとするような集権的連邦主義は、当初の「盟約」違反だということになる。
この理論で注目すべきことは、連邦は文字通り、邦の連合体にしかすぎず、連邦政府はすべての州の合意なくしては、何も事を起こすことはできないという点にある。したがって、マクドナルド政府が早くも連邦結成一年以内に、ノバスコシアの分離を防ぐため、他の州政府からは何の了承も得ず独断で助成金を与えたのは「英領北アメリカ法(憲法)」違反だということになる。
後に、ことに1960年代以降、財政をめぐる連邦・州間の抗争は激しくなるが、右記の問題はその端緒となった。ノバスコシア助成金問題から8年後、同様の論旨でもって、ケベックとオンタリオの州政府は、連邦政府がニューブランズウィックをカナダ連邦に加入させるには、すべての州の合意が必要であるとの論陣をはった。
「盟約論」のもう一つの強調点は、州の利害は州のみが代表しうるということである。前述の州際会議の主催者であったケベック州首相オノレ・メルシェは、この立場の急先鋒であった。彼をはじめ州権論者たちがこの会議を「第二のケベック会議」と称したのは、同会議が、1864年の会議と同様、州の利害を反映する州の代表者のみ(連邦政府抜き)の会議であったからである。
マクドナルドが会議を無視したのは、彼の集権的連邦主義からすれば、州の利害は連邦と州が共有するものであり、州だけの会議は論理的にも容認しがたかったからである。したがって彼は、鳴り物入りのこの会議を単に自由党の不満分子の寄り集まりとみなした。
カナダの研究者の多くは、この会議を分権的連邦制への移行の先駆けとの見解をとっているようである。しかし筆者は、同会議が結局支離滅裂に終ってしまったことは、各州間の調整機構としての連邦政府の存在理由を実証する歴史的事件でもあったと解釈している。
1880年代から90年代にかけて分権的連邦制度に手を貸した英本国枢密院司法委員会の態度は、1910年代から20年代に同委員会で大きな影響力を持ったウィリアム・ワトソン卿によって継承された。また、1928-32年、オンタリオ州の首相を務めたハワード・ワァーガソンは、州権論者であったオリバー・モワットの生れ変りのようであった。彼のみならず、州の指導者たちは20世紀に入っても、「盟約論」を保持しつづけた。

Sir William Watson (2 August 1858 – 11 August 1935)[1] was an English poet, popular in his time for the celebratory content, and famous for the controversial political content, of his verse. Initially popularly recognised, he was then neglected because of changing tastes.

George Howard Ferguson, PC (June 18, 1870 – February 21, 1946) was the ninth premier of Ontario, from 1923 to 1930.
戦後から60年の頃までは、カナダも他の諸国にたがわず、近代化とケインズ流マクロ経済を基礎とする新しい「国家建設Nation-building」の時代であった。したがって集権的連邦体制の方がどちらかといえば優勢であった。

①初代ケインズ男爵、ジョン・メイナード・ケインズ(英: John Maynard Keynes、1st Baron Keynes、1883年6月5日 - 1946年4月21日)Джон Ме́йнард Кейнс, 1-й барон Кейнсは、イギリスの経済学者、官僚、貴族。イングランド、ケンブリッジ出身②マクロ経済学(マクロけいざいがく、英: macroeconomicsМакроеконо́міка, також макроеконо́мія або макроекономі́чна тео́ріяは、経済学の一種で、個別の経済活動を集計した一国経済全体に着目するものである。巨視経済学あるいは巨視的経済学とも訳される。
60,70年代は第2章で詳述したように、ケベック州の「静かな革命」にはじまる分離・独立運動の嵐がすさまじかった時期である。この嵐は、「盟約論」の三本柱の一つであるイギリス系とフランス系民族間の「盟約」の延長とも理解されるが、一時は「盟約論」そのものを吹き飛ばしてしまような勢いがあった。したがっていままで追究してきた伝統的な集権的分権をめぐる連邦・州間の抗争は、すっかり民族対立に転換されてしまった感さえした。

ただここで注意すべきは、イギリス系支配に挑戦したフランス系ナショナリズムが、ケベックという地域に拠点を置いていたことである。そのため、他の地域主義も誘発され、それ以来、集権的連邦主義対分権的連邦主義の議論は、連邦主義対地域主義の論争に置換されていくことになる。このような経緯の中から新しい制度としての「政府間関係」、あるいは本章の冒頭に紹介した「連邦・州外交Federal-Provincial Diplomacy」が発達してくるのである。こうして60年代以降、「政府間関係」は、カナダの政治生活のあらゆる側面に顕現してくるようになる。なかんずく、憲法問題はその中心的課題であるので、それを次節のテーマとして取り上げることにする。
なお、この「連邦・州外交」ないしは「政府間関係」の発達は確かにケベック州の「静かな革命」→分離・独立運動を引き金としているが、それだけに起因するものではない。その他の要因として、近代化に伴い連邦(中央)政府の扱わなければならない問題が複雑・多岐になってきたこと、それらの問題群の管轄が、「世紀も前に制定された「英領北アメリカ法」の規定では連邦政府に属するのか州政府に属するのか明確でなくなってきたことと、多くの場合、それらの管轄が二つのレベルの政府に跨がるようになってきたことと、全国家的諸問題を処理すべく連邦政府の権力が肥大化し、州の権限を侵犯する虞れが増してきたこと、各州がそれぞれ独自の歴史的、経済的、文化的背景を伴い発展し、その結果、各州の個性Personalityが濃厚となり、自立と自治を要求して連邦政府を突き上げる力を強化してきたこと等がある点を付記しておきたい。

*The Victoria Charter was a set of proposed amendments to the Constitution of Canada in 1971. This document represented a failed attempt on the part of Prime Minister Pierre Trudeau to patriate the Constitution, add a bill of rights to it and entrench English and French as Canada's official languages; he later succeeded in all these objectives in 1982 with the enactment of the Constitution Act, 1982.Charte de VictoriaВикторийская хартия
3 憲法問題をめぐる政府間関係
(1)ビクトリア憲章の発表
繰り返し叙述してきたように、「政府間関係」は60年代以降発達してきた、新しい、しかもカナダ特有のコンフェデレーションの仕組である。この仕組の第一の特色は、各政府(連邦と州)が自立と自治を享受しながら、ある問題の解決または企画を実施するために交渉・妥協し、相互依存の関係に立つことである。それは伝統的な集権対分権の議論とは別の次元の問題であり、政府間の「整合性Coordination」が重要視される。
第二に、その整合性は、概ね、連邦と州の首相級会談、閣僚級会議、事務次官会談といった最高行政官Executive Policy Makers(為政者)の間で模索され、連邦・州会議のような「会議外交(交渉)」の形式をとる。ただし、連邦の枢密院事務局内に設置された「連邦・州関係事務局」や、連邦政府と州政府の共同出資により「政府間事務局」等の常設機関のチャンネルを通じて、連邦・州間の意思疎通を図る工夫もなされている。
第三に、州・州関係もあり、多くの
州は連邦・州・州関係を司る独立の省として「政府間関係者」を備えており、諸州はこの省を通じて外国の政府とも関係を持っている。
では、この「政府間関係」の一事例ーしかしその典型例ーとして、憲法問題をめぐる連邦・州関係を素描してみよう。
カナダ憲法の基本法である「英領北アメリカ法」には、その改正手続きが一切規定されていないという重大な欠陥があった。したがって、同法はもともと英本国議会の承認を経、英本国女王の勅許を得て成立したものであるから、改正も当然同じ手続きによるものと解釈されてきた。
1926年秋の英帝国議会で、カナダは独自自主権を獲得したが、憲法改正の権限はイギリス議会から「返還」されなかった。そこですぐさまその翌年、「返還」手続きをめぐる憲法改正のための連邦・州会議が開かれた。
爾来、憲法改正の試みは何度も重ねられ、「返還」方式のみならず、連邦・州間の権限配分の問題も、あるときは連邦政府の、別の機会には州政府の主導の下に討議されてきた。が、両者が完全に合意に達することはなかった。1964年には連邦政府が「フルトン・ファブロー」方式(連邦司法大臣の定めた憲法改正手続き)を提案したが、ケベック州政府は州の自治権の一層の拡大を要求して、これに反対した。
*Françaisフランス語→La formule Fulton-FavreauФормула Фултона — Фавро était une formule de modification de la Constitution du Canada développée et proposée par le ministre fédéral de la justice Edmund Davie Fulton et le libéral québécois Guy Favreau dans les années 1960.
このような背景の下に、60年代後半から憲法改正の気運が急速に高まってきた。その牽引車は地域主義の高揚であった。
まずケベック州では、『平等か独立かEquality or Independence』(1965年)を出版したユニオン・ナシオナル党のダニエル・ジョンソンが、1966年に政権を握った。彼はフランス語系民族と英語系民族の平等化、ケベックを「州国家」とすること、そしてカナダを両民族の連合国家に改変することを主張して、憲法の制定を要求した。

マクロ経済的国家発展とは、とりもなおさず中央部ーオンタリオ州とケベック州ーの発展を意味した。この傾向に対して、経済的、政治的、文化的に疎外されつづけてきた沿海地域と西部地域が反発した。前者は連邦政府に助成金の大幅な増額と発展推進を迫った。後者は小麦、石油等の一次産品生産で豊かになったが、工業化された中央部とは経済構造の質を異にし、連邦政府=中央部結託による収奪にいかっていた。また、”実力”をつけたオンタリオ州には、連邦政府の存在が、”目の上のたんこぶ”のように思えた。
ここに「返還」をめぐる憲法改正の動きは、各地域の諸要求をいかに調整するかに焦点が移され、現状のコンフェデレーションの体制に根本的な再検討を加える必要性が痛感されるようになった。1967年11月に、「明日をめざす連邦会議」と銘打った州際会議が開催されたのは、そうした理由によるものであった。
この会議は1887年の州際会議を彷彿とさせるかも知れないが、問題の核心はもはや集権対分権ではなく、「英領北アメリカ法」そのものの包括的見直しであった。それに、すべての参加者の胸中には、ケベック州の去就をめぐる懸念がよどんでいた。会議はなんら公式決議を打ち出さなかったが、将来真剣に考慮すべき課題として、憲法改正、地域格差の是正、少数者の言語権擁護等を最終コミュニケで謳った。
州際会議に触発されて、連邦政府は即刻二つの行動を起した。一つは「未来のコンフェデレーション」と題する白書を発表したこと、二つは1968年の2月に「連邦・州憲法会議(以下憲法会議と呼称)を開催したことである。
白書は、憲法改正、言語権の保障、州の意志をより一層反映するための上院や最高裁判所の機構改革、人権憲章を憲法に盛り込むこと等を強調した。この最後の事項は、「英領北アメリカ法」には明記されていなかったためと、言語権とあいまって、フランス系を含む少数者の地位の向上をめざすために、白書で最優先された。なお、白書は不思議にも、「返還」手続きについては何も触れていなかった。
68年の憲法会議はこの白書の検討から始められたが、地域的経済格差の是正と言語問題が中心的関心事であった。ただしケベック州だけは、イギリス系とフランス系両民族連合国家体制のビジョンの下に、国家権力の分割を主張した。
1968年4月20日、ピエール・E・トルドーが自由党政府首相に就任して以来、憲法改正運動はいよいよ本格的に展開されるようになった。彼は憲法会議を何度も持ち、連邦・各州間の意見調整を図った。彼はまた、連邦政府の立場を説明するいくつもの報告書を発表し、それらについて各州と精力的な討議も重ねた。1970年4月のケベック州選挙で、連邦主義者のロベール・ブーラサ率いる自由党が同州の政権を担当したことも、改憲の動きを進展させるのに役立った。こうして1971年6月、ビクトリアで開催された憲法会議で、連邦政府は「ビクトリア憲章」を発表するところまで漕ぎつけたのである。
(1)憲法改正の権限をイギリス議会からカナダへ返還することと、その返還および憲法改正の手続き。(2)下記の三つのカテゴリーに分類された人権憲章。(a)思想、良心、信教の自由、信条、所信および表現の自由、平和的集会、結社の自由等の市民的権利、(b)出自、皮膚の色、信教、性の差別を受けない普通選挙の実施、(c)連邦議会と、サスカチュアン州、アルバータ州、ブリティッシュ・コロンビア州を除くすべての州議会における英、仏両言語の使用。(3)連邦最高裁判所の改革ー9人の裁判官のうち、3人はケベック州の法廷から選出すること。(4)連邦議会は老齢年金、家族、青年、職業訓練手当に関する法を制定し得るが、これらの事項に関する州の立法権に影響を及ぼさないこと(「英領アメリカ法」第94条aでは、これらの事項については連邦と州が権限を共有するが、州権優先となっている)。(5)地域格差の是正。(6)連邦政府による州法の留保および却下を廃止すること。(7)毎年、連邦政府首相と州首相との会議を開催すること。
以上である。九つの州政府はすべてこの憲章を受諾したが、ケベック州政府のみそれを拒絶した。その理由は、連邦・州の権力分轄に関して、憲章の文面が曖昧である、ということであった。しかし実際は、この頃、ケベック州内では分離・独立の動きがますます激しくなってきており、ブーラサ首相はそうした世論に押されたのであった。

(2)カナダ法=「1982年憲法」の制定
連邦政府は、ケベックに水をさされていったん中断していた改憲運動を、1975年の春からまた再開した。前者は後者に、フランス語と文化の維持・発展はカナダのコンフェデレーションの基本目標であることを約束し、ケベックの特殊地位も認めることを示唆した。同時に連邦政府は、もしケベックが交渉のテーブルに着かなければ、若干の州の合意が得られなくても「返還」交渉をイギリスと始めるとの脅しもかけた。
だが、ケベック州はこの誘いにのらずに、1976年8月、アルバータ州で開かれた州際会議に参加した。この会議では、各州の諸要求が寄せ集められ、長いリストにして連邦政府に突きつけられた。その中には、アルバータ州の資源(石油・天然ガス等)に対する州の権限強化や、ユーコン準州を州にする場合には、ブリティッシュ・コロンビア州はそれを拒否するとの威嚇も含まれていた(ブリティッシュ・コロンビア州は、将来、ユーコン準州を併合する意図を持っていた)。

*ユーコン準州(英: Yukon Territory [ˈjuːkɒn]、仏: Territoire du YukonЮкон (территория)は、カナダの準州の一つ。準州都はホワイトホース。おおよそ直角三角形をしており、西側はアメリカ合衆国のアラスカ州と、東側はNorthwest Territoriesノースウェスト準州Territoires du Nord-Ouestと、南側はブリティッシュコロンビア州とそれぞれ隣接している。
さらに同年11月には、ケベック党が政権を取った。そこでまた、改憲をめぐる「政府間関係」は”手詰り”状態に陥った。
しかしケベック党の勝利はカナダ全国に大きな衝撃を与え、民衆の中に憲法改正は焦眉の急というムードを創出した。「コンフェデレーションのためのオンタリオ諮問委員会」「カナダ西部協会」「カナダ法協会」、その他多くの団体がコンフェデレーションの包括的修正を促す報告書や研究書を出版した。全州の中で連邦政府と一番対立の少なかったオンタリオ州の元首相ジョン・ロバーツは「国家統一のための作業委員会」を組織した。
連邦政府も法務省内に憲法改正案を練り直す委員会を設置し、1978年6月、「行動の時」と題する白書を発表した。それによると人権憲章は一年以内に、連邦と州にまたがる立法権の修正は三年以内に、完全に整備される予定になっていた。さらに同月、連邦政府は次のような内容の憲法改正案(C-60法令)を公表した。
まず、前文でコンフェデレーションの目的を謳い、人権憲章と英・仏二言語主義の必要性を唱え、これらを各州の承認を得て、憲法に盛り込む。次に上院を廃止し、その代りにもっと州の意志をよく代表する「連邦院House of Federation Canada」を設置する。その議員118名の半数は下院によって、残り半数は州議会によって選出する。「連邦院」は、重要な例外事項を除いて、下院立法に対して二ヶ月間の停止的拒否権を持つ。また最高裁判所も、地域を代表するよう構造改革する。さらに連邦政府の行政権を明確にする。しかし、この案には「返還」と憲法改正手続きが提示されていなかった。
だが、とにかく11月にまたこの案をめぐる憲法会議が開催され、議論が沸騰した。翌年秋の憲法会議には、資源、州間貿易、間接税、上院、最高裁等、13の議題について討議が重ねられたが、あいも変らず、連邦と各州間に妥協は見出せなかった。
新しい展開が見られるようになったのは、1980年の憲法会議からである。それは、九ヶ月間進歩保守党に政権を譲っていたトルドーがその年の2月、政権に復帰したことと、それより三ヵ月後に「主権=連合」を賭したケベック党が州民投票で敗北したためであった。
強気になったトルドー首相は、同年の9月、延々と続く憲法会議にピリオドを打ち、連邦と各州が合意に達するのは不可能だから、まず「返還」手続きと人権憲章を盛り込む作業を州の合意を待たないで開始すると発表した。
それに引き続き、トルドー首相は連邦議会に一つの決議案を提出した。それは「カナダ法」と称する法案をまずイギリス議会に受理させ、以後イギリス議会によるカナダに対する立法権に終止符を打ち、次に、人権憲章や憲法改正手続きを盛り込んだ「憲法条例、1981」を制定するというものであった。
自由党が支配する連邦議会はこの決議を承認したが、連邦政府のこの一方的なやり方に野党や各州の為政者たちは激怒した。とくにマニトバ州、ケベック州、ニューファンドランド州は、政府の行為を違憲とし、この問題を最高裁に持ち込んだ。
そして、1981年9月28日、最高裁は次のような裁断を下した。すなわち、まず9人の裁判官のうち7人は、政府が一方的にイギリスの議会に行動を求めることは法律的に許容されるとした。しかし同時に、6人の裁判官は、従来の慣行から判断して、ことが連邦・州関係にかかわる憲法改正の場合は、「かなりの程度Substantial degree」の州の合意を得てはじめて政府はイギリス議会にその要請ができる、との意見を開陳した。そこで11月に、ラストチャンスと呼ばれた連邦・州憲法会議が開催され、ケベック州を除くすべての州は連邦政府がイギリス議会に憲法改正権の「返還」を要請することを認めた。
この憲法会議でも勿論、連邦と州との間にいくつかの「トレード・オフ」がなされた。その中でとくに重要なのは、州は人権憲章を基本的に認める(憲章のある部分については、各州は自由裁量権を保持する)代償に、州が手直しした改正手続きを新しい決議に挿入したことである。
*トレードオフ(英: trade-offCompromis (économie)とは、何かを得ると、別の何かを失う、相容れない関係のことである。平たく言うと一得一失(いっとくいっしつ)である。対義語は両立性(コンパチビリティ、英: compatibility)。トレードオフのある状況では具体的な選択肢の長所と短所をすべて考慮した上で決定を行うことが求められる。
この新しい決議は12月に下院と上院を通過した。こうして「カナダ法=1982年憲法」案はイギリス議会の承認を経、エリザベス女王の勅裁を得、1982年4月17日に発効した。これでカナダはやっと「自主憲法」を獲得したのである。なんと長い道程であったことか。これはもう「忍耐」の一語につきる。この過程に、半年以上深々とした雪の中に埋もれて、じっと我慢している国民性がにじみ出ている。ケベック州も遂に1987年6月23日の州議会で、「カナダ法=1982年憲法」を受諾することを可決した。
これがカナダのコンフェデレーションという仕組Mechanismの効能である。連邦・州間・州・州間で、時には激しい対立、抗争は見られるが、内乱や分裂に至ることはなく、「忍耐」の精神でもってやがて相互に「妥協」し、一つの連邦国家を維持するために、新しい「整合性」を築き上げていく。世界のどこにこんな連邦国家があろうか。それにしてもなんと地域主義の旺盛なことよ。
だが、憲法改正の長いストーリーは、まだここで終ったわけではない。われわれはいやでも、その続きを見てみなければならない。なぜなら、その後の改憲運動は、将来のカナダ憲政史に大波乱を巻き起こすことが予測されるからである。

4 大改革中のコンフェデレーション
ケベック州が「1982年憲法」を受諾したのは、ブライアン・マルルーニーを首相とする連邦政府が、1987年4月30日にオタワ郊外のミーチ湖畔で開催した憲法会議で、ケベックの諸要求に大幅な譲歩をしたためであった。
しかし、ケベック州の要求だけを認めることは、他の九つの州に対して不公平になるので、結果としては、「10の『独立公国independent duchies』を創出した」といわれる(Saturday Night, August, 1987)ほど、全州の権限を拡大することになった。連邦政府のこの「椀飯振る舞い」に、ケベック州も含めて各州の代表も勿論満足し、一日で連邦と各州政府代表は合意に達した。これを「ミーチ・レークの合意」ともいう。
その「合意」の一部として、憲法改正のための連邦・州会議は今後も毎年継続されることになった。したがって現時点は、その改正過程の途上にあり、最終的に憲法構造や政治機構全般がどのように改革されるのか、いまはわからない。当然、それらのテーマに関する学問的研究もまだほとんど何も発表されていない。だが筆者は、「1982年憲法」と「ミーチ・レークの合意」は、従来のコンフェデレーションに「革命的」と呼べるほどの大変革をもたらしつつある(とく後者)と判断するので、あえて危険をおかし、その点について現状分析を試みることにする。

(1)「1982年憲法」の影響
①同憲法第一章の「権利と自由の章典」について(同一章典)の概要は本書第1章参照)。
まず、全部で34条からなる「権利と自由の章典」は、連邦最高裁判所の権限を強化した。なぜなら従来の最高裁の主な任務は、「英領北アメリカ法」(「1867年憲法」)第92条および第93条が州の権限と定めた州憲法修正権、地方自治権、財産権、市民権、教育権等を連邦政府が侵していないか、あるいは逆に同法第91条が連邦政府の管轄と規定した国防、郵便業務、通貨、著作権、インディアン保護、刑法等の領域に州政府が立ち入っていないか、を判定することであった。近代に入って、両方のカテゴリーにまたがったり、どちらのカテゴリーに属するのか判断しにくいようなプロジェクトが増えてきたが、大抵の場合は、最高裁判所に頼らずに、連邦政府と州政府の直接交渉で企画調整を行ってきた。
しかし「章典」が「1982年憲法」に盛り込まれたために、最高裁判所の違憲審査権は随分拡張された。つまり、「章典」の挿入は、それだけいままでの体制を連邦主義の方向へ傾かせたことになる。
②「1982年憲法」の第三章の「平衝化と地域格差」について。
第36条(2)は、「カナダの連邦議会ならびに連邦政府は、州政府が、〔他州と〕ほぼ比肩しうる課税水準で、〔他州と〕ほぼ比肩しうる公共サービスを提供するに十分な歳入が確保されるよう、平衝公布金を支出する原則を約す」と定めている。
この条項は、一連の憲法会議で常に問題になっていた。”持てる”州(沿海諸州)との経済格差を是正しようとするものである。これで連邦議会および連邦政府の歳出権限は大幅に増大され、連邦レベルの財政面における活動領域がぐっと広がったのみならず、”持たざる”諸州に対する支配力も強化された。
③「移転の権利」について。
これも憲法会議でしばしば議論されてきたことであるが、”持てる”州は”持たざる”州から人口移入を敬遠した。後者から生活水準と賃金の低い労働者が大量に前者に流入してくることは、前者の生活水準・労働賃金を引き下げ、失業者を増やすからである。ところがこの条項は、”持てる”州のそうしたエゴイズムを許容しなくなった。すべてのカナダ人は全国自由に移動できるようになったのである。
コンフェデレーションのメカニズムを見きわめるためには、制度的側面ばかりでなく、社会的側面も注目することが肝要である。ある社会学者の言によれば、コンフェデレーションの基盤は、人びとが自分の住んでいる地域に第一義的アイデンティティを求めることにある。そうした観点からすれば、人びとの移動性Mobilityを増大させることは、彼らの地域的アイデンティティを減少させ、州境を超えた社会統合を促進し、ひいては国家統合をもたらすことになる。
④少数言語の擁護について。
「1982年憲法」は、各州内における少数言語による初等・中等教育を受ける権利を保障している。しかもそうした生徒の数が正当化する場合には、少数言語教育や施設は「公費Public funds」によって賄われることになっている。「公費」が連邦のものか州のものか明らかでないが、いずれにしてもこれでもうマニトバ学制問題のようなことは起らなくなる。
また、フランス語のみを州の公用語としているケベック州(第101法令)内でも、英語を第一言語とする子供は、英語で初等・中等教育を受けることができる。連邦・州の権限配分に関して重要なのは、「英領北アメリカ法」では教育の州の専管事項となっていたが、連邦政府が少数言語教育権を擁護するために、州権に介入するようになったことである。
⑤憲法改正手続きについて。
同憲法第38条(1)の(b)では、「〔カナダの憲法の改正は、〕その時点での最新の国勢調査に基づき、合計してすべての州の入口の50%以上を有する。少なくとも三分の二以上の州の立法議会における決議」を一つの要件としている。「盟約論」からしても、これまでの憲法会議での州の主張からしても、憲法改正にはすべての州の承諾が必要であると理解されていた。ところが、「1982年憲法」によると、全州の三分の一(現時点では三州)が反対しても、憲法改正が可能になったわけで、これは明らかに州権の縮小である。
以上は、「1982年憲法」が集権的連邦制を助長する諸要素を列挙したものであるが、他方、第50条では、非再生資源、森林資源、電力エネルギーに関する、州の「専属的」立法権を認めている。すなわち、「各州の立法府は、州内の非再生資源および森林資源から得られた一次生産物、ならびに州内の施設によって生産された電力エネルギーのその州からカナダ国内の他の地域への移出に関する法律を制定することができる。ただし、これらの法律は、カナダの他の地域への供給価格および供給量について、差別を認可したり、もしくは規定してはならない」とある。
この他、同憲法は、州内の非再生天然資源に対する州の専属的開発・管理権を確認し、他州への資源の販売や非再生資源の間接課税に関し、州に新しい権限を与えている。これらの諸問題は常に連邦・州政府間の抗争の的になってきたが、これで州に軍配が上がったことになる。
結論として「1982年憲法」を概観していえるのは、同憲法が総じて集権的連邦制を促進する方向に傾いていることである。

(2)「ミーチ・レークの合意」の衝撃
1987年4月30日、ミーチ湖畔での会議で連邦政府首相と全州政府首相はいくつかの重大項目について合意に達した。これを正式に「1987年憲法の合意」というが、一般的には「ミーチ・レークの合意」と呼んでいる。この「合意」は要するに憲法修正案であり、連邦議会と全州議会を通過すれば、この「合意」は「憲法化」され、それにもとづいて、「1982年憲法」も含めて現行憲法機構は修正されることになる。
「ミーチ・レークの合意」はケベック州に「1982年憲法」を受諾させ、向後の憲法会議に他州と共に参加することを約束させたことで大きな貢献をなした。だがこの「合意」は、単に従来の連邦・州関係を大きく改変するだけでなく、カナダの「国体」そのものを改造する結果を招来するかもしれないのである。
以下、「ミーチ・レークの合意」を、まず連邦・州関係について、次に「国体」改造に関連する事項について考察してみよう。
①経済等の諸問題に関し、連邦政府首相と全州政府首相との会議を毎年開催すること。
大体どこの国でも「国策」は経済政策も含めて、中央政府が決定するものである。たとえば日本では「国策」としての経済政策を、毎年、首相と全国都道府県の知事が会議を開き、相互に利害調整し、合意して決めるなどということは想像もつかない。それをカナダは憲法に盛り込み、制度化しようとしているのである。
これは勿論、州権の拡大につながるが、各州が連邦政府と比肩する強大な権力と自治権を実際行使することを連邦政府に認めさせたことになる。しかも各州はそれぞれ異なった経済的利害を主張しているーニューファンドランドは海底資源の領有を、アルバータはエネルギー資源の支配を、オンタリオは国際自由貿易を、といった具合に。
これらの諸要求をまとめて一つの国策にするのは至難の業であるばかりでなく、国家全体の利益=「国策」を追求する一貫した政策を打ち出すことは非常に困難になる。それにもかかわらず、この「合意」は経済問題に限らず「適切と思われる」あらゆる問題に関してこうした会議を毎年持つことで憲法に規定しようとしている。
②移民の原則に関する連邦政府とケベック州政府との合意。
従来、移民(留学生、一時労働者、難民等も含む)の受け入れが彼らが定住するための諸々のサービス提供および各州への移民の配分は、連邦政府の専管事項であった。ところがこの合意で、ケベック州は同州への配分の5%増の移民受け入れやサービスを自由裁量で行い、そのかわり連邦政府はそれらの仕事(市民権サービスー市民権を与えること、を除く)から手を引くことになった。
これでケベックは同州に定住しようとするすべての外国人に、言語、文化等の社会統合のためのあらゆるサービスを提供できるようになったのである。換言すれば、ケベック州政府は、州内の移民の「ケベック化」を自由に推進できるようになったわけである。しかもその費用は連邦政府が支出することになっている。そして他の諸州も連邦政府との交渉を通じて、同様の権限を享受することができる。
これは二つの結果をもたらす。一つは、連邦政府が統一した移民政策を取れなくなること、もう一つには、移民を「カナダ化」するのではなく、ケベック化、アルバータ化、ノバスコシア化というように、「州化」してしまうことで、ひいては各州の自立性を一層高めることになる。
③州による上院議員候補者の提出。
連邦議会は、国民の選挙による下院と任命制(実際には首相、形式的には枢密院における総督によって任命)の上院で構成されている。上院の第一の存在理由は、少なくとも建前上は、州の利益を保障することである。しかしその議員は、退職した閣僚とか資産家とか有名な弁護士が首相によって随意に任命されるので、その機能を充分果たしてはいなかった。
この上院をもっと州の意志や利益を反映するように改革することは以前から課題になっていた。「ミーチ・レークの合意」では、向後の憲法会議でそうした構造改革がなされるまで、欠員補充はその議員の出身州の政府が提出する候補者リストの中から枢密院によって選ばれることになった。問題は、ほとんどの上院議員が高齢であるうえ、定年が75歳となっているので、これから多くの欠員が出ることが予想され、その補充はすべて諸州政府のイニシアティブで決定されることである。そうすると、上院は間もなく各州代表の集合体となり、諸州の利害的観点から内閣が提出する法案や決議案をどんどん否決したり、修正したりするのではないかと、連邦主義者たちは憂慮している。
④州による最高裁判所裁判官の候補者の提出。
現行の手続きでは、最高裁判所の裁判官は、まず法務省が候補者リストを作成し、その中からもっとも適切と思われる人を首相が選定し、それにしたがって総督が任命することになっている。
なお慣行では、9人の裁判官のうち大抵3人(それ以下の場合もあった)は、ケベック州出身者を任命することになっている。これはケベック州のみがフランス型民法(他州はコモン・ローCommon Law)を採用しているためである。ところが今回の修正案によれば、必ず3人はケベック州出身の裁判官を任命し、残る6人は九つの州が提出する候補者リストの中から総督が任命すること、と憲法に明記するようになっている。この改革によって、上院と同様、最高裁判所も州の利害を色濃く反映するようになる。
⑤費用分担のプログラムに州が参加しない場合。
「英領北アメリカ法」第106条は、「カナダ統合歳入基金は、カナダの議会によって公の需要を充たすために支出される」と規定している。今回の修正案はこの条文のあとに、州の専管事項に関する連邦と州共同負担のプロジェクトに州が参加せず、州独自でそのプログラムを実施する場合は、その州はそれに見合う「妥当な報酬」を連邦政府から受けることができる、という条文を付け加えることになっている。
前述したとおり、「英領北アメリカ法」では「州の専管事項」が曖昧である。そのうえ現代社会では国民福祉の分野(州の専管事項)だけに限っても、連邦政府が全国統一的に施行しなければならないプログラムがあまたある。ところがこの修正案は各州に優先権を与え、連邦政府がそうした企画を施行することをかなり難しくする。
⑥機構改正に関する全州政府議会の承諾の必要性。
「1982年憲法」第38条では、憲法の改正は、「カナダ連邦議会の上下両院における決議、ならびび・・・三分の二以上の州の立法議会における決議」にもとづく、となっていた。しかし本修正案では、上院、下院、最高裁判所、総督等の機構改革および新しい州の創設には、全州の立法議会の承諾が必要となっている。右記の事項は全部連邦政府の所轄に属するが、連邦政府がそれらに手をつけようとした場合、すべての州議会の承諾を必要とするということは、つまり、各州が拒否権を持つことであり、一州でも反対すれば、連邦政府は何もできないことになる。
この修正案で当面一番問題になるのは北西準州とユーコン準州を新しい州にするという連邦政府の計画である。
それらの地方には、多くの先住民(インディアン、イヌイット、メティス)が住んでいる。彼らは連邦政府に独立・自治権を与えよと迫っているが、もしそれが不可能ならば、それらの地方をせめて他州なみの州にすることを要望している。だが、ブリティッシュ・コロンビア州や沿海諸州はこうした動きに反対しているので、この修正案が可決されれば、先住民の希望はほとんど永遠の夢とついえ去ってしまうだろう。
このように「ミーチ・レークの合意」は、連邦・州の権力争奪戦において、後者の一方的な勝利に終った。カナダを代表する歴史家の1人であるラムゼイ・クックは、「マルルーニー首相は〔各州の代表と〕合意を達成するためには、どのような対価を支払ってもいいと考え、そのために各州に対しては何の対価も求めなかった」と評している。
*George Ramsay Cook OC FRSC (28 November 1931 – 14 July 2016) was a Canadian historian and general editor of the Dictionary of Canadian Biography. He was professor of history at the University of Toronto, 1958–1968; York University, 1969–1996; Visiting Professor of Canadian Studies, Harvard University, 1968–69; Visiting Professor, and Yale University, 1978–79 and 1997.
では次に、カナダの「国体」そのものをも改造することになるかもしれない二つの重要項目について吟味してみよう。
①「ミーチ・レークの合意」は、その冒頭で「英領北アメリカ法」(「1867年憲法」)、セクションSectionの直後に、次の文言を挿入し、同法を修正すると規定している。
すなわち、カナダ憲法は以下のように解釈されるべきである、とし、「ケベック州を中心に、しかしカナダの他の地域にも居る仏語系カナダ人と、ケベック州外しかしケベック州内にも居る英語系カナダ人の存在がカナダの基本的性格を構成すると認めること」、さらに、「カナダの連邦議会と全州議会の役割はカナダのこの基本的性格を維持すること」と謳っている。では、カナダの総人口の約三分の一を占める少数民族(Deutsch-Kanadierドイツ系Deutschkanadier、ポーランド系Polonia w Kanadzie、ウクライナ系Українські канадці华裔加拿大人中国系Sino-Canadiens、日系Japanese Canadians等)および先住民族はどうなるのであろうか。
そのような懸念を解消するために、「合意」は最終の一般項目で、この修正は、多文化の伝統や先住民の権利(いずれも「1982年憲法」で認定)に影響を及ぼすものではないと断っている。しかし、この修正は二大民族中心の考え方であることは確かで、現に先住民は国際連合の人権委員会に提訴するといきりたっており、全カナダ・エスニック文化協会のL・アンドリュー・カルドーゾL. Andrew Cardosoは1987年8月に開かれた連邦議会の公聴会で鋭い抗議を行った。
①「ケベック州はカナダ内において、一つの独特の社会Distinct societyを構成していることを認めること」、しかも「ケベック州のその独特のアイデンティティを維持し促進することは、ケベック州議会および州政府の役割である」と定めている。

*Françaisフランス語→La société distincte est un néologisme politique utilisé lors du débat constitutionnel au Canada, dans la deuxième moitié des années 1980 et au début des années 1990, qui réfère au caractère unique du Québec au sein du Canada.
この「独特の社会」「独特のアイデンティティ」という表現は曖昧である。中にはこれらの表現は象徴的な意味しか持たず、実際ケベック州は「独特の社会」であると主張する人もいる。
だが多くの評者が論じているように、それなら何もわざわざこの挿入文を修正案としてその最初に持ってくる必要はないのではないか。この文言は、ケベック州を特別扱いし、①の修正案とも考え合せるとき、なおさらかつてケベック州のユニオン・ナシオナル党のダニエル・ジョンソンが唱えていた「二つの国家論」あるいはケベック党のルネ・レベックがめざしていた「主権=連合論」を再現しようとしているのではないか、と憂慮している人も多い。
また、「独特のアイデンティティを促進する」とは何を意味するのか。これは「1982年憲法」に盛り込まれた「権利と自由の章典」を無効にしてしまうのではないか、とくに一連の平等権を侵犯しないか、と人権擁護論者や男女平等主義者は危惧している。ケベック州のフランス語とその文化を促進するためにもっと積極的にさまざまな政策を打ち出した場合、州内の少数民族の人権やアイデンティティはどうなるのか。
ケベック州政府と議会は単に同州の独自性を維持するだけでなく、促進することを義務づけられているのであるから、将来はいまよりもっと特異な存在になっていくであろうことは予測に難くない。現にケベック州は、フランスおよびフランス語圏諸国を招聘して、フランス語教育とフランス文化を賞揚する国際会議を主催することを企画している。
それにしても、カナダ連邦国家を「10の独立公国の寄せ集め」にしたと評されるほどの州権拡大をもたらす「ミーチ・レークの合意」は、なぜ達成されたのであろうか。
まず第一の要因として、ケベック自由党政府のロベール・ブーラサ首相が五つの要求を連邦政府に突きつけ、後者がそれを全部受け入れない限り「1982年憲法」に署名しないし、ケベック州を必ずもう一度コンフェデレーションの枠内に引き戻してみせると選挙公約に打ち出していたこと、第三に、カナダの選挙は州単位で行われるので、自由党や新民主党の野党も大票田を持つケベック州はじめ諸州の歓心を買う必要があったことが挙げられる。
しかし見逃してはならないのは、ケベック州だけが問題であったのではないということである。60年代後半から日本その他の多くの国々で地方主義が唱道されてきたが、カナダでも地域主義=「プロビンス・ビルディング」が叫ばれた。
*Province-building is a term in Canadian political science which refers to the efforts of provincial governments to become prominent actors in lives of, and focus of loyalty for, people living within those provinces. 
近代化による「静かな革命」はケベック州にだけ起ったのではなく、他の諸州にも同様の現象が見られた。各州は競って発展を企画し、それを促進するのに有能で膨大な官僚機構Bureaucratic Machineを備えるようになった。ちなみにカナダでは、すでに1976年の段階で、州政府の抱える公務員数約52万、連邦政府のそれ(軍隊も含む)は約55万であった。民衆もいろいろなサービスを提供してくれる自分の州に愛着を覚え、強いアイデンティティを抱くようになった。このような国策の内面的社会転換Social Transformationが、広い視野に立てば、「ミーチ・レークの合意」を成立させたということができよう。

5 多極共存型民主主義の実験
当然のことながら、「ミーチ・レークの合意」はトルドー前連邦首相(彼は本来憲法学者)その他の連邦主義者から厳しい批判を浴びている。しかしマルルーニー首相は、この「合意」とケベック州がコンフェデレーションの枠内に留まることを「トレード・オフ」したのであり、彼にとってはそれより他にコンフェデレーションを維持していく方法はなかった。しかもマルルーニー首相を含め60年代以降「政府間関係(連邦・州関係にける”競合”と”協調”)」を推進してきたカナダは、多極共存型民主主義理論(A・レイプハルト、K・マクレーK.Mcrae、H・ダールダー、G・レーンブルッフG. Lehmbruck等)を実験しているように見受けられる。
①アーレンド・レイプハルト(Arend Lijphart、1936年8月17日 - )Аренд Лейпхартは、アメリカの政治学者。オランダ・アペルドールン生まれ②アイヴォ・ダールダー(Ivo H. Daalder、1960年 - )Іво Г. Даалдерは、アメリカ合衆国の政治学者。専門は、アメリカ外交・安全保障政策。2009年5月から北大西洋条約機構常駐アメリカ政府代表。
A・レイプハルトは、1987年の国際・政治学会で「民主主義体制の類型論」と題する報告をなし、世界の学界の注目を集めた。

彼は従来の「英・米型民主主義」を理想像とする考え方に挑戦し、ヨーロッパの諸小国(オランダNederlandBelgiqueベルギーBelgienSchweizerischeスイスSuisseÖstareichオーストリアOsterreich)には別の型の民主主義が厳然として存在することを指摘した。彼のその後の研究(たとえば、Democracy in Plural Societies)と同調者の研究は、それを一般に(その他の呼称もあるが)「多極共存型民主主義(Consociational Democracy)」と名づけている。
前記の諸小国では極度に分轄されたーオランダなどでは「柱状化Verzuiling」と呼ばれる型のーサブ・カルチャーSubcultureがあり、そうした国々での民主主義の第一の指標は、”安定性”と”整合性”である。つまり革命とかクーデターといった暴力の発生や、国家を崩壊させてしまうような分離・独立運動を防ぐことである。この課題は、各サブ・カルチャーを代表するエリート間の「協調」-ある場合には「大連合」-により達成され、相対立するサブ・カルチャー間には”民主的”整合性が保たれている。レイプハルトらは、こうしたメカニズムは立派な民主主義ではないか、と主張しているのである。
①Nederlandsオランダ語⇒VerzuilingPillarisation is de verdeling van een samenleving in groepen op levensbeschouwelijke of sociaal-economische basis, waarbij de groepen in bepaalde mate van elkaar zijn afgeschermd②A subcultureSous-cultureСубкультура is a group of people within a culture that differentiates itself from the parent culture to which it belongs, often maintaining some of its founding principles.
二大文化と民族が競合し、各州がオランダの「柱状化」に類似した存在であるカナダでは、意識的か無意識的かはさておき、少なくとも現象面では、60年代以降、この「多極共存型民主主義」を推進してきたようである(ちなみにカナダの政治学者K・マクレーは、当該理論の指導的研究者の1人である)。
「政府間関係」と称されるさまざまな調整装置ー連邦政府首相と全州政府首相との会議。「政府間関係省」の設置等ーの発達は、そのことを如実に物語っている。ことに「ミーチ・レークの合意」は、連邦政府首相と全州政府首相というエリート間の協調により達せられたものであり、それによりケベック州をコンフェデレーションに繋ぎ止め、さらに各州間の競合する利害関係を調整したのであるから、多極共存型民主主義理論実践の典型例といえるだろう。
もしこの「合意」が法制化された場合、すでに示唆したように、果たして連邦政府が統一のとれた国策や国益を追求することができるかどうか、また多文化主義の「国体」を保てるかどうか、懸念は残る。
だが、20年以上も経験を積んできた「政府間関係」調整装置をフルに作動させることによってー確かに煩瑣で時間はかかろうがー、前者の目的は達せられるのではなかろうか。後者の方は、「合意」が「多文化の伝統や先住民の権利に影響を及ぼすものではない」と謳っているので、それが本当に守られるように、先住民を含む少数民族の努力に頼る以外にすべはない。とにかく「実験中」なのだから、どういう結果が出るか、いまは予測し難い。ただカナダが世界で最も緩やかな連邦制へと移行しつつあるのは確かなようである。
最後に学問的関心について、少し付言しておきたい。その第一点は、70年代後半以降、多極共存型民主主義理論は一般に衰退していく傾向にあり、代ってコーポラティズムやネオ・コーポラティズム理論(山口定「ネオ・コーポラティズム論における”コーポラティズムリ”の概念」『思想』1982年2月号、および同氏の「ネオ・コーポラティズムと政策形成」日本政治学会年報(1983年)『政策科学と政治学』とそれらの参考文献を参照されたい)が台頭してきた。しかし、カナダの「実験」やイタリアにおける共産党Partito Comunista Italiano(PCI)とキリスト教民主党Democrazia Cristiana(DC)との「歴史的妥協」といった新しい現象を目のあたりにするとき、村上信一郎も指摘しているように(「多極共存型デモクラシー」)、レイプハルトらの理論を再考察してみる必要があろうということである。
①Yasushi Yamaguchi山口定( January 2, 1934鹿児島県出身 – November 17, 2013 ) was a Japanese political scientist . He is a professor emeritus at Osaka City University and Ritsumeikan University. His specialty is European political history , with a focus on Germany during the war②Italianoイタリア語⇒Shinichiro Murakami村上信一郎(1948-兵庫県出身 ) è uno studioso giapponese di politica internazionale professore emerito alla Kobe City University of Foreign Studies. Specializzato in politica italianaコーポラティズム(伊: Corporativismo、英: CorporatismКорпоратизмとは、政治・経済分野における共同体の概念の1つで、国家や社会などの集団の、有機体的な関連性と相互の協調を重視する。

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