日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕⑦

第二点は、レイプハルトは多極共存型民主主義が成功する条件の一つとして、「小国であること」を強調しているが、カナダの「実験」を見ていると、広大な領土を持つ国家でも、その可能性はあるということである。
第三点は、カナダの「実験」は、他の多くの複合国家(とくに内乱やクーデター等に悩まされている第三世界の諸国)にも適用できないか、ということである。
ダールダーやレーンブルッツは、前記のヨーロッパ諸小国で多極型民主主義が成立したのは、それらの国々の歴史文化に負うところが大きいと主張している。カナダも”協調”と”妥協”と”忍耐”を歴史的に培ってきた国である。また確かに、 الجمهوريّة اللبنانيّة‎レバノンLebanonの多極共存型民主主義導入の試みは、内乱によって失敗した。けれどもそうした事例に懲りずに、他の諸国もカナダのような「実験」を行ってみては如何だろう。
価値の多様性が進行し、地域主義が勃興してきているのは、いまやほとんどの国家に見られる現象である。それに伴い、かつての一元的「国民国家」は変容し、また変容しなければならない。そうした歴史の趨勢にあって、多極共存型民主主義やネオ・コーポラティズム等の理論は、時代の要請に応えるものではなかろうか。

第4章 カナダ外交の軌跡ー機能主義の追求ー
1 カナダ外交の視座
第二次世界大戦後の世界史は、60年代を境に、大きな地殻変動をきたしている。その最大の原因は、「核の脅威」-とりわけ50年代末に発明されたICBM(大陸間弾道ミサイル)-と、50,60年代を席捲した「Modernisation近代化Modernization theory」による民衆の意識覚醒である。
*大陸間弾道ミサイル(たいりくかんだんどうミサイルMissile balistique intercontinental、英語: intercontinental ballistic missile、略称:ICBMМежконтинентальная баллистическая ракета (МБР) は、有効射程が超長距離で北アメリカ大陸とユーラシア大陸間など、大洋に隔てられた大陸間を飛翔できる弾道ミサイル。
ICBMの出現は、米ソ共滅の時代を招来した。1962年の「キューバ危機」は、その象徴的出来事であった。それにもかかわらず、大国・超大国によるさらなる核軍拡競争と核軍事技術の発達は、いま全人類と全地球を絶滅の危機に陥れている。
すでに60年代初頭の段階で、アメリカのケネディ大統領は、「科学によって解放された暗黒の経済力が全人類を計画的にせよ偶発的にせよ自滅に巻き込む前に、東西双方で新しく平和への探求を始めようではないか」と唱えていた。同時に核の脅威はソ連側にもあり、フルシチョフ書記長も「平和共存」を呼びかけていた。

ここで注目すべきは、両超大国が共に、「パックス・アメリカーナ」や「パックス・ソビエティカ」の野望を放擲しなければならなくなったことである。
軍事力の極大化はかえってその相対化をもたらし、軍事力でもって世界制覇を図ろうとしたり、中・小諸国を意のままに支配したりすることはもはや不可能になった。現に、アメリカはベトナム戦争で敗退し、また人口約300万の小国ニュージーランド(ニュージーランド(英語: New Zealand、マオリ語: AotearoaНовая Зеландияは、南西太平洋のオセアニアのポリネシアに位置する立憲君主制国家。首都はTe Whanga-nui-a-TaraウェリントンWellingtonで、最大の都市はTāmaki-makau-rauオークランドAucklandである)の米核積載艦船の入港拒否にあって、なすすべを知らない。東欧諸国ももはやソ連の単なる傀儡として甘んじていないのは、周知のとおりである。
このように、軍事力の極大化=相対化は、現代から未来にわたって、必然的に、外交手腕にたけた中・小諸国が国際政治で活躍する場裡Arenaを広げていくことになる。
民衆の意識覚醒は、この傾向に一層の拍車をかける。セイモア・M・リプセットがPolitical Manで指摘しているように、民衆の意識覚醒は彼らを「政治的人間」へと転換せしめ、中・小諸国内にあって彼らは、大国・超大国の支配や抑圧を撥ねのけ、できるだけ自主外交路線をとるように政府に迫るからである。その結果、非同盟諸国は勿論のこと、資本主義国も社会主義国もまちまちの発展形態を示し、将来はますますそれぞれ独自の「ナショナル・アイデンティティ(世界史における存在証明)を模索することになろう。
*Political Man: The Social Bases of Politics is a political science book from 1960 by Seymour Martin Lipset
第二次世界大戦後の国際政治史の趨勢は、東西双極化→多様化→多元化→多様化へと向っている。いまや国際政治の舞台は「百花撩乱」の感を呈しているのである(いわゆる「新冷戦」の虚像について詳しくは拙著「国際政治のゆくえ」『講座政治学V 国際関係』三嶺書房を参照されたい)。
こうした状況の中で、これから求められるのは「外交の質」であり、「機能主義」の外交である。この点でカナダの外交はとくに注目に値する。カナダの機能主義外交は、一般に、第二次世界大戦中、時の首相マッケンジー・キングがデービッド・ミトラニーの「機能主義理論(A Working Peace System)を採用して確立されたものだといわれている。

*デイヴィッド・ミトラニー(David Mitrany, 1888年 - 1975年)は、ルーマニア出身の政治学者、歴史学者。専門は、国際組織論、ルーマニア近代史+Românăルーマニア語→ Mitrany a contribuit la definirea abordării funcționaliste în studiul relațiilor internaționale numită funcționalism, parte a instituționalismului liberal.
それによると、国際政治は超大国のみによって、独断的に支配されるものであってはならない。いかなる国家といえども、その能力に応じ特色をいかして、相応の責任を果たすべきである。たとえば、貿易国は軍事的・政治的大国ではなくても、国際的通商機関に有意義な地位と責任を持つべきであり、国際保健・交通管理には大量の移民受入れ国こそ重要な役割を担うべきである。このように各国はその独自性を最大限に発揮して、機能的に国際社会に参加するとともに、人類の福祉に貢献し得る機会が与えられるべきである、というのである。
しかし、カナダのこうした機能主義的考え方は、突然キング首相によってミトラニー理論を導入し実行に移されたのではなく、その淵源は、連邦結成期にまで遡ることができる。
当初カナダは大英帝国とアメリカ合衆国の間で、また第二次大戦後はアメリカ合衆国とソビエト社会主義共和国連邦という相対立する二超大国の狭間に立って、軍事小国として何ができるか、何をなすべきか、また何をなすべきでないかを、常に真剣に模索してきた。戦後カナダが「中間国Middle Power」として、東西、南北の緊張緩和や世界の平和維持にすばらしい貢献をなし、国際連合内でも列強から最も人気と信望を享受しているのも、長年苦労して培ってきた機能主義外交の伝統の賜物である。
そこで、これから機能主義的カナダ外交が築き上げられてきた軌跡を辿り、それが実際にどのように発露されているかを検討してみることにしよう。そうすることによって、「パックス・ディプロマティカ」の時代といわれる21世紀の外交のあり方の鍵を握ることができるかもしれない。
*民衆の意識覚醒に端を発するもう一つの地殻変動は、アメリカの黒人の市民権獲得闘争、女性解放運動、反核・反戦運動、人権擁護運動、エコロジー運動等々、多種多様な「新しい社会運動New social movements」の勃興である。こうした「参加の噴出」はやがて非国家行為体Non-State Actors(地方自治体、NGO=非政府組織、IGO=政府間組織、多国籍企業、民衆等)へ輩出し、多様化現象をますます増幅している。
2 英・米両大国の狭間で 
(1)ワシントン条約の締結
1867年7月1日、カナダ連邦は産声をあげたが、その命運は心もとないかぎりであった。南北戦争を終結し、軍事的に一層強国となったアメリカは、生れたばかりのカナダ連邦にとって、以前にも増して脅威的存在となった。在米・アイルランド独立派のフェニアンたちのカナダ襲撃の恐れもカナダ国内でさらに増幅された。
しかもアメリカでは、カナダは早晩合衆国に吸収されるべきであるとの意見が、政界を支配していた。その矢先(1867年)、アメリカはアラスカを買収し、北漸の気配をみせていた。カナダにとって頼みの綱は英本国であったが、ウィリアム・E・グラッドストーン首相はじめイギリスの指導者たちも、カナダはやがて合衆国の一部になるであろうと諦観していた。

①アラスカ州(アラスカしゅう、英: State of Alaska [əˈlæskə]Аляскаは、アメリカ合衆国最北端にある州。アリューシャン列島を含む。北アメリカ大陸北西の端にあり、合衆国本土とはカナダを挟んで飛地になっている②アレウト族(アレウトぞく、英: AleutАлеутиまたはアリュート族は、アラスカとカムチャツカの間にあるアリューシャン列島の先住民族である。自身の名称はウナンガン(Unangax̂, Unangan, Unanga)。

*William Ewart Gladstone FRS FSS (/ˈɡlædstən/ GLAD-stən; 29 December 1809 – 19 May 1898) was a British statesman and Liberal politician. In a career lasting over 60 years, he served for 12 years as Prime Minister of the United Kingdom.
その上、南北戦争後の英・米間は、イギリスが南部に荷担したとのかどーとくにイギリスの造船所で艤装されたアラバマ号などによる南部連合の襲撃ーで極度に緊張が高まっていた。アメリカ側には戦争に費やした代価の半分は、イギリスが負担すべきであり、カナダを抵当に入れよ、との主張もあった。さらにアメリカは1866年に一方的に「互恵通商条約」を破棄しており、カナダとの間には、大西洋水域における漁業紛争も頻発していた。
そうした中で、カナダの外交目標の第一は、すべての国家の外交の第一義的目標がそうであるように、国家としていかに「生き残るか」ということであり、第二は英・米間の緊張緩和を図ることであり、第三はカナダの正当な権利をアメリカに認めさせることであった。これらの諸目標は、以下に述べる「ワシントン条約」によって達成されることになった。
カナダの政治家や企業家が英・米間の仲介の労をとったことと、折からヨーロッパで普仏戦争(1870-71年)が勃発し、イギリスがアメリカに対して柔軟な態度を示すようになったことから、英・米関係改善の気運が訪れ、1871年2月9日、英・米間の諸懸案事項を一挙に解決するための国際合同委員会がワシントンで開催されると発表された。

*普仏戦争(ふふつせんそう、独: Deutsch-Französischer Krieg、仏: Guerre franco-allemande de 1870Франко-прусская войнаは、フランス第二帝政Le Second Empire期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国Empire françaisとプロイセン王国Königreich Preußenの間で行われた戦争である。
この時、英本国の自治領で、外交自主権をまだ持っていなかったカナダにとって最も重要なのは、カナダという国家の「存在」を英・米両国に認識させること、諸問題の解決がカナダの「頭越し」に英・米両大国間だけでなされないようにすること、さらに、英・米間の和解を促進するよう「橋渡し役」を勤めることであった。マクドナルド首相は、カナダ代表tして会議に出席し、その役割をみごとに果たした。そして1871年5月8日に「ワシントン条約」が締結されたのである。
条約の内容は、カナダにとって必ずしも満足のいくものではなかった。たとえば同条約は、フェ二アン襲撃に対するアメリカからのカナダへの賠償については一言も触れていなかった。
しかしマクドナルド首相は目先きのことよりも、長い将来のカナダの利害を考えた。まず会議に参加することにより、英・米にカナダという国家の「存在Presence」を知らしめた。次にカナダの利権調停することにより、母国イギリスが勝手に処理することを阻止した。さらに、英・米間の軋轢を調停することにより、カナダの存在理由を示すとともに、カナダの安全保障を確保した。マクドナルド首相は、後に広く認識されるようになった英・米間におけるカナダの「輪止め」的機能を果たしたのである。
こうして成立した「ワシントン条約」は、爾来、北米大陸の局地紛争が、英・米間あるいは加・米間の全面戦争へと発展する可能性を完全に消滅せしめることになった。なぜなら同条約によって、アメリカは北米大陸の北半分に対するカナダの要求を承認したからである。カナダの著名な歴史家であるJ・M・S・ケアレスは、「カナダと合衆国の間の真の平和時代というのは1871年のワシントン条約に遡るのが適当であろう」と述べている。

*John Bartlet Brebner (19 May 1895 – 9 November 1957) was a Canadian-born Canadian and American historian who spent the major part of his career in the United States.
(2)外交権の拡大
このようにして、いわゆる「北大西洋三角形(英・米・加関係)(John B. Brebner: North Atlantic Triangle)における独自の機能を確立したカナダにとって、次の課題は、母国イギリスから徐々に自立していくことであった。
まず防衛問題であるが、1871年に(ハリファックス海軍基地Canadian Forces Base (CFB) Halifax駐屯兵を除いて)最後のイギリス軍がカナダを引き揚げ、それに代ってカナダ自体がその陸上防衛にあたることになった。ただし、海上防衛はまだイギリス海軍に頼っていた。だが、1885年の第二次リエルの叛乱は(第1章参照)、カナダ軍隊だけでこれを鎮めた。
自治領であるカナダは、イギリスの植民地的拘束からもなるべく早く脱皮しようとした。1880年5月に、マクドナルド首相が、サー・A・ガルトを英帝国の首都ロンドンにカナダ初の高等弁務官として駐在させたのも、そうした趣旨に基づくものであった。マクドナルドは、母国と自治領の関係は植民地省や英本国から派遣される総督を介するよりも、直接カナダを代表するオフィスを通じてなされるべきだと考えた。したがって、ロンドン駐在の高等弁務官は、新しいカナダの存在と尊厳の象徴としてカナダでは認識されるようになったのである。

*アレクサンダー・ティロック・ガルト(英語: Alexander Tilloch Galt、1817年9月6日- 1893年9月19日) は、カナダの政治家である。連邦結成の父祖のひとりとして知られる。
関税自主権は、国家主権にとって不可欠の要素である。それがいかに重要かは、日本や中国が国家の”面子”にかけて、関税自主権回復のために長年欧米列強と争ってきたことからも容易に推察されよう。ところがカナダは、まだ植民地時代(正確には1859年)に、イギリスも含めた海外からの輸入品に関税を課し、英本国を激怒させたことがあった。
1876年、A・マッケンジー自由党内閣が瓦解し、政権に復帰したマクドナルド首相は、新国家建設計画である「ナショナル・ポリシー」の一環として、保護関税を実施した。彼は製造工業品に25%あるいはそれ以上もの関税を課したのである。
これはイギリスの自由貿易の精神に真っ向から対立するものであったが、新興国家のナショナリズムを背景とした国威の発揚と、政府歳入の増大と、国内産業の保護育成に貢献した。しかしそのために著しい物価の高騰を招き、生活に困窮した人たち(とくに農民)が大量にアメリカへ流出した。「北大西洋三角形」のシステムは単に外交面のみならず、経済面でも深く根を下ろしていたのである。
1891年6月6日、サー・ジョン・A・マクドナルド首相が死去し、その後数年間保守党政権が続いたが、これでカナダ外交の第一期は終焉し、第二期へ移行していくことになる。
マクドナルド時代のカナダ外交は、ほとんど英・米関係のみによって律せられていた、といっても過言ではない。カナダはその両大国の狭間に「生存権」を確保し、両国の「輪止め」的機能を果たすことによって、独自の役割を広げていった。カナダの存在は、英・米関係の緊張が高まりすぎても、あるいは友好が深まりすぎても困るという微妙なバランスの上に立った、いわば「弥次郎兵衛」のようなものであった。
また、第一期のカナダは、新生児が幼児に成長していく過程にも似ていた。英本国との紐帯はまだまだ非常に強固であった。そのことは、カナダ・ナショナリズムの権化のように思われ、実際、国家建設に挺身したマクドナルドが他界する間際に吐露した「私はイギリス臣民として生れ、イギリス臣民として死ぬであろう」という言葉が、如実に物語っている。
こうして一つの時代が終り、これから新しい時代が始まろうとしている。19世紀末葉から、カナダはより広範な国際関係に巻き込まれ、やがて成人式=外交自主権獲得を迎えるようになるのである。

3 外交自主権の確立
(1)南アフリカ戦争に参戦
新しい時代は、ケベック州出身のフランス系カナダ人ウィルフリッド・ローリエが、1896年に自由党政権を樹立したときから始まった。新首相も英本国との関係を重視したが、同国に対して当然のことながらマクドナルドのような感情は抱いていなかった。その結果、この時期には、「カナダ化」の一層の進展がみられた。
そのカナダ化は未曾有の経済的繁栄によって裏打ちされ、ローリエ退陣(1911年)後も、好況は第一次世界大戦のころまで続いた。繁栄の牽引車は小麦で、カナダの小麦は世界中の市場に出荷された。また、西部の開拓が急ピッチで推進され、英本国以外のヨーロッパ各地から多数の移民がカナダへ流入してきた。したがってカナダは、依然として「北大西洋三角形」の小世界に縛りつけられながらも、経済的にも心理的にも、世界に基盤を広げつつあったのである。
一方、当時の国際情勢に目を転じると、そこには弱肉強食の帝国主義が最盛期を迎えていた。カナダ人は、そうした風潮をにがにがしく見守っていた。ところが英本国では、英帝国連合論者のジョーセフ・チェンバレンが植民地相の地位についており、彼は英本国と植民地間の政治・防衛・通商の強化を望んでいた。
そこで1897年のビクトリア女王即位60周年祝賀祭にちなんでロンドンで開催された植民地会議に、チェンバレンは常設の帝国参議会を設けるという提案をなした。だがローリエは、「カナダは一つの国家であります。カナダは自由であり、自由こそ国民性の根幹であります」と述べて、丁重にしかしきっぱりとこの提案を拒絶した。
そのローリエも、1899年に南アフリカ戦争が勃発したときには、英本国からの圧力に抗しきれず、少数の志願兵部隊を派遣した。これは英本国に対するカナダの腰の弱さを暴露した事件であったが、カナダが世界で展開されるパワー・ポリティックスを体験した最初の出来事でもあった。1909年には、カナダは海軍を創設し、同時に小規模ながら独自の外交を司る外務省も開設した。

*サー・ロバート・レアード・ボーデン(Sir Robert Laird Borden、1854年6月26日 - 1937年6月10日)は、カナダの政治家。第8代首相を務めた。
(2)外交自主権の獲得
帝国主義列強の確執は熾烈をきわめ、イギリスとドイツは海軍の軍備拡張の面でも激しく争っていた。1914年8月4日、イギリスが対独宣戦を布告したとき、カナダも躊躇なくドイツと戦争状態に突入した。サー・ロバート・ボーデン首相は、「全力を尽し、わが帝国の威信を保全し、名誉を守るために、あらゆる犠牲を払う覚悟である」と宣言した。
ところで、南アフリカ戦争に加わることには、フランス系カナダ人はもとより、イギリス系ナショナリストたちー彼らはイギリスとの提携を重んじる帝国主義者に対してカナダの自主性を唱えていたーも反対していたのに、この戦争では、なぜ、いわば「挙国一致体制」がとれたのだろう。
それは、一口にいって、カナダが名実ともに「国家」として成長してきたからであった。世界大戦に参加することは、すべてのカナダ人にとって、国威発揚の絶好のチャンスと思われ、燃えるようなナショナリズムが国内に燎原の火のように広がった。カナダはもはや「北大西洋三角形」の「輪止め」的存在に満足してはいなかった。その証拠に、カナダはアメリカ合衆国よりも約三年も早く参戦している。
さらにカナダは、英本国からの一方的な命令に忠実に服従するだけでは、我慢できなくなっていた。カナダはすでに1911年の帝国会議Imperial Conferenceで、帝国の外交政策決定には自治領の声も反映させるべきである、と主張していた。ボーデン首相はカナダの公衆に対しても、「わが国は、偉大な帝国の中にあって、単なる無口のパートナーになるつもりは毛頭ない。もし帝国に〔真の〕協力関係を築こうとするならば、カナダの人民はその協力関係において、当然かつ公正な〔カナダの〕声が反映されるよう提案する」と断言していた。

Imperial Conferences (Colonial Conferences before 1907)Conférence impériale (Empire britannique)
Имперские конференции were periodic gatherings of government leaders from the self-governing colonies and dominions of the British Empire between 1887 and 1937, before the establishment of regular Meetings of Commonwealth Prime Ministers in 1944.

大戦において窮地にある英本国を救援することは、その「論より証拠」になると認識された。カナダは”植民地的メンタリティ”から完全に脱皮して、英本国の”パートナー”として自認するようになっていたのである。
勿論、カナダを世界大戦に突入させる要因は他にもいくつかあった。まず第一に、参戦はフランス系カナダ人をして彼らの祖国=フランスをも支援することができると、国内で虐げられてきた少数民族の士気を大いに鼓舞した。第二に政治指導者たちは、ボーデン保守党内閣も野党のローリエ率いる自由党陣営も、この戦争で国内の相対立してきた二大民族が同一目的達成のために融和し、国家統合を促進することができると期待した。
第三に、カナダの経済は前述したとおり、すでに世界経済システムの中に組み込まれており、とくに英本国との貿易は重要で、それがドイツ艦隊による海上封鎖を受けると、大打撃を蒙ること。第四に、国家の安全保障が危殆に瀕していたことが挙げられる。この場合、それは単に軍事面だけの問題ではなく、ドイツ軍国主義の圧力に対して、カナダの民主的政体をいかに防衛するかということをも意味した。
カナダはこの戦争に62万のヨーロッパ派遣軍を投入しーそれはアメリカの派遣兵力に匹敵しーカナダ軍は大活躍した。カナダは史上初の世界的事件の渦中で、列強軍に伍して戦い、意識的にできるだけカナダ軍の自立性を確保した。また、カナダ軍がとくに勇猛果敢であったのはーそのために6万人というアメリカの数を凌駕する戦死者を出したがー小国の諸大国に対する”負けじ魂”の表われであった。カナダは軍事面に限らず、軍需物資、食糧の供給の点でも、連合国側に多大な貢献をなした。
こうして大戦が終る頃には、カナダは自治領としてではなく、独自の権利を主張する主権国家に変貌しつつあった。その結果、講和条約に列強と肩を並べて署名し、新しく形成された国際連盟に一議席を与えられたのである。
国際連盟内で他の列強と比肩して一議席を獲得したことは、カナダの国際的地位を大いに高めた。英帝国内では、1917年に英帝国戦時内閣が自治領の首相を参画させた時点から、カナダは英帝国の政策形成にすでに発言権を得ていた。それ以前は、英帝国の対外政策不可分の原則から、英本国が自治領に指令を下していたのである。

1921年に首相となったマッケンジー・キングは、カナダの国家としての諸権利拡大のために一層の努力を払った。特筆すべきは、1922年にイギリスがトルコと紛争をひき起したとき(The Greco-Turkish War of 1919–1922)、英本国からの援助要請を拒否し、イギリス・トルコ間に結ばれた「ローザンヌ条約」にもカナダは拘束されない、と宣言したことである。さらに1923年、キング首相はカナダ独自の権限でアメリカ合衆国との間に、漁業問題に関する「オヒョウ条約」を締結した。
①ローザンヌ条約(ローザンヌじょうやくTreaty of Lausanne、フランス語: Traité de Lausanne)は1923年7月24日、スイスのローザンヌにあるパレ・ド・リュミーヌPalais de Rumineで締結された講和条約Лозаннский мирный договор (1923)②オヒョウ条約 (オヒョウじょうやく、英語:Halibut Treaty) は、1923年にカナダとアメリカ間で締結された北太平洋の漁業権に関する条約である。
カナダその他の自治領(オーストラリア、ニュージーランド等)が国家として成長し、列強からも国際連盟などでそのように認知されるようになってきたこと、それらの自治領の利害が多様化し、英帝国との統一ある対外政策がとりにくくなってきたこと、さらに各自治領(とくにカナダ)内のナショナリズムが旺盛になってきたことにより、英本国→英連邦への移行は急速に進展し、遂に1926年の英帝国会議で、英連邦が形成されることになった。その礎を築いたのは、英連邦諸国間の「自立」と「平等」を説いた「バルフォア宣言」であり、この宣言を正式に法令化し、自治領に完全な外交自主権を与えたのが、1931年の「ウェストミンスター条例」である。
*国際連盟[こくさいれんめいЛига Наций、旧字体: 國際聯盟국제연맹Völkerbund、英語: League of Nations(LON)、フランス語: Société des Nations(SDN、SdN)Società delle NazioniSociedad de Nacionesは、第一次世界大戦後の世界平和の確保と国際協力の促進を目的として設立された国際組織であった。
このようにしてカナダは、革命や戦争によらず、忍耐と英本国に対する巧みな交渉によって外交自主権を獲得したのみならず、「英連邦」という新しい国家間組織を樹立することにも一役かったのである。
(3)第二次世界大戦に参戦
第一次世界大戦で大きな犠牲を払ったカナダは、その後、孤立主義の中に閉じこもり、列強間の複雑なパワーポリティックスに巻き込まれないようにした。いわゆる”否”の外交に徹した。本章の最初に述べたように、小国であるカナダは、何をなすべきでないか、をよくわきまえていたのである。
この外交路線には、カナダが多民族国家であるという国内事情も作用していた。歴代の首相は世界情勢に容喙して、国内の民族間ーことにフランス系とイギリス系との間ーに軋轢を醸成するようなことは絶対に避けねばならないと念じていた。
カナダの孤立主義は、すでに国際連盟規約定立のときから顕著に示されていた。カナダ代表のボーデン首相は、集団安全保障を規定した第10条の挿入に執拗に反対しつづけたのである。この態度は、1924年の連盟総会でも、カナダ代表ラウル・ダンデュランドによって強調された。すなわち彼は、「われわれは燃えやすい材質から遥かにかけ離れた耐火住宅に住んでいる」と断言したのである。
こうしてカナダは、孤立主義または不関与主義の外交を堅持しつづけた。満州事変(1931年9月)以来、日本が本格的な大陸侵略を開始したときも、1935年にイタリアがエチオピアを攻撃したときも、さらに1936年にドイツがラインラントを再占領Rheinlandbesetzungしてベルサイユ条約を破ったときも、カナダは不関与の態度を崩さなかった。
しかし、1938年のミュンヘン危機Crisis over Czechoslovakia, 1938のころから、カナダでの全体主義に対する批判は急激に高まり、1939年9月3日のイギリスの宣戦により一週間遅れて、カナダは独自で宣戦布告をした。ここにカナダの孤立主義は終ったのである。
しかしカナダは日本との対決はできるだけ避けたいと念じていた。日本が真珠湾を攻撃する一週間前、キング首相はチャーチル首相に、「合衆国の即刻の支援が少しでも不確かな限り、日本と英連邦諸国との間に戦争をひき起すようないかなる行動をとることも、恐ろしい間違いであろう」と打電していた。だが日本は、1941年12月8日午前3時30分(東京時間)、真珠湾攻撃Attack on Pearl Harborを開始し、6時間後にはイギリスの直轄植民地である香港を爆撃し、そこの駐屯していたカナダ軍にも大きな被害を与えた。カナダは英・米と緊密な連絡を保ちながら、この場合も外交の自主性を重んじ、それら二国より数時間早く、日本に宣戦布告をしたのである。

*The Battle of Hong KongBataille de Hong Kong (8–25 December 1941)Гонконзька битва香港保衛戰, also known as the Defence of Hong Kong and the Fall of Hong Kong, was one of the first battles of the Pacific War in World War II.  On the same morning as the attack on Pearl Harbor, forces of the Empire of Japan attacked the British Crown colony of Hong Kong, without declaring war against the British Empire. The Hong Kong garrison consisted of British, Indian and Canadian units, also the Auxiliary Defence Units and Hong Kong Volunteer Defence Corps (HKVDC).

大戦中も、カナダはできるだけ独自性を貫こうとした。したがって英・仏間に設立された最高軍事評議会には参加しなかった。ドイツの電撃作戦Blitzkriegによってポーランドは二週間で壊滅状態になりPolenfeldzug、9月27日にはワルシャワが陥落してWojna obronna 1939 roku、事実上の休戦になった。そして10月6日、ヒトラーは和平を提案した。このとき、キング首相はチェンバレン首相に、「未曾有の人命損失と文明破壊を回避するために」、講和すべきだと提言した。
キングの案は、まず無条件休戦を確立し、中立国であるアメリカの大統領、イタリア国王Vittorio Emanuele III、ベルギー国王Léopold III等からなる委員会を設け、ヨーロッパの情勢の調停にあたらせる、というものであった。しかしチェンバレンはこの提案を取り上げようとはしなかった。
1939年11月末、ソ連はフィンランドを攻撃したWinter War/Guerre d'Hiver。当初、キング自由党政府は、世論に押されて、Kanadansuomalaisetフィンランド系カナダ人Finnish Canadiansの志願兵を募り、フィンランドへ派遣することも考慮したが、小国の悲しさ、大国ソ連と対決することを恐れて、結局10万ドル相当の援助物資を送るにとどまった。
さらに、カナダ軍は独立した部隊を編制し、カナダの指揮官によって命令されることを望んだ。だが戦争がたけなわになるにつれ、カナダ軍はイギリス軍に混入され、ほとんどの場合、イギリスの指揮官に統率された。また、カナダ政府は、戦略・作戦計画決定に際して、イギリス政府に何度も事前協議を要求したが、イギリス政府はそれに応ぜず、事後通達だけで事を運び、カナダ政府要人をして、イギリスはカナダを「植民地扱いしている」と立腹させた。
この傾向は、ソ連やアメリカ合衆国が参戦するに及んでますますはなはだしくなり、連合国United Nations(1942年1月設立)の決定の場からカナダは疎外されてしまった。ロンドン在勤のカナダ外交官ヒューム・ロングやキング首相が機能主義を提唱するようになったのは、このような状況によるものであった。
*Humphrey Hume Wrong (September 10, 1894 – January 24, 1954) was a Canadian historian, professor, career diplomat, and Canada's ambassador to the United States.

①第二次世界大戦における連合国Alliés de la Seconde Guerre mondiale(れんごうこく、旧字体: 聯合國제2차 세계 대전의 연합국、英: Alliesまたは英: United Nations(現在の国際連合と同名))Антиги́тлеровская коали́ция, или союзники Второй мировой войныAnti-Hitler-Koalitionとは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)と敵対した国家連合。具体的にはアメリカ、中華民国、イギリス、ソ連、フランスなど26カ国が該当する

②枢軸国(すうじくこく、旧字体: 樞軸國추축국、独: Achsenmächte、仏: Les forces de l'axe、伊: Potenze dell'Asse、英: Axis powersКраїни Осіとは、第二次世界大戦時に連合国と戦った諸国のことである。
1943年7月9日、キング首相は下院での演説で、カナダを「ミドル・パワー」と規定し、機能主義の考え方を次のように披瀝した。
すなわち、大戦で勝利を収めるまえに、連合国は何らかの形の国際機関を組織すべき時がやってくる。その際、国際問題を処理する権限を超大国のみに集中させてはならない。しかし、その権限を、連合国を構成する30以上ものすべての主権国家に平等に配分すれば、効果的な権限は消散してしまうであろう。戦後、いくつかの国際機関が設立されるようだが、それらの機関は、機能ベースー国家の大小を問わず、それぞれの機関の目的に最大限の貢献をする諸国家ーによって代表されるべきである。理論的にはすべての国家は互いに平等であるべきだが、現実的には、国際機関が作業し得る程度に代表の数を限定する必要性もある。このジレンマの解決策は、機能主義の原則を採用することである、と。
爾来、カナダ外交のモットーは、この機能主義を実践・発展していくこととなった。だがそれは従来からカナダが模索してきたことを公式に提唱したのであり、大国主義に挑戦する独立・主権国家としてのカナダの自負心の高揚を物語るものであった。

*連合国救済復興機関(れんごうこくきゅうさいふっこうきかん聯合國善後救濟總署United Nations Relief and Rehabilitation AdministrationАдминистрация помощи и восстановления Объединённых Нацийとは、第二次世界大戦中に枢軸国による侵略を受けた諸国に対する救済援助を目的として、1943年に設立された機関である。略称はUNRRA(アンラ)。Nothilfe- und Wiederaufbauverwaltung der Vereinten Nationen/Administration des Nations unies pour le secours et la reconstruction
4 機能主義外交の展開
(1)連合国救済復興機関問題
カナダの機能主義外交の試金石はUNRRA(United Nations Relief and Rehabilitation Agency、連合国救済復興機関)問題であった。UNRRA設立草案は四大国(アメリカ、イギリス、ソ連、中国)によって起草され、43年6月、連合国に提示された。この機関は戦時中の救済のみならず、戦後の世界秩序形成にかかわる復興援助も目的とする重要なものであった。
カナダはその目的自体には賛成したが、その機関が四大国によって牛耳られた執行委員会によって運営されることに反対した。カナダは、同国は大量の救援物資を供給しているので、執行委員会に加盟を許されるか、さもなくば、執行委員会の権限を縮小し、より広範囲の代表からなる評議委員会を設置せよ、と主張した。
カナダにとって事は重大であった。なぜならキング首相はその翌月、前出の機能主義外交の必要性を表明し、それを大国にも認めさせ、その原則を将来の世界秩序形成の基礎にしたいと思っていたことと、UNRRAは連合国の名のもとに創設しようとしている最初の国際機関の一つであり、ここでカナダの主張が受け入れられるか否かが先例をつくると考えたからである。
カナダは自国の名誉や威信のために主張しているのではなくーその証拠に、カナダはすべての国際機関に代表権を求めてはいなかったー、この機関が設立された場合、カナダは実際大きな役割を果たさねばならないからだ、と強調した。四大国と対峙したカナダのこの頑強な態度の背景には、それが他の中・小諸国にも諸々の国際機関への道を拓くという信念と、大国支配の国際情勢を変革したいという意図が潜んでいた。
イギリスは、カナダとラテン・アメリカの同盟諸国の一国とヨーロッパの同盟諸国の一国を加えた七ヶ国委員会を設置することを妥協案として提出したが、アメリカとソ連はそれを拒否した。他方カナダは中央委員会(以前の執行委員会)の構成が変更されないかぎり、当該機関に参加しないとつっぱねた。
結局、最終的にはカナダが次の四点を四大国に了承させることで決着がついた。①カナダ人を供給委員会の長にすること。②カナダ政府は国際機関における四ヶ国(支配)のパターンを原則的に容認できないこと。③国際機関の代表は可能なかぎり機能ペースで決定すること。④カナダ政府は他の(諸機関との)関連において、当該中央委員会形式を先例とみなさないこと。
カナダ政府はいったん右記のような原則を四大国に認めさせると、外交の面でもカナダの国民性である”妥協”を重視し、UNRRAの発展に全面的に協力した。たとえば合計1億5400万ドルの醸出金をUNRRAに提供し、その額はアメリカ、イギリスに次いで三番目に大きかった。

①国際連合児童基金(こくさいれんごうじどうききんДетский фонд ООН、英: United Nations Children's Fund)は、1946年12月11日に設立された国際連合総会United Nations General Assemblyの補助機関。当初は、国際連合国際児童緊急基金(こくさいれんごうこくさいじどうきんきゅうききんМеждународного фонда помощи детям (ICEF)、英: United Nations International Children's Emergency Fund)と称して戦後の緊急援助のうち子供を主に対象とした活動であった[1]。略称は UNICEF(ユニセフ)。
UNRRAは1946年12月11日の国連総会決議でUNICEF(United Nations International Children's Emergency Fund,国際開発児童緊急基金)に再編された。四年後、UNICEFは国連の常設機関となり、事業を開発途上国にまで拡大した。こうしてカナダの対外援助活動は、世界的な広がりをもつようになったのである。
現在UNICEFが主として開発途上国の困窮した幼児、児童の救済にめざましい活動をしているのは周知のことであろう。

②UNICEF Canada, also known as the Canadian National Committee for UNICEF, is one of 36 UNICEF National Committees based in industrialized countries.

①モスクワ宣言(モスクワせんげんМосковская декларация、英語:Moscow DeclarationDéclaration de Moscou《莫斯科宣言》Moskauer Deklarationは、1943年に行われたМосковская конференцияモスクワ会談Moscow Conferenceの帰結として11月1日に発表された宣言。この宣言には「四大国宣言Declaration of the Four Nations on General Security, or Four Power Declaration」、「イタリアに関する宣言Declaration on Italy」、「オーストリアに関する宣言Declaration on Austria」、「残虐行為に関する宣言Declaration of Atrocities」の4つの宣言が内包されており、連合国による戦後処理と戦後世界の構想を示すものとなった。
(2)国連憲章に対する貢献 
UNRRAの設立と並行して、連合国の大国間では、戦後の世界秩序形成について、活発な議論がたたかわされていた。1943年10月30日、アメリカ、イギリス、ソ連、中国は「モスクワ宣言」において、「できるだけ速やかに全般的国際機関を樹立する必要性」を認め、翌年の10月7日に「ダンバートン・オークス提案」をなした。これがいわゆる「国際連合憲章草案」である。これもまた、カナダがにがにがしく思っていた「四大国パターン」の決定方式であった。
②国際連合憲章(こくさいれんごうけんしょうCharta der Vereinten Nationen、(英: Charter of the United NationsСтатут Організації Об'єднаних Наційは、国際連合の設立根拠となる条約。略称は国連憲章(こくれんけんしょう、英: UN CharterCharte des Nations unies③ダンバートン・オークス会議(ダンバートン・オークスかいぎ、英:Dumbarton Oaks ConferenceКонференция в Думбартон-Оксеは、第二次世界大戦末期の1944年8月から10月にかけてワシントンで開催された国際会議。
しかし、カナダはこの新しい国際機関の創設に関して、イギリスやアメリカから事前に相当の情報を得ており、議会も世論も国際連合に加盟すること自体には概ね賛成であった。国連憲章を正式に採択するサンフランシスコ会議(1945年4-6月)にのぞむにあたって、カナダ政府筋の関心は、国際連合を真に世界平和の礎にすること、なるべく普遍的な組織にすること、中・小諸国の発言権を保障するため、機能主義の原則にもとづいて運営すること、であった。
これらの方針を国連憲章に盛り込むため、サンフランシスコ会議におけるカナダ代表団ーとくにルイ・サンローランとレスター・ピアソンは、他の中・小諸国をリードして、まさに獅子奮迅の活躍をし、草案修正に多大の貢献をなした。紙幅の関係から、ここではその模様を二つのケースでもって例示するにとどめる。

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