日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕⑧


*サンフランシスコ会議(サンフランシスコかいぎConférence de San FranciscoUnited Nations Conference on International OrganizationСан-Францисская конференцияは、1945年4月25日から6月26日にかけて、アメリカ合衆国サンフランシスコのウォーメモリアル・オペラハウスで開かれた連合国会議。正式には国際機構に関する連合国会議。
一つは安全保障理事会の構成様式と大国の拒否権問題について、安全保障理事会は大国だけの独壇場であってはならない。それでは小国が大国の餌食になったり、大国間にむきだしの権力闘争をきたしたりする惧れがある。一方、なんの実力もない小国に理事会を委ねることは、理事会を無能化し、無責任な行動を誘うことにもなりかねない。そこでカナダのような「ミドル・パワー」こそ一種の緩衝国あるいは仲裁役として介在することが肝要である。
このような論旨にもとづき、安全保障理事会が大国のみによって構成されることにも、大国の拒否権を認めることにも、カナダは強く反対した。結局、拒否権問題ではソ連の反対にあって譲歩を余儀なくされたが、カナダの主張は非常任理事国の参加および資格に関する国連憲章第23条一項の規定となって認められることになった。そのため同規定は、「カナダ条項」と呼ばれることもある。
国連憲章制定におけるカナダのもう一つの大きな貢献は、ややもすれば軍事的安全保障のみに偏りがちであった国連の機能を是正し、加盟国間の経済的・社会的協力も重視するような草案を補強修正したことである。カナダは特に経済社会理事会を国連の中枢神経とみなし、その地位の向上と機能の強化に努めた。具体的には、憲章第55条a、56条、62条1、64条1および2、66条2はカナダ案を骨子としたものであり、国連ー経済社会理事会ー専門機関との関係もカナダ提案(57条、59条、63条および2、64条1および2、70条)によって明確化された。
実際、国連憲章第9章の「経済的及び社会的国際協力」と第10章の「経済社会理事会」は、「ダンバートン・オークス提案」を大修正したものであり、それは主にカナダのイニシャティブによってなされたのである。カナダがこれらの問題に努力を傾注したのは、やはり機能主義の観点からであった。当時カナダは経済的ゆとりのある数少ない国の一つであり、国連加盟国間に経済協力を促進するのはカナダの責務であると感じたのである。

5 「中間国」としての役割
(1)中間国とは
カナダの機能主義外交は、「ミドル・パワー」としての役割を果たすことにもっともみごとに表現された。ミドル・パワーの概念は、単に中級国家というだけではなく、「中間国」という意味あいを含んでいる。大国・超大国がパワーポリティックスを展開する中で、小国群に対して一種の「緩衝国」になろうとするのである。
この実践の一例は、既述したように、国連の安全保障理事会に中・小諸国を非常任理事国として加入させるというカナダ提案に見られた。やがて東西の冷戦がたけなわになってくると、この「中間国」の意味は、その両極の「橋渡し」役、あるいは「仲介国」とも解されるようになった。
しかし「中間国」は中立国と同義ではない。中立主義とは、本来、相対立する両陣営のいずれにも荷担しないという「消極外交」である。それは、外交の主体性が自国にはなく、他国の動き方、国際環境の変化に受動的に反応する「反応(アクティブActiveではなくリアクティブReactive)外交」でもある。これに対して「中間国構想」は、積極的に仲介役の労をとり、緊張緩和に貢献しようとするのである。
それにカナダは、実際、中立国にはならなかった。「北大西洋条約機構North Atlantic Treaty Organization(NATO)」OTAN(Organisation du Traité de l'Atlantique Nord)に加担し、1958年にはアメリカ合衆国と「北アメリカ大陸防空軍(NORAD)協定」を締結することにもなる。けれども、このように西側陣営に与しながらも、できるだけ共産圏陣営との対話の場を広げていこうと努力するのである。60年になって、いわゆる「南北問題」が浮上してくると、カナダは長い間イギリスの植民地であり、一度も植民地をもったことがない歴史的経験ををいかして、”南””北”間の「中間国」としての機能を果たそうとするようになるのである。(「ミドル・パワー」)の概念とその外交の特質について、詳しくは、馬場伸也編『ミドル・パワーの外交Middle power diplomacyー自立と従属の葛藤Conflict between independence and subordination 』日本評論社を参照されたい。)

*北アメリカ航空宇宙防衛司令部(きたアメリカこうくううちゅうぼうえいしれいぶCommandement de la défense aérospatiale de l'Amérique du Nord、英: North American Aerospace Defense Command、略称:NORAD、ノーラッド)Командование воздушно-космической обороны Северной Америкиは、アメリカ合衆国とカナダが共同で運用している連合防衛組織[1]で、北アメリカ(アメリカ合衆国とカナダ)の航空や宇宙に関して、観測または危険の早期発見を目的として設置されている[1]。24時間体制で人工衛星の状況の観測、地球上の核ミサイル・弾道ミサイルの発射警戒や、戦略爆撃機の動向監視などを行っている。1958年5月、CONAD(Continental Air Defense Command、大陸防空司令部)を改組し設置された。

大国・超大国のパワー・ポリティックス(権力政治)に抗し、自立を志向して葛藤するミドル・パワー諸国の外交こそ、平和への力であり歴史発展の流れであるThe diplomacy of the middle-power countries, which are in conflict with the power politics of great powers and superpowers and aim for self-reliance, is the power for peace and the flow of historical development.
(2)東西の「かけ橋」
中間国としてのカナダの機能と役割は、占領期における対日政策にも発揮された。1945年9月にアメリカが提案した「極東諮問委員会」は、元来アメリカが単独統治をねらったものであった。これに対して、ソ連は四国共同統治を主張し、単なる名目上の参加しか意味しない諮問委員会に入ることを拒絶した。アメリカはこれをもっけの幸いと、ソ連抜きで対日占領政策を推進する腹づもりでいた。
①Françaisフランス語→L'occupation du Japon連合国軍占領下の日本연합군 점령하 일본 est une période de l'histoire du Japon qui commence en septembre 1945 et s'achève en septembre 1952Окупація Японії
諮問委員会の一員であるカナダは、米・ソ対立のままで各々が独走することを非常に危惧し、イギリスと協力して、ソ連をなんとか同じ”土俵”に引きずりこもうと努力した。それが効を奏して、「モスクワ会議」(12月16日開催)では、「諮問」的性格を除去した「極東委員会」が成立した。そこへ漕ぎつけるまで、カナダは英・米間の「橋渡し」役を勤めたのみならず、結果的には同委員会にソ連を参加させることにより、米・ソ間の「かけ橋」ともなったのである。
②極東委員会(きょくとういいんかい극동위원회、英語: Far Eastern CommissionДальневосто́чная коми́ссия (ДВК) は、太平洋戦争に敗北した日本を連合国が占領管理するために設けられた最高政策決定機関[2]。強大な権限を有した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)もその決定には従うものとされた[2]。
北大西洋条約機構設立に際して、カナダはアメリカとは異なった認識を抱いていた。カナダは同機構をソ連を中心とした東側陣営に対するあからさまな軍事同盟にすることを好まず、加盟国間の国際協力を密にした真の「北大西洋共同体North Atlantic Community」にすることを望んだ。以下に示す同条約第二条「国際協力」は、こうしたカナダの意向を反映して挿入されたものである。
曰く、「締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによって、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、この国際経済政策における食い違いを除くことに努め、また、いずれかの又はすべての締約国の間の経済的協力を促進する」と。
1955年秋、レスター・B・ピアソンは北大西洋条約機構加盟国の外相としては、はじめてソ連を訪問した。ソ連の指導者たちは、もろ手をあげて彼を歓迎した。Вячеслав МолотовモロトフVyacheslav Molotov外相はピアソンに、ソ連は決してカナダをアメリカ合衆国の単なる辺境の地とはみなしていず、むしろ世界の偉大な国家の一つとして認めている、と愛想をふりまいた。カナダの外相は、Никита Хрущёвニキタ・フルシチョフNikita Khrushchev書記長とも忌憚のない意見交換を行った。こうしてピアソンの訪ソは東西間の緊張緩和を誘導したのみならず、加・ソ貿易協定をももたらした。
この協定によって、カナダはかなりの量の穀物をソ連に輸出しはじめるようになり、やがてソ連はカナダの農産物輸出の最上のお得意先の一国となった。当時、国際世論はカナダを「西のユーゴスラビアYugoslavia in the West」と評したものである。

(2)仲裁国として 
1954年、インドシナ停戦監視にインドやポーランドと参加したカナダは、スエズ動乱では国連の平和維持任務遂行の最先端に躍り出た。サンローラン内閣(1948-57年)の外相ピアソンは文字どおり国連緊急軍(UNEFFirst United Nations Emergency Force I)の立役者となり、その功労を称えられて、1957年、Nobels fredsprisノーベル平和賞Nobel Peace Prizeを受賞した。カナダ国民はこれをわがことのように喜び、国連の平和維持に尽力することこそ、カナダの「存在理由」であろうとすら考えるようになった。
①ジュネーヴ協定Hiệp định GenèveGeneva ConferenceジュネーヴきょうていAccords de GenèveЖеневская конференция は、Chiến tranh Đông Dương第一次インドシナ戦争Guerre d'Indochineを終結させるために1954年にスイスのジュネーヴで開かれた和平会談によって合意された休戦協定。この協定はベトナムが南北に分かれた分断国家となる原因となった②第二次中東戦争 Second Arab–Israeli war(だいにじちゅうとうせんそうTripartite Aggression、ヘブライ語: מלחמת סיני‎、アラビア語: العدوان الثلاثي‎)は、1956年7月から1957年3月にかけてエジプトとイスラエル、イギリス、フランスがスエズ運河を巡って起こした戦争。スエズ動乱、スエズ危機Suez Crisis、シナイ作戦Sinai War 、スエズ戦争などとも呼ばれるСуецька криза, Синайська війна, Синайська операція, а також Троїста агресія
以来カナダは、ディーフェンベーカー内閣(1957-63年)を経てピアソン内閣(1963-68年)の終りの頃まで、レバノン、République du CongoコンゴRepublic of the CongoΚυπριακή ΔημοκρατίαキプロスKıbrıs Cumhuriyetiその他世界各地の紛争における停戦、平和維持のために、国連軍の一員として活躍したのである。こうした経験はまた、ピアソンの国連中心主義ともあいまって、「中間国」としてのカナダのアイデンティティを一層強く確認することとなった。
1960年代、日本とカナダが置かれていた国際的・地理的環境ー特に対米関係ーには類似点が多かった。日本がアメリカ、ソ連、中国に挟まれているように、カナダもソ連とアメリカからの圧迫を受けていた。日本にアメリカとの安全保障条約があるようにカナダには先述したとおりNORADがある。両国はともにアメリカの核の傘の下にあり、その最前線に位置づけられていた。カナダの苦境は、1962年のキューバ危機で最も鮮明化した。
カナダにとってキューバにおける米・ソ紛争は、当時、日本にとって、米・中・한국의 재통일南北朝鮮問題Korean reunificationに積極的に介入する場合に等しかった。キューバ問題をめぐって、米・ソが核戦争に突入した場合、一番最初にソ連の攻撃を受けるのはカナダだったからである。したがって当時のカナダでは、日本の「安保闘争」さながらの示威運動がくり広げられ、NORADの破棄が叫ばれた。そして、カナダはアメリカの意向に反して、キューバとは国交を断絶せず、危機の状態にあればこそ、なおさらパイプをつないでおくべきだと、正常な国交を保ったのである。
また、カナダはアメリカのベトナム戦争に対しても批判的であった。1965年、ピアソン首相はペンシルベニア州のテンプル大学Temple Universityでベトナム戦争反対の大演説をぶったし、カナダ国内でも盛んな反戦示威運動がくり広げられた。

南北関係において、60年代は「開発の10年」と設定されたにもかかわらず、北の先進工業国と南の開発途上諸国との間の貧富の格差は一層拡大し、「挫折の10年」と呼ばれるようになった。南北間にはお互いに相手の非をあげつらう不毛な議論の応酬がつづき、険悪なムードが漂っていた。そうした状況の中で、1967年10月、世界銀行総裁ジョージ・ウッズは、「過去20年間の開発援助の成果を研究、評価し、その誤りを明らかにし、また、将来においてよりよく作用する政策を示す」「大会議」を開くことを提案した。
この提案にもとづき、すでに首相の座を退いていたレスター・B・ピアソンは、そのような研究を行うための「国際開発委員会」を設立した(1968年8月、ピアソンを議長に他に7人のメンバーで構成)。そして同委員会は、1969年9月、ロバート・S・マクナマラRobert Strange McNamara国際復興開発銀行総裁宛に『開発のパートナーPartners In Development』と題する報告書を提出した。
*The Pearson Commission on International Development investigated the effectiveness of the World Bank's development assistance in the 20 years to 1968 and made recommendations for future operation of the organization.
その骨子は、われわれは「世界という村」に住んでおり、南北対立を避け、協力しあって共に発展していく「派=-トナー」であるという認識を持つことである、とするものであった。そこには、カナダの歴史に培われた「妥協と協調」の精神が反映されていた。多くの有意義な勧告を含むこの報告書は、爾来、南北対話の道を開くことになったのである。

①Françaisフランス語→Le Livre blanc de 1969 (en anglais 1969 White Paper, officiellement connu sous le nom de La politique indienne du gouvernement du Canada, 1969) fut un livre blanc du gouvernement du Canada, présenté au Parlement du Canada par le ministre des Affaires autochtones et Développement du Nord Canada, Jean Chrétien, et par le premier ministre du Canada Pierre Elliott Trudeau, nouvellement au pouvoir. Il avait pour but d'éliminer le statut spécial « d'Indien » et de faire des membres des Premières Nations des citoyens canadiens comme les autres. Face à l'opposition autochtone, la politique fut ultimement retirée.
6 トルドー外交の展開
(1)ミドル・パワー否定の中間国外交
1968年4月6日、ピエール・E・トルドーはピアソン首相の後継者となるや、従来のカナダ外交は根本的に再検討する必要があるとの見解を披瀝した。「参加民主主義Participatory democracy」を標榜する首相は、全閣僚、外務省、自由党総務会、議会おまけに世論まで総動員して、二年がかりでその新しい外交方針を練り上げた。こうして打ち出されたのが、1970年6月に出版された、六分冊からなる『カナダ人のための外交政策』(『外交白書』)である。
②参加民主主義 (さんかみんしゅしゅぎDémocratie participative、英語: participatory democracyあるいはparticipative democracy) Теорія партисипаторної демократіїは、政治システムの方向性と運用において有権者の広範な参加を重視する、民主主義のモデルの一つ。民主主義の語源 (古代ギリシア語のdemos+kratos)は、人民が権力を有しておりすべての人々が参加していることを意味する。しかし参加民主主義は、伝統的な間接民主主義よりも、より複雑な形の市民参加とより大きな政治的権利を提唱する傾向がある。
この『白書』によれば、これまでの外交が再検討を迫られるようになったのは、国際環境の変化とそれにともなうカナダの国際的地位の相対的低下であるとする。その要旨は、ヨーロッパ諸国が立派に復興をとげ、特に西ドイツや日本が浮上するにつれ、カナダはもはや「ミドル・パワー(この場合は中級国家の意)」ではなくなった。むしろ小国の中の大きい部類に属するにすぎないと、まず、国際社会におけるカナダの位置づけに関する再規定を行った。
次いで、したがってカナダは、いままでのように世界中の紛争解決の「助っ人役Helpful fixer(国連での平和活動の意)」として飛びまわり、実力以上にその影響と名声を高めようとすることをやめ、もっとカナダ自身の国益を優先させる「現実主義」の路線をとるべきことを強調している。
さらにカナダはその国益を追求するにあたって、第三世界の勢力が勃興し、「多極化時代」にあって、全世界的に交流していくべきであるとする。そして最後に、そうした世界外交を展開する中で、カナダの果たしうる「機能」と「役割」を冷徹に見定めていくべきだ、というのである。
ここでわかることは、カナダが「ミドル・パワー」であることは否定されたが、「機能主義理論」は依然として継続されていることである。しかも「機能」と「役割」を追求しようとするかぎり、「現実主義」の表看板とはうらはらに、ある程度、理想主義にもなじまなくてはならないということである。
『外交白書』でもう一つ注目すべき点は、「外交政策は内政の延長である」と強調していることである。したがって外交の要請は、カナダ人が最も希求しているものー具体的には「独立した政体、主権、統一と安全保障、連邦主義、個人の自由と議会制民主主義、国家のアイデンティティ、二言語、多文化主義、経済成長、財政的安定、地域間の調和、技術の進歩、公正な社会発展、自然環境の改善、人間としての価値および人道主義的抱負」-を充足することであるとする。
熱烈な自由主義者であるトルドーはとくに暴力を嫌った。暴力は自由の敵である。そして暴力は往々にして不公正な社会に醸成される。そこで暴力を追放するためには「公正な社会」を樹立しなければならない、と彼は信じた。この信念は内政においては、ケベック州や沿海諸州のような貧しい州には『平衡交付金』を支給し(「1982年憲法」第三章)、イギリス系とフランス系国民の間に平等の地位を確立するために、フランス語を英語と同等の資格を持つ公用語とした「二言語主義Bilingualism」を採用し(1969年の「公用語法」)、他方、ケベック解放戦線(FLQ)のテロ活動には、「戦時措置法」まで発令してそれを鎮圧する(第2章参照)等の施策として具現化された。さてそれでは、外交面では、トルドーのこれらの所信はどのような形態をとって表出しただろうか。
トルドー首相の国内での暴力追放は、国際社会における暴力(戦争と軍拡)の追放と相関連している。彼は今までの外交は国防中心に旋回してきたが、本来外交が「主」であり防衛は「従」であるとの考えから、NATOに派遣していたカナダ軍を半分に削減してしまった(1969年4月)。首相はその理由を、「NATOがわれわれの防衛政策を決定し、その政策がわれわれの外交政策を決定する。このように軍事同盟がわれわれの外交政策を左右するのは誤りである」、と説明した。

彼は防衛費も縮小し、1969年の対GNP比2・3%を71年には2・1%に引き上げた。ただしもう一つの要因として、当時カナダの経済状態が悪く、1969-71年間の年平均失業率が8%に達していたことにも注意する必要があろう。それからトルドーはNORADを破棄しなかったことも、小稿の公平を期するために付記しておかなければならない。だが第1表が示すとおり、80年代初頭のいわゆる「新冷戦」期に入っても、トルドー首相は依然として軍事小国としてのカナダを維持しつづけた。

1970年10月13日、カナダは中華人民共和国との国交を樹立したCanada–People's Republic of China relations中華人民共和國-加拿大關係。トルドー首相によれば中国に共産主義の政権が誕生して20年になんなんとし、しかも10億もの人たちがいまだに国際社会から締め出されているのは、いかにも不自然で「不公平」だというのである。


当時アメリカは中国とまだ宿敵関係にあり、日本は勿論のこと西側のほとんどの諸国もアメリカに追従して中国を承認していなかった。中国との交渉で最大の難関はStatut de Taïwan台湾問題臺灣問題であったが、それはカナダが「台湾は中国の領土の一部である」との中国政府の立場を「留意するData note」ことで決着をみた。
カナダは無論、中国の国連加盟も強力に支援した。カナダのこの勇断は、他の多くの国々が中国承認に踏み切る突破口となったのみならず、イタリアRepubblica Italiana、ベルギー、ペルーRepública del Perú、レバノンは中国との国交樹立に際して、前記のいわゆる「カナダ式」を採用した。
こうしてカナダは、日本のようにアメリカの「頭越し外交」に憤懣やるかたなき思いをせずに済んだばかりでなく、アメリカの対中国宥和政策に先鞭をつけることにもなった。キッシンジャーHenry Alfred Kissinger米大統領補佐官やニクソンRichard Milhous Nixon大統領の北京訪問(前者1971年7月、後者1972年2月)には、こうしたカナダの動きも見逃しえない一要因として作用したのである。
それから間もない1971年5月、トルドー首相は今度はモスクワを訪問した。だが彼はその訪問は東西の「橋渡し」役としてではない、と断言している。
同首相は「これ(訪ソ)は、できる限りの最も自立した外交政策確立の第一歩であります。われわれはアメリカの存在によって劣勢にあることをよく認識しており、肝要なことは、ソ連のような二超大国のうちもう一つである国家に対しても門戸を開くことであります」と訪ソの趣旨を述べている。そこにはトルドーが国内社会で強調した「平衝Balance」あるいは「調和」の概念を国際社会にも適用しようとしたことが窺える。
同時に、強烈な対米意識に基づく自主外交あるいはカナダのアイデンティティを貫こうとする姿勢もはっきりと見られる。注目すべきは、カナダは明らかに西側陣営の有力な一員である以上、トルドー首相の意図と係わりなく、彼の中国承認やモスクワ訪問は、結果的には、カナダをしてその伝統的な「中間国」の機能を果たせしめたということである。
なおトルドー首相はこのソ連訪問に際して、両国間に「相互の利害関心に係わる重要な国際問題と両国間の問題に関して協議すること」との議定書を締結した。

(2)対第三世界外交
これまでのカナダ外交は欧米編重の傾向があった。トルドーはそれを是正し、カナダが向後第三世界の発展に貢献しようとする決意を次のように語ったー富める国と貧しい国との”不均衡”がこれほど極端に達したことは史上いまだかつてない。いまや開発は平和の代名詞である。経済援助は人間の尊厳に係わる問題であり、その場合カナダ人は「授益者Benefitters」であると同時に「受益者Beneficiaries」でもあることを決して忘れてはならない、と。
このような趣旨にもとづき、1961年のカナダ政府開発援助(ODA)は対GNP比にして0・19%にすぎなかったが、74年には0・51%まで上昇し、OECDのメンバー国のうち第8位にランクされるまでになった。

①政府開発援助(せいふかいはつえんじょAide publique au développement、英語: Official Development Assistance, ODAОфициальная помощь в целях развития (ОПР) とは、発展途上国の経済発展や福祉の向上のために先進工業国の政府及び政府機関が発展途上国に対して行う援助や出資のことである②経済協力開発機構(けいざいきょうりょくかいはつきこう)Організація економічного співробітництва та розвитку (ОЕСР)は、国際経済全般について協議することを目的とした国際機関。公用語の正式名称は、英語では"Organisation for Economic Co-operation and Development"、フランス語では"Organisation de Coopération et de Développement Economiques"。略称は英語ではOECD、フランス語ではOCDE
ちなみに、1982年の政府開発援助の対国民平均所得比ではカナダは第5位(日本12位)であった。また世界食糧会議(1974年11月)において、カナダは向う三年間にわたって100万メートル・トンの穀物を供給すること、さらにカナダ国際開発機関(CIDA)は「1975-80年国際開発協力戦略」で、続けてもう三年間、最低同量の穀物を供給することを誓約した。
①World Food Council (WFC)世界食糧会議 was a United Nations organization established by the UN General Assembly in December 1974 by recommendation of the World Food Conference②カナダ国際開発庁(Canadian International Development Agency: CIDA)は、1960年に対外援助庁(External Aid Office)として設立された。
ただし近年、途上国は「援助よりも貿易」を要求しており、この点ではカナダの成績はあまり芳しくない。それは人口約2500万ではカナダの市場が小さく、またカナダ経済自体が第三世界と競合する一次商品の輸出にかなり依存しているためである。
三世界諸国の主張する「新国際経済秩序(NIEO)」に対しては、1975年の第7回国連特別総会でアラン・J・マケッカン外相は、カナダは第三世界の諸提言が正当であることを認め、貧富の耐えがたい不均衡を是正するため、国際的経済関係の変革に努める用意がある、との声明を発表した。そしてマケッカンは「新国際秩序」に関する南北対話の重要機関である「国際経済協力会議(CIECConference on International Economic Cooperation」の共同議長となった。

①Allan Joseph MacEachen PC OC (July 6, 1921 – September 12, 2017)Аллан Джозеф Макичен was a Canadian politician and statesman who served as a senator and several times as a Cabinet minister②The New International Economic Order (NIEO) « nouvel ordre économique international »Новый международный экономический порядок (НМЭП) is a set of proposals advocated by developing countries to end economic colonialism and dependency through a new interdependent economy
トルドー首相自身、南北問題は”対決Confrontation”ではなく”対話Dialogue”に基づく国際協力によってのみ解決の方途が見出せると信じていた。それは1980年2月に公表された『ブラント報告』と同趣旨のものであった。そこでトルドーは1980-81年の18ヶ月間にわたって、北の先進諸国と南の途上諸国を訪問し、そうした”対話”の機会を持つ必要性を説いてまわった。

*Deutschドイツ語→Der Nord-Süd-Bericht (auch Brandt-Report) ist ein Bericht, den am 12. Februar 1980 die Nord-Süd-Kommission dem Generalsekretär der Vereinten Nationen zur Studie mit dem Namen „Das Überleben sichern. Gemeinsame Interessen der Industrie- und Entwicklungsländer“ vorlegte. Dies geschah unter dem Vorsitz von Altkanzler Willy Brandt.
1981年10月、『ブラント報告』の提唱に従い、メキシコのカンクンCancúnで「南北サミット」が開催されたが、その背景には、トルドーのこうした活躍があったことも見逃してはならない。彼はそのサミットで、病気のクライスキー(ブルーノ・クライスキー(Bruno KreiskyБруно Крайский、1911年1月22日 - 1990年7月29日)ברונו קרייסקיは、オーストリアの政治家。初のユダヤ人のオーストリア首相(1970年 - 1983年))オーストリア首相に代って、北側を代表する共同議長に満場一致で選出された。
カナダは移民の国である。戦前には強い人種的偏見がみられたが、戦後に至って、カナダは、移民、難民、亡命者に対してきわめて寛大な態度を示してきた。ことに1956年以来、国連難民高等弁務官(UNHCR)と協力して、積極的にその仕事に援助を与えてきた。海外に設けた移民・難民取扱い事務所は1956年には21であったが、79年には56に増加し、そのための支出額も800万ドルから6640万ドルに増大した。
*国際連合難民高等弁務官事務所(こくさいれんごうなんみんこうとうべんむかんじむしょHaut Commissariat des Nations unies pour les réfugiés(HCR ou HCNUR)、英称: The Office of the United Nations High Commissioner for Refugees、略称: UNHCRУправление верховного комиссара Организации Объединённых Наций по делам беженцев (УВКБ) は、1950年12月14日に設立された、国際連合の難民問題に関する機関。
移民・難民の大きな波は、1956年の1956-os forradalomハンガリー事件Insurrection de Budapest ou révolution de 1956のとき、1967年にはČeskoslovenskoチェコスロバキアČesko-Slovenskoから、1972年にはJamhuri ya UgandaウガンダRepublic of Ugandaから、1973年にはチリRepública de Chileから、1970年代後半からは大量のインドシナ難民が流入している。
1975年4月、南ベトナム政府の崩壊にともなうインドシナの危機的状況に対処するため、カナダ政府は1977年に雇用および移民に関する再編成条令を発布し、雇用・移民者と雇用・移民委員会を新たに設置した。sらに1978年4月には新しい移民法(C-24法令Immigration and Refugee Protection Regulations)が発効となり、移民や難民対策に関する長期的展望が立てられるようになった。1978年には、雇用・移民者や国連難民高等弁務官の要請により、ベトナムからの「ボート・ピープル」を受け入れるための特別プログラムも組織された。
①ベトナム共和国(ベトナムきょうわこくRepublic of Vietnam、ベトナム語:Việt Nam Cộng Hòa / 越南共和、フランス語: République du Viêt-NamРеспублика Вьетнамは、1955年から1975年までベトナム南部に存在した国家であるSouth Vietnam南ベトナムЮжный Вьетнам②南ベトナム共和国(みなみベトナムきょうわこく、ベトナム語:Cộng hòa Miền Nam Việt Nam / 共和沔南越南The Provisional Revolutionary Government of the Republic of South Vietnam (PRG)Тимчасовий революційний уряд Республіки Південний В'єтнам は、南ベトナムに存在していた社会主義国家。ベトナム共和国に対抗する国家としてベトナム戦争下の1969年に樹立され、1975年のサイゴン陥落後は名目的に南ベトナム全域を統治していた。ベトナム民主共和国(北ベトナム)の傀儡国家とされており、北ベトナムによる併合によって1976年に消滅した③ボートピープル(英語: boat peopleThuyền nhânとは、紛争・圧政などの下にある地から、漁船やヨットなどの小船に乗り、難民(経済・政治)となって外国へ逃げ出した人々である。

④Vietnamese Canadians (Vietnamese: Người Canada gốc Việt越南裔加拿大人; French: Canadiens vietnamiens) are Canadian citizens of Vietnamese ancestry. As of 2016, there are 240,615 Vietnamese Canadians, most of whom reside in the provinces of Ontario, British Columbia, Alberta, and Quebec.
こうした施設の設置により、カナダは1978年末までに約一万人の難民をベトナム、ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວラオスLao People's Democratic Republic ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជាカンボジアRoyaume du Cambodgeから受け入れた。新移民法はとくに難民のためのクォーター・システムも取り入れられた。1979年には8000人のインドシナ難民の政府側による受け入れに加えて、民間団体も約4000人の難民受け入れのスポンサーになった。それでもまだ少なすぎるとの世論に押されて、1980年夏、カナダはインドシナからの難民受け入れ数を五万人に拡大した。
この声明は、ジュネーブで難民に関する国連会議が開催される直前に発表されたもので、難民受け入れに対する国際的環境づくりに寄与したのみならず、カナダがこの分野で主導権を握ろうとした意気込みもうかがえる。1980年末までにトルドー政府はすでに約六万人のインドシナ難民を、それ以後も毎年一万人のインドシナ難民を受け入れてきた。
(3)核軍縮の促進をめざして
米・ソの戦略核戦力(ICBM、SLBM(潜水艦発射型弾道ミサイルSubmarine-launched ballistic missile)、Strategic bomber戦略爆撃機Стратегический бомбардировщик)は、相手の本土をすっぽり攻撃圏内に収めている。その戦略対抗図では、「北極上空こそ米・ソ戦略上の第一線である」という(防衛庁防衛研修所の福島康人氏言)。換言すれば、カナダの上空が米・ソ核戦略の第一線ということになる。
アメリカのこの戦略をより効果的に推進するため、すでに1980年、ジミー・カーターJames Earl "Jimmy" Carter, Jr.政権の時代から、巡航ミサイル実験をカナダで行いたい旨要請していた。カナダは三年間その返答を留保してきた。ところが83年に入って米・ソの核対決はいよいよ熾烈をきわめ、ソ連はSS20«ПионерРСД-10»RSD-10 Pioneer)を東欧に、アメリカはPershing IIパーシングIIMGM-31や巡航ミサイルCruise missile等の中距離ミサイルを西欧に配備することに取りかかった。これに伴い、NATO諸国ーことにイギリス、フランス、西ドイツーからの圧力も次第に強化され、1983年7月15日、ついにカナダはアメリカの中入れを受諾した。
カナダは核兵器を保持せず、優れた原子炉(CANDU)と技術、それに豊富なウラン資源を有しながら核兵器を製造しないことを「国是」としてきた。それのみならず、原子力の平和利用に関しても世界で最も厳しい安全措置Safeguardの原則を採用し、核軍縮促進運動でも最先端にあった。
CANDURéacteur CANDU(英語: CANDU reactor)とは、中性子の減速及び燃料の冷却に、主に重水を使用することを特徴とする原子炉のことである。減速材に重水を使用することから重水炉に分類される。CANDUとはCanadian deuterium uraniumの略である。
そのカナダがアメリカの巡航ミサイル実験に合意したことは、たとえ「事前協議」と「両国政府がその結果、合意に達した時にのみ実験を許可する」との条件を付したとしても、従来の核兵器に対する基本方針にもとるものである。トルドー首相としては、西側陣営の一員として四囲の状況によって、いわば超大国や大国にねじ伏せられた格好であった。
そうしたこともあって両首相は、カナダとしてはこの危機をどう乗り切るべきか、外相、国防相、それに「ベスト・アンド・ブライテストThe Best and Brightest」たちを結集した特別委員会を組織した。
トルドー首相は同委員会が打ち出した20項目のうち、次の五綱領を採択し、それを引っ提げて、10月下旬から核軍縮のための世界行脚に出掛けた。その綱領とは、①核軍縮のために核保有五ヶ国会議を開催すること、②核不拡散条約を強化し、その成果を1985年に吟味すること、③84年1月開催予定のヨーロッパ安全保障会議を事務レベルのものから東西両陣営とも外相会談に格上げすること、④ヨーロッパにおける通常兵器の相互均衡削減のための政治交渉を推進すること、⑤対衛星攻撃兵器開発禁止を含むあらゆる新型兵器の開発を全面的に停止すること、である。
トルドーは西欧諸国の指導者との会見を皮切りに、日本、গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশバングラディシュPeople's Republic of Bangladeshを訪問し、11月下旬にはभारत गणराज्यインドRepublic of Indiaで開催された「英連邦諸国会議」の47ヶ国代表を前に核軍縮の急務を訴え、ついで北京に飛び、12月15日にはロナルド・レーガン大統領と会談した。レーガンには「力による対決を避け」、ソ連との「対話Communication」を増大する必要を説き、そのためにレーガン・アンドロポフ両巨頭会談を持つよう提唱した。

Ю́рий Влади́мирович Андро́повアンドロポフYurii Vladimirovich Andropov書記長には病気のため会えなかったが、ソ連の新指導者となったКонстанти́н Усти́нович Черне́нкоチェルネンコKonstantin Ustinovich Chernenkoとは84年2月15日に会見した。またデクエヤルJavier Felipe Ricardo Pérez de Cuéllar de la Guerra国連事務総長に対しては「核保有五ヶ国会議」を主催するよう強く要請した。その後、トルドー首相は東欧諸国を歴訪し、東独とは軍縮委員会を設立する合意に達した。
延べ数ヶ月にわたったトルドーの「平和ミッション」がどの程度の実績をあげたか定かでない。だがオランダ、ベルギー、DanmarkデンマークDenmark、スイス、チェコスロバキア、東独の指導者たちはトルドーの主張に共感を示した。また中国の赵紫阳趙紫陽Zhao Ziyang首相は、「もしイギリスとフランスが賛同するなら、核保有五ヶ国会議に参加してもよい」と返答したという。
レーガン大統領はトルドー首相との会談後、明らかに対ソ批判の語調を和らげた。しかしこれは主に選挙対策と、実際西欧に中距離ミサイルが配備され、「劣勢」を気にしなくてもよくなったためである。だがカナダ人の85%はトルドーの「平和ミッション」を支持し、彼らの多くはトルドーがレーガンに何らかの影響を与えたものと信じている。
トルドー首相は初期の『外交白書』で、世界中を飛びまわる「助っ人役」はしないと断言しておきながら、「南北サミット」の場合といい、「平和ミッション」の場合といい、結局は「中間国」としての伝統的カナダ外交を継承することになった。また、国連の平和維持活動も取止めはしなかった。
1975年9月現在、国連平和維持軍は8673名の兵士によって編制されていたが、そのうち1547名はカナダ人で、依然として圧倒的多数を誇っていた。カナダ外交史研究家のぺイトン・ライアンRyan Payton教授は、「国連での平和維持活動は、もはや動かしがたいカナディアン・アイデンティティCanadian identityになった」と述べている。トルドーの個人主義は国家を超越して「地球社会Global Society」の概念に通じるところがあるが、それはピアソンの国際主義の延長線上にあると解釈することもできる。

7 世界平和のために
1984年7月18日、首相就任が確定していたロンギDavid Russell Lange・ニュージーランド労働党党首は、アメリカの核艦船寄港を拒絶した。そのためアメリカは、向後六ヶ月間に核艦船をニュージーランドに派遣する予定はないと言明せざるを得なかった。カナダも、ピアソン政権時代にアメリカから押しつけられた若干の核兵器をトルドー時代になって全部撤去してしまった。
確かにいま、東西両陣営とも中・小諸国の自立志向は以前にも増して高まっている(それに非同盟中立を堅持しようとしている国家も多数ある)。その自立志向は、両超大国による”核のホロコーストNuclear holocaust”をなんとかして回避したいとの中・小諸国民の祈念と彼らの政治意識の覚醒に根ざしている。そしてそれらの国々はまたそれぞれに、独自のアイデンティティを追求しようとしているのである。
いまこそ中・小諸国(日本は経済大国だが)は超大国への従属の絆を断ち切って、真のアイデンティティを確立すべきである。世界平和構築への方途は、そのように本当の意味で”独立”した中・小諸国が連帯し、超大国の横暴に抵抗し、各国の独自性を最大限に発揮して、人類の福祉増進のために、カナダ外交がモットーとしてきたように、機能的に貢献していくことである。と同時に、われわれ個々人は、いまや国家を超越して、「地球共同体Global community」にアイデンティティを求むべき時期にさしかかっていることも忘れてはなるまい。
〔追記〕
M・ブライアン・マルルーニー進歩保守党政権(1984年9月17日ー)は、ケベック州をカナダ連邦の枠内にとどめて置くという内政の難問解決に専念し(第3章参照)、外交面ではまだあまり目立った展開を示していない。ただし、対米関係の緊密化を重視していることは注目に値する。これは、同政権の経済外交の表象である。

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