日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕⑩


①Japan's Emergence as a Modern State: Political and Economic Problems of the Meiji Period, International Secretariat of the Institute of Pacific Relations, 1940②Françaisフランス語→Andō Shōeki (安藤昌益Андо Сёэки) est un médecin philosophe (maître-confucéen) japonais né à Niida (faubourg de l’actuelle ville d’Ōdate, dans la préfecture d'Akita) en 1703 (an 16 de l'ère Genroku) et mort au même endroit le 29 novembre 1762 (an 12 de l'ère Hōreki).

在日カナダ代表部の初代首席は、安藤昌益の研究や『日本における近代国家の成立』等の著作で高名なE・ハーバート・ノーマン(在1946-50年)であった。彼はカナダ・メソジスト宣教師の二男として、長野で生れ育った。日本の文化的伝統をよく理解し、歴史を研究するノーマンは、新日本が民主的平和国家として立ち直ることを念願した。彼は豊富な知識をもつ日本専門家として、マッカーサーがもっとも信頼した数少ない相談役の一人であり、GHQの占領行政のうち、とくに民主教育、農地改革、労働運動の合法化にはノーマンの影響があったとみられている。

①エドガートン・ハーバート・ノーマン (Edgerton Herbert Norman、1909年9月1日長野県軽井沢町生まれBorn and raised in Karuizawa, Japan - 1957年4月4日)は、カナダの外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。ソ連のスパイの疑いをかけられ自殺した。
けれども彼は、日本の文化的伝統の秀れた部分まですべて破壊して、日本を完全に”アメリカ化”することには反対であった。一国の政治・文化・社会形態は一夜にして改変できるものではなく、そんな試みは長い歴史的見地からすれば必ず失敗する、というのが歴史家ノーマンの持論であった。彼がカナダ代表部首席として強調した対日政策は、「歴史性」と「国民の総意の尊重」ということであった。カナダ外交筋でも甚大な信頼を得ていたノーマンのこの主張は、そのままカナダ政府の対日基本方針として採り入れられ、極東委員会にも反映していた。
ノーマンの民意尊重の態度は、憲法改正問題にもっとも端的に表われている。新憲法が制定されて数ヵ月後、極東委員会は憲法審査の権限にもとづき、新憲法改正の是非を討議した。これを知ったノーマンは、新憲法の民主的性格擁護のためと、それを日本の土壌に定着させるため、この動きに断固反対した。彼はさっそくその意向をオタワに打電し、カナダ政府はそれを同委員会メンバー国に伝達した。最初にイギリス、次いでオランダ、ニュージーランド等がこのカナダ提案に同意し、ついに極東委員会での新憲法改正論はそのまま立消えになってしまった。ノーマンがピアソン外相に宛てたこの電報には、憲法改正はあくまで日本国民の総意にもとづいてなされるべきであることが強調されていた。
この他ノーマンは、市川房枝(Deutschドイツ語→Ichikawa Fusae (japanisch 市川 房枝; geboren am 15. Mai 1893 in Meichi, (heute: Ichinomiya), Präfektur Aichi愛知県出身; gestorben am 11. Februar 1981) war eine japanische Feministin und Politikerin)、犬養健(Takeru Inukai (犬養 健, Inukai Takeru, 28 July 1896東京都出身 – 28 August 1960) was a Japanese politician and novelist active in Shōwa period Japan. Also known as "Inukai Ken", he was the third son of Prime Minister of Japan Inukai Tsuyoshi首相在任中に暗殺された犬養毅の三男にあたる、河上丈太郎(Deutschドイツ語→Kawakami Jōtarō (japanisch 河上 丈太郎; geboren 3. Januar 1889 in Tokio東京都出身; gestorben 3. Dezember 1965) war ein japanischer Politiker)らを公職追放のリストから除去するようSCAPに懇請し、戦犯となった重光葵(Mamoru Shigemitsu (重光 葵, Shigemitsu Mamoru, July 29, 1887大分県豊後大野市出身 – January 26, 1957) was a Japanese diplomat who served as Minister of Foreign Affairs three times during and after World War II and as Deputy Prime Minister)や東郷茂徳(Françaisフランス語→Shigenori Tōgō (東郷茂徳, Tōgō Shigenori?), né le 10 décembre 1882 à Hioki dans la préfecture de Kagoshima鹿児島県日置市出身 au Japon et décédé en prison de la cholécystite à l'âge de 67 ans le 23 juillet 1950 à Tokyo, est un diplomate et homme politique japonais qui fut ministre des Affaires étrangères)に関しては、その減刑を要請した親書をマッカーサー元帥に送ったりした。このようにノーマンは、日本の民主的指導者(とノーマンが思った人たち)を占領行政の不当な圧迫から擁護することにも努力したのである。
*Françaisフランス語→La purge公职追放 durant l'occupation du Japon désigne l'interdiction faite à des personnalités japonaises de s'engager dans le service public, par ordre du commandant suprême des forces alliées (CSFA) après la défaite du pays à l'issue de la Seconde Guerre mondiale. Elle se termine avec l'indépendance du Japon en 1952.
1947年3月17日、マッカーサー元帥は外人記者会見で、対日講和条約を結んで日本の軍事占領を早期終結したい意向を明らかにした。次いで同年7月11日、アメリカの国務省は極東委員会の全構成国を招いて、8月19日に対日講和のための予備会議を開きたい旨通達した。

当時、講和問題が予想以上に早く日程にのぼるようになったのは、①米・ソ対立がしだいに激しくなってきたこと、②占領費が嵩むにしたがってアメリカ納税者の非難が高まってきたこと、③SCAPが長期占領は日本の自立を遅らせ、さらに国民感情も刺激して、むしろ逆効果になると判断しはじめたこと、そして第四に重要な理由は、カナダとイギリスが早期講和を要請していたからである。しかし、アメリカ国務総省は時期尚早を唱えており、アメリカ政府としても、具体的にはいつごろ講和条約を締結すべきかのめどは立てかねていた。その後49年ごろから、アメリカが真剣に講和を急ぐようになったのは、中国情勢→中国革命成功と朝鮮戦争勃発のためであった。

①中国共产主义革命Chinese Communist Revolution第二次国共内战, 中国共产党在1949年中国内战最后阶段的胜利

②The Korean WarGuerre de Corée(also known by other names such as the "625 War")6.25 전쟁六二五戰爭
Корейская война韩战/朝鲜战争was fought between North Korea and South Korea from 1950 to 1953.
それにもかかわらず、すでに47年の段階で、カナダが日本占領の早期終結を希望していたのには、おもに二つの理由があった。その一つは、軍事占領が続くかぎり日本に対するアメリカの圧倒的支配は免れず、それだけカナダの対日関係は大きな制限を受けること、第二には、自立した日本と早く貿易を促進したいという願望をカナダが持っていたからであった。
この二つの理由はともに、至極重要な含蓄を有している。すなわち、カナダの”アメリカ離れ”が政策としてはっきり形をとる(ただし、「反米路線」とか「離反」というのではない)のは、トルドー政権になってからであるが、すでのこの時点で、カナダは日本ーひいては太平洋圏ーへのアメリカの独占的支配を歓迎しておらず、カナダもそうした地域へ進出していく気構えが見られること。それは、カナダが将来の「環太平洋構想Pacific Lime」と”アメリカ離れ”へ向かって一歩前進したことを意味するものである。さらに、外交政策、とくに対日関係で、積極的に貿易を前面に打ち出してきたことも注目に値する。両者はともに戦後のカナダ外交に見られる新しい現象であり、そこには、貿易国として飛躍しようとするカナダの新しい国家目標とナショナリズム(対米意識を含む)の胎動が顕現している。
このことは、対日講和問題を討議するためイギリス連邦諸国間で開催されたキャンベラ会議Canberra conference(1947年8月26日ー9月2日)でのカナダ代表の言動にも裏づけられている。クラックストン代表は、カナダは対日講和条約締結に大いに関心がある。それはカナダが太平洋に面する国家(戦前のヨーロッパ・アメリカ中心外交に比べて、カナダを「パシフィック・パワーPacific Power」と位置づけたことは目新しく、しかも「パシフィック」とは平和を愛するという意味も兼ねている)であり、世界第3位の貿易国であるからである。カナダはそうした意味から、極東における政治的・経済的安定の再建を顧みるものである、と発言している。さらにクラックストンは、「個々人間におけると同様、国家間においても平等に基づき、自由な空気のなかで善意の交換がなされるような確固とした躍動的な〔対日〕平和が樹立されなければならない」とも主張している。
なお、対日講和をめぐる米・ソ間の争点であった手続き問題に関しては、カナダはアメリカを支持して、「拒否権なしの三分の二の多数決による決定」には賛成、ソ連提案の「米・英・ソ・中の四国外相会議開催」には反対の態度をとった。ただし、カナダはアメリカ方針に全面的に同調したのではなく、ソ連抜きの対日講和条約の締結には、この時点(47年秋)では反対であった。
また、カナダはアメリカとともにーオーストラリアやニュージーランドとは違ってー日本が講和を目指して復興していくことを歓迎したが、アメリカとはその意図するところを異にしていた。アメリカが日本の保守政権を擁護し、日本に反共陣営を作るための軍事力の育成を望んだのに対し、カナダは日本に平和産業の復興に基づく貿易の振興を期待していた。付記しておきたいことは、次項で述べるように、カナダはけっして反共でなかったのではない。ただ、日本と軍事同盟を結んで、東アジアに反共陣営固めをするような意図と能力と必要性を持たなかっただけのことである。

(3)友好関係の展開
1951年9月8日、講和条約の調印がなされて、日加間に正式国交回復が成立した。翌年の4月、在日カナダ公使館は大使館に昇格、アーサー・メンジスが代理大使となり、同時に在オタワ日本公使館も大使館に昇格して、前外務次官井口貞夫(Sadao Iguchi (井口 貞夫, 1899和歌山県出身 – May 27, 1980) was a Japanese diplomat who served as ambassador to Canada and ambassador to the United States)が大使として赴任した(6月)。トルドー内閣が誕生するまで、カナダの政権はサンローラン内閣からディーフェンベーカー進歩保守党内閣(1957-63年)そしてピアソン自由党内閣(1963-68年)へと移行した。その間、日加関係はなんら複雑な政治問題がないまま、友好裡に発展していった。両国関係がしだいに緊密の度合を増したことは、第3表「日加両国歴代首相訪加・来日首脳会談一覧」からもうかがえよう。
このほか、53年には日本の皇太子(Українськаウクライナ語→Акіхі́то (яп. 明仁, あきひと, 23 грудня 1933) — 125-й Імператор Японії (7 січня 1989 — 30 квітня 2019), синтоїстське божество)がオタワを訪問、カナダの漁業相ジェームズ・シンクレヤ(James Sinclair, PC (May 26, 1908 – February 7, 1984) was a Canadian politician and businessman)が日加漁業協定のため訪日、54年6月、岡崎外相(Deutschドイツ語→Okazaki Katsuo (japanisch 岡崎 勝男; geboren 10. Juli 1897 in Yokohama (Präfektur Kanagawa神奈川県出身); gestorben 10. Oktober 1965 in Tokio) war ein japanischer Diplomat und Politiker)とロバート・メイヒュー(Robert Wellington Mayhew, PC (October 13, 1880 – July 28, 1971) was a Canadian politician and diplomat)・カナダ大使との間に『日加通商協定』締結。59年には「日加航空協定」が成立し、河野農相(Deutschドイツ語→Kōno Ichirō (japanisch 河野 一郎; geboren 2. Juni 1898 in Odawara (Präfektur Kanagawa神奈川県出身); gestorben 8. Juli 1965) war ein japanischer Politiker)が訪加、つづいて59年藤山外相(Deutschドイツ語→Fujiyama Aiichirō (japanisch 藤山 愛一郎; * 22. Mai 1897 in Tokio, Präfektur Tokio東京都出身; † 2. Februar 1985) war ein japanischer Politiker (LDP, Fujiyama-Faktion) und Geschäftsmann)、翌年佐藤蔵相(Русскийロシア語⇒Эйсаку Сато (яп. 佐藤 榮作 Сато: Эйсаку, 27 марта 1901, префектура Ямагути山口県出身 — 3 июня 1975, Токио) — японский политический и государственный деятель)、そして60年1月岸首相(Lietuviųリトアニア語→Nobusukė Kiši (jap. 岸 信介 = Kishi Nobusuke, 1896 m. lapkričio 13 d山口県出身. – 1987 m. rugpjūčio 7 d.) – Japonijos politikas)とともに藤山外相、10月小坂外相(Zentarō Kosaka (小坂 善太郎, Kosaka Zentarō, 23 January 1912長野県出身 – 26 November 2000) was a Japanese politician)が訪加した。同年7月には「日加原子力平和利用協定」も発足している。61年には池田首相(Polskiポーランド語→Hayato Ikeda (jap. 池田 勇人 Ikeda Hayato; ur. 3 grudnia 1899 w Yoshina (dzisiejsza Takehara)広島県出身, zm. 13 sierpnia 1965) – japoński polityk, premier Japonii.)、小坂外相が訪加して「日加共同声明」が発表され、その秋にはディーフェンベーカー首相が返礼訪日して、ふたたび「日加共同声明」が発表された(10月31日)。翌年11月には三木外相(Françaisフランス語→Takeo Miki (三木 武夫, Miki Takeo?) est un homme d'État japonais né le 17 mars 1907 à Awa (préfecture de Tokushima徳島県出身) et mort le 4 novembre 1988 à Tokyo)が引き続いて訪加、そして63年1月には前記「共同声明」にもとづいて第1回日加閣僚会議が東京で開催された。
池田・ディーフェンベーカー両首相間になされた第1回「共同声明」(6月26日)では、「アジア低開発諸国との経済協力の重要性」「国連における日加両国代表団が引続き協力」すること、さらに「重要度を加えつつある日加関係にかんがみ、日加閣僚委員会を設けること」等で両者間に意見の一致をみた。同声明中、日加貿易に関しては、「池田首相は、・・・カナダ生産品と競争的な日本商品については、秩序ある輸出の原則を再確認し、これに対しディーフェンベーカー首相は、カナダ政府は両国間の双方にとり利益とする貿易が引続き拡大してゆくことを期待していること」を確認した。
この会談でもやはり貿易問題がいちばん重要課題になっていたことは事実で、約束された日加閣僚委員会では、「両国閣僚が随時互いに訪問して、とくに経済の分野で共通の利害ある事項について意見の交換を行なう」ことが強調された。両会談で池田勇人首相の招待に応えて、10月にディーフェンベーカー首相が国賓として来日し、ふたたび「共同声明」が発表された(10月31日)。(傍点筆者)。
この間における日本の重大な外交目標は、国際社会に尊敬されるメンバーとして再登場することであったが、カナダはその日本の希望を実現するため、いろいろなかたちで側面からの援助を惜しまなかった。たとえば、1954年10月にオタワで開催された「コロンボ計画委員会」では、カナダの動議で日本の加盟が決定し、56年12月18日には、日本はカナダ、アメリカの支持推挙を得てOrganisation des Nations unies国際連合Организация Объединённых Нацийに加盟することになった。さらに1955年のGATTに加入、63年のOECE加入等に関しても、カナダは常に積極的に日本を支持した。
このように日本の国際的地位がしだいに向上し、国力が充実していくにしたがい、日本とカナダはたんに貿易問題にとどまらず、広く国際情勢一般に関して、平等の立場で、頻繁に意見交換を行うようになった。たとえば、第二回「池田・ディーフェンベーカー共同声明」は、ドイツおよびベルリンを含む国際情勢、中国、東南アジアおよび極東における一般情勢、国際経済の推移、とくに欧州経済共同体および経済協力開発機構を含む地域的グループ化の問題などに関して、両首相が討議したと発表している。
「両国首相は、核実験に関するソビエト政府の態度と行動に対する烈しい批難をともにした。・・・両者は、もしこれらの不当な実験が継続されるならば、国際緊張が著しく悪化し、世界の人々の将来の健康と安全が危険にさらされる旨意見の一致をみた。
両国首相は、すべての核爆発実験が直ちに停止され、かかる実験が実効的な国際査察の制度によって、永久に禁止されるような条約締結の話合いが早期に再開されることが必要である旨を国際連合およびその他の場において引続き強く要請することに合意した。両者は、また、完全軍縮に関する国際協定を締結するための話合いが再開されることが緊要である旨完全に意見の一致をみた」
と公表した。
このように緊密な交流を通じて、日加間に友好的気運がもりあがる折から、1967年7月にはカナダ建国100年祭およびモントリオール万国博が催され、それに高松宮(Nobuhito, Prince Takamatsu (高松宮宣仁親王, Takamatsu-no-miya Nobuhito Shinnō, 3 January 1905 – 3 February 1987) was the third son of Emperor Taishō (Yoshihito) and Empress Teimei (Sadako) and a younger brother of Emperor Shōwa (Hirohito))・同妃(Françaisフランス語→Son Altesse impériale la princesse Takamatsu (Kikuko) du Japon (宣仁親王妃喜久子, Nobuhito Shinnō-hi Kikuko, 26 décembre 1911 - 18 décembre 2004), plus connue sous l'appellation princesse Kikuko, est un membre de la famille impériale japonaise)両殿下が天皇の名代として出席し、日加友好関係に華を添えることとなった。また、同年には万国博見物をかねて、多数の要人を含む約1万9000名もの日本人がカナダを訪れ、日本のカナダ認識を高めることに寄与した。
(4)日加貿易の進展
戦後の日加関係を一貫して支えてきた強力な柱は、両国の相互貿易促進への期待であった。これに対するカナダ側の態度は占領期から明らかにされており、日本側でも、1954年、吉田茂(Беларускаяベラルーシ語→Сігэру Ёсіда (22 верасня 1878, Токіа, Японія東京都出身 — 20 кастрычніка 1967) — японскі палітык, прэм'ер-міністр Японіі)首相がカナダを訪問する理由として、「カナダは無限の資源を擁しているというだけでなく、わが国にとってはもっとも信頼できる友邦の一つであり、将来わが貿易の相手国としても大いに重視せねばならないからだ」と言明している。実際、日加通商協定が締結された1954年当時の日加貿易はカナダ政府公表によると、輸出入あわせて1億1500万ドル程度にすぎなかったが、その後10年を経て1964年度には4億ドル以上に増大している。第4表はカナダのそうした対日貿易の発展を示すものである。
1958年には、日加経済提携の最初の試みである鉄鉱石の長期買付けを見返りとする設備資金の貸付契約(融資買鉱方式)が成立し、1964年には、いわゆる「稲山ミッションInayama Mission(Deutschドイツ語→Inayama Yoshihiro (japanisch 稲山 嘉寛; geboren 2. Januar 1904 in Tokio東京都出身; gestorben 9. Oktober 1987) war ein japanischer Unternehmer)がカナダを訪れて、日加経済関係のいっそうの進展と貿易の拡大を図った。1958年以降、トルドー政権に至る1968年までの日加貿易の推移は第5表のとおりである。

なお、この間、日本の経済発展にともない、対加輸出品目にもおのずから変化がみられる。64年当時の日本からカナダへの主な輸出品は、繊維品、雑貨類、金属製品で、機械類は全体の20%以下であった。時の駐加大使島津久大(在1964-66年Hisanaga Shimazu島津 久大 ( May 24, 1906東京都出身 - December 9 , 1990) was a Japanese diplomat . He is the first Guest House Director)も、「今後日本経済の発展に伴い、・・・日本側として対加輸出の振興に一段と努力すべきであるが、この場合、・・・とくに日本の進出が遅れている機械類、化学製品のウエイトを逐次増加〔するよう〕・・・積極的な方策が必要と思われる・・・」との意見を外務大臣に具申していた。ところが、その後、日本の対加輸出は自動車、テレビ、ラジオ、通信機器等の機械部門が増大し、71年には全体の約二分の一を占めるようになった。

*Françaisフランス語→Les Relations entre le Canada et le Japon加日關係Canada–Japan relations日加関係 désignent les relations internationales entre le Canada et le Japon. Les deux pays jouissent d'une entente amicale dans beaucoup de secteurs ; Les relations diplomatiques entre les deux pays ont officiellement débuté en 1950 par l'ouverture du consulat japonais à Ottawa. En 1929, le Canada a ouvert sa légation à Tokyo, la première en Asie ; et la même année, le consulat du Japon à Ottawa a formé une légation. Créée en 1929, la mission du Canada au Japon est la plus ancienne mission du Canada en Asie et la troisième mission non-Commonwealth la plus ancienne après celles des États-Unis et de la France. Le Canada a une ambassade à Tokyo et un consulat à Nagoya. Le Japon a une ambassade à Ottawa et quatre consulats généraux - à Calgary, à Montréal, à Toronto et à Vancouver. Les deux pays sont membres à part entière du G8, de l'OCDE et de l'APEC.
4 戦後史(2)(1968年春以降)
(1)戦後の日加関係の変遷
トルドー政権に入って(1968年4月)、日加関係は一つの「新段階」にさしかかったと前述したが、それを知るためには、それまでの戦後日加関係史の変遷の概略を把握しておかねばならない。
占領ー講和期におけるカナダの対日態度は”寛大”であったが、積極的に”親日”というほどではなかった。たしかに、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド等の連合国と比較すれば、カナダ外交はより親日的であったといえる。しかし、それは、①知日家ノーマンや国際的外交官ピアソンの極東委員会での調停役としての個人的影響、②大戦中、カナダは日本から苦い経験をこうむることが少なく、したがって敗戦した日本に対して報復手段的な態度をとる必要をあまり感じなかったこと、③当時のカナダの対日関心はあくまで二次的なものであり、②の事項とも関連して、対日管理に対してある程度超然としていられたことーそのことはカナダが連合国間の調停役をとり得た一要因ともなっているー、等の事実に負うところが大きかった。
これに比べて国交回復後の日加間には、より緊密な友好関係の発展がみられるとともに、両国はしだいに「イコール・パートナー」として、核実験、軍縮、東西緊張その他の国際問題解決のために協調する姿勢(第二回「池田・ディーフェンベーカー共同声明」)をとるようになった。これには、冷戦という国際環境の変化、その状況下におけるカナダの国際的役割認識の増大、日本の国際的地位向上がおもな要因として作用していた。
この間のカナダ外交の基本路線は、反共、集団安全保障体制の確立、それに国連中心主義であった。日本のコロンボ・プラン、国連、あるいはGATT加盟等に関してカナダが支援したのは、終戦直後から継続している対日貿易振興への期待や頻繁化した日加交流に基づく好日感情もさることながら、右に述べたカナダの外交基本方針の枠組から、西側陣営における日本擁立の意図をもって割り出されるものであるとするのが妥当であろう。
(2)「新段階」に入った日加関係
トルドー内閣になってから、日加交流・貿易はますます盛んになった。1969年4月には第五回日加閣僚委員会が東京で開催され、70年5月には大阪万博のカナダ・デー出席を兼ねてトルドー首相が来日し、71年には7月に日本の経済使節団、8月に船田衆議院議長を団長とする国会議員団、9月には福田外相(Русскийロシア語→Фукуда Такэо (яп. 福田 赳夫 Такэо Фукуда, 14 января 1905群馬県出身 — 5 июля 1995) — политический и государственный деятель, а также премьер-министр Японии)、水田蔵相(Françaisフランス語→Mikio Mizuta (水田 三喜男, Mizuta Mikio?) est un homme politique japonais né le 13 avril 1905千葉県出身 et mort le 22 décembre 1976)、田中通産相(Deutschドイツ語→Tanaka Kakuei (japanisch 田中 角榮; * 4. Mai 1918 in Nishiyama新潟県出身, Präfektur Niigata; † 16. Dezember 1993 in Shinjuku, Präfektur Tokio) war japanischer Politiker)、赤城農相(Munemori Akagi (赤城 宗徳, Akagi Munemori, December 2, 1904茨城県出身 – November 11, 1993) was a Japanese politician and historian)、木村経済企画庁長官(Deutschドイツ語→Kimura Toshio (jap. 木村 俊夫; * 15. Januar 1909 in Tōin, Präfektur Mie三重県出身; † 1. Dezember 1983 in Tokio) war ein japanischer Politiker der Liberaldemokratischen Partei (Jiyūminshutō), der unter anderem 1974 Außenminister war)の五閣僚が訪加し、カナダからは7月、トルドー首相のライバルであるスタンフォード進歩保守党党員(Stanley Stanford Schumacher QC (12 June 1933 – 10 October 2020) was a politician from Alberta, Canada)、9月グリーン資源相(John James "Joe" Greene, DFC PC QC (June 24, 1920 – October 23, 1978) was a Canadian politician)を団長とするカナダ原子力関係使節団、12月のラング小麦担当相(Otto Emil Lang, PC OC KC (born May 14, 1932) is a Canadian lawyer and former politician)の来日、等々から1976年4月、ルノー・ラポワンチ下院議長(Françaisフランス語→Renaude Lapointe, née le 3 janvier 1912 à Disraeli et morte le 11 mai 2002, est une journaliste et femme d'État canadienne)を含むカナダ議員団一行の来日(カナダの両院議長がそろって一国を訪問したのはこれが初めて)、そして10月のトルドー首相の再来日に至るまで、日加要人の交流はほとんど枚挙にいとまがないほどである。
貿易面では1964-74年の10年間に、カナダの対日輸出は6・7倍、対日輸入は8・2倍に成長した(第6表参照)。72年には輸入で、その翌年には輸出でも日本はイギリスを抜いて、カナダにとって第二に重要な貿易相手国へと上昇した。日本の輸出品目でも1974年には機械類が全体の65%、鋼材が約20%を占め、50、60年代にみられた消費材中心の対加輸出とは大きくその様相を異にするようになってきた。しかし、トルドー政権下の日加関係で重要なことは、そうした量的拡大よりも質的変化である。すなわち、カナダは日本をECと並んで最重要視するに至ったことである。それはカナダ外交史にはいまだかつて見られなかった現象であった。これはある意味では、量的拡大ー日加間貿易および友好関係の増進ーが質的変化をもたらしたとみなすこともできる。しかし同時に、そこにはさまざまな新しい要素も作用していた。
カナダ外交史を通観するとき、三つの大きな転換点が認められる。戦前の対英依存ないしは大英帝国とアメリカ合衆国の「輪止め」的存在から、戦後の集団安全保障体制下(NATO、NORAD等)での対米協調ないしは依存、そしてトルドー内閣になってからの「自主独立」外交の模索である。
この場合「自主独立」とは、とくに対米関係でそれ以上、政治的、経済的、文化的に統合されるのを避けることを意味した。この方針は、1972年10月の『外交白書』で、「第三の選択」というかたちをとって、はっきり政策として打ち出されることになった。それによると、カナダの対米政策には三つの選択がある。①現状維持、②アメリカとの統合をさらに促進し、一種の大陸主義をとること、③カナダの自主独立の強化、である。このうち、カナダとしては今後、第三の道を歩むのが至当であると結論づけた。この方針決定をみるに至った背景には、①冷戦→緊張緩和・多極化時代の到来という国際環境の変化、②トルドー首相のフランス系カナダ人としての外交ビジョン、③”アメリカ化”を防止しようとするカナダ国民のニュー・ナショナリズム、④そのニュー・ナショナリズムに基づくカナディアン・アイデンティティの模索、⑤日本・中国を含む太平洋地域への関心度の増大、等の要因が躍動していた。
このうち日本にとってとくに重要なのは第⑤の要素である。カナダは自国を太平洋地域の国家として位置づけるようになっており、そのことはすでに大阪万博のカナダ・デーでトルドー首相が、「カナダ国民は太平洋地域を”Far East”としてではなく”Our New West”として再認識すべきである」と強調したことからも明らかであり、1970年の『外交白書』でもその一篇を「太平洋」にあてている。この方針は中国承認交渉→両国間の国交樹立(70年秋)や太平洋地域にある開発途上諸国への積極的な援助等にも表れているが、なんといってもその機軸は対日関係であった。
カナダの「第三の選択」と「環太平洋外交」は表裏の関係にあり、「第三の選択」を実現するために環太平洋諸国、とくに日本との関係を強化し、逆に、日加間の貿易および友好関係の飛躍的進展や中国承認が、多元的国際関係の台頭ともあいまって、「第三の選択」を生み出す一つの誘発剤ともなった。1974年9月に発表された「田中・トルドー共同声明」や、1976年10月の「日加経済協力大綱」「日加文化協定」「三木・トルドー共同声明」等の一連の動きは、カナダ外交のこうした新しい枠組のなかで把握されなければならない。
田中角栄=ピエール・エリオット・トルドー両首相は、
①日加間の関係が近年緊密の度合いを深め、特に経済・貿易面での交流が着実に拡大していること、両国がさらに政治・経済・文化・科学技術等多岐にわたる分野で協力関係を育成、拡大し、充実したものとすること。
二国間の問題から多数国間の問題および世界各地の広範な問題について討議し、両国政府間で緊密な協議を続けていくこと。
③先進工業民主主義諸国間の協力関係の進展が近年ますます必要となっていることに留意し、日加両国が諸々の国際機関及び国際会議の場で、世界の国々の利益のために、先進工業民主主義諸国間の協力関係をいっそう実りあるものにしていくこと。
④両国首相は、太平洋に面する両国がアジア・太平洋地域の情勢に特に注意を払い、平和と安定を志向する世界の動きのなかで、アジア・太平洋地域が直面している諸問題について引続き緊密な協議を行なっていくこと。
⑤日加貿易経済関係は世界の経済事情と密接に関連しており、日加両国の経済的相互依存関係を深めることは世界経済の情勢に対処することをより容易にすることの認識の下に、両国首相は、より自由で互恵的な日加貿易関係を促進すること。
のほか、核実験停止の強調、国連の重要な役割、世界経済の安定に協力、学術関係(とくに日本におけるカナダ研究とカナダにおける日本研究)促進のためにそれぞれ約100万ドル相当の計画を創設すること、等の事項に関して合意に達したと発表した。
前述したとおり、「日加経済協力大網」と「日加文化協定」は、それによって日加関係の「新段階」が開かれたのではなく、むしろ、トルドー政権下での新しい対日路線の結晶であり、「田中・トルドー共同声明」で合意に達したことの具体化であった。事実、「大網」の大きな三項目のうち、第一項の貿易の発展と多様化、第二項の経済協力の促進はすでに「田中・トルドー共同声明」で合意に達していた。目新しい項目もしくはいっそう強調されるようになった事項として、第三項目の日加合同委員会の設置や、具体的事項として「合弁事業および他の形の協力活動を含む両国産業間の協力」、「資源、加工品および高度技術製品を含む工業製品の開発とマーケティングにおける協力」、「農産物の生産と供給のより大きな安定」等があげられる。
「三木・トルドー共同声明」も基本的には「田中・トルドー共同声明」と大差ない。新しい問題としては、「東南アジア諸国連合の自主性と相互協力」「南北両朝鮮の関係改善」「国際エネルギー問題」等に言及していることである。日加両国間の学術・文化的交流の促進も田中・トルドー会談で確約されていたが、それが両国民間の相互理解を深めるのに肝要であるとして、「協定」のかたちで締結されたことは意味深い。
それでは、1976年のトルドー首相訪日ではなんら新しい発展が認められなかったのか、というとそうではない。少なくともカナダ側からは、そうした働きかけがあった。ただ、日本側が、それに対して消極的な反応しか示さなかっただけのことである。この問題に触れることは現在および将来の日加関係の展望にもかかわるので、まずトルドー政権下の日加関係でなにが、あるいはどこが、従来の日加関係と変わったかに言及した後、将来の日加関係の展望ともあわせて、この問題を考察してみたい。

(3)日加関係の展開
1968年春以降の対日関係で、カナダ外交のどこまでが従来路線の発展で、どこからが「転換」であるかを見極めることは非常に難しい。トルドー首相が唱える「第三の選択」と「環太平洋外交」のなかで、それらの背景となっている「自主外交」路線を支えるカナダのニュー・ナショナリズム、太平洋地域への進出志向、対日関係での経済面ー貿易および経済協力の促進ーの強調、およびカナダの国際的役割認識の萌芽はすでに終戦当初からみられた。その意味では、「第三の選択」と「環太平洋外交」は、それらの傾向の発展線上にある。
「転換」と目される点は、①それがはっきりと「自主外交」-裏返せば一種の”アメリカ離れ”-という形をとったこと、②カナダを太平洋地域に属する国家として明確に位置づけるようになったこと、③日本をカナダ外交の一つの機軸とみなすようになったこと、④経済面以外の政治的・文化的側面でも日加両国の緊密な協力と交流を強調するようになったこと、⑤両国の国際的地位の飛躍的向上と、それに伴う両国の重要な国際的役割と貢献を新たに認識するに至ったこと、である。
①②③の側面については既述したので、ここでは④に関して述べることにする。戦前の日加関係のおもな問題は、宣教・移民・貿易であった。戦後になって、前二者の問題は影を潜め、貿易問題のみが両国関係での圧倒的位置を占めるようになった。ところが第二回「池田・ディーフェンベーカー共同声明」の頃(1961年10月末)から、核実験・軍縮等の日加両国共通関心事についての若干の国際問題解決への協力をカナダが日本に呼びかけるようになった。
トルドー政権になってからは、「田中・トルドー共同声明」にもみられるように、はるかに幅広い国際的諸問題を両国が緊密に協力して、その解決のために積極的かつ自主的に(少なくともカナダ側からはアメリカ依存から脱却して)努力する約束が交されるようになった。そして「三木・トルドー声明」では、その国際的姿勢がさらに発展して、「世界政治」のなかでの日加両国の重要な役割と貢献を認識するに至ったのである。
しかもその効力を発揮するためには、両国はいっそう緊密な協力をせねばならないー従来のように協力して解決にあたろうとするのではないーという新しいニュアンスが加味されることになった。たとえば同声明では、「日加間の友好協力の増進が、たんに両国のみならず国際社会にとっても重要である」とか、「世界の平和と繁栄という人類共通の目標にむかって、より緊密かつ幅広い協力を発展させていくとの両国の揺ぎない決意を確認した」とかの表現がとられるようになった。(傍点筆者)
すなわち、トルドー政権下のカナダは、日本をもはや貿易上の重要な顧客としてだけ見ることを止めにした。冷戦から緊張緩和・多極化時代に入った国際関係においては、カナダは「自主外交」を促進し、「世界政治」と人類の福祉・繁栄を目指す歴史発展のなかで、自己のアイデンティティを確立し、存在証明を求めるために、日本を重要な「パートナー」として考えるようになったのである。したがって、カナダのこの目的志向は、当然、対日関係において、さまざまな政治的・文化的諸問題を引き込まずにはおかなかった。ちなみに、前述の1970年の『外交白書』「太平洋」篇の「日本」の項では、日本はカナダ貿易にとって、この地域の他の諸国よりはるかに重要である、とのみ書かれていた。ところが「三木・トルドー共同声明」では、「先進工業民主主義国として、・・・人類共通の目標にむかって、より緊密かつ幅広い協力を発展させていく」必要性が強調されている。
また、75年度のカナダ外務省『年次報告』では「太平洋」の項目で日本を最初にとりあげ、「カナダが日本に関心を寄せるのは、第一に、両国が民主主義の制度を共有するからであり、ともに太平洋地域志向があるからであり、世界的貿易関係の安定にともに依存しているからであり、そして、すでに有益な商業関係を互恵的かつさらに幅広い経済的パートナーシップへと発展させていく可能性を共有しているからである」となっている。注目に値するのは、民主主義の制度という政治的側面が第一にあげられ、太平洋志向と世界的経済安定への共通関心を述べたのち、最後に二国間の貿易・経済問題に触れていることである。
そこには、戦後おそるおそる国際問題に関与しだしたカナダが、サンローラン→ディーフェンベーカー→ピアソン時代の、ほとんどアメリカだけ(英連邦以外では)とのパートナーシップから脱皮して、国際政治の舞台を闊歩するようになった”成人カナダ”の姿が浮かび上がってくる。同時に、日本も敗戦から立ち上がり、そうしたカナダに頼られるに足る国家へと成長した。事実、日加両国はともに世界の先進国首脳会議に出席(カナダは1975年6月の第二回プエルトリコ会議Puerto rico conferenceから)するほど重要な地位を占めるに至ったのである。
両国関係において、もう一つ重要な発展は、少なくともカナダ側からは、しだいに日本との提携外交を促進していこうとの動きがあることである。「協力して」問題解決に努力するーそこにはまだ恣意的傾向があったーのではなく、「協力することが」両国が国際社会に貢献できる必要条件である、とみなすように大きく認識が変化してきた。協力が必要条件となった以上、両国の相互理解は必然的にその前提とならなければならない。「文化協定」は、そのために締結されたものである。
ところが、日本の対加認識はまだそこまで至っていなかった。本章で何度か、「少なくともカナダ側からは」という挿入句を意識的に使用した理由はそこにある。日加両国関係は、当時、「片思い」の感を免れえなかった。両国間には、両国自身の役割認識、相手国への関心度、世界政治への目的意識において、大きなコミュニケーション・ギャップがあった。現に、76年の「大網」にしろ「文化協定」にしろ「共同声明」にしろ、働きかけてきたのはカナダ側であった。日本はそれに対して消極的ないしは受身のかたちで反応しただけである。
しかもその成果に対する日本側の認識は、政府・外交筋、マス・メディア論調とも、「これ(大綱)により、わが国がカナダから食糧・資源の長期にわたる安定的供給を確保するのに一歩前進した」という低次元、といって悪ければ形而下、のものであった。最初カナダは、日本と、もっと形而上あるいは”哲学的”な提携を求めていた。ところが日本は、「その内容が抽象的に両国政府の政策意図を表明・確認した精神規定の性格が強いことから」カナダの中入れをふって、「法的な権利・義務関係を生じない『大綱』を採択することにしたのである。
この「片思い」には、種々な原因がある。カナダは終戦当初から国際問題に関与し、思索する”青年”から”成人”に成長したが、日本は敗戦で自信と目的を完全に喪失し、国際問題に関与するという点ではカナダよりはるかに立ち遅れて出発した。いわば当時の日本は、力だけついてきた、まだ目的の定まらない思春期の”少年”のようであった。ところが日本は、同時に、実際はなにも知らない”赤ちゃん”から出発したのではなく、過去に苦い経験をなめ、形而上で抽象的な目的よりも、現実的な経済利益のみを追求しようとする”しらけて”老獪なエゴイズムむきだしな面(カナダにエゴイズムがない、というのではない)も持っていた。両国の表面的な経済力の差異ーGNPとか貿易額ーも反映していた。
貿易上、日本はカナダにとって第二位に重要な顧客となったが、日本にとってのカナダは数番目にしか位置していなかった(現在も同じ)。経済力では、日本はあとから来てカナダより一歩先んじたのである。このことは、ランブイエRambouilletで開催された第一回先進国首脳会議でも示されていた。カナダの外交官僚のなかには、カナダはかつて日本の国際的地位向上と国際会議への参加を積極的に支援したのに、日本はなぜもっと積極的にカナダがランブイエ会議に参加できるよう支持してくれなかったのか、との不平をもらす人もあったほどである。さらに、日本の大国中心志向も一要因として作用していた。これは戦前・戦後を通じて日本外交の特徴の一つで、今も変りはない。この問題と関連して、日本の外交指導者が冷戦構造の観念からまだ脱出しきれていないこともあった。いまも依然として対米依存・協調外交のみに固執している感が強い。
そのような次第で、1976年のトルドー首相の訪日ーそれは日加関係の緊密度が絶頂に達したときであったーの成果に対する評価に関しては、カナダ側は、政府筋・世論とも、失望の色を隠しきれなかった。すでにカナダは、経済関係や二国間関係だけを考慮して、日本に接近してきたのではなかった。
経済関係だけを問題にするのなら、むしろカナダの方が日本よりも対米協調の必要性に迫られている。その論より証拠、1980年代から、カナダはもはや「第三の選択」を口にしなくなり、マルルーニー政権にいたっては、対米関係の再構築を最重要視するようになった。これはトルドー政権下で疎遠になった対米関係を修復するためと、不況に陥っているカナダにとって、アメリカ合衆国はやはりなんといっても”頼みの綱”だからである。少なくとも当分は、カナダはこの外交路線を進めることになるであろう。
とはいえ、マルルーニー内閣は日本への”片思い”を諦め、日本を”そで”にしたのではない。同内閣は1984年12月、J・クラーク外相を外相就任後、最初の外遊先として日本に派遣し、1985年5月にはカルガリーでの日加経済人会議にマルルーニー首相自ら出席し、日本企業の対加投資を強く勧奨する等、機会あるごとに日加関係増進の重要性を強調している。ただ同首相の対日関係重視は、あくまでも彼の「経済外交」の一環であって、トルドー前首相のように日本に”哲学的”外交を求めているのではない。
80年代の日加関係で注目すべきは、カナダの州政府が日本に歩み寄ってきたことである。ちなみに1983年にはローヒード・アルバータ州首相(Edgar Peter Lougheed PC CC AOE QC (/ˈlɔːhiːd/ LAW-heed; July 26, 1928 – September 13, 2012) was a Canadian lawyer and Progressive Conservative politician who served as the tenth premier of Alberta from 1971 to 1985)、1984年にはレベック・ケベック州首相およびポーリー・マニトバ首相(Françaisフランス語→Howard Russell Pawley, né le 21 novembre 1934 à Brampton en Ontario et mort le 30 décembre 2015 à Windsor dans la même province1, est un professeur et homme politique canadien qui est Premier ministre du Manitoba)、1985年にはベネット・ブリティッシュ・コロンビア州首相(William Andrew Cecil Bennett PC OC (September 6, 1900 – February 23, 1979) was a Canadian politician. He was the 25th premier of British Columbia)が、それぞれ来日した。日本側でも、東京・日加協会Tokyo: Canada-Japan Society、関西・日加協会Kansai: Canada-Japan Society、北海道カナダ協会Hokkaido Canada Association、秋田カナダ友好協会Akita Canada Friendship Association、北陸カナダ協会Hokuriku Canada Association、広島カナダ協会Hiroshima Canadian Associationがつぎつぎと設立され、地域レベルで日加両国間の相互理解、友好親善、経済交流が促進されるようになってきた。
そうした日加関係のすそ野の広がりを踏まえて、今度は日本の側からカナダに”哲学的”外交を要請してみては如何だろう。カナダの国際的地位は、一種の「衛生Satellite国」的存在から「中間国」へ、そしていまや超大国ではないが「卓越した国家Prominent Power」へと発展しつつある。
カナダの有名な国際政治学者ジェームス・エアーJames Eayrs教授によれば、おもに次の三つの決定要因が70年代の国際関係における権力構造を変革したという。それは、エネルギー問題、とくに石油危機と、鉱物資源および食糧問題と、それらの問題とも関連して超大国の一般的自信喪失である。
同教授は続けて、「カナダの首相が中国の首相に語ったように、『国家の偉大さは軍事的壮大さとかあるいは経済的成就の尺度ですら次第に評価されなくなる世紀にわれわれは生存している。・・・一国の政府の真の試金石は、その国民に価値観、何かを成し遂げたという気持、満足感を与える能力を持ちあわせているか否かという点に見出される』。1945年以来、カナダは初めてこのテストに合格するチャンスをアメリカ合衆国と同じぐらいー多分それ以上に、具有していると主張できるようになった」と述べている(James Earyrs "Defining a New Place for Canada in the Hierarchy of World Power", International Perspectives, May-June, 1975. 傍点筆者)
同教授の主張をいかに評価するかはともかくとして、少なくともカナダは近い将来「卓越した国家」になる意図と可能性を秘めている。多元的国際関係が発展していく中で、日本はアメリカ一辺倒・追従外交に終止符を打ち、カナダのような「卓越した国家」にもっと積極的に接近することによって、自国の新たな「存在理由Raison d'être」を探求していくべきである。
確かに日本は「経済大国」にのし上がった。だが、自らの外交のアイデンティティはまだ模索中である。アイデンティティという概念には、「主体性」とともに「同一性」なる語意が包含されている。つまり、同一の価値志向を有する者同士が一体となることを意味する。
日本外交の基調は、「平和憲法」と広島・長崎の被爆体験=反核・非核運動である、と筆者は確信する。そうした日本が、平和国家で核軍縮でも常に主導権を発揮してきたカナダと相提携していくことは、すなわち日本のアイデンティティを確立することにつながる。そればかりでなく、「パワー・ポリティックス」を否定し、「パックス・ディプロマティカ」を招来し、日本自身の外交の幅を大きく広げることにもなるのである。


あとがき
小著が出版されるようになったのは、多くの人たちのお蔭である。とくに、私が研究のため、一昨年の夏カナダの首府オタワに滞在中、家族の面倒まで親切にみて下さったカールトン大学Carleton University歴史学部名誉教授のデービッド・L・M・ファー夫妻、多極共存型民主主義やネオ・コーポラティズムの資料を提供していただいた大阪大学Osaka University法学部教授の阪野亘先生、私の研究にいろいろ便宜を図って下さった津田塾大学教授の小倉充夫先生やカナダ政府外務省の方々、それに在日カナダ大使館学術担当の吉田健正氏、政治部局の竹本徹氏、図書館の小松博氏、教育担当の山田栄一氏、適切な助言をしてもらった在加日本大使館前専門調査員の竹中豊氏と大阪経済大学専任講師の加藤善章氏、資料収集に献身してくれた末内啓子さん(私が津田塾大学に勤務していた頃の演習の学生で、現在カールトン大学政治学部博士課程在籍中)、参考文献の整理をしてくれた大阪大学法学部大学院研究生の上村雄彦君、この企画を提案していただいた中央公論社の岩田 氏、拙稿を丹念に編集して下さった佐々木久夫氏、拙稿の全ページに目を通して有益な批評をしてくれた妻恭子、の皆様方に記して心から感謝の意を表したい。また研究助成金を供与して下さったカナダ政府に篤く御礼申し上げる次第である。
                  1989年2月 大阪大学法学部研究室にて 馬場伸也










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