日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『Nanjing Massacre Defeat of the historical falsification group南京大虐殺歴史改竄派の敗北 - Li Xiuying Defamation lawsuit to the future』/ 本多 勝一Katsuichi Honda, 星 徹Toru Hoshi, 渡辺 春己Harumi Watanabe《南京大屠杀幸存者李秀英控诉日军暴行》Prière pour la paix et l'amitié entre la Chine et le Japon🍁2023/07/22CANADA ②


John Gillespie MageeДжон Гиллеспи Маги(10 octobre 1884 - 11 septembre 1953)约翰·吉萊斯皮·马骥(миссионер)
était un missionnaire épiscopal américain qui témoigna du massacre de Nankin en réalisant, cachant et diffusant un film des atrocités.


裁判はどのように進んだか?
私はこの訴訟(東京地裁)において、判決まで全11回の口頭弁論のほとんどを傍聴取材した。これら取材に基づき、資料として残る原告側・被告側双方の「答弁書」「準備書面」や「口頭弁論調書」などを参考にして、以下に口頭弁論の経過を簡単に報告する。
被告側は、訴状やその後の原告側準備書面などを受けて、以下のような主張をした(要約)。
【準備書面1】
・そもそも被告等は、南京事件がなかったと考えている。
・被告松村は、本件書籍において、原告を非難してはいない。各資料によって食い違っている原告の「証言」を批判しているだけであり、「仕立てられただけなのであろう」と推測しているにすぎず、原告の「証言」に疑問を表明しているにすぎない。本件書籍の記述によって、原告の社会的地位が低下しているとは到底考えられない。
・原告が公的な存在であるとしたら、その原告の事件当時の記録とは異なるいろいろな場所での発言や、その後の証言記録の異同を比較して論評を加えることは、公平な論評にあたるもので、表現の自由・研究の自由から許されるものである。
【準備書面2】
・本件書籍は、当時南京に在住していた外国人が残した資料を中心に、南京事件に関する各種の文献や証言を比較研究し、論者によって定義や中身の異なる南京大虐殺が存在しなかったと信ずる過程をまとめたもので、公の利益を追求したものである。そのなかで、本件記述は南京事件の生き証人と称する原告のいろいろな場所における供述を比較して、推論したものであるから、公の利益に関する事実である。
・被告松村は、原告について非難めいた主張をまったくしてはいない。むしろ最後に「それは、彼女たちの責任ではない」と述べている。
【準備書面3】
・頻死の重傷が実体験ならば、ここまで外国人の記録と違っていたり、供述内容が変わることはおかしいということで、「実体験でない証拠であろう」と推論したのである。
・これだけ各種各様の証言がなされていることから、直接体験に基づく証言であるとは思われないので、被告松村は「それは、彼女たちの責任ではない。ただそのように仕立てられただけなのであろう。」とむしろ原告に同情して述べたのである。自分の体験を事実ありのままに述べるのであれば、同時代資料としての外国人記録とも大筋において一致し、被害時のみならず、その前後の状況や夫との関係も含めて、ほぼ同一内容の証言が生まれなければならないはずである。しかし実際には、これだけ各種各様の証言が存在することから、被告松村がこれら「証言」の信憑性を疑うに足る相当の理由があると言わざるをえない。
【準備書面4】
・原告の主張は、南京事件の被害者としての原告の名誉が毀損されたというものであるから、南京事件がなかったとすれば、そもそも南京事件の被害者としての原告の立場も存在しないのである。南京事件の存否は、本件事件の前提条件ではないのか。
一方、原告側は、以下のような主張をした。
【準備書面1】
・本件の争点は、原告が本来の被害者にスリかわっていることが事実か、真実であると信ずるにつき相当の事由があるかにつきる。
【準備書面2】
・本件書籍を読んだ読者は、原告が1937年の南京事件当時の被害者に仕立て上げられ、本来の被害者になりかわって日本政府に損害賠償を請求している*と読みとる以外にない。「仕立てられただけなのであろう」と書いたとしても、原告が仕立てられたことを承知のうえで損害賠償請求をしているとしか読みとることができない以上、直接的に訴訟詐欺との言葉は存在しないが、原告が訴訟詐欺を行っていると読者は理解するほかないのである。
*この件については、37ページを参照されたい。
第三回口頭弁論(2000年6月2日)では、被告弁護人と裁判長とのあいだで、次のようなやりとりがあった(要旨)。
被告弁護人 南京大虐殺はなかった、と我々は考えている。
裁判長 「南京大虐殺はなかった」ということの立証はしないのですか?
被告弁護人 南京大虐殺が存在しなかったのだから、原告の言う被害はなかったと考えている。
裁判長 原告が「仕立てられた」ということの立証はしないのですか。
被告弁護人 同一人であることが疑わしい、ということです。
裁判長 「仕立てられた」ということを立証しないということですか?
被告弁護人 反証しようと思っている*。
*原告弁護人からの質問にも、被告弁護人は「立証しようと思っている」と答えた。
ところが、第四回口頭弁論(同年7月28日)においても、被告側の言う「反証」「立証」を示すような事実・資料は提出されなかった。そこで、以下のようなやりとりがあった(要旨)。
原告弁護人 「もう一人の李秀英」「仕立てられた」が焦点だと思う。被告側からは、これらについての答えがまったくない。これでは、口頭弁論を今後つづけても意味がない。
裁判長 被告側は「仕立てられた」ということを立証しないのですか?
被告弁護人 そうですね・・・そのつもりはありません。
裁判長 マギーのフィルムのなかの李秀英と原告が別人であるとの立証はしないのですか?
被告弁護人 いや、疑問を抱くのは当然だということです。
裁判長 「一つの推理であるが」と書きながら、事実の提示をしている。執筆当時、被告の側が参照した資料を示せばよい。
被告弁護人 「~であろう」と疑問を示しただけです。
被告側は当初、原告が南京事件の被害者たる李秀英ではないこと、彼女の各種「証言」は実体験に基づいていないこと、ただそのように仕立てられただけであること、などが真実か真実であると信ずる相当の根拠があった、と主張する姿勢を示していた。しかし、ここに示したように、松村氏ら被告はこの頃から明らかに「逃げ」の姿勢に入ったようである。

被告・松村氏の本人尋問
原告・李秀英さんの本人尋問が被告側から要請されたが、高齢と健康上の理由から来日することが困難である、と裁判長は判断した。李さんは、国を被告とする「731部隊・南京大虐殺・無差別爆撃事件」訴訟の原告の一人として、すでに本人尋問の証言を97年2月12日に東京地裁で行っている。そしてその判決(99年9月22日)では、「原告李秀英がその被害者であることも明らかである」と認定されているのである。
そういったこともあり、「松村本」の著者である被告・松村俊夫の本人尋問だけが、第七回口頭弁論(2001年5月11日)で行われた。まず松村氏は、みずからの陳述書をえんえんと朗読した。その冒頭部分は、次のようなものであった。
「・・・今後は、(中略)ささやかな幸せを求める年金生活者としての余生を妻と二人で静かに過ごすつもりでした。ところが、私の意図を曲解した『声高に南京大虐殺を叫ぶ人』が中国人女性・李秀英を前面に押し立てて、(中略)提訴してきました。私と妻の平穏な生活は破られ、そのうえ物心両面への打撃は甚大でした。この年齢になって、一般の人間にとっては好ましからざる響きを持つ『被告』と呼ばれる事態になったのです。人生の終わりに近づきながら、夫婦で楽しむ時間をも奪われて裁判に臨むことになりました」
その後、裁判長が若干の質問をし、つづいて原告代理人・渡辺春己弁護士が質問をした。以下に、原告代理人と松村氏の質疑応答の一部を報告する(「口頭弁論書」を参考にした)。
原告代理人 原告が自分の体験としているにもかかわらず、実体験でない場合には、同一人物で実体験ではないということはあるのですか?自分は実体験はこうだと言っているにもかかわらず、あなたはそれを実体験ではないと本書に書いているのだから、同一人物でそういうことはありえるのですか?
松村 なぜならば、(話す内容が)クルクル変わるから、同一人物ではないだろうと私は推測したんです。
原告代理人 ですから、同一人物ではないというように推定して書いたんですね?
松村 ではないか、というように推察したんです。
原告代理人 だから、さきほどの甲28号証の産経新聞(99年11月8日・『正論』)で、藤岡(信勝・東大教授)さんが「別人ではないかと松村氏が同書の中で推測した」と書いているのは、正しいのですね?
*①Nobukatsu Fujioka (藤岡 信勝?) est un historien japonais né le 21 octobre 1943 à Shibecha北海道出身. Il est connu pour ses thèses négationnistes concernant le massacre de Nankin, notamment au travers de l'édition de manuels scolaires soutenant cette thèse②『正論』(せいろん)は、産経新聞社が発行している月刊誌Seiron(Right argument) is a monthly magazine published by Sankei Shimbun.
松村 同一人物とは違うんじゃないかと疑いを持ったということと、推測したということとが同義語なのかどうか、私は国語学者じゃないから分かりません。私は推測したんですよ。

原告代理人 では、これは誤りではない、ということにしておきます。
松村 ・・・訂正です!私は疑いを持ったんです。
原告代理人 また訂正ですか?疑いを持って・・・。
松村 また訂正です。私はこういう場に出るのは初めてなんですよ。
原告代理人 推測したのではないですか?あなたの具体的な主張のなかでも、「推測以上に」という言葉が出てくるんですよ。だから、推測したというふうに準備書面でも読めるんです。推測したのではありませんか?
松村 では、そう読んでください。
原告代理人 いいんですね?
松村 そういうふうに読まれるんですからね。
原告代理人 当たり前ですよ。
松村 これは自分のそういう疑いを持ったということは、これはもう全部に一貫していますよ。とにかく、疑いを持ったんです。
原告代理人 疑いを持ったのはいいんですよ。疑いを持ったうえで、推測して書いたのかどうかの問題なんです。
松村 いや、疑いを持ったから書いたんです。
原告代理人 そうですね。疑いを持って書いた、ということでよろしいですね?
松村 ・・・
原告代理人 甲1号証(「松村本」359ページの「もう一人の李秀英」という見出しのもとに、363ページに「一つの推理であるが、谷寿夫裁判の時の李秀英の話が語り部に受けつがれ」とありますね?
松村 はい。
原告代理人 この「語り部に受けつがれ」ということは、AからBに、ある人から違う人に移ったのだ、という以外に意味はありませんね?
松村 「受けつがれ」ということですからね。はい。
原告代理人 「実体験でない証拠であろう」というのは、違う人物と推測している、ということでよろしいでしょう。
松村 ・・・
原告代理人 同じ363ページの「夏淑琴の映像」の見出しの四行前から、「一つの推理であるが、谷寿夫裁判の時の李秀英の話が語り部に受けつがれ、それを聞いた毎日新聞記者がマギーのフィルムに結びつけ、南京大虐殺紀念館がそれに乗ったのではないかと思う。南京軍事法廷、記者のインタビュー、映画撮影、日本の裁判所と、証言のたびごとに内容がクルクル変わるのは、実体験でない証拠であろう」と。そうすると、いま言ったように、「語り部に受けつがれ」というのは、明らかにAからBに受け継がれたということですね?違う人物だということですね?それとの続きで、「実体験でない」というのも、違う人物だということにしか理解できないじゃないですか。
松村 推測ですね。
原告代理人 甲1号証(「松村本」359ページに「南京法廷とマギーのフィルムの李秀英とが、同一人であるとの保証がないというのはいい過ぎだろうか」と書いてありますけれども、いま言ったように、これは同一人物であるかどうか疑いを持って、違うと推測しているのではありませんか?
松村 疑いを持っている、ということですね。
原告代理人 先ほど、「谷寿夫裁判の時の李秀英の話が語り部に受けつがれ」たとありましたね。さっき甲1号証(「松村本」)で示したましたが、それはいつ語り部(B)に受け継がれたのですか?
松村 それは分かりませんね。
原告代理人 だれ(A)から受け継がれたのでしょうか?
松村 それも分かりませんね。
原告代理人 その語り部(B)の前の人(A)は、今どこでどうしているのですか?
松村 そういうことを聞かれても、分かりませんね。
原告代理人 「語り部に受けつがれ」というふうに言っているのですが、AからBに受け継いだということを裏づけるような具体的な資料を、あなたのほうで発見するなりお持ちなのですか?
松村 あくまで推測の資料はあります。
原告代理人 具体的にそれを直接裏づけるものはありますか?ただ、あなたの方は推測でクルクル変わるのはいいんです。
松村 推測する資料はございますから。
原告代理人 要するに、推測する資料がクルクル変わるだけでしょう?
松村 もうすでに、書証として提出されています。
原告代理人 そういうことだけでしょう?
松村 はい。
原告代理人 そうではなくて、AさんがBの原告に、いつ頃どういう関係でこういう話があった、というようなことを示す資料はございますか?
松村 そういう具体的なものはありません。あくまで、推測資料しかございません。
本人尋問のようすを一部しか紹介できないのは残念だが、この程度の「根拠」で松村氏は李秀英さんを「ニセ被害者」扱いしたということが、この部分だけからもはっきり分かるであろう。

双方の最終的な主張
被告側は最終的に、「本件書籍中の原告に関する記述は、論評である」と主張し、事実の摘示であることを否定した。そして、「仮に、『李秀英は南京大虐殺の被害者ではない』という事実の摘示だとしても、それは真実もしくは真実と信じるについて相当の理由がある」とし、その場合、①南京大虐殺がなかった、②加害者が日本兵ではなかった、③李秀英の被害行為がなかった、の三つのいずれかが真実もしくは真実であると信じるについて相当であればよいとし、その正当性を主張した(準備書面11を参照)。
一方、原告側は最終的に以下のような主張をした(準備書面・「最終」と「補充」を参照)。
①被告らの弁解を見ても、事実に対する推論をあたかも論評であるとしているにすぎない。本件書籍中の「彼女との再接触が南京大虐殺紀念館の肝煎りと知れば、彼女が自分の方から同一人を否定するはずがないと思えてくる」、「南京法廷とマギーのフィルムの李秀英とが、同一人であるとの保証がないというのはいい過ぎだろうか」、「もう一人の李秀英」、「一つの推理であるが、谷寿夫裁判の時の李秀英の話が語り部に受けつがれ、それを聞いた毎日新聞記者がマギーのフィルムに結びつけ、南京大屠殺紀念館がそれに乗ったのではないかと思う。」、「ただそのように仕立てられただけなのであろう」という記述は、断定的表現とともに推理の形式を取り、あるいは婉曲の表現を用いているが、どのような表現形式によろうと、「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項」にあたる限り、事実の摘示があることは判例・学説上確定しているところである。
②被告らは、「果たしてマギーのフィルムの女性と李秀英が同一人物であるのか」という旨の記述は、被告松村の意見であり論評であるとするが、被告松村が本人尋問でも認めているように、「同一人物ではないだろうと私は推測し」た内容である。別人物か否かは、証拠などをもって存否を決することができる事柄であって、事実の摘示である。
③被告松村の本人尋問において、「谷寿夫裁判の時の李秀英の話が語り部に受けつがれ」の記述について、以下のことが明らかになった。被告松村は、「いつ、だれから、どのように」原告に受け継がれた等の根本的な資料を持たずに本件書籍を書いたのであって、李秀英に関する記述に根拠がまったくないことを自認している。
④被告らは「本件書籍の記述には、その事実の内容を真実であると信じるについて相当の理由がある」と主張するが、それらにはなんら相当性はない。被告らが原告の証言の「食い違い」としているのは、第三者が書いたものがほとんどである。また、被告らは本件書籍執筆後の資料をあたかも相当性の根拠となりうるかのように意図的に混同させている。
これまで見てきたように、これら双方の主張を終えて、本件訴訟(東京地裁)は2001年2月21日に結審した。そして、翌2002年5月10日、判決が出たのである(判決文は第II章に掲載)。
*一部について、笠原十九司氏からご助言をいただいた。

Françaisフランス語→Le Mémorial du massacre de Nankin (chinois simplifié : 侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆난징 대학살 기념관Paseo conmemorativo de las víctimas en la masacre de Nankín ; chinois traditionnel : 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館Мемориал Нанкинской резни ; pinyin : Qīnhuà Rìjūn Nánjīng dàtúshā tóngbāo Jìniànguǎn)Memorial Hall of the Victims in Nanjing Massacre by Japanese Invaders est un mémorial pour les personnes tuées durant le massacre de Nankin perpétré par les armées japonaises à Nankin et dans ses environs, après la chute de la ville le 13 décembre 1937. Il se trouve au sud-ouest de Nankin, dans le quartier de Jiangdongmen, près d'un site où des milliers de corps ont été enterrés, appelé « fosse aux dix mille corps » (chinois simplifié : 万人坑 ; chinois traditionnel : 萬人坑 ; pinyin : wàn rén kēng).

南京の李秀英さんを訪ねて
東京地裁判決の翌日、私は渡辺春己弁護士に同行して南京を訪問し、原告の李秀英さんやその関係者、そしてその他の方々への取材を行った。
5月12日の朝、侵華日軍大屠殺遇難同胞紀念館(以下「紀念館」)で、渡辺弁護士は李さんやその息子・娘たちの出迎えを受け、彼らと笑顔で握手を交わし、判決の報告をした。李さんは、渡辺弁護士に頭を下げて何度もお礼を述べた。
その後、「紀念館」で記者会見が行われた。南京だけでなく上海からも報道陣が駆けつけ、総勢40人前後にもなった。まず、渡辺弁護士が判決の報告をし、通訳は日本に留学中の鄭花子さんが行った。次に、原告の李秀英さんが、喜びというよりは被告への怒りをあらわにして、次のように語った。
「松村が私を『ニセ被害者』扱いしているのを知ったとき、とても憤慨しました。六十数年前の傷がいまだに身体中に残っていて、それが動かぬ証拠です。この傷が当時のことを物語っていて、私は南京大虐殺の生き証人なのです。私たちが当時うけた傷は、永遠に消えるものではありません。今回の訴訟で、日本の弁護団の方々は、とても良くやってくれました。私ひとりでは何もできなかったでしょうが、彼らの手助けのおかげで、今回の勝訴を勝ち取ることができました」
そして、「紀念館」の朱成山館長は、語気つよく次のように訴えた。
「李秀英さんの勝訴は、当然の結果です。本物の証人がニセモノになるはずがありません。松村は、自らの記述によって李さんに二重の苦しみを与えたのだから、その責任を負うべきです。われわれは、歴史の事実を直視しない人々に対して、正義を徹底的に主張すべきなのです」
「松村たちの歴史認識はお粗末で、彼らの行為は非常識で非人間的です。歴史を尊重しなければ、明るい未来はありません。侵略した側がこのように歴史を改竄することは、中国人民の傷にさらに塩をまくようなものです」

李秀英さんの証言
記者会見の二日後、私が滞在するホテルの部屋で、李秀英さんに単独取材した。長男の陸永森さんと四女の陸琪さんも同席した。李さんの生い立ち、被害当時のこと、そしてその後のことについて報告する。本件(東京地裁)で原告・李秀英さんが裁判所に提出した陳述書(①)、国を被告とする「731部隊・南京大虐殺・無差別爆撃事件」訴訟の本人尋問調書(1997年2月12日・東京地裁/②)、そして私が今回取材したこと③)をもとにした。
李秀英さんは、1919年2月24日に南京の管家橋で生まれ、その後莫愁路(道路名)の入口ちかくの天妃巷に引っ越した。家族は父母と、上から順に本人・長男(現在も生存)・次男(幼年期に死亡)・次女(他家に養子)・三男(乳児期に死亡)の子がいた。母は、李さんが数えで13歳くらいのときに、三男を出産後に死亡した。
李さんがまだ子どものころ、家族はさらに南京の沈挙人巷というところへ引っ越した。李さんは正式の学校には通っていなかったが、近所の人に読み書きなどを習っていた。10歳を過ぎてから、キリスト教会で無料で勉強を教える「培教小学校」の三年次(おそらく)に入学し、多少の読み書きならできるようになった。このとき同じ学校にいたのが、後に鼓楼病院の看護婦となった沈文俊さん(後に紹介)であった。沈さんは李さんより二歳年上で、勉強を教えてみらったりして、とても仲がよかった。そのうち、李さん一家は父の仕事の都合で峩嵋苓に転居し、李さんは漢西門小学校に通うようになった。それ以来、沈さんとは37年12月まで会うことはなかった。
李さんは満18歳になったばかりの37年3月上旬に陸浩然と結婚し、彼が通信員をしていた関係で、江蘇省川沙県(現在の上海市浦東区)に新居を構えた。ところが、北平(北京)近郊の盧溝橋で7月に日中両軍が衝突して日中戦争が始まり(31年9月からすでに日中15年戦争は始まっていた)。8月には日本軍は華中の上海へも戦線を拡大したので、この一帯も爆撃を受けるようになった。そのため、李さんは9月に夫と離れて、当時の国民政府の首都であった南京*1へ避難した。しかし、南京市内も日本軍機による空襲をたびたび受け、混乱状況だった。その頃、李さんは妊娠していることが分かった。(以上①)
11月末に南京へ避難してきたが、国民政府軍の兵士に間違われて殺される危険があったので、夫だけ先に南京から脱出し、李さんは父に預けられて南京に残った。その頃すでに日本軍は上海周辺を制圧し、南京へ向けて進軍していた。当時の状況について、李さんは「長江(揚子江)を渡れるような船はなく、逃げ遅れて南京に残ったのです」と語った。
12月初め、李さんは日本軍から身を守るために、父と共に城内・難民区(安全区)内の五台山中腹にある外国人小学校(ヒルクレスト校Hillcrest School)の地下室に避難した。この小学校の門番は天津出身の人で、かつて天津で働いていた父とは知り合いだったので、この隠れ場所に案内してくれたのだ。李さんは当時の認識について、「『安全区』なのだから、そこが一番安全だと思いました。日本軍がそこまで入ってくるとは思わなかった」と語る(以上③)
その地下に大小二つの部屋があり、奥には便所もあった。階段を降りて右折し、廊下を通って右側手前の大きい部屋(四メートル四方くらい)には成人以上の男性が入り、右側奥の小さい部屋(三メートル四方くらい)には女性と子どもが入っていた。この二つの部屋はつながっておらず、廊下に面して別々の出入口があった(図を参照)。人数は、「合わせると70人前後だったはず」と李さんは言う。地下室には電灯はなく、部屋の上部にある小さな「のぞき窓」から日の光が入ってくるだけだった。そこから外の様子をながめることができ、「まわりは運動場だった」と李さんは言う。このような状況下で、父は大きいほうの部屋で、李さんは小さいほうの部屋で寝起きしていた。
当時、女性と子どもたちは地上に出ることはなかったが、年寄りの男たちは出ることがあったという。地下室には炊事場がなかったので、食事を作るにはそうするしかなかったからだ。李さんはそういった男性たちの話を聴いて、日本軍が入城したとき、近くに日本兵が陣取って機関銃を構えていること、中国人を見たらすぐに発砲すること、などを知った。
そういった状況下で、二週間ほどが過ぎた。地下室へ通じる扉の前には椅子などの家具を置いて入口が分からないようにしていたが、日本軍はついにその入口を発見して、12月18日の午後に日本兵の一団が地下室へ現れた。李さんは他の女性や子どもたちと小さい方の部屋にいた。日本兵の一団(おそらく十数人)は廊下の突き当たりまで来ると、二組に分かれたようで、そのうちの一組(数人)が李さんのいる部屋を覗いた。部屋の入口近くに老婆が座り、若い女性らは奥に隠れるようにしていた。李さんはその数人の日本兵を目撃し、「腰に日本刀をぶら下げた将校らしい兵が一人いて、他の兵は小銃を持っていた」と証言する。しかし、その日本兵らは部屋の中を一瞥しただけで、すぐに立ち去った。
ところが、大きい部屋では、もう一組の日本兵らが青壮年の男性のうち何人か(10人前後?)を選別し、連行していったという。敗残兵の疑いがある、というのが理由らしい。このことは、日本兵が立ち去った後で、何人かの女性が「夫が日本兵に連行されてしまった!」「息子が連れていかれた!」などと泣きながら訴えるのを聴いて知った。李さんは当時をふり返り、「彼らは敗残兵ではなく、普通の市民だった」と訴える。連れ去られた人々は、その後は戻ってくることがなかったという。(以上②③)
その翌日(19日)の朝食を食べ終わったころ、地下へ降りてくる靴音に気づき、ふたたび日本兵がやってくるのが分かった。今度は、数人の日本兵が小さい方の部屋へ直接きて、入口ちかくの老婆や子どもたちを押しのけて、奥の李さんら若い女性の方へと向かってきた。そして、そのうちの何人かを捕まえて連れ出そうとした。彼女らは泣き叫び、ドアの枠にしがみつくなど必死に抵抗した。李さんはそれ以前に、同室の老婆から「日本兵は向かいの建物のなかに毎日のように女性を連れ込んでは輪姦している」との噂を聴いていたので、このままでは自分も強姦されると確信した。そこで、このような混乱のなかで、妊娠七ヶ月の李さんは強姦されるくらいなら死んだ方がましだと考え、レンガの壁に頭を思いきりぶつけて自殺を図り、気を失った。
しばらくして、李さんは意識を取り戻した。床に寝かされ布団をかけられて、老婆が介抱してくれていた。頭からの出血はなかったが、おでこに大きなこぶができて、とても痛かったという。その時はもう日本兵は立ち去った後で、何人かの若い女性は連れ去られていた。この後に昼食が用意されたので、この時はまだ午前中だったようだ。それから暫くはウトウトしていた。
同じ日の夕方(「のぞき窓」から入る光が弱まったことから判断)、介抱してくれていた老婆が、「起きて!起きて!」と言って、寝ている李さんを揺り動かした。それで李さんは目を覚ますと、部屋に三人の日本兵が入ってきた。李さんは部屋の入口ちかくに寝ていたが、二人の日本兵は奥の若い女性たちの方へと歩みより、それぞれ一人ずつの女性につかみかかり、連れ出そうとした。二人の女性は泣き叫び、必死に抵抗したが、むりやり部屋から連れ出されてしまった。
残る一人の若い日本兵は、李さんに近寄ってきた。介抱する老婆が「この人は病気です」と説明したが、この日本兵は同室の年寄りの女や子どもを脅して、李さん以外の全員をむりやり部屋から追い出した。部屋には、李さんとこの日本兵だけになった。日本兵は李さんに近寄り、布団をはぎ取り、しゃがみ込んで中国服を脱がそうとした。「そのとき、私は強姦されると思った」と李さんは当時をふり返る。
目の前にしゃがみ込む日本兵の腰のところに刀(おそらく帯剣)がぶら下がっているのに気づき、李さんはとっさに右手を伸ばしてそれを引き抜いた。日本兵はそれに驚き、剣を握る李さんの右腕を両手でつかみ、身を守ろうとした。そこで二人がもみ合いになり、李さんは左手で日本兵の襟のあたりをつかみ、部屋の角の壁にもたれかかり、立ち上がった。李さんは部屋の隅で壁を背にして立ち、日本兵が彼女に対面するかたちでもみ合いは続いた。
そのままの姿勢で、李さんは日本兵の手に思いきり噛みついた。するとその日本兵は叫び声をあげ、それを聞きつけた先の二人の日本兵が、連れ出した女性を放して部屋の中に駆け込んできた。そして彼らは刀(おそらく帯剣)を抜いて李さんを刺そうとした。これに対して、彼女はつかみ合う日本兵を盾にして抵抗し、右から刺されそうになると兵を右へ、左から刺されそうになると左へというように動かし、自らの身を必死に守ろうとした。それでも、二人の日本兵からの攻撃はかわしきれず、足を何ヶ所も刺され、両頬・鼻・口の両端・左目の下など顔のあらゆるところや首を刺された。李さんは当時の状況を、「左足を前に出して半身の状態でもみあう場面が多かったので、右足にはあまり傷がなく、左足に多かった」と説明する。そして最後に腹を刺され、そのままうつぶせに倒れて意識を失った。
(李さんは今回の取材時、証言をしながら興奮して急に立ち上り、自らホテルの壁に寄りかかるようにして、事件当時のこのような状況を「再現」して説明をつづけた/写真参照)
この惨劇が起きた時、李さんの父は地上へ食料を探しに出ていて、ちょうど不在だった。(ここから病院に運び込まれるまでの話は、のちに父から聴いたこと)。娘の事件の報を受け、父は地下室へ戻ってきた。娘の顔も身体も傷だらけの血みどろで、息もしている様子がなかったので、もう死んでしまったのだと父は思った。そこで、もう一人の助けを借りて娘の「遺体」を地上に運びあげ、埋葬しようとした。すると、温かい地下室から急に寒い地上に出たためか、娘の口から血の泡が出てきて、まだ生きていることが分かった。それで、父は娘を同じ難民区内の鼓楼病院へと運び込んだ。
瀕死の重傷を負った李さんは一命を取り留めたが、妊娠七ヶ月の胎児は流産した。李さんの担当医は、ロバート=ウィルソン医師となった。のちに聴いたところによると、全身に29ヶ所の傷があり、同じところも合わせると37回刺されていたという。

手術後しばらくして、入院中の李さんの悲惨な姿はジョン=マギー牧師によって16ミリフィルムに収められた。この映像は現在でも観ることでき、当時の李さんの酷い傷の状況がよく分かり、事件の決定的な証拠となっている。とくに顔への傷が多く、全体がボールのように腫れていて、目のまわりも腫れて、当初は見えない状態だったという。
この病院で、李さんは幼なじみである前述の沈文俊さんに再会した。沈さんはここで看護婦をしていたのである。このときの沈さんの証言も、李さんの被害事実を裏づける重要なものとなっている(沈さんの証言は、のちに紹介する)。(以上①②③)
李さんは徐々に快方に向かい、顔の腫れもひいて、目が見えるようになっていった。そして入院から一~二ヶ月して(38年になってから)、当時は病院が患者であふれかえっていたので、マギー牧師の指示で珞珈路にあるデンマーク人の家に移った。この家には、日本兵から身を守るために、他にも何人かの女性が逃げ込んでいた。しかし、ここには日本兵がときどき現れるので、マギー牧師の指示で四月ころに北京西路の教会に移った。そしてここでもまた日本兵が何度も押し入ろうとしたため、二ヶ月ほどして、危険を避けるためにまたマギー牧師の指示で、今度は鼓楼病院裏にある職員寮に移された。
その頃やっと治安が安定し、38年のうちに夫が南京へ戻ってきた。そして、夫婦で南京市内の沈挙人巷に部屋を借りて住み始め、その後は転居をくり返した。そして45年についに日本が敗戦し、内戦のすえに49年には中華人民共和国が樹立された。
50年に南京市内の衛巷に転居してからは、ここに90年まで住みつづけた。ただし、文化大革命期の70年ころからの一時期、李さん一家のそれぞれは農村に下放*2されていた。その後、李さんは90年に南京市白下区瑞金北村に移り、現在までここに住んでいる。子どもは四女五男(40年生まれから56年生まれまで)おり、夫は87年に亡くなった。(以上①②)
李さんは以前は身体がとても丈夫だったが、事件の時に大量出血したこともあり、傷が治った後も体調の悪い状態がずっと続いた。また、日本兵から受けた暴行により、左頬の骨は欠け、右頬の骨もずれてしまい、現在でも痛みが残っている。歯茎も刺されたために、入れ歯になってしまった。足も刺されたために、弱くなってしまった。こういった傷のために、現在でも特に天候が悪くなると、顔や身体中の傷が痛みだし、目からは水のようなものが流れ出るという、さらに、顔じゅう傷だらけで人目を気にしたこともあり、事件後は外出はめったにせず、外で働くこともできなかった*3。そのため、家族はとても貧しい状態に陥り、食べ物を手に入れるのにも苦労し、体調が悪くても病院にも行けない状態が続いた。そして、当時働けなかったために、現在では年金もなければ医療保険もない状態だという。李さんは、「当時は病気になってもひたすら我慢するしかなかった。あの事件のために、その後の私の人生は根底から狂わされた」と怒りを込めて語る。
他人の前で自らの被害体験を明らかにしたのは、たしか46年ころ、「谷寿夫裁判」(BC級戦犯裁判)の証人として南京の小営にあった軍事法廷に行き、そこの法廷ではない一室で担当者に被害事実の証言をしたのが最初だ。皆の前で被害証言の講演をしたのもその頃からで、最初は三牌楼小学校だった。その後も中学校・大学・公共施設と言ったところで講演をくり返した。そして、中華人民共和国の樹立(49年10月)後には、新聞やラジオなどのマスコミにもたびたび取り上げられるようになった。(以上①②③)

松村氏氏らに激怒
今回の取材で、私は李さんらに、さらに次のような質問をした。以下に、その一部を記す。
ー今回の判決(東京地裁)について、現在の気持ちは?
李 ごく当然のことで、勝訴は予想どおりでした。
ー松村氏の本のなかで、李さんが「ニセ被害者」であり、仕立てられた人物だ、という内容の記述がされているのを知ったときは、どう思いましたか?
李 そのような松村たちの行為に対して、まず激怒しました。私が証言したことは事実なのですから、予想もしていなかったことです。あのとき瀕死の重傷を負ったために、今でも私の身体には多くの傷が残っています。そのまま病院に運ばれて治療を受けたので、多くの証人もいます。そしてマギー牧師は、私の姿をフィルムに収めてくれたのです。これらは、もみ消すことのできない事実です。そういった事実を認めないことに対して、憤慨しました。本当はもう、私はあまり自分の被害体験について語りたくなかったのです。しかし、向こう(松村ら被告)からあれだけ言われたのだから、反論せざるをえなかった。それで提訴したのです。
長男 母はこういった年で身体にも良くないので、松村らのそういった言動がなければ、もう昔のことはあまり話したくなかったのです。しかし、向こう側の人々に「ニセ被害者」扱いされたので、母の怒りはどんどん大きくなっていったのです。
ー判決に満足していますか?
李 松村たちに謝罪するよう求めなかったことが、不満です。
ー日本には、「南京大虐殺と言われるような事実はなかった」と言う人たちもいます。
李 歴史に対する認識が、そういった日本人には欠けています。なんで日本軍は招きもしないのに、中国へ来てそういった悪いことをしたのですか?それは完全に侵略ですよ!世界的に認められている事実に対して、日本の極右の連中が滅茶苦茶な発言をしている。どうしても納得できない。
ー長男の陸永盛さんと四女の陸琪さんにお聞きします。松村氏にお母さんが「ニセ被害者」扱いされたことについて、どう思いますか?
長男 私は李秀英の息子で、陸永森と申します。彼らの発言はデタラメで、強く抗議します!母が松村から受けた精神的苦痛は、戦時中に受けた苦痛よりも、さらにひどいものがあります。当時の傷が完全に癒えていないところに、塩をなすりつけられた思いです。それによって、母はとても痛みを感じ、自分の人生そのものが全部否定された、という思いでいます。
四女 私は李秀英の娘で、陸琪と申します。彼らの発言は、まったくのデタラメです!母は南京大虐殺で重傷を負った李秀英に間違いありません。

病院の元看護婦も証言
李秀英さんへの取材の翌日、南京市内のキリスト教会で、李さんの証言にも出てくる沈文俊さん(85歳)に会った。沈さんは、「李秀英さんとは培育小学校の三年生のころに同級生となり、家が近所なので仲が良かった」と話す。沈さんはその後、鼓楼病院の看護婦になった。37年12月の南京陥落後の出来事を、沈さんは次のように語った。
「ある日、鼓楼病院で遅番の仕事を終えて階段を降りたところで、誰かを担いで病院に入ってくる李秀英さんのお父さんたちに遭遇しました。私はそのお父さんとは顔見知りだったので、『おじさん、誰を運んできたんですか?』と尋ねると、『秀英ですよ』と答えました。つづけて私が『身体じゅう血まみれで、どうしたんですか?』と尋ねると、『日本兵に身体じゅうを刺されたんです』と答えたのです。それで幼なじみの李秀英さんだと分かりました。彼女の綿入りの服は血まみれで固まっていて、顔は腫れてボールのようになっていました。
私は李さんの手術には加わりませんでしたが、手術から数日して病室に会いに行きました。お互い『久しぶりね』と言い合って再会を喜び、その後も頻繁に彼女のところへ行きました。ある日、どうして日本兵に刺されたのかを尋ねると、李さんは『日本兵の暴行に屈せずに最後まで闘ったので、剣で身体中を刺された』と教えてくれました。その後は彼女にずっと会っていませんでしたが、数年前に再会したのです」
「鼓楼病院でのことを筆者が李秀英さんに尋ねると、そこで沈さんに会ったことをよく覚えていた」。
当時の南京の状況を尋ねると、沈さんは目を潤ませて次のように語った。
「酷い行為でした。連日、日本兵に銃で撃たれたり身体じゅうを刀で切られた人々、とくに若い女性が、運び込まれてきました。私も患者から銃弾を取り出すなどしていましたが、同じような患者がつぎつぎと運び込まれてくるのです。負傷した若い女性たちに『どうしたんですか?』と尋ねると、地下室などに隠れているところを日本兵に見つかり、強姦されたうえに殺されかけた、というような返答が多くありました。残酷すぎました」


研究方法に大きな問題
李秀英さんを支援する南京在住の劉恵明弁護士は、この裁判の判決(東京地裁)を受けて、筆者に次のように語った。
「私はこの判決を高く評価しています。南京大虐殺の事実と李秀英さんの被害事実の両方が、判決の形で再度みとめられたからです。私は彼女とよく会っているので、彼女が『ニセ被害者』扱いされたことで、精神的に非常に傷ついているのをよく知っています。南京のほとんどの人は李さんのことを知っていて、松村らの行為に対して、みんな怒っていました。今回の判決は、私のまわりでは好意的に受けとめられています」
実際、私は南京で40人以上にこの裁判について尋ねてみたが、その多くはこのことを知っていて、李さんが「ニセ被害者」扱いされたことを非常に怒っていた。
また、南京師範大学で南京大虐殺についての研究をつづける張連紅副教授は、松村氏らについて次のように語った。
「松村氏や東中野修道氏(『「南京虐殺」の徹底検証』展転社・98年、の著者)らの研究方法は、その出発点から問題があります。彼らの出発点は南京大虐殺の事実を否定することにあり、そのために使えそうな材料を探し出し、それらを拡大して利用し、全体を結論づけるのです。その過程で彼らは「推測」を多用するのですが、証拠が決定的に不足しているのです。今回の裁判で松村氏の側が負けたのは、当然です」
この張副教授のコメントと同趣旨のことを、南京事件研究の第一人者である笠原十九司・都留文科大学教授も、著書のなかで次のように指摘している。
<松村は「南京大虐殺はなかった」という誤った先入観に立脚して、その「証明」のために、南京事件の歴史事実を証明している膨大な証言や資料、およびそれらをもとに南京事件の歴史像を叙述した文献を比較し、個々の証言内容の齟齬や、瑣末な誤りや矛盾を検索し、それらの個々の証言や資料、文献の誤りが証明されれば、証言や資料全体の信憑性が否定でき、それらの証言資料にもとづいて構成された南京大虐殺の歴史像が否定され、その結果、「南京大虐殺はなかった」ことが証明できるかのような妄想に拘泥している*4>
私がこの「松村本」全体から感じるのは、戦前・戦中と変わらぬ中国人(松村氏は「支那人」と書く)への蔑視感情である。この意識が根底にあるが故に、「南京大虐殺はなかった」「李秀英はニセ被害者」との妄想に拘泥したのだろう。しかし、これまで見てきたように、あらゆる方面の証拠・証人からも、李さんが「マギーのフィルム」に写る南京大虐殺の被害者本人であることは、疑いようのない事実である。
ところが、この訴訟の進行中にも、松村氏は『月曜評論』2001年1月号に「中国側史料が李秀英偽証の証拠になった」という文章を寄稿している。ここで松村氏は、新資料を発見したとして、<被害者も原告ではないことが立証された><それがかえって李秀英の偽証を白日のもとに晒すこととなり>と記述している*5(判決文では、松村氏のその論拠は否認された)。
*日本保守派勢力對二次大戰行為辯護之研究 by 楊俊鴻:以南京大屠殺ー2009 — 東中野修道的《南京大屠殺的徹底檢證》、松村俊夫的《南京屠殺的大疑問》、富士 ... 以《文藝春秋》為主,衛星雜誌《諸君》為輔,另外配合雜誌《月曜評論》

控訴審でも名誉毀損を認定
これまで紹介してきたように、一審(東京地裁)判決は原告・李秀英さんの実質的勝利であった。松村氏ら被告はこれを不服として、東京高等裁判所に控訴した。原告の李さんもそれを受けて、謝罪広告が認められなかったことなどを不服として控訴した。控訴審は、2002年12月5日と翌2003年2月4日の二回で結審し、実質的な審議はほとんどなかった。
そして同年4月10日、東京高裁で控訴審判決があった。
「主文、一審原告及び一審被告らの本件各控訴をいずれも棄却する。控訴費用は各自の負担とする。」
そう裁判長が読み上げると、原告弁護団の十数人は笑顔をうかべ、被告らはうなだれた。一審判決では李さんへn名誉毀損が認められ、松村俊夫氏ら被告に150万円(弁護士費用を含む)の支払いが命じられたので、今回の控訴審判決は実質的に李さんの勝利と言える。
尾山宏・原告弁護団長は判決を受けて、記者会見で次のように語った。
「私どもは、この判決を基本的に李秀英さんの勝訴だと考えています。おそらく被告らは最高裁に上告するだろうが、この裁判はこれで実質上は確定したと考えてよい。被告らは、李さんについて合理性のまったくない非難の記述をしたのだから、当然のことだ。現在の日本には過去の加害事実を隠蔽する潮流があるが、歴史を改竄する行為を断罪したという意味で、今回の判決における社会的意義はけっして小さくない」
また渡辺春己弁護士も、「事実に基づかずに被害者の人権を傷つけるような記述をすることは認められない、と高等裁判所も認めたことの意義は大きい」と語った。
李さんは高齢と健康上の理由から来日できなかったが、弁護団からの報告を受け、南京の記者会見で次のように語った。
「勝訴と聞いて本当に感激しています。非常に嬉しいです。私の勝訴は日本の右翼に対する大きな反撃になったのではないでしょうか。南京大虐殺の被害者にも慰めになったと思います。私は、真実は偽りにはなりえないと信じています。日本の右翼がいくら否定しても無駄です。日本の弁護団の先生方に心から感謝します」
また、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の朱成山館長も、次のようなコメントを発表した(一部省略)。
「李秀英名誉毀損訴訟の本質は、南京大虐殺の歴史が法によって正確に判断・評価され、捏造された歴史観が裁かれたところにあります。正しい歴史観は日中友好の基礎となります。李秀英名誉毀損訴訟は李秀英の松村に対する個人の戦いではなく、南京大虐殺があったかなかったかを決定する裁判だったのです。歴史は抹消できません。
李秀英さんら歴史の証人が侮辱されることなど、あってはならないのです。私は固く信じています。李秀英さんは必ず勝ちます。正義は必ず勝ちます。世界が平和でありますように!日中友好が発展していきますように!」
被告らは、東京高裁の控訴審判判決を不服として、最高裁判所に上告した。
*通訳では、載國偉さんと南京師範大学日本語学部の皆さんにお世話になった。

Українськаウクライナ語→Нанкінський трибунал з військових злочинів国防部审判战犯军事法庭Nanjing War Crimes Tribunal南京軍事法庭був заснований в 1946 урядом Чан Кайші для суду над чотирма офіцерам імператорської армії Японії, звинувачених у військових злочинах, скоєних під час Другої японо-китайської війни в Нанкіні. Це був один із тринадцяти трибуналів, організованих урядом Чан Кайші.

Русскийロシア語→Хисао Тани (яп. 谷 寿夫(元大日本帝国陸軍中将), 22 декабря 1882, Окаяма岡山県出身, Японская империя — 26 апреля 1947, Нанкин, Китай) — генерал-лейтенант Императорской армии Японии в годы Второй мировой войны, причастен к Нанкинской резне1937年12月12日率所部由中华门侵入南京,并伙同第16师团、18师团、114师团等制造了南京大屠杀。1947年2月6日在南京军事法庭公审,4月26日在南京雨花台被枪决。


                李秀英裁判の経過と意義         渡辺春己
「松村本」と訴訟の経過
『「南京虐殺」への大疑問』で、松村氏は、資料間の表面的あるいは文書上の「食い違い」を「根拠」として、理由のない推測をくり返したうえで、いわれのない誹謗を李秀英に加えた。
これに対し李秀英は、
「私は今回、松村という人の書いたこの本により、日本人によって二回目の被害を受けました。その二回目の被害は、一回目の被害、すなわち直接日本軍によって受けた被害よりひどいものです。私は、とくに精神的に大きく傷つけられました。これまで述べたように、私は、日本敗戦からずっと南京で自分の被害体験を証言し続けてきました。そのことで、本当に多くの人々に私の体験を知られるようになりました。それなのに松村という人は、私をニセモノだと言っているのです。それは、人生のほとんどを自分の被害体験を話すことに費やしてきた私という存在そのものを、根本から否定しようとするものです。こんなひどいことは絶対に許すことができません。私は精神的に、とても深く傷つけられました」
と訴え、1999年10月、日本での提訴に踏み切った。
しかも、この訴訟が提起されたあとに発行された2001年1月15日付け『月曜評論』で松村氏は、「中国側史料が李秀英偽証の証拠になった」との表題のもと<・・・そして被害者も原告ではないことが立証された>と断じ、さらなる加害行為をくり返した。
ところが裁判では、被告松村氏らは、「松村本」では単に李秀英の「証言」を批判したものにすぎず、その内容も公平な論評であるとし、仮に別人であると書いているとしても信ずるにつき相当な根拠があると主張したのである。
そこで、裁判では、①「松村本」が李秀英を本来の被害者とは別人であると書いているか、②別人物であると書いたことに相当な根拠があるか、がおもな争点となった。
審理の内容
裁判の審理では、本書に収録している本多勝一氏の意見書(本書90ページ)や笠原十九司氏の意見書(笠原十九司『南京事件と日本人』柏書房刊に収録されている)が提出された。原告の李秀英からは、体調がすぐれず来日が不可能だったためビデオ・陳述書が提出された(なお、反対尋問に代えて被告から詳細な質問が提出され、李秀英がこれに答えている)。さらに、「松村本」での資料解釈がいかに誤っているかを示すため、「松村本」が「根拠」としている各資料も証拠として提出した。
「松村本」では本多氏に対し、<彼はこのような証言を記録した歴史を「オーラル・ヒストリー」と呼んでいるが、彼は自分が歴史を作るような気持でいる。恐ろしいことである><自分の本は同調者しか読まないだろうと思っての独善である。ここまでの大見得を切った彼は、私が書いてきたことを無視するだろうか。それとも反論するだろうか>(共に379ページ)などと書いている。
また、笠原氏に対しても<このように、自ら編纂した資料の歴史事実までも大袈裟に脚色していることは恐ろしい。しかし、これは脚色などという生やさしいものではなく、より正確にいえば捏造ということであろう>(170~171ページ)などと、学者生命にまで影響しかねない表現で誹謗を加えているのである。
そこで、このような「松村本」の記述には何らの根拠がないことを示すために「松村本」の内容について本多・笠原両氏の立場から意見書を提出し、反論を行った。一方被告らは、「ウィルソンの手紙」、ラーべ著『南京の真実』、「マッカラムの手紙」などの資料の部分的食い違いの指摘と、南京虐殺否定派論者の手による文献等を提出してきた。
「ウィルソンの手紙」Robert O. Wilson: Eyewitness of Nanking 1937-38 - Wilson's diary/letters to his family②ジョン・ラーベ『南京の真実』『南京の善きドイツ人』1998 年版THE GOOD MAN OF NANKING The Diaries of John Rabe③「マッカラムの手紙」James Henry McCallum - His diary/letters to his family from December 19, 1937 to January 15, 1938 served as evidence of the Nanking Massacre at the Tokyo Trial

①Jan 25, 2007 — Mizushima's documentary will be based on the work of Shudo Higashinakano, a Japanese historian whose work includes two books published in ...②The Truth About Nanjing is a 2007 film by Japanese far right filmmaker Satoru Mizushima

①From left to right: Ernest Forster(アーネスト・フォースター), Lewis Strong(ルイス・ストロング), John Rabe(ジョン・ラーベ), Casey Smythe(ルイス・S・C・スマイス), Eduard Sperling(エドワルド・スペリング), George Fitch(ジョージ・フィッチ)②南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい
Международный комитет Нанкинской зоны безопасности、英語:The International Committee for Nanking Safety ZoneComité international de la zone de sécurité de Nankinは、日中戦争初期の南京戦に際し、南京から避難できない貧しい市民の救済を目的に掲げ、南京城内の一角に南京安全区(難民区)を設定した組織。ドイツ人ジョン・ラーベを委員長とし、メンバーの多くはアメリカ人宣教師だった。Comitato internazionale per la zona di sicurezza di NanchinoDen internasjonale komité for Sikkerhetssonen i Nanjing

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