日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★東洋鬼★L' incident du massacre de la garnison de Kumejima『お国のためであり良心の呵責はない』한恨 “Banzai!” The Compulsory Mass Suicide in the Battle of Okinawa「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓Ayako Sono≪Санкэй симбун≫"Giappone, sì all'apartheid"死之惡魔사신『神軍平等兵』Die Tekketsu Kinnōtai (鉄血勤皇隊)L'escadron Himeyuri (姬百合學徒隊)

①Françaisフランス語→L' incident du massacre de la garnison de Kumejima久米島守備隊住民虐殺事件 est un massacre des insulaires par la garnison de la marine japonaise qui s'est produit pendant et après la bataille d' Okinawa pendant la guerre du Pacifique . Également connu sous le nom d' incident de Kumejima②The Kumejima Garrison Massacre Incident久米島守備隊住民虐殺事件 was a massacre of the islanders by the Japanese Navy garrison that occurred during and after the Battle of Okinawa during the Pacific War . Also known as the Kumejima Incident .
日本兵が島民を殺す 久米島の戦争
沖縄戦は(1945(昭和20)年)3月26日、米軍が沖縄の本島から西に30数キロの阿嘉島に上陸したことで始まり、6月23日に牛島満司令官が自決したことで終わった。しかしその後の6月27日から、久米島では日本軍に住人が殺戮されるという恐ろしい出来事が始まった。そしてそれは終戦の8月15日を過ぎた8月20日まで続いたのである。当時13〜14歳だった喜久永米正さんに話を聞いた。 文・写真/広河隆一(本誌発行人) 協力/比嘉絹江
Photo and Text by Ryuichi HIROKAWA, Special thanks for Kinue HIGA 参考:『久米島の戦争』久米島の戦争を記録する会(徳田球美子、島袋由美子)著、なんよう文庫刊 日本軍部隊「鹿山隊」によって子どもたちを含む久米島の2家族と区長ら9人がスパイ容疑で殺された跡(北原地区)。鹿山隊は家ごと焼きはらい、今は井戸だけが残る。写真はすべて沖縄県久米島。2015年8月22日 Photo by Ryuichi HIROKAWA
スパイ容疑で日本兵に殺された 久米島東南部、サトウキビ畑の中に建つ「痛恨の碑」には、「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人」と彫られ、下に犠牲になった人々の名が刻まれている。住民を虐殺した「天皇の軍隊」とは、戦時中、久米島に駐屯した日本軍部隊「鹿山隊」(正式名称は日本海軍沖縄方面根拠地付電波探信隊)のことで、鹿山正兵曹長率いる34人の海軍通信隊だった。 久米島では20人の住民が、日本軍に「スパイ容疑」で殺害された。久米島出身で現在84歳の喜久永米正さんは、当時のことを次のように振り返る。朝鮮人の父親の一家が虐殺されたとき、女の子たち2人がここに連れてこられて殺された。 Photo by Ryuichi HIROKAWA 
「一番最初に殺されたのは、郵便局の局員で電信の保守の仕事をしていた安里正次郎という沖縄本島出身者です。朝方道を歩いている時にアメリカの兵隊に捕まり、『鹿山隊長に降伏勧告状を届けろ』と依頼されたわけです。持っていかなければ殺される。もちろん日本軍も怖いんだけど、あれは友軍だから殺すまではしないだろうと考えたんでしょう。ところが安里さんは、敵の手先になったとして、鹿山隊長に殺害されたのです。銃殺でした」鹿山隊が住民の虐殺に至る経緯として、次のような背景がある。1945年6月13日、米軍の偵察大隊が久米島に上陸した。そして現在の空港の近くの北原地区に住む比嘉亀さん宅に侵入し、亀さんと宮城栄明さんの家族を拉致する事件が起きた。しばらく経った6月29日、鹿山隊は米軍に拉致された人々をスパイとみなし、(米軍から)戻されたことを軍に知らせなかったとして、比嘉さんと宮城さんとその家族、さらには北原区長だった小橋川共晃さん、警防分団長ら9人を銃剣で突き殺し、さらにガソリンをまいて家ごと焼き払った。これはこの事件で気が動転した兵士が逃げ出し、村人に証言している。日本軍によって殺された島民の名前が刻まれた痛恨の碑。 Photo by Ryuichi HIROKAWA 
喜久永さんは、この事件について次のように話す。「夜、米軍に拉致されて、島の軍備状態を聞かれたりされたわけです。兵隊の数とかね。仕方なく通信隊しかいないと言ったでしょう。拉致から戻されて、鹿山隊に報告に行かなければならないけど、スパイ扱いで島人が殺されていることも知っているし、すごい怖いもんですから、軍には行かなかったわけですよ。そうしたら、連絡しなかったという理由で、家族ごと殺されたわけです」 「痛恨の碑」には、安里さんの次に、区長や警防分団長、宮城栄明さん、比嘉亀さんたちの名前が続いている。
日本軍による虐殺を語る喜久永さん。在日朝鮮人の谷川さんが殺され、幼児も斬り殺された場所で。 Photo by Ryuichi HIROKAWA
戦争が人を追い込む 沖縄の人にとっての戦争
鹿山隊によって10人目に殺されたのは、仲村渠明勇さん一家3人である。「仲村渠さんは久米島の恩人なんですよ」と喜久永さんは言う。「彼は海軍上等兵として沖縄本島で米軍の捕虜になり、久米島に艦砲射撃されようというのを知った時に、『この島には数十人の通信隊しかいないから、艦砲射撃はやめてくれ』と米軍に掛け合ったのです。そして米軍が島に上陸したときには彼は米軍の道案内をしていましたから、米軍に『住民に投降するように言って来い』と言われました。明勇さんは、住民の隠れている場所を探して、危害は加えられないから出てきて家に戻りなさいと言って回ったんです。こうした行為は、鹿山隊にとってはスパイや裏切りに見えました」 仲村渠さんが殺されたのは終戦後のことだという。「終戦は8月15日ですね。ところが明勇さんは、18日になって殺されてるんです。だから、その辺が悔しいですよ」 喜久永さんは当時、仲村渠さんの近所に住んでいた。 「家が2軒隣りだったんです。この人のおかげで、米軍によって殺された久米島の島民の数は少なくて、10人だけです。ところが日本軍に殺されたのはその倍の20人です。それが久米島の戦争の特徴なんです。他の島では人口の半数が米軍の艦砲射撃で殺された島もあったのに」 仲村渠さん一家3人は鹿山隊によって突き殺され、妻は殴り殺され、小屋に運ばれ、そのあと焼かれている。場所はイーフビーチに面する銭田のサトウキビ畑のあるところだという。 「鹿山隊長は、米軍に捕まったり近づいたりした者を、みんなスパイ容疑のブラックリストに載せるんです。つまり軍の秘密をアメリカに告げていると考えたわけです。さらに島の人も、人のせいにして告げ口をすれば自分は助かるから、鹿山隊に嘘の報告をする。だからもう、誰を信じていいかわからなくなるわけですよ、戦争というのは。そういう状態に人間を追い込むんです。相手を直接殺さなくても、人間が人間でなくなっていくのが戦争ということです。 沖縄の人は、辺野古のことだって、軍事基地を作るから反対しているんです。軍事基地は戦争につながっていくでしょう。戦争は絶対、二度とやってくれるなということで反対しているわけですよ。沖縄の人は戦争の恐ろしさを知っているからです。 私は1944年には13歳、45年には14歳になりました。数えでは15歳です。何が起こったのかは大人たちは知りません。私たちより上の人間はほとんど軍隊に行って死んでしまいまして、生きていたのは僕たちだけだからです」
『お国のためであり良心の呵責はないFor the sake of the country, there is no guilt』 
40人-70人の久米島島民を虐殺した主犯鹿山正元兵曹長は戦後免責・免罪され徳島県農協の幹部に出世していた!
【拡散重要情報】■報告・久米島事件三十二年目の夏に
2015年11月08日 ガンジーの小屋http://yujinnote.seesaa.net/article/429262943.html「報告・久米島三二年目の夏」
以下に載せるのは、一九四五年夏に沖縄・久米島で起きた旧日本海軍久米島守備 隊による現地住民虐殺事件のあらましをつづった記録である。ベトナム 戦争時 の一九六八年、ベトナム・ソンミ村で発生したアメリカ軍史上最大の汚点と言わ れるソンミ村虐殺事件から、「日本のソンミ事件」などとも呼ば れた。当時、 ブログ主が雑誌等に発表したものを、事件の概要中心に抜き書きした短縮版である。
報告・久米島事件三十二年目の夏に
 一「……それおもんみるに二〇名の犠牲者は大戦終了後日本皇軍の言語に絶する無謀 なる虐殺行為により悲惨なる最期を遂げたるが、その惨憺たる行為は いまなお 追憶して戦慄を覚える次第なり。かかる非人道的不祥事は過去の謝誤れる日本皇 軍の軍国主義教育のなさしめたるものにして永久に看過なされ ざる史実なり……」陽が西に傾きかけてもうずいぶん経つというのに、暑さはいっこうに衰える気 配をみせない。その酷暑の中で、久米島西本願寺住職・世世盛知郎氏の 反戦の 読経がつづく――。「……しかるにかかる一大不祥事に対して国家として犠牲者の遺族になんらの謝罪 も補償もなく今日に至るはまことに遺憾の至りなり。……このたび久 米島訴訟を 支える会を組織しもって国家に訴え、犠牲者の霊をなぐさめ、遺族への謝罪と補 償を求むることとなれる……」
― 一九七六年八月十八日夕刻。久米島太田辻のサトウキビ畑に囲まれた一角 に、久米島訴訟を支える会の一員としてふたたび私は立っていた。目の 前には 『痛恨之碑』が二年前のあの除幕式のときとすこしも変わらぬ姿で建っている。碑だけでない。そこから望める海も、あの時と同じにきらきらと輝き、その海 の眩しさを懸命に打ち消すかのように、碑の後方にかつて鹿山部隊がた てこ もった大岳の山頂がくっきりと、夏空を黒くえぐって立つ。そして草いきれ、サ トウキビと風の語らい……。すべてが二年前そのままだった。三二年前の夏、狂った皇軍が二〇名の住民を虐殺した時も、おそらくは久米島の 自然はこのようにまぶしく、豊かに熟れきっていたに違いない。――こ うべをた れ、碑に黙とうをささげながら、あらためて私は、こうした自然の中でくりひろ げられた虐殺の凄惨をおもった。

久米島住民虐殺事件の起こったのは、激戦がくりひろげられた沖縄戦がようやく に終結をみた一九四五年六月二十三日の直後から、日本の敗戦が決定し た八月 十五日の五日後までの、およそ二カ月のあいだにおいてだった。このわずか二カ月のあいだに、しかも沖縄においてはすでに事実上、戦闘はと うにおわっていた時期に、島の住民九家族二〇名の人たちが、米軍では なく日 本軍によって、つぎつぎと殺害されていったのである。以下、時間の経過を追い、個々のケースをできるだけ具体的に列挙してゆこう。虐殺は久米島に米軍が上陸した同年六月二十六日の翌日からはじまる。第一の被 害者は本島首里の平良町出身で当時、派遣されて久米島郵便局に駐在し ていた 有線電話保守係の安里正二郎さんである。前日の米軍上陸の報で山間の避難小屋に避難していた安里さんは、夜半、御座な どを取りにひそかに自宅に戻って、翌二十七日未明、避難小屋に帰ろう とする ところを武装米兵に発見され、駐屯地に連行された。米軍陣地内で安里さんは山 にこもる鹿山正隊長宛ての降伏勧告状を託され、それを持ってた だちに山にあがるように命令された。そむけば銃殺するというので、仕方なく大岳にゆき鹿山 隊長にそれを届けたところ、鹿山は安里さんが勧告状を 持ってきたことから、 即座にスパイと決めつけ、その場で銃殺した。「処刑は、私自身が短銃で一発撃ち、一発では苦しむので、両側から部下に銃剣で突かせた」(毎日新聞「鹿山正の証言」)鹿山は事件が公けになった去る七二年に、安里さん殺しをこのように証言している。安里さんの妻、カネ子さんも間接的な犠牲者である。久米島在住の彼女の姉さん である糸数和子さんが証言する。「正二郎さんが二、三日帰らないので、カネ子は不安にかられ眠ることもできま せんでした。正二郎さんが山で軍人に殺されたと聞き、ショックのあま り家を 飛び出し、部落近くの山田川に身投げして死にました。彼女が自殺したので母も ショックで寝込んで、間もなくあとを追うように亡くなった。母 もカネ子も鹿 山に殺されたのと同じです」カネ子さんは安里さんの子を宿していた。これから生まれ出てくる小さな生命 をそのまま永劫の闇のかなたにつきおとしたのもまた鹿山であり、日本 軍なの である。

安里さんを殺したわずか二日後の二十九日の夜、鹿山=日本軍は具志川村字北原 (きたばる)において区民九名を集団虐殺する。九名の被害者の氏名は、①北原で牧場経営をしていた宮城栄明さんと、②その妻お よび③義弟。同じく北原地区で農業を営んでいた④比嘉亀さんと⑤そ の妻ツルさ ん、⑥長男の比嘉正山さんと⑦妻ツルさん。そして北原区長だった⑧小橋川共晃さ ん、⑨北原地区の警棒班長・糸類盛保さんである。容疑は、米軍上陸前の六月 十四日に鹿山守備隊が出した布告(情況が不利になり切迫するにつれて、鹿山は 身勝手な道理に基づく布告を乱発した)――「米 軍に拉致されたものが帰ってきたら、自宅に入れず、ただちに軍駐屯地に引致し、引き渡すべし。この命令に違 反したらその家族はもちろん、部落の区 長、警防班長は銃殺すべし」――にそむ いたためというもの。虐殺のもようは、当時日本軍の一人として現場にいた沖縄出身兵K氏のつぎの証 言で明らかにされた。「宮城さんの家に集められた九人は、手足を針金で縛られ、目隠しされて立たさ れ『ひとりひとり殺せよ』と命令され、銃剣で次々刺したのです。一突 きで死 ななかったので、のたうちまわっている九人を何度も刺して殺し、八坪そこそこ の住宅は血の海となり、全員が息絶えた処、火をつけて引き上げ ていったのです」家ごと焼き払われた死体は、いずれも黒こげでだれがだれだかまるで判別不能の 有り様だったという。一昨年、石碑の除幕式で久米島を訪れた際に、九名の犠牲者のひとり小橋川共 晃さんの奥さんに私は会った。彼女は、無残な黒こげの死体の中から入 れ歯を 目印に共晃さんの骨をかろうじてひろうことができた、と涙ながらに語ったあ と、私と、同行の赤嶺氏にその後の苦しい生活ぶりをこう語ってい る。「わたしはその頃三〇歳になったばかりで…小さな男の子三人を抱いて逃げ歩き ました。二番目の子がいまのこの子(三歳になるお孫さん)と同じ年 で…つらく て、辛くて、いつも猫いらずを持っていて、何度、あの子たちの口に(猫いらず を)押し込んで、母子心中しようとしたことか…」鹿山に殺された二〇名の遺家族すべてに多かれ少なかれ同じような苦しみが残っ た。一家離散、後追い自殺などが。鹿山=日本皇軍の所業は二重三重の 悲劇を 生んで、今日まで連綿と続いているのである。

北原の集団虐殺は島民を震え上がらせるに十分だった。この前後から、住民は山 に立てこもる日本軍を極度に怖れるようになる。「わたしたちは、敵の米軍よりも、味方であるべき日本軍がこわく、焼死体を埋 葬することもできず、一か月近くもそのまま放置していました(北原の 集団虐 殺の直後)。海岸の米軍と、山の日本軍にはさまれ、鍾乳洞の奥深くに隠れてい ましたが、洞窟の中で餓死する者もあり、病死する者もいた。 まったく悪夢の ような洞穴生活でした。思い出すだけで身の毛が立つようなおもいです」(北原 在住のNさん)ここで語られているように、日本軍を恐れて逃げまわった挙句に飢えて死んだ り、体が弱って病死した人も間接的に日本軍に殺されたといえる。そして その 数だけでも四〇名をくだらなかったといわれている。八月十五日、日本の敗戦が「正式に」決定したが、久米島の情況はすこしも好転 しない。むしろこれまでみてきた経過であきらかなように鹿山=日本軍 はいよ いよ凶暴化して、山賊以外の何物でもない殺人集団と化していた。こうした状況 下で八月十五日、のちに「島を救った英雄」と讃えられて沖縄芝 居にまで登場 する仲村渠(なかんだかり)明勇さん一家三名の虐殺が遂行される。虐殺の現場は、美しい久米島のなかでもとりわけすばらしいところといわれる イーフの浜辺だった。一粒ひと粒が白いサンゴの砂からできた浜辺は、潮 が退 くとさながら白地の見事なじゅうたんを敷きつめたような景観を呈し、およそ一 キロ海上にある奥武島(おうむじま)まで歩いて渡れるようにな る。沖合の巨 大なサンゴ礁が防波堤の役をつとめるため、淡いエメラルドグリーンの透明な渚 は、流れる風ほどのゆるい速度の波以外を知らない。豊潤な久米島をもっとも佳く代表するこのイーフの浜で、久米島の自然と一万余 の島民の生命を米軍の艦砲から救った一家は、軍刀で斬り殺されたうえ 家を焼 かれて土くれと化したのだった。明勇さん一家が鹿山ら日本軍に虐殺されるに至った経過はつぎのとおりである。当時、本島の嘉手納収容所に敗残兵として収容されていた久米島出身兵の明勇 さんら三人に、米軍通訳兵が来て久米島を艦砲で攻略するという。そう なれば 久米島住民の大半が死ぬ。そこで三人とも久米島は艦砲射撃の必要がないことを 訴えて強調したが、米軍は半信半疑で信じない。「君らの誰かが 水先案内人に なってくれるなら艦砲せずに上陸する」と言ってきた。そこで明勇さんがその役 をひきうけた。こうして六月二十六日、米軍は一発の艦砲 も撃つことなく久米 島に無血上陸した。だが、水先案内をした明勇さんを日本軍守備隊の鹿山隊長はスパイと決めつけ狙 い始める。狙いは明勇さんひとりだけでなく実家に残る妻子にまで及ん だ。危 険を感じた明勇さんは妻子を実家からひそかに連れ出すとイーフの浜沿いにある 一軒家の空き家に避難させた。幾週間かが無事に過ぎて一家が安心し始めた直後、居所を探り当てた日本軍鹿山 部隊は、敗戦三日後の八月十八日、村民に変装して浜の一軒家を取り囲 み、妻 子もろとも虐殺してm、家に火を放ち焼き払ったのである。明勇さんは軍刀で左わき腹を約二〇センチ斬り裂かれてその場で絶命、妻のシゲ さんは長男明広くんを抱いて台所入り口から裏手の垣のところまで斬り つけら れながらも必死で逃げたがそこで息絶えた。明広くんは当時一歳二カ月だった。この事件でも間接的な犠牲者がいる。明勇さんの父の明仁さんである。明仁さ んはわが子とその家族の無残な死に強いショックを受けて、生きる気力 を失 い、翌年に亡くなったのだった。

最後の犠牲者は、当時久米島に住んでいた朝鮮人の具仲会さん(日本名・谷川 昇)一家七名であった。具さんは朝鮮釜山の出身で、妻のウタさんは沖縄 久志 村の出身。五人のこどもたちは長男一男君一〇歳、長女綾子さん八歳、二男次夫 君六歳、二女八重子さん三歳、生後一年で未入籍の幼児ひとり。具さん一家に日本軍がかけた容疑もスパイ罪だったが、本当の理由は彼が朝鮮人 であったからと思われる。朝鮮人であったがゆえに、彼は同じ島民の間 でさえ いわれなきさげすみを受けていた。当時の「皇民化教育体系」下の、日本人⇒沖 縄人⇒朝鮮人という差別構造の中で、最底辺に属したゆえに、の ちに述べるよう なとりわけ残酷な殺され方をされたのであろう。痛恨之碑を建て、そして現在ようやくに国家責任を法的に明らかにして、天皇の 戦争責任を追及する運動にまで成長した私たち久米島訴訟を支える会 の、そも そもの提起者である富村順一氏が、三年前、たったひとりで自費でつくったパン フを売り歩きながらひたすら犠牲者の塔を建てたいとおもいつ めたのも、朝鮮人一家のいかようにも理不尽な悲劇の深刻さを直感していたからにほかならない。いま私の手元にあるそのパンフの表紙にはおおきな明朝活字で、「死後も差別さ れる朝鮮人」という題名が印刷されており、扉には、「謹んでこの小冊 子を沖 縄で虐殺された谷川さん一家をはじめとする朝鮮人の人々の霊に捧げ、その慰霊 塔を殉難の地・沖縄に建設することを誓います。富村純一」と記 されている。ここで、「殉難の地」は必ずしも久米島だけを指していないし、「殉難」の内容 も虐殺だけにとどまらない。さらに彼の告発の含む意味の先鋭さを私な りに解 かってきたと思うからあえて断言するのだが、この数行の言葉の背後には、じつ に強烈な〝沖縄人による沖縄および沖縄人批判〟が隠されてい る。「殉難」 は、つまり単に日本軍による、大和人(やまとんちゅう)によるものばかりではなくて、たとえば富村順一が少年時代に目撃した國場組という沖縄の搾取階級であり、さらには皇民化教育の下で、「日本人化」を志向させられる中で、さら に下層の存在として朝鮮人を〝必要とし〟、差別し てきた沖縄人総体をまでつ つみこんだ言葉なのではないのか。話を戻す。具さん一家虐殺は八月二十日の夜に行われたが、それは文字通り凄惨を極めたも のであった。日本軍がくる前、知人から忠告を受けた具さんはその日一家をあげて避難を開始 する直前だった。具仲会さんと次夫君は字鳥島の知人宅へ明るいうちに 避難 し、ウタさんと残りの子供たちは自宅でまだ避難準備中に、夕暮れになって日本 兵に囲まれた。ウタさんは一歳の幼児を背負い、一男君の手を引い て逃げ出し たが、上江洲地区のガジュマルの大樹の下に来たところで捕まり、殺される。以 下は目撃者の証言。「母が『一男は昇の子ではないから、この子だけは助けてくれ、殺さないでくだ さい』と泣きすすりながら嘆願していた。日本兵は、ウタさんを斬り殺 した 後、ふたりの子供らをウタさんの死骸のほうに突き出して斬り殺した。ウタさん の最期の叫び声、子供らのあの姿を思い出すといまも胸が詰まる思 いです…」「綾子と八重子は、家の中でぶるぶる泣いていたが、母ちゃんのところへ連れて ゆくから出ておいでと誘われて出てきたところをふたり別々に日本軍の 兵士が ひきずって自宅から七〇〇メートルほど離れた、字山里の西側農道で斬殺した。 ふたりの死体は側溝に並べて藁をかぶせてありました」具仲会さんと次夫君もまもなく日本軍に発見される。「昇(具仲会さんのこと)は壕から引き出され、首にロープをかけて生きたま ま、海岸までおよそ三〇〇メートルほど引きずっていかれたようです。八 月二 十日、煌々と明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵一〇人くらいで護岸 の上から谷川昇の死体を投げ捨て、そのあとひとりの兵隊がちいさ な子供をか かえてきて父の死体のそばに投げ落としました。子供は父の死体にしがみついて わーわーと泣き崩れていましたが、その子を軍刀で何回も何 回も切り刻んでい ました。私はこわくて足もぶるぶる震えました。日本軍から『見せしめだ、ほ おっておけ』ともいうし、『あとで死体を片付けよ』とも命じられたので、私 たち警防団員は涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あのときの子 供の、断末魔の鳴き声はいまも耳にのこっている ようです…」

虐殺の地・久米島に私たちは四日間滞在した。支える会としてあらかじめ予定し たのは十八日の現地集会と翌十九日の虐殺現場の巡回の二日間だった。 それに 倍する期間とどまったのは特別、新しい企てを持ったからでも何でもない。二十 日沖縄全域を襲った小型台風のため、飛行便も船便もストップし てしまったか らである。
だが、そのおかげで私たちは久米島の本土にいては視えなかった部分や視えにく かった部分を多少ともみることができた。たとえば島の人たちの事件に 対する 想いである。はじめて久米島に来た人が大部分であったが、二度目の私もふくめ て大半は久米島事件に対する島の人々の感情は複雑ではあるが、 たぶん、あま り触れられたくないもの、といった要素がつよいのではないかと考えてきた。不 幸な忌まわしい想い出は一刻も早く忘れてしまいたいのが 人情だし、当時、鹿 山部隊には「日本兵」として幾人かの沖縄出身者(うちなんちゅう)が加わって いたり、犠牲者の居所をなかば強制されたとはいえ 通報した島の人たちもい て、事件のことを口にすることで身内に累が及ぶという複雑な情況があったから である。実際、ことさら事件に無関心を装う傾向は否めなかった。現地集会の呼びかけビ ラを全戸に配ったにもかかわらず、当日参列した島民は数人であった。けれども一方で、次のような事実もあった。具志川村役場近くにある小さな地元 紙・久米島新聞社の人が教えてくれたものである。「事件が本土のマス コミで 騒がれる六年くらい前のことですが、青年団有志で一時、碑を建てる話があった んです。結局、マスコミに取り上げられて事件が有名になるとひ とりでに立ち 消えになってしまいましたが。いまあの事件のことを黙して語らないのは事実で すが、事件のことは親から子へと語り継がれて、事件後に 生まれた青年たちの 大半は口づてに事件のことは知っているのです」と。久米島は沖縄の離島のなかでも地味に富む豊かな島である。周囲を美しいサンゴ 礁に囲まれ陽光を浴びてのびやかに躍動するてんけいてきな南の島だ。 琉球王 朝の昔から、人々の暮らしは自給自足しながら豊かであった。長寿の地に多い小 さな蜜柑シーカーサがそこここにたわわに実っていて、事実、長 生きの人が多い。三十二年目の夏が過ぎた。あの時、イーフの白い浜に流れた仲村渠明勇さんら犠 牲者二〇名余の鮮血は、砂に吸われてあとかたもない。だが、それは消 えたの ではなかった。事件を知ったすべての人々の心にあまねく拡がり止むことなく告 発をつづけているのではないのか。誰に対して? 戦争責任を曖 昧なまま、天 皇制なるものをいまもおしいただく日本国家と日本人全体に対してである。
◆参考文献 大島幸夫著『沖縄の日本軍』新泉社刊、沖教組戦争犯罪追及委編 『これが日本軍だ』(終わり)   
 私は今度入手した6月4日号で、鹿山事件に関しては更なる続報があった事を知った。


「沖縄ソンミ事件・鹿山兵曹長 現地妻の告白」 
鹿山隊長は、米軍上陸の直前に現地の16歳の少女を"現地妻"として"徴発"していたのであるCaptain Kayama "requisitioned" a local 16-year-old girl as a "local wife" just before the US military landed.その少女は妊娠し、終戦の翌年に女児を出産しているThe girl became pregnant and gave birth to a baby girl the year after the war ended. 現地住民20名を虐殺して、終戦後内地に引き上げた鹿山元隊長は、当然消息不明となっていたが、「サンデー毎日」4月2日号の記事で、久米島住民は戦後初めて、鹿山元隊長の行方を知ったのであるその記事が切っ掛けで本土・沖縄のマスコミも大きく取り上げるようになり、鹿山正元隊長は進んでTBSのテレビ番組に出演し、二元中継で沖縄のRBCテレビに出演した久米島遺族との対面を決行している。このマスコミ騒動で、43歳になった元"現地妻"の女性も、自分の長女の"父親"鹿山正の消息を知ることになったという。実質は「隊長専用慰安婦」として、鹿山に奉仕させられていた少女は終戦になるまで、戦時中の鹿山隊住民虐殺を知らなかったという。戦後になってその事実を知らされ、自分を責めるようになった。虐殺の張本人の現地妻にされ、その子供まで生んだ女としては身の置き所がなかっただろう。戦後27年、自分も娘も、幸福とはとても言えない人生を辿ったと語っている。元現地妻は記者への証言の最後で次のように言っている。「沖縄で勝手なことしといて、いまになって、あれは、戦争中のことだといわれたって、私たちには通じないさ。沖縄人と日本人は、やっぱり人間が違うんじゃないかねAfter all, Okinawans and Japanese people are different people, aren't they?。日本人も日本政府も、ウソがうまいと思うさあI think the Japanese people and the Japanese government are good at lying。そんなところへ沖縄がなんで復帰するのかねと考えるさ」 復帰当時に、このよう言葉を吐くのを私が聞いたとしたら、なんて無知蒙昧な人間だと蔑視したことだろう。当時は「沖縄人も日本人だ、そのほうが沖縄人は幸せになれる。アメリカの支配下に居るのはもう嫌だ」、と考えていたのだ。だが、今、この運命の波に翻弄された一人のウチナーンチュ女が、復帰当時に告白した言葉を今読んでみると、全面的に共感したい気分になって、無知蒙昧なのはオレのほうだったと忸怩たる思いになる。テレビ対決では何の反論もすることなかった鹿山元隊長だが、初記事の4月2日号では、「良心の呵責(かしゃく)もない…」と開き直り、次の4月23日号では独占手記を載せ、「負けずぎらいでありよこしまなことがきらいで一本気で短気で 単純であります……このような私の個性や性質習慣は私の態度や言葉やその他のあらゆる面にあらわれていると思います……此のように長い間個性の上につみかさねられた教育と軍隊の中での想想風調にしみついたものは……(直すのは)壮年になってからではなかなかむつかしいのではないでせうか…」、と戦時中の残虐行為を自分の生来の気質と、教育と、軍隊思想のせいにして、自分を免罪している。これ以上の居直りはないだろう。
画像 職場における鹿山正 1977年 大島幸夫氏(毎日記者)撮影 
徳島の地方の農協で、堅実役人として奉職していた元日本軍下士官の男が、何故にこんなに大胆な居直りができたのだろうか?自分で言うように、「よこしまなことがきらいで一本気で…単純であった」こともあるだろう。しかし、それだけだろうか?本当に、良心に呵責を感じる事がないI feel no remorse in conscience」という信念があって、週刊誌に弁明の手記を寄せ、マスコミに顔をさらしたのだろうか?しかし、テレビ対面で、久米島の遺族に何らの反論・弁明をしなかた事からも、それは嘘であると判る。週刊誌報道から時を置かずカミングアウトしたのは、田舎の有力者である自分の地位を守る為の保身活動ではなかろうか?なぜ、自分をカミングアウトする事が自己防衛として有効なのか?それは相手が沖縄人だからだと私は思う。鹿山正元兵曹長は、本能的にそれを計算して自分の素性をさらしたのだと思う。住民虐殺の相手が沖縄人でなく、本土人の住民だったとしたら、鹿山は大変なバッシングを受けたと思う。地元での名誉は地に落ちただろう。鹿山元隊長は殺した相手が沖縄人だから、ヤマト社会から大した迫害は受けないと直感して自分をマスコミさらしたのだと私は思う。実際、テレビ対面の放送中・後も、TBS局にも沖縄のRBC局にも、電話がたくさん掛かってきたそうであるが、TBSへの大和人の電話は7割がAbout 70% of Yamato's calls to TBS said戦争の犠牲は沖縄だけではない、沖縄を甘やかすなOkinawa is not the only victim of war. Don't spoil Okinawa」「鹿山元隊長の家族の迷惑も考えろ。本人だってかわいそうじゃないかThink about the trouble that ex-captain Kayama's family will have. Don't you feel sorry for him?」とか、鹿山擁護の内容だったというIt is said that they were defending Kayamaこれに比べてCompared to this、RBCへはit seems that there were overwhelming cases of RBC saying「責任追及の姿勢が弱いThe attitude of pursuing responsibility is weak」「もっと突込んだ企画であってほしかったI wanted the project to be more in-depth」と、"物足りなさ"を語るケースが圧倒的だったらしい。戦時中とはいえ、乳幼児を含む20人もの民間人を処刑した元日本軍人を、7割の大和人が庇うということは異常という以外になんと言うのかEven though it was wartime, what else can I say other than that it is abnormal that 70% of the Yamato people protect a former Japanese soldier who executed 20 civilians, including infants。同様に、渡嘉敷の赤松隊における10数名の民間人処刑についても赤松本人が居直り、曽野綾子が「ある神話の背景」で擁護に乗り出したことも、大和人の沖縄人に対する「エゴイスティックなナショナリズム」の存在を計算に入れての事だったのではなかろうかSimilarly, regarding the execution of more than ten civilians by the Akamatsu corps in Tokashiki, Akamatsu himself made up his mind, and Ayako Sono set out to defend it with "background of a certain myth'', which is an example of the "egotistical attitudes of the Yamato people towards the Okinawans. I wonder if it was a matter of taking into account the existence of "nationalism"。
(1)渡嘉敷島の「集団自決」赤松嘉次(大尉)隊長の沖縄戦ー「そんな話は、まったく身に覚えのないことですよI can't remember such a story at all」=Tokashiki Island's "Group-suicide" Captain Yoshitsugu Akamatsu's Battle of Okinawaーhttps://battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/2019/09/07/063815+←「知らぬ存ぜぬは許しませんI do not forgive the unknown」(「神軍平等兵God army equality soldier」より)
(2)소노 아야코(일본어: 曽野 綾子, 1931년 9월 17일 -)는 일본의 작가이다. 일본 보수론자 중 하나이다.『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』文藝春秋 1973 のち角川文庫、PHP文庫 「沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!」ワック文庫 「慶良間ケラケラ、阿嘉んべ、座間味やがれ、ま渡嘉敷」という歌を作った(諸君!1971年10月)①Feb 20, 2015 -Outrage grows over Sono 'apartheid' column②Feb 18, 2015 — Ayako Sono Quand le Japon polémique sur «l'apartheid»③Feb 14, 2015 - アパルトヘイトを賞賛した曽野綾子コラムを載せた産経新聞Sankei Shimbunの今日の一面トップ記事Front page top articleが「南京大虐殺はなかったThere was no Nanjing Massacre」


近代沖縄/「ソテツ地獄」下の沖縄 4/4
■方言論争と皇民化教育
日清戦争後、近代化の波の中で、沖縄でも生活風俗を大和風に改めようとする運動がありました。昭和10年代になるとこの動きは熱をおびてきて、沖縄的な名字を大和(ヤマト)風に改めたり、読み替えたりするようになりました。県の懸案だった標準語の励行という気運も、国家主義の高まりにともない次第に強くなっていきました。1940(昭和15)年に県当局が推進した標準語励行運動は、強制や禁止、懲罰などで厳しくすすめられたため、「方言撲滅(ぼくめつ)運動」と受け取られました。それは、来沖した日本民芸協会の柳宗悦(やなぎむねよし)らが、標準語励行運動は行き過ぎであると批判したことから、県内外に賛否両論の「方言論争」を巻きおこしました。この論争ははっきりした形での結論は出ませんでしたが、日本が挙国一致(きょこくいっち)体制で戦争を押し進めていた時期でもあったため、標準語励行運動はむしろ強化されていきました。沖縄戦がはじまると、「方言を使用する者はスパイとみなす」という日本軍は、県民の方言使用について厳しい圧力を加え、そのことによる悲惨な事件も沖縄戦の最中におきました。方言論争にみられた柳宗悦らの指摘は、むしろ戦後になって影響をあたえはじめ、日本本土での沖縄蔑視問題や、沖縄側の安易な本土追随の姿勢を反省させ、沖縄の人々が沖縄文化の豊かさを再認識させるきっかけになりました。
「軍隊は人を守らない」という沖縄の教訓 (大田昌秀元沖縄県知事 )
沖縄戦を体験し、基地のない沖縄を、戦争を二度としない日本を守るために尽力されてきた元沖縄県知事の大田昌秀さんがお亡くなりになりました。悲しくて、残念で仕方ありません。どれだけ大切な人を、私たちはまた失ってしまったのでしょうか。大田さんが生涯をかけて伝えてくださったメッセージを、忘れません。大田さんがDAYS JAPANに寄せてくださった言葉を、数回に渡り、お伝えします。仁の地で戦争体験について話 す大田昌秀元沖縄県知事。2014 年 5 月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA
沖縄の戦争 「軍隊は人を守らないという沖縄の教訓
沖縄はかつて、本土防衛のための激戦地となり13万人以上の住民が犠牲になった。 大田昌秀氏は当時、学徒らで結成された鉄血勤皇隊として守備軍司令部のもとで任務に就いていた。沖縄最後の激戦地となり、大田氏が死を覚悟で戦火の海に飛び込んだ摩文仁(まぶに)の地で、本誌発行人・広河隆一が話を聞いた。(2014年7月号掲載)インタビュー/広河隆一 まとめ/丸井春 写真/沖縄公文書館、アメリカ公文書館
南部摩文仁 沖縄最後の激戦地
沖縄本島最南端に位置する糸満市・摩文仁(まぶに)。海岸沿いに広がる沖縄戦跡国定公園から望む海は、かつてここが沖縄最後の激戦地となったとは思えないほど、穏やかな波を立てていた。「ここから海を見ると、海上に敵の軍艦が真っ黒になるくらいに見えたんです」大田昌秀元沖縄県知事は、14〜17歳の中等学校生徒らによって結成された 「鉄血勤皇隊」の隊員としてこの戦場に送り込まれた。今はうっそうと生える木々も当時は1本もなく、敗残兵や住民らが身を潜める裸の岩原や壕に、海から上がった米軍の水陸両用戦車の大群が次々と火炎放射攻撃を浴びせていったという。1945年6月、首里から撤退した守備軍司令部と主力部隊は南部へ後退、摩文仁のある喜屋武半島は、3万人の兵と10万人を超す住民らで溢れかえった。米軍は半島を包囲し、軍民の区別なく激しい攻撃を続けた。「最後には、海岸から来る戦車と反対側の集落から来る戦車に挟まれて、みんなが海岸のところ一面に追い詰められました。岩間に隠れていた人たちは逃げ場を失い、どうにもならずにみんな海に飛び込みました。私もすっかり疲れきっていたけど海に飛び込んで、意識を失ってしまいました。気がついたら胸まで潮に浸って海岸に倒れていた。何日倒れていたのか今でも分かりません」沖縄戦では、兵力を補うために地元の住民までが戦場に投入されたが、戦況が悪化しそれでもたりなくなると、今度は中等学校の生徒までが法的な裏付けもないまま駆り出された。大田さんら沖縄師範学校の男子生徒らも「鉄血勤皇師範隊」として、守備軍司令部のある摩文仁で任務に就いた。「米軍はどうしたかというと、トンボと呼ばれていた小さな飛行機からガソリンタンクと焼夷弾を投下して壕内の人たちを焼き払ったのです」摩文仁での激戦中大田さんらが身 を寄せていた日本軍管理部の壕。 大田さんら「鉄血勤皇隊」のほか17 〜20歳の女性らも炊事の任務に 当たっていた。2014年2014年5月21日 Photo by Ryuichi HIROKAWA
師範学校の鉄血勤皇隊のうち、大田さんが所属していていた千早隊と呼ばれる22名の学徒らは、軍司令部情報部からの通達を得て、各地の壕に潜む兵士や民間人に戦況を伝える情報伝達の任務を与えられていた。「最初はみんな非常に情報に飢えているものですから喜ばれて歓待してくれたのですが、後半になるとわれわれが伝えるニュースと現状が全然違うわけです。ですから次第に疑われるようになりまして、大変苦しい思いをしました」摩文仁の丘ともうひとつの高い崖を挟んだ反対側には、住民を追い出した米兵らがテントを張っており、海岸寄りには岩盤に覆い被せられた窪みのようになった場所がある。大田さんらはそこにある日本軍管理部の壕に身を寄せていた。「ここは食料を蓄えていましたから、ここから私たちは2人で米俵を担ぎ、守備軍司令部に運んで行ったわけです。そうすると海上にいる敵の軍艦から丸見えになるものですから、重機関銃で集中攻撃されました。私たちは坂道の中腹で担いでいた米俵を放り出し、身を伏せるしかありませんでした」壕には炊事場があり、そこでは17〜10歳ぐらいまでの女性15人ほどが炊事 に当たっていた。 「壕は岩で覆われていますから、砲弾は頭上を飛び越えていくわけです。そうすると米軍はどうしたかというと、トンボと呼ばれていた小さな飛行機からガソリンタンクと焼夷弾を投下して壕内の人たちを焼き払ったのです。私はそのとき、右足底をえぐられて1週間ぐらい岩の溝のところに横たわっていましたから、その少女たちが目の前で焼き殺されるのを見ていたわけです。本当になんとも言えない生き地獄です。人間が火事場の焦げた柱みたいになって横たわっているのですから」。6月も下旬になると、摩文仁での激戦はますます激しくなった。日本兵の死者は1日に1000人を超えるよう になり、飢えも激しく、負傷している大田さんも海岸を腹這って食料を求めた。「敗残兵が岩間から海岸に出て、貝を拾っていました。そうすると、上半身裸の米兵が摩文仁の丘の上にやって来て、弁当を食べながら自動小銃でその敗残兵たちを狙い撃ちしていました。まるでゲームを楽しむように敗残兵を殺すわけです」一方、大田さんは日本軍の敗残兵が 味方の敗残兵を殺すということも毎日見てきたという。 「雑嚢(ざつのう)という食料品などを入れる肩掛けの布袋があるのですが、それが膨らんでいるのを見つけてはその袋を持っている兵を殺し、雑嚢を奪うということをしていました。それを見て私は、ああ、この戦争はおかしな戦争だ、生き延びることができたら、何としてでもなぜこんなことになったのか、その理由を明らかにしないといかんということを思ったわけです。日本兵が同じ日本兵を簡単に殺すなんて、夢にも思わなかったし、想像したことさえありませんでした」食料の強奪は兵士間だけのことではない。沖縄戦では、日本兵による住民への暴力も熾烈を極めていた。「沖縄の住民が食料を持っていると、兵隊たちがすぐに奪い取っていったんですね。『俺たちはわざわざ遠いところから沖縄を守るためにやって来た。だからお前たちは食料を出せ』と言って。出さないと射殺して奪うということもありました。そして沖縄戦では、住民は沖縄語による会話が禁じられていましたから、標準語を話せない高齢者たちが大勢、スパイだとして日本軍によって殺害されました。一番みじめだったのは、壕の中には赤ちゃんを抱っこしている女性たちもいるわけですね。そうすると、小さい子どもが泣くと、兵隊は『それを外に出せ』と。出さないと銃剣で刺殺したりしました」沖縄には、字誌(あざし)という公刊物がある。字(あざ)とは村よりも小さい単位を言い、ほとんどの字が戦争の記録を綴った字誌 を出している。大田さんは今、それをまとめる作業を進めている。 「そこには、われわれ戦場にいた者さえびっくりするようなことが、はっきり書かれています。旧日本軍が地元住民を何人殺したということが、何月何日の何時ごろ、どういう階級の日本の兵隊にどのように殺されたのか。被害者の名前もはっきり載っています」字誌は膨大な量だというが、大田さんは「沖縄戦をもう一度総ざらいしないとその実態は分からない」と作業を進める。「ショックを受けるようなことが次々と出てきて、なかなか前へ進まないのですが……」大田さんは戦後、苦しいことがある度に摩文仁の壕に足を運んできた。 「自分の戦後の人生はここから始まったのです。自分がここで生き延びたということを思い出して、一度死んだ命 じゃないか、苦しいことなんて当時に比べたら話にならん、と。それでまた元気になって帰って行くんです」
師範学校の鉄血勤皇隊は386人。 そのうち226人が戦死した。
慰霊碑に刻む 学友らの記憶  
 鉄血勤皇隊として犠牲になった沖 縄師範学校の生徒と職員を祀った慰霊碑「沖 縄師範健児の塔」の横に立つ「平和の像」。 右側の少年から「友情」「師弟愛」「永遠の平 和」を象徴している。2014 年 5 月 21 日 Photo by Ryuichi HIROKAWA
大田さんたちは1946年、壕近くに慰霊碑「沖縄師範健児の塔」を建てた。そこには、戦死した生徒ひとりひとりの所属と名前が刻まれている。「離島のおじいちゃんおばあちゃんたちが朝やって来て、自分の息子の名前を涙を流しながら手でなぞり、夕方まで座り込んで動かないわけです。戸籍簿などが全部焼き払われてしまいましたから、この1行の名前だけがその人がこの世に生きていたという証拠になったのです」大田さんは、碑に刻まれた学友たちの名前をじっと見つめながら続ける。 「学徒ら25名で編成された〝特編隊〟という隊がありました。守備軍首脳たちが首里から摩文仁に下がってくるときに、彼らの安全を守るというのが任務でした。この隊は全滅しています。なぜかというと、学徒たちは、爆薬を詰めた木の箱を持って身体ごと敵の戦車に突っ込んで行って死んでしまったのです。また〝斬り込み隊〟という57名の隊員から成る隊もありましたが、46名が死んでいます。みんな、剣道や柔道の精鋭ばかりが集まって作った隊でしたが……」大田さんによると、沖縄戦では13万人を超える住民が犠牲になったが、その8割以上が、この南部の激戦で命を落としたという。「私は戦争体験があるものですから、基地だけは絶対に受け入れられません。沖縄はもう二度と戦場にしたくありませんし、沖縄の人々は基地に対して徹底して嫌がっています」大田さんは、知事時代も積極的に沖縄の「平和」について訴え続けてきた。 それにも関わらず今、安倍政権の掲げる「積極的平和主義」の下、日米同盟 はさらに強化され、新たな基地建設まで押し進められようとしている。「今の政府のみなさんというのは、全然沖縄のことを知らないのだと思います。沖縄の人の感情に考慮するということは全くない。遠く離れて目に見えないですから」沖縄の人々にとっての戦後は、絶えず基地と隣り合わせにあり、反対する人々の声は繰り返し無視され続けてきた。沖縄がまるで政府の所有物のよう に扱われることに対して、大田さんは、今に始まったことではないと話す。「もともと沖縄は非武装の王国だったのです。15世紀末から16世紀の始めにかけて即位していた琉球王国の尚真王という王がいましたが、彼は住民に対して一切の武器の携帯を禁止しました。沖縄で空手が発達したのもそのためだと言われています。やがて1609年に薩摩の琉球侵略がありましたが、薩摩は、琉球人が反乱を起こすことを恐れて、武器の輸入を全部禁止しました。ですから、琉球は500年ほどの間、武器のない「守礼の邦」として知られていたわけです。 それが1879年の廃藩置県のとき、明治政府は、琉球に熊本の第六師団の分遣隊を常駐せしめるということを言い出したわけです。それに対して琉球王国の代表たちは、こんな小さな島に軍隊を置くのはかえって危険を招くから絶対に軍隊などいらないと拒否しました。すると明治政府は『どこに軍隊を置くということは政府が決めるべき問題であり、(琉球王国が)口出しする問題ではない』と言い、第六師団の400名の兵隊と200名の警察官を連れて来て、首里城を占拠したわけです。そこから沖縄の悲劇が始まるわけなんです」
15世紀以降独立国として栄えた琉球王国は、アジアの周辺地域と密接につながりながら、交易を中心に独自の文化を築き上げてきた。その平和な非武装の王国に突如軍隊が押し寄せてくる。 警戒を示したのは住民だけではなかった。「清の李鴻章という外務省の大物が、軍事力を用いて強制的に琉球を併合していたら、日本はそのうち台湾を獲って朝鮮を襲い、さらに中国に侵略してアジア侵略をするだろうと予言していたら、その通りになりました。そのため日本が真珠湾攻撃をして半年、アメリカ政府は沖縄を日本から切り離し非軍事化する計画を練っています。そして沖縄を国際機関に委ねて25年ごとに軍事化されていないかチェックさせるという計画を立てたわけです。  ところが戦後、いざ天皇制国体を維持した平和憲法を作るときになると、平和憲法では軍隊を持てませんから、その担保として沖縄を軍事基地化して米軍を置けばいいとして、連合国軍総司令部官のマッカーサーが、せっかく非軍事化することになっていた沖縄を米軍の軍事基地化してしまいました」日本が降伏した当時、日本国内には434万人の軍隊が残っていた。そのため沖縄の基地化は、日本軍の反乱を恐れた連合国軍が、それに対応するために作ったという事情もある。「たった百十数年前まで武器を持たない平和な暮らしが営まれていた場所が、やがて戦場になり、その後基地と化しました」大田さんは、今の日本はまるで戦争に向かっているようだと話す。そして日本が戦場になった時、まっさきに犠牲になるのは、近隣の強国にもっとも近く基地を持つ沖縄だという。「とにかく、今年はひょっとしたら沖縄の最悪の年になりかねないと私は心配しています。今、着々と辺野古への基地の移設が進められていますが、これが進んでいけば、沖縄の人々の怒りは、必ず爆発するでしょう。そうすると、コザ騒動(注1)どころの騒ぎじゃない。沖縄はずっといじめられてきたものですから、人々の怒りが火を噴いたときには予想も出来ないような事態になるかもしれません」「たった百十数年前まで武器を持たない平和な暮らしが営まれていた場所が、やがて戦場になり、その後基地と化しました」。沖縄の人々の悔しさと怒りは大田さんには痛いほど伝わる。そして大田さんは、戦争のつけを負わせられ続けている沖縄の人々の思いをこう代弁する。「沖縄の人々は歴史の中で何度も痛みを感じていますから、単純な痛みに対しても非常に気を配るところがあります。特に、朝鮮戦争の頃から、沖縄基地から出撃する米軍によって外国の何ら罪のない人々を殺害することに胸痛めてきました。沖縄の方言に『チュニクルサッテン、ニンダリーシガ、チュクルチェ、ニンダラン』という言葉があります。つまり、他人に痛めつけられても眠ることはできるけれど、他人を痛めつけては眠ることはできないということです。 それが、沖縄の人々の普通の考え方なんです。沖縄の人々の意思に反して、沖縄の人々が加害者の役割を担わされることにも、沖縄の人々はいつも苦しんでいます。その意味では、本土の日本人も米軍に加担しているのではないでしょうか?」(注1)1970年12月20日未明、米施政権下の沖縄コザ市(現沖縄市で)で起きた沖縄の人々らによる騒動。米軍人が沖縄人を車ではねたことをきっかけに、米軍車両や施設を次々焼き討ちにした。米施政下での沖縄の人々の不満が爆発し、自然発生的に起きたとされる。 
鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)は、太平洋戦争末期の沖縄県において、防衛召集により動員された日本軍史上初の14~16歳の学徒による少年兵部隊である。沖縄戦において正規部隊に併合され、実際に戦闘に参加し多くの戦死者を出した。
ドイツ語→鉄血勤皇隊=Tekketsu Kinnōtai Die Tekketsu Kinnōtai (jap. 鉄血勤皇隊, wörtlich „‚Blut und Eisen für den Kaiser(天皇)‘-Truppen“(部隊), engl. „Student Units of Blood and Iron for Emperor(血と鉄の学生部隊)“[2], auch: „Blood(血) and(及び) Iron(鉄) Student Corps(学徒軍団)“) waren (Hilfs-)Truppen, die aus japanischen Schulkindern(日本人学生たち) aus den Schulen der Insel Okinawa rekrutiert(沖縄諸島で徴募(召集)された) und im Pazifikkrieg(太平洋戦争) während der Endphase (最終段階)der Schlacht um Okinawa eingesetzt wurden. Es handelt sich um insgesamt 1.787 (1787人)Jungen der Mittelschule im Alter von 14 bis 17 Jahren(14歳から17歳の中高校生たち). Die Hälfte der Schüler starb im Verlaufe der Kriegshandlungen(戦闘の過程において、半数の学生が戦死した). Neben den Tekketsu Kinnōtai(鉄血勤皇隊) wurden Mädchen in der Regel als Hilfskrankenschwestern in eigenen Truppenverbänden(鉄血勤皇隊) für den Fronteinsatz zusammengefasst und erlangten beispielsweise als Himeyuri Gakutotai(ひめゆり学徒隊) oder Shiraume Gakutotai(白梅学徒隊) traurige Bekanntheit. Geschichte Als der Pazifikkrieg(太平洋戦争) mit der Schlacht um Okinawa(沖縄戦) in seine Endphase eintrat, begann man in Okinawa, Schüler als paramilitärische(準軍事的) Hilfstruppen zu mobilisieren(動員). Da die Schüler noch minderjährig waren, gab es keine Rechtsgrundlage, um die Jugendlichen zu mobilisieren(青年たちが動員された), es sei denn, ihr gesetzlicher Vormund hätte einer Meldung als Freiwilliger (志願, Shigan) zugestimmt.(申し訳ない。少しでも訳そうと思ったんですが、ドイツ語はほとんど分からない)
ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい)とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたものの名前。通称としてひめゆり部隊やひめゆり隊と呼ばれることもある。他に白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊の8つの学徒隊が存在した。 
姬百合學徒隊(ひめゆり学徒隊)為,1944年12月於日本沖繩縣以照顧日本軍為主要目的受到看護訓練組織而成的女子學徒隊之中,由沖繩師範學校女子部和沖繩縣立第一高等女學校的教師、學生構成的團隊的名稱。

フランス語→L'escadron Himeyuri était un groupe de 460 jeunes filles d'Okinawa(ひめゆり学徒隊は460名の沖縄少女たちのグループ) qui furent enrôlées comme infirmières(看護師として登録された) et envoyées au front pendant la bataille d'Okinawa en 1945(1945年の沖縄戦で起用された).Le documentaire Victoire dans le Pacifique, diffusé à la télévision française, sur Arte, en septembre 2006, comprend l'interview de l'une d'entre elles qui a survécu au conflit(2006年9月に元学徒隊だった女性のインタビューも含んだドキュメンタリー「太平洋での勝利?」が、フランスのテレビで放映され紛糾をかもした). Élève infirmière(看護師に昇格), elle s'était réfugiée avec des soldats dans un souterrain(兵隊たちとともに、地下へ避難した) du pain de sucre, colline fortifiée située dans les alentours du château de Shuri au sud de l'île(本島南部、首里城周辺の要塞).Son témoignage évoque le refus des militaires et civils(軍及び市民から出された証言) de se rendre malgré les injonctions(差し止め) des traducteurs travaillant pour les Américains(通訳として、アメリカ人のために働いた). Sur ses quarante collègues réfugiées dans les cavités(40人の仲間たちが、洞窟に避難した), seules(個人) sept ont survécu au napalm employé pour déloger les soldats retranchés(兵士は削減された). Cette méthode(方式) menait plus à l'asphyxie qu'à des brûlures(焼死より窒息?), dans la mesure(対策) où (もしくは)les souterrains étaient creusés très profond (大変深い地下道が掘られた)et que les flammes(火炎) épuisaient l'oxygène dans l'air(空気中の酸素)Le mémorial Himeyuri (ひめゆりの塔, Himeyuri no tō)90年の秋に行きましたI went there in the autumn of 1990.二回訪れましたが(一回目はバスツアーだったので)衝撃は大きかったですI visited twice (because the first time was a bus tour), the impact was great犠牲になった少女たちのあどけない笑顔が忘れられませんI will never forget the innocent smiles of the girls who were sacrificed.


*追加資料=↑の痛ましい「対馬丸事件」やスパイ容疑による住民虐殺そして鉄血勤皇隊・ひめゆり学徒隊など、「沖縄戦」の実態・背景が克明に描かれています↓

*『沖縄決戦Okinawa Decisive Battle』(おきなわけっせん)は、新里堅進による日本の漫画 is a Japanese manga by Kenshin Shinzato 太平洋戦争(大東亜戦争)末期の沖縄戦をテーマに制作された作品 A work created on the theme of the Battle of Okinawa at the end of the Pacific War、1978年月刊沖縄社で発表されたものを、再編集し1985年にほるぷ出版より、「ほるぷ平和漫画シリーズ」第23作目として出版された。
*新里 堅進(しんざと けんしん、1946年 - )Kenshin Shinzato (1946-) は、日本の漫画家。沖縄県那覇市壺屋出身。沖縄県在住is a Japanese manga artist . He is from Tsuboya, Naha City , Okinawa Prefecture. He lives in Okinawa prefecture.沖縄県立那覇商業高等学校に在学中、『サブマリン707』や『紫電改のタカ』などを読み、漫画家を志す。卒業後、タクシー運転手など様々な職を経験しながら独学で漫画を描き、1973年に沖縄戦を題材とした『沖縄決戦』でデビュー。以来、沖縄をテーマとした作品を数多く発表している。1982年、『ハブ捕り』で第11回 日本漫画家協会賞優秀賞に入選。


決定版 写真記録 沖縄戦 Definitive Photo Record Battle of Okinawa | 大田 昌秀 編Edited by Masahide Ota | (著者Author)
↑に昨日出していたのは新里氏のマンガの表紙を模写したもの(軍刀を振りかざした日本兵とともに、米軍に銃剣突撃する鉄血勤皇隊の少年たち)。今日のは故大田昌秀氏著・編集の『決定版 写真記録 沖縄戦』高文研2014/4/15に所蔵。防空壕(洞窟)内で発見され、米軍に救助された沖縄の老人たち(疲労困憊、憔悴しきった表情が忘れられない・前者同様、10年以上前に仕上げた自己流(色鉛筆と各種ボールペン)絵画)。亀甲墓内に隠れていた少女(放心状態)。捕虜になった勤皇隊の少年たち(みんな緊張した顔)の’幼さ’(倍ほどもある長身の米軍兵士に訊問を受けている)が衝撃的だった。
沖縄方言(おきなわほうげん)または沖縄語(おきなわご)、沖縄中南部方言(おきなわちゅうなんぶほうげん)は、琉球語(琉球方言)のうち、沖縄諸島中南部で話される方言(言語)の総称である。話される範囲には沖縄本島中南部と慶良間諸島・久米島・渡名喜島・粟国島・奥武島・浜比嘉島・平安座島・宮城島・伊計島が含まれる。国頭方言との境界は太平洋側ではうるま市石川と金武町屋嘉の間に、東シナ海側では恩納村恩納と谷茶の間にある。現地ではウチナーグチと呼ばれる。琉球語には沖縄方言以外に、奄美方言、八重山方言などがあり、しばしば互いに意思疎通が困難なほど言語学的に隔たりがあるため、それぞれ沖縄語、奄美語、八重山語などと一個の独立した言語とみなす立場もある。この立場の場合、これら言語を総括して琉球諸語、あるいは琉球語派と呼ぶことがある。ここでは、言語説と方言説の両意見を考慮して琉球語沖縄方言(琉球語派沖縄語)と併記する。
スペイン語⇒El okinawense o uchināguchi (en japonés: kanji 沖縄語, kana おきなわご y rōmaji Okinawa-go; en okinawense 沖縄口, うちなーぐち y Uchinaaguchi, respectivamente) es un idioma (慣用語句(言葉)que se habla en Okinawa y en las islas(沖縄諸島): Kerama(慶良間), Kumejima(久米島), Tonaki(渡名喜), Aguni(粟国)y otras islas cercanas(諸島周辺), en la parte más meridional de Japón(日本南方). Es el único idioma ryukyuense que ha podido prosperar con la modernización de la isla(島の繁栄と近代化); se estima(推定(見積もり)) que lo hablan 900 mil personas(約900万). Pero este idioma dentro de Japón se le llama 沖縄方言(Okinawa hōgen), o en español(スペイン語では), dialecto de Okinawa(沖縄方言). 
フランス語→発祥(起源)=Origine[modifier | modifier le code]L'okinawaïen n'est pas un dialecte du japonais(沖縄語は日本語の方言ではない)2,3 à proprement parler(きれいに話す), mais une branche séparée du groupe des langues japoniques utilisé dans la région d'Okinawa(沖縄地方で話される言葉は、日本語からは分離される), très différent du japonais parlé sur les îles de Kyūshū, de Honshū, de Shikoku et de Hokkaidō(日本の九州、本州、四国及び北海道で話される日本語とはかなり異なる).Il fait partie du groupe des langues ryūkyū(琉球語の一部を形成する), apparentées au japonais. Il comporte plusieurs dialectes(幾つかの方言), dont le dialecte de Shuri(首里方言) qui est standardisé à l'époque du royaume de Ryūkyū(琉球王国の標準語), sous le règne de Shō Shin (尚真王による統治時1477-1526). Il est alors la langue officielle utilisée par l'aristocratie locale(現地貴族によって公式語として使われた). De nombreux chants(たくさんの歌) et(さらに) poèmes d'Okinawa (沖縄詩)sont écrits en dialecte shuri(首里方言で書かれたもの)
Vocabulaire(語彙)oui(はい) : uun (うーん) non(いいえ) : aibiran (あいびらん) bonjour(こんにちは) : haisai (はいさい) s'il vous plaît(おねがいします) : unigeesabira (うにげーさびら) merci(ありがとう) : nifeedeebiru (にふぇーでーびる) bienvenue(ようこそ=いらっしゃいませ) : mensooree (めんそーれー)comment allez-vous ?(お元気ですか?) : ganju ya miseemi? (がんじゅやみせーみ?) personne d'Okinawa(沖縄の人たち) : uchinaanchu (沖縄人/うちなーんちゅ)

琉球語(りゅうきゅうご、琉:島言葉・しまくとぅば)もしくは琉球方言(りゅうきゅうほうげん)とは、日本の沖縄県と鹿児島県奄美群島で用いられる言語である。日本本土の日本語と系統を同じくするものの、口頭では互いに全く通じ合わないほどの違いがあるため、日本語とは別の言語と見なす立場と、日本語内部の一方言と見なす立場とがある。


천황의 군대에 학살 된 구메 지마 주민 · 구메 지마 재 조선인 통한 지비天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人 痛恨之碑 - hannohinokai ページ!沖縄(ハン)之碑の会 https://hannohinokai.jimdofree.com




Françaisフランス語→Masahide Ōta (大田 昌秀, Ōta Masahide) est un homme politique et universitaire japonais, né le 12 juin 1925 à Kumejima et mort le 12 juin 2017.
沖繩島戰役中的集體自殺,指的是第二次世界大戰末期沖繩島戰役中冲绳县住民的一系列集體自殺事件。在1945年日軍在沖繩島戰役中敗局已定的時候,沖繩縣住民發生過集體自殺的事件。

Institut PHP (publié le 09/2019)Contexte d'un groupe mythique d'autodétermination de l'île de Tokashiki, Okinawa Auteur :Ayako Sono
instructions: Le capitaine Akamatsu enregistré comme un "méchant mythique" dans l'histoire de la guerre à Okinawa. À la fin de la guerre du Pacifique, il aurait été contraint de collecter de la nourriture auprès des villageois de l'île de Tokashiki et aurait ordonné à plus de 300 habitants de procéder à une autodétermination de groupe. Un tel fait a-t-il vraiment existé ? Qu'est-ce qu'un « être humain » dans une situation extrême ? Dans ce livre, la grande quantité de matériaux, la reconnaissance sur le terrain et le désir sincère de l'auteur de rechercher la vérité exposent rationnellement le cœur de la tragédie au soleil. Un vrai long métrage de non-fiction.




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