日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

《大东亚战争终结之诏书Voix radiodiffusée du Joyau》Als die Bombe fiel und der Kaiser zum Menschen wurde/The Potsdam Declaration«Император в августе日本最漫長的一天The Emperor in August»항복방송降伏放送【Попытка военного переворота в Японии (1945)궁성 사건】(CANADA🍁)2023/08/12Antid Oto


ポツダム宣言(ポツダムせんげんПотсдамська декларація、英:Potsdam Declaration
포츠담 선언Conférence de Potsdamは、1945年(昭和20年)7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国、中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言(にほんへのこうふくようきゅうのさいしゅうせんげん、Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言(べいえいしさんごくせんげん)」[1]ともいう[注釈 1]。ソビエト連邦は、後から加わり追認した。そして、日本政府は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印・即時発効に至って第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した(日本の降伏)。


Die Potsdamer ErklärungПотсдамская декларация波茨坦公告 vom 26. Juli 1945 legte die offiziellen amerikanisch-britisch-chinesischen Bedingungen für die Kapitulation Japans am Ende des Zweiten Weltkriegs fest. Sie ist nicht zu verwechseln mit dem – zuweilen ebenso bezeichneten – Potsdamer Abkommen.

1945年8月9日午前10時半から、最高戦争指導会議(Высший совет по руководству войной (яп. 最高戦争指導会議최고전쟁지도회의 сайко: сэнсо: сидо: кайги) — руководящий орган, созданный в Японии в августе 1944 года правительством Тосио взамен Комитету по связям правительства и Ставки小磯國昭内閣Kabinett Koisoが成立した直後の1944年(昭和19年)8月に、従来の大本営政府連絡会議Координационный комитет правительства и Императорской Ставкиを改称して設置された会議であるが、宮中にある防空壕で行われた。会議の出席者は天皇の他、政府から鈴木貫太郎首相(海軍大将=48年、肝臓癌で死亡Baron Kantarō Suzuki (鈴木 貫太郎, 18 January 1868大阪府出身 – 17 April 1948[1]) was a Japanese admiral and politician. He was an admiral in the Imperial Japanese Navy, member and final leader of the Imperial Rule Assistance Association and Prime Minister of Japan from 7 April to 17 August 1945)・東郷茂徳外相(A級戦犯・20年の禁固刑=50年に心臓病の悪化で死亡Тоґо Сіґенорі (яп. 東郷茂徳, とうごう しげのり10 грудня 1882鹿児島県出身 – 23 липня 1950; кор. 박무덕) — японський політик та дипломат корейського походження часів Другої світової війни)・阿南惟幾(これちか)陸相(大将=45年8月15日に自殺Anami Korechika (jap. 阿南 惟幾; 21. Februar 1887東京都出身 in Taketa, Präfektur Ōita大分県(父の出身地); † 15. August 1945 in Tokio) war ein japanischer General und Heeresminister im Zweiten Weltkrieg)・米内光政海相(海軍大将(戦後公職追放)=48年、肺炎により死亡Mitsumasa Yonai (米内 光政, Yonai Mitsumasa?), né le 2 mars 1880岩手県出身 et mort le 20 avril 1948, est un amiral de la Marine impériale japonaise et un homme d'État qui fut le 37e Premier ministre du Japon du 16 janvier au 22 juillet 1940)、軍から梅津美治郎参謀総長(大将=A級戦犯・終身刑=49年、直腸癌により獄中で死亡Ёсидзиро Умэдзу (яп. 梅津 美治郎 Умэдзу Ёсидзиро:, 4 января 1882大分県出身 — 8 января 1949) — генерал императорской армии Японии)・豊田副武(そえむ)軍令部総長(海軍大将(聯合艦隊司令長官=古賀峯一大将(44年、搭乗機の墜落により殉職Mineichi Koga (古賀 峯一 Koga Mineichi?, 25 de septiembre de 1885佐賀県出身-31 de marzo de 1944) =海軍乙事件)の後任)=A級戦犯容疑者として逮捕されたが、東京裁判で不起訴=公職追放(52年解除)57年死亡Соему Тојода (јап. 豊田 副武, Toyoda Soemu; 1885大分県出身 — 1957) био је јапански адмирал и ратни злочинац. Био је командант 4. поморске флоте у инвазији Кине, а од 1940)であった。会議では連合国に対して、四つの条件をつけてポツダム宣言を受諾するという、政府と軍の根本方針が決定された。その四つの条件と言うのは、
①皇室の存在を確認させる。
②日本軍の撤兵は、自主的に行う。
③戦争責任者の処理は、日本で行う。
④連合国は、ポツダム宣言の実行を保障するための占領は行わない。
というもので、無条件降伏を求めるポツダム宣言と根本的に食い違うものであった。そしてこのような日本政府と軍の方針は、その頃の日本の絶望的な敗北状況からいえば、余りにも虫のいいものであった。
果たして、その日の午後、天皇の弟高松宮宣仁親王(Nobuhito, prins Takamatsu高松宮宣仁親王, född 1906, död 1987, var en japansk prins. Han var son till kejsar Taishō och kejsarinnan Teimei av Japan)から、木戸内大臣(Kido Kōichi (japanisch 木戸 幸一; * 18. Juli 1889東京都出身(A級戦犯・終身刑=55年に釈放) 6. April 1977) war ein japanischer Politiker und verurteilter Kriegsverbrecher)に直々の電話があり、こういう条件付では、連合国はこれを拒絶と見る恐れがあるという心配を伝えてきた。そしてその心配は、直ちに天皇に伝えられた。鈴木内閣は閣議を開いた。そして「皇室の維持」だけを主張する東郷外相の提案を中心に、激しい議論を交わした。しかし外相案は、閣議決定に必要な全員一致の賛成が得られなかった。外相案への反対者は、阿南惟幾陸相・松坂広政法相(A級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨に収容されたが釈放(公職追放)晩年は佐藤栄作首相の弁護士を務め、60年まで存命Hiromasa Matsuzaka ( March 25 , 1884京都府出身 - January 5 , 1960 ) was a Japanese politician)・安倍源基内相(A級戦犯容疑者(同じく弁護士)・48年、岸・児玉・笹川などとともに証拠不十分で釈放=56年、参議院選に出馬し落選。89年まで存命Genki Abe (安倍源基, Abe Genki, 14 February 1894山口県出身 – 8 October 1989) was a lawyer, police bureaucrat and cabinet minister in early Shōwa period Japan)の3人であった。


こうして二つの会議とも、日本の運命について結論を出すことに失敗した。最高戦争指導会議の最中、長崎に第二の原子爆弾が投下された。被害は死者行方不明者約3万5千人、重軽傷者約6万人、全焼した家屋約1万4千戸であった。

The Nagasaki Atomic Bomb Museum (長崎原爆資料館Музей атомной бомбы, Nagasaki Genbaku Shiryōkan)Atombombenmuseum Nagasaki is in the city of Nagasaki, Japan. The museum is a remembrance to the atomic bombing of Nagasaki by the United States of America 9 August 1945 at 11:02:35 am.

Сове́тско-япо́нская война́蘇日戰爭 (официально: Война с Японией) Guerre soviéto-japonaise (1945)Soviet–Japanese Warソ連対日参戦소련-일본 전쟁— вооружённый конфликт в августе — сентябре 1945 года (официально — с 9 августа по 2 сентября) между Советским Союзом и Монгольской Народной Республикой, с одной стороны, и Японской империей и Маньчжоу-го, с другой. Вступление СССР как воюющей стороны в продолжавшуюся уже четыре года войну союзников с Японской империей было обусловлено соглашением на Ялтинской встрече лидеров в феврале 1945 года.

1945年8月9日朝、その頃内大臣として天皇を補佐する地位にあった木戸幸一は、天皇に呼ばれた。その時の話は午前9時55分から午前10時までの5分間の話に過ぎなかった。しかし天皇は、そのとき、日本の運命を左右する重大な決意を内大臣に伝えた。この天皇の話の内容は「木戸幸一日記」によると、およそ、次のような内容であったらしい。
「ソ連が我国に対して宣戦し、本日から交戦状態に入った。ついては戦いの収拾について、急いで研究し決定する必要があると思うので、鈴木首相と十分話あっておくように」。この話を受けた木戸内大臣はその直後、鈴木首相と会い、この際すみやかに「ポツダム宣言を利用して、戦争を終結に導く必要がある」と力説した。鈴木首相は最高戦争指導会議を開いて、日本の取るべき態度を決定したいと述べ、内大臣室を去った。会議はただちに開かれた。
こうして日本の支配者の上層部は、ようやく彼等の言葉でいう「戦争の終結」のために、決定的な動きをはじめたのである(*後に公表された『木戸幸一日記』によると、日本の支配層が受けたショックと動揺の大きさでは、原爆投下よりソ連参戦の方が大きかったという)。ソ連軍は8月9日午前零時から、ソ満国境で攻撃を開始した。天皇のいうソ連の対日宣戦布告は、モスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間8日午後11時)であった。ちょうどドイツの無条件降伏が確定してから3ヶ月目にあたり、ヤルタ協定の公約が守られたわけである。
満州には日本陸軍の中で最強とうたわれた関東軍があり、ソ連参戦の時点で24個師団75万人の兵力を持っていた。関東軍は長年にわたって、ソ連を仮想敵国とする北方戦の訓練を繰り返してきた。そのことからすれば、関東軍にとって、待望の日ソ戦争であり、ノモンハンの恥をそそぐべき絶好の機会だったはずである。しかしそうはいかなかった。なぜならその24個師団は、満州の現地で召集して人数だけ合わせた未熟な師団からなっていた。
優秀な戦車隊を含む関東軍本来の師団は、次々と太平洋方面に引き抜かれていた。その結果関東軍はソ連軍に対して攻勢を取ることができず、通化市を中心とした満州の東南部の陣地に立て篭もって、出血持久戦をする以外になくなっていた。そのためソ満国境の守りは、かなり手薄になっていた。ナチス・ドイツが東と西の二つの正面を守りきれなかったように、日本は、南と北の二つの正面を守りきることができなくなっていた。
国境を突破してきたソ連軍は、圧倒的な兵力と猛烈な急進撃で、幾つもの国境守備隊を全滅させ、さらに後退する関東軍を追って、北から南へ、或いは西から東へ殺到した。ことに戦車・装甲車を主体とするソ連の機甲兵団は、西方から侵入してきて、満州中央部を踏みにじった。こうした中で、後退する部隊と現地に踏みとどまって戦う部隊が入り乱れて、数日にして関東軍は、統一した防衛戦を行う力を失った。
その結果哀れをとどめたのは、満州に住んでいた約100万人の日本人居留民であった。これらの日本人民衆は、列車やトラックを独占して後退する日本軍に見捨てられ、ソ連軍の暴行・掠奪・虐殺にさいなまれた。さらに長い日本支配への反感から蜂起した中国人民衆の襲撃も受け、敗戦国民衆としてあらゆる悲惨に直面させられた。


In the Empire of Japan, an Imperial Conference (御前会議, Gozen Kaigi) (literally, a conference before the emperor) was an extraconstitutional conference on foreign matters of grave national importance that was convened by the government in the presence of the Emperor.

深夜の御前会議
事態は極めて重大であった。そこで鈴木首相は、8月9日の午前11時過ぎ頃、天皇に会った。最高戦争指導会議を御前会議として開き、その会議に平沼騏一郎枢密院議長(A級戦犯・終身刑=52年仮釈放、その年に死亡
Hiranuma Kiichirō (Iaponice 平沼 騏一郎 Hiranuma Kiichirōnatus die 28 Septembris 1867 natus岡山県出身; Tocione mortuus die 22 Augusti 1952) fuit iuris consultus, politicorum peritus, et Iaponiae primus minister(元内閣総理大臣=首相) a die 5 Ianuarii 1939 usque ad diem 30 Augusti 1939)を出席させることを願った。天皇はそれに同意した。そして11時50分、御前会議が開催された。場所はやはり宮中の防空壕である。会議では、閣議の多数意見である外相案が、議長の鈴木首相から原案として提出された。原案には「先月26日付三国共同宣言にあげられた条件中には、天皇の国家統治の大権に変更を加える要求を包含しておらざることの了解の下に、日本政府はこれを受諾す」とあった。
議長の鈴木首相はこの原案の後、閣議が6対3に分かれて、意見の一致しなかった経過を説明し、次に東郷外相を指名して、提案理由の説明に当たらせた。外相の説明は「前には、ポツダム宣言は受諾できないということであったが、本日の事態では受諾は止むを得ない・・・」相手国につける条件は、絶対受諾できないものだけをあげるべきである。ソ連の参戦により、米英の地位はいよいよ確実となり、これ以上、条件を緩める余地はない。
先の四条件のうち、日本軍の自主撤兵は停戦の協定を結ぶときにでも申し出る機会があるだろうし、戦争犯罪人のことは受諾の難しい問題だが、これとて、戦争を続けても通さなければならぬほど絶対条件ではない。ただし、皇室だけは絶対条件である。それは将来の民族発展の基礎だからである。だから相手国につける条件は、この点に集中する必要がある」というものであった。この後鈴木議長は、米内海相の所見を求めた。米内は、外相案に同意という。次に所見を求められた阿南陸相は、こう発言する。「全く反対である。その理由は、カイロ宣言は満州国を見殺しにすることになって、道義国家の生命を失うことになる。仮に受諾するとしても、先の四条件が満たされる必要がある。ことにソ連のような道義なき国家に対し、こちらの条件だけを一方的に取り下げてポツダム宣言を受諾する案には同意できない。一億が枕を並べて倒れても、大儀に生きるべきである。だから、あくまで戦争は継続しなければならず、また十分に戦いをする自信がある。アメリカに対しても、本土決戦に対しても自信がある。もし仮に、ポツダム宣言を受諾したとしても、海外諸国にある日本軍は、無条件に矛を収めないであろう。また国民の中にも、あくまで戦うものがあって、結局は内乱が起るかもしれない」。
こうしてまたも会議は3対3で分かれた。外相案賛成は東郷外相・米内海相・平沼枢密院議長の3人。外相案反対・戦争継続論は阿南陸相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長の3人。そこで鈴木議長はかねての考え通り、自ら最後の一票を投ずることなく天皇の前に進み、これまでの御前会議のルールを破って、天皇自身の判断(いわゆる聖断)により、ことを決したいと奏上した。出席者の全ての目と耳とが天皇に集中し、やがて天皇が口を切った。
天皇はいう。「外相案に賛成である」と。そして「念のため理由をいおう。従来、勝利獲得の自信ありと聞いているが、今まで計画と実行が一致しない。また陸軍大臣のいうところによると、九十九里浜(アメリカの上陸作戦予定地)の築城が、8月上旬までに出来上がるとのことであったが、まだ出来あがっていない。さらに新設の師団が出来ても、これに渡すべき兵器は整っていないとのことだ。これではあの機械力を誇る米英軍に対して、勝算の見込みはない。朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、また、朕の臣を戦争責任者として引き渡すことは忍びないが、大局上、明治天皇の三国干渉のご決断の例に習い、忍び難きを忍び、人民を破局より救い、世界人類の幸福のためにこう決心したのである」と発言した。
こうして日本の取るべき道は決断された。時に1945年8月10日午前2時30分。防空壕の外には月光が輝いていた。

それからの5日間
外相案はこうして、最高戦争指導会議の決定となり、8月10日午前3時からの鈴木内閣の閣議で正式に政府決定となった。夏の夜が明けた午前6時過ぎ、外務省電信課は、一条件つきのポツダム宣言受諾の電報を、スウェーデンとスイスの二中立国を通じて、米英中ソの4カ国宛に打電した。後は、その一条件についての連合国の回答待ちということになった。
しかしこれで、敗戦の方向が確定したわけではなかった。例えば本土決戦論の主唱者であった阿南陸相は、この10日の午後、ラジオを通じて「断乎神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ」とする「全軍将兵への布告」を伝えさせている。もっともこの布告は、大臣や次官の十分な了解なしに、陸軍省軍務局が独走して作成し、発表したものともいわれている。
こうして戦争継続論と和平論の対抗するうちに、二日間が過ぎた。そして8月12日の深夜、アメリカのバーンズ国務長官(ジェームズ・フランシス・バーンズ(英語: James Francis Byrnes、1882年5月2日 - 1972年4月9日)Джеймс Фрэнсис Бирнсは、アメリカ合衆国の政治家。1945年7月から1947年1月まで国務長官を務め、閣内で唯一の原爆投下強硬派であった)が、スイス駐在代理大使に送った回答文が伝えられてきた。その回答中、問題の点は次の二点であった。
①降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合軍最高司令官に従属するものとする。
②最終的な日本国の政府の形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとする。
外務省はこの回答を受けて心配した。これでは戦争継続論者の受諾反対の火に油を注ぐようなものではないか。その油の1滴でも減らしたいと、外務省の官僚は苦心した。そして原文で「従属する」となっていたところを「制限の下に置かれる」という誤訳まであえてした。しかしその心配は的中した。先の御前会議で受諾派であった平沼枢密院議長が反対派に回った。そして8月12日から13日にかけて、戦争指導最高会議のメンバーによる集まりでも、閣議でも、もめにもめた。
この間鈴木首相自身も動揺したとも伝えられる。また陸軍省軍務局や参謀本部の将校の間で、和平派弾圧のための兵力使用によるクーデター計画が進められたりもした。さらに特攻の生みの親である大西瀧治郎軍令部次長(Takijirō Ōnishi (大西 瀧治郎 Ōnishi Takijirō?; Prefettura di Hyōgo, 2 giugno 1891兵庫県出身 – Tokyo, 16 agosto 1945自殺) è stato un ammiraglio giapponese, attivo durante la seconda guerra mondiale)などは東郷外相に迫って、「今後2000万の日本男子を殺す覚悟にて、これを特攻として用うれば負けはせぬ」と豪語した。
一方和平派は、東郷外相と木戸内大臣が中心になって、必死の挽回を図った。やがて鈴木首相も明確に受諾を決断した。ことにアメリカ機がビラをまいて、日本のポツダム宣言受諾の申し入れや連合国の回答文を知らせはじめたことは、全国の混乱を何よりも恐れている和平派を強く刺激した。ついに鈴木首相と木戸内大臣は、8月14日朝、2人で天皇に会い、再び御前会議を開く許可を得た。
全ての対立は「天皇の国家統治の大権」の護持つまり「国体護持」にかかっていた。和平派はポツダム宣言を受諾しても、国体の護持は可能だと考えた。戦争継続派は死中に活を求める本土決戦をしないと、国体の護持は出来ないと考えていた。そのいずれの派においても、国民の生命と生活ということは、殆ど完全に抜け落ちていた。
鈴木内閣の全メンバーと最高戦争指導会議のメンバーが合同した御前会議は、午前10時30分から正午まで、やはり宮中の防空壕で開かれた。はじめに鈴木首相は、連合国側の回答に対する日本の態度を審議した8月13日の最高戦争者指導会議で意見が一致しなかったことを報告した。ついで梅津・豊田・阿南の3将軍から、この条件では国体の護持は不可能だから、再照会するか、死中に活を求める決戦をすべきだとする意見がそれぞれ表明された。
しばらく沈黙が流れた後、立ち上がった天皇は、4日前の判断を変えないとする発言をした。こうしてすべては決まった。この日の午後から、いわゆる「終戦の詔勅」案が審議され、夜遅くには、詔勅発布のため全ての手続きが終了した。8月14日午後11時、「終戦の詔勅」は発布された。外務省はただちに、スイスの加瀬俊一公使(Toshikazu Kase (加瀬 俊一 Kase Toshikazu?, 12. januar 1903千葉県出身 – 21. maj 2004) bio je japanski državni službenik i diplomat)に宛てて、スイス政府を通じて、そのことを連合国に通報するよう訓令電報を打った。1945年8月14日午後11時、それが日本の敗北の日時である。

L'incident de Kyūjō (宮城事件, Kyūjō jiken?) est une tentative de coup d'État militaire qui s'est déroulée au Japon durant la nuit du 14 au 15 août 1945 juste avant l'annonce de la capitulation japonaise. L'acte est mené par des officiers du ministère de la Guerre et de la garde impériale afin d'empêcher le gouvernement japonais d'accepter les conditions des Alliés menant à la capitulation du Japon.

8月15日午前3時20分、木戸内大臣は突然浅い眠りの夢から覚まされた。訪問者は、天皇の下に遣える侍従の戸田康英であった。彼は午前1時頃から、近衛師団の一部将校らが反乱を起こし、宮内省の電話線を切断し、天皇の休んでいる御文庫室を包囲し、宮城占領のクーデターが始まったという、驚くべき知らせをもたらした。木戸は直ちに起床した。ことは重大である。一歩間違えば、夕べまでの戦争終結の工作は、いっぺんでご破算になる。
事実、陸軍の畑中健二少佐、井田正孝中佐らをリーダーとする反乱軍は、木戸内大臣が事件の第一報を聞いたのとほぼ同じ頃、近衛師団長の森赳中将を射殺し、殺した師団長の名を用いて命令を出し、宮城占領計画を実行しはじめていた。もしそれが成功すれば、陸海軍の中にある強硬な抗戦派の行動への導火線になるかもしれなかった。そしてもっと直接的に心配なことがあった。それは14日午後11時50分に、宮城内の宮内省2階にある御政務室で、天皇自らの声によって録音したばかりの「終戦の詔勅」(玉音放送)の録音盤が奪われることであった。この放送は、正午からと予定されていた。

Generalleutnant Mori Takeshi (jap. 森 赳; * 25. April 1894 in der Präfektur Kōchi高知県出身; † 15. August 1945) war zum Ende des Zweiten Weltkriegs der Befehlshaber der ersten Division der kaiserlichen Garde der japanischen Armee. Er wurde von Putschisten, die den kaiserlichen Palast und das Gebäude des kaiserlichen Hofamtes eroberten, um eine Ausstrahlung der Kapitulationsrede von Kaiser Hirohito zu verhindern, ermordet.

Le major Kenji Hatanaka (畑中健二, Hatanaka Kenji?), né le 28 mars 1912京都府出身 et mort le 15 août 1945, est un soldat japonais et un des principaux conspirateurs du plan visant à s'emparer du palais impérial et empêcher la diffusion du discours de capitulation de l'empereur Hirohito destiné à mettre un terme à la Seconde Guerre mondiale.

Lt. Col. Masataka Ida (井田正孝, Ida Masataka) (5 October 1912岐阜県出身 – 6 February 2004) was a young Lieutenant Colonel in the Military Affairs Section of the Japanese Ministry of War, at the end of World War II. He had been stationed on Formosa (Taiwan), but was ordered back to Tokyo early in 1945. Along with Major Kenji Hatanaka and a few others, he was one of the chief conspirators in the Kyūjō incident to overthrow the government of Prime Minister Kantarō Suzuki; they wished to see the institution of martial law under War Minister Korechika Anami.
木戸内大臣は重要書籍を破いて便所に流し、宮内省地下室に隠れた。宮内大臣の石渡荘太郎(Ishiwata Sōtarō (japanisch 石渡 荘太郎; geboren 9. Oktober 1891 in Tokio東京都出身; gestorben 4. November 1950) war ein japanischer Bürokrat und Politiker während der Shōwa-Zeit)もそこに潜んでいた。そして正副2枚の録音盤は、それを預けられた侍従の徳川義寛(Yoshihiro Tokugawa (徳川 義寛, Tokugawa Yoshihiro?, 7 novembre 1906東京都出身(尾張徳川家系列) - 2 février 1996) est une personnalité politique japonaise du milieu jusqu'à la fin du xxe siècle)の手によって、宮内省1階の事務室の軽金庫という目立たないところに隠されていた。やがて反乱軍による宮内省の捜索がはじまった。しかし内大臣も宮内大臣も、そして録音盤も発見されなかった。反乱軍の軍人達には焦りが見え始めた。ともに立ち上がるはずの東部軍では、軍司令官田中静壱陸軍大将の下で、反乱鎮圧の体制が整えられていった。

Shizuichi Tanaka (田中 静壱, Tanaka Shizuichi, 1 October 1887兵庫県出身 – 24 August 1945) was a general in the Imperial Japanese Army and Japanese Military Governor of the Philippines during World War II.
そして宮城占拠の師団長命令はニセであるから服従するなという命令が、各部隊にあてて下された。夜が明けた頃、阿南陸相は、議事堂に近い官邸で「一死以って大罪を謝し奉る」と書き、日本刀で割腹し自殺した。その「大罪」という言葉で陸軍大臣は、何を詫びようとしたのであろうか。そして午前7時21分、ラジオは、この日の正午から「天皇陛下御自ら」の放送があるという予告を、はじめて全国に流した。

Korechika Anami (阿南 惟幾 Anami Korechika?, 21 de fevereiro de 1887 – 15 de agosto de 1945) foi um general do Exército imperial japonês durante a Segunda Guerra Mundial e Ministro da Guerra durante a rendição do Japão.
午前8時、反乱に動員された近衛師団の兵士たちは、まるで何ごともなかったかのように、宮城から撤退して行った。もう敗戦への道を妨げる者は、どこにもいなかった。日比谷に近い放送会館では運び込まれた録音盤による、玉音放送の準備が整えられた。放送電力はいつもの6倍の出力になり、昼間の送電からのお盆の中継も、昼の「民謡夏の旅」も、みな中止された。やがて正午の時報が鳴った。太陽はそのとき、日本列島のほぼ真上に輝いていた。
その真夏の太陽は「大日本帝国」を焼きつくす光になろうとしていた。和田真賢アナウンサーが、全国の聴取者に起立をうながした。続いて情報局総裁下村宏が天皇自ら「大詔」を発することを述べ、それに「君が代」が続いた。そしてその後、録音盤に針がおろされた。天皇の声が流れ始めた。日本の津々浦々でみんなが、その声を聞いていた。途中で涙を流す者もいた。よく聞きとれない者もいた。宮中の地下防空壕の控室では、ひどく力のない表情の天皇が、椅子に身を沈めたまま、自らの声に聞き入っていた。

Hiroshi Shimomura (Japanese: 下村宏) (May 11, 1875和歌山県出身 – December 9, 1957) 号は海南(かいなん)was the fourth President of the Japanese Olympic Committee (1937–1942), he was a graduate of the University of Tokyo.

The Hirohito surrender broadcast (Japanese:玉音放送Обращение императора Хирохито,Hepburn: Gyokuon-hōsō, "broadcast in the emperor's voice")항복방송(降伏放送) was a radio broadcast of surrender given by Hirohito, the emperor of Japan, on 15 August 1945.《终战诏书Voix radiodiffusée du Joyau》《大东亚战争终结之诏书Kaiserlichen Erlass zur Beendigung des Großostasiatischen Kriegs〈대동아 전쟁 종결의 조서〉(大東亜戦争終結ノ詔書) 줄여서 〈종전 조서〉(終戦詔書)
宮本百合子はその自伝的な「播州平野」の中で、この時間を、こう描写している。「・・・村中は、物音一つしなかった。寂として声なし。全身にひろ子はそれを感じた。8月15日の正午から午後1時まで、日本中が森閑として息をのんでいる間に、歴史はその巨大なページを音もなくめくったのであった」。

Miyamoto Yuriko (japanisch 宮本 百合子, eigentlich: Chūjō Yuri (中條 ユリ); * 13. Februar 1899 in Koishikawa (heute: Bunkyō), Tokio東京都出身; † 21. Januar 1951) war eine japanische Schriftstellerin und Kritikerin der Shōwa-Zeit.

Japan's Longest Day (Japanese: 日本のいちばん長い日, Hepburn: Nippon no ichiban nagai hi) is a 1967 Japanese epic war film directed by Kihachi Okamoto. The subject of the majority of the movie is the period between noon on August 14, 1945, and noon on August 15, 1945, when Emperor Hirohito's decision to surrender to the Allies in World War II was broadcast to the Japanese people, and the attempted coup d'état to prevent that from happening. Film historian Joseph L. Anderson describes the film as "a meticulous reconstruction of the day Japan surrendered and thus ended the Pacific War.[1]

«Император в августе» (яп. 日本のいちばん長い日 нихон но итибан нагаи хи, «Самый длинный день Японии»; в зарубежном прокате — англ. The Emperor in August) — историческая драма Масато Харады, снятая и выпущенная в прокат в 2015 году[1][2]. Главные роли исполнили Кодзи Якусё, Масахиро Мотоки, Синъити Цуцуми и Тори Мацудзака. Фильм является расширенным ремейком картины «Самый длинный день Японии» (яп. 日本のいちばん長い日) режиссёра Кихати Окамото, посвященного событиям 14 и 15 августа 1945 года, когда император Хирохито принял решение о капитуляции Японии во Второй мировой войне[3][4].

2015/07/26ーよしりん「日本のいちばん長い日」絶賛!|テレビ朝日Yoshirin "Japan's longest day" acclaimed!
Journalist Soichiro Tahara (81) and manga artist Yoshinori Kobayashi (61) attended the movie "Japan's Longest Day" (released on the 8th, directed by Masato Harada) held at the Shochiku headquarters in Tsukiji, Tokyo on the 26th. He attended the special preview as a guest and held a talk event titled "70 years after the war, looking back on the day the war ended and the decisions of the leaders". Mr. Kobayashi praised Masahiro Motoki (49), who played Emperor Showa, for playing without entering the form. "It's more dignified that way," he raved. Although he himself is a conservative controversialist, he showed an episode in which he was flooded with protests when he drew Emperor Showa in a manga, saying it was "disrespectful." He went on to say that his performance, which is not bound by the image of Emperor Showa so far, is "courageous." Also compared with the 1967 version (directed by the late Kihachi Okamoto). "The previous work was like a stage play without the background. As a manga artist, it was a great reference. was also honored.



Geschichte Japans (Horupu Educational System) – 1. November 1987 von Ienaga Saburo (Autor)

War Responsibility (Iwanami Modern Bunko Society 50)  – January 16, 2002 by Ienaga Saburo (author)
満洲占領の成功ののち、熱河・東部内蒙古の侵略、冀東傀儡政権樹立を経て、ついに盧溝橋事件をきっかけに中国との全面戦争へとエスカレートするのであるが、そのようなエスカレーションを推進した陸海軍高級将校やこれを阻止しなかった中央の政府・統師機関の最高級文武官僚は、すべて侵略拡大の責任を問われればならず、特に全面戦争への展開の直接の原因をつくった盧溝橋事件直後の大動員・大部隊中国派遣の措置をとり、あまつさえドイツ公使の和平幹旋をしりぞけて中国の首都南京を占領し、1938(昭和13)年1月16日には「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ対手トセス」と声明をして和平の道をいっそう狭くしてしまった、当時の内閣総理大臣近衛文麿(Fürst Konoe Fumimaro (japanisch 近衞 文麿, Konoe Fumimaro, veraltet auch Konoye; * 12. Oktober 1891 in Kōjimachi, Tokio (heute Chiyoda)東京都出身; † 16. Dezember 1945A級戦犯容疑者・服毒自殺) war ein japanischer Politiker)以下全閣僚、参謀本部将校の責任は、柳条湖事件当時の最高責任者、対米英開戦決定干与の最高責任者の責任とならんで、もっとも重いとしなければならないであろう。
「満州国」をそのままにして中国と真の和平をいつまでも維持できたかどうかは疑わしいにせよ、少なくともあの時点で中国と全面的な戦争を開始し、その時から数えても8年間にわたり山海関以南の中国全土に戦火を拡大し膨大な人数にのぼる中国軍民の殺傷、中国女性の強姦、中国民衆の生活の破壊などの大惨事を惹起した結果に照らすとき、近衛らの責任は極めて重大である。反面、中国との戦争で日本軍将兵多数を侵略戦争の中で死傷させた、日本国民への責任もまた同様に重大ということができる。
次に対米英開戦決定については、その結果が惨々たる敗戦に終わり非戦闘員同胞の多数を惨死させるのを避け得ないことを予見する可能性を有しながら、無謀な開戦意思を段階的に確立していき最後に実行にうつした責任者として、第3次近衛内閣の陸軍大臣として強硬に開戦を主張した陸軍大臣東条英機Hideki Tojo、自分は開戦に反対でありながら最後まで開戦阻止のための努力を尽くさず内閣を投げ出してしまった総理大臣近衛文麿、その後任として内閣を組織し、参謀総長杉山元Hajime Sugiyama、軍令部総長永野修身(Osami Nagano (永野 修身(海軍大将), ur. 15 czerwca 1880 w Kōchi高知県出身, zm. 5 stycznia 1947 w TokioA級戦犯容疑者・裁判中に急性肺炎を患い死亡) – japoński admirał, od kwietnia 1941 roku szef sztabu generalnego japońskiej marynarki wojennej)とともに開戦決定の主唱者となった東条、ならびに宣戦の詔書に副署した東条内閣の全国務大臣の責任がきびしく問われなければならない。
対米英開戦において、南方の広大な地域において東南アジア・西南太平洋諸民族に多大な犠牲を払わせ、さらに太平洋の海上、西南太平洋諸地域で多数の日本軍将兵を死地に投じ、最後に本土・満州などで多数の非戦闘員同胞を死傷させたことは、いずれも日本歴史上に例のない残虐行為というほかなく、ヒトラーらナチス首脳部の責任と、規模に若干の差があるとはいえ、世界史上未曾有の重大な責任を追及されるのを免れない。


Saburō Ienaga (家永三郎, Ienaga Saburō?), né le 3 septembre 1913 et mort le 29 novembre 2002, est un enseignant, historien et historien de l’art japonais, ainsi qu’un militant pacifiste et pour la liberté d’expression. Il a été nominé pour le prix Nobel de la paix en 200
帝国憲法は、国民を天皇の「臣民」とし、その権利・自由は天皇から恩恵として与えられるものとし、自然権としての基本的人権を認めず、帝国憲法では、「法律ノ範囲内二於テ」とか、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カラル限ニ於テ」とかの留保つきの自由が定められるにとどまった。ことに重要なのは、精神的自由と人身の自由に対する強い制限である。「言論著作印行集会及結社ノ自由」は、出版法・新聞紙法・治安警察法・不敬罪などの法律により、事前の禁止や事後の刑事訴追の脅威のもとにおかれ、表現の自由も知る権利も、権力が許容する範囲においてしか行使できず、権力は国民に知らせたくない情報、国民が学び知るのを好ましくないと考える知識・思想の伝統をすべて圧殺することができたから、国民の真実を知り真実に基づいて多様な意見を交換して最善の道を選ぶことを極めて困難とした。
演劇・映画は娯楽とみなされ、法律によることなく行政立法によって規制され、ラジオ放送は国家の管嘗するところであって、他のメディアに与えられた狭い自由さえなかった。神社崇敬は「臣民タルノ義務」とされ、国教としての神社神道は形式上「宗教」でないとされていたので、信教の自由といっても、国家神道と共存しうるかぎりの自由しか認められなかったし、現実の国家の相対視し超越絶対者を国家・君主の上に置く信仰は許されなかったのである。学問の自由も教育の自由も、憲法の明文では保障されておらず、条理上これらの自由の保障があるとする学説はあったけれど、成文法では認められていなかった。
大学・高等専門学校に対しては、ある程度の範囲で研究の自由と教育の自由とを黙認していたが、それにも大きな限界があり、ひとたび権力が「反国家的」と認定すれば、学問の自由も、大学の自治も、簡単に蹂躙された。15年戦争期には、大学教授・元教授への弾圧事件が次々に起っている。初等・中等教育の内容は、国家がその内容を完全に嘗握していて、小学校では国定教科書を、中等学校では検定教科書をそれぞれ使用することを義務づけ、教師はその内容を忠実に教え込み、児童・生徒はそれを忠実に学習するように強制された。小学校教育が「義務教育」とされていたのは、「忠良ナル臣民」になるために課せられた国民の義務としての教育という意味であったのである。
1943(昭和18)年には、中等学校の教科書も国定となった。内容の国定・検定教科書により、天皇至上主義・国家絶対主義・軍国主義の精神や家長父家族道徳などの画一化されたイデオロギーを注入されるときに、国民の大多数がそのような思想の持主となり、権力の望みどおりの方向に行動する人間として育成されていく結果となるのは必然であった。学校教育は、国家権力が国民の意識を支配するためにもっとも有効なメカニズムとして働いたのであった。
15年戦争の進行していくなかで、精神的自由は極限まで圧縮され、知る権利と学習権はきわめて狭小となった。特に戦争に関する情報は軍当局の発表をそのまま報道することしか許されず、日本軍の諜報や残虐行為や戦況悪化などの軍にとって不利な情報は一切知らされなかったから、直接体験する範囲以外に国民が戦争の真相を知る途は存しなかった。中国その他燐邦諸民族への侵略・加害や、対米英開戦にいたるまでの外交交渉も、国内での政府と軍との戦争準備も、すべて国民には秘密とされており、和戦について国民の意見の聴かれる機会のなかったのはもちろんのこと、どのような方向に祖国の運命を左右する国家意思の決定がなされようとしているかさえ知らないままに、突如として関東軍の奉天占領や対米英開戦のニュースを聞かされた、というのが実情であったのである。
戦後の15年戦争についての学問的・啓蒙的著作には、戦後はじめて公表された機密文書や証言を史料として開戦にいたる経緯や戦争の赤裸々な実態の記述がなされたあとに利用可能となった史料によっているのであり、その時点で生活していた一般国民の大多数は、例えば従軍して非戦闘員虐殺の現場に居合わせた人など隠されていた事実を体験した人々を除けば、全然知らなかったことばかりであるのをいつも念頭においてそれらの記述を読んでいただきたいということである。

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