日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『Nanjing Massacre Defeat of the historical falsification group南京大虐殺歴史改竄派の敗北 - Li Xiuying Defamation lawsuit to the future』/ 本多 勝一Katsuichi Honda, 星 徹Toru Hoshi, 渡辺 春己Harumi Watanabe《南京大屠杀幸存者李秀英控诉日军暴行》Prière pour la paix et l'amitié entre la Chine et le Japon🍁2023/07/22CANADA⑤

あの惨事から10日ほど*1だったろうか、数人の老人が敷地内に入ってきて、生きている人がいるかどうか調べたり、何か探し物をしているようだった(夏さんは、彼らは何か食べ物を探しにきたのではないか、と推測する)。夏さんと妹は人の気配に気づいて「避難所」に隠れたが、その老人たちが中国語で話していたので、大丈夫だと思いそこから飛び出した。すると、近くにいた老婆が「あっ!まだ生きている人がいる!」と驚いて言い、近くに住む「老人堂」(老人ホーム)に二人を連れていってくれた。
夏さんの血まみれの衣服は、とても臭くなっていた。それからしばらくのあいだ、夏さんと妹は、この「老人堂」で保護されていた。その日数については、夏さんは「かなりの日数があったので、数週間になると思う」と証言する。


「マギー牧師の解説書」との同一性
年が明けて38年になり、難民区から中国人が少しずつ外に出るようになってから、そこに避難していた叔父(もともと同居していた母の弟)が、心配になって夏さん一家のようすを見にきた。それで叔父は、夏さん一家の惨劇の現場を目撃したのである。しかし、そこには夏さんとその下の妹の姿がないので、近所の人に尋ねて、二人が「老人堂」で保護されていることを知った。それで、叔父が「老人堂」に迎えにきたのである。そのころ、夏さんが刺された三ヶ所の傷のうち、左脇腹と左肩の傷はだいぶ良くなっていたが、背中の傷だけは腫れて悪い状態だったという。
夏さんは叔父にかつがれ、その「老人堂」をあとにして、難民区へと向かった。もちろん、妹も一緒だった。当時、難民区で生活するには、南京市自治委員会で*2「登録証」の手続きをしなければならなかった。食糧などの配給を受けるためらしい。そこで夏さんは、自分がこれまで体験した惨事について、担当者(中国人)に大まかな話をした。その担当者がその話を上司に報告したところ、「これは大変なことだ」ということになり、南京安全区国際委員会*3にそのことが伝えられた(聞)。それで、ラーべ同委員長がマギー牧師にそのことを伝え、現場に派遣したのである(聞)。
マギー牧師は夏さんと妹とその叔父を連れて、彼女たちを保護した「老人堂」の老婆にも同行してもらい、夏さん宅の惨殺現場を訪れた。そして、16ミリフィルムで現場を撮影したのである。

(*その時のフィルムは現在でも残っており、十数体の遺体が戸外に並べられている場面も見ることができる。そして、マギー牧師の「日記」の38年1月30日欄には、ここ一週間の出来事の一つとして、この現場撮影のことが記されている。また、ラーべ氏の日記の1月29日欄には、マギー牧師のこの取材について書かれている*4。このことから、マギー牧師が現場を訪れたのは、1月23~29のあいだと推測できる。)

このフィルムに関する「マギー牧師の解説書」(英文)が、駐華ドイツ南京大使館分館のローゼン書記官によって、38年2月10日付で上海を経由してドイツ外務省(ベルリン)宛に送られ、現在でも保管されている。その記録(翻訳)は、石田勇治編集・翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』(大月書店・2001年)に掲載されており、その最後の部分に夏さん一家惨殺の映像についての解説がある(176~177ページ)。前記の夏さんの証言とは異なる部分もあるが、大筋においては一致していることが分かるだろう。以下に参考のために転載する。

Materials Nanjing Massacre Seen by German Diplomats – March 1, 2001 by Ishida Yuji (author), Kasahara Tokushi (author), Yoshida Yutaka (author)
暴虐の嵐が吹きすさぶ南京で、駐華大使館南京分館の勤務についていたドイツ人外交官たちは、南京城内と近郊で起きた事件についてリアルな報告を刻々と書き送っていた。ラーベ『南京の真実』をもしのぐ貴重な資料が、南京の「その日」を再現する。初めて公開される迫真の現場リポートIn Nanjing, where a storm of violence raged, the German diplomats on duty at the Nanjing Branch of the Embassy of China in China were constantly writing real reports about the incidents that occurred in and around Nanjing Castle. Valuable materials surpassing Rabe's "The Truth About Nanjing" reproduce "that day" in Nanjing. A realistic on-site report that will be released for the first time.
<12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかにいれろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのかを問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の76歳と74歳になる両親と、16歳と14歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の処女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負ったハ歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と14日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。撮影者は、このハ歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古いシーツの下に隠れていたので発見されなかった。
このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区へ避難した。14日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。彼女が撮影者〔の私〕を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。
彼女と夏氏の兄、さらにはハ歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が持たれた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる16歳と14歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。>

Deutschドイツ語→Georg Rosen (* 14. September 1895 in Schirwan, Persien; † 22. Juli 1961 in Detmold) war ein deutscher Jurist und Diplomat . . . Von 1933 bis 1938 war er als Legationssekretär an der Deutschen Botschaft in China tätig, so im Jahr 1937 auch in Nanjing, der damaligen Hauptstadt von China. In dieser Zeit setzte er sich gemeinsam mit dem deutschen Kaufmann John Rabe, nach dem japanischen Überfall auf China, während des Massakers von Nanking (auch Nanjing) 1937/38 für die Errichtung einer Schutzzone ein, um der chinesischen Zivilbevölkerung Schutz vor den Übergriffen der japanischen Soldaten zu bieten. Damit half er, mehr als 200.000 Chinesen das Leben zu retten. Rosens Rolle bei der Rettung der Zivilbevölkerung wird in dem Film John Rabe ausführlich dargestellt.
夏さんと妹は、その後も難民区にとどまった。ここでの生活について、夏さんは、「ラーべ氏をはじめとする外国の方々(南京安全区国際委員会の委員たち)が、私たちのために一生懸命やってくれました。彼らなしでは、われわれ南京の人々は、もっと酷い被害を受けていたことでしょう。彼らには、本当に感謝しています」と述べた。しかし、夏さんと妹は、家族九人のうち七人を殺されたため、その後は孤児として苦しい生活を強いられた。

「ニセ被害者」扱いに正当な根拠はない
今回、夏さんには辛い過去について語ってもらった。私はさらに、現在の思いについて尋ねてみた。夏さんは、以下のように答えた。
ー東中野氏と松村俊夫氏は、夏さんの証言は信用できないとして、著書(前出)のなかで「ニセ被害者」扱いしています。
 本当に憤りを感じます!家族九人のうち七人が無惨に殺され、しかも私の目の前であったことが、なぜ嘘だと言うのか?私はその生き残りであるし、この目で見た体験者でもあります。当時のことを思い出すと、本当に悲しくて辛いのです。そういった歴史の事実をもみ消そうとする日本の人々に対し、強く抗議したい。私はその後は孤児になり、毎日泣いて泣いて・・・苦しい生活を強いられました。(夏さんは怒りを込め、涙をぬぐいながら必死に語った。)
ーそれで2000年11月に、南京の裁判所に両氏への訴えを起こしたのですね?
 そうです。私のことさえ信用してもらえないのなら、南京大虐殺の事実の究明にはつながりません。東中野と松村に対して、私の人間としての尊厳を取り戻すためにも闘っていきたいと思います。
ー現在の日本に対して、どう思いますか?
 日本の軍国主義に対しては、今でも怒りを感じています。事件から半世紀以上たった現在でも、日本国内では「南京大虐殺はウソだ、でっち上げだ」と言ったり、被害者や目撃者の証言をニセモノ扱いする動きがあります。そういった歴史の事実をもみ消そうとする人たちに対して、強く抗議したい。
また、小泉首相は昨年(2001年)に引きつづき、今年も靖国神社に参拝しました。戦争責任者らも合祀されているところに参拝するとは、許せない行為です!私たちの過去は、血で書かれた歴史です。やはり、これらのことは繋がっているのです。

①Apr 17, 2020 — 実は米国がでっち上げた嘘だった「南京大虐殺」In fact, the "Nanjing Massacre" was a lie made up by the United States記念館の撤去で米中共作の嘘を正し「亡霊」の駆逐を求むThe removal of the memorial hall corrects the lie of the US-China collaboration and calls for the extermination of the
"ghost"https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60194②2018-02ー藤岡信勝Nobukatsu Fujioka日本虚人列伝Japanese Imaginary Person Retsuden 本多勝一Katsuichi Honda : 南京大虐殺のウソを広めた朝日の元"看板"記者は、今、何を思う?What does the Asahi's former "signboard" reporter, who spread the Nanjing Massacre lie, think now?正論Seiron産経新聞Sankei Shimbunhttps://cir.nii.ac.jp/crid/1520291856033767936

この取材の後、夏さんは馬道街(当時の新路口)の事件現場に案内してくれた。南京は現在ものすごい開発ラッシュで、古い建物はつぎつぎと取り壊され、新しいビルがどんどん建てられている。夏さん一家が当時住んでいた長屋も、そのほとんどがすでに取り壊され、「家主」の住居だけが残っていた。そして、夏さんら間借り人の住居だったところは、真新しい舗装道路に変わっていた。それでも夏さんは、「ここに間違いありません。道路の向こう側に、屋根の上に二つ突き出た窓のある建物があるでしょう。あそこは、事件後に日本軍が宿営していたところですから、はっきり覚えています。当時はその前にもう一つ建物があったのですが、日本軍が引き払うときに燃やしてしまったのです」と証言した。
夏さんは、かつての住み家があった道路の上で、しばらく無言で立っていた。そして私に向かい、静かに語った。
「家族がここに住んでいたことを思うと、懐かしいというか悲しいです。悲惨な過去の記憶をあらたにしました。もうすぐ、『家主』の家も取り壊されます。おそらく、日本人の撮影はあなたが最後でしょう。ここだけで、11人が日本軍の暴行によって命を失ったのです」
東中野・松村両氏は、このような悲惨な体験をした夏さんを「ニセ被害者」扱いしたのである。彼らが両著書のなかで取り上げるその”根拠”はどれも、彼らの希望的思い込みから発しているか、夏さん自身と関係者の証言記録などから描き出される事実関係の「微妙な違い」を大げさに取り上げ、勝手な推論をしているだけである。その大本のところには、彼らの悪意と論理的思考能力の欠如がある。
彼らが夏さんを「ニセ被害者」とする根拠は、これまで紹介した夏証言により、そのほとんどが荒唐無稽なものであることが明らかとなった。本書は、彼らの主張に一つひとつ反論することを目的とはしないが、東中野氏がその根拠と見なす事例について、一つだけ考察してみよう。
夏さん一家惨殺現場の映像に関する「マギーフィルムの解説書」(英文)の石田勇治氏による邦訳を155~156ページに掲載したが、東中野氏による邦訳も「東中野本」に掲載されている(241~242ページ)。東中野氏は以下部分、
…..The soldiers then bayonetted another sister of between 7-8 (⑩), who was also in the room. The last murders in the house were of Ha’s two children, aged 4 (⑪) and 2 years (⑫) respectively. The older was bayonetted and the younger split down through the head with a sword.
After being wounded the 8-year old girl (⑬) crawled to the next room where lay the body of her mother. Here she stayed for 14 days with her 4-year old sister (⑭) who had escaped unharmed. ……
*6(*東中野氏の解説に沿って番号をつけた。)

を次のように、邦訳している(英文は未掲載)。

<それから、兵士たちはもう一人の⑩七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。同じくその部屋にいたからである。
この家の最後の殺人は⑪四歳と⑫二歳になるマアの二人の子供children(筆者註・性別不明)の殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され、下の子は刀で真二つに斬られた。
そのハ歳の少女the 8-year old girlは傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った。無傷で逃げおおせた⑭四歳の妹her 4-year old sisterと一緒に、この子はここに14日間居残った。>(242ページ)

対照しやすいように、同じ部分の石田氏の邦訳を以下に再掲するので、よく比べていただきたい。
<さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負ったハ歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と14日間そこの居続けた。>
そして東中野氏は、自身の翻訳をもとに、以下のような驚くべき考察をしている。

<マギーはいきなり⑬の「ハ歳の少女」は「母の死体のある隣の部屋に這って行った」と説明したのである。その「母」とは、④のシア(夏は「シア」と発音するー星注記)の妻を指すのか、それとも③のマア(「家主」-星注記)の妻のことなのか(③④とも前記英文の前に出てくるー星注記)。
仮に「八歳の少女」がシア夫婦の子であったとすると、「八歳の少女」はシア夫婦の⑩の「七、八歳になる妹」と姉妹であったことになる。もし両者が双子ならば、「七、八歳になる妹」は八歳であったが、それが七歳か八歳か分からなかった。「八歳の少女」と「老女性」と「シアさんの弟(または兄)の三人に「確認」しても、分からなかった。ということは、両者は双子ではなかった。双子でなければ、七歳になるが、それが七歳かどうかも分からなかった。ということは、「七、八歳になる妹」は、妹ではなかったと考えるのが自然である。従って「八歳の少女」はシア夫妻の子ではなかったことになる。
では、「八歳の少女」はマア夫婦の子供であったのか。「八歳の少女」には、四歳の妹がいた。マア夫婦にも、四歳の子供(姓(ママ)別不明)がいた。ということは、「八歳の少女」の「四歳の妹」⑭と、マア夫婦の「四歳」⑪の子供は、双子であったことになる。双子は一目瞭然だから、特に双子と明記されていたことだろう。また男の子か、女の子か、姓(ママ)別は明らかであったはずである。ところが、この二点さえも不明であった。従って「八歳の少女」はマア夫婦の子供ではなかったと考えるのがやはり自然であろう。
このように「八歳の少女」は、シアの子供でもマアの子供でもなかった。その姓は、シアでもなかった。もちろん、マアでもなかった。>(246~247ページ)
その結果、東中野氏は、他のいくつかの「根拠」と合わせて、<これまでの検証からも分かるように(中略)「八歳の少女」と夏淑琴とは別人だと判断される。>(247~248ページ)と述べたのである。

しかし、東中野氏のこの"考察”はまったくのヘンテコである。前記英文を見れば、⑩another sister of between 7-8(七~八歳のもう一人の妹(または姉)と⑬the 8-year old girl(その八歳の少女)とが同一人物であることは、二~三の単語の意味さえ分かれば、中学校卒業程度の英語力と論理的思考があれば分かるであろう。この抜粋の英文の前に、夏(Hsia)家族(⑩の父・母・上の姉・下の姉)が惨殺された当時の状況が説明されており、⑩の「もう一人の妹」と続くのである。そして、The last murders以降の二文だけが、ハア(Ha)家の二人の子どもについて書かれていて、また第四文以降は夏家についての記述に戻るのである。⑬のthe 8-year old girlと定冠詞のtheを付けて、それ以前に取り上げた少女を指しているのである。最初に「七~八歳の少女」としても、二度目以降は簡略化して「その八歳の少女」と記すのは、別に珍しいことではない。
私は東中野氏のこの”考察”を読んだとき、最初は何を言っているのか分からなかった。しかし、原文の英文とつき合わせてみると、彼のこの部分の翻訳に原因の一つがあることが分かった。前記英文の第一文前半を東中野氏は、<それから、兵士たちはもう一人の⑩七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。>と訳している。ここで⑩の少女を東中野氏は勝手に「殺した」ために、⑫の少女を別人と考えたのであろう。しかし、Bayonetという他動詞は、「銃剣で突く〔殺す〕、武力で強制する」(研究社『現代英和辞典』より)という意味であり、「殺す」とは限らないのである。
しかし、このような間違いは、この単語の誤訳だけによるのではない。東中野氏のようにここを「銃剣で突き殺した」と最初に訳しても、その後を読んで全体状況を考えれば、ごく普通の論理的思考能力を持つ人ならば、その間違いに気づくはずである。それに気づかないのは、なんとしても夏淑琴さんを「ニセ被害者」に仕立て上げたいという感情が理性を押さえつけている、ということもあるのではないか。東中野氏は亜細亜大学教授という肩書きを持っておられるが、このような間違いは、英語力の不足というよりは、論理的思考能力の不足と悪意にもとづく感情のため、と言ったほうがよさそうである。
これまで詳細に述べてきたように、夏さんの被害証言は具体的で大筋において一貫しており、嘘をつく動機も証拠もまったく見あたらない。さらに、マギー牧師が撮影した16ミリフィルムとその報告書も、夏さんの証言を裏づける決定的証拠となっている。それでも、各種記録間の「微妙な違い」は残るであろうが、それはごく自然なことである。証言者(夏さんやその他の目撃者など)自身には、思い込み・勘違い・記憶の混乱といったことはありえるし、それを記録する側にも、思い込み・勘違いといった主観の入り込む余地がありえるからである。しかし、それをもって即「夏淑琴はニセ被害者」とすることはできない。このような多少の違いは、前掲の「李秀英裁判」判決でも、事実認定の妨げにならないとされているのである。
以上のことから、松村・東中野両氏がこれらの「微妙な違い」をことさら大きく取り上げて、事実関係をよく調べもしないで夏さんを「ニセ被害者」扱いしたことは、まったくの的外れかつ非人間的行為であり、大きな過失があったと言わざるえない。*通訳では、載國偉さんにお世話になった。

东中野修道Shūdō Higashinakano①「宇宙人がいないことを証明することと同じで、南京大虐殺を“なかった”と証明することは大変に難しくJust like proving that there are no aliens, it is very difficult to prove that there was no Nanjing Massacre、“あった”とする証拠や証言に一定の不明瞭さも不合理さもないと確認されない限りunless it is confirmed that there is no certain ambiguity or unreasonableness in the evidence or testimony that "was"、宇宙人も南京大虐殺も“ある”と言うことはできずneither aliens nor the Nanjing Massacre can be said to exist、自身の研究スタイルはまさにそれthat's exactly what my research style is(世に出ている証拠や証言に不明瞭さや不合理さがないかの確認confirmation that there is no ambiguity or irrationality in the evidence and testimony that is out in the world)だ」②「南京事件の証拠とされている資料は全て四等史料と五等史料とで成り立っておりAll of the materials used as evidence of the Nanjing Massacre consist of fourth- and fifth-class historical materials、虐殺を裏付ける資料は存在しないthere is no evidence to support the genocide. よって、南京で虐殺があったということはできないTherefore, it cannot be said that there was a massacre in Nanjing.」③「ラーベの日記は三等史料であるのでSince Rabe's diary is a third-class historical document、虐殺を裏付ける史料とは言えないIt cannot be said that there is historical evidence to support the massacre」。

中国の人々は日本の歴史認識をどう見ているか
日本の一部の人々は、南京大虐殺など侵略の事実を否定したり、それら被害証言者をニセモノ扱いするなどしてきた。その典型的な例が李秀英さんと夏淑琴さんに対するものであり、松村氏や東中野氏がいかに非論理的でありデタラメを言っているか、をこれまで明らかにしてきた。そして先に述べたように、中国の人々はこのような歴史改竄行為に憤り、その反発は南京や上海を中心に中国全土で強まっていた。
そのような状況下で、小泉首相は2002年4月21日、前年8月13日に引きつづき靖国神社に参拝した。そして前年同様、中国の人々から猛反発にあった。「かつての侵略戦争を美化している!反省していない!You are glorifying the war of aggression! You haven't reflected on it!」と。2001年春には、中国や朝鮮などへの侵略事実を隠蔽・美化する「新しい歴史教科書をつくる会」主導の中学校歴史教科書(扶桑社版)の検定合格に対して、朝鮮半島の人々とともに中国の人々は猛反発した。それらの動きに対して、日本の一部の人々は、「いつまで昔のことを言っているんだ。もういい加減にしてくれ!How long ago are you talking about? Give me a break!」と反発する。
日本のこのような動きに対して、中国の人々はなぜこれほどまでに反発し、怒るのか?もう少し歴史の事実を知り、考察していくことが必要のようだ。

*倪翠萍,1926年10月在南京朝天宫黄泥巷出生。1937年底,日军轰炸南京,倪翠萍左肩挨一枪,左耳后边还被刺了一刀。为纪念南京大屠杀事件,侵华日军南京大屠杀遇难同胞
倪翠萍さんも悲惨な被害を証言
南京大虐殺の悲惨な被害者かつ目撃者を、もう一人紹介しよう。2002年5月15日、倪翠萍さん(76歳)がホテルの部屋を訪問してくれた。事件当時の記憶は鮮明で、彼女は物静かに話しはじめた。
倪さん一家五人(父母・父方の祖父母・本人)は、もともと南京城内南西部の朝天宮・黄泥巷に住んでいた。37年8月から日本軍による空襲が激しくなり、「多くの住民が死亡した」という情報も入ってくるようになった。まわりの人々はつぎつぎと家を出て、「防空壕」に逃げ込んだり、難民区(安全区)に避難するようになっていた。国民政府からも「避難するように」との呼びかけがあり、倪さん一家も12月はじめに、江東門上新河(地名・南京城外で長江の近く)の水たまりにできた直径10メートルほどの中州へと避難し、芦や木の幹で小屋を造って五人で暮らしはじめた。中州と陸との間には、簡単な通路がかけられていた。周辺にも中州は数多くあり、そこにも同じように人々が避難していた。
12月13日(南京陥落の日)の昼前、父がその水たまりに野菜を洗いに行ってしばらくすると、三発の銃声が聞こえた。母が驚いて見に行くと、また一発の銃声がして、母の「アーッ!」という悲鳴が聞こえた。倪さん(当時満11歳)が小屋を飛び出すと、血まみれの父の横で、母も血まみれになって地面をのたうち回っていた。その脇には、三人の日本兵が歩兵銃を持って立っていた。そして、倪さんが驚いて両親のもとへ駆け寄ろうとした瞬間、一人の日本兵に左肩のあたりを銃撃された。倪さんは倒れ、身体じゅう血まみれになり、激痛をこらえて地面を転げまわった。口からも血が流れ出て、意識朦朧として断続的に気を失った。左肩を撃たれたので、そちら側を上にする姿勢しかとれなかった。
倪さんは、ときどき意識を取り戻しては、また激痛のあまり地面を転げまわった。しばらくして、祖父が倪さんの両親の遺体をかたづけるために、知人の男性を一人連れて現れた。そして、二人が母の痛いを板にのせ、天秤棒で担いだとたん、先とは別の二人の日本兵がそこへ駆けつけた。その頃はもう周囲に日本兵の姿が散見され、まわりの中州からも、叫び声や泣き声が聞こえてきた。周辺でも同じような惨劇が同時並行でくり広げられていた、とのちに倪さんは知った。
祖父ら二人は、日本兵の出現に驚いて、天秤棒を投げ捨てて逃げようとした。しかし、知人の方は水に飛び込んで逃げ通せたが、祖父は日本兵の一人に追いつかれてしまった。そして、歩兵銃の銃床でバットを振りまわすように頭を強打され、脳みそが飛び出した状態で即死した。倪さんはこれら一連のことを、地面に横たわったまま目撃した。その直後、倪さんもその日本兵に銃剣の先で左耳の上あたりを(「面白半分に」と倪さんは言う)突かれ、また気を失った。
両親と祖父を失った重傷の倪さんは、祖父と二人でしばらくはもとの小屋で寝泊りした。食事は、近くに住む叔父(父の弟)夫婦が運んでくれた。肩に入った銃弾は、ペンチのような工具で叔母が取ってくれたが、その他の傷の手当てを受けることはできなかった。そして、20日ほどのしてやって、その叔父夫婦の家に引き取られた。しかし翌年(38年)1月20日頃のある日の午後、悲劇はまたしても起こった。
倪さんは重傷のために自分の部屋のベッドから起きあがれなかったが、五人の日本兵が叔母を追いかけて家に押し入ろうとする様子を窓から目撃した。叔母の悲鳴を聞きつけた纏足(Бинтова́ние ног (кит. трад. 纏足Pieds bandés, упр. 缠足전족, пиньинь chánzú, буквально: «связанная ступня») — обычай, практиковавшийся в Китае (особенно в аристократической среде) с начала X до начала XX века)の祖母は外へ飛び出し、玄関で日本兵らを阻止しようと必死になっていた。しかし彼らは「どけ!」などと怒鳴って祖母を突き飛ばし、家に押し入り、叔母夫婦の部屋へと向かった。

叔母はベッドの下に隠れていたが、すぐに日本兵に見つかり、引きずり出された。祖母は「お願いします!許してください!」と土下座したり、日本兵らにすがりついて懇願した。しかし、日本兵の一人に「うるさい!」と怒鳴られて蹴飛ばされ、意識を失ってしまった。(この一連の騒ぎを倪さんは別室で聴いていたが、詳細については後に祖母から聞いて知った。)
叔父はそのとき薪を拾いに出ていたが、妻の叫び声に気づいて急いで家に戻り、助けを求める妻の部屋へと駆けつけた。叔父は日本兵に挑みかかり、「お前たちは野獣だ!許さん!俺は命を懸けてお前たちと闘うぞ!」などと怒鳴った。その直後に銃声が聞こえた。そして暫くして、「助けて!助けて!」という叔母の悲鳴がくり返し聞こえた。これら一連の叫び声や物音を、倪さんは別室のベッドの上で聴いていた。日本兵は、倪さんの部屋には来なかった。
祖母が意識を取り戻すと、すぐ脇で息子が刺されたうえに銃で撃たれて死んでいた。ベッドの上では、グッタリするその妻(倪さんの叔母)が、五人の日本兵に輪姦された事実を祖母に告げた。そして叔母は夕方から高熱を出し、「お腹が痛い!お腹が痛い!・・・」と叫びつづけ、夜10時ころに大出血して流産し、一時間ほどのちに死亡した。
この二度の惨劇で、倪さんと祖母だけが生き残った。祖母はその後、城皇廟という寺に引き取られた。倪さんは傷が治るまでの三年ほど、母の弟夫婦に引き取られて生活した。左肩に入った銃弾は取り出されていたが、砕けた骨の破片はそのままだったので、腫れや臭みはその頃まで続いたという。その後、倪さんは家を出て、物乞いをしたり簡単な手伝い仕事などをして暮らした。肩の傷の後遺症のために手が不自由となり、あまりうまく使えなかったためだ。そして、倪さんは19歳で結婚した。

倪さんは、以上のような辛い過去について証言してくれた。そして現在の思いについて、ときには涙をぬぐい、ときには怒りを込めて、さらに次のように語った。
「私はこのように、日本軍に家族が殺されるなど酷い目に遭いました。そして・・・傷の後遺症のために、その後も生活するのが大変だったのです。このような災難は、私の家だけではありません。私のまわりでも、同じような被害を受けた人が大勢いました。
私は、これまで日本の軍国主義に強い怒りを持ちつづけてきました。日本の一部の人々は、南京大虐殺など侵略の事実を認めませんが、人間性に欠けることです。また、小泉首相の靖国神社参拝も許せないことです!首相が戦争犯罪人の味方であることを示しているからです。戦争が二度と起こらないよう願っています。これが、日本の皆さんへの言葉です」

①【朗報Good News】小籔千豊Kazutoyo Koyabu「南京大虐殺は無かったThere was no Nanjing Massacre」②2017/01/22ー松本人志Hitoshi Matsumoto 国を挙げてアパホテル批判する中国に指摘Points out to China, which is criticizing APA hotels as a nation「ちょっと異常A little abnormal」③産経ニュースTHE SANKEI NEWS2017/1/30ー「南京大虐殺」否定書籍のアパホテルを一斉攻撃…常軌を逸した中国、植え付けられた「反日」の異常Massive attack on APA hotels with books denying the "Nanjing Massacre"... China is out of line, and the abnormality of "anti-Japan" has been planted④Jun 2, 2017 —アパホテル、東京五輪でも南京虐殺否定の書籍は撤去せずAPA Hotel won't remove books denying Nanking massacre even at Tokyo Olympics⑤産経新聞Sankei Shimbun2017/12/15ー「南京大虐殺」は中国軍の仕業だったThe Nanjing Massacre was the work of the Chinese military⑥Mar 11, 2019 — 南京大虐殺の「嘘」はどう作られ世界に広まったかHow was the “lie” about the Nanjing Massacre created and spread around the world?
南京の大学生たちの声
私は今回の訪中で、南京の多くの大学生に取材をした。5月18日には、南京師範大学・新キャンパス(南京郊外)に同大学の日本語学部三年生(日)と歴史学部二年生(歴)の計約20人に集まってもらい、私の質問に対して意見を述べてもらった(①)。またその前後にも、これら学生の何人かに個別取材をした(②)。以下に、彼らの意見を紹介しよう。
ー日本には、南京大虐殺など侵略の事実を否定する人々もいますが、どう思いますか?
「それは日本の教育のせいでしょう。私たちは、そういった被害事実を子どもの頃から聞いてきました。日本からきた学生たちと議論したことがありますが、彼らは自国の侵略の歴史についてあまり知らず、残念に思いました。当時の日本の蛮行に対して、父の世代の人々はみな感情的になっていましたが、私たち若者の多くはもっと(距離を置いて)理性的に考えているので、ただ事実を認めてほしいだけです。我々は歴史の事実を認めあい、友好関係を深めていくべきです」(威麗さん・日②)
「日本で右翼の勢力が弱くなれば、両国の関係はもっと良くなると思います。そういった意味で、今回の『李秀英裁判』の判決(東京地裁)には多くの希望を見ることができます。中国の20~30代の人々の間では、日本の侵略戦争に対する意識が薄くなっていますが、日本の一部の人々が侵略の事実を認めないことには、皆とても怒っています」(徐皎玥さん・日②)
「歴史の事実を認めないそういった右翼が少なくなれば、中日友好はもっと進むだろう(②)。そういった右翼の勢力が強いので、日本の動きには不満があります(①)(王永東さん・日)
「そういった人には、歴史の知識が足りないと思います。その責任は、そういった事実を教えない日本政府にもあります。日本の人々は、中国の人々ともっと交流して、事実を知ってもらいたい。『李秀英裁判』で勝利したことは、一つの進歩だと思います。真実を否定することはできないのです」(丁俊祥さん・日②)
「そのような人には、一度『紀念館』に来てほしい。そして、被害者の話も聴いてほしい。そうすれば、日本軍の侵略の歴史が分かるはずだ。『李秀英裁判』の被告となった松村氏にも、ぜひ来てほしい。そうすれば、自分のしたことを恥ずかしく思うだろう」(葛恒功さん・日②)
「そういった人には、ぜひ中国に来てほしい。そして、さまざまな史料を見て、生き証人の話も聴いてほしい」(王小兵さん・日②)
「日本の右翼が政治目的でそういった宣伝をしているのだろうが、許せないことだ。歴史の事実は否定できないことです。日本の若者は、そういった右翼やマスコミに騙されずに、自国の侵略の歴史をもっと勉強してほしい」(徐娟さん・日②)
「歴史の事実は、人の意識で変わるものではない。日本人は、先生(星)のように南京に来て、自分の目で侵略の歴史を確かめたほうがいい。そのうえで、中日両国の人民は友好関係を深めていくべきだ(②)。以前、日本の大学生グループと交流したことがあるが、南京大虐殺について知っている人はとても少なかった(①)」(馮暁軍さん・日②)
「世界の人々がなぜ南京大虐殺についてあまり知らないかというと、解放後ずっと中国側がそういった研究をあまり行わずに、史料も出してこなかったからだ。80年代になってやっと、史料が集められ、研究も進められるようになったのです。
日本の若者が旧日本軍の侵略・残虐行為について知らないように、中国の若者の間でも知らない人が多くなっている。そういった事実を聴いても、『本当にそんな酷いことがあったのか?』と言って、なかなか信じられない人も多い。現在の平和な世の中にいると、日本軍のやったことがあまりにも残酷すぎて、想像もできないからだろう」(厳海建さん・歴①)
「私も本を読んだり映画を観たりしてだいたいのことは知っていたが、日本軍があんなにも残酷な方法で中国の人々を殺戮したとは、つい最近まで知らなかった」(成瑞さん・日①)
「日本の一部の人々は、アジア諸国への侵略の事実を否定しつづけるが、そういった態度は日本の経済発展にマイナスの影響を与えるのではないか」(陳芬芳さん・歴①)

ー日本の小泉首相は、昨年(2001年)8月13日に引きつづき、今年4月にも靖国神社に参拝しました。どう思いますか?
「小泉首相は、日本の代表でしょう?日本がかつて中国を侵略した事実を知っているでしょう?昨年に引きつづき今年も靖国神社に参拝したのを知って、私は驚きかつ怒りました」(威麗さん・日②)
「今年の参拝には、昨年以上にみな怒っていました。『日本政府は侵略の事実を認めない』という印象を中国国民に与えてしまった。このようなことは、日本人全体への悪い印象につながりかねず、政治や経済にも悪い影響を与えるでしょう。日本国民が(間接的に)小泉氏を首相に選んだのです。右翼は日本には少ないと思いますが、その影響は大きいのです」(王永東さん・日②)
「小泉首相は、首相になるために『靖国神社に参拝する』と約束したのです。このようなことは、よくありません」(丁俊祥さん・日②)
「まったく理解できない。そのような行為は、絶対に受けいれられない」(葛恒功さん・日②)
「中国や朝鮮半島の人々の心に傷をつける行為で、強い怒りを感じます。このようなことは、戦争責任を否定することに等しく、許されないことだと思う」(王小兵さん・日①)
「やはり怒りを覚えました。このような行為は、中国への侵略の真実を否定することです」(馮暁軍さん・日②)
「中国政府は、日本に対して復讐しなかった。それなのに、このような動きを見ていると、日本は心から中国と友好関係を築きたいと思っているようには見えない」(趙硯さん・歴①)

今回、南京師範大学日本語学部の生徒たちと交流し、何人かは通訳の手伝いもしていただいた。彼らと日常生活について話をしてみると、ここ数年は中国のテレビなどで日本のドラマや歌が大流行していて、彼ら彼女らの多くもよく観聴きするという。とくに女性には人気のようで、何人かは俳優の松嶋菜々子さんや木村拓哉さんが好きだと言っていた。彼らが、単純な「反日」思想を持っているわけでは決してないのである。
①松嶋菜菜子(日语:松嶋 菜々子/まつしま ななこ Matsushima Nanako마츠시마 나나코,1973年10月13日—),本名松嶋奈奈子(日语:松嶋 奈奈子/まつしま ななこ Matsushima Nanako。日本著名女演員,曾參演多部大受歡迎的電視劇,因而有「日劇女王」的美名Nanako Matsushima (jap. 松嶋 菜々子, Matsushima Nanako; * 13. Oktober 1973 in Zama, Präfektur Kanagawa) ist eine japanische Schauspielerin und Model.
②木村拓哉(日语:木村 拓哉/きむら たくや Kimura Takuya기무라 타쿠야,1972年11月13日—)是日本歌手、演员、配音员,已解散的日本偶像团体SMAP的前成员Такуя Кімура (яп. 木村 拓哉 Кімура Такуя, нар. 13 листопада 1972, Токіо) — японський співак, музикант і актор, радіо-провідний і колишній соліст групи SMAP.
そのほかに、南京師範大学または南京大学のキャンパス内の学生にも、先と同じような質問をしてみた。以下、彼らの声を紹介する。
「日本には南京大虐殺などの侵略・残虐行為を認めない人々がいるが、歴史の事実は認めなければならない。日本にはそういったことで嘘をつくマスコミもあり、無責任だ。小泉首相は今年も靖国神社に参拝したが、中国人民を傷つける行為だ。そのことに対して、私は非常に怒っています」(南京師範大学四年・女性)
「『南京大虐殺はなかった』『ニセ被害者だ』などと言っている人たちは、虐殺があったと分かっていて言っているのでしょう。このようなことは中国人民を怒らせる行為で、絶対に許せない。日本には平和を望む多くの人がいることは知っているが、そのような人々より、右翼の力の方が強くなっているようで心配だ」(南京師範大学にて、山東省の大学の三年生・男性)
「南京大虐殺など日本軍の残虐行為の事実を否定したり、そういった本を出版する人たちは、人間としての良心がないと思う。そのような行為は、日本人と中国人の間に壁を作ることだ。日本の良心ある人々には、侵略の事実についてもっと知ってもらいたい。
小泉首相のたび重なる靖国神社参拝は、侵略の事実の否定を意味するか、その行為が正しかったという姿勢を意味しているのだ。こういった行為に対して、私のまわりでは皆が怒っています」(南京師範大学にて、連雲港の大学の二年生・女性)
「南京大虐殺の事実は明らかなことです。だから中国人として当然、李秀英さんを支援しています。小泉首相の靖国神社参拝に対しては、私のまわりでは多くの人が怒っています。昨年に引きつづき今年も参拝したので、対日感情はますます悪くなっています。インターネットでの反発も、とても大きいです」(南京大学四年・男性)
「歴史の事実は、変えることはできない。李秀英さんが、そのことを証明している。右翼の人々は、彼女の身体中の傷を見たら、事実を知るべきだ。そして、『紀念館』に行って、南京大虐殺の事実を自分の目で確かめてもらいたい。また、小泉首相の靖国神社参拝は許せないことだ。そこには、中国人を殺した人々の魂が祀られていることを知ってほしい。中日友好のために、もう少し考えてもらいたい。我々にとって最も大切なのは、若者たちの教育です。中国両国の若者は歴史の事実を共有したうえで、もっと交流を進めて、両国の関係を良くしていくべきです」(南京大学四年・男性)
「日本の多くの人民は良いが、日本の軍国主義者はどうして侵略の事実を認めないのか。このことについて、われわれは非常に怒っている。小泉首相の靖国神社参拝に対しても、私のまわりの学生はみな怒っていた。彼は日本政府を代表しているのだから、正しい行動ではないと思う。中国首脳は、日本政府に対してもっと強い態度で臨むべきだ」(南京大学三年・男性)

南京市民の声は
中華門北側の長楽街周辺(元城内)を、南京師範大学日本語学部三年の学生五人と共に歩いてみた。通訳を兼ねてのことだ。このあたりは、まだ古い街並みを保っている地域で、南京大虐殺の際には多くの犠牲者を出している。
道路の脇に座る80歳前後の二人の女性に、まず声をかけてみた。「すみません、南京大虐殺のころのお話をうかがいたいのですが・・・」。するとその一人は首を横に振り、「当時のことは話したくありません。あのことを思い出すと、悲しくなります」と静かに答えた。もう一人も同じように首を振り、「分かりません」と答えた。その後、同年代の女性何人かに同じように尋ねてみたが、みな拒絶されてしまった。
交差点の脇に座る楊金宝さん(男性・82歳)が話をしてくれた。楊さんは37年12月当時は17歳で、鎮江(南京の東約70キロメートル)に住んでいた。その頃、村に日本兵の集団がやってきて、女性を強姦したり住民を刀で刺し殺すのを見たという。そして楊さんは、次のように語った。
「当時の中国人はみな、日本人を恨みました。日本の人々は、そういった侵略の歴史を忘れないでほしい。これは事実なのだから、否定することはできない。こういった事実をもっと日本の人々に知らせる必要がある」
雑貨店主の馬偉民さん(男性・46歳)は、代々この場所に住んでいる。37年12月、父方と母方の二人の祖父は、日本軍が城内に入ってくるというので、この家の中に隠れていた。しかし、日本兵に見つかり、二人とも刺殺されたという。この話は、母から聴いたことだ。馬さんは、次のように語った。
「日本には、南京大虐殺など侵略の事実を否定する人々がいる。そういうことをすれば、中国人民は日本をもっと恨むだろう。過ちを犯したのなら、素直に認めるべきだ」
この雑貨店の前で椅子に腰かける張耀勝さん(男性・79歳)も、話をしてくれた。張さんは37年当時は14歳で、南京城内で徒弟奉公をしていた。しかし、日本軍機による空襲がしだいに激しくなり、11月末から12月はじめに、避難のために江宇県の故郷へ戻った。故郷にたどり着くと、青壮年の住民は皆どこかへ逃げたあとで、老人だけが残っていた。そしてある日、日本軍がその村に現れて八~九人の老人を殺すのを見たという。
張さんは涙を流し、それを手ぬぐいでふきながら、このような話をしてくれた。そして最後に、こう語った。
「これは私が実際に体験したこと、この目で見たことです。『南京大虐殺はなかった』と言う日本人もいますが、この事実は誰にも否定できません」

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