日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『Taiwan台湾Тайвань』ーHumanity, history, mentality人間・歴史・心性Человечество, история, менталитетーDai Guohui戴國煇Дай Гохуан《Republic of China中華民国Кита́йская Респу́блика》중화민국 국가三民主义Drei Prinzipien des Volkes(CANADA)2024/01/14③


                 II 台湾史の原景
 1 地名の変遷が語るもの
 古代の台湾
 台湾の英語名にフォルモサFormosaがある。その語源はポルトガル人Portuguesesが台湾海峡を通過し、台湾本島をはるかに眺めて叫んだ"Ilha formosa(island beautiful)"にたどれるという。この「島、麗しい」が転じて、「麗島」、「華麗島」さらには昨今の台湾でよく使われる「美麗島」となる。詩人の北原白秋は、1934年に行なった台湾紀行を『麗嶋風物誌』の題にまとめた。その内容はさておき、書名としてはなかなか粋と見受けられる。


*Hakushū Kitahara (北原 白秋기타하라 하쿠슈, Kitahara Hakushū, 25 January 1885熊本県生まれ福岡県出身 – 2 November 1942) is the pen-name of Kitahara Ryūkichi (北原 隆吉), a Japanese tanka poet active during the Taishō and Shōwa periods of Japan. He is regarded as one of the most popular and important poets in modern Japanese literature.
 ヨーロッパ勢力の先頭を切って東漸してきたのはポルトガル人だった。彼らのマカオ澳門漂流は1517年、種子島Tanegashimaに1543年、平戸Hiradoには1550年にそれぞれ到着と記録されている。
 明朝Ming Dynastyがポルトガル人にマカオ澳门での通商定住許可を与えたのは嘉靖36年(1557年)だった。また、1594年にポルトガル人が貿易植民を台湾島で試みたという説もあるが、定説とはなっていない。たとえポルトガル人が台湾に拠ったことがあったとしても一時的のもので、スペイン人Pueblo españolとオランダ人 Nederlandersの東漸により、マカオ砦Monte Fortの強化こそ緊急の課題であるとみなして撤退したと想定したい。このようにつめて行くと、ポルトガル人が台湾を「イラ・フォルモサ」と呼んだのは、ほぼ16世紀の半ばといえそうだ。

*Portuguêsポルトガル語→A história de Macau澳门歷史Geschiedenis van MacauHistoria de Macao澳門歴史마카오의 역사 tem pelo menos 600 anos. É muito rica e diversificada porque Macau, desde a chegada dos portugueses no século XVI, foi sempre uma importante porta de acesso para a entrada da civilização ocidental na China, contactando com a civilização chinesa, e vice-versa. Este pequeno território proporcionou uma importante plataforma para o intercâmbio de culturas ocidentais e orientais, que moldou uma identidade própria para Macau.
 文献上でたどれる、フォルモサ以前の台湾に関する地名は、いうまでもなく漢語によるものである。通説によると、秦漢時代の中原中国は台湾を「東鯤」と、東漢Eastern Han Chinese(後漢) Later Han Chines・三国時代 Three Kingdoms periodの呉国Eastern Wuは台湾を「夷洲」と、それぞれ呼んだという。鯤は古代中国の伝説に出てくる大魚の名であるから、「東鯤」と当てたことから推して、台湾への臨場感はまだ、当時の文人たちにはなかったといえそうだ。
 『三国志』の「孫権Sun Quan伝」に、呉の黄竜二年(西暦230年)、衛温と諸葛直が「甲士」(兵隊)万人を率いて夷洲に至ったとある。通説の如く、この夷洲を現在の台湾に読み変えるのであれば、衛らの軍事行動はすなわち中原中国の王朝が台湾への遠征を企てた嚆矢と見なすことができる。夷または東夷は、もともと古代中原中国人が、自らの東方に住む諸民族を指す呼称であり、洲は水上に浮かぶ僻地を指していう。したがって夷洲とは、揚子江デルタ一帯を勢力圏にした呉の国の東方に住む少数民族(夷)の島嶼(洲)と呼んで妥当と思われる。
 両晋(西晋、東晋)Jin dynasty南北時代Northern and Southern dynastiesを経て隋Sui dynasty初に至る。ほぼ三世紀半の期間は、目下のところ台湾に関する特別な文献資料は発見されていない。大陸内部の政権が多事多端で、東南海域に関与する余裕などはなかったのかもしれない。
 589年、隋の楊堅Yang Jianは分裂していた南北朝を統一。その余勢を買った第二代皇帝の煬帝Yang Guangは対外遠征を方々に試みた。『隋書』の「流求国伝」によると、煬帝は大業三年(607年)にまず朱寛らを「流求Ryukyu Kingdom」に派遣し、異俗を訪ねさせた。翌年慰撫に務めるが従わないので、派兵することに決めた。すなわち陳陵と張鎮州に兵を率いさせ、義安(現在の広東省潮州)から出航し、流求に出兵、男女数千人を捕虜にして凱旋、以後往来を断つとする。
 流求が以後留求に、そして瑠求さらには琉球へと変わりながら、宋Song dynasty・元朝Yuan dynastyに至ったとされる。そして今日の琉球(沖縄)の存在が中国史上で明確化してくると、台湾の琉球は小琉球となり、沖縄の琉球は大が冠された大琉球となる。大小の別は土地の大小ではなく、文化の程度を指した形容辞と考えて間違いなかろう。「未開」の台湾に小を、すでに中華の礼法を知っているとして琉球に大をそれぞれ冠したと考えたい。ともあれ、中原中国の文人の対外認識の一端をうかがうことができて興味尽きない。

 宋・元時代の台湾
 ところで、「台湾」側からと思えそうな大陸沿岸側へのチャレンジ的行動はなかったのだろうか。宋代の二つの文献が興味深いことを示してくれる。その一つに楼鍮撰『攻媿集』巻86の「汪大獣之行状」がある。同書は毘舎耶人(現先住系台湾人中のヤミ族と想像したい)が平湖(澎湖)に侵入、そのために泉州知府の任にあった汪大獣が南宋・乾道七年(1171年)に軍民を澎湖島に派遣したという。
 第二の文献は、福建路市舶堤挙(海港の税関官吏)の任にあった趙汝适自らが著す『諸蕃志』の記述である。趙によると、淳煕年間(1174-89年)に毘舎耶人、同じくヤミ族と思われる人びとが泉州府の水澳村と囲頭村に至り、暴行の末、鉄器などを奪ったと記す。
 元の世祖フビライKublai Khanは日本攻略(元寇Mongol invasions of Japan、第一次は1282年、続く第二次は1287年、ともに失敗する)後、1292年には国力の伸張にともなって楊祥を瑠求に派遣し招撫を試みた。だが、住民らは応じなかった。続けて成宗は元貞三年(1297年)に福州から再度瑠求に派兵する(『元史』「瑠求伝」)。その台湾経略の一環としての初の地方行政機構「巡検司」を澎湖に設置する(元の汪大淵著『島夷志略』)。時は至元年間、すなわち1335-40年のことだった。同じ頃、居住民は1600余人に達し、泉州との間を商船数十隻が盛んに往来し、貿易が行なわれたとも、汪大淵は記録している。
 以上から、元に至って、中原中国の歴史舞台の一員として、台湾が徐々に、より明確な姿で組み込まれつつあることを知ることができよう。

①Русскийロシア語→Чжэн Хэ (кит. трад. 鄭和Zheng He, упр. 郑和정화 , пиньинь Zhèng Hé; 1371—1435) — легендарный адмирал империи Мин, путешественник, флотоводец и дипломат, хуэйцзу по происхождению②Españolスペイン語→Los viajes del tesoro de la dinastía MingПутешествия Чжэн ХэMing treasure voyages郑和下西洋하서양(下西洋) fueron las siete expediciones marítimas de la Flota de Tesoro de Ming, China entre 1405 y 1433.
 2 明朝期における大陸と台湾
 鄭和の遠征と台湾
 明朝(1368-1644年)が中国史上、江南を中心にした最初の統一王朝であったことは重要である。1421年に第三代皇帝の永楽帝が北平を北京と改めて遷都することになるが、朱元璋Zhu Yuanzhang(明の太祖Emperor Taizu of Ming)が首都を南京(江蘇省)に設置した歴史的意義は大きい。江南文化の成熟は、必然的にその文化の波を台湾海峡にも及ぼした。
 明帝国による七回にわたる南海(現在の南中国海から東南アジア、そして西南アジア一帯に及ぶ地域)遠征は勇名だ。南海遠征を指揮した武将鄭和は雲南出身のイスラム教徒で、永楽帝の時代の官房長官の任にあたった。遠征は1405年から33年にわたって七回実施された。
 鄭和の南海遠征と台湾との関わりあいを伝えてくれるのに次のものがある。第一は、万暦15年(1587年)に成った『明会典』の記載に見られ、遠征軍が赤嵌(現台湾市近辺)で水を補給したとする。第二は「三保太監」(鄭和)にまつわる台湾での民間伝承である。この民間伝承の類が台湾産なのか、対岸から持ち込まれたのかは、議論の余地なしとしない。後者の可能性が強いようだ。

*Українськаウクライナ語→Японські пірати왜구倭寇Wakou, Japanese dwarf piratesВокоу— члени збройних формувань, які займалися контрабандною торгівлею, охороною морських перевезень, а також розбоєм у морях Східної Азії 14 — 16 століття.倭寇(日语:倭寇),又稱八幡(日语:八幡),是指13世纪到16世纪左右侵略朝鲜、中国沿海各地和南洋的日本海盗集团的泛称
 倭寇と台湾
 明代中期、15世紀以降の外患を一般に体制側は「北虜南倭」の四文字で表している。台湾と直接の関係を持つのはもちろん後者の南倭、すなわち倭寇の侵入と跳梁である。通説としての倭寇は、13世紀から16世紀に、朝鮮・中国沿岸で猛威をふるった海賊と商人団の総称と認められている。倭は日本人を指すが、倭寇の内実は日本、朝鮮、中国各住民の連合軍とみなしたほうが、史実に近い。
 倭寇はまた、前期倭寇と後期倭寇に分けられる。前者は14世紀を中心に朝鮮と中国の山東省沿岸を主に暴れまわった。後者は15世紀半ばから16世紀にかけて、揚子江デルタ地帯から華南海域を中心に猛威をふるった。
 南台湾が後期倭寇の基地と化した頃、対岸の華南住民の台湾移住と開墾の幕もまた切って落とされた。また、明朝が実施した海禁政策、すなわち民間人の海上の交通、貿易、漁業などへの制限と禁止の間隙をぬって、台湾は仲介貿易地としての地位を高めていった。
 現存の史料から見るに、16世紀中葉から末葉にかけて、対岸の漢族系住民は台湾を主に「海賊」の基地として利用していたようだ。その他に漁労もあったであろう。農耕は、基地に付属した農産物の自給がせいぜいのところであったと想像してほぼ間違いない。そもそも、当期の台湾本島は、東蕃の呼び名が示すように、明王朝にとってはなおも城外の地だった。ただし、記憶されてよいのは、倭寇対策の一環として明王朝が一度は洪武20年(1387年)に撤廃した澎湖巡検司を、嘉靖42年(1563年)に復活したことである。
 ポルトガル人の一部が後期倭寇に与していた記録があるのは興味深い。彼らは後に明朝に協力して倭寇駆逐で功を上げた。この間、マカオの定住通商が許可された。以後「仏郎機」(フランキ)とよばれたポルトガル人が、明の官業貿易なかんずく、マカオー南九州間の日中貿易を一世紀間にわたって独占し、莫大な利益を上げた。ちょっと遅れて、万暦8年(1580年)にスペイン系のヤソ会(イエズス会)関係者が台湾を訪れている。おそらくは、マテオ・リッチMatteo Ricciの一団の関係者で、中国大陸での本格的な伝道(1583年)の直前に立ち寄ったことと思われる。
①Portuguêsポルトガル語→フランキ砲Breech-loading swivel gun佛郎機砲Uma arma giratória de carregamento pela culatra era um tipo particular de arma giratória e um pequeno canhão de carregamento pela culatra inventado no século XIV②フランキ佛郎機Franco明代の中国人がヨーロッパ人、特にポルトガル人を呼んだ名。フランク人Frankenに由来The name by which the Chinese of the Ming Dynasty called Europeans, especially the Portuguese. Originated from the Franks③Españolスペイン語→La Compañía de Jesús (en latín: Societas Iesu, abreviado S.I.; se usa también la forma S.J.)Товариство Ісуса耶稣会예수회Jesuits, cuyos miembros son comúnmente conocidos como jesuitas, es una orden religiosa de clérigos regulares de la Iglesia católica fundada en 1534

*Deutschドイツ語→Toyotomi Hideyoshi (jap. 豊臣 秀吉도요토미 히데요시; * 17. März 1537 in Nakamura, Aichi-gun, Provinz Owari (heute Nakamura-ku, Nagoya); † 18. September 1598 auf der Burg Fushimi (heute in Fushimi-ku, Kyōto)) war ein japanischer Feldherr und Politiker, der entscheidend zur Einigung des neuzeitlichen Japans beitrug, weshalb er als der zweite der Drei Reichseiniger bezeichnet wird. Er übernahm das Amt als General nach dem Selbstmord durch Seppuku von Oda Nobunaga und führte die Einigung Japans herbei. Ihm folgte Tokugawa Ieyasu, der die Tokugawa-Dynastie der Shōgune begründete.
 戦国期日本と台湾
 豊臣秀吉がほぼ同じ頃、「高山国」宛に「国書」を文禄二年(1593年)付で出そうと試みた。織豊政権の統一(1590年)は、日本人・倭寇の鎮静化をもたらした。「海賊」的性格こそ薄められたが、そのエネルギーと体験の蓄積は、朱印船貿易の形を通じて体制化を見る。秀吉の「高山国」宛国書の挙もその流れの一部と考えれば理解できる。

*Françaisフランス語→Le terme shuinsen (朱印船주인선Red seal ships) Сюинсэн désigne les navires de commerce armés japonais faisant du commerce vers les ports d'Asie du Sud-Est, et détenteurs d'une licence marquée d'un « sceau vermillon » (shuin1), émise par le shogunat Tokugawa primitif durant la première moitié du xviie siècle. Entre 1600 et 1635, plus de 350 navires japonais ont sillonné les mers porteurs de cette permission appelée shuinjō.
 明治・大正期の歴史学者である伊能嘉矩の考証によると、当時台湾を往来した日本列島の住民は、南台湾沿岸を主な寄港地とした。その地はもともと「タヤカウ社」と呼ばれ、漢族によって転訛されて打鼓山(タヤコオサン)社となる。その音は日本語の「タカサゴ」に似て、しかも土地の風光明娼であることは、また、日本の高砂浦(兵庫県)の景勝を連想させるものがあった。その故に「高砂をかりて転訛を強制せしものの如し」と伊能は断ずる。続けて、彼は、最初は単に一地方の呼び名として用いられたが、以後全島の地名に慣用されるようになったとも記す(吉田東伍編『大日本地名辞書続編』所収、伊能嘉矩が執筆した「第三台湾」を参照)。

Inō Kanori (伊能 嘉矩, 11 June 1867岩手県出身 – 30 September 1925)Ино Канори was a Japanese anthropologist and folklorist known for his studies in Taiwanese indigenous peoples. Ino was the first person who classified the aboriginal tribes into several groups, instead of the traditional classification which imprecisely recognized these aborigines only as "cooked/domesticated" (熟蕃, jukuban) or "raw/wild" (生蕃, seiban).
 事実、金地院の「異国渡海御朱印帳」中の元和元年(1615年)の分に「高砂国」の記述があり、また正徳年間(1711-15年)に成ったと見られる寺島良安の『和漢三才図会』には「塔曷沙古 和用高砂字」とある。まさにタヤカウからタヤコオサンに、そしてタカサゴと移り、タカサゴの近音を漢字の「塔曷沙古」で当て、さらに雅字としての「高砂」に転訛したと整理したい。後日、日本植民地時代に至り、日本当局によって南台湾の打狗が高雄、(生)蕃族が高砂族に、それぞれ改名させられた。これは、上にあげた歴史的経緯があったことによる。   
 秀吉に続き、1609年、有馬晴信Arima Harunobuが武卒を伴って台湾を視察し、ついで1616年、村山等安Murayama Tōanが13隻の兵船をひきいて台湾遠征を試みた。
 ともあれ、万暦年間(1573-1620年)前後の台湾近辺は、騒々しかった。明は澎湖島に増兵、整備に奔命した。その余波で対岸の漢民族による積極的な台湾介入もまたあらわになり、史冊への登場も頻度が高まる。

①Nederlandsオランダ語→Nederlands-Formosaオランダ統治時代の台湾Голландская Формоза: In de 17e eeuw waren delen van Formosa (het huidige Taiwan) geruime tijd in Nederlandse handen, of preciezer, in handen van de VOC.

②臺灣荷蘭統治時期Dutch Formosa네덜란드령 포르모사指的是臺灣在1624至1662年的這段期間,當時尼德蘭七省聯合共和國與聯合東印度公司於臺灣殖民統治範圍的統稱,影響力遍及臺灣中部與南部沿海,這片區域可稱為荷屬福爾摩沙。若將澎湖群島與臺灣本島兩者視為一體,則可視1622年荷蘭人建風櫃尾城堡為本時期的開端。日本江戶時代成書的《華夷變態》稱為雞籠國。
 オランダ人の東漸
 ポルトガル人がマカオを拠点に独占的に高利益を得ていることに刺激されて、スペイン人もオランダ人もまた東漸し、台湾海峡に現れた。オランダ人は早くも1602年段階に、当時としてはずば抜けて先進的なオランダ東インド会社の組織化に成功し、それ以後のアジア経営の推進母体とした。
*Deutschドイツ語→Die Niederländische Ostindien-Kompanie (niederländisch Vereenigde Oostindische Compagnie; Vereenigde Geoctroyeerde Oostindische Compagnie, abgekürzt VOC oder kurz Compagnie)Голландская Ост-Индская компанияUnited East India Company네덜란드 동인도 회사 war eine Ostindien-Kompanie, zu der sich am 20. März 1602 niederländische Kaufmannskompanien zusammenschlossen, um die Konkurrenz untereinander auszuschalten.荷蘭東印度公司,正名為聯合東印度公司(荷蘭語:Vereenigde Oost-Indische Compagnie,簡稱VOC
 オランダが南中国海海域に出現し、中国貿易を目的とした最初の軍事行動は、1602年のマカオ攻撃だった。その主な狙いは、アジアとヨーロッパとの間の貿易を独占していたポルトガルに打撃を与えるためだった。
 だがオランダは、ポルトガルと明朝連合軍に反撃されて後退し、1603年7月に澎湖島を占領したものの、明の警告に屈して、十ヶ月ほどして撤退した。翌年の1604年に、漳州に船二隻を派遣して対岸の泉州の官憲に貿易の許可を求めたが、再び拒否されて退去した。オランダは、1622年4月に澎湖島へ本格的な攻勢をかけたが、八ヶ月間にわたった占領と交戦の後、明の大軍の威圧の下で交渉に入った。
 オランダと明との交渉で、オランダは澎湖島から撤退する代わりに、①台湾は「化外の地」、すなわ王化の及ばない土地、教化の外にある土地と住民であったがゆえに、占領に異議をさしはさなまい、②台湾で民間人との通商交易を認め、中国漁船の来航を妨害しない、といった条件を明朝から確保した。
 オランダ人は1624年には安平にゼーランディア砦を、同対岸に本島部にある赤嵌にプロヴィンシア砦を築き始める。そして現在の台南市近辺を中心に、重商主義Mercantilism的植民地経営を進めて行くのだった。

①Españolスペイン語→Fort Zeelandia o Fuerte Zeelandia. Fue una fortaleza que fue construida durante 10 años desde 1624 hasta 1634 por la Compañía Neerlandesa de las Indias Orientales (VOC)安平古堡,原稱奧蘭治城(荷蘭語:Fort Oranje)、熱蘭遮堡或熱蘭遮城②Nederlandsオランダ語→Fort Provintia (Chinees: 赤嵌樓츠칸러우, pinyin Chìk|nlóu, Pe̍h-ōe-jī Chhiah-khàm-lâu, vaak gespeld als Chihkan)赤崁樓Форт Провінція is een historisch gebouwencomplex in het Zhongxi-district van de stad Tainan in het zuiden van Taiwan, gebouwd op een terrein gebouwd in 1653 ten tijde van de Nederlandse kolonisatie Fort gaat terug.

①西班牙帝國(西班牙語:Imperio EspañolИспанская империяSpanish Empire스페인 제국是1492年-1898年间由西班牙和其前身控制的欧洲帝國,领土曾囊括今美洲、非洲、亚洲和其他欧洲地區的部分區域,是第一批全球與殖民帝國,被稱為「日不落帝国」②Françaisフランス語→L'impérialisme occidental en Asie亞洲殖民Imperialismo occidental en Asia, tel qu'il est présenté dans cet article, concerne le long processus de colonisation effectué par les Occidentaux dans ce qui a d'abord été appelé les Indes orientales. 
 台湾をめぐる三大勢力
 一方、フィリピンに覇を唱え、メキシコ銀をアジアに持ち込み、中国商品の海外での流れをまさに変えつつあったスペイン人は、オランダの南台湾の占拠に目の色を変えた。マニラを本拠地に、メキシコ銀を強力な媒体として、華南→マニラ→太平洋→メキシコ→スペイン(ヨーロッパ)というルートの可能性に富んだ太平洋横断貿易を、オランダによって切断、妨害されるのを極度に恐れたのが主な理由だ。
 スペインは二年後の1626年に、オランダの妨害を巧みに避けて、台湾の東海岸沿いに北上し、三貂堡(三貂角、もともとはスペイン人が命名したサンチアゴを漢訳化したもの。現・台北県の東南角の地区)を経て、鶏龍(基隆)湾内の社寮島(現・和平島)にSan Salvador Castleサン・サルバドル砦聖薩爾瓦多城を築いた。続いて、1629年には西北部沿岸をまわって滬尾(淡水)をも収め、サント・ドミンゴ砦を築き、淡水河をさかのぼって台北平野にも勢力の扶植を試みた。
*Españolスペイン語→El Fuerte de Santo Domingo fue un fuerte de madera construido por los españoles en 1628 en la localidad de Tamsui (Danshui), en Nueva Taipéi, en Taiwán紅毛城古蹟區(臺灣話:Âng-mn̂g-siânn),又稱前英國駐台北領事館及官邸,古稱聖多明哥城、安東尼堡。
 今や台湾本島は、オランダ人が安平・台南近辺を、海賊または武装貿易集団の指導者である顔思斉、李旦および鄭芝竜一統が魍港(現嘉義県東石と布袋の周辺)を、そしてスペイン人が鶏籠、淡水を中心にした北部台湾をそれぞれ占拠し、各自が思い思いの活動をするのだった。そしてこれら三大グループと取引しようと台湾に進出したのが朱印船に乗った日本商人たちだった。
①Españolスペイン語→Yan Shiqi (顏思齊), Pedro Yan Shiqi o Pedro China (1586-septiembre de 1625), nombre de cortesía Zhenquan (振泉), era nativo de Haicheng, en la prefectura de Zhangzhou②李旦(?—1625年),小名習,聖名安德魯(Andrea Dittis),綽號為「Captain China」或「China Captain③Nederlandsオランダ語→Zheng Zhilong (Chinees: 鄭芝龍정지룡, pinyin: Zheng Zhilong; Nan'an, 1604 - Beijing, 1663) was een Chinese piraat en koopman die leefde in de nadagen van Ming-dynastie. Hij was de vader van Koxinga.
 この三大勢力の中で、台湾を拠点にして力を注いだのは、オランダの東インド会社である。これまで安平・台南を中心に繁盛していた中国をめぐる密貿易も、オランダの軍事力の介入に伴って、既存の取引業者の中国人も日本人も重税を課微されるほか、商権をめぐるイニシアチブも、徐々にオランダ人の掌握するところとなった。日本人浜田弥兵衛一統とオランダ人関係者の台南における衝突事件(1628年)は、よく知られている。

①Deutschドイツ語→Hamada Yahyōe (japanisch 浜田 弥兵衛; aktiv im 17. Jahrhundert長崎出身) war ein japanischer Kapitän von Handelsschiffen, der durch seinen Überfall auf die niederländische Station „Zeelandia“ auf Taiwan 1629 bekannt wurde②濱田彌兵衛事件마다 야효에 사건Yahyōe Hamada incident,是一件日本寬永五年(1628年)發生於荷蘭東印度公司統治下的大員與日本朱印船船長之間因貿易衝突所導致的武裝挾持事件。日本稱為大員事件(タイオワン事件타이오완 사건)或奴易茲事件(ノイツ事件)。
 1620年代のオランダ当局と鄭芝竜一統との抗争の記録は、目下のところ見当たらない。両グループ間の補完・共存関係が、矛盾・対立を超えて、大きく重要だったからであろうか。

 2 オランダの台湾支配
 オランダの南都台湾占領
 台湾と先住諸民族に対する外来者の「征服」は、1620年代初めから本格化した。台湾をめぐる抗争の過程で、日本人とスペイン人は脱落していった。残ったのは、中国人とオランダ人である。中国人とは、いうまでもなく、福建・広東両省、なかんずく台湾に近接し、海にも慣れた閩南系の住民を核とするグループだ。
 一般に、台湾史の1624年から1662年の38年間をオランダ支配期ととらえることが多い。だが、オランダ側の史料、例えば『バタヴィア城日誌Batavia Castle Journal』、『閑却された台湾't Verwaerloosde Formosa』(オランダ台湾太守コイエット著、1675年)などで見る限り、オランダ人は台湾への植民地支配にそれほど執着してはいなかった。

*Nederlandsオランダ語→Frederick Coyettフレデリック・コイエット (Chinees: 揆一; pinyin: Kuíyī; Pe̍h-ōe-jī: Kûi-it), geboren in Stockholm c. 1615 of 1620, begraven in Amsterdam op 17 oktober 1687, was een Zweedse edelman en de laatste koloniale gouverneur van de Nederlandse kolonie Formosa. Hij was de eerste Zweed die naar Japan en China reisde en werd de laatste gouverneur van het door Nederland bezette Taiwan (1656–1662).Svenskaスウェーデン語→Fredrik Coyet弗雷德里克·科耶特, född 1615 i Stockholm, död 17 oktober 1687 var en svensk kolonial ämbetsman.
 オランダ側は、極東におけるポルトガル人の対日・対中貿易の独占を打ち破り、あわよくばポルトガル勢力を駆逐するため、その根拠地であるマカオを攻撃した。これに失敗すると、ついで、スペイン人が掌握していた華南ーマニラルートの中国商人の出立港の一つであった満州に行き、通商を迫った。しかし、オランダは、これにも失敗して、中国沿岸の離島、澎湖島に拠点を設けようと試みる。だが、これもまた不首尾に終わった。こうして、ついに南部台湾に拠ることになった。
 留意しておきたいことは、この台湾占拠さえも、1622年にスペイン人の台湾進出の噂を聞いて機先を制する、あわただしい決定だったことだ。オランダ人が築いたゼーランディア砦もプロヴィンシア砦のいずれも外海を監視するのが主な狙いであって、台湾島内の土地や人民向けのものではなかった。
 当時、台湾の先住諸民族の多くは、なお狩猟と漁労段階にあった。オランダ東インド会社には豊穣な「処女地」として大挙して移住してくる漢族系住民を結びつけて開拓を促す。稲作と甘蔗作Sugarcaneがその中心的作物となる。風土がその双方に適しただけでなく、閩南からの移住者は、両作物栽培の高度の技術の体現者でもあった。また当時の閩南は中国製糖技術の先進地帯であり、開墾で伐採された樹木は、製糖のための薪として貴重な燃料源となった。

 鄭芝竜の台湾開拓
 時の勢いの渦にあって、勢いを加熱しまたフルに利用した代表的な人物は、鄭芝竜である。芝竜は一官、老一官の名でも呼ばれた。福建省泉州府南安県の出身で、若い時母方の祖父を頼ってマカオに出た。長じて父の紹祖が寄居していた日本の平戸に移り、平戸の田川氏の娘を娶って福松(成功、後の国姓爺)を1624に生んだ。

[2001.04]<小林よしのり「台湾論」>を超えてAu-delà de la « théorie de Taiwan » de Yoshinori Kobayashi
東アジア文史哲ネットワーク編Edité par le Réseau d'histoire et de philosophie littéraire d'Asie de l'Est
https://sakuhinsha.com/politics/3895.html
現在、シリーズの累計部数600~700万部という、小林よしのり氏著『ゴーマニズム宣言』。いまや若者たちのカリスマとなった「よしりん」は、相変わらず「日本型歴史修正主義」を若者の耳に吹き込んでいます。その「よしりん」が「大東亜戦争肯定論」を主張し波紋を呼んだ「新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論」につづいて、日本の植民地支配肯定論を展開した「台湾論」を出版し、現在さらなる波紋を呼んでいます。本書は、この「台湾論」に対する徹底的な反論の書です。日本・台湾の学者・研究者の協力によって、いかに歴史的事実からかけ離れた”まっ赤なウソ”であるかを暴き出します。そして、なぜうそで固められた「ゴーマニズム宣言」が日本でこのように影響力を持つにいたってしまったかを検証し、『台湾論』を超えて、21世紀の日本と台湾との関係・東アジアとの関係を考えていくための本です

Le Manifeste du Gomanisme, écrit par Yoshinori Kobayashi, compte actuellement un total cumulé de 6 à 7 millions d'exemplaires dans la série. Yoshirin, devenu aujourd’hui une figure charismatique parmi les jeunes, continue d’inculquer aux jeunes un « révisionnisme historique à la japonaise ». "Yoshirin" a publié "New Gomanism Special Statement: Theory of War", qui a fait sensation en affirmant la "théorie affirmative de la guerre dans la Grande Asie de l'Est", puis a publié "Taiwan Theory", qui a développé une théorie positive de la domination coloniale du Japon. . Aujourd’hui, cela provoque encore plus de répercussions. Ce livre est une réfutation complète de cette « théorie de Taiwan ». Avec la coopération d’universitaires et de chercheurs du Japon et de Taiwan, nous découvrirons à quel point cela constitue un « mensonge flagrant » par rapport aux faits historiques. La Déclaration Gomaniste, basée sur le mensonge, a acquis une telle influence au Japon et va au-delà de la « Théorie de Taiwan » pour explorer la relation entre le Japon et Taiwan au 21ème siècle. Ce livre est un livre pour réfléchir sur notre relation avec l'Asie.

①May 14, 2016 —小林よしのりライジングYoshinori Kobayashi Rising よしりん企画内の格差の現実と戦いCombattre la réalité des disparités au sein de Yoshirin Planning:一番ウキウキしてるのはトッキーで、嫁さん連れて台湾だCelui qui me passionne le plus est Tokki, et il part à Taiwan avec sa femme.台湾は今一番、興味のある国(わしは国と言う)なので、 時浦の報告を楽しみにしているTaiwan est le pays qui m'intéresse le plus en ce moment (je dis pays), j'attends donc avec impatience le rapport de Tokiura. https://yoshinori-kobayashi.com/10166/②時浦兼Ken Tokiura→自称autoproclamé「日本の戦争冤罪研究センター所長Directeur du Centre japonais de recherche sur les faux crimes de guerre」これからわかる通り、よしりん企画イチの博識であるComme vous pouvez le constater, il est la personne la plus compétente en matière de Yoshirin Planning←2013/03/05ーよしりん企画時浦氏の下衆な人間性Yoshirin Kikaku L'humanité vulgaire de M. Tokiura&ヘイトスピーチの定義と無自覚なヘイトスピーカーDéfinition du discours de haine et des orateurs haineux inconscients③Nov 29, 2022 —小林よしのりオフィシャルwebサイトSite officiel de Yoshinori Kobayashi 本日発売SPA!ゴー宣は『ロシアと中国の歴史ねつ造』La sortie d'aujourd'hui SPA ! Go Sen est "La fabrication de l'histoire de la Russie et de la Chine"(byよしりん企画Yoshirin Kikaku・トッキーTokki)もしロシアのウクライナ侵略を許したら、次は中国が台湾を侵略する!Si la Russie est autorisée à envahir l’Ukraine, la Chine envahira ensuite Taïwan !  
https://yoshinori-kobayashi.com/25766/

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