日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『Taiwan台湾Тайвань』ーHumanity, history, mentality人間・歴史・心性Человечество, история, менталитетーDai Guohui戴國煇Дай Гохуан《Republic of China中華民国Кита́йская Респу́блика》중화민국 국가三民主义Drei Prinzipien des Volkes(CANADA)2024/01/14⑫

  十大建設計画の生産面での目玉だった一貫製鉄工業(中国鋼鉄公司)と石油化学工業(中国石油公司)が、70年代後半から自前で原材料と中間材の供給が可能となったのは大きい。というのも、70年代全体を通じて輸出加工業の急速な発展で、プラスチックス、合繊用石油化学原料および機械造船用鋼材の需要が大幅に伸びたからである。
 また交通・運輸の基礎建設として行なわれた、①桃園国際空港(79年2月26日開港)、②南北高速道路(基隆ー鳳山間の373・4キロメートル、78年10月完成)、③基隆ー高雄間の縦貫鉄道の電化と複線化プロジェクト(79年7月完工)、④北回り鉄道(蘇漢ー花蓮間の88・3キロメートル)の新設(80年2月1日正式開業)、⑤台中港(漁港だったのを国際港に格上げ整備、82年6月完成)、⑥基隆港に近接、その姉妹港として拡張整備、79年6月完工)などのあいつぐ完成と運用で、台湾経済全般が活気づき、一つの有機体として効率よく循環するようになった。
 米日の経済循環の間隙をぬう形で地歩を固めた台湾の輸出加工工業は、第一次石油ショック(73年10月)を日本に劣らない巧みさにおいて克服し、繊維、電機、化学の三部門の各製品を主導に大いに輸出を伸ばした。

 貿易面での出超傾向は71年度の2億1600万ドルから定着しはじめる。ただし、第一次石油ショックの影響で、74・75年度の両年度は一時的な入超を記録した。なお、76年度の5億6700万ドル以降から連続して出超を記録し、86年度にはなんと150億ドルの驚異的な貿易黒字を計上するに至ったのである。

 80年代の台湾経済
 80年代に入って、台湾は新しい四ヵ年計画(82-85年)とともに長期計画として80-89年を期間とする十ヵ年計画を策定して実施に移している。同計画は「高度の技術工業と科学人材を導入し、工業技術の研究開発を奨励するとともに、高度技術の発展を促進する」をスローガンに掲げている。新竹には同計画に呼応してすでに科学工業園区が創設され、高度科学工業の積極的な振興と外資の誘致を図っている。狙いはいうまでもなく省エネルギー、技術集約工業への転換にある。
 第二次石油ショック(79年6月)の影響で、81年度と82年度の経済成長率がそれぞれ5・7%、3・3%、と一時的に鈍化したが、アメリカ経済の景気回復により再び拡大へと転じ、84年には10・9%を記録した。
 85年に入ると、アメリカ経済の景気鈍化からくる輸出停滞と金融制度の前近代性ならびにその不満により「十信事件」などのこげつきを加味したスキャンダルの発生、信用不安と政情不安が重なって国内投資の不振につながり、台湾経済には今までにない形の暗雲がただよい。苦難の年となった。経済成長率は再びダウンして4・73%で終わった。

①十信案是1985年發生於臺灣發生的一起金融弊案The Shixin Case was a financial fraud case that occurred in Taiwan in 1985②Françaisフランス語→Tsai Chen-chou (chinois : 蔡辰洲 ; 13 septembre 1946 – 14 mai 1987) était un homme politique et homme d'affaires taïwanais.
 不況の台湾経済に日本からの「神風」が吹いた。85年9月22日のG5(先進五ヶ国蔵相会議)以降、円高・米ドル安基調が進行する中、ドルとリンクした台湾元(台湾ドル)は急速に競争力を高め、対米輸出の伸びをテコに景気を回復させていった。また、円高のプレッシャーで日本企業の台湾進出が新しいブームを引きおこした。そればかりではなく、円高によるコストの台湾への転嫁を図るために、台湾への部品注文(特に電子部品)もまた殺到し、86年初頭以来の国際石油価格の下落もまた台湾経済を大いに活気づけた。台湾の輸出競争力を一段と高めたことはいうまでもない。
 だが、神風と順風だけが台湾に向けて吹いてくるわけではない。内側からは労働運動、農民運動、反公害運動および反原発運動がなどが日に日に高まってきている。低賃金で良質な労働力に加えて、労働争議なし、市民運動なし、低電力料金などの、いわば資本家側に有利な諸条件がまもなく消え去ろうとしている。
 外側からは、輸出ドライブを許容してきたアメリカ側も態度を変えて、元の切り上げと市場開放の大幅な譲歩を求めてきている。輸出依存度が60年代の10%台から85年以降には50%台を越え、しかも対米輸出がその半分を占めるとなると事態はかなり深刻だ。対米貿易の大幅出超と対日大幅入超を基調とする、台湾貿易の基本的構造をいかに是正していくかが緊急の課題だ。軽く90%を超える過大な貿易依存度と外貨保有量の急増、さらには国内資金の過剰流動性が命取りの要因に転化しなければよいが、と心ある人びとは心配している。
 台湾社会の近代化は、他の国と比べてその「光と翳」があまりにも歴然としており、日一日と台湾社会の歪みが明らかになってきている。環境破壊、公害の続発、汚染の深刻化といった事態はかつての日本にも見られたことなので、人びとは政府と企業さえその気になればまた改善されうると楽観視している。
 だが、金もうけをほとんど唯一の動機とする風潮は人心を日々荒廃させている。しかも、犯罪者の年齢がハイ・ティーンに下がっていることと、銃器による強盗殺人が日常茶飯事化していることなどは人びとを憂えさせている。いったいこの豊かさの代価は、はたして、われわれの世代で払いきれるものであろうか。

①Deutschドイツ語→Über den Personenkult und seine Folgen《关于个人崇拜及其后果인격 숭배와 그 결과》(russisch О культе личности и его последствиях), auch Geheimrede Chruschtschows genannt, ist eine Rede, die Nikita Chruschtschow am 25. Februar 1956 zum Abschluss des 20. Parteitages der KPdSU hielt②Españolスペイン語→La ruptura sino-soviética (en chino,中苏交恶; en ruso:Советско-китайский раскол)중소 분쟁(中蘇 紛爭Rupture sino-soviétique)또는 중소 대립(中蘇 對立Sino-Soviet split) es el nombre que recibió la crisis en las relaciones entre la República Popular China y la URSS que comenzó a finales de la década de 1950 y se intensificó durante la siguiente década.

              VII 社会は激変のさなかにあって
 1 60年代の反体制運動
 冷戦構造の変化
 一般には、米ソ平和共存路線の端緒を1956年1月14日、ソ連共産党第20回大会における、フルシチョフ第一書記のスターリン批判演説に見出すことが多い。しかし、伏線は、スターリンの死去(1953年3月5日)を契機に、早くも朝鮮戦争休戦協定の調印(同7月27日)、ソ連による水爆保有の公表(8月8日)、それに続くフルシチョフのソ連共産党第一書記就任(同9月12日)によって、すでにしかれていたというべきだろう。
 自らの国益と思惑を追い求めて、米ソは50年代半ばから60年代前半にわたって新たな平和共存への道と急いでいた。そのために米ソのもろもろの施策は、革命が成ってまだ日が浅い中華人民共和国を追いつめ、囲い込んでしまう結果をもたらすことになった。

 中共政権は自らの革命政権を守り、世界革命のリーダーシップの確立と影響力の行使を求めて、ソ連とは明らかに異なる道と自己主張を始めるのだった。1954年6月、周恩来はインドとビルマを訪問し、インドのネルーJawaharlal Nehru首相、ビルマのဦးနုウ・ヌーU Nu首相とそれぞれ、①相互の領土保全と主権の尊重、②相互不可侵、③内政不干渉、④平等お互恵、⑤平和共存、を内容とする、いわゆる「平和五原則」の共同声明を発表した。周はそれを「お土産」にモスクワを訪問し(7月28日)、以後、米ソへの警告の意味をも込めて金門砲撃戦を展開してみせるのだった。54年9月3日、そして58年8月23日から10月24日までと25日以降には、奇数日に破壊を伴わない中共側の金門島向け砲撃が続いた。

 フルシチョフは中国への説得とこれからの平和共存路線展開の構想説明を兼ねて、ブルガーニンNikolai Bulganin副首相を伴って訪中し(54年9月29日)、形だけをとりつくろった中ソ会談共同声明(10月12日)を公表したが、国際共産主義運動をめぐる意見の対立は顕在化こそしなかったものの、すでに根深いものがお互いの間に横たわっていた。

 中国は台湾海峡での緊張を演出しながら、他方ではインドネシアのSukarnoスカルノꦯꦸꦑꦂꦟDr. (H.C.) Ir. H. Soekarno大統領、インドのネルー首相などと語らって、アジア・アフリカ29ヶ国を一堂に集めたバンドン会議Bandung Conferenceを成功させ、先の平和五原則をさらに拡大・発展させた平和十原則を採択、発表した(1955年4月24日)。その一方で、インドネシアの斡旋を受諾して米中大使級会談(第一回は1955年8月1日のジュネーブ、後にワルシャワに移って定着)を持つことを忘れない抜け目のなさだった。

 ところで、アメリカは平和共存路線に相乗りして、フルシチョフの訪米を受け入れて(1959年9月15日)、一気に台湾問題をアメリカのヘゲモニーのもとで解決しようと試みるのだった。ケネディJohn F Kennedy新時代の目玉政策の一つとして構想された趣が、いたって濃厚である。

①雷震事件,是一件發生於1960年的臺灣白色恐怖案件Der Lei-Zhen-Vorfall war ein Fall weißen Terrors in Taiwan, der sich im Jahr 1960 ereignete

②Lei Chen (Chinese:雷震; pinyin: Léi Zhèn; 8 July 1897 – 7 March 1979) was a Chinese politician and dissident who was the early leading figure in the movement to bring fuller democracy to the government of the Republic of China.
 自由中国事件
 1953年の呉国禎のアメリカ亡命事件、55年の孫立人事件の後に起こったもっとも有名な反体制政治事件は「自由中国事件」である。
 『自由中国』誌は、元駐米大使の胡適Hu Shihと雷震が組んで1949年11月20日に創刊した雑誌である。その背後には蔣介石夫人の宋美齢の兄宋子文がいたともいわれる。出発の時は「自由の灯台」の役割を体制の周辺で狙い、国府台湾にも自由な言論が存在することを誇示するための雑誌でしかなかった。

①Українськаウクライナ語→Ху Ши (胡適, 17 грудня 1891 —24 лютого 1962)胡适후스 — китайський вчений, поет, історик, письменник і філософ中央研究院院長、中华民国驻美大使、天主教輔仁大學、南开大学校董会董事等職。

②Русскийロシア語→Сун Цзывэнь (кит. упр. 宋子文쑹쯔원, пиньинь Sòng Zǐwén, на Западе известен как Т. В. Сун («T. V. Soong», от «Soong Tse-ven»)Tse-vung Soong, 4 декабря 1894, Шанхай — 26 апреля 1971, Сан-Франциско) — китайский государственный и политический деятель, дипломат и предприниматель民國年間著名的宋氏家族成員之一。宋家三姉妹として知られる宋慶齢Soong Ching-ling・宋靄齢Soong Ai-ling・宋美齢は、実の姉妹である(三姉妹はそれぞれ孫文・孔祥熙・蔣介石と結婚した)。
 雑誌の主宰者の雷は京都帝国大学出身で憲政主義者であった。一度は国民大会副秘書長として蔣介石を補佐したが、肌が合わず離れた硬骨のリベラリストでもあった。雑誌は日一日と先鋭化し、蔣介石父子の独裁を厳しく批判する政治評論誌として注目されるようになっていた。
 雷の周辺には外省人のリベラリストと非国民党員の台湾人政治家が集まり始めた。同じ頃、先に記したように、東西両陣営の冷戦構造にも変化が見られ始めた。
 60年のケネディ大統領登場直前にアメリカで浮上した「一つの中国・一つの台湾」論と、中華民国が、全中国を代表せず、台湾・澎湖諸島だけを代表するものと主張する「中台国」論がかもしだしたアメリカの対中国政策の変更の兆しはそれらを裏づけてくれる。ともあれ、日本での安保反対闘争、韓国の이승만李承晩Syngman Rhee政権の崩壊などが、国府台湾の政局にも微妙な影響を及ぼし始めていたのだった。
 『自由中国』誌に結集した国府批判グループは、これらを好機到来と読んだのであろうか、1960年8月27日、政治的タブーを破って一気に国民党の反対党である中国民主党の結成を9月中旬に行なうと公表した。しかし、9月4日、新党結成運動の中心人物の雷は中共スパイを庇護したとの理由で逮捕され、10月8日に十年の懲役刑が宣告されて入獄した。『自由中国』誌は廃刊となり、新党結成の気運も関係者も雲散霧消した。以上がいわゆる『自由中国事件』である。
 新党結成こそ挫折したが、『自由中国』が播いた民主主義の種子や、鼓吹した憲政主義は台湾の地に確実に根づいていった。新党結成が外省人の開明的な人々と本省籍の国民党以外(党外)の人々との結合によって進行した意義は大きい。それは初めてのケースであり、新しい変化の兆しであったといえよう。

①Españolスペイン語→Wu San-lien (en chino: 吳三連; translit: Wúsānlián; n. Tainan, 15 de noviembre de 1899 - Taipéi, 29 de diciembre de 1988) fue un periodista y político taiwanés que fungió como Alcalde de la ciudad de Taipéi entre 1950 y 1954首位無黨籍臺北市長、臺灣省議會議員,為日治時期與戰後臺灣政治民主化運動、臺灣本土化運動、及社會運動的重要先驅人物。
 省籍矛盾を超えて
 白色テロが一段落した後、台湾での高レベルのパワーゲームは新しい局面に入った。それは基本的には国府対アメリカの暗闘であった。蔣介石父子の一元的権力への集中をめぐるゲームはいわば「コップの中の嵐」でしかなかった。ともあれ、アメリカ当局は一貫して自国の極東政策に有利な政権と政治家の育成を目指した。
 新党結成に参加した台湾人政治家の呉三連Wu San-lien(一橋大学出身、初代民選台北市長/51年2月ー54年6月)とKo Gio̍k-sū高玉樹Henry Kao(早稲田大学出身、第二代、第五代民選台北市長/54年6月ー57年6月および64年6月ー67年6月。ちなみに、高は任期途中で、台北市が政令改正で行政院直轄市となるにおよび、そのまま官選市長に任命され、72年6月まで勤めあげた)は、ともにアメリカのお気に入りの政治家だった。両者の意志がどのへんにあったかは不明だが、アメリカがたくみに経済援助を通じて、彼らに力をつけてやったのは周知のことである。それ以前は日本の植民地支配との関係で、台湾人政治家とアメリカとのつながりは薄く、また呉国禎、孫立人を通じてのパイプが切断された後、呉三連と高玉樹が雷震らと共同戦線を張る形で急浮上したのである。

②Portuguêsポルトガル語→Henry Kao ou Kao Yu-shu (chinês: 高玉樹; pinyin: Gāo Yùshù; 3 de setembro de 1913 - 15 de junho de 2005) foi um político taiwanês. Ele serviu como prefeito de Taipei de 1954 a 1957 e novamente entre 1964 e 1972官派臺北市(院轄市)市長,任期近五年,對臺北市市政貢獻極多。臺北市長卸任後歷任交通部部長、政務委員、總統府資政。
 自由中国事件の弾圧においては、対米関係と台湾民衆への配慮も働いたのであろう。本省人からは逮捕者は出なかった。その代わりであろうか、新党結成に参集した李万居Li Wanjuの『公論報』が乗っ取られて廃刊に追い込まれた。1961年3月のことである。国府批判の有力な民営新聞をつぶしたのは、李個人に対する懲罰だけでなく、党外の宣伝機関に成長する可能性の芽を、早めにつめとる意図も当局にあったことは明らかだ。

*Françaisフランス語→Li Wanju李萬居 (22 juillet 1901 - 9 avril 1966), nom de courtoisie Meng Nan, est né dans le village de Wubei, canton de Kouhu, comté de Yunlin, Taiwan. Il est diplômé de l'Université de Paris en France et a été un membre senior de l'Université de Chine. Fête de la jeunesse字孟南,臺灣雲林縣口湖鄉梧北村人,法國巴黎大學畢業,中國青年黨資深黨員。
 李は雲林県生まれ、中学時代から大陸へ留学し、パリ留学を経て大陸で抗日戦争を戦い、光復後、新聞事業の接収要員として陳儀一行とともに台湾に帰って来た。夫人は湖南省籍である。彼はその気持ちさえあれば、国民党に癒着して「大成」する道はあった。それにもかかわらず、生涯を硬骨のジャーナリストで通し、衆人の尊敬を今なお集めている台湾人先達の一人である。
 当時の反体制運動はまだ微温的なもので、せいぜい選挙運動を通じて、婉曲に国府と国民党を批判したり、皮肉ったりする程度のものであった。都市部で党外政治家は、国民党への批判票を集めて当選することが、時たまあった。しかし選挙干渉がひどく、選挙民の意識もまた低かったので、党外運動は容易ではなかった。干渉をくぐりぬけて当選した者は、またいかなる難くせをつけられるかも知れず、小心翼々として用心し、日々をすごすのだった。
 新党結成をめぐって本省籍と外省籍の関係者が台湾でできたことは、結果として省籍の垣根を越えて、共通の利害と政治理想をめぐって人々の対話が可能になったことを万人に伝えた。それまで対話は二つの面で困難があった。一つは意思の表現手段としての言語にギャップがあったこと。一般に壮年以上の台湾人は、日本の支配の影響で北京官話(中国の標準語)の表現力が著しく欠如していた。1960年といえば光復15年目で、台湾人がやっと北京官話に慣れてきた頃だった。しかし、それ以上に重要だったのは、この新党結成という事態のなかで、ようやくにしてそれまで欠如していた共通の「政治言語」が形成されてきたのである。国府当局のきびしい弾圧政治は「意図せざる効果」として、本省籍人と外省籍人士を凝集させ、相互の信頼感を醸成する媒体となったのである。

 経済成長と政治の変化
 国府は農地改革を通じて、農民をほぼ確実に体性内へ編入した。また、在村地主層の「政治好き」を利用して、県・市長、郷(村)・鎮(町)長のような地方の小権力や地方議会の議席獲得をめぐって、人々は派閥をつくってパワーゲームに熱中した。政治向けのエネルギーが発散の出口を与えられ、欲求不満はある程度解消された。民衆の側はわずかばかりの金銭や物品をもらって、舞台下でゲームを楽しんだ。
 1964年、工業生産高が初めて農業生産高を追い越した。工業化の速度はいっそう早まり、工業面での主導権が次第に民営企業に移っていった。民営企業は中小企業が多く、そのほとんどの経営者は本省籍が占めた。また、労働者の意識が大きく変わり、公務員意識が後退し、競争原理を受け入れる新しいタイプの「市民」的経営者と労働者が誕生することになった。工業化中心の経済発展は人々を都市部に誘い込み、人口の都市集中を促進する一方、人々の意識を徐々に変えていった。それは確実に党外運動を支持する層を増やしていくことにつながった。
 こうして、政治参加のチャンスは日本の支配当時と比べてこそ開放度が大きくなったものの、それはあくまで地方政治レベルに限定されていた。また、悪いことに政治的タブーと干渉、それに不正行為が目に余ることが多かったので、人々を不快にさせていた。一方、教育は入試制度の面で公平と平等の原則が守られた。言論、学術研究の自由は制限されたが、教育面での中原中国化は急速に進展した。それにともなって標準語をとおして自己主張できる世代が誕生してきた。

*The Taiwan independence movement대만 독립운동台灣獨立運動Indépendance de Taïwanis台湾独立运动Independentismo taiwanés臺灣獨立運動 a political movement which advocates the formal declaration of an independent and sovereign Taiwanese state, as opposed to Chinese unification or the status quo in Cross-Strait relations.Движение за независимость ТайваняРух за незалежність Тайваню
 2 台湾独立運動の虚と実
 台湾独立運動の原点
 台湾人を主体とする島内民主化運動にさきがけて、海外在住の一部中国人による反体制運動があった。その中には、中国統一を目指し、中共と密接な関係をもつ左翼運動があるが、ここではふれない。日米でとくに関心をもたれているのは台湾独立運動である。いわゆる秘密結社的な政治運動は虚実あいなかばして、その実体の解明と把握は容易ではない。台湾独立運動もその例にもれず、派閥が林立、錯綜して、主張も運動の形態も多岐にわたる。
 台湾独立運動が確実に形をなしてくるのは、中華人民共和国成立を契機とする。だが、運動の当事者たちは自分たちの運動の正統性と合法性を主張する必要から、運動の原点を自分たちの都合に合わせて事後的に解釈することが少なくない。原点を2・28事件に置くもの、台湾民主国を契機と主張するもの、はなはだしくは鄭成功政権にまでさかのぼるものなど、さまざまである。これらの中で最も多く主張されているのは2・28事件を契機とするものであるが、事件関係の資料で見る限り、事件の過程で台湾独立を明確な形で主張したものは見当らない。

*Françaisフランス語→Thomas Wen-I Liao (en sinogrammes 廖文毅료문의, né à Xiluo, district de Yunlin, Taïwan, en 1910 et mort à Taipei en 1986)Liào Wényì랴오원이廖温義료온의 為台灣民族主義者,以發表「台灣民本主義」聞名 est un pionnier du mouvement pour l'indépendance de Taïwan et chef suprême (ou président, 大统领) du « Gouvernement provisoire de la République de Taïwan » à Tōkyō, de 1956 à 1965因遭中華民國政府沒收其家族財產,以及逮捕其家人入獄即將判處死刑的威脅之下,廖於是向中華民國政府投降返台。 
 台湾独立運動と日本
 重要なことは台湾独立運動がいつ始まったかにあるのではなく、運動自体に影響力が備わっているかどうかにあって、それがあるとすれば当面の台湾政局もしくは台湾の行方に、今後いかなる力を発揮するかということであろう。自他ともに台湾独立運動の元祖と認め活躍したのは、Liao Wenyi廖文毅Thomas Liaoである。彼は台湾の西螺の大地主の末裔である。日本の同志社中学を経てアメリカの大学を卒業し、化学博士の学位をもつ。夫人はアメリカ人であり、旧世代では異色の存在だった。2・28事件時には上海に滞在していた。
 廖は2・28事件後、香港に移り、台湾から脱出した元台湾共産党のリーダー謝雪紅などと結び、「台湾再解放連盟Formosan League for Reemancipation」(1948年8月)を結成した。そして、台湾住民による高度な自治の実現を掲げて反国府運動を試みた。中国大陸の情勢の急変で、廖ら地主ブルジョアジーを核とする右派台湾人グループはアメリカへの傾斜を強め、台湾の国連による信託統治や住民投票による台湾の地位の決定など、国連やアメリカへのアピールを行なった。その中心的役割を果たしたうちの一人に邱永漢がいる。彼の回顧録によると、当初はわずか二、三人で始めたものという。当時の左派グループは立場上、廖らとは共同歩調をとれず、中共側からの呼び掛けもあり、大陸入りした。

*Deutschドイツ語→Die Formosan League for Reemancipation台灣再解放聯盟Формозская лига за реэмансипацию台湾再解放联盟La Ligue Formose pour la Réémancipation war die erste Organisation zur Unterstützung der taiwanesischen Unabhängigkeitsbewegung, die nach dem Zweiten Weltkrieg außerhalb der Insel Taiwan gegründet wurde. Sie wurde am 28. Februar 1948 in Hongkong gegründet是第二次世界大戰後台灣島外的第一個主張台灣獨立運動組織。

 台湾再解放連盟が自然消滅した後、廖は1950年に日本に渡り、日本在住の一部台湾人と京都で台湾民主独立党を結成し、自ら主席の任についた。1955年9月、台湾海峡が風雲急をつげたのに乗じて、彼はさらに台湾臨時国民会議Extraordinary National Conference of Taiwanを創設した。翌56年1月には台湾共和国臨時政府Provisional Government of the Republic of Taiwanを樹立し、自ら大統領となった。後に、彼は運動に進展がないのを見極め国府に帰順した。1965年のことである。これは蔣経国の国防部長就任(同年1月、政治の表舞台への初めての登場)と翌春に予定されていた蔣介石の総統四選へのムード作りに花を添えた。

*Русскийロシア語→Временное правительство Республики Тайвань (кит. 台灣共和國臨時政府) Gouvernement provisoire de la République de Taïwan타이완 공화국 임시정부臺灣共和國臨時政府— политическая организация и самопровозглашённое государственно-политическое образование, участвующая в движении за независимости Тайваня и претендующая на формирование суверенной Республики Тайвань.

 一方、1960年4月、当時明治大学で中国語を教えていた王育徳Ong Iok-tekは台湾人留学生を集め、『台湾青年』を発刊し宣伝啓蒙活動を行ないながら、廖らとは異なる独自の運動を進めた。


Ong Iok-tek (王育德Онг Иок-тек Taiwanese: Ông Io̍k-tek; pinyin: Wáng Yùdé; Wade–Giles: Wang Yü-te; 30 January 1924–9 September 1985) was a Taiwanese scholar and early leader of the Taiwan independence movement. He is considered to be an authority on the Min Nan language family and the Taiwanese language是應二二八事件而起的戰後第一代台灣獨立運動人士中的代表性人物②Españolスペイン語→La Sociedad Juvenil de Taiwán (28 de febrero de 1960 - 1 de enero de 1970) fue un grupo político fundado en Japón por Wang Yude, un profesor y escritor de la Universidad Meiji台灣青年社Taiwan Youth Society(1960年2月28日-1970年1月1日)是明治大學講師兼作家王育德成立於日本的政治團體。

台湾独立運動と北米
 60年代末に至り、運動の中心は日本から北米大陸(アメリカとカナダが中心)へ移る。それは50年代末から増えていった当地の台湾人留学生が動き始めたからである。アメリカとカナダの台湾人社会は、留学生OBの残留、国府の国連脱退(1971年10月25日)、とくにアメリカと中国大陸側の接近、日中国交回復などの余波で急増した移民グループとが重なって、大いに層を厚くしていた。目下、台湾独立運動の最大の組織と自負しているのは本部をアメリカに置く台湾独立連盟(1970年1月発足)である。同組織は日本の旧『台湾青年』グループを包摂した世界的組織と自己宣伝している。


*Taiwanese Americans (Chinese: 臺灣裔美國人대만계 미국인) are Americans who carry full or partial ancestry from Taiwan. This includes American-born citizens who descend from migrants from Taiwan. As of the 2010 U.S. Census, 49% of Taiwanese Americans lived in the state of California. New York and Texas have the second and third largest Taiwanese American populations, respectively.Inmigración taiwanesa en Estados UnidosТайваньские американцы又稱臺裔美國人或美籍台灣人,也可簡稱為台美人。澳門及西藏的移民一并歸類為華裔美國人“Chinese American”,近年已有“Taiwanese”相關統計欄並將原先「Chinese」改為「Chinese (except Taiwanese)」。
 70年代に入って邱永漢を始め、一度は王育徳に代わって若い台湾独立派の総帥の座を占めたことのある辜寬敏Koo Kwang-ming(辜顕栄の末子)らも続いて台湾に帰った。これら一連の帰順事件が血気盛んな青年らを憤慨させたことはいうまでもない。だが、冷静に見た時、台湾独立運動の元老たちが主張した。台湾人はすでに中国人とは異なる民族を形成したとする台湾民族論とそれに基づく民族自決論が虚構であり、自己崩壊してしまったことを、彼らの帰順の行為自体が裏づけたことに他ならない。

*Deutschドイツ語→Koo Kwang-ming (Chinesisch: 辜寬敏Ку Кван-мин; Pinyin: Gū Kuānmǐn; Pe̍h-ōe-jiī: Ko͘ Khoan-bin; 15. Oktober 1926 – 27. Februar 2023) war ein taiwanesischer Staatsmann, Geschäftsmann und Unabhängigkeitsaktivist中華民國政治人物,曾任總統府資政,民主進步黨黨員,早期曾任日本台獨團體台灣青年會委員長。

*[Yoshinori Kobayashi] La vérité sur les temps modernes [Histoire du Japon]
新傲骨精神《戰爭論》否定對日本軍國主義的《战争论》否定对日本军国主义的Un livre de libération qui brise les chaînes de l'esclavage invisible pendant 53 ans après la guerre ? Ou est-ce un livre interdit qui évoque des cauchemars de guerre ?新历史教科书编纂会새로운 역사 교과서를 만드는 모임新しい歴史教科書をつくる会。
①Españolスペイン語→La Operación Chungking四川作戦 fue ejecutada por el Ejército Imperial Japonés en China entre 1942 y 1943, durante la Segunda Guerra Sino-Japonesa日本陸軍が1941年(昭和16年)以降に計画した、中華民国臨時首都・重慶への侵攻作戦である。五號作戰(日语:五号作戦),又名五十一號作戰、重慶作戰、四川作戰Предлагаемое японское вторжение в СычуаньProposed Japanese invasion of Sichuan中止された四川作戦が復活したのは1944年11月23日に支那派遣軍総司令官に岡村寧次大将が就任したことによるものだったThe canceled Sichuan Campaign was revived on November 23, 1944, with the appointment of General Yasuji Okamura as commander in chief of the China Expeditionary Force・・・重慶政権を崩壊させることで延安政権などの反蔣介石勢力を後釜に据えて和平工作を実施するということも検討されたIt was also considered that by collapsing the Chongqing regime, the Yan'an regime and other anti-Chiang Kai-shek forces would be placed in its place to carry out peace efforts.

*《永遠的0》是百田尚樹所寫的日本小說«Вечный ноль: Полет невозврата» (оригинальное название: 永遠の0, Eien no Zero) — японский фильм 2013 года режиссёра Такаси Ямадзаки, основанный на романе Наоки Хякуты «Eien no 0» 2006 года.Verein für die Förderung liberaler Geschichtsbetrachtung自由主義史観研究会 "masochistisch自虐jigyaku".
(中略Omission)しかし大本営は総軍のほかに、もう一つの面倒な外地軍、支那派遣軍をかかえていたHowever, in addition to the general army, the Imperial Headquarters had another troublesome foreign army, the China Expeditionary Army. 折柄軍参謀長以下東京に飛来して、四川攻略、蔣政権打倒の大作戦を具申していたJust at that time, the military chief of staff and others flew to Tokyo and announced a major plan to capture Sichuan and overthrow the Chiang government. 米軍が次に台湾に来攻する場合、中国本土に上陸する可能性が生じるIf the U.S. military next attacks Taiwan, there is a possibility that it will land on mainland China・・・現地ではその危険があるのなら、両面作戦を強いられる以前に、四川作戦を実施して、各個撃破すべきである、と出来もしないことを主張するIf there is such a danger in the field, they insist that they should carry out the Sichuan operation and defeat each unit before being forced to carry out a two-sided operation, claiming on something that cannot be done. 宮崎中将は米軍のルソン島上陸の後、四川攻略なんて大作戦をやる余裕はいまの日本にはないのだ、ということを支那派遣軍に納得させることが出来たAfter the U.S. landing on Luzon, lieutenant general Miyazaki was able to convince the Chinese Expeditionary Army that Japan could no longer afford to carry out such a major operation as the capture of Sichuan(大岡昇平Shōhei Ōoka『レイテ戦記(下)Leyte War Chronicles (Part 2)』)。
*Françaisフランス語→Shuichi Miyazaki宮崎周一 (6 février 1895長野県出身 - 16 octobre 1969) était un soldat de l'armée japonaise pendant la période Showa. Le dernier grade est celui de 大日本帝国陸軍中将lieutenant général. アメリカ海軍の戦艦ミズーリ号の艦上で行われた降伏文書調印式に日本側全権代表団として参加Il a participé, au sein de la délégation plénipotentiaire japonaise, à la cérémonie de signature de l'instrument de reddition organisée à bord de l'USS Missouri.

*Vivian Hsuビビアン・スーВивиан Сюй(chinesisch徐若瑄, Pinyin Xú Ruòxuān, W.-G. Hsü Jo-hsüan; * 19. März 1975 als Hsu Shu-chuan徐淑娟, Xú Shújuān, Hsu Shu-chüan in Taichung, Taiwan)Bidai Syulan비비언 수
Vivian Hsu서약선, ist eine Popsängerin, Liedtexterin, Schauspielerin sowie Fotomodell臺灣女歌手、演員、主持人、作詞人、作家、電影監製和戲劇製作人《昵称 鋼鐵V》Hsu was born to a Hakka father and Tayal Taiwanese mother as Hsu Su-chuan父親為廣東梅縣客家人,母親為臺灣原住民泰雅族。

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