日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Sunji Sasamoto japán haditudósító magyar kitüntetése【Европа во время Второй мировой войны/Europe during World War II/Europa während des Zweiten Weltkriegs/第二次世界大戦下のヨーロッパ】Сюнджи Сасамото笹本 駿二Shunji Sasamoto(CANADA)2024/03/11③

 アルデーヌ作戦の成功は、ヒトラー自身の予想をはるかに上まわるものだった。A軍団先鋒部隊の前進が早すぎるのを心配したヒトラーは、一時停止を命じたくらいである(そのためイギリス軍主力はダンケルクから逃げ出すことができたといわれる)。それはともかくとして、対仏電撃戦勝利の鍵がアルデーヌ作戦の採用にあったことは明白である。しかし、この作戦がヒトラーの発想によるものでなかったことはさきに説明したとおりである。しかもなお、軍首脳の強い反対を押し切ってこの作戦を採用したというところに、ヒトラーの、尋常ではない”勘”の良さ、判断の深さ、また思い切りのよさがあらわれている。

 1940年6月22日、コンピエーヌの森Forêt de Compiègneでおこなわれた休戦調印式のニュウス映画が間もなくブダペストでも上映された。第一次世界大戦参加のEisernes Kreuz鉄十字章Iron Crossをつけたヒトラーが、ゲーリングHermann Wilhelm Göringをはじめナチスの幹部や軍部首脳をひきつれてフランス代表を引見する場面、調印式の模様、そのあと上機嫌のヒトラーが、うれしさのあまりか、庭さきではねあがっている光景などが映された。これはヒトラーにとってまさに一世一代の瞬間だったのであろう。スクリーン半分に大写されたヒトラーの眼もとには涙が浮かんでいた。あとにもさきにもただ一度だけ見たヒトラーの涙だった。
 フランスはやがて国土の五分の三を占領され、ヴィシーにはペタン政府が生まれ、対独協力を強いられることになった。花のパリはドイツ占領軍の中心とかわった。あの優雅なパリが、ドイツ兵に荒される、と思うと情ない気がした。

①Deutschドイツ語→Als Vichy-Regimeヴィシー政権 (französisch Régime de Vichy) oder Vichy-Frankreich (französisch France de Vichy)Виши́стская Франция или Режим Виши́ bezeichnet man im Rückblick die Regierung des État français („Französischer Staat“). Dieser löste mit dem Verfassungsgesetz vom 10. Juli 1940 die Dritte Französische Republik ab, die vom nationalsozialistischen Deutschland im Westfeldzug während des Zweiten Weltkrieges besiegt worden war. Der „État français“ bestand bis 1944 und erhielt den inoffiziellen Namen nach seinem Regierungssitz, dem Kurort Vichy in der Auvergne②Françaisフランス語→Philippe Pétainアンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョゼフ・ペタンАнри́ Фили́пп Бенони́ Оме́р Жозе́ф Пете́н, né le 24 avril 1856 à Cauchy-à-la-Tour (Pas-de-Calais) et mort en détention le 23 juillet 1951 sur l'île d'Yeu (Vendée), est un militaire, diplomate et homme d'État français. Élevé à la dignité de maréchal de France en 1918, il est frappé d'indignité nationale et déchu de toutes ses distinctions militaires en 1945.
 125年前、ナポレオンNapoléon Bonaparteが、イギリス、プロシャ、オーストリア、ロシアの連合軍に打ち負かされたとき、ゲーテが洩らした言葉を思い出してわたくしも深い共感を覚えた。
 ”文明が野蛮に敗けてしまったCivilization has been defeated by barbarism
*ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von GoetheЙо́ганн Во́льфганг фон Гете, або Йо́ганн Во́льфґанґ фон Ґет、1749年8月28日 - 1832年3月22日)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、博学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。

*Deutschドイツ語→Budapestブダペスト/ブダペシュト (ungarische Aussprache ['budɒpɛʃt]; deutsch historisch Ofen-Pesth)Будапешт ist die Hauptstadt und zugleich größte Stadt Ungarns. Mit knapp 1,7 Millionen Einwohnern ist Budapest die neuntgrößte Stadt der Europäischen Union und die fünftgrößte Stadt Mitteleuropas (nach Berlin, Wien, Hamburg und Warschau).
 ベルンからブダペストへ
 フランス敗戦の二ヵ月前、わたくしはベルンを去ってハンガリーの首都ブダペストに移った。二年近く住んだベルンの町には名残が惜しまれた。スイスの首都のこの町は、古くて静かで、清らかで美しく、ヨーロッパのどこにもないユニークな町である。ルネッサンスよりも古いアルテシュタットAltstadt、数世紀をけみした石だたみの路をはさんで、重々しくどっしりしたアルカードAlucardが列なる。そのうしろには、やはり中世以来のベルン・ブルジョアの古風な邸が悠然と構えている。そのいずれかには、若いフィヒテJohann Gottlieb Fichteや若いヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがしばらく身をおいたことがある。ゲーテがワイマールの大臣時代に金つくりに訪れたのもこのうちの一家だった。
 そういう古い町なみを数歩はなれると、ベルナーオーバーラントBernese Oberlandの雄大な姿が目に入ってくる。ユンクフラウJungfrau、アイガーEiger、メンヒMönch、ヴェッターホルンWetterhorn、フィンスターホルンFinsteraarhornなどの巨峰がずらりと目の前に浮かびあがる。
 秋から冬にかけて、夕暮れどきには、ベルンの町は薄もやに沈んでも、この一郡の峰々には夕陽があたり、ばら色に染まって、暗い下界からくっきり浮きでるのがまことにきれいだった。そのベルンですごした二年、そのうちの一年四ヵ月、ヨーロッパはともかくもまだ平和だった。平和なヨーロッパで、しかもこの静かなベルンで外国生活をはじめることができたのはわたしにとって大きな幸運だった。

*スイス連邦(スイスれんぽう、独:Schweizerische Eidgenossenschaft、仏:Confédération Suisse、伊:
Confederazione SvizzeraШвейцарияSzwajcaria, Konfederacja SzwajcarskaШвейцарія、通称スイスは、中央ヨーロッパに位置する連邦共和制国家。歴史によって、西欧に分類されることもある。

 スイスはヨーロッパで一番古い民主国家で、徹底した平等主義が建国以来の古い伝統となっている。それに自由な中立国であるため、ここにはあらゆる国から新聞や雑誌が入っていたし、ラジオはどこの国の放送も聞くことができた。またスイスからはヨーロッパのどの国にも出かけることができた。それにヨーロッパのまん中にあるスイスの地理的位置は、われわれのように動きまわる必要のあるものにとって大へん好都合だった。わたくしはベルンにきて、複雑なヨーロッパ情勢の勉強をはじめたが、統制されない自由なニュウス、公平な評論などスイスのお蔭を望むところは非常に大きかった。

 さてそのベルンに別れてやってきたブダペストというところは、これまたすこぶる魅力のある町だった。”ドナウの女王”という言葉でわかるとおり、ブダペストは、ドナウに沿う数多い町の中で一番立派な、一番美しい都なのである。また、単純に美しい、というだけでなく、ここには独特の”文化のにおいsmell of culture”というものが感じられた。
 長い間Haus Habsburgハプスブルク家Habsburg-házの支配を受けた国の首都だから、ウイーン文化Vienna cultureが滲みとおっていることは当然として、それがハンガリー人の生活、風習、気質、感情と結びついて生まれたのがこの”ブダペスト文化Budapest culture”といっていい。それに幸せなことに、わたくしがブダペストに移り住んだとき、ハンガリーはまだ戦争に加わっていなかった。この国はすでにドイツの勢力圏には編入されていたが、まだ中立国、平和な国である点スイスとおなじだった。その年の11月には無理矢理にAchsenmächte三国同盟Axis powerにひき入れられ、やがては対ソ戦争のお手伝いをさせられる身の上となるので、この中立と平和は束の間の命だった。しかしとにかくわたくしがはじめてまみえたブダペストは、平和で、快活で、享楽的で、どこかに退廃の香りさえも発散していた。
 町の大部分を構成するのは平たくて広い左岸ペストPestで、ドナウをへだてる対岸のブダBudaは、丘や小さな山でかこまれた住宅地域となっている。ドナウの河岸の中ほど、ペスト側には大ホテル、レストランがならび、ドナウとの間にコルソCorsoと呼ばれる散歩道があり、ここをぶらぶらあるくことがブダペスト市民の楽しみのひとつとなっている。コルソの対岸の小丘にはMaria Theresiaマリア・テレジアMária Terézia magyar királynőが建てた、豪壮でエレガントな王宮が仰がれ、左手には、古い要塞の跡をいただいたケレンヘギーKelenhegyの岡が見える。王宮の右手前には、がっしりした石柱で吊った橋がかかっている。絵のように美しい一角である。夜になると、このコルソわきのレストランでは、ジプシーZigeunerの楽隊が、哀調深いCigányzeneジプシー音楽Romani musicをきかせる。一ぱいやり、うまいハンガリー料理Magyar konyhaművészetを食べ、ダンスがはじまる。
 こういう光景を見て、わたくしはいささかおどろいた。ヨーロッパではとにかく戦争がはじまっていたのである。つい半年前には、ハンガリー国境から100キロとは離れていない南ポーランドで、恐ろしい近代的殲滅戦がおこなわれたばかりである。また現在、西部戦線では、700万の大軍が満を持して睨み合っているのである。それを、このブダペストは、まったく関心のないよそごととして、泰平の日々を楽しんでいるように見えるのだったが、そこには、単なる”戦争に対する無関心indifference to war”というだけではない、何かそれ以上のもの、いわば”戦争の否定denial of war”、あるいは”戦争への挑戦challenge to war”ともいえそうなものが、無意識の意識として底に流れていることをわたくしは感じた。

 ブダペストではっきりと感じられた、この”戦争との距離distance from war”は、もっと直截に”戦争不在absence of war”といってもよかった。それはおなじく”中立国”といっても、スイスには見られなったものである。このちがいは、西部戦線のすぐそばにあるスイスと、戦場と千キロも遠く離れたハンガリーとのちがいでもあろうし、総動員で国民の十人に一人が召集されたスイスと、予備役のわずかな部分を召集したにすぎぬハンガリーとのちがいでもあっただろう。
 その上、わたくしがブダペストに移った四月下旬といえば、中欧ではようやく春がはじまったばかりで、ブダの丘は、桜、桃、梨、リラなど百花咲き揃うときであり、ブダペストが一番美しく化粧する季節でもあった。夜は夜で、王宮も橋も、古い議事堂も長い河岸も、由緒ある建ものはすべてイルミネーションで飾られた。音に聞くこの夜景を前にして、わたくしは半年前のベルリンのくらやみと比べずにはおれなかった。パリもロンドンも夜を失ってしまったあと、ヨーロッパ一の文明生活はここブダペストではあるまいか、とそんな風に思われてならなかった。 
 こういう簡単な言語では、当時のブダペストが醸し出していた特殊な雰囲気を十分に伝えることはできないが、とにかくここには、”戦争を遠ざけたいWe want to keep war away”という気持が広く行きわたっていたということはまちがいなかった。そういう雰囲気の中で日々をすごしておれば、西部戦線の戦争というものもずっと遠方のできごとのように思われてくるのだった。
 実際のところ、ブダペストでの実感では、西部の戦争は文字どおりアッという間に終ってしまった。そのあと、ブダペストでも、「フランス軍は意気地がなさすぎたThe French army was too cowardice.」とか、「いやドイツ軍が強すぎたのだNo, the German army was too strong.」というような議論は交されたが、一番の話題は「これでもう戦争は終ったのではないか、平和は間もなく訪れるのではないかIsn't the war now over? Peace will come soon.」ということだった。これは、いわば”希望的観測wishful thinking”だったが、もともとこの国に強かった”戦争不在”と重なりあって、はっきりした”平和気分peaceful mood”をかもし出していた。西部戦線終結のあと、1940年の夏のブダペストには”戦争の翳りshadow of war”らしきものはどこにも見当らなかった。春まではどこか遠慮がちに見えたこの町の歓楽気分も、夏の到来とともに、満開の桜のようにパッと咲き出た感じで、ブダペストはいまやヨーロッパ一華やかな歓楽の都の観を呈した。

*バトル・オブ・ブリテン(英:Battle of Britain, 仏:Bataille d'AngleterreБитва за Британиюとは、第二次世界大戦におけるドイツ空軍とイギリス空軍の戦いのうちで、ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた一連の航空戦を指す。戦略目標を達することなく独ソ戦を前にしてヒトラーによって中止された。
 戦局の動き・独ソの翳り
 しかし、夏が終り、秋のはじまる頃になると、ブダペストいっぱいに溢れていた濃厚な”歓楽ムードjoyful mood
”もだんだんと薄らぎはじめた。そして、潮がひいて行くように、静かに、どこかに消えてしまった。戦争は、この町のひとたちが希ったように簡単には終らないことがわかってきたのである。
 事実、1940年の秋、ヨーロッパ戦局は大きく転回しつつあった。夏から秋にかけて、ヒトラーの計画した”あしか作戦”(英本土上陸)の実行不可能であることが九月中旬にはほぼ確実となってきた。この作戦に成功するため絶対に必要だった、英仏海峡の制海権、制空権をヒトラーはどうしても握ることができなかったのである。 

*Deutschドイツ語→Das Unternehmen Seelöweあしか作戦Операция «Морской лев»L'opération Lion de Mer
Operation Sea Lionwar der Deckname einer deutschen Militäroperation für die im Zweiten Weltkrieg von der Wehrmacht vorbereitete, aber nicht verwirklichte Invasion Großbritanniens.
 兵団も集め、上陸用舟艇も用意したが、海峡を無事に渡る保証がどうしても得られなかった。そこで、つぎにヒトラーとりかかったのは英本土大空襲だった。空からイギリスを叩きつぶそう、という考えである。自信たっぷりでこの任務をひき受けた空軍総司令官ゲーリングは、まず八月下旬から一ヵ月間、英空軍と飛行基地の破壊に全力をあげたが、英空軍の抵抗に遭って目的を達することができなかった。つぎに、九月下旬から十月一ぱいは、ロンドンに対するテロ爆撃、工業地帯爆撃に重点をおいた。この世界最大の都会を盲爆することで、イギリス首都の機能をまひさせ、同時にロンドン市民の戦意を奪うのが目的だった。これもロンドン子の不屈の魂の前に失敗に終った。この対英空襲でドイツの払わされた犠牲は予想外に大きく、英空軍の戦力が意外に大きいことがわかった。
 こうして、「空からイギリスを叩きつぶすCrush Britain from the sky」夢も破れたヒトラーは、”ほかの思案other thoughts”を凝らさなければならなかった。「チャーチルが飽くまでも屈服しないのはソビエトを当にしているからだChurchill never gives in because he trusts the Soviet Union. ソビエトが健在なかぎりイギリスは抵抗をやめないのだAs long as the Soviet Union is alive and well, Britain will not stop resisting. イギリスの前にソビエトを叩かなければWe have to hit the Soviet Union before we hit the UK.
 この考えがはじめてヒトラーの頭に浮かんだのがいつごろのことかはよくわからない。確かなことは、対英上陸作戦計画の提出を命令した七月中旬からわずか二週間あと、陸軍首脳にこっそりと対ソ作戦の検討を命じていることである。対英空襲が失敗したあと、ヒトラーが何とはなしに対英決戦を一時断念し、対ソ攻撃の決意を固めたことから見て、ヒトラーには、対英、対ソのどちらを優先さすべきか、最後の決断に迷った時期があったのではないかと推論される節がある。それは、上陸作戦の準備や大空襲による脅しで、イギリスが屈服すればよし、さもない場合には、まずさきにソビエトを叩く、という二つの考えのつながり具合に投影している。
 ヒトラーは、上陸作戦準備を進め、対英空襲を実行しながら、次第に対ソ攻撃の決意を固めて行ったようにわたくしには思われる。”Unternehmen Barbarossaバルバロッサ作戦Operation Barbarossa”(対ソ作戦計画)は、八月以来ハルダーFranz Halder参謀総長Chief of Staff(Großer Generalstab)等によって綿密に研究され、練りあげられた結果、12月5日正式にヒトラーの手許に提出されたものである。この計画にもとづいて、「1941年5月15日までに攻撃準備を完了せよComplete attack preparations by May 15, 1941.」というヒトラーの正式命令が下ったのは12月18日である。開戦の日を5月15日と決めたには、対ソ戦争は長くとも五ヵ月で終結するという前提で、ロシアの冬がはじまる前に作戦を完了する、という時間の計算があった。この点は東部戦線の経過と重要な関連があるのでとくに記憶しておく必要がある。
 ところでフランス降服から対ソ攻撃日取りが決まるまでに六ヵ月の時が流れた。その間に戦線以外でも、その後の発展に重大な影響をあたえる大きなできごとがいくつかおこった。そのひとつは、9月27日、ベルリンで調印された日独伊三国軍事同盟である。

*Українськаウクライナ語→Трої́стий па́кт (також відомий як Берлінський пакт 1940 року та Пакт трьох держав) 《德意日三國同盟條約Берлинский пакт》,又作《三國公約Tripartite Pact》、《三國盟約Pacte tripartite》、《三方公约》、《柏林公约》(德語:Dreimächtepakt;義大利語:Patto tripartito;日语:日独伊三国間条約〔日獨伊三國間條約〕)— договір, укладений у Берліні 27 вересня 1940, яким було створено військовий союз, відомий як «Країни Осі». Назва договору відображає початкову кількість договірних сторін, якими виступили Націонал-соціалістична Німеччина, фашистська Італія та Японська імперія.
 一年前、独ソ不可侵条約の成立で一応御破算になったこの同盟に、日本がついに踏み切ったのは、フランスの敗戦、イギリスの孤立無援France's defeat, Britain left aloneを見て”ヨーロッパ戦争終結近しNearing the end of the European war”と速断し、ドイツとの結束を有利と考えたからだった。
 フランスをたった五週間で平らげた電撃戦の輝かしい成果に、遠くから見ていた日本の眼が眩んだことは仕方ないとしても、「バスに乗りおくれまいDon't miss the bus」とする計算に動かされた根性においては、日本もイタリアと選ぶところはなかったJapan was no different from Italy in terms of its calculation-driven nature.
 もうひとつの国際政局の重大な動きは、独ソ関係が曇ってきたことである。その原因がどこにあったかを知るには、当時おこったできごとを記したつぎの一覧を見れば十分であろう。
 六月 ソビエト、バルト三国を占領。ソビエト、ルーマニア領のベッサラビア、ブコビナ占領。
 九月 ドイツ・フィンランド協定(ドイツ軍フィンランド領通過に同意)。ドイツ・ルーマニア協定。ドイツ、軍事使節団をルーマニアに派遣、ルーマニア軍の訓練に当る。同時にドイツ軍ルーマニア進駐。
 十月 イタリア、ギリシャ攻撃。
 十一月 ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、三国同盟加入。

*Românăルーマニア語→Participarea României la Al Doilea Război Mondial第二次世界大戦下のルーマニアRomania in World War IIРумыния во Второй мировой войне După o perioadă de neutralitate de mai bine de un an, în decursul căreia Regatul României a permis evacuarea guvernului, tezaurului și forțelor poloneze spre Egiptul sub mandat britanic, dar a cedat teritorii aliaților de atunci ai Germaniei naziste, anume URSS, Ungaria și Bulgaria, odată cu venirea la putere a lui Ion Antonescu, România s-a aliat oficial cu Puterile Axei în octombrie 1940 și - sub pretextul de a recupera teritoriile amputate - intră în iunie 1941 în război de partea acestora împotriva URSS, care va duce armata română până în stepa din nordul Caucazului și înapoi. La data de 23 august 1944, armata sovietică fiind deja în Moldova de nord încă din luna martie, Regele Mihai I decide înlăturarea mareșalului Antonescu dacă acesta va refuza semnarea armistițiului cu Aliații. În urma refuzului Conducătorului Statului, Ion Antonescu, de a executa cerința regală, Regele Mihai l-a destituit și l-a arestat, iar România a trecut de partea Aliaților, alături de care a participat la luptele contra armatelor naziste. Pentru România participarea la cel de-al Doilea Război Mondial s-a încheiat prin semnarea Tratatului de pace de la Paris (1947) ca stat învins, cu Basarabia, Nordul Bucovinei și sudul Dobrogei (Cadrilaterul) pierdute definitiv dar, cu recuperarea nordului Transilvaniei.
 これらのできごとを見れば、この時期、独ソ両国が、バルチック海方面、バルカン方面などで、勢力拡大、というよりはもっと露骨に、”戦略体勢強化Strengthen strategic posture”のためしのぎを削っていたことがよくわかってくる。中でも目立つのは、ソビエトがバルト三国、ベッサラビア、ブコビナに手をのばしたのが、独仏交戦の真最中だったという事実がある。これもやはり”火事場泥棒”の類であろう。このように、バルチックとバルカンという二つの地域、つまり双方にとって戦略的に重要な地域における両者の動きを見れば、独ソの関係は、このときすでに”争う者たちの関係relationship between contenders”に変ってきていることが明白となる。
 実際、この時点での独ソ関係は鋭どい対立そのものだった。ベルリンとモスクワでは覚書送付や大使の説明などが幾度もくり返された。しかし、もともと深い相互不信に根ざすこのギザギザした摩擦は、それくらいのことでは解消するものではなかった。10月13日、リッベントロップ外相はスターリンに手紙を送って、モロトフ人民委員議長兼外務人民委員の訪独を求めることになった。すっかりこじれた独ソ関係を調整し、フランス降服後の新情勢をもとにして世界政策について協議したい、というのがモロトフ招待の表面上の理由だった。スターリンはこの提案を受諾し、モロトフをベルリンへ派遣することを決めた。 
 こうして、モロトフのベルリン訪問という歴史的なできごとが登場することになる。
①Deutschドイツ語→Wjatscheslaw Michailowitsch Molotow (russisch Вячеслав Михайлович Молотов, wiss. Transliteration Vjačeslav Michajlovič Molotovヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフВячесла́в Миха́йлович Мо́лотов; eigentlich Skrjabin, russisch Скрябин; * 25. Februarjul. / 9. März 1890greg. in Kukarka; † 8. November 1986 in Moskau) war ein führender Politiker der Sowjetunion und einer der engsten Vertrauten Josef Stalins②Русскийロシア語→У́льрих Фри́дрих Ви́лли Иоахи́м фон Ри́ббентропウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ (нем. Ulrich Friedrich Willy Joachim von Ribbentrop, 30 апреля 1893, Везель, Северный Рейн-Вестфалия, Германская империя — 16 октября 1946, Нюрнберг, Бизония) — немецкий политический, государственный деятель и дипломат, министр иностранных дел Нацистской Германии (1938—1945). Обергруппенфюрер СС, член партии НСДАП.

*German–Soviet Axis talksПакт четырёх державDeutsch-sowjetische Achsengespräche德蘇軸心談判 occurred in October and November 1940 concerning the Soviet Union's potential adherent as a fourth Axis power during World War II. The negotiations, which occurred during the era of the Molotov–Ribbentrop Pact, included a two-day conference in Berlin between Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov and Adolf Hitler and German Foreign Minister Joachim von Ribbentrop. The talks were followed by both countries trading written proposed agreements.
                 3 ベルリンのモロトフ
 ”第二次世界大戦の転回点”
 モロトフは1940年11月12日ベルリンに到着、14日まで滞在した。その間にヒトラー、リッベントロップとの間に四回の会談が行なわれた。独ソ関係の雲行きが怪しくなってきて、何とか調整しなければならぬことはもう隠し切れない事態となっていた。全世界がモロトフ訪独を注目したのは当然である。実際、このヒトラー・モロトフ会談は、後述するように、独ソ関係に重大影響をおよぼすことになった。ソビエト外交の専門家として著名なプリンストン大学のジョージ・ケナン教授はこの会談を、”第二次世界大戦のほんとうの転回点The real turning point of World War II”と呼んでいる。

*ジョージ・フロスト・ケナン(英: George Frost Kennan、1904年2月16日 - 2005年3月17日)Джордж Фрост Кеннанは、アメリカ合衆国の外交官、政治学者、歴史家。現実主義者の知識人。1940年代から1950年代末にかけてアメリカの外交政策を立案し、ソ連の封じ込めを柱とするアメリカの冷戦政策を主導した。プリンストン高等研究所名誉教授。ピューリツァー賞受賞。
 その頃ヒトラーが、対ソ攻撃を真剣に考えはじめていたことは前章で述べたとおりで、そのヒトラーに最後の決意を固めさせたのがこのモロトフとの会談だったといわれる。このときのモロトフは、非常に高姿勢で一歩も譲らぬ非妥協的な態度を示した。ヒトラーはこれまでに、チェンバレン、ダラディエをはじめ、大小あまたの政治家とのかけひきを経験し、いつも相手を圧倒することに慣れていた。ところが、モロトフばかりはそうはいかなかった。ヒトラーにいうだけいわしたあと、モロトフは、得意の鋭どい論理でヒトラーのすきを突いてきた。さすがのヒトラーも終始押され気味となり、次第にいら立ってきて、おわりごろには辛うじて怒号の爆発を押えることができたといわれる。差しの会談では、これまで一度も負けたことのないヒトラーにとって、この勝負だけは例外となった。話の中味については順を追って述べて行くが、ドイツに対して一切譲歩せず、バルチックにおいてもバルカンにおいても、ソビエトの権利を堂々と求めてやまぬこのときのモロトフの中に、ヒトラーが強い敵意を見たことは事実である。「これではソビエトを叩くほかはないThis leaves no choice but to bash the Soviet Union.」というヒトラーの決意はこのとき最終的に固まった、といわれる。
 この章では、ヒトラー・モロトフ会談からはじめて、独ソ開戦にいたるまでの、バルカンにおける独ソの角逐を述べることにしたい。まずリッベントロップのスターリンに宛てたメッセージ、それに応えたスターリンの手紙の紹介からはじめる。
 10月15日、モスクワ駐在のシューレンブルク独大使から、モロトフを通じてスターリンに渡されたメッセージは、3500語におよぶ長文のものだった。その中から要点だけを拾ってみる。

*Українськаウクライナ語→Фрідріх Вернер фон дер Шуленбургフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シュレンブルク (20 листопада 1875, Кемберг, Саксонія-Ангальт — 10 листопада 1944, В'язниця Пльотцензееd і Берлін)Friedrich-Werner Graf von der Schulenburg — німецький дипломат, посол Німеччини в СРСР (1934–1941). Кавалер ордена Залізного хреста першого ступеня.

 一、対英戦争はドイツの勝利を以て事実上終結した。いまや、イギリスがいつ降服するか、時期の問題でる
The war against Britain effectively ended with Germany's victory. It is now a matter of timing as to when Britain will surrender.

 二、フィンランドとルーマニアに対する保障は、この二つの地域における安全の確保を目的とし、イギリスの攪乱工作や軍事的侵入に備えるものであるThe guarantees for Finland and Romania are intended to ensure security in these two regions and to guard against British disturbances and military invasion.
 三、九月末に成立した日独伊三国同盟は、アメリカの参戦を策しているイギリスの計画をくつがえす目的のものであるThe Japan-Germany-Italy Tripartite Pact, established at the end of September, was intended to overturn Britain's plan to involve the United States in the war. ドイツは日ソ友好の実現に努めているが、これは、独ソ、独日関係から見て論理的帰結であるGermany is striving to realize Japan-Soviet friendship, which is a logical conclusion from the perspective of Germany-Soviet and Germany-Japan relations.
 四、ヒトラー総統の考えによれば、ソビエト、日本、イタリア、ドイツの四国が、それぞれの国民の将来の発展を正しく指導するため、お互いの勢力圏を設定することは四ヵ国の歴史的課題であるAccording to Fuhrer Hitler's thinking, it was a historical task for the four countries - the Soviet Union, Japan, Italy, and Germany - to establish spheres of influence for each other in order to properly guide the future development of their respective peoples.
 五、そこで、これらの諸問題討議のため、モロトフ氏をベルリンに迎えることができればまことに幸であるIt would therefore be a great pleasure to welcome Mr. Molotov to Berlin to discuss these issues. この機会に総統みずから今後の両国関係の形成について意見を述べるであろうThe President will take this opportunity to express his opinions on the future formation of bilateral relations. しかるのち、前記の声明について異存なき場合は、わたくしみずから、でき得れば日本とイタリアの同僚とともにモスクワを訪れ、共同の政策の推進について貴下と会話する機会を得れば幸であるAfterwards, if you agree with the above statement, I would be happy to have the opportunity to visit Moscow myself, preferably together with my Japanese and Italian colleagues, and have a conversation with you regarding the promotion of our joint policy.
 リッベントロップのメッセージに対して、スターリンは10月21日付書輸で回答を送ってきた。これは260語の短かいものだった。スターリンは、モロトフの訪独にも、リッベントロップの訪ソにも賛成したが、日本とイタリアの外相を加えた共同討議についてはStalin supported Molotov's visit to Germany and Ribbentrop's visit to the Soviet Union, but he did not approve of joint discussions involving the foreign ministers of Japan and Italy、「事前にもっと検討する必要があるNeed to think more in advance」としてこれに同意しなかった。
 リッベントロップの長いメッセージは、独ソ協定以後のヨーロッパ情勢、世界政局について長々と述べているが、眼目が、ソ連を三国同盟に誘うにあったことは明白である。これに対してスターリンは、ドイツとの協議はよろしいが、日伊外相の参加は時機尚早として、三頭同盟加入問題をすぐにとりあげることに反対している点は注目したい。モロトフは、ヒトラーとの会談の中でも、ヒトラーがえがいて見せた”戦後世界の処理、独ソ日伊による勢力圏設定Processing of the post-war world, establishment of spheres of influence by Germany, Soviet Union, Japan and Italy”という壮大な図式は黙って聞き(むしろ聞き流しの観があったといわれる)、そのかわり、独ソの間の現実に差し迫った問題では、ギュウギュウとヒトラーの襟もとをしめつけるように詰め寄ったのである。

 独ソ首脳会談
 独ソ首脳会談は、11月12日、モロトフ・リッベントロップの顔合わせで幕をあけた。リッベントロップは、一年前のモスクワにおけるソ連首脳との会談、最近スターリンに宛てたメッセージにふれたあと、「一般情勢、独ソ関係について見解を述べたいI would like to express my views on the general situation and relations between Germany and the Soviet Union. また、モロトフ氏はつづいてヒトラー総統から政治問題についてのドイツの見解を聞くことになっており、そのあと自分との討議をつづけたいMr. Molotov is also scheduled to hear Germany's views on political issues from Fuhrer Hitler, after which he hopes to continue the discussion with himself.」と前置きしたあと本論に入った。この会談の議事録は四千語に及ぶ長いものである。リッベントロップ説明の中ではつぎのような点が重要である。
 「戦争はドイツの絶対優勢を明白にしており、イギリスの終末のはじまりが到来したことは何びとも否定できないThe war made clear Germany's absolute superiority, and no one could deny that the beginning of Britain's end had arrived. イギリスが和を請う日はそう遠くないThe day is not far when Britain will beg for peace. おそくとも来年、イギリスの降服はまちがいないThere is no doubt that Britain will capitulate next year at the latest. ドイツの空襲と潜水艦によるしめつけはますます強化されるので、これでイギリスは必ず参るだろうAs Germany's air raids and submarines continue to intensify its pressure, Britain is sure to suffer. イギリスは、アメリカの参戦に望みをかけているが、陸戦に関する限り、アメリカの参戦はドイツにとって問題ではないBritain is pinning its hopes on America's entry into the war, but as far as land warfare is concerned, America's entry into the war is not a problem for Germany. 独伊は、アングロサクソンがふたたびヨーロッパの土を踏むことを絶対に許さないGermany and Italy will never allow Anglo-Saxons to set foot on European soil again. フランス敗戦によって、ドイツの地上兵力は未曽有の規模となり、空軍も海軍も日ごとに増強しているWith the defeat of France, Germany's ground forces were at an unprecedented scale, and both its air force and navy were increasing day by day. 独伊は、無用の流血に一日も早く終止符を打つ考えで、おなじ志を持つ日本とともに三国同盟を結成したGermany and Italy formed the Triple Alliance with Japan, which had the same aspirations, with the idea of ​​putting an end to unnecessary bloodshed as soon as possible. 日本の参加は、戦争拡大を阻止するに特別の意義を持つものであるJapan's participation is of special significance in preventing the spread of war. 他方ドイツが、日ソの友好実現にも努力してきたことは御承知のとおりであるOn the other hand, as you know, Germany has also made efforts to foster friendship between Japan and the Soviet Union. 独ソの間には勢力圏の設定がおこなわれ、これは両国にとって大きな利益だったが、日本とソビエトの間にも同様の協定は可能だと考えるA sphere of influence was established between Germany and the Soviet Union, which was of great benefit to both countries, but I believe that a similar agreement between Japan and the Soviet Union is possible.
 

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