日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Comité international de la zone de sécurité de Nankin「改竄屋」→ 田中正明(「日本会議」所属)「先生」篡改松井石根的《战中日记》/La Fabrication du massacre de Nankin/ 南京杀人比赛两名日本军官+日本新聞記者たちの報告

フランス語→南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone)Comité international de la zone de sécurité de Nankin=Le Comité international de la zone de sécurité de Nankin a été établi afin de protéger et de rétablir la zone de sécurité de Nankin. Beaucoup d'occidentaux vivaient dans la ville durant le conflit sino-japonais en 1937. Après le départ du gouvernement chinois, la plupart d'entre eux ont également décidé de quitter la ville, alors que l'armée impériale japonais approchait de Nankin. Un petit nombre d'hommes d'affaires, journalistes et missionnaires occidentaux choisirent toutefois de rester. Les missionnaires était principalement des américains des églises presbytérienne et méthodiste. Les occidentaux qui restèrent établirent la zone de sécurité de Nankin, composée de plusieurs camps de réfugiés sur une superficie d'environ 9 km2, autour de l'ambassade des États-Unis. Afin de coordonner leurs efforts, un comité fut formé, appelé Comité international de la zone de sécurité de Nankin. L'homme d'affaires allemand John Rabe en fut le dirigeant, en partie à cause de son statut de membre du parti nazi et de l'existence du pacte anti-Komintern en vigueur entre l'Allemagne et le Japon. Rabe et les autres réfugiés étrangers essayèrent de protéger les civils des meurtres des Japonais. Les Japonais ne reconnurent jamais la zone de sécurité et des centaines d'hommes et de femmes y furent violés ou tués. Rabe et le comité auraient sauvé la vie d'environ 250 000 personnes durant le massacre de Nankin. 
英語⇒International Committee for the Nanking Safety Zone南京安全区国際委員会=The International Committee was established in order to establish and manage the Nanking Safety Zone. Many Westerners were living in the city at that time, conducting trade or on missionary trips. As the Japanese army began to approach Nanking, most of them fled the city.[1] A small number of Western businessmen, journalists and missionaries, however, chose to remain behind. The missionaries were primarily Americans from the Episcopal, Disciples of Christ, Presbyterian, and Methodist churches. To coordinate their efforts, the Westerners formed a committee, called the International Committee for the Nanking Safety Zone. German businessman John Rabe was elected as its leader, partly because of his status as a member of the Nazi party and the existence of the German-Japanese bilateral Anti-Comintern Pact. Rabe and other refugees from foreign countries tried to protect the civilians from getting killed by the Japanese. The Japanese didn't recognize the Safety Zone, and hundreds of men and women were raped and killed. Due to Rabe's efforts some 250,000 people were protected during Nanking Massacre. In February 1938 as violence by the Japanese Army abated, the International Committee for the Nanking Safety Zone was reorganized as the Nanking International Relief Committee, which did humanitarian work in Nanking until at least 1941. There are no records of any activity by the Committee after 1941 and it is believed likely that it was forced to discontinue its operations after the United States entered World War II.[2]
田中正明の松井日記改ざん事件 】
「一時我が将兵により少数の掠奪行為(主として家具などなり)強姦などもありしごとく、多少は止むなき実情なり」。「検証!南京大虐殺の『南京大虐殺否定論9つのウソ』」で、「松根大将日誌」の改竄問題が取り上げられている。「やらせ写真」が肯定派の勇み足だとすれば、「松根大将日誌」は否定派のそれになるようである。南京事件論争にはこの種のいい加減さがつきまとっている。以下、これを見ておくことにする。同書には、第一次資料の改竄とは、何か具体的には書いていないが、田中正明(イオンド大学教授)や板倉由明は史料改竄の常習犯として有名である。『南京大虐殺否定論13のウソ』によると、田中正明の『松井岩根大将の陣中日誌』では原文を300か所以上も、改竄していたと暴露されたとある。具体的にどのような改竄をしたのであろうか。以下は法律家・ゴマのホームページ内のゴマの独り言・歴史を偽造する馬鹿たちからの引用である。(1)田中正明は、最初、松井石根(南京事件当時の中支那方面軍司令官)の手記である「支那事変日誌抜萃」の以下の記載をもとにして、軍の司令官でさえ南京大虐殺を知らなかった(=そのような事実はなかった)と論じていた。
「終戦後暫くして、南京に於て一般人、俘虜、婦女子等に対し、組織的な大規模の虐殺、暴行事件がありたるやに米国内で放送しあるとの情報を聞き、予は驚き、旧部下をして調査せしめたるも、左様な噂は全く虚妄にして、予の在任中は固より、帰還終戦に至る迄、斯くの如き報告及び情報に接せず、上海に於る列国新聞通信員との屡次(るいじ)に亘る会見に於ても之を耳にせず、全くの誣妄(ぶもう)なることを附言す」。
しかし、上記の引用部分は、松井の「支那事変日誌抜萃」には存在しないもので、全くの田中のでっち上げである。しかも、後に田中自身が翻刻した「支那事変日誌抜萃」(「松井石根大将の陣中日誌」収録)にも、上記引用部分は存在しないのである。田中は、「支那事変日誌抜萃」を翻刻した際、以前でっち上げた文章のことを忘れていたのであろう。偽作者なら偽作者らしく、首尾一貫した偽作をしてこそ本物というべきところ、何ともお粗末な話である。
これは史料改竄の一例に過ぎない。さらに史料改竄以外にも、現存している大量の史料を無視したり、文脈を歪曲して引用したりする。このように、すぐにウソだとばれるようなことを平気でする否定論には、そこには何らかの政治的意図が隠されているのかもしれない。『産経新聞』『正論』『諸君!』『SAPIO』などでこれらの否定論が繰り広げられています。このような新聞・雑誌社を許してはいけない。ぜひとも、これらの企業の息の根を止めるべく買わないようにお願いしたい限りである。なお、
小林よしのり『戦争論』というひどい漫画がある。「原作:新しい歴史教科書を作る会/漫画:小林よしのり」という感じでアジア・太平洋戦争を美化・肯定、さらに植民地支配を正当化、南京大虐殺はなかったなどといった根拠のないウソを並び立てています。関西大学講師の上杉聰氏によれば『戦争論』のなかには100か所以上の間違いがあるとのことこのような漫画がベストセラーになるんですから、世も末です。漫画の影響力ははかりしれないものがあり、そして小林は今でも活字ばなれした読書習慣のない若者を騙しつづけています。
 【田中正明の松井日記改ざん事件 】
1985年11月24日付の朝日新聞は、翌日付で発表される雑誌『歴史と人物』(1985年冬号)に板倉由明が執筆した「松井石根大将『陣中日誌』改竄の怪」(上の写真)の要点を報道した。陣中日誌の原本は、南京攻略戦の最高指揮官松井大将が記したもので、自衛隊板妻駐屯地資料館に保管されていたのを田中正明が借り出し、走り書きの日記を判読して出版したばかりのところだった。雑誌の編集部は、専門の読解者に手助けしてもらい、同じ原本と対照したうえ、解説を板倉に依頼したものだが、南京虐殺を否定する方向で九百か所以上の削除、加筆、誤記、文章の移動などが行われていることが明らかにされた。  板倉は同じ紙面で「誤読、脱落はありえても、もとの日記に書いていないことを付け加え、それに注釈までしているのではどうしようもない」と評し、田中は「言い逃れになるかも知れないが、体調などの悪条件が重なりミスしたもので、決して虐殺は虚構だという自分の主張に合わせて加筆や削除したのではない。申し訳ないと釈明した。


本多は、さっそく翌日の紙面で松井大将が生きていれば、さぞ改ざんを怒り嘆くだろう」と追い討ちをかけ、洞富雄も『赤旗』紙上でこのエセ研究家にあえて一撃を加えた見識に……敬意を表したい」と述べた。さすがの田中も再起不能におちこんだか、と噂されたが、支援者たちに励まされてか再起の日は意外に早かった。一年半後に、(過去ログの場所を紹介しましょうか)田中は『南京事件の総括』(謙光社)を刊行、虐殺派、中間派のライターたちを威勢よくなで切りにしたあと「あとがき」で改ざん事件に言及した。すなわち「そのほとんどは、私の筆耕の誤記や誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものでありますと弁解しつつ字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果し得たと自賛した。その心臓ぶりには脱帽のほかないが、シロウトばかりでなく学者のなかにも彼を全面支援する人がいるから不思議だ。
改竄・捏造の実例(ゆうさまの資料集より):田中正明「先生」から


十二月十九日
「城内二、三ケ所に尚兵火」

「城内数ケ所に尚兵燹」
松井大将はこの日市内を視察した。
(「ゆう」注 最初が田中氏の芙蓉社版、あとが日記原本。以下同じ)
十二月二十日
「(日本大使館建物)内容共完全に保存・・・感服に値すべきか。」

「内容共全く完全に保存・・・感服の値あり」
「尚聞く所、城内残留内外人は一時多少恐怖の色ありしが、我軍(による)治安漸次落付くと共に漸く安堵し来れり、一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)、強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なれど洵に遺憾なり。」

「尚聞く所城内残留内外人は一時不少恐怖の情なりしか我軍の漸次落付くと共に漸く安堵し来れり一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)強姦等もありし如く多少は已むなき実情なり」
この部分は芙蓉版と日記原本では意味が全く異なってくる。
まず芙蓉版では、残留内外人は多少恐怖していたが、日本軍が治安回復に努めた結果安心してきたように読める。ところが日記原本を素直に読むと日本軍が落ち着いてきたので内外人も安心したことになり、恐怖の原因が日本軍にあったことが判る。又、末尾の松井大将の感想は、日記原本の突っ放した感じが、田中氏の「洵に遺憾なり」という書き加えで同情的に変わっている。
この改竄は弁解の余地なしというべきで、素人の筆者が何度眺めても「治安」とか「洵に遺憾」などの文字は見つからない。「多少」と「不少」の読みちがいは止むを得ぬと甘く見ても、編者が自己の主張に合わせて松井日記の記述を反対方向に曲げたことは否定できまい。
十二月二十一日、二十二日
「十二月二十一日」


「十二月二十日、二十一日」
「十二月二十二日」「二十二日」


↓日記原本に日付なし。
芙蓉版の二十一日分(下関視察)は二十日の残り、二十二日の前半(鴻で出発)が二十一日の分、十三行目上海帰着以下が二十二日の記述と推定するが、日記原本に二十二日の日付は無い。
下関を視察して
狼藉の跡のままにて死体など其儘に遺棄せられ、今後の整理を要するもと、虐殺の暗示ともとれる記事があるのに、ここの編者注には「この記述をみても、南京に大虐殺のありたる風も、これを関知したる風も全然ない。」と的外れなことが加えてあり、このように躍起になって「南京大虐殺」を否定するのは、かえって逆効果になりはしないか。
十二月二十三日
此日南京占領後の我方の態度方針を説明する為め外国記者団と会見す。最初南京占領と其国際的影響を知るため紐育タイムズのアベンド、倫敦タイムズのフレーザーを招致し、然る後上海の各国通信員と会見す。質問は主として、首都陥落後の日本の方針及パネー号に対する前後処置なり。」

日記原本になし。
これも悪質な書き加えである。田中氏は「支那事変日記抜萃」(七三ページ)にある記者会見の記述をもとにしてこの部分を作ったのであろう。
しかし、そもそも日記原本に無い「抜萃」などというのもおかしいが、書き加えた上に、「
南京占領から十日を経た外人記者団との会見において、松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けたという様子が全く見られない点、注目すべきである。」という編者注まで付けているのはどういうことか。 
初めに述べたように、当然書かれていいことが日記に無いのは何か訳がある。十一月十一日、三十日の記者会見は自分のしゃべった内容まで書いているのに、この日の記者会見が日記原本にないのは不愉快なことがあったのだろうと推察される。同盟通信上海支局英文部長の堀口瑞典氏は、その名の通り外交官の父君の赴任先スエーデンで生まれ、英、仏、独、スペイン語を自在に駆使して報道部の発表や高官の記者会見に活躍した人である。この会見で通訳に当たった堀口氏の記憶では、外人記者たちから南京事件の質問が続出し、松井大将は「現在調査中」と苦しい答弁をしていた、という。
厭な質問があったからこそ日記に書かなかったのである。「抜萃」の方は東京裁判に備えて自己に有利な記録、記憶(これは当然の権利である)を整理したものであろう。こうした事実関係を後世の人が正しく判断するためにも、原史料の改竄は許されないのである。
米艦隊長訪問、米長官来訪、仏艦隊長官の招待など外交行事が重なった。このあとに「松井大将は米・英・仏の高官と会合を重ねているが、『南京事件』の話題など誰からも聞いていない。」との余計な編者注
がつけてある。 (中略)
昭和十三年二月
二月六日

「支那人民の我軍に対する恐怖心、加へて寒気と家なきことが、帰来の遅るる主因となりをるものと思惟せらる。」

「支那人民の我軍に対する恐怖心去らす寒気と家なき為め帰来の遅るる事固とより其主因となるも我軍に対する反抗と云ふよりも恐怖不安の念の去らるる事其重要なる原因なるへしと察せらる 即各地守備隊に付其心持を聞くに到底予の精神は軍隊に徹底しあらさるは勿論本事件に付根本の理解と覚悟なきに因るもの多く一面軍紀風紀の弛緩か完全に恢復せす各幹部亦兎角に情実に流れ又は姑息に陥り軍自らをして地方宣撫に当らしむることの寧ろ有害無益なるを感し浩歎の至なり」
「慎むべき旨申入れたり」
「可慎も現状を保持する丈は異存なき旨申入れたり」

ここは日記原本一頁に相当する大幅な脱落である。しかもその脱落
部を「をるものと思惟せらる」と置き換えて文章をまとめているところから見て、編者は十分承知の上で脱落させたものと思う。
日記原本で松井大将が言おうとしているのは、戦争目的を理解していない日本軍の中国民衆に接する態度が悪く、幹部をも含めた軍紀、風紀が弛緩していることに対する歎きである。しかも松井は軍直接の宣撫工作に絶望の声をあげているのだ。松井の苦い実感がよく出ている。それは主として中国畑を歩き、日記でも明らかなように戦略より政略、謀略を得意とした松井大将にとっては、深刻な「挫折」ではなかったろうか。
このような松井大将の心境を正直に記した重要部分を意識的にカットした田中氏の心理が私には理解出来ない。
二月七日
「南京占領後の軍紀風紀に対する不始末」

「南京占領後の軍の諸不始末」
軍の軍紀、風紀に対する不始末より諸不始末という場合の方が対象が広い。

二月八日
「兎に角支那人を慈しめ、懐かしめ、之を可愛がり、憐むこと、只其慈悲心の心だけにて足るを以って」

「兎に角支那人を懐かしめ之を可愛かり憐む丈にて足るを以て」

これは田中氏の意見を書き加えたことなのだろうか。その上わざわざ
「これが松井大将の本心なのであるという編者注までついている。
■[歴史][田中正明][資料]松井石根大将「陣中日記」改竄の怪 07:34 松井石根大将「陣中日記」改竄の怪を含むブックマークCommentsAdd Starpoppo-xvanacorals_kotakeX-keyAyrtonism
Aクラス
大きな脱落や書き加えである。脱落にはウッカリ・ミスも有り得るが、芙蓉版の場合はすべて意図的と認められると私は判断した。
B
クラス
小さな誤読や脱落だが、全体の状況や解釈に大きな影響(例えば正反対になる)を与えるもの。
Cクラス
厳密な意味では間違いだが、全体への影響はほとんど無いと言っても良いもの。芙蓉版では読み違い、送り仮名のミス等が多い。また原文の、不少・可成・可然などの漢文調をそれぞれ、少からず・成るべく・然るべくなどと表記していることも多い。これらは冒頭に校訂上のルールとして断り書きすべきであったと思う。
以上のうち、ここではA、Bの両クラスの一部だけをとりあげることにした。
この、Cの送り仮名、漢文表記まで含めれば、その異同はおよそ九百ヵ所以上に及んでいる。
なお、芙蓉版からの引用に際しては、例えば八十一頁七行目(空行を数えず)を【八一・七】と記すことにし、日記原本からの引用は[ ]内に日記原本どおちカタカナ混り文で表示した。また、引用文中の傍点は、すべて筆者の付したもので、相違点を分かりやすくした。*1
昭和十二年十一月
この年七月七日の盧溝橋事件をきっかけに始まった日中の衝突はまもなく八月十三日、上海に飛火し全面戦争に拡大した。五万に達する優勢な中国軍の包囲攻撃をうけた海軍特別陸戦隊は僅か五千にすぎず、在留邦人の危機を救うため八月十五日、上海派遣軍に編祖され、予備役の松井大将を司令官として第三、第十一の二個師団の派遣が下令された。その任務は「海軍ト協力シテ上海付近ノ敵ヲ掃滅シ上海並其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ」と限定された小範囲のもので、松井大将はこれを不満とし、兵力五、六個師団、宣戦布告と南京を目標にすることを主張した。

以上のように芙蓉版を検討してみると、改竄の方向がすべて南京事件の否定に向かって揃っていることがあらためてはっきりする。まず考えるべきは、田中正明氏が何故このような改竄をやってまで南京事件を否定せねばならないのか、ということである。私は、田中氏は南京事件の全面否定にこだわり過ぎているからだと思う。数十万単位の「南京大虐殺」を否定するのは大変結構だとしても、事実として存在したことをことごとく否定し、隠そうとすると無理が出る。南京では日本兵による残虐行為はあったし、松井大将がそれを認めたことを隠す必要は無い。大将も人間であり、嬉しいことには筆が走り、厭なことは書きたくなかった。自分の意見が中央に容れられなければ憤り、日本軍の軍紀、風紀の乱れに心を痛め、軍政に絶望したりする。しかし敵国の首都占領という空前の成果への自負もあったから国民の歓迎を喜んだのである。そのまま全部公開して困ることはなかったはずだ。


日記原本を読んでもうひとつ感じたのは、松井大将だけでなく当時の軍人の多くに共通しているが「捕虜」の保護に対する国際法の観念が欠如していたことである。


松井大将のように軍縮会議など国際的な舞台での経験も豊かで、敵国の捕虜に対して人道的処遇をした日露戦争の経験者であっても、日記で見る限りこのあたりが念頭になかったらしいのはふしぎだ。中国の一般民衆を憐れむ心の何分の一かを捕虜に対しても配っていたら、南京事件の様相は変っていただろう。


いずれにしても古人の軌跡は今生きる人の貴重な道しるべである。但しそれは真正の記録でなければ意味が無い。田中氏の改竄は松井大将に対する冒涜であり、真に残念の一語に尽きる。


*なお、渡辺正男『上海・南京・漢口 五十五年目の真実』(『別冊文芸春秋 1993年新春特別号』掲載)にも、守山記者からの伝聞として、「12月21日、守山記者が、下関まで連行されて殺されかけた、支局雇用人の息子を助けた」エピソードが登場します。足立記者の証言とはまた別の話なのか、あるいはこの証言が若干異なる形で伝わったのかは不明です。


これらの記者たちは、何回か、外国人へのインタビューを試みています。まずは、先に登場した、中村正吾特派員の記事です。 「東京朝日新聞」 1937.12.16付


死都を襲つた無気味な静寂 一番恐かつた大砲! この目で見た南京最後の日 タイムズ記者ら語る
【南京にて中村特派員十五日】死んだ首都南京は十四日朝来中山路方面からいぶきを回復して来た、丁度瀕死の病人の顔色が刻一刻と紅潮して行くやうな鮮やかな活気の活動だ、中山路の本社臨時支局にゐても、もう銃声も砲声も聞えない、十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るやうな錯覚を起す、住民は一人も居ないと聞いた南京市内には数十万の避難民が残留する、こゝにも南京が息を吹返して居る、兵隊さん達が朗かに話し合つて往き過ぎる 南京目抜きの大通中山路と中正角新街口で北から真直ぐに走つて来たアメリカの国旗を掲げた自動車が記者の姿を見付けてばつたり停まつた、中からアメリカ人二名が走つて来た 『日本の新聞記者君だらう、僕はニユーヨーク・タイムスの特派員、この男はパラマウントのカメラマンだ』 早急に紹介しながら記者の手をぐつと握つた 『アサヒ』といふと『おゝ、アサヒか』と喜ぶ、大きい方がカメラマンでパラマウントのアーサー・メンケン君、背の低い方がニユーヨーク・タイムスのテールマン・ダーリン君 『南京最後の日はどうだ』と聞く 『いやどうも恐ろしかつたね』と両君は次のやうに語る 南京市内の水道が切れたのは九日だ、電気が切れたのは十日だ この頃から南京城外の砲声と銃声は紫金山に谺して物凄く激しくなり同時に市内の中央軍の兵士の往来が神経的になつて来た、  城内の市民は九日には続々新しく造られた国際救済会の避難区に避難して行くのだ 僕等は南京陥落が愈近くなつた事を直感した、蒋介石はいつ南京から逃げて行つたかははつきり判らないが五六日頃まで軍官学校に頑張つて居たんぢやないかと思ふ、日本軍の爆撃と砲撃に危なくて外へ出られないくらい、十一日から支那軍はドンドン退却を始めた、市中を通らずに城壁を伝はつて下関に向つて行く全く悲壮な退却行軍だつたよ 多分下関から船を利用して揚子江の対岸に落ちのびて行つたのだらう、この支那兵の退却は十二日になると少くなつた、主な部隊は十一日頃迄に逃げたのだらう 十二日には城外の激戦の音が稍衰へて日本軍の砲声が激しく紫金山天文台や富貴山にドンドン落下し一時は凄い唸りを立てゝ僕等の頭上をかすめ南京の北方にどかんどかんと落ちて行つた 一番怖いのは何といつても大砲だわ、支那軍は日本の大砲に随分悩まされてゐたやうですよ、十二日は市中の警備に当る少数部隊の支那兵を残すのみで街はそれこそ本当に死の街となつて無気味な静寂さだつた、僕等もその時には南京ももう駄目だと思つた、世界の悲劇を見るやうな気持で何ともいへない悲愴な感じだつた  と感慨に耽る、 記者等の姿を認めて又自動車が止まる、現れて来るのは何れも南京の最後を見届けやうと一月も二月も頑張つてゐたA.・Pやシカゴ・トリビューンの特派員達だ、APのマクダニエル君が四辻を見回し「やあ之は歴史的な新聞記者室だ」と朗かに語つた(十一面トップ 五段見出し)


興味深いのは、守山義雄記者の、南京での動きです。守山記者は、南京で、多数の外国人と会見しています。


「東京朝日新聞」 1938.1.5付夕刊 税金、物価高解消 甦つた”暗黒街”  南京外人の座談会


【南京にて三日守山特派員】
首都落城の歴史的戦火のなかに危険ををかして南京にふみとどまつた欧米人はアメリカ人十四名、ドイツ人四名、オーストリア人二名、白系露人二名、計二十二名を数えてゐるが、東亜をおほふこの大戦火が彼らの目にどううつつたか、異なつた印象のうちでも籠城外人たちが口をそろへて一様に唱へるのは南京の陥落が意外に早かつたこと、支那兵が優秀な日本軍に対して意外に頑強な抵抗を試みたことであつた。記者は南京入城後にこれら外人に会ふごとにその談話をひろひあつめた、南京陥落をめぐる移動国際座談会である―


ベーツ教授 (アメリカ人、南京金陵大学歴史教授、在支二十数年)
永年支那に住んで若い学生たちに歴史を講義してきた私だが、この肉眼で今度の如き歴史の大きな動きを目認することにならうとは思はなかつた、南京落城は蒋介石が夢みた近代支那にとつて致命的な打撃であらう、近代支那をここまで建設してきた蒋介石はたしかに一個のナショナル・ヒーローであつた、しかし支那民衆の目に映つた蒋介石は必ずしも完全な為政者とはいへなかつたやうだ、民衆は彼に対して二つの不安を抱いてゐた、その一つは蒋介石のやり方はあまりに独裁的な色彩が濃厚であつたこと、その二は抗日政策を実際的に指導する首領として彼が果して適切な人物であるかどうかといふ不安であつた、だがすでに南京をゆづり渡した今日、国民政府の命脈は永くはない、上海から南京まで、いはゆる中国の財政的心臓をゑぐりとられた国民政府が早晩経済的破綻を来すのは目に見えてゐる ラーデ(ベ)氏 (ドイツ人、シーメンス商会在支代表社員、在支三十年、南京避難民国際委員会委員長) 日本の攻撃はすばらしかつた、われわれは南京がこんなに早く落城しようとは思はなかつた、私はアフリカに五年支那にすでに三十年住み数々の戦争を見てきた、しかしこんどのやうに激戦に終始してしかもわずか四ヶ月の間に大国の首都を陥落させたかがやける歴史をいまだ知らない、私にとつては十三日のあさ堂々南京に入城してきた日章旗を見たことは忘れ得ない驚嘆である、日本軍が城壁に迫った十一日から十二日にかけて中山路を下関に向けて敗走する支那兵の一部が便衣に着かへて避難地区になだれこんだことはわれわれの仕事に大きな障害となつた、南京が完全に日本軍の手に帰してから四、五日目のある夜どこからともなく「南京はまだ陥落せず、市中には電燈がつき水道も断水してゐない」といつた内容のラヂオ放送がきこえてきたが、それは恐らく国民政府側の笑止な放送であらう。 (以下略)
さらに、ジョン・マギーの名が載った記事もあります。名前をどうやって知ったのか、この記事だけからではわかりませんが、外国人相手の取材に熱心だった守山記者のことですから、マギーと会見していた可能性も十分に考えられます。『守山義雄文集』より

日曜の南京市内〔南京にて12・19発〕 (略)
教会からオルガンの音にのったのどかな讃美歌の声がもれて来る。アメリカ人のジョン・マギー牧師が戦火が去ってほっとした支那市民信者を集めて礼拝の最中で、あゝけふは日曜だったかとこちらが教へられるほどの落つき振りだ。 (略)(P114)(1937.12.21 東京朝日新聞二面掲載)


 報道規制が厳しく、日本軍に不利なことは一切報道できなかった当時のことですから、記事となった会見内容があたりさわりのないものになっていることはやむえません。しかし、この時期のベイツ・ラーベらの関心が、日本軍の乱暴をいかにやめさせるか、ということだったことを思えば、彼らが折角訪ねてきた日本の新聞記者に対して、何の訴えも行わなかったとは、ちょっと考えにくいところです。 現にラーベ日記には、守山記者との会見の記録が登場します。


ジョン・ラーベ『南京の真実』より 
十二月二十日

午後六時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手慣れている。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏はいった。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから(「南京の真実」文庫版P148)


このような体験と、外国人たちからの取材から、守山記者は、「南京における日本軍の暴行」を明確に認識したものと思われます。


朝日新聞・渡辺正男記者は、のち、守山記者からその時のことを聞いています。


渡辺正男『上海・南京・漢口 五十五年目の真実』
南京支局には、新しい局長の田中正男、局員の林田重五郎、岡美千雄の三人と、もう一人、近く帰国予定の守山義雄がいた。 (略)


南京陥落の状況、落城後の状況などを、わたしは守山に尋ねた。彼はしばらく沈黙していたが、ウイスキーの盃をテーブルの上におき、悲憤慷慨の口調で話しはじめる。また眼をとじて沈黙する。そして眼をひらいて話しつづける。彼の言葉をそのままここに記す。
―日本の軍隊は勇敢に闘って南京城を攻め落した。殺すか殺されるかの激しい闘いは終った。しかし、落城後の日本の兵隊の非情残虐の行為は許せない。非戦闘員の市民を数多く殺した。多くの婦女子に暴行を加えて殺した。われわれと同じ血が流れている日本の兵隊がどうしてあのように非情残虐になるのか、信じられないことだ。アメリカのキリスト教団が設立した金陵大学の一群の建物が南京支局の玄関先から間近に見える。金陵大学から中山路の中央ロ一夕リーに至るまでの広大な地域に国際難民区が設けられている。アメリカ人とドイツ人によって国際難民委員会が運営されている。戦争で家を失い、財貨を失った十五万人の市民がこの難民区に保護されている。この難民区に逃げおくれた中国兵が軍服を平服に着換え、便衣のすがたで潜入していると称して、日本の軍隊が強引に侵入して、多く市民を捕えてゆく。成年男子の市民が毎日二千人、三千人と捕えられ、中山路を北に向い、揚子江の岸にある下関へと連れられていった。それらの人びとはふたたび難民区へ帰ってくることはできなかった。
―戦争がおわり、南京城から戦火はとおく消え去った。それなのに、毎日毎夜、城内のどこかで赤い火が空に燃えあがる。「敗残兵がかくれている怪しげな家がある、敗残兵を狩り出すのだ」といって、軍隊が家を焼いているのである。


年の暮に近いある日、守山は第十六師団司令部に、師団長の中島今朝吾中将を訪ねて訴えた。(P241)


戦争がおわったのに、ときどき、城内のあちらこちらで建物が焼かれ、大きな火事になっています。何かの目的で軍が命令して焼かせているのでしょうか。多くの市民が住む家がなくて困っています。火事を起さないことが、治安維持のためにもよいと思います」(P241-P242)


「率直に言ってくれる新聞記者の貴君に敬意を表する。しかし、いまの貴君の言葉を受け容れることはできない。中国人の抗日心はまことに頑強だ。ここは敵首都の南京である。南京の建物の一つひとつに、一木一草にもいまわしい抗日心が宿っている。その抗日心を打ち砕くのだ。どこかの建物にまだ敗残兵が潜伏している。それを焼き払うのだ。難民区の市民のなかにまだ敗残兵が潜伏している。それを狩り出して捕えなければならないのだ」


もはや、何もいうことはない。「中島という軍人は非道きわまる野蛮な人間だ」と心のなかでつぶやいて、守山は師団司令部をあとにした。
(以下略)
南京の攻略落城前後の時期に、日本軍によって多数の中国人捕虜や非戦闘員の市民が殺されたが、幾千人幾万人が殺されたのか、確実な人数は判っていない。守山は「
少なくみても、四万人は殺された」と、わたしに告げた。(『別冊文芸春秋 1993年新春特別号』)
 守山記者の中島師団長への訴えは、ラーベの訴えに応えたもの、と読めるかもしれません。 
*なおこれ以外にも、守山記者から「虐殺」の話を聞いた、という証言があります。



篠原正瑛『西にナチズム 東に軍国主義』
 戦時中、私は留学生としてドイツに滞在していたが、そのころ朝日新聞ベルリン支局長をしていた守山義雄氏(すでに故人)から、南京に侵入した日本軍による大虐殺事件の真相を聞いたことがある。
 守山氏は、朝日の従軍記者として、その事実をまのあたり見てきた人である。


 南京を占領した日本軍は、一度に三万数千の中国人、しかも、その大部分が老人と婦人と子どもたち、を市の城壁内に追い込んだ後、城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射をあびせて皆殺しにしたそうである。そのときの南京城壁のなかは、文字どおり死体の山をきずき、血の海に長靴がつかるほどだったという。


 守山氏は、このような残虐非道の行為までも"皇軍"とか"聖戦"といういつわりの言葉で報道しなければならないのかと、新聞記者の職業に絶望を感じ、ペンを折って日本へ帰ろうかと、いく日も思い悩んだそうである。
(『日中文化交流』1970.8.1 No157 P5)
 この内容は明らかに誇大ですが、朝日新聞支局の前の光景が、何らかの錯誤により大袈裟に伝わってしまった、と解釈できないことはありません。
 最後に、守山記者の2月14日付の記事を紹介しましょう。
東京朝日新聞」 1938.2.14付
鍋炭の偽装も不要 今や咲出す南京美人  平和の光に描く点景

 【南京にて守山特派員 十二日発】
 (略)この超非常時の支那避難民の間にも最近ぼつぼつ花が咲いてきたといふのはこれまで支那人の美しい娘達は顔に鍋炭を塗り不美人にカムフラージュして屋根裏に隠れてゐたものだが平和の光りと共にやつとこの頃ぽつぽつ表に顔を出すやうになつた。
 美しかるべき娘達が顔に鍋炭を塗らなければならなかつたはなしは哀れである、併しももうそんな必要はなくなつた南京に於る美人の数は南京平和のバロメーターだ


日本軍の南京占領後2か月経ち、ようやく中国人の娘たちは「顔に鍋炭を塗り不美人にカムフラージュ」することをやめた。見方によっては、これは「検閲」のぎりぎりを狙ったもの、と見ることもできるかもしれません。   
以上、守山記者は、「日本軍の蛮行」の実態をある程度正確に知っていた、と見るのが自然でしょう。他の記者も、「敗残兵狩り」の現場を目撃するなど、一定の認識はあった、と推定されます。
それでは、最初に掲げた、「事件というようなものはなかったと思います。朝日でも話題になっていません」という証言は、何だったのでしょうか。まずは、山本治・上海支局員の証言を確認しておきましょう。


大阪朝日新聞・山本治上海支局員の証言
ー山本さんが南京に行くのはいつですか。
「蘇州に行った時も上海に戻り、前線に言っては上海にいるということを繰り返していましたが、その時は橋本さんと一緒だったと思います。入城式の日は、上海を最初から従軍取材しているというので、陸軍の飛行機がつれていってくれました。着いたのは午後で、入城式の終わった後でした」


-南京の様子はどうでした?
「城壁の周りには中国兵の死体がありました。中山門から見た時、城内には何ヵ所も煙が上っているのが見えました」


-城内の様子はどうでした?
「特別変わったことはありません。南京で印象的なのは城壁で中国兵の死体を見たくらいです」


-虐殺があったと言われてますが・・・。
「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことを言ったことがありません。朝日新聞で話題になったこともありません」(P23)


-難民区 ( 安全区 ) はご覧になってますか。
「難民区は兵隊や憲兵がいて入れませんでした。そういうことですから市民は安全でした。一般の市民の死体というのはひとつも見ていません。紅卍字会の人が戦死体をかたづけたりしていました」


-「南京には何日間いました?
「数日間いて自動車で戻りました」


-その後は上海にいたのですか。
「そうですが、杭州に第十軍がいましたから、一月になって杭州支局長として杭州に行きました。杭州に着いてしばらくして、杭州の特務機関長から家族を呼んで下さいと言われたので、家族を呼びました。一月頃はまだ和平の動きもありましたが、その頃はもう和平もなくなり、日本軍も長くいるんだということを中国に知らせるつもりだったようです」


-上海や杭州でも南京虐殺は聞いてませんか。
「一度も聞いてません。上海支局長の白川さんは軍の最高幹部ともつきあいがありましたけど、白川さんからも聞いたことはありませんでした。徐州作戦に従軍した後、私は体を悪くして昭和十三年夏に日本に帰ってきました。神戸へ着いたところ、神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです。(P24)上海にいる時、私は中国の新聞を読んでいましたが『血戦光華門』などという文字が大きく載ったのは見たことがありますが、南京についてのそういうことは何も出ていませんでしたから、不思議に思ったものです」(P24-P25)(「ゆう」注 「大広報」を見ていなかったのでしょうか?)


-最近よく言われていますが・・・
「事件と言うようなものはなかったと思います。私も見ていませんし、朝日でも話題になってません。また、あの市民の数と中国軍の動きでそういうことが起きるはずがありません。私が上海、南京で見た死体というのは、最初、黄浦江の船の周りにあったたくさんの中国兵と、上海市街戦での戦死体です。あとは南京の城壁ですね。城壁の死体はきれいなもので、首を斬られたとかいう虐殺されたものではありません。戦死体は弾が当って死ぬのできれいです。
それと虐殺という表現ですが、戦場では、普通最も悪いとされていることが、最大の功績になるわけです。平和になって平和時の感覚で言うのは、何も意味がないと思います。そういう基準で虐殺と言っているような気がします。 私は昭和十五年になって召集され、少尉として従軍しました。この時は自分で攻撃命令も出したこともあります。で .すから自分で戦争もしていますし、また、記者として客観的にも見ていますが、そういう体験からみても虐殺事件というのはどうでしょうか」(P25)
(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』)
 橋本登美三郎氏も、同様の証言を行っています。


東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局次長の証言  
 -南京では大虐殺があったと言われていますが、南京の様子はどうでした?
「南京での事件ねえ、私は全然聞いてない。もしあれば、記者の間で話に出るはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことは話をするし、それが仕事だからね。噂として聞いたこともない。朝日新聞では現地で座談会もやっていたが、あったのなら、露骨でないにしても、抵抗があったとかそんな話が出るはずだ。
 南京事件はなかったんだろう」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』P38)


これらは、守山記者らの見聞と、明確に矛盾するようにみえます。
しかし、「日本軍の大規模な蛮行」は、明らかに存在しました。例えばこの二人に、このような質問をしたとしましょう。「日本軍の敗残兵狩りに、多くの民間人が巻き込まれたことを知っていますか」「66連隊事件、下関の事件など、多くの捕虜殺害が行われたことを知っていますか」「いろいろな外国人の証言などに明らかなとおり、日本軍が規律を失い、多くの殺人・掠奪・強姦事件を起こしたことを知っていますか」
 *詳しくは、「南京事件 初歩の初歩」をご参照ください。
もし「知らない」と答えたとしたら、彼らの情報収集能力がその程度であった、というだけの話です。「知っていたけど問題だとは考えていなかった」というのであれば、「聞いていません」という証言は何だったのか、という話になります。 阿羅氏のこの本は、南京事件を否定する立場からのインタビュー集ですが、それでも、当時のジャーナリストたちの認識がうかがえる証言が散見されます。


報知新聞・二村次郎カメラマンの証言
ー捕虜を見て、社で話題にしたりしませんでしたか。
 「捕虜といっても、戦いの途中、捕虜の一人や二人を斬るのは見たことがあります。皆もそういうのは見ているから、特に話題になったことはありませんでした。捕虜と一言で言いますが、捕虜とて何をするかわかりませんからね。また、戦争では捕虜を連れていく訳にはいかないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。南京で捕えた何百人の捕虜は食べさせるものがなかったから、それで殺したのかもしれないな。あの時、捕虜を連れていった兵隊を捜して捕虜をどうしたのかを聞けば、南京虐殺というものがわかると思います」
(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』P80)


読売新聞・森博カメラマンの証言
ーその時、南京での事件をほかの記者も知っていましたか。(P101)
「よく仲間とはお茶を飲みに行ったりしましたが、話題にはしてませんでした。しかし、知っていたと思います」(P101-P102)
ー なぜ誰も話題にしなかったのですか。
「戦争だから殺しても当然だと思っていたし、戦場ですから死体を見ても気にしていませんでした。ですから話題にしなかったのだと思います。そういうことで記者は突っ込んで取材しようとはしませんでしたし、われわれも軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはだめだ、と言われてしましたから撮りませんでした。死体のことを書いても撮っても仕事にならなかったからだと思います。
 日本軍の悪いことばかりを話しましたが、もちろんいい話もたくさんあります」
(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』P101-102)
同盟通信映画部・浅井達三カメラマンの証言 
ー 同盟通信のなかで、虐殺というようなことが話題にならなかったのですか。
「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣隊がよくいて、それをやるのが戦争だと思っていましたから・・・」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』P114)
 「捕虜殺害」に関する感覚がマヒしてしまい、全く「問題行為」とは認識していなかった様子です。このあたりが、記者たちの本音だったのでしょう。

 インドネシア語→南京大虐殺Pembantaian Nanking, juga dikenal sebagai(野蛮な) Pemerkosaan Nanking(南京大虐殺), adalah sebuah episode (逸話)dari pembunuhan massal(大虐殺) dan perkosaan massal(虐殺) yang dilakukan oleh tentara Jepang(日本軍) terhadap penduduk Nanking (ejaan resmi saat ini: Nanjing) selama Perang Tiongkok-Jepang Kedua. Pembantaian terjadi selama periode enam minggu mulai sejak tanggal 13 Desember 1937, hari itu Jepang menguasai Nanking(1937年12月13日、日本軍は南京に入城), yang kemudian menjadi ibukota Tiongkok (lihat Republik Tiongkok (1912–1949)). Selama periode ini, antara 40.000 hingga lebih 300.000 (perkiraan bervariasi) warga sipil Tiongkok dan melucuti kombatan dibunuh oleh tentara dari Tentara Kekaisaran Jepang.[7][8] Perkosaan meluas dan penjarahan juga terjadi.[9][10] Beberapa pelaku kunci dari kekejaman, pada saat dicap sebagai kejahatan perang, kemudian diadili dan dinyatakan bersalah di Pengadilan Militer Internasional Timur Jauh dan pengadilan Kejahatan Perang Nanjing, dan dieksekusi. Pelaku utama lainnya, Pangeran Asaka, anggota dari Keluarga Imperial, lolos dari penuntutan dengan memiliki kekebalan sebelumnya yang telah diberikan oleh Sekutu.Karena sebagian besar catatan militer Jepang pada pembunuhan sengaja dirahasiakan atau hancur tak lama setelah Jepang menyerah pada tahun 1945, sejarawan belum bisa secara akurat memperkirakan jumlah korban tewas dalam pembantaian. Pengadilan Militer Internasional Timur Jauh memperkirakan pada tahun 1948 bahwa lebih dari 200.000 orang Cina tewas dalam insiden itu.[11] Perkiraan resmi dari Tiongkok lebih dari 300.000 tewas berdasarkan evaluasi Pengadilan Kejahatan Perang Nanjing tahun 1947. Jumlah korban tewas telah aktif diperdebatkan oleh peneliti sejak 1980-an, dengan perkiraan khas mulai dari 40.000 sampai lebih dari 300.000.[3][12]Acara ini tetap menjadi isu politik kontroversial, karena berbagai aspek itu telah diperdebatkan oleh revisionis sejarah dan nasionalis Jepang,[8] yang mengklaim bahwa pembantaian telah dibesar-besarkan atau seluruhnya baik dibuat untuk tujuan propaganda.[13][14][15] sebagai hasil dari upaya nasionalis untuk menolak atau merasionalisasikan kejahatan perang, kontroversi seputar pembantaian tetap menjadi batu sandungan dalam hubungan Tiongkok-Jepang, serta hubungan Jepang dengan negara-negara Asia-Pasifik lainnya seperti Korea Selatan dan Filipina.
ノルウェー語⇒南京安全区国際委員会Den internasjonale komité for Sikkerhetssonen i Nanjing ble opprettet høsten 1939 for å beskytte og lede Sikkerhetssonen i Nanjing. John Rabe, en tysk forretningsmann og medlem av Nazistpartiet var grunnleggeren. Han og andre utlendinger forsøkte å beskytte kinesiske sivile mot å bli drept av japanerne som inntok byen i desember 1937. Inspirasjon til opprettelsen av sonen hadde de fra Shanghai, der den franske jesuitten Robert Jacquinot de Besange noen måneder tidligere hadde oppnådd opprettelsen av en slik sone som gjennomgående ble respektert av japanerne. Japanere respekterte ikke sikkerhetssonen fullt ut og foretok hyppige raid, men de fleste som tok tilflukt der, overlevde. Japanerne trengte stadig vekk inn, og tok med seg kvinner som de voldtok og drepte, og menn som var i militær alder som de henrettet. Man regner med at minst 200.000, kanskje 250.000, klarte seg gjennom de omfattende massakrene i Nanjing ved å oppholde seg innen sikkerhetssonen. 
イタリア語→Comitato internazionale per la zona di sicurezza di Nanchino Il Comitato internazionale fu creato per istituire e proteggere Area di protezione di Nanchino nel 22 novembre 1937.委員たち一覧=Membri
Membri del Comitato internazionale per la zona di sicurezza di Nanchino
Nome Nazionalità / Occupazione Organizzazione
Miner Searle Bates Professore americano University of Nanking
George Ashmore Fitch Missionario americano Nanking YMCA
Ernest Forster Missionario americano St. Paul Church
J.M. Hansen Affarista danese Texas Oil Co.
J. Lean Affarista americano Asiatic Petroleum Co.
Iver Mackay Affarista britannico Butterfield and Swire
John Magee Missionario americano American Church Mission
Rev. W. Plumer Mills Missionario americano American Church Mission
James McCallum Missionario americano Ospedale Drum Tower (Ospedale universitario di Nanchino)
P. H. Munro-Faure Affarista britannico Asiatic Petroleum Co.
J.V. Pickering Affarista americano Standard-Vacuum Co.
John Rabe Affarista tedesco Siemens Co.
Charles Riggs Professore americano Università di Nanchino
P.R. Shields Affarista britannico International Export Co.
G. Schultze-Pantin Affarista tedesco Shingming Trading Co.
Lewis S. C. Smythe Professore americano Università di Nanchino
Eduard Sperling Affarista tedesco Shanghai Insurance Co.
Minnie Vautrin Missionario americano College Ginling
Robert O. Wilson Dottore americano Ospedale Drum Tower (Ospedale universitario di Nanchino)

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