日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

大東亜戦争・東南アジアの戦い+敗北の日のはじまり・Greater East Asia Co-Prosperity Sphere

みなさん こんにちは、


ちょっとあまり文章が書けないので「ルポ」式でお願いしますね☆ 少しづつ加えてきます。いつもありがとうございます。サム 2016/10
対米英開戦・太平洋・東南アジアの戦い(日本の歴史・家永三郎):
ー1941(昭和16)年12月8日午前7時、東京中央放送局のラジオは「軍艦マーチ」の演奏の後、次のような放送をした。「大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は、本8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」というニュースで、これを繰り返し放送した。冷たい冬の朝のこのニュースは日本の国民に、その後4年間に及ぶ、太平洋戦争の始まりをはじめて知せたのである。
ーさらにこの日の昼頃、ラジオはかつてあの2・26事件のとき、「兵に告ぐ」という名放送をした中村茂アナウンサーの朗読により、アメリカ・イギリス両国に対する、宣戦の詔勅を伝えた。戦いは満州事変・日中戦争の場合と違い、「万世一系」の血統を継ぐ天皇の名において、正式に宣戦されたのである。この日の朝、日本軍は主に3つの地点で戦いを開始した。その3つとの地点とは、ハワイ諸島・フィリピン諸島・マレー半島である。
ーまず、第25軍司令官の陸軍中将山下奉文が率いる陸軍部隊(3個師団)は、この日の午前1時半頃、マレー半島東岸のコタバルのイギリス軍と戦闘に入った。半島南端のイギリス根拠地であるシンガポール市を目差す、マレー上陸作戦の第一歩である。ついで2時間ほど後の午前3時20分頃、第1航空隊司令長官の南雲忠一中将の率いる航空母艦4隻から飛び立った海軍攻撃隊(350機)は、ハワイのオアフ島にある真珠湾にいたアメリカ太平洋艦隊を襲った。
ー空からの爆弾と魚雷の投下により、停泊中の艦船に大打撃を加えた。さらにその12時間ほど後の午後1時過ぎ、第11航空艦隊司令長官の塚原二四三中将の率いる海軍攻撃隊(300機)は、フィリピン北部のルソン島にある、アメリカの空軍基地を襲った。そして空の要塞といわれたボーイングB17をはじめ、アメリカの誇る多くの優秀機を爆破してしまった。
ー台湾の基地を飛び立った爆撃機と戦闘機(85機の零戦がいた)は、遠く1000キロメートルを飛んでバシー海峡(後に日本艦船の墓場と呼ばれた)を越え、フィリピンの空を、日本の空にしてしまったのである。日本は3つの地点の戦いにおいて、完全に先手をとっていた。
ーハワイの真珠湾を襲った日本の第1攻撃隊は、指揮官機から発せられた「トトト・・・」という攻撃命令の無電を聞いて、アメリカの戦艦に向っていった。これは日本時間の12月8日午前3時20分であり、現地のハワイ時間の7日午前7時50分である。また日米交渉の舞台であるワシントン時間では、7日午後1時20分である。なぜこんな細かいことを書くか。ここに日本の「だましうち」という重大な問題があるからである。
ーもともとハワイのアメリカ海軍に対する、空からの攻撃作戦を、戦いの最初にやろうという考えは、時の聯合艦隊司令長官の山本五十六大将の考えであった。彼は粘り強くこれを主張して実現させたのであった。ところで山本長官はこの攻撃が「だましうち」になることを恐れ、攻撃開始が日米交渉の打ち切りの通告(いわゆる最後通牒の手交)より後になるように、強く希望していた。しかし現実にはワシントンの日本大使館は、東京から無電で打たれた「最後通牒」の翻訳や清書に手間取り、野村大使らが、ハル長官に会ったのはワシントン時間で7日午後2時20分だった。
ー外務省が命じた午後1時通告(ハワイ時間の7日午前7時30分)より、大幅に遅れ、攻撃開始の1時間後になってしまった。日本の最後通牒を読み終わったハル長官はいった。「私は50年間の公職生活を通じて、これほど恥知らずな、虚偽と歪曲に満ちた文書を見たことがない。こんな大掛かりな嘘とこじつけを言い出す国が、この世にあろうとは、今の今まで夢想だにしなかった」と。そして間もなく’Remember Pearl=Harbor’(「真珠湾を忘れるな」)という声は、少数の反対者を押し潰して、アメリカの世論を統一し、対日抗戦の気構えを強化した。
-しかしハル長官もまた、1つの嘘をついていた。それはニューヨーク市民も知らず、無論日本人も知らなかった。その嘘とは日本の最後通牒電報が、アメリカ軍の暗号解読機により解読され、ルーズベルト大統領は、午前10時50分(攻撃開始の3時間30分前)に、その全てを知っていたという事実を隠していたことである。
緒戦の大勝・破竹の快進撃:
ー年が明け、1942年(昭和17年)になった。この年、まず、1月2日には、第14軍司令官の陸軍中将本間雅晴(戦後・B級戦犯・銃殺刑)の率いる2個師団あまりが、フィリピンの中心都市のマニラを占領した。ついで、南北1000キロのマレー半島を南下した第25軍12万3000人は、2月15日、パーシバルの率いる8万8000人のイギリス軍を降伏させ、シンガポールを占領した。
ーまた、第16軍司令官の陸軍中将今井均のひきいる3個師団あまりは、オランダ領インドネシアに上陸し、8日ほどの戦いで、首都のパタビア(今のジャカルタ)を占領した。3月9日には、オランダ軍など、約6万人の兵を降伏させて、ほぼ、インドネシア全土を手中にした。同じ頃、第15軍司令官の陸軍中将飯田祥二郎の率いる4個師団は、ビルマ(現ミャンマー)に侵入し、10万人をこえる中国のビルマ遠征軍と激しく戦った後、3月8日の朝には、援蒋ビルマルートの始発駅であるラングーン(現ヤンゴン)をおとしいれた。
ーその一方で、日本軍は、6月はじめには、北方のアリューシャン列島のアッツ島・キスカ島を占領した。こうして、日本の陸海軍は、開戦以来、約7ヶ月で、およそ、東西7000キロメートル、南北7000キロメートルに及ぶ、広大な地域を占領したのである。これほどの大勝をとげて、しかも、犠牲者は一万にたりないではないか、戦争をしてよかった、という満足感が、多くの国民に宿った。しかしこれまでの大勝利は、準備をしたものが、準備のないものを負かしただけのことである。今後が大変なのだと考えた人は、暁のようにまれであった。
ーまして、日本軍の相手になったのは、ヨーロッパ中心の作戦のため、旧式兵器しか持たず。多くは本国から見放された、植民地防衛軍であった。大抵の場合、質がおち規律がゆるんでいた。しかし、こんなことは、ほとんどの日本人の理解の外であった。
ガダルカナル・サイパンー敗北の日のはじまり・アメリカの総反攻:
ー1942年5月ごろ、日本の陸海軍の最前線は、南太平洋のソロモン諸島にあった。東京を隔たること、はるか南東に5400キロメートルの島々である。日本軍は、このソロモン諸島を根拠地として、さらにその前方(東方)にある、フィジー島・サモア島を占領し、アメリカとオーストラリアの間を断ち切ろうと企てていた。その頃、アメリカの日本に対する反撃の根拠地は、ニューギニア島の南部とオーストラリア大陸におかれていた。
ーだから、その地域と本国の間が断ち切られることは、アメリカの対日反攻を遅らせ、ひいては、オーストラリアそのものを、日本軍の攻撃の的にしかねない危険を含んでいた。アメリカとしては、このような状況を、そのままにしておくことができない。
ーこうした中で、アメリカの対日反撃がはじまり、日本の敗北の歩が開始された。そして、その反撃は、いずれも、アメリカの作戦計画によって行われたのではなく、日本が仕掛けた軍事行動が誘いの戦いであった。海軍の最初の敗北である1942年6月のミッドウェー海戦と、陸軍敗北の第一ページである1942年8月ー1943年2月の
ガダルカナル
(栃木県と同じ大きさ)戦とがそれである。
ーことのおこりは、42年7月、日本海軍がここに、飛行場を建設したことであった。島の北岸のルンガ岬にできたこの飛行場を、空から発見したアメリカ軍は、大きなショックを受けた。なぜなら、この飛行場の使用をもし許すならば、日本軍はそこを基地として、さらに南下し、ついには、ニューカレドニア島まで進出し、オーストラリアは、東の脇腹に、ナイフをつきつけられることになるからである。そこで、アメリカは、強力な海兵隊を上陸させて、その飛行場を占領した。アメリカは、これを手はじめに、約3個師団6万人の兵力を投入してきた。
ーこれに対して、日本軍は、最もまずいやり方である小出しの兵力投入を余儀なくされた。結局、2個師団あまりの約3万2000人の兵力を、この密林の島に注ぎ込んだ。はじめに、約1万6000人のアメリカ上陸部隊に対して、僅か240人の守備隊で飛行場を守っていたのであるから、アメリカの反撃を、なめきっていたのである。そのうえ日本軍は、ソ連を相手にした戦争は研究しつくしていたが、アメリカ相手の島の戦いなどは、まったく研究していなかった。幹部の訓練も、そういう訓練に、一時間すらさいたことがなかった。
ーそれは、日本にとって、絶望的な兵力の差を持つ、絶望的な戦いであった。日本軍は、雨とジャングルと、マラリア蚊をも敵として苦戦を続けた。そして、2万2000人の生命を失い、軍艦24隻と飛行機900機をなくした。6ヶ月後の1943年(昭和18年)2月、約1万人の敗兵をやっとひきあげることに成功し、退却(軍は「転進」と表現)は完了した。軍事評論家の伊藤正徳はいっている。「ガダルカナルは、単なる島ではない。それは、帝国陸軍の墓地の名である」と。
サイパン・玉砕の悲劇
ー1943年9月、大本営は、これまでの攻撃中心の方針をあらためて、これ以上は一歩も引けないという「絶対国防圏」を定めて、守りを中心にした方針に切りかえた。この頃、欧州戦線では、イタリアが降伏し、はや、三国同盟の一角が崩れた。さらに、独ソ戦の進行も、ドイツにとって思わしくなくなっていた。こうしたことも、この方針の転換に、影響を与えていたのであろう。
ーところで、この「絶対国防圏」の中軸にあたる、中部太平洋方面の守りには、僅かな島の守備隊がいるだけであった。アメリカの圧倒的な総反攻を防ぐには、余りにも手薄であった。そこで、大本営は、1945年春に完成の予定で、これらの島々に、本格的な陣地を築き、北方から陸軍の大部隊を移して、その守りを強めようとし始めた。そして、陸軍中将小畑英良を司令官とする第31軍を作り、1944年(昭和19年)5月までに、関東軍から引き抜いた2個師団をはじめ、合わせて5個師団と7個旅団のおよそ10万人の軍を、サイパン・グアム・トラック・パラオ・硫黄島の5島を守りにつかせた。
ーしかし、太平洋艦隊司令官の二ミッツの率いるアメリカ軍は、2つの点で、日本の大本営の甘い期待を裏切った。1つは、時期の点である。そしてもう一つは、こういう南洋の島々の攻め方である。まず、アメリカ軍は、43年1月のマキン・タラワ2島の占領をトップに、44年2月には、ルオット・クエゼリン2島を占領して、中部太平洋に重要な足がかりを確保した。そして、次の攻撃地とみなされていたポナペ・ヤップ・パラオ・トラックの島々を飛び越し、一挙にこの方面の最北端の島であり、そのために第31軍司令部の置かれていたサイパン島に、大掛かりな上陸作戦を仕掛けてきた。いわゆる「蛙飛び戦法」である。
ーマキン・タラワの死闘と出血に懲りたアメリカ軍は、ここでは、猛烈な艦砲射撃と、空からの爆撃により、連日、砲弾を撃ち込み、爆弾・焼夷弾の火の雨を降らせた。そして、上陸の後は、戦車や火炎放射器を存分に用い、さらに、日本軍の「虎の子」の戦車に対しては、バズーカ砲でこれを炎上させた。日本軍は島中に、蜂の巣のようにはりめぐらされた地下壕と洞窟に立て篭もり、頑強な抵抗を続けた。
ーことに、小豆島ほどの広さを持つ島の中央にあるタポチョウ山と「死の谷」の攻防では、アメリカ軍もまた、兵士の80~90%を戦死させた大隊が出た。日本軍は最後に、生き残った約4000人が、手榴弾と銃剣を武器として、自殺的な「バンザイ」突撃を敢行。3000人近い屍をさらして、戦闘は終了した。
ーサイパン島には、日本人・朝鮮人合わせて約2万5000人ほどの民間人がいた。そのうち、一万人が降伏を拒んで自殺した。こうして、6月15日の上陸開始から7月7日の「バンザイ」突撃まで、約20日間の死闘の後、アメリカ軍は、サイパンを占領した。投入された総兵力は、アメリカ軍の約7万人に対して、日本軍約4万3000人であった。そのうち、アメリカ軍は、死傷者・行方不明者1万6525を出し、日本軍は、兵力の96%に当たる死傷者を出し、2万3811人が戦死した。
陸軍・海軍・マッカーサー・レイテ決戦前:(「レイテ戦記」・大岡昇平):
ー1944年6月17日、米軍のサイパン島攻撃とともに、事態は急速に悪化する。牧野中将はサマール島北端サン・ベルナルディノ海峡に臨んだラオアン岬の九聯隊の監視哨から、空母四を基幹とする大艦隊が、15日夕刻、海峡を通過したとの報告を受けた。
ーこれは米機動部隊との決戦を求めてタウイタウイ泊地から出撃した小沢艦隊であった。19日ー20日にかけて、サイパン島西方海上で日米機動部隊の決戦が行われ、空母「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」沈没、「瑞鶴」「隼鷹」が大破、艦上機500が失われた。絶対国防圏による迎撃作戦(あ号作戦)は失敗し、帝国海軍には米渡洋艦隊を撃滅する戦力も作戦も皆無となった。
ー7月18日、大本営はサイパン島失陥を認めた。同日、東条内閣辞職、陸軍大将小磯国昭が後継内閣を組閣した。海相には米内光政が就任、これが終戦準備への転換であることは、誰の目にも明らかだった。7月24日、大本営は新たに、千島、本土、南西諸島、台湾、フィリピンを連ねる線で、来襲の敵を撃破する聯合作戦計画を発令。
ー反攻米軍の一つはニューギニアの北岸を西進する西南太平洋総司令官のマッカーサー大将の路線、他は中部太平洋の離島伝いの太平洋艦隊司令官二ミッツ提督の路線である。二つの路線はフィリピンで合致するはずで、この点大本営の比島決戦場の判断は誤っていなかった。18年の下半期から19年の初めにかけて、中部太平洋路線が活発であった。タラワ、マキン、クェゼリンが玉砕したのは、小さな離島だから止むを得ないという弁解があった。
ーしかし2月17日海軍が陥落しない要塞と称していたトラック島が、一回の空襲で壊滅したとき、帝国海軍は陥ちない要塞などというものは、不沈艦と同じく、現代戦では存在しないことを認めなければならなかった。陸軍も海軍に劣らず屈辱を受けた。同じく決して陥ちないと豪語していたサイパン島が、上陸3週間後には組織的抵抗が止み、1カ月後に玉砕してしまったからである。日本本土がその頃量産段階に入った長距離爆撃機B-29の射程内に入っただけでなく、南方補給線が脅威を受けることになった。
ー7月27日から3日間、マッカーサーはハワイに呼ばれ、ルーズベルト大統領の前で、二つの案を二ミッツと争った。マッカーサーが卓子を叩いて、アメリカに忠誠なキリスト教徒、フィリピンを見棄てる責任を大統領が取ることが出来るかと詰め寄り、結局政治的理由によって、二ミッツが折れて、フィリピン上陸作戦が決定したという物語が語られることがある。
ーこのときマッカーサーにはすでに将来大統領選挙に立候補する野心があったといわれる。二年前のコレヒドール脱出は彼の経歴を傷つけた。「アイ・シャル・リターン」の約束を実現することは、軍人名誉心、フィリピン人に対する感傷的理由だけではなく、彼の政治生命に関するものだった。一武将の虚栄心のために、比島上陸が決定した、その結果小磯首相がレイテ天王山と叫び、大量の日本兵が注入され死ななければならなかった、といわれることがある。
ー占領時代が過ぎて、マッカーサーに対する反感が一般的になったころ流行した説であるが、幾分原因結果を感情的に取り違えた感がある。米海軍作戦部長キング元帥も同じくハワイに来て大統領と会談したが、マッカーサーが着く前日ワシントンに発っている。彼は大統領がこんな戦略の細部まで立ち入るのは賛成できなかった。陸海軍の対立は日本だけの特技ではなかった。「戦争は艦隊決戦の結果によって決まる」はアメリカの19世紀末の戦争理論家マハンの理論で、日本海軍は日本海海戦を指導した秋山真之参謀以来、世界中でこの理論の最も忠実な海軍であった。
ーところがニューギニアから北上するマッカーサーの路線は純然たる陸軍路線である。彼にとって、中部太平洋の離島を伝う二ミッツの路線は、その側面擁護の任務に限定されるべきであった。フィリピン南部に到着したときは、ハルゼーの機動群を自分の指揮下に入れて、規模雄大な水陸両用作戦を展開するつもりであった。大統領がチャーチルへの友情からか、古いヨーロッパへの郷愁からか、万事ヨーロッパを先に、太平洋を後に、決断するのに対して、マッカーサーは抗議した。ルーズベルトが自らハワイに出向いたのは、ことごとに現れる陸海の対立を話し合いによって緩和するためであった。
ーただ作戦実施の段階で、現実にマッカーサーと協力した第三艦隊司令官ハルゼー中将は、マッカーサーの同情者であり、二ミッツ大将も彼の作戦を理解していたといわれる。従ってハワイ会談は、むしろ大統領に対する説明に終始した講義的なものだったかもしれない。マッカーサーは会談は終始穏やかに行われたと回想しているが、珍しく本当のことを書いていると見なすべきであろう。
ーマッカーサーの予定ではミンダナオ島上陸11月15日、レイテ島12月20日であった。彼の幕僚の戦略は常に次の上陸地点を援護できるところまで、航空基地を進めるという、石橋を叩いて渡るようなやり方である。彼の水陸両用部隊は9月15日ハルマヘラ群島の北端モロタイ島に、二ミッツの海兵隊は同日パラオ諸島のぺリリュー島に上陸を始める。
ーレイテ島防衛を受け持った十六師団にとって致命的だったのは、三十五軍の中途半端な水際戦闘指導であったといえよう。サイパンがやられたのは築城ができていなかったからで、参考にならんというものがいる。サイパンのような小島とレイテのような大島とでは防衛戦闘も異ならねばならぬなど、マニラの連絡会議は議論百出となった。
ー結局鈴木中将が採ったのは、水際でも「有力なる一部の真面目な抵抗をやる。そのため兵の一部に過早の消耗が生じるもこれを忍ぶ」という妥協案である。生き残った兵隊で拠点抵抗もやり、最後には山際の複郭陣地で持久戦に入るという、欲張った作戦をたてた。水際一部抵抗方針は元来レイテ島の海岸地方にも飛行場を建設したことから起っている。敵にそれを使用させない、もしくは使用を遅延させるために、多少の抵抗はしなければならないのだが、もし鈴木軍司令官にもう一段深い読みと決断があったなら、断乎として水際抵抗を放棄することも出来たのである。
ーこの頃、硫黄島防衛軍の司令官として着任した栗林忠道中将は、現地海軍部隊の反対を押し切って、水際陣地は放棄した。重砲まで擂鉢山の洞窟に引き込んだ。そして一個師団強の兵力でこの小島を1カ月半支え、米上陸軍に防衛軍に上回る損害を与えることが出来たのである。レイテ戦の一ヶ月前、ぺリリュー島の防衛をした第十四師団歩兵第二聯隊の中川州男大佐も、同じ戦術によって二ヶ月抵抗した。レイテ戦は太平洋戦線で戦われた唯一の大島作戦で、不慣れのため日米両軍とも幾多の誤りを冒した。しかしこの水際一部抵抗主義ほど、無益な損傷と悲惨な壊滅を招いた過誤はない。米軍の強力な攻撃の前に、水際陣地に枯渇的消耗が生じれば、予備を急いで投入しなければならない。最前線を「過早に消耗」させれば、同時に後方も崩壊する危険に想到していなかった。
飢餓地獄・インパール・白骨街道:
ー1943年9月、やはり、「絶対国防圏」のなかの西方に位置するビルマでは、陸軍中将牟田口廉也中将を司令官とする第15軍(3個師団)のもとで、インパール作戦の準備が進められていた。インパールは、インド東北部にある国境の町である。ビルマが日本軍に占領された1942年8月以降、ここはイギリス軍の前進基地であり、「ビルマ・ルート」なきあとの中国向けの航空輸送基地であった。従って、そのインパールを日本軍が占領して、同時に、カルカッタから来る、アッサム鉄道・ベンガル鉄道を押さえ、さらに「東京への道」と呼ばれるレド公路の基点であるレドを取るとならば、中国(重慶政府)の孤立は、いよいよ深まるであろうと考えられたのである。
ーまた、もう一方では、インド侵入作戦が成功すれば、不利な戦いばかりが続く太平洋方面の苦戦に対して、大きな宣伝効果のある、勝利のニュースになるだろう。こうして、はじめは慎重だった東条首相や大本営も、この作戦の実行に踏み切った。牟田口司令官は、シンガポール戦・ビルマ戦を戦ってきた。その彼にとって、イギリス軍とは、弱い軍隊であった。そこで、うまく行けば、インドの中心都市のニューデリーに、日の丸を翻すことも出来るかもしれないと、彼は夢見ていたのである。
ー河が氾濫し、道という道が泥沼と化す6月から9月までの、雨季の来る前になんとしてでもインパールを占領しなくてはならなかった。1944年3月8日、作戦は開始された。4月29日の天長節(昭和天皇誕生日)までに、インパールに入り、イギリス風の高原の家の窓から、ゆうゆうと、雨季の雨を眺めていようという目論みであった。
ー日本軍にとって、最大の課題は、武器・弾薬・食糧の輸送と補給であった。牟田口司令官は、軽装奇襲の方針のもと、強引な戦いをはじめた。4月はじめまでに、軽装奇襲は成功し、先頭部隊は、3方からインパール盆地に進入し、部隊長の双眼鏡のレンズが、遥かにインパール市をのぞむところまできた。
ーしかし日本の攻撃は、それまでであった。雨季の迫る5月から、イギリス軍は反撃に転じた。約1000機の爆撃機により、日本軍の昼間の活動を完封した。地上では、重戦車・重砲・装甲車といった近代火器による激しい攻撃を繰り返した。これに対して日本軍は、食糧と弾薬の補給が切れ、連日、大損害を受けた。僅かな機関銃と、あとは小銃・銃剣・手榴弾によって、夜間、絶望的な突撃をする他なかった。なかでも、日本軍の前に、「鉄の壁」として立ちふさがったのはイギリスの円筒陣地であった。
ーこれは、日本軍に包囲されたイギリス軍の防衛方法であった。前面に鉄条網をはりめぐらし、その後方に、戦車・装甲車・重機関銃を隙間なく配置した円形陣を作って、兵士が立て篭もり、食糧と弾薬の補給はすべて飛行機から落下傘で行うという、完全な立体作戦であった。このため敵を包囲して叩き潰すという日本の攻撃方法は、まったく通用せず、包囲した軍が逆に敗れ去っていった。
ーこうした中で、日本軍は、戦死者が続出し、食糧・弾薬がつきて、退却をはじめた。ことに、攻撃の右翼を担当した第31師団長佐藤幸徳中将は、このままでは全滅の他なしとして、独断で退却を命じた。このため、牟田口司令官の怒りを買って、師団長を罷免された。しかし、この司令官の進撃命令に反抗した退却によって、約一万人の生命が救われたといわれる。牟田口司令官はこのとき、他の2人の師団長(第15師団長の山内正之中将と第33師団長の柳田元三中将)をも、急進撃の命令を守らなかったという無理な理由から罷免した。3師団長の首が飛ぶという、戦史上稀にみる異常事態となった。
ーやがて、アラカン山系は、本格的な密雲に包まれた。1944年7月10日、ついに作戦中止命令が出され、全員の総退却がはじまった。しかし、この退却こそは、悲惨の極みであった。約70日間、食糧の補給ゼロ。数十日も米を食べず、馬の餌とか草の葉とかで飢えを凌いだ。兵士たちの殆どは、マラリア・脚気・アメーバ赤痢にかかった。戦傷の傷口に蛆虫を這わせ、泥沼となった密林の中を歩いて行った。一番先頭は、インパール市まで後4マイル(6.4キロ)という道標までたどり着いたのだが、そこからまた、300-500キロの山道を戻るのである。
ーそれが、命令に忠実な日本兵に与えられた任務であった。激しい雨は、その兵士たちを容赦なく叩き、帰ることを諦めた兵は、手榴弾で自分の体を爆破して死んだ。河川と密林は日本兵の屍骸でうずまり、帰ることのできたものも、栄養失調の半病人ばかりであった。退却完了日は11月20日、作戦参加兵力約10万人。死傷者は約7万2000人、生還者は約2万数千人であった。
戦争が社会を変える・「赤紙」がきた家:
ー「赤紙「とはなにか、辞書で「赤紙」という言葉を引くと(赤色の紙を用いたことからいう)軍の召集令状(新村出編「広辞苑」)とある。日本人の男子は、明治以来、兵役の義務を持ち、兵役法の定めるところにより、「前年12月1日より、その年11月30日までの間」に「年齢20年」になった者を「徴兵適齢」とし、「徴兵検査」を受けさせる。
ーこれで、身長150センチ以上で身体強健な者は、甲種及び乙種合格となり、「兵役に適する者」と認められる。そして、後は、日常生活を送りながら、確率の高い、赤紙が来るのを待つ(或いは恐れる)のである。この赤紙が舞い込んだ家では、どんな人間の、どんなドラマが始まるのだろう。今ここで、菊池敬一・大牟羅良編「あの人は帰ってこなかった」と岩手県農村文化懇談会編「戦没農民兵士の手紙」という2つの本により、考えてみることにしよう。
「出征」前夜:
1942年10月の」ある夜、現在の北上市に近い、岩手県和賀群和賀町にある横川目荒屋の集落の小原徳志の家では、近所の人たちが集まり、遅くまで、にぎやかな酒盛りが続いていた。じいさま・ばあさま・若い息子・息子の嫁の4人家族のこの家に赤紙がきて、息子の徳志は、明日、出征の旅に立つのである。酒盛りは、「出征祝い」(たちぶるまい)の酒盛りであった。
ーその最中、嫁のミチは、夫の姿が急に見えなくなったのに気がついた。どこへ行っただろうと思って探すと、夫は、暗い寝部屋の床の上に、黙り込んだまま、胡坐をかいて座っていた・・・その後は、ミチさん自身の言葉で、思い出として語ってもらおう。
「(あの人は)オレのところみたれば、おれなあ・・・っていったきり、黙って動かないで座っていたっけモ」今でも、オレ、ハ、その気持ちわかるナッス。だれエナッス、喜んでいく人、どこの世界にあるべナッス。酒のんだって、さわいだって、なんじゃしてその気持ち消えるバナッス。オレもハ、泣いてばかりしまって、ろくな力づけもできないでしまったモ」
ー入隊して程なく、中国大陸に送られるという知らせが来た。その列車が、東北本線の北上駅を通過する時刻に、ミチは駅に行った。しかし、プラットホームは、見送りでぎっしりで、夫に会うことは出来なかった。停車時間が終わり、列車が動き出した時、ミチは大声で夫の名前を呼んだが、その声は届かなかった。そして、それが、二人の永遠の別れであった。この時、小原ミチは、18歳、夫の徳志のところに嫁にきて5ヶ月、妊娠2ヶ月であった。
残された人たち:
小原家は、炭焼きを本業としていた。無論、朝は、暗いうちに起きて、生まれた女の子を背負い、じいさまと一緒に、山に入って行く。木を切る。炭を焼く。重い炭俵を背負って山を降りる。-そういう生活が始まった。幼子を抱えての辛い日々であった。その頃のミチの心を支えていたのは、「2年たったら、俺は帰って来るから、それまで我慢して待ってろ」と言い置いて行った夫の言葉であった。娘が2つになれば、あの人は帰って来る・・・。
仕事の歌:
ー父を、夫を、そして子供を召集された家にとって、まず、起きてくる問題は、家の仕事を誰がやるかということであった。召集とは、兵士を出した家にとっては、何よりも、働き手を失うことである。そのことを一番知っているのは、その働き手自身であった。だから、入隊先なり、戦場なりから、故郷に来る手紙には、しばしば、家の仕事を心配する文章が見える。例えば、水田1町(自作7反・小作3反)を耕す農家の長男である小田島藤見は、岩手県の故郷にいる妹に宛ててこう書く。
「テイ子、元キカネ。田ウエニテツダッテイルカネ。兄サンモ元キデハタライテイルカラ、ゴアンシン下サイ。デハウントベンキョウシテエライ人二ナッテ下サイ。オ父サン・オ母サン二ヨロシク」(小田島藤見。1945年ー昭和20年ー4月5日、ブーゲンビル島にて戦死。24歳。陸軍伍長)。また例えば、水田1町3反・畑1反畝・山林1町を経営する農家の長男である藤堂勤は、岩手県の故郷に残した妻のリナに宛てて、こう記している。
「もう刈り方(稲刈りのことだろう)は?ずいぶん苦労であろう。俺でもおったらなど考えるな。なにも無理することはない。一時の無理で一生の不幸を招くことがある。十分、気をつけて働け」(藤堂勤。1945年2月23日、フィリピンのマニラ郊外で戦死。27歳。陸軍軍曹)。また例えば、水田2町7反・畑5反を耕す農家の長男である斉藤左衛門は、秋田県の故郷にいる、老父に宛てて、中国華北の戦場からこう書く。
「御地は、今年で五十日ぐらい雨降らずの晴天で、田はともかく、畑は全然うまくないようですね。水かけには本当につらいことでしょう。また、泥の堤も水なしとなりて、鯉とりするとのこと。本当に残念です」(斉藤長左衛門。1945年6月2日、ニューギニア島方面にて戦死。24歳。陸軍伍長)。また例えば、水田6反・畑2反・山林2町5反の農家の主である小野寺福男は、岩手県の故郷に残してきた妻のよしに宛てて、こう書く。
「あの様(ようす)では三番田の草(草とり)も今頃は終わったことだろう。麦もこなしたそうだし、これからたいしたしごともないだろうから、あまり、かせがない方がよいと思う。この次に便りをよこす時は、どこが一番稲が良いかきかしてくれ」(小野寺福男。1943年ー昭和18年ー5月29日、アッツ島ににて戦死。31歳。陸軍上等兵)。
ーこうした手紙を受けとる「銃後」の人々と1人として、小原ミチは、夫が約束した2年間を一生懸命に生きた。そして、1944(昭和19)年の秋がきた。
あの人は帰ってこなかった:
ーその日、小原ミチが炭焼きに行く山には、初雪が降った。窯から出した炭を背負って、暗くなってから帰って来ると、小原の家の本家から、じさまが来ていて、悲しい知らせをもたらした。じさまの話では、じさまの村で、製材の仕事をしている人が、平泉でニューギニアから帰還した人に会い「横川目村の人たちのことを知らせねえか」と尋ねたら、ぼろぼろの手帳を出して見せてくれた。その手帳には、鉛筆でいっぱい人の名が書いてあり、そこに、小原徳志という氏名があって、その上に線を引いて消してあった。
ー小原ミチは、回想している。「その晩は、一晩じゅう寝ないで泣いたったナス。神様も仏様もあるもんでねえと思ったったナス。あの人、なんぼこんなくらししてても、物をだいじにしてきちんとしておく人だったから、現役でいったときのアルバムだの、さまざま自分で買った本だのオレもだいじにして、いつもだして見ては、帰ってきたときほめてもるべ、なんて思っていたのも、まるでもう皆とって投げてしまいたいような気になったなナス」
ー小原徳志は、1944年4月12日、ニューギニア島パプアのポトポトムでマラリアのため戦病死していた。穴の中で、4日の間苦しみぬいて死んだという。26歳だった。そして、20歳の戦争未亡人となったミチの家には、年老いた2人の姑と、ミチと、満州でやはり戦病死した弟の嫁と、まだ1歳になっていないトミが残された。新しい、そして苦しい、ミチの戦いの日が、それから始まった。
戦場に連なる教育・日米開戦と国民学校:
ー日米開戦の知らせがあった日のことを、神戸の平野国民学校4年生の小西敬士は、次のように作文に書いた。「学校に行くと、菅原くんが「とうとうアメリカと戦争するいうてラジオがいったよ」と教えてくれた。ぼくは「ほんと」といったが、どうもほんとうのように思えない。ほんとうだろうか。あとからくる者くる者がそういっているので、ぼくはやっぱりほんとうのことだな、たいへんなことになったと胸がどきどきしはじめた。
3時間目に鐘が鳴って、運動場へ集まった。ぼくはなんだろう、戦争のお話だろうか、式でもあるのだろうかと思いながら集まった。校長先生が台の上におあがりになって、「ここへ皆さんを集めたのは、大元帥陛下がきょうおくだしになった。宣戦布告の大詔の放送があるので、それを皆さんに聞かせてあげようと思って、ここへ集めたのです」とおっしゃった。ラジオがはいった。身がひきしまるような気がした。だが、宣戦布告の大詔ではなくて、臨時ニュースがはいった。・・・ぼくは、さすが日本軍だ、やっぱり強いなあと思った。万歳万歳といくどとなく唱えた。じっとしていられない気持ちだ。夕方、家で夕刊を見ると、宣戦布告と大きな字で書いてあった。あの大きなアメリカやイギリスを降参さえるのには、なみたいていのことではあるまい。どうぞ神様、日本の国が勝ちますようにおまもりください。そして、ぼくの体がもっと丈夫になって、お国のために働ける人間になれますようおまもりくださいと手を合わせておがんだ。
ー1941(昭和16)年4月1日からこれまでの小学校に代わって、国民学校という制度が始まった。小学校という名は、戦後復活するまでいったん70年の歴史を閉じた。国民学校はなぜ出来たのか。どんなことを教えたのだろうか。小学校を国民学校という名に改めたのは、1938(昭和13)年の教育審議会の答申によっている。それはドイツ語フォルクスシウレの翻訳語でもあった。その中身は答申に基づいて定められた、国民学校令によく現れている。国民学校令の第一条には、次のようにその目的を定めている。
「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初頭普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以ヲ目的トス」この国民学校の目的を、優しく説明したものに、兵庫県の学校長の書いた「国民学校になるのについて父兄に望む」がある。それには、次のように書いてあった。
「国民学校の教育の目的は、皇運を扶翼し奉る皇国民を練成させようとするものでありまして、これをもっと平たく申し上げますならば、御国のためになる国民をそだてあげようとするのであります。それなら従来の教育方針と同じではないかと思われますが、従来親は我が子の立身出世を教育の目標におき、一も我が子のため、二も我が子の利益を念願して、御国のためという考えが副次的になり、ともすれば忘れがちになる傾向がありました。これでは、真の国民は練成はできぬということころから、個人の子どもにとってでなく、御国の子どもとして教育することになったのであります」
ーこのように国民学校の教育は、いや、全ての教育が、戦場に連なっていたのである。そして「戦場に繋がりを持たない教育は、架空の教育と言わねばならない」といわれた。
国民学校の教育
ー戦場に連なる教育とは、実際にはどんな様子だったのだろう。国民学校の時の算数の教科書から、幾つかの問題を紹介しよう。それを解きながらどんな教育が行われていたか、また、どんな生活が強いられていたかを考えてみよう。国民学校では算数の他、修身・国語・歴史・地理などの国民科といわれた科目には、もっとも重視された。そこでは天皇陛下のために、命を落とすことを、もっとも美しく正しい生き方であると教えられた。もちろん教科だけが、子どもたちの考え方を作ったのではない。
ー勤労作業の中にも、こうした教育はあった。鹿児島県のあるところでは、子どもも参加して縄の増産計画が立てられた。そこでは「アメリカまで届かせて、ルーズベルトを縛るのだ」という想定で縄ない競争が行われた。こういうことも、あちこちで行われたのである。こうした教育によって、「どんなことがあっても大東亜共栄圏の建設のためにがんばるのだ」という考えを作り上げた。
ーこうしなければ、戦争が出来なかったともいえるのである。それでもまだ、教室で勉強が出来るうちはよかったのかもしれない。まもなく生徒たちは、教室にもいられなくなったのである。
沖縄の悲劇:沖縄は日本本土ではなかった:
ーここに「大本営機密日誌」という1冊の記録がある。1945年当時、大本営の参謀で、戦争指導班長の地位にあった陸軍大佐種村佐孝の個人日誌である。惜しいことに、敗戦後の書き直しであるが、貴重な史料の一つといっていい。
ーその1945年4月1日のところには、「米軍は、ついに沖縄本島にとりついた。朝来、天地を震わすような艦砲射撃の援護のもとに、午前8時半頃から本当西岸に上陸を開始し、正午頃には、早くも2つの飛行場を占領、薄暮頃には、約5万人の兵を揚陸したという。同島の我軍は・・・敵を島の中央部に引き寄せ、遊撃戦をやる計画である」とある。そして、その翌日のところには、大本営の作戦連絡の会の様子が書かれている。そこには、総理(小磯国昭・A級戦犯・終身刑)が沖縄の戦況の見通しを聞いたのに対し、参謀本部作戦部長の宮崎少将が「結局、敵に占領され、本土来寇は必然である」と答えたとある。
ー戦いが始まってすぐ、参謀本部は、アメリカ軍は沖縄を占領するだろうと考えていた。このことは、陸軍が全力を注いで沖縄を守る意志と計画を持たなかったということである。その証拠は、1944年11月、沖縄防衛の主力である第9師団(1万3800人)を引き抜いて、台湾防衛の任につかせたことである。そして、その補充に予定されていた部隊の派遣は、本土決戦を重視する宮崎参謀部長の意見で中止されてしまった。
ーこうして、沖縄防衛軍は兵力約2・5師団(地上兵力10万人)で戦わなくてはならなかった。しかも、「本当に戦闘部隊として内地から派遣されたのは5万人に満たなかった」と、当時の高級参謀はその回想記「沖縄決戦」でいっている。この時、本土には、約60個師団の兵力が温存されていた。これに対してアメリカ軍は、陸海軍の地上兵力約18万3000人、最大時の5月下旬には約23万9000人を沖縄に集中した。兵力ばかりでなく、武器・弾薬でも、日本軍とアメリカ軍の差は問題にならないほであった。こうして、沖縄の戦いははじまった。
アメリカ軍の上陸:
ー1945年4月1日の夜明け前、沖縄本島西海岸の嘉手納沖は、戦艦・重巡洋艦を中心にした200隻以上の大艦船に守られた大輸送船団で埋め尽くされていた。沖縄総攻撃に、アメリカ軍は艦船1457隻を投入したといわれる。すでに前日の3月31日から、嘉手納方面への艦砲射撃は猛烈を極め、約2万発の砲弾が打ち込まれたといわれている。ことに神山島にすえられたアメリカの長距離砲は、軍司令部のある首里の丘と嘉手納方面とに集中砲火を浴びせた。
ーこれに対する日本軍の一夜の反撃は、砲弾が神山島に届かなかったので失敗に終わった。こうした日米の砲撃力の絶望的な違いをそのままに、4月1日の朝が来た・・・。午前8時、千数百隻の上陸用舟艇が、珊瑚礁の海に白い航跡を引いて、一斉に殺到してきた。アメリカ軍四個師団の上陸である。アメリカ軍はこの日、太平洋の島々で体験してきた日本軍の「バンザイ突撃」ー必死の形相物凄く、日本刀を振りかざし、手榴弾を投じ、銃剣を突きつけ、戦友の死体を乗り越え、ばんざいを絶叫しつつ突撃してくる日本軍の大集団ーを予想し、密かに恐れていた。
ーしかし水際での反撃は、殆どなかった。首里の丘に立って、双眼鏡で戦況をみている日本軍の幹部たちは、ゆうゆうとしており、あるものは談笑し、あるものはたばこをくゆらしていた。上陸用舟艇に乗ったアメリカ軍兵士は、一発の銃弾も受けず、足をぬらしもしないで、あっという間に浜辺についた。従軍記者アー二ー・バイルによれば、アメリカ兵士たちの中には浜辺に座って、七面鳥を食べたり、オレンジジュースを飲んだりしていたものもいたという。
ー4月1日午後2時、アメリカ軍は、島の中央部にある北(読谷)・中(嘉手納)の両飛行場を占領した。アメリカ軍は上陸開始後6日間で取る計画であった。目的のひとつを6時間で奪いとった。
激闘:
ー沖縄の作戦にあたって、日本軍のとった方針は、「出血持久」の戦いをするということであった。つまり守りに徹し、攻めて来るアメリカ軍に出血(損害)を与えるという作戦であった。そこで、軍の主力を本島南部に置き、2飛行場をとって南下するアメリカ軍に対して、首里北方に築いた地下壕式の陣地で線で抵抗を続ける。一方、陣地内の長距離砲で飛行場の使用を妨げる。こうしてアメリカ軍が沖縄を根拠地として本土侵攻作戦を行うことを妨害する、というものであった。
ーこのような日本軍によって破壊されていた2飛行場の再建を急ぎ、一方では、南下して、首里北方の日本軍陣地に迫った。このため沖縄の日本軍は、守りの方針を捨て、4月12日、5月4日と、必死で総攻撃を試みた。総攻撃にあたって司令部が兵士に与えた戦闘目標の合言葉は、「1機1艦、1艇1船、1人10殺1戦車」であった。日本軍は数百の大砲の砲門を開いて砲撃を開始し、高射砲も飛行機も撃たずに地上陣地を狙った。主戦場である首里北方一帯は日本軍のはった、大掛かりな煙幕に包まれ、司令部のある首里の丘から戦況はほとんどわからなかった。しかしアメリカ軍は、煙幕が晴れてくると、艦砲と迫撃砲の集中砲火を浴びせて反撃を開始した。
ー前線には火炎放射器つきの戦車が現れて火炎を吹きつけた。空からは爆撃と機銃掃射が行われた。このため日本軍は、死傷者が続出し、地面をはって斬込むとか、全員死傷という大隊が出るなど酷い状況になった。5月5日午後6時、牛島軍司令官は洞窟の司令官室で、攻勢中止の判断を下した。この後2度と再び総攻撃はされず、じりじりと後退しながら、アメリカ軍に出血を強いる作戦が続いた。
後退:
ー5月中旬アメリカ軍は、首里の丘に迫ってきた。日本軍は必死の抵抗を続けた。しかし総攻撃で砲弾の殆どを使い果たし、どうしようもない状態になった。やがて沖縄に長雨の季節が訪れた頃、軍司令部のすぐ近くで機関銃を撃ち合う音が聞こえ始め、地下壕の入口で迫撃砲弾が炸裂し、漁港の糸満町沖から発射される艦砲の砲弾が、軍司令部を狙って射ち込まれて来た。南国のどしゃぶりの雨は、アメリカ軍のトラックや戦車を苦しめたが、同時に濁った水は日本軍の地下壕を水浸しにした。
ーこうした中で司令部は、首里から退き、島の南部喜屋武半島に立て篭もり、最後の出血作戦を行うことに決めた。5月30日、牛島司令官を乗せた2台の自動車は、ライトを消して落下する砲弾の中を南に走り、31日の夜明け前に、戦場とは思えないほど静かな摩文仁の丘に着いた。その前後数日の間、首里一帯の洞窟では、南部について行けない傷病兵が、次々と自決して行った。こうして日本軍は首里から撤退し、アメリカ軍は首里を占領した。
ー6月に入ってアメリカ軍の攻撃の速度は早くなって来た。弾薬のない日本軍は放火に曝され、戦車に追われ、惨めな後退を続けた。6月15日には、南部防衛の第一線であった八重瀬岳・与座岳が戦車隊に突破された。6月17日、摩文仁から数キロの地点にアメリカ軍が迫った。すでに日本軍の組織的抵抗は終わっていた。6月22日午後には、摩文仁の司令部地下壕の守備兵が、アメリカ軍に急襲され全滅した。6月23日午前4時30分、牛島司令官と長参謀長は、それぞれ日本刀により自決した。これが、本土より50日早くきた沖縄の敗戦であった。沖縄にとって「8月15日」ではない。
沖縄島民の悲劇:
ー兵士の死者10万に対して、非戦闘員の住民は約20万人が死んだという沖縄戦、それは戦争の歴史の上でもかつてない悲劇であった。アメリカ軍はこの戦いに毒ガスを使い、ガソリン入りのドラム缶を空から投下して火の海を作り、また黄燐弾を上空からばら撒いて住民を殺傷し、植物を枯死させた。それは1960年代のベトナムにおけるアメリカ軍の皆殺し作戦の源と言うべきものであった。
ーしかし沖縄県民にとって、敵はアメリカ軍だけではなかった。県民にとってもう1つの敵があった。それは、日本軍である。日本軍は沖縄県民の疎開を邪魔した。日本軍は戦況の判断を誤り、島の北方にある国頭地区への住民避難を差し止めるニュースを流した。日本軍は例えば、村潮村にあったように、日本刀やピストルを沖縄県民に突きつけ、「出ろ、すぐ出ろ、兵隊がいなけりゃこの島が守れるか。でなけりゃ、これだぞ!」と壕の外に追い出し、艦砲射撃に人々を曝し、集落を血で染めさせた。
ーまた例えば、懐中電灯でアメリカ軍にシグナルを送っていたという容疑で、1人の女性を竹槍でなぶり殺しにした。日本軍が沖縄県民を邪魔者扱いにし、またスパイの疑いをかけて殺害した数は、現在わかっているだけで800人を越えている。集団自決、村民同士の殺し合いを強制された人々などを加えると、約1500人の死者がいたという。
ーしかし悲惨はそれに留まらない。琉球政府が1972(昭和47)年の祖国復帰以前に公表した数字は、次のことを語っている。八重山群島では山中への疎開の結果、マラリアと栄養失調のために人口3万1671人のうち3647人が死亡した。また古い民俗を残す波照間島の島民は、ジャングルのある西表島に疎開し、やはりマラリアのため、人口1590人のうち477人が死亡した。もし今、不明である宮古島の死亡者数などが分かれば、八重山群島の犠牲者の割合はおそらく、江戸時代の3大飢饉に近い数字を示すであろう。
ーそれは戦争の被害の恐ろしさを語る一例であるとともに、また一方では、17世紀以来の本土人(ヤマトンチュ)による沖縄人(ウチナンチュ)差別の総決算ということが出来よう。
旧皇軍・作戦がすべてに優先する(「飢死した英霊たち」・藤原彰)
1、補給の軽視
ー日本軍戦没者の過半数が餓死だった。戦闘の中で華々しく戦って名誉の死を遂げたのではなくて、飢えと病気にさいなまれ、痩せ衰えて無念の涙をのみながら、密林の中で野たれ死んだのである。こうした結果をもたらした原因は一体何だったかを検討することにしよう。
ー軍隊が作戦し戦闘するためには、軍隊と軍需品の輸送手段である交通と、弾薬、資材、食糧などの軍需品を供給する補給を欠かすことができない。すなわち交通と補給が必須の項目なのである。ところが日本陸軍では、作戦が極めて重視されていたのに比べ、作戦遂行のために不可欠な交通と補給があまりにも軽視されていた。作戦目的を重視するあまり、補給をまったく無視する無残な作戦が実行されさえした。そしてその結果が、大多数の将兵を無残な餓死に追い込んだのであった。
ーガダルカナルの戦いは、今村均第八軍司令官が、百武第十七軍司令官を慰めて、この敗戦は「飢餓の自滅」であり、「全く軍中央部の過誤による」もので、これは「補給と関連なしに、戦略戦術だけを研究し教育していた陸軍多年の弊風が罪をなし」たものといっているのは、まさに至言である。ミッドウェー作戦失敗後にグアム島に待機中であった一木支隊の先遣隊(一木清直聯隊長指揮の1000名)を駆逐艦6隻で急行させた。
ー制空・制海権を米軍に奪われているので、輸送船によるのは危険であり、また、上陸を急いだために駆逐艦輸送となったのだが、そのために一木支隊は聯隊砲以上の重火器を携行できず、糧食七日分だけをもって上陸したのである。一木支隊は戦車や砲兵の待ち構えている米軍陣地に突入して全滅した。だがこのとき全滅していなくても、その後に餓死が待ち構えていたであろう。一木支隊先遣隊の攻撃失敗後、一木支隊第二団と海軍陸戦隊を送ろうとしたが、米軍機の妨害で失敗し、続いて一木支隊残部と川口支隊の輸送も米軍機の妨害で失敗した。
ーその後は駆逐艦による「鼠輸送」(東京直行「鼠輸送」)によらざる得なくなった。増援部隊の送り込みさえ困難を極める中で、弾薬、食糧の補給は望むべくもなかった。食料が補給されなければ、現地物資ではとても生きていけない密林の島では、飢餓に陥るのは必然であった。にもかかわらず、大本営は川口支隊、第二師団、第17軍司令部、第38師団と、次から次へと増援部隊を送りつづけ、飢餓地獄を作りだしたのである。
ー輸送船では運べず鼠輸送や蟻輸送(小型の舟艇による輸送)に頼らなければならなかった。これでは裸の兵員を送り込むだけである。こうした輸送状態では、その後の補給が確保できないのは当たり前だったのである。それなのに次から次へと軍隊を送り続けた大本営の作戦当局者は、何を考えていたのであろう。弾薬も糧食もなしで、身体だけで上陸した軍隊が、戦闘力を維持できると思っていたのだろうか。ガダルカナル奪回の作戦続行、兵力の大増派を決定したとき、何よりも問題なのは同島へのその後の補給をどうするかということであるはずなのに、そのことがあまり検討されていない。
ーガダルカナルを米軍に奪われたので、輸送も補給も十分に検討せずに押っ取り刀で陸軍部隊の派遣を進めたのに始まり、その後は攻撃失敗のたびごとに補給の困難を無視して、兵力を増強し続けた作戦当局の責任は極めて大きい。
2、情報の軽視
もともと陸軍とりわけ中央の参謀本部においては、作戦部作戦課の一部中心参謀たちが強大な権力を持ち、他の部門のそれぞれの意見は無視されていた。対米英戦突入にあたり、作戦部はドイツの勝利を確信して開戦に踏み切ったのだが、情報部は必ずしもドイツの必勝を信じていなかった。ドイツの英本土上陸作戦はできないと米英課が判断したり、ソ連の崩壊はないとロシア課が結論を出していたのに、作戦課は情報専門家の判断を無視して、自分の都合のよい情報だけを選択して、米軍を過小評価し、重要な情報でも都合が悪いものは無視した。
ーその根本原因は、日本軍の情報収集に対する熱意の不足と能力の欠如にあるといえよう。海軍のミッドウェー敗戦の最大原因が、情報部の敗北にあったように、ガダルカナルでもすでに情報戦で敗北していたといってよい。作戦重視、情報軽視は、日本陸軍の特徴でもあった。「大本営参謀の情報戦記」を書いた掘栄三によれば、大本営作戦課の一握り、奥の院だけが戦争を引きずった中心の責任者で、情報は軽視されていたという。堀がその父掘丈夫(初代航空本部長として陸軍航空の建設に当たったが、第一師団長のとき2・26事件が起り、その責任で現役を去った)の次のような観察を紹介している。
「父は2・26事件で現役を退いてから、戦争を局外から見てきた結果、軍人を二つの区分に分類して観察していた。その一つが、天皇の命令である大命を起案して允裁を受ける作業に関係した軍人、二番目が、この大命と称する命令を受けて、自分の意志では一歩も退くことを許されないで、命令のままに命を捨てて戦闘に従事した軍人であった。責任者はいわゆる大本営の中の中枢的なごく一握りの奥の院の参謀たちであり、震襟を悩ました亡国の責任者である。後者は、階級のいかんを問わず指定された戦場がどんな苛烈なところであっても、自らの意志ではこの戦闘から離れられない運命に立たされた、大将から一兵に至るまでの戦闘軍人であるといっていた」。
ーことに似たような観察は、特に陸軍省軍務局の軍事課長、あるいは同課の戦力班長、予備班長として、軍政の面、とくに国力造成の面から作戦課の作戦万能主義を批判している西浦進や加登川幸太郎にみられる。作戦課、とくにその中枢にあった一握りのいわゆる「奥の院」の人間たちは、ノモンハン事件の失敗の最大の責任者でありながら、今度は大本営の中枢に舞い戻って対米英開戦を主導した。
ーガダルカナルの敗北でいったん要職を退いたが、また復活してレイテ決戦や大陸打通作戦の主導者となった。失敗しても不死鳥のようによみがえってまた国の運命を左右する要職につくという陸軍の人事そのものにも問題があったということができよう。
精神主義への過信・日露戦争後の軍事思想:
ー大量餓死を生み出した根本的な原因には、日本軍隊特有の性質である精神主義への過信があった。もともと日本の軍隊は、武士道の精神を引き継ごうとして、天皇への忠誠と死を恐れぬ勇気とを将兵に要求した。ヨーロッパの大陸国にならって徴兵制を採用すると、農民出身の兵に対しても、旧武士層出身の幹部に対すると同様の、忠誠と勇気を要求した。ところで、徴兵制は、解放された農民を基盤とする国民国家の成立が前提である。
ー日本では明治維新が完全に農民を解放せず、自発性を持った兵士を供給できる国民国家の形成は不徹底であった。そこで兵士の忠誠と勇気を保障するためには、極めて厳しい日常の訓練と懲罰とによって服従を強制するほかなかった。服従を支えるためにも、天皇への忠誠を柱とする精神主義の強調が不可避であった。1882年の軍人勅論はその現れである。
ーこのような精神主義が極端に強調され、日本軍隊の何よりの特質となる契機は、日露戦争であった。戦争の勝利は日本の陸海軍に、ヨーロッパの模擬から脱却して独自の軍事思想を確立させる機会となった。それは陸軍についていえば物量よりも精神力を重視し、歩兵の銃剣突撃が第一線であるとする白兵主義へと大きく転換したのである。日露戦争では、砲兵火力の劣勢をはじめとする装備の不足という大きな弱点を持つ日本陸軍が、旅順でも瀋陽でも奉天でも、やっとの思いで勝利を得た。これを軍の中央では、火力の不足を克服する銃剣突撃で勝ったのだ、物量の不足にも関わらず、精神力で勝ったのだと信じ込んでしまった。
ー日露戦後の陸軍の典範令は大改訂されるが、精神主義の強調が特に目立つようになる。戦後の1907年に「歩兵操典」は大改訂される。このときはじめて、操典の根本趣旨を示すものとして、「網領」という文章が巻頭に置かれた。ここでは、歩兵の「戦闘に最終の決を与えるものは銃剣突撃とす」と明記された。そしてそのために必要なのは「攻撃精神」であるとし、「攻撃精神は忠君愛国の至誠と献身殉国の大節とにより発する軍人精神の精華なり、武抜これによりて精を発し、教練これにより光を放ち、戦闘これにより を奉す。蓋し、勝敗の数は必ずしも兵力の多寡によらず、精錬にして且攻撃精神に富める軍隊は毎に寡をもって衆を破ることを得るものなり」と精神第一を強調している。
ー先に述べたように、日本陸軍は日露戦争後に典範令全般の根本的改訂を行った。それまでは、最初はフランスの典範を翻訳して使っており、1880年代からはドイツ式に改訂を加えていた。それを戦争の勝利に自信を得て、日本独自の典範令類を創りはじめたのである。典範令類の中でもっとも重要なのが「歩兵典範」であった。ここではじめて日本独自の戦法の基本精神が文章化された。その網領では「歩兵は軍の主兵」であること、歩兵の本領は白兵(火力の対する言葉で、ここでは銃剣)突撃にあることを強調している。
ーすなわち戦闘の勝敗を決するものは歩兵の白兵突撃であり、その他の兵種は、歩兵の白兵突撃を支援するのが任務であるという考え方が徹底している。これは逆にいえば火力の軽視である。事実砲兵や、歩兵用小口径砲、機関銃等の整備増強よりも、銃剣を持つ歩兵の兵数の増加を軍備増強の第一の戦闘方法として訓練していた。火力が軽視された結果、砲兵力の主体は38式改造野砲、歩兵の機関銃は故障しやすくて有名な11年式軽機関銃でとどまっていた。
ー38式というのは明治38年制式化、11年式というのは大正11年制式化の兵器という意味であり、世界の兵器の進歩からはるかに遅れたものであった。火力軽視は、技術の進歩を無視した精神主義に結びつかざる負えない。この改正歩兵操典では、先述のように攻撃精神の必要を強調している。「勝敗の数は必ずしも兵力の多寡によらず、精錬にして且攻撃精神に高める軍隊は毎をもって衆を破ることを得るものなり」と教えている。つまり何よりも大切なのは、死を恐れず、砲火を冒して、銃剣を振るって突撃することだと主張しているのでる。
ー旅順の要塞に白兵突撃を繰り返して、陣地の前に屍体の山を築いた教訓は、少しも生かされていなかった。莫大な死傷者を出した第二師団の弓張嶺の夜襲は、かえって白兵突撃の操範として推奨された。まるで400年も前の長篠の合戦で、織田軍の鉄砲隊に向って突撃した武田軍を見習えといっているようなものだったのである。
ーこうした火力軽視、白兵主義は、火力装備のすぐれた近代軍隊に対してまったく通じなかった。ノモンハン事件はそれを如実に示したのに、依然として精神主義をかざしたままで対米英戦争に突入したのである。ガダルカナル島の一木隊が、射撃を禁じ、白兵突撃で米軍を撃破できると信じて突撃し、米軍の自動小銃になぎ倒され、戦車に蹂躙されてたちまち全滅しても、そのことが何よりの教訓にもならず繰り返された。弾幕の中に白兵で突入することで、どんなに無駄な犠牲が出ても、第一線の実情を知らない参謀や高級指揮官は、突撃を命じ続けたのである。
ーアメリカ軍の圧倒的に優勢な火力装備に対して、ガダルカナル島に次々に送り込まれた日本軍は、比較にならない劣等な装備しか持っていなかった。制空・制海権がないため輸送船による兵力輸送ができず、駆逐艦などの海軍艦艇によるか、大発などの陸軍の舟艇による蟻輸送で部隊が送り込まれた。このため大砲などの重装備を運ぶことが出来ず、小銃、軽機関銃などの歩兵の軽火器しか持ち込めなかった。それでも白兵突撃でアメリカ軍に勝てると信じて、兵力の逐次投入を繰り返したのである。
旧軍・大本営と兵士の人権:
ー日本軍隊の特質にあげられるものに、兵士の地位が極めて低く、その人権が願慮されていないことがある。このことを象徴的に示すものが、メレヨン島の事例である。陸軍の生還者と死没者の階級別比率は、将校33対67、准士官23対77、下士官64対36、兵82対18である。すなわち准士官以上は七割が生還しているのに対し、兵士の生還率はわずか1・8割であった。
ーメレヨン守備隊では厳しい食糧軍紀が施行され、違反者に対する処刑が行われた。そしてこの部隊は最後まで軍紀厳正であったとして、昭和天皇から特に賞賛の言葉を述べられたのは既述したとおりである。すなわち厳しい軍紀による服従の強制が、下級者である兵の人権を蹂躙したもっとも極端な例がメレヨン島の場合だったのである。
ー厳正な軍紀を第一義とし、そのため下級者は上級者に絶対服従すべきだとしたのが日本軍隊の創建以来の特色であった。上官の命令は天皇の命令であるとし、その当不当を論じるのを許さず、絶対服従を強制したのである。このような絶対服従の強制は1882年の軍人勅論に端を発し、昭和期に入り勅論の聖典化が進むとともに厳しさを増していった。
ーはじめフランス陸軍を範とした日本陸軍は、西欧合理主義の痕跡も残していた。軍隊内務省の原型である1870年に兵学寮から出された「仏国陸軍日典内務之部」では、「服従総論」で軍隊における服従の必要を強調しているが、「下の者命令の不都合を訴ふる事あらば先づ命令に服従し然る後ならでは訴ふることを許さずと不当と考える命令についての訴願の道を認め、また「兵士の勤務に便利ならしめんが為に法律は確定し且つ慈愛を兼るを要す」と合理的な考えを示してた。
ー1882年に日本は典令としてはじめての「歩兵内務省」第一版が出されたが、その中の「礼節及ビ服従之定則」では「凡ソ命二服シ命二従フハ軍ヲ治ムルノ要領兵ヲ振スノ甚ヒナルヲ以テ相互二上下尊卑ノ分ヲ乱スコトナク上タル者ハ下タル者ヲ愛シ下タル者ハ上タル者二恭順ヲ尽シ共二心ヲ公平二置キ諸事柔和二シテ押付ケガ間敷取扱ヒ不作法ノ振舞アル可カラズ」と、服従と礼節はセットになって説かれている。まだ絶対服従の強制ではなかった。
ー西南戦争後の1878年、陸軍最大の暴動で死刑53名を出した竹橋暴動が起こった。この直後に陸軍卿山県有朋は「軍人勅論」を出して、軍紀の厳正と服従の必要を説いたが、ここでもまだ天皇の命令を持ち出しての絶対服従ではない。絶対服従を強調する上で画期的なのは、1882年の「軍人勅論」である。勅論発布の直接の契機は、1881年の四将上奏事件で、軍人の政治干与を戒めるためだとされているが、それよりも軍紀の維持と服従の必要を、天皇の名によって強制したことに意義がある。「下級のものは上官の命を承ること実に朕が命を承る義なりと心得よ」と上官の命令は天皇の命令として絶対服従を要求したのである。
ー上級者に対する絶対服従の強制は、下級者である兵の人権を侵害することになるのは当然である。兵の人権に対する配慮を著しく欠いたことも、日本軍隊の特徴といえよう。
無視された人権:
明治維新後の日本を欧米の近代国家と比べると、国民の人権の尊重という点では比較にならない大きな差があった。大日本帝国憲法では国民ではなく「日本臣民」であり、その臣民の権利はことごとく「法律二定メル範囲」という制限付きであった。まして人権の尊重などという思想はまったくみることができない。日常社会の中にも、人身売買や公娼が存在していたことに表れているように、人権蹂躙が公然と行われていたのである。
ー一般社会で人権感覚が乏しかったぐらいだから、強制と服従を建前としていた軍隊内部では、兵士の人権はまったく無視されていた。兵士の人権無視は、1871年制定の海陸軍刑律にも表れている。これは天皇制の軍隊がはじめて制定した刑律で、後の陸軍刑法、海軍刑法につながるものであるが、その内容はきわめて封建的である。刑の種別は、将校と兵士の間には大きな差がある。すなわち将校には自裁、奪官、回籍、降官、閉門の六種、兵士には死刑、徒刑、等、降等、禁固の六種の刑が科されるとしていた。
ー将校に対する自裁、閉門とか、卒夫に対する杖刑、苔刑などいかにも古めかしいが、兵士に対して体罰を科するというのは、人権の完全な無視である。50、40、30の別があり、必ず六週から四週の鋼刑を兼ねることとし、鋼の終わった後の一年間は賤役に服するものとされた。苔刑にも30、20、15があり、4ないし二週の鋼が併科された。この刑律は1881年に陸海軍の刑法として分離され、さらに1908年に全国的に改正された。ここでは抗命とか対上官暴行などの上官に対する犯罪の刑が極めて重いのが特徴である。
ーこうした刑法や懲罰令による公的な刑罰以上に兵士を日常的に苦しめたものは、私的制裁であった。その禁止が、いくら繰り返し注意されても、私的制裁はなくならなかった。陰湿ないじめと暴力を伴う私的制裁ほど下級兵士を苦しめたものはない。野間宏の「真空地帯」をはじめとして、軍隊内の私的制裁がどんなにひどいものだったかを描いた作品は多いし、体験者は一様にその凄惨さを語っている。まさに軍隊内部は、下級者の人権を無視した真空地帯であったのである。
ー兵士の人権無視は、戦争の場合にもっともよく現れている。日清戦争における日本軍の人的損害は、戦死、戦傷合わせてわずか1417名に過ぎなかったのに、戦病死者は1万1894名に上がったのを特徴としている。戦死者の実に8・4倍の病死者を出しているのである。さらに出戦部隊の患者総数は17万1164人、うち戦地入院患者11万5419人、内地還送患者6万7600人に上がっている。出戦部隊の総人員17万3917人のほとんど全員が一回は患者になっている計算である。
ー病死が圧倒的に多いということは、兵士の衛生や給養、とくに伝染病予防に十分な配慮が足りなかったということである。劣悪な給養で体力の消耗した兵士たちが、不衛生な環境で赤痢やコレラに倒れ、みすみす生命を奪われたのである。兵士の人権を尊重していれば、もっとこうした面での対策が十分行われ、被害は少なかったであろう。
カイロ・ヤルタ・ポツダム・敗北への道程:
カイロ会談
ー1943(昭和18)年11月22日から26日までエジプトのカイロで、米英中3国の巨頭会談が行われた。会談の結果、11月27日、カイロ宣言の署名が行われた。そこには、日本に対する処罰として
1、1914(大正3)年以降に侵略者日本が獲得した太平洋の島々は没収する。
2、満州・台湾・澎湖諸島は中華民国に返還させる。
3、朝鮮は独立国とする
といった内容があった。カイロ宣言は、日本に対する最初の「無条件降伏」の要求であり、第二次世界大戦が終了した後のアジアで、日本にかわる大国としての中華民国の地位を保障したものであった。これはアメリカの中華民国に対する激励の政策でもあった。
ーカイロ宣言が生まれた翌日から12月1日まで、今度は、イランの首都テヘランで、米英ソ3首脳の会談が開かれた。4日間の会議をへて、ヨーロッパに「第2戦線」を作ることが決定された。また、ドイツ敗北の後、ソ連が日本との戦争に参加することが確認された。大のソ連嫌いであるイギリスのチャーチル首相は、地中海方面での戦いにこだわり、「第2戦線」の延期を主張した。しかし、スターリン首相にたしなめられて、これにしぶしぶ同意した。
ーテヘラン会談の3日後、ルーズベルト大統領は、スターリンへの手紙を送った。そこには「私は、会談が非常に成功したと考えています。そして私は、それが単に戦争を共同で遂行する能力だけでなく、来るべき平和事業のために、もっとも完全に一致して活動する我々の能力を確証している歴史的事件だと確信しています」とあった。そしてその3日後、つまり12月7日、スターリンはアメリカのアイゼンハワー将軍を、英仏海峡強行突破作戦の指揮官に任命したというルーズベルトの秘密の電報を受け取った。こうして1944年6月6日のヨーロッパ戦線では「史上最大の作戦」といわれる第上陸作戦が行われた。
ヤルタ会談
ー東アジアではアメリカ軍がフィリピンを奪い返す作戦に成功し、3年間失っていたマニラ市に進入しはじめた。ちょうどその頃、つまり1945(昭和20)年のはじめ、米英ソ3巨頭が、ソ連のクリミア半島のヤルタで会談を開いた。2月4日から11日までの巨頭会談は、この年の日本の運命に、やがて大きな影響を与えることになった。
ーこの会談では
1、ドイツの全面的な無条件降伏とドイツ軍の解体を連合国の目的とする。
2、大戦後のヨーロッパに関する重要な決定の権利は、すべて米英ソ3国の外相会議に属する。
3、この3国協力体制は、戦後も続けられ、新しい国際連合組織に受けつがれる。
4、その国際連合組織の中にあって、ことに重大な世界の安全を保障する委員会においては、3カ国中の1カ国が否認すれば、すべてのシステムは無力となる。
ということが決定された。アジアでの戦争についてはソ連がドイツの降伏後2ヶ月か3ヶ月の後に日本に参戦することを約束した。
ーそしてその代償として、日露戦争で旧ロシア帝国の失った領土と権益を回復することに決まった。この会談の2ヶ月後に病死する63歳のルーズベルトは、日本との戦争の終末期に、アメリカが大きな犠牲を払うことを恐れていた。そしてイギリスのチャーチルと違って、スターリンという政治家をかなり信頼もしていた。そのため、ソ連の対日参戦の約束を取り付けたのである。
ポツダム宣言
ー1945(昭和20)年5月7日、ドイツは無条件降伏をした。それから2ヵ月ほどたった7月17日から8月2日にかけて、敗北したドイツの首都ベルリン郊外にあるポツダム宮殿に、米英ソ3巨頭が集まり会談を開いた。対日無条件降伏要求の宣言案と、ドイツについての最終処理案を話し合うポツダム会談である。
ーこの会談の主要なものは、何といっても、日本の降伏をどのようにして実現するかの検討であった。この頃アメリカは、第二次世界大戦終了後の東アジアで、ソ連の政治的勢力が強大になることをひどく恐れ始めていた。それと同時に予想される「本土決戦」でのアメリカの損害を出来るだけ少なくすることを熱望していた。特にルーズベルト亡き後の新大統領トルーマンは、前大統領と違ってソ連嫌いであった。
ーこれらのことからアメリカは、日本が降伏しやすい条件を定め、さらに日本をソ連への対抗勢力として保存することを真剣に考えていた。つまり、天皇をはじめとする日本の支配層を徹底的に滅ぼさないということである。ポツダム宣言の原案はこうした考えのアメリカ国務省と陸軍省で練られ、ソ連はほぼ完全に仲間はずれにされていた。中華民国もまた、宣言が出来てからそれを知らされたが、蒋介石はただちに同意した。そしてソ連もモロトフ外相がこの宣言コピーを見たのは、7月26日であった。
ーこの結果、7月26日に発せられた歴史的なポツダム宣言は、米英中3カ国の共同宣言として発表された(ソ連は8月8日に、この宣言に参加し、このとき4カ国共同宣言となった)。此れに対して日本の鈴木内閣は、2日後の28日午後、首相自ら記者会見を行い、ポツダム宣言について次のように発言した。「・・・政府としては、何ら重大な価値があるとは考えない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂に飽くまでも進むのみである」と。
ー鈴木首相は敗戦の後、あの発言は、軍部強硬派に押されて、心ならずもしたのだと回想している。しかしともあれ、この「黙殺」「重大な価値なし」は、ポツダム宣言の「拒否」と翻訳されて電波に乗り、それぞれの連合国政府のアンテナに届いていった。そして1945年の8月が来ようとしていた。
日本国民のおかれた歴史的境位:
ー帝国憲法は、国民を天皇の「臣民」とし、その権利・自由は天皇から恩恵として与えられるものとし、自然権としての基本的人権を認めず、帝国憲法では、「法律ノ範囲内二於テ」とか、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カラル限ニ於テ」とかの留保つきの自由が定められるにとどまった。ことに重要なのは、精神的自由と人身の自由に対する強い制限である。「言論著作印行集会及結社ノ自由」は、出版法・新聞紙法・治安警察法・不敬罪などの法律により、事前の禁止や事後の刑事訴追の脅威のもとにおかれ、表現の自由も知る権利も、権力が許容する範囲においてしか行使できず、権力は国民に知らせたくない情報、国民が学び知るのを好ましくないと考える知識・思想の伝統をすべて圧殺することができたから、国民の真実を知り真実に基づいて多様な意見を交換して最善の道を選ぶことを極めて困難とした。
ー演劇・映画は娯楽とみなされ、法律によることなく行政立法によって規制され、ラジオ放送は国家の管嘗するところであって、他のメディアに与えられた狭い自由さえなかった。神社崇敬は「臣民タルノ義務」とされ、国教としての神社神道は形式上「宗教」でないとされていたので、信教の自由といっても、国家神道と共存しうるかぎりの自由しか認められなかったし、現実の国家の相対視し超越絶対者を国家・君主の上に置く信仰は許されなかったのである。学問の自由も教育の自由も、憲法の明文では保障されておらず、条理上これらの自由の保障があるとする学説はあったけれど、成文法では認められていなかった。
ー大学・高等専門学校に対しては、ある程度の範囲で研究の自由と教育の自由とを黙認していたが、それにも大きな限界があり、ひとたび権力が「反国家的」と認定すれば、学問の自由も、大学の自治も、簡単に蹂躙された。15年戦争期には、大学教授・元教授への弾圧事件が次々に起っている。初等・中等教育の内容は、国家がその内容を完全に嘗握していて、小学校では国定教科書を、中等学校では検定教科書をそれぞれ使用することを義務づけ、教師はその内容を忠実に教え込み、児童・生徒はそれを忠実に学習するように強制された。小学校教育が「義務教育」とされていたのは、「忠良ナル臣民」になるために課せられた国民の義務としての教育という意味であったのである。
ー1943(昭和18)年には、中等学校の教科書も国定となった。内容の国定・検定教科書により、天皇至上主義・国家絶対主義・軍国主義の精神や家長父家族道徳などの画一化されたイデオロギーを注入されるときに、国民の大多数がそのような思想の持主となり、権力の望みどおりの方向に行動する人間として育成されていく結果となるのは必然であった。学校教育は、国家権力が国民の意識を支配するためにもっとも有効なメカニズムとして働いたのであった。
ー15年戦争の進行していくなかで、精神的自由は極限まで圧縮され、知る権利と学習権はきわめて狭小となった。特に戦争に関する情報は軍当局の発表をそのまま報道することしか許されず、日本軍の諜報や残虐行為や戦況悪化などの軍にとって不利な情報は一切知らされなかったから、直接体験する範囲以外に国民が戦争の真相を知る途は存しなかった。中国その他燐邦諸民族への侵略・加害や、対米英開戦にいたるまでの外交交渉も、国内での政府と軍との戦争準備も、すべて国民には秘密とされており、和戦について国民の意見の聴かれる機会のなかったのはもちろんのこと、どのような方向に祖国の運命を左右する国家意思の決定がなされようとしているかさえ知らないままに、突如として関東軍の奉天占領や対米英開戦のニュースを聞かされた、というのが実情であったのである。
ー戦後の15年戦争についての学問的・啓蒙的著作には、戦後はじめて公表された機密文書や証言を史料として開戦にいたる経緯や戦争の赤裸々な実態の記述がなされたあとに利用可能となった史料によっているのであり、その時点で生活していた一般国民の大多数は、例えば従軍して非戦闘員虐殺の現場に居合わせた人など隠されていた事実を体験した人々を除けば、全然知らなかったことばかりであるのをいつも念頭においてそれらの記述を読んでいただきたいということである。
敗戦と日本兵・新しき俘虜と古き俘虜:レイテの収容所
この章の題として選んだ「新しき俘虜と古き俘虜」とは、終戦と共に命令によって武装解除を受けて抑留された者と戦時中捕獲或いは投降によって俘虜となっていた者を意味する。古き俘虜は終戦当時においてわがレイテ島第1収容所で7個中隊約2千名であったが、9月中旬から入って来た新しき俘虜のために、1個中隊の人員は5個小隊計300名に増加し、中隊の数も11個まで増えた。
ーこれら新しき俘虜と古き俘虜の間に醸しだされた対立の感情は、今次太平洋戦争が人民に及ぼした影響の中でも、最も奇妙なもののひとつである。彼等は現在米軍によって監禁され、その給与を受受けていることにおいては平等のはずであった。しかし新しき俘虜はなかなかこの状態を率直に受け入れることが出来ず、「虜囚ノ辱シメヲ受ケルナカレ」の先入観に基づいて、古き俘虜を侮辱しようとした。
ー或る夜ネグロスから着いた元少尉が、禁を冒して我々兵の俘虜の小屋に入ってきて怒鳴った。「貴様等何故腹を切らんか。俘虜になんかなりやがって、おめおめと生き延びている奴があるか。腹を切れ」。尾高という乱暴者の上等兵は、こういう時いつも返事を買って出る。「何だと、ただ山ん中逃げ回ってやがった癖に、大きなことをいうな。憚りながら俺達は最前線に出たばっかりに負傷して、止むを得ず俘虜になったんだ。こん中には黙ってるけど、大尉も中尉もいる。少尉ぐらいで大きな口を利くな」。大尉と中尉がいるというのは誇張であった。責任を回避するため最初下士官と称する将校がたまにあったが、大抵は訊問の間に露顕して隔離されていた。
ーしかしこの言葉が少尉の鋭を挫くには最も効果があったらしい。「ふん」と彼はうそぶいて立ち去ろうとした。その後姿へ調子に乗った尾高は浴びせかけた。「馬鹿野郎、また来やがると承知しねえぞ」「何を」と相手も立ち止まり振り返った。「ホワット・イズ・ホワット」と尾高はいった。これは彼の得意の日本的英語のひとつで「何が何でえ」の直訳なのである。どっと起った笑い声の中に少尉は暫く突っ立っていたが、結局そのまま戸外の闇へ出た。尾高はなおも笠にかかって、翌日わざわざ将校テントに怒鳴り込んで行ったが、満足して帰ってきた。
ー彼の話によると、将校テントには大佐や中佐が大勢いて、主だった大佐が彼にいったそうである。「お前がいうのはもっともだ。こう敗けてしまえば、みんな同じことさ。日本の軍隊にはいろいろ悪いところがあったから敗けたのだ。これからは虚心担懐、力を合わせて祖国の再建に努めなければならぬ」そして収容所長から特別に貰ったという葉巻を一本くれたそうである。「さすが大佐になると話がわかる。わかんねえのは中尉や少尉だ。それが今じゃ大佐殿の当番兵で、飯上げなんかしてやがった」。
ーしかし私は中尉や少尉が我々を見て怒鳴りたくなった気持ちもわかるような気がする。私もその年の3月病院から初めて収容所へ来た時、これら愉快な俘虜達がとても人間とは思えなかったものである。その頃彼等は褌裸の単に猿のように罵り騒ぐ人種であったが、今は米軍の被服の給与も行き届いて、なかなかりゅうとした格好をしている。・・・どんな残虐な不条理が横行したとはいえ、とにかく永らく山中の窮乏に堪えた後、武装解除の恥を忍んで、収容所に到着した彼等の眼に、そういう我々の姿がどう映ったかは想像に難しくない「彼奴等は我々の敵だ」と彼等の或る者はいったそうである。
ー既存中隊に属せられた小隊は忍従をもって古き俘虜の中隊長の統制に服していたが、8中隊以下11中隊までの新しい俘虜は断固彼等だけの別天地を作っていた。外部へ出る作業中も既存中隊とは別にしてくれと、大隊長イマモロに要求した。無論古き俘虜のひとりであるイマモロは要求をきかなかった。そして食糧の分配についても、それ等衰弱した新入者に余分にやろうとはしなかった。
ー新しい俘虜のひとりがある夜わが中隊の炊事場に忍び込んで、制裁を受けたことがある。盗人はやっと目的の缶詰を外へ運び出したところを運悪く見付かった。炊事員は主としてレイテ湾の海戦から生き残った水兵たちから成っていたから、制裁は海軍式に行われた。「貴様海軍か陸軍か。なに陸軍。よおし、じゃこれから海軍の精神棒の味を教えてやるぞ」。受刑者はズボンを脱がされ、両手を挙げて立たされた。尻を覆う褌の三角の白だけが暗がりに白く見て取られた。炊事には飯をしゃくうために長さ五尺ばかりの大杓文字がこさえてあった。炊事員はそれを斜に構えた。
「こらっ。貴様等俺達のことを俘虜俘虜と馬鹿にしやがって、山ん中で看護婦と何してやがった」そして杓文字の先の広がったところで盗人の臀を打った。「ヒャーッ」と受刑者はよろめいた。「まだだぞ、まだだぞ、しっかり手を挙げろ。それっ」「ヒャーッ」受刑者は膝を突いた。「こらっ、誤魔化されんぞ。立てるだろう。立たんか」炊事員のひとりが手を取って引きずり起した。そして炊事長から杓子を受け取ると、一段と声を張り上げた。「今までのは序の口だぞ。これからが本当の精神棒だ、えいっ」受刑者は黙って前へ倒れた。
ー私はこの若い炊事員に親しみ、晩飯の後などよく馬鹿話の相手にしていたので、彼のこういう乱暴に少し驚いた。私は傍に寄り、小声で、「おい、もういいんじゃないかい」といってみたが、彼は興奮していた。「いや、ここは大岡さんの出る幕じゃない。ほっといて下さい」彼の普段の邪気のない呑気さに似合わぬこういう残忍性は多少私を悲しませた。彼はやはり帝国水兵だったのである。・・・-新しき俘虜と古き俘虜の軋轢はそれほど誇張して考える必要はあるまい。死すとも受くべきではない虜囚の辱めがひとつの観念であり、せいぜい新しき俘虜には矜持、古き俘虜には嫉みというセンチメントとなって固定しているに過ぎない以上、俘虜の日常の必要、つまり労役の義務の横行によって、次第に解消する運命にあった。
ー戦争終了と共に、今はいわば俘虜を養う無駄の経費を埋めるため、米軍の要求する作業の日程は忙しくなり、少なくとも同じ収容所内にいる新旧俘虜は対立している暇がなくなった。それになんといっても戦争がすんでしまえば、いつ帰れるかが我々の第一の関心であり、戦争中から俘虜であったが、大勅によって矛を捨てたかは過去の問題であった。
ー戦争が終わったという事実を我々に実感させたのは、8月15日の夜から、収容所の束に聳える丘の頂上の対空監視哨舎の火が消えたことであった。それからだんだん日本降伏の様々な状況が、「タイム」の記事や「ライフ」の写真を通して入って来た。降伏文書調印の日程を決めるためにマニラに飛来した日本の将軍は、握手のために差し出した手をはぐらかされて、空しく中に浮かせていた。厚木飛行場の空輸部隊到着、強姦は「驚くべき少数だった」というマッカーサーの声明に、私は苦笑した。
ー東条英機の自殺未遂に俘虜達は大いに笑った。「胸なんか射たなくても射つところはいくらでもあるじゃねえか。第一MPが来た途端やらかすなんて、強盗殺人犯じゃあるまいし、卑しくも一国の首相のやることかね」と我中隊長はいった。山下奉文大将が比島で行われた日本兵の残虐行為について自分は知らない、と法廷でいったことは俘虜達を憤慨させた。「どうせ逃れられないんなら、大将は大将らしく、部下の罪は自分の罪だといってもよさそうなもんだ」。「マライの虎」は最後まで比島敗兵のホープであり誇りでもあったのだが、法廷の習慣に従ったこの一句が英雄を転落させた。
ーやがて日本の新聞社が在外俘虜のために特に作った4つ切版の新聞が到着した。巻頭に終戦詔書と、マッカーサー元帥と並んだ天皇の写真が載っていた。前者は片足を少し前に出し、後者は90度に開いていた。中国地方の新聞も一緒に交じっていた。呉軍港内における天城の被爆を写真入りで報じていたが、記事はさながら戦時中の敵艦撃沈の実況放送であった。「好餌参なれとばかり、一発また一発、やがて空母天城は爆煙に包まれ」といった調子である。私はひとつの状況を話すのに、ひとつの術法しか持たない新聞記者の筆を変に思った。
ー我々は今度の戦争が「敗戦」したのではなく「終戦」したのであり、その結果日本に上陸した外国の軍隊が「占領軍」ではなく「進駐軍」であることを知った。比島の米兵は日本の俘虜待遇のいかに苛酷であったかを知った。収容所関係の米兵の態度には特に変化は現れなかったが、外業先で時々監視の米兵の個人的憤懣が爆発することがあった由である。

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