日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『My Showa history私の昭和史Mon historique Showa』Сюити Като加藤周一Shūichi Katō編edit(1988) 岩波新書Iwanami Shinsho【쇼와 시대昭和時代Сёва】(2024/03/31)CANADA🍁①


My Showa history/Mon historique Showa 加藤周一Shūichi Katō編edit Iwanami Shoten 1988/11/21
庶民にとって,昭和とはどのような時代だったのかWhat kind of era was the Showa era for common people? 希望にみちた未来を,秘めた初恋を語り合った友の戦死The death of a friend in battle with whom we talked about a future full of hope and a secret first love. 青春を踏みにじられた朝鮮人元従軍慰安婦の慟哭The lament of a Korean former military comfort woman whose youth was trampled upon. 戦後のつかのまの明るさを経て訪れた豊かな社会の中での家庭崩壊の不安Anxiety about family collapse in an affluent society that came after a brief period of brightness after the war…….さまざまな想いをこめた証言は読む者の心を打つThe testimonies filled with various feelings touch the hearts of readers.創刊五○年記念論文入選作十五篇に編者の序文を付すThe editor's preface is attached to the 15 selected essays commemorating the 50th anniversary of the publication.


*Русскийロシア語→Сюити Като (яп. 加藤 周一 Като: Сю:ити, 1919—2008) Shūichi Katō (critic)は、日本の評論家、小説家。医学博士(専門は内科学、血液学)японский литературный и культурный критик. По образованию врач, доктор медицинских наук (специалист по внутренним болезням и гематологии). Преподавал в ряде университетов по всему миру (включая Йельский университет, Свободный университет Берлина, Софийский университет в Токио). Один из основателей общества «Статья 9».

①Deutschドイツ語→Die Shōwa-Zeit (japanisch 昭和時代 Shōwa-jidai, deutsch ‚Ära des erleuchteten Friedens‘)Період Сьова ist die Bezeichnung für eine Ära in der Geschichte Japans. Sie bezeichnet die Regierungszeit des Tennō Hirohito, des dritten Kaisers der modernen Periode, vom 25. Dezember 1926 bis zum 7. Januar 1989.[1] Shōwa (昭和, Ligatur: ) ist dabei die Regierungsdevise (Nengō) Hirohitos.

②Françaisフランス語→L’ère Shōwa (昭和時代Сёва, Shōwa-jidai?, litt. « ère de paix éclairée ») est la période de l’histoire du Japon où l’empereur Shōwa (Hirohito) régna sur le pays. Elle débute le 25 décembre 1926 et s’achève le 7 janvier 1989.

             さまざまな昭和史ー編者まえがき    加藤周一

 多様な「戦争体験」

 「昭和史」は、第一次大戦と関東大震災の後1920年代の末に始まり、15年戦争・戦後の民主化・経済的繁栄を経て、今日に及ぶ。この本は、その時代を生きてきた人々の証言である。

 岩波書店の「新書」編集部は、「私の昭和史」という題で、広く読者の文書を募った。応募649篇、そのなかから編集部の援けをかり、私の択んだのがここに収めた諸篇である。撰択の基準は、第一に、内容および・または表現が、この本の読者にとって面白いだろうということ、第二に、採録の文章の全体に、筆者の年齢や性別、また題材の種類をも含めて、できるかぎりの多様性のあることである。したがって収録できなかった文章が、収録した文章よりも、論文として、必ずしもその出来栄えに劣るということではない。収録できなかったものにも、すぐれたものがある。

 応募649篇の著者の圧倒的多数は、60歳前後で、男が多い。そこから15篇を採るのに、各年齢層を含めることは、きわめてむずかしい。80代の高年齢と20代の若者の発言のそれぞれ一篇を例外として、この本は昭和時代を共にした人々の証言ということになる・。性別については、応募者に男が多いにも拘わらず、採録した15篇では男女がつり合っている。これは編者が意識してそうしたからではなく、女の文章に内容・表現のすぐれたものが多かったからである。

 証言の内容には、いわゆる「戦争体験」が多い。60年以上に及ぶ昭和史の、戦争は15年間のことにすぎないから、これは不思議なことのようにみえる。しかし戦争の時代を経験した人々にとっては、その経験こそが生涯を通じて決定的な意味をもったのであろう。日本国内で、台湾で、中国大陸で、また太平洋の多くの島々で、あるいは兵士として、あるいは入植者その他の非戦闘員として、人々は戦争を経験した。その内容は、実に多岐にわたっている。


 たとえば酒井興郎氏は、学徒兵(獣医)として中国大陸に転戦し、敗戦直後、所属大隊の司令部にどなり込んできた元従軍慰安婦に出会う。彼らを日本の役人は半強制的に連行し、利用し尽した後うち捨てて顧みようともしなかった。その数は万をもって算えるという。そういう女の一人にどなり込まれては、返す言葉もないはずである。
 酒井氏はまた、国共内戦の国民党軍が、降伏した日本軍将校を扱うことの丁重なことに驚愕し、「私はこの時ほど私が、そして日本が、惨めに思えたことは今までにない」という。同じような経験は、大陸で敗戦を迎え、憲兵であった夫が八路軍に連れ去られた後、みずからは八路軍の病院で働くことになった本間雅子氏の場合にも、みられる。はじめは不本意で参戦しながら、八路軍と共に行軍し、「苦楽を共にした八年の間に、新中国建設のためと思うように」なる。敗戦は、大陸にあった日本人の一部をして、中国人との人間としてのつき合いを発見させた。
 戦争は、また、当時の青年にとって、徴兵と特高警察とを同時に意味したこともある。兵役から解放されると特高に逮捕され、投獄され、執行猶予で釈放されると徴兵で外地へ送られた。そういう経験をした一人、柴田仁兵氏は、戦前の昭和史は「暗黒」であったという。「敗戦後の一時期は明るかった」。「しかしその明るさもつかの間」であり、1960年代の末には、かつてデッチ上げの調書に署名を強制した特高の警部補が、警察学校校長になるような時代が来る。ナチ戦犯の時効さえも廃止した(1979年)西独で、「ゲシュタポのメンバーが戦後の警察機構の高官になる」ことはないだろう。それに類したことのおこる「奇怪さが奇怪でないのが日本の現状」である。

 太平洋戦争のために、父親と上の娘が米国で、母親と末の娘が日本で、音信不通のまま暮した家族もある。父親は米国で亡くなり、上の娘は強制収容所へ行く。日本の母子家庭の戦時中の辛苦はいうまでもない。その姉妹が戦後再会する話は、末の娘=中谷君恵氏の文章に詳しい。そこでは話が家族を超えて、日系米国人が戦争のためにどういう犠牲を強いられたかということが語られている。

 このように「戦争体験」は、その多様性の一端を、この本のなかでも、十分に示している。しかし、もちろん、これがすべてではない。むしろこの本の証言は、原民喜Tamiki Haraや井伏鱒二Masuji Ibuseの原爆についての、大岡昇平Shōhei Ōokaのフィリピン戦線についての文芸作品を補足し、またすでに発表されてきた多くの証言を補足するものである。他方、戦争を肯定あるいは讃美する説得的な文章は、私の見た応募原稿のなかにはなかった。戦争体験が当人にとって不快でなく、むしろよき想い出として残されている場合もあるにちがいないながら、この本の証言は、日本人全体の「戦争体験」の一面だということになる。しかしこれこそは貴重な一面であると思う。


 「私」への集中と日本文化
 「私の昭和史」という題は、二様に解釈できることができる。その一つは、「私の生きた(経験した)昭和史」という意味で、「私」の経験はそのまま昭和史の一部分である。「私」が60歳またはそれ以上であれば、その生涯の経験が昭和史の全体と重なるだろう。もう一つは、「私の見た(理解した)昭和史」という意味で、その場合の「私」は、歴史の部分ではなく、歴史を理解する主体である。歴史の理解のし方は人によって異なるから、たとえば遠山茂樹Shigeki Toyama氏等の『昭和史』(岩波書店)は、遠山氏等の昭和史と考えることができる。同様に「私」が理解した昭和史の要約は、「私の昭和史」といえるだろう。原則として、その場合の「私」の年齢や国籍は問題にならない。
 しかるに応募論文の圧倒的多数は、第一の解釈を採って、第二の解釈を採らない。60年以上に及ぶ昭和年間には、無数の事件があった。歴史の方向を決定する上でに、どの事件が重要であり、どの事件が重要でなかったか。もし重要な事件を節目として昭和史を区分するとすれば、どういう区分が成り立つか。たとえば1936年には、二・二六事件、軍部大臣現役武官制、日独伊防共協定、スペイン戦争の年である。この年を、戦争を拡大しつづけて遂に真珠湾攻撃に至った日本の30年代の節目として、理解すべきかどうか。またたとえば1950年代の「挑戦戦争景気」は、戦後の日本経済史を、復興の前期と拡大成長の後期に分かつ節目と考えるべきものかどうか。-そういう問題について筆者の意見を述べ、その意味で「私の昭和史」を主張する論文は、ほとんどなかった。そうではなくて、ほとんどすべての文章は、その著者自身の経験を叙述するという点で、共通していた。何故だろうか。
 もちろんその技術的な理由は、あきらかである。一枚四〇〇字二〇〇枚で、昭和史の全体の流れを論じることは、誰にとっても困難である。もし話題を絞るとすれば、まず「私の昭和史」を「私の経験した昭和史の一部分」と解するのが、便利なはずであろう。しかし、おそらくそれだけが理由ではない。なぜなら多くの人々は、みずからどうしても言っておきたいことを言い、書いておきたいことを書こうとしたにちがいないからである。それが、「私」の経験であって、「私」と直接には係わらない歴史の全体ではなかった。歴史では、「私」の経験の条件であるが、経験そのものではない。そうではなくて、「私」の経験のすべてがそこで成立する世界の、時間的構造である。
 一方には、直接で、なまなましく、具体的、個別的で、部分的な「私」の経験があり、他方には、関節で、対象化され、抽象的、普遍的な「歴史」 の全体がある。ものの見方や考え方が、その「私」の方に集中してゆく傾向は、日本の文化の伝統の一つであった。たとえば徳川時代の後半に普及したSekimon-shingaku石門心学heart learningは、「私」のおかれた歴史的環境ではなく、「私」の心のあり方を追求し、そこに倫理的価値の基礎を見出そうとした哲学である。各々その「分をまもり」、「私心なきこと」が理想とされる。その「分」を決定したのは、「歴史」であり、「私心」があるかないかを決めたのは「私」の内側のことであろう。すなわち、あたえられた「分」をまもるということで、「歴史」を括弧に入れ、「私心」の有無を問題にすることで、「私」の内部に話を集中したのである。
 またたとえば明治以後の日本文学の主流の一つは、いわゆる「自然主義私小説」であった。「自然主義Naturalism」の方は、ゾラÉmile ZolaやモーバッサンGuy de Maupassantに代表される西洋文学から借りた概念である。しかしそれは誤解にもとづいていて、ゾラやモーバッサンは、決して「私小説」を書かなかった。「私小説」の方は、日本文化の伝統に根ざし、「私」の経験の情緒的な面を叙述する。その影響は、学校教育にも及び、日本の学校での「作文」の訓練は、その主眼を、「私」の経験の情緒的な表現においてきた。これは西洋諸国(の少なくとも一部)の学校が、生徒の「作文」において、対象の客観的な叙述と議論の論理的な秩序を重視するのと、全く対照的である。日本の文章は、一般に、著者がその人自身の「体験」を語るときに、細かく感情の襞に分け入り、豊かな表現を示すことが多い。そのことが、この本のなかの証言にも反映しているといえるだろう。

 個別性と普遍性
 しかし個別的な現象の特殊性をつきつめればつきつめるほど、そこに普遍的な意味のあらわれてくることもある。個人の特殊な経験が、時代を反映するばかりでなく、鋭く時代を象徴することがあり、そこでは個人史と昭和史とが重なる。そういう面が、たとえば、農家の女の一生を語った古谷竹野氏の文章や、戦時中は工場で働き、敗戦後国語教師となり、結婚して経済的復興と「家庭の内面からの崩壊」を経験した今野さなへ氏の文章にはある。小作農家の貧窮に世界恐慌があり、農家の働き手の召集や女学生の工場動員の背景に戦争があることはいうまでもない。「家庭の内部からの崩壊」も、物質的繁栄と精神的貧困によって特徴づけられるだろう高度成長期の日本社会を、よく象徴する。
 川口祐二氏は、三重県熊野灘の漁村の渚に、話をしぼっている。1930年代は「間引」で始まった。不況で窮乏した漁村の女たちは、1931年に出生児の半数をみずから扼殺したという。そうしなければ、生きてゆけなかったからである。警察がその女たちを逮捕して連行した渚は、戦時中には国防婦人会に組みこまれた女たちが出征兵士を見送る場所となり、戦争の末期には兵士の訓練場となる。戦後は、真珠養殖と遠洋漁業による好景気がつづくと同時に、渚には海水汚染がおこり、赤潮が押しよせる。そういう公害の渚に、止めをさしたのが「開発」であり、漁港が建設されて、渚は消滅する。かくして川口氏の渚の「間引」(すなわち不況)・戦争・戦後景気・公害・開発という五段階は、そのまま昭和史の五段階に他ならない。
 他方、益子純一氏は、主計下士官として戦時の軍隊生活、占領下の「レッド・パージ」(1950年)と独立後解雇のふ頭を訴える法廷闘争、最近の胃がん闘病という三点に集中して、その経験を語っている。なぜその三点だろうか。まず一世代の青春は戦争によって決まり、戦後の日本の方向は「レッド・パージ」と朝鮮戦争の1950年に撰択され、高度成長の後個人を脅かす最大の脅威は病、殊にがんになったからであろう。そう考えれば、ここでも、「私」の生涯と「歴史」とは重なり、両者の節目は一致する。益子氏は、川口氏と同じように、そのことを鋭く意識し、個人的経験を通して昭和史を叙述した。
 しかし歴史との係わりを意識せず、あるいはその係わりの意味を問おうとせずに、時と共に移る個人の経歴を叙述し、結果としてそれが時代と社会を反映することもある。たとえば、戦時中に航空機の設計を志し、戦後新幹線の車両設計に参加し、今日防災設備の専門家となっている技術者、卯之木十三氏の場合が、そうである。こういう有能な技術者の集団が、それぞれの技術的問題を解決することで、かつては大日本帝国の軍事力を支え、今では経済大国日本の工業技術をつくり出した。軍用機の機体の設計も、高速鉄道の車体の設計も、その過程で流体力学的問題を解かなければならないという点では、共通している。秀れた技術者はそのいずれにおいても能力も発揮するのであり、さらに一般的な技術的問題の解決法や総合的な組織力の経験は、トンネルの防災設備の開発にも役立つのである。
 軍用機と新幹線と青函トンネルの用途は異なる。その用途を決めるのは、技術者ではなくて、一時代の社会である。戦争、経済的効率、あるいは用途不明瞭。そこには、あきらかに、昭和史の段階が反映している。しかし、そのことに技術者が意識的であるとは限らない。用途あるいは究極の目的は、技術者にとっては与えられたものであり、その関心は与えられた目的に適合した手段をつくり出すことである。手段をつくり出す過程は、歴史的思考ではなく、力学的思考であり、そこには昭和史は反映しない。卯之木氏の叙述に、目的そのものの検討や批判が、全くみられないのは、おそらく偶然ではないだろう。戦争の批判はなく、経済的効率のみを社会が追求するとき何がおこるだろうかということへの反省はなく、そもそも経済的効率の正確な評価がなくて青函トンネルに巨大な投資をしたことの政治・経済・社会的意味の検討はない。それは技術者としての思考の範囲を超える問題であり、市民としての、また人間としての問題である。
 一般に戦後の日本社会の全体が、技術的な思考によって特徴づけられている、といえるのかもしれない。技術的な思考は、知識の専門化と、専門家集団の官僚的組織を伴う。そういう組織の特徴は、能率という価値の支配、環境を統御する能力の増大、強い惰性と基本的な目標を変えることの困難、それ自身の巨大化する傾向、したがって権力の集中などである。それは決して、日本社会だけの現象ではなく、20世紀後半のすべての先進工業社会においていよいよ著しい現象である。その一般的傾向が、よい意味でも(経済的繁栄)、わるい意味でも(民主主義の後退)、誇張されてあらわれているのが、日本社会であり、そのことの証言として卯之木氏の文章は、まことに興味深いものである。

 近接の視点
 個人史は日本の昭和史の一部分であり、昭和史は20世紀の世界史の一部分である。この小さな本に収録する個人の経験の証言は、それ自身が感動的であるばかりでなく、また日本国の歴史に向って開かれていて、その日本国の歴史は、世界の歴史と係わっている。一漁村で一人の青年が見た「間引」や、一農村で女が経験した小作農家の窮乏は、日本資本主義の不況の弱い部分へのしわ寄せに他ならず、日本資本主義の不況は、1929年のニュー・ヨーク市場で始まった世界恐慌の部分現象である。15年戦争は個人の生涯の決定的事件であると同時に、後発の帝国主義のーそれは日本の場合にかぎらないー軍事的拡張政策であり、経済的「ブロック」の対立と自由主義対反共「ファシズム」のイデオロギー的対立の結果でもあって、恐慌以後の世界の潮流の極東における発現に他ならない。第二次大戦後、20世紀後半の「科学技術革命」、「冷戦」の構造、「南」の犠牲における「北」の繁栄などの諸現象は、日本国に集中的にあらわれ、日本国における個人の経験を直接間接に条件づけている。
 思うに歴史を理解するには、近接して個別的な状況を見る必要があり、また同時に遠望して天下の形勢を察する必要がある。徂徠Soraiもいったように、「一定権衝ヲ懸ケテ百世ヲ歴詆スルハ易々タルノミ」。昭和史もまた然り。この小さな本は、昭和史について近接の視点を提供する。私はそこであらたに学び、あらためて多くを考えた。こういう本を可能にしてくれた著者たちに感謝したいと思う。

                ある伝言        天沼登美子
                        あまぬまとみこ 1925年生 東京都三鷹市 主婦
 三十年目の同窓会
 金剛寺のトンネルを出て塩川の鉄橋を渡りきると韮崎である。闇を抜けたとたんに鉄橋にかかる列車の響きの変化、明るく展けた車窓の右側に八ヶ岳が見え、左には甘利山、鳳凰の山々が望める、何十年も前、朝夕の通学で親しんだ音も景色も昔のままであった。小学校の同窓会に出席するべく、私は新宿から中央線の下り列車に乗っていた。
 1967(昭和42)年、同窓会の知らせが届いた。
 私たちが韮崎小学校を卒業して三十年になります。「さくら会」とつけた名前をそのままひきついで再開の運びとなりました。
 激しい時代を生き抜いて来られた皆さんのお顔を見せて下さい。お待ちしています。

 敗戦からすでに22年がたち、巷では戦後は終った、いやまだ終ってはいないと、こもごも言いかわされていた。

 さくら会の同級生は、大半が1924(大正13)年生れだが、私は早生れで1925年である。私の満年齢は昭和の年数と同じであるから、私の生きてきた歴史といえば、昭和の内容のすべてと重なっている。


 1925年には、すでに文政審議会において軍事教育実施案が可決され、警視庁はこの実施案に対する学生の反対デモを禁止している。

 1931(昭和六)年小学校に入学した年、柳条湖の満鉄線路爆破から満州事変が引き起こされている。

 37年、女学校に入学した年、盧溝橋事件を発端にして日中戦争が始まる。

 41年、女学校を卒業して就職した年、遂に日本は米英に宣戦布告、15年戦争の最終段階へと突入していった。


 正に私の人生の区切りは戦争拡大への階段を登る如きものがあり、私の成長は軍靴の響きの高まりと共にあった。そんな時代に生きているとも知らず、私たち同級生は、釜無川、塩川と二つの川に挟まれた南北に細長い峡北の町、韮崎小学校ですこやかに学び育っていった。
 校庭のほぼ中央にポプラの大樹があり、北の隅に二宮金次郎の銅像、その横に鉄棒があった。南に富士山、西にアルプス、北に茅ケ岳を望むことができた。小学校はその頃中央線に数多く見られたスイッチバックのすぐ横に建っていた。上り列車は韮崎駅に入る前にこの突込み線で一時停止し、汽車をひいて駅に入って行き、土手の下の低い甲府方面に走って行った。下り列車は、駅で客の乗り降りをすませ、この突込み線に登って来て停止し、大きく息を吸い込んで穴山方面に向かう。私たちはみんな、もうもうと煙を吐いて、シュシュと走る汽車が好きで、突込み線で止まる列車の機関手さんや乗客に手を振ったり声をかけたりして、日に何度となく往き来する汽車をあきることなく見送った。まことのどかで平和な風景であった。
 そのうち年ならずしてこの突込み線は、大日本帝国国防婦人会、愛国婦人会の小旗でうずまり、「わが大君に召されたる、生命栄ある」などの歌声がどよもして出征軍人が送られる場となり、後にはドイツのヒトラー・ユーゲント歓送迎の場になったりした。
①Dai Nippon fujinkai大日本妇人会(Greater Japan Women Association or Great Japan Women's Association) was a Japanese women's organization, founded in 1942②Dai-Nippon Kokubo Fujinkai國防婦󠄁人會(Greater Japan Women's Defense Association) is a military organization in Japan, founded in 1932③Русскийロシア語→Общество патриоток (яп. 【愛国婦人会Patriotic Women's Association】, あいこくふじんかい, "айкоку фудзин-кай")Товариство патріоток — японская женская организация для помощи военным и военным семьям Японской империи. Основана Окумурой Йоко. Существовала со 2 марта 1901 года по 2 марта 1942 года.

①Deutschドイツ語→„Shussei Heishi o Okuru Uta“ (出征兵士を送る歌Song for Giving Warriors a Send-off, Lied für den Abschied von Kriegern) ist ein japanisches Gunka-Lied, komponiert von Isao Hayashi mit Texten von Daisaburō Ikuta. Es wurde im Oktober 1939 von King Records veröffentlicht.~♪正義の軍(いくさ)征くところWhere the army of justice goes~ 誰(たれ)か阻まんその歩武をNo one can stop that Hobu(step)~無敵日本の武勲(いさおし)をInvincible Japan's deeds of arms~世界に示すときぞ今Now is the time to show it to the world~いざ征けつわものGo strong man~日本男児!Japanese manhood!~♪

②ヒトラーユーゲント(ドイツ語: Hitlerjugend、略称 HJ、英: Hitler YouthГитлерюгендは、1926年に設立されたドイツの国民社会主義ドイツ労働者党党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団Гітлер'югенд」とも訳される。
 私たち同級生は六年生になると、中学や女学校進学のための勉強に熱を入れるようになり、学校でも受験組を作って放課後、補習授業をしてくれた。世の動きとはいっこうに無関係になり、無邪気に過ごした時代ではあったが、五年生の三学期のある日、
 「大変だぞ、岡田首相や大臣二人が殺られたそうだ。東京は大混乱らしい」
 ただならぬ気配でニュースを語る父の顔を、私はなぜかはっきりと思い出す。二・二六事件が起きたのだった。このクーデターで大人たちは政治的・軍事的な不安や懸念を感じたのだろう。が私は、一瞬父の顔を不安な思いで見つめたが、すぐに忘れてしまった。

*Polskiポーランド語→Incydent z 26 lutego (jap. 二・二六事件 Ni-niroku jiken)Incident du 26 févrierИнцидент 26 февраляFebruary 26 incident – próba zamachu stanu w Japonii, w dniach 26–29 lutego 1936 roku, dokonana przez ultranacjonalistów z Kōdō-ha działającego w japońskiej armii. Zginęło kilku czołowych polityków, a centrum Tokio było przez krótki czas okupowane przez rebeliantów, zanim zamach został stłumiony.

 思いがけない事実
 戦後、はじめのさくら会(三組合同の同窓会)は150名中80名の出席、そのうえ担任の三人の先生を迎え、盛会そのものであった。しかし30年の歳月はまぎれもなく同級生の上に流れ、昔の面影と重ならない人も多かった。戦争をへだて、進学、結婚、就職と変化する年齢でもあったため消息不明の人が多く、幹事は名簿作製に苦労したという。
 会はまず、今は亡き同級生にささげる黙禱から始まった。敗戦時、同級生は20歳か21歳だったので、戦死した人の少ないのは何よりの幸いであった。
 あちらでも、こちらでも、四、五名、六、七名とつき合せ、円くなり、肩を叩きあい、軍隊の話、挺身隊のこと、空襲のこと、戦死した父兄のお悔み、現在の消息を交換しあい、会は進むにつれ異常な程の盛り上りをみせ、一同興奮気味であった。
 会が終りに近づいた時だった。同級生の一人である水口泰三さんが近づいて来て、声をひそめるようにして、
 「終ったらお話したいことがあるので時間をいただけませんか」
 と場所を指定した。会は、名残を惜しみながら、今後毎年集まることを約して散会した。
 私は近くの喫茶店で水口さんと向かい合った。あまりなじみのない水口さんの話とは何だろう、私にはまるきり見当がつきかねた。そして幾分緊張しているように見える水口さんの顔を不安な気持でみつめた。
 水口さんは、話したいことをどう切り出そうか、とまどっている様子だったが、重い口調でぽつりぽつりと話し出した。
 「今日の同窓会はつらかった。こんなにこたえるとは思いませんでした。彼と一緒に出席したかった」
 こう前置きすると、私にとって予想だにしない思いがけない事実を告げた。戦死した坂本順二さんから私への伝言がある、というのである。
 亡くなった同級生数名のなかに、坂本さんの名前があったのを、私は会が始まり「黙禱」の時、始めて知った。
 水口さんと坂本さんとは小学校から韮崎中学を通じての親友であり、その坂本さんからの伝言を早く私に伝えたいと思っていたという。
 「相前後して入隊したんですが、最後に会った時のことです。彼はお守り袋の中にあなたからの手紙を入れていました。お互い戦いに行く身だ。もしお前の方が生き残ったらあの人に必ず伝えてくれ、このお守り袋は片時も肌身離さず持って死んで行ったと。頼んだよ」
 水口さんは、相思相愛だった男と女が戦争に切り離されてしまった、その頃たくさんあった悲劇を想像しているらしく、私に対して同情のまなざしを向けた。
 私はまったく唐突な、思いがけぬ話に呆然とし、この場合何と言ったらよいか言葉を失った。水口さんは話し終ると、「ああよかった」「彼との約束を果すことが出来た」「22年目の伝言ですね」と饒舌になり、「やっと肩の荷を下ろしたような気分です。今日から安心して寝られるぞ」とも言った。
 私が坂本さん宛に書いた手紙。そうか、あの時の一通、それしかない。
 「水口さん、その一通の手紙とは」言いかけて私は口をつぐんだ。肌身離さず持っていたお守り袋の中の手紙の内容を今更あかして何になろう。坂本さんも、そんなことは欲しないような気がした。
 私も酷寒のシベリヤで、やせ細って死んで行ったという坂本さんが持っていた手紙は、「優しく愛をこめた」ものであってほしかった。今となっては、せめて水口さんにそのように思ってもらった方がよい、そう思ったからである。
 真実の一通の手紙とは、次のようなものだったのである。

①↑1945年9月、満州においてソ連軍に降服し、武装解除された日本兵たちIn September 1945, Japanese soldiers surrendered to the Soviet army in Manchuria and were disarmed. この後、シベリア行きの運命が待っていたAfter this, their fate to go to Siberia awaited them②Japanese prisoners of war in the Soviet Unionシベリア抑留Японские военнопленные в СССР находились в 1945—1956 годах西伯利亞滯留者Japanische Kriegsgefangene in der Sowjetunion시베리아 억류: After World War II there were from 560,000 to 760,000 Japanese personnel in the Soviet Union and Mongolia interned to work in labor camps as POWs. Of them, it is estimated that between 60,000 and 347,000 died in captivity.
 一通の手紙
 1937年、小学校を卒業した私は甲府高等女学校に入学し、韮崎ー、甲府間を汽車通学していた。この年の七月に始まった日中戦争は、緒戦の勝利のいきおいに乗じ、戦線は徐々に拡大されていった。思想言論の統制は日増しにきびしくなっていったが、まだ女学生時代の初めは支障なく楽しく過していた。
*Españolスペイン語→Kōfu (甲府市 Kōfu-shi?)Кофу (город) es la ciudad capital de la prefectura de Yamanashi, en el centro de Japón. Tiene una población estimada, en septiembre de 2021, de 186 562 habitantes.
 1940年、皇統連綿Imperial lineageを祝う紀元二千六百年の祭典が盛大に繰り展げられ、勇ましい歌声とは裏腹にその頃から急に、授業を放棄して勤労奉仕、時局の講演会が多くなり、私たち期待の修学旅行は一週間が三日に短縮され、翌年には全面的に廃止された。
 1941年、私は女学校を卒業し、山梨県庁に勤務することになった。私の所属した社会課は、まもなく社寺兵事課と改称され、更に12月、米英に対し宣戦布告するや、軍事援護課となっていく。若い課員は次々に応召し、課は年輩の人と女性が大半になっていった。私の担当は、傷痍軍人の係であった。援護課の仕事は、多忙をきわめるようになった。
 「援護も戦う 必勝の陣」こんなポスターの貼られた室内で、私は懸命に銃後の務めを果しているという気負いで仕事をした。
 私が県庁に勤務を始めた翌年のことだった。梨本宮の山林視察行事があり、県庁は、そのための大がかりな準備に忙殺された。その準備は、思わぬ形で私たち女子庁員の上にふりかかって来た。山林視察の現場、県庁、休憩場所での茶菓の接待役を、女子庁員の中から選出するというのである。身体検査、面接試験などがあり、その結果、私もその一員に加わっていた。

*Deutschドイツ語→Prinz Nashimoto Morimasa (梨本宮守正王나시모토노미야 모리마사 왕, Nashimoto no miya Morimasa ō(大日本帝国陸軍元帥・A級戦犯容疑者), 9. März 1874 – 2. Januar 1951) Насимото-но-мия Моримаса war ein Mitglied der japanischen Kaiserfamilie und Feldmarschall der kaiserlichen japanischen Armee. Als Schwiegeronkel von Hirohito (Kaiser Shōwa), Onkel seiner Gemahlin, Kaiserin Kōjun, und Schwiegervater von Kronprinz Euimin von Korea war Prinz Nashimoto das einzige Mitglied der kaiserlichen Familie, das wegen Kriegsverbrechen verhaftet wurde während der alliierten Besetzung Japans nach der Niederlage im Zweiten Weltkrieg.
 翌日の新聞を見て私も家の者も驚いた。どの新聞も一様に第一面に大きく写真をのせ、「晴れの御接待役決る」の見出しで、きびしい選考の末、八名の光栄ある接待役に決定した人々として、出身地、年齢までが詳しく報道されていたのである。
 その日から私たちは、仕事は二の次で作法の特別訓練を受けることになり、女性の多い課の中では、冷たい白い目にぶつかることも多かった。
 派手な新聞の取り上げ方だったので、私は何人もの方からお便りをいただいた。その中に、思いがけない人、坂本順二さんからのお祝い状があったのである。
 「卒業してまだ日の浅い貴女が、このような栄誉を得られ、同級生として心から嬉しく思っています」という控えめな便りだったと記憶している。私は早速にお礼の手紙を書いた。
 「お祝いのお便りをいただきまして、ありがとうございました。皆様の御期待に添うように、大役を心して務めるつもりでおります」
 これだ、たった一通、私が坂本さんに出した問題の手紙だったのである。
 何と、味も、素っ気もない。
 思えば、坂本さんの私に対する、機をとらえての精いっぱいの気持の表現だったのだろうか。肌身離さず持たれるには、あまりにさみしい一通であり、「お守り」の役目はとうてい果し得なかった。
 「一服のお茶」に光栄だ栄誉だと、かしこんでいた私たちは、疑うことなく日本は神国であり、国難にあたっては神風が吹いて、決して敗れることはないと信じていた。何故あれ程、盲いていたのだろう。教育とは恐ろしいものである。
 一度接待役を経験した私は、その後も何度か役を務めた。1944年、東部軍管区司令部か東京から甲府に疎開し、賀陽宮の着任祝いの宴が県庁内内の特別室で盛大に行われた。豪華な料理、酒、デザート等は物資の欠乏しているその頃、我々庶民がとうていお目にかかれるものではなかった。私たち接待役の服装も、相変らず訪問着と黒の袴で、簡略にされることはなかった。

*Prince Kaya Tsunenori (賀陽宮恒憲王가야 쓰네노리, Kaya no miya Tsunenori ō, July 23, 1900 – January 3, 1978)Кая-но-мия Цунэнори(大日本帝国陸軍中将), was the second head of the Kaya-no-miya collateral branch of the Japanese imperial family. A general in the Imperial Japanese Army, he was first cousin to Empress Kōjun (Nagako), the wife of Emperor Shōwa (Hirohito).
 その頃、日本をめぐる情勢はますます暗く、勇ましい軍艦マーチが空しく響き、「大本営発表」は誇大戦果をことさらに大きな声でカムフラージュしていた。急斜面をすべり落ちるように、あえぎ始めた日本軍の犠牲は日増しに大きくなり、戦争を始めた一群の人々にまったく無関係な若い前途ある兵士や、善良な市民たちが、次々に死んで行った。

①Françaisフランス語→Gunkan kōshinkyoku (軍艦行進曲군함행진곡, littéralement la « marche du navire de guerre »)Марш военных кораблей, est une célèbre marche militaire japonaise. Elle fut composée en 1897 par le compositeur japonais Tōkichi Setoguchi. Initialement marche officielle de la Marine impériale japonaise, elle devint la marche officielle de la Force maritime d'autodéfense japonaise.~♪眞鐵(まがね)のその艦(ふね) 日の本にVessels armed and armored in steel in Hinomoto(origin of the sun)~仇なす國を 攻めよかしTo defeat the enemies of Great Japan~皇國(みくに)の光 輝かせLet the light of the empire shine~♪

②大本营战报或大本营发表(日语:大本営発表〔大本營發表〕Imperial headquarters announcement /だいほんえいはっぴょう Daihon'ei happyō대본영 발표)是指自1937年11月至1945年8月期间,大日本帝国陆海军最高统帅机关大本营所发布的关于中日战争和太平洋战争战况的官方声明。
 1945年、本土決戦に持ち込んでまで矛をおさめようとしなかった日本も、各地が焼土と化し、原子爆弾が投下されるに及んで、やっと敗戦に至るのである。あまりにも遅すぎた戦争終結と言うべきだろう。

 最後の語らい
 1945(昭和19)年4月、甲府駅と指呼の間にある舞鶴城は、桜花満開であった。しかし花を愛でる花見客の姿はなく、「撃ちてし止まん」のポスターが、やたらと目につく城跡公園の石段を、二人の若者が登って行った。こうしてゆっくりと友人同士で話し会う機会は、或いはこれが終りではないかと思いにかられなら。
 水口さんと坂本さんは、終日美しい桜を目に留め、殊更に遠い未来の事を話し合ったそうである。現実に目をつぶれば、未来は果しなく輝いているように思われた 
 坂本さんは受験浪人で、一時、親戚の勧めで県経済連に勤めていた。どっち方面に進もうかなと迷う坂本さんに、水口さんは「お前、俳優になれよ」と言うと、「これじゃ相談にならないな」と笑った坂本さんの顔は少し憂いを含んで本当に美しかった、と水口さんは当時を回顧して語った。

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