日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『My Showa history私の昭和史Mon historique Showa』Сюити Като加藤周一Shūichi Katō編edit(1988) 岩波新書Iwanami Shinsho【쇼와 시대昭和時代Сёва】(2024/03/31)CANADA🍁②


 私の記憶でもたしかに長身で端整な人だった。小学校六年生の頃は陸上競技の選手で、汽車の煙をまともに受ける校庭で、スタートの練習を繰り返しさせられているのを見ていたこともあった。一組は男子組で、やんちゃな子が多く、靴をかくされたり、ちょっと男の子と話していると、はやされたりからかわれたりしたが、坂本さんはいつもうつむきがちな、内気と見える人だった。
 私は女学生になり、坂本さんは韮崎中学校に進んだ。狭い町のこととて、時折出合うことがあったが、坂本さんは困ったような顔をして急ぎ足で通り過ぎて行った。そんなわけで私は坂本さんと一度も言葉を交わしたことがなかったのである。
 ぽつぽつ帰ろうとかと水口さんが立ち上がりかけた時、坂本さんが突然、「好きな人がいるんだ」と言った。水口さんはまた腰かけ直し、「相手の人はどうなの」と聞くと、「手紙をくれたんだよ」と嬉しそうに言ったそうである。水口さんは、彼にそんな積極的なところがあったのかと驚くと共に、思いが報われてよかったと思わず手を握ったという。
 彼は胸のポケットからお守り袋を出すと、この中にしまってあるんだとその袋を示した。そしてまじめな顔になり、「もしぼくが武運つたなく死ぬようなことがあったら、必ず伝えてほしいんだ、肌身離さずこのお守り袋を持って死んで行ったと」。
 「何を言うんだ、二人とも必ず生きて帰ろう。しかしもし自分だけが生き残るようなことがあれば、必ず約束を果たしてやるぞ」と誓った。

 二人が別れ難くつきぬ話をしていた頃、日本の戦況は、ガダルカナル島の撤退、アッツ島の玉砕、米軍のマーシャル群島上陸、と日ごとに悪化し、トラック島は連日の空襲にさらされていた。そして七月にはサイパン島守備隊の玉砕、東条内閣総辞職と暗雲は空いっぱいに広がり、青空の一片も見えなくなっていたのである。
 若者二人の、心中再び会えないのではいかという危惧は不幸にも的中し、とうとう二度と会うことはなかった。
 この手、水口さんが先に近衛師団の工兵隊に入隊し、まもなく坂本さんは歩兵〇〇連隊に入隊したのだったが、すぐに北支へ向けて出発したことを人づてに聞いた。情報はそこで切れた。

 坂本さんの死

 あまり軍隊のことを話したがらない水口さんの話は敗戦後にとんだ。除隊になった水口さんは12月、坂本さんの実家を訪ねた。まだ坂本さんは帰ってはいなかった。

 その後、北支にいたその部隊が、シベリヤに送られたことを知り、母親は、戦死したのではないとほっとして、毎日帰りを待ちわびていた。

 死亡通知が来たのは、坂本さんが亡くなってから大分月日がたってからだった。水口さんが12月に坂本家を訪れた時、既に坂本さんは、この世にいなかったのである。シベリヤの地で、飢えと寒さに耐え、ひたすら帰国の日をのみ待ちわびた坂本さんは、遂に気力も体力もつき果て、栄養失調のため、異国の地に倒れたのだった。11月6日は、坂本順二さんの戦病死の日である。

 その後、一度訪ねた時の悲嘆にくれるお母さんの姿を見るのがつらく、長いこと御無沙汰したが、二年経って水口さんは再び坂本家を訪れた。

 「あの子は何のために生れてきたのでしょう、愛も知らずに死んでしまったのね」と言うお母さんに、水口さんは坂本さんと約束した言伝ての話をした。

 「どんな人、可愛らしい人?」「ああよかった、そんな人がいたの、じゃきっと楽しい想い出もあったのでしょうね」

 水口さんの話を黙ってじっと聞きながら、私の心に、言い難い怒りと悲しみが湧き上がってきた。私も一男一女の母親になっている。夢中で愛情のたけを傾けた子どもを、洋々とした前途を目前にして殺されることなど、許されることではない。

 やっと敗戦になり、大きな荷物を背に帰還してくる兵隊たちの姿を、坂本さんのお母さんは毎日どんな思いで見ていたことだろう。

 敗戦後三月も過ぎ、望郷の想いにかられながら、坂本さんはどんなにかくやしかったろう。すべてはこれからの人生なのに、死にたくなかったにちがいない。
  自分の心の中だけで恋に恋し、それを実らされる時間も与えられずに死んで行った人。
 学徒出陣で征き、神風特攻で散った人。
 みんなそうだった。如何に生きるべきかの自由を一切剝奪され、死を覚悟で戦場に赴いて帰らなかった人々に、誰が何と謝罪するというのか。平和は守らねばならない、この教えを後世に訴えていくべきは私たちだと肝に銘じている。

①Deutschドイツ語→Das Himeyuri-Friedensmuseum (jap. ひめゆり平和祈念資料館Himeyuri Peace Museum, Himeyuri Heiwakinen Shiryōkan)Musée de la Paix HimeyuriМузей мира Химэюри wurde am 23. Juni 1989 in Itoman auf Okinawa eröffnet. Die Gedenkstätte erinnert an das Schicksal des Himeyuri-Schülerinnentrupps. Während der Schlacht um Okinawa wurde eine Hilfstruppe gebildet, die aus 222 Schülerinnen und 18 Lehrern bestand. 134 Schülerinnen und Lehrer dieses Sanitätstrupps verloren bei den Kämpfen auf Okinawa ihr Leben.
 魂の安らぐことなく
 私は先日沖縄を訪れた。足が重く、何とも訪れ難い土地だった。ひめゆりの塔の前で、突然涙がすべり落ちた。まだ駄目だったと思った。戦争の犠牲者は、到る所にいた。私は日本のことにのみ目を向けて書いたが、振り返ってみれば、中国も朝鮮も東南アジアの人々も皆戦争の犠牲者である。沖縄の戦跡めぐりは、戦争中をくぐり抜け生きながらえた人の、命ある限り消えることのない痛みを改めて思い知らされた。

②Françaisフランス語→Les crimes de guerre japonais일본이 저지른 전쟁 범죄日本战争罪行Japanese war crimes sont les crimes de guerre qui ont été commis par les Japonais au cours de la période de l’impérialisme japonais, à partir de la fin du xixe siècle jusqu’en 1945, principalement durant la première partie de l'ère Shōwa. D’autres termes, tels que « holocauste asiatique » ou « atrocités de guerre japonaises », sont également utilisés pour désigner cette période.Военные преступления ЯпонииJapanische Kriegsverbrechen im Zweiten WeltkriegЯпонські воєнні злочини
 水口さんは私に、坂本さんとの約束を果してほっと肩の荷をおろした、と言った。しかし、今度は行き処のない何かずっしり重いものが、私の命の根底に深く沈澱していった。
 敗戦から既に43年、坂本さんの伝言を水口さんに聞いてからでも20年が、矢の如く流れ去った。年月の風化といい、去る者日々に疎しと人はいうが、死してなお、決して安らぐことはないであろう戦死者の魂魄は、生きている者の心をさまよい続けているのであろう。日頃は忘れていても、年に一度の同窓会に出席するたびに、私は鬼哭啾啾と坂本さんの声を聞くような気がするのである。
 今年もまた、「さくら会」が近づいている。多くの人々の尊い犠牲によって、やっと得られた平和の上に生きている私たちは「過去の大きなあやまちを二度と繰り返してはならない」「時代を再び逆行させてはならない」と、心あらたに思うのである。

①間引き(まびき、英: ThinningÉclaircie솎아내기DurchforstungПроріджуванняとは、元来は植物を栽培する際、苗を密植した状態から、少数の苗を残して残りを抜いてしまう作業のことである。転じて、増えすぎたとされるものを人為的に減らす意味で使われ、生まれた子供をすぐに殺すことに使われた例もある②子殺しinfanticidium(こごろし)영아 살해KindstötungДетоубийствоは、親が子を殺すことである。ヒトの場合、自分の子を殺すことに限定して使われることが多い (filicide) が、動物の場合のみは同種の子供を殺すことまで含める (infanticide) 。

*The Kumano Nada (Japanese: 熊野灘구마노나다) is a body of water belonging to North Pacific Ocean (Philippine Sea) located off the coast of Kumano Region of the Kii Peninsula located in central Japan.

                      渚の五十五年          川口祐二

                   かわぐちゆうじ 1932年生 三重県度会郡南勢町 地方公務員

 漁村の窮乏

 三重県の漁村の女房たちは、亭主との中に出来た〔子供〕を〔間引〕した廉で、一小隊ほども法廷に立たされた。(〔〕は伏字を起こした個所)

 この一文は、岩波文庫の一冊、『踏査報告:窮乏の農村 』の中にある。52年の生涯を、日本の農業研究に特別の情熱を傾けたといわれる猪俣津南雄が、全国にわたる踏査見聞の中で、三重県の一漁村の窮乏をこのような短文で報告したのは、1934年であった。

①Reconnaissance Report: A rural village in poverty - Iwanami Shoten(1982)

ーA report on a rural survey during the Showa Depression by the militant Marxist Inomata Tsunano (1889-1942). Through a field trip that spans two prefectures and 16 prefectures from Aomori to Okayama, Inomata's sharp pen reveals the depth and misery of farmers' poverty, the reality of rural economic rehabilitation movements, and the state of farmers' movements. A classic reportage that vividly depicts rural society during the Showa Depression. (Commentary Kiyoshi Oshima)

②Deutschドイツ語→Inomata Tsunao (japanisch 猪俣 津南雄; geboren 23. April 1889 in Niigata (Präfektur Niigata)新潟県出身; gestorben 19. Januar 1942 in Tokio) war ein japanischer marxistischer Wirtschaftswissenschaftler.

 この報告の内容は、私の生まれた小さな漁村のことである。1930,31年ごろ、熊野灘沿岸の農村の疲弊の深刻さは、言語に絶するものがあった。女房たちは、生まれ落ちた赤子を扼殺した。1931年一年間の出生児の半分が、それぞれの母の手によって殺された。子どもは名もつけられず海に流された。波はそれを沖へは運ばず、もう一度渚へ押し戻した。事件の発覚はこれによる。

 当時の漁村は窮乏を極めた。カツオ一本釣りを生業としていたが、流通機構がほとんどない孤立した漁村では、値も安く、満足な生計維持はむずかしかった。主婦たちは、猫の額のような段々畑でのサツマイモづくりのほか、わら草履、わらむしろづくりなどによる一銭二銭のわずかな副収入によって、家計を支えた。子ども一人増えることは、貧窮の上に貧窮を加える以外の何ものでもなかったのである。

 私は1932年6月生まれ、七人目の末子である。母は産むことを迷ったという。七番目の子が腹に宿ったと知ったとき、村を騒がせた事件は終息に近づきつつあったが、産むことに対する迷いは続いただろう。しかし、ある意味ではこの事件が、貧乏を承知で産むことを決意させたのかも知れない。法廷にだけは立ちたくない、と思ったからだ。それは私の母だけではなかった。以来、この事件は誰の口からも語られることなく、むしろ、口にするのを禁じられたかのように押しだまって、海の村の女房たちは、昭和の時代を生きてきたのである。ただ、村においては、1931年生まれの者が極端に少ないという事実だけを残した。

 一学年上の組が、他の学年に比べて半分ぐらいの人数しかいなことを不思議に思い、私は母にたずねたことがあった。その時の答えが、猪俣津南雄の報告と同じだったのである。老婆もそれに手を貸して、死産のように見せかけたという。

 「次ぎ次ぎと警察へ引っぱられて行ってな、そらすごい事件やった。」

 縫い物の手を動かしながら、母はこう言った。

 漁村に住む人びとは、おしなべて明るく気性はさっぱりしている、といわれるが、昭和時代六十余年の歳月の中には、このようなおぞましい、苦渋に満ちた歴史の一ページのあることを忘れてはならないだろう。以後、産めよ殖やせよの戦時思想のひろがる中で、女房たちは、白エプロンにたすき掛けの国防婦人会組織へと組み込まれていった。

*"Let's give birth and multiply産めよ殖やせよ" is a national policy slogan announced by the Eugenics Division of the Prevention Bureau of the Ministry of Health and Welfare of the Imperial Japanese Government. It also refers to a series of family planning movements.ナタリスト政策Natalism

 出征兵士を送る場に

 昭和一桁生まれの者にとって、自分の少年時代の思い出は、必ず戦争と重ならざるを得ない。戦争をぬきにしては語ることはできないのである。戦争末期の学童集団疎開こそ経験しなかったものの、地方暮らしにも、それなりの不安と暗さがただよっていた。


*Italianoイタリア語→Evacuazione di civili giapponesi durante la seconda guerra mondiale疎開Fra il 1943 ed il 1945, a causa delle incursioni aeree dell'aviazione americana (USAAF)Évacuations des civils au Japon pendant la Seconde Guerre mondiale in Giappone durante la seconda guerra mondiale, circa 8,5 milioni di civili giapponesi furono costretti a fuggire dalle proprie abitazioni. Queste evacuazioni iniziarono nel dicembre 1943 sotto forma volontaria in base ad un programma del governo per preparare le maggiori città ai bombardamenti, evacuando bambini, donne ed anziani nelle città rurali. Nel 1945, dopo che i bombardamenti americani iniziarono a devastare intere città, milioni di civili si aggiunsero a quelli già evacuati, fuggendo verso le campagne.

 尋常高等小学校から国民学校へと名前が変わり、担任の戦争は次ぎ次ぎと出征兵士として戦地へ赴いた。半年、いや短い場合は一学期だけで担任の先生が代わった。指折って名を挙げると、10人にも達する。

 まだ太平洋戦争に入る前であった。若い先生に私は放課後、特別に習字をさせられた。一時間ほど指を墨で染めるようにして字を書いたあと、浜辺の見える学校の前の小高い松林へいっしょに登って、歌をうたった。日本にはこんな歌があるぞ、と言って歌ってくれたのは、

 みぞれ、/北風/坊主山。山のうえから/ながめたら、ぼくの学校が見えました。

 お掃除番で/しめてきた、窓が小さく見えました。

 みぞれ/北風、/坊主山。あしたは/雪が降るでしょう。 

 という歌であった。学校が下に見えた。童謡を歌って聞かせてくれた先生は、ある日突然、兵士となって中国へ渡った。そして半年もたたぬうちに、戦死した。

 きのうまで教壇に立っていた先生が、次の日、赤たすきを肩から斜めに掛けて海を渡って行くことが多くなっていった。十年ほど前、嬰児の死体が流れついた浜辺に立って、村中の人びとが出征していく若い先生を見送った。日の丸の白い旗の波が、青い海の波と相対峙していつまでも続いた。その間を船は進む。先生は船上で何度も頭をさげた。子どもたちはそのたびに大声でばんざいと叫んだ。浜辺を区切る岩山が海に突き出ていて、そこには大きな穴が開いていた。海蝕洞といわれる穴である。その穴の向うに遠ざかる船が見える。一瞬の船影に最後の喚声をあげたのである。


 いつの間にか、渚は出征兵士を見送る場所となった。白いエプロン姿の母親たちも大勢並んだ。彼女たちは、足元の渚の悲劇を思いおこすこともなく、戦争への協力体制の一員となっていった。
 漁村の母親たちは、ヒジキやヒロメを刈り、フノリを摘んだ。夏にはアラメを浜に干し、テングサをこも袋に入れるのに足で踏んで固めた。それらの暇には、慰問袋づくりをした。節約するにも物資はなかったけれど、芋飴などを貯めておいては袋に入れた。慰問袋の提供は、県が村で組織している国防婦人会の支部へ命令した形であった。1940年において、一村で100袋から150袋の強制割当があり、当時の記録を見ると、慰問袋とともに、金円の寄付(一袋に一円)を要求している。
*Españolスペイン語→La bolsa de confort (慰問袋Comfort bag, imon-bukuro)Trostbeutel, Aufmunterungsbeutel fue un paquete con regalos preparado por civiles para enviarlo a los soldados militares japoneses imperiales con el fin de alentarlos. La bolsa contenía artículos de confort (慰問品, imon-hin) no emitidos por los militares japoneses, como artículos de tocador, frutas secas, alimentos enlatados y cartas de aliento. Las bolsas fueron preparadas por colegialas o sociedades patrióticas locales.
 子どもたちは食べたい飴をがまんして食べずに残し、芋の餅(サツマイモを蒸して餅状にしたのを干し固めたもので、当時のおやつとしては最高のものであった)を添えて作った慰問袋を学校に提出した。ある日、その袋がからになっているのを職員室で見つけた。先生が空腹をいやすために中のものを食べてしまったのを後で知ったが、食いもののうらみでか、その時は一日中腹が立って仕方がなかったのを、今でも思い出す。

 兵士の駐留
 渚の果てに熊野灘に突き出た岬があり、そこに軍隊の監視哨ができた。そのころすでに村には兵隊があふれ、校舎の半分は彼等の宿舎となった。浜は訓練の場に変わった。主婦たちは兵士たちの世話にかり出された。兵士の中に板前がいて、魚の料理を教わるという余禄もあったが、すべて強制された奉仕作業であった。校舎の間の中庭で、定量網にかかったアンコウをさばくのを、大勢の主婦たちが見物していたのを記憶している。魚は俎板の上でという小学生の常識を破って、アンコウはだらりと棒につりさげられていた。
 風呂のある家では、湯をわかして兵士たちに提供するのが日課となっていった。私の家にはいつも三人の兵士がやって来た。山林など一坪も持たなかったから、風呂の燃料は浜辺に打ち寄せられる木切れが主で、時を惜しむようにして大人に混ってそれらを拾うのを手伝い、荷車を押した。
 監視哨への水運びが登校までの仕事であった。これは姉との共同作業で、いつとはなしに兵隊さんよありがとうという気持が生まれていた。夜が明けるまでに岬までの山道を登る。朝の渚を二人は空の桶を持ってゆき、山道にかかる所の井戸で水を汲んだ。桶一杯の水は小学生の肩に食い込むように感じられた。つづら折れの山道に咲きこぼれるヤブツバキの赤い花を摘みながら、途中で何度も休み休みし、爪先きあがりのような足どりで登った。両手は担い線を支えるようにし、肩の荷が少しでも軽く感じられるような手つきで、山道を急いだのであった。
 戦争がはげしくなってからは、毎月八日は宮参りをした。通学団を組織して、これも早朝の神社参拝である。冬の朝などは、凍てつくような崖の道を、子どもの一団が駆け抜けて行く。タコを竿の先につけて泳がせて、岩穴にかくれているイセエビをおびき出し、タモ網ですくいあげるという珍しい漁法がある。秋から冬にかけてがその漁の解禁で、漁師は何匹かのタコを飼う。タコ同士の共食いによって、足が食いちぎられて頭だけになってしまった使いものにならないタコが、海に捨てられた。頭だけのタコが渚に寄って来てへばりついているのを、宮参りの帰り道、よく拾った。足のないタコでも、欠乏の時代、一回の食事のおかずの足しにはなった。
 渚には、昔から漁業活動を営む過程においてさまざまなものが捨てられたが、そこは、捨てる以上に、種々雑多なものを拾う場所でもあった。大は柱になるような流木から、小は貝殻にいたるまで、有用無用のものが流れ着いた。九月の大しけの時には、流れ藻に抱かれるようにしてヤシの実も漂流した。春先きには、ホンダワラやヒロメが主婦たちをよろこばせた。ホンダワラは畑の肥料として大変貴重だったし、ヒロメはワカメ以上に風味のある春の季節の恵みであった。
 渚での拾いもので忘れられないのは、津波のあとのミカンである。1944年12月7日の南海大地震のとき、大津波があった。三度の大波が熊野灘の沖から、それこそ海を持ちあげるようにして、湾奥めがけて押し寄せてきた。私たちは教室を飛び出して、海が一望できる城跡の松林に集まったが、生まれて始めて見る津波のこわさに、口もきけなかったほどである。

*The 1944 Tōnankai earthquake쇼와 도난카이 지진昭和東南海地震Terremoto de Tōnankai de 1944Séisme de 1944 à Tōnankai occurred at 13:35 local time (04:35 UTC) on 7 December. It had an estimated magnitude of 8.1 on the moment magnitude scale (making it the strongest known earthquake of 1944) and a maximum felt intensity of greater than 5 Shindo (about VIII (Severe) on the Mercalli intensity scale). It triggered a large tsunami that caused serious damage along the coast of Wakayama Prefecture and the Tōkai region. Together, the earthquake and tsunami caused 3,358 casualties.
 湾奥に押し寄せた波は、倉庫に山積みされていたミカンの山を一気に吞み込んで海中に持ち去った。翌日、それが湾口の浜辺に打ち寄せられたのだった。黄金の玉が無数に渚に流れ着いている光景を忘れないでいるが、何とも異様な感じであった。漁村の人びとは、先を争ってそれを拾った。渚には、人に捨てられた赤子から、波がさらったミカンの粒まで、さまざまなものが集まってきた。渚は、人間の生きる証しとしての舞台でもあったといえよう。
 村人たちが黄金の玉を拾った浜辺は、そのあとも兵士たちの訓練の場であった。そして次には、婦人たちの軍事教練の場ともなった。45歳未満の若い主婦たちがPole weaponなぎなたNaginataなどの教練を受けた。運動場の時もあったが、砂浜は足腰を鍛えるといって、浜辺がよく使われた。主婦たちは海を背にしてなぎなたを持たされた。郡大会なども催され、その時の講評は、「優良であり、郡内屈指の成績」と書き留められている。記録は一枚の紙片に過ぎないが、記録の行間からは、当時の緊迫した世情を読み取ることができるし、わら草履にモンペ姿といういでたちで、浜辺へと急な坂道を走っていく主婦の一団を、しばしば目にしたものである。
*Русскийロシア語→Монпе (もんぺ/モンペ) иначе называется моппе или момпей, а по-корейски ильбаджи (см. Баджи)Monpe일바지 — это общий термин, используемый для обозначения традиционного стиля свободных сельскохозяйственных рабочих брюк в Японии.

 戦時下の生活
 敗戦の年の1945年の春、私は中学生となって、村を出、学校のある市内に下宿した。毎月三升の米を下宿に出す約束があって、それは母が運んでくれた。浜辺に出来た小さな桟橋から舟で海上を40分、そこからバス、電車、汽車と乗りついで持って来てくれた。
 その年の7月末、私は下宿で被災した。女学校の姉といっしょだった。市街の半分を焼き尽すという空襲であった。教科書の包み一つを抱えて、私たちは街はずれの森の繁みのそばでおびえながら一夜を明かした。駅前に三階建の旅館が軒を連ねていたが、旅館の棟木が火柱となって天を焦がし、バーンという爆発音を残して崩れ落ちていく光景は、地獄絵のように子どもの脳裏に焼きついたのである。今にも背中に火の玉が落ちてくるような恐怖であった。焼け出された翌日は、二人とも一日中水を飲むだけで、油照りの道を歩いて家路を急いだ。重い足を引きずるようにして、湾奥の町の知人の家へたどり着いた時は、すでに夏の日もとっぷりと暮れていた。

 残り飯のご馳走にありついたあと、一休みの仮眠をとった。しばらくして夢うつつの中で肩をゆり動かされたが、それこそまる一日眠ったように感じられた。舟が迎えに来ていた。真夜中を、少年たちを乗せた一隻の小舟が海をすべって行く。闇夜をはばかるように、静かに櫓を漕いだ。櫓がつくる小さな水のざわめきの中に光る夜光虫でも敵機はわかると、当時の漁村の人たちは信じていたのである。
 一時間あまりかけて漕いだあと、舟は村の渚へ突っ込むようにして止まった。波打ちぎわで父が待っていてくれた。打ち返す波の中で、夜光虫だけが美しい光を発しては消えた。
 米運びは、戦後もしばらく続く。ないないづくしの暮らしの中で、辛酸をなめつくしたのが当時の母親たちであった。田畑のない家にとっては、米の調達が何よりの苦労ではなかったかと思われる。
 母は毎晩縫い物の賃仕事をして、闇米を得るための足しにした。指にはめた指輪ーこれは縫針の頭を当てる幅のひろい金の指輪だがーに針が当たってついに穴があいた。このことは、病んで床にあったとき、宙に両手をあげて細い指を見つめながら、母が私に告げたことである。

*Српски / srpskiセルビア語→Капитулација Јапана日本の降伏 у Другом светском рату је објављена 15. августа 1945. године, обраћањем цара Хирохита народу, и званично потписана 2. септембра 1945. године, чиме су ратна непријатељства окончана.Kapitulation Japans日本投降Surrender of Japan일본의 항복Capitulation du JaponКапитуляция Японии
 戦後の渚
 戦後の渚は、真珠漁業で生き返った。そこは村に富をもたらす場所となった。わが子を戦争に送るかわりに、遠洋漁場へ送り出す時代の到来であった。漁携技術の発達によって、村は日本有数の遠洋漁業の基地として成長していった。
 婦人たちも新しい活動を始めた。婦人会の結成であり、漁協婦人部の誕生である。かつて生活苦によって子をしめて殺して捨てた渚、時には出征兵士を見送った浜辺は、いつの間に遠洋漁業の出船入船で賑わう場所へと変貌していく。悲劇の浜辺は、日の丸の小旗から、色とりどりの大漁旗が打ち振られる場所へと変わっていったのである。
 戦後の一時代、熊野の海は青く澄んでいた。海は村人に幸をもたらし、窮乏の時代は去った。各個々は、真珠養殖においても、遠洋漁業においても上り坂の好景気が続いた。しかし、好景気は生産過剰と環境汚染という社会現象を生み出し、ついに海を殺すに至る。

 海の汚染
 渚は、赤潮の押し寄せる場所となった。真珠養殖に代わった魚類養殖の漁業活動によるいわゆる自家汚染と、生活の高度化による雑排水の流入によって、海の様相は一変した。赤潮によっておびただしい死魚が渚に打ち寄せられたり、酸素欠乏によって、ワタリガニが一斉に浜辺へはいあがる光景が、日常茶飯の現象となった。この光景を見て、主婦たちは立ちあがる。頻発する赤潮を目前にして、その防止策に団結したのは、1973年早々であった。

*赤潮(あかしお)A harmful algal bloom (HAB)유해조류, or excessive algae growthとは、海水が赤褐色になる現象。プランクトンの異常増殖により、海などの水域の水が変色する現象である。水が赤く染まることが多いため「赤潮」と呼ばれるが、水の色は原因となるプランクトンの色素によって異なり、オレンジ色、赤色、赤褐色、茶褐色などを呈する。赤潮を引き起こす生物は、色素としてクロロフィルの他に種々のカロテノイドを持つ場合が多く、細胞がオレンジ色や赤色を呈する為にこう見える。
 赤潮のために、腹を見せて浮きあがった小魚の群れが、渚に青白い線を描いてどこまでも続く。呆然と立ちすくむ漁民。その中に私もいた。真珠養殖業を営む漁師がポツリと言った。
 「これは最近はやりの洗剤の影響と違うやろか。あの泡は陸上からのものとしか考えられませんな。」
 トリポリリン酸塩Sodium Tripolyphosphateを含んだ合成洗剤Laundry detergentが多量に使われはじめたころであった。われわれの、「合成洗剤から粉石けんへFrom synthetic detergent to powdered soap」という住民運動は、一漁師の渚でのつぶやきから始まったのである。この言葉は、海とともに生きてきた人の直感から発したものといえよう。
 毎晩、映画会や座談会を催した。今夜八時から、公民館で赤潮対策の話がありますから、多数ご出席下さい、という有線放送から流れるマイクの声を聞きながら、私は映写機をかついで坂道を下った。公民館のない地区では、お寺の本堂が会場となった。私は木魚の横にすわって、夜遅くまで主婦たちと話しあった。渚が幾多の歴史を呑み込んだ浦浜において、漁村婦人の新しい運動が始まったのである。それ以後、七年の歳月、主婦たちはこの運動に没頭する。
 今ではややもすると内にこもりがちであった漁村の主婦が、団結して社会の中に飛び出し、住民運動のさきがけをつくった。それは、赤潮発生の原因になる合成洗剤をやめ各家庭で粉石けんを使おうという運動の嚆矢であった。私もリーダーとしてつねに主婦たちと同体であった。ふるさとの海を守ることが、ふるさとへの恩返しであると考えたからである。
 そこに立つ主婦たちは、50年前の打ちひしがれた女房たちではなかった。この運動は、町内すべての主婦たちを目ざめさせ、自分の住む地域の環境へ眼を注ぐという基本的な習慣を身につけさせた。彼女たちの運動は、のちに日本の各地に澎湃として起こった類似の運動のさきがけとなったものであり、全国の婦人たちに、漁村に生きる主婦の団結の力と、ひろがりの大きさを示すものであった。これは漁村の昭和史の中の輝かしい一こまであるし、私個人にとっても、心の中に残る最大の財産となった。
 渚の消滅
 しかし時を惜しんでの普及運動にもかかわらず、赤潮発生は恒常化し、毎年、褐色の海が出現するようになった。魚が浮き、貝が口を開いて死ぬ。赤潮発生の原因であるプランクトンの種類も年々異なったものが現われる。一度出たら長いときなど二ヵ月も居すわるような海となった。赤潮発生は多様化し、長期化の現象が続く。漁村の主婦たちの、海を殺すなという七年間の運動も、急激な社会の動きには勝てず、粉石けんは次第に忘れ去られていき、漁村の渚からの叫び声は消えた。それとともに、渚自身が堅固なコンクリートの岸壁に変った。昭和時代の漁村の象徴ともいうべき浜辺は、漁港という新しい生産基盤として、すべてを呑み込んでいる。
 地域開発が進む中で、漁村の姿は急変している。昔の泣き笑いを詰め込んだ渚は漁港として生まれ変わり、新時代の拠点となりつつある。港づくりは急ピッチで進む。どんな僻地の漁村でも、今は、都会と変わらぬ日々の暮らしであり、ましてや、一小隊ほどもの女たちが法廷に立たされたころの貧しさなどどこにもない。
 私の昭和史ともいうべき渚は消滅した。自分の成長とともにあった自然の渚はついえ去り、海は四季を通じて褐色に濁る。地域開発は便利さと地域の繁栄を短期間のうちに実現させた。けれど、それは、青い海という自然の大事なものを代償としてである。失ったもののいかに大きいかを知る人は少ない。漁村は、豊かな自然を基盤にしてこそ成り立っていくものではないのか。
 私は開発すべてを悪いとは思わない。ある意味では、それは人間がよりよい社会をつくりあげるための手段ともいえるであろう。ただ心配することは、地域開発は往々にして、取返しのつかぬ破壊を伴うということだ。今までにたくさんの例があり、今後もそれがないという保証はどこにもない。
 自然をよりよく保つ上での渚の果たす役割と、漁港が産み出す経済効果とを同一の秤で比べるのは不可能なことかも知れない。しかし、私たちは、ただ経済成長を追うことだけに急で、渚の生命や波のささやきに耳を貸さずにいた。苦い体験が山ほどあるのに、長い歴史を背負った浜辺のつぶやきを、人は聞こうともしない。これからの漁村は、まず青い海を取り戻すことから再出発しなければならないだろう。港をつくりあげたエネルギーを、こんどは海をよみがえらせるために使うべきだ。そこから、新しい渚の歴史が始まる。

①성노예(性奴隸, 영어: sexual slavery)Сексуальное рабствоEsclavage sexuel性奴隸簡稱性奴Niewolnictwo seksualneСексуальне рабствоEsclavitud sexual안부(일본어: いあんふ/慰安婦 이안후)Comfort womenЖенщины для утешения는 제2차 세계대전 동안 일본군의 성적 욕구를 해소하기 위한 목적으로 강제적이거나 집단적, 일본군의 기만에 의해 징용 또는 인신매매범, 매춘업자 등에게 납치, 매수 등 다양한 방법으로 일본군을 대상으로 성적인 행위를 강요받은 여성을 말한다. 일본에서는 종군 위안부(일본어: じゅうぐんいあんふ/從軍慰安婦 주군이안후)Trostfrauen라고도 일컫는다. 위안부가 되는 방법으로는 징용 또는 납치, 매매 등 다양한 방법이 존재하였다.Femmes de réconfort慰安妇Mujeres de consueloЖінки для втіхи

                     鮮烈な記憶        酒井興郎
                         さかいともお 1922年生 福井市 獣医師
 私の昭和史で最大の事件は、中国での15年戦争への直接参加である。当時、私は22歳。昭和18年9月繰上げ卒業の学徒兵だった。
 敗戦直後、戦争体験というのはあまりにもショッキングな二つの出来事に出合ったが、それは今も鮮烈である。このことを「私の昭和史」として報告したい。 
 1 「わしらに帰る祖国があるか!」
 朝鮮人慰安婦の怒り
 独立山砲第五連隊。これは敗戦間近かに転属になった、私の部隊である。この連隊は第20軍の直属部隊であったが、どうしたわけか連隊主力(連隊本部・第二大隊・第三大隊)は第11軍隷属下の第58師団に配属されていた。
①Русскийロシア語→20-я армия (яп. 第20軍) Japanese 20th Army 桜兵団— воинское подразделение японской Императорской армии, действовавшее во время Второй мировой войны②Deutschドイツ語→Die 58. Division (jap. 第58師団, Dai-58 Shidan)58th Division (Imperial Japanese Army) war eine Division des Kaiserlich Japanischen Heeres, die 1942 aufgestellt und 1945 aufgelöst wurde. Ihr Tsūshōgō-Code (militärischer Tarnname) war Breite-Division (広兵団, Hiro-heidan) oder Hiro 2305.
 当時、第58師団は広西省・湖南省から揚子江流域に撤退する軍の殿兵団として、追尾してくる米式装備の中国軍の精鋭と広西省で死闘の真最中だった。私は転属申告の第一夜から第三大隊付の獣医官として、この苦難の戦いに参加した。
 そして敗戦。第58師団が「九江」周辺の農村に分宿を完了したのは、昭和20年10月の初旬であった。或る日の午後のことである。一人の朝鮮人元従軍慰安婦が私たちの将校宿舎にどなり込んできた。元慰安婦の言葉はひどく乱暴であり、その態度はひどく横柄だった。そして言うのである。
 「お前ら、日本の将校よ、お前らの国日本は戦争に敗れて四等国だ。そして、朝鮮が一等国だ。もうわしらは、お前らの自由にはならんぞ!」と。

 元慰安婦のひどく横柄な態度とひどく乱暴な言葉には、積年のうっ憤を一気に吐きだす気迫があった。だが、私たちはだまって聞いているだけで、なすすべがなかった。この時、「オイ!酒井少尉。お客さんに酒をお注ぎしてくれ!」と、大隊副官が私にいった。私はいわれた通り茶碗に水筒の酒をなみなみと注いで、女に渡した。女はこれを一気に飲み干して、お代りを催促した。大隊副官は「酒ならまだあるぞ!どんどん注いでくれ!」と重ねて私に指示した。私はいわれた通りにした。女はガブガブとうまそうに飲んでいた。そしてまた。口説き始めた。
 「お前らは戦争に敗れたが、それでも、お前らには帰る国日本がある。それにくらべ、朝鮮は一等国になったというが、わしらのような女に帰れる国がいったいどこにあるのか?」
 酒を一気飲みしながら女の口説きには、最初のすごみはだんだんとなくなっていた。そして酔いも大分廻ってきたようである。
 「エエッ!お前ら!わしらをこんな体にしたのは、いったい誰なんだ!こんな体でどうして祖国へ帰れるかよ!エエッ!お前ら!いったいこれをどうしてくれるんだ!」と、女はかき口説くのである。女といえば肉親以外全く知らない私には、女の年齢などわかろうはずがない。女の皮膚はひどく荒れているし、髪の毛もバサバサしている。まだ年も若いのであろうが、女には若さというものが全く感じられない。
 「わしはお前らの顔は全然知らん。どこの部隊や。きっと、奥地から逃げてきたんやろ!あぁ!わしはどうしよう!どうしよう!」と、遂に女は声をあげて泣きだした。

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