日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

自称「無敵皇軍」の実態(無責任体系)The Japanese Imperial Army→玉砕・散華・アッツ島の真実・置き去り部隊・犬死・全滅

67年前、日本とアメリカの間で激闘が繰り広げられた地,、アッツ島。アリューシャン列島の西部にある絶海の孤島である。日本軍アッツ島守備隊2600人は全滅。太平洋戦争中始めて、玉砕と発表された。守備隊の死はどのように引き起こされ、利用されたのか。これまで、明らかにされてこなかった玉砕の真実に迫る。
 アッツ島の玉砕以降、戦死者の数は急速に増え、二百数十万人の日本人が命を失っていく。 
                                ■アッツ島とは?戦いの実態と生還者の思い
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/attu_gyokusai/attu_gyokusai.htm
 アリューシャン列島 ・
アッツ島の山・アメリカ軍アッツ島に上陸・アッツ島守備隊玉砕・アメリカ兵が立てた墓標 生きて虜囚の辱めを受けず
■アッツ島とは?戦いの実態と生還者の思い
 アッツ島は、アンカレッジから2400km、沿岸警備隊が管轄する立ち入り禁止の島である。今回取材班は、アメリカ政府と交渉の末、ロシアとの国境に近いこの島に特別に入ることが許された。島の広さは日本の佐渡島ほど。一年中悪天候が続き、風速80mの暴風が吹き荒れることもある。島の北東部にあるチチャゴフ湾、日本軍アッツ島守備隊の本部が最期に置かれた場所である。当時この付近は、日本兵の死傷者で溢れていたという。
開戦当初、勢いに乗り占領地を拡大していた日本。昭和17年6月、アメリカ領のアッツ島、キスカ島を占領した。守備隊の主な任務は、アメリカ軍の侵攻を防ぐため、飛行場を建設することだった。しかし、アメリカ軍の軍艦や爆撃機によって補給は阻まれた。守備隊2638人は孤立していく。日本軍の占領から1年経った昭和18年5月12日、アメリカ軍がアッツ等に上陸。守備隊の4倍、1万人あまりの大兵力が押し寄せてきた。


昭和18年5月29日深夜、生き残っていた100人あまりの日本兵が、谷に沿って突撃したとされている。地面には、アメリカ軍の激しい銃撃を物語る薬きょうが、今も残っていた。谷の行き止まりにあるエンジニアヒル、日本の守備隊長がここで命を落とし、戦争が終了したといわれている。アメリカ兵が立てたという墓標が、激戦の痕跡をわずかに残していた。守備隊の最期を目撃した元アメリカ兵が、今日の取材で見つかった。アラン・セロルさん(94歳)である。日本兵は殆ど武器も持たず、叫びながら向かってきたという。「あれは、バンザイと叫びながら自殺のための突撃でした。日本兵は爆発物を巻きつけて、死のうとしていました。私たちを殺しに来ると同時に、死にに来たんです」と。戦後まもなく政府がまとめたアッツ戦没者名簿の最期のページに、生還者に関する記録があった。実は27人が瀕死の重症を負うなどしてアメリカ軍の捕虜になり、戦後日本に帰国していたのである。兵士たちはどのような思いで戦い、最後の突撃を行ったのか。わずかな情報をたどり、漸く元兵士に会うことができた。
 加藤重男さん(89歳):
 加藤さんは、アッツ島の海岸で任務についていたとき、アメリカ軍の上陸に遭遇、胸と指を撃たれて重傷を負い捕虜となった。「アメリカ軍が上陸したって抵抗も何もできないよ。弾薬もない、食べるものもない、何もない。玉砕するしかなかったよ」。
 佐々木一郎さん(89歳):
アメリカ軍上陸から数日間守備隊は激しく抵抗したが、空襲や艦砲射撃で仲間は次々と戦死していった。「旗色が悪いのは、始めから目に見えてるんだもの。本当に希望も何もない戦争だったからね」。
 高橋富松さん(89歳):
 自決するか、突撃して戦死するかを選べと上官に告げられた。「軍隊の規則だから、戦陣訓にあるように死ぬしかないですよ。突撃と言ったって、敵の鉄砲玉の方が速いもの。それはどうかしてるのさ」。


アッツ島で戦死した兵士が持っていた軍隊手帳には、”生きて虜囚の辱めを受けず”と。降伏した捕虜になることは、兵士の心得を記した戦陣訓によって堅く禁じられていた。武器もなく降伏も許されず、死ぬしかなかった兵士たち。玉砕とは、死ぬことが目的となった戦い方だった。玉砕は何故起きたのか。
■アッツ島守備隊長と、見捨てた大本営とのやり取り
戦時中、798万人の軍人、軍属を動かしていた大本営。政府からも独立した天皇直属の最高統帥機関として、絶大な権力を握っていた。長野修身海軍大将、杉山元陸軍大将を中心に、エリート参謀がすべての作戦計画を立案していた。アッツ島守備隊の全滅を玉砕と発表したのが大本営である。「アッツ島守備隊のわが部隊は、ついにことごとく玉砕しました。山崎部隊長は、ただの一度も兵の増援を要求したことがないし、また一発の弾薬の補給をも願ってまいりません」と。
しかし実際には、緊迫したやり取りが行われていた。アッツ島守備隊長山崎大佐は、アメリカ軍上陸直後から厳しい戦況を伝えていた。「敵は、全面に渡り上陸をねらっているものと思われる。その兵力は一個師団をくだらないであろう。敵飛行機、間断なく執拗にわが上空に飛来、かつ銃撃を加えていく」。大本営は直ちに電報を送った。その時の記録が防衛省に残っている。「大本営は、アッツ島を確保し敵の狙いを打ち砕くため、あらゆる方途を講じているところである。緊急必要とする兵力、軍需品を至急報告ありたし。」と。大本営は、アメリカ軍を撃退するための必要な兵力を送ると伝えていた。電報を受け山崎大佐は、すぐさま増員兵力と物資を要請していた。歩兵一個大隊半およそ1500人、機関銃、手榴弾、高射砲の弾薬といった武器。さらに底を付きかけていた食料も求めていた。しかし大本営は、隣のキスカ島からの撤収はするものの、アッツ島守備隊を見捨てる事を決定、援軍も補給も送らなかった。守備隊からは何の要求もなかったと、大本営は偽りの発表をしていたのである。さらに大本営は、アッツ島守備隊が名誉を重んじ、自ら玉砕を決断したと強調していた。「山崎部隊長は、状況の推移を達観し、最期の決心をいたしました。それは敵に大鉄槌を下し、皇軍の真髄を発揮せんというのであります。」と。しかし守備隊には、事実上の玉砕命令が出ていたことがわかった。防衛省に保管されていたアリューシャン作戦記録。この中に守備隊に届いた電文の内容が記されていた。「最後にいたらば潔く玉砕し、皇国軍人精神の成果を発揮することを望む」と。玉砕命令を受けたアッツ守備隊長は、怪我を負い歩けない兵には自決が命じた。昭和18年5月29日、守備隊は最期の突撃を敢行し全滅したのである。大本営は、これに対し全滅の責任を逃れるため、守備隊自ら玉砕したと発表したのだった。「ことごとく玉砕した。アッツ島は皇軍の真髄発揮の聖地として、永遠に悠久に歴史の上に記されることになったのであります」と。 大本営が玉砕という言葉で部隊の全滅を公表したのは、アッツ島が最初だった。しかし大規模な命の切捨ては、それ以前から行われていた事が今回明らかになった。


■ブナ島全滅と大本営の冷徹な論理
 
日本から5000km、パプアニューギニア南東部に位置してブナがある。ブナの戦いを記録した映像があった。撮影されたのはアッツ島玉砕の半年前。多くの日本兵の遺体が映し出されている。記録によれば、昭和18年1月2日、ブナに駐屯していた守備隊が突撃の上全滅。2000人あまりが犠牲になったと見られている。


日本軍がブナに上陸したのは昭和17年7月、日本が戦争を優位に進めていた時期だった。しかしアメリカとオーストラリアの反撃に会い、4ヵ月後にには追い詰められていった。同じ頃、ソロモン諸島のガダルカナル島でも、日本とアメリカの激戦が展開されていた。現地の司令部は、兵士や弾薬を前線に送るさい、速度の速い駆逐艦を使っていた。しかしその多くが撃沈され、12月上旬には駆逐艦輸送は打ち切られることになった。孤立したブナ守備隊は一方的な攻撃にさらされることになる。大本営海軍部作戦課長富岡大佐は、昭和45年亡くなる前に大本営の冷徹な論理を明らかにしていた。「あの軍は敗残兵である。これに駆逐艦や潜水艦で米を運んでいたのでは、日本海軍の戦力は無くなってしまうぞ。上司も捨てろというのです。敗残兵になったら死んでしまえというのは、当たり前じゃないか」と。大本営の参謀は、戦争継続を優先し、前線の兵士の命は顧みなかった。上陸から半年後の昭和18年1月2日、この時までに10数人になっていたブナ守備隊は、最期の突撃を敢行、2000人あまりの部隊は全滅した。大本営はこれを隠し、偽りの発表まで行っていた。「ニューギニアのブナ付近に挺身せる部隊は、寡兵よく敵の執拗な反撃を撃退しつつありしが、その任務を終了せしにより、1月下旬陣地を撤し、他に転進せしめられたり」と。ブナ守備他の全滅は、大本営によって封印された。しかし戦況は、もはや隠しきれないほど悪化していた。ブナから奇跡的に生還した阿部喜一さん(92歳)。守備隊本部と連絡が取れなくなり、深夜に海を泳いで脱出したが、足に重傷を負い病院に送られた。「憲兵が、生き残った者にはうるさかったよ。戦争に負けて戻ってきたと言ってはいかん」と。
ブナから脱出後栄養失調で倒れ入院していた山下信幸さん(89歳)「ニューギニアとガダルカナル島の兵隊が入院していたが、それぞれ別の病棟で、絶対他の者とはしゃべらせんようになっていた」と。
ブナ守備隊全滅の半年前、中部太平洋では、空母4隻を失う大敗北を喫していた。これ以降、太平洋での日本の優勢は崩れていった。


■全滅を覆い隠す美名の陰に
 アッツ島守備隊の全滅後、大本営は方針を転換し、それまで隠してきた兵士の死を始めて玉砕という言葉で発表したのである。「アッツ島守備隊のわが部隊は、遂にことごとく玉砕しました。生きて虜囚の辱めを受けず、あの戦陣訓をそのまま実践したものであります。後に続くものを信じ、心残りなく笑って、悠久の大義に就いたのであります」と。陸軍の幹部が記していた内部資料「アッツ島報道方針」:
「戦意の高揚を図り、戦陣訓を一般に理解させる。山崎大佐はもとより、全将兵の勇戦をたたえ、統率に疑惑を抱かせないようにする」と。
軍の主催で大々的に行われた、アッツ島守備隊の慰霊祭。玉砕した将兵たちは、軍神として祭られた。その遺骨箱には、ただの砂が入っていたという。その後、太平洋の戦場で部隊の全滅が次々と起こり、玉砕と発表されていった。隠蔽されていたニューギニア・ブナの守備隊の全滅も、玉砕とされ賛美された。戦局が絶望的になっても、大本営はさらに玉砕をあおりたて、一般市民をも死に巻き込んでいった。さきの戦争で亡くなった日本人は310万人。この中二百数十万人はアッツ島玉砕以降の死者である。アッツ島の戦闘から奇跡的に生還した人達は、67年経った今も、戦友とともに玉砕できず生きて帰ったことに苦しんでいる。「戦陣訓どおりに立派に死ねればいいさ。どうして俺は生きてきたんだろうと何時も思うんです」。「生きて虜囚の恥をかいているんだから」。「私が考えるに、運が悪かったから生きて帰ったということです」と。


事実を覆い隠す美名として使われた言葉「玉砕」。その裏には、残された者の筆舌に尽くしがたい苦しみがあった。そして、失われたおびただしい数の命。戦後65年兵士たちの遺骨は、祖国から遠く離れたアッツ島に今も残されたままである。
HP作成者所感:
 アッツ島玉砕のニュースは、子供心にも記憶がある。何のために、あの北の小さな島に軍隊が行ったのかと思ったものだ。重傷などで戦後何とか生還した元兵士によれば、当時、機関銃や高射砲などの弾薬も食料もなく、アメリカ軍の上陸にも抵抗できる状態ではなかった。自決か突撃による死しかなかったという。
  しかも実態は、大本営がアッツ島の弾薬等の補給要求を知りながら、補給をあきらめ、潔く玉砕せよと命令したとは全くの驚きである。そして美辞麗句で、玉砕を褒め上げて発表しているとは…。
  やはり大本営が、天皇直属の機関として絶大な権力を握っていたことに基本的な問題があったと思う。現在のシビリアン・コントロール体制(文民統制)が、将来とも永く継続されていくことを祈るのみである。


皇軍における責任


佐藤清文

Seibun Satow


2010年8月22日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


http://eritokyo.jp/independent/sato-col0318.html

「そして八月十五日、こんなときにはどんな顔をしたらよいのやら、と考えながら放送を聞いた」。

森毅『戦争の終わるまで』

1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島の日本軍守備隊2500名は、アメリカ軍の猛攻の前に、27名を除いて全滅する。司令官の山崎保代大佐は再三大本営に補給と援軍の要請を打電したけれども、それに応えず、守備隊を見捨てている。『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱を受けず」を信じ、司令官が戦死した後も、投降をせず、兵士たちは戦闘を続けている。大本営は自分たちの責任を不問にしたまま、しかも山崎大佐は何も求めなかったと事実を歪曲し、この惨劇を美談に仕立て上げ、「玉砕」という戦意高揚のプロパガンダに利用する。以後、太平洋の各地で玉砕が頻発していく。丸山眞男が『軍国指導者の精神形態』の中で戦争指導者を「権限への逃避」と「既成事実への屈服」と批判したことはよく知られている。日本軍の責任を考える際、丸山以上に非常に示唆に富む指摘をしているのが大西巨人である。彼は、自らの軍隊体験をモデルにした小説『神聖喜劇』において、日本軍では責任が上に及ばないようにしていると明らかにしている。
主人公東堂を含む新兵が朝の呼集に遅刻する。上官は彼らを叱責したが、東堂は呼集の時間を知らなかったと弁明する。上官は、それに対して、「わが国の軍隊に『知りません』があらせられるか。『忘れました』だよ」と言い返す。けれども、東堂は実際に聞いていなかったので、「忘れました」と口にすれば、この場は収まると感じながらも、そうしたら自分を許すことができないとして、「知りません」と続ける。東堂は、軍隊内で「知りません」が許されず、「忘れました」が強要される理由について次のように考える。部下が「知りません」と言うことが許されるとする。その場合、上官にはそれを教えなかったという責任が生じる。一方、「忘れました」であれば、問われるのは部下の方であって、上官に責任はない。下の者だけが責任を負い、上の者が逃れる。この図式を転倒してその先を突き詰めていくと、「唯一者天皇」に辿り着く。「この最上級者天皇には下級者だけが存在して、上級者は全然存在しないから、その責任は、必ず常に完全無制限に阻却されている。この頭首天皇は絶対無責任である」。「それならば『世世天皇の統率し給ふ所にぞある』『わが国の軍隊』とは、累々たる無責任の体系、厖大な責任不存在の機構ということになろう」。天皇に責任が及ばないようにする。そのため、上級者が責任を免れ、下級者がそれを被る。大西巨人によれば、これが日本軍の体質の原因であり、責任の下方化の体系である。
しかし、このような組織体では、下克上がまかり通る。下からは上が保身しか考えていないように見える。天皇への忠誠心が叩きこまれている彼らは自分たちこそ真の赤子であり、お国のために、立ち上がらねばならないと思いこむ。忠誠心の競い合いは行動のエスカレーションを誘発する。過激であればあるほどよい。
もっとも、軍の上層部にしても、下からの突き上げを利用して、他の政治アクターに圧力をかけ、自分たちに有利に交渉を進めている。下克上状況は、戦況が切迫していなければ、上にとって必ずしも悪くない。そうは言っても、玉砕によって、大本営が責任を放棄すれば、彼らの死を無駄にすまいという強硬論が愛国的であるとして組織内で優勢になる。強気であればあるほど、下級者はとしては上級者に意見を通しやすい。強硬論をとる限りにおいて、下は弱腰や腰抜けと非難でき、上に優位に立てる。無条件降伏などもってのほかである。
実際、上層部の方針を無視して現場が未遂を含めて暴走した事件が非常に多い。

勃発年通称主な軍人首謀者
1928年満州某重大事件(張作霖爆死事件)河本大作陸軍大佐
1931年満州事変板垣征四郎大佐・石原莞爾陸軍中佐
1931年三月事件橋本欣五郎陸軍中佐
1931年十月事件橋本欣五郎陸軍中佐
1932年五・一五事件海軍青年将校
1935年相沢事件相沢三郎陸軍中佐
1936年二・二六事件陸軍皇道派青年将校
1945年宮城事件陸軍省参謀・近衛師団参謀青年将校
1945年厚木事件小園安名海軍大佐
1945年川口放送所占拠事件窪田兼三陸軍少佐

これは主だったものだけで、他にも「越境将軍事件」など命令違反の軍事行動も少なくない。第二次世界大戦の参戦国で、これだけ現場が暴走した軍隊も珍しい。佐官クラスが起こしているのが目につく。彼らは軍の学校を卒業した幹部候補生である。すでに軍でも異動・昇進が制度化されている。彼らの中から将来の将軍が誕生する。しかし、彼らは待っていられない。自分たちの能力に自信があるから、独善的で、一気に変革したいと願う。しかも、思春期から軍ですごしているため、同じイデオロギーに染まり、違う考えに触れる機会も少ない。彼らの事件はいずれも短絡的で、展望も何とかなる程度で無責任でしかない。ところが、その佐官クラスの軍人がいざ上層部に回ると、利用した下克上により身動きが取れなくなる。1937年7月に偶発的に始まった盧溝橋事件に対して、石原莞爾ら陸軍参謀本部は戦線の不拡大方針をとっている。当時の陸軍にとって仮想敵はソ連であり、広大な大陸で中国と戦争していてはそれに備えられないし、そもそも手にあまる。けれども、強硬派は彼らを突き上げる。上層部が軍をコントロールすることは難しい。案の定、日中戦争は泥沼化する。日米開戦に足る過程でも、強硬派に押され、軍上層部がコントロールを失っていることが見える。1941年、アメリカは日本に中国や仏領インドシナからの全面撤兵を要求する。それに対し、日本の指導部は対米交渉を打ち切り、戦争によって事態打開を図ろうとする傾向が顕著になっている。もっとも、彼らに勝算があったわけではない。アメリカは世界最大の工業力・経済力を持ち、資源も豊富、人口も日本の倍以上もある。しかも、日本の経済・軍事はアメリカの貿易に依存していたと言って過言ではない。石油や鉄の禁輸で表等攻めの挙げ句に白旗を揚げるよりも、開戦によって死中に活を求める方がましだという程度である。軍の上層部が開戦に傾いた理由の一つとして現場へのコントロールの喪失が挙げられる。陸軍は、上層部の方針に反して戦線が拡大した結果、中国大陸で先の見えない状態に陥っている。すでに多くの戦死者も出ている。とは言うものの、どうやって終結させられるか見通しもなく、ただダラダラ続けている。もしアメリカの要求通り、撤兵を決断したとしても、軍内部に不満が鬱積し、どういう具合で暴発するか想像もつかない。誰も現場を抑えこむ自信がない。客観的に考えた情勢がどうであれ、上層部としてはアメリカの要求は飲めない。海軍は、陸軍と違い、戦闘をしていたわけではない。しかも、日本海軍にとって、アメリカ海軍はモデルであると同時に仮想敵であり、その力がどれだけのものであるかよく承知している。戦前の国際的な軍縮が軍艦中心だったのは建造に時間がかかるからである。日米の工業力は、その時間に大きな差がある。しかし、石油の禁輸が続けば、燃料がなくなり、軍艦はたんなる飾り物になる。だとすれば、今のうちに開戦すべきであるという主戦派が声高になるが、先に述べた責任の下方化により、上層部もそれを抑えられない。以上のように、合理的に考えれば、日米戦争が歴史的大敗に終わることが薄々わかりながらも、軍上層部は突入していく。このシステムは非常に楽観的である。最悪に備えて最善を尽くす体勢になっていない。責任が問われない場合、すなわちうまくいっているときはいいが、旗色が悪くなると、後退する選択肢がないので、泥沼化する危険性が高い。事態の泥沼化は上の責任が曖昧になると生じる。戦争には戦闘もあれば、敗走もある。指導者は前者の際の手柄を誇るためでなく、後者のときに責任をとるために置かれる。


 戦後は、旧帝国陸軍の精神的な残党が、そのメンタリティで経済戦争に突入したのだと言われている。敵から見ると、旧日本軍は進む道を決めたら、他の道の可能性を考えようとしなかったので、非常に扱いやすかったらしい。一筋にやっていくことが最高の価値である、と考えたのが帝国陸軍だった。みんながこうと決めたときに他のことを考える奴は放り出される。〈男味〉の立場からすると足並みを乱すことはゆゆしきことなのだ。
 しかし、〈男味〉ではゲームには勝てない。ゲームというのは、状況によって態度や決定が変わるのが当然なのだ。あいつはグーを出し始めたらグーを出し続けるとわかってしまったら、もう絶対に勝てるわけがない。グーもチョキもパー も出すかも知れないから、ゲームが成立するのだ。
 それに比べて、中国の元共産党副首相・部小平はすごいなと思う。
 彼は、「わたしの最大の発明は、二者択一の決定を議論して決めないことだ」という。議論で決めていたらとても間に合わない。さしあたり A が出たら A をやる。その代わり、いつでも B に変わる用意はしておくのだという。こういう選択は、 A 一筋で進むよりずっと難儀なのであるべて、中国の元共産党副首相・部小平はすごいなと思う。
  こういう選択は、 A 一筋で進むよりずっと難儀なのであるが、実際にはとてもフレキシブルだと思う。

(森毅『男味と女味─集中と分






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