日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★War Crime of the Imperial Japanese Army★フィリピンに残した重い負の遺産《“Yamazaki, Shoot Emperor Hirohito!”祭軍魂Кэндзо Окузаки》Japan Gang<日本兵の人肉喰いCannibalism>Japanese troops 'ate flesh of enemies and civilians'(CANADA)2017

ゆうさまのページより参照。
戦場の「人肉食」 ―ルソン島編― http://www.geocities.jp/yu77799/worldwar2/Philippines4.html
フィリピン戦線の実相を語る時、避けて通れないのが「人肉食」の問題です。日中戦争期における「人肉食」は、ごく一部の異常者による、特異な事件であったと見られます。しかしフィリピン戦線では、厳しい「飢え」を背景に、「人肉食」がかなり広い範囲で行われてしまったようです。それも、「たまたま見つけた死体を食う」というレベルを遥かに超え、「同胞の日本兵やフィリピンの民衆を組織的に襲って殺し、その肉を食べる」という、身の毛もよだつ事件まで発生しています。
以下、私の目についた資料を、何点か紹介します。
※「人肉食」などという猟奇的な事件が果たして本当にあったのか、軽い好奇心から調べ始めたのですが、予想を超える「気持ちの悪さ」にはいささか辟易しました。折角調べましたのでまとめてはみましたが、以下の記述は、私自身気分が悪くなるくらい、大変生々しいものです。閲覧には十分ご注意ください。
※※なお今回取り上げた資料は、そのほとんどが「ルソン島南部の「ゲリラ狩り」」を調べていた時にたまたま入手したものです。フィリピン戦線全般での「人肉食」に関する資料を系統的に集めたわけではありませんので、私の知らない資料が他にも数多くあるものと思われます。
1 日本兵を襲う「ジャパン・ゲリラ」
守屋正『フィリピン戦線の人間群像』
守屋正氏は、京都大学医学部卒。1944年から終戦にかけて、フィリピン戦に軍医として従軍しました(終戦時は軍医大尉)。戦後は内科医として、京都市で自宅開業しています。氏はフィリピン戦従軍の体験につき、『フィリピン戦線の人間群像』『ラグナ湖の北』『比島捕虜病院の記録』という3冊の著を残しています。その最初の著作『ラグナ湖の北』では「人肉食」エピソードを避けていた氏でしたが、次の『フィリピン戦線の人間群像』では重い筆をとることになります。
ーとうとう、一番嫌な書きたくないことを書かねばならなくなった。この項は書くまいかと思ったが、やはり真実は伝える義務がある。北部ルソンの戦記は多く出版されているのに、中部、南部ルソンの戦記は極めて少ない、この話は既に比較的よく知られていることなので、これを省略するわけにはいかない。戦争の惨果をこの項ぐらい深く印象づけるものはないと思うので、恥を忍び、眼を覆い、耳をふさいだ気持で重い筆をとる次第である。それは比島戦記としては、いわば例外中の例外の記録であるが、ここまで追いつめられた原因は何かというこの事実の奥にあるものを、深く考える必要があると思っている。この項は同志討ちの話であり、同胞相食むいまわしい恥部をさらけ出す話である。(P182)
ー具体的な体験談に話を移しましょう。まず氏は、同胞の日本兵を襲ってその肉を食糧にしている、「ジャパンゲリラ」の存在を耳にします。七月のある日、私の部隊のある曹長の大腿部の切創の手当をした。その負傷部位が普通では考えられないものなので、その曹長にそのわけをきいたところ、次のような驚くべきことを話してくれた。彼は森の中の路傍で休んでいた。そこへ他の部隊の曹長が来たので、それと親しく話をしていたところ、その曹長が突然彼に斬りかかって来たのである。彼は大腿部を刺されたので、驚いて、二人で格闘となり、その曹長をおさえつけたところ、(P182-P183)「実は自分は一等兵で曹長ではない。曹長の死体から襟章をとってつけているのだ。悪かったからかんべんしてくれ」と哀願するので、助けてやったそうである。彼は私に「私はあいつを助けるのじゃなかったです。あんな悪い奴はきっとまた他で悪いことをしているでしょう」といった。
これが私が実際にジャパンゲリラの存在を知った第一号の話である。(P183)これは「未遂犯」の話でしたが、次に氏は、「日本兵を殺して人肉を食べる」ことを常習としている、「集団的な凶悪グループ」の噂を聞きます。
ー次は前多兵曹からきいた話である。ある日前多兵曹らが、南の山へ食糧採りに行っていた時、数人の陸軍のグループと一緒になった。彼らと雑談をしていたところ、彼らは自分の方から次のような恐るべき話をしたそうである。それは、彼らは日本兵を殺して人肉を食べるのを常習としているというのである。はじめは他の部隊の兵士を殺していたが、しまいには自分の部隊の兵を殺すようになった。しかしさすがに自分の部隊の兵を射殺する時は、眼をつぶって引金を引いたといっていたそうである。つまり強盗、殺人、食人罪を犯している犯人グループで、さすが剛胆の前多兵曹も、「軍医官、今日は実におそろしい奴に会いましたよ」と言って、上記の話をして、「あいらの眼付きは違っていました。きらきら光って、底気味の悪い人相でした。私は後であいつらをみんな殺してくればよかったのにと思いましたが、別れてしまって実に残念です」とつけ加えた。これで、集団的な兇悪グループの存在がはっきりした。部隊は解体し、軍律は消滅した状態で、召集された兵の中には兇悪な前科者もいたわけで、これらの悪党が、兇器を持って、飢えの中に生きて行くためには、こうした地上最悪の行為をしたわけである。殺人の上、人肉を食べていた現場を発見されて、射殺された例を私は数例きいている。当然の処置で、こんな人間は日本に帰っても悪事を働いて、獄舎につながれることであろう。第三の例は、前多兵曹らが二回目に水牛を射殺したことがある。海軍の兵に、その肉を持たして、前多兵曹は一足先に帰らしたのであるが、遂に帰って来なかった。これも捜索したが死体も出て来ない。やはりジャパンゲリラの犠牲になったのであろう。(P183)
この段階ではまだ「噂」のレベルでしたが、いよいよ具体的に犠牲者を特定しての話が聞こえてくることになります。
一七三~四頁に海軍の兵曹と雇員と三人連れで、マンゴー採りに行き、ゲリラに撃たれ、その時川口兵曹が殺された話をした。翌日前多兵曹らはシャベルを持って、川口兵曹の死体を埋めに行った。夕方前多兵曹らはパハイに帰って来て、「軍医官、陸の野郎はひどいことをしていましたよ。川口を埋めてやろうと思って、死体にかけてあったシャツを取ってみたら、骨だけになっていました。陸の野郎が一晩で川口を食ってしまったのです」 といった。この話をきいて血が氷る思いがした。とうとうそこまで落ちぶれたかと思った。(P185)しかしその頃から人肉を食べる話が森の中で耳に入りだした。タナイ川の下の方にある大尉の中隊長がいた。この人は私の部隊ではないが、長身で男らしい立派な人であった。この人とは仲好しになって、ときどき話しに行った。ところがこの大尉が病気で死に、それまでかいがいしく看病していた当番兵が、その大尉を食べてしまったそうである。腹の中に埋葬された大尉が気の毒でたまらなかった。大尉が遺言して、自分の身体を恩人の当番兵に提供したのかも知れない。そうであったら救われるのだが。この大尉はそのような遺言をすることが考えられる立派な軍人だったと今でも思っているが真相はわからない。(P185)
そしてついに、「解体犯」の話を聞くことになります。「私たちの部隊にすごく人間の料理の上手な兵がいる」という、ぞっとする話です。
海軍のバハイの人が、決定的なことを言った。それは私たちの部隊にすごく人間の料理の上手な兵がいるというのである。これをきいて驚き、そんな破廉恥な奴がいるのかと思うとやり切れなかった。(P185)一体この男は誰だらうと三十数年間頭を離れなかった。ところが最近大体想像がついた。ある所で肉屋をしていた男である。この男だったら、大きな牛をばらすのが本職であるから、手際よくやったであろう。私は京大で人体解剖の講義をしていたので、人間の身体を切り開くことは専門的な知識がないと、そうたやすいことではないことをよく知っている。(P186)
2 落伍兵に襲われて・・・
石田徳『ルソンの霧 見習士官敗残記』

石田徳(いしだ・いさお)氏は、1923年生。1944年5月、熊本陸軍予備士官学校へ入学、同年9月南方に派遣され、マレーを目指しましたが、乗っていた船が米軍機の襲撃を受けて沈没し、そのままマニラ湾に上陸しました。1946年12月、ルソン島から帰国。その後1952年には東京大学法学部を卒業し、農林省(当時)に入省。大臣秘書官、水産庁企画課長等を歴任しています。石田氏は「ジャパン・ゲリラ」の存在を耳にし、落伍兵にそのことを教えて警戒を呼びかけます。そうしたら、彼らは忠告を逆用して自らが「ジャパン・ゲリラ」に早変わりし、氏を殺そうとした、という体験談です。
石田徳『ルソンの霧 見習士官敗残記』より
ー煙のそばには、二人の兵隊がいた。化物みたいな、こんにゃくの茎を採ってきて、さかんに、あくを抜いているところであった。彼等の夕食である。私は、まず、ふかした芋を与え、一夜の宿を乞うた。陽はとっくに西山に落ち、あたりには、しっとりと夜露がおりていた。マラリアの私は、彼等のテントに同宿させてもらう以外に、手がなかった。幸い彼等は、私の願いをすぐ快諾してくれた。焚き火の周りで、暫く話しているうち、彼等は落伍した衛生兵であることがわかった。私とは師団も違っていた。私は、見習士官の手前、自分も落伍兵であることを忘れて、同じ落伍兵に忠告を与えた。
ー「お前たちも知っているだろうが、近ごろは物騒だぞ。脱走した味方の兵隊で、野盗になっているものも多いようだ。この付近にも、ときどき出没するらしい。やつらにとっては、少人数の落伍兵が、一番いい獲物で、身ぐるみはぎとり、肉は食うらしい。味方の兵隊に食われないよう、よく気をつけろ」「友軍の兵隊が、そんなひどいことをするのでありますか?」二人は、到底信じられない、といった顔つきをした。へとへとに疲れていた私は、間もなく破れテントの下、石の枕で眠りに落ちた。彼等二人は、私の寝息をうかがいながら、何ごとか相談したらしい。(P152-P153)
ー私は、知らぬが仏で、グウグウ眠り続けた。そして、夜半に気がついたときには、私の顔面は、いやというほど、円匙でなぐりつけられていた。私は、無意識のうちに、瞬間的にたち上がり、突きつけられた銃身を、必死で握った。墨を流したような真っ暗闇では、何がなんだか、わからなかったが、銃には銃剣が着いていなくて、助かった。激しい格闘の末、やっとのことで、相手から、騎兵銃を奪い、逆にその銃床で、彼等をなぐりつけた。その悲鳴で、私を襲ったのは、野盗ではなく、一夜の宿を貸してくれた、彼等二人の衛生兵であることがわかった。まさに、恩を仇で返されたのである。私の忠告を逆用した二人は、たちまち自ら人食いに早変りしていたのだった。怒りの焔が燃えさかった。だが、衰弱しきった体力では、長続きがしない。幸か不幸か二人の悪党も、へっぴり腰であった。暫くすると、二人はかなわぬと見たのか、
つい、でき心から、申し訳ないことをいたしました。どうか許して下さい」と、今度はあやまりに出た。許す許さぬではないが、私も力尽きていた。(P153)
友清高志『ルソン死闘記』
友清高志氏は、86飛行場大隊所属の上等兵。リパの虐殺について詳細な証言を遺していることで知られます。
氏は、戦後カランバン収容所で聞いた話として、以下のエピソードを紹介しています。「食人」の話は、随分広範囲に広がっていたようです。夕方になると、PWは幕舎のベッドに寝そべったり、柵の横の空地にグループで腰をおろし、食べ物の話からお国じまんに花を咲かせるのが慣わしとなった。ある夕方、小グループのそばを通りかかった私は、耳をそばだてた。「おや、あいつめ、生きてやがる。よく食われなかったなあ」どこの部隊の兵隊たちであろうか。車座の中の一人がいい放った。その男の視線を追うと、衰弱しきった一人の男が、グループの向こうをヨロヨロ歩いて行くところだ。私たちより、もっと深刻な飢餓を体験した兵隊たちであろう。私の幕舎にSという海軍の補充兵がいた。私は彼から一つの体験談を聞いた。ルソン島の南部レガスピーから南下すると、東海岸寄りにブルサンと呼ぶ地区がある。このジャングルに、Sは敗走中、一人足を踏み入れた。水の枯れた河床を山上へと登って行ったある夕方、巨大な岩陰からおどり出た日本兵に、Sは銃剣を突きつけられた。両手を挙げると、背後から別の兵隊が近づき、声をかけた。「塩を持ってるか……」(P230)「……うん」 「米は」 「粗米ならある」塩は生命のつぎにたいせつなものだ。二人は、Sを別な岩陰に組まれた小舎に案内した。塩と粗米を少し出すと、相手は一片のソテをSに差し出した。ソテとは、豚肉に塩をまぶし陽干しにしたものである。太陽に灼けた岩肌にくっつけると両側が焼けてくる。住民たちはこうして肉の保存食を作っていた。Sがもらった肉は、塩の代りに野生のコショウをくだき、まぶしてあった。その二人は、Sにこういった。「これ以上奥に行っても何もないんだ。おまえさえよければおれたちといっしょに、ここで暮らさんか、わりに住みいいところだぜ」彼も仲間がいれば心強い。二つ返事で仲間に入れてもらった。翌朝、早めに眼をさましたSは、三十メートルほど離れた場所に小用に行った。小用しながらバナナの葉でおおった物体を発見した。異様な臭気がする。バナナの葉をめくってみると、臀部から大腿をごっそりえぐられた日本兵の死骸であった。 二人が眠っているのをさいわい、彼は雑襲を手に持つと逃げ出した。足のふるえで思うように走れなかったが、二人は眠ったままなのか、追いかけてこなかった。(P231)
4 夢中で「人肉」を飲み込む
長井清『悔恨のルソン』
さてここまでの話は、あくまで「聞いた話」です。「人肉食」に関する証言は、事の性格上、おおっぴらにできないという事情が働いてか、自らの体験談として語る者は、ほとんどいません。そんな中にあって、自ら「人肉を食べた」体験を語っているのが、長井清氏です。長井清氏は、慶応大学法学部卒業後、海軍に入り、1944年7月、南西方面艦隊司令部付暗号士としてマニラに赴いています(終戦時中尉)。終戦後は川崎汽船に復職し、その後雅叙園、NKホームなどの役員を歴任しました。
ー私たちの食糧がまったくなくなってから、すでに何日もたっていた。「野タバコだけは食えないな」などといいながら、春菊によく似た野草を探し、湿地に生えるフキの化け物のような、味もなにもない雑草を採っては食いつないだ。私たちは日一日と痩せ細り、体力はすでに限界を超えようとしていた。このころになると、あちこちでコガネ虫などの食糧争奪のために、友軍同士の喧嘩や撃ち合いまでがはじまった。「人間の肉はうまいらしいぞ、やっぱり」「そうか、一度食ってみるか、本当に」などという異様な会話が部下たちの間で自然に交わされるようになった。それが、少しも異常ではない空気が漂っていた。二、三日後のこと。兵たちが食糧探しに出掛けた。ダ、ダダァーン近くで突然、銃声が響いた。また友軍同士の撃ち合いか、と思っていると、やがてさっき出掛けたばかりの兵たちが戻ってきた。「隊長、うまいものが手にはいりましたよ」太田兵曹が、血だらけの肉塊を入れた飯ごうを私に差し出してみせた。私は、それが普通の肉ではない、と直感した。とうとう殺ったのかと内心びっくりしながらも、反射的に「すぐ、煮ろ!」と平気な顔をして兵に告げていた。(P68-P69)私も、彼らも、極度の飢餓のなかで、頭脳の電流回路がどこか狂っていた。被害者は弱り果てていた陸兵だった。その太股の肉をえぐってきたのである。兵たちは、谷川に下りてそれぞれの飯ごうに水を一杯汲んできた。枯れ枝を集めて、すぐ火が焚かれた。調味料はわずかに残っている岩塩だ。やがて炎の上に七、八個並べて吊り下げられた飯ごうのなかで、ギラギラと光る脂肪がぶくぶくと泡立ってきた。
ー取り囲むみんなの目は異様に光っていた。目の前で世にも恐ろしい光景が展開していた。私たちはそのとき、獣になり下がり、餓鬼道に落ちていた。「隊長、どうぞ」太田兵曹が沈黙を破った。箸で取り上げた肉の一切れを差し出す。私は、ものも言わずに自分のスプーンで受け取ると、焼けるように熱いのもかまわずむしゃぶりついた。肉はひどく硬かった。いくら噛んでも歯槽膿漏にかかっていた歯では、とても噛み切れない。栄養失調の兵隊の肉だから筋張っているのだろう、と思って、そのまま無理やりに呑み込んでしまった。私は今でも、その味がどうであったか、少しも記憶にない。ただ夢中で呑み込んだ感触だけが、ぼんやりと残っている。(P69-P70)「もう少し、どうですか」私はこれを断って、皆の様子を眺めた。彼らは平然と、うまそうに肉を平らげ、「これで大分、元気がつくぞ」と、うなずき合っていた。(P70)
 5 「貴重な食糧」としての「人肉」
石長真華『人肉と日本兵』
次は、そのものタイトル、『人肉と日本兵』です。石長氏は、1944年12月、ルソン島に渡っています。「本書は小説の形をとってはいますが、書かれていることはフィリピンの戦場(ルソン島の山中)ですべて実際にあったことです」(P1)とのことです。(なお、以下の人名はすべて仮名。石長氏本人は「今井」の名で登場します)氏は、山中をさまよっている時に出会った「山脇軍曹」から、こんな話を聞きました。
ー「われわれが大川を捗るときは、ひどい目にあいまスたヨ。何部隊の兵隊か知りませんがネー。向こう岸に先に捗った兵隊が三人おったんでシ。われわれが、この川を捗れるだろうか、どうだろか、と心配しちょったんでシよ。からだが弱っちょりまシけんネー。ところが向こう岸の兵隊が、大丈夫だけん捗って来いって大声で呼んじょるでシよ。わスの分隊の兵隊で宮下っていう元気のエエのがいまスてネー。そいチが、わスが先に捗ってみるてって裸になって一人泳エだんでシよ。ところがでシネー、ひどい目にあったんでシよ」彼は恐怖におののくように身ぶるいした。「宮下が泳エで向こう岸が近ジエたとき、向こうの兵隊が竹を差ス出スたんでシよ。宮下はそれにちかまって割合かんたんに向こう岸へ捗ったんでシよ。親切な兵隊だ、今頃珍らスいと思ったんでシがネー。ところがでシよ」彼の限に異様な光がはしった。「ところがでシネ。最初はなんのことじゃらわからんだったんでシがネー。宮下の腕を二人で両側からかかえるようにスて、一人は彼から背を抑スて、むりやりに、ジャングルのなかへ連れて行ってスまったんでシよ。ところがでシネー」(P192-P193)彼は前より大きく身ぶるいした。話し方がスローなので、いらいらさせられながらも皆はじっと聞き耳をたてていた。「びっくりスまスたネー。自分たちもようやく捗って、ジャングルのなかへはいって見たんでシよ。そしたら、なんと、ほんに、びっくりスまスたよ。宮下のからだがでシネー」 彼はまたぶるっと身ぶるいした。「バラバラに切られちょるんでシよ。スかも、それがでシネー、肉が一つも付いてないんでシよ。頭はそのままでスたがネー。それに腸とネー。心臓や肝臓はなかったでシがネー。ほんに、びっくりスまスたよ。地獄っていうもんでシよ。帝国軍人もこうなったら、もう手も付けられんでシネー」彼は大きくためいきをもらした。 誰かに会ったら先ず最初にこの話をしなけれはならないと思っていたのだろう。彼はそれが癖らしく、話しながら手の甲でダンゴ鼻を何回もツソツソとこすった。あの大川へ来たときもそうしたようである。その宮下という兵隊を殺したのも、水牛を盗ったのも、この兵隊たちだと、あのとき思ったのだろう。少尉とこの軍曹のひどく昂奪していたのが、いま納得された。装具のなかを調べたのは、『肉』を発見するためだったのだ……。
ー軍曹が話し終ってから、皆がしばらく黙っていた。 - ひどい兵隊がいるものだ。そのようなことをするよりほかに、そいつらの生きる道はないのだろうか。生きる道をほかに求めなければ、最後には、そいつら同士が殺し合いになり、食い合いになるだろう。それが本当に環境に順応するということかもしれない。人間はどこまでも向上する可能性と同時に、どこまでもおちこむ可能性ももっているのだ。(P193-P194)そして、自らも死体から肉をはぎ、人肉を食べた経験を告白しています。主人公の「今井」(石長氏本人)は、山中で「栗林参謀」の死体を発見します。「今井」はその肉をはぎ取り、部隊に持ち帰って、「山豚」を捕えた、と称してみんなで食べてしまいます。しかしそれが「人肉」であったことは、みなの暗黙の了解であったようです。
石長真華『人肉と日本兵』
小林は吐息をもらして兵長に小声で言った。「兵長殿! 自分は早く山から出たいです。昨夜の肉、山豚ではないですね。みなが言っています」射るような眼で博士を見た。
ー「わかったか。わしは昨夜からわかっていた。それでいいんだ。貴重な食糧をみすみす蛆に食わす法はない。猿も、蝙蝠もヘビも死んだら同じことだ。意識のあるうちはちがうけどな。生命を保つ。これがヒューマニズムの根本義だ。ここでは手段はとわない。一個の人間が原始の環境で生命を保つにはいかにすればよいか。いままで誰にも勇気がなかったんだ。其の勇気がな。小林、勇気を出せ。これから先、どのような環境が待っているかわからんぞ……」 博士が力強く言うのを今井は耳にした。(P210)さらに部隊は行軍を進めます。そして、「腕や脚」が切りとられた多くの死体を目撃します。
ー参謀の死んでいた谷を出発してから、二日かかってけわしい山を一つ越した。途中、四、五人死んでいた。まだ十分骨になっていなかった。蛆は大きく育ち、その数は少なかった。蝿になって逃げたのだ。早いのは死んでから一週間くらいたっているようだった。それから先の山には死体が多かった。早いのは骨になっている。死んで間もないようなのもある。何日もかかって、ぞろぞろと行軍したのにちがいない。どの死体も靴をとられ、装具はバラバラになり、腕や脚が切りとられている。「人間は、しだいに苦しくなるにしたがって誰でも同じようなことをするね」 博士が言った。(P211)「連隊本部とちがうな。知らん名前ばかりだ」 曹長は水筒の紐を見て言った。七人は、ひょろり、ひょろりと離ればなれに歩いた。夢中で死体を調べながら進んだ。食えるようなものは何もない。後から来た者が、先に死んだ者の持物やその肉をとって進み、そして弱った者から次々に死んでいったのだろう。「どいつも、こいつも楽をしちょる。早く死にやがって、畜生め!」熊川は畜生めに力をいれて肉を切り取った。(P212極限状況の中で、「死体」は「食糧」として認識されてしまっていました。「人肉を食う」話がここまでさりげなく語られることに、ぞっとせざるを得ません。
※追記 簡単な記述で、かつ「小耳にはさんだ」程度の話でしたので上では取り上げませんでしたが、三菱商事に勤務していたタイピスト、岡田梅子氏も、こんな記述を遺しています。
岡田梅子『アシンの緑よ、ありがとう』
私は、ふと田坂大尉の小屋にお世話になった時、小耳にはさんだ話を思い出した。
それは小高い山道に腰を下ろして一服していた兵隊さんが、後から軍刀で斬りつけられた時のことだった。犯人は人が近づいてくる足音を聞いて、そのまま立ち去り、斬りつけられた兵隊さんは田坂大尉が手当てをしたが、兵隊さんは何故、斬りつけられたか、全く見当がつかないという。そこで田坂大尉がその兵隊の案内で、凶行のあった場所のあたりを捜索したところ、口唇部や大腿部を切りとられた裸の死体が点々としていたのだ。(P85)
(『ルソンに消えた夏』所収)
戦場の「人肉食」 ―ミンダナオ島編―
「戦場の「人肉食」 ルソン島編」に続き、「ミンダナオ島編」をお届けします。
 念のため、「ルソン島編」で掲げた注意書きを、こちらでも再掲しておきます。
※「人肉食」などという猟奇的な事件が果たして本当にあったのか、軽い好奇心から調べ始めたのですが、予想を超える「気持ちの悪さ」にはいささか辟易しました。折角調べましたのでまとめてはみましたが、以下の記述は、私自身気分が悪くなるくらい、大変生々しいものです。閲覧には十分ご注意ください。
1 荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
まずは、荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』です。この本には自民党の大物政治家、渡辺美智雄氏(元「みんなの党」党首、渡辺喜美氏の父)が序文を寄せており、荻原氏が地元の名士であったことを伺わせます。
荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』
発刊に寄せて
衆議院議員 渡辺美智雄
ーこの度、太平洋戦争(第二次世界大戦)の比島戦線における密林敗走実録「髑髏の証言」が、四十年ぶりで出版の運びとなったことは、誠に欣快の極みであり、衷心より祝意を表します。著者・荻原長一氏は、旧日本陸軍砲兵隊の軍曹としてミンダナオ島の対米攻防戦に参戦された。そのすさまじい死闘を経て、敗戦も知らずに部下戦友と共に人跡未踏のジャングル内を何ヵ月も彷徨。友軍兵の白骨化した死骸群の中、"共食い"など人間として極限を超えた飢餓地獄を、強靭な理性・忍耐力と創意工夫で見事に乗り越えられた。中隊指揮班の功績係という立場にいた著者の凡張面さから、その折節の実証をスケッチ付きで克明に記録。それを米軍の捕虜収容所内でまとめあげ脱稿、復員時に苦心して持ち帰り、今日まで温存されたという。それだけに、自分をさらけ出したその内容は、鬼気迫る当時を生々しく再現して小説よりも奇なる実録(ドキュメント)の迫真力十分。思わず引き込まれて一気に読ませられるものがあります。資料価値も高いと思われます。 荻原氏は、1944年6月に宇都宮市の砲兵連隊に入隊し、マニラで独立混成第54旅団砲兵大隊に編入されました。その後ミンダナオ島のザンボアンガ半島の守備にあたり、1947年1月に帰国しています。その間、氏は、何回か「人肉食」を見聞しています。
ーまずは、山中をさまよううちに再会した、荻原氏氏と同じ「中島部隊」の、「N分隊」の話です。分隊長の「N伍長」は、まだ生きている「海軍」の兵士を、拳銃で殺して肉を食ったことを告白します。「実は、二十日ほど前にも一人……。海軍五中隊の畑(北上の際同隊が最初に発見し独占していた古い畑)から少し南下した所で、肉が欲しくてどうにも腹の虫が承知しやがらねえんで、一緒に行動していた海軍の兵隊を、夜半にやりましたがね」「一体何でやったんだ。軍刀でか」「いや、この拳銃すよ。眠っているところを頭に銃を当ててやりゃ、一発でいっちゃうやね」そう言って、後ろに掛けてあった十四年式の拳銃を指した。そこに拳銃があるのに今初めて気がついた。私たちは、立ったままの姿勢で身動き一つ出来ず、ヒザがガタガタするのを力一杯踏み抑えようと思ったが、その力も出なかった。私は、嫌悪と脅迫感をまともに感じながら、顔から血の引くのを懸命に耐えた。彼はむしろ得意気に、さらに続けた。「最初はやっばり、腕や大腿部をバラして、良い所を乾燥肉(薫製)にして取って置く。まず臓物から食っていくんすが、肝臓なんざァ特にわッしの大好物でさァ。腸も小ちゃく切ってよく煮ると、シコシコして椎茸みてェで何ともいえねェ昧だね」 〝もう沢山だ、やめてくれ! お前たちはなんという事をするんだ″私はそう怒鳴ろうとしたが、ツバが乾いてロに出てこなかった。「それから、頭はこの軍刀でバーンと割って、中から脳味噌をグイッと引っつかんで、ペロッと飯盒に入れるんだが、随分あるもんすね。これに七、八分目ぐらいはあっかなァ」そう言いながら、傍らにあった飯盒に指で線を引く格好をした。(P232-P233)
その夜、「N分隊」と行動をともにしている「I上等兵」が氏の宿舎にやってきます。彼は、「殺害」と「死体処理(携帯肉製造)」の作業を強制されていたようです。以下、「I上等兵」の証言です。
ー部隊解散の後、N分隊に所属した兵隊は絶えず彼らの体の一部分のように隷従させられて離れる事も出来なかった。深いジャングルを半月余り右往左往したあげく、食糧が全く尽きてからは、次第に病人が出始めた。飢餓患者が出れば出るほど分隊の足手まといになった。歩行不能に陥ると、順次それら患者の寝込みをうかがい射殺した。射殺の担当はほとんどK兵長だったが、その解体にはさすがに皆手を下さず、その言語に絶する非道な任をIが強要された。頸を切断し、腕や脚を胴から切り離し、臓器を取り出して洗ったりの作業を強引に命ぜられた。もしこれを拒むと、何も食べさせてもらえぬばかりか、彼らの刃が自分に向けられるのは明らかであった。
こうして、多くの携帯肉を作っては食い続け、それが無くなると、また次の患者が犠牲にされていった。(P235)
「I上等兵」によれば、実際には殺されたのは「海軍の兵隊」ではなく、自分の部下たちであったようです。
N伍長が、海軍の兵隊などと言ったのは真赤なウソで、手がけたのは内地出発以来の最初から、同じ自分の分隊に配属されていた己の部下であった。それを平然と四人も殺していたのだ。その被害者はS上等兵、G上等兵、W一等兵とO一等兵と明確に氏名をあげた。話は終わった。(P236)
さて次は、「食人」現場の目撃談です。荻原氏は、山の中で、「何やら食べている」最中の、四人の兵隊と出会います。
注意深く近寄ると、四人の兵隊が腰を下ろし、談笑しながら、何やら食べている最中だった。彼らは外敵に対し、ほとんど注意している様子はなかった。彼らを驚かして反射的な攻撃を受けないように、十分考えながら努めて静かに「こんにちは……」と声をかけてみた。(P239)ところが、彼らの驚きぶりは想像以上であった。鋭い視線が一斉に私の方に注がれた。うち一人は、咄嵯に傍らにあった銃を握った。(P240)四人とも小柄で何ヵ月も洗面すらしたことのないような黒い顔。目だけギラギラ輝かせながら「うわあ、驚いた」と、一人の太い声がした。私はもう一度改めて「こんにちは」と言い直した。すると一人が「こんにちは、あんたは何部隊ですか」と問い返してきた。「砲兵隊の中村部隊ですが、あなた方は?」「森部隊す」(P240)
そして荻原氏は、彼らから「肉」を勧められます。
ー「ところで、あんた方は糧秣の方はどうすか。わしらはもうイモは二本ずつしかないし、因ってるんす。でも、肉はこうして幾らか残ってるんすけどね」肉のあることは、初めから食べているのが見え、わかっていた。私たちにとって、肉は一ヵ月前に、カラパオを食べたのが最後。あの特有の歯ごたえと口腔内に広がる脂肪性の昧が、舌の周辺によみがえる気がした。「いやあ、われわれはまだひどいね。惨めなもんです。イモが少しあるだけで、とても肉なんぞ拝みたくても無いですよ」彼らの座っている中央には、タケノコの皮みたいに丸くなったカラパオの皮と、焼いた骨が飯缶(軍隊で使う米飯容器)の中に入れてあった。私の視線は激しい食欲に燃えていた。「どうすか、こんなのでよかったら、一つ噛りませんか」と言って、一切れの肉片を差し出した。それは一見皮を焼いたもので、真っ黒く縮んで丸くなっていた。彼らの温かい好意に感謝して、早速喜んで押しいただくことにした。(P240)
しかし「肉片」を口に入れる直前、荻原氏はその「正体」を告げられます。折角貴重品を分けてもらった以上、食べなければ済まない。怖いものをそっと隠すような仕草で、歯と歯の間にいやいや挟もうとした時、誰かの声がした。「それはカラパオじゃないすよ」「ほう……何ですか。馬ですか」「……」 「台湾工すよ」「えーっ、あっあっ、そうすか」私は反射的に口を開いて手を引いた。「やあどうも、いろいろと済みません。いよいよ道もダメなら明るい中に引っ返さなければならんので、一足先にご免」辻褄の合わぬ挨拶だったが、早々に引き返そうとした。すると「そうすか。わしらも四人じゃ寂しいから、一緒に連れて行ってくれませんか」と言い出した。私は、そこに佇んで彼らを待つのは一刻も耐えられない気がした。「はあ、下で皆と一緒に待ってますから」と言い残して急いで立ち去り、彼らの目の届かない所まで来てから、先程の〝台湾出身の徴用工員〟の体の一部分なるものを、斜面を走りながら力一杯遠くへ投げ捨てた。(P241) 何と「肉」の正体は、徴用された台湾人であったわけです。氏の直接体験の話はここまでで、以降、いくつかの「聞いた話」が紹介されます。いずれも生々しい「体験談」ですが、あまりに長くなりますので、こちらでは省略します。
ー2住民を殺し、その肉を食う
さてミンダナオ島では、日本兵が住民を殺して、その肉を食う、という信じがたい事件が起こっています。それも被害者は数十人にも及び、かなり組織的であったことは間違いありません。 さらにこの事件の特異性を際立てるのが、事件が起こったのは終戦後、1945年10月頃からの1946年にかけてのことであった、という事実です。まず、毎日新聞の記事を紹介しましょう。
1993.10.7付『毎日新聞』朝刊 6面
日本軍敗残兵の比住民虐殺 補償、謝罪求める声 次々
合同調査団 心の傷、いまも深く 遺族60人から聞き取り
ー第二次世界大戦終結後、フィリピン・ミンダナオ島北部のキタングラン山ろくで起きた日本軍敗残兵による住民虐殺・人肉食事件が戦後四十八年を経てクローズアップされている。日比両国の弁護士やジャーナリストから成る調査団がこのほど現地のスミラオで、被害者の遺族ら約六十人から聞き取り調査を実施したが、ショッキングの証言の連続に、調査団は息をのんだ。クリセンシア・アリンポグさん(六八)、ホビタ・ヘロカンさん(七〇)姉妹「一九四六年十月、スミラオ町の自宅に五人の敗残兵がやってきた。食物が屋内にないことがわかると、敗残兵は父親の首を切り、私たちの目の前で肉をたべ始めた」カルメリノ・マハヤオ氏(五七) 「四六年十月、インパスゴン町の自宅に敗残兵七人が押し入り、まず兄を食べた。母親と妹は連行され、行方不明になったが、のちに脳のない頭部だけが見つかった。私は生き延びた。やせていたので、食べる気がしなかったようだ」
ー四七年に日本の敗残兵三十七人を捕らえた地元の元陸軍大尉、アレハンドロ・サレ氏(七四)も証言。「この地域には野生のシカもいたし、果物も豊富にあった。なぜ人を食べたのか疑問を感じた」と述べ、ニューギニア戦線のような極限状態下の人肉食でないことを強調した。被害家族は、自給自足に近い生活を営む先住のヒガノオン族。聞き取り調査を実施したイスラエル・ダマスコ弁護士の話では、犠牲者は約八十人。アニミズム(精霊崇拝)信仰の住民は、体がバラバラにされた犠牲者の魂はいつまでも安らかになれず、悪霊が親族に取りついて病気や災いをもたらすと信じて疑わない。遺族の間には、加害者を現地に招いて鎮魂のための伝統儀式を実施すべきだとの意見もある。この事件は、マニラの軍事法廷で裁かれ、敗残兵十四人に死刑や終身刑を宣言。だが四八年、キリノ大統領(当時)の恩赦で全員、日本に帰国、放免された。現地調査を行った西田研志弁護士(東京弁護士会)の話では、うち七人は健在で、現地での謝罪表明を申し出ている人もいるという。
ー日比の弁護士団は近く日本政府に遺族の要望を伝えるが「全く無抵抗の住民に対する特に悪質な事件」とし、政府の対応次第では従軍慰安婦同様、補償請求訴訟を起こすことも検討している。フィリピン人弁護団の中心人物、ロメオ・カプロン弁護士(五八)は、「遺族の証言はマニラの軍事裁判記録と合致しており、信頼できる。人道に対する罪として国連人権委員会に訴えたい」と述べ、今月二十八日から京都で開かれる日弁連人権大会にも出席して、この問題をアピールする。
この事件は、 辺見庸『もの食う人びと』でも紹介されています。 辺見庸は、早稲田大学文学部卒、共同通信社勤務を経て、現在は作家・ジャーナリストとして活躍しています。1991年には小説『自動起床装置』で芥川賞を受賞しています。『もの食う人びと』は、「食」を媒介に、チェルノブイリ村、ソマリアの難民キャンプ、アフリカのエイズ部落等を、美しくも哀しい文体で淡々と描いた名ルポルタージュです。(のち講談社ノンフィクション賞・JTB紀行文学賞を受賞)この書にあって、「ミンダナオ島の食の悲劇」と題する章は、「食」は「食」でも、「人肉食」というおぞましいテーマを扱っており、いささか異彩を放ちます。なおここに出てくる「老人」は、先の毎日新聞記事にも顔を出す、アレハンドロ・サレ氏です。
辺見庸『もの食う人びと』
ー私は三度も転んだ。老人は一度しか転ばなかった。抗日ゲリラ戦当時の山歩きと退役後の農作業で足腰が鍛えられている。夫人はタフなこの老人を時々おどけて「タイソン」と呼ぶのだという。マイク・タイソンのタイソンだ。私がこけるたびに、"タイソン"は、はっはっはっと笑う。 泥だらけの私をしりめに、老人が野の草を引き抜きはじめた。 アザミみたいな花をつけた草。ドゥヤンドゥヤンというのだそうだ。「連中(残留日本兵)はこの草とあの肉をいっしょに煮とったよ」言いながらドゥヤンドゥヤンの花をむしっている。泥道に、血のように鮮やかな朱色の点が散らばった。茎を私はかじってみた。 最初にヨモギに似た淡い香り。次に強烈な青臭さで、つばきがどっと湧いてきた。におい消しに使ったのかなと私は思った。(P46)途中に掘っ立て小屋があった。「ここからも農民が連れていかれた」老人がつぶやく。ふもとのインタバス村まで私を乗せ、そのまま同行してきたトラック運転手が「行く先は皆連中の鍋のなかだったよ」と冗談でなく言った。
ーふもとのインタバス村にたどりついたら、村人が六、七人、私を取り囲み、キタンラド山になぜ登ったか問うてきた。私はわけを話した。残留日本兵の「食」に少し触れた。その時に村人が示した反応を、どのように形容すればいいのだろう。疲労の果てに夢を見ているのかと私は思った。村人たちは口々に言ったのだ。「母も妹も食われました」 「私の祖父も日本兵に食われてしまいました」「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」「食われた」。この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち十個も並んだ。
村民たちは泣き叫んではいない。声を荒らげてもいない。押し殺した静かな声だった。なのにメモ帳が「食われた」という激しい言葉で黒く埋まっていくのが不思議だった。老人は、戸惑う私を無言でじっと見つめていた。(P52-P53)
ー四九年の戦争犯罪裁判(マニラ)の証言者でもある農民のカルメリノ・マハヤオが、村人の声をまとめた。四六年から四七年はじめにかけて、この村とその周辺だけで三十八人が残留日本兵に殺され、その多くが食べられた。頭部など残骸や食事現場の目撃証言で事実は明白になっている。しかし日本側は一度として調査団を派遣してきたこともない。マハヤオは最後に言った。「でも、忘れないでくださいよ。きちんと伝えてください」じつは、事件の概要は九二年秋、共同通信マニラ支局により報じられている。しかし、四七年以降の残留日本兵への尋問当時から、現代史ではきわめてまれな兵士による「組織的食人行為」として、連合軍司法関係者を仰天させたこの事件の全貌は、日本でははとんど明らかにされていない。なぜだろう、と私は思う。事実を秘匿する力がどこかで動いたのだろうか。そうだとしたら、この事件がとても説明がつかないはど深く「食のタブー」を犯していることへの、名状しがたい嫌悪が下地になっていたのではないか。
戦争を背景にした一つの過誤として、もう忘れたほうがいい。そんな意識もどこかで働いたためかもしれない。だが、私のすぐ目の前には、肉親が「食われた」ことを昨日のことのように語る遺族たちがいる。「食った」歴史さえ知らず、あるいはひたすら忘れたがっている日本との、気の遠くなるような距離。私はただ沈黙するしかなかった。(P53-P54)この事件について詳細な取材を行い、一冊の本にまとめたのが、永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』です。多くの事件につき、被害者側証言、当時の戦犯裁判の記録、「実行犯」である日本兵へのインタビューなどをもとに、その実態を多面的に浮き彫りにしてみせます。被害者側証言としては、冒頭の新聞記事でも取り上げられていますが、娘の目の前で父親の肉を食べた、というショッキングな事例を紹介しておきましょう。
永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』
■ホビータ=ヘロカン、クリセンシア=アリンボグ姉妹の場合■
ーそういう貧しいけれど平穏な日々が一変してしまったのが、一九四五年一〇月一〇日だった。その日の正午ごろ、自宅で茄でたカモテとバナナの昼食を取っていると、突然三人の日本兵が現われた。父親のアウグスティンさんは家の外にあった鳩小屋で鳩の世話をしていた。父は「気をつけろ。私たちが恐れている奴らがきたぞ」と家の中にいた姉妹に言った。もう二人の日本兵が遅れてやってきて、父の左右の腕をつかんだ。父親に何か聞いたようだったが、父親が答える間もなく、いきなりボロで父親の首を切り落とした。日本兵は、家の中にいたホビータさんとクリセンシアさんの両手をアバカのロープで縛り、家の竹の床にくくりつけた。
ー日本兵は彼女達の見ている前で父親を解体していった。一人はボロで、あとの二人は短剣を使った。最初に太ももの付け根から足と胴体を切り離し、膝、足首と関節ごとに切断した。次いで腕を肩から切り離し、肘、手首と切断していった。そして各部分から肉をそいでいき、四枚のバナナの葉の上に置いた。さらに骨を三~四センチの長さに砕いていった。(P52-P53)胴体は中央から引き裂き、肺、心臓、肝臓などを取り出してバナナの葉の上に置いた。腸は食べないつもりなのか、引き出して投げ捨てた。頭には手をつけなかった。ボロを持った長いあご髭をはやした兵士が中心で、後の二人は手伝っていた。姉妹はただ泣きながら見ていた。解体が終わるまで一時間くらいかかった。
ーその後、一人の兵士が家に入り、鍋を持ち出してきた。その鍋に骨と肉と水を入れた。別の兵士が、姉妹の一家が昼食のカモテを茄でるために使った火の残り火を小枝に点火して来て枯れ草に火をつけ、鍋を火にかけた。猿を煮た時のような臭いがした。三〇分くらい煮ると、日本兵達は五人全員が焚火の横に輪になってバナナを片手に肉を食べ始めた。鍋の横に二枚のバナナの葉を敷き、肉を出しては各人手でつまみながら食べた。日本兵は極端に痩せてはいなかったし、飢えてガツガツ食べるという風でもなく、普通に談笑しながら食べていた。途中、長いあご髭のがっしりした体格の兵士が姉妹に父親の肉を食えと強いた。父親を殺したその兵士は手で二人の口をこじあけて肉を突っ込んだ。二人は肉を口に入れたが、吐き出した。それを見ていた他の兵士は笑った。
 一時間くらいで食べ終わると今度は一人の兵士が姉のホビータさんの肩を押え、もう一人が足を開いて押え込み、先程父親の肉を食えと強いた兵士が強姦した。彼女が抵抗した時、右足の膝の上を短剣で突かれた。その後二人の日本兵がかわるがわるホビータさんを強姦した。ホビータさんの後、クリセンシアさんも強姦されそうになったが、激しく抵抗したために免れた。(P53-P54)(略)この「サイアム事件」は四九年のマニラ軍事法廷で審理されている(起訴項目第4~6項)。姉妹も証人として出廷。裁判官から求められて被告席に座っていた元日本兵の中から彼女らの父親を殺して食べ、ホビータさんを強姦した兵士達を指し示した。二人が共通に主犯格として指したのは、歩兵第七四連隊の別所龍太郎伍長だった。(P55-P56)歩兵第七四連隊の別所龍太郎伍長は、一九四九年にマニラの軍事法廷で起訴された二四件の事件の大半に名前が出てくる。(P56)この本には、これに類する「被害者側証言」が大量に収められています。これら一連の「人肉食」事件は、マニラの戦犯裁判でも取り上げられました。多数の兵士が、「人肉食」を認める供述を行っていたようです。
ー四九年のマニラの戦犯裁判に証拠として提出された供述調書のうち、私は二五人の兵士の供述証書を入手したが、そのうち一六人もが明白に人肉食の事実を認めている(ただし、一六人中三人は日本兵の人肉を食べた事実だけの供述)。さらに二人が、自分は関与していないが、他の兵士が人肉を食べるのを見たと供述し、一人は他の兵士から人肉を食べたと聞いたことがあると供述している。残る六人だけが人肉食に言及していない(ただし、人肉食を明白に否定もしていない)。(P163)永尾氏は、戦後帰国したこれらの兵士たちを捜し出し、尋ね歩こうとします。しかし事の性格からでしょうか、大半のメンバーからは会うことを拒否されました。氏は、「サイアム事件」などで名前が挙がった別所伍長を、アポなしで訪問します。テーブルをはさんで向き合い、私が質問を始めると、別所元伍長は腕を組んで目をつぶった。― 人肉に手をつけた理由として、食べるものが無かったということの他に、人肉には塩分が含まれていたからということもありますか。別所伍長はしばらく黙って考えていた後、目を開き答えた。「そういうことも、あったかもしらんな。とにかく塩分が不足しとったから」
さらに質問しようとすると、「全部知ってるんでしょう。もう勘弁してください」と言ったきり、黙りこくってしまった。(P86-P87)暗黙の肯定、と考えていいでしょう。氏はさらに、2名の元兵士から、「人肉食事件」を認める証言を引き出しています。
ーこの事件(「ゆう」注 二組の老夫婦を殺害してその肉を食べた「ティモアン事件」)について穂刈元軍曹と小早川元軍医から直接証言を得ることができた。私の取材に対して穂刈元軍曹は「男二人を殺したのは私だ」と証言した。ボロではなく軍刀で、それぞれに三回ずつ切りつけて殺した。それから首をはね、「豚の解体の要領」でさばいていった。「その時、どういう心理状態だったか自分でもわからない」と言う。そして解体した人肉をハンゴーで炊いた。しかし、いざ食べる段になり、肉を顔に近づけたとたんにガーッと嘔吐した。とても精神的に受け付けなかった。そして川原はたおれたままその晩は小屋に戻らなかったという。これに対して、小早川元軍医は、はっきりと人肉を食べたことを認めた。(P118)「その時は良心的なものは抑えられていたね。今で言う『心神喪失』というやつだな。戦争だからなにやっても仕方ないとは思わなかったが、仲間と一緒にやったことだし、大層なことをやったとは思ってなかったね。胃の中に入っちゃって、吐き出すわけにもいかないし・・・」(P119)
被害者側証言に加え、戦犯裁判での供述、さらにその供述書を追認する証言。ここまで揃うと、一連の「住民襲撃・人肉事件」を否定することはできないでしょう。


Japanese troops 'ate flesh of enemies and civilians'(日本軍は’敵と民衆たちの人肉を食べた’) From TERRY MCCARTHY in Tokyo
Wednesday 12 August 1992 00:02
JAPANESE troops practised cannibalism on enemy soldiers and civilians in the last war(先の大戦において、日本軍は敵軍及び民間人に対して人肉喰いを行った), sometimes cutting flesh from living captives(時には生きている捕虜から肉を切り取った), according to documents discovered by a Japanese academic in Australia(豪州で日本人学者によって発見された記録による). In most cases the motive was apparently not shortage of food(ほとんどの場合、実際の動機(誘因)は食糧の欠乏ではなく), but 'to consolidate the group feeling of the troops'(’軍(兵士)集団の感情(意識)を統合(強化)結束させるため’), said Toshiyuki Tanaka yesterday in a telephone interview from Melbourne(昨日、メルボルンからの電話インタビューで田中利幸氏は言った). The revelation adds more evidence to the toll of atrocities carried out by Japanese soldiers during the Second World War(新(事実)発見は第二次世界大戦中の日本軍将兵による、さらなる残虐行為の証拠を加えた), only weeks before Japanese troops are due to be posted overseas for the first time in five decades as part of the UN peacekeeping operation in Cambodia(日本軍(自衛隊)が50年来初の海外派兵となる、カンボジアでの国連による平和維持(活動)作戦に参加する数週間前). Japan's Asian neighbours have expressed strong reservations about the use of the troops(日本の近隣アジア諸国は軍隊の使用について強い不安(懸念)を表明した). In recent months(近日) evidence has also come to light about the forced recruitment of Asian women as prostitutes, or 'comfort women', for the Japanese army(証拠は同じく売春婦、もしくは’慰安婦’としてアジア人女性を強制募集(補充)したことに関しても焦点が当った). Mr Tanaka, a 43-year-old scholar from Fukui in western Japan, is working at the Political Science Department in Melbourne University(田中氏は西部日本福井県出身の43歳の学者で。メルボルン大学の政治学部で勤務している). The documents he found concerning cannibalism include captured Japanese army memos as well as sworn statements by Australian soldiers for war crimes investigations(氏が発見した人肉食いについての記録は、押収した日本軍による覚書(手記)及び同じく豪州軍将兵による戦争犯罪調査時の宣誓声明書を含んでいる). Mr Tanaka says he has amassed at least 100 documented cases of cannibalism of Australian and Indian soldiers as well as Asian forced labourers in New Guinea(田中氏が言うには、ニューギニアにおける最低100件の豪州人及びインド将兵。同じくアジア人強制労働の人肉食記録を収集した). He has also found some evidence of cannibalism in the Philippines(氏は同じく、フィリピンにおける人肉食について幾つかの証拠を発見した). 'In some cases the (Japanese) soldiers were suffering from starvation(’一部の場合、日本軍将兵は飢餓に苦しんでいた), but in many other cases they were not starving at all(しかし、他たくさんの場合、彼らはまったく餓えていなかった’),' said Mr Tanaka(田中氏は語った). 'Many reports said the Japanese soldiers were fit and strong, and had potatoes, rice and dried fish(’多数の報告がいうに、日本人将兵は穏当そして丈夫であった、加えて芋、米さらに乾燥魚を持っていた’).' Some Japanese press reports yesterday(一部の日本メディアは昨日報道) suggested the cannibalism was carried out simply because of shortage of food(人肉食は単純に食料の欠乏から実行されたと示唆した). The researcher also denied it was a result of a breakdown in morale(研究者は同じく、軍紀の頽廃(弛緩)の結果を否定した): 'The reports said morale was good(’報告がいうには士気は良好だった). Often it was done in a group under instruction of a commander(しばしば司令官の指示下、行われた). I think it was to get a feeling for victory(私が思うに、勝利への気持ちを得るため), and(加えて) to give the soldiers nerves of steel(兵隊たちに鋼の神経を与えるため’).' He said it helped the soldiers to bond(氏がいうには兵隊たちの結束を助けた) 'because the whole troop broke the taboo (of cannibalism) together'(’なぜなら、部隊全体がいっしょにタブー(禁忌=人肉食)を破る’). One statement by an Australian lieutenant describes how he found the remains of a number of bodies(豪州軍中尉のひとつの陳述(報告書)は、どのように数個の遺体の残骸を発見したか描写されている), including one 'consisting only of a head which had been scalped and a spinal column'(頭皮及び脊柱が剥がれた頭からのみなる’を含む). 'In all cases(’すべての事例において), the condition of the remains(遺体の状態) were such (はそのようだった)that there can be no doubt(疑いなく) that the bodies had been dismembered and portions of the flesh cooked(遺体は解体され、さらに人肉は調理された’),' concluded the statement(報告書は結論している). Another statement from an Australian corporal(もうひとつ豪州軍伍長からの報告書) tells how he found the mutilated bodies of colleagues(はどのように切断された仲間たちの遺体を発見したか語る) whom he had earlier helped to bury in Japanese- occupied territory(彼は前に、日本軍占領地区で埋葬を手伝った). A Pakistani(パキスタン人), who was captured when Japan overran Singapore(日本軍によるシンガポール占領時、捕虜になった) and(加えて) taken to New Guinea(ニューギニアに連行された), testified that in his area Japanese soldiers killed and ate one prisoner a day for 'about 100' days(’約100日’間、日本軍将兵は1日1人捕虜を殺害し、食した). The corporal said he saw flesh being cut from prisoners who were still alive(伍長がいうには、彼はまだ生きている捕虜たちの人肉を切取っているのを見たと証言). Mr Tanaka found the documents by chance(田中氏は文書(記録)を偶然発見した) while doing research in Australian government archives on chemical warfare(豪州政府の化学戦についての記録を調べながら). 'I just came across them by accident(’私は偶然、それらにめぐりあった) - they were labelled 'War crimes documents - closed materials'(それらは’戦争犯罪記録’秘密資料とラベルが貼られ、閉じられていた).'



田中 利幸(たなか としゆき、1949年5月26日 - )は、日本の歴史学者。専門は戦争犯罪を中心とした軍事史。最終学位は西オーストラリア大学Ph.D.。元広島市立大学広島平和研究所教授。現在、ドイツのハンブルク社会研究所の「紛争時の性暴力」研究プロジェクトのメンバーを務めている。2015年4月からはオーストラリアのメルボルンを拠点に、歴史評論家として執筆、講演、平和運動にたずさわる[1]。

Yuki Tanaka (田中 利幸, Tanaka Toshiyuki, born May 26, 1949) is a History Professor at Hiroshima University. He has written extensively about forced prostitution under the Japanese Empire, as well as in Japan under US military rule. He also writes about the laws of warfare.
Françaisフランス語→Yuki Tanaka (田中 利幸, Tanaka Toshiyuki?), né le 26 mai 1949, est professeur d'histoire à l'université de Hiroshima. Il a beaucoup travaillé sur la prostitution forcée dans l'Empire du Japon ainsi que sur le Japon sous la domination de l'armée américaine. Il écrit aussi sur le droit des conflits armés.

『ゆきゆきて、神軍』(ゆきゆきて、しんぐん)は、1987年公開の日本映画。奥崎謙三の姿を描いたドキュメンタリーである。日本国内外で多くの賞を受賞した。今村昌平企画、原一男監督。キャッチコピーは「知らぬ存ぜぬは許しません」The catch phrase is "I do not forgive the unknown ." Le slogan est "Je ne pardonne pas à l'inconnu ". 
La frase clave es "No perdono lo desconocido ".Portuguêsポルトガル語→The Emperor’s Naked Army Marches On, em japonês: ゆきゆきて、神軍, Yuki Yukite Shingun, é um documentário realizado por Kazuo Hara e que aborda a busca de Okuzaki Kenzo, sobrevivente da Segunda Guerra Mundial, pela verdade acerca de um assassinato ocorrido logo após o termino da guerra na Nova Guiné. 40 anos após o fuzilamento, que legalmente poderia ser considerado um homicídio dadas as circunstâncias de término da guerra, ele vai atrás dos combatentes envolvidos para iluminar a questão e exigir que se desculpem. Okuzaki passou anos presos na cadeia em virtude de protestos relacionados à guerra, o que envolveu atirar com estilingue e fazer charges pornográficas com a imagem do Imperador Hirohito e matar um homem. Ele se propôs como missão de vida denunciar os crimes de guerra japoneses, utilizando para isso um carro de som.《祭軍魂》(日语:ゆきゆきて、神軍)是1987年日本的战争纪录片,由原一男导演,其标题緣自經典童話皇帝的新衣。 该纪录片圍繞曾參與第二次世界大战太平洋戰爭的62歲退伍军人奥崎謙三。日軍投降過後,他在新畿內亞的部隊卻兩名士兵無故死亡,電影拍攝他追究此事原委的過程。著名纪录片导演埃洛·莫里斯列出在爛番茄上,將本片列為他最喜歡紀錄片頭五位。

奥崎 謙三(おくざき けんぞう(兵庫県出身、1920年2月1日 - 2005年6月16日)は、日本の元・陸軍軍人(最終階級は上等兵)、バッテリー商、著述家、俳優、アナーキスト。昭和天皇パチンコ狙撃事件、皇室ポルノビラ事件やドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』への出演で知られる。自らを「神軍平等兵」と称していた。
Русскийロシア語→Кэндзо Окузаки 奥崎 謙三(1 февраля 1920 г. - 16 июня 2005 г. ) - бывший солдат японской армии (последний класс - рядовой ), продавец батарей, писатель , актер и анархист . Он известен за появление в пачинко снайперского случае Showa императора , императорской порнография вилле случае и документальный фильме « Yukiyukite синто ». Он называл себя « Главным полководцем ». 

Deutschドイツ語Kenzo Okuzaki  奥崎 謙三(1. Februar 1920 - 16. Juni 2005 ) ist ein ehemaliger Soldat der japanischen Armee (der letzte Rang ist ein Privatsoldat ), ein Batteriehändler, ein Schriftsteller, ein Schauspieler und ein Anarchist . Er ist bekannt für seinen Auftritt im Scharfschützenfall Showa Emperor Pachinko, im Fall der kaiserlichen Pornografie-Villa und im Dokumentarfilm " Yukiyukite Shingun ". Er bezeichnete sich selbst als " Hauptkriegsherr ".

「日本兵たちは慰安婦(性奴隷)を殺して、彼女たちの(人)肉を食べた」中国政府は強制的に性奴隷にされた女性たちの苦悩を記録した(以前は未公開)ドキュメンタリー(資料及び映像)を公開した。

①ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ氏は死去の74年前(当時20歳)日本軍に食われるのを辛うじて逃れた(空軍兵(搭乗機が撃墜され)他の8人は捕まり(5人は食べられた)処刑された)The ninth, and only one to evade capture, was future U.S. President George H. W. Bush, then a 20-year-old pilot②오가사와라 사건(小笠原事件, 영어:Chichijima incident) 혹은 지치지마섬 식인 사건(父島事件)은 1945년 2월 23일부터 25일O incidente de Chichijima (também conhecido como o incidente de Ogasawara) ocorreu no final de 1944Der Begriff Ogasawara-Inseln (jap. 小笠原諸島 Ogasawara-shotō)


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