日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【第442連隊戦闘団442-й пехотный полк】The Nisei, Japanese American soldiers in World War II『ブリエアの解放者たちUnlikely Liberators』美国陆军第442步兵《Marsz ku chwale》The 442nd Regimental Combat Team[Diary Reveals Reality of Living in a WWII Japanese Internment Camp](CANADA)2016




スペイン語⇒第442連隊戦闘団El 442.º Regimiento de Infantería (en inglés: 442nd Regimental Combat Team)?, en japonés: 第442連隊戦闘団 fue un regimiento de infantería estadounidense formado por estadounidenses de ascendencia nipona conocidos como Nisei, cuyo valor fue legendario en el teatro europeo y sumaron 18 143 condecoraciones, la mayoría conseguidas en el llamado Camino a Roma y en la reconquista de Francia. El 442.º Regimiento de Infantería está considerado como el regimiento más condecorado de la historia del Ejército de los Estados Unidos de Norteamérica.

第442連隊戦闘団
(だい442れんたいせんとうだん、英: 442nd Regimental Combat Team)は、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍が有した連隊規模の部隊である。士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていた。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示している。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られる[2]。第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。
ー私がアメリカについた頃、酔っぱらった経営者からそんな話を聞かされたのを思い出す。心に残る話だった(その当時は自らが将来「その一人」となることはさすがに予想していなかったが)。
「忠誠」「アメリカ人」であることを示すため欧州の最前線へ志願した日系人部隊がいた。まったく当時の私にはあずかり知らぬところ。また「東京ローズ」とおなじく30何年をへて、自らが「日系人」になった視点から見直してみると人事ではない。何度も紹介したよう戦争が勃発するや日本語もしらず日本なぞ行ったこともない2世、3世から混血まで一切喝采全財産没収の上強制収容所送りになった。
なかなか特に「本国」在住の日本人の方々には伝わり難いのはしょうがないことであろう。
第442步兵戰鬥团(英语:442nd Regimental Combat Team),是美国陆军在第二次世界大戰時期的一個幾乎由第二代日裔美国人組成的團級作戰單位,士兵主要由在美國出生的日裔美国人组成,儘管他們的許多家人在當時被囚禁。
442团正式编成于1943年4月,主要在第二次世界大戰期間的欧洲战场戰鬥[2]。他們曾是一個自給自足的部隊,且在包括義大利、法國南部與德国在內的戰鬥有過非凡的榮譽,是美國陸軍史上獲獎最多的步兵團,曾獲八次美國總統部隊嘉許獎,且有21位成員獲得二戰荣誉勋章,被暱稱為紫心部隊(Purple Heart Battalion)[3]。
ーしかし重複になるが、「人種差別政策」とさまざまな「制限・抑圧」がはじまったのは何も「大戦勃発」によってではない。すでに西海岸一帯(特にカナダ)ほとんどがBC州・バンクーバーに集中していたアジア人たちへの現在でいう「ヘイトデモ」(もっと憎悪に満ちた「ポグロム」に近い)そのものは1890年代からはじまっていた(豪州もふくめ、中国人や日系人に対する白人住民たちの嫌がらせや襲撃も増していた時代)。
また軍隊に狩りだされながらもアメリカ国内から出ることすら許されなかった「黒人兵」部隊も同時期、第一線への参加がはじめて認められた(それまでは後方勤務=いわゆる「後備役」「予備役」)。
The 442nd Regimental Combat Team is an infantry regiment of the United States Army, part of the Army Reserve. The regiment was a fighting unit composed almost entirely of American soldiers of Japanese ancestry who fought in World War II. Most of the families of mainland Japanese Americans were confined to internment camps in the United
States interior. Beginning in 1944, the regiment fought primarily in Europe during World War II,[2] in particular Italy, southern France, and Germany.
The 442nd Regiment was the most decorated unit for its size and length of service in the history of American warfare.[3] The 4,000 men who initially made up the unit in April 1943 had to be replaced nearly 2.5 times. In total, about 14,000 men served, earning 9,486 Purple Hearts. The unit was awarded eight Presidential Unit Citations (five earned in one month).[4]:201 Twenty-one of its members were awarded Medals of Honor.[2] Its motto was "Go for Broke".
ー下に付属した記事があるのでそちらに詳しくは譲るとして、私は「日本兵」の側からみた「日系人」(ここではアメリカ軍)について参照しながら変わった角度から探ってみたいと意図している。
幼少時代から愛読した戦記文学、とりわけ「大岡昇平氏」(44年3月に召集され、45年1月にフィリピンミンドロ島で捕虜となる)の著作で「日系人」(二世)について知った。むろんその頃は上記と選ぶところなく「日本人」の側から眺めたに過ぎない。大岡氏はマラリアで40℃の高熱が続き、ジャングル内で人事不省になっているところを「捉まった」(『俘虜記』から)。大岡氏が面した「通訳」たちについてこう表現していたのが興味深い、「ほんの1~2キロ先にこれほど血色のいい「同胞」がいるとは驚きだった」「このときほど「敗者」の立場を痛感したことはない」(若干細部は異なっているかもしれないのを明言しておく)。
ー88年に亡くなられてしまった氏であるが、とりわけ「帰化」して以来。この「同胞」という意味についてずっとたずねてみたいと思っていたのが思い出される。
Introduction:
Associés dans leur propre pays aux crimes du régime shōwa, ces « combattants de la liberté » (Freedom Fighters) devaient combattre à la fois le racisme des nations de l'Axe Rome-Berlin-Tokyo, mais également le racisme ambiant aux États-Unis, exacerbé par « l'état de guerre ». Comme nombre d'Américains membres des communautés allemandes et italiennes, la communauté nippo-américaine a subi les préjudices sociaux de l’exclusion et du mépris alliés à des préjudices juridiques d’internement sans procès juste et équitable malgré la constitution des États-Unis qui assure que tous les citoyens naissent libres et égaux. Après la guerre, ils contribueront à faire changer le statut d'Hawaï, de Territoire à État, au sein de l’Union. La population d'Hawaï élira même le lieutenant Daniel Inouye de la 442e RCT et le capitaine Spark Matsunaga du 100e bataillon au poste de sénateur de l’État d’Hawaï. Pour la première fois dans l'Histoire américaine, les deux sénateurs d'un même État venaient de la même unité militaire1.
俘虜収容所の日系人たち(フィリピンから沖縄へ):
ー大岡氏の描写は興味深い。サンホセ野戦病院(ミンドロ島)からタクロバン(レイテ島)の病院にうつると「おい、おまえ、こっちに来るのよ」と二世が叫ぶ声が聞こえたそうだ(「テントの中には、見慣れた日本兵のイガグリ頭が並んでいた」)。続いてあらわれた日系人は「こんなのみたことある?」と一枚のビラを見せてきたらしい。それはアメリカ軍が日本軍にばらまいた「投降勧告ビラ」(「安全な米軍の保護の下、戦争が終わるのをまちましょう」とあり、ニッパ編みや畑仕事をしている南方の俘虜たち(寿司の絵や、フクチャン*のマンガなどが組み合わされ)目だけ隠してあり、笑い顔に白い歯がみえていた)だった。「はじめてですね」と答え、続けて二世の出身地(ここも不思議に感じた。「二世」なのになぜ「日本の出身地」なのかと)をたずねると「ここではそれはいわないことになっている」(戦場での意味)と返答した。また、病棟内の「軍医検診」の二世通訳も描いていた。氏の前にいる「仮病」(重態で起きて食事をすることができないと称していた(胸にお盆をのせ、一口一口ゆっくりと(だらだら)食べたそうだ)後片付けの関係で配膳係と隣人に、ひときわ迷惑をかける)を疑われた兵に突然「起きろ!」と命令したらしい(検診は寝たままでも行われるので、軍医が面食らうほど)。大岡氏の側から二世の顔はみえなかったけど、のそのそと起き上がるその俘虜の表情(いつも(人を食ったように)笑っている)にあらわれていた(「やがてニヤッと笑った」)。「ずるしちゃいけないよ」、以降その俘虜は起きて食事をするようになったという。もうひとつ思い出したのは、捕えられたときはじめ「国定忠治」と名乗った俘虜(実名不明)が通訳の二世に問い詰められ、「伊達野忠治」(京都の市井語で「偽の」を意味するとのこと)といい直した(国定忠治を知っていた二世も、さすがにそれは知らなかったからごまかせたという)。以降、復員までずっとその「偽名」で通した(大岡氏も「伊達野」と呼んでいる)。しばらくすると彼らのほとんどは沖縄に去り、大岡氏はここでも「敵国の制服を着た’同胞’をみなくなった」と記している。沖縄戦の写真集で米軍の鉄兜を被り、軍服姿のたくましい二世。しゃがんだ姿勢で笑いながら話しかけてるのは、横に座っている降服した日本兵。出血し傷だらけ。ボロボロの軍服を着て痩せ衰え、好対照だった。あと、ドイツ系アメリカ人German americanの俘虜監視員とのやりとりも忘れられない。「ドイツ人である君が祖国と戦うのは変に思わないか?Don't you think it strange that you, a German, are fighting against your country?」と尋ねると、「我々がアメリカに来たのは随分むかしの話だIt's been a long time since we came to America」と答えたという。ケルンの労働者A worker from Cologneだったというドイツ海軍の俘虜German Navy prisonersについても加えると、「君がヒットラーに従って戦ったのは、彼が正しいと考えたからか?Did you follow Hitler and fight because you thought he was right?」「いや、そうではないNo, it's not. ただ皆がそうしたから従っただけだI just followed it because everyone else did it. そして今は自分が間違っていたことが分かっているAnd now I know I was wrong」。
*Fuku-chan (jap. フクちゃん) ist eine Manga-Serie von Ryūichi Yokoyama. Die Yonkoma-Serie erschien von 1936 bis 1971 in japanischen Zeitungen und gehört damit zu den am längsten gelaufenen japanischen Comicstripserien.
日系部隊「442連隊」とは
http://www.us-lighthouse.com/life/japanese-american/442nd-special-unit.html
第442部隊の訓練場ではハワイ兵と本土兵が一緒だったが、バックグラウンドの違いから両者の間には対立が絶えなかった。手を焼いた上層部が、ハワイ兵を訓練所から最も近いジェローム収容所へ見学に行かせた。イノウエ議員もその1人だった。議員は述懐する。「行きは遠足気分だったのに、帰りは皆、無言でした。ほとんどの人が同じことを考えていたのではないでしょうか。もし自分がこの中に入れられたとしたら、それでも志願しただろうか、と」(c)A Tradition of Honor by Go For Broke Education Foundation
 前線に出ることが唯一の生きる道
太平洋戦争開戦前年の1940年、政府は全米で徴兵制度を再導入した。同時にハワイ領防衛軍も正式に米軍の一部となり、3千人余りが徴兵された。パールハーバー攻撃後、米軍が頭を痛めたのが、その半数にあたる日系兵士の扱いだ。軍部はミッドウェー海戦の勝敗いかんで、日本軍がハワイに侵攻する可能性大と見ていた。日本兵が米軍の軍服に身を包んで紛れ込むと見分けがつかない。そこで出した対策が、日系兵士を集めて本土へ送ることだった。こうして生まれたのが、ハワイの日系兵からなる「第100歩兵大隊」だ。彼らは極秘裏にミシシッピ州の訓練場に送られたが、第100大隊という呼称に、軍の戸惑いが見え隠れする。通常、師団の下に連隊があり、連隊は第1~第3大隊で成り立つが、日系兵士の大隊には、所属すべき連隊や師団がなかった。そもそも戦場に送り出すのが目的で結成された大隊ではなかったからだ。100という突拍子もない数字は、とりあえず訓練場に送り込まれた兵士たちの立場を象徴していた。彼らは自分たちのことを「ワンプカプカ」と呼んだ。ハワイ語でプカは穴という意味。その延長でゼロもプカという。
 前述のイノウエ議員の言葉にもあるように、日本軍の奇襲を目の当たりにした彼らは、自分たちの置かれた立場に、さらに危機感を募らせていた。訓練で良い成績を残し、一刻も早く前線に出て忠誠心を示すのが、唯一の生きる道だと考え、モットーはあえて「リメンバー・パールハーバー」と決めた。訓練で彼らは驚異的な成績を残した。重機関銃の組み立ては陸軍平均で16秒だったが、第100大隊が残した平均記録は5秒だ。重機関銃分隊の行進は、普通1時間4㎞のペースのところ、彼らは1時間5.3㎞のペースで8時間ぶっ通しで歩いた。だがこの時点で、第100大隊が戦場に出る可能性はゼロに等しかった。
 なぜなら米軍は開戦後、日系人の志願を禁止していたからだ。軍部では「日系人の忠誠は信用できないため、前線に出すべきではない」という意見が大勢を占めていた。この不信感を覆したのが、ワンプカプカの優秀な訓練成績であり、ハワイ大学の学生たちが結成したトリプルV(Varsity Victory Volunteers:学生必勝義勇隊)の活動だった。
 ハワイ大学の学生たちは、当時ROTC(予備士官訓練)が義務付けられていたが、開戦後早々に、日系人学生だけが突然解任された。そこで彼らは嘆願書を出して部隊の編成を求め、忠誠を示すべくトリプルVを名乗って道路工事などの肉体労働に精を出していた。本土でも日系二世から成るJACL(Japanese American Citizens League:日系市民協会)が、日系部隊編成に向けてロビー活動を行った。
  彼らの必死の行動が、陸軍トップであるマーシャル参謀長の心を動かし、日系人の志願を可能にした。43年2月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第442連隊の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして彼らは、晴れて「アメリカのために死ねる権利」を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。
 志願兵募集に、ハワイでは募集人員の10倍にあたる若者が殺到したが、本土の兵役年齢にある日系二世男子のうち志願したのは、わずか約5%だった。強制収容所にいた二世たちの、苦しい胸のうちが透けて見える。
 「志願したと伝えると、『お前はオレたちよりも偉いわけじゃない。現にこうして収容されているじゃないか。そんなことをすれば、日本の家族はどう感じるんだ』と非難されました。でも私は言ったんです。『今ここにいるのは、これまで何もしてこなかったからだ。今がチャンスなんだ。ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる。生きて帰って来れないかもしれないが、それでも価値があるんだ』と」(元442連隊のケン・アクネさん)。

ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる第442連隊は、休む間もなく失われた大隊救出の命令を受けた。この理由は明らかではないイタリア戦線の活躍で442連隊は「司令官が欲しがる部隊」に1943年9月8日、連合軍によるイタリアのサレルノ上陸作戦でイタリアが降伏し、イタリア各地はドイツ軍によって制圧された。ローマ入城を目指して第100大隊がサレルノに上陸したのは、同月22日。初戦から「前線で決して振り返らない兵」と称賛を得たが、彼らが真の勇敢さを発揮したのは、モンテ・カッシーノの戦いだ。カッシーノはドイツ軍が連合軍のローマ侵攻を防ぐために死守せんとしたところで、イタリア戦線の激戦地として知られている。イタリア上陸時、1300名いた第100大隊の兵力は、カッシーノ戦後には半分以下になっていた。
 その後、連合軍のアンツィオ上陸作戦に参戦するため、第100大隊もアンツィオの前線に就く。ここを突破すれば、ローマを陥落させたも同然だった。この頃、激化した東部戦線におけるドイツ軍兵力を分散するため、西部戦線を作り出さんと、連合軍は北フランスからの上陸を計画していた。これが「史上最大の作戦」と呼ばれる、総兵力300万人以上を投入したノルマンディー上陸作戦だ。フランスを奪回するには、北フランスにあるノルマンディー上陸と、南フランスへの道を切り開くアンツィオ上陸が重要なポイントだった。ここでも第100大隊は、積極的な戦闘で多大な功績を残した。アンツィオが陥落し、連合軍がローマを占領した翌日、ノルマンディー上陸作戦が決行された。
 訓練を終えた第442連隊に、イタリアへの出動命令が出たのはこの頃だ。連隊のモットーは「ゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ)」。元442連隊のノーマン・イカリさんが語る。「ナポリに到着したら、僕らを見つけた白人部隊が『ワンプカプカ!』と手を振って喜ぶんです。それで先陣だった第100大隊が、日本人部隊の評判を築いてくれたのだと知りました」。
  第442連隊が第100大隊とチームを組んで参戦したのは、ローマ北部のベルベデーレ戦から。ベルベデーレ突破には数日かかると見られていたが、第442連隊が要した時間はわずか3時間弱。前線に出てから約1年で、日本人部隊はすべての司令官が欲しがる部隊となった。9月末、彼らは連合軍が苦戦していたフランス戦線に参戦するために、戦闘半ばでイタリアを離れた。

何カ月も連合軍の到着を待っていた人々は米軍の軍服を着た日系兵の姿に歓喜した
多大な犠牲者を出した「失われた大隊」
 救出後の戦功をたたえるセレモニーで、整列した日本人部隊を前に、師団長が苦々しく言った。「全員集合させろと言ったはずだ」。中佐が答えた。「彼らが全員です」。約3千人いた兵力は3分の1になっていた。
ブリエアの解放と失われた大隊救出
ドイツとの国境に近い小さな山間の街ブリエアは、当時、ナチ親衛隊のSSが牛耳っていた。この一帯には、針葉樹がうっそうと生えた「黒い森」と呼ばれるボージュ山脈が走っており、多くの師団がこの「黒い森」で、ドイツ軍の激しい抵抗に遭い足止めを食った。無数の地雷が仕掛けられた森の中を、第442連隊は懸命の前進を続け、10月19日、ついに彼らはブリエアに抜けた。ノルマンディー上陸以来、SSの監視下で何カ月も連合軍の到着を待っていた街の人々は、米軍の軍服を着た日系兵の姿に歓喜した。
 ブリエアの解放後、連合軍はドイツ入城を目指して、山脈をさらに東に進んでいった。ちょうどそのころ、無理な戦法で敵陣地に侵攻したテキサス部隊がドイツ軍に包囲されてしまった。このニュースは、「失われた大隊」としてすぐさま全米に発信された。第442連隊が「失われた大隊救出のための出動準備」命令を受けたのは、休息のために近隣のベルモント村に入った翌日だった。炸裂する砲弾の中を駆け抜けること4日間。ついに同じテキサス連隊の仲間でさえ助け出せなかった「失われた大隊」を救出した。212名のテキサス兵救出のために、日本人部隊が出した死傷者は約800名に上った。
 現在ブリエアには、解放を記念して「リベラシオン(解放)通り」と名付けられた道路がある。ここから森へと伸びる道は「第442連隊通り」だ。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは、人種のいかんに関わらないことを改めて教えてくれた米軍第442連隊の兵に捧げる」と刻んである。
 ブリエアで多大な死傷者を出した第442連隊は、多くの補充兵が投入された後、1945年4月、極秘でイタリアに戻った。ドイツ軍が9カ月かけて築いた北イタリアの防衛線「ゴシックライン」が、日系部隊が離れていた半年間、まったく前進していなかったため呼び戻されたのだ。「日系部隊が来たからには、1週間で突破できる」と期待された防衛線の砦モルゴリト山は、第442連隊の奇襲作戦によりわずか31分で陥落した。連合軍がゴシックラインを突破して半月後、ヒトラーが自殺し、翌月、ドイツ軍は降伏した。

太平洋戦線に出たMISの日系兵士たち
パールハーバー攻撃より約1カ月前の1941年11月1日、米陸軍は極秘でMIS(陸軍情報局)の語学学校を開設した。これは日米開戦を想定した学校で、6000人以上の2世がMISに志願した。第100大隊と第442連隊がヨーロッパ戦線に従事したのに対して、彼らは太平洋戦線で白人兵士と一緒に、前線で捕虜の尋問や収集物の翻訳、また日本軍の通信傍受などの任務に就いた。
元日系兵士の証言
フィリピン戦線で尋問、「生きて帰れ」と説得
■元MISジョージ・フジモリさん
戦前はボイルハイツに住んでいましたが、マンザナーに連れて行かれたのが20歳の時です。ある日、陸軍大佐が日英両語できる人材を探してマンザナーに来ました。志願したのは、やはり忠誠心を示しておきたいという思いがあったからです。その時マンザナーから志願したのは、2人だけでした。
 本来は8カ月の訓練を受けるのですが、私は1カ月で本部があったオーストラリア行きを命令され、そこからフィリピンのルソン島に行きました。主な仕事は捕虜の尋問でした。私の日本語は確かではなかったため、尋問したのはほとんど農家から徴兵された兵士たちで、将校の尋問は日本で教育を受けた帰米2世が担当しました。
 米兵はマシンガンも撃ち放題だったのに、日本兵は弾丸も4、5発しか与えられておらず、ろくに食べる物もなかったので、それはかわいそうでした。自害する兵士も多かったため、捕虜兵にはいつもまずタバコをあげ、「日本では生きて帰ると恥と言われるが、アメリカではヒーローなんだ。命を無駄にせず、生きて帰って日本を再建するんだ」と説得しました。
 1度だけ2人の日本兵を逃がしたことがあります。彼らはすでに日本軍から逃げ出し、現地の女性と結婚して、フィリピン人に紛れて生活しているとのことでした。「日本に帰っても、もう帰る家もない」と土下座して頼んだのです。先日、フィリピンで日本兵が見つかったとニュースになった時は、彼らのことではないかと思いました。名前も聞かなかったので、それが彼らなのかはわかりません。
 フィリピンで終戦になり、進駐軍として日本に行きました。日本人を安心させるために、横浜に行ったこともあります。子供はGIを見つけると「キャンディー」と寄ってきましたが、大人は鬼畜米英と叩き込まれていたので、怖がって家から出てこなかったのです。
  帰還してシカゴに行きました。戦前は大卒でも仕事がなかったのですが、戦後は多くが中西部に行き、能力に見合った仕事に就くことができるようになりました。

「覚えているのは砲弾の嵐だけ」
 元第100大隊マサト・タカハシさん
44年にマンザナーから志願しました。兄も志願して第442連隊にいましたし、家族は全員マンザナーの収容所にいたので、何とかしなければ、という思いがありました。私たちの部隊は、訓練期間をあと2週間残した段階で、急遽フランス線戦に行くことになりました。「失われた大隊」救出の後です。第100大隊の配属になりましたが、その時は人が足りないとしか知りませんでした。その頃前線に出ていたのはほとんどが補充兵で、初戦から参戦したハワイ兵は、数えるほどしか残っていませんでした。そこからイタリア線戦に行きゴシックライン攻撃に参戦しましたが、覚えていることと言えば、砲弾の嵐以外にありません。とにかくものすごい数の砲弾が打ち込まれました。その後、イタリアで終戦になりましたが、もう前進しなくていいんだという安堵が何よりも大きかったですね。
「家族は収容所の中で他に手段がなかった」
■元第442連隊テツオ・アサトさん
ハートマウンテン収容所から44年に徴兵されました。志願兵の募集が始まった時は17歳だったので、志願したかったのにできなかったんです。私の知る国はアメリカしかなかったので、徴兵されなくても戦争に行くつもりでした。開戦の翌日、FBIに連行された父も「分別のつく年なのだから、自分で決めればいい」と言ってくれました。
  私が参戦したのはブリエアの後で、イタリア線戦に向かいました。ドイツ軍に我々の動きを知られないために、移動する時は連隊記章を外すように指示されました。ゴシックラインは3000フィートの高地で、ドイツ軍最強の部隊が最後の砦として頂上を守っていました。3大隊が夜を徹して山を登り奇襲をかける作戦で、認識章など音を立てそうな物はすべて服に縫い付けました。何千人もの兵士が、どうやって物音1つ立てずに登れたのか、私にもわかりません。
 最初にワンプカプカが輝かしい戦功を立て、我々が後に続いたわけですが、やはり何かを証明しなければならないという思いが強かったのだと思います。だって我々が国のために戦っている時も、家族は収容所の中にいたわけですから。日系人の口ぐせは「仕方がない」でしたが、それはできることにベストを尽くそうということです。日系人の政治家もいなかった当時は、それ以外に手段がなかったのです。

前線からの手紙
 国のために尽くし 犬死はしません
日本語しか読み書きできない両親のために、兵士たちはつたない日本語を駆使して親へ便りをしたためた。ノボル・フジナカさんは3人兄弟の末っ子で、子供が生まれたばかりの長兄に代わって、2番目の兄とともに志願した。以下はフジナカさんが両親に宛てた手紙だ。
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「長らく御無沙汰致してすいません。御父母様は如何ですか。(中略)僕は長いあいだ日本語をつかわないので今では頭をしぼりながら此の手紙を書いて居ます。僕もまださいさい日本語で御父母様に御手紙を書きとうはございましたが、なんと言ってもへたな僕ですからどうぞかんにんして下さい。(中略)御父母様、僕達の事は心配して下さるな。何事にも気をつけますから、どうぞ御安心下さいませ。かならず犬じにはしません。御母様のいったとおりしぬる事はだれでも出来ます。ほんとうのてがらはよく国のためにつくし、その上、いきてかえるのがてがらです。(中略)では、御父母様どうそ御体を大切にして下さい。(中略)僕達兄弟のことは御心配しないようにして下さい。出来るだけようじんをいたします。けしてつまらない事はしません。えんがあれば又僕達兄弟は御父母様のこいしきあいをうける事が出来ますでしょう。ではめでたい日まで。さようなら
 こいしき登よりこいしき御父母様え」 (原文ママ)
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フジナカさんは「失われた大隊」救出作戦2日目、ボージュの森の中で戦死した。23歳だった。

戦地の息子に捧げる母の祈り
戦場で最期の言葉は日本語で「お母さん」
息子の無事を祈る母は、日々陰膳を備え、仏壇に拝みつつ、激励の手紙を書いた。毎日息子の足を洗うつもりで、石を2個風呂に持って入り、足を温めるつもりで石を布団に入れて寝たのは、元442連隊のミノル・キシャバさんの母だ。雨と雪が続いたブリエアでは、多くの兵士が足に凍傷を負っていった。
元442連隊のサミュエル・ササイさんの母は、「星の旗をよく守りなさい。ササイの家に恥をかけることをしてはいけません」と書いて送った。戦死した兵士たちが今際のきわに絞り出した言葉は、ほとんどが日本語の「おかあさん…」だったという。
 資料:「ブリエアの解放者たち」ドウス昌代著、「Japanese Eyes, American Heart」Hawaii Nikkei History Editorial Board編集(2005年8月1日号掲載)

Japanese Americans (Japanese: 日系アメリカ人) are Americans of Japanese ancestry. Japanese Americans were among the three largest Asian American ethnic communities during the 20th century; but, according to the 2000 census, they have declined in ranking to constitute the sixth largest Asian American group at around 1,469,637, including those of partial ancestry.

Japanische Amerikaner sind die Einwohner Nordamerikas mit japanischer Abstammung. Dieser Begriff umfasst hauptsächlich Einwanderer in den Vereinigten Staaten und deren Nachkommen. Heute wird auch das Wort Nikkei verwendet, welches auf Japanisch japanische Abstammung bedeutet. Die erste Generation kennt man auch als Issei (一世), bestehend aus den Schriftzeichen für die Zahl „Eins“ und „Generation“. Folgerichtig ist die zweite dann Nisei (二世), die dritte Sansei (三世), die vierte Yonsei (四世) und die fünfte Gosei (五世). Allerdings sprechen die Menschen oft schon in der Nisei oder Sansei kein Japanisch mehr.


ポーランド語⇒442 Pułk Piechoty – jednostka wojskowa armii amerykańskiej utworzona podczas II wojny światowej; sformowana została jako 442nd Regimental Combat Team (442. pułkowy zespół bojowy) złożony z obywateli amerykańskich pochodzenia azjatyckiego (głównie japońskiego zwanych Nisei). Powstały dwa lata wcześniej, również głównie z japońskich Amerykanów, 100. Samodzielny Batalion Piechoty włączony został w skład 442 pułku jako jego 1. batalion 10 sierpnia 1944. Oprócz tego, w skład jednostki wchodziły jeszcze dwa bataliony piechoty, 522 batalion artylerii polowej, 232 kompania inżynieryjna i kilka innych mniejszych pododdziałów.Po przeszkoleniu w USA wysłany do Europy lądował w Anzio we Włoszech, później skierowany do wschodniej Francji, gdzie brał udział w oswobodzeniu miasta Bruyères oraz w uratowaniu resztek otoczonego przez nieprzyjaciela „straconego batalionu”[1] w okolicy Biffontaine. Żołnierze 442 pułku otrzymali najwięcej odznaczeń bojowych w historii armii amerykańskiej (w tym 21 Medali Honoru, 52 Krzyży za Wybitną Służbę oraz trzy i pół tysiąca medali Purple Heart) i zyskali przezwisko „The Purple Heart Battalion”.Następnie skierowany 28 listopada na granicę francusko-włoską, gdzie przebywał do 25 marca 1945, kiedy włączono go w skład 92 Dywizji Piechoty 5 Armii USA; do walk skierowany ponownie w rejonie Monte Belvedere (7 kwietnia) i Carrara (10 kwietnia). Należący do jednostki 522 batalion artylerii polowej pozostał w północnej Francji, skąd wkroczył wraz z innymi wojskami amerykańskimi do Niemiec.Jednym z żołnierzy Pułku był Spark Matsunaga – późniejszy polityk.

スロベニア語⇒442. polkovna bojna skupina (izvirno angleško 442nd Regimental Combat Team; kratica 442 RCT) je bila pehotna polkovna bojna skupina Kopenske vojske Združenih držav Amerike, ki je bila sestavljena iz japonskih Američanov.V vojaško zgodovino ZDA se je 442 RCT vpisala kot najbolj odlikovana vojaška enota svoje velikosti in glede na dolžino bojevanja.
ロシア語⇒442-й пехотный полк (англ. 442nd Infantry Regiment) — военная часть Вооружённых сил США, принимавшая участие во Второй мировой войне, сражавшаяся в Европе — в Италии, на юге Франции и в Германии. Полк почти полностью состоял из американских солдат японского происхождения: нисэй и интернированных японцев.В полку в общей сложности служило около 14000 человек, 9486 из них были удостоены награды «Пурпурное сердце», 21 военный был награждён Медалью Почёта. Этот полк является рекордсменом по числу награждённых «Пурпурным сердцем» за всю историю американской армии, считая общее количество наград к числу военнослужащих подразделения, получив за это прозвище «Батальон Пурпурное сердце» (англ. Purple Heart Battalion).[1][2]История背景=О формировании 442-го пехотного полка, состоящего из японцев, объявил президент США Франклин Рузвельт[3]. Полк был создан на основе 100-го пехотного батальона за счёт японских добровольцев, прибывших с Гавайских островов и лагерей для интернированных лиц. Входил в 92-ю пехотную дивизию 5-й армии США. Пройдя обучение в штате Миссисипи, подразделение отбыло в город Оран на севере Африки, чтобы присоединиться к союзным силам вторжения в Италию.28 мая 1944 года полк высадился в городе Анцио. Первый бой принял 26 июня 1944 года в Суверето, выбив из города немцев. Далее полк продвигался на север, дойдя до города Сассетта. Освободив его, продвигался в сторону реки Арно, освободив 1 июля коммуну Чечина. Продвигаясь выше и преодолевая ожесточённое сопротивление немецких войск, американцы 7 июля заняли город Кастеллина-Мариттима. Форсировав 25 июля реку Арно, полк находился на отдыхе по 15 августа. По 31 августа военные охраняли мосты через реку. 11 сентября 1944 года 442-й полк был выведен из состава 5-й армии и прикреплён к 36-й пехотной дивизии 7-й армии США.Затем военнослужащие полка тренировались на аэродроме к югу от Рима вместе с военно-десантной группой для высадки на планерах на юг Франции в районе города Ле-Мюи. После этой операции очищали от мин захваченные территории, охраняли дороги и туннели. Затем 30 сентября высадились в Марселе и в течение следующих нескольких недель перемещались вдоль долины реки Роны. 14 октября началась подготовка, а 15 октября — штурм высот возле французской коммуны Брюийе́р (фр. Bruyères), которую немцам было приказано защищать всеми силами, так как это было последнее препятствие войск союзников перед вторжением в Германию. После захвата Брюийер полк получил короткую передышку и двинулся в сторону коммуны Биффонте́н (фр. Biffontaine), где состоялась очередная операция, в результате от немцев была освобождена и эта территория.После жестких октябрьских боёв, через горный массив Вогезы, 442-й полк был передислоцирован в Приморские Альпы и Лазурный Берег, где не было никаких серьёзных военных действий и полк охранял участок франко-итальянской границы, захватывая иногда шпионов и диверсантов. 23 марта 1945 подразделение было отправлено обратно в Италию на Готскую линию. Здесь, после некоторого затишья, в апреле полк участвовал в боевых действиях, взяв 25 апреля последний оплот немцев — город Аулла. После чего немецкие войска начали массово сдаваться. 2 мая 1945 года вместе с окончанием войны в Италии, 442-й полк завершил свою миссию во Второй мировой войне.В 1969 году 442-й пехотный полк США был расформирован, оставшиеся военнослужащие переведены в 100-й пехотный батальон, который является действующим подразделением Армии США и в настоящее время.





Les Canadiens d'origine japonaise (日系カナダ人, Nikkei Kanadajin, français : Canadiens japonais) sont des citoyens canadiens d'ascendance japonaise. Les Canadiens d'origine japonaise sont principalement concentrés dans l'Ouest canadien, en particulier dans la province de la Colombie-Britannique, qui abrite la plus grande communauté japonaise du pays, la majorité d'entre eux vivant à Vancouver et dans ses environs. En 2016, il y avait 121 485 Canadiens d'origine japonaise au Canada.

Японские канадцы (日系カナダ人, Nikkei Kanadajin, французский: Canadiens japonais) — канадские граждане японского происхождения. Канадцы японского происхождения в основном сконцентрированы в Западной Канаде, особенно в провинции Британская Колумбия, где проживает самая большая японская община в стране, большинство из которых проживают в Ванкувере и его окрестностях. В 2016 году по всей Канаде проживало 121 485 канадцев японского происхождения.

From 1942 to 1949, Canada forcibly relocated and incarcerated over 22,000 Japanese Canadians—comprising over 90% of the total Japanese Canadian population—from British Columbia in the name of "national security". The majority were Canadian citizens by birth and were targeted based on their ancestry.[1] This decision followed the events of the Japanese Empire's war in the Pacific against the Western Allies, such as the invasion of Hong Kong, the attack on Pearl Harbor in Hawaii, and the Fall of Singapore which led to the Canadian declaration of war on Japan during World War II. Similar to the actions taken against Japanese Americans in neighbouring United States, this forced relocation subjected many Japanese Canadians to government-enforced curfews and interrogations, job and property losses, and forced repatriation to Japan.

Die Internierung japanischstämmiger Amerikaner war eine erzwungene Umsiedlung und Internierung von annähernd 120.000 Japanern und japanischstämmigen Amerikanern von der Westküste der Vereinigten Staaten während des Zweiten Weltkriegs. 62 Prozent der Umgesiedelten waren Bürger der Vereinigten Staaten. Während etwa 10.000 in der Lage waren, in einen anderen Teil des Landes gemäß ihrer eigenen Wahl umzuziehen, wurde der Rest – schätzungsweise 110.000 Männer, Frauen und Kinder – in hastig aufgebaute Lager im Landesinneren umgesiedelt, genannt War Relocation Centers.

Интерни́рование япо́нцев в США — насильственное перемещение около 120 тысяч японцев (из которых 62 % имели американское гражданство) с западного побережья Соединённых Штатов Америки во время Второй мировой войны в концентрационные лагеря, официально называвшиеся «военными центрами перемещения». Во многих публикациях данные лагеря называют концентрационными[1].







Japanese Australians (日系オーストラリア人, Nikkei Ōsutoraria-jin) are Australian citizens and residents who claim Japanese ancestry.

Les Australiens japonais (Nikkei Ōsutoraria-jin) sont des citoyens et résidents australiens qui revendiquent une ascendance japonaise.

Um nipo-brasileiro (日系ブラジル人 nikkei burajiru-jin em japonês; nipo-brasileiro em português) é um cidadão brasileiro de ascendência japonesa ou de imigrantes japoneses que vivem no Brasil. O Brasil é o país latino-americano que mais recebeu imigrantes de etnia japonesa, também possui a maior população japonesa fora do Japão, totalizando cerca de 2 milhões de pessoas com ascendência japonesa no Brasil.

Японці у Бразилії (яп. 日系ブラジル人, порт. Nipo-brasileiros) — громадяни Бразилії які мають японське походження, або японські іммігранти, що проживають у Бразилії.

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