日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

日本式各種雑誌と文化の相違について・18歳・アメリカでの思い出(+ESL=英語学校)

こんにちは「はじめの退歩」めいた文から一日を開始します。よろしく☆2016/7
はじめに:
題名のとおりであります。アメリカの日本食時代。事務所はだらしない経営者ならではでごった返しまくっていた。乱雑に「ゴミの山」のごとく。
ーそんな中、よく日本の「雑誌」が机や各種ダンボールの上に転がっていた。懐かしい「Goro」であり「スコラ」あるいは週刊「プレイボーイ」といったあたりだったのも記憶に残っている。
ー原則として欧米では「成人向け」はあらゆる面で明確に分けられ。青少年の目に届かないところに設定されている。また「マンガ」も日本のように「エロマンガ」といったものは存在しない(ああいう細かな「技術」もないし、法律で「性的描写」については厳格に規定されている)。
バイクにまたがる素っ裸写真:
ー経営者は濫煙家だった。だから私も裏へ出て体操しながらタバコを吸うときもあればその事務所でくわえタバコ。休憩していたときも少なからず。
ーヒマなときはアメリカ人ウエイトレス(ほぼ100%WASP白人)たちがだべりにくる。また、コーラなんかを持ってきてくれる。そこで雑誌を開く。たちまち「Oh my god!!」って大騒ぎがおっぱじまり、一人が持ち去りほかに見せまわる。特に覚えているのは単車にまたがった裸体女性写真。またまた「Oh My Goodness!!」「Jesus Christ!!」なんてドンちゃん喧騒(-_-;
ーなんてのはいいほう。思慮深い女性は大真面目に「これは成人向け雑誌なのか?」と聞いてくる。今もやってるのか知らんけんど「あなたのパンツをちらり」なぞは説明に困ったモンだった(苦笑)。日本にいた頃は別に不思議にも思わず。考えてもみなかったこと。
結論:
ーこれだけは確かなはず。性産業(Sex Industry)がやりたい放題。人権無視と女性蔑視に歯止めがきかない日本はこれからどうなるのか。
ー日本でコンビニや本屋などに立ち寄ると「最先端技術」が駆使されてる分(アダルトセクション)、恐ろしいほど「きれいに」(あの洗礼された形が余計に異彩を放っている)鮮やかにそうした問題点が描き出されている象徴のように感じてしまうのも「ガイジン」である証拠なんでしょう。
終わりに:
ー前に何度も語った「ロッキーのヌード」なぞとする淫らな写真をみたのは私が小学生のとき。永遠の心的外傷なのはさておき。
ー幼い頃、「創価学会」たたきヲタ的面多分にあった父がその辺に「月刊宝石」「週刊現代」(むろん冒頭の「写真」はみていたのは恐怖の「ロッキー氏」どうよう選ぶところなし)放ったらかしてあるのを母が厳しくいさめていたのを思い出した。「子どもの目に届くところにおくな」ということ。
そんなこんなでした。ありがとうございます。
ESL English as Second Language=(ランゲージ・スクール)アメリカの新移民者用・無料英会話学校の思い出
懐かしい思い出:
ー以前、触れたこともありましたが1987-89年の頃です。まだ「英会話」なぞほとんどできない18歳~20歳当時の話。誰からそういうのがあるとうかがい、出向きました。「身分証明」や「不法労働」を心配していたけど、何もみせろとはいわれなかった。すべて「無料」でした。今さらながらはじめにいた「2年」(10代の年数は重い)が「田舎街」だったのは、「真のアメリカ」「アメリカ人」たちと接するということ。いろいろな面でかけがえがなかったといえる。
ー受けつけの白人女性は、びっくりした。さすが世界中からの「おかしな」発音やめちゃくちゃないわゆる「ブロークン」を毎日聞いているだけあってなんでも通じる(笑)。自分で話していて「よくこんなのがわかるなあ~」と感心してしまった。日本食のアメリカ人ウエイトレスなんかには全然理解してもらえずいつもがっくりしていたのが少し元気になったのもよみがえった。
多様な人種と新しい環境:
ー先生たちも温厚な田舎の白人おばさんたち。みんな優しかったです(後にぼくが「移民局」に捕まったのを知らず、手紙が届いた「Osamu 最近来ないけど元気ですか?」)。週6日労働、ボクシングジムと同じであんまりいけなかったのが残念です。
ー人種は実にいろいろでした。これも驚いたのは(アメリカの田舎ならでは。カナダではあまり知らない)教室の後ろの方にボランティアの男女白人老人たち(後でうかがったこと)が立っていてしゃべりまくってるカンボジア人女性(連日海産物工場で慣れ親しんでいた「カンボジア語」にしか聞こえなかった)の話をふんふん笑みを浮かべながら耳を傾けていた。私には一言たりともわからなかったので「やっぱおれの耳はよろしからんのだろう」と落ち込んだのも思い出す(今から考えれば「理解」していたとは到底考えられないけど)。
ー1987年といえばちょうどゴルバチョフが「ペレストロイカ」(極東ウラジオストック演説)を正式に発令したばかり。旧ソ連系は誰もいなかった。東欧も「難民」がほとんど。ポーランド、ブルガリア、外で「たばこ」(いつも「交流」はこれ(苦笑))を吸いながらいろいろ話したもんだった(中年の女性、男性がほとんど)。
ーイラン人もいた(当時は少数)。アジア系は「カンボジア」だけ。中国も韓国もいなかった。
好ましからぬ生徒:
ーその頃はまだのぼせあがったアオ二才。日本式「ドロドロ」排他根性が一面に出ていた。ひとりだった頃はまじめに取り組んでいた。しかしニューヨークからおなじような「不法滞在者」の日本人青年(あの彼もその後、ニューヨークに戻ったけどどうしたか?)が流れてきてあらわれてから一変してしまう。
ーふたりで「日本語」でゴチャゴチャやりながらほかのがんばってる生徒を「あいつ今日のトップ賞だな」「いや俺はあっちの奴ですよ先輩~」とかいってせせら笑う・・・(ひどい話。まだ子どもでした。こういう人間は一番誰にも嫌われる、腹だたしいもの)。注意されたり、白い目でみられたりもしなかったのはみなさんが「寛容」だったからに他ならない。
30年が過ぎた・学んだこと:
ー正直、今から18歳に戻してやるからイチからはじめてみろ。仮にそういわれたらかなり困難です。まだ「読む・書く」「正しい文法を心がけて」なんて次元じゃない日々のことでした。その学校では「英語」そのものは何も学ばなかったに等しい。ただ「ほかのひとたち」を意識する「他者認識」が生まれたところだったかもしれない(実に貧弱でその後長きをへて時には右へときには左とゆれうごきながら現在の視点にたどりついたといえる)。当時のそういう態度を「客観視」して後年のモントリオールやここトロントで紆余曲折しながら経験し学び、生活してきました。
最後に:外語大出身の方との相違について:
ーそういう「初期」の段階。しかも「日本人」や「移民」そのものが限られている環境。おなじレベルの人間たちにはとかく「競争心」(やっかみ?)もわいたもの。とくに一番毎日すり減らしている「英語力」について。
ーいっしょに捕まったひとりの方は短期滞在できた外語大出身(英語専攻)の人だった。ぼくは若かったから「発音」などはほかよりマシだったかもしれない。ただそんなのは「実生活」にはあまり関係ない。
ーその人は2~3ヶ月するとウエイトレスたちが話すことが理解できる。また彼の「語彙」の豊富さに衝撃を受けた(その分「やっかみ」も増幅する悪循環だったけど)。彼が口にする「単語」がほとんどわからない。また、私が聞きとれて(意味がわからない)彼が聞きとれない(しかし「綴り」で書いてもらうとわかる)これも悔しかったものだ(苦笑)。
ーやはり「語源」「語彙」いわゆる「ボキャブラリー」や「文法」は軽視できない重要性を持つといえます。私も今から回想すると、毎日辞書を広げて当時は「発音記号」すら読めない(だから「カタカタ」で書いてある「中学生」用の教材で勉強してました)。
こんな辺りでまた。ありがとうございました。
サム

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