日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【The Battle of Leyte】戦記文学(Republika ng Pilipina)フィリピン戦線(Ang Pulo sa Leyte)★鎮魂★「下級兵」「召集兵」たちの悲話(Shōhei Ōoka:né le 6 mars 1909 à Tokyo et mort le 25 décembre 1988 )

はじめに:
2016/10「大岡昇平」氏(京都帝国大学文学部卒・小説家・評論家・仏文学翻訳家及び研究者・東京都出身)は44年3月、35歳で初召集(陸軍二等兵)され翌年1月、フィリピンミンドロ島で捕虜となりました(暗号手=知識人の「召集兵」はほとんど暗号手「丸山真男」(東京帝国大学法学部卒(助教授・政治思想史及び経済史学者・大阪府出身
)陸軍二等兵)「阿川弘之」(東京帝国大学文学部卒(小説家・評論家・広島県出身)海軍少尉)なども)。
ーその後レイテ島の収容所で過し、同年12月に帰国。「お殿さま」「大御所」「将軍・艦長」などの「命令者」視線から「上意下達」式に「見下す」司馬史観(氏(学徒出陣・陸軍少尉・元産経新聞記者・大阪府出身)は「超高層ビルから下を蟻のごとく歩く人たちをみる」のが大好きな趣味)とは対照的に
ー最前線に狩りだされた「召集兵」たちの「下意上達」=雨のジャングルで飢餓に斃れた二等兵。船などろくに乗ったこともないまま軍艦と運命をともにした補充水兵。そんなこんなでとくに心に残ったのを紹介したいと思います。まず大岡氏の解説がそのまま「反国民文学巨匠」になっているところを参照するところから
PS: レイテ島はフィリピン(大小7千以上の島々からなる)で「8番目」に大きい(日本の「四国」とおなじぐらい)。1、ルソン2、ミンダナオ3、ネグロス4、サマール5、パラワン6、パナイ7、ミンドロ9、セブ10、ボホール11、マステベ10.28.2016)
1、「・・・十六師団の兵士たちはアメリカの艦砲射撃の威力を大体予想していた。「物量」に頼る砲撃でも、全部やられるわけではないから安心しろ、と参謀に説論された。彼等は参謀のいうことには、一応首をかしげることにきめていたが、この場合参謀は大体正しく、多くの拠点が生き残った。しかし四時間の轟音の連続に堪えるのは、楽ではなかった・・・隣にいた戦友が全然いなくなり、気がつくと彼自身も大腿の肉がそがれていたりした。あるものは胸に手を当てて眠るような格好で横たわっていた。頬をくだかれ、眼球が枕元に転がっている死体もあった。首がない者もいた。手のない者、足のない者、腸が溢れ出ている者、想像を絶したこわれ方、ねじれ方をした人間の肉体がそこにあった・・・」
2、「・・・空中には掘り返された土の匂い、火薬の匂いがまじって、異様につんとする匂いが漂っていた。いつもの大言壮語に似ず眼を吊り上げて、ふるえている下士官がいた。両手をだらりと下げて、壕の外へ歩きだす見習士官がいた。土に顔を埋めて泣きじゃくっている補充兵がいた。最もよく訓練された下士官でも、自分の身体がこのまま空中に飛び上がり、ずっとうしろの林の中へ、ふわりと着陸する奇蹟は起こらないものかな、というようなことを考えた」
3、「しかし中にはアメリカ兵を射つまでは死ぬものかと思っている下士官もいた。自分が眼を開けていることが出来、時々壕から首を出して、前方の輝く海を眺めることが出来るのに、自分で驚いている補充兵もいた。こういう相違は精神よりは肉体の構造から来た。兵隊の中には神経の鈍い、犯罪的傾向を持ったものがいた。石のように冷たい神経と破壊欲が、あくまで機関銃の狙いを狂わせないこともあった。与えられた務めを果たさないと気持ちの悪い律儀なたちの人間も頑強であった。普段はおとなしい奴と思われ、大きな声でものをいわない人間が、不意に大きな声を出して、僚友をはげましたりした」
4、「戦争の物語は昔からこういう人間とは反対の気質の人間によって書かれている。戦略とか作戦とかに関して、戦闘の原因結果が物語的に追求される。諸葛亮とか真田幸村とか、智将がいないと戦争の物語は成り立たない所以だが、しかし実際の戦闘は、作戦とか忍者とかとは縁のない体質を持った人間によって行われるのである。こういう人間は一兵卒から将軍に至るまで、軍隊のあらゆる階層に分布していて、しばしば戦闘に作戦や物語とは全然違った経過を与える。レイテ島の戦闘が、間に合わせの作戦、乏しい補給にも関わらず、二ヶ月続いたのはこういう兵士の勇敢と頑強のためであった」。
5、「山本五十六提督が真珠湾を攻撃したとか、山下将軍がレイテ島を防衛した、という文章はナンセンスである。真珠湾の米戦艦群を撃破したのは空母から飛び立った飛行機のパイロットたちであったレイテ島を防衛したのは、圧倒的多数の米兵に対して、日露戦争の後、一歩も進歩していなかった日本陸軍の無退却主義、頂上奪取、後方攪乱、斬込みなどの作戦指導の下に戦った、十六師団、第一師団、二十六師団の兵士たちであった(『レイテ戦記』(上))。
~♪決戦輝く亜細亜の曙~命惜しまぬ若桜~いま咲き競うフィリピン~♪いざ来い二ミッツ(チェスター・ニミッツ海軍元帥)!マッカーサー(ダグラス・マッカーサー元帥)!出て来りゃ地獄へ逆落とし~♪(軍歌『比島決戦の歌』)
パロの陽:フィリピンレイテ島タクロバンの俘虜野戦病院において
ーこの伍長と少し遅れて彼と一緒に退避したサンホセ駐屯陸軍航空隊気象観測班の兵士の一人が入院した。かれは19年徴集の現役兵で大分県の小作農の子である。(こう書いて来ると私が軍隊で接触した兵士、少なくとも私に感銘を残した兵士がことごとく農民であるのに気がつく。ここには日本軍の構成の統計的原因のほかに、何か彼等と私の間に共感の原理があるに相違ない)
ー彼は西欧風の顔立ちをした色白の大人しい若者で、まず我々の中で随一の美男子であった。男色に趣味を有する気象班の下士官が、山に入ってからも彼を口説いているという評判であった。彼は左胸にまだ弾丸を保持していたが、一見なかなか元気で、つぶさにその捕えられたときの状況を物語った(中略)四五日山中をさまよった後、森林中の小怪で突然背後から射撃された。
ー先にたった僚友は走り出した。彼は木の根につまずき倒れた。僚友の走り去った前方でも銃声がした。右手は林、左手は原である(中略)走りながら彼は弾が耳をかすめて飛ぶのを聞いた。弾は前方からも来るように思われた。しかしためらうことはできない。一散に林に駆け込み繁みを分けて進んだ。池があった。迂回してなおも進むと前方からも人声が来る。草に伏せた(中略)池が残された唯一の避難所と思われた。
ー頭から飛び込む空中で胸に衝撃を感じた。水底の泥が顔に当たった。顔をあげるとすぐ水面に出た。水は肘で支えるほどしかない。立とうとしたが胸が重くて立てない。もがいていると水を渡る足音が近づき両腕をつかまれた。
ーさまざまな服装をした比島人がとりまいていた。彼等は罵って彼の顔を打ったが、傷をみてやめ、肩にかけて岸へ運んだ。彼は死ななければならぬと思い。胸の傷を悪くするためにできるだけあばれた。比島人は彼を木に縛った。何かいっているが無論わからない。やがて担架がきて寝かされ厳重にくくりつけられた。担いで運ばれながら彼は残された唯一つの運動、つまり大きく息をすることにした。息をするごとに血が新しく流れ出るように思い、彼は癒された。
ー一行は一件の小屋に入り、担架を床に横えた。胸が開けられ臨時手当がほどこされた。「殺せ、殺せ」と彼は叫んだが、その声は思ったよりはるかに小さく、彼は自分の耳が遠くなったような気がしたそうである。
ー一人の44歳の比島人が入ってきて彼を見詰め、意外にも馴れた日本語で「静かにしたまえ」といった。彼は「殺せ」と繰り返した。比島人はほほえんで「殺さない、アメリカ兵に渡す。アメリカ兵は傷を癒してくれるよ」といった。「癒していらん。殺せ。俺は日本人だ」というとその比島人ははらはらと涙をこぼした。
ーその涙にびっくりして興奮が退いた。比島人はとめどなくでてくる涙を拭いながら彼の傍にしゃがんでいった。「君の気持ちはよくわかる。しかし君にはお父さんやお母さんがあるだろう。お父さんは君がせっかく助かるのに無理に死んだと聞いたらどう思うだろう。さあ、そうあばれちゃ傷に悪い。静かにしなさい」
ー聞きながら彼も泣いた。母のことをいわれたのが一番辛かった。山の中を歩きながら彼の考えるのは実は母のことばかりだったからである。涙の中に彼はなるようになるほかないと諦めた。比島人は色模様のハンカチを出して彼の涙を拭い、笑って「わかったね」といった。
ー彼が海岸の米軍の屯所に運ばれる途中、この日本語を話す比島人はずっとつきそってきた。かれは道々自分の身の上を語った。彼は若いとき横浜で二年ばかり中国人の店で働き、日本の女を妻として帰った。二人の間には今18歳になる男の子が一人あるが、彼は米軍がこの島に上り比島人の協力が活発になると、不意に父親に自分は日本人だ、これからルソン島に渡って日本軍に加わると宣言した。母親ともどもいくらなだめてもきかない。許可を与えずにおくと、ある晩とうとう家出してしまった。そして翌朝北の方の町でずた袋ひとつかついで、徒歩で北上する彼の姿を見たものがあるきり消息を絶ってしまった。
 「どうして自分を日本人だと思うんだか、父親の俺は比島人なんだから、お前も比島人だといっても聞かないんだよ。戦争が始まった頃この町にもいた日本の兵隊にかわいがられたもんだから日本軍が好きになったらしい。今頃どうしているか、死んでいるかもしれない」といって彼は暗い顔をしたそうである。
 「その日本人の母親というのを見たかい」と私はきいた。
 「そういえば一人女が食事を持ってきてくれたことがあったけど自分は比島人だと思っていました」と彼は答えた。私は毎朝欠かさず彼を見舞った。4,5日たったある朝、かれは顔を濡れ手ぬぐいで覆って寝ていた。傍の俘虜に聞くと容態が悪いのだという(中略)翌朝午前中彼を見舞うのを怠った。午後いってみると彼のベッドは空であった。前の晩のうちに彼は死に、死体はすでに運びだされた後だという。私はしばらくぼんやり空のベッドに腰掛けていた。そこらはきれいにベッドの下まで清掃され、かれの痕跡は何ひとつ残っていない。一夜の中に彼が完全に消えうせてしまったのは確実である(中略)私は再び心臓の故障を意識し、立ち上がってのろのろと自分のテントに帰った。分隊長に「班長殿、気象隊の兵隊は死にました」というと涙が眼からあふれてきた(『俘虜記』より。大岡氏はマラリアの高熱で人事不省になっているところをアメリカ軍につかまった。心臓に故障をきたし入院していた)。こんな感じで進めていきます。いつもありがとうございます
 サム 静かな土曜日の午後、快晴いよいよ「寒風」兆候ありのリッチモンドヒルから

~♪正義の雷~世界を震わせ特攻隊の往くところ~われら一億共に往く~♪
レイテ島決戦・第三十五軍と第十六師団:
井畑敏一一等兵は和歌山県那賀町の土建業者で、18年召集、第五十四飛行場中隊に属し、19年6月以来ブラウエン南飛行場(バユグ)の地均しに従事していた。この日1500時頃、彼はよく晴れた空が異様な音に充たされているのに気がついた。キュラキュラともヒュルヒュルとも聞こえる甲高い音で、それが遠くなったり近くなったりするのは、音がブラウエンの町を西南方から取り囲んでいる低い山に反響する工合らしかった。
ーそれがドラグ=ブラウエン道を進んでくる戦車のキャタピラの音だということは、誰が言い出すこともなく、みな承知していた。ドラグの二十聯隊の全滅の報は二日前から伝わっていた。ブラウエン南飛行場から200メートル坂を上がったところにブラウエンの町がある。家の床下には戦争初期の飛行場警備隊が掘った壕があった。分隊長は飛行場に積んであった200個のドラム缶を小銃で点火させてから、町へ退いた。
ー井畑一等兵が壕へ入ってしばらくすると、坂の下に二台の戦車が現れた。弾もきた。戦車は坂を登るつもりらしかった。カタピラの音は、この近さで聞くと、ガラガラというしわがれたような音に変わっていた。彼の知らないほかの部隊の兵士が、坂の上に現れた。ガソリン缶を転がし始めた。缶は凸凹の坂道をはねながら落ちていった。日本兵は缶を転がしはじめる前に小銃で射って点火した。
ー道傍の家の床下に転がりこむものもあったが、一部は燃えながら米戦車の前まで転がって行った。戦車はガラガラと老人がうがいをするような音を立てて退いて行った。みんな歓声をあげた。井畑一等兵は飛行場作業員だから、銃も手榴弾も支給されていなかった。このときになっても彼に持たせる銃は、隊には無いのだった。
「そのうち戦死する奴が出る。そいつのを使え」と分隊長がいった。日が暮れると分隊長は、「もう大丈夫だ。アメ公は来やしねえ、上へあがろう」といって壕をでた。小屋の裏の林の中で、飯盒半分の飯を炊き、レイテ島に着いて以来、はじめて満腹感を味わった。
ー小屋の床にアンペラにくるまって横になった。いっそ一人で逃げ出して、山に入っちゃおうか、どうしようか迷いながら、眠りに就いた。翌日、米軍はブラウエンの町に入ってきた。井畑一等兵は喉笛を横から貫かれ、啞になってしまった(『レイテ戦記』(上)・井畑敏一一等兵とブラウエン戦闘)。
~♪輝く仁義の名も高く~知らるる亜細亜の日の出国~光めでたく仰がるる~時こそ来ぬれいざ励め~♪(軍歌『日本陸軍』)
アメリカ軍上陸と艦砲射撃:
ー小川幹雄伍長は九聯隊第二機関銃中隊(片野秀男中尉)付衛生下士官で、タナウアン=ダガミ道南西10キロのカルサダハイにいた。1944年九月末以来、部隊全員が陣地構築と糧秣輸送に駆り出されていた。しかしバターン戦以来の古武者である小川伍長は、中隊の留守番を仰せつかり、人事係准尉のザル碁の相手をしていればよかった。
ー10月19日早朝非常呼集、師団演習だということだった。カトモン山の警備につけと命じられた。強行軍二時間で丘の北麓に着くまでの間に、海岸方面でドンドコドンドコ祭りの太鼓を叩くような砲声を聞いた。これが演習ではなく、米軍がほんとうに上陸しようとしていることを知った。
ーカトモン山の頂上まで重い弾薬箱を担いで、六回の往復はかなりこたえた。その夜は山上の洞穴であかした。20日も弾薬輸送に暮れた。21日、ドラグの二十聯隊第三大隊全滅のうわさがあった。22日の夜、聯隊本部から命令がきた。ドラグに上陸した米戦車はホリタ=タポンタポン道をタポンタポンに向かう見込みだが、現在その地点には友軍はいない。23,24日中には三十三聯隊の主力が到着の見込みだから、片野隊は直ちにヒンダンにおもむいて、これを確保せよ、戦車襲来せば肉薄攻撃によって撃退すべし、というのである。
ー当時日本軍が歩兵に持たせていた対戦車爆雷には二種あった。ひとつは戦車の機関部または横腹に吸いつかせる「破甲爆雷」で、いわゆる「アンパン」である。形が酒保で売っている大型アンパンに似ているので、この名がある。もう一つは、棒の先に爆薬を装着した「棒地雷」で、それを敵戦車のカタピラにさしこむ。カタピラが回って、それを敷くと爆発する。
ー道傍の溝に伏せていて、戦車が通りかかると飛びかかって、これらの爆雷をかませる。瞬間身を翻してもとの溝に飛び込むという、軽業のような訓練をやらされた。しかし実際に当たってそううまく行くはずもなく、むろん決死隊である(そしてアメリカのM4シャーマン戦車にはアンパンは無効だった)*シャーマン戦車はヨーロッパ戦線では中戦車
だったが(重戦車・例⇒ティガー(ドイツ軍)KV戦車(ソ連軍))、レイテの日本兵には化物にしか思えなかった(大岡氏)。
ー中隊から33名の決死隊が選ばれ、小川伍長はその中に入ってしまった。衛生兵は聯隊本部直属だが、決死隊の衛生兵兼攻撃要員として随いてきてくれ、と頼まれると断るわけには行かなかった。旧日本軍は比較的優秀な兵を選んで衛生兵にしたといわれる。それだけ各隊の兵力は充実することになる。小川伍長はもともと重機の出であった。つまりいつでも中隊の戦闘要員になれるように配置されていたのである。
ー決死隊は小川伍長のような四年兵であった。普段は面倒な作業は初年兵二年兵に任せ、のうのうとして除隊待ち気分になっていたが、いざ戦闘となると、最初の地獄行きの直通切符を貰うのは四年兵だなあ、と同僚と嘆きあった。その夜のうちに出発、麓まで降りたが、夜が明けると頭上には絶えず敵機が飛んでいて、行軍できない。壕を掘って1日隠れていた。日暮れとともに出発、暗闇の中で、地形や道の曲がり方、目印になるようなものを憶えながら進んだ。
ー命令によればヒンダンには明日三十三連隊が来るはずである。そのときまで米戦車が来なければ、小川伍長たちは三十三聯隊に任務を引き継いで引きあげて来ればよいのである。そのとき同じ道を通らねばならぬから、よく憶えておく。どんな危急の際にも古兵の頭はこういうふうに働くのである(中略)ホリタの方面から二十連隊の連絡兵が二名来た。かなりの重傷で、300メートル後方に、第三大隊副官(小川伍長は名前を憶えていない)以下17名の負傷者が避難している。できれば少々の糧秣を分けてほしい、衛生兵を派遣してほしいというのである。
ー隊長の命令で分隊員が糧食を少しづつ出し合った。それを持って小川伍長は隊長当番の山本という初年兵といっしょに出張した。300メートル後方の林の中の壕にいたのは、目も当てられない重傷者だった。みな砲弾の破片で受けた創で、手のもげた者、足のない者ばかりである。手当てをしても助からないのはわかっていたが、とにかく一番軽傷の大隊副官から順に応急手当をはじめた。30分ばかりで4、5名の手当てを終わったとき、ホリタの方からガラガラという戦車のカタピラの音が聞こえてきた。
ー中隊の陣地で機関銃が鳴り出した。小川伍長は大隊副官に手当て中途だが帰らしてほしいといった。副官は一個小隊ぐらいの兵力でどうなる相手ではない。われわれを見ろ、アメリカの戦車は友軍の野砲ぐらいの砲を持っている、肉薄攻撃なんて受けつけやしない、みすみす死ぬとわかっているのに帰らすわけにはいかない、といった。
ー小川伍長はしかし、自分たちは片野隊の兵で命令系統が違う、帰らせて貰う、と言いはり、山本初年兵と二人、覚悟を決めて壕を出た。100メートルばかり戻ると、米戦車砲のドカンドカンという音と日本の機関銃のバリバリという音が高くなった。対戦車爆雷を使う前に、機関銃と小銃で戦っているのである。二十聯隊の負傷兵がいた壕は道からはずれた林の中にあった。小川伍長たちは草の中の背をかがめ道に沿って戻ってきたのだが、道路上を米戦車が進んできて、ちょうど中隊との間に入ったような格好になった。戦車は5,6台一列に続いている。これ以上前へ出ると、味方の弾に撃たれるおそれがあるので、その場に伏せた。
ー時間ぐらいで、友軍の射撃の音がやんだ。戦車はやがて小川伍長らの伏せている位置を通り越して進み、カタピラの音も聞こえなくなった。小川伍長は山本一等兵にいった。「中隊は全滅したかもしれない。おれはもう少し待って、中隊の位置へ戻ってみる。お前はカトモン山の聯隊本部へこの旨報告してくれ」というと、山本一等兵は喜んで、「では聯隊本部へ報告します」といって、ヤシの林の間を駆けて行った。以来小川伍長は山本一等兵に会えなかった。
ー戦車には歩兵が随いていないと見え、米兵が来る様子がないので、道に出て中隊の方へ歩いて行くと、道端の草藪から同年兵の柴田伍長が転がり出た。やはり中隊は全滅したという。戦車はとても大きくて肉薄攻撃する気にならなかったという。小川伍長がみたのはそれほど大きな戦車ではなかったのだが、いざアンパンで攻撃しようというときになると、途方もなく大きく見えるらしいのである。
ーとにかく中隊のところまで行ってみようと、ヒンダンの村の方へ歩いて行くと、前方村はずれの道ばたに土嚢を築いたように土が盛り上がっている。日本軍の鉄帽が動くのをみて、やれやれ中隊は無事だったのか、と思った途端、機関銃弾が来た。柴田伍長が怒って
「馬鹿もん、友軍を射つ奴があるか」と呶鳴ると、向こうも立ち上がった。それは二人が見るはじめての米兵で、鉄帽も軍服もバターン半島で見たときと全然違っていた。しまった、と思った途端、手榴弾が来た。それが運悪く柴田伍長のそばに落ちて、爆音とともに、伍長は倒れた。
ー小川伍長は背中から何か罵る声と機関銃弾を浴びながら50センチぐらいの高い草の中を匍匐で逃げた。匍匐に邪魔になるので、衛生兵の鞄と拳銃を棄てた。100メートルそのまま進むと、草が切れ、先は赤土の野原である。そこへ出るわけにはいかない。じっと伏せていると、米兵が2,3人ペラペラ喋りながらやってきた。死体を探しているらしいのだが、幸い見つからずにすんだ。
ー日が暮れてきた。小川伍長はすっかり変わった米軍の装備にショックを受けていた。バターンでみた米兵は、平らな鉄兜をだらしなく斜めにかぶった怠け者の植民地兵だった。あれから三年、自分の方はちっとも変わっていないのに、相手は体つきもがっしりして、ひとまわり大きくなったようにみえた。こりゃやられたな、おれはとうとう25の若さで、ここでお陀仏か、と彼は思った。
ー小川伍長の希望は、三十三連隊主力が到着して、米軍を追いはらってくれることだった。彼はそれを待って、三日間この辺の草藪に潜んでいたが、日本軍はついに来なかった。夜、近くの部落で赤ん坊の泣き声を聞いた。住民が帰っているのなら、もう大丈夫だ、水と食料をを貰おうと思い沼を渡って行くと、不意に照明弾が上がり自動小銃で射たれた。罵り叫んでいるのはフィリピン人だった。三日の後、彼はゲリラに藪から駆り出された。左胸に貫通銃創を受け倒れたところを捕えられた(『レイテ戦記』(上)抵抗・小川幹雄伍長と第二十聯隊のヒンダンの戦闘)。
~♪総員起しのラッパの響きゃ、夢はそのまま吊り床収め、澄んだ大地だ大きな息吹き、沖じゃ鴎が飛んでいる~♪(軍歌『水兵さん』)*レイテの収容所はスリガオ海峡へ向かった所謂「山城・扶桑組」(全滅した)の生き残り水兵たちが幹部を占めていたので、すべて「海軍式」に行われたという=「起床」(陸軍式)ではなく「総員起し」であり「めし(飯)上げ」(陸軍)ではなく「食事」、「炊事」(陸軍)ではなく「烹炊所」(制裁も「ビンタ」ではなく「精神棒」(現代の’ケツバット’)であった)。
野戦病院と衛生兵:
ー三十三聯隊第一大隊付衛生伍長、赤堀太郎市は松阪市出身の理髪店の長男で、大阪市住吉公園付近に、新しい支店を出そうとしていた。昭和17年徴兵検査の結果、甲種合格となった。三十三聯隊の所在地は三重県津であるが、赤堀伍長は京都深草の第九聯隊の兵舎で訓練を受けた。重機の訓練をすませてから衛生兵になったのは、ドラグ方面で戦った小川伍長の場合と同じである。
ー18年4月、十六師団主力がレイテへ進出した後も、部隊はルソン島南部の警備を解かれなかったので、兵士はみなしめたと思っていた。聯隊長鈴木辰之助大佐は牧野師団長(中将)より陸士で一期先輩であった。部下の前では上官に対する礼を取っていたが、部屋に入ると、「おい、牧野」と呼びかける、と当番兵が伝えた。
ー三十三聯隊の第二、第三大隊を乗せた輸送船が、マニラを出た9月13日はハルゼーの第三艦隊がビサヤ地区空襲中であった。船団は艦載機の機銃攻撃を受け、17日辛うじてセブ島の北端に上陸。大発に乗り換えて、19日オルモックに着いた。
ー20日車輌輸送により、リモン、カリガラを経て、レイテ東海岸に到着。第三大隊はパロ及びカリガラの方面に分散警備した。赤堀伍長の配置された第二大隊はタポンタポンの防衛施設構築を命ぜられた。民家の床に壕を掘り、さらにそれを連結する連絡壕を作るのである。10月上旬ホリタに移って再び陣地構築、赤堀衛生伍長はサンホセ方面防衛の第一大隊に転属した。
ー米軍上陸に先立つ二日間、つまり10月17,18の両日、衛生兵は包帯を全部草色に染め替えろという命令を受けた。タクロバンの野戦病院から受領した粉末染料を温湯に溶き、包帯や三角巾という応急手当用の木綿を浸すだけの簡単な作業なのだが、なぜ敵艦船がレイテ沖に現れてから、いそがしく染め替えねばならぬのかわからなかった。
ー赤堀伍長はフィリピン人の女を雇って、作業を予定通り18日中に終えた。なるべく現地人を使うようにするのは、軍医の方針だった。衛生兵は宣撫用の薬品を現物給与したので、住民と仲がよかった。包帯の染め替え作業を終わったとき、通りがかりの古兵がいった。「おい班長、衛生兵に白旗を作らせねえように、染め替えるのかね」「ばかなことをいうな」赤堀伍長はむっとして答えた。「白い包帯は夜でも目立つ。負傷兵が狙われないためだよ」
ーサンホセ防衛の一個中隊は19日の艦砲射撃でほとんど全滅した。ほかの方面でこんなにひどくやられた話は聞かなかったから、敵はタクロバン飛行場のある半島の頚部を抱すこの地区に、艦砲射撃が集中したと、赤堀伍長は思っている。しかし飛行機は海軍のものだから、陸軍はその防衛に力を入れないのだという噂だった。警備員その他、約1000の海軍がレイテ島にいた。トロサに要塞砲一の捉えつけ作業中ということだった。
ー19日の負傷者の応急手当と後送に暮れた。殆ど一個中隊の全員が負傷していた。パロ方面から来るトラックも負傷者を満載している。野戦病院にとても収容しきれない数である。タクロバンの野戦病院は、その頃2キロ西方、サンファニコ水道に臨んだティパオに移っていた。アンパラを敷いた床に、これらの負傷者は少なくともその晩はなんの手当ても受けず放っておかれるんだろうな、と彼は思った。
ー中隊長も戦死していたが、補充の兵隊はどこからも来なかった。赤堀伍長は歩ける患者を連れて、その日のうちにタクロバンの野戦病院に向かった。赤堀伍長が4人の独歩患者と共にサンホセ西方の山際の道を歩いていると、タクロバンの方から地下足袋を穿いた将校の一列が来るのに会った。赤堀伍長は患者を道傍に整列させ、敬礼してからいった。
ー「陸軍衛生伍長赤堀太郎市、独歩患者四名を第二野戦病院に後送します」。先頭の将校はこの言葉を聞くと、大きな眼玉をぎろりとむいた。「ばか。それくらいの傷で病院へ行く奴があるか。今日は独歩患者も戦うんだ。原隊へ戻れ」といいすてて遠ざかった。少し離れて、数名のやはり地下足袋の将校が続いていた。赤堀衛生兵が急いで申告し直そうとしが、先頭の将校は手で制して通りすぎた。後尾にいた若い将校が立ち止まり、赤堀伍長と四名の独歩患者を観察した。
ー独歩患者といっても、足に怪我はないから歩けるというだけのことで、腕とか肩などに砲弾の破片が入っている。腕を三角巾で肩に吊り、銃は持っていない。「お前たち、自決用の手榴弾は持っているな」「はい」四人の患者は出来るだけ、大きな声を出した。「よし自決はゴボウ剣でする。手榴弾は敵にぶつけるんだ」「はい」。それから赤堀伍長に向かって、「パロの聯隊本部へ行け」といった。それから低声で「さっきのは師団長閣下だぞ」とつけくわえて遠ざかった。
ー戦闘中なので参謀肩章ははずしていたが、自分たちが師団参謀直々の命令を受けたことを了解した。赤堀衛生兵はそれまでタクロバンへ行ったことがなかったので、師団長も参謀も見たことがなかったのである。伍長の記憶は牧野中将は病臥中だったという松田軍医中尉の証言と喰い違っているが、前線の陣中点景で現実性があるので記した。病躯を押しての前線視察だったかもしれない。
ー赤堀伍長たちは山際の小路を伝って、パロ北方、十字架の背後にさしかかった。夕方になっていた。そして伍長はすぐ忙しくなり、独歩患者に構っているひまはなくなった。そこいらの林の中は再び重傷者でいっぱいだったからである。そこが聯隊本部になっていた。
ー聯隊長鈴木大佐は全身26箇所の艦砲弾の破片を受けていた。その朝早く、敵情視察のため十字架山の頂上に登ったとき艦砲射撃と爆撃が始まり、山を降りる途中被弾したという。赤堀伍長は聯隊長の手当てをする軍医に薬品や包帯を渡す役目をしたにすぎないが、腿の傷が重そうでとても助からないような気がしたという。聯隊長は後方へ下がるのを拒否していた。
ー20日、重傷者を20キロ西方のハロに開設されたという臨時野戦病院まで後送するのが、赤堀衛生兵の任務となった。聯隊本部から担架かつぎ使役10人を借りて、朝のうちに20名の重傷者をパロの町まで下げた。タポンタポンから来ていた輸送部隊の車を借りてハロへ行った。臨時野戦病院というのは、町の裏山の林のことであった。何も敷かずに、100人ばかりの重傷者を寝かせてあるだけだった。翌日21日夕方、花園山西方のマリロングまで戻り、パロにすでに米軍が侵入していることを知った。パロ川左岸の林の中の道を通って十字架山の北麓にたどりついた。
ー聯隊長は朝出た時の位置より少し上の洞穴に移されていた。友軍は頂上の米軍を追い払うことができないということだった。赤堀伍長は聯隊長のいる洞穴を目差して山を登り出したが、日が暮れてしまったので、そこらの窪地に4,5人の兵隊がたまっているところで野宿した。兵たちはみな負傷していたので、赤堀衛生兵は手持ちの材料で応急手当をした。
ー23日が三十三聯隊の軍旗奉載日だった。聯隊は本部付近の兵は全部、その日パロに斬り込む予定だという。赤堀伍長は花園山方面にがんばっている第三大隊の位置へ下がることを命ぜられた。軍旗は22日の夜のうちに焼かれたという。翌朝未明、鈴木辰之助大佐は拳銃で自決したという(『レイテ戦記』(上)抵抗・鈴木三十三聯隊の最後)
~♪輝く御旗先立てて~正義の軍征くところ誰が阻まんその歩武を~♪(軍歌『出征兵士を送る歌』)
第二十六師団独立第二十二聯隊の惨状:
ー今掘支隊の兵士の見た山中の自然は次のようなものであった。
「夜間行軍に馴れた将兵も疲労のために足取り重く、互いに戦友を励まし励まし、暁近くドロレスの小学校に到着、ここで朝食の後、道路の左右に一列10メートルの間隔を取って行軍を続ける。途中友軍のトラックを一台見たのみで、猫の子一匹見受けられぬ。上空には敵機がわが軍の行動偵察のため飛び続けたが、別に被害はなかった。道はいよいよ坂が多く、上っては下り、山麓にたどりつく。細い草の生い茂った山道をまた喘ぎながら登る。心は先へ先へと進むも、足は遅々として進まぬ。その中に我々の進路は遂に樹木のために閉ざされてしまった。ここからが苦難の密林である。
尖兵が未開の林を切り開き、その後方を兵器、弾薬、糧秣を背負い、歯を喰いしばりながら皆がよじ登っていく。山麓ではからりと晴れていたのに、山へ入ると梅雨期に入ったのか、しとしとといやな悪天候となり、就中数箇所の滝は一番苦痛の種で、身を委ねてじりじり這い登らねばならなかった。上がってやれやれと思えば、膝まで没する赤土まみれのぬかるみを、重い足を引きずっての行軍で、全く想像も出来ぬ苦境。夜は濡れた軍衣に身をつつみ、尻を沼地へ据えての仮眠。明くれば雨の降りしきる密林の中を重い背負袋、腹まで食い込む弾薬盒、長くて不自由な銃身をあちこち振り回し、あるいは四つんばいになって崖をよじ登る。雨!難路!そして飢餓と戦いながらも、我々すべての目的地到達の意志は堅固であった(中略)翌日からいよいよ陣地構築、歩哨警戒、弾薬輸送、食糧(蛙、かたつむり、とかげの類)、燃料集等分分担勤務に就く。此の間幾度が砲爆撃に遭い。山小屋を移転した。足跡の溜り水を飲料水としている兵が、せめて湖水の清水をと近づけば、銃砲撃を受けて死傷し、ドロレスより蟻の如く弾薬食糧を搬入して来る聯隊行李弾薬班(野辺隊)も、機銃掃射に悩まされ、陣地構築の兵は食糧の欠乏と重労働により栄養失調、マラリヤ、赤痢などに侵されて、バタバタと倒れる者が相次いだ」(独立歩兵第二十二聯隊戦史『レイテ』)。
ーしかし今掘支隊はこのような惨状にありながら、士気は衰えなかった。それは部隊長の今堀銕作大佐の温厚な人格が部下を心服させ、困難な条件の中で、ダナオ湖を基地として、ハロ方面に諸高地を占拠して、米軍の浸透を許さなかったといわれる。山麓のハロの砲兵陣地に斬込隊を送って、155ミリ長距離砲を破壊した。中でも有名なのは、笠井正之中尉を長とする9名の献身隊で、鈴木軍司令官より感状を授与され、上聞に達している。
~♪戦友を背にして道なき道を行けば戦野は夜の雨~♪(軍歌『麦と兵隊』)
総軍参謀の今掘支隊陣中見舞い・斬込隊激励:
ーこの頃、今掘支隊の陣地まで行った参謀が一人いた。それは総軍の情報参謀高橋正二少佐で、士官候補生として旭川聯隊に勤務していた頃、今掘大佐が大隊長の一人だったという因縁があった。
ー高橋参謀は10月末、第四航空軍の作戦を指揮するために、ネグロス島のパコロド基地へ派遣された。要すればレイテ島に渡ってもよいという内命を、出発前に得てあった。10月30日セブ飛行場へ着くと総軍の有岡作戦参謀、中山後方参謀に会った。これで作戦、情報、後方三人揃ったから、いっしょにレイテに渡ろうと相談がまとまった。
ーその晩セブの宿舎に一泊、しかし翌朝飛行場に行く途中、米機の爆撃を受け、有岡参謀戦死、中山参謀は重傷を負ってしまった。高橋参謀は鈴木三十五軍司令官といっしょに11月2日にレイテに着いた。第一師団がリモンで遭遇戦に入っていると聞き、前線へ行きたいといった。友近軍参謀長は、お志はありがたいが、本来なら軍参謀を派遣しなければならないのに、まだそこまで手が回らずにいる、総軍参謀に行かれては困る。状況は不明であるし、万一のことがあったら、飯村閣下(飯村穣中将・南方軍総参謀長+総司令官は寺内寿一大将)に申し訳ないという。
ー友近参謀長の立場もわからぬことはない。第一師団参謀も戦線の整理もつかないところへ、お目付け役の総軍参謀に来られては有難迷惑かも知れない。もう少しあとにしてもよい。だが、ハロ方面に今堀大佐が出ていると聞き、陣中見舞に行かせて貰いたい、と頼んだ。軍参謀の資格で行くというと、友近少将もそれまでいけない、とはいえなかった。
ーでは、軽機関銃を持った一個分隊ぐらい護衛につけようという。そんなにいらない。当番兵一人で沢山だ、いや、それは困る、と押し問答しているところへ、隣室で兵隊が怒鳴るのが聞こえた。
「陸軍一等兵、なんのなにがし、高橋参謀殿の命令により、カンメンポウ二個、地下足袋二足を工面して参りました」。これは軍がセブからつけてくれた当番の初年兵で、前線のニッパハウスではこんな大声を出さなくてもいいのだが、訓練中教えられたとおり、部屋に入るとすぐ官級氏名目的を怒鳴ったのである。
ー高橋参謀は、どうせなかなか出して貰えまい。いざとなったら独断で飛び出すつもりで、こっそり当番兵に食糧と地下足袋を、どこかで仕入れてくることを命じてあったのである。彼は当時30歳、若くて生きのいい参謀だった。友近少将は苦笑して許すほかなかった。高橋参謀は今堀大佐に土産に分捕品のオーストラリア製毛布を一枚持って、ファトンの軍司令部を出発した。
ー当番兵は若くて機転の利く兵隊だったが、歩きながらだんだん聞くと、内地で3ヵ月教育を受けただけで送られてきた補充兵で、弾は生まれてから一発も射ったことはないという。とんでもない兵隊を連れてきたと思ったが仕方がない。銃を取り上げて、敵がこう来たらこう射つんだ、と教えながら歩いて行った。土産の毛布を持たせたが、重いらしく、足がおそくなるので取り上げ、自分ではすかいに背負った。銃も重いらしいので、これも取り上げた。
ー敵が出たら、お前はどっかへかくれてろ、喧嘩はおれがしてやるから、ということになった(高橋参謀はこの兵隊の名前を覚えていないが、ことによると、私(大岡氏)と同時期、東京の東部第二部隊で教育された暗号手だったかも知れない。われわれは二ヶ月目には、暗号の特殊教育受けはじめたので、実弾射撃演習に参加しなかった。私はミンドロ島守備隊の暗号手になったが、セブの三十五軍司令部に配属になったのが四名いた。陸四などの高級暗号を覚えるのはとても間にあわない。司令部の雑役に使われて、ビンタの取られ通しだった。中には若くて要領のいい兵隊もいたが、私と同じ35歳の吉岡という兵隊は、殴られ通しで、顔が歪んでしまったという。彼等はみなレイテに来たが、一人しか生還していない)。
ードロレスまでは晴れていて、登り路は暑かったが、ダナオ山は雲をかぶっていて、山に入るとすぐ雨になった。道は赤土のぬかるみである。道傍の空地、樹陰に、三々五々海軍の兵隊が腰を下ろしている。タクロバン飛行場設営隊だという。こんなところでなにをしているか、敵はあっちだ、とにかくあの山に登れ、と前方の雲をかぶった山嶺を指したが、なかなか腰を上げない。
ー先が急がれるし、これだけの人数を一人ではとても動かすことは出来ないと諦めた。ラアオ山の今掘聯隊本部に着いたのは夕方だった。毛布を持って来てよかったと思った。壕は山腹の反対斜面に、畳三畳敷ぐらいの広さに掘ってあり、片側に腰掛けになるように段を作ってあったが、雨が流れ込み、床は五寸ほど水がたまっている。腰掛けのところに毛布を敷いたが、すぐびっしょりと水気をふくんでしまった。
ー今堀大佐は涙をながしてよろこんだ。状況を聞いて、この齢で最前線を受け持たされるのは大変だと思った。翌朝早く斬込隊が出るというので、それでは見送らして貰います。といい、それから旭川時代の昔話になった。寝る時間となって、大佐と一緒に持参の毛布にくるまったが、寒くてとても眠れない。「高橋、歌を歌おう」と大佐がいうので、二人で声を合わせて軍歌、流行唄、浪速節など覚えた歌の総ざらいをして、寒気を凌いだ。むろん眠れなかった。
ー夜が明けかかって来たので、今堀大佐といっしょに最前線に出た。雨は止まなかった。ハロを見渡す斜面に斬込隊の蛸壺が並んでいる。そこは敵の迫撃砲弾が終始来るので、後方の窪地に斬込隊が整列し、まず今掘聯隊長が激励の訓示を与えた。高橋参謀はマニラを出るとき、山下大将から餞別に貰ったスリー・キャッスルの箱が図嚢に入っているのを思い出した。とっさの機転で、それを取り出して封を切り、これは山下閣下からみんなに吸って貰ってくれといわれて預かって来たものだといい、斬込隊員一人一人の手を握り、一本ずつ渡した。
ー泣き出す者もいた。今堀大佐の顔は絶えず流れ出る涙でびっしょり濡れていた。斬込隊員の中には、たばこをおしいただき、汚い手拭に包んで弾入れにしまおうとする者がいた。高橋参謀は、「よせよせ、この雨じゃすぐ濡れてしまう。すぐに吸ってしまえ」といって、口にくわえさせ、図嚢からマッチを出し、つけてやろうとして、自分の手がふるえているのに気がついた。
ー彼はこれまでの行動で見られるように、物にこだわらない性質で、むろん斬込隊激励のため、特に前線に来たことにしてあった。兵隊の前で終始芝居をしているつもりだったが、ほんとに泣き出してしまったのである。レイテ島の戦闘がひどいことになるとは思っていたが、寒い雨の山中の生活を堪えながら、強固な米砲兵陣地に斬り込まねばならぬ前線の辛さが、斬込隊員の一人一人の手の体温と共に感じられたのである。
ー隊員は一人当たり手榴弾八個を腰につけていた。機をみて敵陣に突入し、155ミリ砲の砲身を破壊はおぼつかないにしても、砲座車輌を破壊して機能を一時停止させようというのである。この長距離砲が定期的にオルモックを砲撃し出したのは七日からだが、前に書いた通り1日途絶えたことがあった。この日が笠井中尉以下9名の斬込みが成功した日と信じられている。
ー高橋参謀はそのまま引き返した。往きにみた海軍の兵隊はずっとドロレスの方まで下がって、やはり思い思いに木の蔭に腰を下ろしている。オルモック街道に出て、どこかの部隊につかまり、前線に送られるのがいやさに、山脚地帯でうろうろしているのである。これからこの遊兵の処置が問題だな、と参謀は思った。
ーファトンの軍司令部に着き、第一師団情報参謀の土居正巳少佐が前夜通過したと聞いた。高橋参謀と土居参謀は同じ48期生であった。巧妙なカリガラ撤退を指導した百二師団金子中二参謀も同期である。レイテ戦では、この世代の若い参謀の行動が目立っている。作戦参謀は作戦を立てる余地はなかったので、情報参謀が足を使っての現場の指導が貴重になる状況だったのである。
ー高橋参謀は11日までリモンへやって貰えなかったが、ファトンの北10キロのバレンシアの不時着飛行場に30名の海軍警備兵しかいないのを見て、危惧を感じた。もしここに米軍が降下するとえらいことになる。彼は脊梁山脈の西側に増え始めている遊兵及び野戦病院の退院者で原隊所在不明で復帰できない者を、この飛行場の警備に当てることを思いついた。
ーこれが後にレイテの敗兵の怨嗟の的となった「バレンシア練成隊」である。バレンシアへ行けば食糧が貰えるというので、遊兵は続々集まってきて、一時500人を越えた。うわさは脊梁山脈全体に広がって、米軍の耳にも入った。一時、軍司令部はバレンシアにあると信じられていたという。
ー米軍に落下傘部隊を使う気はないらしいとわかり、練成隊員は手榴弾一個を持たされて、斬込隊に狩り出された。彼等は弾よけになるのはいやだったから、再び山へ入って遊兵となった(『レイテ戦記』(中)脊梁山脈・感状授与の笠井献身隊・総軍参謀高橋少佐と今掘支隊長)
~♪夜の夜中に起されて立たなきゃならない不寝番~もしも居眠りしたならば~行かなきゃならない重営倉~♪(軍歌『かわいいスーチャン』)
脊梁山脈と「戦線離脱」:
ー十六師団第四野戦病院衛生上等兵伊藤和市は、おとなしい京都の西陣の織屋の息子で、元来戦争は好きではなかった。十六年召集、ナガ、レガスピーの野戦病院勤務中、英語とタガログ語を習うためにフィリピン人と親しくすると、スパイになるつもりかなどと陰口をいわれ、駐屯生活は愉快ではなかった。そのため三年たってもまだ上等兵なのであった。
ー米軍が上陸したとき、彼はドラグの療養所勤務だった。上陸前日の艦砲射撃で患者が増えたので、その夜見習士官の軍医以下七名で、トラックでタクロバンの第四野戦病院へ患者を送っていくと「ばかやろ。これから敵が上がって来るというのに、現在地を離れる奴があるか」と怒鳴られ、すぐドラグに引き返すことを命じられた。
ー直ちに出発したが、今度は徒歩だった。パロを通り越したところで夜が明け、艦砲射撃が始まった。直ちに道路わきに壕を掘って身を隠した。幸いあまり砲弾は飛んでこなかったが、道は海岸から離れていて様子がわからない。砲声が止んだので歩き出した。行く手のカトモン山は、ドラグ方面には激しい砲声は続いていたが、あたりは不思議と静かだった。やれやれ敵さんの上がってくるところに居合わせないで助かった、と思った。
ー午後一時頃、タナウアンの町に入った。ここは九聯隊の聯隊本部があったところである。戦闘司令部は内陸のキリンに移ったということだったが、経理部、病院はまだ残っていた。聞けば敵戦車が海岸道を北上してくる、これから先は行けないという。タボンタボンからホリタを回っていったほうがよいといわれた。
ータボンタボンは野砲二十二聯隊の弾薬庫があるところだが、兵隊は一個小隊ぐらいしかいなかった。そこでもホリタへ南下する道に戦車が来ていると聞いた。師団司令部はダガミに移ったという。野戦病院もいっしょに行っているかも知れないと思い、ダガミに行くことにきめた。
ー明け方ダガミに着いたが、野戦病院は前線にいる、貴様らは戦線離脱だぞ、と怒鳴られた。九聯隊の重機中隊がキリンに集結しているから、そっちへ行けという。歩き出すとまもなく前方から激しい砲銃火が聞こえてきた。そこで見習士官の軍医が変なことをいいだした。
「どや、この戦争はとても勝てん。死んでも無駄死にや。ここらに隠れてたら、米さんはきっと来る。みないっしょに降伏しようやないか」生きて虜囚の辱めを受けず、を金科玉条として服すべき帝国軍人としては、ありえべからざる言葉である。しかし医術は元来平和的な技術であるし、一応知識人でもある。この戦争はとても勝てない、という判断があった。応召の見習士官軍医に、危険になるとこういう考えが出てきても不思議ではない。
ーフィリピンのほかの戦場で、軍医が患者、衛生兵とともに投降した例が多い。しかしこの見習士官のように、敵上陸二日目にそれをいいだした例はほかに聞かない。彼は後に脊梁山脈中で、別の軍医中尉とともに落伍した。伊藤上等兵たちは投降するため、わざと落伍したのだと信じている。しかしこの二人は生還していない。
ーこの見習士官の提案は、伊藤上等兵のその後の行動に微妙な影響を与えることになった。しかし敵上陸二日目ではあまりにも唐突で、彼自身も他の下士官もみな反対した。部隊は結局キリンの戦闘部隊に追いつき、負傷者を収容してハロ方面に後退した。第四野戦病院半部がハロに病院を開いていると聞いたからだが、一行がハロに着いたときはすでに解散してカリガラに行ったという(実は山越えにドロレスへ後退していた)。
ー再びダガミに引き返した。次第に集まってくるものが多く、人員は150名ぐらいに増えた。ダガミの西、師団司令部より約一キロ奥の山中のニッパ小屋に病院を開設し患者を収容したが、衛生資材が欠乏し、病院の役目を果たすことができない。独歩患者とともに、山越えにオルモックに後退し、資材食糧を調達して復帰せよ、という師団命令がでた。
ー師団は食糧を自給自足しなければならなかったので、150名の衛生兵と患者50名を賄うことができなかったのである。この後度々、食糧調達のために、200名ぐらいの集団が山越えにオルモックに派遣されたが、みな帰ってこなかった。オルモック周辺の山中に隠れて遊兵となってしまったのである。
ー伊藤上等兵たちは、ダナオ湖を目標に、山中の道なき道を切り開いて進みだした。山中はいつも雨が降っていて寒かった。道のない叢林を切り開いて進むのであるから、1日1キロも進まない日がある。稜線は樹がびっしり生えていて、とても越えられないので、谷へ降りると、滝に出会ったりする。
ー最初は弱った患者に肩をかしてやったが、飲まず食わずで行軍するうちに、衛生兵も参ってしまった。患者の中にはもう動けない。ここで死なせて下さい、と手を合わせて拝む者がいる。叱りつけて元気を出させるのだが、背負ってやる体力が衛生兵には残っていなかった。止むを得ず自殺用の手榴弾を渡して、おいていった。
ー幾日たったか覚えていないが、ダナオ湖にたどり着き、湖畔のニッパハウスで休んだ。この辺がゲリラ地区であることはわかっていた。ゲリラはいまはマラリヤ蚊と山蛭の跋扈する山から出て、町に出て行っているはずだが、小屋の床にはチョコレートの包装紙やラッキーストライクの空箱が落ちている。米軍が通過したのかも知れない。いつ戻ってくるかわからないので、すぐ立退くことにした。
ー湖の左岸を回って行くと案外早くオルモックが見渡せる稜線に出た。そこからの降りははかどって、1日でオルモックの町に着いた。軍司令部に出頭すると、また参謀に戦線離脱と叱られたので、いやになってしまった。師団命令は口頭で行われたので、抗弁しようにも証拠はないのである。衛生材料の調達など思いも及ばない。ドロレスに16師団が野戦病院を開設していると聞いて、再び山道を引き返したが、着いてみるとバレンシアの軍野戦病院と合併したという。
ーバレンシアの病院というのは、ニッパハウスの床に負傷者が寝ているだけのものであった。手当ての順番がなかなかまわってこないので、仮包帯のまま五日も六日も放っておかれる。もっともみなほとんど手のつけようのない重傷である。要手術者はイピルの兵站病院に送るのだが、診断が決まるまでが大変である。
ー後送されるのは将校ばかりで、同じ腕のないものでも、下士官兵は傷口に蛆虫をわかしたまま放っておかれる。「衛生兵殿、蛆を取ってください。痛くて痛くて」といわれ、包帯の隙間に群がった蛆を取ってやるほか、することがない。「ほんにこんなことで勝てるやろか」というのが、伊藤上等兵の率直な感想であった。しかしこれは彼が脊梁山脈の中で経験する苦難の序の口であった。ブラウエン作戦が始まると、部隊は再び脊梁山脈を越えねばならなかった(『レイテ戦記』(中巻)脊梁山脈・伊藤和市上等兵の回想)
~♪興亡岐つこの一戦~ああ血煙よ~フィリッピン~いざ来い二ミッツ!マッカーサー!~♪
シブヤン海の藻屑・戦艦「武蔵」と皇軍「水兵」たち:
・・・第一航空隊の神風特攻機はこの日もマバラカット基地を出た。この方はレイテ島東方機動部隊攻撃の任務を持っていたが、前述のようにルソン島南部から海上にかけて、活発な不連続線があり、重い250キロ爆弾を抱いた零戦には突破できなかった・・・攻撃はすでに艦隊から落伍していた「武蔵」に集中し、20本の魚雷と17個の爆弾を受けて、不沈艦は艦首から沈み始めた。1850機関停止、1935左に横転沈没した。
ー乗員約2400のうち、戦死1039、その中に艦長の猪口敏平大佐も含まれていた。「武蔵沈没」はシブヤン海海戦における象徴的事件といえよう。これは周知のように「大和」の姉妹艦として、昭和13年3月着工、17年8月に竣工して聯合艦隊の戦列に加わったのだが、海軍はすでに重油不足に悩まされており、艦隊行動に加わらず、射撃訓練を行わず、トラック島の基地にその巨体を横たえるだけであった。
ー軍艦もまた民族の精神の表現といえる。「大和」「武蔵」は、わが国の追いつけ追い越せ主義の発露といえる。排水量72000トン、46センチ主砲9門は世界最大の威力である。仰角45度で発射すれば、富士山の二倍の高さを飛んで、41キロ(東京から大船までの距離)遠方に達する。その他多くの日本造艦技術者の智恵をしぼって建造されたもので、その性能は極度の機密に守られていたので、伝説的畏敬と信頼を寄せられていたのであった。
ーしかし200カイリの攻撃半径を有する空母に対しては、その巨砲も用うる余地もなく、一方的攻撃を受けて沈まねばならなかったのである。「武蔵」沈没は多くの悲惨事に充ちている。前代未聞の巨体が活動をはじめたときは、また意想外の事態も発生する。対空戦闘のため主砲も三式弾という対空焼夷弾を発射する。合図のブザーが鳴ると共に甲板上に増置された高角機関銃の射手たちは、適当な遮蔽物を見つけて避難しなければならないのだが、戦闘中でブザーの音が聞こえなかったり、実際鳴らなかったりするから、多くの者が海上に吹き飛ばされた。発射後爆煙が艦上を傘のように蔽って、突っ込んでくる敵機が見えなくなった。
ー巨艦はそのあまりに複雑な機構のため、一部に不測の故障が起こると、一挙に戦力を損じたのである。栗田艦隊の戦艦はみな120挺の高角機関銃を具え、高角砲には黄燐弾を包んだ新式の砲弾を具えていたのだが、航空機の傘をまったく欠く、戦艦対航空機の戦闘という新しい事態に直面して、射撃は演習のようにうまくいかなかったのであった。
ー空から降ってくる人間の四肢、壁に張り付いた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死、などなど、地上戦闘ではみられない悲惨な情景が生まれる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない。
「まわりに人影はなかった。僕は血のりに足をとられながら、自分の配置のほうへはうように駆けだした。足の裏のぐにゃりとした感触は、散らばっている肉のかけらだ。甲板だけじゃない。それにまわりの構造物の鉄板にもツブテのようにはりついて、ぼたぼた赤いしたたりをたらしているのだ。めくれあがった甲板のきわに、焼けただれた顔の片側を、まるで甲板に頬ずりするようにうつむけて、若い兵隊が二人全裸で倒れていた。一人はズボンの片方だけ足に残していたが、いずれもどっかから爆風で吹き飛ばされてきたものらしい。皮膚はまともにうけた爆風で、ちょうどひと皮むいた蛙の肌のように、くるりとむけて、うっすらと血をにじませている。とっつきの銃座のまわりにも何人かころがっていたが、一人はひっくりかえった銃身の下敷きになって、上向きにねじった首を銃身がじりじり焼いていた。そこから少しさきへいくと、応急員のマークをつけたまだいかにも子どもっぽい丸顔の少年が、何かぶよぶよしたものをひきづりながら、横向きになってもがいている。歯を食いしばっている顔は、死相をだして土色だ。みると腹わたを引きづっているのだ。うす桃色の妙に水っぽいてらてらした色だった。少年は、わなわなふるえる両手で、それを一生懸命裂けた下腹へおしこめようとしていたのだ。が、突然喉をぜいぜい鳴らして、もつれた縄のような腸の上に前のめりに倒れたまま、ぐったりと動かなくなった。彼は息をひきとるまで、赤く焼けただれた指先でその腸をまさぐっていた。衝撃が走った。僕はそれを横目にみながらかけだした」(渡辺清『海ゆかば水漬く屍』)。
「転がり出した移動物のために、後甲板に行くことはできなくなってしまった。とそのとき、突然悲鳴が起った。滑り出した八種砲の下敷きになった主計課の小林兵曹が押しつぶされて惨死した断末の叫び声であった。つづいて防舷物が転がり出し、2、3人が押しつぶされた。人々は転がるものを飛び越え、避けながら、右へ右へと寄っていく。すでに上衣をとり、脚絆とズボンをにで、飛び込む仕度をしているもの、何もつかまるものとてない広い甲板を、転がる物と一緒にごろごろと左舷に転んでいくもの、叫喚、怒声、恐怖ー生きんがための騒然たる様相は正に鬼気迫る壮烈なものであった。転がるものは転がりつくした。傾斜はすでに四十度か五十度、すっかりに水面に浮き上がった右舷の艦腹に這い上がってるものが多くなった。私はようやく、右舷の手すりをにぎって、艦腹に出ようとした瞬間、すさまじい音響が起って、艦首砲塔の付近に真っ赤な火柱が吹き上がり、海面を横ばいに走ったとみる間に、艦体は急激に左舷へ横転した。傾斜のためについに機関が爆発したらしい。甲板の上をごろごろ転がる者、右舷の艦腹に映った瞬間、前方にひろがっていた巨大な赤い腹が、ぐーっと眼の前に迫った。そして私は海中深く投げ出されてしまったのであった」(佐藤太郎『戦艦武蔵』・『レイテ戦記』(上)海戦・シブヤン海海戦と戦艦「武蔵」の沈没)。

~翼に日の丸乗組員は~大和魂の持ち主だ~敵機はあらまし潰したが~あるならでてこいおかわり来い~ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ~♪(軍歌『荒鷲の歌』)。
壊滅と敗軍・置き去りにされた将兵たち:
ーパコロドはネグロス島、カガヤン、タバオはミンダナオ島の陸軍飛行基地である。この命令に基づき、この後、20年3月までの間に、軍司令部、第一師団、第百二師団の一部が西海岸からレイテ島を脱出する。これは取り残されて悲惨な死に会わなければならなかった兵士、特に遺族から非難される行動であるが、三十五軍の担当区域はレイテ島だけではなく、ビサヤ諸島及びミンダナオ島に及んでいる。
ー特に後者は第百師団の全部と三十師団の一個聯隊、及び在留邦人2万人がいた。それらを嘗握して抵抗を続けるのが、三十五軍に課せられた任務である。それでも転出すべき兵団の選択について問題があり、遺族の感情を無視することはできないが、一軍の司令官として鈴木中将(戦死)の行動になんら非難すべき点はないのである。中将はレイテ島に残置する兵力を組織するために、翌年三月までレイテに止まったので、その転進はむしろ遅すぎたくらいであった。
ー見棄てられた戦場レイテの兵は、この間に潰乱状態に陥っていた。第一師団、第百二師団は一応整然と転進したように見えるが、それは帳簿上そうなっているだけで、西進する米兵と踵を接して進むのであるから、随所に小戦闘が起こる。隊伍は乱れ、落伍者が相次いでも、それを構っているひまはなかった。ブラウエン、アルブエラ方面に取り残された第十六師団、二十六師団の状態は一層悲惨であった。オルモック街道は米軍に遮断されているから、これらの部隊は以来二ヶ月、雨と霧に閉ざされた脊梁山脈から出られなかった。
ー敗走の模様は、数少ない生還者の断片的な記憶にしか残っていない。山中の到る所に白骨化した日本兵の死体があった。それを通路であることを示す道標として進んだという。靴も地下足袋も破れ、大抵の兵は裸足であった。小銃を持っているものも棄て、生きるための唯一の道具、飯盒だけ腰にぶら下げた姿になった。病み疲れて道傍にうずくまっている兵がいる。彼等は通りかかる兵に向かって、黙って飯盒を差し出す。まったく乞食の動作であった。
ー歩く力を残した兵士も飢え疲れていて、人に与えるものは持っていない。何もくれはしないのを、乞食の方でも知っている。従って彼等は一言も口をきかず、その眼にも光はない。ただ飢えが取らせる機械的な動作を繰り返すにすぎないのである。彼等は次第に死んでいった。
ー第十六師団の野戦病院上等兵伊藤和市はゲリラに妨害されてブラウエン周辺に達することが出来ず。脊梁山脈中を退却しつつあった。20人ばかりの集団で、まだ部隊の形を保っていた。背負袋に一杯米をつめて山を越えてくる若い輜重兵に会った。「とてもブラウエンには行かれやしない」というと、輜重兵としてはとにかく部隊の形を取っている集団に糧秣を渡してしまえば一応任務がすむのである。
ー下士官が図嚢からわら紙を出して受領証を書くと、安心して帰って行った。同じような輜重兵が裸にされ帯革で手を立木に縛りつけられ、首を絞めて殺されているのを見た。ゲリラの殺し方は蛮刀で喉を耳の後までさくのであるから、これは日本兵によって殺された、と伊藤上等兵は信じている。脊梁山脈中の谷間には、戦線離脱兵が到る所にいた。彼等は通りかかる輜重兵に頼んでも、部隊の形を取っていないから、米を渡して貰えない。そこで強奪し、あとで罪が発覚しないように殺してしまった、と信じられている。これら若い輜重兵はもはや軍紀の通用しない山の中で、堅苦しいことをいったので殺されたのであった。
ーこうして強盗と化した遊兵の中で、一番始末の悪かったのは砲兵だったといわれている。彼等は重い火砲を曳き砲弾を運ぶから、歩兵より身体強健な者が揃っていた。火砲が破壊されると、自分たちはすることがない、小銃を持って戦うのは任務ではない、射ち方もよく知らないと自己を正当化し、最も早く遊兵となり、その体力を利用して強盗になった。
「それより生きる道がなかったのだから仕方がなかった」と十六師団配属の野砲第二十二聯隊の生き残りの一人はいっている。今日でもまだその行為を悪いなどとは夢にも思っていないのである。兵士はあらゆるものを食べた。蛇、とかげ、蛙、お玉杓子、みみずなどである。山中に野生するバナナには種子があり、渋くて食用にならない。芋でも残っているのは、口の中が痺れる、いわゆる「電気芋」である。葉のやわらかそうな野草が採集され、飯盒で煮て食べれるが、これは誰かマッチを持っている場合である。多くは生のまま噛んで飲み込むのである。
ー下痢は一般に栄養不足の結果であるが、こういう悪食によって一層ひどくなる。道傍に下痢便の跡があるのも道標になった。それが固い便である場合は、米兵あるいはゲリラである。敗兵はその鮮度によって、敵が近くにいるか、どうか判断する。日本兵を俘虜とすることは、正規ゲリラにとっては功績となり、住民には米軍から報酬金が出た。病み傷ついた兵で、運よくそういう手間をかける比島人、あるいは米兵に見つけられたものは俘虜となった。
ー俘虜となる幸運に恵まれなかった敗兵は、さらに安全な場所を求めて北上し、ピナ山方面の脊梁山脈の中に入っていった。この辺は山は高く、叢林も厚く、米軍の作戦区域となっていなかった。敗兵はなかなか米兵の往来するオルモック街道を突破する気にはなれなかった(『レイテ戦記』(下)敗軍・脊梁山脈に取り残された第十六師団・伊藤和市上等兵の体験)。
~♪後に心は残れども~残しちゃならぬこの身体~それじゃ行くよと別れたが~永い別れとなったのか~♪(軍歌『戦友』)。
投降と降伏について:
ー二十六師団長山県栗花生中将、幕僚を含む師団主力はドロレスに向かい、バレンシア南方でオルモック街道を越えようとした。軍命令は1月10日以降の集合地点としてナグアン山を指定していた。バレンシアから真西に進路を取れば、そこに達するはずであった。
ーしかしこの辺のオルモック平野はかなり広く、街道西側に広い湿原が拡がっている。道路は夜にまぎれて突破したが、湿原に妨げられて西方山地に達する前に夜が明け、敵に発見されてしまった。道路方面よりの迫撃砲攻撃と米機の機銃掃射を受けて、山県師団長、丹羽作戦参謀以下全員戦死した(加藤参謀長は別行動)。
ー山県中将はその名の示すとおり、陸軍の元勲山県有朋の一族で、陸士23期生56歳であった。初期のニューギニア作戦では第四十一旅団長であった。ラエに上陸した米軍を迎撃するため、その西方に上陸したが、上陸地点が戦場から遠く、湿原に妨げられて戦闘に参加できなかった。19年初め釜山まで引き揚げてきたが、大本営はこういう将軍を東京へ帰らせない。新しくルソン島派遣の二十六師団長に任命、続いてレイテの死地に派遣されて非業の死に遭ったのであった。
ーダナオ湖方面を迂回北上した師団兵器勤務隊山森三平曹長らは、もう少し北のカナンガ方面に突破路を偵察して、2月下旬夜陰に乗じて街道を越えた。この頃米軍は沿道要地に駐屯するだけであるから、街道は夜なら突破可能なのであった。途中大湿原に出会うとか、敵のパトロール隊に出会うとか、偶然の不幸に遭わなければ成功したのである。
ー山森曹長は西進してバナハン山付近に達した。山中には諸隊の敗兵が集まっていた。彼は山県師団長と同行してた曹長に会い、師団主力の最期を聞いた(この曹長は後に戦死した)。やがて軍司令部がカンギポットにあることを知り、部下と共に移動する。
ー十六師団の衛生上等兵はこの頃雨にたたかれながら山中をさまよっていた。彼はブラウエン作戦が中止ときまり、北上を開始すると、銃を棄てた。こんな辛い行軍に銃を持っていることはない。後に従う兵に向かい、「おい、みんな見てろ、おれは銃を棄てるぞ。棄てたい奴はおれにみならえ」そういいながら、彼は銃を崖から投げこんだ。4,5人の部下が彼に倣った。同行の軍曹はなにもいわなかったので、彼は自分の行為は是認されたと信じている。
ー半月以上なんにも食べていなかった。歩きながら、ふっと意識が遠くなることがあった。耳も遠くなったようだった。絶えず耳鳴りがして、僚友のいうことがよく聞こえないのである。何気なく耳をほじくってみると、サザエの腸ほどの大きさの垢がたまって出てきた。なんとなく情けなくなって来た。彼は泣いた。
ー彼の隊の応召の軍医見習士官は、敵上陸二日目、東海岸キリン付近で投降を提唱した。その時はみなで反対してやめさせたが、この軍医はブラウエン作戦に参加のため山越えの途中、落伍して行方不明になってしまった。彼は軍医が単独投降したと思っていた。
ー彼は現役兵だったが、バターン半島の戦いに参加し、3年ルソン島に駐屯していた。私的制裁と猥談に暮れ、住民からサービスと称して物資を巻き上げたりする駐屯生活がつくづくいやになっていた。彼は京都西陣の小さな下請織屋の息子で、幼時父を失い母親に姉二人と共に育てられた長男であった。戦争が激しくなるにつれ下請の仕事はなくなり、生活が苦しくなった。こんな世の中にする軍人たちを憎んでいた。
ーあげくの果てに、地の果てのようなところへ連れて来られ、負けるにきまっている戦いに、命を賭けさせられるのは馬鹿馬鹿しく、いやであった。命が惜しかった。天皇陛下なんてものが上にいて、意味もなく命を捧げさせられる国に生まれたことがうらめしかった。敵が上陸すると俘虜になろうといった軍医に内心賛成であった。しかし手を挙げても殺されるかも知れない。どんな目に会うかも知れない。それがこわかったので、勇気が出ないのであった。
ー二月中旬、上等兵の一行は、どこかわからないが、広い道のあるところへ出た。ジープが往来し、フィリピン人が麦わら帽子をかぶって、呑気そうに歩いている。そういう生活が羨ましかった。夜、道は容易に突破できたが、彼は仲間について行かず、道傍の叢林の繁みの中に伏せていた。仲良しの上等兵が帰ってきて、小声で名前を呼んだ。こういうやり方もあるのだ、と教えてやろうか、と思った。投降するには、一人より二人の方が心強かったが、引きとめられるのがこわかったので、黙っていた。
ーその友だちが行ってしまってから夜が明けるまで、彼は繁みの中で、祈っていた。自分をこんな目に会わせる神仏は信じられなかったが、母の愛だけは信じられた。彼は母の面影を心に描き、どうか無事に俘虜にさせてくれるように祈った。夜が明けると、道には再びトラックやジープが通りだした。金髪の米兵がなにか談笑しながら運転してくるジープの前に、彼は手を挙げて現れた。ジープは止まり、米兵は当たり前のことのように「ヘイ、カムオン」といって、彼の手をひっぱり上げ、タバコをくれた。
ーこの上等兵の場合は、私の知る限りレイテ島の俘虜で単独投降を告白した唯一の例である。ほかにセブ島で終戦前に部下と共に山を下りて集団投降した軍医がいる。投降が軍医や衛生兵に多く出て、また告白されるのは、元来任務が非戦闘的だからで、歩兵のように軍人的良心の制約が強くないからであろう。
ー投降は人肉喰いとともに、敗軍中の最も微妙な問題である。戦陣訓により兵は「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられ、俘虜については国際協定が存在することを知らなかった。戦意を保つことが、物力の不足を補うために必要だったからだが、投降はガダルカナルでもすでに記録されている。
ー投降にはこの衛生上等兵の場合のように、内心が危機に際して現れるような衝動的な場合のほかに、思想的投降というべきものがある。日本帝国主義の手先になって死ぬのを拒否し、むしろ敵陣に加わるのを選ぶ。これはむろんマルクシズムの思想に基づいた行為で、ソ連軍、八路軍に接した北満や北支戦線に現れた。
ーしかしフィリピンの場合は、兵隊はそんな打算をめぐらす暇もなく戦闘に巻き込まれた。そして米兵の民主的寛容も、真珠湾の不意打ちをやっている以上あてにはならなかった。事実、「アイ・サレンダー」といって手を挙げる日本兵を射殺する米兵がレイテにもいたのである。
ー一方日本兵は白旗を振り、近寄る敵を不意に射撃した例がニューギニアにあり、タクロバン付近でも記録されている。米兵は報復的激情を持っていただけではなく、こういう事実を戦訓として教えられていた。そしてフィリピン人はこれまで受けた掠奪、虐待、侮辱の報復として、間違いなく首を斬るだろうと信じられていた。十六師団の衛生上等兵の場合は、巧みに相手を選んで投降した場合である。この頃は作戦は終わり、米兵もフィリピン人も上陸したてのように気が立っていなかった。食糧がなく山中をさまよう日本兵が、かわいそうな存在として映りだしていたのである。
ーそのほか負傷、失神、睡眠の状態で俘虜となった者は、この頃までに陸軍だけで500人いた。ゲリラは殴ったり蹴ったりするだけで、殺さず、米軍に渡している。報酬金が出たためであるが、カモテス諸島、ボボール島、ミンダナオ島の辺境地区など、米軍陣地から遠く離れた地区では殺されてしまった。
ータナウアンの俘虜収容所の陸海軍将兵、台湾人軍夫は約800人に増えていた。このほかタクロバンの赤禿山の麓に俘虜専用の野戦病院があり、約200の傷病兵が収容されていた。ベッドは不足していたので、一度に大量の俘虜がでると、直接タナウアンの収容所に送られた。ここには所付米軍軍医一人、衛生兵一人がいて、日本の衛生兵俘虜が助手として軽病患者の看護治療に当たっていた。
ーしかし病み疲れた新しい俘虜は、入所手続(写真撮影、訊問)のため柵外の休息所にいる間に死んでいった。コンビーフ、煮豆など食糧を不意に貪り食うためであった。日本人の収容所長が手続きがすむまで、食糧を与えない方針を決めると、炊事へ盗みに入った。そして死んでいった(『レイテ戦記』(下)カンギポット・ある兵士の投降・俘虜収容所)。
~♪ぼくは遥かなツンドラの北斗の空を振るわすぞ~きみは群がる敵艦を南十字の下に撃て~♪(軍歌『海を往く歌』)
カンギポットの敗残兵とエピローグ:
ー昭和19年10月以降、フィリピン決戦参加兵力の総数は約59万であった(厚生省発表)
1、陸軍 地上部隊=350000
     航空部隊=74000
2、海軍 艦船部隊=48000
      その他=80000
3、非戦闘員=   40000
        計=592000
4、米軍抑留者・終戦前=24535
        終戦後=102540
        計=127075
5、差引戦没者  =464925
ー消耗率は約78%である。レイテ島では生還者を額面通り2500にとっても97%になる。終戦後山から出てきた者は一人もいなかった。友近参謀長は、自分がセブに渡航した3月17日の時点で、13010の将兵がレイテ島に残っていたといっている(『軍参謀長の手記』)。これはむろん帳簿上のもので、実際にはこの時点でも兵は栄養失調によってどんどん死につつあったと見られるのだが、とにかく約一万前後の敗兵が3月にはカンギポット周辺にいたのだ。
ー米軍の記録によると、俘虜は第六軍関係(12月25日まで)389、第八軍関係439、計828(5月8日現在)である。その後終戦までに100名の新しい俘虜が出たと仮定すると、総勢928、3月以降に出た数をかりに約500と抑えても、約9500の将兵がカンギポットから510高地、カルブゴス山方面へ圧迫されて死に絶えたのである。
ーボホール島のような小島でも、終戦後現れた兵士が50名いたのに、レイテ島西部山地からは一人も出てこなかった。またぺリリュー、硫黄島に終戦後何年か生きのびた少数の兵がいたが、それはルーズな補給部隊が駐屯していて、食糧を盗ってくることが出来たからである。レイテでは終戦後降伏した日本兵の記録がまったくない。
ー今掘大佐は長嶋大尉の帰還により、その最期の模様が伝わっている唯一の部隊長である。7月4日、下痢と栄養失調のため行動不能に陥った大佐は軍旗焼却、拳銃で自決した。立会人は長嶋大尉、島田中尉、徳田准尉ほか兵5名であった。
ーこの頃第十六師団長牧野中将、二十六師団後任師団長栗栖少将、六十八旅団長沖少将、参謀長加藤大佐、百二十六聯隊長高階大佐、四十一聯隊長炭谷大佐、中村軍高級参謀、勝田第一師団後方参謀らは生きていたといわれれる。しかしその最期はまったくわからない。
ー諸隊はすでに部隊形態は失っていたと思われる。食糧獲得のためには、少人数のグループに分かれた方が便利だからである。グループの中ではなるべく互いの行動に干渉せず、離合を繰り返した。食糧は各自が勝手に探してくる。たまたま一人が得て、他が獲れないようなことがあっても、分けてはやらない、また相手も要求しない。という礼儀が出来上がっていた、と掘込上等兵はいっている。各自、持ち物も融通し合わない、最低ギリギリの線のエゴイズムを基盤とする社会形態が出来上がっていたのである。
ーこういう孤独な人間関係のうちにあって、兵はたやすく自殺したという、食糧入手の見込みがない。あるいは一番大事な脚の負傷が癒らない。あるいは下痢が癒らない、というような単純な理由で、病兵は突然群れから離れて手榴弾(がもし残っていれば)を抱いて自爆した。あるいはバンドを木の枝にかけて、絞死してしまった。しかし自殺する気力もなく、叢林中に横たわって、息をしている状態で俘虜となった者が多かった(ミンドロ島の大岡氏もおなじく)。
「旧皇軍」について・大岡氏の見解と分析:
ーレイテ戦終了後大本営が持っていた戦略は、本土、南西諸島、台湾、香港を結ぶ線を第一線とし、日満支を一体とした大陸での「籠城」であった。この構想は沖縄進攻、最終的にはソ連の参戦、満州侵入によって否定される。
ー陸軍に残ったのは、本土決戦だけになった。50個師団のよせ集め部隊を海岸に張りつけ(銃も手榴弾もなく「火炎瓶」で武装)、上陸が一頓挫したところへ5000機と称する特攻機で、敵船団を攻撃して壊滅的打撃を与える。一勝を博した有利な状況で、和平交渉に入るというものであった。
ー原子爆弾投下の後にも陸軍が降伏を拒否し、抗戦を主張したのはこの作戦に基づいていた。特攻機(沖縄戦の段階では命中率「7%」で打ち切りを提唱する将官もいた)と燃料は硫黄島、沖縄及び本土の都市を敵の爆撃に任せ、国民の犠牲の下に貯えられたが、すでに軍需生産は19年末以来底をついていた。5000機のうち有効機数はその3分の1、燃料は特攻を一回実施するに足るだけしか残っていなかった。
ー一勝を博して和平交渉に入るのはレイテ戦から存在した夢であるが、こっちの魂胆を見透した敵が断乎「否」といって、あくまで攻撃して来たらどうするか、むしろその方がありそうだ、と考える思考力を失っていたのである。
ーただ天皇と国民の前に、面子を失いたくないという情念、危険に対する反応としての攻撃性、及びこれらの情念を基盤として生まれた神国不敗の幻想にかられて、その地上軍事力(国内的にはクーデター暴力となる)を背景に、主張したのであった。
ーしかしその軍事力の基礎は国民である。徴集制度は、近代の民族国家の成立の根本的条件であるが、それが政治と独立した統帥権によって行われる場合、反対給与を伴わない強制労役となる。そのように日本の旧軍隊は徴募兵を牛馬のように酷使した本土決戦では二千万の国民が犠牲になれば、アメリカは戦争をやめるといい出すだろうと計算された。
ーフィリピンの戦闘がこのようなビンタと精神棒と、完全消耗持久の方針の上で戦われたことは忘れてはならない。多くの戦線離脱者、自殺者が出たのは当然だが、しかしこれらの奴隷的条件にも拘らず、軍の強制する忠誠とは別なところに戦う理由を発見して、よく戦った兵士を私は尊敬する。
ー近代の戦争は、職業的に訓練された軍事力によらずには行われない。歩兵についていえば、それは開けた第一線において弾雨を冒しての突撃、陣地死守ができなければならない(フィリピンのゲリラは日本軍が思っている以上に勇敢であったが、結局この種の強兵とはなれなかった。米軍がそれを第一線に使わなかったのは理由があることである)これは組織された教育と、国家に身命を捧げた職業軍人の存在を前提とする。
ーしかし一般の国民にこれを課するのは治者として残酷であり、不仁である。国民は国家の利益のほかに、おのおの個人的家族的な幸福追求の権利を持っている従って軍が徴募兵に戦いを続けさせる条件の維持に失敗した場合、降伏を命令しなければならない。そのため諸国は互いに俘虜に自軍の補給部隊と同じ給与を与え、あとで決済する国際協定を結んでいるのである。
ーしかし旧日本陸軍はこの国際協定の存在を国民に知らせず、「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えて、自決をすすめた。本土決戦のような夢物語のために、国民に犠牲を強要するのは罪悪である。国民に死を命じておきながら一勝和平の救済手段を考えるのは醜悪である。
ーこうしてレイテ決戦に敗れた上は、大本営はフィリピン全域の現地司令官に降伏の自由を与えるべきであったという平凡な結論に達する。そうすればルソン、ミンダナオ、ビサヤの日米両軍の無益な殺傷、山中の悲惨な大量餓死と人肉喰いは避けられたのであった。
ーしかし申すまでもなく、これは今日の眼からみた結果論である。国土狭小、資源に乏しい日本が近代国家の仲間入りをするために、国民を犠牲にするのは明治建国以来の歴史の要請であった。われわれは敗戦後も依然としてアジアの中の西欧として残った。
ー低賃金と公害というアジア的条件の上に、西欧的な高度成長を築き上げた。だから戦後25年たてば、アメリカの極東政策に迎合して、国民を無益な死に駆り立てる政府とイデオローグが再生産されるという、退屈極まる事態が生じたのである。
追記・日本軍の「人肉喰い」について:
『俘虜記』から、
・・・私の上官である。私が彼等を見て駆け寄ると、黒川という軍曹は横を向いて「大岡、この戦争は負けだな」といった。「俺が俘虜になるくらいだから」という意味らしい(中略)・・・太平洋の敗兵が誰でも経験した所謂木の実を喰べ、草の根をかじっての難行軍で、幾度か食物を求めて海岸地方に出ては、比島人に追われて山中に逃げ込み、遂にカバラン背後の山中にかかった頃(無論地図も磁石も持たない一行はどの辺か知らなかった)、黒川軍曹が、今度比島人を見つけ次第殺して食おう、といい出した。最初冗談かと思って聞き流していたが、しつこく繰り返すので、顔を見ると眼の色が変わっているのでぞっとした。と亘はいっている
・・・(中略)、この人肉喰いの提唱の事実を知って以来、私は彼を見るのがいやになった。人肉喰いは人類創造以来、人肉と共に人間の精気を摂取するという信仰に基づく未開人のカー二バリズムから(現代の日本でも田舎で焼場の設備がなく、村人が墓場に蒔を積んで死体を焼く場合、焼け残りの肉を万病の薬と称して食べるところがある)漂流船上における最後の必要から来るそれに到るまで、幾多の要する飽食した我々には、何もいう権利のない実例を現している。
ーしかし私が黒川軍曹に嫌悪を感じたのは、他に冗談だと思う者がいたほど切迫していなかった事態において、彼だけがそれをいい出したことにある。メデュース号の筏上の悲劇は非難し得ないが、俘虜の肉を会食した日本の将校は非難されねばならぬ。単に俘虜取扱に関する国際協定に反するばかりでなく、贅沢から人肉を食うという行為が非人間的だからである。それは彼等が陣中美食の習慣と陰惨な対敵意識に発した狂行である。
ー同様にわが黒川軍曹が同じ条件の下に飢えていた部下より先に、比島人を食うという観念を得たのは、明らかに彼が日華事変中に得た「手段を選ばず」流の暴兵の論理と、占領地の人民を人間と思わない圧政者の習慣の結束であった」(『俘虜記』
大岡昇平、1952年・中公文庫、pp193-194)
*『レイテ戦記』から、
ー・・・レイテ戦末期で最も怖ろしい人肉喰いのうわさが発生するのは、この辺からである。米軍やフィリピン人には殆ど会わないのだから、日本人同士喰い合うほかはない。徒党を組んで輜重兵の負荷をうかがう追剥ぎが、ブラウエン作戦の段階から出ていたが、作戦終了と共にそんな獲物もなくなった。
ーその時孤立した兵士を殺し、人間自体を喰ったと信じられている(中略)・・・多くの者が「あぶない」と思わせる人相の悪い兵士の一団に会った記憶を持っている。必ず二、三人連れ立って歩き、行き会った時は「こっちにはまだ力があるぞ」ということを示すために、「おう」と声をかけてすれ違ったという。夜の一人歩きは絶対に禁物であった。同じようなことがルソン、ミンダナオ島でも語られている。
ーある十六師団の兵士が同年兵にめぐり会った。ほかの中隊の下士官がいっしょだった。猿の肉と称する干し肉をすすめられたが、気味が悪くやめた。その夜同年兵から秘密を打ち明けられた。下士官を殺して食糧を作り、米軍の陣地を捜して投降しようと誘われたが、気味が悪くなって逃げ出した。
ーこれは筆者が『野火』という小説にした挿話である。この十六師団の兵士は生還している。しかしこの場合も彼の行為はすべて「未遂」であり、実際に行われたことについては伝聞しかない。
ーしかし終戦間際のルソン島北部の山中では、中隊単位で報復的に喰い合った話が伝えられる。「指がついた」人間の腕をかじる病兵を目撃した兵士の証言がある。フィリピンの女の解体された死体を見たという。しかしこの微妙な問題については、また後で触れなければならない(『レイテ戦記』大岡昇平、中公文庫(1974)、「下」巻、pp209-210)。
・・・人肉喰いの話はこの地区にも伝わっている。三月上旬渡航した軍通信隊の村川中尉もそのうわさを聞いていた。みな伝聞によることは、脊梁山脈中と同じである。兵隊は腹が減ると大抵食い物の話ばかりするものである。人肉喰いは中でも最も刺激的な話題なので好んで語られるのである。
ービリヤバの町のフィリピン人の間に、カンギポット北方の谷間にあった若い兵士の死体に、臀と股の肉がなかったという記憶が残っている。この時期に捉えられた兵士が、黒焦げの人間の腕を持っていた。といううわさがパロの俘虜収容所で語られた。
ーこれも伝聞であるが、ルソン島北部の生還者には、解体されたフィリピン人の女の死体を目撃している者がいる。ミンダナオ島で臀肉のない将校の死体が目撃され、報復と信じられている。しかし餓兵のすべてが、この種の行為に出たわけではない。道徳的制約を越えるについては個人差があって、同じ状況にあっても、人肉喰いをする者と、しない者がいるのである。
ー喰った者の顔には、なんともいえない不気味な艶があってすぐわかったといわれる。しかしこれは人肉という神秘的な食物を摂ったために現れる特殊な現象ではない。含水化物ばかり摂取していた人間が、不意に蛋白質を摂るから皮膚に艶が出るのである。人肉喰いは太平洋戦争でわれわれが残した最も忌むべき行為の一つである。ニューギニアの敗兵は原住民から怖れられた。レイテ島においても警戒されたので、それもこの地区から生き残った者の少ない理由に入るかもしれない(「下」巻、pp285-286)

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