日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Pacific War・「太平洋戦争」と日本兵たち・歴史文献・戦記文学から

みなさん、おはようございます。今、走ってきたら枯葉がちっていてむし暑い風・・・またまた「雨模様」。今日は多少の余力があったので「戦記文学」「記録」からみる「日本兵」たち。徐々に追加していきますので。またよろしくおねがいします。いつもありがとうございます。2016/10
餓島「ガダルカナル」の実情:(参考文献:藤原彰『飢死にした英霊たち』2002年、筑摩書房)
42年6月5日のミッドウェイ海戦によって、日本海軍は主力航空母艦四隻を失い、太平洋戦線における制空権を失った。それなのに、8月9日に米軍がガダルカナルに上陸すると、大本営は直ちにその奪回を決意しそのときの前線基地ラバウルから600カイリも前方にあるこの島に、次々に陸軍兵力を送り込んでいったのである。
―南太平洋方面の日本軍の戦略基地ラバウルとガダルカナルとの間は1100キロも離れている。制海制空権を奪われ、補給が困難なことが明白なのに、3万を超す陸軍の将兵が身ひとつでこの島に送りこまれたのである。上陸した兵士たちは、自分の背嚢に背負っている米を食べつくした後は、食糧の補給を受けられなかった。しかも全島が密林に覆われ、住民の少ないこの島では、現地で食糧を得ることもきわめて難しかった。空腹に耐えかね、野生の植物を食べて下痢を起こしたり、有害植物に当たる場合も多かった。栄養失調で体力が衰えているため、赤痢やマラリア、その他の風土病への抵抗力もなくなり、次々と斃れていったのである。
―降伏を許されず、死ぬまで戦うことを義務づけられた日本軍が、戦うための体力を失って、原始林の中で次々と餓死していったのである。その状況を生き残った一人の青年将校は、次のように書いている。
 12月17日(1942年)
 「今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蝿がぶんぶんたかっている。どうやら俺たちは人間の肉体の限界まできたらしい。生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、産毛にいつ変わったのだろう。体内にはもう産毛しか生える力が、幾分なくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え・・・などという小説を読んだことがあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥える型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った。この頃アウステン山に不思議な生命判断が流行りだした。限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった。
 立つことの出来る人間は・・・寿命30日間
 身体を起こして座れる人間は・・・3週間
 寝たきり起きられない人間は・・・1週間
 寝たまま小便をするものは・・・3日間
ものを言わなくなったものは・・・2日間
またたきしなくなったものは・・・明日
このように、ガ島の第一線部隊の食糧欠乏がもたらした凄惨な状況が描かれている。

孤島の置きざり部隊:
ー太平洋戦争の一つの局面は、二ミッツ米海軍大将の指揮する太平洋方面軍(POA)による中部太平洋の島づたいの進攻作戦である。1943年11月ギルバート諸島のマキン、タラワ両島への上陸に始まり、44年2月マーシャル群島クェゼリン環礁のクェゼリン、ルオット、ナムル三島への上陸、同群島のブラウン環礁への上陸とつづいて、いずれも守備隊は数日で玉砕した。
ーさらに44年夏には、米軍はマリアナ諸島へ向かい、6月にサイパン島、7月にグアム、同24日にテニアン島に上陸した。強力な陸軍部隊が配備されていたこれらの島の抵抗は1カ月近くつづいたが、何の増援も行われないまま、各島とも相次いで玉砕した。44年9月15日には、パラオ諸島のぺリリュー島、同17日には同じアンガウル島に上陸、守備隊は勇戦敢闘して1カ月以上も戦った後、玉砕した。その上で44年10月にフィリピンのレイテ島に来攻したのである。
ー米軍が攻略した島以外でこの地域にあるその他の島々にも、日本軍の守備隊は配置されていた。しかし制海・制空権を完全に米軍が握り、一隻の船も、一機の飛行機もなくなってしまったこれらの島の日本軍の存在は、米軍にとって何の脅威でもなくなっていた。無駄な犠牲を払ってまでこれらの島を攻略する必要はないとして、米軍はこれらの島の日本軍を飛び越えて、先にすすんでいった。米軍の背後に取り残された島々の日本軍守備隊は、日本からは見放され、アメリカからは無視されて、まったくの遊兵になってしまったのである。
ーこの地域の島の多くは、狭小な珊瑚礁の島で、平坦な砂磔地で地味は悪く、農耕に適していない。中にはボナペ島やトラック島のような若干の山地がある島もあるが、後は餓死する以外の道はなかったのである。こうした島々の中で、比較的大きな部隊が配置されていったウォッゼ、マエロラップ、ウェーク、クサイ、モートロック、メレヨンなどでの島々では、残酷悲惨な飢餓地獄が出現したのである。
ーミッドウェー作戦にはじめ陸軍が反対したのは、占領はできてもその後の補給が難しいからという理由であった。その他の島についても事情は同じはずである。しかもミッドウェー、ガダルカナルの敗戦で、日本軍が制空・制海権を失ったことが明らかになってから、何故これらの島々に大部隊を送ったのか、そのことに、きわめて重大な疑問を感じざる得ないのである。
ーとり残された島々に配備された陸海軍部隊のその後の運命はどうなったのだろうか。『戦史叢書・中部太平洋海軍作戦』は、660頁もの大冊であるが、これらの部隊については、次のようにわずか八行で片づけているだけである。
「その後、戦争終結まで、既述のように米軍の進攻によって玉砕したタラワ、マキン、アバママ、クェゼリン、ルオット、ブラウン、サイパン、グアム、テニアン、ぺリリュー、アンガウル、硫黄島の各島と戦いながら、最後まで使命完遂に努力した。本編は、これら敵中に残された島嶼の部隊の状況を述べる予定のところ紙面の都合上割愛を余儀なくされ、「付表第六」とした」。
『戦史叢書』が、ハワイ海戦やミッドウェー海戦などについて、それぞれ数百頁に及ぶ大冊を充てているのにたいして、あまりにも取り扱いが軽小すぎるといわなければならない。これら置き去り部隊の運命こそが、この戦争の特質と、日本軍の本質を表しているからである。
メレヨン島の悲劇・天皇の言葉:
ー取り残された島の中で、もっとも悲惨な状況となったのはメレヨン島である。メレヨン島はトラック島の西、グアムの南、パラオ島の東で、そのいずれからも500キロ以上離れたまったくの孤島である。この島は千数個の低平な珊瑚礁からなる環礁で、ほとんど耕地はない。ここを陸軍の独立混成第五十旅団と海軍の第四十四警備隊、合わせて6500名の兵力が守備していた。米軍はこの島に激しい空襲を加え、航空基地としての機能を封殺しただけで、ここを通り越してマリアナ諸島を攻略し、さらにパラオ諸島に向っていった。
ー完全に補給を断たれたので、守備隊長の北村勝三少将(独立混成50旅団長)は、44年9月以降「メレヨンでこのまま餓死するよりも、折から急迫しつつあったぺリリュー作戦に対し」「増援逆上陸し武人の最後を飾りたい」と意見具申したが、船が皆無のため認められなかった。以後一年間、守備隊は飢餓との戦いを続けることになるのである。
ー補給の途絶と、現地物資の不足で、主食の給食量は極度に低下し、一人100キログラムまで落ち、栄養失調死が続出した。幹部には増量が認められていたこともあって、付表第二で見るように餓死にも階級差があった。こうした飢餓地獄の中で、食糧をめぐっての陸海軍の対立、各隊間の不和、さらに食糧を盗んだ兵にたいする過酷な制裁なども行われた。
ー防衛庁の戦史も認めている『戦史叢書』は、「このような状況下に部隊全員の自活、食糧統制のためには厳正な食糧軍紀の確立を必要とし、違反者に対して、正規の軍法会議の手続きもとれない異常な当時の状態において、各級指揮官、関係者の苦心は非常なものであった」として、軍法会議によらない処刑が行われたことを暗に示している。裁判によらない処刑までしたこのメレヨン守備隊は、最後まで軍紀厳正であったとして、特に陸軍当局を感嘆させた。最後の陸相であった下村定は、北村旅団の復員にさいしての厳正な軍紀について、とくに天皇に上奏した。そのときのことを次のように回顧している。
「私はこのとき直ちに拝謁を願い出で委曲を言上したところ、陛下は日ごろの冷静な御態度にも似合わず、お喜びになり「アア、よくやってくれた。私が深く喜んでおることを、早速旅団長に電報してもらいたい」と何回も繰り返し仰せられた。私は陛下のこの異常な御態度を拝して感激おく能はず、直ちに北村少将に陛下の思召しを伝えるとともに拝謁のため至急上京するように電報させたのであるが、旅団はすでに解散されており、少将自身の所在も知ることができず(当時国内混乱のため、この種のことは珍しくなかった)、聖旨を部隊に徹底することができなかったのは、返す返すも恐に堪えない次第である」。
ー下級者ほど餓死者の比率が高いという悲劇を演じ、食糧をめぐる軍紀の厳格さを保ったのに、不法な制裁や処刑を行ったこの部隊が、軍紀の厳正さをとくに天皇から賞賛されていたのである。降伏を認めない日本軍の非人間性が、もっとも強く現れたのがメレヨン島だったといえよう。
インパール・「靖国街道」(白骨街道):
―補給を無視した作戦の例として著名なのは、1944年にビルマ方面軍が行ったインパール作戦である。戦局の不振、戦力の枯渇が目立つ44年になって、どの点からみても成算のないインド領への大挙進攻を計画するなど、無謀というほかない作戦が、第15軍司令官牟田口廉也中将の功名心から実行されたのである。チンドウィンの大河を渡り、インドとビルマの国境のアラカン山脈を越えて、インドのアッサム州に侵入しようというこの作戦の経路には、大河と密林と山脈があり、交通機関はなく、第15軍3個師団10万の大軍の兵站線を確保する見込みははじめからなかった。この時期すでに制空権はまったく連合軍に移っており、日本軍は昼間の行動が困難になっていた。山脈を越える道路がないだけでなく、自動車道路を構築するだけの資材も土工能力も日本軍にはなかった。また道路があったところで、制空権がないため昼間自動車を走らせることができず、また走らせる自動車も、ガソリンも欠乏していた。
 「どの患者の顔も蒼黒くむくみ、脚ははれて感覚がなく、靴の履けないものもいた(中略)単なる平坦な道ならば足を引きずってでも進めるが、岩に登ったり石を踏み越えるような起伏の多い地点では全く進むことが出来ない。足が完全にしびれ、麻痺しているからなのだ。我々7人は患者を一人一人抱えあげねばならなかった(中略)。とぼとぼと足を引きずり、杖つき登る患者の姿はこの世のものとは思えなかった。作戦準備にあたり、もっと衛生状況を把握しておれば、こんな患者は未然に防ぎ得たはずである。もとはといえば食物の欠乏による結果であるが、薬品に一工夫あってよかったのではないか。(中略) 昭和19年の20世紀に、未だ明治38年式の銃を持って生命を的に戦う兵が気の毒であった。銃ばかりではなかった。砲も戦車も飛行機も英軍とは格段の差があった。(中略)戦場が密林ならば主食を主としたジャングルレーションを、戦場が野であれば副食を主としたフィールドレーションが、我々の目の前で色分けされた落下傘により降ろされたのである。もちろん英軍は重い装具などは担いで戦闘などしない。近くまで車で移動し、肩から弾薬を十字に掛けトムソン銃を駆使して前進してくる軽装備である。その前には必ず戦車があり、砲撃があり、空からの掩護があった。これに比し、我々は自分の日用品まで背嚢に入れ、重い弾丸を腰に下げ前進した。戦わずして勝敗の帰趨は明らかであった。(中略)車一台、ヘリコプター一機あったら・・・と思った。(中略) 軽装な敵の歩兵の装備は、沢山の弾丸を身につけさせることにもなる。身軽に自動小銃を操り、火炎放射器を吹きつけ、日本軍の陣地を沈黙させて行く。その上、空からはドラム缶を落とし、火を放ち、唯一の隠れ場である密林を焼き払い、丸裸にしてしまう。また夕方には惜し気もなくさっと引き揚げてしまう。決して無理をしない。それだけ人命を尊重しているのだ。彼等には明日があったが、我々には無かった。(中略)
 山道には動けなくなった患者や落伍者達が叢の中にうごめいていた。(中略)目はうつろに濁っていた。もう何もする気力もないのだろう。じっと座り木に寄りかかったままであった。時たま動かす手足が、それでも息をつないでいることは僅かに証明していた。そんな近くには必ずといってよいほど、落伍者の屍体が数体転がっていた。その屍には無数の蝿が群がり赤蟻がとりついていたし、白い蛆がうようよとひしめいているのだ。(中略)屍体からはまるで油のようにぎらぎらした分泌液が流れ出し、雨水に茶色く浮いていた。腹も胸も大きく膨れ、手足も顔も太く腫れて、屍臭が一面にただよっている。そして前者と同様に朽ち果ててゆくのだった。(中略)路傍の白骨は南にさがるに従い増える一方だった。どの屍体も靴はすでになく、最後まで握っていた凸凹の飯盒には青草が一杯つまっていた」(軍医軽部茂則・回想記『インパール進攻の夢破れて』)。

フィリピン戦線の状況:(大岡昇平『レイテ戦記』(上)中公文庫、1974年)
―昭和17年(1942年)日本軍が進駐した。無敵陸軍は大東亜共栄圏の理想を掲げ、極東から鬼畜米英を駆逐すると称した。兵士たちはフィリピン人と腕を並べ、「パレホ、パレホ」(Pareho=同じだ)といった。パレホは「ハウマッチ」(いくら)、「サービス」(ただ)と共に、日本兵が最初におぼえた現地語だった。
―しかし一方日本陸軍がそれまでの四年間、中国戦線で行った残虐行為も知られていた。戦争は強いにしても、なにをするかわからない人種と考えられていた。大本営も現地司令官もフィリピン人の心情を理解し、フィリピン人を中国人なみに扱うのを禁じた。しかし進駐初期、末端部隊で、見せしめと称する斬首刑が行われるのを防ぐことは出来なかった。しかも軍の糧秣倉庫へ食糧を取りに入ったというだけの罪である。窃盗に対して死刑とは、フィリピン・コモンウェルスの人民には理解出来ないことだった。

―バターン半島陥落後、いわゆる「死の行進」によって、多くのアメリカ兵、フィリピンの俘虜を斃死させたことも、日本軍の不評に拍車をかけた。日本兵の給与は十分ではなかった。一般に大東亜に溢出した日本軍の補給は、現地調達主義であった。兵は少しでも上官の監督がゆるむと、民家に入って穀物や衣類を掠奪し、養魚場の魚を取った。フィリピン人はアメリカ人の方が遥かに行儀がよく、金があったことを思い出した。18年末には、収穫は畑ぐるみ徴発される。大東亜共栄圏を信じるものはいなくなっていた。
ーフィリピンは開戦以来、南方への兵員資材輸送の中継基地にすぎず、飛行場もなければ沿岸防衛施設も全然出来ていなかった。しかも当時の日本軍は兵力をインドネシア攻略に転用せねばならず、大兵力をフィリピンにおく余裕はなかった。
―当時中国満洲戦線には200万の大軍が常駐していたのに、太平洋戦線には15個師団25万しかさけなかった。主敵が米英であることがわかっていながら、大軍をソ連と重慶の押えとして動かすことが出来なかった。これは太平洋戦争の最大の戦略的矛盾で、18年のガダルカナル撤退以来、日本軍が終始防衛に立たされ、主導権を取り返すことが出来なかった原因のひとつである。

レイテ沖海戦:
この戦記の対象はレイテの地上戦闘であるが、10月24日から26日まで、レイテ島を中心として行われた、いわゆる比島沖海戦は、その後の地上戦闘の経過に、決定的な影響を与えているので、その概略を省くわけには行かない。
―これが日米海軍の最後の決戦となったことは周知の通りである。聯合艦隊は艦船の八割を挙げて出撃し、敗れた。レイテ島周辺の制海権は米軍に帰し、同時に地上戦闘もまた決戦の意味を失ってしまうのだが、大本営は海戦の経過のうちに出現した航空特攻に望みをかけた。敵がわが抵抗に手を焼いて、戦争を止そうと言い出すかもしれないという希望を、終戦ぎりぎりまで持ち続けた。
―海戦はルソン島東北海上から、レイテ島西南のスル海まで、400海里平方に及ぶ、広大な空間で行われた。その規模において、世界の海戦史上最大のものであった。結局航空戦力が劣勢であった日本海軍が敗れるのであるが、聯合艦隊は当時考え得る最も巧妙な作戦を案出して、局地的勝利の可能性を生み出した。その作戦においても、戦闘の経過においても、われわれの精神の典型的表現であったといえる。
―この海戦は10月10日から15日までに戦われた台湾沖航空戦と一連の戦闘と考えるのが適当であろう。米軍の台湾、南西諸島の日本の航空基地攻撃は、レイテ島上陸の準備作戦であった。日本海軍としては、敵機動部隊が基地航空隊の射程に入ったとき、これをたたく作戦は一貫していたが。当時聯合艦隊は分散していた。戦艦「大和」を中心とする第二艦隊はリンガ泊地にあったが、機動部隊は艦上機補充と搭乗員訓練のため、瀬戸内海にいた。
―南方の艦隊には重油があるが弾薬がなかった。内地の艦隊はリンガ泊地に行かなければ燃料が枯渇するおそれがあった。二つの艦隊が南方で合同する時期は、大体11月に予定されていたが、米軍が10月にレイテに進攻して来たので、その暇がなくなった。しかしレイテ島を敵手に委ねては、艦隊の合同する機会は永遠に失われてしまう。不備ながら二つの艦隊が南北から出動し、レイテ上陸企図を破推しようとするのは、止むにやまれぬ行動だったのである。
―このために聯合艦隊のとった作戦は囮作戦と殴り込み作戦の巧妙な結合で、日本的巧緻の傑作といえる。もしこの作戦が成功していれば、レイテ島に上陸したマッカーサーの第六軍は、後方との連絡を断たれその補給計画は大幅に狂い、撃滅されたかも知れない。ハルぜーの第三艦隊はカロリン群島のウルシー基地に帰って再編を強要されたはずで、その間に日本の機動部隊はリンガ泊地で戦艦群と合流するという目的が達成されたかもしれなかった。
―かりにそうなったとしても、当時すでに日本の航空機生産が減滅しはじめていたから、レイテ島の航空基地は維持出来なかったろう。昭和20年中に日本の戦力が尽きてしまうのには変わりはないにしても、米軍の日本進攻はにぶり、日本海軍は最後の戦いをよく戦ったことを誇ることが出来たかもしれなかった。
―しかしこの新しい構想は、古い艦隊撃滅の観念に捉われていた現地司令官に理解されず、栗田艦隊のレイテ湾突入中止によって、画餅に帰する。しかし同時に米第三艦隊司令長官ハルぜー大将を誤らせて、聯合艦隊は全滅を免れ、多くの艦艇を連れて帰ることになる。その経過において、われわれの創意と伝統との矛盾、アメリカ側には驕りと油断との関係が、複雑な艦隊行動となって現れているのである。
―聯合艦隊の作戦は、台湾沖航空戦の誤った勝報に釣られて、豊田長官が艦上機100機を投入してしまったことによって変更を余儀なくされた。小沢治三郎中将の機動本隊は108機より集めることが出来なかったので、自ら囮部隊となると共に、攻撃部隊となるという悲壮な決意をしなければならなかった。

ー一方ハルゼーの第三艦隊も、台湾沖航空戦で使い物にならないくらい痛めつけられた重巡二隻を長官の虚栄心のために、1200カイリを曳航したため、その戦力を弱め、艦隊行動を制約するという誤りを冒していた(損傷艦を囮として、わざと戦場に残しておいたというハルゼーの弁解は、結果論である)。10月18日から22日まで、フィリピン各地の空襲があまり激しくなく、日本の基地航空軍がやすやすと増強されたのは、この間のハルゼーの機動部隊の曖昧な行動のお陰であった。
ー聯合艦隊は三つの方向から比島東方海面を目指していた。小沢中将の率いる正規空母「瑞鶴」改装空母「瑞鳳」「千歳」「千代田」に、航空戦艦「伊勢」「日向」(但し搭載機がないので、戦艦として参加)、軽巡「大淀」ほか二隻、駆逐艦八隻からなる機動本隊は、20日豊後水道を出た。すぐ潜水艦に発見されるのは覚悟していたが、12日から水道を見張っていた米潜水艦は、その前日19日に監視位置を離れ、東シナ海を通行する商船攻撃という通常任務に戻ったところだった。
―戦艦「大和」「武蔵」を中心とする第二艦隊(栗田健男中将)は第一遊撃部隊と名を替え、一号作戦発起と共に、リンガ泊地を出て、ボルネオのブルネイに進出した。燃料補給の上、22日出動、二手に分れて、レイテ島の南北を限る二つの海峡、スリガオとサン・ベルナルディノ海峡に向った。
―栗田中将の率いる本隊は「大和」以外戦艦4、重巡10、軽巡2、駆逐艦15から成る大艦隊で、空母を欠いているとはいえ、これは第二次大戦中、太平洋に現れた最強の水上部隊であった。別に西村祥治中将の率いる旧型戦艦2、重巡1、駆逐艦4より成る別働隊がスリガオ海峡に向かった。25日明を期して、南北呼応してレイテ湾に突入する。輸送船団を破推し、敵上陸部隊を艦砲射撃するはずであった。

ー22日0800ブルネイ泊地を出た栗田艦隊は、あまり運がなかった。二列縦隊となって、進路を北東に取り、23日0116パラワン水道にさしかかったとき、ちょうどそこで日本の商船を待ち伏せしていた二隻の米潜水艦のレーダーに引っかかってしまったのである。最高19ノット出る米潜水艦は艦隊を追い越し、北緯9度30東117度15付近に停止して、夜明けを待っていた。
ーこの日の日の出は0637であった。0632、艦隊が対潜警戒体制に入り、速力を18ノットに上げて、「之」の字航行をはじめたとき、前方わずか900メートルから、突然魚雷攻撃を仕掛けた。西側の縦隊先頭の旗艦重巡「愛岩」が右舷に四本の魚雷を受け、20分で沈んだ。栗田長官と小柳参謀長は水中に投げ出され、駆逐艦「岸波」に救助された。東側の艦隊の三番艦「摩耶」も、別の潜水艦の発射した四本を受けて、四分間で沈んでしまった。艦隊は早くも重巡二隻を失ったことになる。
ー対潜警戒が十分でなかったのは無論だが、要するに駆逐艦の数が少なく、前方に出す艦がなかったのである。待ち構えていた暁の急襲で、防ぎようがなかった。しかし艦隊にとって一層打撃だったのは、「愛岩」の艦底を潜りぬけた魚雷二本が、二番艦「高雄」に命中したことかもしれない。この方は当たり所がよかったため、沈没を免れたが、ブルネイへ帰投するために駆逐艦二隻を護衛につけねばならなかったので、艦隊の戦力はさらに減じた。
ー米潜水艦の報告は無論ハルゼーに届いた。日本の三つの水上部隊の動向は無線傍受によって、だんだん明らかになっていた。栗田艦隊では24日1613潜水艦の脅威が去ったので、司令官栗田中将が「岸波」から「大和」に移乗した。「大和」はむろん旗艦たるに必要な通信設備を完備していた(中略)しかし栗田艦隊の各艦にとって、この日の空襲は生易しいものではなかった。1207、第二波24機来襲。「武蔵」が左舷に魚雷三を受け、速力は22ノットに落ちた。
ーこれはハルゼーの三つの機動部隊のうち、中央のサン・ベルナルディノ沖にいたホーガン隊から発進した攻撃隊であった。1325、第三派29機の攻撃は「武蔵」に集中した。三本の魚雷が艦首と右舷に同時命中、艦首の外板が大きくめくれ上がって波が立ち、速度が落ちた。1325、小柳参謀長は聯合艦隊と基地航空隊に緊急電報を発した。「敵艦上機われに雷爆撃を反復しつつあり、触接ならびに攻撃状況速報を得たし」。

ーこの簡潔な電報の真意は、こんなに苦戦してるのに、基地航空隊はなにをしているのか、ということである。栗田長官はブルネイを発する前から、基地航空隊の劣勢、第一航空隊の大西中将の特攻企図を知っていた。艦隊上空援護が望めないのはわかっていたが、しかし友軍が敵機動部隊を攻撃していれば、こう連続して空襲を受けるはずはない、と考えるのは自然であった。
ーしかし基地航空隊も手を焼いていたわけではなかった。23日夜、レーダー偵察によって、ルソン島東方海上に米機動部隊がいるのを知り、0630約186機の戦闘機、攻撃機を発進させていたのである。艦爆彗星10機がこれに続いた。しかし攻撃目標は栗田艦隊を攻撃したホーガン隊ではなく、一番北方にいたシャーマン隊であった。上空に達したが舞い上がった、ヘルキャット戦闘機に迎撃されて、67機を失った。
ー栗田艦隊はこの後4度反転を重ね、いずれも問題を残した。機動部隊の攻撃範囲で反転してみたところで、五十歩百歩なのだが、この反転は意外な効果を生んだ。ハルゼーに、与えた損害を過大評価させ、栗田艦隊はもはや海峡突破の意図を放棄したと判断させた。海峡出口の守りを解き、38機動部隊の全力をあげて北上を攻撃させることになったからである。
ーシブヤン海の戦闘は、戦艦が航空攻撃に対して弱いことを証明したが。同時に性能の悪い航空魚雷だけでは、強力な水上部隊を完全に壊滅させることも出来ないことも証明していたのである。沈没は「武蔵」1艦だけで、ほかには重巡「妙高」大破、戦艦「長門」小破、軽巡「矢矧」小破程度で、「大和」は魚雷4本を受けながら航行に差し支えなかった。
ー栗田艦隊の二度の反転は悲しむべき結果も生んだ。それは南方スリガオ海峡に向った西村艦隊に、悲壮な単独突入の決意をさせ、さらに突入時間を繰り上げさせることになった。二つの艦隊の共同行動を不可能にさせ、第七艦隊の戦艦群に十分の時間の余裕をもって、レイテ湾口に栗田艦隊迎撃の体勢を取らせることになった。西村艦隊は旧式戦艦「山城」を旗艦としていたが、これは練習艦に使われていた老朽艦であった。
ー重巡「最上」がやや一人前なだけで、戦艦「扶桑」も似たり寄ったりの老朽艦である。ただ駆逐艦四隻だけが第一線級という弱小艦隊で、狭いスリガオ海峡に突入するのだから、むしろ囮艦隊といってよい。(中略)オルデンドルフ少将は西村艦隊に対しての水上兵力全力を投入して、完全試合を計画していた。海峡の入口に魚雷艇39、駆逐艦28を配してまず魚雷攻撃を加える。その後に西村艦隊の進路をT字形にして戦艦6、重巡4、軽巡2が並んでいた。煙幕の後から4000発の徹甲弾、高性能弾の斉射を浴びせて、この弱小艦隊を粉砕してしまったのである。
ーこれは太平洋で戦われた最も無残な殲滅戦であった。西村中将はこの前海軍大尉であった一人息子を同じフィリピンの戦場で失ったところであった。「われ魚雷攻撃を受く、各艦はわれを顧ず前進し、敵を攻撃すべし」。これが0340旗艦「山城」が発した最後の命令であった。まもなくさらに一発の魚雷を火薬庫に受けて、「山城」は轟沈してしまう。
ーこの頃志摩中将の率いる第二遊撃部隊が海峡に入ってきた。これは重巡「那智」「足柄」、軽巡「阿武隈」と駆逐艦4から成る小部隊で、既術のように、南西方面艦隊所属のままの参加で、全然西村艦隊と共同行動をとらなかった。海峡入口で「阿武隈」が魚雷を受けて落伍したが、「那智」を先頭に、一列縦隊に進んできた。号作戦から各艦につけられたレーダーによる魚雷攻撃を行うのが任務であった。「山城」「扶桑」はすでに沈み、「最上」が炎上している戦場に到達し、混乱に乗じて、煙幕向うの米戦艦群に向って魚雷を発射して回頭した。
ーただレーダーの性能が悪く、軍艦と島の区別がつかなかったらしい。一発も命中しなかった。翌朝、海峡東側のヒブソン島の砂浜に乗り上げている数発が発見された。回頭した「那智」は炎上している「最上」と衝突して艦首を折り、速力が18ノットに落ちていた。停止していると思った「最上」が燃えながら、8ノットの速力で南下していたからである。志摩艦隊はレイテ湾突入を諦め煙幕を張って退いた。この艦隊は「突入を可と認む」という程度の曖昧な命令しか与えてられていなかった。しかしこの志摩艦隊の素早い退却は、次の日の栗田艦隊の戦闘に幾分の貢献をした。夜が明けて偵察機が出動するまでオルデンドルフの戦艦群は海峡出口を離れることが出来なかったからである。不屈の攻撃精神を持つ日本の艦隊は、いつ引き返して来るか分からない、と考えられた(中略)。

ー小沢提督は敵に見つけられるのを恐れる必要は全然なかったから、無電封鎖を行わず、必要な報告電は遠慮なく打っていたのだが、これはハルゼーのところへは全然届かなかったらしい。この日の「瑞鶴」の発信性能が悪く、その発した電報は、栗田艦隊にも届かなかったといわれる・・・この日はちょうどハルゼーが焦々しているときに、小沢艦隊が偵察機に視認されて、その判断を狂わすことになったのである。
ー「プリンストン」が撃沈され、栗田艦隊が反転したとき、ちょうど発見されたので、ハルゼーはサン・ベルナルディノ海峡を開放して、その空母16隻で、わずか空母四隻の小沢艦隊の攻撃に専念することになった・・・キンケードの立場は別である。彼はハルゼーが34特別任務部隊を見張りに残して北上した、と思い込んでいたのである。一抹の不安は残っていた。0400スリガオ海峡で二つの日本艦隊と交戦していることをハルゼーに連絡したついでに、幕僚の忠告によって付け加えた。
ー「34特別任務部隊はサン・ベルナルディノ海峡を守っているか」電報は0639までハルゼーの手許まで届かなかった。彼はすぐ返電した。「否、34特別任務部隊は空母群とともに、日本空母部隊と交戦中である」キンケードはびっくりしたが、どうしようもなかった。そのとき彼の護送空母群のひとつは、サマール島沖で栗田艦隊の攻撃を受けようとしていた。ところがオルデンドルフの戦艦群は、200カイリ南のスリガオ海峡で、志摩艦隊を追撃中であり、とても戦場に迷いそうもなかった。
ー彼が掩護の責任のあるレイテ湾内の輸送船団と、栗田艦隊の間には、速力のおそい護送空母6の他に、駆逐艦3、護送駆逐艦4しかいなかった。
「大和」の主砲発射・護送空母群との戦闘:
ーハルゼーは栗田艦隊の最初の反転と、パイロットの誇大な戦果報告によって、栗田艦隊はもはやキンケードが料理出来る弱小艦隊であると信じていた。彼もまた事実をあるがままではなく、そうあって欲しいように想定していた。一方キンケードも全然海峡の警戒を怠ったわけではなかった。24日、日が暮れてからカタリナ夜間偵察飛行機一機がサン・ベルナルディノ海峡に沿って飛び、その西口に出て、サマール島西岸を偵察して引き返してきた。あいにくそれは栗田艦隊が海峡へさしかかる前だった。
ー護送空母群は夜間偵察機を持っていなかったので、未明偵察を命じた。0155スルアン島の北北西130カイリの偵察を実施するように命令を発した。命令が発進すべき護送空母には暗いうちに離着艦できるパイロットはいなかった。10機が発進したのは、日出から20分たった0658だった。これはちょうど「大和」の主砲が初弾を発射したときだった。(中略)この間にスリガオ海峡に向った西村艦隊の報告が入ってきた。0522志摩中将から第二艦隊全滅、「最上」大破炎上の報告があった。0644「大和」の艦上見張りが東南方水平線上の左40度にマスト4を発見した。続いて空母2、巡洋艦4、駆逐艦2が見えてきた。空母は艦上機を発進させている。

「実に意外も意外、敵母艦群との不意の洋上出会、しかも夜明け早々の好条件、天佑我に在り。夢床にも忘れぬ憎っくき敵の機動部隊、リンガで鍛えた腕を試すはこの時ぞ。一網打尽に薙ぎ伏せてくれんと艦橋にあるもの皆期せずして快哉を叫んだ。幕僚の中には嬉し涙を流しているものさえいる」(小柳富次『栗田艦隊』)。
ーこれは海戦史上、水上部隊が空母群と視認距離で接触した唯一のケースだった。栗田艦隊将兵の歓喜は想像に余りある。これを昨日さんざんに叩かれた機動部隊だ、と信じてしまったのも無理はない・・・未整のまま全艦突撃を命じた。ーこれは敵の遁走を防ぐため、風上の東北方向から包み込むように攻撃する体勢だが、後に重大な指揮の誤りと批判された処置である。各艦思い思い固有の速力で突進したため、広い海面に散らばって、行動に一致を欠き、対空防衛力を弱めた。敵機に牽制されて有効な攻撃が出来なくなったのである。

ー相手は最大速力18ノット程度の護送空母群だったのだから、なにもあわてることはない。ゆっくり隊形を整えてから、風上へ回るなど余計な手間をかけず、直進すればすぐ追いついて殲滅できたという結果論なのだが、私の素人考えでは、咄嗟の判断にそこまで要求するのは過酷なような気がする。
ー護送空母とは主に商船、出槽船を改造したもので、地中海作戦では飛行機運搬用に使われたが、後に輸送船護衛、橋頭堡援護に使われるようになったものである。搭載機数は18-36機、速力18ノットが最高、問題にならない弱敵だった。大きさもまちまちで12000-7000トンぐらい、2万トン以上の高速空母と見間違うはずはない、というのは素人考えで、それまでに空母と遭遇したことがない水上艦の乗員に、水平線上に見えた艦隊が、むやみに大きく見えたのも無理はない。栗田長官としては、敵がそんな弱い艦隊を戦場におきっぱなしにするとは考えられなかったのであろう。
ー正規空母なら一刻を争う。一瞬も早く飛行甲板に着弾させて発進不能にしてしまわなければ、こっちがやられてしまう。敵に高速を利して、射程外に出てしまわれると、一方的な攻撃を受けなければならないことになる。0658「大和」の前部砲塔の46センチ主砲は、距離32000メートルで発射した。初弾命中、轟沈。あるいは空母の艦腹に穴があいて、向うの海がみえた。というような伝説があるが、これは無論よた話で、遠距離の落下角度は垂直に近いから、舷側貫通などありえない。当たれば一発で轟沈が相場である。
一体この日「大和」が発射した砲弾は約100発であるが、一発も当たらなかったという説がある。史上最大の戦艦の機能には、目にみえないところに欠陥があったのである。
・・・栗田艦隊の各艦は速力をあげながら、思い思いに勝手に選んだ目標を乱射していた。旗艦「大和」と「長門」から成る第一戦隊が縦陣を保っているだけで、左翼第三戦隊の高速戦艦「金剛」と「榛名」は単独に行動した。「金剛」は0646勝手に針路を東に変計し、艦列から七カイリ北に離れて射撃していた。しかし、この艦が一番着実に成績をあげたのは皮肉である。「榛名」は「大和」が針路を70度に変えたとき、唸りをたてて、その進路を横切り、あわてて左に舵を取って退いたりした。この艦は最後には艦隊の最左翼に出て、スタンプの第二群を発見し、32000メートルから斉射を浴びせていた。
ーやがて第五、第七戦隊の重巡群を先頭に、軽巡、駆逐艦から成る二つの水雷戦隊は後尾に、という命令が各艦に徹底して、やや戦列が整ってきた。
聯合艦隊の敗北・レイテ島孤立:
・・・艦隊に全軍突撃を命ずることによって、栗田長官は各艦を航空魚雷攻撃に曝していた。その結果は「鳥海」「筑摩」の被雷落伍となって現れはじめていた。「大和」自身の被害は軽微だったが、執拗な空襲を受けていた。水雷艦隊がその攻撃任務を終わったとき、それを主力艦の周囲に集めて、魚雷攻撃に備えるのは、一応合理的な防御措置であった・・・
ーたとえ「大和」がレイテ湾頭で沈没しても、アメリカ輸送船団を一掃し、レイテ島の橋頭堡に46センチの巨砲をぶちこんで、16師団の兵士の怨みを晴らしてくれればよかった、タクロバンの総司令部を爆砕して、マッカーサーを吹き飛ばしてくれたらよかった、とにかく一発打ち込んでくれればよかった、という感情はなお残る。
ーレイテ湾突入中止は、太平洋戦争中の最大の痛恨事として残っているのだが、しかしよく考えてみれば、これは日本全体が昭和20年8月に、一億玉砕を実現できなかったことと見合っているのである。痛恨の念を解決するために、もし栗田艦隊があのまま突入していたらどうなっていたか、と想像してみるのも無駄ではあるまい。
ーこの時レイテ湾にあった輸送船団には、到着したばかりのものもあり、決して空船ではなかった。空船はさっさとマヌス島へ新しい資材を取りに帰っていたのだが、栗田艦隊がそれを砲撃する前には、オルデンドルフの戦艦群を片付けねばらなかったことを、忘れてはなるまい・・・この時期キンケードがハルゼーに弾薬不足を訴えたのはすでに書いたとおりである。確かに駆逐艦は魚雷を使い尽くしていた。しかし戦艦はまだT字砲列を敷くのに、十分とはいえないまでも、かなりの量の砲弾を持っていたのである。
ーモリソンの「海戦史」によれば、この時の各艦の弾薬保有量は米軍の通念では、十分な量とはいえないかも知れないが、各艦13から14斉射を行うことは出来た。軽巡洋艦は徹甲弾を使い尽くしていたが、艦隊射撃用高性能弾はたっぷり持っていたので、それは艦上構造物破壊及び人員殺傷用に全然無効なものではなかった。
ーこれに対して、栗田艦隊の残存重巡2隻はほとんど弾を射ち尽くしていた。なお一戦を交える徹甲弾を持っていたのは戦艦4だけだった。無論戦いは時の運でどんな偶然が作用するかはわからない。世界で最後の戦艦同士の砲戦が行われれば「大和」の超大口主砲が物をいって、オルデンドルフの旧式戦艦6隻をアウトレインジ出来たかもしれない。
ーしかし空軍の援護を持ち、偵察機によって刻々栗田艦隊の位置速力を知り、T型陣を敷いて待ち構えていたオルデンドルフの方にも有利な点はあった。よくいって相打ちというところなので、混乱に乗じて、一隻か二隻の駆逐艦が燃料を使い切り、海岸に頓挫覚悟で、湾内深く突入して、決して逃げ出しはしなかった輸送船団を砲撃することが出来た程度だったろう。
ーところが戦艦の存在に関する関心は、栗田長官や小柳参謀長の回想にまったく出てこないのである(相手が高速空母群と思っていたのなら、戦艦がついていないのはおかしいし、レイテ湾内の戦艦の所在について度々の報告を受けていたことは、何度も書いた)一般乗員にその出現が予測されていたことは、「大和」の艦上見張が「ペンシルベニア」のマストの幻を見た事実に現れている。
ーこれら無意識あるいは故意の抹消は、戦艦群が現実的恐怖の対象であったと推測させる材料である。それをいわないのは軍人の誇りであるが、目標の不足、機動部隊の存在のみ主張して、戦艦に関する情報を隠蔽しているのは、その恐怖が存在したことを思わせる。
ー相打ちになったとしても、それは大した戦果であった。米上陸軍としては、それは補給船団と橋頭堡を掩護すべき水上部隊を失うことを意味した。米軍のシステムではこれは償うことの出来ない損失になる。レイテ橋頭堡掩護はさしあたって第三艦隊の戦艦が代行するほかはないが、それは艦隊自身の行動を著しく制約することになる。
ーハルゼーの喜劇的な往復運動、サン・ベルナルディノ海峡の開放は、査問委員会にかけられ、キンケードとともに懲罰を免れなかったであろう(それでなくても査問委員会が開かれ、戦後まで両提督は醜い応酬を繰り返した)それは米軍の作戦に決定的な影響を及ぼしたであろう。
ーただしこれで南方海域に日本艦隊は皆無となるから、米軍は少数の機動部隊を送るだけで、南シナ海を遮断することが出来ることになる。太平洋戦争の結果には変わりなかったにしても、レイテ島の地上戦闘の進行には、最低二週間の狂いは来たに違いない。航空作戦が多少とも有利に展開したことは疑いない。といって私は決して栗田健男中将の巡を非難する者でないことを付け加えておく。
ー「大和」にとって、翌年四月沖縄へ単独出撃して米航空機の餌食になるより、レイテ湾がいい死場所になったとしても、それはまた大群の悲惨な挿話を、レイテ沖海戦に付け加えたはずである。翌26日、栗田艦隊は再びシブヤン海でハルゼーの艦載機の追撃を受け、軽巡「能代」沈没、「大和」「長門」に損傷を受けたが、とにかく、戦艦4、重巡2、軽巡1、駆逐艦8を、ブルネイ泊地に連れて帰ることが出来たのである(PS:要点と強調場面だけです。興味のある方は「原書」をお勧めします)。
タクロバン「野戦病院」で再会・元分隊長:(『俘虜記』から)
ー朝は軍医の回診があった。軍医は内科外科各一人、衛生兵と二世通訳を連れて回診する。別に平癒患者から採用した通訳二名、衛生兵助手数名も付き添う。これら日本人の勤務員(と彼等は自ら呼んでいた)が配膳係とともに、粗暴不親切横領等、あらゆる日本軍隊の悪習を継承していたことはいうまでもない。
ー夜時々空襲警報が発せられ電気が消された。しかしテントの上の空には友軍機の特徴あるバタバタという音は聞こえず、すぐ解除となった。或る日やはりそうした空襲警報のあった翌日、遠くの丘の向こうに燃料タンクの火災と覚しく黒煙が高く昇り、2,3日燃え続けたことがあった。多数の俘虜は便所の傍に並び、雨に濡れながら煙を眺めて立ち尽くした。
ー新しい病院に移ってから10日ばかり経った或る晩、便所から帰ると丁度4,5人の新患者が着いて、それぞれに割り当てられたベッドに就こうとしていた。私はその中に痩せ衰えたわが分隊長の悄然たる姿を認めた。私が「班長殿」と呼んで近寄ると彼は「大岡、お前もいたのか。すっかりとられちゃったよ」といった。俘虜となって収容された軍人から聞く第一声としてはこれはかなり変な嘆きである。私が「何をとられたんですか」と聞き返すと、「鞄も時計もみんなとられちゃったよ」と答える。私は吹き出したくなるのをやっと堪えたが、私のこの衝動を説明するためには少し遡って語らねばならぬ。
―この分隊長は日華事変の古強者で、19年6月私たちが東京で輸送編成を組んだとき再び召集されて来た伍長であった。彼は30歳であったが部下にやさしく教練も巧みで、我々はいい分隊長に当ったと喜んでいた。マニラについてからも我々は輸送編成を解かず、そのままミンドロ島の警備に廻されたたため、ずっとこの分隊長を載いていた。分隊長としての彼の統率には一種皮肉な磊落さがあり、兵士に適当な放縦を許したので、彼は中隊で一番人気のある下士官となった。偶々行われた討伐で夜営中ゲリラの奇襲を受けたとき、彼が中隊長と共に外へ飛び出した唯一の兵士だった後は、彼は殆ど英雄の位置まで祭りあげられた。
―しかし米軍がサンホセに上陸し我々が山へ入ってから、彼の行動はだんだん変になってきた。小隊長を長とする最初の潜伏斥候が組織され、彼がその補佐としてサンホセ付近まで行ったとき、一人の兵士がへたばってしまった。彼は進んでこの兵士を護送して先に帰る任務を引き受け、5人の兵と共に帰途についたが、彼はその兵士を少しもいたわらず、駈足同様の速度でぐんぐん本隊の露営地まで帰ってきた。兵士はすぐ寝つき5日にして死んだ。
―このときの彼の行動はへたばった兵士を口実にして、抜目なく危険区域を去ったのだと噂された。間もなくマラリアが蔓延するにつれ、この対ゲリラ戦で勇敢だった伍長が、自分の命を異常に大事にしていることが次第に明らかになってきた。彼は病人と出来るだけ離れて席をとり、自分の隣には発熱していない者しか寝かさなかった。彼は病人に絶対に手を触れず、死んだ部下の通夜にも出なかった。これはマラリアが蚊の媒介によって伝染するという、衛生典範の初歩とも抵触するおかしな配慮であったが、こういう彼の病気に対する恐怖には田舎の婆さんのようなわけのわからないところがあった(事実彼は埼玉の自作農である)。
―彼の病気に対する恐怖は薬に対する異常な執着となって現れた。彼はサンホセ付近の船着場に分硝派遣中、比島人から大きな黒革の折鞄を買い、山の中まで大事に持っていたが衛生兵の憤慨していったところによると、その中には包帯その他、各種衛生材料がぎっしり詰まっているのだそうである。分隊長がこうして衛生材料を保管するのは違法であるが、サンホセから行軍中衛生兵が荷物を持ちきれず、一部を彼に分けたのが間違いのもとで、後に自分の手許も材料が不足してからいくら返還を願っても返してくれないのだという。
―しかし彼はこれを我々部下にも秘し、必要があっても決して出さなかった。私が発熱と共に下痢をして彼にクレオソート丸をねだったときも「あれは痛み止めだ。下痢止めじゃない」といってくれなかった。こうして彼は山へ入ってからは最も病人に辛い分隊長になった。山では大部分が病人になったから、これは最も悪い分隊長ということである。死んだ部下の遺品も彼はこの鞄にしまい込んだ。彼は自分も病人と称して斥候出張等の任務を免かれ最後は退避組に参加したが、出発の時彼はこの鞄を部下の病兵に背負わせ雑嚢ひとつしか持たずに出かけた。
―要するに駐屯中上官によく部下にも厚かったこの下士官は敗残兵となると共に急に自分の命しか考えないエゴイストと豹変したのである。しかも彼は自分の命と一緒に公金をごまかして買った鞄と部下の遺品を持って帰ろうと思っていた。彼が手を貫かれた兵士と分かれて川を渡ってからの歴史は、彼の語るところによれば特筆すべきものはなかった。彼は数人の兵士とともに1カ月近く山中を彷徨した後、衰弱と下痢のため動けなくなったところをゲリラに発見され捕えられた。そして下痢のため彼だけこうして病院へ送られてきたのである。

ーしかしこの病人を嫌う潔癖家は彼自身は手のつけられぬわがままな病人であった。彼は「誰かついていてくれなくちゃ、俺あ死んじまうな、大岡頼むよ」といったが、私も病気を持っており、それは出来なかった。私は自分の心臓の故障を説明し、彼の病気がよくあるものですぐ癒るといさめた。彼は幾分情けなさそうな顔をしていたが、そのときはたって主張しなかった。
ーしかし日本の衛生兵が通りかかると、彼は突然私の隣に自分のベッドを移すように頼んだ。幸いこれはにべもなく断られた。このときだけ私は日本の衛生兵の不親切に感謝した。私は便器は不寝番がみてくれることを伝え、彼の体を毛布で包み蚊帳を吊って自分のベッドに帰った。私は考えた。彼のベッドは私のベッドからかなり遠くにあり、その間を往復して彼を介抱することは私の摂生の規則に反する。しかしとにかくこれは私の分隊長である。日本の軍隊の上官が部下に投げ与える恩恵を過大に評価する必要はなく、山で病臥中彼から受けたひどい扱いを私は十分根に持つ理由を持っているが、しかし現在の彼の状態ではまさか放っておけまい。明日は彼の体を洗い髭を剃って、とにかく一通りの始末をしてから一般の看護に委ねることにしよう。
ーしかしこの病人はその晩から私を放してくれなかった。うとうとすると私はすぐ「大岡、大岡」という声に眼を覚ました。便器であろうが動けない私の病気をあれだけ説明しておいたのにと腹がたった。聞こえないふりをしていると不寝番の足音が聞こえ、話している。不寝番の「どうした?」という問いに対して「あの辺にいる大岡という兵隊を起してくれ」といっている。「何だ、用なら俺がしてやるぜ」「あの兵隊を起してくれ」不寝番が近づいてきて私を呼ぶ。止むを得ず起きて行く。果たして便器だ。
ー「便器なら俺が持って来てやる」と不寝番は行ってしまう。私は改めて分隊長にいった。「班長殿、大岡が普通の身体ならいくらでもお世話しますが、大岡は動けないんだから勘弁してください。ベッド五つばかり歩くと胸が苦しいのですから」「ついててくれなきゃ俺あ死んじまう」「大丈夫ですよ。誰も来たてはそんなもんです」。便器が来る。向うを向いて用をたしながら首だけねじ向けて、私が行きはしないかと気にしている彼を見捨てて「お大事に」といって帰ってくる。

ー不寝番を呼んで「また俺を起せっていうかもしれないが、用はあれに決まってるんだからやってくれ、俺の分隊長だからよろしく頼む。無理もないんだがね。俺も知ってのとおり・・・」「わかった。もう起さねえから心配するな」。また目を覚ますと彼は不寝番と言い争っている。不寝番が怒って、がちゃんと便器をおいて遠ざかる音がする。彼がそれに跨っている姿を小気味がいいような気持ちで思い浮かべながら私は寝入ってしまう。
ー私がこの後いかにこの分隊長に悩まされたかはくどくは書くまい。人間が下痢で死ぬものだと思っている分隊長と、心臓を気に病む元兵士とは、いずれ劣らぬ好取組であるが、とにかく私も自分の病気をいたわらなければならぬ体であるということを、彼にのみ込ませるのはどうしても不可能であった。遂に見かねて一人の元上等兵の患者が怒鳴った。「こら、
いくら初年子かてあんなに使うたらかわいそうやないかい(この上等兵は十六師団の兵士だから京都弁であった)死んでまうやないかい。いくらもとの分隊長かて俘虜になったら対等やないか。伍長ぐらいでそない偉そうに兵隊使うもんやないわ」(*大岡氏は東京都出身だが、京都帝国大学文学部(仏文科)卒である)。
ーこの後彼はやっと私の肩をかりずに便所へ行き一人で毛布をたたむようになった。私はほくほくこの上等兵の啖呵に感謝する自分に幾分の自責を感じないわけにはいかなかったが、しかし後に収容所へ行って彼と同行した兵士の一人から聞いた彼の逃亡中の行跡を知っていたら、そんな自責を感じずにすんだところであった。「あんなひどい奴はいない」とその兵士はいった。「一人でさっさと飛ぶように歩きやがって、ついて行こと行くまいとほったらかしや」(彼はサンホセ駐屯中ゲリラに襲撃されて戦死した衛生兵の補充にきた衛生兵で大阪人である)「そいで自分が下痢したら銃持ってくれの、雑嚢背負ってくれの、勝手なことばかりいやがってな。食べるもんは人一倍食いやがるし、最後につかまるときかて、あいつが下痢で動けんさかいつかまったんや」

・・・しかし彼の話で最も私を打ったのは最初彼が部下に構わずどんどん「飛ぶように」歩いたということである。これは彼がわが友Sを遺棄したことを意味した。生死の瀬戸際にある兵士のエゴイズム一般を私は非難しないが、彼が私の愛した友を捨てたことで彼個人を嫌悪するのは私の自由である。彼はあるとき私にいった。「帰ったら山で死んだ兵隊の家を回って歩こうな」「へーえ、あなたの息子さんは私が山へ棄てて来ましたといって歩くんですか」と私はいってやった。
ーしかし何度もいうようにこのエゴイズムの権化のような下士官は、サンホセ駐屯中最も部下に敬愛されていた分隊長であり、中隊長から一番信頼されていた下士官だったのである。我々は駐屯中なお教育中とみなされていたが、彼が中隊長に提出した教育日程表は、殆ど非の打ちどころがないものであったという。
ゲリラ討伐と分隊長:
そして彼は駐屯中完璧な教育者であったのみならず、戦闘においても勇敢であった。私はいささか彼の名誉を救うために、前にちょっと触れた討伐戦中の武勇伝を語ろうと思う。前年の十月上旬サンホセ駐屯中、我々は三個分隊の兵力をもって西岸サビラヤンに討伐に行ったことがある。この付近一帯はゲリラの勢力範囲であり、米潜水艦の補給を受けている徴侯歴然たるものがあったが、相手を見くびっていた我々は、米と豚をたらふく食うための遊山旅行位にしか考えていなかった。
ーその前に東海岸で行った討伐では、相手が接触を避けて後退したため事実その通りになったからである。そして前回の不便に懲りて、今度は炊事用の大釜を持って行ったが、どうもこれはあんまりだったようである。こうした油断が結局戦死1名負傷者3名を出す原因となった(私は勤務が暗号手であったため常に本隊に止まり、どの討伐にも加わっていない)。
ーサビラヤンの町にゲリラはいず、一行は予定通り豚を屠り、トバ酒を徴発して大饗宴を開いた。小学校に宿営、正門階段の上に灯をつけて終夜衛兵が警戒した。朝3時頃炊事の兵が一方の翼舎に捉えつけた例の大釜の下に火を入れた。火が燃えあがると同時に、衛兵所の灯とその火の間約十間が一斉に射たれた。教室の床に寝ていた兵士たちは銃声に眼を開くと、曳光弾が花火のように天井にささるのを見たそうである。一人が脇腹に、一人が肩に、二人が脚に弾を受けた。
ーある者は頭髪の間を弾が通るのを感じたといっている(脇腹に傷ついた傷兵は3日の後バタンガスの病院で死んだ)。一同床にへばりついたまま銃を取り装具をつけたが、誰一人弾を冒して外へ出る者はない。この時、敢然一人窓から飛び出したのがわが分隊長であった。すぐ土に伏せてみると弾は前方百米ばかりの森から来るらしい。銃声の合間に高い笛の音が聞こえ、斉射がそれに続いた。
ー中隊長は既に出ていた。そして敵との間の前庭をゆっくり左右に歩いているのが、衛兵の消し忘れた灯でみえたという(この時灯を放棄して逃げ込んだ衛兵司令の下士官は後で中隊長に叱責された)。わが分隊長はすぐ応射した。「中さんがぶらぶらしてるんで邪魔で仕様がなかったよ」と彼はいった。彼の単独の射撃は微力なものであったけれど、この時なお数名の犠牲者を救ったものであったかもしれない。何故ならそれを合図のように長い笛の音が聞こえ、相手の射撃は止んだからである。
ーゲリラは極力犠牲を避ける。分隊長の放った一弾はわが応戦の始まりを予告するものだったのである。兵士は三々五々窓から出て射撃を開始した。何の応答もない。進撃は危険であるから、床下に各自身を埋めるに足る穴を掘って警戒する。やがて雨が降って穴に流れ込み、兵士は泥まみれになった。夜が明ければ既に敵影はない。捜索に出かけた兵士はすべて掠奪者と化した。負傷者をバタンガスの病院に送り、ゲリラを誘導した嫌疑をもって町長他に書記1名を俘虜として一同むなしく引き揚げた。
ー「よくでもそんなときに出られたもんですね」と私が讃嘆をこめていうと、わが分隊長は笑って、「だって中にいて突撃されたらみんなやられちまうものな」と答えた。「後から出ちゃどうなんですか」「後へ出るのも前に出るのも、危ないのは似たようなものだ。後へ出たりすりゃ一遍で評判が悪くなっちまう」と彼はまた笑った。この頃彼は私にとって一個の英雄だった。だから「中にいるとやられる」の如きシニックな表現も、単なる勇者の謙遜と考えていた。私は自分の持っていないものについて幻影を抱いていたのである。
ーしかしその後山に入ってからの彼の行動を併せて考えると、これがなかなか謙遜どころではなく、事実その折彼をして、一人飛び出させた真の動機だったことは、もはや明白であると思われる。中で躊躇していた他の下士官もいずれ劣らぬ日華事変の古強者であるから、状況を判断する力は似たようなものであったろうが、ただ彼のように自己の生命の存続について敏感でなかった、それだけの違いではなかったかと思われる。それはちょうど彼等が山へ入ってから、わが分隊長ほど断乎部下を見棄てることができなかったのと揆を一にしている(中略)かかるエゴイズムと勇気との一致これは職業軍人という化物を構成する奇形的結合の中でも最も奇妙なものであるが、この結合はやはり一種の危機の状態にあるから訓練を要する。所謂実戦の経験というものがそれである(私はこの挿話で偶然もう一つの勇気の例を描いている。即ち相手の前をぶらぶらしていた中隊長である。私は彼の場合、既にほかの作品で書いた理由によって一種の自殺と考えているのであるが、表面はやはり訓練された虚栄心を示している。日華事変中多くの日本の将校がこの種の虚栄心によって無意味に死に、或いは傷ついた。(P,122)
レイテの捕虜収容所:
ー私は英語は、高等学校以来近づいたことはなかったが(聖書やアメリカの新聞、雑誌などを読みながら)語彙は多くフランス語と共通(大岡氏はフランス語に堪能だった。しかし、氏がフランス語に触れたのはこのときだけである)であったからどうにか意味は取れる(私は俘虜になったとき自分が喋れたのにむしろ驚いたくらいだ)・・・(収容所にて)やがて、彼が英語を解すことが分り(ドイツ海軍の俘虜(潜水艦が燃料補給のため、浮上中に米駆逐艦に撃沈された)=恐らく、太平洋で捕虜になった唯一のドイツ兵だろうと語っていたという)・・・私が少しドイツ語を解するのを彼は殊の他に喜んだ(後に本を発見したら、この辺を付け加えたいと思っています)。
ー私の心臓はますます好調に向った。米軍の衛生兵の指導で朝晩行う軽い体操にも堪えられ、テント内の掃除にも疲れない。と同時に新しい懸念、むしろ恐怖が私を捉えた。即ち病気が全癒とされて収容所へ移されはしないかという恐怖である。収容所は日本人の長によって自治的に管理され、ニッパ編み、所内の設営が日常の仕事だそうである。現在の自由な読書を離れて、そういう空虚な労働に服することを私は無論好まないが、第一にいやなのは再び日本人の統治の下に入ることである。
ー病院も日本人勤務員の横暴の下にあるが、何といっても米兵が常駐しているし、一般に穏和な病院気分を保っている。自由な日本人の自治の下に、また軍隊式の命令と偏見の間に入れられてはかなわない。いっそいつまでも病院にいて、後れてでもいいから病院船で送り返されたい位である。私が病院に残る手段は通訳の助手でも志願するよりないが、これは既に2名の先任者がいて、厳重に既得権を脅かされないように警戒している。既に私が英語を解するのが彼等の脅威になりつつあった。
ー新しい病院の医務室には英和和英の辞書が備えられたが、彼等は極度の排他的情熱をもってそれを守り、なかなか私には貸してくれないのである。この道は私には閉ざされていた。遂にその日が来た。ある日軍医は丁重に私を診察してから、記録を取っている通訳を顧て「退院」といった。「収容所にも病棟がありますから、すぐ働かされはしませんよ」と通訳が慰めた。
 「本部」にいる「日本人収容所長」は今本という16師団の上等兵である。ただし彼は曹長を詐称していた。彼の中隊は全滅していたので、初めは誰も彼の真の階級を知る者がなかった。たまたま彼の階級を知る可能性がある者が来ると、彼はまずその者を呼びつけ「何々中隊に俺に似た上等兵がいた筈だが、あれは俺の弟だ」と宣言した。相手はそんなことでは欺されはしなかったが、所内における彼の勢力は絶大であったので、陰口をいうに止まった。齢は34,5、丈は低いが体は頑丈である。顔の皮膚は厚く、意外なところに意外な皺が寄っていた。顔は四角く反歯、足は短くガニ股であった。彼は英語を解さなかった。
 彼の下には副長に織田という海軍兵曹がいた。齢は32歳、なかなかの好男子でちょび髭を貯えていた。彼は少し英語を解した。米軍の係官は、今本と織田に馴れ、訛って「イマモロ」「オラ」と呼んだ。で以下私の記録でもそう呼ぶことにする・・・イマモロは私の体を爪先から、頭の天辺まで睨み上げ「重病棟!」と怒鳴った。
―書記は中川という16師団野砲の軍曹である。単純な阿諛者であるが、前述によって読者が容易に推察されるように、イマモロは阿諛に弱かった。中川はイマモロのあらゆる気まぐれを忍び、顎の動き一つで何処でも飛んで行った。彼は英語を解すると称し、米軍の作成する俘虜名簿の処理を手伝ったりしていたが、彼はその所謂「極秘」の名簿には、各人が降伏したか、捕われたかが記載されているといっていた(彼は但しcapture (キャプチャー)は「キャプター」 surrender(サレンダー)は「ソレンデル」と発音した)。
―しかし米軍が俘虜に降服と捕獲の区別をつけるはずがなく、ただ彼がこうして一般俘虜を威嚇しようとしているのは明白であった。これは、私の信じるところでは、彼自身降服したしるしなのである。彼はまた山中で人肉を喰ったといっていたが、つまらないことを自慢する気になったものだ。私はこれも嘘だと思っている。

ー彼等は相撲を好んだ。この肉体的力と戦闘意識の結合を生命とする遊戯は、なお残存する彼等の軍人の意識を快く擽るのであろう。熱帯の陽の下に汗と砂にまみれて闘っていた。この陽は収容所を取り巻く自由な原野にも、西太平洋のあらゆる残された戦場にも。爆撃の惨禍に会いつつある祖国にも、さらにこの島の西北部の半島に今なお籠もっているという、一万の敗残兵の上にも照っているはずであった。
ー収容所長が入ってきた。24,5歳の丈の高い中尉である(ルーマニア系)。彼の顔はアメリカ映画の少年物に出てくる敵役の金持の息子の顔を、そのまま大人にしたような無邪気な無関心を示していた、ただ声は太かった。彼の管理は要するに合理的で規則的で、規則の許す範囲ではすべてを許し、他はきかないということに尽きていた。彼は俘虜を不必要に刺激しないように努めていたが、彼自身も礼儀的に刺激されないことを欲していた。わが重病棟の同僚たる四十歳の旅館主は、或る時道路上で彼を見て笑って咎められたことがある。
ー「何故笑うか」と彼はオラを呼んで問わしめた。旅館主はただその職業的習慣により、愛想笑いをしただけなのであるが、彼の生得の反歯の自然的効果によって、嘲笑ととられたのである。オラは苦心して笑う男の善意を説明した。収容所長はいずれにしても俘虜が自分をみて笑うことを禁じた(PS:「レイテ戦記」同様、かなり抜けています。興味のある方は原書をお勧め)
フィリピン戦の特徴:(藤原彰)
ーフィリピン戦の日本軍戦没者約50万は、戦場別にすれば最大である。レイテ島はじめ激烈な戦闘が展開されたのだが、それでも純然たる戦死者よりも、栄養失調を原因とする病死、餓死の方がはるかに多かった。もちろん正確な戦死と病死の割合は明らかにされていないが、ここで取り上げたいくつかの例でも、戦死より戦病死の方がはるかに上回っている。
ーフィリピン戦がガダルカナルやニューギニアの場合と大きく異なっているのは、戦場に多数の住民が生活していたこと、すなわち人口密な地域であったことである。このため住民を巻き込んだ戦闘が行われただけでなく、飢えた日本軍が住民の食糧を奪い、さらにその生命までも奪うという大規模な住民虐殺が多発したことがこの戦場の特徴であった。
ーその原因のひとつとして、日本の支配に対して、フィリピン民衆の抵抗が強く、米軍の支援もあった、活発な対日ゲリラ活動が展開されたことがある。アメリカのフィリピン統治は、教育の普及と経済の資本主義化をすすめることにあり、1935年には独立準備政府を発足させていた。日本軍の進攻に当たって、フィリピンではビルマやインドネシアのようなこれに呼応する動きはまったく見られず、民衆は日本軍の軍政に対しても抵抗した。
ー42年8月のネグロス島の蜂起にはじまり、全島にゲリラが活動し、歩兵第9聯連隊長武智大佐が殺されるなど、その戦力は無視できなかった。フィリピンではゲリラとの闘いが占領統治の大きな課題だったのである。このため日本軍と住民とは敵対関係にあり、米軍の来攻以前から住民虐殺が行われていた。米軍の上陸によって追いつめられた日本軍は、一層住民に対する敵意を募らせ、住民の食糧を奪い、ついには住民を殺して、その肉まで食べたのであった。
ー日本軍によるフィリピンの住民虐殺については、戦後に日本の民間人による調査がなされ、被害者の証言も数多く残されている。石田甚太郎は、43年の日本軍のパナイ島の討伐、米軍のルソン島上陸後の45年2月から3月にかけてのラグナ州とバタンガスの虐殺、同年4月から5月にかけてのケソン州インファンタの虐殺などを取材し「ワラン・ビヤー日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録」を書いた。
ーまた立教大学の学生だった上田敏明は、大学のフィリピン・キャンプに参加して、日本軍の住民虐殺の事実をはじめてしり、大きな衝撃を受けた。それから5年間、主としてルソン島での綿密な聞き書きの作業をつづけ、「聞き書きフィリピン占領」という著作を刊行した。その内容は、日本軍の最大多数の兵力が存在したルソン島で、自活のために住民の食糧を奪い、抵抗する住民を殺し、多数の虐殺の実行者となっていった経緯を、もっぱら被害者側からの聞き書きによってまとめたものである。
ー石田、上田の本からもフィリピンにおける日本軍が、生存をかけた極限状態の中で、住民と敵対し虐殺の行為者となっていった経緯が明らかにされている。現在にまで解決すべき課題として残されている歴史の遺産というべきであろう。

ミンドロ島再び・忘れ得ぬ人々:(大岡昇平)
ー私はこれまで小説の形で、前線で知った戦友の肖像をいくつか描いた。彼等は死んだ、それが共通の特徴なのだが、死自身は別に珍しいことではない。先頃高等学校時代の友人の一人-本田ということにしておこうーが死んだということを聞いた。大学も京都でいっしょだった。彼は経済で学部は違ったが、下宿が近かった。本田は卒業後、保険の外交を掘り出しに、いくつか勤先を変えて、最後にはその死を私に知らせてくれた男の下で、課長をやっていた。知らせてくれた男とは、会う機会があったが、本田と会う機会はなかった。
ー大きな声で物を言わない男で、京都の学生の間に、将来の社会的可能性によって、自然に成立していた階層関係の中で、賢明に身を処すことを知っていた。その結果就職し、七人の家族を抱え、20年働きづめに働いて死んだ。前線で知っただけの戦友より、本田の方が、私とはよほど縁が深そうである。しかし私は本田の思い出は、別に書こうとは思わない。彼の表向き平凡な一生の中に、どんな非凡な苦労があったか、空想を逞しゅうすることも出来そうだが、それはただそんな気がするというだけの話で、実際逞しゅうするのは面倒である。
ー死んだ戦友だって、みんな平凡に応召され、文句ひとつ言わずに前線に行き、平凡に死んでしまったのだ。大体は書きつくしてしまったのだが、偶然話の都合で書き落とした人物が、目の前にちらついて、何故書かないのかと、いっているような気がする。
ー我々の中隊は輸送編成のまま、比島の任地の警備につき、准尉も曹長もいなかったので、先任軍曹が人事を扱っていた。かりに高木軍曹としておこう、下谷辺の米問屋の息子だとかで、眉目秀麗の好男子であった。気取り屋で、将校の持つような長い刀を形よく吊って歩いた。サンホセには中隊本部と一個小隊が一緒にいた。さしたる戦闘もないので、編成替えをした。週番士官も小隊長のほかに、3人の軍曹が、交替でつくことになった。同時に小隊長を「小隊長殿」と呼ばず、「教官殿」と呼べということになった。
ーこれは明らかに小隊長の勢威をそぐための、下士官の陰謀である。小隊長は一年志願兵上りの出来の悪い少尉で、黒眼鏡の下の眼はすが目らしかった。私は或る夜不寝番について、彼が廊下から放尿しているのを見た。彼は夜は兵舎から10歩離れた便所まで行けないのである。彼は演習の号令のかけ方もまずく、大食で、兵隊にまで馬鹿にされていたくらいだから、下士官が馬鹿にするのは無理はない。
ー週番勤務中、高木軍曹が指揮を取る時、投げ刀して、中隊長に敬礼した。兵隊のある者は彼を「少尉心待ち」と綽名した。これは官庁や会社などに「課長心得」という題名があるのを、もじったものである。ただし抜刀自身は指揮班所属の下士官が誰でもやることで、違法ではない。六時半の夕食後、サンホセはまだ明るい。兵舎の後は広い空地で、農民出の兵隊が、やたらに長い比島の茄子などを植えている。
ーその中を一本の道が貫き、20歩ばかり先に、前任駐屯部隊のつくった菅屋根の便所が引き続き使用されている。食器洗いをすませた兵士達が、8時の日夕点呼まで兵舎のまわりをうろうろしている。空は夕焼けている。海は見えないが、多分マニラ湾と同じ色彩効果をもった赤と黄の氾濫である。鳥が一羽その赤と黄を背景に彫絵になり、羽ばたいて、空中の一点に固定している。その直下地上にある巣をみはっているのだと、或る農民出の兵士が言った。
ー高木軍曹は食後よく裏へ出て来た。剣も刀帯も取った気楽な姿で、ゆっくり便所まで歩き、用をすませてからまたゆっくり帰って来る。彼はゆっくりした歩調のお蔭で、多くの同じ用を持った兵隊が、立止り敬礼して道をゆずらねばならぬのだが、すぎたあとに、「あーあ」という彼の歎声が残った。我々の部隊の位置は絶望的であった。大隊本部とは海上50里、隣りのブララカオ小隊まで山越え10里を隔てたところを、一個小隊の兵力で警備しているのである。
ーあたりはゲリラに充ち、いつ米軍が上陸して来るかわからない。レイテ戦がすでに絶望であるのは、口にこそ出さないが、誰でも感じていたことであった。高木軍曹の歎声を言葉に翻訳すれば、(あーあ、ひでえところへ来ちゃったなあ、兵隊も程度が悪いし、俺もここでおだぶつかなあ。内地でのうのうとやっている友達もいるのに、俺はまったく運がねえなあ)ということになるだろう。そう私が推測するのは、私もまた同じ予感におびえていたからであった。
ー私は暗号手で、軍曹と同じ中隊事務所に机を持っていたが、どうも彼は私を好いてはいなかったらしい。兵隊の癖に私が彼等の知らない事務を行っているのが気に喰わぬ上に、事務上隊長に直属し、彼等の知らぬ機密にあずかっているのが、おもしろくなかったのであろう。それに私は下士官に気に入られるてきぱきとした態度もなければ、適当に阿諛することも知らなかった。暗号手は暗号書保管の義務があり、万一の場合焼却するために、いつもガソリンを身辺においている。
ーそのため私はいつも本隊と共にあり、また討伐にも狩り出されずにすんだのであるが、或る夜比島人の俘虜が逃亡して、全員で捜索することになった。私が例によって暗号書があるから、兵舎に残りたいといったことが、この軍曹の癇にさわったらしい。他の軍曹は、簡単に、「そうか。そんなら大岡残れ」と言ったが、彼は承知しなかった。「暗号書なんか隊長殿に預けておけばいい。怠けるな。今度は貴様をどうしても引張り出してやるぞ」中隊で私しか暗号の事務を知らないという点を私が出来るだけ利用したのは事実である。
ーしかし私が通信事務を正しく行うことは、この僻地に孤立した部隊の運命に関すると考え、真面目に勤務していたのもまた事実なのだ。私が軍曹だったら独立守備隊に唯1人しかない暗号手なら、勝手に怠けさせておいたろう。しかし一体私の態度は何であったろうか。私自身は告白の要求から既に何百枚か戦場の経験を書いたが、今日読み返してあまりに自分を正当化しているのに、いや気がさすことがある。客観的に見て、前線における私は何者であったろうか。
ー遺憾ながら私の隊からは、兵隊は私一人しか還っていないのだが、下士官の意地悪な眼でもいい、一度私がどう映ったかを、聞いてみたいような気がする。しかし高木軍曹は還っていない。米軍が上陸して、四日がかりで、東海岸のブララカオ小隊の位置へ退避中、1日10キロほど行軍した日があった。私は出発の時はマラリアで発熱して、病兵組に入って歩いていたが、だんだん熱が下がってきた。同行に一人意気地のない兵隊がいてー藤本ということにしておこうー絶えず水を飲みたがり、飲むとそこらへ腰を下ろしてしまう。彼は自分の水筒はとっくに空にしてしまっていた。
ー私自身は水を飲まないようにする余裕があり、水筒に水を残していたが、或る休憩の時、その兵隊にせがまれ、断るかわりに、彼の眼の前で底をあげて飲み干して見せたことがある。それを少し離れたところで、休んでいた高木軍曹に見つかったのである。「こら、大岡、水を飲んじゃいかんというのが、わからんか」「はっ、わかっておりますが、藤本に飲ませないために、飲んだのであります」「理屈いうか」軍曹は私の方へ早足で近づき、剣の尻で頭のてっぺんを殴った。この制裁はこういう場合としては、軽い方である。殴り方もひどくはなく、子供をコラとたしなめるときより、少し強いくらいなものであった。
ー私の言い訳はうそではなかった。しかし戦友のためを口実に、水をたっぷり飲む絶対的快楽はあったわけで、私のちゃっかりした兵隊の姿は、おのずから現れていたはずである。それが軍曹の癇にさわったのは、自然であったと思うのだが、あとで軍曹は私に詫びを言った。目的の小隊と連絡成り、露営20日ぐらいたつと、最初病兵たる私はすっかり回復していた。却って高木軍曹がマラリアになって、草藁の小屋に寝ていた。偶然通りかかったのだが、私としては煙ったい上官なので、形式的に敬礼して、通りすぎようとすると、呼びとめられた。
ー「どうだ、大岡、元気か」「はい、この頃は分隊の連中がみんな病気で、大岡が精兵の方であります」「そうか、そりゃよかったな、俺は熱発だよ」「はあ、いかがでありますか」「うん、大したことはないが、俺はくたびれたよ」「こんな山ん中へ逃げ込んで、病人ばかりになっちゃ、しょうがないなあ」「はあ」「俺も気が立っていたからなあ、大岡を行軍中なぐったこともあったっけなあ」「いえ、あれは大岡が悪いであります」「かんべんしてくれよなあ、こうなっちゃ、みんなお互いさまだからなあ」
ー高木軍曹はよほど心細い気持ちになっていなのである。分隊長はそれぞれ病人とはいえ10人ぐらい部下を持っていたが、中隊本部を形成する高木軍曹の幹部グループは、3,4人で1人の当番兵を持っているにすぎない。この時の軍曹のやさしい言葉には、山の中ではどの兵隊の世話になるかわからない、という打算が入っていただろう。遂に米軍に襲撃された時、中隊長戦死の声がする中を、「ほんとうかなあ」と呟きながら逃走を続けた彼の姿は、別の作品に書いた。
ー残兵が北方の山中で60名ばかりの人数にまとまり、或る比島人の部落に、一泊したのは、高木軍曹のマラリアがひどく、歩行不能になったためである。そしてそれが翌日ゲリラに不意打ちされる原因となった。飯を仕度している時で、銃に取りつくものは1人もなくみな丸腰でひたすら逃げた。後ゲリラに捕まった。英語を理解する兵隊の話によると、ゲリラは音に聞こえた勇猛なる日本兵が、みんな武器を捨てて逃げたのに、びっくりしたと言ったそうである。
ー高木軍曹はここで腹を切ったということになっている。どういう兵隊が、その慌しい中で、軍曹の最期を見届けるひまがあったか、聞くのは忘れた。今では俘虜の友だちはちりじりになっていて、たしかめる手段がない。しかし比島のゲリラは一般に、日本兵を実によく助けている。これは特に戦争初期及び末期に発揮された日本兵の蛮行と考え合わせると、不思議な気がするのだが、或いは米軍は俘虜1名いくらの賞金を出していたかも知れない。
ーとにかく高木軍曹が収容所に来なかったところを見ると、彼が実際屠腹しないまでも、拳銃で抵抗し自決したことは考えられる。他に拳銃、或いは手榴弾を持ちながら、俘虜となった将校下士官もいる中で、彼は死んだという事実によって、名誉には傷がない。兵舎の裏手で、始終「あーあ」と歎息していた彼の端正な横顔が、思い出されるのである。
ポートモレスビー攻略作戦・屍はいまだにニューギニア(藤原彰)
ー補給無視または軽視の作戦の例として、ガダルカナルとほぼ同時期に実行されたポートモレスビー攻略作戦をあげることができる。ガダルカナルの戦いが、米軍の上陸によって生じた受動的な作戦であったのに対して、これは日本陸軍が主体的に計画して実行した作戦である。つまり作戦地の地誌も、後方補給の方法も、十分に検討した上で立てられた計画だったはずなのである。それなのに実際は補給皆無の飢餓地獄が発生した。
ーニューギニア東南岸のポートモレスビー(略称モレスビー)は、英領ニューギニアの首都であり、オーストラリアにとって防衛上の重要拠点であった。日本軍が第一段の南方攻略作戦に続いて計画した南太平洋での米濠遮断作戦(FS作戦)においても、最初の攻略目標となった要地であった。すでに大本営は1942年1月第四艦隊と南海支隊に対し、ラバウル攻略に引き続いて、「なし得ればモレスビーを攻略」することを命令していた。
ー42年5月はじめ、第四艦隊と南海支隊は、モレスビーを海路から攻略しようとする「MO」攻略作戦を開始した。この作戦は、日米両機動部隊の間の最初の航空戦である5月8日の珊瑚海海戦を引きこし、この結果海路攻略は延期された。その後5月18日に大本営は、ニューカレドニア、フィジー、サモア群島の要地とモレスビーを攻略するFS作戦要領を決定し、この作戦のため第17軍を編成した。ところが6月5日、ミッドウェー海戦で海軍の主力航空母艦四隻を失った。このため南太平洋をはるかに広がる構想を持ったFS作戦そのものが中止されることになった。
ー大本営はモレスビー攻略をあきらめたわけではなく、6月12日の大陸指で第17軍に対し、ニューギニア北岸から陸路でモレスビーを攻略する作戦について研究を命じた(この研究を「リ号研究」と称した)。この指示を伝えた大本営参謀の竹田宮恒徳王少佐は、第17軍の参謀に対し、英人探検家の記録を示し、モレスビーに至る道路があることを伝えたという。
ーニューギニア北岸のブナ付近からモレスビーに至る間には、標高4073メートルのビクトリア山を主峰とするオーエン・スタンレー(以下スタンレー)山脈が横たわっている。その他の土地の大部分は熱帯性の密林であり、人口は稀薄で道路はほとんどない。ここを大部隊で踏破することが容易でないのは誰がみても明らかであろう。だがFS作戦のために編成され、張り切って東京を出発してミンダナオ島にいた第十七軍司令部は、海路攻略が無理なら陸路から進攻しようとする強い意欲を持っており、大本営陸軍部も同様であった。
ー6月30日、第十七軍司令官百武晴吉中将は、南海支隊長堀井富太郎少将をラバウルからタバオに招致した。南海支隊側は従来の調査に基づいて、陸路進攻は極めて困難で、ほとんど不可能だという意見を述べた。その理由は、南海支隊側の説明では次のようになっていた。
ブナからモレスビーまで図上距離220キロメートル、実際距離は360キロメートルと考えられる。自動車道がなければ、補給は人力担送によらなければならない。兵員一人が背負って運搬し得る主食の量は25キログラム、1日平均送距離は山道なので20キロメートルとして、担送者自身が消費する量を差し引いて計算すると、第一線の給養人員5000人、一日の主食量600グラムだとすれば、第一線がモレスビーに推進された場合、実に3万2000人の担送者が必要ということになり、実際問題として陸路進攻は不可能というのである。
ーところが第一線部隊の意見は、司令部からは消極的すぎるとみられ、無視されたのである・・・辻参謀は、大本営ではすでにモレスビー陸路攻略作戦が決定しているから、速やかに実行せよと伝えたのである。しかしこれは、ほかにいくつもの例があるように完全に辻の独断であった。だが、もともと陸路進攻に傾いていた第十七軍は、これを大本営の意向と受けとった。そして積極的にその意向を実現することとし、百武司令官は、7月18日にタバオでモレスビー陸路攻略の軍命令を下達した。
ーこうして補給の目途がまったく立たないのにも関わらず、また当の実行部隊が乗り気でないにも関わらず、南海支隊を道のないジャングルを踏み分け、4000メートルのスタンレー山脈を越えて、ポートモレスビーに向って突進させるという無謀極まりない作戦が開始されたのである。
ーこうしてはじまったポートモレスビー陸路攻略作戦は、当初からさまざまな困難に直面することになった。まず兵力をニューギニアに送りこむこと自体が、容易なことではなかったのである。この時期すでにニューギニア東北海岸一帯は、ポートモレスビーやラビなどの飛行場を基地とする米濠空軍の制空権下にあり、日本軍の輸送の安全は確保できなくなっていたのである。制空権を失っていて、ブナの海上輸送さえおぼつかないのに、さらにその上陸点から200キロメートル近い密林を踏破し、途中標高4000メートル以上の山脈を越えていこうという作戦に、変更は加えられなかった。
ー南海支隊の主力は、8月18日にブナ南方のパサブアに上陸し、増加配属された歩兵第41聯隊も8月21日に上陸して主力に続いた。8月下旬にはイスラパ付近で守備の濠軍を破ってスタンレー山系にわけ入った。そして途中の抵抗を排除しながら9月16日にはイオリバイワに達し、はるかにパプア湾を望み、モレスビー飛行場の灯火が見える地点に到達した。
ーしかし上陸以来一ヶ月、南海支隊の携帯食糧は底をついた。支隊に対する補給はパキプア地区からの追送が困難のために極度に切迫して、支隊主力の糧秣は皆無の状態に近かった・・・南海支隊の状況は深刻であった。食糧不足から将兵の体力が日増しに衰えていくのに反し、モレスビーに近づくと濠軍の抵抗は強くなっていった。

ー9月14日、堀井支隊長は田中参謀に「田中君、わしは是が非でもポートモレスビーをと考えていたが、さっき谷川で手を洗いながら兵隊の飯盒を見て、決心を変更した」と語った。「兵隊のもっている米では前の陣地をとるだけでも覚束ないだろう。兵隊で明日の昼まで飯を二合と炊く者がない。殆どの兵隊がこれで米は終わりだといっていた。食糧の不足は十分わかっていた筈だが、これほどとは思わなかった。これ以上進出するのはそれだけ自殺行為をはやめることになる」といったという。
ー補給の困難、食糧の不足は当初から予想されていたことである。渋る南海支隊の尻をたたいて、山系横断の陸路進攻作戦に駆り立てた軍司令部や、大本営の名をかたって無謀な計画の実行を迫った辻参謀の責任が、なぜ問われなかったのだろうか。・・・10月はじめから、山脈内で支隊を追尾している濠軍は次第に兵力を増強し、両側から進出して退路を遮断するようになった。一方米軍は空輸と海上機動で、10月中旬にはニューギニア北岸に進出して、支隊の後方拠点であるブナの海軍基地に迫っていた。
ー食糧が尽きた上、優勢な連合軍に追撃され、退路を塞がれて、南海支隊の退却は苦闘の連続であった。密林の中や増水した川で多くの兵が斃れた。体力の衰えた兵たちにとって、重い兵器を運ぶことも、患者を担送することも容易ではなかった。配備されていた山砲兵の中隊長高木義文中尉は、堀井支隊長から砲を埋めて患者を担送するよう厳命され、砲を埋めたあと拳銃で自殺した。兵器よりも人命を重んじた堀井少将も、ブナ方面の戦況の危急に馳せようとして、カヌーでクムシ川を下って海に出て水死した。
ーこのときブナ方面は制海・制空権をまったく失っており、飢餓に苦しむ敗残の部隊は、全滅寸前の状態に陥っていた。大本営ではこの方面をどうするかについて陸海軍間に意見の相違があったが、結局は第一線の現状を無視して、この付近の確保を命じるという方針が決まった・・・連合軍の圧倒的な航空勢力の下で、輸送戦は侵入できず、補給はまったくなされていなかったのである独混21旅団の上陸も、米軍機の妨害で輸送船が使えず、辛うじて駆逐艦の輸送で人員だけバラバラに上陸するありさまであった。
ー制空権を奪われて補給ができないのに、人員だけを送りこんで確保せよと命じるのは、餓死せよというに等しい。スタンレー山脈から退却したり、バラバラに上陸した部隊は、ブナ、パサプア、ギルワなどの一帯で各個に連合軍に包囲されて、飢餓に苦しみながら、圧倒的な航空兵力、火力を持つ連合軍と戦うことになったのである・・・1月20日残存した一部の兵力はギルワを脱出したが、脱出行動を共にできない患者は陣地に残され、その多くは自決した。堀井少将の後任の南海支隊長小田健作少将も、脱出部隊を見とどけたあと自決した。
ーこの作戦にはじめから参加していた南海支隊の人員は、内地出発人員586名、補充人員1797名、損耗人員5432名、残人員1951名となっている。歩兵第41聯隊の場合は小岩井少佐によると、戦死約2000余、負傷、病気による後送約300、生存者約200名で、前述のように戦死のうち三割が弾丸によるもので、7割が病死という。今村均大将の回顧録では、東南部ニューギニアの約1万5000の堀井混成旅団の場合は、ガ島の「第17軍主力方面よりは、一層悲惨な運命に会い、大発動艇により救出されたものは、わずかに3000名に過ぎなかった」としている。
ーガダルカナル島の場合は、最後には残存兵力救出の措置がとられ、撤退のための作戦が行われて、約1万の将兵が、栄養失調で瀕死の状態になりながらも、駆逐艦で助け出された。ところがブナ地区の場合は、そうした救出の措置もとられず、パサプア、ブナの守備隊は玉砕し、ギルワの守備隊だけが自力で撤退した。この撤退は奇跡的に成功したが、南海支隊長以下多数の自決者を出すという悲劇を伴うものであった。
ーこのような悲惨な戦況をもたらした責任は現地の地形、気象などの実情を確かめないで、彼我の戦力を具体的に検討することもせず、ただ作戦上の必要からブナ地区の確保を命じた大本営にあるというべきであろう。

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