日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

天皇の軍隊・最前線と将兵たち=Casualities & Calamities of War・侵略戦争と民衆

心を病む将兵たち(続):(野田正彰「戦争と罪責」98年・岩波書店)
ー「皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり」、あるいは「生きて虜囚の辱めを受けず死して罪禍の汚名を残すこと勿」と。小川さんは逐字暗記は馬鹿らしい。要点を憶えていればいいと思った。そこで軍人勅論の第何条を言え、と指される。一字一句でも間違えると、「お前は大学を出ておきながら、それくらいも憶えられないのか」と殴られた。第一ボタンに洗面器をぶら下げ、這って皆のところを謝って回らされた。
ー要領よく覚え、要領よく答え、要領よく立ち回らねばならない。尋常小学校の教育も受けられずに入隊していた1人の男は、どうしても暗記できず、逃げだして捕まり、営倉に入れられた。ひとりの男は便所で銃剣を使って自殺した。医科大学卒、クリスチャンであるということで、小川さんは殴られ続けた。それでも耐え、一期の検閲、二期の検閲を通過した。訓練はさらに厳しくなった。例えば匍匐前進。ふらふらの行軍の後の匍匐は辛い。それでも少し腰を上げると、頭といわず、腰といわず殴られた。こうして苛まれていると、どうせ死ぬなら早く戦場に行って死にたい、と願うようになる。そして彼らが出て行くと、しばらくして骨になって帰ってくる。まだ太平洋戦争の初め、割合、遺骨は帰ってきた。
ーすると、次の部隊が出て行く。1年間の間に何遍も遺骨を迎え、遺族が取りに来た。結局、出て行くことは死ぬことだった。小川さんは知識としてではなく、肉と骨で初年兵教育を体験した。体験することによって、集団では強い人間が、個人としてはいかに弱いかを知った。あるいは、徹底的に弱いところに追い詰め、そこから暴力を引き出す手口を知った。それは、満州事変の後、奉天の日本人街の警備に立った学生が、脅えのために中国人に発砲するのと同じだった。共に、個々の人の弱さを認めず、それを覆い隠すことによって暴力に転化する。小川さんは、後に北支の戦争ではっきりとそれを確認することになる。
ー初年兵教育が終わった後、彼は予備役に編入され、東京中野の軍医学校に送られた。志願して軍医中尉になることを拒否したのだったが、やはり軍医の課程を取らされた。3ヶ月の研修の中心は「死ぬこと」「見捨てること」。軍医は負傷兵の手当てをする任務があるが、自分が負傷して任務を果たせなくなれば、価値がないので死ね。そう、繰り返し告げられた。同じ論理で、前線に復帰できる兵を手当てし、その他は死ぬのに任せろ、と教えられた。重傷者をまず助けるという医学の常識、さらには人命を助けようという甘い観念は一切払拭しろ、と言われ続けた。軍医教育が終了すると、1人ひとり呼び出される。陸軍衛生部見習士官となって戦地に送られる小川さんも、「お前はどこで死にたいか」と聞かれた。
ー「私は中国で生まれたので、中国で死にたい。それも満州で生まれたので、北支に行きたい」と彼は答えた。当時、南方の戦争はまだ始まったばかり、多くの軍医は南方を志願した。北支は共産ゲリラの動きが活発で、評判がよくなく、北支を希望したのは2人だけだった。さらに、「お前は牧師の資格を持っている。これから軍医になり、上官の立場で部下にキリスト教を伝道してもらっては困る」と付け加えられた。「私は軍隊で上官の命令は天皇陛下の命令だと叩きこまれてきた。だから、自分の信仰、良心の課題を軍の命令という形で伝えることはしない。それは信仰にもとる行為である。ただし、私は中国での医療伝道を志してきた。死に場所として中国を選んでも、もし生かされたら、いつの日かその地で医療伝道にたずさわりたい」これが、1年3ヶ月の軍人教育を潜り抜けた小川さんの矜持であった・・・。
ー内地の陸軍病院において精神病者の収容は行われていたが、戦場の第一線において、精神医学研究はほとんど行われず、発症予防のための対策は皆無であった。このような状況で小川さんは、行軍を共にし、血圧を測定することから研究を始めた。初年兵の1年間、戦闘教育を受けてきた彼は、行軍の経験もあり、指揮もできる。八路軍に囲まれた北支の戦場で、重装備の兵士が強行軍を繰り返す。集団による激励で乗り切っていくのだが、昂奮した兵隊の何人かは突然緊張が崩れ、血圧が下がる。小川軍医は、強い兵士、弱い兵士を選び出し、どんな時に崩れるかを観察し続けた・・・日本陸軍の戦略と兵士処遇が自律神経の解体にまで追い込んでいると考えていた。
心を無視する精神主義:
ー行軍は厳しく、作戦は耐えがたい。1940年8月から12月にかけての八路軍大攻撃によって打撃を受けた北支軍は、解放区の根絶のために、後に中国側から命名されたいわゆる三光作戦ー殺光(殺し尽くす)、焼光(焼き尽くす)、槍光(奪い尽くす)-を実行していた。人格を解離することなしに受け入れがたい非倫理的行為を作戦として命じられ、身体を極限まで興奮させながら、実行する。耐えられなくとも、逃げれば敵前逃亡で射殺され、内地の親族は非国民の一家とされる。こうしてさらに身体を駆り立てても、ある瞬間から拒否反応が始まる。牧師であった小川さんは、精神医学の専門教育は受けていなかったが、人間の心に常に眼を向けていた。「日本に帰りたい」痩せ衰えた兵士はいう。だが、体重30キロを割り、衰弱しきった兵士は移送できない。動かせば死ぬだけだ。点滴をしても、何を食べさせようとしても、拒否反応で死んでいく。小川軍医は、その観察記録を病棟日誌に書き続けた。

ーひとつは精神科病棟の担当兼務である。300人の病人を受け持たされた。北京第一陸軍病院はどの病院にさえ、日本陸軍は精神科医を置いていなかった。志願した軍医に精神科医がいなかったわけではない。ただ、その専門を認めなかっただけである。小川軍医は、「お前は牧師だった。戦争栄養失調症に関心もある。だから精神科を兼務しろ」と命じられた。他の1つは、北京陸軍監獄の医師をさらに兼務させられたことだ。大学卒、しかも医科大学卒、そして牧師の初年兵は、内地の部隊ではいじめられ通しだったが、軍医になってからは、1年間の戦闘訓練の忍耐も含めて評価された。戦争栄養失調症については、これまでの知見をまとめ、軍医団の会合で講演した。
ー北京の陸軍病院の軍医の平均年齢は44歳、若い軍医は前線に送られ、大学の医学者や大病院の院長が予備役で送られてきていた。彼らとの討論で、いくつかのヒントを得た。栄養失調者は髄液圧が低下する。間脳の障害を疑った彼は、脊髄に酸素を注入し、何人かの患者を改善させることができた。だが、臨床研究はそこまでだった。敗戦後、すべての資料は焼却されたので、私たちは彼の貴重なメモを参照できない。精神科病棟では、本格的に戦争によって心因症の反応を呈した多くの患者に接した。後に慶応大出身の精神科医、八幡軍医がやっと配属されてきたので一緒に診察に当った。小川さんたちは「戦争神経症」という概念すら知らなかったが、多数の心因反応を診た。ヒステリー性のけいれん発作を頻発する者、歩行障害、半身不随、失語、自傷。
ーすべて心因性の症状であり、身体に病変はない。夜中にうなされ、突然起き上がって叫ぶ(夜鷹症)者も少なくなかった。ここで彼は、症状が改善すると自殺する将兵に衝撃を受けた。1人の将校は症状がおさまった後、自決した。ある兵士は小川軍医が病気ではないと説明すると、一応理解した。彼は病院という環境で落着いてくる。そこで小川さんは「治癒退院」の診断書を書き、現隊復帰の命令が兵士に下りる。兵士が退院の申告に病院長のところに出て行く。しばらくして、館内放送が入り小川中尉の名前が呼ばれる。「何号棟の便所へすぐ来い」と。なぜ便所に呼び出されるのか、いぶかしく思いながら駆けつけると、便所の中で兵士は血まみれになっている。銃剣で咽から胸まで突き刺して、うずくまっていた。
ー小川武満さんは思った。「ここでは治すことが殺すことになる。病気だと言っておけば、そのまま病人として生きられた。病気ではないと説明すると、生真面目な男はそれなりに納得せざるえない。ところが帰る場所は、元の戦場しかない。そこから脱する道がどこにあるというのだろう」。戦場に帰ることを死をもって拒否したこの兵士の心を、軍医である自分は理解できなかった、という自責の念がつのった。それから小川さんは、あえてはっきり病兵に向って「人殺しによって解決することは何もない。人を殺せば、敵は増えるばかりだ。戦争が止まらない限り、精神的な病気は多くなるだけだ」と発言した。傷病兵は軍医の前では物を言いにくい。それでも、彼らの受け応えから同意しているのが分かった。それは、小川武満さんが命をかけて実行した。戦争神経症への最高の精神療法だったと、私は思う。
処刑される兵士たち:
ー小川さんの第3の仕事は、北京陸軍監獄への通勤だった。ここには利敵行為やスパイの容疑で捕えられた国民党や共産党系の中国人、日本軍の逃亡兵が収監されていた。軍法会議での判決はほとんど死刑となった。小川軍医は囚人の健康管理だけでなく、処刑に立ちあい、前腕の脈をとって死を確認しなければならなかった。日本軍は中国人を斬首、日本兵を射殺と決めていた。殺人方法の人種差別である。利敵行為の嫌疑はいかようにも拡大できた。穀物を持って解放地区を歩いている中国人農民、あるいは解放地区で魚をとっている者でも利敵行為の容疑で捕えられた。利敵行為はすべて死刑とされ、6人、7人とまとめて首を斬られていった。
ー小川さんが困惑したのは、日本軍の敵前逃亡者であった。目の前で逃走しようとすれば、すぐ撃ち殺されている。送獄されてくる兵は、何日か本隊から離れていた者である。だが戦線が入り乱れる対ゲリラ戦では、どちらが敵前なのか、分からなくなることもある。行軍に疲れ果て急性錯乱(アメンチア)になってさ迷う兵士もいる。それでも敵前逃亡と判定されれば銃殺される。銃殺されるだけではなく、彼は事故死として扱われ、親族に堪えがたい恥辱をもたらす。僧侶は処刑される兵士に面会し、「お前は生きてお国のために尽くすことは出来なかったが、死んで故国の霊となり、お国を護りなさい」と教戒していた。
ー小川さんはやりきれなかった。鍛え抜かれたはずの軍人が怯え、萎縮し切っている。人間の弱さの極限を見る思いだった。中国共産党の工作員が「私を斬り殺すことはできても、中国人民の反抗を止めることはできない」と言って、毅然と斬り殺されていくのと、あまりにも対照的だった。小川武満さんは、強がる人間のどうしようもない弱さに鋭い感受性を持っている。これで4度目である。満州事変後の奉天で警備に立つ学生、福山西部63部隊で追い詰められていく初年兵たち、北支の戦地において戦争栄養失調症のため小さな塊に見えるほど衰弱して息絶えていく兵士たち、そして今、これほども怯えて、処刑の前にうなだれている兵士たちがいる。
ーそれでも彼らを銃殺と死後も続く不名誉から救う方法が、ひとつだけあった。それは小川軍医が、「発見時、朦朧状態にあり、位置の判断ができる精神状態になかった」と診断書を出すことだった。だが、もし診断書が意図的なものと疑われたら、小川さんが処刑される。それを覚悟した上で、看守長に診断書を書くと告げた。看守長はうなずいてくれた。ばれたときは小川軍医だけでなく、監獄所長も処罰される。それで所長には「あえて書きます」と了解をとりに行った。所長は、「責めは2人で負おう。死なせたくない。よく決心してくれた」と答えたのだった。こうして30人ほどの兵が銃殺をまぬがれた。日本陸軍が、逃亡の嫌疑のかかった兵士を本当に許したかどうか、分からない。彼らは死ぬ確率が高い南方戦線にあえて送られていったかもしれない。
ー小川さんは、彼らがその後どうなったのか、どれだけ生きていられたか、知らない。しかし、中国農民をどうすることもできなかった。ある日、7名の斬首刑に立ちあったとき、首を切り損じられた1人が穴に転落し、血だらけの頭で「日本鬼子」と叫んだ。憲兵はピストルで撃ち、「軍医殿、死を確認して下さい」と彼に求めた。憲兵たちは穴の上にいる。穴の底には7人の中国人の体と首。土のなかに降りていくとき、自分はなぜ狂わないのかと不思議だった。それでも小川さんを支えたのは、ゴルゴタの丘の刑場に向うイエス・キリストへの信仰であった。また唯一の慰めは、教会への出席だった。石家荘ではペンテコステ派の教会があり、中国人の集会に出た。北京ではYMCAの礼拝に加わることができ、生涯の友となったキリスト者との出会いがあった。
ーただ、日本のキリスト教指導者には失望した。1944年の夏、賀川豊彦が北京に来た。賀川は国際的に知られており、中国人のクリスチャンの間でも評価が高かった。賀川は奉天に来たとき、小川家にいつも泊まっていた。それで賀川をよく知っていた小川さんは、早速訪ねて行った。「先生の講演に中国のインテリ、殊にクリスチャンは期待しています。今こそ、本当のことを言って下さい。日本の戦争の誤りを正し、戦争を一刻も早く止めねばならないと訴えて下さい。そうしたら先生の命はないかもしれません。でも、真実を訴えるのは今なんだから、ぜひやってください」。
ーだが賀川豊彦は、死んでいく人々と日々を送る小川武満さんの願いに応えようとはしなかった。その年の、8月16日、内地の日本基督教団の常議員会は「日本基督教団決戦態勢宣言」を決議している。「此ノ時二当リ皇国二使命ヲ有スル本教団ハ皇国必勝ノ為二躍起シ、断乎驕敵ヲ撃推シ、以テ震襟ヲ安ンジ奉ラザルべカラス」と、あるいは同年11月20日、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」を発表し、アジアの各教会が日本を頂点とする東亜の秩序建設に従うように要求した。すでに「日本基督教」とも呼ぶべき、異常な宗教集団に変質していた。ただし賀川豊彦は戦後、小川さんに謝っている。48年に帰国し、翌49年8月、大阪北教会の牧師となった小川さんを、賀川は招いた。
ー「命をかけて真実を語って下さいと言った、君の期待に応えられなかった。すまないと思っている」小川さんは、クリスチャンとしての謝罪だと受けとったのだった。
監獄の医師たるを択ぶ:
ー45年夏、YMCAの礼拝に出ていた小川さんは、日本の降伏が近いことを知った。北京のクリスチャンは短波放送によって情報を得ていたのである。そこで彼は、陸軍監獄に行ったとき、中国語で「もうしばらく忍耐してくれ。必ず時は来る」と中国人の囚人に話しかけた。囚われの人たちは頷いていた。看守も黙って聞いていた。敗戦と同時に、小川武満さんは現地除隊を願い出た。北京天橋の貧民街にあったキリスト教関係のセツルメント「愛隣館」で、医師として医療伝道を始めた。日曜学校も開き、子供たちと親しくなった。1年たらずで、国府軍の憲兵隊によって愛隣館は接収されたため、その後は日僑自治会の医師となり、さらに北京の監獄や留置場にいる日本人の医療にたずさわるようになる。
ー再び囚人の医療にたずさわるようになったきっかけは、日本人の遺体の引き取りからだった。留置場で3人の全裸死体を渡されたが、死因がわからない。「現場を見せて欲しい」と頼んで獄舎に入ると、1部屋に40人ほどが押し込められ、皆が熱を出している。採血して調べると回帰熱。さらに1人は肺結核で喀血している。このままでは未決囚のまま、皆死んでしまう。小川武満さんは北京に残り、再び凄惨な監獄の医師を務めることに決心したのだった。敗戦時、中国にいた日本人は47年11月から翌6月にかけて帰国していった。しかし、戦犯容疑で投獄されている者や奥地にいて引き揚げが遅れている者がいる。そのため中国側(国民党軍)の許可を得て、北京(当時は北平)、太原、青島などに「日本連絡班」が作られた。
ー北平日本連絡班は46年7月末に結成され、囚人への差し入れと医療を始めた。小川さんと眼科医の中川昌輝さんが名乗り出て、医療に当ることになった。小川さんは、敗戦まで中国人処刑に立ちあった監獄医であった。自ら掘らされた穴に斬首されて突き落とされた、中国人の死を確認する監獄医であった。殺される側からは、鬼のなかの鬼、日本鬼子のなかの日本鬼子とも見える。いつ告発されて、逆に囚人のなかに入れられるかもしれない。それでもなお中国に残り、監獄に収容されている人がいなくなるまで医療にたずさわるのが義務であると考えたのだった。この時、7つの留置場、戦犯拘留所、監獄、軍法処看守所などに500人を越える日本人(多くの徴用された朝鮮人を含む)が収容されていた。そのなかには、密告されて捕まった者も少なくなかった。45年10月10日に国民軍が北京に入城するまで、北京の警備は日本軍に依託されていた。
ーこの間に軍の幹部で戦犯容疑になると思った者は、犯罪行為を他人にすり替える書類を偽造し、中国側に密告し、自分はいち早く帰国していた。誰かが処刑されれば、もうその犯罪は日本に帰っても問われることはない。中国側は密告があれば、すぐ逮捕した。拘留された囚人は弁明書を書かされるので、自分の罪を逃れようとして他人の名前を書くと、芋蔓式に捕えられていた。獄舎のなかで、上官と下級将兵との間に厳しい対立が生まれた。部下は、上官の命令によって殺害したのであり、責任は上官にあると主張する。上官は、軍隊には独断専行があり、彼らが勝手に殺したのであって命令は出していないと拒認する。「生きて虜囚の辱めを受けず」と言っていた上級将校が、「実は以前から平和のことを考えていた」と日記まで持ち出して弁明する。
ーさらに判決をカネが左右した。軍の高級参謀や特務機関の幹部は、芥子の栽培で得たカネを隠匿しており、それを使った。このような駆け引きのうずまくなかで、例えば北京憲兵隊の西村少佐は「唯惨めなる部下を保身の質草として、我先にと故国に帰還した軍高級幹部の方々に対しては、次の言葉を謹んで奉呈したく思うのであります。曰く「愚かなる」部下が死を前にして初めて処世保身の妙諦を会得せり」と 々」と書き加えた礼状を日本連絡班に残して処刑されていった。こうして再び、小川さんは戦時処刑に立ちあうことになる。以前は刑死の確認であったが、今度は死体の引き取りである。北京の南、天橋のごみ捨て場に戦犯処刑場があり、遺体を引き取らない限り、放置される。
ー蒋介石総統の終戦告示文には、「暴に報ゆるに寛容と温情を以てす」とあり、日本人はこの布告に期待したが、実際には多くの人が逮捕処刑された。国民政府の戦争犯罪審判条例には、1931年9月18日の満州事変から45年9月2日までの間、中国大陸にいた日本人の成人男子はすべて戦犯容疑者とみなす、とされていた。逮捕された者が殺人で告訴されると、ほとんど死刑の判決となった。死刑が実行されるかどうかは、ここでもカネと日本軍上層との関係によって左右された。北支派遣軍総司令官の岡村寧次大将は、敗戦後、南京にあって日本連絡班の総班長(蒋介石の顧問格)に変身しており、彼があの男の死刑を執行しないでくれというと、無期に判決が変った。
ーこうして日本の巣鴨戦犯刑務所に移送され、釈放となった軍幹部は少なくなかった。結局、46年9月から48年3月までに29人(その内、台湾人1人、朝鮮人4人)が処刑されている。小川さんは、処刑後、憎悪をもって遺体に群がる中国人のなかから、遺体を運び出す作業を続けた。石を投げられることもあった。いかに中国民衆の怨念が深いか、死体に鞭打つ人々の姿に痛感した。白鳥吉喬(48歳)は炭鉱の軍管理人として、中国人労務者を酷使し、巨額の富を隠匿していた。死刑判決後2年間、カネの取引きによって処刑されずに来たが、48年3月12日に天橋刑場で銃殺された。銃声と同時に、担架をもって小川さんたちが走り降りようとするが、群集にさえぎられて近寄れない。
ー中国憲兵は「しばらく待て」と警告する。群集の中から年配の男が出て、白鳥の罪状を読みあげ始めた。白鳥は多数の中国人を酷使し、気に入らないと憲兵や警備隊に逮捕させて死なせてきた男であった。各村の代表は1人ずつ、この悪名高い男の罪状が読みあげられるごとに、棒で屍体を叩く、しかも叩いている写真を撮る。村に持って帰るためであろうか。1人、また1人と屍体を打っている。小川さんは、日本人がこの大陸で何をしてきたのか、思い知らされるのだった。
人間をここまで追いやってはならない:
ー戦犯処理が一応終わった後、小川武満さんは北京残留日本人教会の牧師として、また中国社会服役所の医師として働き、解放軍による北京解放(1949年2月3日)の直前、48年12月に帰国した。中国で生まれ、中国に育ち、中国人への医療伝道を志した男の、永い戦争が終わったのである。2人の弟は死亡していた。とりわけ末の弟、四郎の死に、かつて北支の病院で診察した兵士の姿が重なった。戦友の証言では、「小川少尉はフィリピンに上陸して間もなく、水にあたって下痢が続き、体力が衰えたときにマラリアにかかり死亡した」とのことだった。あれほど軍国青年であった弟、拓大空手部で体を鍛え、七生報国と言っていた弟の孤独で弱い死を思うと、いたたまれなかった。
ー翌49年8月、大阪空襲で焼け落ちた大阪北教会の牧師に招かれる。教会堂再建にかけまわりながら、同志社大学神学部の聴講生になり、戦中、戦後の神学を研究し始める。日本神学校を卒業後、医師として働き、牧師として生活を送ることはなかった。今はしばらく専心したい。そして、教会と国家と戦争について思索を深めたかった。やがてその到達点を、6年後の55年5月、日本基督教会から離れた日本キリスト教会の第1回教職修養会で講演した。「終末論と歴史秩序」と題して、「終末論は、世界の終末を論ずるのではなく、終末において歴史を語ることであり、終末論は歴史的秩序との関連に於て論ぜられ、終末論的希望に立つ教会は、この世の国家的秩序のもとにある歴史的現実の只中で、これと対決してゆるぐことなく、究極のものに根ざした決断的行為を生み出し、真実の歴史を形成していく原動力となるべきである(中略)
平和の問題は、国家の生存、教会の存在の根底に関る現実の課題である。敗戦以来10年未だに国家秩序の混乱の中で、いかなる変転を来すか予測を許さざる中で、最も必要なものは、ゆるぎない終末論的信仰に基づく希望である」と述べた。
ーここには、極限状況に立って現実を見据えようとする人間の希望が語られている。一方、53年には大阪北教会の牧師をやめ、武蔵野の奥、神奈川県水郷田名で診察を始め、同時に田名伝道所を開いている。中国ではできなかった医療伝道に、日本の山林で取組もうとしたのであった。満州育ちの小川さんは、さらに日本の農村を知りたいと思い、2年間、秋田県峯吉川国保診所で僻地医療にたずさわった。66年、再び神奈川県田名に戻り、以来、今日まで医療と伝道を続けてきた。この間、69年には「キリスト者遺族の会」の結成に加わり、前回述べたように、靖国神社境内で「再び英霊を出すな」と訴えている。84年8月15日には、中曽根首相の靖国公式参拝に抗議し、参道に飛びだして彼に抗議した。86年7月、平和遺族会全国連絡会が結成され、その代表に選ばれている。
ー小川さんは、強がる人間のどうしようもない弱さを見つづけてきた。満州事変後の奉天で警備に立つ学生たちの恐怖心、さらに恐怖にかられての殺人、広島県福山での初年兵教育において、人格を退行させ、死に吸い寄せられていく兵士たちの姿。石家荘や北京第一陸軍病院において、戦争栄養失調症で痩せ衰え、小さくしぼんで死んでいく兵士。あるいは自殺する兵士。彼らは略奪戦争に適応できないことを、身体すべてで表現していた。さらには、逃亡の容疑で銃殺される直前の兵士たち。人間をここまで追いやってはならない、という厳しい信念が小川さんにある。戦争は、国家の指導者たちの観念によって引きおこされる。だが戦場の現実は観念を越える。永い非人間的な時間のなかで、ほとんどの人々が人格の解体の危機に直面する。
ー小川武満さんは満州や北支において、人間の本当の弱さを見てきたのであった。今も、橋本龍太郎首相は靖国神社に参拝している。彼はそれを個人的な「心の問題」だという。幼いとき、母を失い、甘えていた叔父が特攻隊員として死んでいった。叔父は「俺に会いたかったら、靖国に来い」と言ったという。だから、靖国神社の参拝は個人的な行為だと弁明する。ここでも、戦争を直接知らない世代のひとりが、神風特攻隊という、「きれいな死」だけによって、戦争を観念的に捉えている。正常で健康な男性の一瞬の死は、観念的に美化されやすい。一線の戦場を知らない人々は、この観念による美化にしがみついている。しかし、小川さんは、現実の時間は永く、そこで人間は徹底的に心身を押し潰されていることを知っている。
ー1981年、北京の首都教会で平和のための日中合同礼拝が行われた。小川さんは奨励の言葉を頼まれた。彼は中国語で語り始めた。「私たちは、ただ謝り、許しあいましょうとは言えない。私はこの北京の地で、私の目の前で穴を掘らされ首を斬りおとされていく中国人を見ていた。その人たちが首を切られながら、死にきれないで「日本鬼子」(リーベンクイーズ)と叫んでる声を聞いた。その後に穴のなかに降り、脈が止まるまで見届けなければならなかった。私は何も出来なかった。人の命を助けるべき医師が、殺すことに協力した。本当に救わなければならない牧師が、見殺しにした。私は同罪者である。あなた方が平和のために祈るとき、日本による戦争を抜きにして考えることはないであろう。今、戦争の罪責を最も負っているのは私自身である。私はそのことを告白せずに聖書の言葉を語れない」。これは死ぬための戦争を生きのびた人の証言である。
ー私は3年前、神奈川県の葉山島のお宅を訪ね、終日、小川さんのお話をうかがった。教会と診療所が隣接する丘の上のお宅で、私は80歳をすぎる彼の生き方に強い感銘を受けた。また95年7月末には、ハルピンで開かれた細菌・毒ガス戦争日中シンポジウムに、私がお誘いして、同行した。2日間にわたるシンポジウムは終わり、ハルピンの夜は更けていった。ある夜、ホテルの喫茶室では小川武満さんと坂本龍彦さん(元朝日新聞記者)の2人が、いつまでも「馬賊の歌」を歌っていた。2人とも満州育ち、酒が入り、旅の別れが近づき、遠い昔の感傷に連れもどされていたのであろう。私が部屋に帰ろうとすると、小川さんにがっしりと腕をつかまれ、立ち上がることができない。
ーあの夜、朗々と響く美しい小川さんの声には、理想を求めてひたむきに生きてきた人の艶やかな張りがあった。私はイデオロギーを疑い続ける柔軟さに生きようとしてきた。だが、信仰を生き抜く人の生涯にはいつも深く感動する。戦争と罪の自覚は、小川武満さんの生涯の課題である。
無邪気な悪人:
日本人の攻撃性:
ー「日本は平和だ、犯罪も少ない」とよく言われる。はたして、そうだろうか。アメリカのように多くの人種が混在し、難民を受け入れ、世界中のほとんどの紛争にかかわらざる得ない社会と比べて、「平和だ、犯罪が少ない」と慢心していて良いものだろうか。さらに「日本人は平和ボケしている、水と安全はタダだと勘違いしている」(にせ「ユダヤ人」イザヤ・ベンダサン(山本七平氏)の言葉)とまで飛躍し、防衛という名の攻撃心を喚起しようとする政治家や評論家がいる。だが、日本のように均質な文化を維持している社会で、同じく平和で犯罪が少ないところは多々ある。社会的条件の決定的差異を抜きにして、平和で犯罪の少ない日本という神話が信じられている。それでは問いを替えて、「日本は攻撃性の少ない社会か」と聞けば、どう答えられるだろうか。
ー私は家の外に出ると、しばしば精神的に疲れる。擦れ違うトラックの運転手は警笛で小さな乗用車を威し、さらに罵倒する者さえいる。駅や電車のなかで凄む者も少なくない。まるで国会の委員会のようだ。街にたむろする若者の表情も険しい。集団主義を強いる過剰な放送は、至る所で暴力的な大声をあげている。このような目に見える表の通りの傍らで、子供たちのいじめは残虐を極めている。ヤクザはいつまでも温存されている。凶悪犯罪は確かに減ってきたが、決して攻撃性の低い社会とはいえない。青少年の凶悪犯罪は増えている。僅かな刺激で不機嫌になる人は多い。内に攻撃心を秘めた緊張の高い社会が、敗戦に懲りたからといって、本当に平和を好む社会に変ったといえるのだろうか。
ー平和は理性によって維持される。侵略戦争は、得られるより失うものの方があまりに大きい。割りにあわない。また、多くの人間を殺す行為は不快である。そう考えるのは、理性に基づく。しかし戦争はいつも、非合理的な衝動が理性を覆し、もったいぶった論理をまとって燃えあがる。戦争と戦争の間、注目されてこなかった攻撃性が集団による暴力の回路を通して煽られる。このような戦争のメカニズムに対し、戦争反対の平和運動だけでよいのだろうか。理性の強化は、無意識の衝動への防衛になり得る。それと同時に、攻撃性についての積極的な分析も必要ではないか。
ー敗戦時、日本人の攻撃性はどのように変容したのか。極大化された攻撃性は、果たして減少したのか。その後、私たちの社会は攻撃性をどのように処理し、あるいは利用できたのか。自らの攻撃性を自覚することがあっただろうか。私は時々、現在の社会の到達点を考えるのに「きけ わだつみのこえ」(日本戦没学生記念会編、岩波文庫・84年)を開く。日本国憲法は、敗戦後の日本指導層の知的反省が表現されたものであるがーもちろんそれは理想と保守とアメリカ占領軍の方針との妥協の産物でもあるー。他方、死を前にしての文章には知的反省だけではなく、弁明と感情の係りが表れている。
攻撃性の否認(戦犯たちの遺書から):
ー例えば、第3章でふれた、小川武満医師が処刑後の遺体を必死になって取り戻した白鳥吉喬(元陸軍嘱託)の遺書(「復刻 世紀の遺書」より)を見てみよう。彼は多数の中国人を酷使し、気に入らないと憲兵や警備隊に逮捕させて死に到らせたとして、北京の天橋刑場で銃殺された。家族に宛て、「余は全く関係なき三谷隊の惨虐事件に対する中国人の復讐の犠牲となりたるものといふべし(中略。真相を究明し・・・)と言い、子供に対しては「母上の教を守り、強く正しく明るく身を鍛へ心を練り皇国 宏の戦士たれ、父は未だ曾て何人をも偽らず、何人も苦しめた事もない」と遺している。
ーあるいは、1938年の南京攻略の道筋、百人斬りを競い、日本軍人の武勇伝として内地の新聞に大きく報道された向井敏明(元陸軍少佐、1948年1月28日、南京郊外にて銃殺刑)と野田毅(同、47年12月8日、銃殺刑)の遺書は次のように書かれている。向井敏明の遺書は、「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件の罪は絶対に受けません。・・・我が死を以て中国抗戦8年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです」と認め、また「野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめした事は伏して御詫びすると申伝へ下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。・・・公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません」と述べ、記者の曲解であると弁明している。首斬り話を冗談と呼ぶ男の、精一杯の弁明である。
ー同じく野田毅の遺書は、「俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。(中略)我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります」と述べ、もうひとつの遺書では、「つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜共栄圏のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤諺がある。日本人全部がそうだつたとは言はぬが皆が思ひ上つていたのは事実だ。そんな考へで日本の理想が実現する筈がない」と書き、「天皇陛下万歳!中華民国万歳!日本国万歳!東洋平和万歳!世界平和万歳!死して護国の鬼となる」と結んでいる。
ーそれぞれ中華民国政府によって処刑されるのであるが、死を前にして、自分の死をなんとか意味付けしようとしている。どの人も同じ論理である。「自分は日本軍人あるいは軍嘱託として当然のことをしただけで、戦争犯罪は犯していないし、中国人を苦しめていない。だが、戦争に敗れた以上、日中平和のために犠牲となって死ぬ」というのである。ここには、自分の行った残虐な行為の想起に怯え、他者からの非難とは無関係に、精神的に傷づいている人はいない。確かに裁判は杜撰であり、挙げられた証拠に誤ったものも有ったであろう。だが告発の有無にかかわらず、他国に侵入して何をしてきたのか、自分の過去を見詰めようとする構えはまったくない。
ー彼らは自分の攻撃性にまったく気付いていない。自らの攻撃性は否認され、代りに敵に強い攻撃性があり、自分は相手の攻撃性を引き受けて犠牲になるのであると思い込んでいる。「投射」の心理的メカニズムを巧みに使っている。罪の意識は自らの攻撃性を他者に向けるのではなく、自分自身に内攻させることによって生じる。それ故、過剰な罪の意識は私たちを自殺や精神障害に追い込む危険性がある。しかし、他者の破壊よりも自らの苦しみを選ぶのが良心である。彼らは自分の攻撃性を否認し、相手にのみ攻撃性があると感じているので、そこに罪の意識は生じようがない。相手の攻撃性は自らの攻撃性への反応であり、あるいは自らの攻撃性の投影されたものであるとは思ってもみない。
ーこれらの遺書を読んでいるとき、私はその非個性的な同質の論理にあきれる。日本人は個人として戦争への係りを問おうとしなかった。同じ敗戦においても、刑死に直面しても、個人として生きているように見えない。それは戦争指導者のひとり、東条英機(1948年12月、巣鴨で刑死)の遺書とほとんど違わないように思われる。「自分としては国民に対する責任を負つて満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ばしたこと、又下級者にまでも刑が及んだことは実に残念である。天皇陛下に対し、また国民に対しても申し訳ないことで、深く謝罪する。元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志に依り行動すべきものであつたが、一部過を犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった」
ー「東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族も 他の民族と同様この天地に生きる権利を有つべきものであつて、その有色たることを寧ろ神の恵みとして居る」「日本は米国の指導に基き武力を全面的に廃棄(註・憲法第9条)これは賢明であつたと思ふ。しかし世界全国家が全面的に武装を排除するならばよい。然らざれば、盗人が跋扈する形となる。私は戦争を拒絶するためには慾心を人間から取り去らねばならうと思ふ。現に世界各国は、何れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る。(これはお互いに慾心を廃棄して居らぬ証拠である)国家から慾心を除くといふことは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするといふことは不可能である。これでは結局は人類の自滅に陥いるのであるかも判らぬが、事実は此の通りである。それ故、第3次世界大戦は避けることが出来ない」。
ー「今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民羅災者の一大慰霊祭を行はれたし、世界平和の精神的礎石としたいのである」。東条は直接残虐行為を行った人間ではなく、憲兵政治を敷いて人々を抑圧し、戦争を指揮した陸軍大臣、総理大臣であった。彼に人間としての罪の意識を求めても無駄であろう。それにしても、彼の融通無碍な論理と他の戦犯の遺書はなんと似ていることか。さらに東条の長文の遺書は、将来の再建軍(つまり自衛隊)は傭兵制を考慮した方がよいとか、学校教育の方向、靖国神社の合祀などについて述べ、あたかもその後半世紀の日本が東条の意思どおりに経過してきたかのようである。日本の文化は何も変わっていないのではないか。私たちは何を変えようとし、何が同じなのか。次に最も好戦的に生きた右翼、特務機関員の反省の内容を通じて、分析してみよう。

厚い外皮を被った攻撃者:
ー永富博道(浩喜)さんは、これまで紹介してきた将兵と違い、極め付きの悪行を働いている。国士舘専門学校の学生のとき、右翼の学生運動のひとつとして南京虐殺に加わり、以来自ら進んで上海特務機関入り(機関長はA級戦犯容疑者児玉誉士夫)、41年より北支派遣軍第37師団重機関銃中隊の兵士として山西省で暴れまわった。その暴戻なること、部下の中国人から「閻魔大王」と呼ばれていた。敗戦で現地除隊した後も、残留日本軍を組織し国民党系の軍閥・閻錫山の一翼を荷って人民解放軍と戦った。彼が解放軍に逮捕されたのは49年4月のこと、20歳で中国に渡って12年たっていた。太原戦犯管理所に収容され、7年後の56年6月に特別軍事法廷が開かれ、13年の禁固刑となり、撫順戦犯管理所に移送され、63年9月、釈放されている。
ー彼がいかに残忍であったか、特別軍事法廷の記録を拾ってみよう。永富さんは最近まとめた「白狼の爪跡ー山西残留秘史」(新風書房、1995年)に、起訴状と法廷記録を抜粋して載せている。例えば、情報工作隊を指揮し、山西省間喜県の北白石村で43年1月に行った虐殺は、次のように述べられている。「日本軍は彼らに水をかつがせようとしましたが、彼らはかつごうとしませんでした。私は住民が強烈に抗日心を持っていることから、この村には必ず多数の武器や食料が隠されているとみなし、すぐに工作隊に住民を1軒の民家のコ字型の中庭に集めるよう命令しました。庭には大勢の男女がおり子供もいました。我々はこの中から15人をひっぱりだし、私がまず公衆の面前で拷問をしました。私は1人の住民の上着の襟をつかんで殴打し、工作隊に銃床や棍棒で殴るよう命令しました。
この住民は顔を殴られ、目は破れ、体は赤く腫れ上がり、涙と血が一緒になって混じり滴り落ちました。彼らの子供たちは「パーパ」と叫んでいました。私が彼らの父親や母親を殴ると、その子供たちはその状況をずーと見ていました。それから私は彼らを1軒の家に閉じ込め、夕方、彼らに対してまた拷問しました。住民たちは何も知らないというので、私は部下に命令してさらに拷問をするように言いました。2日目の朝、私は工作隊に命令して、我々が住んでいた村の西にある凹地で全員を殺害しました」。
ーその拷問も、「大きな石と1丈(3・33メートル)余りの長い丸太を運んで来ました。そして首をそれにはさんで、口の中に銃剣を差し込み、強引にかき回した。舌は切れてボロボロになり歯もとれて下に落ちました」というものである。また、近くの上下峠口村で農民8人を殺した時は、赤い房のついた槍で尻を刺して殺した。3人を彼が刺殺し、後は部下に真似させている。また、間喜県横水鎮では1人の男を拷問拘留した後、馬車の後ろに縄で縛り付け、引きずって殺した。焼いた鉄著で陰茎を焼き落とす、あるいは水責めにしてふくらんだ腹を踏みつける拷問を好んでいる。また、泌源県正中村では、怯えて穴に隠れている女性子供(12人)を見つけると、干し草で焼き殺したのであった。
ー特別軍事法廷で起訴された事件だけで111人が惨殺されている。もちろん、彼が殺した中国農民はこれだけではない。200人をこえると自ら言っている。まさしく閻魔大王であり、本人もそう呼ばれるのが満更でもなかった。永富さんは熊本県の出身である。1916(大正5)年、阿蘇の内牧の旧家に、長男として生まれている。軍国主義を尊ぶ家庭に育ち、厳しいしつけを受けた。幼少時、体の弱かった彼は鍛錬を通じて、弱さを過剰に代償していったようだ。子供時代、しつけや教育の名のもとに周囲から受けた攻撃性は、しばしば敏感な弱者を厚い外皮をかぶった攻撃者に変える。永富少年もそのプロセスをたどったのであろう。
ーなお、永富家だけではなく、熊本県は軍国主義の極めて強い地域であった。熊本県人は今でも郷土の兵団を「6師団」と呼ぶ。熊本の男たちを最強の軍人と信じていた。例えば熊本大学には84年まで「体育医学研究所」があった(今は医学部付属の「遺伝発生医学研究施設」に縮小転換されている)。これは南京攻略などで戦果をあげた(南京虐殺でも重要な加害集団とみなされている)「日本1の6師団」の精強さを医学的に解明するため、熊本医科大学が当時の荒木貞夫文相(元第6師団長)に陳情して開設されたものという。地元の大新聞「熊本日日新聞」は戦後15年たった時点でも「熊本兵団史」を出版し、あいかわらず在郷軍人会の活動が盛んで、尚武心を培う気風が養われていたと自慢している。南京虐殺の否定もすでにこの時点(1960年)で主張されている。
ーそんな熊本県の田舎で育った永富少年は、父親について朝鮮・平壌の中学校に移った。平壌でキリスト教を知り、洗礼を受けた。だが、強者をキリスト教に求めた彼はそこに馴染めなかった。小さい頃から鍛錬してきた剣道を通して、天皇崇拝が染み込んでいた。牧師に、「キリストと天皇はどちらが偉いか」と問い、当惑する牧師が「キリスト」と言うのを聞き、キリスト教は駄目だと思った。考えること、批判することの大切さを知らず、強固に信じること、信じて行動すること、いわゆる質朴剛健がすべてだと思っていた青年は、キリスト教を捨て、東京の国士館専門学校に進んだ。
ー国士館には熊本出身の国粋主義者・蓑田胸喜教授がいた。蓑田は京大・滝川事件や天皇機関説排撃の口火を切り、国体明微運動をお輿し、軍部や官僚と結んで言論統制や思想弾圧を煽った。永富さんは国士館の近くに住む蓑田の家に出入し、狂信的な国粋主義者になっていった。右翼の草分け、頭山満の門を7度叩いて、門下生となり、「権益擁護」「暴支膺懲」といった言葉に酔い、神国日本による世界制覇に燃えていた。荒木貞夫(陸軍大将)や山本英輔(海軍大将)などの家への出入りも許されていた。
ー1937年7月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争に突入。東京の各大学、専門学校では右翼学生連合「愛国」が結成された。その学生運動のひとつとして、12月、上海から南京まで、日本軍が攻略した各都市の視察旅行が行われた。帰国報告によって、全国の学生を中国侵略に駆り立てようと目論んだのである。それは後に、学徒出陣を学生内部から呼び込む運動になっていく。永富青年は国士館の代表として、他11校の代表と共に初めて中国に渡った。そして最初の中国人殺害を行った。学生サークル活動のひとつとして戦場ツアーに出掛け、殺人を行ったのである。
好き放題に殺人:
ー上海の江湾から呉淞の砲台、大場鎮から間北へと廃墟をまわり、間北から貨物列車で南京に向った。集落に人影はなく、小川には裸の中国人の死体が浮かび、薄氷が流れを止めていた。南京は攻略されてから、まだ2週間ほどしかたっていなかった。学生たちは、南京城に近づくにつれ、累々と横たわる死体に驚いた。南京城内には、残留したアメリカ人宣教師や医師、ドイツ人実業家によって「南京難民区国際委員会」が作られ、「国際難民区」が線びきされていた。国際委員会は南京の一定の地区内に住民を避難させ、そこで日本兵による殺戮を防ごうとしたのであった。だが、日本兵は避難民であふれる難民区に入り、強姦殺人を繰り返し、また「敗戦兵の掃蕩」の目的で兵役年齢の男たちを集団連行しては殺していた。
ー永富さんたちも南京特務機関の職員につれられて、金陵女子文理学院など難民区内の建物を視察してまわった。永富さんたちは、「東京の学生さんか。気に入った娘がいれば連れてってもいいよ。俺たちは毎日ご馳走になっている」「最初はガソリンをぶっかけて殺していたが、面倒なので重機関銃でしまつしている」と日本将兵に声をかけられ、興奮していった。この時も避難民から引き抜いた男たち20人ほどを車に積み、長江きわの「下関」に連れて行き、殺害することになる。永富さんは最初の殺人を行った当時のことをよく覚えている。「何千という死体が積み重なっている。その間の狭い道を通って行くのですから、体がぶるぶると震えてくる。初めて見る光景ですから、自分は剣道4段、弱いところを見せちゃいけないと思うと、さらに興奮してくるんです」。
ー長江の堤近くにくると、引率してきた将校が学生たちに、「お前たち、自由にこの中国人を殺してみろ。土産話になるぞ」と誘った。そこで柔道の猛者は首を締め、空手の選手は殴り殺そうとするが、容易に殺せるものではない。将校は「俺が見本を見せてやる」と言い、日本刀に水をかけ、一刀のもとに首を斬り落とした。ところが彼らが斬首に注目している隙に、1人の男が逃げ出し、長江の濁流に飛び込んだ。永富青年は咄嗟に兵隊の銃を借りて、浮き沈みする男を射った。これが右翼学生の教育実習だった。永富さんは何の疑問も持たなかったし、いかなる罪悪感も感じなかったという。軍隊のすることはすべて正しい、と信じていた。天皇様に敵対する中国人は1人でも多く殺さねばならない、天皇様こそ世界を支配する現人神、という思いをさらに強くするだけだった。。
ー上海で怪気炎をあげて帰国した「愛国」学生連盟は、各学校で日本軍の活躍を宣伝し、「今は大学、専門学校にいる時でない」と学徒出陣を煽った。
自己顕示:
ー永富さんは帰国してすぐ、頭山満よりもう一度「中国へ行け」と言われた。小ボスとして動き回ることを好む、彼の性格を見込んだのであろう。彼は上海特務機関に入り、日本の学生を上海に、南中国に送り込む前衛としての役割を期待されていた。上海特務機関では呉江県宣撫班に服務する。国士館からは卒業試験を受けに帰国せよと言ってきたが、彼は「そんなことはどうでもいい」と無視した。今は、天皇様のために中国平定に努めるのが男の本懐、と思っていた。卒業試験を受けなかったにもかかわらず、国士館は彼を卒業させた。1938年7月、安慶に特務機関を開設するため派遣され、そこに2年半務めた。ここで特務機関について説明しておこう。日本陸軍の情報機関としての特務機関は、1918年、シベリア出兵に際し、ハルピンに設けられた。満州事変(1931年)以降、各地に作られ、支部、出張所も増えていった。特務機関は作戦対象地域における作戦以外の政治・経済工作、宣伝、諜報、諜略などにあたった。
ー諜報、暗殺を専門にやる特務機関もあった。軍の編制外にあり、各特務機関は機関長の名を冠して呼ばれていた。機関長は現役の上級将校であり、機関員は軍属として陸軍から給与をもらっていた。永富さんは特務機関で暗躍した後、41年2月、軍隊に入り、北支那方面軍第1軍第5独立警備隊第27大隊本部の情報室で敗戦まで働いた。いつも謀略や情報の仕事にたずさわっている。そこで、「つまり、あなたは特務活動が好きだったんですね」と私は尋ねた。「好きということはありません。軍隊内の束縛された生活は嫌なので、営外居住で自分勝手なことができる、そういうのが私には向いていたわけです」という。問いに「否」と受けながら、結局肯定している。右翼の常として、小集団のなかで自己顕示したかったのであろう。
ー彼は八路軍や国民党の情報を収集し、軍隊に報告することが、最も国のために役立つと考えていた。少ない時で5,6人、多い時で40人ほどの部下を率いて、集落から集落を歩いた。食糧、経費、情報工作隊員の給料、すべて中国人の部落から略奪した。それは当然の仕事であり、略奪という言葉さえ浮かばなかった。命じて、物を出さない者が敵だった。「戦争犯罪なんて、そんな考えはまったくありません。生かすも殺すも、私の自由でした。集めて殴って、こりゃいかんと思ったら、パッパッーと殺す」むしろ婦女子をかわいがれば、善いことをしていると思っていた。「仲介人から少女を100円で買って、呉江県で従軍慰安所を開いたこともあります。売られているのを買い戻してやった、苦しいところを助けてやったと思っていたくらいです」と永富さんはいう。
ー北支那派遣軍第1軍(司令官・澄田四郎中将)は太原に残り、閻錫山の山西軍と秘密協定を結び、残留を続けた。南京の日本軍総司令部が復員帰還するように説得したが、澄田らはその命令を伝えなかった。このような経過によって、湯浅謙医師らは太原に留まることになる。湯浅医師ら多くの兵隊は、情報不足と帰国後の生活への不安から残留していくのだが、軍の上層、河本大作などの右翼ははっきりとした植民地支配の意志を持っていた。「焼土と化した日本を復興させるためには、山西省の地下資源(石炭、鉄鉱山)が役立つ。共産軍と戦って閻錫山の山西軍に恩を売り、豊富な資源を掌握し、日本の経済復興の一翼を担おう」というものであった。永富さんたちは帰国しようとする将兵を恫喝し、残留を煽動し、その後4年間にわたって内乱を維持した。さらに彼は、1948年に上海に飛び、日本から山西省独立のための義勇軍を募る出先を作ろうとしている。
ーそこでは謀略を好む性向と、その単純な思考が見事に結合している。山西に残留し、八路軍と戦った武勇伝は、先述の永富さんの著書「白狼の爪跡」に詳しい。敗戦後4年にわたり、中国内陸で内乱を煽った日本軍があったことはあまり知られていない。永富さんの著書は貴重な記録であるが、私はその記述を必ずも好まない。例えば、残留日本人部隊(10総隊)と八路軍の牛舵塞の攻防を次のように書いている。「解放軍の戦士が爆薬を背負い、銃剣を持って這い上がってくる。その爆薬に火がついたと思ったら牛舵塞の正面にあった高さ数十メートルのトーチカが一瞬にして木端微塵にふっとんでしまった。中の砲弾に火が付き天井から火柱が噴き上げ、天をも焦がす勢いである。真っ白い建物は漆黒の闇にくっきりと浮かび上がり、そこへ突撃してくる解放軍の戦士と日本軍兵士が銃剣で白兵戦を繰り返す様子が白壁に映り、まるで影絵でも見ているようであった。
私は壕を行き来しながら、持ってきた陣太鼓を打ち鳴らし、「頑張れ、頑張れ」と怒声を発して兵士たちを励まし続けた。私の打ち鳴らす陣太鼓と「南無妙法連華経」と唱える音が砲弾の静まりかえった山中に響きわたって見守っている部隊の所まで聞こえたと言う」
ーここでは半生紀をへてなお、武勇の時代へのなつかしさがペンを走らせている。自らの内部の分析に乏しく、行動を記述することに雄弁である。当時の日本人、そして今の日本人に続く、変らない性格傾向である。49年4月24日、太原は落城し、永富さんたちは捕虜となった。彼らは城内の兵営に収容された。夜食時になると、解放軍兵士は各自携行している米を出しあって、彼らのために炊いてくれた。解放軍兵士は栗を食べている。捕虜は兵舎で眠り、解放軍兵士は野外で休んだ。永富さんたちには全く想像できなかった行為だった。
洗脳を生きる・失われた感情:
ー敗戦から4年、なおも山西省で暴れまわった日本陸軍残留者は、1949年4月24日、太原で武装解除された。多くの残留日本人は捕虜収容所に入れられ、太原の街の土木作業に従事させられたが、山西残留軍の幹部はなぜか放置されていた。永富さんたち10人は泳がされた後、12月になってようやく逮捕された。永富さんはこの間も、右翼軍国主義者としての「日本復興」を計画していた。「馬賊が失敗したからには、今度は海賊だ。上海には中央銀行の総裁のT、政治家のS,蒋介石の侍医だったKなどがいる。彼らを糾合し、渤海湾、支那海沿岸に出て、台湾を拠点に日本と密貿易をやりながら、日本軍人を集めて再起をはかろう」と考えた。そこで船の経験のある者、無線通信のできる者を探し出し、闇夜に炊事場の裏に人を集めて任務を指示したりした。謀略を考えるのは、すでに彼の習性になっていた。海賊隊が夢想に終わった後も、永富さんは中国共産党の情報を少しでも得ようとした。日本へ帰国後に役立つだろうと考えたのである。
ーそれでも、年末には逮捕され、河北省永年訓練団に収容され、1年後には再び太原へ護送され、以後6年間、56年6月に判決(13年の禁固刑)が下りて撫順戦犯管理所へ移送されるまで、太原戦犯管理所に収容されたのである。永富さんはあれだけの悪行を働いておきながら、自分が捕虜となったとき、報復されるだろうとはまったく思っていなかった。それは非常に奇妙なことである。それほどまでに傲慢であり、中国人を蔑視していたと言えるだろう。あるいは謀略を共にしたり、あるいは諜報活動の部下として中国人を使っていても、彼らが自分たちと同じように怒り悲しむ人間であることさえ忘れていた。また、日本的な甘えの心理も加わっていた。永年の収容所では、労働と学習と担白(罪行を書いて提出する)が課せられた。
ー収容所内の建物の補修、道路の改修、煉瓦の掘り出しなどの重労働については、帰国に有利になるようにと考え、彼は頑張った。あいかわらず、行動がすべてだった。だが担白については、何を求められているのか、理解できなかった。罪行といっても、何が罪行なのか。中国人の殺害なら、数えきれないほどあった。それをいちいち思い出さないといけないということなのか。
「良識」戦後の軍人恩給拒否と官民一体の脅迫・いやがらせ:
・・・こうして尾下大造さんの戦争は終わった。5年5ヶ月の軍隊、18歳で入隊した青年は24歳になっていた。46年4月に帰郷。2ヵ月後の6月、田の草とりをしていると、「役場に印鑑もってこい」と声をかけられた。「軍人恩給をもらう資格があるので申請しろ」という。敗戦後、軍人恩給は軍国主義を支える制度として停止されていた。だが、復活の動きは当初からあったのである。この時は、「戦に負けて、皆が飲まず食わずの有様なのに、軍人恩給なんてとんでもない」と反論した。翌47年2月、彼は婿入りし、妻の親族の材木会社の仕事をするようになった。軍人恩給の話も忘れていた。それから6,7年後、「古川町の役場の2階に来てくれ、軍人恩給について話がある」と呼び出しがあった。
ー行くと、小学校出で陸軍少佐になった町一番の出世頭が中央に座り、将校になった者がその横に並んでいた。そこで、「俺たちは軍人恩給を貰っている。君たちはまだ貰っていない。運動すれば貰えるようになるので、300円の会費を払って、軍人恩給連盟に入ってもらいたい。恩給が出るように、俺たちがしてあげよう」と勧めるのだった。対日講和条約の発効後、「戦傷病者遺家族等援護法」(1952年)が制定され、翌年に軍人恩給も復活していた。旧軍人は天皇の兵隊であり、天皇にどれだけ尽くしたかによって評価される。そのため階級によって額が大きく違う。復活した軍人恩給の評価基準は、戦前とまったく同じだった。

ー尾下さんは戦争に行って、良いことをしたとは思っていない。多額の軍人恩給が貰えるほど階級が上であるとか、あるいは永く軍隊にいたとは、それだけ悪事に携わったということだ。とりわけ中国人に対して、人間扱いをしてなかった。それを忘れたことのない彼は、反論した。「戦争中、階級にものをいわせて兵隊をいじめたあなたたちが、俺たちのために働く、と例えばの話、俺たちが恩給を1万円貰えれるようになれば、あなたたちは今の1万円が2万円になるだけの話じゃないか。いつまでも俺たちを筏の樽にするなよ」。「筏の樽」-木材を河川に流して運んできた岐阜の人らしい比喩である。筏の下に樽を入れて浮かすのである。
ーこう反論しても戦争体験について討論が深まる相手ではない。彼は「そんなものはいらん。俺は仲間にしてもらわなくてもいい」と言って帰ってきた。それから絶えず、年に1,2回、軍人恩給連盟、町役場、県民生部などから「軍人恩給をもらうように」と勧めてくる。旧陸軍の算定では、第1種の戦闘地帯は1年を4年、次の警備区で外地については1年を3年とみなすことになっている。尾下大造さんの5年5ヶ月は在隊が15年以上となり、軍人恩給の対象となるというのである。本人が説得不能になると、妻や養母に圧力をかけてきた。県民生部の担当者が商工会に勤めている妻の職場に来て、「あんたんとこの人は、まだ改心せんのか」と迫る。軍人恩給連盟に入った者は、「銭が余るのなら、もらって町へでも寄付すりゃええのじゃ。付き合いの悪い奴だ」と妻をいじめた。
ー「法律で決まっているものを貰わんのは、おかしな奴だ」とまで言われた。近隣から県へ、さらに全国レベルの軍人恩給連盟まで、均質に重なる村社会の生理ー異議を述べる者を排除してやまないーが働いたのである。軍人恩給は当時のカネで数十万(高級将校になると数百万)の高額である。林業不況でなんとかやりくりしている時に、「銭が余っているのなら」と言われるのは極めて不快である。ましてや、妻を責められるのは辛かった。尾下さんは妻に、「これは俺の生き方だから、これだけは許してくれ」と頼んだ。そして、「法律で決まっているものを、貰わんのはおかしい」という圧力に対しては、70年12月、県の人権擁護委員会に「これ以上私たち家族に圧力をかけないよう、関係機関に連絡してほしい」と書状を出している。しかし委員会からは何の返答もなく、翌年再び、県民生部厚生世話課長より恩給履歴申立書が「記入のうえ必ずお返し下さい」と付記して送られてきたのだった。

ー警察もまた、彼を反社会的分子として記録し、探索のために訪ねてくるようになった。軍人恩給受給者は1980年3月末で213万人。他方、何人の受給拒否者がいたのだろうか。今も、いるのだろうか。尾下さんのように「私は戦争の犠牲者ではない」といった理由で受給を拒んでる多くの人がいるのであろう。それに対し、受給拒否者の存在は自分たち戦争遂行者の存在を脅かすと不安になる者も少なくない。尾下さんの軍人恩給拒否が新聞に報道されたりすると、戦争の罪責を語る人が必ず受けとってきた、嫌がらせの手紙が届く。名古屋市から偽名を使った手紙は、「戦争です。色々残酷なことがあっても止むを得ません。大切な青春時代を戦いの中でおくり、今、悪者扱いされてはかないません。全国の恩給受給者は、まるで肩身の狭い思いをしなければなりません」と述べ、「いい気になるな」と結ぶ。被害者意識を強調することによって、攻撃性に転じている。
ー他の差出人不明の葉書は、「貴方だけ聖人君子、僧にでもなったらどうか」と書き殴っている。湯浅さん、土屋さん(元憲兵准尉)らが受けとった手紙とほとんど同じ言葉遣い。私は多くの嫌がらせの手紙を読んできたが、いずれも示し合わせたかのように同じ主張を書き連ねている。しかも偽名か無記名である。日本人の多くが集団のなかの1人に隠れると、どのような欲望を表すかを物語る。尾下さんは、自分の意志で残虐な行為はしなかったとしても、止められなかった責任があると考えている。「死んだ者を犬死だと侮辱するのか、と怒る者がいる。そうではない。死んだ者は一番貧乏くじを引いたのだから、彼らに罪をかぶせず、生きて帰った者が背負うべきです。わしは貧しい戦争未亡人や、傷痍軍人の生活保障に反対しているのではないんです。
青春を犠牲にし、社会に立ち遅れ、ずっと貧乏していることへの扶助が基準になっているのなら、分ります。だけど5年や6年家におらんかったって、みんな終戦後は一緒のスタートでしょう。世のなか楽になったら酒飲んで、軍歌を歌って、それは余裕のためのカネではないですか。戦争中にやってきたことを思うと、どこか間違っていると思います。内地にいた人は、自分たちもひもじい思いをしたと言います。しかし、日本人にはそんなことを言う資格はないんです。頭でっかちで骸骨のようになって、うずくまって死んでいったベトナムの子供・・・。そういうことを知らんから、自分たちも酷い目にあったと言えるんです。個人差はあります。非常な不幸にあった人も少なくありません。しかし全体を見ると、中国や南方の人たちより自分たちが不幸とは、絶対に言えませんよ」。
ー雪の夜更け、老人は語りながら、何度となく死んでいった人の顔、声、姿を思い浮かべているようだった。
「軍人恩給」と「戦後補償」について:(家永三郎「戦争責任」84年・岩波)
ー日本国家の戦争責任は、公法人としての大日本帝国とその継承者としての日本国が全面的に責任を負わねばならず、国家の制度や機関のメンバーが大きく変じているからといって、責任が消滅するものではない。戦後に講和条約が成立し、あるいは国交が回復して、国際法上の責任が消滅したとしても、国際道徳上の責任までが消滅するわけでない。まして日本国家により被害を受けた旧敵国人・旧植民地人個々に対する道義的責任は、それら個々人の被害が回復することのできない生命(本人・近親・恋人など)や肉体の一部の喪失である場合には、ことに重大であって、その個々人が戦後に所属する国家と日本国との間でどのようなとりきめがなされようとも、それは別次元での日本国の責任が残るのである・・・
ー日本国民に対して日本帝国が与えた損害については、国内法により、当時の日本国民の義務遂行の結果に過ぎず、受忍する他ないものと仮定するとしても、また戦後の国内法により、ある身分・境遇の人々には一定の補償がおこなわれ、そうでない人々にはなんらの補償もおこなわれないままに、政府はそれで一切の措置をすませたとしているにしても、依然として責任問題の残る点では、旧敵国人・旧植民地人に対する場合と異なるところがないのである。しかし、公法人としての国家という、法律上の権利・義務の主体にとどまる抽象的存在のみに戦争責任をすべて吸収させて終わりとすることはできない。法人を運営するものはその機関としての自然人であるから、当時の日本の国家機関の地位にあって、違法・無謀の戦争を開始または遂行する権限を行使ないし濫用した自然人個々人にも、また責任あるのは当然である。
「鶴」:(長谷川四郎・53年・講談社)
(著者(北海道函館出身)は、ソ満国境の部隊に召集一等兵として配属され、ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留を経験。ロシア語をはじめおよそ6ヶ国語(独・仏・英・西・伊など)に堪能だった)。
・・・私はソロバンが出来るというので、炊事の事務室勤務をおおせつかり・・・炊事の事務室勤務といっても、私の仕事は残飯統計係りというのだった。これは各中隊から食事毎に出る残飯の量を計り、それをグラフに書きこむ仕事で、バカらしいので、私はーこんなこと出来ませんと宣言した。すると炊事班長が言った。ーとにかく数字を書き込んで、表を作っておけばいいんだ。大学出の貴様に出来ないわけはない。で、私は大学の名誉のため、残飯統計表なるものを作って事務室の壁にレイレイしくかかげ、そのほか、あらゆる炊事の雑役に従事し・・・。
 張徳義:
ーハイラル河のその地点に橋がひとつかかっていた。それは随分貧弱なものであったが、乾草を積んだ馬車くらいだったら、何台通ってもびくともしなかった。ところが、ある年の夏、一群の日本兵が2台のトラックに乗って到着し、付近に野営して、その橋をすっかり壊してしまった。人口まばらで、広々と平らなこの地方では、この噂は馬上の人によって伝えられた。そして、その橋へ近づきつつあった人々は、いま来た路を引き返してきたのである。するとまた新しい噂が追いかけて来た、-日本兵は前よりも立派な橋を作って、何処かへ立ち去って行ったというのだ。そこで人々はふたたび橋へ近づいて行った。なるほど、すでに遠方から晩夏の太陽に輝いて、白い真新しい太い材木で出来た橋が見えていた。人々は足をはやめた。
ーしかし近づくにつれて橋の傍にそびえている岩の上に、ひとりの人間が立っているのが見えて来た。さらに近づくと、その人間が銃剣を持っているのが見えた。そして更に近づくと、その人間が銃口をこちらへ向けているのが見えてきた。恐れをなして引き返そうとすると、岩の下に作られた小屋の中から、もうひとりの人間が、これまた銃剣をかまえて出現し、無気味に早い歩き方で真直ぐこちらへ近よって来た。そして聞いたことのない声が、聞いたことのない言葉を言うのが聞こえた。-通行証を見せろ。誰一人として通行証を持っているものはいなかった。それのみか、通行証とは何かも理解しかねた。一体、何処で、何者が、いかにして、いかなる権威で、その通行証なるものを与えるのか、さっぱり判らなかった。ただひとつ判ったことーそれはその橋を渡ることはどうやら死を意味するらしいということであった。
ーそして、それで十分だった。何故というに、それは決して人を通さないために架けられた橋だったからである。そこで、この橋をめぐり、広い地域にわたって、交通は途絶えた。その付近には人の話声も馬の足音も聞かれなくなった。河は音もなく橋の下を流れ、冬になると完全に凍りついて、更に音もなく静かになった。ただ岩の上をのぼったり、おりたりするマリオネットのような兵隊の姿が小さく見られた。彼らは交代で1人1人岩の上に立ち、周囲の野原をへいげいしていたが、そこには人影1つ現れなかった。土地の人々はもう決してこの橋に近づかなかったからである。ただ月に一度、二里ばかり離れた部落に駐屯している中隊から糧秣を積んだ馬車が到着した。その時、岩上の兵隊はすでに遠くから早くもその姿をみとめ、いそいで警報用の針金を引っ張った。
ーすると岩下の小屋の中にぶら下がっている空缶ががらがらと鳴って、糧秣の接近を伝えたのである。これ以外に、この警報の発せられたることは絶えてなかった。それは恰も自分の食料の到着を見守るために作られた監視哨のように思われた。けれども、本部の将校たちがひそひそと話したところによると、この橋は戦略上非常に重要な地点を占めており、そこを通って、戦車の大部隊が敵の方へ向って突進することになっていたのである。それはただそのために架けられた橋だった。
ー5月のある日だった。草はまだ枯れていて、吹く風は冷たかったが、日中の太陽はもうすっかり暖かだった。低い柳の木立が方々に群れをなして生きていて、ゆるやかに起伏し、ところどころあらわれた砂地の上には夜の狼の足音がかすかに残っているだけで、人気のなく荒涼とした。河沿いの野原を通って、1人の男がその橋の方に向って歩いていた。その男はぼろぼろの綿入れの短い青い中国服を着て、同じくぼろの青い綿入れズボンをつけ、日本式の黒い地下足袋をはき、灰色の風呂敷包みを帯のように腰にまきつけて、頭には厚いフェルトの焦茶色の緑無帽をかぶっていた。彼は下の方を向いてすたすたと歩いていたが、ときおり立ち止まっては、うしろを振り返ってみた。
ーその様子はあたかもこの単調な風景の中をどれくらい進んで来たか、目測しているように見えた。それから彼は河の面を見たが、それは彼の進む方向とは反対の方へ、静かにところどころ渦巻いて深々と流れていた。しかし、広大な空間はさらにもっと深々と静かだったので、流氷が岸辺の砂地を少しずつけずるようにこすってゆく微かな音と、たまたま水中に落下する小石の音がひとつ聞こえただけだった。男はまた歩き出したが、その足は必ず草の上を踏んで行った。彼は砂地の前に来ると、まるで自分の足跡をのこすのを恐れるかのように、それを迂回して行った。彼はすでに遠くの方から白い橋の存在に気づいていたが、それ以来ほとんどただ足もとを見ながら進んで行った。何故なら河に沿って進むかぎり、必ずやその橋に到着することは確実だったからである。
ーそれで橋が非常に近づいた時も、彼はそのそばの岩の上に立っている兵隊の姿に気づかなかった。さらに、その兵隊が銃をかまえたことにも気づかなかった。彼はただ銃声を耳にして、初めて停止したのだった。兵隊は本来ならば、ただ下の小屋に警報を伝えるべきで、発射すべきではなかったのだが、突然、あまりにも橋に接近している見知らぬ男の姿に気づき、おどろいて非常の手段を取ったのだった。兵隊はその男に狙いを定めなかったのか、それとも、狙ったけれども的をはずれたのか、ともかく、弾丸は彼に当らなかった。彼はただ頭上の空気をかすめて過ぎた鈍い音を聞いた。兵隊の方では、これによって、その男が身をひるがえし、一目散に逃げて帰るであろうと期待した。
ーところが、一瞬停止したその男はたちまち突進を開始し、死物狂いの勢いで一気に橋を渡って行った。同時に、今の銃声を聞いて、小屋の中から数名の男が飛び出して来た。その中の隊長とおぼしき1人が銃をかまえて狙いを定めた。彼は狐射ちの名手だった。しかし逃げる人影はすでに小さく、この距離で、素早く動く物体を射止めることは難しかった。それでも彼は引金を引いたが、はたして当らなかった。一瞬、男は無事に逃げのびるかと思われた。その時、1人の兵隊が元気のいい白い小さな蒙古馬に乗って、ギャロップで彼を追いかけた。男はもう橋を渡り、柳の木立の間を走っていたが、息が切れて立ち止まり、背後から橋板をひびかせて来る蹄の音を聞いた。彼は観念したように振り向いて、その場に膝をついた。こうして捕まった彼ー張徳義は岩の下にある半地下室の小屋につれて来られた。
日帝占領下の北京と中国民衆:
ー北京の町に初めて電車が通ったとき、張徳義はまだ少年だったが、車夫たちの示威運動に参加して、レールの上に寝たのだった。彼はもともと百姓だったが、土地も農具も持たない彼は村では食えず、北京に出て車引きになっていたのだった。彼は人を乗せたり、或いは空車を引っ張ったりして、北京のあらゆる街や路地を何年も歩きまわった。それは彼には果てもなく長い一筋の足跡路のように思われた。それから父親が死んだので、また村に帰った彼は、同じく張という姓の大きな農家の雑役夫として働き、父親のあとをついで、母親を養っていた。人々は、真夏の炎天下で、彼が一日中、張家の井戸水を汲みあげて、それを張家の畑にそそいでいるのを見た。また秋には張家の穀物を張家の麻袋に入れ、それを張家の馬車に積んで、町へ運んでゆく彼の姿が見られた。
ーこうして年々は過ぎ、彼は既に結婚して、息子が1人生まれていた。そして、ある年の冬、彼は粗末な板で棺を作り、中に母親を入れて、張家の馬車を借り、泣きながら村はずれの墓地へ埋めに行った。それから彼は妻と息子を村にのこして、まあ北京に出て来たのだった。それというのも、その頃、北京の町にはたくさんの日本人が入り込んで、さかんに車を乗り回していたからである。彼は彼自身の父親のように、自分の息子を北京に出そうとしたのだが、この息子はどうしても母親の傍から離れたがらなかった。で、自ら北京に出てふたたび車引きになった彼は、環飯店といういかめしい名前の、ろくでもないホテルの前にたむろして、そのホテルに泊まっている日本人が門から出て来るたびに、沢山の競争相手といっしょにわれさきにとかけ寄って、車をその人の足もとにすえて、「車でいこう!」と叫んだものだったが、これが彼のおぼえこんだ唯一の日本語だった。
ー日本人はたいてい、彼を無視して、見向きもせず通り過ぎたが、何回に一度は彼も成功して日本人を車に乗せ、日本人のカフェーに引っ張って行った。こうして彼の隠しポケットには少しずつ金がたまっていた。ある時、空車を引きずって夜の裏町を 環飯店の方へ帰って来る途中、突如、闇の中から彼は呼び止められた。彼が立ち止まると、もうその人物は車に乗っていた。それは日本刀やらピストルやら図ノウやら双眼鏡やらいろんな物を到るところにぶら下げたやたらと重たい人物だった。彼はこの怪物を背後に引きずって、暗い路地をいくつも通り抜け、やっとのことで一軒の家の前に辿りついた。その家は電灯でまばゆいばかり輝いており、彼はそれを遊郭だと思ったが、じつはそれは軍人会館というものだった。
ーところで目的地に到着すると、その重たい人物はいきなり抜刀して彼を追い払い、1銭も金を支払わなかった。それどころか、彼の車はうしろから日本刀でばさりと切りつけられ、幌が骨もろとも大きく裂けてしまった。そのため彼は車屋の親分から賠償金として、貯めた金をそっくり巻あげられた。その頃、北京の町の壁々には労働者募集の大きなビラが方々に貼りだされていて、それには満州労務会という署名がしてあった。張徳義は字が読めなかったが、通りすがりの親切な人がその説明をして、いろいろと彼によいことを囁いてくれた。それからやがて張徳義の姿は 環飯店の前から消えてしまった。彼は汽車に乗って、故郷の方へではなく、北の方へ、沢山の見知らぬ仲間たちといっしょに長城外へ、関外へ、満州へ運ばれていった。
ー張徳義は手紙を書かなかったが、村に残してきた妻と息子のことをいつでも考えていた。彼らはこれまた張家のものである納屋のような1室に住んでいて、息子は彼と同じように、また彼の父親と同じように、春には張家の畑を起こし、夏には張家の井戸水を汲み、秋には張家の麦を刈り入れて、冬には張家の馬車をひき、こうして母親を養っていたが、この女は病身で蒼い顔をしており、ふらふらして、張家の広い院子を掃除するのが精一杯だった。ほんとういうと、彼女の病名は慢性の栄養失調だったのだ。張徳義はこの2人の肉親のためそこばくの金銭を持って、新年までに村に帰り、豚肉の入った正月の団子を2人に食べさせようという、ささやかな希望を抱いて北京に出て、更に満州まで出稼ぎに来たのだった。彼は3昼夜も汽車で運ばれ、ジャラントンという町で下ろされた。
ーそこには沢山の苦力たちがボロをまとい、シラミだらけになって、有金をバクチにうちこんでいた。なぜというに、この町から更に奥地へ入ってゆくには、特別の許可証が必要であり、それを持たない不運な労働者たちはみんなここで下ろされたからである。だが張徳義は満州労務会発行の、その許可証なるものを持っていたので、そこからほとんど自動的にブハトの町に送られ、興安嶺の伐採苦力となって、さらに貨車で山中の小さな部落へ運ばれて行ったのである。長い汽車旅の後、彼がぼんやりと見たものは、夕空の中にくろぐろと大きく積み上げられた丸太であり、その上にそびえている回教徒寺院の黒い三日月だった。翌朝、彼は馬車で伐採の現場へ向って出発したが、部落を出外れる時、彼は1頭の黒い馬が死んでいるのを見た。それは鬣だらけの異様な人物がその馬の皮を剥ぎ、耳を切り取っているのを見た。
ー馬車は折れ曲がった谷間を長いこと進んでゆき、終に山の澄んだ空気の中に微かに糞便の匂いがただよって来て、山陰から1軒のバラックが現れた。それが伐採苦力の小屋だった。張徳義はその小屋の中央に大きなカマドがあり、そこでコーリャンの飯がたかれているのを見て、何となく安心したのだった。彼はその飯を食い、そして前からいる連中と尻をならべて戸外に排泄しつづ、早くもこの新しい生活の中に入っていった。こうして彼は大きな樹木を何本も切り倒したが、一向に金はたまらなかった。なぜなら彼の夢みた賃銀が彼の手に入るまでに、彼は前もってそれを食べてしまうように仕組まれていたからだ。腹の減った彼ががつがつと食べてまだ足りないそのコーリャン飯が、彼の賃銀のほとんど食ってしまったのだ。おまけに旅費だとか被服費だとか、そのほか何だか彼にはわけのわからぬものが差し引かれて、彼の手に入る時は、それは煙草銭ぐらいのものだった。彼は一番安い巻煙草を少ししかのまなかった。
一季節働いてブハトの町に下りて来た時、彼はそれでも少しばかりの金を握っていた。ブハトの町は中央に一筋の小川が流れており、片側は小高い丘になっていて、そこには坂道がついていたが、片側は平地で、そこについている道路を歩いてゆくと、直ぐ野原に突き抜けて、野原のむこうには山がすぐ迫って見えた。苦力たちが山から下りて来るところを見計らって、そういう道路のまん中に芝居やら手品の興行がかかっていて、それにはまたしても満州労務会主催という看板が出ており、その前にはいろんな飲食物の屋台店がならんでいた。そこで張徳義は1杯の酒を飲みながら金を勘定してみた。そしてそれがどうやら北京まで帰ればかつかつであることを知ったのである。彼はその時、手品小屋の幕があげられて、中で1人の男が口をあんぐりあけて、腹の中から無限に長いはらわたのようなリボンを次から次へと取り出すのを、ちらりと見た。
ー彼は長いこと考え込んで、それから立ち上がった時、決心していた、-いったんジャラントンに引き返し、そこから改めて興安嶺を越えて、ジャライノールの炭坑へ入ろうと決心したのである。張徳義は40歳を越え、痩せて骨ばっていはいたが、頑丈な体格で、全身にわたって針金のように丈夫な筋が張りめぐらされていた。彼はいかなる労働にもたえることができ、労働以外に彼の生活はなかった。それはすなわち車をひくことであり、100キロからある麻袋を担いで運ぶことであり、大木を切り倒すことであり畑を起こすことであり、草を刈ることであり、道路の溝を掘ることであり、石を積み上げて塀を築くことであった。彼が休息している時は、その皮膚はなめらかだったが、何か力を入れて働き出すと、見る見るうちに肉体から筋肉がむくむくと現れるのだった。
ーまたひき綱を肩にかけて何か重い物を引いている時の彼は、その手をゆっくりと重そうに、時計の振子のように振っていて、それが無言の美しい拍子を取っていた。ジャライノールの炭坑に入って積込夫になった彼は、今まで従事したあらゆる労働と別に異なることなく、自分の身体をたくみに使って、無駄な動作ひとつなく、やってのけた。ただ彼は自分の労働によって、自分の身体ひとつしか養うことのできないのが、大きな苦悩だったのである。「わしはここで飯を食っている。家族はむこうで腹が減っている」と彼は口癖のように言ったものだ。おお、彼自身だって少ししか食っていなかったのだ。そして、しまいには彼は家族の人々が村のあの薄暗い部屋の中で餓死したのではないかと思い、大きな不安にかられた。

ーしかし誰ひとりとして、彼のこの当然の不安について考えてくれるものはいなかった。もっとも、ずっと上の方で、人々が不安の哲学を談じてはいた。ところで、ジャライノールの炭坑は入る足跡はあるが出た足跡の見当たらないイソップの洞窟に似ていた。中に怪物がいて、入ってきた者を食べてしまったわけではないが、いったん中に入ると、なかなか出られなかった。出入口は何処か人知れぬところにあいていたのだ。多くの人々は入ってからのことに気づくのだったが、張徳義もそうだった。つまり彼には情報というよりも、あの狐の用心深い知恵がなかったわけである。いや、そんな知恵が何になったろう?彼は何か抵抗し難い生活の重力にひかれて、そこに落ちこんだのだ。丁度、泳いでいる者が渦巻にまきこまれるように、そして万事そうだったが、ここでも彼はだんだんと失望したのである。
ーあの伐採地では彼は少なくとも故郷へ手ぶらで帰ることができた。それが、お土産を持って行こうと彼の望んで入ったこの炭坑では、彼は囚人のように柵でかこまれているのに気づいた。そして彼の賃銀は彼の手に流れて来るまでに、何処か上の方にひっかかって積み重なり、そこへはいつまで経っても彼の手は届きそうになかったのである。彼は周囲を見まわしてみて、逃亡以外の出口はないことを知った。それから夜、夢の中で彼は一筋の道が自分の前にひらけるのを見た。それはかつて、彼の母親の棺を運んでいった道路に似ていた。それは村を出はずれてから、遠く岡のふもとをまがって消えていた。ある晩、発電所の事故で電流がとまり、炭坑の車道は真暗になった。その時、張徳義は自分の持っている安全ランプを吹き消したのである。
ーそして坑道の壁に沿って身をかくしながら地上に這い出した。彼は明かりといえば空一面に光っている星々を感じながら、自分の名前の書いてある作業服を脱ぎ捨てた。それから夜の中を腹ばいになって進んでいったが、その時、遠く門柱の電灯がふたたびともるのが見えた。が、幸い、彼の周囲は暗かった。彼はトゲのある針金の下をくぐって、ようやく道路に出た。そこで彼は一瞬、溝の中に身をひそめて耳をそば立て、それから立ち上がって足早に歩き出した。その時、行手の薄暗い街灯の光に照らされて、大小さまざまの数匹の犬が道路上に現れるのを見たが、彼らは一匹の牡犬を追っていて、彼には気づかずに、そのまま道路を横切って行った。
ー夜ふけで、ジャライノールの町は暗く、家々は板戸を立てていたが、戸のすきまかれは明かりがもれ、内部では人々はまだ眼を覚ましていた。彼は2,3軒の店の戸を叩いて、ありたけの金を出して、とうもろこしの粉で作った饅頭を買い込み、それを腰につけた。それから彼はほとんど方向を定めないで、走るように進んでゆくと見えたが、それはけっして方向を誤ってはいなかった。彼には多くの中国の農民におけるごとく、方角に対する本能的に鋭い感覚がそなわっていた。広漠たる平原と興安嶺の山脈を越えて、どこにあのジャライトンの町があるかを、彼はちゃんと知っていたのだ。彼にはジャライトンの町が分水嶺のように思われた。そこまで行けば、初めて遠く北京の町を見ることができるであろう。ただ彼はジャライトンの町と自分との間に何が横たわっているかを知らなかっただけである。
ー町を逃れた彼は、或いは岡にそい、或いは岡をこえて、真暗な道らしきものを長いことたどって行った。一度、彼は前方から車をきしませて来る一台の馬車に気づき、道ばたに身を伏せた。一度、彼は前方から車をさしませて来る一台の馬車に気づき、道ばたに身を伏せた。馬車には2人の男が乗っていて、彼の知らない言葉でなにやらぼそぼそ話しながら通り過ぎて行った。一度、彼は岡の上に立って、遠く夜の地平線に近く、彼と平行して汽車の明かりらしきものが通ってゆくのを見た。それから彼は道のあるなしにかかわらず、まっすぐ岡を下ったり上がったりして進んで行った。起伏は緩やかで、樹木は1本もなく、足にふれるものは草ばかりで歩きやすかった。こうして夜明けと共に彼は荒涼たる原野の中へ歩いてゆく自分を見出したのである。
ーそこには柳の木立がところどころにかたまって生えているだけで、人家はひとつも見えず、人っ子ひとりいなかった。砂地特有の非常に粗い固い草がまだ枯れて地面をまばらにおうていた。振りかえって見ると、夜の間に彼のこえてきたあの岡の起伏が横たわっていて、それが遠くジャライノールの町を彼からへだてていた。こうして背後の脅威がうすれると共に、彼は前途の不安が生長するのを感じた。それはまことに広漠たるものだった。その時、前方に当って大きな河が朝日にきらきらと輝いて、横に流れているのを見たのである。必然に彼はそれにそってさかのぼって行った。そして、5月の太陽が彼の影を砂地に落とし、それがもう正午過ぎを示している頃、初めて饅頭をひとつ取り出して食べながら、遠くの方に、白い木の橋が日光を浴びて現れれるのを、彼は見たー。

国境監視哨・虜囚として強制労働:
ー今や橋梁監視哨のウマヤの中に張徳義は住んでいた、と言わんよりも、陸軍主計中尉の言葉をかりて、彼は馬といっしょに飼われていたと言うべきであろうか。彼の飼料は、1日に缶詰の空缶1杯分のコーリャンと、ミガキニシン1匹だった。彼は橋のわなに引っかかってとらえられるとすぐに、猛烈に殴打されて、それから暗い狭い倉庫の中にぶちこまれたのだったが、そこには乾草が沢山入れてあったので、その上に2日間、彼は身を横たえていた。一方、この2日間に、そこから2里ほど離れた中隊本部の事務室では、彼の運命に関係のある、ささやかな論争が行われていた。副官は、逃亡した苦力などはその場に殺してしまえと主張した。それも背中に油を塗り、それに火をつけて焼き殺したらよかろうと言ったのである。
ーこの兵隊あがりの副官に対して、大学卒業のインテリである主計は武士の情けを説いた。と言うのは、彼は中隊の自給農場なるものを計画しており、その耕作用として苦力を生かしておいた方が得策であると考えてからだった。ちなみに、この論争は2日間にわたり、飯を食いながら、ソロバンをはじきながら、事務を取りながら、週番下士官の報告を受けながら、事のついでに、談笑のうちに行われたのである。終に主計の意見が勝った。なぜなら副官は武士の情を認めるのにやぶさかでなかったからである。彼はただ自分の秋霜烈日たる意見を2日間楽しんだだけで満足した。一方、中隊長はこの2日間に、部落民の牛が兵営の構内に入ってきたので、それをウマヤにかくして、ひそかに屠殺するべく準備していた。張徳義の一件よりも、この方が彼には重大だったのだ。なぜなら、牛はビフテキにして食えるからである。

ーさて、その時、かなた、暗い倉庫の中では乾草は日光の匂いがして暖かく、張徳義には大へん気持ちがよかった。それは彼に、子供の時、張家のウマヤの中で寝たことを思い出させた。この2日間、彼は生まれて初めてゆっくりと休息し、持ってきた逃亡用の食料を食べつくしてしまった。彼は満腹すると眠り、そして眼を覚ますと、もう腹が減っているのを感じた。だが、もう食べるものがなかったので、彼は闇の中で膝をかかえて長いことじっとしており、終にはそのまま横に倒れて、またぐっすりと寝込んでしまった。ふたたび眼をさました時、あたりはあいかわらず暗かったが、彼は隣室で1頭の馬が足で地面をかき、かすかに鼻息を鳴らすのを聞いた。彼はそれにつれて長い溜息をもらした。
ーそれから板壁のすきまを通って外部からぼんやりした光が闇の中に射し込んでいるのを見たが、それが朝日であるか彼には判らなかった。彼はしばらく見つめていて、それがだんだん明るくなるのを認め、朝であることを知ったのだった。その時、急に戸外に大きな足音がして、カンヌキがはずされ、戸がぱっと開かれて、彼はまぶしい日光の中に引き出された。そして彼と同時に隣室の馬も引き出されていた。張徳義は未知の環境に入った場合、それにたいしてまず楽天的だった。彼は何事においても悪いことをしたという意識を持たなかったからである。彼はいつでも公明正大だった。不幸はすべて外部から彼に来る意地悪だったが、彼はまずこの外部に対して信頼的ならざるを得なかったのである。さもなければ、どうして生きることができたであろうか?
ー残念なことに、彼の楽天主義は永続きしなかった。彼はいつでも苦い失望を味わって来たのである。だが、銃声を聞いて不幸から逃げ出そうとした彼ではあるが、いったんその不幸につかまえられた以上、彼はこれによってかえって幸運が開けてゆくように思いこもうとしたのだった。少なくとも前途の不安な逃亡感は消えた。そして馬と共に鞭打たれる烈しい労働に追い込まれた時、ただここでおとなしく働いてさえおれば、いつかは必ず汽車に乗せられて故郷へかえらされるような気がしたのである。そして、その解放の日は、彼がよく働けば働くほど、近いように思われた。あまつさえ、その時はいくらかの金銭が与えられるかもしれないと思った。彼は非常によく働いた。けれども、彼とは何の関係のない、また彼には絶対に不可解なものが、最初から彼の運命を決定していたのである。
ー何故なら、その橋は軍事機密というものに属しており、いったんそこに入り込んだ局外者は、もう決してそこから世間に向って出されてはならなかったからである。-それは、と副官が言ったが、それはスパイをおめおめと敵の手中にわたすようなものである、と。とは言え、彼はオリの中に入れられたのではなくて、言わば放ち飼いにされていた。逃亡は不可能に近かったからである。日中は例の岩の上に兵隊が動哨していた。だから逃げるとすれば、夜、橋を渡らずにこっそりとジャライノールの方へ引き返すことだったが、これは張徳義にはほとんど死を意味した。もう1つ、北方に横たわっている未知の高原を越えて、国境のアルグン河を渡り、ソビエト領に入ることも想像されたが、これは人跡の全然ないもので、非常に危険な冒険であり、ソビエトという国の存在すら知らない張徳義のあえて企てうるところではなかった。

ー冬河は凍りついて、到るところ交通可能になったが、それと同時に恐るべき寒気がこの人口稀薄な広漠たる地方の、いかなる徒歩旅行をも禁じてしまったのである。さらにまた、夜、泳いで河を渡ることも考えられたが、誰も張徳義が泳げるとは思わなかった。というよりも、誰も初めからそんなことに思い及ばなかったのだ。つまり逃亡は絶対に不可能ではなかったのだが、初めから逃げる意志を放棄した張徳義はそんな可能性を全然意識しなかったし、これはまた人々の警戒心をゆるめさしたのである。彼の先ず考えたこと、それは故郷に帰ることであり、それには先ず働いて人々の気に入ることが必要であると考えたのだった。彼は非常によく働いた。
ー主計が当時の金で7,8千円と見積もったくらいに。そして人々の気に入ることだって成功したのだ。彼は軍隊式の敬礼を覚え、誰に対してもそれを素朴に、また少し滑稽におこなった。が、それだけのことだった。彼はその報酬として、ただ若干の高粱飯とミガキニシンを貰っただけである。だんだんと彼は、解放の日がいつまでも来そうもないことを知った。その時、初めて彼は前を流れている河を真剣に眺めるようになり、また背後にある広漠とした高原を漠然と振り返って見たのだが、しかし彼の方角に対する敏感な感覚も、未知のものに対しては全く働かなかった。彼の磁石は河を越えて、ジャラントンを、それから北京を、それから故郷の村を、それから一軒の小さなあばら家をさしていたのである。春から夏にかけて、自給農場の開墾がすむと、夏から秋にかけて、張徳義は牧草地の草刈りをやった。
ー1人の兵隊が監視かたがた彼と一緒に草を刈ったが、その時の張徳義は急に権威を帯びて来て、彼の方が監督であり、長であるように見えた。彼は、あの絵に出て来る死神の持っているような、巨大な草刈鎌を使うのが非常に巧みで、いかなる兵隊もとうていかなわなかった。彼の刈った跡をみると、恰もバリカンで刈ったように、隆起した地面も凹んだ所も、どれも一様の短さに刈り取られていた。こうしてなぎ倒された草のなまなましい匂いが高原をただよい、張徳義の半裸体からは汗の熱気が立っていた。夕方、彼は帰って来て、炊事兵からその日の食料を貰うのだったが、その時、彼は手真似でもっと多く呉れと要求したのである。これは当然の要求だったが、その時の彼は急に乞食のように卑屈になり哀れっぽく見えた。このように、誰よりもよく働いていた彼が人々の残飯で生きていたのである。また時には彼は炊事兵の特別の個人的恩恵でお茶が与えられた。
ーお茶をたてる時の彼は非常に慎重で、順序立っていた。彼は完全によく沸騰したお湯を少しさましてからでなければけっして飲まなかった。彼は大、中、小の3つの空缶を所有していて、大の空缶でお湯を沸かし、中の空缶でお茶を入れ、小の空缶でそれを飲んだのである。夕ぐれの残照を浴びて、わら屑を燃やし、お湯の沸騰するのをゆっくり待ちながら、彼は小声で何やら口ずさんでいた。彼は節をつけて呟いたのだ、-「穏和的太陽、太陽、太陽、他記得・・・」と。太陽は何を覚えているというのか?張徳義は忘れてしまったが、これは曾て北京の町で耳にしたことのある流行歌の断片だった。暖かな太陽はだんだん冷えてきて、冬が近づきつつあった。河のおもてには水源地の方からつぎつぎと氷の破片が流れて来ては、それをあんで、巨大な簗を作っていた。流氷が流れるのをやめて、河の水全体が完全に凍りついてしまうと、彼は廃品になった兵隊の防寒外套にくるまって、「魚走頂水」と呪文のように呟きながら、氷を割って、簗を水中におろした。
ーすると狗魚という巨大な魚が河を遡って来てうえに引っかかった。張徳義は澄んだ水底からそれをたもとですくいあげて、氷の上に投げ出した。すると魚はたちまち凍りついて、天然の冷凍魚が出来上がった。こうやって張徳義は冬から春にかけて、中隊全員の魚をまかなったのである。それのみか、主計はその魚を出入り商人に「払い下げ」て、けっこう、ノミシロをかせいだ。けれども張徳義に与えられるおのは、干からびたミガキニシン1匹だった。ただ時たま、炊事兵のお情けで、自分のとった魚の尻尾の方が少しばかり与えられるくらいのものだった。これに対し、彼は「謝々」と言った。
ーこうして彼の捕えられた記念日が2度めぐって来た。その間に監視哨の兵隊は何回も交代した。いつまでも交代しないで、ここに残っているのは、1頭の蒙古馬と彼・張徳義だけだった。彼の受け取る糧秣も依然としてコーリャン1杯とミガキニシン1匹だった。労働はつぎからつぎへと彼に与えられた。そのほか、日常の薪割り、水汲み、掃除・・・。人は彼をこの監視哨の建物の付属品のように思っているらしかった。彼と兵隊と、言葉はおたがいにほとんど通じなかった。新しい兵隊が来るたびに、彼はその隊長の前にゆき、最敬礼をして、一心に懇願したのである。-どうか家にかえして下さい。しかし彼の言葉はてんで相手に通じないらしかった。ただ1度だけ、1人の隊長が彼の言うことをじっと聞いてから、承知したように「好」と言った。そして何やら手紙のようなものを書いたのである。
ー張徳義の顔は喜びに輝いた。彼は両手を組み合せ、叩頭してーあなたは福の神です。彼はこの「福神」を何度も繰り返して言った。まるでこの言葉が福神の力でも持っているかのように。けれども、その手紙に対する返事はいつまで待っても来なかったのである。そして、やがて、その「福の神」も交代してしまった。代りに来た隊長は、ただ黙って微笑しながら、張徳義の顔を眺め、巻煙草を1本投げて行ってしまった。種蒔きの時期が過ぎた。そしてまた、草刈りの時期が近づいて来た。それからやがて簗作りの時期が、そしてその背後には、あの万物がことごとく氷ってしまう厳冬の脅威・・・わなにかかってすくいあげられ、氷上に投げ出されて、そのまま永遠に氷ってしまう魚の群が・・・。張徳義は朝夕、河へ水をくみに行き、そのたびにじっと水の面を眺めていた。
ーここは晴れ渡った天気が毎日続いていたのに、未知の遠い源には烈しい豪雨が降りしきっているのではないかと思われた。そのように河は水カサが増して、黒ずんで、渦巻き流れていた。張徳義はこころみに草の葉をむしって水面に投げ、それがたちまち流れ去り、消えてゆくのを見た。
ソ連軍の侵攻と敗戦:
ー8月のある日だった。炊事兵がその朝起床して戸外に出てみると、いつものように張徳義の割った白樺の薪が地べたにきちんとならんでいた。兵隊はそれをたきつけにかかったが、その時、見ると水槽に使っているドラム缶の水が残り少なくなっているのに気づいた。それで彼は張徳義に水を汲ませようと思ったのである。彼は戸外に出て、朝日が斜めに射している、閉ざされたウマヤの戸口に向って「張!」と3度続けて呼んだ。しかし張徳義は出て来なかった。炊事兵は考えた。きっと張徳義は便所へ行っているのだ、と。それでメシタキの仕度をしながら、彼は開いた戸口からときどき戸外を眺め、そこに張徳義の姿が現れるのを心待ちに待っていた。が、それがなかなか現れないので、彼は行ってウマヤの戸を開いてみた。そこには乾草を積み重ねた上に、1枚のむしろをのべた張徳義の寝床が空っぽのまま横たわっており、すべてはきれいに清掃されていた。枕元の棚の上には、鍋や食器代りの空缶がきちんと整頓されてならんでおり、花いけに使っていたインキの空壜が寝床の上にころがっているだけで、-張徳義の姿は見えなかった。
ー炊事兵は便所の戸を開いてみたが、そこも空虚だった。地下に掘られた糧秣倉庫のフタも念のため開いてみたが、そこも空虚だった。仕方なしに彼は自分で水を汲んで来たのだが、それでも彼はまだ張徳義が逃亡したものとは思わなかったのである。それは日頃よく使いならした道具が見当らず、捜したが見つからないので、いずれ出て来るだろうと思うのに似ていた。張徳義はこの監視哨で、いつかしら、そういう存在になっていたのである。交代の時の、いわゆる申し送り物品の中に、彼は入っていたのだ。けれどもその日、彼はいつまで経っても何処からも現れて来なかった。-河べりの柳の間からも、うしろの岡のかげからも、-そうだ、張徳義はよくそこへ行って野花を摘んで来て、あのインキ壜に挿していたものだが、-炊事兵はこのことを思い出して、岡のかげへ行って見た。が、そこにはまだ朝日も射さず、ひんやりとして、誰もいなかった。炊事兵はぶつぶつ不平をこぼしながら、何でも自分でやらざるを得なかった。
ー隊長が張徳義逃亡の報告を受けたのは朝食もすんだ後で、日はすでに高かった。彼は驚いたというよりも、むしろ不機嫌になり、怒ったように「本当か?」とつぶやいた。そしてウマヤや便所の戸を開いてみて、それから本部に電話をかけた。しかし電話は通じなかった。それはこの機械によくある気まぐれで、ただわけのわからない騒音を聞かせるだけだった。隊長は間を置いて何度も受話器を耳にあてたが、同じことだった。そこで彼は銃を銃架から取って、安全装置をはずし、非番の兵隊を1人つれて、付近の捜索に出かけた。彼はまず柳の木立の中をさがしてみた。もしかして、そこに眠っていたり死んでいたり、してはいないかと思ったのだが、そこには砂地の上に兎の足跡しか発見できなかった。それから彼はうしろの高原や小高い岡の上へ行ってみたが、そこにはただあらあらしくぼうぼうと草が生えているだけで、いかなる痕跡も見当らなかった。
ーただ岡と岡の間に馬のガイコツが1つころがっていた。それはどこからかまぎれ込んで来た馬を兵隊たちが密殺して食べてしまったもので、その皮をはいだり、肉を切り取ったりすることを強制されたのは、張徳義だった。彼がその時使った小刀がすっかりさびて、巨大なあばら骨のかたわらに落ちていた。それから、隊長はもう1度ウマヤへ行き、内部を詳細に調べてみた。そして終に発見したのである。-馬房の横木に使ってあった太り丸太が3本紛失していた。彼は急いで真直ぐに河の岸へ行ってみた。その時、彼は初めて河を見るような気がしたが、それは不気味な静けさでゆっくりと流れているように見えた。河の岸辺は細長い砂洲になっていた。彼はそれにそって長いことうつむいて歩いていたが、ようやく、その求むるものを発見したようだった。-何者かの足音を。-それは裸足で河の方へ向って2つ3つかすかについていた。
ーそれは誰の足跡とも判らなかったが、爪先にも踵にも同じように重みがかかっているように思われ、たしかに人間の足跡だった。そこで彼は橋を渡って対岸へ行ってみた。そこも同じように細長い砂洲になっていたが、しかし午前中をすっかりついやしてそこを調べてみたが、ついに1つの足跡も発見できなかった。彼はずっと上流の方から下流へ下流へたどっていったのだが、砂洲はしまいには低いけれどもほとんど直角に切り立った断崖に変わり、そこからは河は幅が少し狭くなり、ところどころ深々と渦を巻いて流れていた。隊長は、たかが苦力1人の逃亡事件で本部にまで馬を飛ばすほどのことはないと考えた。そこで哨舎に帰った彼は、何度も本部に電話をかけようとしたのだが、それは依然として故障だった。こうしてその日は電話不通のまま、いかにもおだやかな夏の1日らしく、何事もなく静かにゆっくりと暮れていった。
ー金星の光がいよいよ輝き出して来るころ、岩の上の兵隊は下りて来て、もう暗くなりかけた橋の上を行ったり来たりした。万物はひっそりとしていた。河は音もなく流れていた。夏のことで、餓えた狼の吠える声も聞こえなかった。この静けさの中で星々が空一面に輝き出して来た。そしてその時、岩の下の影の中で、哨舎のランプがともった。隊長はもう電話をかけることをあきらめ、ランプの灯影に白い紙をのべ、「苦力張徳義逃亡に関する件報告」なる文書を書きはじめた。彼はカタカナまじりのいかめしい文語体で書き出したが、どうしてもうまく書けず、何枚も書いては紙を破ってクズカゴに投げ入れた。彼にはどう判断していいものやら、わからなかったのである。張徳義はソビエト領の方へ逃亡したのであろうか?隊長は何としてもそうは考えたくなかった。それならば、河を渡って、今ごろは平原のどこかを東の方か南の方へ歩いているのであろうか?
ーそれともイカダにつかまって河をずっと下って行ったのであろうか?それとも、この付近の、彼だけ知っているところにひそんでいるのであろうか?砂洲の上の足跡ははたして彼のものであったろうか?あれはずっと前から消えかかりながら残っていた、誰か未知の人のものではなかったか?隊長は白紙の上に眠りかかっていた。夜はひそまり返っていた。動くもの、-それはじっと見つめていると、空一面に光っている星々の、その微かながら正確な宇宙的な回転だけだった。そして広大な暗黒から哨舎の明るい小さな内部へ、正確に1時間置きに1人の兵隊が入って来て、そして報告した、-「異状ありません」。まことに、すべては異状ないように思われた。隊長は眠りかけては、この兵隊の報告に眼をさまされ、書かれないままの白紙が、ぼんやりとランプに照らされているのを見た。そして、兵隊の折り返しめいた報告を何度めに聞かされた時であろうか?
ー夜はもう明けかかり、隊長はすっかり眠りこんでいた。その時、電話のベルが鳴ったのである。ねじを巻いて忘れていた目覚まし時計のようだった。ぎくりとして目を覚ました隊長は立ち上がる時、机にぶつかったので、その上に置いてあったペンがころがり落ちた。彼は急いで受話器をはずし、ベルの音は止んだが、音が変わってなおもけたたましく受話器の中で鳴りつづけていた。彼はしばらく受話器を耳にあてることができず、それを少し離して、その静まるのを待っていた。そして、その音が突然ぴたりと止んだ時、まだ受話器を耳に当てないうちから、もうその中から烈しい声が聞こえて来た。それは聞き覚えのある週番下士官の声だった。一瞬、何を言っているか判らなかった。が、次の瞬間、それは暗号電話であることが判った。
ー非常呼集の暗号だ。その数字の羅列は、このように叫んでいた、-「橋梁監視哨!橋梁監視哨!橋梁を破壊して、直ちに全員帰隊せよ!」隊長は反問した。声は同じことを繰り返し、電話はもう切れていた。学徒出身の見習士官だった隊長は監視哨哨長の守則をすっかり暗記していた。撤退に際しては一物も後に残してはいけなかった。「立つ鳥、あとを濁さず」と、彼は大隊長から訓示されたことを思い出した。で、彼は兵隊を全部集め、馬を馬車につけて、あらゆる糧秣や弾薬をそれに積み、乾草類は焼き払ってしまった。が、小屋は焼かなかった。それはまたここに帰って来るかも知れないと、心中ひそかに思ったからである。それから、もう明るくなった朝日の中で兵隊たちをきちんとならばせ、整然として橋を渡っていった。橋を渡ると、彼らは停止して、その橋を破壊しようとした。が、それは不可能だった。ダイナマイトが必要だったのだが、彼らの手には薪割り斧が1つと小さな鋸が1つあるだけだった。
ー鉄棒すらなかったのだ。隊長はこれをよいことにした。なぜなら彼は、またここへ帰って来ると心中ひそかに思ったからである。が、一方、彼は命令遂行に全力をつくさなくてはならなかった。それで最後の手段として、ランプ用の石油を橋にまいて、それに火を放った。そして、その成果を見ることなく、直ぐ退却した。彼らが立去ってから間もなく火は消えてしまった。それは橋の一端を少しばかり焦がしただけだった。今や監視哨は完全に無人となった。岩上の兵隊は虚空に姿を消してしまった。橋は万人に解放された。しかし誰1人として現れなかった。ただ欄干の影が橋板の上に射して、それがいっせいにならんで、日時計のように少しずつうつろっていた。こうして長い空虚な時間が過ぎ、太陽は天心にあった。
ーその時、遠くの方から空気がかすかに振動して来た。突然、あの、人跡1つなかった背後の高原を越えて、巨大な戦車が1台、ゆるやかな速度で現れた。戦車は橋の手前まで来るとぴたりと停止した。それはしばらくそこにじっとして動かなかった。それから突然、砲塔の蓋が開いて中から数名の人間が現れた。彼らは予めその行動が定まっているかのおうに、全部出て来ると、たちまち2組に分れ、1組は哨舎の方へ向かっていった。それは警戒しながらも、身を伏せたり何かに隠れようとせずに、立ったまま自動小銃を抱え、のそのそと哨舎の中へ入っていった。もう1組の方は橋を渡りながら、それを調べていた。この2組は何らの異状も発見しなかった。哨舎は完全に空っぽだったし、橋は少しも壊れてはいなかった。2組の兵隊はまた戦車のところへ帰って来た。その時、河へ水を汲みに行っていた1人の兵隊が何やら叫んでいるのが聞こえた。
ー数名の兵隊がその方へ走って行った。そして彼らは、河の中に、1人の男が橋脚につかまったように引掛って、浮動しているのを見た。兵隊の1人が胸まで水につかり河の中へ入って行った。というのは、その男の引掛っている橋脚は岸辺に一番近かったからである。男は水の流れにつれて頭を少し水面から出したり引っこめたりして或いはまだ生きているようにも見えた。兵隊は長い棒でゆっくりと巧みに男を橋脚からはずし、流れに乗せて岸の方へ寄せてきた。男はもう死んでいた。それは日本人か中国人かわからなかった。腰から下は半裸体で、それは日本の兵隊服を着ていたが、服の下にはぼろぼろの中国服を着ていたのである。腰には縄をまきつけて、小さな鎌をそれにさしていた。恐らくは野草の根を掘るためだったであろう。痩せてはいたが、労働に鍛えた体だった。
ー兵隊たちは無言で一致した行動をとった。彼らは砂地を掘って、その中に死体を横たえ、その上にまた砂を盛ったのである。惣ちそこに細長い塚が出来た。それはー曾て張徳義が母のためにこしらえた棺の形に似ていた。兵隊たちはてきぱきとこの作業をおえると、一瞬直立し静止した。その時、たちまち命令が下って、彼らはみんな戦車の中に入った。戦車はしばらくじっと動かなかった。10秒、20秒、30秒、おそらくは1分くらい。それから猛烈な勢いで突進を開始した。橋をごうごうと鳴り響かせて、それは河を渡って行った。-その敵の方へ、その解放すべき国土の中へ。

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