日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Isaiah Ben-Dasan (いざや、便出さん)ישעיהו בנדסאן『The Japanese and the Jews』「原文は英語」訳 translated by Richard L. Gage自称「ユダヤ人」Shichihei Yamamoto+Еврейские погромы в России ⇔Konzentrationslager Auschwitz&類似する’詐欺もどき’文化人たち(CANADA)2017/01


The Japanese and the Jews Isaiah Ben-Dasan/ Shichihei Yamamoto [Author] 1970
Publisher content information: "Japanese people think safety and water are free." --- Ben-Dasan's warning is still new. "Japanese and American" and "Japanese and Chinese" are recorded together
instructions: The unanimous resolution is invalid-the Jews 2,000 years ago thought so and implemented it. why? The unanimous resolution is the most effective-the Japanese still have no doubt about this word. why? The shocking book that shook the Japanese is now back.

【注】1980年9月13日の午後、某出版社の斡旋で行った未公開の対談の中であるが、今はその録音テープから問題の箇所だけ正確に引用してみる。
浅見:(『日本人とユダヤ人』の英訳本について)・・・あれはあれですね、少なくとも「原著」じゃなくて「英訳」ですね。山本:はい。浅見:「原著」はないんですね。山本:ええ。・・・(?_?;笑
事はあまりに明確なのである。「ベンダサン氏」が英語で書いたものを山本七平氏が日本語に訳したのなら、その日本語をどうしてまた別のアメリカ人が「英訳」(R・L・ゲイジ氏)する必要があろうか。というわけで私は、何のためらいもなく「イザヤ・ベンダサン」氏と山本七平氏を同一人物とみなす。しかしどこかの国の元総理ピーナツ裁判と同じで、御本人はまだ一度も正式に自白しているわけではない。従って、もしも、仮に、万々一、「ベンダサン」氏と山本氏が別人だとすれば、世の中にこのくらい、ものの考え方から詭弁のあやつり方まで酷似した「別人」は、古今に類を見ないということになる・・・(15頁)。

(Translated from the Japanese By Richard L. Gage) by Isaiah Ben-Dasan(the pen name for Japanese author Shichihei Yamamoto(?_?「I am a Jewユダヤ人である私にはאני יהודי」笑) .
論争の書、いまや英語に:B・J・シュクラクターアメリカ人がみた「ベンダサン」氏:(浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫・1984年、151-157頁)
イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』(R・L・ゲイジ氏訳・ジョン・ウィザーヒル社 194頁:訳・浅見定雄)
ー1970年に東京のあまり有名でない聖書関係専門の学術出版社から出るとすぐ、この『日本人とユダヤ人』は天井知らずのベストセラーとなった。有名人はみなこの本を読んだ。元総理大臣の佐藤栄作氏は国会でこの本を引き合いに出した。中曽根康弘氏も、また天皇の義妹にあたる秩父宮妃殿下も、この本を話題にしていたそうである。ほとんどすべての言論誌が書評をのせ、また本書とその作者にまつわる謎の物語を掲載した。ベンダサン氏は戦後の最も教養ある日本人よりもよく日本を理解していると『中央公論』は言った。だれの話でもきわめて良い出来で、日本語の原著は、人もうらやむ大宅壮一賞を獲得した。『毎日新聞』は次のように言った。著者は「日本語をあまり上手にあやつり、また日本語文献をあまりによく知っているため、多くの人々がこれは実は日本人が書いたのだと考えずにはいられないのである」。
ーイザヤ・ベンダサン氏はまだ公衆の前に顔を見せていないけれども、彼はーとその本を出した山本七平氏は主張しているー神戸という港町で生まれた。彼の両親はもちろんユダヤ人で、エストニアからの亡命者だった。第二次大戦の勃発前に一家はみなアメリカへ移住した。青年イザヤは、戦争中陸軍の諜報活動に従事し、1945年日本へ戻り、数年後にはイスラエルの独立戦争で戦い、そして再び1950年に日本へ戻って来て5年間暮した。1955年には彼は特許のブローカーとして日本とイスラエルと合衆国との間を行き来するようになり、インディアナ州テリー・ポートで幸福に暮している。
思い違い:
ーこの本のことを聞いていた外国人たちはーというのは『ニューヨークタイムズ』と『ワシントン・ポスト』と『ワシントン・イーブニング・スター』に記事がのっていたのでーこの大騒ぎはどういう事なのか、自分の目で確かめたいと、英訳を大変な期待で待っていたのであった。リチャード・ゲイジ氏の翻訳に目を通してみると、この本がなぜ日本でそんなにも受けたのか、すぐに納得がいく。ベンダサン氏は実に多くの年月を日本で過している外人として、他の外国人たちが日本について抱いている多くの思い違いを見抜き、また逆に日本のインテリと「評論家」たちがユダヤ人ー当然ーをはじめ西欧の宗教、哲学、論理にいたる数々のことがらについて抱いている多くの思い違いを見抜くことができるのだというのである。
ー彼の「日本教」つまり真の日本宗教なるものは面白く読めるし、また学者たちを長年悩まして来た問題に、なかなか良く答えている。日本人が自分のため適切な防衛政策を用意するのを怠っている、ということに関するベンダサン氏の説は、そう独創的なものではなく、赤尾敏(戦中、衆議院議員+戦後(公職追放)、大日本愛国党総裁→Bin Akao (赤尾敏Бин Акао), aussi appelé Satoshi AkaoСатоси Акао, 15 janvier 1899 dans l'arrondissement Higashi-ku de Nagoya(愛知県出身) — 6 février 1990, est un homme politique japonais d'extrême droite, 思想家和右翼運動家。日本右翼团体大日本愛國黨的首任黨首。)のような人々とか、その他およそどんな右翼日本人からでも、いつでも聞けるものである(浅見注・外国人でもこのくらいのことは正確に見抜いている)。しかし彼の論の’すすめかた’が、日本人を興がらせたのにちがいない。もしこの本が’日本名’のだれかによって書かれていたとしたら、著者はほとんど即座に軍国主義者またはウルトラ右翼のレッテルを貼られ、本書は忘れ去られてしまっていたことであろう。
ー日本の聖牛たち(原注・社会批評家や評論家たち)(浅見注・日本の「進歩的」評論家は、インドの聖牛のように神聖で、ベンダサンらに反論の自由も許さないのだそうである)-彼らのことをベンダサン氏は「プールサイダー」と呼ぶのであるがーその「評論家」たちに対する筋違いの八つ当たりをしたあと、彼は日本人の「政治天才」ぶりとその(独特の)論理と人間味の弁護を買って出る。日本人が不愉快になるはずはないのである(浅見注・私の「はじめに」、13頁を参照)。本の表題にもかかわらず、著者の明言する意図は2つの民族の類似点をあげることにはない。「はっきり言って類似点は無理して探すほど多くない」(と筆者は言う)。読者はさらに次のことを知って驚かされる。つまりユダヤ人に対するほとんど全部の言及が、現代の多様なユダヤ人には関係なく、むしろ聖書時代と中世のユダヤ人に関するものであるということである。
ーいちばん出来の良い章と悪い章には、ユダヤ人への言及はほとんど全くない。「聖なる動物と汚れた動物」という章(日本語版の「お米が羊・神が四つ足」)では、著者は羊を犠牲に捧げる古代ユダヤ人の慣行にふれているが、しかしこの章はーほとんどすべてー数年前に英国の新聞が日本人は動物に対して残酷だと断定したのを反   するのに費やされている。この章は、日本人とユダヤ人との「意味深い比較」という本書の著者の目的とはほとんど関係なく、ただ(英国での)議論によってプライドを傷つけられた日本人を弁護するため挿入された章にすぎないように思われる。
「日本教」:
ー本書の最良の部分は、ベンダサン氏が「日本教」という彼の説を説明しているいくつかの章である。小手先の早業やレトリックの仕掛けによってではなく、むしろ明らかに独創的でよく考えられたアイディアによって、著者はこれまで不可解だった日本人の性格の多くの側面を理解しやすいものにしている。キリスト教に改宗した日本人がどうして家に仏壇をおき、新年には神道の神社にお参りできるのか。これはわれわれ「外国人」の中の熱心な宣教師たちにとって、確かに当惑する問題である(浅見注・家族の中のある個人だけがクリスチャンである場合は別として、こんなことは、今日大部分のクリスチャンホームー山本宅を除くーには当てはまらない)。ところがベンダサン氏はこれらをみな説明してくれ、しかも説得力のある仕事をしている。もしも著者がこの主題ひとつを詳しく追求していたなら、この本は日本に関心をもつ外国人読者にとって、もっと読む価値があり、また啓発するところも多かったことであろう。
ー今のままでは、外国人読者は少々だまされたように感じるかもしれない。著者の考えのたどり方について行くのはむずかしい(浅見注・大切なコメントである)。また本書のいたるところに、イギリス人、中国人、朝鮮人、インドネシア人への言及が、ユダヤ人への言及と同じくらい多く出て来るように思われる。(ところが)彼がユダヤ人について書く段になると、そのユダヤ人は聖書に出てくる羊飼いや律法学者といった人々である。伝統にしばられたさすらいの遊牧民である。彼らはロンドンやテル・アビブやニューヨークの街頭で1度でも出会えるようなユダヤ人ではない。彼のユダヤ人は、息子たちを大学へ送って(医学畑で)潰瘍と取り組み、あるいは(社会・宗教面で)ポルトノイ(Jekuthiel Portnoy東欧のユダヤ人労働者組織「ブント」(The Bund (Yiddish(イディッシュ語→ בונד‎))の創立者の1人→Der Allgemeine jüdische Arbeiterbund(全体的な(一般の)ユダヤ系(人)労働組合) in Litauen(リトアニア), Polen(ポーランド) und Russland(ロシア) (jiddisch(イディッシュ語→ אַלגעמײנער ייִדישער אַרבעטער־בונד אין ליטע, פּױלןאון רוסלאַנד )やヘルツォーク(Yitzhak HaLevi Herzog 現代イスラエルの初代の首席ラビ→イツハク・ハレヴィ・ヘルツォークיצחק אייזיק הלוי הערצאגYitzhak HaLevi Herzog (1888年12月3日(ポーランド出身、イギリスへ移住)-1959年7月25日(イスラエルのエルサレムにおいて死去)、Isaac Herzog または Hertzog としても知られ、アイルランドの最初の 首席ラビ であり、彼の任期は1921年から1936年まで続いたRaibí céimiúil ab ea Raibí Yitzhak HaLevi Herzog (Eabhrais:יצחק אייזיק הלוי הרצוג) (rugadh 3 Nollaig 1888; básaíodh 25 Iúil 1959), bhíodh aithne air mar Isaac Herzog chomh maithハイム・ヘルツォーク(ヘブライ語: חיים הרצוג‎, Chaim Herzog, 1918年9月17日 - 1997年4月17日)は、イスラエルの大統領(1983年 - 1993年)を務めた。それまでにはイギリス陸軍とイスラエル国防軍(IDF)に所属していた)の父)が実によく通じているような種類の複雑な事柄と取り組む「専門家」となるよう育てている現代ユダヤ人とは、なんの関係もない。
ー著者の近視眼的な学者ぶったやり方は、彼が真正の日本人にちがいないことを示している。彼が変装に成功したのは、日本の大衆がユダヤ人と限られた接触しか持っていないためである。ところがアメリカの出版社は、おそらく合衆国内の魅力ある「ユダヤ人」市場を開拓できるという魂胆から、誤ってこの変装ゲームを続けようと試みた。(だが)英訳中のあまたの省略にもかかわらずなお、著者の日本人としての性格は’なにか’と洩れだしてしまっている。
省略された章:
ーどんな翻訳者でも、ひとつの作品を外国語からワカる英語へ訳すにあたって直面しなければならないむずかしい問題というものがある。たしかに翻訳者は、その本の(全体的)感じや精神をとらえようと願うものであるが、しかし(できる限り)作品がそのあらゆる複雑さにもかかわらず、なお読者に理解できるものとなるよう、念を入れなければならない。もちろん日本語は、翻訳者に山ほどの自己をさいなむ苦痛を与える。言語は非常に異なるし、英語を話す人間の論理は日本人の思考法と大いに異なる。「訳者のことば」の中でリチャード・ゲイジ氏は、ある事情のため(浅見注・意味深長!)この本を自由に訳すよう余儀なくされたと言っている。それは分かる、彼はさらに続けて、日本の歴史上の人物に関するある種の情報は、日本研究によく通じていない外国人読者のため詳しく説明しておいたと言う。これまた理解できるし容認できる。
ーところが彼は、ひとつの章が丸ごと省かれていることは断っていない。もとの日本語版の第10章が、本書の全般的主題にとって非常に重要なものではなかったとはいえ、この章は著者がまさしく日本人であることをはっきり示す諸文章を含んでいたのである。原著にあった現代ユダヤ人に関するいくつかの言及のうち大部分は、’事実の点でまちがっており、そのため翻訳版の方からは説明もなしに削除された’。それは明らかに、イザヤ・ベンダサンがー彼がだれであるにせよーユダヤ人なのだという悪ふざけを続けるために省かれたのである。
(特注・シュクラクター氏の書評には、この本の日本語版と並べた大きな写真がついていて、そこには次のような傑作な解説が付されている。「右側の本が『日本人とユダヤ人』の日本語原著、次にあるのが最近出た英訳本。こちらー2千円ーは、原書の値段の3倍以上で、しかも中味は1章少ない」ほんとうは2章少ないのである!(PS:ユダヤ人に関することを主に、おかしな話や間違ってるのを「英語版」では削除したため=合計1章分)
イザヤ・ベンダサン (Isaiah Ben-Dasan、公称1918年生まれ) は、山本七平の筆名。『日本人とユダヤ人』の著者として一躍有名になり、その後しばらくの間は、ベンダサン名義の書籍も続けて多数発行された。
神戸市中央区山本通で生まれたユダヤ人という設定。同書が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し単行本・文庫本の合計で300万部を超える大ベストセラーになったため、その正体をめぐってメディアで話題になった。

正体現在では、ベンダサンの正体は、『日本人とユダヤ人』の出版元であった山本書店の店主でベンダサン名義の作品の日本語訳者と称してきた山本七平であることは間違いがないとされる。山本と親しい渡部昇一との雑誌対談で山本自身が渡部の質問に答えそれを認めている。筆名の由来は「いざや、便出さん」ではないかという推測が根強いが、実際のところは定かではない。山本七平『日本資本主義の精神』(1979年、光文社)に掲載されている牛尾治朗の推薦文の中に、「いつだったか、週刊誌などで、イザヤ・ベンダサンは山本さんのペンネームにちがいない、と騒がれたことがあったが、山本さんに聞くと、あれはヘブライ語で、‘地に潜みし者で、誰もさがしだせない者’という意味です、と例のおだやかな微笑みを浮かべられた」という文が見られる。
候補⇒山本書店版『日本人とユダヤ人』の初版本にも顔写真がなかったことから、何名もの人物が正体の候補として挙げられ、本を出版した山本書店の店主で「訳者」だとされていた山本七平と、米国人のジョセフ・ローラ、ユダヤ人のミーシャ・ホーレンスキーの共同ペンネームであったとされたこともあった。しかし、同書の内容はユダヤ人やその文化に精通している者が関わったとは考えられないものであり[5]、現在では、事実上山本の著作であるとされることが多い。2004年5月発行の角川oneテーマ21版『日本人とユダヤ人』は山本の単独名義で刊行され、解説にも「イザヤは山本のペンネーム」という旨が明記されている。
山本七平の発言⇒当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではないI don't own the copyright, so I'm not an author within the meaning of authorship under copyright law」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはないI have never denied being an editor or, in a sense, a composer in The Japanese and the Jewsとも述べている。「『日本人とユダヤ人』は知り合いのユダヤ人からヒントをもらって自分が書いた"The Japanese and the Jews" was written by me after receiving a hint from a Jewish acquaintanceと山本から直接聞いたという証言もある。
論争⇒本多勝一と、いわゆる百人斬り論争を行った。この論争で、山本はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、山本七平の持論である「日本刀は2〜3人斬ると使い物にならなくなる」をメインの根拠にして本多を批判した。この論理は論争の後に一般に広がるものの、この理論をユダヤ人からわざわざ「ヒントをもらった」とは考えにくい。「日本刀は2〜3人斬ると使い物にならなくなる」という話はこの論争の後に一般にかなり広がってしまったが、刀剣の専門家や武道の専門家たちからは批判も受けている。
批判⇒『日本人とユダヤ人』に対する批判として、浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』がある。浅見は「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソードは実際にはあり得ない話であり、実際、英語版[10]の『日本人とユダヤ人』では完全にこのエピソードがカットされていると指摘した。また浅見によると『日本人とユダヤ人』によって、一般の人に広く広がっていった「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであるという。浅見は山本の語学力についても疑問を呈した(たとえば、聖書の「蒼ざめた馬」を山本は間違った訳であると言うが、これは正しい訳であるなど)。山本が訳者となった、浅見自身の師である聖書学者の著書を題材に、山本が高校生レベルの英文を理解できず、明らかな誤訳をしているとして、「ヘブル語やアラム語はおろか、英語もろくに読めない」人物だと批判した。また浅見によると『日本人とユダヤ人』によって、一般に流布されていた「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであり、「こんな無知な人が何をどう言おうとも、現代イスラエル国の裁判所や国会で全員一致が無効とされるわけではなく、また世界各地のユダヤ人が、さまざまな集会から家族会議まで、あらゆる生活場面で全員一致をやっている事実が消えてなくなるわけでもない」と批判した。また「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソードも、実際にはあり得ない話で、「この話は全部、一つ残らず、まったく、ウソ」であると批判した。そして、同書が「『フィクション』ではなく『評論』」である以上、「解釈の違いは別にして評論の対象は実在しなければならない」にも関わらず「本書は作り話の上に成り立っている」ことから、「本書の価値はゼロどころかマイナス」であると批判した。
また浅見は、山本の聖書に関する著書を取り上げ、山本は、自分でもよくわかっていないことを、わからないまま書き連ね、収拾がつかなくなると決まって「読者にも自ずと理解できるであろう」と書いて、よくわからないのは読者の頭が悪いからだと思わせるごまかしのテクニックを使っていると指摘した。浅見は他にも、あるホステルの主人が、ユダヤ人を「においで嗅ぎ分けた」という話や、「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは、体臭が違うからと語った老婦人」なども、山本がでっち上げた作り話だと断じた。浅見はこの他にも、数多くの誤りを指摘している。
社会的影響⇒この本がベストセラーになってから、『日本人と○○人』といった題名の比較型日本人論が一時流行しただけでなく、日本人が外国人を装って書かれた本(ポール・ボネ『不思議の国ニッポン』シリーズなど)も多く出されるようになり、ついには「本物の外国人」が書いた日本寄りの著作の著者が、実は日本人なのではないかと勘繰られる事態まで生じている。日本人が外国人の名を騙る手法は、イザヤ・ベンダサン以前には週刊新潮で長期連載されていたヤン・デンマンの例もある。また、韓国人が書いたという触れ込みの『醜い韓国人』の著者 (朴泰赫) が韓国人ではなく日本人の加瀬英明なのではないかと言われた際にも、韓国側からイザヤ・ベンダサンの事例が提示され (雑誌『SAPIO』)、日本の出版界の体質が批判された。
Isaiah Ben-Dasanいざや、便出さん (nominal born in 1918) is the pseudonym of Shichihei Yamamoto . He became famous as the author of "Japanese and Jews", and for a while, many books under the name of Bendasan were published in succession.  . . In the testimonial of Jiro Ushio published in Shichihei Yamamoto's "The Spirit of Japanese Capitalism" (1979, Kobunsha) , "When was it, in weekly magazines, Isaiah Bendasan must be Mr. Yamamoto's pen name. There was a lot of noise about it, but when I asked Mr. Yamamoto, it was a Hebrew word meaning'a person lurking in the ground and no one could find it', with a gentle smile. You can see the sentence "I was floated". . .
Isaiah Ben-Dasan was later revealed to be a disguised Japanese by the name of Shichihei Yamamoto(後に、「いざや、便出さん」は山本七平という日本人が装っていたのが(偽称していた)暴露された). The Japanese and the Jews" is a remarkable(「日本人とユダヤ人」は素晴らしい(傑出した)+(苦笑), often controversial(まま議論の的), double portrait of two(二重描写) of the world's most unique peoples(世界で最も特殊な人(日本人とユダヤ人)たち) by an author with an intimate knowledge of both. (本書は双方に詳しい知識(*__*;を持つ著者によって書かれた)A runaway bestseller in its original Japanese version, it has sold over 1,000,000 copies to date(「原書」(日本語)版は空前の大ベストセラー「100万部」を記録(^__^;
『諸君!』の読者’諸君’への追伸(本多勝一(72年)・文春編集部は掲載せず、ボツにした
”何かをかぶって正体を隠し”ている自称「ユダヤ人」としてのイザヤ・ベンダサン氏から、ごらんのような追伸をいただいた。この、追伸を彼がおおいそぎで書いたということ、これ自体が、ベンダサン氏のあわてふためきざまとその非論理性とを、誰にでもわかりやすいかたちで示している。従ってその内容が前回以上に支離メツレツの矛盾だらけなのも当然であろう。さきの気負いたった「本多勝一様への返書」の最後で、勝ち誇った(と思い込んだ)ベンダサン氏は不覚にも書いた。「私としましては、御返事がいただけても、いただけなくても、それから十年後にもう一度「公開書簡」を差し上げたいと存じます」と。けれどもベンダサン氏は「十年後」どころか、わずか1ヶ月後の同じ雑誌『諸君!』でかかる追伸を書くハメに陥った。こういうときは、みずから宣言したとおり10年後まで黙っていればよかったのだ。いかに口惜くともベンダサン氏はそうすべきであった。しかし1ヶ月後であろうが10年後であろうが、私のほうは彼のお相手をして答えるつもりはまったくない。 先に書いたよう「「お勉強発表会」ごっこをしながら雑音をたててくる「知識の用心棒」どものお相手は、ベンダサン氏をふくめて今後もうごめんこうむり、もっと重要だと考えられる仕事に生涯の限られた時間を使ってゆきたい」と思うからである。ベンダサン氏にお相手する必要はないけれども、読者にとってはたいへん参考になるに違いない事実があるので、ここで紹介すると同時に・・・原稿というものは、発表以前に編集部の人間以外の第三者にはみせないことがちゃんとしたジャーナリズムの世界では原則とされている。ところが、私の「雑音でいじめられる側の眼」という原稿を読んだ編集部は、ベンダサン氏が完璧にたたきのめされたことを知って、あわてた。なぜあわてたかというと、ベンダサン氏と私の論争においてこの雑誌は「中立」ではなく、完全にベンダサン側を応援しているからである。なんとか本多勝一をつぶしてやろうとベンダサン氏をけしかけた、ところが反対にやられてしまった。大変だ、どうしようか。そこで編集部は、原稿を「第三者」に見せて相談した。その第三者は、たぶん複数であって、もちろんベンダサン氏も含まれていると私は推察しているが、見たという証言を得ているのは現在のところひとりである。こうして鳩首会談の結果とられた措置が、サンドイッチ方式であった・・・(本多勝一『殺す側の論理』(朝日文庫、80年)「自称「ユダヤ人」との公開討論」
ホンモノの学者たちにお願いする:(本多勝一『貧困なる精神・B集』朝日新聞社、89年)
ー読者の中には、かつて光文社から出た『第3の眼The Third Eye』という本のことを覚えている方もあるかもしれない。ロブサン=ランパLobsang Rampaというチベット人がイギリスで刊行してベストセラーになった本の翻訳である。ところがまもなく、チベット学の本当の専門学者によって、この本の大ウソと無知がイギリスで見破られ、筆者はチベット人をよそおったイギリス人詐欺師(シリル・ヘンリー・ホスキンCyril Henry Hoskin)であることも暴露された。この文筆詐欺師がただちに失脚したことはいうまでもない。日本でも多田等観(チベット学者)は、この本がインチキであることをさすがにすぐ見破ったという(この経緯は長沢和俊著『チベット』=校倉書房・1964年=参照)
ーこういう場合、チベットについて何も知らぬ非専門家や大衆は、文筆詐欺師がインチキ書を出しても見破るすべがないので、だまされてベストセラーに仕立てたりする。これは本代による経済的損害ばかりか、間違った’知識’を覚えさせられることによって、時間的・経済的に計量不可能な大損害を受けたことになる。出版社は少なくとも本代(送料も)とひきかえに読者から回収することを公表すべきだし、文筆詐欺師に対してはその損害分を賠償させるべきであろう。日本でもこれとそっくりな事件があった。かつてイザヤ=ベンダサンというユダヤ人をよそおった文筆詐欺師・山本七平氏が、でたらめの充満するインチキ書『日本人とユダヤ人』を書いてベストセラーにした。私はユダヤやヘブライ語について専門家でも何でもないが、そのはじめの方を読んだだけで、ひどい無知や間違いをもとにした非論理的駄文をつらねているのに驚き、それ以上読みすすまずに放っておいた。
ーしかし旧約聖書などの世界についてはよくわからないので、それ以上の詮索もせずにいた。ところがこのインチキ書はまもなく大ベストセラーにのし上がり、しかもびっくりしたことに当のベンダサン氏が、株式会社文藝春秋の出す雑誌を舞台にして私を延々と批判・非難・攻撃してきたのである。この’にせ’ユダヤ人と私の応酬とは拙著『殺す側の論理』(朝日文庫)に全文収録されているが、ここで私が問題とするのは、これに対する専門学者たちの態度である。この道の専門家は、もちろんこのインチキ書を当初から見破っていた。しかしそれを10年間も放置して、文筆詐欺師の跳梁にまかせた。日本が世界から孤立化し、反国際化してゆく戦前回帰への道をたどるのに、これは大いに貢献したことであろう。
ー見るに見かねてようやく立ち上がった学者が、旧約聖書学・古代イスラエル宗教史専攻の浅見定雄氏(当時は東北学院大学助教授)である。このインチキ書を徹底的に暴露する『にせユダヤ人と日本人』を刊行した。「単行本初版」(83年)のあとがきで浅見氏は次のように書いている。「もう10年以上も昔のこと、『日本人とユダヤ人』の初版が出たとき、私は一読してすぐ、ここに書いたような(本多注・インチキ書としての)感想を抱いた。ある出版関係の人々と話していた時そのことを口にしたら、「では書いてみないか」と言われた。しかしその時は、専門学徒としての多少の矜持もあって、「こんな素人のタワゴトを本気で相手にできますか」と一笑に付したものである。ところが信じがたいことに、その後、この本は次第に有名になって大宅壮一賞まで受賞し、それからはれっきとした(?!)学者・文化人からキリスト教関係者までが、この「著者」兼「訳者」の仰せになることを、まるで神話よろしく引き合いに出すようになった(中略)。
ーだがそうこうするうちに、私はなにか少しずつイヤーな気持ちに襲われるようになった。キリスト教徒のはしくれとして、戦争の準備に金を使うよりは地球上から飢えた子供たちの姿を見なくする方がよほど大切だという程度の単純な考えから、1市民の資格でいろいろな運動に研究時間をさいているうち、山本七平さんやその仲間とおぼしき人々が、一見公平な評論家を装いながら、実は私たちとちょうど反対の側から、しかもあなどりがたい影響力を持ちはじめているのを肌で感じるようになったのである」。浅見氏のこの『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫)を読むと、山本ベンダサンの文筆詐欺師ぶりがいかに驚嘆すべきものかを、抱腹絶倒せんばかりのおもしろさとともに理解できる。そして右の「あとがき」の中で浅見氏は山本ベンダサンと対談した体験にふれて「対談するテープを公開する権利を事前に保留」したという。
ーこの”権利”にしたがって私はその対談テープをきかせてもらった。これをきけば、山本七平という人物が「普通の人間」とはまるで違う世界の、私なんかからみれば「種」(Species)が違うとさえ思われる型であることがわかる。浅見氏から何か質問されて、それが明白に山本氏の誤りなりでっち上げなりを指摘することになる場合、山本氏はシラーッとして黙り込み、いつまでたっても何も言わないのである。ひたすら時間が過ぎるのを待っているだけ。誤りを認めるわけでもむろんなければ、反論するわけでもない。浅見氏の前で’石’になって何十分でも放置する。もし私だったら、こちらも’石’になって何時間・何日間たとうが、この異様な「種」が回答するまで、彼の前で読書でもしながら(眠くなったら寝袋で寝てでも)待つであろう。だが浅見氏は「武士の情け」(「あとがき」から)を知る方らしく、根負けして話題をかえている。
ーこの異様さ、鉄面皮があってこそ、あのようなロブサン=ランパ顔負けの詐欺書で日本人をだまして大金をかせぐことができたのであろう(さすがに外国人はだませなかった)。かくもはっきりと文筆詐欺師としての正体が暴露されては、「普通の人間」だったらとても公開の場に顔など出せたものではないのだが、私の友人が過日新潮社の文学賞を得たとき招かれて祝賀会(他の3人ほどの受賞者とともに、新潮社主催)に出ると、この人物も平然と出ていたので、その生態の一部を興味深く観察することができた。なるほど、この厚顔無恥があってこそ、株式会社文藝春秋の出すノンフィクション賞の「審査員」を平然と引き受けることも可能なのであろう。株式会社文藝春秋はまた、幾多の文筆詐欺師を「育てた」実績があり、山本ベンダサンも「文春に育てられた文筆詐欺師」の典型である以上、ぼろぼろになっても使いつづけるのであろう。これは日本型メダカ社会の不誠実・無責任・非論理・汚さも’さいわい’している。
ーたとえば、これほどはっきりした文筆詐欺師と同席して、たぶん純真な気持ちで応募してくる若い新人たちの作品を「審査」することが、他の先生たちよ、よくできますね。さて、このロブサン=ランバと山本ベンダサンという2つの文筆詐欺師を例に出したのは、ホンモノの学者の役割について論ずるためである。(『朝日ジャーナル』1988年8月19日号)
前にも少しふれたことがある「日本人メダカ民族論」(あるいは「メダカ社会論」)は、ひとことでいえばつぎのように要約できよう。
「日本人の行動原理は倫理や論理ではない。付属集団内の「他」を規範として行動する」メダカの群れに実によく似たことになる。当然ながら論理的整合性などどうでもいいし、無責任も卑劣さも不誠実も大目に見られる。個性が憎まれ、異をたてると損をする。以下の現象もこのことと無関係ではないだろう。先週号で紹介したような文筆詐欺師やインチキ知識人の存在自体は、どこの国でも珍しいことではあるまい。チベットにせよ旧約聖書にせよ、一般大衆はもちろん、専門分野のちがう知識人にとっても、その真贋を見きわめることはむずかしい。何であれ専門分野となれば当然であろう。だからこそロブサン=ランパやイザヤ=ベンダサンの詐欺も成立しえた。そしてそれを崩壊せしめたのは、その道の専門学者であった。だが、イギリスと日本とでは次の2点で異なるのではなかろうか。第1点。ホンモノの学者による真相暴露が、日本ほど遅れる(また放置される)ことがないのではないか。第2点。正体がバレたあとのニセモノが社会的ダメージを受けずに世にのさばっていること、すなわち論理的でも倫理的でもないのが日本であり、失脚するのがイギリスではないか。たまたまロブサン=ランパだからイギリスと比べたが、少なくともいわゆる先進国に右の2点で日本と同じところはありそうもない。厳密に検討したわけではないので一応仮説としておくけれど、インチキ知識人にとってこれは実に暮らしやすい国であろう。だがインチキがのさばって世間をだましているとき、これを批判・暴露するのは、見破る力のあるその分野の知識人の、ほとんど使命ではなかろうか。のさばるインチキをみすみす放置しつづける知識人とは、どういう存在なのか。他方、これには新聞人や出版人や放送人もまた大きな責任があるだろう。単にタレントだからとか、何かで「有名」になったというだけで、その内実を検討もせずに使いつづける無責任。むろん記者や編集者自身に専門知識がないのが普通であろうから、せめてホンモノたちの意見をきいてみるくらいは最低限の努力ではないのか。山本ベンダサンの場合は、見るに見かねた浅見定雄氏がホンモノとして役割を果たして下さった。しかしこういう例は日本では少なすぎ、むしろ稀なのである。ホンモノの先生方よ、なぜこうも怠慢なのですか。あなた方もインチキと同次元で「暮らしやすい国」を享受しているのですか。やはりこれも「メダカ社会」を証明する現象ではあるまいか。異をたてると損をする、という基本行動原理への忠誠。河合隼雄氏の用語を借りれば「場の倫理」とか「場の力」(同氏『母性社会日本の病理』から)の被害者。さきにあげた例で、中川久定氏が山口昌男氏のインチキを暴露したさい、のちに「山口氏が非を認めたから」という理由で、実は本当の釈明を山口氏がしていないのに、それ以上の追及をやめてしまったり、暴露の引用を希望されなかったのも、「場の倫理」によるものではなかろうか。再び山口氏の例が出たついでにいえば、故・中野好夫氏(これはホンモノ知識人だと私は思う)も山口昌男氏のインチキ性をかねてから話題にしていたそうだ。それを直接きいた井川一久氏(朝日新聞編集委員)によれば、たとえば次のような例がある。イタリアの『コメディア=デラルテ』は中世の芸能が近代演劇に移る過程の重要な存在で、中野氏にはこれについての著述もあるが、山口氏が自分の道化論で盛んに使う「コメディア=デラルテ論」はすでに書かれていることの受け売りばかり、しかも芝居が道化的要素を含むなんて常識中の常識であって、これを借りたものだらけの「コラージュ学説」の小道具に使って無知な若者たちを誘惑するのがそもそもインチキだと。シェイクスピア研究者でもある中野氏であればこそこういう批判も可能なのであろうが、それならばなぜ、シロートのためにそれを書いて公表してくれなかったのか。山口氏の関連でその“弟子”中沢新一氏のことにもふれるが、これはさきに書いたとおり「私自身の判断は留保」したままの紹介である。中沢氏はチベットに関連する著作で売りだしたそうだけど、チベット学者・山口瑞鳳氏(名大教授)に私が直接おききしたところでは、あれは大インチキらしい。たとえてみれば「さざなみで乱れた水面にうつる自分の顔をながめ、醜悪な実物とはまるで違ったものなのに、それを実物と思ってウットリしているようなもの」だという。要するに何の内容もないことをなんとなく難しく言っているだけだとも。もともとの原典なり思想なりを正しく理解していないのに、その中の言葉だけ借りてくると、まるで違った概念になってしまう。そんな概念でいろいろ理屈をこねたところで、何のことだかわけがわからなくなるのはむしろ当然、自分が酔っているだけのことになる。「日本には昔からこういう研究者が多いんですね。自分の言葉ではなくて他人の言葉で論文を書いているから、もとの他人の概念内容と違ってしまい、話がトンチンカンの噴飯ものにならざるをえないのです」そんなインチキで売りだした中沢氏が、かの「西部問題」(いわゆる“東大問題”)で騒ぎの中心になり、新聞も週刊誌も狂ったように(しかも多くは中沢氏の側から)書くので、見るに見かねた瑞鳳氏は「あんなものを天真爛漫に信じてよろしいのですか?」というつもりで一文を草し、『朝日新聞』と『読売新聞』に送った。ところが「やや専門的すぎるので」という理由でどちらもボツにされたという。中沢氏を支持するにせよしないにせよ、当の作品そのものについて誰も穿鑿しないでおいてなぜ議論が可能なのか、と山口瑞鳳氏はこの国の「知」の光景をふじぎがるのである。出版社にせよ新聞社にせよ、せめてその道の専門家の見解を問うくらいのことをなぜしなかったのか、とこれは私もそう思う。内容が「やや専門的」すぎたら書きなおしてもらうとか、インタビューにするとかの努力もできよう。そこで私は、そのボツにされた原稿を拝見したいと申し出たが、もう捨ててしまったと山口教授はいわれた。ではインタビューしてこの頁でのせたいとお願いしたが、もう興味がなくなったし、つまらぬことだから忘れたいとのことである。ただ山口教授は、東大出版会の広報月刊誌『UP』の8月号と9月号で「チベット古派密教と『性喩伽』」と題する論文を書き、これは中沢氏を直接批判してはいないが、中沢氏のものを読んで比べてみれば、分る人には分るという。ついでながら前述の井川一久氏にもお願いしたいことがある。カンボジア問題の専門記者としての井川氏によると、中沢氏がカンボジアについて発言している内容もメチャクチャなインチキだそうだ。ならば、それをシロートにも分るように発表してくれまいか。サルトルは今どき「はやらぬ」らしいが、彼の言ったことがウソだったのだろうか。はやっては日本型「知」の風景に不都合だからか。サルトルが東京と京都で講演した「知識人の擁護」(サルトル全集の『シチュアシオンVIII』人文書院)は、ちっとも「古く」なっていないどころか、今の日本にはむしろますます新鮮味をおびてきたように思われるのだ。“知識”だけあっても勇気も論理性もない人間は「知識人」とはいえまい。必然的にそれは「にせの知識人」以前、いわばインチキにせ知識人であろうか。コメディア=デラルテには「えせ学者」が登場するようだが。山口瑞鳳氏によれば「チベット古派は民衆の無知につけこんで金もうけする」と、チベットのホンモノ知識人がなじっていたという。日本のホンモノ知識人もチベットのホンモノ知識人に学んで下さい(『朝日ジャーナル』1988年8月26日号)
ベンダサン氏の「大ベストセラー」
以外でも著作集(「旧約聖書」「ユダヤ」「日本教徒」なる不可解な’創造・妄想?はじめ『私の中の日本軍』)は各冊「100万部」平均という驚異的な大ヒット名作を連発させる好調ぶりを貫いた(1991年に病死)。その「殊勲」(敢闘)ぶりが讃えられ「山本七平賞」(PHP研究所)が「新設」されたほどである。ベンダサン氏が「審査員」を歴任した「ノンフィクション賞」(株式会社文藝春秋)・・・その「大宅壮一賞」という栄えある大勝まで強奪したベンダサン氏の順風円満は「本多氏」との論争破綻後も終生かわらなかった(たいしたものだ)。その「大宅」何某に圧倒的票数で「優勝」を果たしたベンダサン氏きっての代表作『日本人とユダヤ人』(初版山本書店+株式会社文藝春秋)について、反証『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫・84年)という本がある。ベンダサン氏のような怪しげな自称(詐称?)「ユダヤ人」と異なり旧約聖書学・古代イスラエル宗教史を専攻する浅見定雄博士(マサチューセッツ工科大学博士号(キリスト教徒)・その時点では東北学院大学助教授・滞米20年以上)の一節を引用すればベンダサン氏の「正体」(’何かをかぶって正体を隠し’ている・・・?)
にせ「ユダヤ人」への序文:(サム・2017年1月26日)
かつてベンダサン氏の『日本人とユダヤ人』だけでなく、本多氏との「論争」関連も「英語」版(ベンダサン氏の本の表紙に本多氏の名前が出ていたのを覚えている)で読んだ体験を持つ筆者の簡単な概略で先陣を飾ることにしよう(浅見先生の本を読めば「抱腹絶倒」間違いなし)。第一節だかでは、60年代後半のマンハッタン、一等地にある超高級ホテル「アリストラル」(英語版ではなぜか省かれていたが・・・)で敗戦でとだえた日米貿易再開の初陣を飾る商社マンN氏は不思議な光景を目にする。数人の「ユダヤ」老人たちの「コミュニティー」がその建物にあるというのだ(New York=Jew York)。奇妙に思ったN氏が理由をたずねたところ、なるほどとうなずかせる返答がかえってきたようだ。それは「安全のため」であり、「秘密警察・特殊部隊」と「連邦警察特捜部」などが常時警戒し「大統領」取り巻きや「国家迎賓」、おまけに「有名人・著名人」などが広く利用するきってのホテルらしい。加えて当時のニューヨークは電車の中で「日本人」だとばれると「殴り殺され」かねないほどの物騒さだった。でも奇怪な様相が浮かび上がってくる。それは「英語」版ではいままでのがすべて「削除」(何の注釈もなく)されていた(英語版(こんな「ユダヤ老人」なんてのもお出ましにならない)には「ドア警備員」がいて守ってくれるとなっていたが果たして・・・さらにその「N氏」などというのは以来2度と出てこなかった(もっとも「日本語版」ではずいぶん後に突如、どこか片田舎の「ホステル」にチェックインするところで再び出現した)。こともあろうにそのホステル店主?だかが→N氏に向かって「ユダヤ人はにおいでわかる」(すなわち「お断り」(門前払い)の堂々たる口実?)と諭したそう)。けど不思議にも「英語」でそんなのはどこにも書いてなかった(~_~; だんだんいつもの「ええかげん」においがプンプンしてきたね(嘲笑)。ちなみに英語版は「料金は3倍」近いのに全体でなぜか「2章」少なかったとか。日本人7に対しユダヤは3の割合でしか綴られておらず。あーどうにもならんバカさ加減・・・こんなん「ベストセラー」はともあれ「正体」が見破られても「華麗な筆力」を持つ異才として「名誉賞」までが設置される「先進国」(悠々と長寿(’長男’(40代)をともないモスクワ「赤の広場」に出没し、レーニン廟周辺をうろつきまわるほど雄大広範な「歴訪」ぶりを誇示していた)をまっとうし逝ってしまわれた)しかも経済力世界「3位」を誇る国のことだ)はおそらく世界で日本だけだろう。それに登場するユダヤ人たちのほとんどが「現代ユダヤ人」ではなく「律法学者」「神学者」「流浪の遊牧民」で「旧約聖書」(山本書店発行)関連を出典の基礎としていた。アメリカ人読者(記者)の感想ではそれらのユダヤ人はテルアビブ・ロンドン・ニューヨークの街頭でひとりとしてお目にかかれる人物ではないそうだ。ちょっとどふざけたデタラメ「誉め殺し」(誇張表現つき)でやりました(そーでもしねえと「小学生」以下(ひねくれて年食ってる分、余計にタチが悪い)。浅見教授に任せたい↓ 

自称「エストニア系ユダヤ人」の正体:
(ハロルド・ロバート・アイザックス教授Professor Harold Robert Isaacs の感想=終わりの方だけ発見)・・・に近いことにふれる時には、それはまことに一般的な性質のもので、かみつきもない代りに薬味も大した中味もない。もし「ベンダサン」氏が実際にユダヤ人だとするならば、彼はかの横井庄一(ドイツ語→Yokoi Shōichi (jap. 横井 庄一Сёити Ёкои;(元陸軍(下士官)軍曹・愛知県出身) * 31. März 1915; † 22. September 1997) war ein Angehöriger der Kaiserlich Japanischen Armee, der als Holdout die Jahre zwischen 1944 und 1972 im Dschungel von Guam verbrachte)と同じように、その人生の大部分をどこかの洞窟でただひとり暮して来たユダヤ人である。ただしこの「ベンダサン洞窟」には、明らかに「聖書」と、それからユダヤ人に関する聖書時代および聖書後時代の文献はたくさん蓄えられていて、彼はたしかにそれを注意深く研究したのである(浅見注・「注意深」いかどうか、私の批評を思い起こしていただきたい)。彼の洞窟にはまたーこれも明らかなことだがー日本人関係の文献はもっとたくさん蓄えられており、もっとよく利用されている。彼はこの日本人の方を、ユダヤ人よりはるかに詳細に論じているー通常ユダヤ人については2-3頁なのに対し、日本人については10-15頁の割合である(浅見注・ユダヤ人関係のウソは英訳ではすぐバレるので削ってしまったため)。私はあえてこうつけ加えたいのだが、日本人を扱う際のベンダサン氏には一種の文献趣味があって、それは彼がユダヤ人を扱う際の無知とほぼ同じぐらい大きい。彼のユダヤ人は、しばしば今なお遊牧民であって、それと比較される日本人がまた、どちらかというと移動のない田園の農民たちや貴族や学者ばかりである。また日本人について書くとき彼は、(過去の)歴史には実によく言及するが、忙しく鼓動し変わり行く現代日本の日常生活には、奇妙なほど少ししか言及しない。「ベンダサン」氏がもっと現代に近いユダヤ人の経験にふれる場合には、そのユダヤ人は時に突如現実味の欠けた感じでわれわれを立ち往生させてしまう。ナチスのユダヤ人虐殺に関する彼の言及は、奇妙にも動物および動物屠殺に関する章の中でなされており、しかもユダヤ人が書いたとは想像もしがたい不快な文章の中でなされている。ユダヤ人と日本人を比較するというアイディアは刺戟的なものであり、社会と文化の異なる様式について数々の新鮮な考察をうながしてくれる。過去の時代と歴史の中から引き出された「ベンダサン」氏の比較は、それ自体としてはしばしば興味深い。しかし明らかなのは、もしこのような比較が、今日ありとあらゆる激動を経験しつつあるこの時代の、二種の生きた民族の間で行われたとしたら、もっとどんなに面白かっただろうということである。「ベンダサン」氏はもはや日本には住んでいないそうである。彼の本をめぐる多くのことは、もしや彼が、横井庄一氏とちがってその洞窟からーそれがどこにあったにせよーそもそも一度たりとも出て来たことはないのではないか(つまり実在しなかったのではないか)といぶかせるのである(148-49頁、訳・浅見定雄)。
・・・この章の恐るべき無知と偏見は、42頁以下のナチによるユダヤ人大虐殺の説明で極まる。通常の神経なら読むに耐えない文章だが、七平さんが認めない南京大虐殺の真相と同じで、私たちとしては、つらくても直視する義務がある。省略なしに引用しようー「口蹄病という病気がある。これがひとたび浸入すると家畜は全滅するから、この病気にかかった家畜はすぐ殺して焼き捨てねばならない。最近イギリスでは30万頭の家畜が焼き捨てられた。ともすれば、もしヒト家畜の中に、奇妙な「思想」というヴィールスをもった家畜がいると思われた(または誤認された)場合どうなるか。その伝染を防ぐためにヒト家畜がいると思われた(または誤認された)場合はどうなるか。その伝染を防ぐためヒト家畜を全部焼き捨てるのが当然の措置であろう。これから先は、’ユダヤ人である私’には、書くのが苦痛だがアウシュヴィッツとはまさにそういうものであった。だから、ユダヤ人という、伝染病にかかった家畜は殺されて焼かれた。そして家畜だから、当然のことに、その骨は肥料にされ、その髪は何かの原料にされ、その他、利用するものはすべて利用され、その上、遺族には屠殺料が請求された。これは、いわゆる「残虐行為」ではない。確かに戦争中の日本軍にも残虐行為があった。しかし日本人が殺した相手はあくまでも「敵」であったし、少なくとも「敵」と誤認された「人間」であった。伝染病にかかった家畜のように、是非善悪でなくその存在自体がよろしくない、というのではなかった。たとえ日本刀で捕虜の首を切ることはあっても、高能率の屠殺機械を作り、屍体を何らかの原料にするなどとは、日本人には到底考えも及ばないことであった」(イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』42-43頁)そしてこのあとに、こういう思考のもとになる考えはユダヤ人にもあるという、これまた恐ろしい言葉が、何の痛みもなく得意げに書かれている。「ユダヤ人である私」が、よくもこれだけ鈍感な文章を書けるものである。’ほんとうの’ユダヤ人の痛みが想像もできないこのような人(七平さん)が「ユダヤ人」論の大家として通用する日本とは、いったいどういう国なのだろう。ついでながら、私の考えではこの本の英訳者であるリチャード・L・ゲイジという人もユダヤ人ではないようだ。今までにも何回か紹介したとおり、ゲイジ氏も「アメリカ人」の常識でおかしいと思うところはほとんど省き、あるいは勝手に書きかえている。ところがその彼も、ここではつい悪乗りした。ほぼ日本語訳原書どおりに英訳してしまったのである。それを読んだマサチューセッツ工科大学のユダヤ人教授ハロルド・R・アイザックス氏は、その時の驚きと悲しみを、控え目な表現ではあるが次のように記している。「ナチスのユダヤ人虐殺に関する彼の言及は、奇妙にも動物および動物屠殺に関する章の中でなされており、’しかもユダヤ人が書いたとは想像もしがたい不快な文章の中でなされている’」(傍点は筆者「付録」も参照)。ヒトラーが牧畜民の出だとは聞いたこともないが、そもそも牧畜民ならばなぜ’人間’を家畜と考えるのだろう。ヒトラーの『わが闘争』(マイン・カンダ)にさえそんなことは書いていない。この論法でいけば、日本人は、場合によってはイモチ病にかかった稲のように、人間を平気で焼き尽くす民族なのであろう。なるほど、それで日本軍が中国でおこなった「三光作戦」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)は理解できる。相手を「家畜」と思ってやったのだから無理はないというのもひどい話であるが、しかし「敵」と思ってやれば残虐行為ではないのか。「丸太」と思ってやれば残虐行為ではないのか。「たとえ日本刀で捕虜の首を切ることはあっても」、なおそれは残虐行為ではないのか。日本兵は中国人の「屍体」の皮をはいで日本刀のカバーを作らなかったか。以上、これが名著『日本人とユダヤ人』の第2章である(浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫・1984年、40頁)。"There is a disease called foot-and-mouth disease. Once it invades, the livestock will be wiped out, so the livestock with this disease must be killed and burned immediately. Recently, 300,000 livestock have been killed in the UK. It was burned down. What if it was thought (or misidentified) that some human livestock had a strange "idea" illness? What if human livestock were thought to be (or misidentified) to prevent the transmission? It would be natural to burn all human livestock to prevent the transmission. From now on,' I am a Jew' It's painful to write, but Auschwitz was exactly like that. Therefore, Jews, livestock with infectious diseases, were killed and burned. And since it is a domestic animal, of course, its bones were used as fertilizer, its hair was used as a raw material for something, everything else was used, and the bereaved family was charged a slaughter fee. This is not a so-called "brutality". Certainly, the Japanese army during the war also had atrocities. However, the opponent killed by the Japanese was just an "enemy", or at least a "human" who was mistaken for an "enemy". It was not that, like livestock with infectious diseases, it was not good or evil and its existence itself was not good. Even if a Japanese sword could be used to decapitate a prisoner of war, it was completely unthinkable for the Japanese to make a highly efficient slaughter machine and use the corpse as a raw material. "(Isaiah Ben-Dasan, "The Japanese and the Jews", pp. 42-43) Harold R. Isaacs, a Jewish professor at the Massachusetts Institute of Technology, described the surprise and sadness at that time, albeit in a conservative manner, as follows. "His reference to the Nazi slaughter of Jews is strangely made in the chapter on animals and animal slaughter, 'moreover, it is written in an unpleasant sentence that is hard to imagine written by the Jews' "(Sadao Asami, 'Fake Jews and Japanese' , p. 40, the emphasis marks by the author and see also the author's" Appendix "). 

Kadokawa one Theme 21 The Japanese and the Jews Shichihei Yamamoto [Author] 2004「Isaiah Ben-Dasanいざや、便出さん」は何処へ?
instructions: An outstanding Japanese theory developed from a unique perspective of comparison with Jews. Jews who get insurance at a high cost, Japanese who take safety and water for free. A Jew who keeps secrets, a Japanese who speaks "as if he broke green bamboo" and "without a stomachache". The author points out that Jews are children who are thrown naked on the road, while Japanese are spoiled babies. It thoroughly considers why Jews have been persecuted, and warns that persecution from the international community may occur in Japan after the death of the "empire" of the United States. Based on his own experience of war, Shichihei Yamamoto has a deep historical view of eastern and western classics and religions, and is the gold standard of Japanese theory.

*「卑しい感じがした。本を書くときに一流ホテルにカンヅメを要求し、何人も客を呼んで飲み食いしたカネも払わせるので往生したというセコイ話を、幾人かの編集者から聞いた。これが山本七平にとっての"常識"だったのだろうJe me suis senti humilié. J'ai entendu plusieurs éditeurs dire que lorsqu'il écrivait un livre, il exigeait de séjourner dans un hôtel de première classe et qu'ils étaient frustrés parce qu'il invitait des invités et leur faisait payer leur nourriture et leurs boissons. Cela devait être du « bon sens » pour Shichihei Yamamoto.」(佐高信Makoto Sataka氏の毒舌sharp tongue・92年3月)

①The Japanese and the Jews(『日本人とユダヤ人』), translated by Richard L. Gage, New York(リチャード・ゲイジ氏による英訳・ニューヨーク), Weatherhill. Benveniste, Emil (1960), “Etre et avoir dan leurs fonctions linguistiques', Bulletin de la Société Linguistique de Paris, 55; 113–34. (Also in Problèmes de linguistique générale(同じく、言語学の一般的な問題), Paris(パリ)ドイツ語→..Nicola Caracciolo, ‎Florette Rechnitz Koffler, ‎Richard Koffler - 1995 - 英語⇒‎History(歴史) Jewish Social Studies(ユダヤ社会研究) 37 (January 1975=1975年1月): 3-17. Lyman, S., "Nihonism and Judaism — A Dissent."(”日本(教)主義とユダヤ(教)主義ー異なる宗教上の意見(相違(不同意)反対”) Midstream 19 (June-July 1973): 75-80. [A review essay on Isaiah Ben-Dasan(いざや、便出さん再調査の小論文?), pseud(匿名(偽名)., The Japanese and the Jews.) Michaelis, M. "On the Jewish ..フランス語→. Actes et documents du Saint Siege relatifs a la Seconde Guerre Mondiale(第二次世界大戦). 1 1 vols. Vatican City: Editrice Libreria Vaticana(自由バチカン)英語⇒‎History(歴史) Rethinking Japan(日本再思考): Social sciences(社会科学), ideology(観念形態) & thought(思想(考え) BIBLIOGRAPHY(参考文献) BenDasan, Isaiah(いざや、便出さん), 1970, Nihonjin to Yudayajin (「日本人とユダヤ人」(1970年)⇒The Japanese and the Jews), Yamamoto Shoten(山本書店). Houghton Mifflin. 1948, Kiku to Katana (『菊と日本刀』鵜野晋太郎氏著(元(陸軍中尉)B級戦犯による49人斬りの詳細も含む)⇒Chrysanthemum(菊) and(と) the Sword(刀), Shakai Shisoosha(社会思想社). Doi, Takeo, 1971, Amae no Kozo (甘えの構造⇒Anatomy(解剖学) of Dependence(依存の解剖学), Kobundo. Dale, Peter, 1986, Myth of Japan's Uniqueness(日本の特色についての神話), St Martin's Press. Hazama, Hiroshi, 1971, Nihon-teki Keiei (日本的経営)Management, Japanese Style), [The Law Consciousness of Japanese](「日本人の法律意識(自覚)」)37 Isaiah Ben Dasan "The Legal Awareness of Japanese" (いざや、便出さん「日本人の法律(正当)自覚(配慮)」)translated into Japanese by H Yamamoto⇒原文は英語?日本語(和・邦)訳山本七平) in Koza. Hikakubunka (比較文化⇒Anthology of Comparative Culture) vol 7
②ハロルド・R・アイザックス教授著(ドイツ語→Harold Robert Isaacs (* 13. September[1] 1910 in New York City; † 9. Juli 1986 in Boston) war ein US-amerikanischer Journalist und Politikwissenschaftler)Wartime Shanghai and the Jewish Refugees from Central Europe:(戦中の上海と中央欧州出身ユダヤ人難民) The delegation was composed of well-known(代表たちは著名人によって形成(構成)⇒) intellectuals(知識人), writers(作(著述)家), journalists(報道記者), and scholars(学(研究)者), among them the only Jew, 23-year old Harold R. Isaacs (その中にただ一人のユダヤ人は23歳のハロルド・R・アイザックス氏)1910–1985). Aware, no doubt, that he was ... a contemplated boycott.” Germany's East Asian Politics between China and Japan (ドイツによる中日間の東アジア政策)There is of course a contradiction between the Nazi Party's eventual attempts at forcing Jewish emigration, to be discussed below(ここには下で議論したナチス党による最終的なユダヤ人強制移住の矛盾がある), and (及び)the Foreign Office's concern about the emigrants' anti-German sentiments(外務省は移民たちの反ドイツ感情を憂慮).2、Jewish Wayfarers in Modern China(ユダヤ人の中国徒歩旅行(短期宿泊): Tragedy and Splendor(悲劇と壮麗(豪華さ)

①ロシアにおける反ユダヤポグロム⇒ロシア語=Еврейские погромы в России (ポグロム)— массовые насильственные акции по отношению к евреям как национальному и религиозному меньшинству. Погромы[1] являются одним из типичных проявлений антисемитизма. Еврейские погромы в различное время прокатились по многим странам, в которых жили евреи. Как пишет Краткая еврейская энциклопедия, объясняя происхождение слова «погром», в новой истории особенное распространение погромы получили в России в XIX—начале XX веков. Именно в связи с массовыми погромами в России русское слово «погром» вошло в большинство европейских языков. スペイン語⇒反ユダヤポグロム= pogromo (del ruso (ロシア語⇒погром, pogrom: «devastación(破壊)») consiste en el linchamiento multitudinario(多数でリンチ(暴行), espontáneo o premeditado(前もって計画された), de un grupo particular(特定の集団), étnico(民族(人種), religioso(宗教(信仰) u otro, acompañado de la destrucción(破壊(絶滅)を伴う) o el expolio de sus bienes (casas(住宅), tiendas(商店街), centros religiosos(宗教的施設), etcétera(などなど). El término ha sido usado para denotar actos de violencia sobre todo contra los judíos(ユダヤ人に対する暴力(襲撃), aunque también se ha aplicado para otros grupos(集団), como es el caso del linchamiento polaco contra las minorías étnicas (少数民族に向けた私刑(リンチ)alemanes(ドイツ人) y ucranianos(ウクライナ人) en Galitzia(ガリツア=スペイン内の自治州). ドイツ語→Etymologie(語源学(研究) Der Begriff Pogrom(ポグロム) stammt von dem russischen погром (ロシア語のポグロム)[pɐˈgrom] und bedeutet „Verwüstung“, „Zerstörung“, „Krawall“ bzw. wörtlich: „nach dem Donner“, denn das zugehörige Verb(動詞) ist громить [grɐˈmʲitʲ] für „demolieren(破壊(粉砕)“, „zerstören“, herrührend von dem Substantiv гром (grom „Donner“) und по (po „nach“, „hinterher“)] Er ist im Zusammenhang mit Übergriffen auf Juden im Russland der 1880(1880年代のロシアにおけるユダヤ人襲撃(虐殺)er Jahre aufgekommen. 
②戦中における上海のユダヤ難民(貧民街)ゲットー)スウェーデン語⇒Shanghais getto var ett drygt 2,5 km2 stort getto i Shanghai(上海) som fanns under andra världskriget. Gettot (ゲットー(スラム)upprättades för statslösa flyktingar(無国籍難民) i nuvarande Hongkou(虹口江)- och Yangpu-distrikten(地区), vilket var en del av Shanghai som ockuperades av kejsardömet Japan(日本軍による上海占領). Till Shanghai flydde cirka 20 000 judiska flyktingar(上海には2万人のユダヤ人難民), från Nazityskland(ナチスドイツ), Österrike(オーストリア(墺), Tjeckoslovakien(チェコスロバキア), Ungern(ハンガリー), Rumänien(ルーマニア), Polen(ポーランド) och Litauen (リトアニア)både före och under andra världskriget. Flyktingarna(難民たち) fick bo i de fattigaste och mest trångbebodda delarna av staden. Närboende judiska(地元ユダヤ住民) familjer och amerikansk-judiska(ユダヤ系アメリカ人) välgörenhetsorganisationer hjälpte(助けた(救済) dem med husrum, mat och kläder.[1] De japanska myndigheterna intensifierade (日本当局による取り締まり?強化)
③フランス語→アウシュヴィッツ強制収容所=Auschwitz (en allemand(ドイツ語→) : Konzentrationslager Auschwitz Écouter, フランス語→« camp de concentration d'Auschwitz »(強制収容所) est le plus grand complexe concentrationnaire (最大濃(限)度(できるかぎり)集中させた?)du Troisième Reich(第三帝国), à la fois camp de concentration et d'extermination(絶滅収容所). Il est situé à une cinquantaine de kilomètres à l'ouest de Cracovie(クラコフから西へ50キロ), sur le territoire (領土)des localités (地域)d'Oświęcim(オシフィエンチム =ポーランド南部の都市)(Auschwitz(アウシュビッツ en(←ドイツ語 allemand) et de Brzezinka (ブジェジンカBirkenau(アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所) en allemand annexées au Reich (ドイツ第三帝国に併合⇒province(州) de Silésie) après l'invasion de la Pologne en septembre 1939(1939年9月、ドイツ軍ポーランドへ侵攻)Le camp de concentration, dirigé par les SS, est créé le 27 avril 1940 à l'initiative de Heinrich Himmler(1940年4月27日、親衛隊長ハインリヒ・ヒムラーが強制収容所担当(責任者)に就任)1 ; il est complété par un camp d’extermination (ヒムラーは収容所での撲滅(駆除=ユダヤ人虐殺)完了)dont la construction démarre à fin 1941(1941年の終りに建設された) et (さらに)par un second camp de concentration(第2次強制収容所) destiné au travail forcé (強制労働の運命(créé au printemps 1942). Ces camps sont libérés par l'Armée rouge le 27 janvier 1945(1945年1月27日、赤軍(ソ連軍)により解放された)

Shinichi Nakazawa declares that he will say goodbye to the Venerable Master today 1995①Masao Yamaguchi (山口昌男, Yamaguchi Masao?, nascido em 1931) é um antropólogo japonês②中沢 新一(1950年5月28日 - )は、日本の人類学者、思想家、宗教学者Shinichi Nakazawa (born May 28, 1950) is a Japanese anthropologist, philosopher, and religious scholar。元中央大学総合政策学部教授。明治大学特任教授/野生の科学研究所所長。多摩美術大学美術学部芸術学科客員教授。中沢は宗教学の立場から新宗教についても論じ、1980年代の末に、自身のチベット仏教の研究からも影響をうけているオウム真理教に関心を示し、発言をしていた。1995年(平成7年)地下鉄サリン事件など一連の事件がオウム真理教による組織的犯行であることが発覚すると、中沢も批判の対象とされた。事件後の1992年には、中沢は朝日新聞において、麻原Asaharaとは2回対談したが「彼は一種の天才的な直観力を持っており、密教の実践については並みの学者より深く正確だったHe(Asahara) possessed a kind of genius intuition, and his knowledge of the practice of esoteric Buddhism was deeper and more accurate than the average scholar」と評した。1993年7月には、青土社の雑誌「imago」の特集号として「オウム真理教の深層」を責任編集し、自身は、河合隼雄と元信者である高橋英利との鼎談、同じくオウム事件に関して批判を集めていた博物学者の荒俣宏、人類学者で信者だった坂元新之輔の両者との対談、クンダリニー・ヨーガを軸に宗教としてのオウムをとらえた論考「『尊師』のニヒリズムThe nihilism of “The Venerable Master”」を寄稿している。1995年5月、雑誌週刊プレイボーイに「オウム信者への手紙」を発表。 以上のように、事件直後には教団に関して多くの発言を残したが、その後は積極的な発言はおこなっていない③『週刊ポスト』1989年12月8日号の中沢自身のインタビュー「オウム真理教のどこが悪いのか」では「僕が実際に麻原さんに会った印象でも、彼はウソをついている人じゃないと思った。むしろいまの日本で宗教をやっている人の中で、稀にみる素直な人なんじゃないかな。子供みたいというか、恐ろしいほど捨て身な楽天家の印象ですね」と麻原を持ち上げる自身の談話が掲載されたIn the December 8, 1989 issue of Weekly Post, Nakazawa himself said in an interview titled "What's Wrong with Aum Shinrikyo?'' "Even when I actually met Mr. Asahara, I didn't think he was a liar.'' In fact, I think he is one of the rare honest people among people who practice religion in Japan today.He seems like a child, or rather, he gives the impression of a frighteningly selfless optimist,'' his own statement promoting Asahara was published.かつて文藝春秋社の社長を務めていた松井清人は自身の記事で「一連の事件で麻原が逮捕されたあと、島田裕巳氏のように過ちを認め、自分なりに総括を行った学者もいる。だが中沢氏には、反省のかけらもないようだ」と中沢を非難しているKiyoto Matsui, who was once the president of Bungeishunjusha, wrote in his article, "After Asahara was arrested for the series of incidents, some scholars, like Hiromi Shimada, acknowledged their mistakes and summarized the matter in their own way. However, Mr. Nakazawa does not seem to have the slightest remorse.'' blames Nakazawa.

①フランス語→Zuiho Yamaguchi (山口 瑞鳳, Yamaguchi Zuihō?), né le 21 février 1926, est un tibétologue et bouddhologue japonais. オランダ語⇒Zuiho Yamaguchi (21 februari 1926) is een Japans tibetoloog en boeddholoog. Hij is anno 2009 emeritus professor aan de Universiteit van Tokio②ニンマ派は、チベット仏教四大宗派における最古の流れの呼び名である。正式には「ンガギュル・ニンマパ(旧訳古派)」といい、9世紀まで続いた古代吐蕃時代に翻訳された古タントラに依拠する古い宗派であることを意味する。他の三宗派と同じように声聞独覚乗(狭義の小乗)・菩薩乗(大乗)・秘密真言乗(金剛乗)の三乗を併修することを説く。スペイン語⇒Nyingma es una tradición del budismo tibetano. Fue fundada en el siglo VIII de nuestra era con el legado de los primeros introductores del budismo en el Tíbet y se afianzó en el siglo X. 







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