日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【株式会社文藝春秋Kabushiki-gaisha Bungeishunjū】日本における「教授」Shōichi Watanabe渡部 昇一ultranationalist historical negationism「有識者」大量篡改Masaaki Tanaka田中 正明 『"南京虐殺"の虚構La Fabrication du massacre de Nankin』《自称「ユダヤ人」著『私の中の日本軍』》

「学者」について学者たちに問う 本多勝一(『潮』1987年9月号~11月号)
たとえば、ノトルニスとかダチョウとかいう鳥は飛ぶことができないから、従って「鳥は一般に飛ばない」と結論したり(注1)、ドイツにスリやカッパライなどが少ないことの原因を、ナチ政権下での「劣悪な遺伝子」所有者の虐殺と結びつけたり(注2)するのは、きわめて初歩的なレベルでの論理性に欠如しています。これは’倫理的’にどうのということではなく、あくまで事実としてのひどい誤りであり、馬鹿馬鹿しい’欠陥’論理であり、小学生以下の「程度」といえましょう。議論以前の話です。しかし、そういうメチャクチャな雑文を書く人が、実は文科系の「学者」であり、しかも言語学にも関係し、専門は「英語学」として月刊誌『言語』などにもよく登場するとなると、次のように考えざるをえません。
①雑文は小学生以下だが、専門の論文を書くと第一級である。
②専門の論文も、実は雑文と同じように欠陥品だらけである。
右のどちらかであって、中間の道はないでしょう。たとえば数学の天才が文章はヘタクソで論理的にもおかしい、といったことはありうるでしょうが、文科系の学者で右のようなことが具体的にあるものなのでしょうか。私は「英語学」などの専門分野とは無縁でよく知りませんゆえ、どなたかに教えていただきたいと思うのです。問題の学者は実は渡部昇一氏(上智大学教授)であります。右の二つのうち、②であれば「さもありなん」と思うだけですが①だとすると、なぜそういうことになるのか、その背景・原因をぜひお教え願いたいものです。以上は一般論として問いかけたものですが、以下に渡部氏のひどい一例について詳細を検討した結果を紹介しますゆえ、右の問いかけについて考えるための一資料としていただきたいと存じます。まず渡部氏の原文を引用しましょう。これは田中正明著『”南京虐殺”の虚構』(日本教文社)という本の序文にあたるものを渡部氏が執筆した一文で、南京では虐殺など全然なかったと主張しています。もちろんその根拠が正しければ大いに傾聴するのですが、たとえば「”南京大虐殺”が「まぼろし」であったことは、すでに何年も前に鈴木明氏によって入念に調べられている」というような記述が出てきます。しかし鈴木明氏の著書『「南京大虐殺」のまぼろし』はそんなことを書いてはいません。結論は「真相はわからない」の小見出しにあるように、要するに「今日に至るもまだ、事件の真相はだれにも知らされていない・・・」であり、「南京大虐殺’は’まぼろし」といった渡部式解釈をむしろ否定しています。鈴木氏の著作にはむろん問題はあるものの、この基本的視点には評価すべきものがあるでしょう。ところが渡部氏は、こんな単純なことを理解できずに、「・・・’の’まぼろし」を「・・・’は’まぼろし」に改竄的歪曲をして右のように書くのです。こういういいかげんさは、文献の引用が重大な役割を果たす「学者の仕事」にとって、実に致命的欠陥ではありませんか。では渡部氏のその原文の中から、直接私を非難・中傷している部分を以下に引用してみましょう。
「東京裁判は勝者のリンチ裁判の趣が強いからやむをえないとして、そんな悪意のある虚構を日本人が先になって外国に宣伝することはないのである。しかし戦後一貫してこの虚構を内外に宣伝し続けた人々がいる。その中でも特に悪質なのは『朝日新聞』であり、その記者の名前をあげれば本多勝一氏である。本多氏は今も(昭和59年5月)『朝日ジャーナル』で南京大虐殺と日本軍の残虐さを書いている。しかしこの本多記者とはいかなる人物であるか、その業績(?)をちょっとふり返って見る価値がある。彼は今から十年ほど前①”百人斬り”をはなばなしく『朝日新聞』に書いた。これについてはイザヤ・ベンダサンなどから批判があって、『諸君!』誌上で何ヶ月かにわたって論争が行われた(筆者は資料を手もとに持っている)。そして②日本刀では百人は絶対斬れないという’物理的に不可能性’の証明が出された上に、”百人斬り競争”をやった二人の青年士官は、別種の命令系統に属しており、戦場でそんな競争などできるわけがないという軍の’制度的な不可能性’も指摘された。③本多勝一氏は沈黙してしまった。しかし④”百人斬り”という悪質なヨタ記事を流しながら、『朝日新聞』も本多勝一記者も何らの反省も示さず、陳謝の言葉ものべなかったと記憶する。戦争中の”百人斬り”のヨタ記事の為に、戦後この士官は中国の法廷で死刑になったというのに。⑤ベトナム戦争における『朝日新聞』と本多記者の言動は殿岡昭郎氏の著作に明らかである。⑥何十万人の難民が出ても、『朝日新聞』も本多記者も、自分の北ベトナム観について反省の言動が全くない。⑦”百人斬り”もベトナム難民も、客観的に判断できることである。⑧本多勝一氏は客観的に見れば見えるものを見ようとせず、⑨根拠なき悪口雑言を吐き、⑩それがどうしても維持できなくなると沈黙して、別の方面で悪口雑言を書き始めるといったタイプの記者であるようだ。⑪”百人斬り”と同じく、”南京大虐殺”も’物理的に不可能’であり、また’軍制的にも不可能’なことなのである。⑫さすがの本多勝一氏も南京城内での大虐殺を言い立て続けるのは不可能とわかったのか、日本軍が杭州湾に上陸して以来のこととすり替え始めたようである。しかもこれは注目に値する。本多勝一氏すら”南京大虐殺”のありえざることを陰湿な形であれ認めはじめたことを意味するからだ。⑬しかし本多勝一氏とその”南京大虐殺”というヨタ記事を書き続けさせる『朝日新聞』の態度は、当時の日本軍将兵、日本人一般、更にこれから生まれてくるわれわれの子供に対して犯罪的である。⑭「日本の新聞記者によれば・・・」という肖尚前の言葉ではじまった教科書問題はまだ記憶に新しい。そして火のないところから煙が立って、日本の名誉が国際的に大いに害された。⑮本多勝一氏の”南京大虐殺”の虚構も「日本人もそう書いているではないか」という風にして、われわれやわれわれの子孫に祟ってくるのではないか。⑯その時、本多勝一氏も『朝日新聞』も自分の嘘の責任は決して取らないであろう。⑰本多勝一氏はかつて「体験者から取材した」と言って”百人斬り”のインチキを書いた。今回の”大虐殺”も同じ’テ’なのである。日本人はいつまでこの種の根拠なき誹謗に耐えなければいけないのだろうか。⑱幸いにも田中正明先生は”南京大虐殺”の物理的または制度的不可能性を証明する根拠を提示する本を出された。⑲本多勝一氏をはじめとする「大虐殺派」は、先ずこの本の一つ一つについての反論からはじめるべきではあるまいか。⑳反論できなかったら、少し冷静にまた客観的に考えてみることだ。
右の引用文の番号(①~⑳)は、そのことごとくが事実に反する事項なので、いちいちについて以下にくわしく反証を示すためにつけたものです。①「彼(本多をさす)は今から十年ほど前”百人斬り”をはなばなしく『朝日新聞』に(書いた)と渡部氏。だが百人斬り競争について「はなばなしく」書いたのは数十年前(1937年12月)の『毎日新聞』である。また1971年に私が『中国の旅』を『朝日新聞』に四〇回連載したとき、その第二三回目の紙面でこの事件についてふれたことがあるが、その回のなかで原稿用紙にすればわずか一枚ほど(383字)にすぎず、それも中国側の発言を要約しただけであって、「はなばなしく」などといった類のものとは全く異なる。これに対して、今では書くものの全頁にウソが充満していることで知られる’にせ’ユダヤ人・イザヤ・ベンダサン氏が論争をいどんできたが、その結果は拙著『殺す側の論理』(朝日文庫)にすべて収録されている。(渡部氏はこれらを読んだのだろうか。「資料を手もとに持っている」とわざわざ注記しているのだから読んだと思うが、そうであれば日本語の読解能力がないのであろう。日本語の読解能力のない人物が言語学等の「学者」になれるものなのか、このあたりを学者たちに問いたいのである。)②「日本刀で百人は絶対に斬れないという’物理的に不可能性’の証明が出された上に、”百人斬り競争”をやった二人の青年士官は、別種の命令系統に・・・軍の’制度的な不可能性’も指摘された」と渡部氏。詳細は右の『殺す側の論理』や、私の編集した『ペンの陰謀』(潮出版社・1977年)にゆずるが、要するに「不可能性の証明」などはついにできなかったのだ。そればかりか、斬ったのは戦闘中ではなく、捕虜などを並べての「すえもの斬り」だったらしいこともわかってきた。最近の拙文『南京への道』(『朝日ジャーナル』連載、のちに単行本)も参考になろう。(こうした文献を一切見ずに虚偽を書くのも「学者」なのか、見ても読解能力がないのか。)③「本多勝一氏は沈黙してしまった」と渡部氏。沈黙したか、しなかったか。これは「渡部昇一氏は学者かアホか」の説明よりもはるかにやさしい。ご自分で調べてごらんなさい。(事実を調べずにこうした一〇〇%の虚偽を平然と書けるのも「学者」なのか、学者たちに問うているのである。)④「”百人斬り”という悪質なヨタ記事を流しながら、『朝日新聞』も本多勝一記者も何らの反省も示さず・・・ヨタ記事の為に、戦後この士官は中国の法廷で死刑になったというのに」と渡部氏。この”学者”には、『朝日新聞』と『毎日新聞』を区別する能力すらないのであろう。(「ヨタ記事」といった渡部氏自身にふさわしい言葉を叫びつづけるヨタ学者のかなしい姿。)⑤「ベトナム戦争における『朝日新聞』と本多記者の言動は殿岡昭郎氏の著書に明らかである」と渡部氏。渡部氏は自分がインチキ人間なので、他のインチキを見破る能力などもちろんない。したがって詐欺師だろうがにせユダヤ人だろうが改竄屋だろうが、自分にとって都合のいいことを書く者ならばどんどん「高く」評価し、引用し、丸ごと認め、その結果として自分のインチキ性に拍車をかけ、今みるごとく身をほろぼしてゆくことになる。にせユダヤ人の嘘八百書『日本人とユダヤ人』を「高く」評価してしまったり、松井大将の原文を大量に改竄したことで知られる「著述家」田中正明氏のこの本『”南京虐殺”の虚構』を高く評価して、それにふさわしく自らも嘘だらけの序文を寄せたりする渡部式生態は、ここで殿岡昭郎というインチキ人間についても繰り返された。殿岡氏が何を書いたのか。その故にいま東京地方裁判所で何が裁かれているのか。渡部氏は知らないのであろう。(もし知っていたとすれば、やはり日本語の読解能力がないと断定せざるをえない。)殿岡氏の著書に「明らか」なのは、殿岡氏自身の犯罪性とインチキ性だけ、それだけであって、それ以外に「明らか」なものは一切ない。(参考までに加えるが、殿岡氏の著書を読み、そこで中傷されている私の著書の原文を読みくらべてみられよ。もし普通に日本語を理解する能力のある人ならば、ことの真相をごくかんたんに知るであろう。殿岡氏らを裁く第一四回法廷は東京地裁で9月1日午後1時半から開かれるので、渡部氏も傍聴されてはいかがであろうか。日本語の法廷だから、必要とあれば通訳を同伴されたい。)⑥「何十万の難民が出ても、『朝日新聞』も本多記者も、自分の北ベトナム観について反省の言動が全くないと渡部氏。この「学者」は、私がどんな「北ベトナム観」をもっているのか、正確に読んだことがあるのだろうか。ともかくこの人物の書くものは間違いやスリかえやいいかげんな言葉だらけで、いちいち注釈していたらきりがないものになる。私の「北ベトナム観」は「南ベトナム観」と切りはなすことはできないし、アメリカ合州国軍のベトナム侵略が正しかったという証明もされたことがない。なぜ「反省」の言動を倭足がしなければならないのか見当もつかぬ。(しかも私が『朝日新聞』を代表するかのような決めつけは、朝日の側にとって大きなめいわくであろう。)⑦「”百人斬り”もベトナム難民も、客観的に判断できることである」と渡部氏。これもまた実にいいかげんな言葉の羅列だが、この「学者」は「客観的」とか「判断」とかいった用語についてまじめに考えたことが1度でもあるのだろうか。これでも文化系の「学者」のはずだが、少なくとも文科系の一応のレベルの大学生であれば、これらの用語についてこれほど本質的に無神経・鈍感・無知・無学・無教養な使い方は、恥ずかしくてできないであろう。(こんな「学者」を相手にして長らく”論争”をされた立花隆氏の嘆息がきこえる。心底から同情申し上げたい。)渡部氏によれば、渡部氏式解釈がすなわち「客観的判断」ということのようだ。こういうことならば一切の裁判は無意味であろう。ベトナム難民について私がどうしたというのか。もし私がなにか虚偽を書いたというのであれば、その事実を正確に、改竄せず「客観的に」指摘すればよろしい。⑧「本多勝一氏は客観的に見れば見えるものを見ようとせず」と渡部氏。前項に同じ。用語の意味もわからぬ人物を相手にする空しさ。こうした人物はどこの国にもいるのだが、日本の悲しいところは、そんな人物をマスコミがいつまでも使っていることであろう。⑨「根拠なき悪口雑言を吐き」とは、渡部氏自身のこの原文を指すのであろう。⑩「それがどうしても維持できなくなると沈黙して、別の方面で悪口雑言・・・」と渡部氏。「沈黙」については前述③のとおり。したがって「別の方面」以外は無意味な虚言。⑪「”百人斬り’と同じく、”南京大虐殺”も’物理的に不可能’であり、また’軍制的にも不可能’なことである」と渡部氏は断言してしまった。学者たちに、渡部氏を「学者」と呼ぶことが可能かどうかをお聞きしたい核心はここにある。これまで多くの右翼評論家や右翼ジャーナリズム(「愛国」を口にして実は世界に恥をさらす人々)が、南京大虐殺を「なかった」ことにすべく努力してきた。すでに沈没してしまったにせユダヤ人(ベンダサンこと山本七平氏)が私のルポを攻撃して以来十余年、株式会社文藝春秋の月刊誌『文藝春秋』や『諸君!』は、田中正明・板倉由明・鈴木明・渡部昇一各氏を次々と起用して私を反復攻撃し、単行本を含めるとそれは約六〇回に及んだ。ひとつの出版社、それもミニコミではない出版社が、一個人の著作をこれほど執拗に攻撃しつづけた例は、世界でも稀有のことではなかろうか。だが、もっと驚くべきは、この長くて執拗な攻撃にもかかわらず、そのすべては空振りに終わり、ついに文春一派が完敗したことである。南京大虐殺は「なかった」どころか、ぬきさしならぬ証拠・証言が続出し、むしろ彼らの攻撃はヤブヘビになってしまった。その結果、たとえば旧陸軍将校の組織「偕行社」さえも虐殺の事実を認めざるをえなくなり、機関誌『偕行』で「中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と謝罪するにいたった。「学者」とされている渡部氏は、当の陸軍将校の組織自身をも根拠なく否定しているのである。南京大虐殺は「存在しなかった」と全否定する田中正明氏を全面支持する渡部氏は、その根拠を生涯かけてでも探しだして示す必要にせまられている。どだい根拠もなしにこうした言説を吐きちらす人物を「学者」の位置におくことは、日本の学者の程度を示すものとして、他の学者たちにとって侮辱ではないのか。⑫「さすがの本多勝一氏も南京城内での大虐殺を言い立て続けるのは不可能とわかったのか、日本軍が杭州湾に上陸して以来のこととすり替え始めたようである。しかしこれは注目に値する。本多勝一氏すら”南京大虐殺”のありえざることを陰湿な形であれ認めはじめたことを意味するのだから」と渡部氏。日本語の読解能力もない言語’学者’は私のルポが読めないのは無理もないとはいえ、その程度がひどすぎるのではないだろうか。私のルポをどう解釈すれば右のような正反対の表現が可能なのか、動物生態学者が観察動物の行動の思考回路をたどるときの気持ちに近いものを感ずる。南京での「アトロシティーズ」(大暴虐事件)は、城壁でかこまれた旧市内でももちろん行われたが、最大の舞台はむしろ城壁外の長江(揚子江)河岸や紫金山周辺だった。このことはいかに非論理の虐殺否定派といえども認めざるをえないであろう。では、南京市の城壁周辺の人口密集地をわずかに離れた郊外でのアトロシティーズ(虐殺・強姦・略奪・暴行等)はどうなのか。どこかに一線をひくことが可能か。ある川なり山なりをもってその境界とする根拠があるだろうか。もしあれば私は自説を撤回しよう。虐殺行為に境界などありはしない。郊外よりさらに離れた農村に疎開していて虐殺された例などいくらでもある。そしてさらに離れた中小都市、たとえば句容だの鎮江だのでもアトロシティーズは行なわれた。すべて連続しているのだ。それは杭州湾や上海郊外までさかのぼってゆき、そのどこにも一線をひくことができない。南京とその途中の唯一のちがいは、南京が大都市であり、かつ投降兵や捕虜の大群がいたために、したがって虐殺された数も大きくなった点だけである。これは上海ー南京および杭州湾ー南京の間を現地調査した結果認識をあらたにしたことであった。となればむしろ、南京大暴虐事件を南京市だけに限定してとらえることの方が異常であり、不自然であり、非論理的であり、意図的であり、政治的であり、整合性がなく、事実に反し、結果は虚偽であろう。この見方はすでに歴史学者の間でも定着しはじめている(注3)⑬「本多勝一氏とその”南京大虐殺”というヨタ記事を書き続けさせる『朝日新聞』の態度は、当時の日本軍将士、日本人一般、更にこれから生まれてくるわれわれの子供に対して犯罪的でもある」と渡部氏。国際的とは何か。何が日本人にとって犯罪的か。こういった高度(?)な議論など、渡部氏には不可能なのであろう。いったい「犯罪的」なのはどちらなのか。私はさる9月22日の教科書検定第三次訴訟22回口頭弁論え(東京地裁=原告・家永三郎)に南京大虐殺関係の証人として出廷にさいし、意見書を提出した。その最後の部分をここに引用しよう。
「国際的とは決して外国語をうまく話したり、外国の習慣を身につけたりすることではない。それはむしろ国際性というよりも植民地性に近いことがある。国際性とは、基本的には異民族や異文化に対する理解があることである。「理解」とはそれに従うということでは決してなく、ほかに異なった文化なり異なった民族があるということを認めることである。地球上さまざまな文化があり、さまざまな民族があるということを肌で知っていれば、自分とは違った民族がいてもそれとうまくつきあっていく方法を自然と身につけることになる。侵略とか差別思想は、世界で自分たちだけが高級あるいは優秀だとする選民意識から始まる。ナチ・ドイツはまさにそうだったが、日本の戦時中の教育もそうだった。私自身、小学校ではそのような教育を受けた。これはそれぞれの民族が民族的誇りを持つこととはまったく異なる。現在の日本人が外国に出て行ってとっている行動を観察していると、中国における日本軍を思い出すことが多い。特にアジア諸国に対してそれはひどいと思われる。もちろん欧米人の中にもアジア人に対して軽蔑感を抱いている人はむしろ多い。しかし彼らは異民族との接触のルールを知っているので、それをあからさまに表面に出したりはしない。民族や文化はおたがいに対等な関係にあるということを、少なくともルールとしては彼らは肌で知っている。日本人がこのことを肌で知っていないのは、異民族と接触する機会がきわめて少ないことも大きな原因ではないかと考えられる。世界の主な国で、日本ほど異民族と接する機会の少ない国は珍しいと思う。ヨーロッパやアジア諸国はもちろん、アメリカは一つの国内に多数の異民族が混じっている。日本にもアイヌ民族のような先住民族がいるし、また在日韓国人・朝鮮人といったかなりの人口の異民族もある。しかしながらその割合は少なく、しかもそれらの異民族は差別されてきたために、一般の日本人には「見えても見えない」存在とされている。だからこそさきの中曽根首相による「日本人は単一民族」とか「知的水準」発言によって、世界のひんしゅくをかうことになった。こうしたことは外国に行く日本人の多くの、とくに団体にみられ、たとえばネパールやパキスタンへ行く登山隊の中にさえかなりある。登山隊の中には現地の人々に対してあたかも侵略軍のような行動をとる者があり、私自身それを目撃している。雇用したポーターやコックに対してきわめて粗暴なふるまいであったり、「このばかやろう」といった日本語を平気で使う。たとえ日本語が通じなくとも、こうしたことは態度で通じるものである。欧米の登山隊の中にももちろん内心では軽蔑感を抱いている隊員がいたとしても、このようなあからさまな行動はとらない。彼らは異民族と接する場合のルールをわきまえているからである。このような非国際性が、第二次大戦後の同じ敗戦国だったドイツやイタリアと日本との違いにも現れてくる。戦争犯罪や侵略について西ドイツも東ドイツも教科書にはっきり記述し、再び同じ過ちを犯すことを教育によって防ごうとしている。これこそが国際性の教育なのである。しかしながら日本はどうであろうか。戦争犯罪人容疑者を戦後も総理大臣にするほどの無神経さである。そこに自らの手で反省を具体的かつ公的に示した例はほとんどない。これも一つは国際性を身につけるための教育をしてこなかったからである。南京大虐殺についてはっきり記述しその否を認めることは、今後の国際社会に子供たちが加わっていくための条件として、まさに国際性の教育として必要なのだ。現在の検定路線をすすめてゆけば、日本人はますます孤立し、世界の嫌われ者になってゆくだろう。南京大虐殺は、現行教科書以上にもっとくわしく記述して、青少年を真の愛国者に育てなければならない」。
⑳「日本の新聞記者によれば・・・」という肖尚前の言葉ではじまった教科書問題はまだ記憶に新しい。そして「火のない所から煙が立って、日本の名誉が国際的に大いに害された」と渡部氏。教科書問題は「火のない所から煙が立っ」たのだそうだ。これについては渡部式馬鹿馬鹿しさをすでに本誌でかいた(1982年12月号の拙文「番犬虚に吠えた教科書問題」=朝日文庫『事実とは何か』に収録)ので重複はさける。要するに渡部氏はみずからの役割にふさわしく虚に吠えたのであった。⑮「本多勝一氏の”南京大虐殺”の虚構も「日本人もそう書いているではないか」という風にして、われわれやわれわれの子孫に祟ってくるのではないか」と渡部氏。南京大虐殺が実証されてしまった現在、こうした言葉がいかに空しいものかを噛みしめるだけの理解力さえ渡部氏には期待できない。だから私はこの一文を渡部氏への「反論」や「論争」として書いているのではない。そんなことは時間の浪費であろう。タイトルに示すとおり、問うているのは他の学者たちに対してである。⑯「その時、本多勝一氏も『朝日新聞』も自分の嘘の責任は決して取らないであろう」と渡部氏。ついてもいない嘘の責任はとりようがないが、渡部氏自身は責任をとるのだろうか。この問題はつぎの⑱と関連して実に興味深いことではある。(⑰は①②③項と同じ虚偽にもとづく中傷なので省略する。)⑱「幸いに田中正明先生は”南京大虐殺”の物理的または制度的不可能性を証明する根拠を提示する本を出された」と渡部氏。その「田中先生」の本たるや、松井石根大将(南京大虐殺当時の司令官)の陣中日誌やその抜粋を何百カ所にわたって大改竄していることが暴露された(『朝日新聞』1985年11月24,25両日の朝刊)。渡部氏が虚偽だらけで飾った当の『”南京虐殺”の虚構』がその一つで、松井大将の原文に全く存在しない文章を”創作”して”引用”している。”創作”はもちろん、南京での虐殺・暴行を「なかった」ことにするためのものである。(詳細は当日の新聞または拙著『貧困なる精神・第18集』(すずさわ書店)収録の「松井大将の日誌を大改竄してまで南京虐殺を否定しようとする哀れな文筆業者」参照。)この暴露によって「文筆業者」田中正明は崩壊し、まともなジャーナリズムはこの人を相手にしなくなった。となると、そのような大改竄の本に全面支持の序文を寄せた渡部氏の責任はどうなるのか。類は友を呼ぶ。田中正明といった明白なインチキ人間にふさわしい「友」に責任をとらせる気はないが、他人に向って「責任」などという口はきかぬ方がよいというだけのことである。⑱「本多勝一氏をはじめとする「大虐殺派」は、先ずこの本の一つ一つについての反論からはじめるべきではあるまいか」と渡部氏。「この本」が右のような’しろもの’であることを、渡部氏の期待どおりに虐殺肯定者たちは暴露した。こうした大改竄書に対して渡部氏が自分の大失態をどうつくろうのか。動物行動学的な意味での興味ていどは私はもっている。⑳「反論できなかったら、少し冷静にまた客観的に考えてみることだ」と渡部氏。何をかいわんや。こんなとき引用する故事ことわざの類はたくさんあろうが、自らの無知・非論理を隠蔽するための手段としてそうした引用で飾りたてる性癖のある渡部氏のまねはしたくない。
以上で渡部氏の文章の検討を終わります。冒頭の問いかけをもう一度くりかえして学者たちに教えを乞いたいのです。すなわち、このようなデタラメと虚偽を平気で書きちらす渡部氏は、①雑文は小学生以下だが、専門の論文を書くと第一級なのでしょうか、②それとも専門の論文も、実は雑文と同じように欠陥品だらけなのでしょうか?かつて「イザヤ・ベンダサン」と称するにせユダヤ人(山本七平)が、『日本人とユダヤ人』という嘘八百の偽書を出しました。はじめの何ページを読んだだけでこの本のいいかげんな間違いだらけであることを私は見破ってそれ以上読みませんでしたが、問題はこれが単なる’いたずら’の偽書ではなく、日本の反動化・ファッション化に大いに役立つ内容となっている点でした。かなしいことに、日本的レベルのかなりの知識人でもこの本の大嘘にひっかかってゆき、やがて大ベストセラーにのし上がってゆきます。いうまでもなく、この本のでたらめなどとっくに見抜いているホンモノの学者はいました。しかしそのほとんどは、こんなものを相手にすると自分のレベルも下がるとして、馬鹿にして放置してきました。その一人に、旧約聖書学の専門家・浅見定雄氏(東北学院大学)があります。浅見氏は、このインチキ書を10年間も放置した結果の悪影響について学者として責任を感じ、その大嘘を徹底的に暴露する著書『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫)を刊行しました。思うに、浅見氏のような学者こそが真に「学者」や「知識人」の名に値するのではありませんか。知識を武器として弾圧やデマゴギーと戦い、その結果処刑されたり追放や投獄された学者は、ここにいちいち例をあげるまでもなく、西洋や中国にはたくさんいました。残念ながら日本には、そうした学者が稀です。庶民は知識を武器にすることができないので、インチキ宣伝やインチキ本を見破ることができません。学者や知識人こそが、知識という武器を使うことができるサムライです。しかし殿様の意をくむ御用侍では、御用学者にすぎません。ヒトラー台頭期のドイツで、知識人がヒトラーに対してとった態度とその後の経過とかいったことは、学者に対して私が説くまでもないことでしょう。「馬鹿にして放置」ならまだしも、今の日本では「こわくて放置」している臆病”知識人”が多くなりすぎたようです。戦争中のような弾圧がなくてもこの’ざま’であります。もう弾圧の必要さえなくなっているのが今の日本の「知的」情況と申せましょう。そのような情況のなかで、体制に占領されてしまったテレビや新聞の経営方針のままに踊っているニセ学者の一人が渡部昇一氏であります。ニセ学者をかげで馬鹿にすることは自由ですが、それでは何の影響も及ぼすことはできません。なぜニセ学者やそれを利用するメディアを正面から攻撃しないのですか。「学術論文」的にではなく、まさに政治的かつ煽情的に(むろん正確なデータを基礎にした上での話)、浅見氏がやってみせたようにやっていただきたい。ニセ学者の側は大衆にアピールする方法で(しかし基礎はインチキで)やっているのに、ホンモノの側は大衆のあずかり知らぬ「学術論文」方式でやっているのでは、ニセ学者は何の痛痒も感じないでしょう。鉄面皮なニセ学者に対しては、含羞も廉恥も遠慮も矜持も真理もヒューマニズムも、あたかもゴキブリに対すると同様に通じないのであります。(このさいゴキブリを悪役にしたてましたが、ゴキブリの生態を本当に知れば、この種のニセ学者よりもはるかにヒューマニズム(?)のある昆虫かもしれません。)こうしたゴキブリたち(ゴキブリに失礼)を私が相手に自らのレベルを下げざるをえないのも、あまりにもこの害虫どもをみんなが放置しすぎていることに、ナチ台頭期の教訓や同時期の日本の教訓にてらして危機感を深めているからにほかなりません。まったく、本誌のある読者からの手紙に「渡部昇一という「貧困」な人とドロヌマの争いをなさってるのを知って驚きました。これは知性の無駄使いじゃないんですか」(大阪の高校生S君)とあった通りです(注4)。しかし、知識人が「知の領域」とやらにとじこもって自慰にふけっているうちに、ゴキブリどもはやりたい放題やっています。サルトルなどと外国の例をもちださなくても、さきの浅見氏はベンダサンを崩壊させたあと、韓国からの邪教として今や猛威をふるっている統一教会系の勢力と真っ向から対決しました。日本の情況を考えるとき、これはフランスにおけるサルトル以上に勇気ある知識人だと思うのです。こういう学者を孤立させないでいただきたい。これが知識の「無駄使い」だとしたら、無駄使いこそが真の知識人の行動ではないでしょうか(注5)。さて渡部昇一氏は最近の『サンケイ新聞』(1987年8月15日朝刊一面の大型コラム『正論』)の、「伝えておきたい正しい事実ー終戦記念日を迎えて」と題した一文のなかで、南京事件について次のように書いています。
「シナ事変の原因は日本側になかった。少なくとも日本を裁いた東京裁判もその責任を日本側にすることはできなかった。何十万もの民間人を殺した南京大虐殺はなかったし、ありえなかった。当時は「事変」であり「戦争」ではなかったから、アメリカ人やドイツ人も南京城内にいた。特派員もいたが、大虐殺の報道は当時ない。七年以上も経ってから東京裁判でそれが出て来て、その後は主として朝日新聞中心に作り出されたもので、朝日のこの問題に関する記事は、私の知る限り全部虚構である。そういう記事はみな否定されているが、読者が解るように取り消されたことはないようだ」。
こういう一〇〇%の虚偽を平然と書ける「学者」自体よりは、むしろこんなインチキ人間を利用するメディアの方に問題がある点、もうくりかえさなくてもいいでしょう。細かなこともいえばきりがありませんが、右によると朝日新聞は「何十万人もの’民間人’を殺した」(傍点筆者)という話を’作り出した’そうです。私はそんな創作記事をかつて一度も読んだことがありません。朝日が書いたこともない記事について「全部虚構である」などと、例によって日本語の読解力のないこの人物が書いても何のことかわけがわからないのですが、さらに「そういう記事はみな否定されている」とは何をさすのでしょうか。ない記事を否定することはできないにせよ、もし「朝日のことの問題に関する記事」の意味が南京事件全般だとすると、私も何回か関連記事を書いたことがあります。それが「みな否定されている」とする根拠が田中正明版『”南京虐殺”の虚構』だとしたら、もはや読者にはこれ以上何もいう必要はありますまい。これが渡部氏のいう「伝えておきたい正しい事実」なのでしょう。こんなニセ学者を利用するメディア、今後それがバカにされて消えてゆくのか、それとも次第に影響をのばしてゆくか。そこには学者を含めて日本人の”民度”もかかわってくることでしょう(本多勝一『貧困なる精神B集』(朝日新聞社・1990年)(注1)くわしくは『朝日ジャーナル』1992年12月号の拙文「番犬虚に吠えた教科書問題」参照(朝日文庫『事実とは何か』に収録)。(注2)くわしくは『朝日新聞』1980年11月25日夕刊コラムの拙文「痴的論証の方法」参照(講談社文庫『日本人は美しいか』に収録)。(注3)たとえばさる9月22日に東京地裁で行われた教科書検定第三次訴訟第22回口頭弁論で、歴史学者・藤原彰教授が証人として提出した意見書に次のような記述がある。
本多勝一『南京への道』(『朝日ジャーナル』昭和59年4月~10月連載、昭和62年朝日新聞社から単行本)=本多が昭和58年(1983)年11月から12月にかけて、上海から南京まで中支那方面軍諸部隊の進んだ道をたどりながら、被害体験者から聞き取り調査を実施し、史料で裏付けながらまとめたもの。本書の特徴は、日本軍が杭州湾上陸直後から一般市民への暴行・虐殺・強姦・放火などの残虐行為をしていたことを発掘し、南京で行われた虐殺事件は、単に南京に特有の事件ではないことを総合的に明らかにしたことである。この事実にもとづいて本多は、「南京大虐殺」は上海攻略戦から南京攻略戦までの全体としてとらえなければならないと主張した。この視点は、これ以後南京大虐殺を研究するものの多数に支持されている。(中略)以上、南京大虐殺に関する研究状況を概観したが、これらの研究によって明らかになった主な点をあげてみよう。まず第一は、南京大虐殺のとらえ方である。すでに述べたように、本多勝一が提起した上海攻略戦から南京攻略戦までを一連の事件としてとらえるという視点は、その後の研究に継承されるようになった。これは換言すれば南京大虐殺を日中戦争の中に位置づけ直すことでもある。南京大虐殺は南京で起った特殊な事件ではなく、上海での捕虜殺害、南京への追撃戦の中での略奪、強盗、強姦殺人、放火、一般人の殺害などの蛮行に連なる事件であり、追撃戦の中で虐殺者集団と化した日本軍の起した事件なのである。この実態は、前述した本多勝一、吉田などの著書で明らかにされた。
(注4)ただ、私は渡部氏と「ドロヌマの争い」(S君の言葉)をしているのではない。前述のように、渡部氏は争い(論争や反論)を対等にすべきレベルの相手ではないので、ドロヌマにはなりえない。したがっていかに彼に虚偽を書かれても訴訟など起こす気はなく、こんな人間を利用するメディアの方を私は問題にしている。(注5)南京大虐殺に関しては、最近洞富雄氏をはじめとする歴史学者たち十数人のグループが精力的な調査活動をつづけており、虐殺否定派が決定的敗北をきっすることになったのもその活動と無関係ではない。グループの最近の著書に『南京事件を考える』(大月書店)と『南京大虐殺の現場へ』(朝日新聞社がある)。
①Shōichi Watanabe (渡部 昇一, Watanabe Shōichi, 15 September 1930山形県出身 – 17 April 2017) was an English scholar and one of Japan’s cultural critics. He is known for ultranationalist historical negationism→Nov 14, 2021 —『知的生活の方法』は、講談社現代新書史上最大のベストセラーという偉業を成し遂げた作品です"Intellectual Life Methods'' is a work that achieved the great feat of being the biggest bestseller in Kodansha's Gendai Shinsho history②Teruo Tonooka殿岡 昭郎(born July 7 , 1941栃木県出身) is a Japanese political scientist and political activist③Masaaki Tanaka田中 正明 (11 février 1911長野県下伊那郡喬木村出身 - 8 janvier 2006) est un auteur japonais connu pour son livre La Fabrication du massacre de Nankin, qui nie que le massacre de Nankin tel qu'il est habituellement compris ait eu lieu1. Écrit à l'origine en japonais en 1987, une version en anglais est publiée en 2000 en réponse au livre Le viol de Nankin d'Iris Chang④Akira Suzuki (鈴木 明, Suzuki Akira, 28 October 1929東京都出身 – 22 July 2003) was the penname of Japanese non-fiction writer and freelance journalist Akio Imai.
日中戦争小さな資料室(ゆう)より→何人斬れるか ー日本刀の性能ー その1 山本七平氏の「体験」
「日本刀で人を斬るのは3人が限界」という「伝説」が、ネットの世界ではすっかりポピュラーなものになっています。このコンテンツでは、「伝説」の発生源である山本七平氏の論稿、及び当時のメディアでの報道状況などにより、この「伝説」に検討を加えることにします。*なおこのコンテンツは、あくまで「日本刀3人限界説」についての検討であり、「百人斬り競争」の真偽にまで踏み込んだものではありません。 また、「日本刀で百人斬れる」ことを実証しようとしたものでもありません。ときどきこのあたりを理解しないコメントをいただきますので、念のため。「日本刀三人限界説」が初めて登場するのは、山本七平氏『私の中の日本軍』の中でのことでした。そして、ネットなどでの議論を見る限り、事実上、「限界説」のエッセンスはこの本ですべて出尽くしていると思われます。しかし、この本における山本氏の記述は、要点を掴みにくく、かつ論理の流れを読み取りにくいダラダラ
としたもので、この本からその「根拠」を明確に要約することは、大変困難です。とりあえずは、山本氏のあげる「根拠」らしきものに、検討を加えていくことにしましょう。 さて、氏はいきなり「日本刀で五人は斬れない」という「結論」から始めています(この段階では、まだ「三人限界説」は登場しません)。「なぜそういえるか」と言えば、氏自身が「斬った」体験があるからだそうです。
山本七平氏「私の中の日本軍」より  日本刀神話の実態
しかしそこにもし白兵戦の体験者がいたらすぐに言ったであろう。「・・・四、五人 ? 本当に人を斬った人間は , そういうあやふやな言い方はしない。野田少尉!  四人か、五人か― 五人だというなら貴官にうかがいたい、五人目に軍刀がどういう状態になったかを ―彼はおそらく答えられまい。というのは、彼が口にしている「とりつくろい」は、戦場での伝聞であっても、おそらく彼の体験ではないからである。そして戦場での伝聞は前にものべたが恐ろしく誇大になるのである。なぜそういえるか。理由は簡単である。私は体験者を知っており、そして私にも「斬った」体験があるからである―といっても即断しないでほしい、後述するような理由があったことで、私は別に残虐犯人というわけではない。しかし人体を日本刀で切断するということは異様なことであり、何年たってもその切り口が目の前に浮んできたり、夢に出できたりするほど、衝撃的なことである。 そしてこれは、私だけではない。従って本当に人を斬ったり、人を刺殺したりした人は、まず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないものである。結局、私もその一例に入るのかも知れないが、「日本刀で人体を切断した」という体験に、私も最後の最後までふれたくなかったのであろう。従ってこの一点を、自ら意識せずに、自分で回避していたのである。ある意味で、それを指摘される結果になったのが、 S さんという台湾の方からのお手紙であった。これは後述しよう。私は実際に人を斬殺した人間、人を刺殺した人聞を相当数多く知っている。そしてそういう人たちが、そのことに触れた瞬間に示す一種独特な反応―本当の体験者はその瞬間に彼の脳裏にある光景が浮ぶから、否応なしに、ある種の反応を示す―その反応を思い起すと、「本当に.斬ったヤツは絶対に自分から斬ったなどとは言わないものだ」という言葉をやはり事実だと思わないわけにいかない。だがここで、体験は後まわしにして ( また後まわしになるが ) 、まず日本刀なるものの実態と機能の客観的な評価からはじめよう。(「私の中の日本軍」(下)P71~P72)
氏の「だらだらとした文章」を味わっていただくために、あえて関係のない部分も含めて引用しました。さて、氏は、どんな体験をしたのでしょうか。「そして私にも斬った経験がある」「といっても・・・私は別に残虐犯人というわけではない」と思わせぶりに書いておいて、氏は、改行もなしにいきなり関係のない「おしゃべり」を始めてしまいました。読み流したら、この「おしゃべり」部分に「体験」が書いてあったか、と錯覚してしまいそうです。山本氏の文章は、全体にわたってこの調子。氏の文章から「論理」を読み取るのは、ちょっとした「仕事」です。*最初に、いきなり「・・・四、五人 ? 本当に人を斬った人間は , そういうあやふやな言い方はしない」という記述を行っていますが、これは実は、「志々目証言」の「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない」の部分に対する批判です。 「斬った人数」ではなく「白兵戦の中で斬った」人数ですので、 戦場の混乱状態を考えればこの程度の「あやふや」さは十分許容範囲にあるでしょうし、実際のところ、ほとんどどうでもいい「クレーム」です。しかしこの「体験」、「後述するように、私の体験では「三人」は到底無理で、従ってこれは「最大限三人」と解すべきであろう」(P73)、「というのは、前述のように、私は軍刀を使用して人体を切断した経験がある」(P83)などと、何度も読者に「期待」を持たせる表現が出てきますが、 いくら読み進んでも、肝心の「体験」そのものは一向に登場しません。登場するのは、何と、上の文章から80ページもあとになってのことでした
山本七平氏「私の中の日本軍」より
 N兵長が水とナツメヤシの幹らしい丸太をもってきた。私は死体の手首をつかみ、その手を、その丸太を持つような形においた。タイマツを近づけさせた。K兵長は、顔をそむけて立っていた。私は水嚢の水を、死体の手にかけて泥を流した。白ちゃけた手が、真黒な土の中からのぴ、太い木をつかもうとしているように見えた。炎の赤い反射と黒煙の黒い影が、白い手の上で、ゆらゆらとゆれた。私は一歩下がって片膝をつき、軍刀を抜くと、手首めがけて振りおろした。指をばらばらに切るより、手首ごと切った方がよいように感じたからである。がっといった手ごたえで刃は骨にくいこんだが、切断できなかった
。衝撃で材木から手がはずれ、手首に細いすじが入ったまま、また土の中へ帰って行きそうであった。私は軍刀を放り出すともう一度その手をつかみ、再び木材を持たすようにした。その時ふと、内地の連隊祭の巻藁切りを思い出した。繊維はすべて直角にはなかなか切れないが、斜めなら案外簡単に切れる。私は位置を少しかえ、手首から小指のつけ根の方へ、手の甲を斜めに切断しようとした。二度日の軍刀を振りあげたとき、鍔が何か少しガタが来たように感じた。しかしそのまま掘り下ろした。手の甲はぎっくりと切り離れたが、下の木が丸いためか、小指のつけ皮がついたままで、そこが妙な具合に、切られた手と手首とで、丸太をふりわけるような形になった。私は手をつまむと軍刀を包丁のようにして、その皮を断ち切った。鋭角に斬断された手首は、ずるずると穴の底へもどった。小指が皮だけで下がっている手の甲を、私は手早く紙で包み、土の上におき、円匙を手にすると、急いで土をかけた。そのまま円匙を手にしで、私は、機械的にO伍長の墓に来た。すペてが麻痺したような、一種の無感覚状態に陥っていたらしい。全く機械的に土を掘り起したが、彼の手は、どこにあるのかわからなかった。骨ならば手でなくてもよいだろう。そんな気がした。軍靴をはき、巻脚絆をつけた足が出てきた。私は足くぴをつかんで力まかせに引きあげた。S軍曹の手がなかなかあがらなかったのでそうしたのであろうが、その時、これが、彼のはずれた方の足だとは気がつかなかった。カが余って、まるで大根でも抜くような形で、はずれた足が、スポッと地上に出てきた。私は千切れた軍袴を下げ、切断部を水で洗うと、右膝をつき、左足の靴先で彼の靴を押え、まるで足をタテに割るような形で軍刀を振り下ろした。 鋭い鋭角状に、肉と骨が切れた。おそらく、距離が近かったので自然に「挽き斬る」という形になったことと、刃が繊維に平行していたからであろう。私は、軍刀を抜身のまま放り出し、切断した部分を前と同じように処置し、急いで土を掘り、足を埋めなおしてから、軍刀を紙でぬぐった。暗くてよくわからなかったが、一見何も付着していないように見えた刀身や拭うと、確実に何かがべっとりとついていた。刀身は鞘におさまった。しかし、何か鍔や柄がガタガタグラグラする妙な感じがあった。しかしその状態は、もう再述する必要はないであろう。(「私の中の日本軍(下)P152~P153)
冗長、としか言いようのない文章です。ポイントを赤字で示したので少しは読みやすくなったでしょうが、実際にこの部分を本で読んだ方は、「読みにくさ」にうんざりされたのではないかと思います。要約すれば、氏の「体験談」なるものは、遺体の手首を斬ろうとしたが失敗した。改めて試みて、ようやく足を切断することができた。その時、「何か鍔(つば)や柄がガタガタするような妙な感じがあった」。それだけです。「 予告」の表現から「三人」なり「四、五人」なりを「切り損なった」話を期待していた読者は、ここで肩透かしを食らわせられます 。もっとも、ここまで「後回し」になっていると、もう誰も「期待」自体を覚えていないかもしれませんが。しかし、氏の「軍刀」の切れ味のあまりの悪さは、ちょっと意外です。後で山本氏がバイブルのごとく引用する成瀬氏によれば、「日本刀」は、「切れ過ぎる」くらいの道具であったはずなのですが・・・。
成瀬関次 「随筆 日本刀」より
東大病院の整形外科医局長をして居られる伊藤京逸氏が(此の人は剣道家でもある)軍医としてやつぱり徐州戦に参加された時の感想として、「日本刀は案外に切れた。寧ろ切れ過ぎるかの感さへあつた。首を斬る位の事は、短いやつの片手斬りでもスパツと落ちた。刀の柄を、 ぬれ手拭を絞るやうに持てといふ古人の教へは、切れ過ぎる余勢で自分と自分の左足などを切らぬための、その調節のいましめだ。」と、こんなことを話された。
(P42) 
素肌の人間を斬ること位たわいのないことはない。素つ首などは、一尺四五寸位の脇差を片手に持つて、それで切れ過ぎる程だ。戦場では、若い士官などが、大刀を大上段にふりかぶり、満身の力をこめて敵の首をねらひ斬りにし、勢ひ余つて刀の切先何寸かを、土の中に切り込むのはまだよいとして、よく誤つて自分の左の脛などに大怪我をする。 昔から、刀の柄を、恰もぬれ手拭を絞るやうに持て、と云はれてゐるのは、さうした切れ過ぎの場合に処する方法、即ち絞り止めに止める為だと云はれてゐる。骨を切るといふことも、思つた程ではない。死後若干時間が経過すると、堅くなつて切りにくいが、生き身は今年竹の程度だと、誰しもいふ。大体首は、中位の南瓜を横に切る程度、生き胴は南瓜に横に直径一寸二三分の青竹を一本貫いたものを切る程度と云つたら、略見当がつくであらう。 切り損ずる原因の一つは、誰しもあわてること、上気してしまふことだ。それによつて見当を誤るのでよく肩骨に切り込んだり、奥歯に切りかけたりして失敗する。
(P61~P62)
ではなぜ山本氏の刀は、遺体の手首を斬る、という程度のこともできなかったのか。種明かしをしますと、山本氏の持っていたのは、真正の「日本刀」ではなく、大量生産の粗悪品「昭和刀」であった、というのがその理由であったようです。山本氏は、「日本刀ではなく昭和刀を使った理由」をP84からP88にわたってダラダラと書いています。要約すれば、日本刀には製品の質にバラつきがあり、また「構造上の欠陥」があるので、「製品の刃物としての質が必ず一定水準以上」である「昭和刀」を選んだ、ということのようです。しかし、この「昭和刀」というのは、成瀬氏の言葉を借りれば、実際にはこんな代物でした。
成瀬関次 「随筆 日本刀」より
 今事変では、殆ど有史以来の多数の日本刀が、大陸に渡つて、華々しい白兵戦条裡に、其の重要な役割を分担してゐて、後から後からと、いくら日本刀があつても足りない有様である。そこをねらつて現れたのが粗悪な昭和刀である昭和刀といふのは、昭和年代に鍛へられた日本刀をいふのではなく、洋鉄を赤めて延ばして、恰も日本刀の如く偽装した、危険極まる折れ易い刀の名であることを忘れてはならぬ。(P68)当時の新聞記事にも、「昭和刀」と「古い名刀」の違いが見えます。
「東京日日新聞」 昭和十三年一月二十一日
日本刀病院で 大和魂修理 これが勇気の泉だ 【南京にて守山特派員十九日発】
南京の目抜の通り中山路に「日本刀修理、大日本刀匠協会現地奉仕団」といふ看板が上つてからもう三日になる、何時見ても大変な盛況で凄い奴を携げて将校や兵隊さんが日夜入替はり立替はり来てゐる、剣や銃の修理所はあつても白兵戦に最も必要な日本刀の修理機関は軍の方にも備はつて居ない、 肉弾相打つ白兵戦が多かつた上海から南京までの戦線では日本刀の傷み方も甚だしい、だから斯うした修理団の無料奉仕は非常に感謝され門前市をなす大繁盛を来すのも無理はない、十九日国貨銀行の五階、仕事場を覗いて見た、 団長栗原彦三郎氏、名誉顧問の伊集院兼知子爵を始め日本の刀剣界に堂々たる名を得る一流のお師匠ばかり十九名が日本刀の林の中に埋つては研(とぎ)や柄巻に余念がない、日本刀の病院、大和魂の修理工場である、上海で松井大将、長谷川中将の軍刀を研いだ一流の研師宮形光■氏等は語る 実戦において最近の鎔鉄で作つた所謂昭和刀が如何に惨めな結果になるかが今度こそはつきり判りました、矢つ張り古い名刀は何人斬つても刃が微かにこぼれる程度で立派なものですこの現地奉仕を機会に日本刀の機能を研究している栗原団長は我々の別働隊は杭州にも派遣されこれまで北支から上海南京の各戦線を通じ既に一万七千口の日本刀を修理しました、併しこの度の事情で三万口の修理を目標にして居るのですからこれからです、日本刀の機能についていろいろ面白い結果を得ました いざ白兵戦といふ時に平素勇敢な人でもその持つて居る刀の柄が緩んで居たり刃がこぼれて居たりすると不思議に勇気が鈍り躊躇する傾がある、その反対に素晴らしい完全な刀を持つて居る人は日頃温順なしい人でもいざといふ時に非常な勇気が出る、躊躇せずに突撃が出来る、将校達は皆さういつて居られる、日本刀こそ勇気の泉です、それから支那兵は日本刀を最も恐れて居るらしく日本刀を振■して飛込むと催眠術にかかつたやうに無抵抗状態になつてしまふらしいですね と語つた
こんな「粗悪な」刀を使っての自分の「体験談」をもとに、「日本刀3人限界説」を打ち出しても、説得力は皆無でしょう。(2004.6.20)
             何人斬れるか ー日本刀の性能ー
さて、山本氏は、最初に紹介した文章に続けて、今度は成瀬関次氏の戦前の著作『戦ふ日本刀』 に話題を移しています。
山本七平氏「私の中の日本軍」より
この連載をはじめてからいろいろな方からお手紙をいただいたが、この「日本刀」の実態については、日本人一名、中国人一名、台湾人一名からお手紙をいただいた。そしてこの三人がそろって指摘しているのが成瀬関次著『戦ふ日本刀』という著書である。私はこの本を読んだことがなく、この三人の方も、いま「手元に本がなく記憶によるが・・・」とことわっておられるが、 この本の内容のうち三人が指摘するのは、同書に記された同一事項なので、記憶によるといってもこの指摘は正しいと思うし、またそれが私の体験とも一致するので、次に引用させていただこう。これでみると、日本刀の欠陥は、私のもっていた軍刀が例外だったのではなく、全日本刀に共通する限界もしくは欠陥であったと思われる。そこで、この三人の方のお手紙の一部をまず台湾人S氏のから掲載させていただこう。氏は次のように記されている。<例の「百人斬り」の話についてですが、私は議論の当初から、あれは物理的に不可能だと思っていました。私は本職が工学の教師ですからそのような発想をするのですが、私の論拠は、工学的に考えて日本刀というものがあのような連続的な使用に耐えうるはずがない、というものです戦前の版で、『戦ふ日本刀』という本をかつて読んだことがあります。これは一人の刀鍛冶の従軍記で、前線で日本 刀を修理して歩いた記録です。この中で、日本刀というものがいかに脆いものであるか、という強い印象を得たことを覚えております一人斬るとすぐに刃がこぼれ、折れたり曲がったり、柄がはずれたりするものらしいです。同封の切抜きは去年の九月二十八日付朝日新聞のものですが、この中にも「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」という殺陣師(たてし)の談話がありますこの「百人斬り」について、山本氏をはじめ多くの人が 精緻を極めた議論をしていますが、工学的見地から日本刀の効用の限界を論じた議論が皆無なのを不思議に思います。刀剣の専門家はたくさんいるはずですから、この角度から検討すれば、「百人斬り」の虚構性はたちどころに明らかになるのではないかと思います。何かのついでがありましたら、どうぞ山本氏にこの意見をお伝え下さるようおねがいいたします>同封の朝日新聞の切抜きは省略させていただくが、後述するように、私の体験では「三人」は到底無理で、したがってこれは「最大限三人」解すべきであろう。(「私の中の日本軍(下)P72~P73)
「日本人一名、中国人一名、台湾人一名」という国際色豊かな読者から、それぞれ、当時ほとんど知られていなかった『戦ふ日本刀』について記した手紙が来、しかも三人とも「手元に本がな」い状態だった、という「偶然」が果たしてありうるのかどうか、という「疑問」はさておきましょう。しかしこの「工学の教師」の手紙も、奇妙です。自分から「私の論拠は、工学的に考えて日本刀というものがあのような連続的な使用に耐えうるはずがない、というものと断言しておきながら、自分からは「工学的な裏付け」を全く示さず、それどころか、「工学的見地から日本刀の効用の限界」を調べるよう、山本氏に依頼 する、というちぐはぐなことを行っています。(そこまで断言するのであれば、断言するだけの工学的データを自分で持っていそうなものですが)そして語っている「論拠」らしきものは、「工学」とは縁もゆかりもない、「成瀬関次氏」であったり、「殺陣師の談話」であったりします。この手紙は実は山本氏の「創作」であり、「権威付け」をするために「工学的」云々という単語を持ち出した、という 可能性も、決して否定できないように思います。さて氏は、「手紙」の表現を受ける形で、ここで初めて「最大限三人」という数字を語っています。その根拠はやはり「私の体験」だそうですが、その「体験」なるもののお粗末さは、既に見たとおりです。(「日本刀三人限界説」の根拠が、この成瀬氏の本の記述ではなく、単なる「自分の体験」であることに、ご注意ください 。後述の通り、成瀬氏の本をいくら読んでも、「限界説」の根拠になる記述は見えません)
ー氏は、次章「日本刀神話の実態」でこの『戦ふ日本刀』を入手し、自分の論の「補強材料」に使おうと試みます。まず注意しておきたいことは、この『戦ふ日本刀』には、「日本刀三人限界説」を思わせるような記述は、一切存在しないことです。 それどころか、以下のように、成瀬氏は、「47人斬り」の話を何の疑問もなく肯定的に紹介しています。
成瀬関次「戦ふ日本刀」より
或る暑い日であつた。開封城内の修理班へ時目といふ変つた姓の少尉が自身刀を持つて修理にやつてきた。苗田藩槍一筋の家に生れたと云つてゐたから、加賀百万石か、それとも支藩大聖寺、富山、上州七日市の前田かそれは聞き漏らしたが、無銘古刀の武家伝来らしいよい刀を持つてゐた。それで南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐洲戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかつたといふ。少尉の物斬り話には、傾聴に値するものがあつた。第一に、武道家は居合とランニングをやらにゃいかんと云つた。その理由は、南京物斬り三十七人中の三十人までは、後から追い縋り追い縋りして斬つた者で、ランニングの選手であつた賜物。次に居合の手にある”虎乱刀”即ち右足一足で抜き打ちに敵の背後から真一文字に切りつけ、左足一足でふり冠り、再び右足を踏んで上から切りつける。これを連続的に進行し乍らやる早業の動作であるが、その調子で斬つた。 部下に中山博道先生門下の居合の達人が居て、戦地へ来てから習ひ覚えた。半年程のうちに、進行し乍ら抜打に切つて鞘に収める早業を、歩き乍ら実地にやつて見てこれも自信を得たと云ふ。つまり辻斬をやつたのだ。刀を見ると、血糊で白くなつている。性質のよい古刀で骨ごと斬ると、必ず刄まくれの出来るのは一つの定則であるが、中央から上、物打下にそれも型の如くに出来て居り、刄こぼれも三ヶ所、刀全体がジツトリしてゐた。少尉は話をつづける。「向ひ来る敵のどこが一番斬りよいかと云へばそれは敵の左右の肩で、その次が胸腹部の突きだ。敵が鉄兜をかぶつてゐる限り面打は断念したがいいし、胴と小手は実際には斬りにくいものだ。剣道では、その切りにくい面、小手、胴を目標とし、突きにくい喉を狙ふ事をやらせてゐる。困難な事に習熟させるのだと云つて了へばそれまでだが、僕かア君、切りよいところ、突きよいところを狙ふ稽古に、平生から熟達させて置いた方がよいやうに思ふね。どうだい君やア。」この思ひがけない掘出物の戦場武道家は、僅か中学校で剣道をやつただけだといふ。驚きの目をみはると、「いや、もつとえらいのがゐる。それ、新聞にも出たらう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺といふ人間だよ。」といふ。最後の名説はかうだ。「対敵中は物さへ見えればそれで勝つ。この修練だけは実際に場数を踏まぬと困難だ。目の見える結果は、本能的に多勢を避けて少なきに向ひ、足もとの危ない所をよける。それから・・・」と声を落して、「強きを避けて弱きに向ふ。つまり弱さうな奴から先に片づけるんだね。」と話を結んだ。成る程、宮本武蔵でも近藤勇でも、乱刄渦中で闘つた記録は絶対にない。あるとすればそれは小説だ。瞬間に自己の有利な安全な場所に就き、間一髪の間に敵の破綻を見破つてつけ込む。さうした機動的な刀法を使つたのも畢竟”目が見えた”からであって、武蔵が『兵法至極して勝つには非ず、自ら道の器用ありて天理を離れざる故』と云つた一面の機微の一つは、まさにその点にもあるのだ。次郎長の剣法も、彼が子分によく云つたといわるる『喧嘩して敵の両足が見えたら勝負はこつちのものだ。』という言葉に盡きてゐる。目の見えるといふ事は落ちつく事で、武道修練といふ事もその条件であり、無意識の意識がさせる別作用である。(昭和15年発行 P77~P79)
さらに成瀬氏は、「十人二十人といふ敵を斬つた」という多くの「武功談」について、「誇張や法螺でない」、というコメントを残しています。
成瀬関次「戦ふ日本刀」より
 今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人といふ敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、 部下のかうした武功談を度々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した 写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、五月初旬、蘭陵鎮へ行軍途上、左荘といふ部落の近くで、刀傷で倒れてゐる敵の死体幾つかを見た事があつた。(P25)
さて、こんな本から、山本氏は、何とかして自説に有利な材料を捜し出そうと試みます。しかし、成瀬氏自身が「何十人斬り」の肯定を前提に記述を行っている以上、いくらこの本の記述をつまみ食い的に引用しても、山本氏の「日本刀三人限界説」の補強材料にはなりそうにないことは、言うまでもないでしょう。『戦ふ日本刀』が「日本刀の強さと弱さ」をさまざまな側面から語っているのは事実ですが、実際にこの本を読んだ方でしたら、「日本刀は、無限に人を斬れるスーパー兵器ではない。さりとて、三人しか斬れないような情けない兵器でもない」という印象を持つのではないでしょうか。「日本刀で何人斬れるか」ということは、「実験」などしようもありませんし、おそらく誰にもわからないでしょう。しかし少なくとも「最大限三人」ということはありえないし、実際の話、当時の「専門家」である成瀬氏は、条件の良い日本刀でしたら、少なくとも「数十人」は十分可能だった、と考えていたようです。なお、先にあげた「47人斬り」の部分について、山本氏は次のようにコメントしています。
山本七平氏「私の中の日本軍」より
そしてここにも「百人斬り」的自慢をする一少尉が登場して、四十七人斬り披露し―この百人とか四十七人とかいう数が面白い―さんざん自慢した後で「いや、もつとえらいのがゐる。それ、新聞にも出たらう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺といふ人間だよ」といっている。言うまでもなく浅海特派員の「虚報」のことである。ところが相手が専門家とわかったためか彼の大言壮語がだんだん変になっていく
。氏は皮肉な調子で彼の「・・・最後の名説はかうだ『・・・つまり弱さうな奴から先に片づけるんだね』と話を結んだ。成る程、宮本武蔵でも近藤勇でも、乱刄渦中で闘つた記録は絶対にない。あるとすれば小説だ・・・」と記している。こういう書き方は、戦争中の言論統制下独特のもので、わざと「名説」といい、そして「乱刄渦中で闘つたところが 相手が専門家とわかったためか彼の大言壮語がだんだん変になっていく。記録は絶対にない。あるとすれば小説だ・・・」と記して、それ以上は何もいわないのである。白兵戦はいうまでもなく乱刄渦中である。ではなぜこういう言い方になるか。当時の軍人と今の新聞記者とはやや似た位置にあったと思われる。というのは今では「大記者」の記事を「フィクション」だなどといえばそれこそ大変で、ガリ版刷りの脅迫状(?)まで来るわけだが、当時は軍人が明言したことを「小説(フィクション)」だなどといえばそれこそ大変であった。従って「宮本武蔵でも近藤勇でも」その「記録は絶対にない」あればフィクションだと氏は言っているのであって、 この少尉の言っていることをフィクションだと断言しているのではないのである。そして、それをどう判読するかは、読者にゆだねているわけである。(「私の中の日本軍」(下)P101~P102)
これまた「悪文」で、「解読」に苦労しそうな文章です。氏のコメントを、個別に見ていきましょう。
●この百人とか四十七人とかいう数が面白い 山本氏は、どうやら、「四十七人」という数は「赤穂浪士」の話に合わせたものではないのか、と言いたいようです。しかし、元の文を読めばわかりますが、「斬った数」は、「南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐洲戦で十人、都合四十七人」と、「内訳」が明らかにされています。「四十七人」という数の一致は、単なる偶然、と見る方が自然でしょう。
ところが相手が専門家とわかったためか彼の大言壮語がだんだん変になっていく語り手である「時目少尉」は「刀の修理」を頼みにきたのですから、成瀬氏が「専門家」である、ということは、初めからわかっていたはずです。元の文を見ても、話が途中から「だんだん変になっていく」という雰囲気のものではなく、私にはむしろ、時目少尉は、実はこうなんだよ、と悪戯っぽく告白しているように思われます。
●この少尉の言っていることをフィクションだと断言しているのではないのである。そして、それをどう判読するかは、読者にゆだねているわけである。 どうも山本氏は、「成瀬氏は、時目少尉の話をフィクションだと考えているが、そうはっきり言うことはできないので、遠まわしにフィクションであることをほのめかしている」と言いたいようです。しかしこのあたり、山本氏の「解釈」は、滅茶苦茶です。元の文は、こうでした。
「(略)それから・・・」と声を落して、「強きを避けて弱きに向ふ。つまり弱さうな奴から先に片づけるんだね。」と話を結んだ。成る程、宮本武蔵でも近藤勇でも、乱刄渦中で闘つた記録は絶対にない。あるとすればそれは小説だ少尉は、「47人斬り」の裏話として、「弱さうな奴から先に片づけるんだね」と告白しています。成瀬氏はそれを受けて、なるほど、「乱刄渦中で闘つた」わけではなかったわけだ、と書いています。それだけの話であり、これを、成瀬氏は実は「47人斬り」を「フィクション」だと考えていたのだ、と解釈するのは、どう見ても「無茶」というものです。ネットでは、「日中戦争という近代戦の場で、刀がそんな大きな役割を果たしたはずがない」という「思い込み」の書き込みを目にすることがあります。実際には、「銃剣突撃による夜襲」は日本軍の得意戦法でした。例えば、支那駐屯軍主任参謀、関東軍参謀副長等の要職を務め、終戦時は鈴木貫太郎内閣の綜合計画局長官の地位にあった池田純久氏の記述です。
池田純久氏『陸軍葬儀委員長』より
 処で、支那軍は昼は日本軍の砲火が恐いので大概夜に入つてから我陣地に襲撃して来る。然し支那軍は夜襲は下手である。小銃を射ち乍ら来攻するのであるから、すぐこちらに感ずかれてしまうのは当然である。一体野戦の方法の巧拙によつて、軍隊の強弱を測定する事が出来るものである。勇敢な軍隊程全く射撃なしで肉迫し、一挙に銃剣を以て突入する。それでも中には臆病な兵もいて、夜間行動の最中に、恐ろしさの余り無意識に発砲して全体の攻撃企図を曝露することがある。だから、夜襲しようとする軍隊は、銃に弾丸を装填せず、時には銃を縄などで巻いて弾丸が入らぬようにして置く位である。恰度あの川中島の戦のように「鞭声粛々夜渡河」である。その粛々として行動する事が夜間戦闘の秘訣である。日本軍は総じて夜間戦闘が上手であり、特に第六師団は、これを最も得意としていた。黙々として敵陣に迫り、一挙に銃剣で突入するのであるから、支那側が第六師団を恐れるのも無理はなかつた。(同書 P54)
日本刀が本当に二、三人しか斬れないものであるならば、そもそもこんな戦法は、成立するはずもありません。 最後に、この時期、いろいろなメディアを賑わせた「何十人斬り」の武勇伝を、 私の手元にある資料から、いくつか紹介しておきましょう。全部が全部真実であったかどうかまではわかりませんが、「百人斬り競争」が、決して、孤立した特異な話ではなかったことがわかると思います。
「支那事変 忠烈偉勲録第二輯」より
 豪瞻敵五十を薙倒す  陸軍歩兵曹長 I・Y (原文は実名) (略)今日も亦戦ひぬいたが日は暮れて行つた。相変らず雨は止まない。畜生!!何んとかしてやり度いと・・・歯がみして居るのである。○○部隊(原文通り)は払暁を期して遮二無二に敵陣を奪取しやうと云ふことになつた。そのとき○○隊のI曹長は深く決する処があつて、軽装して家伝の名刀一振を命として唯一人のM上等兵(原文は実名)を率ひて夜が未だ明け放れない前に敵陣へと肉迫した。 往年日露の役に蘇麻堡(そまほ)の敵襲が決行せられた時に少壮の士官達は極寒零下十度の冬空に襦袢一枚に抜身の日本刀を堤(ひっさ)げて突進したことを思ひ出すのである。曹長は身長六尺に近い大男で、その上剣道の達人であるから十分の自信を以て居るばかりでなく、燃へるやうな攻撃精神を以て殉忠奉公の時は今であるとばかりに勇躍敵陣に踊り込んだ、そして大声に敵兵を叱咤しつつ薄闇塹壕内に切り込んだのであるから、敵は全く失心するばかりに驚いた。この隙を見て当るを得手と縦横に薙ぎ倒した。何しろ狭い塹壕の内で次から次へと切つて行く、まるで面白い程である、かうした間に夜は明け放れたので、M上等兵と協力して滅多切に斬つた。敵はこの勢におぢて逃げまどうありさまは実に哀れな位であつた。曹長の切り倒した敵兵は五十人以上はあつた。この時味方は全線進撃を開始したので、曹長は敵の迫撃砲と小銃を鹵獲して悠々○○本部に合した。然しこの獅子奮闘の働きにも負傷一つせなかつたことは実に天佑と云はねばならぬ。戦ひが済んで愛刀を調べてみたら、さすがに名刀ではあるが、刃が大部コワれて居た。(昭和十三年発行。P165~P166)
「東京日日新聞」昭和十三年一月十日
単身・敵中で阿修羅王 廿余名を銃剣の槍玉  杭州戦線の大殲滅戦

【杭州にて六日早川特派員発】小堺、片岡両部隊の富陽における■■廿五日の大殲滅戦は杭州戦線において嘗て見ない目ざましいもので、敵の戦闘司令所はわが松木部隊の砲撃で吹ツ飛ばされ敵の損害は二千名に上り 非常な戦果を収めたが、殊にこの戦闘における歩兵部隊の活躍も物すごく組んづほぐれづの大白兵戦が展開されたのも特筆すべく、中でも広瀬部隊T上等兵(原文実名)は廿五日午後一時半頃高地でラッパを吹いて血路を開かんと逆襲に転じて来た四十余名の敵中に阿修羅のごとく殴り込み突いて突いて突きまくり廿名を銃剣で突き倒した、この時敵の拳銃弾はT上等兵の左足を貫通したがこれにひるむことなくさらに三名を突き殺したのでこの鬼神のごとき働きにさすがの敵も潰走した。(2面右上、5段見出し)
「日の出」昭和十三年一月号
南京攻略戦の花! 報国百人斬り競争 柳川武彦
浅間部隊のK少尉は、月浦鎮附近呉家宅の白兵戦で、敵兵二十人を斬り倒した。和知部隊でその人ありと知られた剣豪H少尉は、二十七人を斬り捲つた。人梯子を組んで 陽高一番乗りをしたM大尉は、左手に軍刀を揮(ふる)つて、群がる二十数人の敵を薙倒し、突き倒し、兵士の中にも敵兵四十人を芋刺しにした猛者があつた。(以上、原文ではすべて実名) かういふ日本刀の奮戦談は、今度の事変で各新聞紙上を次ぎ次ぎと飾つてゐるが、なんといつても痛快無類なのは片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田巌両少尉の「報国百人斬り競争」だ。(以下略)
読売新聞社編輯局編「支那事変実記」第一輯より (一九三七年)八月二十八日
敵兵四十名を薙倒す  羅店門は敵の死守する地点、和知、永津両部隊は二十七日から一斉に攻撃を開始した。夜半に至つて闘志に燃えた我部隊長の指揮する○○部隊は、夜襲により韓宅村附近を攻撃せんとして揚家村附近から南進を開始し、遙河村東側陣地区を通過せんとするや、 敵は突如右側面から攻撃を開始した。小癪なと和知部隊長は全部隊に対し、その右方に向つて攻撃前進を命じ、軍刀を引抜いて敵陣地に阿修羅の如く斬り込んだ。 まつ先に立つて突き進んで行く隊長の身を案ずる部下将士はいよいよ勇気百倍、一発の弾丸も放つことなく敵兵の真ん中に踊り込んで片つぱしから薙ぎ倒し突き殺して進んだ。恒岡部隊長はこのとき三十余名を斬りまくつた。『四十名まで数へたんだが後はわからない』といふ某少尉の奮闘もこのときだつた。(P320)
木村毅『上海従軍日録』より
丁度その晩は、○○師団の和知部隊が羅店鎮を、千メートルの長距離突撃をして、占領した詳報の入つた晩である。『何しろ木村さん、こんな壮烈な白兵戦は有史以来無いですよ』
それはさうだろう。機械的武器を以て、距離をおいて対峙すれば支那兵もなかなかよく戦ふ。だが手許に食ひこまれたら、彼等はまるでたわいが無い。わが軍が敵塹壕へ飛こむと、彼等は気を呑まれて了つて、殆んど抵抗しないから、まるで向ふから斬つてくれと云つて首をさしのべてくるやうに思へたさうだ。三十人斬り、二十人斬りと云ふのを、信じかねてゐる新聞もあつたが、羅店鎮でだけはそれが本当だつたやうだ。(『改造』1937年十月増大号 支那事変特集 P152)*「羅店門」という場所が共通していますので、これは、前の「支那事変実記」に書かれている事件のことかもしれません
『東京朝日新聞』昭和十二年八月二十二日
支那兵廿名西瓜斬り 上海陣の"宮本武蔵"【上海にて高橋特派員二十一日発】 我が東部右翼最前線柴田部隊は十九日午後から二十日払暁にかけて我に十数倍する敵軍と猛烈な戦闘を続けてこれを撃退したが十九日夕刻の戦闘において敵の正規兵、便衣隊の中に踊り込み血しぶきを浴びて敵の頭を四つ刎ね又十六名をなぎ倒した二勇士の奮戦振りが陣中の話題となつてゐる柴田部隊の○○、○両兵曹長(原文実名)がそれぞれ二手に分れ部下数名づつ引率して敵最前線に近づくと突如空家と思はれた民家の陰から数十名の便衣隊が次々にピストルを持つて発砲して来た、その中に数名の正規兵も混つて発砲してゐる「何を小癪な」とばかり両兵曹長は部下を指揮して猛襲する、勇敢無比の我が兵士は片つ端から敵兵を引捕へて来る 両兵曹長は勇敢にも敵中に踊り込んで日本刀を抜き放つて斬つて斬つて斬りまくる、斯くて○○兵曹長は敵の頭を四つ刎ね、○兵曹長は斬りも斬つたり十六人をなぎ倒した、二十一日朝柴田部隊を尋ねると丁度○○、○両兵曹長が最前線出動の前を仲良く並んで一休みしてゐる所だ、両兵曹長は鞘を払つて見せてくれた氷のやうな日本刀にはまだ生々しい血がついてゐる、両兵曹長の持物も無銘であるが相当の業物だ、十六名を斬つたといふのに一ヶ所の刃こぼれもない 支那兵なんてまるで大根か蕪のやうなものさ、いくら斬つたつてちつとも手応へがない、この調子だと戦が済むまで百人以上は楽に斬つて見せるぞ 両兵曹長は豪快に笑ひ立上つて再び前線に向つた
成瀬氏自身も、当時のメディアに現れた話を紹介しています。
成瀬関次「随筆 日本刀」より
 香港ニコルス山の突撃に、岡田中尉が、白刃を揮つて英兵三十六人を斬つて落した話。馬来半島メンキボルの英本国兵の堅陣に対し、板家少尉が二十三名の精兵と共に日本刀を揮つて斬り込み、一隊壮烈なる戦死を遂げてしかも敵を潰走せしめた話。 シンガポール島、ブキ・テマの堅陣を屠り、南貯水池に迫った時、逆襲して来た英戦車八台中の二台に飛鳥の如く躍り上り、日本刀を揮つて敵の乗員五人を斬つて落した大江中尉の話。さては、 軍刀を揮つて爆雷の電動線を切り橋梁の爆破を未然に防いだ事。一兵が短刀を以て敵の宿舎深く忍び込み、敵の将校を刺し殺した事、等々。「日本刀日本人と共にあり。」の感いよいよ深きものあるを感ぜしめずには置かない。(P4)2009.12.13追記
「日本刀の性能」問題に関する、秦郁彦氏の見解を紹介しておきます。
秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より
ついでに解釈が分かれた日本刀の殺傷力をめぐる論争についても触れておこう。最初に問題を提起したのはベンダサン=山本七平で、山本の著書『私の中の日本車』上下(一九七五)における彼の言い分は「日本刀神話の実態」とか「白兵戦に適さない名刀」といった章のタイトルでおよその見当がつこう。 山本が主として依拠したのは、中国の戦場で二千本の軍刀修理に当った成瀬関次の著書『戦ふ日本刀』(一九四〇)などで、自身の経験も織りまぜ、「日本刀は非常に消耗が早く、実際の戦闘では、一回使えばほぼ廃品になってしまう」(R氏)とか「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」(殺陣師の談話)とか「一刀のもとに斬り殺すほど鋭利な日本刀は実際はほとんど皆無」(成瀬関次著より)といったくだりを引用して、「日本刀にはバッタバッタと百人斬りができるものでない」と結論づけている。 こうした山本の所論はその後の論争に大きな影響を与え、百人斬りの全面否定論者たちによって有力な論拠にされてしまう。だが山本の所論は二つの理由から、トリックないしミスリーディングと言えよう。第一は首斬り浅右衛門の処刑法がそうだったように、無抵抗の「罪人」(捕虜)を据えもの斬りする場面を想定外としていること、第二は成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、悪い事例を無視していることだ。成瀬著に目を通すと、刀や剣士の多彩な事例が豊富に紹介されていて、総合すれば日本刀の優秀性が印象づけられる。「戦線には、何等武術の心得もなくして、実に巧妙に、如何様にも断り落とす名手が少くない。こうした今浅右衛門は、どこの部隊にも一人や二人は居る」とか、曲ることはあるが、「二千振近いものの中に、折れは一振も見なかった」とか、日中戦争では器械化戦とはいえ「他面一騎打の原始戦が盛んに行われ・・・斯く大量的に、しかも異国に於て日本刀の威力を発揮した記録は、全く前例のない事」のような記述である。 成瀬は、さらに具体例として無銘古刀の修理にやってきた時目少尉から「南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかった」が、多くは後から追いすがって断ったもので、ランニング選手だった賜物という感想も聞いた。 この少尉は中学校で剣道をやっただけというので成瀬が驚きの目をみはると、「いや、もっとえらいのがいる。それ、新聞にも出たろう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺という人間だよ」と、向井少尉らしき人物が引き合いに出されている。 また『ペンの陰謀』に寄稿した鵜野晋太郎少尉は、捕虜十人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を書き、「人斬りが面白くなり、同期生を見ても"いい首をしているなあ"と思うようになった」と告白した。鵜野によれば、「百人斬り競争」とは「据え物断り競争」のことだという。 白兵戦の機会はほとんどなかったはずだとか、一刀で何人も斬る前に日本刀が破損するはずといった臆断は必ずしも当らないことが知れる。 (『政経研究』2006年2月 P96-P97)2004.6.20記 2006.6.7資料追加、2007.6.17資料追加 2009.12.13秦郁彦氏見解を追記)

Bunshun Bunko “The Japanese Army in Me (Part 1)” by Shichihei Yamamoto
ー自己の軍隊体験をもとに日本軍についての誤解や偏見をただし、さまざまな“戦争伝説”“軍隊伝説”をくつがえした名著"A masterpiece that corrects misconceptions and prejudices about the Japanese military based on his own military experience, and overturns various "war legends" and "military legends."

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