日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

80年代Boxing☆ボクシング☆観戦記Cus D'Amato⇔마이클 제라드 "마이크" 타이슨Michael Gerard "Mike" Tyson ★위령비慰靈碑★James "Black Gold"Shuler/Vernon Forrest/Duane Thomas/Emanuel "Manny" Steward+События сентября — октября 1993 года в Москве

2018年6月23日(土)Samdi (Saturday)Richmond Hill, Ontario Weather Sat Jun 23 2:05 PM 17°C FEELS LIKE 17 Overcast おはようございます。安息日の朝は「雨模様」。さっき、あがってきた「オウム真理教」のドキュメンタリーをみていました。東京都中野区の教団附属医院や「ヨガ道場」さらには富士山麓(行ったことありません)から九州(熊本・宮崎(同じく)。中野区内の選挙宣伝(雨の中(当時入院中だった)苦い回想)~♪そそそそそ尊師~♪麻原は学生時代「ヴォーカル」もやっていたとやら=全員落選(これを「投票箱すりかえ」と決め込んだ妄想が過激化を誘い=結果として、あのテロに発展してしまう)。ともあれ日本各地の映像・・・あんまり「なつかしい」とか感じなくなってる。エリツィン時代(強権独裁+個人的野望)の腐敗・頽廃のにおい(身内贔屓・親族支配)が充満した「モスクワ赤の広場」(麻原がいること自体、「ソ連時代」ではありえない)とかも目に入った(崩壊後、多くの人々が「新たな救い」を宗教信仰に求めた+ルツコイ副大統領(元ソ連空軍少将=陸軍大将の称号も享受)、ハズブラトフ最高会議議長(経済学者=チェチェン人)との会見や故エリツィン氏をみたのもしばらくぶり(文末脚注)。そんなこんな、また「ボクシング」で「自然治癒力?」(楽に気ままに前向き志向=ご褒美に=脳内モルヒネ?)は別として、一新したいもの。↓さる別個の事情が重なってる痛恨の試合


(1)1986年3月10日 北米ミドル級タイトルマッチ 王者(世界1位)故ジェームス・シュラー(モスクワ五輪米代表(178勝6敗)22連勝(16KO)無敗)対挑戦者元2階級王者(世界2位)トーマス・ハーンズ(147勝8敗+40勝(34KO)2敗=61勝(48KO)5敗1分)ラスベガス(雨のシーザーズパレス屋外特設会場)
ーこの試合、往年の東京テレビ(12チャンネル)で録画放送があった。何週間も前から、楽しみにいろいろ展開予想などなど(懐かしく思い出す)。メインは世界ミドル級タイトルマッチ ハグラー(62勝(52KO)3敗1分)VSムガビ(26連勝(26KO)無敗=42勝(39KO)7敗1分=ハグラーの11回KO勝ち+これよりシュラーVSハーンズの方が楽しみだった)。そのセミだったこの一戦。結果はハーンズが初回KO勝ち。しかしなんともはやな背景と状況・・・ちょうどまだ「暴走族」はやめたながら、「ゴロツキファッション」時代。たちの悪いヤクザ者の先輩が「服」を売りに来る(でも何時かは不明)。だけどとても断れない(始まった後の試合中に乗り込んでこられたら大変)。しょうがなく諦めて、「録画」にしました(もう1人の奴の家で待っていた=むなしく「毎度お騒がせします2」(「コレアリ」で久しぶりに拝んだ清水宏次朗氏(むかし(BE-BOP時代)より全然凄みと迫力があった(笑)が出ていたのを記憶)をみていた(苦笑+いま、回顧)。せっかく「結果を知らず」(ライブに近い形)見られるのに残念(生活環境+素行の悪さがすべて苦笑)。真夜中に見始めた。
ーミドル級の上位世界ランカーたち(注)を次々連破して駒を進めたスイッチ・ヒッターのシュラーは、ちょっと固くなっていたように見えた。一方、ハーンズはハグラーのミドル級タイトルに挑み、3回痛烈なKO負けした再起戦(骨折した右拳の完治が心配された)。ゴングが鳴り、ハーンズは絶好調(シュラーはこの試合は終始オーソドックス(右構え)で戦った)。スピードあふれる左ジャブ、そして長い距離から放つ左アッパーボディーブローの連発が印象深く、速さが違った。連打から右ストレート一が炸裂しシュラーは轟沈(しばらく起き上がれなかった)。何もできないままの初黒星(連勝ストップ)。ノックアウトされてしまった別名’ブラック・ゴールド’シュラー(James Shuler (May 29, 1959 – March 17, 1986) のこれが、ラストファイトとなってしまう(この直後、運転していたオートバイで事故死)。(注)1、シュガー・レイ・シールズ(サウスポー・ミュンヘン五輪金メダル(338勝12敗+57勝(34KO)8敗3分)*この試合のシュラーは、およそ60~70%は右構え)2、クリント・ジャクソン(サウスポー・モントリオール五輪代表(139勝14敗+23勝(18KO)2敗=25勝(19KO)7敗)3、2位ジェームス・キンチェン(無敗対決34連勝(29KO)2分=49勝(34KO)9敗2分)*この試合は約70~80%はサウスポーだった)←判定勝利ながら強敵相手=みんなアメリカ黒人選手。
(2)1987年7月18日 WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者マイク・マッカラム(米=世界選手権+モントリオール五輪ジャマイカ代表(240勝10敗)+31連勝(28KO)無敗=49勝(36KO)5敗1分)対挑戦者ドナルド・カリー(モスクワ五輪米代表(400勝4敗)+27勝(20KO)1敗=34勝(25KO)6敗)ラスベガス(シーザーズ)
ー結果はマッカラムの5回ノックアウト勝ち。カリーは一発の左フックを顎に浴び、仰向けに倒れた。アメリカに到着してまだ2ヶ月も経たない夜。予約録画していたのが、その夜の「悪天候」(雷と大暴風雨)に襲われた。停電ですべて消えたので失敗。ニュースで贔屓のカリー敗戦を知りがっくり(悲しかった涙)。実際に試合をみれたのは、結構な時間がたった後になる。内容は高度な技術合戦となり、息をもつかせないハイレベルな攻防だった(「裏の裏を読む」「相手のミスを誘う」「カウンターの狙い合い」)。ながらも2回終了間際、カリーの右ストレートが豪快にテンプルを打ちぬいた。マッカラムの膝がおれ、ガクガクとよろめく(よく踏みとどまったと解説陣も感心していたほど)。カリーやや優勢のまま運命の「5回」を迎える(この回も、カリーは再三左フックから右ストレートのコンビネーションを当て好調だった)。パンチの交換が終わり、一瞬油断し無防備になったカリーの顎にマッカラムの左フックが横殴りに命中。背中から倒れ、後頭部を打ったカリーはそのまま10カウントを聞く。他の頁で語ったよう本来は王者同士「無敗対決」のスーパーファイトで行われるはずだった一戦(実現が、カリーが一敗地に塗れ王座転落後になってしまったのは、いまだに残念)。加えてカリーは再起2連勝したとはいえ、いずれも「反則勝ち」で勢いも停滞中だった(双方、度重なる相手(モンゴメリー戦(7回までに3度ダウンを奪いKO寸前だったが)サウスポーの元IBF王者サントス戦(カリーが優勢だった5回、バッティングが続きストップ)の意図的な頭突きによる失格負け)。試合後のインタビューでマッカラムはしきりに「カリーは偉大なチャンピオン。最高のボクサー。すばらしい選手だ」と敗れたライバルを讃えていたのがうれしかった+カリーは試合前「負けたら引退する」と豪語していた。けど試合後「何も覚えていない」と語り、あまりに悔しい負け方だったので再起を宣言した。PS:10年ほど前の情報で、カリーは残念ながら「路上生活者」に近かった。引退後巻き込まれた「麻薬取引」の嫌疑。結局、無罪を証明したとはいえ、長引いた裁判(弁護士料など)で財産をすべて失ってしまったという。離婚した妻に子供たちの育児手当不払いなどで拘束、収監されたり、拘置所を出たり入ったりという記事もさびしい限りでした。記憶しているのは、地元のユースセンターでボクシングコーチとして働きはじめた。近況は不明ながら、多少は改善していることを願うのみ。
Donald Curry est un boxeur américain né le 7 septembre 1961 à Fort Worth, Texas(ドナルド・カリーは1961年9月7日、テキサス州フォートワース出身のアメリカ人ボクサー).In January 1995, Curry was acquitted on all charges(1995年1月、全ての告発(起訴)からカリーは免罪された), Chambers was found guilty (チャンバーズ氏は有罪)and Longstreet took a plea deal(ロングスター氏は司法取引). "I have been systematically(私は組織的に)...lynched(私刑(リンチ)にされた) and(加えて) then(それから) castrated (骨抜きにされた)by, first,(はじめに) the news media(報道ニュースにより), and then(さらにそれから) by the criminal justice system(刑事司法制度)," Curry said afterward(カリーは後に言及). He also said paying for his legal defense destroyed him financially(彼はおなじく、弁護士料支払いにより経済的に破産したと語る).

1987年9月5日 WBA世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者レスリー・スチワート(トリニダード・トバゴ=18連勝(15KO)=23勝(18KO)1敗(マービン・ジョンソン(サウスポー・ミュンヘン五輪銅)との決定戦で7回TKO負け(再戦において8回TKO勝ちで雪辱+戴冠)=31勝(20KO)12敗)対挑戦者バージル・ヒル(ワールドカップ銅メダル・ロス五輪米代表銀メダル(決勝で韓国の申俊燮(ワールドカップ金メダル)신준섭(サウスポー・プロ入りはせず)に判定負け)288勝11敗+18連勝(12KO)無敗=51勝(24KO)7敗)
ーこの試合は、まだまだアメリカに慣れない到着3ヵ月後ぐらいでした。録画して楽しみにみたのが懐かしい。結果は大方の予想を覆し、ヒルがスチワート(長期政権が予想されていた実力派王者)を4回に沈め新王者に輝く。’クイック・シルバー’の異名通り、初回から鋭い左ジャブを突きながら旋回(故エディ・ファッチトレーナーの見事な戦略だった「(3回終了後)そろそろじれて、打って出て来るぞ」)。その通り、じれたスチワートが出てきたところ、得意の左フックをカウンターで炸裂させ最初のダウンを奪い。さらに左フックの二三連発を命中させ、グロッキーのスチワートは倒れそのまま立ち上がれなかった。前年現役引退したばかりの、若きフレディ・ローチがヒルのサブ・トレーナー。
(文末脚注)1、アレクサンドル・ウラージミロヴィッチ・ルツコイ(Александр Владимирович Руцкой、Aleksandr Vladimirovich Rutskoi、1947年9月16日 - )は、ソビエト連邦及びロシア軍人、政治家。ロシア副大統領。空軍では少将まで累進している。のちに陸軍大将の称号を得る。ソ連邦英雄+フランス語→Alexandre Vladimirovitch Routskoï (en russe : Александр Владимирович Руцкой), né le 16 septembre 1947 à Proskouriv en URSS (désormais en Ukraine), est un militaire soviétique et un homme politique russe. Il fut le vice-président de Boris Eltsine du 10 juillet 1991 au 4 octobre 1993 et Président non reconnu de la fédération de Russie pendant deux semaines durant la crise constitutionnelle russe de 1993.2、ルスラン・イムラノヴィチ・ハズブラートフ(ロシア語: Руслан Имранович Хасбулатов、Ruslan Imranovich Khasbulatov、1942年11月22日 - )は、ロシアの政治家、経済学者。エリツィン時代前期にロシア最高会議議長を務めた。チェチェン人。経済学博士+ドイツ語→Ruslan Imranowitsch Chasbulatow (russisch Руслан Имранович Хасбулатов; * 22. November 1942 in Grosny, Tschetschenien) ist ein russischer Politiker und Wirtschaftswissenschaftler.Er war von 1991 bis 1993 Vorsitzender des Obersten Sowjets Russlands (Parlamentspräsident)10月政変(じゅうがつせいへん)は、1993年10月、ロシアの新憲法制定をめぐって当時のエリツィン大統領と、ハズブラートフ最高会議議長・ルツコイ副大統領を中心とする議会派勢力との間いで起きた政治抗争である。モスクワ騒乱事件(モスクワそうらんじけん)とも呼ばれる+ロシア語⇒Разго́н Съе́зда наро́дных депута́тов и Верхо́вного Сове́та Росси́йской Федера́ции (также известный как «Расстрел Белого дома», «Расстрел Дома Советов», «Черный октябрь», «Октябрьское восстание 1993-го», «Указ 1400», «Октябрьский путч», «Ельцинский переворот 1993 года»)



2018年6月29日(金)Vendredi(Friday) 
(1)、2005年6月18日=アイク・クォーティー(ソウル五輪ガーナ代表(50勝4敗)+35勝(30KO)2敗1分)VSバーノン・フィリップス(38勝(20KO)10敗1分=42勝(21KO)12敗1分)ノンタイトル10回戦=テネシー州メンフィス
ークォーティーは無敗対決の世界ウェルター級王座統一戦でオスカー・デラホーヤ(世界選手権銀メダル・バルセロナ五輪米代表金メダル(234勝6敗+38勝(30KO)6敗=5階級制覇)とダウン応酬の末、2-1の判定負けで初黒星。続いてフェルナンド・バルガス(アトランタ五輪米代表(100勝5敗+26勝(22KO)5敗)のIBF世界スーパーウェルター級王座に挑戦して判定負け。以後、約5年のブランクから復帰してきた第2戦(再起戦は地元ガーナ首都アクラで8回KO勝ち)。一方、フィリップスは元WBO王者の手強い相手。結果はダウンを奪われながらも、クォーティーが2-0の判定で辛勝。2階級制覇に向け駒を進めた。初回、クォーティーのバズーカジャブにフィリップスは右クロスカウンターを合わせ炸裂させる。ぐらついたクォーティーは危なかった(さらにフィリップスの右を何発か浴びた)。ブランクによる錆びつきは隠せず。2回もフィリップスは果敢に攻撃する。クォーティーは不用意に打たれながらも、強烈な右フックを頭に命中させる、これ以降フィリップスは慎重になった。そのままクォーティ-は試合を優位に進める。そこで迎えた9回、ノックアウトを狙って打ち気にはやったところ、フィリップスの左フックがカウンターとなる。クォーティーダウン。ながらフィリップスも疲労の色濃く、ヨロヨロしているクォーティーを仕留めることはできなかった。
(2)、2006年8月5日=アイク・クォーティー(37勝(31KO)2敗1分)VS故バーノン・フォレスト(世界選手権銀メダル・バルセロナ五輪米代表(225勝15敗)+38勝(28KO)2敗(無敗対決でモズリーから判定でタイトル奪取(再戦(判定勝ち)も返り討ち)+マヨルガにKO負けで転落(再戦も判定負け)1NC(フランクとのIBF王座決定戦+再戦は判定勝ちでタイトル奪取)=41勝(29KO)3敗1分)ともに元世界ウェルター級王者。ニューヨークMSG
ーまず故フォレストに追悼(享年38歳=2009年、地元ジョージア州アトランタのガソリンスタンドで、強盗の襲撃を受け射殺されてしまった)。挑戦者決定戦となったノンタイトル10回戦。フォレストも肩の負傷と手術で2年のブランク(再起後2連続KO勝ち)。結果はフォレストが3-0の判定勝ち。しかし、大いに議論を呼ぶ判定となった。ブーイングが巻き起こり、勝利を確信していたクォーティーは呆然自失(HBO放送の採点では、5ポイント差でクォーティーの勝ちだった)「(腕を組んで黙りこんだまま)非常に落胆した。何もいえない」。試合前の控室では、準備万端整った2人がウォーミングアップしながら出番を待っていた。軽く体を動かし、自信満々の笑みを浮かべるクォーティー(入場時は一転(「自信過剰」を批判されたこともあり)眼光鋭く気合が入っていた=よく見返すお気に入り)。一方、厳しい表情で補助トレーナーの元2階級王者バディ・マクガート(アマ54勝9敗+73勝(48KO)6敗1分)のミットにパンチを打ち込むフォレスト。横でみているのはトレーナー元王者マーク・ブリーランド(アマ110勝(70KO)1敗(世界選手権金メダル・ロス五輪米代表金メダル+アマ時代も来日した)+35勝(25KO)3敗1分・来日し、尾崎富士雄の挑戦を4回TKOで退けた=尾崎(全日本新人王決定戦で赤井英和(元アマ高校+大学王者)に3回KO負け+対田端(1+デビュー戦(初回KO勝ち)同じくライブ観戦☆=長身でパンチがあり、センスも抜群「いい選手が出てきたなあ~」(その後8連続KO勝ちで全日本新人王)とびっくりしました)友成(2)=双方4回KO勝ち(後楽園ホールでみました☆)のラスト・ファイト)。フォレストは試合を通じて距離をとり、長いジャブからストレートを放った(手数では勝っていた)。けど有効なクリーンヒットはクォーティーの方が多かった。ブリーランドはクォーティーの弱点として「射程外に追う形でジャブを打つときは(飛び上がる態勢になり)後ろ足がマットから離れてしまい、威力が半減する」フォレストは指示を忠実に守った戦い方をしたといえる(真正面に立たず(よく動き)常に先手をとった)PS:フォレストは、稼いだ莫大なファイトマネーのほとんどを孤児院や貧しい子供たちなどに寄付していたそう(死後に分かったこと。恥ずかしがり屋で慎ましかったフォレストはほとんど口外しなかったらしい)。誰もが死を惜しみ痛ましく、悲惨な最後となりました。
Vernon Forrest (January 12, 1971 (1971年1月12日生まれ)– July 25, 2009(2009年7月25日死亡) was an American professional boxer who competed from 1992 to 2008(バーノン・フォレストは1992年から2008年まで戦ったアメリカのプロボクサー).[1]  In 2009, Forrest was murdered after he was robbed at a gas station in the Mechanicsville neighborhood of Atlanta, Georgia(2009年、ジョージア州アトランタのガソリンスタンド。強盗に襲われ射殺された)。.


(1)、1988年7月8日=WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者ジャンフランコ・ロッシ(後にIBFJ・ミドル級王座獲得(白人ホープだったバンホーン(ハインズ(米黒人・サウスポー)にダウンを与え、判定勝ちで戴冠)からダウンを奪い、大差の判定勝ちで奪取+再戦でも判定で返り討ち)→11度防衛)+43勝(15KO)2敗(ハニガンに3回KO負け)→62勝(18KO)6敗1分1NC)VS挑戦者1位ドナルド・カリー(29勝(21KO)2敗)
ー結果はカリーが合計5度のダウンを奪い10回終了TKO勝ちで2階級制覇なる。王者ロッシ(アキノ(メキシコ)に判定勝ちでタイトル獲得)の地元イタリアでの一戦。初防衛戦では前王者トーマス(初防衛戦でアキノにダウンを奪われ判定負け=転落)を圧倒し、7回TKO勝ち。「カリーだろうと誰だろうと戦う準備はできている」と自信満々だった。一方、カリーはその前王者アキノ(カリーのライバル、前ウェルター級王者マクローリーから2度のダウンを奪い判定勝ち)に12回判定勝ちしたばかり(再起後2連勝(1KO))。でも例のメイラーン氏がレフェリー(苦笑)。試合を通じて7回のダウン(右のカウンターが炸裂)を黙殺したり、奇怪な行動が続いた。カリーはクリンチ戦法で突っ込んでくるロッシに、左フックのカウンターを浴びせ何度も倒した(2回、4回、7回(2度=本当は3度)にダウンを奪う)。「今日負けたらもう後はない。こんなに緊張したのははじめてだよ」(カリー言)。この試合は忘れられない。ちょうどアメリカ人6~7人の家に住んでいたころ。おまけに「群発頭痛」(でもこの当時はまだ「歯医者」)の周期中で一番ひどいとき。アメリカ人老人から買った大きいけど、古いテレビ(映りが悪かった)=試合がはじまってからの観賞中発作で中断せざる負えず。床に転げまわってた(録画したビデオをじっくり見た)。なおカリーはこの戴冠により、1位のムガビとの夢のカード対決がほぼ決まっていた(「ハニガンに雪辱したい」とも語っていた)。しかし敵地フランスでの初防衛戦、地元の挑戦者ジャコに判定負けし、あえなく王座転落(「相手をなめていたのが敗因」(カリー言)=ポカをしてしまう+ここ一番の勝負強さに欠けていたのかも知れない)。実現しなかったのは残念でしょうがない(ムガビはジャコに敵地で初回TKO勝ち、念願の王座に就く(初防衛戦でノリスに初回KO負け=転落)。
(2)、1990年10月18日=IBF世界ミドル級タイトルマッチ 王者マイケル・ナン(アマ168勝8敗+35連勝(23KO)無敗=58勝(38KO)4敗)VS挑戦者2階級制覇ドナルド・カリー(33勝(24KO)3敗)
ーフランスの首都パリでの試合。サウスポーの王者ナンが10回にカリーをノックアウト。カリー老いたり、3階級制覇ならず。ナンはこの試合の前にグーセン兄弟から離れ(マネージャーなし状態)、アンジェロ・ダンディをトレーナーに迎えた。カリーは、たびたび往年のカウンターを命中させ(ただナンはミドル級でも長身で体が大きい=後にL・ヘビー級に転向。3階級下のウェルター級出身のカリーのパンチはあまり利かなかった)、前半は優勢だったながら、後半はナンのワンサイド(晩年の傾向としてカリーは終盤戦、疲れがみえてくる)。倍ほどの手数を出しカリーをストップ。リングサイドに、イタリアに移住した元王者ハグラーが懸命に元ライバルのカリーに声援を送っている姿がみえた。試合後、故スチワード及び引退したカリーの元ライバル(カリーの2連勝(北米タイトルと世界タイトル戦=双方、判定負け))スターリング(ナンにも挑戦。判定負け+(無敗の王者ブリーランドに11回KO勝ちでウエルター級タイトル強奪+再戦は引き分け防衛)アメリカで尾崎富士雄の挑戦を判定で退けた(後の統一王者))を交えたSHOWTIME番組の座談会(司会ドクター・パチェコDr. Pacheco)が興味深い。「私は絶対、ドナルドにグローブを壁に飾ること(引退)を勧める。お金も稼いだだろうし、もういいじゃないか。これ以上戦う理由がない。戦えば、今まで成し遂げたことを台無しにしかねない・・・この階級では体力が十分じゃないし、彼の技量(才能)は低下している。これから先、どのようなトップボクサーにも勝てないだろう」(故スチワード言)。スターリングはナンのヒルへの挑戦を提案していた。この試合のときはモントリオールにいました(ライブ放送はなく、当時は購読していた雑誌『リング誌』『KOマガジン』で結果を知った)。カナダはアメリカに比べ、ボクシング放送は格段に少ないんです。



(1)、1986年9月6日 マイク・タイソン(26連勝(24KO)無敗=50勝(44KO)6敗2NC)対アルフォンソ・ラトリフ(元世界クルーザー級王者=21勝(16KO)4敗=25勝(18KO)9敗)ヘビー級ノンタイトル10回戦 ラスベガス
ータイソンは弱冠20歳。世界挑戦へ向け最終準備のテスト試合。結果はタイソンが2回にラトリフを沈めた。ダマト・スタイル時代の試合の中でも、とりわけタイソンは調子がよかった。スピードと切れ味が抜群さらに、強打の連続による破壊力も申し分なし。鋭いジャブを突き、すり足のフットワークでラトリフを追い。ロープに詰めては力強いパンチを叩き込む(必ずボディー・ブローがコンビネーションに入っている)。頭はいそがしく動かす。精巧に組み立てられていたスタイルだった。HBO解説はレナード。当時17歳。横浜(会社は港北)で解体作業仕事。ずいぶん前の話になりました。
(2)、1990年6月16日 マイク・タイソン(37勝(33KO)1敗)VSヘンリー・ティルマン(ロス五輪ヘビー級優勝金メダル(48勝6敗)+19勝(14KO)3敗=25勝(16KO)5敗)ヘビー級ノンタイトル10回戦 ラスベガス
ー東京でダグラスに初黒星を喫したタイソンの再起戦。相手はロス五輪国内予選決勝で2連敗したティルマン(初戦が議論を呼ぶ判定だったため、再戦がもたれた)。この試合から、トレーナーは元ラリー・ホームズのトレーナーだったリッチー・ジャケッティ。結果はタイソンの初回KO勝ち(右フック一発でティルマンを仰向けに引っくり返した)。ながらも、やはり「ダマト・タイソン」時代に思い入れが深いものとして、↑との違いに愕然としてしまう。ベタ足で踏み込みもそれほど鋭くない。スピードもあまりなく、ティルマンに回りこまれてしまう。ドタバタしたフットワークで、バランスも悪かった。強引に前へ出た瞬間、ティルマン得意の右ストレートをまともに食らう場面もあった。一発一発、豪腕を振りまわすだけで雑いヘッドハンター「打たせて打つ」スタイル。ケビン・ルーニー元トレーナーの談話:「ガードが低いし、上体の振りもない・・・マイクをダメにしてしまった・・・マイク、キャッツキルに戻ってこい!行き違いなんて、話し合えば解決するはずじゃないか」。タイソンによれば「今日は’ピーカブー’(いないないばあ=(ダマト式)のぞきみガード)を使わず、俺のスタイルで行った」そうです。これは日本の放送でみました(いつもながら、長嶋茂雄氏がなんで「ボクシング」(しかも「ラスベガス」からの衛生中継)の’解説’に出てるのか?(いい加減なことばっかりぬかしてるのに閉口→)「左は’必要以上に’出てますねぇっ!(●_●」「ああ~そうですかあ~!(●_●→(~_~;)。


(1)、1988年6月27日 世界ヘビー級タイトルマッチ 王者マイク・タイソン(34連勝(30KO)無敗)対挑戦者前IBF王者マイケル・スピンクス(モントリオール五輪ミドル級優勝金メダル(93勝7敗)+31連勝(21KO)無敗) ニュージャージー州アトランティックシティ
ー世紀のスーパーファイト=双方20億円以上?のファイトマネー。ポートランドの市民会館に設置された大スクリーンで見た。試合前、タイソンは契約上の問題及び離婚騒動なども加わり、調整不足が懸念された。しかし初回ゴングが鳴るや、スピードがあり速攻が功を奏す。ロープに詰めて左アッパーを炸裂させ、右フックで脇腹を横殴り。スピンクスはダウン。立ち上がったところ、右フックがカウンターとなり、スピンクスはロープ際へ吹っ飛ばされた(そのまま10カウント)。タイソンの見事な初回KO勝ち。まさかこれが全盛期最後の試合になってしまうとは想像していなかった。そしてこちらもまた、「日本の放送」はなんと『塀の中の懲りない面々』故安部譲二氏(有名人?=ベストセラー作家+元極道)が’解説’(ザ「我が国」らしいけど嘆息)→「やぁったああ~!!

(^○^)」。
(2)、1990年8月12日 マイク・タイソン(38勝(34KO)1敗)対アレックス・スチワート(デビュー以来24連続KO勝ち=26勝(26KO)1敗(イベンダー・ホリーフィールド(ロス五輪米代表銅メダル(160勝14敗)+28連勝(22KO)=44勝(29KO)10敗2分)に8回TKO負け)=43勝(40KO)10敗) ヘビー級ノンタイトル10回戦 アトランティックシティ
ー再び↑のダマト・スタイル時代との差異に思わずため息が出てしまう。初回、タイソンは3度のダウンを奪いKO勝ち。ながらもかつてのきめの細かい動きは陰をひそめ、振りまわす強打のパンチャーになってしまい、ボクシングが変ってしまったのを実感。真正面から不用意に突進するたび、危ないパンチをもらっていた。カナダでは基本的に「SHOWTIME」の放送はみれない(だからこの試合もモントリオールのスーパー。『リング誌』の立ち読みで結果を知りました)。そしてこの頃、ライバルのト二ー・タッカー(元IBF王者(クロンク出身・モスクワ五輪代表・ワールドカップ優勝金メダル(115勝6敗)+ダグラスに10回TKO勝ち)=タイソンとの統一戦で判定負け(初黒星=34連勝(29KO))は「タイソンのトレーナーはルーニーが一番あっていると思う」と語っていた。



(1)、1987年10月16日 統一世界ヘビー級タイトルマッチ 王者マイク・タイソン(31連勝(27KO)無敗)対挑戦者1位タイレル・ビッグス(世界選手権金メダル・ロス五輪スーパーヘビー級優勝金メダル(108勝6敗)+15連勝(10KO)無敗=30勝(20KO)10敗)アトランティックシティ
ーこの試合はアメリカでHBOライブ放送、みました。結果はタイソンが7回、2度ダウンを奪いKO勝ち。ビッグスはアマ時代、スターだった選手。この試合もタイソンはスピードがあり、ビッグスの「アリ戦法」長いジャブをことごとく外し、逆に速くて強いジャブを突き刺していた。
(2)、1991年3月18日 マイク・タイソン(39勝(35KO)1敗)対ドノバン・ラドック(25勝(18KO)1敗1分=40勝(30KO)6敗1分) ヘビー級ノンタイトル12回戦 ラスベガス
ーこのときは、モントリオールでホッケー会場の大スクリーンでみた。結果はタイソンが3回と4回にダウンを奪い、7回TKO勝ち。しかしラドックのパンチもかなり当っていた(特に、6回終了間際は危なかった)繰り返しになってしまいますが、やはりタイソンのボクシングが変わってしまったのが残念だった。体も、ダマト・タイソン時代より一回り小さくなってる。そしてレフェリー(リチャード・スチール)のストップは早過ぎたと今だに思う。タイソンが左右アッパー、フックを4連発叩き込み、ラドックをロープに吹っ飛ばした時点でストップ(たちまちリング上で両陣営入り乱れ、大乱闘となる)。会場内も盛り上がった瞬間、冷却した感じ。物足りなさが充満、野次が飛んでいた。



(1)、1985年3月17日 世界ミドル級1位ジョン・ムガビ(モスクワ五輪ウガンダ代表銀メダル(106勝6敗)+24連勝(24KO)無敗)対アール・ハーグローブ(26勝(25KO)1敗(デビュー以来24連続KO勝ち)=32勝(28KO)6敗)J・ミドル級ノンタイトル10回戦 フロリダ州タンパ
ー結果はムガビ(The Beast=「野獣」の異名)が初回ノックアウトで連続KO記録を更新。豪打荒れ狂う乱戦となったがムガビはまず、左フックのカウンターを炸裂させダウンを奪う。続いて大きな右のスウィングを何発も命中させ、最後は左フックから右ストレートでハーグローブを仕留める。ウガンダからイギリスに亡命。タンパを主戦場としていた。
(2)、1986年12月5日 WBC世界J・ミドル級王座決定戦1位ジョン・ムガビ(26勝(26KO)1敗)対2位故デュアン・トーマス(アマ90勝5敗+28勝(20KO)1敗(後のIBF王者バスター・ドレイトンに7回TKO負け(傷による出血のため)=31勝(21KO)3敗) ラスベガス
ー残念ながらトーマスは2000年、デトロイトの路上で強盗に襲われ射殺されてしまった(10年ぶりに36歳でカムバック=6回判定勝ち。そして惨事、悲しかったです=Duane Thomas (February 1, 1961 – June 2000))。結果は大方の予想を裏切り、クロンク出身のトーマスが3回TKO勝ちで新王者に輝く(同僚で兄弟子ハーンズが返上したタイトル)。ムガビは一階級上のハグラーに挑戦して11回KO負けした再起戦。減量がきつかった様子。試合前の睨み合い=トーマスと師匠スチワードは緊張していた。かたやムガビはいつもの無表情+マネージャーの「名伯楽?」ミッキー・ダフは自信満々の笑顔を浮かべていた。初回からトーマスは真直ぐ伸びる左ジャブを放つ。ムガビは2回、豪快な右のスウィングによるクロスカウンターをトーマスのテンプルに叩き込んだ。3回も優勢でノックアウトを狙って出たが、サミングを受け(トーマスが左フックを打ったとき親指部分が左目をこすった)、後ろ向きになってしまっためストップされてしまう。トーマス陣営は師匠スチワードをはじめ歓喜。ハーンズが笑顔で同僚を抱擁し、祝福していた。一方、ムガビ陣営はミッキー・ダフをはじめ、激しく抗議していた。



2018年7月2日(月)Lundi(Monday)
(1)、1996年4月12日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者アイク・クォーティー(31連勝(27KO)無敗)対挑戦者ヴィンス・フィリップス(ソウル五輪国内予選敗退(90勝10敗)+33勝(24KO)1敗(アンソニー・ジョーンズに傷によるTKO負け)=48勝(34KO)12敗1分)カリブ海セイント・マルタン島(北半分=仏領・南半分=蘭領)
ー結果はクォーティーが3回ノックアウトで圧勝。ベストファイトのひとつ。トロントでみました。フィリップスは初回から勇敢に打って出たが、クォーティーの固いガードを破れず。また、フィリップスはウェルター級では体がやや小さい。クォーティーのバズーカジャブは破壊力満点で、3回に捉えられてしまう。完敗だった。フィリップス自身「ジャブだけでフラフラになってしまった。あんなに強烈なパンチを受けたことがない」と試合後脱帽。なお後にスーパーライト級の世界王者となったフィリップスが呼びかけた再戦についてクォーティーは「フィリップスとは再戦する必要はないと思いますがどうでしょう?」と答えていた(続いて「申し訳ありません。私にとって日本はまったく未知の国です」『ボクシング・マガジン』誌)。HBO解説はフォアマン(から故スチワードそしてレノックス・ルイスと続く)。
(2)、1997年5月31日 IBF世界スーパーライト級タイトルマッチ 王者コンスタンチン・ジュー(世界選手権金メダル・ソウル五輪ソ連代表3回戦敗退(259勝11敗)+18連勝(14KO)無敗1分(幻の初回KO勝ち(この1試合前)=あっという間に3度ぶっ倒した)→31勝(25KO)2敗1分)対挑戦者ヴィンス・フィリップス(35勝(26KO)3敗(ソウル五輪米代表のロマリス・エリスに判定負け)ラスベガス
ー大番狂わせ。フィリップスが7回にダウンを奪い(ジョニー・ルイストレーナー(豪州人)はジューに「コンスタン、ガードを上げてなきゃダメだ」としきりに注意していた)、10回に無敗のジューをストップ。新王者に輝く。これもトロントでみました。ただ、娘が小さかったので寝た後に、録画ビデオでじっくり観賞。壮絶な打撃戦となった(9回までの採点は、ほぼ互角の三者三様)。ジューは前半倒しにかかり(いいパンチもかなり命中していた)、仕留められず後半疲れがみえた。さらにフィリップスはこの階級だと体が大きい。ガードを低く下げて目でよけるタイプのジューは、試合を通じてフィリップスの左フックで横から叩かれ、正面から速いジャブと遠い距離からの右ストレートを繰り返し浴びてしまった。フィリップスは麻薬依存を克服して、見事王者に就いた(同郷(フロリダ州ペンサコーラ)出身で幼馴染の解説(HBOアフターダーク)ロイ・ジョーンズも大喜び)。痛恨の初黒星を喫したジュー「・・・ガードを上げていても下げていても関係ない。今日はやるべきことができなかった」。後にジューはWBC王者となったが、相性の悪さを考慮してフィリップス(4度目の防衛戦でミレット(アマ時代、ジューに判定負け)に5回KO負け)との再戦には応じなかった。フィリップスは後に来日し、K-1の魔裟斗にKO負け。



(1),1999年2月13日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者オスカー・デラホーヤ(29連勝(24KO)無敗)対挑戦者前WBA王者アイク・クォーティー(34連勝(29KO)無敗1分)ラスベガス
ー事実上の統一戦(無敗対決)。歴史に残る名勝負となった。デラホーヤが2-1の判定で防衛成功。トップ中のトップ選手による高度な息詰る攻防、忘れられない(ストレート主体、スピードあふれる中間距離での睨み合い。一般で言う、クリンチのない試合)。クォーティーに関して不幸だったのは、およそ1年のブランク(対戦が決まっていた前王者パーネル・ウィテカー(世界選手権銀メダル・ロス五輪金メダル(201勝14敗)+40勝(17KO)4敗1分=4階級制覇)が、麻薬絡みの問題により試合が流れたため)。6回にダウン応酬があった。開始ゴング直後、デラホーヤの左フックが顎に命中しクォーティーは尻餅をついた。KOを狙って出たところ、今度はクォーティーの左フックがカウンターとなりデラホーヤが尻餅をつく(効いていた)。クォーティーが俄然攻勢に転じ、数発有効打を当てたところでレフェリーの故ハルパーン氏が(注意のため)ストップする(激しいブーイング)。しかしクォーティー優勢のまま迎えた最終回、デラホーヤは再び左フックを叩き込みダウンを奪い、その後、猛攻(10-7につけたジャッジ(ひとりは(116-112でデラホーヤ)森田健氏)が2人いた。スプリットデシジョン(116-113デラホーヤ・114-115クォーティー)。この回がなければ、クォーティーが勝っていた。判定が下るや、勝利を確信していたクォーティーは呆気にとられ試合後「10回と12回以外のすべてのラウンドを支配したはずだ」、ぶつぶつ文句をいっていた。
(2)、2000年4月15日 IBF世界スーパーウェルター級タイトルマッチ 王者フェルナンド・バルガス(18連勝(17KO)無敗)対挑戦者アイク・クォーティー(34勝(29KO)1敗1分)ラスベガス
ーバルガスが3-0の判定勝ち。これもよく見返す試合のひとつ。ジャブ、ストレートの突き合い(↑と同じく、クリンチのない攻防)。元アマ選手らしいきれいなボクシングスタイルの両者(2人とも速くて切れ味鋭かった)。そして再びクォーティーに10ヶ月のブランク(祖国ガーナでホテル経営などさまざまな事業に乗り出した)。この2年で2試合しか戦っていない(一方、バルガスは12戦12勝(11KO)=1、ロマリス・エリス(サウスポー)に2回TKO勝ち2、ヨリボーイ・カンパスに7回TKO勝ちでタイトル奪取3、前王者ラウル・マルケス(サウスポー+バルセロナ五輪米代表=カンパスに8回TKO負けで王座陥落)に11回TKO勝ち4、ロナルド・ライトに判定勝ち)。加えて、純粋にこの階級出身のバルガスに体格負けした面もあった。これがスーパーウェルター級初の試合となったクォーティー(元はスーパーライト級(J・ウェルター)。パンチも’バズーカ’というわけには行かず。再びクォーティーは判定に不満げで(しかしこの試合は明らかに(中差で)負けだった)「もっと接近した内容だったはずだ。(元はアカリエス傘下、フランスが主戦場)もうアメリカでは戦いたくない」(以後約5年のブランク)。祖国ガーナでは大富豪となり(投資した事業も成功)、「王様」のような生活を送る。




(1)、1986年8月17日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 世界1位マイク・タイソン(25連勝(23KO)無敗)VSホセ・リバルタ(キューバ=22勝(17KO)3敗=38勝(27KO)17敗1分)アトランティックシティ
ータイソンが合計、4度のダウンを奪い最終10回TKO勝ち。ダマト・スタイル時代の傑作、典型となるような見事なボクシングだった。リバルタのタフネスにややてこずった面もありながら、とにかく破壊力があり攻防一体(体全体が満遍なく動いていた)。これは17歳、東京テレビ放送(当時はマニアにとってたいへん貴重)でみた。
(2)、1988年1月22日 世界ヘビー級タイトルマッチ 王者マイク・タイソン(33連勝(29KO)無敗)VS挑戦者元王者ラリー・ホームズ(48勝(34KO)2敗+20度防衛=69勝(44KO)6敗)アトランティックシティ
ータイソンが4回に3度倒し、ホームズをノックアウト。強烈なワンツーを叩き込み仰向けに横転させ、はじめのダウンを奪う。最後は右フックのダブルで元王者を深々と眠らせた。しかしタイソンにとって、不幸だったのはこの試合のわずか2ヵ月後。師匠カス・ダマト(85年11月に病死=享年77歳)に続き、兄貴分であり保護者でもあったマネージャージム・ジェイコブスが急死してしまったことだ(享年58歳)。共同マネージャーのビル・ケイトンはもっぱら資金(財政的)援助が担当。あまりタイソンと日頃、直接は関わっていなかった。この試合以降、ドン・キングと妻及び義母を巻き込んだ契約上(金銭)の問題が浮上してくる。「ジムがいた頃は、誰もぼくに近づいてこなかった。今は、色々な人が「力になるぞ」「頼っていいぞ」と近寄ってくる。現状はそれほど悪くないが、ぼくひとり正気でまわりはみんな狂っているように見える」(タイソン言)。昼の休憩時間、小さな港町ポートランド、床屋の思い出(やさしく陽気なおじいさんが、お客さんと夜にライブ放送があるこの一戦について楽しみにおしゃべりしていたのがよみがえる)。HBO放送でタイソンの日常、練習さまざま編集は一見の価値あり(とくに↓と比べてみると残念でさびしい)。
(3)、1989年2月25日 世界ヘビー級タイトルマッチ 王者マイク・タイソン(35連勝(31KO)無敗)VS挑戦者1位フランク・ブルーノ(イギリス=32勝(31KO)2敗=40勝(38KO)5敗)ラスベガス
ータイソンの5回TKO勝ち。ながらも、ドン・キング傘下(ど素人の取りまきも含む)に入り陣営が一新。調整不足も懸念された。この試合前、解雇されたトレーナールーニーが契約違反をあげて訴訟を起こした。これを聞いたタイソンは「われわれの関係は終わりだ。これでケビンがトレーナーに戻る事はありえなくなった」と語る(それまでタイソンはまだ解雇したとはいえ「ケビンはいろいろやることがある・・・とにかく話し合いが必要だ」といっていた)。初回のゴングと同時にラッシュをかけ。早々とダウンを奪ったが、力みが目立ち大振りの後、バランスを崩したりも気になったもんだ。危なっかしい。後半にブルーノの左フックがカウンターで命中。さらに数発出鼻を叩かれ、よくパンチを食う。ながらも終始優勢で、5回に荒々しい連打を命中させストップ。アメリカから日本に帰ってちょうど、一週間後ぐらいだった。
(4)、1995年12月16日 元王者マイク・タイソン(42勝(37KO)1敗)VS世界ランカーバスター・マティス・ジュニア(20勝(6KO)無敗=21勝(7KO)敗)フィラデルフィア
ー出所後、再起2戦目。タイソンが3回にマティスを沈めた。接近戦が続き、クリンチともみあいが多かった。タイソンのパンチはむかしと変わらずスピードがあり、鋭い切れ味で威力があった。3回、ロープに詰められながらもサウスポーにスイッチ。素早く横に移動して、右アッパーを2発叩き込みダウンを奪う。マティスは立ち上がれず。父のマティス・シニアは東京五輪米代表(ながら負傷により欠場。補欠ジョー・フレージャー(アマ(37勝2敗=国内予選決勝でマティス(プロでKO勝ちで雪辱)=29連勝(24KO)=32勝(27KO)4敗1分)
に負けた)が代行(金メダル)+30勝(21KO)4敗)。トロント、有料TVKO放送で観賞。



(1)、1986年6月13日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 マイク・タイソン(21連勝(19KO)VSレジー・グロス(18勝(12KO)4敗)ニューヨーク
ータイソンは弱冠19歳(メインは同僚(ジェイコブス&ケイトン傘下)の元王者チャポ・ロサリオがマッチョ・カマチョに挑戦=2人とも故人になりました)。強敵相手が故、2連続の判定勝利(連続KOが19でストップ)が続いた。この試合は中堅相手とはいえ、圧倒的な初回ノックアウト勝ち。鋭い左ジャブから、ナンバーシステムによる強打の連続(スピードと切れ味も申し分なし)。ダマト・タイソン時代への思い入れは永久(苦笑)。東京テレビの特集(4連続KO勝ち)+当時、日本から「世界」ボクシングの試合ビデオを手に入れる方法(経路)は1、リング・ジャパン(大試合&タイトルマッチが中心)2、イースト&ウエストボクシング(筋金入り玄人用)3、チャック・モール(同じく)・・・この頃を回顧すれば「YOUTUBE」信じられずまた、感慨も深い。20年くらい前までは、アメリカ人や日本のマニアたちと「交換」したり「売り買い」していました。
(2)、1989年7月21日 統一世界ヘビー級タイトルマッチ 王者マイク・タイソン(36連勝(32KO)無敗)VS挑戦者1位カール・ウイリアムス(22勝(17KO)2敗=30勝(21KO)10敗)アトランティックシティ
ータイソンが初回KO勝ちで防衛成功(左フック一発でぶっ倒した)。しかし1Rだったことに加え、ウイリアムスはフラフラしながらも立ち上がった(ストップに猛然と抗議)。だから後味が悪い結末(ウイリアムスは、最後までタイソンに悪態をついてやまなかった)。試合前、タイソンは動きが悪く、絶好調とは程遠かったらしい(速攻が功を奏さなければ苦戦したかもしれない)。くどいながら、雑くて荒っぽいパンチャーになってしまった(上体の振りもなければジャブもほとんど出ない)。20歳、モントリオール(新聞で結果を知った)。
(3)、1995年8月19日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 元王者マイク・タイソン(41勝(36KO)1敗)VS世界ランカーピーター・マク二ーリ(36勝(31KO)1敗=47勝(36KO)7敗)ラスベガス
ータイソン出所後の再起戦。約4年のブランク。初回KO勝ち(正式には失格勝ち)で飾る。パンチの切れと威力はさすがだった(マクニーリの見事な戦績は格下相手ばっかり)。ゴングと同時に突っ込んで来たマクニーリにタイソンの右ストレートがカウンターで炸裂。最初のダウンを奪う。マクニーリは意図的な頭突きを繰り返す。タイソンは最後、サウスポーにスイッチして右アッパーを突き上げ、前のめりに倒した(ここでマクニーリのセコンドがリング上に乱入=失格負け)。ながらも、上体が突っ立つ傾向がこの後も続く。トロント、有料チャンネルTVKOで観賞。そして元トレーナーのルーニー(博打(賭博)散財(ラスベガスのカジノにて(カネ使いの荒さは有名)一晩で’億単位’をするほど→「事実だけど、俺はあまりそういうことは気にしない男なんだ」そうです笑)が再び(契約違反)損害賠償「1億円」の訴訟を起こした(タイソン言=「ケビンはよほどお金に困っているんだろう。こんなことをしなければ、1億円ぐらいあげたのに」)。「(ダグラス戦で来日した際)前任者のケビン・ルー二ーは総合的にいって決していいトレーナーとは言えない。準備(体操)運動をタイソンに課さないし(ジムに到着した途端、いきなりスパーリングを始める)教える内容も画一的だった・・・それに指導者の癖に素行が悪い(主として女だが)。ただし、元兄弟子としてタイソンを厳しく鍛える点においては優れていた」(小泉氏)。大先輩(兄弟子=ダマト門下)の元L・ヘビー級王者ホセ・トーレス(プエルトリコ・来日=後楽園ホールにおいて日本タイトルマッチ(宮田VS千里馬(在日朝鮮人=本名金啓徳(キム・ゲドク)+デトロイト・クロンクジムに武者修行(マクローリー兄とスパーリング))を観戦)も以前から「2人の関係が、訴訟にまでこじれてしまったのは残念だ」と語っていた。なおマクニーリは後に、K-1の元ボクサーマイク・ベルナルド(11勝(9KO)1敗)+’4回戦王者?’百貫デブ白人選手バタービーン(の缶詰を食いながら大ダイエットしたが故の自称(ベルナルドには2回KO負け)異名(本名エリック・スコット・エッシュ)=77勝(48KO)10敗4分)と対戦。双方、初回ノックアウト負け。


(1)、1995年3月4日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者アイク・クォーティー(29連勝(25KO)無敗)VS挑戦者朴政吾(27勝(20KO)3敗3分)アトランティックシティ
ークォーティーが東洋王者朴を問題にせず打ちまくり、4回にストップした(朴のラストファイト)。朴は勇敢に突進。固いクォーティーのブロックをもろともせず、上からよく打った。けれど’バズーカ’ジャブの威力はすさまじく、前へ出ながらも強烈なパンチをもらいつづけワンサイド。4連続KO防衛に成功。日本選手で朴に勝ったのは尾崎富士雄(8回KO勝ち+25勝(16KO)6敗)のみ(佐藤仁徳(2回KO負け+11連続KO勝ち(吉野に4回KO負けで初黒星)=25勝(23KO)2敗)吉野弘幸(8回KO負け+34勝(26KO)14敗1分=コッジに挑戦し、5回KO負け)坂本孝雄(元アマ高校王者(広島県出身)=4回KO負け+9勝(9KO)2敗(タイソンVSタッブスのセミ(東京ドーム)で、吉野に4回KO負け(王座転落)再起戦の試合(4回KO勝ち=メイン上山VS野本(上山の5回KO勝ち(セミは赤城武幸(宮崎県出身(元アマ高校+大学王者)日本王者・世界ランカー)の再起戦=10回判定勝ち)「ハラ!ハラ!」「ハラだけ」ってまだ耳に残ってます(笑))後楽園ホールでみました((プロ入り前から)大ファンでした(スパーでバンファス(モスクワ五輪代表+後の世界王者)をダウンさせた=あのままアメリカ(しかもテネシー州ナッシュビル(深南部)ってのがすごい(笑))でプロデビューできなかったのは、本当に惜しい+ビザの問題はホンマに厄介))☆シンディ・鈴木女史とのインタビューもおもしろかった=「楽しいなあ~と思ってあがりました」「痛かったです」(笑)「リングに上がれただけでも。後は徐々に(『ワールドボクシング誌』)」(3連続KO勝ちするが、再び両拳を骨折してしまい、引退を強いられた)上山選手の結婚式において、元ライバルの吉野選手と笑顔で握手していた写真が忘れられません(お元気そうで何よりでした)=みんな日本王者)。
(2)、2005年12月3日 スーパーウェルター級ノンタイトル10回戦 アイク・クォーティ-(36勝(30KO)2敗1分)VSカルロス・バフォーケス(25勝(21KO)8敗6分け=26勝(22KO)10敗6分)ラスベガス
ークォーティーが10回にストップ勝ち(再起後3連勝(2KO))。体の力があるバフォーケスが前進しながらも、クォーティーはことごとくガードでパンチを跳ね返し。カウンターの連発を命中させ圧倒。バフォーケスのタフネスのため(建設業肉体労働者兼ボクサー)、最終回までもつれ込んだながら。試合自体は一方的だった(バフォーケスはこの試合前、家に空巣が入りいろいろ(ウィテカー(のラストファイト)に勝った記念品など)かっぱらわれたそう)。


(1)、1986年7月11日 マイク・タイソン(23連勝(21KO)無敗)VSロレンツォ・ボイド(15勝(9KO)5敗=30勝(18KO)54敗1分)ヘビー級ノンタイトル10回戦 ニューヨーク
ータイソンの2回KO勝ち。この試合も「ダマト・タイソン」時代の大傑作だった。まさに攻防一体のボクシング。すばらしいの一言。
(2)、2000年10月20日 マイク・タイソン(48勝(42KO)3敗)VSアンドリュー・ゴロタ(ソウル五輪ポーランド代表銅メダル(111勝10敗)+35勝(29KO)4敗=41勝(33KO)9敗1分) ヘビー級ノンタイトル10回戦 ミシガン州アウバーンヒル
ータイソンが初回にダウンを奪い、2回もゴロタを圧倒。ノックアウト寸前に追い込みながら、ノーコンテスト(無効試合)というすっきりしない結末に終わる(当初はTKO勝ち=試合後の検査で、タイソンの尿からマリファナが検出されたため)。3回、ゴロタはゴングに応じず。コーナーから出てこなかった。私見ながら、この当時のタイソンはしきりに往年の「ダマト・スタイル」へ戻そうという姿勢が感じられた。ただもはやボクサーとしては晩年。昔日のきめの細かい動きは不可能だった様子(体重も重かった)。この当時のタイソンについてESPNのドキュメンタリーでは(解説)-しかしカス・ダマトとケビン・ルー二ーによって鍛えられた「打たせずに打つ」”むかしのマイク”は、10年以上影をひそめているー①ルーニーのインタビュー「・・・頭を振って捕みどころがないようにしなければいけない。本来あるべきスタイルで戦っていない。今の彼はただのパンチャーだ。もし彼に打たれたらKOされる。けどあなたが当てたら逆にノックアウトできるでしょう」ということでした。(同じ番組にて)②「トレーナーというのは(ボクサーにとって)ただひとりの実用的(役に立つ)ガイド(道案内・誘導役)だ」(テディ・アトラス=タイソンのアマ時代のトレーナー)③「だからこそ私はここにいる」(当時のトレーナー(元ホリーフィールドや故バンファス、ジロフそしてクリチコ兄のトレーナー)トミー・ブルックス言)。


(1)、1986年5月20日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 マイク・タイソン(20連勝(19KO)無敗)VSミッチ・グリーン(16勝(10KO)1敗1分=19勝(12KO)6敗1分)ニューヨーク
ータイソンが10回判定勝ち。前回のティリス戦に続いてKOを逃した。タイソンは弱冠19歳。長身のグリーンによる「抱え込み」にてこずったとはいえ(後にボディーブローを叩き込むことにより、相手のクリンチ戦法を克服した)。ダマト・スタイル時代のボクシング。上体はよく動き、まず当てさせない。強打の連続も破壊力満点だった。この試合も、ずいぶん後になってカナダで、ESPNのクラシックファイト番組でみた。そして後に素行が乱れ始めていたブルーノ戦の前。タイソンはこのグリーンと路上喧嘩。素手で顔面を殴り(クラブの外、グリーンの挑発にのってしまった)、大怪我をさせた(自らも右拳を骨折)。
(2)、1991年6月28日 ヘビー級ノンタイトル12回戦 マイク・タイソン(40勝(36KO)1敗)VSドノバン・ラドック(25勝(18KO)2敗1分)ラスベガス
ータイソンが2回と4回にダウンを奪い、12回判定勝ち。タイソンの強打を浴び続け、ラドックは顎を骨折していたのが判明。私見としてこの頃のタイソンは、一番「スタイル」が混乱していた時期だと思う。ダマトの型から離れたとはいえ、「新しい」スタイルは確立されておらず(ガードも低いし、パンチの打ち方も変り連打が出ない)。すさまじい打撃戦だったながら、往年のヘビー級「大男同士の殴り合い」式の試合となる。無茶な大振りでたびたびバランスを崩し、粗雑なボクシングだった(中間距離でも、止まった標的になっていた)。また一戦目同様、ラドックのパンチもかなり当っていた。「稀にみる強打の応酬ではあったが、かつてカス・ダマトが作り上げた最高傑作からはタイソンのボクシングはあまりにも遠くへ離れてしまった感じがする」「ケビン・ルー二ートレーナーとのコンビ時が全盛期だった」(新版『名ボクサー100人』)どうしても「ダマト・タイソン」への思い入れに支配され、辛口になってしまう(苦笑)。再びモントリオールのホッケー会場、大スクリーンで観戦。


(1)、1986年4月5日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 元世界ランカージェームス・ティリス(アマ92勝8敗+20連勝(15KO)=31勝(22KO)8敗=44勝(31KO)22敗1分)VSマイク・タイソン(19連勝(19KO)無敗)ニューヨーク
ータイソン、はじめての判定勝ち。4回にダウンを奪い、最終回もノックアウト寸前に追い込みながら倒せなかった。KOこそ逃したもののガードは高くまた、俊敏な動きで上体もよく振っていた。
(2)、2005年6月11日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 元王者マイク・タイソン(50勝(44KO)5敗2NC)VS世界ランカーケビン・マクブライト(32勝(27KO)4敗1分=35勝(29KO)10敗1分) ワシントン州
ータイソンのラストファイト、マクブライトに6回TKO負け。タイソンは前戦(VSウイリアム)の初回(4回TKO負け)靭帯切断で膝を痛めた。その故障から完全には回復していなかったように思える(かばった調子の動き。パンチの威力ももうひとつ)。とはいえ序盤は優勢だった。4回あたりから長身のマクブライトが徐々に攻勢に転じる。タイソンはいらだちがみえはじめ、5回には故意の頭突き(これでマクブライトは瞼から出血。加えて相撲の「キメ技」(対ボタ戦(5回KO勝ち)の初回終了時にもやらかした)に出たりと嫌な雰囲気が漂う。5回にダウンを奪われ、6回のゴングに応じず。試合放棄(トレーナーは元3階級王者のジェフ・フェネックだった)。

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