日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【Hochhaisa z Tokio/Richmond Hill&Aéroport international de Narita】Procyon lotor - Raccoon《Га́льский革命楽しからずやАнтонов-Овсеенко》Lobster海螯蝦科Nephropidae『Бокс西洋拳Boxen』Le cadeau du 31e anniversaire - 히메지성姫路城하쿠로성白鷺城(CANADA🍁)2018/06/03

2018年5月25日(金)Vendredi(Friday)
ーみなさん、こんにちは☆お元気でしょうか?本日もトロント郊外は静かな金曜日。「夏模様」とともに、「アライグマ」が出てきています。今も外でたばこを吸っていたら、前の家の駐車場においてある「ゴミ箱」をコロコロとよじのぼり、のぞいていました(悲しい姿)。また、1ドルストアーに向う裏の扉を開けるとコンクリートの駐車場。その一角に辛うじて残る木陰はゴミの吹き溜まりと化している。そこに昨日、「アライグマ」の死骸が放ってありました(涙+やっぱりかわいそうですね)。おそらく今日もあるでしょう。エスペラント語⇒Lav-urso, alinome prociono (Procyon lotor), estas rabobesto simila al malgranda urso kun longa vosto markita de koloraj ringoj. Ĝi havas delikatan, elastan flavnigran hararon.アライグマ(洗熊、浣熊、学名:Procyon lotor)は、哺乳綱食肉目アライグマ科アライグマ属に分類される哺乳類。アライグマ属の模式種。タヌキに似ており、アライグマを英語でraccoon (common raccoon) と呼ぶのに対し、タヌキは raccoon dog と呼ぶ。前足を水中に突っ込んで獲物を探る姿が手を洗っているように見えることが名称の由来である。雑食性であり、小動物を捕獲して食べる。北アメリカ原産で、日本やヨーロッパにも外来種として生息する。移入後の繁殖により、農作物への被害や生態系への影響などが問題となっている+似ていますが「タヌキ」ではありませんスペイン語→Nyctereutes procyonoides=El Mapache japonés , Perro mapache, o tanuki (Nyctereutes procyonoides) es una especie de mamífero carnívoro de la familia Canidae2​ de aspecto semejante al mapache y originario de China oriental (中国発祥)y de Japón(日本).タヌキ(狸、学名:Nyctereutes procyonoides)は、哺乳綱ネコ目イヌ科タヌキ属(英語版)に分類される動物。
バイエルン・オーストリア語⇒Hochhaisa z TokioTokio (aa: Tokyo, jap. 東京, Tōkyō) is de Haptstod vo Japan und liegt in da Kantō-Region an da Ostküstn vo da japanischn Haptinsl Honshu. Da Nama Tokio bedeidd «estliche Haptstod». Z Tokio is a da Sitz vo da Regiarung vom Stoot und da Palast vom Tenno, am japanischn Kaisa.
ーさきほど上がってきた記事内の映像を開いて、郷愁のわが街?「東京」、久しぶりに拝みました。東京タワーやツインタワー?だのってのも目に入り、隅田川(小型遊覧船?みたいのが動きまわってる)さらに「JR電車」や夜景とかとか。「渋谷」も現れそして「新宿」・・・感慨深いです(+大型宣伝看板にありがたい?「かなりの大御所」氏の顔もみえた(嘆息)。これは素行の悪さも手伝っているながら嫌な思い出ばっかり(苦笑)。街の角々、隅々たとえば南口のガードレール(そこを行き来する自動車群とタクシーなど)。今だからこそ信じられないとはいえ、15歳の頃は毎週「暴走族集会」で荒れ狂っていたところ。ウクライナ語⇒Шібу́я (яп. 【渋谷】, しぶや; англ. Shibuya) — місцевість в Японії, у Токіо, в районі Шібуя. Район Шібуя. Однойменний квартал (Шібуя 1-4) з населенням понад 3 тисячі чоловік. До 2-ї пол. XIX ст. — село Шібуя (渋谷村); після — містечко Шібуя (渋谷町). . ドイツ語→Shinjuku (jap. 新宿) ist ein Stadtteil des Bezirks Shinjuku der japanischen Präfektur Tokio. Er befindet sich im westlichen Zentrum Tokios auf der Ostseite des Bahnhofs Shinjuku. Shinjuku besteht aus sieben nummerierten Vierteln (chōme), in denen vor allem im Westen überwiegend Geschäfte, Bürogebäude und öffentliche Einrichtungen liegen.
~♪りんりんランラン留園~留園行って幸せ食べよう!~=これなぜか、ずっと頭から離れなくて。また久しぶりに夢に出てきました。古い我々世代なら思い出すはずのコマーシャル(何度も何度も耳にたこが出来るほど流されてた(苦笑)英語⇒Onarimon Station (御成門駅 Onarimon-eki) is a subway station on the Toei Mita Line in Minato, Tokyo, Japan, operated by the Tokyo subway operator Tokyo Metropolitan Bureau of Transportation (Toei). ここ、確か小学校3~4年生。母親が「食べ放題」招待券かなんかもらったとやらでご長男サマと3人で赴いた。当時知っていた「中華料理」というのはいわゆる「日本式」、日本人の口に合うよう調整したもの(いまも大多数はおなじ)。けれどチリソースの「海老」やチャーハン、餃子など好物も多かったので楽しみに行ったのも懐かしい。都営地下鉄三田線、まだ開通したばっかりの「御成門」駅。むかしは江戸湾「日比谷入江」(注)と呼ばれた埋立地近辺である。真新しい「駅構内」は深く(無人=電車に客もそれほど乗っておらず)、まさに地の底。地上へ上がるまでやたら時間がかかった(階段をさんざんのぼって足が痛くなったほど)。でもその「留園」。確かに新規開店にふさわしく、広々と大きかった。ながら内部は薄暗く(給仕係もあんまりいなかった)、CMで宣伝されていたような「超豪華」な料理が並ぶバイキングではなく。結構寒々安っぽくしかも、「冷たくなった」食べ物(あんまり美味くもなかった)ばっかり(「もやし」がやたら多かった笑)だった記憶が残っている(客もほとんどいなかった)。以来、むろん2度と行くこともなかったが「御成門」という駅名をみるたびによみがえったものだ。
ー加えて、いつの間にかまた「6月3日」(北米「31周年」記念日)が迫ってきています。この「ブログ」を開設しなければあんまり気にもとめていなかった日でした(誕生日なんかとおんなじ=覚えていようが、別になにがあるわけでもない)。いままであまり深くは語りませんでしたが、その後も決して「平坦」な人生ではなかった。幼少より積み重なった「しがらみ」「ひねくれ」、すなわち荒みきり。ねじくれ曲がった「人格」というのは簡単にどうこうなるものではない(苦笑)。全人生を通じて「加害者」であった方が圧倒的に多かった事実は、残念ながら変えようがない。さまざまな人たちに厄介を与え、迷惑をかけてきました(これらは「日本時代」の負の遺産ともども生涯背負わなければいけないもの)。(注)日比谷入江(ひびやいりえ)は、現在の東京都千代田区東部に江戸時代初頭まであった入り江である。入り江は江戸湾(東京湾)北西奥に、新橋付近を湾口として北に伸び、北端は現在の大手町にまで達した。そのやや南に、現在の丸の内1丁目から皇居外苑に入る和田倉門があったが、「和田」とは「ワダ(海)」を意味し、海に面した倉庫があったことに由来する。徳川家康の関東入国までは平川(現神田川)の河口であった(平川橋などにその名が残る。平川はのちに東回りに流路を変え日本橋川や外濠川となっていく)。英語Tokyo City Air Terminal (東京シティエアターミナル Tōkyō shiti ea tāminaru), also known as T-CAT, is a bus terminal for Airport Transport Service, an airport bus operator, in downtown Tokyo, Japan. The terminal is located in Nihonbashi-Hakozaki-cho, Chuo-ku, beneath Hakozaki Junction, the three-way interchange for Shuto Expressway Route 6 (Mukojima Route) and Route 9 (Fukagawa Route), three blocks southeast of Suitengu shrine.フランス語→L'aéroport international de Narita (成田国際空港, Narita Kokusai Kūkō?) (code AITA : NRT • code OACI : RJAA) est un aéroport international situé à Narita, dans la préfecture de Chiba au Japon. Il est l'un des deux principaux aéroports du Grand Tokyo, l'autre étant l'aéroport international Haneda de Tokyo.
ーさて、こんな感じでまた徐々に付け加えていきますのでよろしくお願いします。現在土曜日、午前1時20分過ぎ。買い物は本日午後にでも持ち越し。むし暑くて動く気がせずでした。1ドルストアーで誤魔化してしまった(やはり「アライグマ」の死骸は放ったままだった(涙)。ともあれ、何度となく語ってきた→実際に生きている「外」現実生活と、日々この部屋で直面している「内」?世界の格差。その狭間を行ったり来たり彷徨状態が。とくに「さよなら不思議の国ニッポン」とした2017年の年明け頃からでした。
ーところで、前から気になっていた一連の傾向。他ではじめたとおり「中国共産党」「アメリカを仕切る?ユダヤ資本」「蒋介石と国民党」それすら実は「コミンテルンの陰謀」だったなどなど。ちょっとでもそれらを知っている人間からすれば、首を傾げるしか術もない。ながら、これまた「一億総国民」式にあっという間に普及。まことしやかに誰でも信じてしまうんでしょう。でなければよしりん企画社長の「傲慢主義マンガ」や渡部昇一+武田邦彦’博士’たちの「名著作」あるいは田母神元航空自衛隊高級幕僚の「秀作論文」あたりがもてはやされることもないはず。また↑に関連することなども思い出したら再開。そして起きたら展開していきます。おやすみなさい。サム カナダ 
2018年6月4日(月Lundi(Monday)=Richmond Hill 
みなさん☆こんにちは☆ いつものとおり苦手な「ブラック・マンデー」?(苦笑) 例の「31周年」は何もせず終わりました。せめてもと出していた写真は18歳、6月2日、夜の横浜本牧埠頭でした(この間、ボクシングの内藤選手が働いている映像で久しぶりに見た(涙)。昨日は雷雨(無性に疲れて。1日中横になっていました)。今日も曇り空。風が強くひんやりしています(一雨来そうな雰囲気)。また「5分」で終わる中国式「スポーツ刈り」にしてきました(ちょっとづつ走り運動開始)。他、停滞中の頁を訳したりもはじめました(相変わらず頭もいまひとつ働かない(苦笑)。明日はトロント行き(長い旅になりそう)。そんなこんなですが、とりいそぎ近況を☆ 選挙投票カードが届いていました(あさって=改めて「カナダ市民」なのを認識) またよろしくお願いします☆ サム カナダ
2018年6月6日(水)Mercredi(Wednesday) みなさん、こんにちは☆昨日はトロント行き。終日冷え込んでいて、短パン&半袖は無茶だった様子(またちょっと風邪気味になり、早めに寝ました)。今日は自転車で、食料品の買い物。天気は1日涼しかったです。また、ちょこちょこと訳しながら進めてますのでよろしくお願いします☆ホンマ、外に一歩出るとまるで違う「現実」のカナダ社会が広がる。その中にいる我が身を実感する(日系だの人種なんてまったく無関係)。改めて多種多様。だからもうあれだけ「ガイジン」がいるのにやれ「単一民族」だの「Japanese Only!」云々ってのは想像もできない(したくもないのが本音+こういった「日本発考え」を海外にまで持ち込み。平然としている方々も少なくない)。けど、少しでも誰かの力になれれば・・・モットーに続けていきます。とりいそぎ近況伝達の一報。明日は「州選挙」①与党自由党(赤)=カナダ自由党(カナダじゆうとう、英語:Liberal Party of Canada、フランス語:Parti libéral du Canada)は、カナダの自由主義(社会自由主義)、中道左派政党。自由主義インターナショナル加盟政党である。創設は1861年。現在の党首はジャスティン・トルドーフランス語→Le Parti libéral du Canada (PLC) (anglais : Liberal Party of Canada), également surnommé les Grits, est un parti politique canadien②保守党(青)=(1)カナダ保守党(カナダほしゅとう、英語:Conservative Party of Canada、フランス語:Parti conservateur du Canada)は、カナダの中道右派・保守政党。現在の党首はアンドリュー・シーア。国際民主同盟加盟+英語⇒The Conservative Party of Canada (French: Parti conservateur du Canada), colloquially known as the Tories, is a political party in Canada. It is positioned on the right of the Canadian political spectrum.[11] (2カナダ進歩保守党(カナダしんぽほしゅとう、英語:Progressive Conservative Party of Canada、フランス語:Parti progressiste-conservateur du Canada)は、かつてカナダに1867年から2003年まで存在した、中道右派・保守主義政党。現在のカナダ保守党の前身であ+オランダ語→De Progressief-Conservatieve Partij van Canada (PC, Engels: Progressive Conservative Party of Canada, Frans: Parti progressiste-conservateur du Canada) was een Canadese federale politieke partij. De partij is de voortzetting van oude Conservatieve Partij van Canada, die haar naam wijzigde in 1942)③新民主党(黄色)=新民主党(しんみんしゅとう、英語: New Democratic Party、略称:NDP、フランス語: Nouveau Parti démocratique)は、カナダの中道左派・社会民主主義政党。社会主義インターナショナル加盟政党である。創設は1961年。現在の党首はジャグメート・シン(英語版)。連邦規模と州規模の両方で活動し、カナダ議会下院では野党第二党となっている+ドイツ語→Die Neue Demokratische Partei (englisch New Democratic Party, NDP; französisch Nouveau Parti démocratique, NPD) ist eine sozialdemokratische politische Partei in Kanada. 宣伝ポスター(こちらは写真が載ってるのは、半分ぐらい)キャンペーン?方々に目立ってました。しかし「我国式」例の’巨大騒音’を宣伝カーが撒き散らしながら拡声器からわめき、能書きをたれる「日本型選挙宣伝」は存在しません(けど、みんな「有権者」たちはちゃんと投票する)。いつもと変らぬのどかで静かな平日(投票場所(係員たちは黒人女性とアジア系が多かった(もちろん白人も含め)、近所の小学校(子供たちが元気に遊んでいた)。そんなこんなながら、福神皆様。挫けずがんばりますので、これからも応援してくださいね!!お願いします!!Peace☆平和 サム カナダ 
                  「革命楽しからずや?」
「完全に解体しはじめた守備隊は、憲法制定会議の支持者たちよりも、はるかにひどくぼく個人を困らせた・・・めちゃくちゃな、話に聞いたこともないような乱痴気騒ぎが、ペトログラード中にひろがった。これはなにか秘密の挑発によるものであったかどうか、いまだに納得のいく説明がついていない。あっちこっちに、大部分兵士の無頼漢の群れがあらわれて、地下室の酒倉に押しいり、ときには酒店を略奪した。規律をまもっていた少数の兵士と赤衛軍は、警備の任務でつかれきってしまった。訓戒や説論は、くその役にもたたなかった。冬宮(かつてのツァーの居城)の地下室の酒倉は、いちばん困った問題のもとになった・・・いままで規律をまもっていたプレオブラジェンスキー連隊は、冬宮の警備についているあいだに、すっかり酔っぱらってしまった。われわれの革命的城壁であるパヴロフスキー連隊も、誘惑に抵抗することができなかった。そこで、いろんな部隊から選抜した混成警備隊が派遣された。が、彼らもまた酔っぱらった。こんどは(連隊)委員会のメンバー(つまり、守備隊の革命的指導者たちである)が、警備の任務にあてられた。これもまた負けてしまった。機甲部隊の兵士たちが、群集を追いちらす命令をうけた。彼らはちょっとあっちこっち練ってあるいたが、やがて足もとが怪しげにふらつきだした。夕暮になると、気ちがいじみた酔っぱらい騒ぎはひろまった。「帝政のお残り物をかたづけてしまおう!」この陽気なスローガンが、群集をとらえた。われわれは入口という入口に防壁をきずいて、彼らを阻止しようとしてみた。ところが、群集は窓から侵入し、かんぬきをこじあけて、酒樽をかっぱらった。地下室の酒倉に水を氾濫させることもやってみた。このため消防隊を派遣したが、その消防隊が酔っぱらってしまった。ただヘルシングフォルスの水兵だけが、冬宮の酒倉をなんとか無害なものにすることができた。これはこれとして、じつに巨人的な戦いであった。水兵たちはしっかりしていたが、それは彼らが「何人も誓いを破るものには死を」という、きびしい同志的誓いによってしばられていたからである。彼ら自身、ほかのときにはすばらしい大酒飲みであったが、この任務をりっぱにやってのけた・・・。戦いは、これでおわったのではなかった。市全体が気ちがいじみた酒飲み騒ぎに感染してしまった。ついに人民委員会は特別委員を任命して、彼に非常手段の権力をあたえ、強力な護衛隊をつけた。だが、その人民委員もまた信頼できないことがわかった・・・ヴァシレフスキー島では、はげしい闘争がおこなわれていた。アナルコ・サンジカリスト的傾向をもったひとたちに指導されていたフィンランド人連隊は、その島に非常事態を宣言し、全酒倉を爆破し、略奪者をみつけしだい射殺する、と発表した。はげしい努力ののち、やっとこのアルコール狂乱は克服された」(ドイッチャー『トロツキー/武装せる予言者』242-243頁より)

ヴラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ(英語版)(1884年 - 1938年) - ロシアの革命家。ボリシェヴィキの指導者の一人で、1917年の冬宮襲撃を指揮した(↑は氏(ウクライナ人)による回顧(トロツキーの盟友(前任軍事人民委員)=スターリンにより内戦中のスペイン(共和国(第二共和政)駐西ソ連大使・軍事顧問)から呼び戻され、粛清。非業の死を遂げたVladimir Alexandrovich Antonov-Ovseyenko (Russian: Владимир Александрович Антонов-Овсеенко; Ukainian: Володимир Антонов-Овсєєнко; 9 March 1883 – 10 February 1938), real surname Ovseyenko, party aliases the 'Bayonet' (Штык) and 'Nikita' (Ники́та), a literary pseudonym A. Gal (А. Га́льский), was a prominent Ukrainian Bolshevik leader and diplomat.ロシア語⇒Влади́мир Алекса́ндрович Анто́нов-Овсе́енко (наст. фамилия — Овсе́енко, псевдонимы в партии — Штык и Ники́та, литературный псевдоним — А. Га́льский; 9 (21) марта 1883, Чернигов, Российская империя — 10 февраля 1938, Москва) — русский и украинский революционер, меньшевик до 1914 года, во время Первой мировой войны — меньшевик-интернационалист, в 1917 году вступил в партию большевиков, после Октябрьской революции

2018年6月11日(月) みなさん、こんにちは 苦手な「ブラックマンデー?」午前中は涼しく。ちょっと走ったりもできたのですが。今、もうひとっ走りしようと出たらむし暑い(~__-; でもお馴染み、隣の家の白人おにいちゃんと擦れ違ったら笑顔でHow are you doing?(調子どう?(元気?)トロント郊外は相変わらずのどかで平和。向うからはちょっと太目の黒人と小柄な白人の女子高校生たち。何か飲みながらおしゃべりして歩いていた。そういえば1週間くらい前にこの薄暗い地下部屋に現れた「鼠」(ネズミ)・・・退治しようかと思いながら。小さくてなんか無性にかわいそうで。放っておいたら姿がみえなくなった(苦笑)。よみがえるのは30年前のメイン州ポートランド、「海産物工場」手伝い(ときどきこっちにも狩り出された)。休憩時間が終り事務所から、ロブスター満載水槽が何個かある内部に戻る。途端に人の気配を感じた様子、ドタバタと馬鹿でかい「どぶねずみ」が方々から飛び出し。壁にできた無数の「穴」に逃げ込む。跳梁跋扈していました(あれだけデカイとおっかないですね(苦笑)。そんなこんなのリッチモンド・ヒルから サム
2018年6月13日(水)みなさん、こんばんは☆上の革命「酒飲み騒ぎ」はともかく、本日も夜が更けてきました(午後9時)。なんか1日中、さまざま我国「過去のしがらみ」関連の苦い思い出がよみがえっては去り。ひとり表情険しく、いきりたっていました。再び「31年前」のまさに今日辺り。地元名産のロブスターをレストランで、経営者にご馳走してもらい「死にかけ」たのも、今となってはなつかしい。一口食べたら「むっ」と悪感が走りながらも、無理して全部たいらげたのがまずかった。帰り道でがまんしきれず、車から降り嘔吐。熱は40度を越え、ひたすら嘔吐と下痢が続いた。しかし到着後、知らずに「ナマ」で食べていた「ベーコン」が原因だと、後でみんなに笑われた。日本時代は恐らく「燻製」。母親がときどき肉屋から買ってきたのを、パンに挟んだりして食っていた。おんなじだと勘違い(すでに「豚をナマで?」と周囲に驚かれていたのが的中)。はじめの2ヶ月はよく「病気」にかかった。「牛肉」がめずらしくて、残った’脂身’を食べすぎまた「嘔吐+発熱」したり。体中に「蕁麻疹」(肌アレルギーでもともと弱い)が出たりもありました(なかなか収まらず、医者に行ったら「おそらくタオルやシャンプー、石鹸などが変った影響だろう」と診断された(処方された薬でようやく治った)。店主が「体の弱いやつだなあ~。失敗した」と陰口を叩いていたのも耳に入った(苦笑)。それ以外でも(まさに’右も左もわからない’未知の世界)鶏肉Chickenと間違えて’七面鳥Turkey’を買ってきて怒られたり(電話注文にて砂糖缶Sugar 'can'を頼んだら(えっさえっさと担がれて)砂糖キビSugar 'cane'が届いた笑)缶詰を買ってくれば「猫Cat用」でバカにされたり、天ぷら用の「ズッキーニZucchini」(日本時代はみたこともなかった)と「きゅーりCucumber」(北米のはもっと’太い’)も間違えた(こんなのばっかりでした)。ともあれ、はあ~ってため息に帰結するのはすっかりお馴染み。「その日暮らし」は続いています。また他も含め明日再開。みなさんもいい夢みれますよう!またよろしくお願いします☆謝謝+再見!Bonne nuit☆サム 
1、オック語→ロブスターLo li(n)gombau (lingobau), lambran, lormand o normand es un crustacèu decapòde, vivent dins la mar.  海螯蝦科(學名:Nephropidae),又名螯龙虾科、澳洲龍蝦、美國大龍蝦,有一對非常巨大的鉗子,是一種大型海生甲殼類的總稱,生物学上属于十足目。ロブスター(英: Lobster)は、狭義にはエビ目(十脚目)・ザリガニ下目・アカザエビ科(ネフロプス科)・ロブスター属 (Homarus) に分類される甲殻類2種を指す。↓子供の頃から本当に悩まされたので参照(特に小学校高学年から中学1年くらいまでがひどかった)。
2、蕁麻疹(じんましん)は、急性皮膚病の一つ。元来は全てアレルギーが関与していると考えられていたが、必ずしもそうではないものも含まれるHives, also known as urticaria, is a kind of skin rash with red, raised, itchy bumps. They may also burn or sting. Often the patches of rash move around. Typically they last a few days and do not leave any long-lasting skin changes. Fewer than 5% of cases last for more than six weeks. The condition frequently recurs.Hives frequently occur following an infection or as a result of an allergic reaction such as to medication, insect bites, or food. Psychological stress, cold temperature, or vibration may also be a trigger
2018年6月17日(土)Samdi(Saturday) Bonsoir it's again='丑の刻参り”?midnight...aussi encore=またまた「週末ノットイエット」?です。また午前1時半過ぎ、日中は体調優れずまた横になっていました。だから目が冴えてしまい眠れない(苦笑)。今日もむし暑かったです。来週からまた「リハビリ」に励みたいです(少しづつ走ったり、体操・鍛錬を課さないと)。ここで書けば実行するはず。ここ最近はときどき「ボクシング」(もはや、数え切れないほど見返した=古い試合ばっかりながら)をみています+上がってきた記事から、こちらもしばらくぶり「CG=Computer Graphicの各城」も拝んでいる。前者はせいぜい90年代ぐらいが通じてる最後です(階級・団体乱立・世界タイトルの価値低下などなどから。近年のはまったく馴染めない)。後者は「豊臣大阪城」「伏見城」(は行ったことありません)とか、双方本丸の天守閣(そして二つとも陥落+「炎上?」=無惨に焼失した)周辺だけながら感慨深く眺めてしまう(「実際の映像」より好み)。さて、「悔いなき打撃戦」を座右の銘にまた起きたら再開しますのでよろしくお願いします。↓に再び参照した「姫路城」でもみて寝ることにします。おやすみなさい☆ 福神皆様☆謝謝☆一路平安☆永遠幸福☆ サム リッチモンド・ヒル


PS:(1)1982年12月3日、トーマス・ハーンズはWBC世界J・ミドル級タイトルマッチで王者・ウィルフレド・ベニテスを15ラウンド判定で破り、2階級制覇を達成これがベニテス(43勝(26KO)1敗1分=53勝(31KO)8敗1分)最後の世界戦になってしまう(ハーンズ(35勝(32KO)1敗=61勝(48KO)5敗1分)24歳)まだ24歳だった。5回にダウンを奪われ完敗ながら。決定打は許さなかった。スピードあふれる高度なテクニック合戦。及ばずだったけど後半の追い上げは見事でした。
(2)1983年2月13日 WBA世界ウェルター級王座決定戦(レナードが返上したタイトル) ドナルド・カリー×黄 俊錫(カリーの15R判定勝ち)敵地テキサス州フォートワースでアマ400勝4敗(1敗は少年時代、兄ブルースに喫したもの。最後に負けたのは来日し浜田剛史に挑戦。判定負けしたロニー・シールズ(米+プロでブルースに判定負け=北米タイトル喪失)との一戦)モスクワ五輪米代表=アメリカはじめ西側は不参加(ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議)金メダルを逃した)15連勝(12KO)無敗=34勝(25KO)6敗)の1位カリー(兄ブルース(アマ315勝11敗+一時期日本の「輸入ボクサー」クォーリー・フジというリングネームで三迫ジムに所属(①デビュー以来7連続KO勝ち中の新人王杉谷実(後の日本王者(同じく(東日本新人王=西日本新人王六車とダウン応酬の末に判定負け)日本王者となる満の兄)16勝(10KO)3敗1分)を3回KO②元東洋王者のライオン・古山(38勝(27KO)12敗4分(3度世界挑戦)を5回KO)=34勝(17KO)8敗)は、元WBC世界J・ウェルター級王者。大阪で赤井英和(アマ44勝(22KO)12敗(大学選手権覇者(近畿大学)19勝(16KO)2敗)を7回にノックアウト(初防衛に成功(でも全盛期はとっくに過ぎていた)+史上初の兄弟同時王者)+弟ドナルドは同じく無敗のホープで’魔術師’の異名を持つマーロン・スターリング(25連勝(18KO)+後の世界統一王者=45勝(27KO)6敗1分)を12回判定に下し北米タイトルを獲得したばかり)に挑んだこちらも無敗の東洋王者(21連勝(13KO)=42勝(29KO)5敗)2位の黄俊錫(韓国=同じく無敗対決で前王者同国人黄忠載(22連勝中(19KO)=28勝(25KO)3敗(カーロス・エリオット(八戸帝拳)=26勝(22KO)3敗)に2回KO負けも含む)を8回にノックアウトして東洋タイトルを奪取)。大差の判定負けながら7回に右ストレートのカウンターを炸裂させ、鉄壁防御のカリーからダウンを奪う殊勲(ゴングに救われた。かなり効いていました)。頑丈そのものの選手(カリーは中盤からKOを狙ったけど(特に10回はもう一歩まで追い込む)倒せなかった)。黄は後にロードバック中の元WBA王者ピピノ・クエバスに、敵地メキシコで10回判定勝ちする金星をあげた(エリオットとの決定戦で8回KO勝ちした無敗のWBAJ・ミドル級王者デレ(仏)に挑戦し、判定負けしたのがラストファイト)。双方、まったく異なる選手たちそして内容ながらいい試合でした(15回戦時代が懐かしいかぎり=「世界王者+ランク」の価値(まだWBAとWBCだけ=階級も「スーパー」(往年の「ジュニア」)も含め、格段に少なかった)も現在とは比べ物にならなかった)。やっぱり「拳闘我命」=ボクシングのことを書くと俄然元気になるのを実感(また書きますのでよろしくお願いします(^_-☆



2018年6月18日(月)Lundi(Monday) It's the most dreadful?’Monday’ ?...
みなさん、こんばんは☆またまた恐怖の「月曜日」?(本当に苦手な週はじめ)。むし暑い朝だったながら突然、「雷+稲妻」から大雨が降りだし1時間ほど停電しました。とはいえ、気がつけばもう午後10時過ぎ。そんなこんなながら、例のかなりの「大御所」氏関連を訳し始めたらなんか疲れた(苦笑)。暴力・残酷・流血・拷問とかとか(恐れ入りました+たいしたものです)。ですので今宵は見なくてもいっつも考えている(程度の差こそあれ、ボクシングについて考えない日はない)。2試合を中心に、またはじめますのでよろしくお願いしますね☆
(1)1992年10月31日(ラスベガス)WBA世界ウェルター級王者メルドリック・テーラー対挑戦者クリサント・エスパーニャ(ベネズエラ)
ーテーラーはアメリカ代表最年少の17歳でロサンゼルス五輪に出場(99勝4敗)。金メダル獲得(ただし80年のモスクワ五輪を西側諸国がボイコットした報復に今度は旧ソ連はじめ東側が不参加を決め込んだ=正式には、83年のアメリカによるグレナダ侵攻に抗議)。24連勝(14KO)1分=29勝(16KO)2敗1分=38勝(20KO)8敗1分。この1戦前に3階級制覇を目指し、WBC世界J・ミドル級王者テリー・ノリス(ムガビを初回ノックアウトに葬り載冠。レナード、カリーを連破=47勝(31KO)9敗)に挑んだ(結果は完敗。4回KO負け)。一方、エスパーニャの長兄は元WBA世界ライト級王者だったエルネスト(36勝(29KO)8敗)よりこの末弟クリサントの方が器は一枚上だった。アイルランドに移住し結婚(アマ54勝10敗)27連勝(23KO)無敗の戦績。フルマラソン2時間17分台の記録を持つ長身選手だった(スピードと切れ味抜群、おまけにスタミナ旺盛)。そしてテーラー(早熟の天才)はもう全盛期を過ぎていた感あり(それ以上にエスパーニャが強過ぎた)。合計4度のダウンを奪われ、一方的。8回にノックアウトされ王座転落。
Crisanto España (born October 25, 1964 in Venezuela) is a former boxer who was the WBA welterweight champion of the world.España fought out of Belfast, Northern Ireland and turned pro in 1984 after accumulating a 54-10 amateur record. España impressively won his first 30 fights, including the WBA Welterweight Title with an upset TKO in the 8th round over Meldrick Taylor in 1992. He successfully defended the title twice before being stopped by Ike Quartey in the 11th round in 1994. España fought only once more, in Northern Ireland in 1995 and retired with a record of 31-1-0 with 25 KOs.
(2)1994年6月4日(パリ)テーラーから衝撃のKOで王座を強奪したエスパーニャ(すでに2度(目はここトロント出身のジャマイカ系カナダ人ブーシェ(33勝(18KO)7敗)を10回にストップした勝利)防衛(1KO)。実力派と呼ばれ安定した強さ(1階級上のノリスへの挑戦が内定。スーパーファイトを控えていた)長期王者になると予想されていた)に挑んだこちらも無敗のアイク・クォーティー(ガーナ)=25連勝(21KO)=37勝(31KO)4敗1分(ソウル五輪代表3回戦敗退(50勝4敗)+27人兄弟の末っ子がアイク(5人の母親)。異母長兄は60年ローマ五輪(19歳の故アリがL・ヘビー級で金メダル)で銀メダル獲得)。結果はクォーティーが戦慄の10回KOでエスパーニャを沈めた(初黒星=30連勝(25KO))。’バズーカ’豪打が爆発。痛烈なロープダウンを奪い、滅多打ち。エスパーニャは横向きになぎ倒され、しばらく立ち上がれないほどのダメージ。展開は一進一退ながらエスパーニャの威力満点速いジャブと連打は、ほとんどクォーティーの固いブロックで弾き返されてしまう。フランスに移籍し主戦場としていたクォーティーはそのまま8度防衛(6KO)し、スターになる。世界は広い(あとから考えれば順当勝ちとも思えたにせよ。歴史に残る名勝負となった)。エスパーニャは再起戦で8回判定勝ちしたのがラストファイトとなってしまう。
Ike Quartey est un boxeur ghanéen né le 27 novembre 1969 à Bukom.Champion d'Afrique des super-légers le 4 mai 1991, il devient champion du monde poids welters WBA le 4 juin 1994 en détrônant Crisanto España par arrêt de l'arbitre à la 11e reprise1.
やっぱりボクシングのことを書くと嬉しく楽しい(^_^そんなこんなでまた明日、続けます☆ Thank you very much and Bonne nuit!!  Merci beaucoup おやすみなさい


2018年6月19日(火)Tuesday Special Boxing 
(1)1988年3月21日、マイク・タイソン(アマ24勝3敗(ロス五輪国内予選決勝で敗退)・無敗の33連勝中(29KO)=50勝(44KO)6敗2NC)対ト二ー・タッブス(アマ240勝13敗・前王者=24勝(13KO)1敗=47勝(25KO)10敗)
ータイソンの初来日。さらに全盛期(21歳)だった。カス・ダマト「キャッツキル」門下(トレーナー=兄弟子ケビン・ルーニー(アマ約200戦(全米ゴールデングローブ制覇)+21勝(7KO)2敗1分)の陣営。2回KO勝ちで防衛に成功。精巧に組み立てられた「ナンバー・システム」採用(ダマト・タイソン(時代)=(スピンクス(弟マイケル→モントリオール五輪(ミドル級)金(93勝7敗+L・ヘビー級で獲得のレオン(181勝9敗+10勝(8KO)2敗2分=26勝(14KO)17敗3分)と初の兄弟金メダル)=31勝(21KO)1敗)戦まで(初回KO勝ち+これが全盛期最後の試合となる)=マニア間ではこう表現する場合も多い)。とにかく全体の動きがきめ細かく、絶対止まった標的にならない(ウイビング(頭はいそがしく動かす)・ボビング・ダッキングを駆使+まず当てさせなかった)。サウスポーへのスイッチも交えて、すり足のフットワーク。強打の連続、スピードと切れを重視した破壊力満点のボクシング。最後は十八番、右のボディーフックからアッパーのコンビネーションが炸裂。続く左フックが顎に命中。タッブスはヘナヘナヨロヨロと崩れ落ち、そのままストップ。完勝及び完璧に近いスタイルだった当時のタイソンが懐かしい限り(加えてまだ若干21歳。この当時ですら成長段階(発展途上=まだ50%ぐらいしか開花していなかった)にあった)。*元奥さんと一緒に相撲部屋の小錦を訪問(’相撲’をとり、昼食でちゃんこ鍋をご馳走になる=How can they get bigger with all these? I eat this just on my diet. . .(「これでどうやって大きくなれるんだ?」(魚類や鶏肉そして野菜ばっかり)「俺が減量中だけ食べるもの」(びっくりしてた笑)。あと、試合後のインタビューで(「雰囲気も違う場所と会場でどうだった?」と聞かれ)「観客にひっかかれたPeople scratched me」と怒っていました(有名人にペタペタと「触る」=これも「日本的」現象ですね)。ともあれアメリカ、HBO放送ライブでみた(上空からのカメラ。皇居(旧江戸城)と新築なった東京ドームが感慨深かったのを覚えている)。
(2)1990年2月11日、マイク・タイソン(23歳(タイソン二度目の来日)=37連勝(33KO)無敗)VSジェームス・ダグラス(29勝(21KO)4敗1分=38勝(25KO)6敗1分+親父は元ミドル級の世界ランカービル・ダグラス(41勝(36KO)16敗1分+来日→在日米軍出身でプロ入りした同じく世界ランカーだったフラッシャー・石橋(スティーブン・スミス(黒人)=18勝(14KO)11敗)を圧倒し3回にノックアウト「プロ根性がまるで違った(会長談)」)
ードン・キング傘下の新陣営(一新されたトレーナー他練習方法)。結果はダグラスが大番狂わせの金星(タイソンの初黒星=連勝ストップ)。10回にタイソンをKOし颯爽新王者に輝く。タイソンは調整不足に加えさまざまな混乱がみられた。公開練習時も①お馴染みの’ダマト・スタイル’「反復」トレーニングがひどく’あっさり’していて、しかも途中でどん詰まってしまい、首をかしげていたそう「前と同じようにやればいいんだ。前はちゃんと出来ていたじゃないか(スノーウェル・トレーナー)」(故佐瀬稔氏の文から『ワールド・ボクシング』誌)②「対話ばかりしていた」「話すより汗を流せよ」(小泉氏)③「あんな練習の仕方をしているとスタミナがつかないよ」(帝拳ジム・本田会長)④「彼はろくに走ってもおらず、練習もしていなかった。試合の何週間前から急いで体重だけ合わせてもベストの仕上がりなんて望めるわけもないさ」(ルー二ー元トレーナー)。試合前のスパーリングでも、元世界王者の故グレグ・ペイジ(ダグラス+タッブスに判定負け=アマ90勝11敗+58勝(48KO)18敗1分)にダウンを奪われた。簡単に何が変わったかを概略すれば→①左ジャブ、ストレートから入る鉄則が陰をひそめた②上体の振りもなくなり、バランスも悪くなった(速さと切れも減退+よくパンチを食う)③ベタ足になる傾向④手数が俄然減った(特にボディーブロー)⑤連打がなくなり、ぶん回す豪腕ヘッドハンターの一発屋化。
ーながらも本当はタイソンの8回KO勝ち。調子は優れず、終始劣勢だったとはいえ。終了間際、起死回生の右アッパー一発でダグラスを仰向けにひっくり返した。一般にいわれる「ロングカウント」(ゆっくり数えた?)=この試合に関して略述説明すれば、ボクサーがダウンする。その瞬間からリングサイドのタイムキーパーが指で「1,2」とカウントをはじめレフリーに信号を送る+見えやすいよう白手袋を着用=それを引継いでレフリーはカウントをはじめる。メイラーン氏(奇怪な行動で有名)がカウントを数えはじめたときすでに「3~4」。そこをまた「1」から数え始めた。ダグラスがふらふら立ち上がった(中腰ぐらい)ときすでに「9」(実際は「12」カウントくらい)。さらに義務である「ファイティングポーズ」と「続行可能の是非」すら問わぬまま「OK!」とおっぱじめさせた(こういうヘンなこと時々やらかす問題レフリーなんです=しかも「大試合」で(苦笑)。そのままゴング。それが内実でした。むかしヘビー級の世界タイトルマッチで有名な「ロングカウント」事件があったながら。そのときは倒した方が、レフリーの指示に従わずうろつきまわったのが主因(一方、タイソンはちゃんとニュートラルコーナーに立っていた→「もちろん終わったと思った」(タイソンの後日談))。*表情も穏和になり大人になった分、凄みが失せた感が強かった(ダマトスタイル時代の2年前より(首の肉も削げた)体が一回り小さくなった=体重は重かったのにだ(216ポンド(約98キロ)から220ポンド(約100キロ)。このときは一時帰国中、日本で見た→実況放送はまた「長嶋茂雄」氏)。余談として日本では「挑戦者」も’迎賓’として、礼遇されるのにダグラスは感動していました(アメリカではそっけないもの)。

Thank you fellas and see you guys later!Merci et salute!  Sam from Richmond Hill
PS:大阪地震のこと、さきほど知りました(Yahoo Canadaのニュース一覧に載っていた)。映像もちらっとみましたが、やはり実感できない「別の惑星」での出来事(「台風」「巨大騒音」そして「満員電車」や「交通渋滞」などとおなじく忘れてしまった)。しかし密度の濃い、都市中心部、住宅街での震災(崩壊した家屋群が痛々しかった)。現時点では「津波」注意報は出ていないようですが(けど、熊本・茨城お次は静岡、そして今回の大阪=「日本沈没」・・・起こらないことを願うまで+原発も再起動=結局、こういったことを許す「責任」は他の誰でもない。主権者である「我国臣民」にあるとしか考えられない+これらは日本だけの問題ではありません(福島からの放射能及び汚染水に脅かされている北米西海岸とカナダを参照)。カナダは本日も静かで平和。すでにむし暑いであろう大阪そして他の各都市などなど、「国家元首」安倍サンはもう能天気な「外遊」サミットから帰って来たのかな?(苦笑)。こういうとき(自国内・臣民向け)こそ「愛国」だの「邦人」どうこう正念場、気張ってみて欲しいもんです(例えばあなた方の「大御所?」Wブッシュ氏などを「反面教師」として→①イラク侵略(日本だけ真先に支持)は瞬く間に強行(誰の反対にも耳を貸さず)②ながら直後に起った「自国内」ルイジアナ州(ハリケーン・カトリーナ (Hurricane Katrina) は、2005年8月末にアメリカ合衆国南東部を襲った大型のハリケーンである)の「大災害」(黒人の貧困層も多かった)には実に緩慢(ろくに支援しなかった)。最後に、広島・長崎への原爆投下加えてソ連の対日参戦。アジア諸国の人々の間では歓喜の声があがった(これらの意味も現在の自分勝手「我国」(アメリカべったり、戦争法・傲慢主義+歴史事実改竄・ヘイトデモ・外国人排斥・靖国参拝・積極的平和(軍事?)外交などなど)に移して考えてみることも提案します)。さて、今宵は早々とくたばることにします。また明日☆ 再見 謝謝 おやすみなさい サム カナダ
ドイツ語→Als Nuklearkatastrophe von Fukushima wird eine Reihe katastrophalerUnfälle und schwerer Störfälle ab dem 11. März 2011 im japanischen Kernkraftwerk Fukushima Daiichi (Fukushima I) in Ōkuma bezeichnet. Die Katastrophe erreichte auf der siebenstufigen INES-Skala (Internationale Bewertungsskala für nukleare Ereignisse) die höchste Stufe.廣島與長崎原子彈爆炸發生在第二次世界大戰末期,美軍在1945年8月6日與8月9日,分別在日本的廣島市與長崎市投下原子彈,這也是歷史上人類目前唯一一次在戰爭中使用核武히로시마·나가사키 원자폭탄 투하(広島・長崎原子爆彈投下,영어: Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki)는 제2차 세계대전이 다 끝나갈 무렵 1945년 미국은 일본에 두 개의 원자폭탄을 투하했는데, 8월 6일 히로시마 시에 한 개의 원자폭탄을 떨어뜨렸고 8월 9일 나가사키 시에 나머지 한 개의 원자폭탄을 떨어뜨렸다Atomic bombings of Hiroshima and NagasakiDuring the final stage of World War II, the United States detonated two nuclear weapons over the Japanese cities of Hiroshima and Nagasaki on August 6 and 9, 1945, respectively. The United States dropped the bombs after obtaining the consent of the United Kingdom, as required by the Quebec Agreement. The two bombings killed at least 129,000 people, most of whom were civilians.フランス語→ソ日戦争=La guerre soviéto-japonaise(en russe : Советско-японская война et en japonais : ソビエト戦争) pendant la Seconde Guerre mondiale a commencé le 9 août 1945 avec l'invasion soviétique de l'État fantoche du Mandchoukouo. Les Soviétiques et les Mongols mettent fin au contrôle japonais du Mandchoukouo, au Mengjiang (Mongolie-Intérieure), au nord de la Corée, au sud de Sakhaline et aux îles Kouriles.



2018年6月22日(木)Jeudi(Thursday) 本日の観戦記
ー実際に見てはいないけど(これまたすでに数え切れないほど見ました)頭の中で何度も再現していた(苦笑)
(1)1984年9月22日WBA世界ウェルター級タイトルマッチ ドナルド・カリー(19連勝(14KO)無敗)対二ーノ・ラロッカ(イタリア=56勝(43KO)1敗(デビュー以来54連勝(伏兵エルビリア(仏+WBC王者マクローリー(米)に挑戦し、6回KO負け)にダウンを奪われ、傷により6回ストップ負け)=74勝(54KO)6敗)モンテカルロ(モナコ公国)での一戦
ーカリーのベストファイトのひとつ。王者危うしの声も高かった。「この試合は私にとって最も重要な一戦だ。私はアマチュア時代も含め、本当に認められたことはなかったように思う(カリー)」「5回か6回にノックアウトする(ラロッカ)」。指名試合「イタリアのアリ」の異名を持つ1位の難敵、ラロッカ(アフリカ(旧仏領)モーリタ二ア出身)を完封。6回に2度倒してノックアウト防衛。初回から息詰る展開。3回までラロッカはよく手を出した(この頃は以前ほど足を使わず、正面から連打をまとめるようになっていた)威力があり、切れ味鋭い。閃光のような速いパンチ。一級品同士の攻防が忘れられない。カリーはことごとく見切り、ブロックしながら前進。カウンターを繰りかえし当て、じりじりと圧力をかけ仕留めた。 
(2)1986年9月27日 統一世界ウェルター級タイトルマッチ ドナルド・カリー(25連勝(20KO)無敗)対1位無敗の英連邦・欧州王者ロイド・ハ二ガン(イギリス=27連勝(17KO)=43勝(30KO)5敗)ラスベガス
ーカリー、衝撃の初黒星(王座転落)。5回のバッティングにより瞼上から出血。傷が悪化し6回終了TKO負け。いろいろと試合前、契約上の問題(1階級上無敗の王者マッカラム(28連勝(25KO)へ挑戦するはずだった=すでにJ・ミドルで2試合行い、そこからまたウエルターに下げたので減量も影響)や個人生活上の不幸(兄ブルースが元トレーナーに拳銃をぶっ放し、殺人未遂で逮捕+妹のアンジェラが18歳で交通事故死=横断中、信号無視のオートバイに跳ねられた)も重なりもうひとつ元気がなかった。ハニガン(ムガビの同僚)は勇敢で絶好調(序盤がとくに強い。先行逃げ切り型)初回から積極的に打って出る。カリーはやや自信過剰に加えハニガンを過小評価、なめていた帰来あり「ハニガン?関心ないね。私は王者としてふさわしい戦いをするだけさ」「カリーの傑出した実力は認めるけど、相手も同じ人間。腕が二本、足が二本じゃないか」。2回、ハニガンの右ストレートをまともに浴びたカリーはガクッと膝が折れた。4回辺りからようやく調子もあがり、いいパンチも当る(しかし手数が少なかった)。ながら5回、2回に食らったのとおんなじ打ちおろしの右が炸裂。以後カリーはジリ貧となり、出血もひどく6回終了時には戦意喪失。ハニガンの快勝(統一(WBA/WBC/IBF)タイトルを強奪)。歓喜する陣営(マネージャーはミッキー・ダフ)と泣いて勝利を喜びながらも、敗れた前王者カリーを抱き上げ手をあげて敬意を表する(ボクシングのすばらしいところです)。
(3)1987年2月22日 統一世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ロイド・ハニガン(28連勝(18KO)無敗)対挑戦者1位ジョ二ー・バンファス(アマ341勝16敗(モスクワ五輪米代表)+デビュー以来22連勝(17KO)→29勝(20KO)1敗) イギリス・ロンドン
ーハニガンが2回KOで初防衛成功。スイッチヒッター(およそ70%はサウスポーで戦う)のバンファスは元WBA世界J・ウェルター級王者(ハッチャー(米白人)に11回逆転KO負け(初黒星)で転落(ハッチャーは後、ハニガンに挑戦し初回KO負け)ウェルター級転向後、マーロン・スターリング(後のWBA王者+ハニガンとの統一戦で9回KO勝ち)を8回負傷判定で破った)。ハニガンはこの試合も初回から猛攻に出た。力強いパンチをまとめ、圧倒されたバンファスは懸命に応戦しながらもダウンを奪われ、何もできないまま2回にノックアウトされてしまった(バンファスのラストファイト=引退後、麻薬問題)。ハニガンのベストファイトの一つ。★追悼★故ジョニー・バンファス(2020年1月に死去・享年59歳)Johnny 'Bump City' Bumphus (August 17, 1960 – January 31, 2020)
重苦しい日が終り。ピストン「大御所」北野氏だの、他いろいろがっくりきた後は「☆拳闘☆」一番のリハビリみたいです(笑)。また明日再開します☆ おやすみなさい Bonne nuit et cheers!! サム カナダ


(1)1984年4月21日 WBA/IBF世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ドナルド・カリー(18連勝(13KO)無敗)VS挑戦者1位エリオ・ディアス(ベネズエラ=31連勝(29KO)無敗=35勝(30KO)5敗)テキサス州フォーワース
ーカリーが8回TKO勝ちで3度目の防衛に成功。ディアスの連勝をストップ。カリー全盛期のベストファイトのひとつ。初回と5回にダウンを奪い、高度な技術と強烈なパンチを披露。南米の怪物ディアスを完封した(7回終了間際にもう1度倒した)。
(2)1991年6月1日 WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者テリー・ノリス(アマ291勝4敗+27勝(13KO)3敗)VS挑戦者元王者ドナルド・カリー(33勝(24KO)3敗)カリフォルニア州パームビーチ 
ーノリスが8回にカリーをストップ。チャンピオンの若さに完敗。ノリスはカリーの固いブロックの上をお構いなし打ちまくった。切れ味鋭く、威力満点の連打を放ち、カリーを圧倒(ナン戦同様、ときどき昔日をしのばせるカウンターを命中させながら単発)。7回にダウンを奪われ、8回に倒された。31歳のカリーはリング上で、引退を表明した(まさか5年後にカムバック(1勝1敗(KO負け=師匠だった元弟子との対決)する羽目に陥ろうとは・・・)。




(1)1993年3月13日 WBC/IBF世界ライト・フライ級タイトル統一戦 WBC王者ウンベルト・ゴンザレス(30連勝(26KO)無敗=35勝(28KO)1敗(フィリピンの伏兵ローランド・パスクワ(24勝(9KO)5敗=45勝(17KO)25敗)にKO負け(初黒星・王座喪失)=43勝(30KO)3敗)VSIBF王者マイケル・カルババル(ソウル五輪米代表銀メダル(94勝9敗+27連勝(14KO)無敗=49勝(33KO)4敗)ラスベガス
ーカルバハルが2回と4回にダウンを奪われながらも、7回逆転KO勝ち。スイッチヒッターのゴンザレス(ニックネームはチキータ(小男)Chiquita)は、この試合はファイタースタイルとなるオーソドックス(右構え)で80%戦い(パスクワに負けた後、慎重になり消極的なボクシングが続いていた)、積極的に攻撃した。ノックアウト寸前に追い込みながらも、足を止めての打ち合いとなれば、カルバハルのボクシングと噛み合う。一発の破壊力では勝るカルバハルは7回、強烈な左フックを炸裂させゴンザレスを倒した。
(2)1994年2月19日 再戦 王者マイケル・カルバハルVS前王者ウンベルト・ゴンザレス カリフォルニア州イングルウッド
ーゴンザレスが大差の判定勝ちで雪辱、タイトル奪回。ゴンザレスは終始サウスポーで戦い、足を使い危険を避け、随所にパワー八分目のパンチを当て、勝ちに徹した。初回に額を切り、流血がひどかったながら一方的な勝利で王座奪回。カルバハルは空回りさせられ、何もできなかった(初黒星、連勝ストップ)。この当時、両選手とも1階級下無敗無敵の王者リカルド・ロペス(51連勝(38KO)1分+ストロー級タイトルを21回(16KO)防衛に成功+2階級制覇)及び、1階級上のユーリ・アルバチャコフとのスーパーファイトが噂されたが。結局、実現せず終わってしまったのは残念だった。
(3)1994年11月12日 ラバー・マッチ(3度目の決戦) 王者ウンベルト・ゴンザレスVS前王者マイケル・カルバハル メキシコシティ
ーゴンザレスが再び判定勝ち。ライバルに2勝1敗で勝ち越し、決着をつけた。仮にロペスと戦っていれば、両者ともに分が悪かったのは間違いない(だからこそ受けず。ロペスによる度々の対戦希望に応じなかった)。また、ユーリの場合はじめは階級を下げ、当時無敗のゴンザレスに挑戦するはずだった。後に、アメリカでカルバハルと戦う話が本決まりに近いところまで運んだ。いずれも流れてしまい、こちらも残念な限り。さらにロペス対ユーリのスーパーファイトも、具体的交渉まで至らなかった。





(1)1985年6月15日 WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者トーマス・ハーンズ(38勝(32KO)1敗)VS挑戦者WBA王者(3階級制覇=後に4階級制覇)ロベルト・デュラン(77勝(58KO)5敗=103勝(70KO)16敗)ラスベガス・シーザーズパレス屋外特設リング
ーハーンズが戦慄の2回KOでデュランを倒す(ヒットマンのベストファイト)。デュラン(ライト級上りの水増しウエートながら)をここまで完膚亡きまで叩きのめしたのはハーンズだけ(①レナード1勝(判定勝ち)2敗(試合放棄+判定負け)②ベニテス(判定負け)③ハグラー(判定負け))。初回に2度ダウンを奪い2回、ロープ際で連打の後、顎を右ストレートで打ちぬく。デュランは前のめりに倒れ、そのままストップ(歴史に残る、痛烈なノックアウト劇)。どれだか忘れたけど、早く終わった日本人選手の世界戦のあと(小林弘氏(かつて若きデュラン(弱冠19歳=25連勝(22KO)無敗)とパナマで対戦(7回KO負け(小林のラストファイト)+ファイティング・原田氏が解説)。(むろん結果は知っていたながら、こんなに凄いKOだとは思っていなかった)民放チャンネルで見ました(その後、東京テレビ)。むろん両者とも、ファイトマネーは「数億円」。
(2)1986年4月15日 世界ミドル級タイトルマッチ 王者マービン・ハグラー(60勝(50KO)2敗2分)VSWBC世界J・ミドル級王者トーマス・ハーンズ(40勝(34KO)1敗)ラスベガス・シーザーズパレス屋外特設リング
ー世紀のスーパーファイト(歴史に残る対決)。ハグラーが3回にハーンズをノックアウト(2人ともファイトマネー「20億円」以上)。11度目(10KO)の防衛に成功した。初回ゴングと同時に、サウスポーのハグラーが打って出た。コーナーに詰めて右フックを炸裂させたが、ここでハーンズの右ストレートがカウンターとなる。大きくよろめいたハグラーに、すかさずアッパーから右フックを顎に叩き込んだ(ハグラーはクリンチで凌ぐ+ハーンズはここで右拳を骨折したという)。すさまじい打撃戦となったが(ハグラーがコーナーに詰め、ハーンズが応戦)。2回からはワンサイド。3回にハグラーはハーンズをとらえ、最後は右フックを命中させ倒した。東京テレビのライブ放送(午前中)、待ちこがれてみました(初回、ハーンズがハグラーをぐらつかせ連打を叩き込んだとき、’ヒットマン’スタイルの速攻なる。ハーンズの勝ちだと思った)。

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