日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Bonne fin de semaine【La Boxe】Encore☆《Filippino/Ang Cebu=Ang pulo sa Sugbo/Pilipinas》Goodfellas/Славные парни!! 福神皆様、よい週末を!!(2018/10)Die Bombardierung von Chongqing/La batalha de Zaoyang



(1)、1981年6月13日 世界ライト級ノンタイトル10回戦 ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ=17連勝(15KO)無敗1分→42勝(29KO)11敗2分)VSアンディ・ガニガン(米=34勝(29KO)2敗(デビュー以来25連勝(23KO)故リラ(白人(世界ランカー)全米タイトルマッチ)に6回KO負け(初黒星))→35勝(30KO)5敗)カリフォルニア州イングルウッド
ー注目のランカー対決。当時、旋風を巻き起こしていた’ガト’(El Gato=山猫)の異名を持つ新鋭ゴンザレス。一方、再浮上を狙うハワイアンパンチャー、サウスポーのガニガン(フィリピン+日系=ミドルネームmiddle nameは「ミゾオMizoo(溝尾)」)。予想通りすさまじい倒し合いの強打戦となる。3回に先制のダウンを奪ったガニガン。ながらゴンザレスは5回と7回に倒し返して10回判定勝ち。ちょっと低迷気味だったガトはこれからしばらくスランプに入る(ノエル(トリニダード・トバゴ)とのWBAライト級タイトル決定戦で判定負け(つづいて無名の中堅選手に2連敗→「すっかり落ち目のガト・ゴンザレス」(ワールドボクシング誌))+大分後に、同国人対決。WBCJ・ウェルター級王者となるアルレドンドからダウンを奪った末、判定勝ちし世界ランクに戻った→双方浜田剛史にKO負けした選手)。かたやガニガンは復活。アルゲリョへの挑戦(5回KO負け)に突っ走った。なお、ゴンザレスは後に2度世界タイトルに挑戦する。1、WBAJ・ウェルター級王者オリバ(イタリア(サッコ(アルゼンチン)に判定勝ちで奪取)モスクワ五輪金)に挑戦し15回判定負け2、WBCJ・ウェルター級王者ロジャー・メイウェザー(アルレドンドに6回KO勝ちで奪取+フロイド・ジュニアの叔父)に挑戦し12回KO負け。
(2)、1981年10月31日 世界ライト級ノンタイトル10回戦 元WBA王者ショーン・オグラディー(米=76勝(67KO)2敗→81勝(70KO)5敗)VSアンディ・ガニガン(34勝(29KO)3敗)アーカンソー州リトルロック
ーガニガンの豪腕爆発、2回KOで圧勝。初防衛戦も行わない間にタイトルを剥奪されてしまったオグラディーは、何もできないままノックアウト負け。


(1)、1982年4月24日 世界J・ライト級ノンタイトル10回戦 元WBC王者コーネリアス・ボザ・エドワーズ(モントリオール五輪ウガンダ代表(祖国がボイコットしたため欠場(イギリスに移住)=34勝(29KO)3敗→45勝(34KO)7敗1分)VSWBA2位ジョン・ベルデローサ(22連勝(15KO)無敗→27勝(17KO)3敗)ニュージャージー州アトランティックシティー
ーロードバック中の元王者エドワーズ(サウスポー)が無敗の新鋭ベルデローサを相手にせず、3回にノックアウトした。実際にみたのは比較的近年、Youtubeからでした。戦績だけ立派なひ弱な「白人ホープ」だと思いこんでいたベルデローサ(イタリア系)。こんなにパワー溢れる、八方破れのスタイル、頑丈そして強打のパンチャーだったとはびっくり。エドワーズは、マネージャー・ミッキー・ダフの秘蔵っ子だった(同胞のムガビ、ムンタガ(無敗対決でブリーランド(ロス五輪金)に6回KO負け)そしてハニガン(ジャマイカ出身)とチームメイト)。
(2)、1983年3月20日 世界J・ライト級ノンタイトル10回戦 元WBA王者ショーン・オグラディ(81勝(70KO)4敗)VSジョン・ベルデローサ(23勝(16KO)1敗) イリノイ州シカゴ
ーオグラディー(アイルランド系)のラストファイト。いい打ち合いだったが、ベルデローサが4回TKOで元王者に引導を渡した。オグラディーは折角無敗のケンティに土をつけ、戴冠したあとは、契約上の問題に翻弄されてしまう。ちっともいいところないまま最後の試合となったのは本当に残念だった。


(1)、1982年11月13日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者レイ・マンシーニ(22勝(18KO)1敗(アルゲリョのWBCタイトルに挑戦し、14回KO負け+フリアス(米・白人、ノエルを8回にノックアウト)に初回TKO勝ちで奪取)→29勝(23KO)5敗)VS挑戦者金得九(17勝(9KO)1敗1分)ネバダ州ラスベガス
ー序盤から激しい打撃戦となった試合。ながらマンシーニ(イタリア系)が14回KO勝ち。そしてノックアウト負けしたサウスポーの東洋王者金は意識不明となり、そのまま亡くなった(歴史に残る悲劇の一戦となってしまう)。韓国ボクシングの全盛期時代。帰らぬ人となってしまった金は他多くと同じく、東洋無敵だった。日本選手では強打の石戸唯男(9勝(7KO)5敗+対山本兼当(6連続初回KO勝ちの記録保持=同じく対イサヤ(ヨネクラ)・イコ二Isaya Ikhoni(初回KO負け)+田中良成(8回KO負け)=ライブ観戦+追悼・故モデスト(友伸)・ナプニModest Napunyi Oduori(ケニア+元日本王者(イコニ、ナプニともアマ時代元2階級王者ネルソン(ガーナ)と1勝1敗)スパイダー・根本に判定勝ちで奪取(再戦は判定負け(日本でのラストファイトとなった))=2002年死去(享年45歳))戦(3回KO勝ち)後楽園ホールライブ観戦しました★)及び大久保克弘(元アマ全日本王者+世界選手権(74年ハバナ大会)代表(131勝(98KO/RSC)11敗+9勝(9KO)10敗)が歯が立たず、KO負け。葬儀に参列し、冥福を祈っていたマンシー二(サングラスをかけうつむき、やつれた表情)の写真が脳裏に刻まれている。
김득구(金得九, 1955년 1월 8일 ~ 1982년 11월 18일)는 대한민국의 권투 선수이다. 사망 1982년 11월 13일 (한국 시간 14일) 미국 라스베이거스에서 열린 WBA 라이트급 챔피언전에서 레이 맨시니와 권투 경기 도중 사망했다. 당시 경기 14라운드에서 맨시니에게 턱을 강타당한 김득구는 의식을 잃고 쓰러져 병원으로 옮겨졌으나 4일간의 뇌사상태 끝에 어머니의 동의를 얻어 산소 마스크를 떼어 내었다. 사망 여파 김득구의 사망 이후 김득구의 모친은 2개월 여 뒤 자살로 생을 마감했고, 경기의 심판이었던 리처드 그린도 7개월 여 뒤에 자살했다. 심지어는 상대 선수인 레이 맨시니 마저도 자살을 여러 번 시도했을 정도였다. 하지만 맨시니는 이 사건을 계기로 권투선수를 그만두고 영화배우가 되었다. 이 사건은 많은 충격을 낳았다. 김득구 선수가 쓰러지는 장면이 텔레비전으로 생생히 중계되면서 1960년대 이후로 대한민국 최고의 스포츠로 인정받던 권투가 위험한 스포츠라는 인식이 생기기 시작했다. 미국 의회에서 권투의 위험성에 대한 청문회가 열리기도 했다. 결국 권투계는 15 라운드 경기를 12 라운드로 줄였고, 매 라운드 사이의 휴식시간을 60초에서 90초로 늘리고, 스탠딩 다운제를 도입했다. 게다가 올림픽 권투종목 역시 1984년 하계올림픽부터 헤드기어를 의무화했다.ドイツ語→Kim Duk-koo (auch Duk Koo Kim; * 8. Januar 1959 in Banamri; † 18. November 1982 in Las Vegas) war ein südkoreanischer Boxer.
(2)、1983年9月1日 WBC世界バンタム級王者決定戦 1位アルバート・ダビラ(米=46勝(23KO)7敗→56勝(26KO)10敗)VS2位フランシスコ・キコ・べヒネス(メキシコ=27勝(16KO)7敗)カリフォルニア州ロスアンゼルス
ー終盤戦での事故が重なり、他に先駆けてWBCが12ラウンド制にしたはじめての世界戦試合で起こってしまったリング禍。最終12回にKO負けしたべヒネスはそのまま病院送りとなり、他界。悲しかったです。べヒネス(前WBA王者ソリス(プエルトリコ)からダウンを奪い判定勝ち)はその2試合前、ピントール(メキシコ)に挑戦して15回KOで敗れた日本の故ハリケーン・テル(沖縄県那覇出身(本名照喜名俊三★追悼★2014年に死去、享年62歳(引退後は、石川ジムでトレーナーを務めていた)+35勝(15KO)13敗3分)を同じくロスアンゼルスに迎え、4回にノックアウト(「ベヒネスは一発パンチならピントールより上だと思うがまだまだ荒削り(テル言)」「テルが調子がいいときだったら負ける相手じゃなかったんだが(石川会長言)」)。ダビラも以前、ピントールに挑戦し判定負けしている。なお初防衛戦では、難敵1位のエンリケ・サンチェス(ドミニカ=日本で渡辺二郎に挑戦したチャべス(パナマ・15回KO負け)にも初回KO勝ち)に11回逆転KO勝ち(マイアミの野外会場、前半はサンチェスが圧倒していたが、大雨となり、中断後は形勢逆転)。ダビラはタイトルを剥奪され、ロラ(コロンビア=サンチェスにも完勝。2度のダウンを奪い、6回TKO勝ち)に2度挑戦したが双方、判定負けで王座奪回ならず。
Francisco "Kiko" Bejines (January 1, 1962 – September 4, 1983) was a professional boxer from Guadalajara, Jalisco, Mexico. He was a top-rated Bantamweight who fought for the WBC's world Bantamweight title, dying days after his championship bout against Alberto Davila.


(1)、1981年8月29日 WBC世界J・ライト級タイトルマッチ 王者コーネリアス・ボザ・エドワーズ(英+31勝(28KO)2敗(ノンタイトル戦で故アルゲリョに8回TKO負け))VS挑戦者ローランド・ナバレッテ(比国(ミンダナオ島出身+米=ハワイが主戦場)=41勝(24KO)8敗3分→56勝(33KO)15敗3分)イタリア
ーナバレッテが番狂わせの5回KOでエドワーズを沈め、新王者に輝く。強打者同士のサウスポー対決。緊迫した睨み合いが続いたがエドワーズは、アマ出身らしいきれいなスタイルから再三有効な連打を打ち込む(しかし時折、ナバレッテの強打が命中していた)。ながら4回、ナバレッテはワンツーを炸裂させ最初のダウンを奪い、続いて力強い連打で、2度目のダウンを奪う(エドワーズはグロッキーだった)。続く5回、再び豪打が火を吹く。痛烈な右フックを叩き込みエドワーズをノックアウト。ナバレッテのフィリピン選手独特瞬時の爆発力(エスピノサやパッキャオに共通するところがある)はすさまじかった(いきなり静から動へ)。
(2)、1982年1月16日 WBC世界J・ライト級タイトルマッチ 王者ローランド・ナバレッテ(42勝(25KO)8敗3分)VS挑戦者崔忠日(13連勝(12KO)無敗)フィリピン・マニラ
ーナバレッテが11回に無敗の崔を沈め初防衛に成功。崔は初回からスピードがあり、威力満点の真直ぐ連打で肉迫。5回終了間際、切れ味鋭い5~6コンビのワンツーが命中し、ナバレッテはダウン。ゴングに救われた(しかしこれは「ショートラウンド」いわゆる「ゴングが早く鳴らされた」*)。ダメージは深かったが以降、狙い過ぎた帰来あり。徐々に盛り返され結局、戦慄の逆転KOで破れ初黒星。崔は世界ランカーの強敵レイ・タム(比(故アルゲリョ(ニカラグア)に挑戦し、5回TKO負け)サウスポー)も3回にノックアウトしていた。*例:(1)韓国:WBC世界J・バンタム級タイトルマッチ、金喆鎬VSラファエル・オロノ(ベネズエラ)②(初戦は挑戦者金が王者オロノを9回にノックアウトし戴冠)の5回(ダウンを奪われた金は完全にグロッキーだった+オロノの6回KO勝ち)(2)日本:WBC世界ミニマム級タイトルマッチ、井岡弘樹VSナパ・キャットワンチャイ(タイ)①の最終回(ナパの連打を浴びた井岡のダメージは深く、フラフラだった+引き分け)(3)タイ:WBC世界フライ級タイトルマッチ、ユーリ・アルバチャコフVSムアンチャイ・キティカセム②(初戦は挑戦者ユーリが王者ムアンチャイを8回にノックアウトして新王者に就いた)の7回(ダウンを奪われたムアンチャイはKO負け寸前のピンチだった+ユーリの9回KO勝ち)。


(1)、1982年5月29日 WBC世界J・ライト級タイトルマッチ 王者ローランド・ナバレッテVS挑戦者前王者ラファエル・リモン(メキシコ=48勝(35KO)11敗2分→53勝(38KO)23敗2分)ネバダ州ラスベガス
ーサウスポー対決。一進一退の激戦だったが、ナバレッテやや優勢のまま後半にもつれ込む。’バズーカ’の渾名(ただし元陸軍兵士でバズーカ砲手だったリモンが故のニックネーム)を持つリモンが12回にナバレッテをノックアウト。エドワーズに15回判定負けで奪われた王座に復帰。
(2)、1982年9月18日 WBC世界J・ライト級タイトルマッチ 王者ラファエル・リモンVS挑戦者崔忠日(14勝(13KO)1敗)カリフォルニア州ロサンゼルス
ーリモンが7回逆転KO勝ちで崔を沈め、初防衛に成功。ナバレッテに連勝をストップされた崔(韓国側が例の「ショートラウンド」をWBCに提訴したため、新王者リモンへの挑戦が優先された)。この試合も6回まで、果敢なストレート攻撃によりリモンを圧倒していた。しかし王者は7回、執拗なボディー攻撃で崔をキャンバスに這わし、悶絶させた「リモンが7回に借金を清算」(ボクシングマガジン誌)。崔のラストファイト。崔は本当にすばらしい選手だったが、運に恵まれなかったといえる。日本選手は全敗だった(成田城健(本名隆一(バトルホーク・風間に2連勝(初戦は判定負け)=)日本王者(若き尾崎富士雄(東日本新人王)に判定負けで転落(再戦も判定負け)引退後はヨネクラジムのトレーナー)+対山本戦(判定勝ち)、後楽園ホールでライブ観戦☆)、池原良孝、小次郎佐々木がKO負け)。
武漢作戦(ぶかんさくせん)は、日中戦争の戦い。武漢三鎮攻略戦もしくは武漢攻略戦とも呼称される。中国側呼称は武漢会戦、武漢保衛戦+武漢會戰(中國:武漢保衛戰;日本:武漢攻略戰),是中國抗日戰爭中一場橫跨安徽省、江西省、河南省、浙江省及湖北省等广阔地域大規模戰役,国民政府军事委员会委员长蔣中正領導中国第5、第9战区部队,以湖北武汉地区为中心,抗擊由华中方面军总司令畑俊六指揮的大日本帝國陸軍。該戰役共進行了四個半月,是中國抗日戰爭初期中時間最長、規模最龐大和最出名的戰役。帕維爾·費奧多羅維奇·日加列夫、特霍爾率領苏联航空志愿队支援中國+フランス語→武漢の戦い=La bataille de Wuhan(武漢会戦)opposa en 1938 l'Armée impériale japonaise à l'Armée nationale révolutionnaire chinoise – aidée par l'Armée de l'air soviétique, envoyée officieusement sous l'appellation de troupes « volontaires » – pendant la guerre sino-japonaise. Déterminé à conquérir Wuhan (Hubei), le quartier-général impérial autorisa à 375 reprises l'emploi d'armes chimiques lors des opérations de l'automne 19381 en dépit des articles 23 des conventions de La Haye de 1899 et 1907 et V du Traité relatif à l'emploi des sous-marins et des gaz asphyxiants en temps de guerre ainsi que d'une résolution du 14 mai 1938 de la Société des Nations blâmant l'Empire du Japon pour un tel usage2. La bataille dura quatre mois et s'avéra particulièrement intense et sanglante, s'étalant sur les rives nord et sud du Yangzi Jiang, ainsi que sur plusieurs provinces voisines du Hubei. 
台児荘の戦い(たいじそう/だいじそうのたたかい)とは、日中戦争中の1938年3月から4月7日までの間、山東省最南部の台児荘(台児庄とも)付近で行われた戦闘である。台児荘の攻略を企図した日本軍部隊が、中国軍の大部隊に包囲されて撤退、徐州作戦の引き金となった。中国側が「抗戦以来の大勝利」を宣伝したことでも知られる+
타이얼좡 전투(台儿庄会战)는 중일 전쟁 초기 1938년 3월 24일부터 1938년 4월 7일까지 타이얼좡 구 지역에서 벌어진 중화민국과 일본 제국간의 전투였다. 중화민국군이 대승을 거뒀으며, 이 전투는 중일 전쟁 개전 이래 중화민국이 처음으로 승리한 전투였다. 타이얼좡은 대운하 동쪽에 위치한 소도시로, 쉬저우에서 동북쪽에 위치한 전방요새였다. 또한 진푸 철도와 룽하이 철로가 쉬저우에 위치하고 있었기 때문에 일본군은 이 지역을 병참기지로 활용할 예정이었지만 타이얼좡 전투에서의 패배로 계획에 차질이 빚어졌다デンマーク語⇒Slaget om Tai'erzhuang(台児荘の戦い)simpelt kinesisk: |臺|兒|莊|會|戰, traditionelt kinesisk |台|儿|庄|会|战 Tái'érzhūang Huìzhàn) var et slag under den 2. kinesisk-japanske krig i 1938 mellem den kinesiske Kuomintanghær og Japan. Det anses til tider for at være en del af slaget om Xuzhou. Tai'erzhuang ligger på den østlige bred af den Store kinesiske kanal og var en grænsepost nordøst for Xuzhou. Det var også endestationen for en lokal jernbane fra Lincheng. Xuzhou selv var knudepunkt for Jinpu jernbanen (Tianjin-Pukou) og Longhai jernbanen (Lanzhou-Lianyungang) og hovedkvarter for Kuomintangs 5. krigszone.
徐州会戦(じょしゅうかいせん)または徐州作戦とは、日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)による戦い。日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった徐州会战指1938年1月至6月间,中国军队在以徐州为中心的江苏、山东、安徽、河南等省抗击侵华日军进攻的作战。是中国抗日战争中一次重要的会战。日本军队于1937年12月13日占领中华民国首都南京之后,继续挥军北上,而另一股日军亦从华北方向南下,意图打通津浦线。中日两国军队,以徐州为中心展开一系列激战。其中,三四月间的台儿庄大战最为著名,因围歼日军一万余人(另有约5800人一说),史称之为“台儿庄大捷”+ドイツ語→徐州作戦=Die Schlacht um Xuzhou
fand im Verlauf des Mai 1938 statt und war eine Schlacht des Zweiten Japanisch-Chinesischen Krieges zwischen Armeen der chinesischen Kuomintang und des Kaiserreichs Japan. Sie bildete den Endpunkt einer mehrmonatigen Kampagne zur Einnahme des wichtigen Verkehrsknotenpunkts Xuzhou.


(1)、2000年4月1日 WBO世界ヘビー級タイトルマッチ 王者ビタリ・クリチコ(ウクライナ=世界選手権(95年ベルリン大会)銀メダル(195勝17敗)+27連勝(27KO)無敗→45勝(41KO)2敗)VS挑戦者クリス・バード(バルセロナ五輪米代表(ミドル級)銀メダル(290勝25敗)+30勝(18KO)1敗(無敗ランカー対決でイベアブチ(ナイジェリア)に5回KO負け+イベアブチ(20連勝(15KO))のラストファイト・婦女暴行で逮捕(懲役16年))→45勝(22KO)5敗1分)ドイツ・ベルリン
ーサウスポーのバードが9回終了TKO勝ちで戴冠。肩を痛めたクリチコはあっさり試合放棄(連勝と連続KOがストップした)。ビタリ(「鉄拳博士」の異名)のパンチはほとんど当らず、バード(急遽代役に選ばれた選手+本来の相手は我トロント出身のレーザー・ラドックだった)ののらりくらり戦法に巻き込まれた。だんだん疲れもみえはじめ、逆にバードは反撃。劣勢になっていた。大番狂わせで無敗のクリチコに初黒星をなすりつけたバードは歓喜、涙を流していた。インタビューでソ連選手の素晴しさを語り、国際大会で一緒だったという、ジューを例に出し敗れたクリチコを讃えていた(毎度ながら、嬉しかったです☆)。一方、思いも寄らぬ敗戦のクリチコは、呆気ない「試合放棄」に関してHBO解説のラリー・マーチャントに問いつめられていた「王座と無敗のレコードが賭かっていたのではないのか?」(ドイツ語の通訳=この当時はまだ英語はできなかった)。
(2)、2000年10月14日 WBO世界ヘビー級タイトルマッチ 王者クリス・バード(31勝(19KO)1敗)VS挑戦者ウラジミール・クリチコ(ウクライナ=アトランタ五輪優勝金メダル(134勝6敗)+31勝(29KO)1敗(ピュリティー(米・黒人+大物食いの中堅選手)に9回KO負け)→64勝(53KO)5敗)ドイツ・ケルン
ー弟ウラジミール(ニックネームは「鉄槌博士」)が兄の敵討ち。バードを大差の12回判定で破り、雪辱なる。ウラジミールが見事なサウスポー戦略を、完璧に実施したような展開。バードは手も足も出なかった(6年後の再戦においても、クリチコは7回にバードをノックアウト)。兄弟ともキエフ大学、体育学「博士号」所持(「ドクター」の異名はそれが故)。両者ともにおよそ5ヶ国語に堪能(ウクライナ語・ロシア語・独英などなど、弟ウラジミールは片言の「日本語」も話す)。



(1)、2003年3月8日 WBO世界ヘビー級タイトルマッチ 王者ウラジミール・クリチコ(40勝(37KO)1敗)VS挑戦者コリー・サンダース(南アフリカ=34勝(27KO)2敗(ラクマン(米・黒人+後の世界王者=ルイスに5回KO勝ち+再戦は4回KO負けで王座転落)に7回TKO負け)→42勝(31KO)4敗)ドイツ・ハノーファー
ー強打のサウスポーサンダース(プロゴルファー兼業)が大番狂わせの2回KOでクリチコを沈め、颯爽新王者に就く。初回に2度倒され(「油断しちゃあいかんでしょうなっう~ん・・・いや、今の左もですねえ、クリチコ食ってますねえ。ちょっと効いてますよっ。あららら」(浜田氏))、2回開始早々またダウン。もう1度倒されたところでストップされた。痛恨の敗北。試合後、セコンドの兄ビタリが「次は俺とやろう」と挑発。サンダースがビタリの頬をピタピタと叩いため、一瞬険悪になった。サンダースは横にいたウラジミールに、ビタリの態度について文句をぶちまけていた。
(2)、2004年4月24日 WBC世界ヘビー級王座決定戦 WBO王者コリー・サンダースVS前WBO王者ビタリ・クリチコ(33勝(32KO)2敗(ルイスに挑戦し、6回終了TKO負け))カリフォルニア州ロスアンゼルス
ー今度は兄が弟の仇を討った。ビタリは10回にサンダースをストップ。入場時、クリチコは緊張していた(一方、サンダースはまったく動じておらず悠然)。初回から激しい打ち合いとなる。総合力で上回るビタリながら、サンダースが放つ強烈な左ストレートに苦しめられた。しかし最後は連打を打ち込みTKO勝ち。
重慶爆撃(じゅうけいばくげき)は、日中戦争(支那事変)中の1938年12月18日から1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃+충칭 대공습(한국 한자: 重慶大空襲, 중국어 간체자: 重庆大轰炸, 정체자: 重慶大轟炸, 일본어: 重慶爆撃)은 중일 전쟁 당시 일본군이 1938년 2월 18일부터 1943년 8월 23일까지 5년여간 중국 충칭에 실시한 폭격작전이다. 일본군은 충칭을 218차례 공습하였고, 최대 9513대의 비행기가 동원되었으며 21593여발의 폭탄이 투하되었다. 이 대공습으로 사망한 사람은 11889명이며 1만여 가옥과 시가지 대다수가 파괴되었다.[1]이때 일본군은 소이탄(燒夷彈)을 사용하였다ドイツ語→Die Bombardierung von Chongqing
bezeichnet die Zerstörung der damaligen chinesischen Hauptstadt Chongqing durch massive Luftangriffe der Japaner im Zeitraum vom 18. Februar 1938 bis zum 23. August 1943.
宜昌作戦(ぎしょうさくせん)とは、日中戦争中の1940年(昭和15年)5月から6月まで湖北省で行われた日本軍の作戦である。日本軍の第11軍が、中国軍第5戦区軍の撃破と宜昌の攻略を目的として実行した。中国側の呼称は棗宜会戦棗宜會戰為1940年5月至6月,中國第5戰區部隊在湖北省棗陽、宜昌地區對日軍華中派遣軍第11軍進行的防御戰役,日軍方面則稱為宜昌作戰,目標是消滅宜昌周圍的第5戰區兵力+オック語→La batalha de Zaoyang-Yichang se debanèt dins lo corrent de la Segonda Guèrra Mondiala dau 1èr au 18 de junh de 1940. Foguèt la consequéncia d'una ofensiva d'amplor de l'armada imperiala japonesa en direccion de Chongqing, la capitala novèla dei nacionalistas chinés dempuei la pèrda de Nanquin en novembre de 1938. Son objectiu èra de rompre la resisténcia chinesa e d'entraïnar la fin de la guèrra sus lo frònt chinés. Pasmens, lei Japonés mau capitèron de reünir pron de combatents e d'armaments per destrurre totei lei ponchs de resisténcia chinés. Ansin, après plusors succès iniciaus, lei Japonés manquèron d'avitalament e subiguèron de pèrdas importantas en causa de còntra-ofensivas chinesas.
南寧作戦(なんねいさくせん)とは、日中戦争中の1939年11月15日から12月1日までの間、「援蒋ルート」の遮断を目的として広西省の南寧を攻略した日本軍の作戦である。中国側呼称は桂南会戦+桂南會戰,發生在1939年11月-1940年2月,中國軍隊在廣西省南部地區防禦侵華日軍進攻的作戰インドネシア語⇒Pertempuran Guangxi Selatan (Hanzi Sederhana: 桂南会战; Hanzi Tradisional: 桂南會戰; Pinyin: Guìnán Huìzhàn) adalah salah satu dari 22 pertempuran besar yang berlangsung antara Angkatan Darat.


(1)、1981年5月23日 WBC世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者モーリス・ホープ(バーブーダー島出身=英国(強打の王者マチョーリ(伊)を8回にノックアウト戴冠(再戦も11回KOで返り打ち)+29勝(23KO)2敗1分→30勝(24KO)4敗1分)VS挑戦者元2階級王者ウイルフレド・ベニテス(プエルトリコ=40勝(25KO)1敗(レナードに15回KO負け(初黒星)=ウェルター級タイトル喪失)1分(歴戦の強豪ウェストンと10回引き分け)→53勝(31KO)8敗1分)ネバダ州ラスベガス
ーベニテスがサウスポーのホープを終盤12回、ロープに詰め、右フック一発でノックアウト。3階級制覇なる(ベニテス23歳)。序盤戦ホープは、前に出て圧力をかけるベニテスの出鼻を叩き、優勢だった。だんだんプレッシャーを強めたベニテスが快心のKO勝ちでホープを沈めた。中学1年生、嬉しかったです。
(2)、1983年7月16日 世界ミドル級ノンタイトル10回戦 1位ムスタファ・ハムショ(シリア=36勝(22KO)2敗2分→44勝(28KO)5
敗2分)VS元3階級王者ウイルフレド・ベニテス(43勝(26KO)2敗(ハーンズに判定負け=王座転落)1分)ネバダ州ラスベガス
ーサウスポーのハムショ(ハグラーに2度挑戦=11回TKO負け・3回KO負け)の体力がベニテスの巧さを封じ込めた。大差の判定勝ち。4階級制覇を志すベニテスは体格負けした面も多分にあったながら、すでに全盛期は過ぎていたといえる。終始押されっぱなしで、まったくいいところがなかった。この一戦からベニテス(25歳)の凋落がはじまった。徳島県の山奥時代、ボクシングマガジンの一報で贔屓のベニテス、ミドル級転向失敗を知り、がっかりしたのが鮮明に記憶に残っている。
セブ島(英語: Cebu Island)は、フィリピン中部のビサヤ諸島にある島で、南北に225kmにわたって伸びる細長くて大きな島である。面積は4422km。周囲はマクタン島、バンタヤン島、マラパスカ島、オランゴ島など小さな島々に囲まれている。東にカモテス海とカモテス諸島をはさんでレイテ島、ボホール海峡を挟んでボホール島、西にタノン海峡を挟んでネグロス島、南にシキホル島、北にビサヤン海を臨む。全島とその属島がセブ州で、島の東海岸中央部にある人口72万の州都セブ、マンダウエ市をはじめ6つの都市があり、マニラ首都圏(メトロ・マニラ)に次ぐ大都市圏、メトロ・セブを形成している。州全体の人口は3,356,137人(2000年調査)で、うち300万人がセブ島に住んでいる。ほとんどの人はセブアノ語を話し、これはビサヤ諸島の共通言語になっている+セブアノ(ビサヤ)語⇒セブ島=Ang pulo sa Sugbo mao ang kinadak-ang pulo sa lalawigan sa Sugbo. Dinhi usab mahimutang ang dakbayan sa Sugbo.Giatubang sa Sugbo sa sidlakan ang mga pulo sa Leyte ug Bohol samtang anaa sa kasadpan niini ang pulo sa Negros. Ang pulo anaa mahimutang taliwala sa 9°25' ug 11°15'N habagatang latityud ug taliwala sa 123°13' ug 124°5' sidlakang longhitud. Kini ang sentro sa arkipelago sa Pilipinas.+タガログ語⇒セブ島=Ang Cebu ay isang pulo sa Kabisayaan sa Pilipinas. Ito ang pangunahing pulo ng lalawigan ng Cebu sa gitna ng Kabisayaan, 365 miles (587 km) timog ng Maynila. Matatagpuan ang pulo sa silangan ng Pulo ng Negros; sa kanluran ng Leyte at sa hilagang kanluran ng Pulo ng Bohol. Matatagpuan ang Cebu sa pagitan ng 9°25'H at 11°15'H latitud at sa pagitan ng 123°13'S and 124°5'S longhitud sa gitna ng kapuluan.
2018年10月25日(木=Jeudi/Thursday)
みなさん、こんにちは☆ 本日は疲れたけど、比較的気分がいい。「受付」練習で「監督役」のマネージャー女史といろいろ話しました(個人的なことも含め)。てっきり「2世」だと思っていたら↑出身だと知りびっくり(小さい頃カナダに移住してきたそう)。ご両親はじめたくさんの兄弟たちと仲が良さそうでうらやましい(笑)。タガログ語はできないといってました。「遅刻」常習犯で最近やめてしまった朝担当の白人おねえちゃんも「イラン系」でした(「イラン」と聞けば故フセイン(イラクはイスラム教のスンニー派が大多数)やアフマディーネジャード(イランはシーア派)みたいのを想像するでしょうけど、外見は「白人」も多い)。ともあれ明日行けば土日休み。その関連で考えていたまたしても「拳闘」我命↓(双方セブ島出身)


(1)、1995年4月1日 WBC世界ストロー級タイトルマッチ 王者リカルド・ロペス(メキシコ=40連勝(31KO)無敗→51連勝(38KO)無敗1分=統一戦でWBA王者アルバレス(ニカラグア=日本で大橋秀行(崔煕庸(後に2階級制覇)に判定勝ちで奪取)からタイトルを奪ったタイのチャナに判定勝ちでタイトル獲得)と7回負傷引き分け+再戦は判定勝ち)VS挑戦者アンディ・タバナス(比国=30勝(19KO)2敗(協栄ジムの輸入ボクサープーマ・金平(メキシコ・本名ミゲル・アンヘル・グラナドス)に5回KO負け)→40勝(24KO)5敗2分)ネバダ州ラスベガス
ーロペスが最終回にタバナスをストップ。拳の負傷によるブランク明けだったロペスは慎重に戦った。ながら試合は一方的。タバナスは距離をとり、旋回するロペスの長い間合いに踏み込めなかった。タバナスは輸入ボクサー「タバナス・大塚」というリングネームで日本の新日本木村ジムに所属していた時代もある。マネージャーはジョー・小泉氏(WOWOWの解説者)。「稲妻小僧」タバナスはパンチもあり、切れ味抜群のすばらしい選手でした。ロペスの全盛期(日本で大橋秀行(崔漸煥(王者ナパに12回TKO勝ち)に9回KO勝ちで奪取)から(5回KO勝ち)奪ったミニマム(ストロー)級タイトルを21度(17KO)防衛した+WBO王者サンチェス(プエルトリコ)との統一戦にも、5回KO勝ち)。とにかく強すぎた=運がなかった。ロペスは後に2階級制覇(2度(2KO)防衛した)。
(2)、1996年3月16日 WBC世界ストロー級タイトルマッチ 王者リカルド。ロペス(41連勝(32KO)無敗)VS挑戦者アラ・ビラモア(比国=29勝(26KO)1敗1分)ネバダ州ラスベガス
ータイソンVSブルーノ(2)のセミファイナルだった試合(どちらかといえばこっちの方が楽しみだった)。ロペスが8回、左アッパー一発でサウスポーのビラモアを仰向けに引っくり返した。痛烈なノックアウト劇。マネージャーとしてセコンドにもついていた小泉氏も指摘していたとおり、大事な決戦でビラモアの調子はもうひとつだった(ラタナポン戦以降力が落ちた。峠を越えてしまったかもしれない)。これがラストファイトとなってしまう。同じくむかしは「アラ・ビラモア・木村」として新日本木村ジム所属。2度目の世界挑戦も実らず(双方相手が悪過ぎた+はじめはIBF王者タイのラタナポン(59勝(48KO)8敗1分+通算18度防衛(16KO)=王座転落後(ペテロ(南ア(サウスポー)ロペスのIBF世界J・フライ級タイトルに挑戦し5回TKO負け=
ロペスのラストファイト)に4回TKO負け)、ロペスのIBF世界J・フライ級タイトルに挑戦し3回TKO負け(トリニダードVSバルガスのセミ+王者時代に「統一戦」として実現して欲しかったカード))に7回TKO負け(サウスポー対決)=いろいろ問題(実はラタナポン(弟ラタナチャイ(サウスポー)は元WBOバンタム級王者)は体重オーバーだった「大統領閣下(故ラモス氏)はじめ応援してくれたみなさんに申しわけない(と泣き崩れた)」(ワールドボクシング))があった不幸な試合)2試合ともトロントで見ました(むろん応援していたので、非常に残念だった)。
PS:ビラモアの試合をはじめてみたのはアルマンド(千葉)・テノリア(サウスポー比国・輸入ボクサー(仙台ジム所属)+12勝(5KO)8敗2分)戦(3回KO勝ち)だった(スピードがあり、パンチも鋭利で強かった。いい選手が現われたと感心。楽しみだった)。次は日本の新鋭細野雄一(10勝(7KO)1敗=23勝(12KO)4敗1分=2度世界挑戦(1、韓国の名王者(通算18度防衛)柳明佑に判定負け2、豪打の(10度防衛)サマン(タイ+以前ロペスに挑戦し2回KO負け)に4回TKO負け)戦(引き分け=ながら「この試合でドローはないよ」(ビラモア言)同意(判定が放送された途端「ドロー?!」とびっくりしていた若きビラモアが忘れられない(勝利者インタビューの準備をしていたシンディ・鈴木女史(英伊語に堪能☆久しぶりに思い出した☆)も驚いていたのが鮮明に記憶に残っている=懐かしいけど(笑)。いい試合だった。しかし個人視点からいわせてもらえば、確かに細野は勇敢に前へ出ていた。でもビラモアは中盤からアウトボクシング。下がりながらも手数及び有効なクリーンヒットでは上回っていたと思う。そしてサウスポー対決で日本にもなじみが深い元WBC王者ナパ(16勝(8KO)8敗1分+1、井岡弘樹との世界戦で2勝(1KO)1分2、大橋秀行に挑戦(ダウンを奪われ、判定負け)を2回にノックアウト(この試合はみていません+前戦でWBCJ・フライ級王者ウンベルト・ゴンザレス(メキシコ=後にWBC/IBF王者となるがサマンに7回KO負けで転落(ゴンザレスのラストファイト))に挑戦。2回KO負け=ナパ(合計4度倒された)はダメージが残っていたと言い訳?~Maybe~♪)+「WBCならいつでも挑戦できるが、ロペスは強すぎる」(ラタナポンに挑戦する前、ビラモアが無敗だった当時の木村会長談)。
2018年10月26日(金)Vendredi(Friday)Bonsoir mes amis!!  What's up?  Hope, all you guys has been doing well and have a wonderful weekend!!  こんばんは☆ やっと「週末ノットイエット」、「パーフェクトハロウィン」の飾りつけもますます目立つ「冬模様」のリッチモンド・ヒル。束の間の安らぎ、明日はゆっくり寝れるので嬉しい☆ また後ほど☆謝謝☆再見☆一路平安!! サム リッチモンド・ヒル Merci beaucoup et à bientôt!  Sam from Richmond Hill



(1)、1993年8月13日 世界フェザー級ノンタイトル10回戦 元WBA世界バンタム級王者ルイシト・エスピノサ(比国(ルソン島マニラ出身=32勝(18KO)6敗→47勝(26KO)13敗)VSアレハンドロ・ゴンザレス(メキシコ=27勝(22KO)2敗→49勝(33KO)5敗1分)メキシコ
ー期待のホープ若きゴンザレスが地元で、強敵エスピノサを2回TKOで破る。初回中盤、エスピノサが打ちおろした右ストレートが炸裂。ガクっと膝が折れたゴンザレスに猛然と左フックの連発を浴びせ、窮地に追い込むもしとめられず。2回にダウンを奪われ、そのまま試合放棄してしまった(ゴンザレスは「コブリータLa Cobrita(小さなコブラ)」の異名を持つ弱冠19歳。童顔ながら、パンチは強く迫力があった)。この当時はマネージメントの混乱で試合に集中できなかった様子(気迫がもうひとつに見えた)。エスピノサはタイのカオコー(サウスポー(弟と同じく元キック王者)カオサイの双子兄)に初回KO勝ち。バンタム級タイトルを獲ったが3度目(初防衛戦においては日本でもなじみの深い、タイのタノムサク(鬼塚との2連戦)からダウンを奪い判定勝ち。2度目はこちらも強敵スニード(米・黒人)に8回TKO勝ち)の防衛戦でコントレラス(ベネズエラ+以前、カオサイのWBAスーパーフライ級タイトルに挑戦し5回KO負け(初黒星)ウイルフレド・バスケス(プエルトリコ)にはノンタイトル戦で、初回KO勝ちしていた)に挑戦し、5回逆転KO負け。王座転落(バンタム級では減量苦のため、すでに限界だった)。その後はチャンスに恵まれず、地味な存在となっていた。
(2)1996年3月1日 WBC世界フェザー級タイトルマッチ 王者ルイシト・小泉・エスピノサ(37勝(21KO)7敗VS前王者アレハンドロ・ゴンザレス(37勝(32KO)3敗(自信過剰+ムラッ気のある選手(無敗の王者ケリー(米・黒人+サウスポー)とダウン応酬(絶好調+白熱の好ファイト)、10回終了TKO勝ち(ケリー側が棄権=新王者)=メディナ(来日=小泉・エスピノサに判定負け、喪失)相手に冴えない試合(初防衛戦(元王者ルーイ・エスピノサ(米))も大差の判定勝ちながら凡戦だった)=判定負けであえなく転落)メキシコ
ーエスピノサが痛烈な4回KOでゴンザレスを沈めた。雪辱なる。初回、左フックのカウンターを命中させ早々とダウンを奪う(しかしレフェリーは取らず+意外に効いていた)。エスピノサは一気に連打で追い込み、滅多打ちにする(ゴンザレスは驚いたような表情を浮かべ(早くも顔面が紅潮)あたふたしていた)。余裕しゃくしゃくだったゴンザレスは一度勝っているエスピノサをなめていたよう。それでも3回は、ゴンザレスが攻勢に出る(ボディーブローを叩き込み、上へ返す)。さらに偶然のバッティングでエスピノサは右瞼を切った(傷は深く、出血も激しかった)。4回、エスピノサは勝負に出る。猛然と前進してくるゴンザレスの顎を右ストレートで打ちぬき、よろめいたコブリータにもう一発。快心の右をヒットさせ仰向けに倒した(故マーカンテ・シニアレフェリーが「絶対に立ち上がれないダウン」「歴史に残る」とまで称賛したノックアウト劇)。歓喜の涙を流すエスピノサ。胴上げする陣営の中にいる、嬉しそうな小泉氏の笑顔がみえた(本当にお疲れさまでした)。ゴンザレスのダメージは深く、起き上がれず。担架で退場した。
(3)、1998年11月28日 WBC世界フェザー級タイトルマッチ 王者ルイシト・エスピノサ(43勝(24KO)7敗)VS挑戦者元IBF世界J・フェザー級王者+WBO王者ケネディ・マッキニー(ソウル五輪米代表優勝金メダル(214勝13敗)+33勝(19KO)3敗=36勝(19KO)6敗1分)カリフォルニア州インディオ
ー小泉氏から離れ、アメリカプレゼンツと契約を結んだ第2戦目(初戦は苦戦しながらも、ラミレス(メキシコ)に判定勝ちで防衛成功)。こちらも王者エスピノサを過少評価していたマッキ二ーから初回終了間際、豪快な連打を叩き込み、しりもちをつかせるダウン。2回、エスピノサは再び大きな右のスウィングでマッキ二ーの顔面を横殴り、マッキニーは後ろを向いてしまいダウン。そのままストップ。エスピノサは7度目の防衛に成功した(ベストファイトのひとつ)。見事なKO防衛だった。マッキニーは無敗対決でIBF王者ヌシタ(南ア)に11回ダウンを奪われ、KO負け寸前だったながらも起死回生の右ストレート一発で逆転KO勝ち(再戦も判定勝ちで返り討ち)。タイトルを5度防衛(6度目にブング(南ア)に判定負けし転落=再戦でも判定負け)。しかしWBO王者ジュニア・ジョーンズ(無敗のバレラに5回KO勝ちで戴冠+再戦も判定勝ち)に4回、先制のダウンを奪われ滅多打ちにされたが、5回逆転KO勝ち。再び王座に就いていた。マッキニーは試合後、エスピノサについて「左フックを振りまわすだけの選手だと思っていたが、あんなにすごい右を持っていたとは」と脱帽(完敗を認めていた)。エスピノサは次の防衛戦において、2度目の防衛戦で1度判定勝ちしている強豪ソト(メキシコ)との再戦に判定負け(王座転落)。ハメド(ソトとの統一戦で判定勝ち)が返上したタイトルをメキシコのグティ・エスパダス・ジュニアと争うが、初回にダウンを奪われた挙句に判定負け。オヤジのエスパダス・シニアは「童顔に似合わぬ強打の持主」(名ボクサー100人)元WBAフライ級王者で日本にも馴染みが深い=2度来日1、高田次郎に7回KO勝ち2、触沢公男(敬虔なカトリック教徒+小熊に8回KO勝ち)に7回TKO勝ち=4連続KO防衛(アルフォンソ・ロペス(パナマ=来日し、小熊(15回判定勝ち)具志堅(6回KO負け)と対戦、その後韓国の金煥珍にも挑戦するが15回判定負け)に15回判定勝ちで奪取+再戦も13回KO勝ち)=ベツリオ・ゴンザレス(ベネズエラ)に判定負けして転落。WBC王者朴賛希(モントリオール五輪代表+カント(メキシコ+14度防衛(ゴンザレスと2勝1敗・高田(11回KO勝ち)触沢(15回判定勝ち)と対戦)に判定勝ちで奪取+再戦は引き分け)大熊に3連敗)に挑戦したが2回KO負け。約5年後、WBCJ・バンタム級王者タイのパヤオ(モントリオール五輪銅+オロノに判定勝ちでタイトル奪取・WBA王者渡辺二郎との統一戦で判定負け+再戦も11回TKO負け)に挑戦し、ダウンを奪うが10回逆転TKO負けで2階級制覇ならず)やりはじめると、まさにきりないですね(失礼+苦笑)。ともあれ、エスピノサをようやくじっくり見たのは(それまでは断片的なダイジェストだけ)、日本でのデビュー戦(小泉氏主催の「ワールドチャレンジャースカウト①」(メイン・元王者ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)VS坂本博之(コッジの10回判定勝ち=坂本の初黒星+坂本は都合4度の世界挑戦が実らなかった)、元王者へスス・ロハス(ベネズエラ)VS大場貴志(ロハスの7回TKO勝ち+大場は元世界王者、韓国の金奉準とヘルマン・トーレス(メキシコ)を連破していた=双方のラストファイト)サウスポー対決、元名王者同士のEX渡辺二郎VSカオサイ=むろんビデオで鑑賞)。豪打のシンヌン・山木(タイ・32勝(31KO)2敗)に8回KO勝ちした試合だった(大激戦。先制のダウンを奪いながら、2度倒し返される。しかし8回に3度ダウンを奪いストップした)。初回開始後、緊迫した静かな立ち上がり。ながらしばらくしてはじめに出した閃光のような連打(威力も抜群)に驚いた記憶が新しい((会場でも「おお~!」とざわめきが起こっていた)評判にたがわぬ=↑で触れた「瞬時の爆発力」(野性味を遺憾なく内包)は圧巻だった)。
イタリア語→Luisito Pio Espinosa (Manila, 26 giugno 1967) è un ex pugile filippino. Soprannominato Golden Boy e Lindol (in italiano "terremoto") è stato campione del mondo in due categorie di peso.



(1)、1980年4月27日 WBC世界J・ライト級タイトルマッチ 王者アレクシス・アルゲリョ(62勝(51KO)5敗→77勝(62KO)8敗)VS挑戦者ローランド・ナバレッテ(36勝(21KO)6敗3分)プエルトリコ・サンファン
ーアルゲリョが4回にナバレッテをストップ。防衛に成功した。序盤からナバレッテはよく攻めたが、相手が悪過ぎたといえるかもしれない。アルゲリョ(オリバレス(メキシコ)に13回KO勝ち=フェザー級タイトル)は、来日しロイヤル・小林(ミュンヘン五輪代表+無敗の18連勝(16KO)中)を5回にノックアウト)。次は日本にもなじみが深いエスカレラ(プエルトリコ)に13回TKO勝ち(再戦も13回KO勝ち+エスカレラ(10度防衛)は3度来日(柴田国明を2回KO(タイトル奪取)+バズソー・山辺が2度挑戦(6回TKO負け+15回判定負け))。3階級目はイギリスのジム・ワット(サウスポー・無敗のハワード・デービス(モントリオール五輪金)を判定で破ったばかり)に15回判定勝ち。アルゲリョはタイソンの初来日時及び引退後に平仲明信(同じく引退後)とのEXで再び来日した(小泉氏主催「ワールドチャレンジャースカウト②」メイン・三谷大和(サウスポー・高校王者・全日本選手権3連覇・世界選手権(91年シドニー大会)代表・東洋、日本王者・WBAフェザー級王者崔龍洙(東洋王者時代の崔にも10回判定負け=三谷の初黒星)に2度挑戦するが双方判定負け(畑山隆則が判定勝ち(初戦は引き分け)でタイトル奪取))VSタイのノリー・ジョッキージム(世界ランカーだった高橋直人との再戦(初戦は3回逆転KO負け)に判定勝ちした勢いで、WBAJ・フェザー級王者メンドサ(コロンビア)に挑戦したが8回TKO負け)三谷の8回KO勝ち+高橋直人VSマーク(堀越)ブルックス(双方、引退後)EX(現役時代の対決は高橋が9回TKO勝ち)。
(2)、1982年9月10日 世界J・ライト級ノンタイトル10回戦 元WBC王者ローランド・ナバレッテ(43勝(26KO)9敗3分)VS元東洋王者呉永世(11勝(6KO)1敗)ルソン島ケソン市
ーナバレッテが8回TKOで呉を退け。リモンにTKO負けでタイトル喪失の再起戦を飾る(呉のラストファイト)。アマ出身のきれいなストレートパンチャーだった呉は日本の吹打竜(サウスポー(ヨネクラジム(世界2位)本名原田達実・4度防衛(世界3位のレイ・タム(比)にも判定勝ち(小林と上原にはKO負け))20勝(12KO)15敗2分)から東洋タイトルを奪い(6回TKO勝ち+再戦も判定勝ち)。次に元WBC世界J・フェザー級王者&東洋王者のロイヤル・小林(35勝(27KO)8敗)を判定で破りながら(次戦で韓国の新鋭黄正漢(デビュー以来、無敗の3連続KO勝ち+初防衛戦で後のIBFスーパー・フェザー級王者柳煥吉に判定負けで転落=再戦も判定負け)に初回KO負けで、東洋タイトルを失ったのが小林のラストファイトとなる「以前なら、口笛を吹きながらでもよけられたようなパンチがよけられなくなった」)、同国人のサウスポー文泰鎮(17勝(10KO)1敗1分→27勝(15KO)4敗1分+7年後、再浮上中のナバレッテに2連勝(2KO)する+ラストファイトは日本で無敗の16連勝(14KO)中だった「東京三太」(後のWBC世界ライト級王者ミゲル・アンヘル・ゴンザレス=51勝(40KO)5敗1分)に6回TKO負け)に10回KO負けで東洋タイトル喪失(韓国ボクシングの全盛期の層は厚かった。文(世界2位)は挑戦者決定戦で1位の日本王者安里義光(沖縄県出身+15勝(9KO)1敗(メイスン(ガーナ)にロープダウンを奪われ判定負け+再戦においてはノックアウト勝ちで雪辱)1分=22勝(13KO)8敗1分)に12回判定勝ち(王座奪回を目指した吹打もTKO負け)。WBA王者ロッキー・ロックリッジ(44勝(36KO)9敗)に挑戦=11回TKO負け。1敗はロサンゼルスに遠征(安里と戦うずっと前の新鋭時代。呉をノックアウトする一試合前)。一番はじめ↑に出したメキシコの’ガト’・ゴンザレス(スランプ中、ガニガンに辛勝した次戦)に判定負け(連勝ストップ))。
(3)、1984年6月13日 世界J・ライト級ランカー対決 ノンタイトル10回戦 元WBC王者ローランド・ナバレッテ(47勝(29KO)9敗3分)VSWBC2位マリオ・マルチネス(メキシコ=31勝(20KO)1敗2分→51勝(31KO)9敗2分)カリフォルニア州ロサンゼルス
ー強打者同士の一戦となったが、マルチネスが5回終了間際にナバレッテをストップ。ナバレッテはリモン戦以後、4連続KO勝ち中だった。マルチネスは次戦で同国人対決。空位の王座を若きチャべスと争い、8回TKO負けする。なお、マルチネスはこの4試合前、メキシコへ遠征した強打のサウスポー、ヤング・秀男(オサムジム)に2回KO勝ち(ヤングは仙台ジムの輸入ボクサー、同国人ホルヘ・メルカードを5回、豪快にノックアウトしていた)。ナバレッテはこの敗北以降、約4年のブランク。マルチネスはロジャー・メイウェザーに判定負けしたがその後、5連勝。ネルソン(ガーナ)と空位の王座決定戦(チャべス(9度防衛)が返上)に臨むが判定負け(再戦も最終12回TKO負け)。さらにトベラ(南ア)のWBOタイトルにも挑み、判定負けし王座獲得はならなかった(その前にフェネックにも10回判定負け)。


(1)、1982年3月22日 WBC世界ライト級タイトルマッチ 王者故アレクシス・アルゲリョ(70勝(57KO)5敗)VS挑戦者アンディ・ガニガン(34勝(30KO)3敗)ネバダ州ラスベガス
ーアルゲリョが初回にダウンを喫しながらも、5回にガニガンをノックアウト。最後の詰めは見事だった。ワットから奪ったタイトルの4連続KO防衛に成功。アルゲリョの強烈なボディーブローから上へ返すコンビネーションはいつもながら威力、迫力とも満点だった。
(2)、1983年6月12日 世界ライト級ノンタイトル10回戦 アンディ・ガニガン(34勝(30KO)4敗)VSジミー・ポール(米=16連勝(15KO)無敗→33勝(24KO)6敗)アリゾナ州フェニックス
ー新旧強打者対決。デトロイトのクロンク出身(ハーンズの後輩)の若武者ポールが5回に1度倒し、6回に2度ダウンを追加。そのままガニガンをストップした。闘争心旺盛なガニガンはよく頑張ったが、ポールが放つクロンク選手特有の速くて伸びる左ストレートから、(必ず下からのパンチ(アッパー)とボディーブローが連打に組み込まれている)つなげる右ストレートの破壊力はすさまじかった。ガニガンのラストファイト。ポールは次戦でタイソン(米・黒人+次戦は韓国へ遠征。無敗のホープ全七星(6連勝(5KO)晩年の安里に4回TKO勝ち+ロス五輪銅)に判定負け)によもやの10回判定負け(世界戦において判定勝ちで雪辱)。後に26連勝(20KO)無敗のIBF王者アローヨ(米・3連続KO防衛)からダウンを奪い15回判定勝ちでタイトル獲得、5度防衛する。ながらホーゲン(米・白人)に判定負けで王座転落(そして3連敗)。失意と自信喪失から約4年のブランク後、カムバックする。白人ホープ、ソウル五輪代表のトッド・フォスター(無敗の22連勝(18KO)中)に7回KO勝ちを含め6連勝(5KO)。しかし無敗の31連勝(30KO)中だった新鋭カルロス・ゴンザレス(メキシコ)と空位のWBO王座を争い、いいところなく2回TKO負け(その3戦後に再び引退した)。



(1)、1981年4月7日 世界J・ライト級ノンタイトル10回戦 ローランド・ナバレッテ(38勝(20KO)7敗3分)VSレフジオ・ロハス(メキシコ=17勝(11KO)5敗→35勝(23KO)17敗1分)ハワイ州ホノルル
ー若きナバレッテが10回判定勝ち。ロハスは後にチャべスに挑戦するが、7回TKO負け(一流どころ(故ヘルナンデス、故ロサリオ、故カマチョなどには全(KO)敗)には勝てなかった)。
(2)、1989年10月13日 世界ライト級ノンタイトル10回戦 元東洋J・ライト級王者文泰鎮(25勝(13KO)3敗1分)VS元WBC世界J・ライト級王者ローランド・ナバレッテ(55勝(32KO)10敗3分)フィリピン・ルソン島ケソン市
ー文が6回にナバレッテをノックアウト。サウスポー対決。ナバレッテは再起後、再び8連勝(6KO)を記録していた。両者とも全盛期はとっくに過ぎていたが、強打は健在。激しい打ち合いが展開される。文にコンビネーションを叩き込まれ、アッパーを顎に命中させられたナバレッテは仰向けに倒れ、10カウントを聞く。痛烈なフィニッシュだった。
(3)、1990年7月20日 世界ライト級ノンタイトル10回戦 文泰鎮(26勝(14KO)3敗1分)VSローランド・ナバレッテ(56勝(33KO)12敗3分)ルソン島マニラ市
-再戦は、文が雪辱に燃えるナバレッテを9回にノックアウト。最後はロープ際で文の連打を浴び、再びナバレッテは仰向けに倒され、立ち上がれなかった(この両者についても例の’相性’が重きをなしたように思える)。ナバレッテは97年12月、ミンダナオ島(コロナダルKoronadal市)で行なわれたルイシト・エスピノサ5度目の防衛戦(対カルロス・リオス(アルゼンチン)6回TKO勝ち)の試合後、(オーバーオール姿)リングにあがり笑顔で同国人王者の勝利を祝福していたので久しぶりにみました(元気そうだったので嬉しかったです)。

×

非ログインユーザーとして返信する