日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Леонид Ильич Брежнев☭Кремль☆ブレジネフのクレムリン⇔「停滞の18年?」(ゴルバチョフ言)Collective Leadership(集団指導体制)赤い帝国と超大国ソ連Ричмонд-Хилл🍁(Онтарио)2018②


ソ連邦元帥(ソれんぽうげんすい、ロシア語:Маршал Советского Союза〔マールシャル・サヴィェーツカヴァ・サユーザ〕、ラテン文字転写例:Marshal Sovietskogo Soyuza)は、ソビエト連邦(ソ連)における軍人の階級の最高位である。定義上はこの階級のさらに上位にある、大元帥があるが、これはヨシフ・スターリンが自らのために創設し、彼ひとりが保持した階級である。ソ連邦元帥は1935年に創設されて、1991年に廃止された。
Українськаウクライナ語→Ма́ршал Радя́нського Сою́зу — військове звання в Збройних Силах Радянського Союзу з 1935 до 1991 рр.

上級大将(ソ連)(じょうきゅうたいしょう、ロシア語:Генерал армии〔ゲネラル・アルミィー〕)はソビエト連邦における、ソ連邦元帥に次いで高い陸軍式階級。
Army general (Russian: генерал армии, general armii) was a rank of the Soviet Union which was first established in June 1940 as a high rank for Red Army generals, inferior only to the marshal of the Soviet Union.
軍部を翼下に
ブレジネフは、人事を通じて党内での指導力を次第に強化してゆくとともに、軍に対する影響力をも着々と培っていった。
1975年5月、対独戦勝30周年記念学術会議の際、グレチコ国防相は開会のあいさつで、ブレジネフを「大祖国戦争への積極的参加、上級大将」と呼んだ。それまでブレジネフの軍内における階級は、45年の終戦時に第4ウクライナ方面軍政治局長として陸軍少将、53年3月、陸海軍政治総本部第一次長として陸軍中将としか公表されていなかった。
上級大将(ゲネラル・アルミー・Генерал армии)とはなにか。一言でいえば米国のGeneral of the Army (Five-star general)、英国のField Marshalに相当する。大将の上で元帥に当たるのだが、ソ連では一般兵科に限って、元帥(マルシャル)を使わず、ゲネラル・アルミーと呼んでいる(日本の新聞では直訳して「陸軍大将」とする例もいままでみられたが、これは明らかに誤訳である。軍事専門家の間ではまだ「軍大将」という訳も使われているが、一般には大将の上という意味で上級大将とする意訳がほとんど定着している)。
ソ連軍の一般兵科(自動車化歩兵)の将校と政治部将校は単に、大佐、中将などと呼ばれるが、それ以外の特殊兵科はそれぞれ航空兵大佐、戦車兵中将などと兵科の名を冠して呼ばれる。大将まで同様である。ところが大将より上となると一般兵科は上級大将となり、それ以外は元帥の称号となる。航空兵元帥、戦車兵元帥、砲兵元帥・・・というわけである。そして従来、上級大将は、肩章はベタ金に3つの星の大将より1つ星の多い4つであるのに対して、他の兵科元帥は大きな星1つと各兵科のシンボルマークを配した特別の肩章、それに4個のダイヤモンドを散りばめた元帥記章「元帥星章」(マルシャリスカヤ・ズヴェズダМаршальская звезда)をネクタイに飾るという差があった。さらに任命権者は上級大将が閣僚会議であるのに対し、各兵科元帥は最高会議幹部会だった。ともに大将の上でありながら、上級大将の方が格が低くなっていた。それが1974年11月1日付の最高会議幹部会令で、ゲネラル・アルミーの名称はそのままにして肩章を元帥並みに改正する(ただし、兵科のシンボルマークとして、襟寄りに小さな星を月桂樹で囲んだマークを配する)とともに、新たに「元帥星章」を授けることにし、任命権者も閣僚会議から最高会議幹部会に格上げした。上級大将をすべての面で元帥並みに引き上げたわけである。
この改正に基づいて同年、クリコフ参謀総長(国防第一次官)、エビツェフ陸海軍政治総本部ら現役上級大将18人に元帥の肩章と「元帥星章」が授与された。ソ連軍の根幹ともいうべき一般兵科の将校団の士気を高めるとともに、ブレジネフ指導部への支持を固めようとするものだとコメントした西側の新聞もあった。
ともかく、ブレジネフは1953年3月に中将に昇進したあと、大将昇進はなかったが、75年5月の時点ではすでに上級大将であることが確認されたわけである。


ソ連邦元帥に
1976年5月7日付で、ブレジネフはさらにソ連邦元帥(マルシャル・ソビエツカヴォ・サユーザ=Маршал Советского Союза)に昇進した。ソ連邦におけるソ連軍最高の階級である。国際的にいえば、いわゆる国家元帥(旧ナチス・ドイツの空軍相へルマン・ゲーリングは、「大ドイツ国家元帥」の称号を持っていた)である。肩章には大きな1つ星のほかに、ソ連の国章がつく。さらに6個のダイヤモンドを散りばめた「元帥星章」がネクタイを飾ることになる
ソ連邦元帥は1935年9月22日付中央執行委員会(最高会議の前身)と人民委員会議(閣僚会議)の決定によって設けられた軍の称号で、軍隊の指導、統率の事業に顕著な功績があった者に与えられる(『ソ連大百科事典』第3版)。ブレジネフ・ソ連邦元帥までに30人のソ連邦元帥が任命されており、この時点で実際に軍務に担当する現役のソ連邦元帥は、ブレジネフのほかにはヤクボフスキー(
イワン・イグナチエヴィチ・ヤクボフスキー(Иван Игнатьевич Якубовский、1912年1月7日 - 1976年11月30日)は、ソ連の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(2度))・ワルシャワ条約機構軍統一軍司令官、バチスキー防空軍総司令官、モスカレンコ(キリル・セミョーノヴィチ・モスカレンコ(Кирилл Семенович Москаленко;1902年5月11日 - 1985年6月17日)は、ソ連の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(2度))査察総監の3人であった。いままで純軍人以外で、特別にソ連邦元帥に任用されたのは第二次大戦で活躍したスターリン、ベリヤ(独ソ戦当時、内相、国家防衛委員会副議長)とブルガーニン(47年3月、スターリンの後を継いで国防相)の3人だけである(フルシチョフは戦時中キエフ軍管区、スターリングラード方面軍の軍事会議議長として活動したが、陸軍中将にとどまった)。ブレジネフのソ連邦元帥昇進は平時、しかも緊張緩和の時代であるだけに異例のことといえるだろう。
ワルシャワ条約機構(ワルシャワじょうやくきこう、露: Организации Варшавского договора/Варшавский договор, 波: Układ o Przyjaźni, Współpracy i Pomocy Wzajemnej/Układ Warszawski, 英: Warsaw Treaty Organization/Warsaw Pact Organization)は、冷戦期の1955年、ワルシャワ条約に基づきソビエト社会主義共和国連邦を盟主とした東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟。ポーランドのワルシャワにて設立されたために「ワルシャワ」の名を冠するが、本部はモスクワであった[1]。「友好協力相互援助条約機構」(ロシア語: Договор о дружбе, сотрудничестве и взаимной помощи)が正式名・・・1989年の冷戦終結に伴って東欧革命が始まり、1991年3月に軍事機構を廃止、7月1日に正式解散、12月にはソ連が崩壊した。Варша́вский догово́р (Договор о дружбе, сотрудничестве и взаимной помощи) от 14 мая 1955 года — документ, оформивший создание военного союза европейских социалистических государств при ведущей роли СССР — Организации Варшавского договора (ОВД) и закрепивший биполярность мира на 36 лет.加盟国=ソビエト社会主義共和国連邦・ブルガリア人民共和国・ルーマニア社会主義共和国・ドイツ民主共和国(東ドイツ)・ハンガリー人民共和国・ポーランド人民共和国・チェコスロバキア社会主義共和国・アルバニア人民共和国(1968年脱退)・ベトナム社会主義共和国(オブザーバー)・モンゴル人民共和国(オブザーバー)・ラオス人民民主共和国(オブザーバー)

ちなみにソ連邦元帥に昇進できるのは、一般兵科と政治部の上級大将からに限られる(ただし、特殊兵科から一般兵科への転科がないわけではない)。各特殊兵科の元帥は、昇進しても各兵科の名を冠した「上級元帥」(グラブヌイ・マルシャル)になるにとどまる。これは各兵科の最高位ではあるが、国家元帥たるソ連邦元帥の下位に立つ。
軍制上、ソ連邦元帥の上さらに「大元帥」(ゲネラシリムス、generalissimo、故フランコ・スペイン総統はgeneralissimoだった)がある。しかし、ソ連の大元帥は「戦時において卓越した勲功を挙げたソ連邦元帥に授与される」(1945年6月26日付、最高会議幹部会令)ことになっており、いままでこの階級を与えられたのはスターリン(45年6月27日付)だけである(帝政時代の名将スヴォーロフは大元帥の称号を持っていた)。今後も戦争がなければ、党書記長、最高会議幹部会議長といえども、法制上、大元帥になり得ていないはずである。
ただし、いままで述べたのは陸軍に関してであって、陸軍とともにソ連軍を構成する海軍(ソ連軍は基本的には陸海2軍制で、地上軍はじめ空軍、ロケット軍、防空軍は広い意味の陸軍のなかに含めている)には、大将の上に上級大将に相当する海軍上級大将(アドミラル・フロータ=海軍元帥(かいぐんげんすい、露:Адмирал флота、英:Admiral of the Fleet)は、1940年から1955年までのソビエト連邦海軍の最高階級であり、1962年からは最高位に次ぐ階級)がある。ソ連邦元帥と同格だが、厳密にはソ連邦元帥の方が上位とされる。現在、ソ連邦海軍元帥はセルゲイ・G・ゴルシコフ海軍総司令官(国防次官)だけである。
国防会議議長
ブレジネフのソ連邦元帥昇進を決めた最高会議幹部会令は「ソ連国防会議議長ブレジネフ・レオニード・イリイッチ同志にソ連邦元帥の軍称号を授与する」(『プラウダ』)というものだった。国防会議という機関が存在することが公式に明らかにされたのはこれが初めてである。
しかし、1969年から72年の第一次米ソ戦略兵器制限協定(
SALT協定=戦略兵器制限交渉(せんりゃくへいきせいげんこうしょう、英: Strategic Arms Limitation Talks、略称: SALT)とは、第二次世界大戦以降の東西冷戦のもとでソビエト連邦とアメリカ合衆国が軍備拡張競争抑制のために行った、互いの核兵器の数を制限する条約締結を目指した交渉のことを指す)締結までSALT米代表団の事務局長兼国務省専任顧問を務めたレイモンド・L・ガーソフ博士(レイモンド・ガーソフ(Raymond L. Garthoff、1929年 - )は、アメリカ合衆国の政治学者、歴史学者、外交官。冷戦期の米ソ関係、ソ連の軍事戦略が専門。現在ブルッキング研究所客員研究員)は、米海外広報庁(USIA)発行の臨月刊誌『共産主義の諸問題』75年1・2月号に寄せた論文「SALTとソ連軍部」のなかで、国防会議などについて次のような興味ある事実を明らかにしている。
「SALTはソ連軍部が直接的かつ主要な役割を演じた最初の兵器制限交渉であった。・・・1969年後半から70年末までのSALTの最初の3<ラウンド>で、ソ連代表団次席代表を務めたのは当時のソ連軍第一参謀次長二コライ・V・オガルコフ大将(現上級大将=
ニコライ・ヴァシリエヴィチ・オガルコフ(Николай Васильевич Огарков、Nikolai Vasilievich Ogarkov、1917年10月30日 - 1994年1月23日)は、ソビエト連邦の軍人でソ連邦元帥、ソ連軍の参謀総長。ソ連邦英雄)であった。同大将のほかにニコライ・N・アレセ―エフ工兵・技術部大将(筆者注=ロシア語の表現に従えば、技師・技手勤務大将であり、この方が正確と思われる)が69、70年の2回の交渉でSALTのソ連代表団員を務めた。国防問題を専門的に扱っている最高機関は最高(または高等)国防会議(VSD。筆者注=ヴェルホーヴヌイ・ソビエト・オポローヌイの略称と思われる)である。この機関はブレジネフ党書記長を議長とし、アレクセイ・N・コスイギン首相、ニコライ・N・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長、ドミトリー・F・ウスチノフ党書記(筆者注=軍需産業担当)およびアンドレイ・A・グレチコ国防相によって構成される。国防省や参謀本部の幹部、レオニード・V・スミルノフ副首相(国防省・軍事生産関係各省および軍事研究・開発に従事している科学アカデミー各研究員間の調整に当たっている軍事工業委員会(略称VPK)の議長)その他のVPK委員、アンドレイ・A・グロムイコ外相、科学アカデミーの専門家、その他の人々も臨時出席を求められ、多くの機会にSALT問題を扱ってきた。」
このガーソフ論文で明らかにされた「最高国防会議」が最高会議幹部会令にいう国防会議(ソビエト・ナボローヌイ)ないしその前身であることはほぼ間違いあるまい。わが国の防衛庁筋は、この国防会議は、ソ連の最高権力機関である最高会議を代行する最高会議幹部会のなかに設置された。ソ連の軍政、軍令両面にわたる最高指導機関であり、独自の事務局も持っているとみている。国防会議が設置された時期は明らかではないが、1974年4月の党中央委総会で“秘密裏”に設置されたという報道もあった。なお国防会議は77年10月採択のソ連新憲法で、最高会議幹部会によって組織されることが明記された(第121条14項)。付け加えれば、ブレジネフは従来も国防会議に出席する際には、軍服を着用していたといわれる。
党人国防相の登場
ブレジネフの元帥昇進に先立って1976年4月29日に死去したグレチコ国防相の後任にウスチノフ党政治局員・書記が任命され、上級大将の称号を与えられた(7月30日付でソ連邦元帥に昇進)。実兵を指揮した経験のない異色の“党人”国防相である。だが、軍事とは深くかかわってきた人物である。
ウスチノフは1934年、レニングラードの軍事技術大学を卒業し、レニングラード「ボリシェビキ」兵器工場長を務めたあと、独ソ突発の41年6月、33歳の若さで軍需工業人民委員(閣僚)に任命され、数週間内に軍需工業の大部分をウラル地方に移転させ、ソ連の抗戦力をドイツ軍の破壊から守った。以後、軍需工業相、国防工業相を歴任し、57年に副首長に転出するまで、一貫してソ連の軍需工業の“独裁者”ともいうべき存在であった。副首相就任後もロケット、兵器、原子力利用などの部門を担当し、63年3月第1副首相、ソ連最高経済会議議長に昇格したが、依然として重工業、軍需産業のリーダーであった。65年3月、党中央委書記に転じ、引き続いて国防工業関係の政策立案を担当してきた。前述のガーソフ論文に登場した軍事工業委員会(VRK、議長はレオニード・V・スミルノフ副首相)の監督者でもあった。66年政治局員候補、76年3月、第25回党大会で書記兼任のまま政治局員に昇進した。
この間、独ソ戦末期の1944年、ウスチノフは技師・技手勤務大将(ゲネラル・ポルコープニク・インジェネールノ・テフニーチェスコイ・スルージプイ)の軍称号を得ている。軍需生産の総指揮者として、ナチス・ドイツを上回る武器・弾薬をソ連軍に供給した功績に対するものであろう。この「技師・技手勤務大将」というのは、旧日本軍になぞらえていえば、いわゆる兵科将校ではなく、主計部、軍医部などと並ぶ兵技部(将校は兵技大尉、兵技大佐などと称した)の将校ということになろう。ソ連軍には現在、一般兵科(自動車化歩兵)のほか航空兵、砲兵、戦車兵、工兵、通信兵、技術兵(化学、鉄道、道路、自動車など)の7兵科があり、さらに技術勤務(かつて技師・技手勤務と称されたが、最近この名称に統合されるようである。最上位者の技術勤務大将は通常、国防次官の一員として、軍の技術・装備面に責任を負う)主計勤務、衛生勤務、行政勤務、法務の6つの部が存在し、それぞれに兵科に準じた階級が設けられている。ウスチノフが44年に得た「技師・技手勤務大将」は現在の制度に直すと技術勤務大将に相当すると、わが国の軍事専門家はみている。
したがって、ウスチノフは軍人といえるわけであり、国防相就任に当たって西側の新聞が一面的に文民、文官と強調したのは妥当性を欠くであろう。ウスチノフは技術勤務大将から“転科”するとともに1階級昇進して、一般兵科の上級大将になった形であるが、ウスチノフの場合、この階級は国防相という“職”に対して与えられたものであることはいうまでもあるまい。国防相として、軍政面だけでなく軍令面をも指導するために、制服の権威が必要とされたのである。かつて独裁者として勢威並ぶもののなかったスターリンも、独ソ戦に際しソ連軍最高総司令官として自ら作戦を指導したスターリングラード防衛戦の功績に対して、1943年3月、ソ連邦元帥に任ぜられて制服を着用したのである。

党と軍の一体化へ
党人国防相の出現、書記長元帥の登場という1976年4,5年の画期的人事のねらいはどこにあったか。当時の内外の新聞論調では「軍に対する党の直接指導強化」「軍政と対外政策の一本化」「デタント推進を誇示」「軍部のタカ派イメージ払拭」という見方が多かった。それぞれ一面の真相をついていると思われる。この人事が少なくとも軍に対する党の指導、統制をより強めようとするものであることは間違いない」。しかし、さらに大胆に論断すれば、党と軍の一体化を推し進めたものといえるのではないか。
その背景とはまず、ソ連軍の大きな変化がある。第二次大戦後、社会主義はソ連1国のワクを超えて「社会主義世界体制」に拡大した。ソ連軍はソ連1国だけでなく、ワルシャワ条約機構諸国をはじめとする社会主義世界体制全体の防衛、支援に責任を持つに至った。さらに社会主義勢力とともに反帝闘争の大きな力でる民族解放勢力に対する支援も、ソ連軍の重大な責務となった。キューバ、北ベトナム、インド、エジプト、アンゴラなどに対する大規模な軍事援助は、ソ連の対外政策の一環として、ソ連軍の力を基礎として行われた。
一方“帝国主義勢力”の主柱である米国に対して平和共存―緊張緩和政策を「押しつける」ためには、米国と「対等」以上の軍事力を保有する必要がある。そうなって初めて、ソ連はその世界戦略を遂行できるのである。フルシチョフ時代の1962年秋、ソ連がひそかにキューバにミサイルを持ち込みながら米国の強硬な対決姿勢の前に後退したのは、核戦力、海軍力をはじめとする総合戦力でまだ米国に対抗できなかったからである。いまや核ロケットの数は、米国を上回り、かつて沿岸警備艦隊にすぎなかったソ連海軍は、72年と75年の「オケアン」演習にみられるように世界7つの海で同時に作戦行動をとり得るグローバル・パワーに成長した。75年から76年にかけてのアンゴラ内戦では、ソ連艦艇が革命勢力支援の艦砲射撃をくりひろげたとすら報道された。このような軍事力の伸長をバックにした“力の均衡”の上に、ソ連は米国、西欧諸国との緊張緩和を導き出し、欧州安保・協力会議を成立させ、さらにアジア集団安保構想をも打ち出しているのである。
このようにソ連の軍事力は、いまやクレムリンの世界戦略のなかに深く組み込まれている。しかも、もしソ連と北大西洋条約機構諸国ないし米国との戦争が突発すれば、不可避的に全面戦争になり、地球そのものの破壊に招く現在、ソ連軍の最高指導者の責務は、戦争そのものの指揮よりも、「戦争を想定した場合」のより優位な軍事力と国際戦略的な地歩の確立にある、といってもよい。このような仕事はもはや単なる職業軍人のカバーする範囲を超えているともいえるであろう。それは、究極的にはやはり「ソビエト社会を指導し、方向づける力」(現行ソ連共産党規約の前文、新憲法第6条)である党の仕事ということになるであろう。このようにみてくると、ウスチノフ“党人”国防相、ブレジネフ“書記長”元帥の登場は、必ずしも異常の事態とはいえず、むしろ当を得たものともいえるだろう。わが国の軍事専門家筋は、次のような見方を非公式にもらしている。
① 現在の情勢では、党政治局員でなければ国防相は務まらない。いまや戦時における実戦指揮よりも、平時における軍備充実、戦略体制整備がより以上に重要である。
② ウスチノフ国防相は、それまでSALTの事実上の担当者であった。ある意味では現在のソ連の国防相としてはうってつけの人物であろう。軍事力の建設には高度の技術的知識が要求され、それはむしろ作戦指導よりも困難な課題である。実戦の経験がないというが、SALTそのものが血のにじむ闘いだといえるのではないか。この闘いを指導するには、なまなかの方面軍司令官などより数段高い識見を必要とする。
③ 平時における軍事政策を国際戦略とからませて、大所高所から考えてきたのは「ブレジネフ書記長を長とする」党政治局にほかならない。同書記長がソ連邦元帥の制服を着たのは、党・軍一体をシンボライズするものである。国防会議議長として、細かい専門家事項まで指導し、指示するには制服を着た方が権威が高まり、軍に受け入れられやすいからであろう。
要するに、1976年4,5月のソ連軍人事は、国際情勢の変化、軍の役割の変容に伴って、従来からいわれ、実践されてきた「党による軍の指導」をさらに一歩進めて「党と軍の一体化」にふみ出したものといえるのではなかろうか。
党を掌握したブレジネフはいまや、ソ連社会の大きな実力集団である軍部を翼下に収めたのである。



ドミトリー・フョードロヴィッチ・ウスチノフ(ロシア語: Дмитрий Федорович Устинов、Dmitri Fyodorovich Ustinov、1908年10月30日 - 1984年12月20日)は、ソビエト連邦の政治家。ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ時代のソ連国防大臣。ソ連第一副首相、国防工業大臣、ソ連共産党政治局員、同党書記局員を歴任。半世紀にわたり、ソ連軍需産業の育成と運営にあたり、冷戦時代のソ連をアメリカと並ぶ軍事大国に押し上げるのに巨大な役割を果たした。드미트리 표도로비치 우스티노프(러시아어: Дмитрий Фёдорович Устинов, 1908년 10월 30일~1984년 12월 20일)는 소비에트 연방의 정치가이다. 레오니트 브레즈네프, 유리 안드로포프, 콘스탄틴 체르넨코 시대의 소련 국방장관이다.
“第一人者”への道
ブレジネフのソ連元帥昇進が新聞に発表された1976年5月8日、生まれ故郷のウクライナ共和国ドニェプロジェジンスクで、彼の胸像の除幕式が華やかにくりひろげられた。38年制定の最高会議幹部会令は「ソ連邦英雄」か「社会主義労働英雄」の称号を2回受けた者には、郷里の市町村にブロンズの胸像を建てることを定めている。
ブレジネフは61年、ロケット技術の発展と宇宙船「ヴォストーク」による有人宇宙飛行の成功に尽くした卓越した功績によって社会主義労働英雄の称号を、また66年、60歳の誕生日に際して、「共産主義建設、国防力強化の分野における党と国家に対する卓越した功績と大祖国戦争の前線におけるドイツ・ファシスト侵略者に対する闘争での大きな功績」によってソ連邦英雄の称号を贈られている。胸像を建ててもらう資格はあったのだが、スターリン以後のクレムリン指導者で初めてだった(その後、ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長、スースロフ書記、ウスチノフ国防相そのほか要人も生面に胸像を建ててもらっている)。
会議のオクチャーブリスカヤ(10月)広場には、シチェルビツキー政治局員・ウクライナ党中央委第一書記はじめウクライナの党と政府の要人や一般市民、かつてブレジネフとともに働いた労働者、前線で生死をともにした戦友など多数が参列した。ソ連国歌とウクライナ共和国国歌の吹奏のうちに赤いテープが切られ、大理石の台座の上に、胸に4個のレーニン勲章を輝かせたブレジネフの胸像が姿を現した。大きな拍手。シチェルビツキーが立ってこうあいさつした。
「レオニード・ブレジネフの生地での今回のこの盛儀は、そのすぐれた労働の功績と武勲によって“英雄”の2つの金メダルを受けた人物への全国民の感謝の念を表すものである・・・。書記長はそのすべてのポストにあって、ソ連の国防力を増強し、帝国主義侵略層の策動を粉砕し、世界の平和を固めるための大きな仕事をやってきたし、いまもやっている・・・。
ブレジネフ書記長を先頭とするわが党中央委とその政治局が一貫して実施しているレーニン的対外政策、ソ連の平和網領の生命力と有効性は、歴史の経験全体によって確認されている」
ソ連邦元帥昇進に続く胸像の除幕はまた、「トロイカ体制」から「ブレジネフ単独指導制」への移行を演出するキャンペーンの開幕でもあった。

「ウォシチ」の呼び名
1976年10月14日、ブレジネフの盟友キリレンコ政治局員・書記が70歳の誕生日を迎え、党と国家に対する多年の功労に対してレーニン勲章が贈られた。キリレンコは叙勲に対する感謝の言葉のなかで、ブレジネフを「ウォシチВасичи」と呼んだ。
ロシア語の「ウォシチ」とは指導者、リーダーの意味だが、普通に「党・政府指導者」という場合の「ルカヴォジーチェリ」とはニュアンスが大きく異なる。卓絶した、神格的な、カリスマ的な指導者が「ウォシチ」だ。かつてヒトラーが単に「フューラー」(指導者=Führer)と呼ばれたが、「ウォシチ」にもそんな響きがある。ソ連ではレーニンさえ生前にはこの言葉で呼ばれたことはない。スターリンは生前にすでに“無謬の人”とされ、神格化されていたから「ウォシチ」と呼ばれた。いまブレジネフが「ウォシチ」の名を冠せられたのである。キリレンコ演説のあと、「ウォシチ」のタイトルでブレジネフを称揚する者も現われるようになった。ブレジネフは「トロイカ」から一頭地を抜きん出ようとしていた。西側では「ブレジネフ個人崇拝」の始まりとみる向きもあった。
晴れがましい70歳
1976年12月19日、ブレジネフは70歳の誕生日を迎えた。ブレジネフ称賛のキャンペーンは最高潮に達した。まずクレムリン大宮殿で、ブレジネフ勲章と“名誉武器”を贈る式典が開かれた。ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長、コスイギン首相、スースロフ書記をはじめとする党・政府の指導者、各副首相、陸海軍司令官ら多数が参列したほか、ギエレク(ポーランド=
Edward Gierek (ur. 6 stycznia 1913 w Porąbce, zm. 29 lipca 2001 w Cieszynie) – polski polityk, działacz komunistyczny, w latach 1970–1980 I sekretarz KC PZPR, poseł na Sejm PRL I, II, III, IV, V, VI, VII i VIII kadencji)、フサーク(チェコスロヴァキア=グスターフ・フサーク(Gustáv Husák, 1913年1月10日-1991年11月18日)は、チェコスロヴァキア共産党第一書記(1969年~1987年)、大統領(1975年~1989年)・・・1989年11月のビロード革命後に大統領を辞任、翌年には党を除名された。2年後の1991年11月18日死去(78歳))ジフコフ(ブルガリア=トドル・フリストフ・ジフコフ(ブルガリア語: Тодор Христов Живков, ラテン文字転写: Todor Hristov Zhivkov、1911年9月7日 - 1998年8月5日)は、ブルガリアの政治家。ブルガリア共産党書記長(在任:1954年 - 1989年)、閣僚評議会議長(首相)(在任:1962年 - 1971年)、国家評議会議長(元首)(在任:1971年 - 1989年)を務め、同国の最高指導者として35年の長きに渡り君臨した・・・ベルリンの壁が崩壊した11月9日についにジフコフは辞任を表明。ムラデノフが政治局員の推薦を受けて後継の党書記長に就任した[5]。ジフコフは続いて11月17日に国家評議会議長も辞任した。さらにジフコフは党を追放されて自宅軟禁された上で、公金横領罪で起訴され、1992年に懲役7年の判決を受けた[6]。1998年8月5日、86歳で死去した)、カダル(ハンガリー・カーダール・ヤーノシュ(ハンガリー語: Kádár János, 出生時はGiovanni Csermanek, 1912年5月26日 - 1989年7月6日)は、社会主義政権時代のハンガリーの政治家。実質的な最高指導者であるハンガリー社会主義労働者党書記長(1956年-1988年)を務めたほか、首相(閣僚評議会議長)に2期(1956年-58年、1961年-65年)在任した・・・1989年5月に病気を理由に党総裁の職を解かれて政治から完全に排除され、その後まもなく77歳でその生涯を閉じた)ホーネッカー(東独=エーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker, 1912年8月25日 - 1994年5月29日)は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政治家。ドイツ民主共和国第3代国家評議会議長(在任:1976年 - 1989年)およびドイツ社会主義統一党書記長(在任:1971年 - 1989年)。1989年の東欧革命で失脚した・・・ソ連崩壊後の1992年にドイツへ移送されたが、1993年の裁判では癌細胞を自らに移植することで病気と偽った上[要出典]訴追免除され、娘ゾーニャの居るチリの首都であるサンティアゴへ事実上亡命した。翌年の1994年5月29日に肝臓癌により81歳で没した)、チャウシェスク(ルーマニア=ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア語: Nicolae Ceaușescu [nikoˈla.e t͡ʃe̯a.uˈʃesku] (  音声ファイル)、1918年1月26日[1] - 1989年12月25日)は、ルーマニアの政治家。ルーマニア共産党書記長(1965年 - 1989年)[2]、ルーマニア社会主義共和国国家評議会議長(1967年 - 1989年)、初代大統領(1974年 - 1989年)。1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨した・・・89年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚し政権は崩壊、12月25日、逃亡先のトゥルゴヴィシュテにおいて、革命軍の手によって妻エレナとともに公開処刑(銃殺刑)された)らアルバニアを除く全東欧諸国の指導者、モンゴルのツェデンバル(ユムジャーギィン・ツェデンバル(モンゴル語: Юмжаагийн Цэдэнбал / Yumjaagiin Tsedenbal, 1916年9月17日 - 1991年4月20日)は、モンゴル人民共和国の政治家。モンゴル人民共和国元帥・・・晩年はモスクワに家族で居住し、その地で死去)キューバのラウル・カストロ(ラウル・モデスト・カストロ・ルス(スペイン語: Raúl Modesto Castro Ruz, 1931年6月3日 - )は、キューバの政治家、軍人、革命家。兄のフィデル・カストロとともにキューバ革命を指導した)党政治局員・第一副首相もかけつけた。
この晴れがましい席で、ブレジネフは、満場の拍手のうちにポドゴルヌイから彼にとって2つ目の「ソ連邦英雄」金星章と、5つ目のレーニン勲章を胸につけてもらった。「共産主義建設における党と国家に対する卓越した功績、諸国民の平和と安全の強化をめざす積極的かつ実り多い活動、大祖国戦争におけるドイツ・ファシスト侵略者の粉砕とソ連の経済力、軍事力の強化に対する個人的貢献」(『プラウダ』)によるものである。勲章授与に当たってポドゴルヌイは「ブレジネフ氏の誕生日は単に同氏の生誕における記念すべき日であるだけではない。それは党、国家、全ソ連国民にとって大きな出来事である」と、最大級の祝辞を贈った。

スピーチが終わって、ポドゴルヌイが再び口を開いたー「親愛なるレオニード・イリイッチ!もう1つの栄誉をあなたに贈ることは、私の大きな喜びである。ソ連共産党中央委員会書記長、ソ連国防会議議長、ソ連邦元帥たるあなたは、ソ連最高会議幹部会令によって、黄金のソ連国章をはめ込んだ名誉武器(バチョットノエ・アルージエ)を贈られる」。
ポドゴルヌイがテーブルから取り上げて、ブレジネフに手渡したのは、一握りのシャーシカ(革鞘に入ったソリの少ない長剣)だった。ブレジネフは、さも驚いたように、大仰に両手をひろげて剣を受け取り、さっと鯉口を切って刀身をながめ、パチンと納めた。満面に笑みをたたえたブレジネフの表情を、テレビが映し出していた。
卓越した武勲を立てた軍人が、栄誉のしるしとして皇帝から武器を贈られるのは、帝政ロシアの伝統だったという。戦前の日本でいえば、軍人の最高位をきわめた元帥に、天皇が親授した「元帥刀」といったところか。
『ソ連大百科事典』第3版(1973年、モスクワ)には、「名誉革命武器」(バチョットノエ・レヴォリュツィオンノエ・アルージエ)の名が出ている。1920年4月8日の全連邦中央執行委員会の布告によって、「戦闘における殊勲」を立てた実戦部隊の高級指揮官に授与されることになった褒賞である。武器はもともと長剣または短剣だったが、1924年12月のソ連中央執行委員会の布告で、ピストル(レヴォルヴァー)が加えられた。国内戦当時、伝説的な第1騎兵軍を率いて奮戦したブジョンヌイ元帥や「赤軍のナポレオン」とうたわれた名将トハチェフスキー元帥ら21人がこの「名誉革命武器」を贈られている。この布告は1930年に廃止されたので、その後この栄誉を受けたものはいない。
この日ブレジネフに「名誉武器」が贈られたことは、45年ぶりに「名誉革命武器」の伝統が復活したことを意味するものであろう。フルシチョフ中将はもちろん、スターリン大元帥すら贈られなかった栄誉である。ブレジネフの軍功はスターリンをしのいだのであろう。
この日午後には、さらに地方・州党委第一書記、古参党員、模範労働者、宇宙飛行士、文化人らを加え、ブレステス・ブラジル共産党書記長、イエスベルセン・デンマーク共産党書記長、アリスメンディ・ウルグアイ共産党第一書記、イバルリ・スペイン共産党議長ら外国の党指導者をも招いた大レセプションがクレムリン大宮殿で開かれた。祝辞を述べたスースロフ書記は、ブレジネフを「党が最高の信頼を寄せている共産主義者」と呼び、「マルクス・レーニン主義思想の勝利をめざす不屈の闘士、真にレーニン的な、試練ずみの、風格の大きな活動家」とほめ上げた。さらに「とくに指摘したいのは、ブレジネフ氏が昔も今も素朴でかつ控え目だということである。そして国民の利益への献身、人々への態度における原則性と同情心、同志たちの意見に耳を傾ける才能、党派的厳格さ、自己満足の拒否、すべての進歩的な事物に対する関心―これらの長所においてブレジネフは卓越している」と、その個人的な人格もたたえたのである。「控え目(スクロームヌイ)というほめ言葉が、レーニンをほめるときの常用語であることにも注意したい。ブルガリアのジフコフ党第一書記は「かつて世界はレーニンをもってボリシェヴィキを推しはかったが、いまやブレジネフ同志をもってソ連国民を判断している」といささかオーバーな表現を用いたものである。
誕生日に際して、党機関紙『プラウダ』をはじめ、マスコミは「レーニンの後継者」「ソ連国民の信頼できる息子」「共産主義者の模範」などという賛辞があふれた。また誕生日に先立って、英字紙「モスクワ・ニュース(Moscow News)が「ブレジネフ小伝」を付録につけたり、「ブレジネフの人生は世紀のページ」と銘打ったアルバムが刊行されたり、「ある共産主義者の物語」と題したドキュメンタリー映画が公開されたりした。ほかの政治局員の誕生日にはみられない、ほめちぎりようであった。このころモスクワで、こんなアネクドート(小咄)がささやかれた。「ブレジネフが胸を手術したらしい」「えっ、タバコのすい過ぎで肺ガンにでも・・・」「いやいや、胸の幅を広げたのさ。勲章をもっとつけるためにね」


1976年11月7日 革命記念日 首都モスクワ 赤の広場 レーニン廟壇上
1、ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長(これが壇上に「国家元首」として立った、最後の記念日となる)2、ウスチノフ国防相 3、ブレジネフ書記長 4、コスイギン首相 5、スースロフ政治局員 6、キリレンコ政治局員 7、グロムイコ外相

ニコライ・ヴィークトロヴィチ・ポドゴルヌイ(ロシア語: Никола́й Ви́кторович Подго́рный 〔ニカラーイ・ヴィークタラヴィチュ・パドゴールヌィイ〕[1]、1903年2月18日 – 1983年1月12日) は、ソビエト連邦の政治家。ウクライナ人。レオニード・ブレジネフ時代にソ連の国家元首に当たる最高会議幹部会議長 (在任期間: 1965年から1977年)を務める。尼古拉·维克托罗维奇·波德戈尔内(俄语:Никола́й Ви́кторович Подго́рный,乌克兰语:Микола Вікторович Підгорний;1903年2月18日[1]-1983年1月12日)出生于俄罗斯帝国卡爾利夫卡,是冷战时期苏联的一位乌克兰籍政治家,曾于1957年至1963年间任乌克兰共产党中央委员会第一书记,1965年至1977年间任苏联最高苏维埃主席团主席。
ポドゴルヌイ辞任
クレムリン構内、設計者の名をとってカザコフ館とも呼ばれるソ連閣僚会議ビルの壮麗なスヴェルドロフ・ホールで、共産党中央委員会総会が開かれていた。1977年5月24日の午後である。総会は、党の長老スースロフ政治局員・書記の司会で進められていた。議題は、現行憲法(1936年制定)に代わる新しい憲法草案の承認である。憲法起草委員会の議長であるブレジネフ書記長が、草案について報告し、総会は原案通り承認した。ここで、ウクライナ共和国ドネツク州党委のカチューラ第一書記が立った。「外国の最高の代表と党書記長が、対等の立場で交渉できるよう、同志ブレジネフを最高会議幹部会議長(国家元首)とするよう提案する」。
すかさず、ロマノフ政治局員(レニングラード州第一書記)が「まことに適切な措置である」として、ポドゴルヌイ政治局員(最高会議幹部会議長)の解任の動議を提出した。司会のスースロフ書記が冷ややかな表情で、動議の評決を求めた。いっせいに会場から手が上がった。「満場一致で、動議は採決されました」-スースロフ書記が淡々と宣言した。事の成り行きを見守っていた当のポドゴルヌイは、“非常な驚き”を見せて立ち上がり、ヒナ壇の政治局員の席を降りて、平土間のヒラの中央委員席に移ったー。

ウィーンの『ディ・プレッセ』紙そのほかの外電を総合すると、ブレジネフ、コスイギンとともに「トロイカ」(3つ組(3頭馬(橇)車)=Тро́йка)の一員だったポドゴルヌイの政治局員解任の解任劇は、このようにして行なわれたという。翌5月25日の『プラウダ』は、1面で、党中央委総会が新憲法草案を採択したことを大々的に報じたあと、何の説明も加えずにポドゴルヌイの政治局員解任の事実を、わずか1行半で伝えた。
かつてフルシチョフ第一書記・首相が解任されたときには、「高齢と健康悪化のため」という説明があった。それ以後、政治局員、書記クラスが解任されるときには「病気のため」「本人の希望により」「他の職務に移るため」などといった断りがつくのが例であった。現に、ポドゴルヌイと同時に書記を解かれたカツシェフは「経済相互援助会議」(コメコン*)
の職務に移るのに関連して」と説明されている。ポドゴルヌイ解任が、外電の伝えるような状況のもとで“強行”されたことは、十分考えられるのである。
*コメコン=経済相互援助会議(けいざいそうごえんじょかいぎ、ロシア語: Совет экономической взаимопомощи、СЭВ、SEV)は、1949年にソ連の主導のもとで東ヨーロッパ諸国を中心とした共産主義諸国(東側諸国)の経済協力機構として結成された。西側での通称はコメコン(英語: COMECON- Council for Mutual Economic Assistance の略)加盟国=ソビエト社会主義共和国連邦・ブルガリア人民共和国・ルーマニア社会主義共和国・ドイツ民主共和国(東ドイツ)・ハンガリー人民共和国・ポーランド人民共和国・チェコスロバキア社会主義共和国・キューバ共和国・ベトナム社会主義共和国・モンゴル人民共和国・ラオス人民民主共和国
公式発表によると、問題の党中央委総会で発言したのは、前記カチューラ、ロマノフのほか、シチェルビツキー・ウクライナ第一書記、グリシン・モスクワ市第一書記、エルミン・ペンザ州第一書記、アウエリペコフ・コクチェタ州(カザフ)第一書記、オルロフ・クイブィシェフ州第一書記、ムサハノフ・タシケント州(ウズベク)第一書記の合計8人となっている。
このうち、カチューラは、ブレジネフ書記長の強固な地盤であるウクライナ選出の中央委員。ロマノフは、前に触れたようにブレジネフ書記長の推輓によって、1970年レニングラード州第一書記、73年政治局員候補、76年政治局員と目ざましく昇進した若手指導者(54歳)である。シチェルビツキーは、フルシチョフ末期にウクライナ首相からドニェプロペトロフスク州第一書記に格下げされていたのが、ブレジネフによって65年、再びウクライナ首相に返り咲き、72年からウクライナ党の第一人者となった人物。いずれもブレジネフの腹心といってよい。
グリシンも、1967年、中東紛争の処理をめぐりブレジネフ主流派と意見を異にして解任されたエゴルイチェフの後任として、全ソ労組議長からモスクワ市第一書記に迎え入れられ、74年政治局員となっているだけに、ブレジネフ系とみてよかろう。アウエリペコフはカザフの第一書記だが、カザフは54年から56年にかけて、ブレジネフが第二書記、ついで第一書記として処女地開拓事業に取り組んだところ。以来、ここの党組織にはブレジネフ人脈が築かれている。アルエルぺコフもその1人と考えられる。そのほかの3人の発言者については明らかではないが、シチェルビツキー、ロマノフ、グリシンといった政治局員の大物と違った趣旨の発言をしたとは思われない。

こうみてくると、この党中央委総会に先立って、ポドゴルヌイをつんぼ桟敷に置いて、ひそかに追い落としの根回しがなされていた可能性も濃い。ポドゴルヌイ議長が、この党中央委総会に先立って3月22日から4月3日までタンザニア、ザンビア、モザンビークのアフリカ諸国を歴訪していた間に、事が進められたのではないかとみる向きもある。そして総会では、ブレジネフ直系分子がイニシアチブをとって、当人に発言の余地も与えず、解任に追い込んだようにみえるのである。
ポドゴルヌイ解任は、政治局の完全制圧を達成するため、ブレジネフの最後の大手術だった。ポドゴルヌイの追放で、もはや政治局内には「非」(反ではない)ブレジネフ派といえるものは残っていても、「対」ブレジネフ勢力は一掃されたといってよい。ブレジネフが第一書記に就任して以来の政治局メンバーの変遷をまとめてみると表4の通りになる。
最高会議議長を兼任
政治局員からの解任は当然、ポドゴルヌイの最高会議幹部会議長からの解任を予測させた。約3週間後の6月16,17両日開かれた第9回ソ連最高会議第6会期は、予想通り、ポドゴルヌイを解任した。会議には本人は欠席し、「年金生活者に入るために辞任したい」というメッセージを、シチコフ連邦会議議長が読み上げ、この要請を入れた形で解任が決定された。12年にわたる国家元首としての貢献を慰労する言葉はどこからも出なかった。かつて1965年12月、同じく最高会議幹部会議長の職を辞したミコヤンは、最高会議場のヒナ壇に座って、満場の拍手を浴び、翌日には多年の功労に対してレーニン勲章を贈られている。
ポドゴルヌイの場合は、明らかに自発的な辞任ではなく「失脚」であった。彼がメッセージで、あえて「老齢」や「健康」に言及せず、そっけなく「年金生活」といっただけなのは、精いっぱいの抵抗だったかもしれない。ポドゴルヌイは、年こそブレジネフより3歳上だが、健康状態はクレムリン長老のなかでは一番良いように見受けられた。現にアフリカ諸国歴訪の日程を、精力的にこなして帰ったばかりだったのだ。解任を告げられる最高会議のヒナ壇に姿を見せなかったのは、その屈辱に耐えられなかったのであろう。
この最高会議のあと、ポドゴルヌイが政治局員を強行解任されたのはブレジネフに最高会議幹部会議長を譲って、新憲法で新設されるその第一副議長に転じることを拒否したためだ、という外電が流れてきた。

エピソード[編集]
ポドゴルヌイは最高会議幹部会議長の座を追われた後の1978年11月、10月革命61周年記念パーティーに出席、ブレジネフ、コスイギン、アンドレイ・グロムイコらかつての同僚に遠慮会釈なく次々と話しかけ、迷惑そうな顔をされている姿が、魚本藤吉郎・駐ソ日本大使によって目撃された。ポドゴルヌイは、この時点では最高会議代議員の身分はまだ有しており、パーティーへの出席は"合法"ではあったが、失脚した政治家は配所の月を静かに眺めているのが慣例で、ポドゴルヌイの行動は異例であった。この行動が災いしたのか、その後まもなく彼は最高会議代議員職も失った。
またポドゴルヌイ失脚後、トレチャコフ美術館の51号室に飾ってあった赤の広場の壇上に立つブレジネフ書記長らを描いたナルバンジャン作の絵画から、ブレジネフの左隣に立っていたポドゴルヌイの姿が消されていることが確認され、話題を呼んだ。

ポドゴルヌイの“辞任要請”を容れた最高会議の連邦・民族両院合同会議で、スースロフ代議員(党政治局員・書記)が共産党中央委員会、最高会議幹部会、最高会議連邦会議および民族会議の長老(古参議員)会議の名において、ブレジネフを最高会議幹部会議長に選出することを提案した。そしておよそ次のように提案理由を説明したのである。
「5月24日に開催された党中央委員会総会は、満場一致で、党中央委書記長レオニード・イリイッチ・ブレジネフ同志が、ソ連最高会議幹部会議長のポストを兼任することが適当であることを認めた。中央委員会総会で発言した諸同志は、この決定の正しさを全面的に裏付けた。・・・レオニード・イリイッチはわが党とソ連国民の無限の信頼と愛を受けている(長い拍手)。・・・彼は国際舞台で、わが党、全ソ連国民、わが偉大な社会主義国家を正当にも代表している。国際緊張緩和と平和の事業の強化にとって決定的な意義を持つ国際的文書に、L・I・ブレジネフの署名があることも重要な事実である(長い拍手)。
わが国の金生活における、ソビエト国家の内外活動における共産党の指導的、先導的役割の増大と、レオニード・イリイッチ・ブレジネフのすぐれた個人的資質および献身的な働きは、当然のことながら、ブレジネフ同志がすでに多年にわたって実質的に、わが国民の前でも、共産党とソビエト社会主義国のもっとも権威ある代表として行動しているという結果をもたらしている(長い拍手)。
ソ連共産党中央委員会書記長レオニード・イリイッチ・ブレジネフ同志のソ連最高会議幹部会議長への選出は、ソビエトの社会および国家の高い利益にかなうものであり、ソ連共産党第25回大会の歴史的な諸決定の遂行における新しい成功、共産主義建設における新しい成功をもたらすであろう」。
この提案に基づいて「レオニード・イリイッチ・ブレジネフをソ連最高会議幹部会議長に選出する」という最高会議の決定が、全員の起立と「嵐のような、長い拍手」のうちに採択された。16日付の決定書への署名はすでにポドゴルヌイではなく、最高会議幹部会副議長S・ニヤズペコフ(カザフ最高会議幹部会議長)となっていた(副署は従来通り<・ゲオルガゼ最高会議幹部会書記)。
就任受諾のあいさつに立ったブレジネフは「わが党の中央委員会書記長としての職務と並んで、これに関連する重い義務を遂行することは、もとより容易なことではない。しかし、党の意思、ソビエト国民の意思、わが社会主義祖国の利益はつてに私が生涯を通じて従ってきた、そして今も従っている最高の掟である。いまや、この新しい祖国の責任を引き受けるに当たって、親愛なる同志諸君と国民の信頼に応えるよう努力することを誓いたいと思う・・・」と述べて、会場はまたまた全員起立のうちに、鳴り止まぬ拍手に包まれた、と報じられた。
単独指導体制へ
ともあれ、ブレジネフは党書記長、国防会議議長に加えて、国家元首たる最高会議幹部会議長の職をも兼ねた。党の権力のほかに国家権力をも一手に集中したことになる。
党第一書記と首相を兼ねていたフルシチョフを解任した1964年10月の党中央委総会は、「こんご同一の人物が中央委員会第一書記とソ連邦閣僚会議議長との職務を兼任することは不適切である」と認定した。それに基づいて党書記長ブレジネフ、首相コスイギン、最高会議幹部会議長ミコヤン(後にポドゴルヌイ)のいわゆるトロイカ体制が発足したのだったが、それから13年、コスイギンの地位が目立って下がり、ポドゴルヌイにブレジネフがとって代わったいま、トロイカ体制は完全に崩れた。ブレジネフ単独指導体制が生れたといわねばならない。
スターリンはもともと書記の1人にすぎなかったが、書記長として書記局を代表する形で政治局に入り、ただ1人3局のメンバーを兼任することによって、権力を固め、首相、軍事相(戦争中はさらに国家防衛委員会議長、ソ連軍最高総司令官)を兼ねた独裁権力を固めた。スターリンを招待したフルシチョフも当初、“レーニン的集団指導制”をとなえて、「書記長」より一段格の低い「第一書記」のポストだけを守っていたが、しまいには自ら首相を兼任し、軍の最高総司令官をも兼職して、権力を集中した。フルシチョフを退けて登場したブレジネフも、同じ道をたどった。ソビエト体制そのものが、権力集中に向かう性向を内包しているのであろうか。








①[February 1968] Chunichi News No.733_1 "Mr. Suslov's Visit to Japan -Soviet Communist Party Delegation-"A Soviet Communist Party delegation visits Japan to normalize the isolation with the Japanese Communist Party«Визит г-на Суслова в Японию -Делегация Советской Коммунистической партии-»Делегация Советской Коммунистической партии посещает Японию, чтобы нормализовать изоляцию с Коммунистической партией Японии羽田空港に到着したスースロフ政治局員を迎えた日本共産党代表の先頭にいるのは袴田里見政治局員(後の党副委員長)です。

②Сатоми Хакамада袴田 里見 (11 августа 1904青森県出身 — 10 мая 1990) — общественный деятель в периоды Тайсё и Сёва, бывший член Коммунистической партии Японии(ソ連留学組(ロシア語に堪能だった)獄中11年(45年(日本の敗戦後)に釈放(非転向政治犯)党分裂時は「国際派」に所属)77年、規律違反により除名処分を受けた)③元ロシア下院副議長(経済学者)であるイリーナ・ムツオヴナ・ハカマダ(Ири́на Муцу́овна Хакама́да,Irina Mutsuovna Khakamada, 1955年4月13日 - )及び国際政治学者のСигэки Хакамада (яп.袴田 茂樹Хакамада Сигэки, род. 17 марта 1943, Фукуяма, Хиросима広島県出身)(青山学院大学)名誉教授(イリーナ・ハカマダ氏の異母兄)の叔父。



④Муцуо Хакамада (яп.袴田 陸奥男хакамада муцуо, 14 октября 1912青森県出身(袴田里見氏の弟そして袴田教授、イリーナ・ハカマダ氏の父)—1991) 日本共産党員— японский коммунист, сдавшийся в плен и ставший гражданином СССР. Отец Ирины Хакамады и Сигэки Хакамады(満州でソ連軍の捕虜となりシベリア抑留中、ラーゲリ(収容所)にて「民主運動」を推進、→を創刊した⑤Нихон симбун (яп. 日本しんぶん, «Японская газета») — советская газета для японских военнопленных времён Второй мировой войны. Слово «симбун» в названии в начальных выпусках писалось иероглифами (新聞), а не хираганой (しんぶん).

↑1971年8月18日、モスクワに到着した宮本顕治日本共産党委員長を迎えるミハイル・スースロフ政治局員Михаил Суслов слева от секретаря ЦК КПСС, члена Политбюро приветствует Кенджи Миямото, справа от японцев.

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