日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

「北京週報日本語版」元人民解放軍兵士―山辺悠喜子さん/Peace Philosophy Centre・Connecting Nanjing and Okinawa「南京と沖縄を結ぶ会」/中日民間友好交流→菅義偉 este un politician japonez當選日本自民黨總裁/『週刊金曜日』各記事


中国と日本
元人民解放軍兵士――山辺悠喜子さん
山辺悠喜子さんは普通の日本人女性だが、山辺さんと中国、そして中国の軍隊、中国の人々との間には、特別で、そして不思議な関係がある。山辺さんは中国の人民解放軍に加わっていたことがあるからだ。
12歳で海を渡り中国へ
1941年、わずか12歳だった山辺さんは母親に連れられ、遼寧省本溪市に住む父親の元へとやってきた。当時山辺さんの父親は本溪にある日本の炭鉱会社で働いていた。中国に来るまで、山辺さんは中国で当時繰り広げられていた抗日戦争についてよく知らなかった。山辺さんはなんと言っても当時わずか12歳で、まだ子供にすぎなかったからだ。中国の地を踏んだ後、周囲でさまざまな出来事が起こり、山辺さんはようやく興味を抱くようになっていった。山辺さんは日本人が大勢の前で中国人を打ったり罵ったりするのをよく見かけた。ここは中国なのに、日本人はどうしてこんなに威張っているんだろう?中国の労働者はどうしてこんなに貧しいんだろう?どうして日本人は中国人を思うまま打ったり罵ったりするんだろう?山辺さんは次々と湧いてくる疑問に納得のいく答えを出すことができず、父親に聞いてみた。父親の答えはたった一言だった。「彼らが中国人だからだよ」。この答えを聞いて、山辺さんはますます当惑してしまった。納得も理解もできないままに、1945年8月15日を迎えた。
人生を変えた一つの鍋
1945年12月、山辺さんは遼寧省本溪市で東北民主連合軍に加わった。「その年、私はまだ16歳でした」。山辺さんは流暢な中国語で記者に語った。「実を言うと、国民党の軍隊も共産党の軍隊も、どちらも東北の私の家に来ました。ではなぜ私が人民解放軍に加わることにしたかというと、それは料理を作る鍋と関係があるのです……」。「国民党の軍隊は私の家の前を通る時、母に鍋を借りに来ました。軍隊が立ち去る時には返すという約束でしたが、鍋は壊され、軍隊もそのまま行ってしまいました。その後、共産党の部隊がやって来て、若い兵士が母に鍋を借りに来ました。この兵士の着ていた服はぼろぼろで、鍋はきっと返ってこないだろうと考えた母は、家で一番古い鍋を貸しました。一週間ちょっとして、兵士が鍋を返しに来ました。兵士は『ありがとうございました』と言って踵を返すと、すぐに走り去って行きました。母が鍋蓋を開けて見てみると、鍋の中にはニンジンが3本入っていました。当時の苦しい条件下で、人民解放軍の兵士たちは自分の食糧を切り詰めて私たちに分けてくれたのです。私たち家族はみなとても感動しました。そして父は私にこう言いました。『お前はこういう軍隊に入りなさい!』そうして、私は人民解放軍に加わったのです」。「当時、戦場の環境は非常に劣悪で、常に生と死の試練に直面せねばなりませんでしたが、戦友たちは苦楽を共にし、共に働き、厚い友情で結ばれていました。眠くなったり疲れたりした時には、『三大紀律八項注意』や『団結は力』などの歌を一緒に歌いました。これらの歌は私を励まし、教え導き、私は革命の道を歩む上で絶えず成長し、進歩することができました。私はもうすぐ80歳になりますが、こうした歌を歌うたびにまるで人民解放軍の軍隊の中にいるような気持ちになります」。
元人民解放軍兵士――山辺悠喜子さん
あっと言う間に過ぎた8年の軍隊生活
実のところ、軍隊に入った当初、山辺さんはうまく順応できたわけではなかった。それまで簡単な医療衛生知識を習ったことはあったが、それは書物の上のことにすぎず、「臨床」経験はまったくなかったからだ。すぐに仕事をこなすために、山辺さんは長征に参加したことのある女性看護師長や周りの経験ある医療看護員に教えを請うことにした。自分が身につけた後は、今度は山辺さんが現地の女性たちにそれを教えた。
戦いが終わるたびに、多くの負傷者が出て、病床や医療看護員が不足した。山辺さんたちは負傷者に簡単な包帯の処置をすると、現地の農民の家に負傷者を預けた。実際のところ、農民のほうも豊かだったわけではなく、家にはふとんが一組、横になれるオンドルも一つしかなかったが、農民はそんな中でも負傷者の看護や世話を引き受けてくれた。農民も同じ兵士であり、軍隊の兵士も農民兵士も互いに「兄弟姉妹」と呼び合うような親密な関係だったのだ。農民たちは普段からよく軍隊にやって来て、軍を手伝って掃除をしたり、水を汲んだり、食事の支度をしたりしていた。苦い作業ではあったが、農民たちはとても喜んでいた。同じように、秋の収穫期には、今度は軍隊のほうが農民と一緒に畑に出て、農作業を手伝った。
最初は、山辺さんはこうした状況をとても不思議に思っていた。山辺さんには日本の軍隊を恨む気持ちがあったからだ。中国の軍隊と一般の人々とがなぜこんな風に一つになれるのかが、山辺さんには分からなかった。それがある日、一人で「三大紀律八項注意」を真剣に読んでいるうちに、山辺さんは突然そのわけが分かったのだ。軍隊の幹部はよくこんなふうに訓戒を与えていた。「我々の軍隊はとても小さく、民衆の助けがなければ何も出来ず、戦いにも勝利することはできない。民衆が望まないことをし、三大紀律に反したら、非常に厳しい処分を受けることになる」。この時、山辺さんはあの時の兵士がなぜきれいに洗った鍋を返すことができたのかがようやく分かったのだった。
解放戦争が始まると、山辺さんは軍隊とともに移動した。山辺さんが所属していた軍隊は本溪から広州へと向かった。途中、山辺さんは中国の農民を始めとする一般民衆がどれほど人民解放軍を支持しているのかをその目で目撃した。軍隊が行くところではどこでも、山辺さんは熱烈な歓迎を受けた。もともとは数カ月で家に帰れると思っていたが、軍隊では十分に食べることもでき、生活も楽しかったので、時間はあっという間に過ぎていった。中国が解放された後、上層部はようやく山辺さんたちを復員させることにした。1953年3月、8年間もの間中国の軍隊に加わっていた山辺さんは、ようやく日本へと向かう船に乗ったのだった。
帰国後も中日民間友好交流を推進
日本に帰った後、山辺さんは中国での経験を忘れることはなかった。それどころか、山辺さんはこの特殊な経歴の一こま一こまをしばしば思い出した。かつて、山辺さんは日本の侵略者が中国の人々に対して行ったひどい犯罪行為を実際にその目で目撃した。日本は戦争に負けたが、戦争が遺した問題はその後長い間解決されず、日本国内でこの歴史の真相を知る人は多くはなかった。そこで山辺さんは仕事を辞め、あちこちをまわって資料を集め、抗日戦争期の中国人捕虜強制労働の問題、日本が中国に遺棄した化学兵器の問題、細菌戦問題や慰安婦問題についての研究に没頭した。数十年にわたって、山辺さんは疲れを知ることなく、日本各地を奔走し、日本の人々に向かって歴史の真相を伝え続けた。後に、山辺さんは仲間と一緒に「731軍隊展示実行委員会」を設立し、現在までに日本で日本軍731部隊犯罪行為の展示を数十回行っている。また、山辺さんは『日本の中国侵略と毒ガス兵器』などの本を翻訳し、日本人に中国人の被った損害について伝えている。山辺さんは記者にこう語った。「私を育ててくれたのは中国です。中国の発展のために役立つことをするのは、私の望みでもあるのです」。「北京週報日本語版」2010年12月 日


南京大虐殺の1万665人目の犠牲者を確認 「嘆きの壁」に名前が加わる 人民網日本語版 2019年11月30日14:01
中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館は11月29日、微信(WeChat)の公式アカウントで、「当館は最近、周万栄さんが南京大虐殺の犠牲者だったことを新たに確認した」と伝えた。同日午前、犠牲者の名前が表記されている同紀念館内の「嘆きの壁」に周さんの名前が刻まれた。これで、名前が表記されている犠牲者は1万665人となった。中国新聞網が報じた。事件当時まだ10歳だった周さんの娘・陶秀華さん(旧名・周成■、■は女へんに弟)によると、1937年12月14日早朝、旧日本軍の兵士4‐5人が銃を持って家の近くに来て、父親の周さんら4‐5人が見つかってしまい、連れ去られた。陶さんは、5歳だった妹と泣きながら、熱河路から▲江門(▲はてへんに邑)まで追いかけたものの、兵士らに銃を使って追い返されたという。陶さんが周さんを目にしたのはそれが最後だったという。紀念館は公式アカウントで、「82年が過ぎ、周さんの生前の写真を手に入れることはできておらず、彼の姿を知ることはもうできないものの、彼と、彼が経験した災難を私たちが忘れることはない」と綴っている。(編集KN)

「国恥を忘れず 平和を愛する」 日本の無条件降伏74周年記念行事が中国各地で挙行
人民網日本語版 2019年08月16日13:51
日本が無条件降伏を宣言した日から74周年にあたる8月15日、中国各地ではさまざまな記念行事が催され、抗日戦争の歴史を改めて心に刻み、烈士精神を伝承する決意を新たにした。侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館でも、同日、平和集会が開催され、中国・日本・韓国など10カ国以上から平和を愛する人々が駆けつけ、集会に参加した。中国中央テレビ(CCTV)のニュースアプリが報じた。歴史を忘れず、烈士を偲ばなければならない。社会各界の人々は、黒竜江哈爾浜(ハルビン)東北烈士紀念館、遼寧本渓東北抗聯史実陳列館、浙江侵華日軍細菌戦衢州展覧館に、自ら足を運んだ。訪れた人々は、献花や抗日戦争の経験を旧兵士から聴くなどさまざまな方法で、歴史を思い起こし、平和を守る決意を新たにした。(編集KM)

南京で抗日戦争勝利74周年を記念し国旗掲揚式 南京大虐殺犠牲者を追悼 人民網日本語版 2019年08月15日14:05
江蘇省南京市の中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館で8月15日午前8時、国旗掲揚式が厳かに行われ、中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利74周年を記念し、南京大虐殺で犠牲となった30万人の同胞を追悼した。国旗掲揚式には南京各界の代表ら百人近くが参加した。1945年8月15日、日本の裕仁天皇が「終戦の詔書」をラジオ放送で朗読し、世界に「日本の無条件降伏」を宣言した。2019年は中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシスト戦争勝利74周年、南京大虐殺82周年に当たり、また「中日平和友好条約」締結41周年に当たっている。(編集AK)

カナダに 「南京大虐殺犠牲者紀念碑」設置 人民網日本語版 2018年12月14日17:04
カナダの華人・華僑がこのほど、カナダ・オンタリオ州リッチモンドヒルで「南京大虐殺犠牲者紀念碑」の除幕セレモニーを行った。人民日報海外版が報じた。同セレモニーには、カナダの国会議員の代表やカナダ連邦政府、オンタリオ州、トロント市の代表、 駐トロント中国総領事、その他の国の在カナダ大使館の職員、社会団体など各界の代表合わせて約2000人が出席した。(編集KN)

女流作家・張純如の『南京大虐殺』日本語版、ようやく出版へ
日本の「中文導報」によると、米国籍中国人女流作家の張純如が1997年、「南京大虐殺」事件の真相を暴いた歴史著作『南京大虐殺』(英文原作名『The Rape of Nanjing』は世界を震撼させた。だが、「南京大虐殺」を画策し実行した当事国の日本では、特殊な社会的雰囲気と政治的圧力から、日本語翻訳本は98年の出版の過程で頓挫し、その後、出版に至るまで10年という長きにわたり摩訶不思議ともいえる空白を経た。張純如本人は長年におよぶプレッシャーからうつ病となり、04年11月9日に銃を喉に打ち込んで自殺した。36歳という風采、文才ともに盛りの年齢でこの真相不明の世を去ったのは、非常に惜しまれる。         
07年12月13日、「南京大虐殺」事件は70周年記念を迎える。歴史が歩んできたこの長い70年の歳月を記念し、歴史に対する正義感と道徳、勇気に満ちた中国人女性を追憶し、さらには日本社会に1つの完ぺきともいえる歴史証言を提供するため、雌伏10年という出版のタブーを打ち破り、日本の華僑・巫召鴻氏が翻訳し、日本の同時代社が出版する日本語版『南京大虐殺』を世に問うことになった。
翻訳者の巫召鴻氏は1951年に日本で生まれた華僑。長年にわたりコンピューターソフトの仕事に従事している。巫召鴻氏はこう語る。「私の人格は、60年代から70年代にかけて形成されました。そのころ、1つの上の世代が語る戦争体験をよく耳にしましたが、そのほとんどが広島や長崎の原子爆弾のことや、東京大空襲、武勇伝や特攻隊、真珠湾攻撃といったもので、南京大虐殺については語っていませんでした。70年代から、日本人の戦争に対する意識は被害者意識へと偏りはじめ、そして次第に加害者としての視野が曖昧となって、侵略者としての立場を覆い隠すようになりました」
98年、柏書房は『南京大虐殺』を翻訳・出版することにした。その際、社会的影響を配慮して、出版元は日本語の訳文に日本の視点に立った注釈と説明、批判する文言を加えるよう求めたが、張純如本人が反対したことで、出版計画は流産した。これによる後遺症は、『南京大虐殺』はその後の10年にわたって日本の出版界でタブーとされ、だれもがこの敏感な翻訳出版の話題に触れようとしなくなったことだ。だが日本ではなんと、それに合わせるように原作を訂正し、非難し、説明を加え、ひいては厳しく批判する著作が出版されたのである。笠原十九司氏の『南京事件と日本』や、同じ歴史観をもつ本田勝一氏と妬村太一郎氏の対談、さらには原作を全面的に否定する藤岡信勝氏、東中野修道氏が著した『「南京大虐殺」の研究』などだ。
巫召鴻氏は「翻訳出版にいたる経緯」のなかでこう指摘している。「日本語の形で、日本で出版しようとする著作がこともあろうに、四方八方からこのように集中的に非難と批判を浴びた書物は、これまでに1冊もなく、前代未聞のことです」。だからこそ、彼は日本語版の出版によってより多くの人が完全な形でこの本を読み、原作を本当に評価してくれるよう期待しているのだ。
同時代社の川上徹社長は「中文導報」の取材に応じた際、日本語版の出版が紆余曲折を経た過程を語っている。川上氏は06年に巫召鴻氏からの手紙を受ける以前から、日本で『南京大虐殺』を出版したいと考えていた。川上氏は出版界やメディアにいる友人に意見を求め、98年の柏書房による出版の頓挫の経緯を理解したが、慎重に対処して、問題に巻き込まれないようにとの忠告が大半だったいう。それでも川上氏は、日本語の翻訳原稿を読んで、魂のある、力のある、説得力のある作品だと深く感じ取ったという。
川上氏はこう語る。「張女士の原作は大虐殺の本質を暴いています。大虐殺を行った方法や形態など、実質的な問題を詳細に記しており、非常に重視する価値があります。日本の右翼は原作にある細部の誤りを誇大化させて、『偽書』だと指摘しています。日本の出版界も過去10年もの間、なんと「自由な規制」を実行することで、張女士の著作が表した歴史の真相と歴史の声を抹殺したのです。こうしたやり方は誤りです。ですから、同時代社は今春、この本の日本語版を出すことを決めたのです」
川上氏によれば、張女士の原作は3つの点から『南京大虐殺』の真相を解読できるという。第1は当時、事件を自ら経験した日本人の証言を聞いていること。第2は、大虐殺の被害者と生存者である中国人の記憶を記録していること。第3は、当時の「国際安全ゾーン」にいた外国人の記録を掘り起こしたことだ。張女士が初めて見つけ出した「ラーベイ日記」はすでに、「南京大虐殺」について記述する著名な歴史文書となっている。
日本語版『南京大虐殺』は厚さ380頁にのぼる。原作に収められている43枚の貴重な写真を掲載し、原作に遜色はない。日本語版は「南京大虐殺」70周年を記念する12月13日までに書店で発売される予定だ。
川上氏は「張女士は日本人にこの本を読んでもらいたいと切に思い、また日本人とじかに向き合う率直な交流を望んでいました。前者は間もなく実現されます。でも後者については、これからもずっと、残念だったなという気持ちが残るでしょう」と話す。
川上氏によれば、この10年来の日本の政治環境と社会の気風に実質的な変化はなく、ただ右翼による「新歴史教科書」が、民間が選択・使用するにあたって相次いで壁に突き当たり、編纂委員会も内輪もめで平静の傾向にあっても、社会的には依然として『南京』に関する話題はタブー視されているという。「南京大虐殺」70周年が間もなく訪れるが、日本でこれを記念する活動を耳にするのは非常に少ない。龍谷大学の田中宏教授が「2007南京大虐殺70年東京記念証言集会」を組織することにしているが、どこか寂寥感が漂う。そうであれ、張純如女士の遺作『南京大虐殺』日本語版の出版に、日本人の歴史に対する謝罪と愛惜の念を託すことができるのではないか。「北京週報日本語版」2007年12月4日


Sunday, November 10, 2019
「南京と沖縄を結ぶ会」より:南京の通訳ガイドTさんの沖縄での講演レポート Connecting Nanjing and Okinawa
最近、沖縄で平和ガイドをなさっている沖本裕司さんとメールを通じて知り合いました。沖本さんは、「南京と沖縄を結ぶ会」の事務局長で、さる10月16日、南京で日本語通訳ガイドをつとめるTさんの講演会を行ったとのこと。その報告レポートをここに紹介します。
中国・南京のTさん、初めての沖縄訪問 戦跡と基地をめぐり、南京事件の講演会も 2019.10.20  沖本裕司
10月15~18日の日程で、中国・南京市の日本語通訳ガイド、Tさんが沖縄を訪れ、沖縄の戦争と基地の現場をめぐった。ひめゆりの塔と資料館、魂魄の塔、平和の礎、八重瀬岳の第1野戦病院壕跡、那覇市泊の外人墓地、県立博物館屋外展示場、嘉数高台、佐喜真美術館、嘉手納道の駅、チビチリガマ、恨之碑、金城実さんのアトリエ、辺野古浜テント、ゲート前、八重岳野戦病院跡、三中学徒の碑、愛楽園、首里城、豊見城海軍壕を4日間かけて見て回った。
辺野古ゲート前の座り込みと機動隊との攻防を真剣な表情で見つめたTさんは、帰国後、「テント村と座り込みの皆さんの不屈な闘争に心を打たれました。改めて敬意を表したいと思います」とのメッセージを寄せた。
また16日夕には、宜野湾セミナーハウスで「一南京市民が見る‘南京事件’」と題して講演会を開き、‘南京事件’について詳しく語った。会場となった宜野湾セミナーの2階会堂に集まった30人近くの市民を前にして、どうして‘南京事件’が起こったのか、その背景、経過、犠牲の実態などについて話した。語り口は力強く、かつ明瞭にして具体的。大げさな言葉や態度は一切なく、豊富な研究と知識に裏付けられた説明だった。
Tさんの日本語はほとんど独学だという。小学5年生の時、文化大革命が勃発し学校が閉鎖。3年後学校が再開され、5年のまま小学校卒業とみなされ中学に進んだが、しばらくすると、農村への「下放」により南京を離れた。そこで8年間。南京に戻ってくることができた時、すでに20代の半ばだったTさんは日本語で身を立てることを決心し、兄から譲ってもらった日本語の教科書の勉強に取り組んでいったという。握手したとき分かった大きくて固い手は、中国現代史の荒波を生き抜いた独立心と向学心の象徴と思えた。
南京の通訳ガイド・Tさんの話(要旨)
「日本軍の南京占領に伴う捕虜、非戦闘員、一般市民、女性に対する虐殺、放火、強姦、略奪など、日本ではいわゆる‘南京事件’と言われている事柄は、中国では南京大屠殺と言っている。この場では‘南京事件’とよんで話を進めていきたい。南京事件とは、1937年、昭和12年12月13日から6週間にわたる日本軍による非戦闘員の虐殺をいう。
南京事件の前に何があったのか。日中戦争だ。1931年に始まった「満州事件」は1937年に7月の北京、8月の上海と続き、12月の南京に至った。南京は当時の中国国民政府の首都だ。日本政府は当初、南京に手を出す考えを持っていなかった。ところが、上海占領した現地部隊は大本営の命令を無視して独走し戦線を拡大した。大本営は追認した。中支那方面軍の司令官は松井石根大将。兵站、すなわち後方支援なしで南京へ進撃した。その結果、現地調達の略奪、強奪が繰り返され、いわゆる三光作戦、奪い尽くし、殺し尽くし、焼き尽くすという事態が繰り広げられた。上海から南京に至る間にすでにかなりの被害が発生した。これら被害のまとまったデータはない。日本軍との戦争のあと、国共内戦が続き、史料が残されていないからだ。
南京は明の時代に造られた歴史のある城塞都市だ。南京と日本との結びつきも古い。南京豆、南京錠、南京カボチャなど、南京と名の付く日本の言葉も多い。琉球とのつながりもある。攻撃した日本軍は主に、京都の16師団、金沢の9師団、熊本の6師団。中国国民党軍は日本軍と戦った後に南京から撤退し、残ったのは50万人の非戦闘員と敗残兵だ。そして、当時の金陵女子大(現在の南京大)のある地域に難民区が設けられ、保護を求めて20万人が入った。
日本軍の入城式は12月17日に予定された。この入城式に向けて城が陥落した13日から集団的、個別的に「南京大掃除」が始まった。戦後、東京裁判と並行して南京裁判が進行した。犠牲者30万人が定説となっている。日本軍が何をしたか。東史郎という人がいる。彼が一兵士としてつけていた日記をもとにまとめたのが『わが南京プラトーン~一召集兵の体験した南京大虐殺』(青木書店、1987年)だ。
南京には多くの日本人が来訪する。日本人の認識は分かれている、30万人虐殺を認めない人も多い。虐殺そのものがなかったという人もいる。30万人の証明は無理なこと。しかし、その数が仮に10万にしても3万にしても大虐殺の事実に変わりがない。
生存する被害者の聞き取りを一刻も早く進めなければならない。被害者の人々は傷つき苦しんだ自らの体験を、日本からの訪問者に証言したあと、必ず‘来てくれてありがとう’と述べる。しかし、南京を訪問する日本人はほんの一部に過ぎない。多くの日本人は知らないし、南京を訪問しない。今日の会場に、ジョン・ラーベの日記『南京の真実』(講談社、1997年)など、たくさんの文献が参考資料として展示されているのを見て、みなさんの関心の高さに驚いた」
来年3月南京訪問、12月13日映画と学習会
質疑では、「当時8路軍は何をしていたか」「8年前南京の記念館に行ったことがある。制令線について聞きたい」「沖縄戦の第32軍の牛島司令官や長参謀長は中国からやってきた。慰安所を持ち込んだことでも有名だ」などの意見が出された。
南京の日本軍が沖縄戦の32軍の中心を担ったという事実に留まらず、沖縄戦と南京事件とは深く関連している。チビチリガマの惨劇に登場する中国大陸の従軍看護婦・知花幸子さんは、日本軍の残酷極まりない蛮行を見聞きした経験から、「米軍に捕まると男も女も恐ろしい目にあわされて殺される」と吹聴して、住民がガマから出て米軍に投降して生き延びる道を閉ざす役割を果たした。その結果、140人の読谷村波平区の避難住民のうち85人がガマの中で死んだ。大半が12才以下の子どもたちだった。
そのように、沖縄戦のさ中日本軍経験者の男女が各地にいて、米軍に対する敵意と恐怖心をあおったであろう。米軍に対する恐怖心を植え付ける「鬼畜米英」「ヒ―ジャーミーの赤鬼」という日本軍による教育と「生きて虜囚の辱めを受ける事勿れ」という戦陣訓による軍人・軍属・軍経験者の支配が沖縄戦の県民被害を増幅させた。
74~5年前の戦争で廃墟と化し未だ軍事基地の重圧下にある沖縄こそ、日本軍のホロコーストの被害を受けた南京とつながらなければならない。滞在中の意見交換を通じて、来年3月に沖縄から南京を訪問しよう、前段として12月13日に映画と学習会を持とう、ということが提起された。
アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』を読もう
Tさんの沖縄訪問に向けた準備として私は全力で文献を読んだ。日本軍が南京で何をしたのか。日本軍兵士の証言、中国人の証言、外国人の証言などすべてを総合すると、南京事件の全体像がある程度浮かび上がってきた。それは、「日本の中国侵略」と一言で表現するにはあまりにも残酷でおぞましい日本軍による虐殺・略奪・強姦・放火の数々だった。第一線軍部隊の非道悪行を容認し奨励する仕組みが、天皇の名を冠した軍隊の中にあるとしか言いようがない。
アイリス・チャンは在米3世のジャーナリストだ。中国から家族と共にアメリカに逃れた両親から南京大虐殺の話を聞いて育った。1997年に英語で出版し大反響を巻き起こした『ザ・レイプ・オブ・南京』(日本語版は同時代社、2007年)で、アイリス・チャンは無比の情熱をもって、南京事件の全貌を描き出すと共に、次のように指摘した。「南京大虐殺が、ユダヤ人のホロコーストや広島のような明白さで世界に意識されていないのは、被害者自身が沈黙していたからである」。
そして、アイリス・チャンは「忘れられたホロコースト」として、「戦後史がどのような経過を辿ったとしても、南京大虐殺は人間存在の名誉に染み付いた汚点だった。しかし、汚点を特に厭わしくしているものは、歴史がこの事件に対する適切な終焉を全く完遂していないことである。60年が過ぎても、国家としての日本は未だに南京の犠牲者たちを埋めようとしている。1937年のように土の下に埋めるのではなく、歴史の忘却の下に」と告発した。
日本人の当事者意識の希薄に支えられて、戦前の天皇制国家の延長上に国家権力を担う政治家・官僚の居直りが続いている。過去の誤った歴史を直視できないことは日本の不幸だ。まず、南京市民の立場からの包括的な研究書たるアイリス・チャンの著作から始めよう。日本の右翼言論のすさまじい攻撃を受けたことが原因の一つとなったのか、アイリス・チャンはうつ病をやみ36才の若さで自ら命を絶った。この本は彼女の遺作だ。翻訳者・巫召鴻の『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』(同時代社)と共に読むことをお勧めする。次に、日本人の南京訪問の中で生まれた著作として、早乙女勝元編で草の根出版社から出ている『ふたたび南京へ』など数冊。さらに、日本軍兵士の証言は、光文社と晩聲社の『三光』、機関紙出版の『天皇の軍隊』シリーズなど中国帰還者連絡会がいろいろな形で出したものや下里正樹『隠された聯隊史』(青木書店、1987年)、森山康平『証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで』(新人物往来社、1975年)がある。当時南京に住んでいた外国人の証言は、ジョン・ラーベ以外にも、マギー牧師の日記『目撃者の南京事件』(三交社、1992年)やヴォートリンの日記『南京事件の日々』(大月書店、1999年)がある。
南京とのつながりを強めよう。市民レベルのみならず、行政レベルでも、現在日本で名古屋市のみにとどまる友好都市を結ぶ地方自治体を増やそう。南京へ行こう。
進行役は名桜大教員の稲垣絹代さん。稲垣さんはTさんとの出会いと縁について話した。それによると、南京国際交流公司の日本担当だったTさんが受け入れ窓口となって、南京はじめ中国全土の日本軍侵略の戦跡を回り中国の人々と交流を重ねるツアーの案内ガイドを務めたとのことだ。Tさんは30年にわたって日本語通訳ガイドとして活躍してきたという。
Tさんはまず「沖縄は歴史的、文化的に中国とのつながりの強い島だと思う」と切り出し、自己紹介したあと、「私は研究者でも学者でもないが、これまで通訳ガイドとして重ねてきた勉強と経験をお話ししたい」と述べて本題に入った。
<沖本裕司さんプローフィル>
1946年、大阪生まれ。住吉高校卒業。一橋大学中退。1970年、沖縄移住。現在、沖韓民衆連帯メンバー。韓国語通訳案内士。平和ガイド。島ぐるみ八重瀬の会事務局長。南京・沖縄をむすぶ会事務局長。













朝鮮人犠牲者追悼式典が厳戒下、9月1日開催 「事実から目をそらさないために」
本田雅和|2020年9月18日1:53PM
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの虚偽の流布で官憲や自警団に多数が殺された関東大震災から97年。東京・両国の横網町公園では今年も9月1日午前、日朝協会などによる実行委員会主催の朝鮮人犠牲者追悼式典が開かれた。1974年から毎年行なわれてきた式典だが、今年はコロナ禍でネット中継中心になる一方「(追悼碑の碑文にある)六千人虐殺は嘘」などと主張する右派市民団体「日本女性の会 そよ風」が同時間帯に公園内の隣接地で「真実の慰霊祭」の名で対抗集会を開き始めて4年目を迎えたことなどから事前に大きな注目を集めていた。両主催団体の支援者同士の衝突に神経を尖らせていた東京都や警視庁は数百人規模の警察官や警備員を派遣。両集会の間には厳重な柵を築く厳戒態勢だった。追悼式典の参加者らは小池百合子都知事が歴代知事が踏襲してきた式典への追悼文送付を取りやめたことを非難。宮川泰彦実行委員長は「事実から目をそらさせないため毎年こうして式典を開いている」と述べた。時折、右翼団体の声が聞こえてくる中、韓国伝統舞踊家の石香金順子さんが白いチマチョゴリ姿で「鎮魂の舞」を演じた。「そよ風」側はインタビューは拒否したが事前の会場撮影と主張の垂れ幕の撮影には応じた。ただ「六千人虐殺も嘘」との主張が「犠牲者数の規模を問題にしているのか。虐殺自体を否定する趣旨か」との筆者の質問には答えなかった。追悼式には米国から映画監督のオリバー・ストーン氏とアメリカン大学のピーター・カズニック教授が「都知事を含む右翼的歴史否定主義者たちが歴史を歪曲しようとする動きを強めていることを聞き、驚きはしないが、失望している。真実の歴史観のため闘う人々との連帯を強くし、憎悪に基づく犯罪を二度と起こさせない決意のもと被害者を追悼したい」とのメッセージを連名で送ってきた。(本田雅和・ライター、2020年9月4日号)

伊藤詩織さんが杉田水脈議員ら訴訟 中傷ツイートへの「いいね」問題視

小川たまか|2020年9月11日4:38PM
8月20日、ジャーナリストの伊藤詩織さんが、ネット上の誹謗中傷について新たな訴訟を起こした。名誉感情を侵害されたとして、杉田水脈衆議院議員に220万円の損害賠償を求めている。杉田議員は、伊藤さんが元TBSワシントン支局長の山口敬之氏からの性的被害を訴えた件について、ブログで「被害者に全く落ち度がない強姦事件と同列に並べられていることに女性として怒りを感じます」と綴るなど、一貫して山口氏を擁護していた。今回の東京地裁での訴訟で注目されるのは、杉田議員の発言ではなく、特定のユーザーの投稿に「いいね」ボタンを押したことの是非。自身に寄せられた返信のうち伊藤さんを「胡散臭い」「枕営業の失敗」などと中傷したツイートや、伊藤さんを擁護したユーザーに寄せられた「伊藤おばさんは(略)卑怯者」「ニコニコ顔で自分のレイプ体験を語るヤツ」など、合計13ツイートへ「いいね」したことが訴訟対象となっている。提訴にあたっての記者会見で、伊藤さんの代理人・佃克彦弁護士は、「杉田さんのようなフォロワーの多い人に対してはすごく返信がある。杉田さんが一言つぶやくと多くの人が反応する。そういう中で伊藤さんへの誹謗中傷が吹き荒れている」と話した。「いいね」は一般的に賛同の意味を示すボタンとされ、これを押すとフォロワーのタイムラインにそのツイートが表示される場合があることから、拡散目的で使う人もいる。杉田議員には当時約11万人(現在は18万人以上)のフォロワーがおり、その影響力の大きさによっていわば誹謗中傷を「煽動」したことを問う裁判となる。また、「伊藤詩織って偽名じゃねーか!」とツイートした元東京大学特任准教授の大澤昇平氏には名誉毀損にあたるとして、110万円の損害賠償を請求。訴状では「『伊藤詩織』は原告の本名で、別の名前はありません」と述べた。(小川たまか・ライター、2020年8月28日号)

コロナ禍の8・15靖国集会  中国批判強まる 2020年9月10日4:31PM
敗戦から75年の2020年8月15日、東京・千代田区の“靖国神社”の光景は例年とは違った。感染症対策として整列させられるも、前後左右の間隔は数十センチ程しかない「密」状態の参拝客が長蛇の列をなす一方、大村益次郎像横の参道で毎年午前に開催されてきた「日本会議」と「英霊にこたえる会」主催の「戦歿者追悼中央国民集会」はオンライン開催(神社内の啓照館から中継)となり参道は閑散とした雰囲気だった。同集会では、登壇者らが新型コロナウイルスについて「武漢ウイルス」「武漢肺炎」との表現を多用。例年より中国批判が強まり、その文脈の中で憲法改正が訴えられた。同集会冒頭には、個別参拝を終えた衛藤晟一領土問題担当相が駆けつけ「(中国から)尖閣諸島を守るため」、日本が実効支配を明らかにすることが「日本を守って散華された多くの御霊に対する私たちの責任」と主張。自民党の有村治子参議院議員も「(中国は)国際秩序を塗り替えようとする意図すら隠さなくなった」と“脅威”を強調した。ビデオ出演した作家の百田尚樹氏は「中国がたびたび領海侵犯しても断固とした態度がとれないのはすべて日本国憲法のせい」だと憲法改正を訴えた。「英霊にこたえる会」寺島泰三会長と「日本会議」百地章政策委員会代表は有事対応のため緊急事態条項を憲法に明記すべきとした。夕方には靖国通りで恒例の「反靖国」デモ(今年は「国家による『慰霊・追悼』を許すな!8・15反『靖国』行動」主催)と、これに「抗議」する「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などの街宣があった。街宣で「在特会」八木康洋会長は「一応、(「反靖国」デモ隊に鋭利な刃物や爆弾などを投げるのは)やめてください」としつつも「(警察の)カメラのないところで人混みに紛れてやる分にはバレないかもしれない」と、攻撃を煽動するような発言をした。(本誌取材班、2020年8月21日号)


小池都知事、コロナ対応都条例を専決処分で改定  ヒトラー授権法並みの“独裁”
伊田浩之|2020年8月28日1:11PM 東
東京都の小池百合子知事は7月30日、新型コロナ対応の都条例を改正し、飲食店や遊興施設が感染防止策を講じていることを示す「感染防止徹底宣言ステッカー」の掲示を8月1日から義務化した。罰則はないが、専決処分として決定したことで議会軽視、行政独裁との批判が出ている。小池知事は4月7日、都新型コロナウイルス感染症対策条例を専決処分で新設した。都民や事業者の責務は、▼予防に努める、▼都の対策に協力するよう努める、▼り患またはり患しているおそれを理由に不当な差別的取扱いをしてはならない──など抽象的だったが、今回はさらに踏み込んだ。都議会自由民主党は7月30日、鈴木章浩幹事長が談話を発表。同日の都議会災害対策連絡調整本部会議で改正案文が示されなかったことを明らかにし、〈非常事態であればあるほど、都の条例提案に関する十分な審議、条例を踏まえた事業の実効性を確保する事前の準備と言う基本を踏まえた、透明性のある行政手続きが必要〉と警鐘を鳴らした。共産党都議会議員団も同日、和泉なおみ幹事長談話を出し、〈条例では、「努める」となっているものの、知事は記者会見で「義務化」と強調し、従うよう強く求めました。これでは、構造上むずかしいことなどにより、ステッカーを貼るためのガイドラインを守りたくても守れない店舗・事業者は、事実上排除されることになります〉と強く批判した。法政大学法学部の山口二郎教授は「専決処分の駆使は、ヒトラーが『授権法』で立法権を手に入れたのと同じ独裁的な手法。議会無視で、小池氏の体質が出ている。論理や科学的知見に基づく政策がなく、行動規制の実施が強いリーダーだと勘違いしている」と、政治手法を批判している。小池氏の手法横行を許していれば、次は罰則付き条例が専決処分されるかも……。(伊田浩之・編集部、2020年8月7日・14合併号)


愛知県知事リコール運動に市民らが反対 「歴史改竄主義者の暴走許すな」
高橋良平|2020年8月25日6:56PM
昨年開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は歴史改竄主義などによって「検閲」され表現する機会を奪われた「平和の少女像」を含む作品を集めた企画展だった。高須克弥氏と河村たかし名古屋市長らは、ここに「天皇・特攻隊を侮辱」した「反日」作品が展示されていたとし、それをトリエンナーレ実行委員会会長の大村秀章愛知県知事が開催・再開したのは許せないと、今月中旬から大村知事へのリコール(解職請求)運動を開始。リコール成立には県内有権者約613万人のうちから約87万筆の署名を2ヵ月以内に集めて投票を行ない、投票で過半数が解職に賛成する必要がある。高須・河村両氏は南京大虐殺・旧日本軍性奴隷制度という「歴史の事実」を否定する歴史改竄主義者だ。だからこそ彼らは「表現の不自由展・その後」を全力で攻撃し、憲法で義務付けられている「表現の自由」を尊重するという自治体の長として当然の姿勢を見せた大村知事を執拗に攻撃するのだ。これは昨年の企画展への脅迫・圧力の背景と同じ性質のものだ。河村市長は、名古屋市のトリエンナーレ負担金の一部を契約に反して不払いとし、現在愛知県は名古屋市に対し裁判でその支払いを求めている。この裁判がリコール運動の大きな理由となっている。歴史改竄主義は基本的人権と民主主義を破壊し、私たちに分断と差別をもたらす。解職が成立する可能性は極めて低いが、コロナ禍にあっても自らの政治的パフォーマンスを優先させる河村市長の姿勢共々、看過することはできない。私たちはコロナ感染予防を講じつつ街頭・地域でリコール反対声明への賛同署名集め(ウェブサイト「Change.org」でも署名可能)やリコールに協力しないよう呼びかけている。(高橋良平・「表現の不自由展・その後」をつなげる愛知の会、2020年8月7日・14合併号)

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