日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Toronto: commémorations du 83e anniversaire du Massacre de Nanjing=2020/12/13/南京大虐殺から83年 ずっと忘れない/Peace Philosophy Centre제주의 친구들에게 보내는 연대의 메시지 A Solidarity Message to My Friends in Jeju/Prime Minister Justin Trudeau recognized the importance of remembering the Nanjing Massacre

南京大虐殺犠牲者国家追悼日の追悼式典が13日に南京で開催  
人民網日本語版 2020年12月12日11:23
今月13日は南京大虐殺犠牲者国家追悼日。南京大虐殺の犠牲者や日本帝国主義による中国侵略戦争期間中に侵略者に殺害された全ての犠牲者を追悼し、侵略戦争が中国の国民、ひいては世界の人々にもたらした大きく深い傷をしっかりと記憶にとどめ、南京市の全ての市民の大虐殺の犠牲者に哀悼の意を示すべく、同日午前10時から、追悼式典が開催される。人民日報アプリが報じた。
10時1分から2分までの1分間、空襲警報のようなサイレンが鳴らされ、市の主な中心地の道路(高速道路、環状高速道路、高架、トンネルは除く)を走行中の自動車両(緊急任務遂行中の特殊車両は除く)は、停止して警笛を鳴らし、亡くなった人たちへの哀悼の意を表さなければならない。列車や船舶も警笛を鳴らし、道路上の歩行者や公共の場にいる全ての人(特殊生産作業中の作業員は除く)も黙祷を奉げる。そして、1分後にそれぞれ元の活動に戻る。(編集KN)
南京大虐殺から83年 ずっと忘れない    人民網日本語版 2020年12月14日15:01
83年前の12月13日、旧日本軍が南京を占領。約40日間にわたる殺害、暴行、放火により、市民30万人以上が虐殺された。これは平均すると12秒ごとに一人の中国人が殺害された計算になる。中央テレビニュースが報じた。
1937年末、南京に進攻した旧日本軍は、中国人兵士と一般市民を下関の河岸に連行して射殺。死体が岸辺を埋め尽くすという、ぞっとするような残忍な光景が広がった。
今月13日は7回目を迎えた南京大虐殺犠牲者国家追悼日で、中国は国を挙げて殺害された全ての犠牲者を追悼した。
それは、憎しみを抱き続けるためにではなく、「強くならなければならない」と呼びかけるためだ。
南京大虐殺 生存者はわずか73人に
今年、南京大虐殺の生存者4人がまたこの世を去った。現時点で、リストに登録されている生存者はわずか73人となった。
11月25日、中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館で南京大虐殺遺族慰霊祭が行われ、生存者の夏淑琴さん、葛道栄さん、石秀英さんら9人の家族25人が亡くなった家族ら犠牲者を追悼した。83年の年月が経ったものの、当時のことを振り返ると、高齢になった生存者たちは依然として胸を締め付けられるような悲しみを蘇させている。
艾義英さん(92)は、「犠牲者の名前が刻まれている嘆きの壁の父親の名前を見ると、涙があふれてくる」と話す。夏淑琴さん(91)は、「8歳の時に、家族が殺害され、私はなんとかそこから脱出した。家族たちに会いたい。その死はあまりに残酷だった。今後、何回慰霊祭に参加できるか分からないが、生きている間に、日本政府が私に直接謝罪してくれたら、心が落ち着くのだが」と語る。中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館で開催された「南京大虐殺史実展」では、11月20日の閉館までの62日の間に、来場者2万550人がメッセージを寄せ、そのメッセージノートを重ねると高さは148センチにもなる。

Wednesday, December 16, 2020
南京大虐殺を記憶する日に―済州島の友たちへのメッセージ 제주의 친구들에게 보내는 연대의 메시지 A Solidarity Message to My Friends in Jeju
Below is my solidarity message to the friends of Jeju Island, Korea, who held the annual gathering to remember the victims of the Nanjing Massacre, at former Alddreau Airfield on December 13.
12月13日は「南京大虐殺を記憶する日」でした。新型コロナウィルスで戦争記憶の集会なども中止や縮小が相次ぐ中、韓国の済州島では、南京大虐殺83年を記憶し、被害者を追悼する集会が、元日本海軍のアルドゥル飛行場の格納庫前で行われました。1937年8月15日から始まった南京空爆の起点の一つであった場所です。過去2年、カナダから連帯メッセージを送りましたが、今年は、日本にいたため、日本からのメッセージとなりました。英語で送ったメッセージを韓国語で読んでもらった映像がここにあります。動画の下に英語版、韓国語版が続きます。英語版には日本語対訳をつけました。
A Solidarity Message to my friends in Jeju  済州島の友たちへ
This December marks the 83rd anniversary of the Nanjing Massacre, in which hundreds of thousands of Chinese POWs and civilians were unlawfully and brutally massacred, raped, and deprived, for weeks and months from the beginning of December 1937 till around the end of March 1938 under the occupation of the Imperial Japanese Army. この12月は南京大虐殺の83周年です。南京は大日本帝国軍の占領下、1937年12月から翌年の38年の3月にわたり、何十万もの中国の捕虜や民間人が違法に、かつ残虐に、殺害され、強姦され、略奪の被害を受けました。
In Japan, there have been many commemorations, TV programs and publications to mark the 75th anniversary of the end of the Asia-Pacific War and WWII, but most of them focus on the last stage of the war where people in Japan suffered from the aerial bombings of the country including the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki. People in Japan remember August 6 and 9. Then August 15, the “end of the war” anniversary in which Emperor Hirohito announced his surrender to the Allied Nations on the public radio in Japan. 日本では、アジア太平洋戦争と第二次世界大戦終結75周年を記憶するさまざまな催しがあり、テレビ番組や出版物も多くありましたが、それらのほとんどは、広島長崎の原爆投下を含む、戦争の末期に主に日本の人々が受けた被害に焦点を当てたものでした。
That’s it. Beyond “August 15,” they don’t think about the war any more and just move on with their lives. This is the war memory of the vast majority in Japan, lacking any critical reflection on the over seven decades of colonial rule and imperial expansion of the Empire of Japan against its fellow Asian countries. そして、それで終わってしまうのです。「8月15日」以降は、戦争のことを忘れてしまい日常に戻ってしまうのです。これが大半の日本人の戦争記憶であり、70年余にわたり同じアジアの国々に対し植民地支配と帝国主義的拡大を行った大日本帝国を批判的に振り返ることはありません。
In fact, “August 15” has another significance that most Japanese people don’t know. On August 15, 1937, twenty Mitsubishi G3M bombers (九六式陸上攻撃機)of the Imperial Japanese Navy left the Omura Airfield in Nagasaki, crossed the East China Sea, and attacked Nanjing. According to military historian Maeda Tetsuo, it was the first of such “cross-ocean bombing mission” ever conducted in human history. It was very ironical that Nagasaki, eight years later, became the target of the “cross-ocean bombing mission” conducted by the United States, which was the atomic bombing of the city. 「8月15日」はほとんどの日本人が知らないであろう別の意味もあります。1937年8月15日、日本海軍の20機の九六式陸上攻撃機が長崎の大村海軍航空隊基地から飛び立ち、東シナ海を渡って南京を爆撃しました。軍事評論家の前田哲男氏によると、これが人類史上の「渡洋爆撃」だったということです。この8年後に、長崎が米国によって行われた「渡洋爆撃」、つまり原爆投下の標的になったのは大変皮肉と言える出来事でした。
Again, people in Nagasaki remember August 9 and their suffering from the atomic bomb, but hardly ever remember that Nagasaki was the launching point of the Japanese aggression against Nanjing, months prior to the well-known Nanjing Massacre. People of Jeju have been holding annual memorials for the victims of the Nanjing Massacre just because Alddreu Airfield was also used for the Japanese aerial attacks against Nanjing. Korean people were victims of the Japanese colonial rule then and bore no responsibility for the Japanese war atrocities, but the people of Jeju in the current time still feel their moral obligation to remember the massacre. 上で述べたように、長崎の人も、原爆による被害と原爆投下日の8月9日のことは記憶していますが、よく知られている南京大虐殺が起こる数か月前から始まっていた、日本軍による南京攻撃の起点であったということを記憶する人はほとんどいません。済州島の人たちは、アルドゥル飛行場も日本軍による南京攻撃に使われたことから、毎年南京大虐殺の被害者を追悼する集会を開いています。そもそも韓国人は日本の植民地支配の被害者だったわけですから、日本の戦争犯罪に対し何の責任もありません。それなのに、現在の済州島の人たちが、この大虐殺事件を記憶する道徳的責任を感じているのです。
I think people in Nagasaki, and all across Japan, should humbly learn from this example of highest moral practice. You have my highest respect. I wish I were in Jeju with you to commemorate the 83rd anniversary together. Instead, allow me to extend my heart, and send my sincere solidarity message from Tokyo, across the East Sea, to Jeju Island. 長崎、そして日本全土の人々は、この最も高潔な行為から謙虚に学ぶべきと思います。私はみなさんに最大の敬意を表したいです。この83年の記念日を、済州島でみなさんと共に迎えることができたらどんなによかったかと思います。しかしそれはできないので、替りに、東海を超えてみなさんに思いを馳せ、心からの連帯のメッセージを送りたいと思います。
December 6, 2020  Satoko Oka Norimatsu  乗松(岡)聡子  Director, Peace Philosophy Centre ピース・フィロソフィーセンター代表  Vancouver, BC, Canada カナダBC州 バンクーバー (Currently in Tokyo, Japan 現在は日本の東京にて)
제주의 친구들에게 보내는 연대의 메시지
올해 12월은 난징대학살 83주년이 됩니다. 중국의 전쟁포로들과 민간인들 수십만 명이 1937년 12월부터 몇 주에서 몇 달간 불법적이고 잔인하게 학살되고, 강간당하고, 삶을 박탈당해야 했습니다. 이 대학살은 일본 천황군의 점령하에서 1938년 3월까지 이어졌습니다.
일본에서는 아시아-태평양전쟁 그리고 제2차 세계대전의 종전 75주년을 기념하여 많은 추모행사가 진행되었고, 텔레비전 방송 프로그램과 출판물이 제작되었습니다. 하지만 이들 대부분은 나가사키와 히로시마 등 전쟁 말기 일본인들이 공중폭격을 당해 고통스러워 하던 모습에만 초점을 맞췄습니다. 일본인들은 1945년 8월 6일과 8월 9일을 기억합니다. 그리고 8월 15일을 히로히토 천황이 연합군에 일본 공중파 라디오를 통해 항복을 선언한 ‘종전일’로 기억합니다.
그게 전부입니다. ‘8월 15일’을 넘어서서 일본인들은 더 이상 전쟁을 생각하지 않습니다. 그리고는 그저 자신의 삶을 살기 바쁩니다. 이게 거의 대다수 일본인들이 전쟁을 기억하는 방식입니다. 전쟁 전 70년간 동료 아시아인들을 통치하며 아시아에서 확장해나갔던 일본 제국주의 지배에 대한 비판적 고찰은 일본에서 매우 부족합니다.
사실 ‘8월 15일’은 대부분 일본인들은 잘 모르지만 또 다른 면에서 큰 의미가 있습니다. 1937년 8월 15일 일제 해군 소속의 미쯔비시 G3M 폭격기가 나가사키 오무라 기지에서 출발해 동지나해를 지나 난징을 폭격하였습니다. 군역사 전문가 마에다 테츠오 씨에 따르면 인류 역사상 이 폭격이 처음으로 대양을 횡단해 이뤄진 폭격이었다고 합니다. 이율배반적이게도 나가사키는 그로부터 8년 후 미국에 의한 ‘대양 횡단 폭격’의 목표지점이 되어버립니다. 그것은 원자폭탄의 투하였지요.
나가사키 시민들은 8월 9일의 원폭 투하와 그로 인한 고통을 기억합니다. 하지만 나가사키에서 난징에 대한 일제의 폭격이 시작되었다는 사실을 기억하는 이는 거의 없습니다. 난징에 대한 폭격이 있은지 몇 달 후 잘 알려진 난징대학살이 일어났지요. 제주 사람들은 알뜨르비행장이 일제에 의한 난징 폭격에 사용되었기 때문에 난징학살의 희생자들을 추모하며 매년 추모행사를 열어오고 있습니다. 한국 사람들 역시 일본 식민지배의 희생자였고, 일본이 저지른 전쟁범죄에 대한 책임이 없었음에도 제주 사람들은 여전히 난징대학살을 기억하며 도덕적 의무를 잊지 않으려 합니다.
제 생각에 나가사키 시민들과 나아가 전 일본인들이 이와 같은 높은 도덕적 책무에서 교훈을 얻어야 한다고 봅니다. 여러분들을 저는 매우 깊이 존경합니다. 제주에 가서 저도 여러분들과 함께 난징대학살 83주년을 기억할 수 있다면 얼마나 좋을까요. 그대신 저의 마음만을 받아주시기 바랍니다. 그리고 일본 도쿄에서부터 동해를 건너 제주에 이르는 제 신실한 연대의 메시지를 받아주시기 바랍니다.
2020년 12월 13일  사토코 오카 노리마츠  평화철학센터 소장  캐나다 밴쿠버  (현재 일본 도쿄 거주)

*Tetsuo Maeda前田哲男(Tetsuo Maeda(福岡県出身, 1938 September 28, [1] -) is Japan of journalists and military critic [2] . Former professor at the Faculty of International Relations, Tokyo International University , and visiting professor at Okinawa University . Specializes in military and security theory. 마에다 테츠오前田哲男 (마에다 테츠오, 1938 년 9 월 28 일 [1] -)는 일본 의 저널리스트 · 군사 평론가 [2] . 전 동경 국제 대학 국제 관계 학부 교수 , 전沖縄大学객원 교수 . 전문 군사 안전 보장론.


南京事件を学ぶ 南京大虐殺の歴史の否定は許されません 乗松聡子 
2018年11月1日 第44号

私はカナダに高校時代も含め通算23年住むジャーナリストです。「日系人が南京大虐殺記念日に反対するのは、例えばドイツ系がホロコースト記念日に反対するのと同じであり、おかしいのではないか」という問題意識でケベック州からBC州までの日系人が集まり、「Japanese Canadians Supporting Nanjing Massacre Commemorative Day南京大虐殺記念日を支持する日系カナダ人の会」を作りました(https://nanjingmemory2018.wordpress.com英語対応)。
大学教授や医師、教師、学生や社会活動家など、カナダでいろいろな背景を持つ人たちが加入しています。名前を公表しているのは作家のジョイ・コガワ氏と私などですが、私に対しては、最近、インターネットや、日本語紙などで、批判が強まっているようです。9月19日には東京で「南京大虐殺はなかった」というテーマの集会が開かれました。現役の国会議員数人が登壇し、政府や保守系政治家たちが、カナダの記念日設定を阻止しようとしている様子がよくわかる集会だったようですが、そこでも私や私の仲間を名指しで批判する議員がいました。
南京大虐殺記念日の是非についてはさまざまな意見があっていいと思います。これに反対する期成同盟のリーダーの方も、7月11日に日系ヘリテージセンターで開催された集会で、「日系人がみな反対しているわけではない」と述べています。ただ、私が一番気になるのは、この記念日に反対する人の中に、「南京大虐殺はなかった」という歴史修正主義者の言説に沿って、歴史自体を否定している人が少なからずいることです。歴史の否定だけは許されません。
南京大虐殺は動かせない史実です。日本政府も、「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。」と外務省のHPに記しています。これは、捕虜の大量処刑や、蔓延した性暴力のことに触れていない不十分な記述とはいえますが、政府も認めているのです。2006年9月に第一次安倍政権が発足してすぐ、首相は中国に赴き胡錦涛主席と会談、その年の末には「日中歴史共同研究」を発足させました。2010年に発表された日本側の専門家による報告書には、「日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20万人以上(松井司令官に対する判決文では10万人以上)、1947年の南京戦犯裁判軍事法廷では30万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究 では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている。このように犠牲者数に諸説がある背景には、『虐殺』(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している。」とあります。
日系人はカナダ総人口の約1%、その中で日本語を使う人はさらに少数派です。この記念日制定は私たちカナディアン全体の問題ですので、人口の1%にも満たない人々にしか届かない言語だけで議論するのではなく、カナダの公用語を使って、開かれた議論をしませんか。特に日本語紙やインターネットで、自分は匿名を保ちながら私を名指しし、強圧的な言葉を使って批判するようなやり方は、受け取る方には脅迫と取れます。このようなことが続く場合、しかるべき公共の人権侵害窓口に相談しようと思います。相手へのリスペクトを保ちながら議論をしましょう。
7月にウィニペグのカナダ人権博物館を訪れました。ここの「沈黙を破る」セクションでは、連邦議会がこれまで承認した、カナダ国外で起きた5つの大量虐殺事件―アルメニア人大虐殺(1915年)、ホロドモール(1932―33)、ホロコースト(1933―45)、ルワンダ大虐殺(1994)、スレブレニツァの虐殺(1995)―について学ぶことができます。説明版では、「カナダでは、人々は人権侵害についてオープンに話す自由がある。カナダ人は、この自由を使い、世界中で行われてきた極端な暴力行為や非人道的行為について注目してきた。関心を持つカナダ人たちが連邦議会を動かし、5つの大量虐殺事件を『ジェノサイド』と承認するに至った。(中略)このような正式な承認によって、カナダは一つの国として声を上げている。隠蔽され、過小評価され、否定されてきた恐ろしい犯罪を白日の下にさらし、非難するのだ。」と明示しています。この博物館ではもちろん、先住民や日系カナダ人など、カナダ国内の人権侵害を重点展示しています。内外の人権侵害を広く知らしめ、歴史から学び、現在の人権侵害をなくすために、訪れる人を教育する優れた博物館です。
「西側」に視点が行きがちなカナダの歴史記憶が、アジア移民の増加もあり、次第に東アジアにも目を向けて行くのは自然の成り行きでしょう。
きたる12月11日の夜、ダウンタウンで、南京大虐殺追悼集会を開きます(詳細は後日)。ぜひお越しください。
のりまつ・さとこ
オンライン英字ジャーナル Asia-Pacific Journal: Japan Focusエディター。近著に、編著『沖縄は孤立していない 世界から沖縄への声、声、声』(金曜日)など。2006年以来、8月には日米の学生の広島・長崎の旅に講師・通訳として同行する。



↑Vancouver Shinpo: 3735 Renfrew St. Vancouver, BC V5M 3L7 Fax: 604-431-6892 E-mail: editor@vshinpo.com+追加参考資料(ネトウヨ→):(1)、カナダで反日活動をする日本人 2018.11.23 反日の実態 乗松 聡子, Les Japonais mènent des activités anti-japonaises au Canada 2018.11.23 La situation réelle de l'anti-Japon , Norimatsu Satoko 캐나다에서 반일 활동을하는 일본인 2018.11.23 반일의 실태 ,乗松사토코(2)、Oct 6, 2020 — 反日の「ピース・フィロソフィー・センター」の顔が怖い乗松聡子代表がNHK広島放送局に乗り込み、「ひろしまタイムライン」の「朝鮮人」 ...L'anti-japonais Satoko Norimatsu est monté à bord de la NHK Hiroshima pour demander la suppression du "coréen" 반일의 乗松 사토코가 '조선인'삭제를 요구 NHK 히로시마에 탑승(3)、反日活動家の乗松聡子が、カナダで「南京大虐殺を記憶する日」Jun 14, 2018 — 南京事件を「ジェノサイド」だと主張する反日活動家の乗松聡子が、カナダで「南京大虐殺を記憶する日」を制定するべく暗躍してますね。Le militant anti-japonais Satoko Norimatsu "se souvient du massacre de Nanjing" au Canada 반일 활동가의 乗松 사토코가 캐나다에서 '난징대 학살을 기억하는 날 "【杉田水脈のなでしこリポート(23)】沖縄の基地反対運動 ...Dec 18, 2016 — 11月17日にカナダ・バンクーバーの中心地で、反日集会が開かれる ... この女性は琉球新報などにコラムを連載している乗松聡子氏でした。

Toronto: commémorations du 83e anniversaire du Massacre de Nanjing  Mis à jour le 15. 12. 2020 
Des associations de Chinois d’outre-mer au Canada ont organisé des cérémonies pour marquer le 83e anniversaire du Massacre de Nanjing perpétré par l’Armée impériale japonaise le 13 décembre 1937.


Нанкин, 05:24  19 декабря 2020 / ИА Красная Весна
В Китае скончался один из немногих оставшихся выживших в Нанкинской резне
Выживший в Нанкинской резне Хэ Сяохэ ушел из жизни в городе Нанкине на востоке Китая в возрасте 91 года, сообщает 18 декабря агентство Синьхуа.




南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰 2019年9月2日
ベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏は、セメント工場の警備員だった。しかし中国では「輝けるブッダ」や、「デンマーク人の英雄」と呼ばれている。
シンドバーグ氏は、1937年に旧日本軍が中国東部の南京に侵攻した際に起こした虐殺から、何千人もの中国人を救った。ただ、デンマークではやっといま、国民的英雄の待遇を受ける。彼の銅像が建てられ、8月31日に除幕式を迎えた。シンドバーグ氏の死から36年近くたっての式典だった。
高さ3メートルの銅像は南京市からシンドバーグ氏の故郷であるオーフス市に贈られたもので、中国の尚荣氏と傅礼城氏、デンマークのレネ・デスメンティク氏の3人のアーティストの共同制作。除幕式には女王マルグレーテ2世も参加した。シンドバーグ氏の勇敢な行動は、1200人のユダヤ人を工場で雇用してナチスドイツのホロコーストから救い、映画にもなったオスカー・シンドラー氏とも比較されている。
オーフス市のアーカイブを管理しているソレン・クリステンセン氏によると、シンドバーグ氏は当時、南京郊外のセメント工場でドイツ人とともに警備員として働いていた。シンドバーグ氏はこの工場に、6000~1万人の市民をかくまい、治療などをほどこしたという。
中国は、シンドバーグ氏に助けられた市民は約2万人に上るとしている。
クリステンセン氏は、シンドバーグ氏は「完全に忘れ去られ、貧困のうちに亡くなったが、デンマーク最大の英雄かもしれない」と語った。同僚だったドイツ人のカール・ギュンター氏も、中国人のために仮設のキャンプや病院を作ってシンドバーグ氏を助けたという。
2人が働いていた工場は、デンマークのFLスミスという企業が建てたもので、シンドバーグ氏は1937年12月に雇われた。日本の南京侵攻の直前だった。旧日本軍はその後、6週間にわたって南京で暴挙を繰り広げた。捕虜や市民を拷問し、レイプし、殺害した。この虐殺による死者は30万人に上るとみられている。
被害者の多くは女性や子どもだった。レイプされた女性は約2万人に上るとされる。
多くの中国人目撃者に加え、シンドバーグ氏のような現地にいた西洋人も、この残虐行為を記録している。一方、日本の政府関係者や歴史学者は戦後、死者数について異論を唱えており、中国側を怒らせている。
シンドバーグ氏は空爆の標的にならないよう、セメント工場の屋根にデンマークの国旗を描いた。また、ギュンター氏とともに、デンマーク国旗とドイツ国旗を工場の周りに並べ、日本軍が立ち入らないようにした。当時、日本はデンマークやナチスドイツとは友好関係にあったため、両国の国旗には敬意を示していた。
シンドバーグ氏についての著書があるペーター・ハームセン氏は、「戦争の前、シンドバーグ氏に特別なことは一切なかった」と話した。「身長は172.5センチと、1930年代後半のデンマーク人男性の平均。学校での成績も普通だった。しかし1937~38年、南京の暗い冬の間に、普通でないことが起きた。日本軍のひどい残酷さを目の当たりにして、シンドバーグ氏は何かしようと決めた」
シンドバーグ氏を知る人の証言
当時15歳の少年だった周仲兵氏は、「デンマーク人が作った難民キャンプがあった。キャンプには警備員がいて周辺をパトロールしていた。日本人がきて騒ぎを起こすと、デンマーク人がやってきて止めに入った」と話した。
ハームセン氏が取材した別の中国人女性、郭十妹氏は1937年当時25歳の農婦だった。
「日本人が難民キャンプに来ても、外国人(シンドバーグ氏)が外へ行って話してくれた。少しすれば彼らは立ち去った」
「日本人が女性を求めて来ると、その外国人は(デンマークの)国旗を掲げた。それで少し会話をすると、日本人はきびすを返して去って行った」
シンドバーグ氏は友人への手紙に、南京大虐殺のショックをつづっている。
「そこら中にどれだけの血が流れているか想像もできないと思う。8月以降、私は戦争の恐怖をいやと言うほど知る機会に恵まれた。血、血、そしてさらに血だ」
南京大虐殺を調査している中国人ジャーナリストの戴袁支氏は、セメント工場の難民キャンプの環境は劣悪だったと指摘する。
「多くの人々が隣り合って立ったり座ったりしていた。小屋は密接していて、トイレのためのスペースすらなかった」と中国の新聞・深圳日報に書いている。
シンドバーグ氏の生涯
シンドバーグ氏は基礎教育しか受けていない。10代前半で退学して海外へ行き、船でさまざまな仕事に就いていた。1931年にはフランスの外国人部隊に入隊したものの、数カ月で離れている。
中国には1934年にたどり着いた。デンマーク製のライフルの実演を行っていたが、その後、イギリスの外国特派員フィリップ・ペンブローク・スティーヴンス氏の運転手となった。スティーヴンス氏は1937年11月、旧日本軍の上海侵攻を取材中、日本の機関銃で殺された。
シンドバーグ氏は南京で目撃した惨劇を記録し、その直後にアメリカに渡った。
第2次世界大戦ではアメリカの商船隊に入隊していた。その後はカリフォルニアに住み、南京での悲劇についてはほとんど語らなかったという。
シンドバーグ氏は1983年に亡くなっている。
南京の追悼施設では、シンドバーグ氏にちなんだ黄色いバラが育てられ、シンドバーグ氏の英雄的行為が称えられている。このバラは、デンマークのロザ・エスケルンド氏によって開発された。
ハームセン氏はBBCの取材に対し、シンドバーグ氏は「中国の難民に対して扉を開けたことで、比ゆ的に、自分自身の心の扉も開けたのだと思う」と話した。
「それがシンドバーグ氏の物語を普遍的なものにしている。それは、極限状態にいる人間にとって何が大事なのかということだ。巨大な不正を前にした時、自分がどう反応するかなど誰にも分からない。目をそらすのか、隠れるのか、それとも行動を起こすのか?」

「幸運なことに、ほとんどの人はこういう試練に向き合うことはない。シンドバーグ氏は立ち向かわなくてはならなかった。そして合格した」


ベルンハルト・アルプ・シンドバーグ(デンマーク語: Bernhard Arp Sindberg、中国語: 伯恩哈尔·阿尔普·辛德贝格、1911年2月19日 - 1983年)[1]は、デンマーク出身の実業家。南京戦の際にドイツ人のカール・ギュンターと難民を保護した[2]Berhard Arp Sindberg (19. februar 1911 i Aarhus – 1983 i USA) af kineserne også kaldet "Mr. Xin",[1] "vor frelser", [1] "den skinnende Buddha"[1] og "den største dansker",[1] var født i Aarhus og drog ud i verdenen som 17-årig og levede det meste af sit liv i USA, hvor han også døde. 贝恩哈尔·阿尔普·辛德贝格(丹麥語:Bernhard Arp Sindberg,1911年2月19日-1983年),丹麦人。被南京人称为“辛先生”、“辛波”[1]。辛德贝格在南京大屠杀中面对日军暴行并不退缩,他用照片和信件记录了当时的惨状[1]。他和卡尔·京特在南京栖霞山附近的江南水泥厂设立的难民营至少拯救了超过六千名中国人的生命[2]。





*Mio Sugita (杉田 水脈 Sugita Mio, née le 22 avril 1967) est une femme politique japonaise. Elle est membre du Parti Libéral Démocrate du Japon et membre de la Chambre des Représentants pour le 6e district de Hyogo1.

*Yoshiko Sakurai櫻井よしこ, née le 26 octobre 1945 à Hanoï, est une journaliste japonaise travaillant en indépendant. Pendant longtemps, elle a été présentatrice dans les journaux télévisés de Nippon Television. Originaire de la ville de Nagaoka (préfecture de Niigata), elle est licenciée d'histoire de l'université de Hawaii. Aujourd'hui, elle est à la tête de l'Institut des Questions Fondamentales de l'État, think-tank privé localisé au Japon.
*Nadeshiko Actionなでしこアクション est un groupe civique japonais centré sur les femmes . Le but est de résoudre le problème du confort des femmes . Le représentant est Yumiko Yamamoto, le représentant du Japon de la Fédération mondiale à la recherche de la vérité sur l' histoire .

*Yumiko Yamamoto山本優美子 (Yumiko Yamamoto), le Japon des militants politiques . Représentant de la société civile Nadeshiko Action , Représentant adjoint du Japon de la Fédération mondiale à la recherche de la vérité sur l'histoire [1] . Diplômé de l'Université Sophia [2] .





난징 대학살(중국어 간체자: 南京大屠杀, 정체자: 南京大屠殺, 병음: Nánjīng Dàtúshā, 일본어: 南京大虐殺, 영어: Nanking Massacre)이란 중일 전쟁 때 중화민국의 수도인 난징을 점령한 일본이 군대를 동원해 중국인을 무차별 학살한 사건이다. 이로 인해 약 30만 명(추정)에서 100만명의 중국인들이 학살되었다.[1] 최근 뉴욕 타임즈 등에서는 증인과 증거들로 100만명의 피해자를 추정하고 있다. 1937년 12월 13일부터 1938년 2월까지 6주간에 걸쳐 이뤄졌으며, 1939년 4월에는 1644 부대가 신설되어 생체실험 등이 자행되었다. 오늘날 중국에서는 이를 난징 대도살이라고도 부르며, 일본에서는 난징 사건으로 불리고 있다. 서구권에서는 아시아 홀로코스트라고도 한다.



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