日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

People's Liberation Army of China☆中国人民解放军☆Народно-освободительная армия Китая/Shigeo Hiramatsu平松 茂雄Сигео Хирамацу(1987)CANADA🍁2023/10/23①


People's Liberation Army of China (Iwanami Shinsho) – February 20, 1994 by Shigeo Hiramatsu (author)
中国において軍の動向はきわめて重要であるMilitary movements are extremely important in China.文化大革命や林彪事件など軍が関与しなかった政治的大事件は皆無であったThere were no major political incidents in which the military was not involved, such as the Cultural Revolution or the Lin Biao Incident.本書は中国人民解放軍の建軍以来の歴史を振り返り,鄧小平政権による百万の兵力削減や軍近代化の実態を紹介するThis book looks back on the history of the Chinese People's Liberation Army since its founding, and introduces the reality of the Deng Xiaoping administration's reduction of 1 million troops and modernization of the military.さらに一九八七年一月に胡耀邦総書記を辞任に追いこんだ軍内保守派の動向を追いFurthermore, we tracked the movements of conservative forces within the military that forced General Secretary Hu Yaobang to resign in January 1987,今後の中国政治を展望するlooking ahead to the future of Chinese politics.
*平松 茂雄(ひらまつ しげお、1936年(昭和11年)2月9日 - 2023年(令和5年)7月5日)は、日本の政治学者、評論家。国家基本問題研究所評議員Shigeo Hiramatsu平松 茂雄 ( February 9 , 1936 (Showa 11)静岡県出身 - July 5 , 2023 (Reiwa 5 )) was a Japanese political scientist and commentator . He is a councilor of the National Institute for Basic Research.
【石川忠雄先生にTo Mr. Tadao Ishikawa 退職を記念してin commemoration of retirement】
*石川忠雄(1922年1月21日—2007年9月25日)是日本的中国現代史家,亦是慶應義塾中任期僅次於鎌田榮吉的塾長。其任期時間長達16年Deutschドイツ語→Ishikawa Tadao (japanisch 石川 忠雄; geboren 21. Januar 1922 in Tōkyō; gestorben 25東京都出身. September 2007 ebenda) war ein japanischer Kenner des japanischen und insbesondere des chinesischen Rechtssystems.

中国人民解放军,一般通称人民解放军及解放军,是中华人民共和国主要的武装力量。此外,中国人民解放军由陆军、海军、空军、火箭军四大军种以及跨军种组成的中国人民解放军战略支援部队和中央军委联勤保障部队组成。中国人民解放军自成立起坚持“党指挥枪”原则,由中央军事委员会领导,中共中央军委主席统率全军Українськаウクライナ語→Народно-визвольна армія Китаю (НВАК, кит. 中国人民解放军, піньїнь Zhōnggúo Rénmín Jiěfàng Jūn) — збройні сили КНР, найбільша за чисельністю армія у світі (2 250 000 чоловік на дійсній службі).

Deng Xiaoping(22 August 1904 – 19 February 1997)Дэн Сяопин (кит. трад. 鄧小平, упр. 邓小平, пиньинь Dèng Xiǎopíng, при рождении Дэн Сяньшэн (кит. трад. 鄧先聖, упр. 邓先圣, пиньинь Dèng Xiānshèng) was a Chinese revolutionary and statesman who served as the paramount leader of the People's Republic of China (PRC) from December 1978 to November 1989.1920年からフランス留学Studied in France from 1920(ここで周恩来に会うHe met Zhou Enlai here)1926年、ソ連に移りMoved to the Soviet Union in 1926、中国労動者孫逸仙大学Коммунистический университет трудящихся Китая (КУТК)モスクワ中山大学Moscow Sun Yat-sen Universityにて共産主義を学ぶlearned about communism(蔣経国Chiang Ching-kuo(蒋介石の長男The eldest son of Chiang Kai-shek)は学友であったwas his schoolmate)。
     まえがき
 1987年8月1日、中国人民解放軍は創立60周年を迎えた。人間にたとえれば、中国軍は壮年期から老年期に入ったことになる。
 中国人民解放軍は幼年期から青年期にかけては、革命の意気に燃えた溌剌とした軍隊であったが、建国後の青年期から壮年期にかけての時期にいく多の試練にさらされ、国家の安全を守る国防軍として成長することができなかった。しかしながらこの軍隊は、壮年期を終えて老年期に入ろうとしている現在、鄧小平政権の下でもう一度近代的軍隊への改造に挑戦している。
 中国軍は陸軍中心の前近代的な軍隊である。1983年にはじめて公表された中国軍の総兵力は、1982年で約423万であり、そのうち80パーセントに近い約340万が陸軍である。その陸軍は歩兵が主体であり、歩兵にしても近代兵器を欠く人間主体の部隊が多い。中国軍は米国やソ連の軍隊に比べて、10年から20年おくれている。
 ではなぜ中国軍はそのように前近代的な軍隊であるのかといえば、第一に、国家財政上の理由から通常兵力の近代化より戦略核戦力の開発にこれまで重点がおかれてきたこと、第二に、近代兵器より人間の敢闘精神を重視する毛沢東の人民戦争の考え方が長い間支配的であったことによる。
 このように中国軍は前近代的な軍隊であるが、その巨大な組織を政治的資産に、中国の政治にしばしば強大な影響力を及ぼしてきた。彭徳懐Peng Dehuai事件、文化大革命、林彪事件、天安門事件、四人組事件など、中国で生起した重要な政治的出来事で中国軍が関与しなかったものはないといってよい。
 この数年来鄧小平政権は、百万の兵力削減により中国軍の規模を大幅に縮小するとともに、部隊の全面的な編成替えを断行して、中国軍を近代的な軍隊に改造しつつある。歩兵部隊の数が削減され、それに代わって装甲兵・砲兵・工兵などの技術部隊が増設され、合成集団軍が編成された。それとともに軍事教育・訓練の領域でも画期的な改革が実施され、また軍事指導者の交替も断行され、これまで名前の知られていなかった軍人が大胆に抜擢されている。さらに戦略ロケット部隊が成長し、海軍は外洋へと発展しつつある。
 中国軍は毛沢東時代と決別しつつあるといえるが、中国軍と政治との間の軋轢がなくなったわけではない。それは、鄧小平が自分の後継者として中国軍の統率者に予定していた胡耀邦が、87年1月突然中共総書記を辞任したという出来事のなかに端的に現れている。胡耀邦辞任の背景には、百万の兵力削減による中国軍の全面的な改革に対する中国軍の強い不満・反対があった。
 400万の兵力から100万を削減するということは、四分の一を減らすことである。わが国では大正時代に、宇垣軍縮といわれる兵力削減があった。20個師団を四個師団削減したから、五分の一の兵力削減であった。約4000人の将校が軍籍を失った。兵力を削減した財源で戦車・航空機・自動車など兵器の近代化をはかることに目的があったが、それからまもなく生起した世界大恐慌のため十分達成されず、軍部の怨念だけを残し、昭和軍閥の独走につながったといわれている。

Españolスペイン語→Kazushige Ugaki (宇垣 一成 Ugaki Kazushige?, 9 de agosto de 1868岡山県出身(大日本帝国陸軍大将) - 30 de abril de 1956) fue un general del Ejército Imperial Japonés, ministro y político japonés y dos veces Gobernador General de Corea(第六代)朝鮮総督②宇垣裁军(日語:宇垣軍縮),指1925年(大正十四年),日本政府加藤高明內閣推動的裁軍計畫Ugaki disarmament (Japanese: 宇垣軍縮) refers to the disarmament plan promoted by the Japanese government's Kato Takaaki cabinet in 1925 (the 14th year of Taisho).
 鄧小平政権の軍事改革も兵力も削減して火力と機動力のある軍隊をつくることを目的としており、たんなる兵力の削減ではない。しかしこの目的が達成されるためには、合成集団軍はそれに必要な兵器で装備され、かつその兵器を使って部隊を運用する幹部が配属されなければならない。そうでなければ、中国軍は兵力を削減され、戦力を低下しただけに終わってしまう。それは鄧小平政権の政治生命にかかわる問題である。
 中国や日本では60歳を還暦(中国語では「甲子」)という。それは生まれた時の干支にかえること、すなわち生まれ変わることを意味する。中国軍の機関紙である『解放軍報』は、建軍60年を迎えるにあたって「国防を強固なものとするために功績をたてよう」という社説を掲げ、建軍60年を「一つの偉大な出発点」ととらえている。中国軍が鄧小平と彼に続く新しい政治・軍事指導者たちによって、近代的な軍隊に生まれ変わることができるかどうかは、これからの問題である。
《解放军报》是中国共产党中央军事委员会的机关报,由解放军报社主办,主管单位为中央军委政治工作部The People's Liberation Army Daily (Chinese: 解放军报; pinyin: Jiěfàngjūn Bào), or PLA Daily for short, is the official newspaper of the Chinese People's Liberation Army (PLA).
 本書は三つの部分から構成されている。第I部で、誕生から鄧小平政権が成立するまでの中国人民解放軍の歴史が概説される。ついで第II部では、中国軍の兵力・編成・配属・兵役制度、実戦を通してみた中国軍の戦略と戦力、軍事支出と兵器生産能力、核兵器開発、軍事機構と軍事指導者など、中華人民共和国の建国以来現在までの中国軍の実態が概観される。最後に第III部で、現在鄧小平政権が断行している百万の兵力削減による中国軍の全面的な改造の実態と問題点が考察される。

Deutschドイツ語→Mao Zedong oder Mao Tse-tung (chinesisch 毛澤東 / 毛泽东, Pinyin Máo Zédōng, IPA (hochchinesisch) [mau̯ ʦɤtʊŋ], W.-G. Mao Tsê-tung; * 26. Dezember 1893 in Shaoshan; † 9. September 1976 in Peking) war ein chinesischer marxistisch-leninistischer Revolutionstheoretiker und diktatorisch regierender Politiker als Vorsitzender der Kommunistischen Partei Chinas sowie Präsident der Volksrepublik China mit den Titeln “Überragender Führer” und “Großer Steuermann”.
                   I 人民解放軍の誕生と発展 一 毛沢東の軍隊と人民戦争             
 1 紅軍から八路軍、さらに解放軍へ
  紅軍の誕生とソビエト運動
 「鉄砲から政権が生まれる」-これは毛沢東の有名な言葉である。この言葉が示すように、中華人民共和国を統治している中国共産党(以下中共と略す)政権は、同党の指導で遂行された戦争の中から生まれた。
 しかしながら中共は初めから自己の軍隊を持っていたのではなかった。1921年7月1日に創設された中共は、1924年中国国民党Kuomintang Chinasと合作し(第一次国共合作)、蔣介石を司令官とする中国国民革命軍National Revolutionary Army(中国国民党軍Kuomintang army)に参加した。国民革命軍は1926年7月北伐戦争Северный походを開始したが、その途中で国共は分裂した。1927年8月1日、国民革命軍第四軍の中にいた中共の朱徳・周恩来・賀龍He Long・葉挺Yeh Tingらは三万の兵を率いて南昌で蜂起し、革命委員会の成立を宣言した。これな南昌蜂起といい、この日をもって中国人民解放軍の創立記念日(建軍節PLA Day)としている。
*Italianoイタリア語→Il termine Primo Fronte Unito聯俄容共,又稱第一次國共合作Первый объединённый фронт (или Альянс Гоминьдан—КПК) First United Front designa un'alleanza conclusa tra il 1924 e il 1927 dal Kuomintang (KMT) con il Partito Comunista Cinese (PCC), allo scopo di riunificare la Repubblica di Cina, a quel tempo divisa tra i vari signori della guerra regionali. L'alleanza terminò per una frattura violenta.

①Deutschドイツ語→Zhu De (chinesisch 朱德, Pinyin Zhū Dé, W.-G. Chu Teh; * 1. Dezember 1886 in Yilong; † 6. Juli 1976 in Peking) war über viele Jahre Oberkommandierender der chinesischen Volksbefreiungsarmee und ihrer Vorläufer1925年までドイツ留学He resided in Germany until 1925ここで周恩来に会ったHere he met Zhou Enlai国外追放となりexpelled from Germanyソ連へ渡るhe traveled to the Soviet Union中国労動者孫逸仙大学Коммунистический университет трудящихся Китая (КУТК)モスクワ中山大学Moscow Sun Yat-sen Universityでマルクス主義と軍事を学んだto study military affairs and Marxism ②Françaisフランス語→Le soulèvement de Nanchang (chinois : 南昌起义, pinyin : Nánchāng Qǐyì) (1er août 1927) fut l'un des premiers épisodes de la longue guerre civile entre le Kuomintang (KMT) et le Parti communiste chinois (PCC), et en constitua le premier affrontement militaire d'envergure.

Русскийロシア語→Красная армия Китая (кит. трад.中國工農紅軍, упр.中国工农红军, пиньинь Zhōngguó Gōng-Nóng Hóngjūn)Chinese Red Army— вооружённые силы Коммунистической партии Китая в период 1927—1937 годов.
 しかしこの軍隊は国民党軍の攻撃に抗することができず、わずか五日で南昌を放棄した。蜂起直後、中共は中央委員会会議(8・7緊急会議)を開き、秋の収穫期をねらって各村の農村で蜂起を計画した。毛沢東も生まれ故郷の湖南省で農民蜂起を指導したが、失敗して湖南・江西の省境にある井岡山に逃れた。南昌蜂起後各地で転戦していた朱徳の部隊も井岡山にやってきて、両軍は合流し、1928年4月毛沢東を党代表、朱徳を軍長とする中国労農紅軍第四軍が誕生した。
井崗山The Jinggang Mountains井冈山, historically rendered as Chingkang Mountains are a mountain range of the Luoxiao Mountains System, in the border region of Jiangxi and Hunan Provinces.人民解放軍揺籃の地 江西省・井岡山②The Fourth Army (simplified Chinese: 国民革命军第四军; traditional Chinese: 國民革命軍第四軍; pinyin: guómín gémìngjūn dìsìjūn) was a combat command of the National Revolutionary Army involved in the Northern Expedition of the Chinese Civil War. The Fourth Army was commanded by CPC commander Ye Ting.
 この軍隊はさらに彭徳懐の平江蜂起部隊、鄧小平の広西百色蜂起部隊などを加えて成長し、1931年11月には江西省の瑞金に毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時政府をつくるまでにいたった。こうした共産主義勢力の発展に直面して、蔣介石は五回にわたって江西ソビエト区を攻撃した。その結果1934年10月毛沢東は瑞金を放棄し、二万五〇〇〇里の長征を行った。

*↑1928年、井崗山The Jinggang Mountainsにおいて合流した未来の中華人民共和国指導者二人Two future leaders of the People's Republic of China join together、毛沢東と朱徳の出会いencounter between Mao Zedong and Zhu De(中国では有名な画ですThis is a famous painting in China)。
中華ソビエト共和国(ちゅうかソビエトきょうわこく、繁: 中華蘇維埃共和國、簡: 中华苏维埃共和国、拼音: Zhōnghuá Sūwéi'āi Gònghéguó) Chinese Soviet Republic (CSR)Кита́йская Сове́тская Респу́бликаは、1931年11月7日に、江西省瑞金を首都として中国共産党が樹立した政権。中国語では中華蘇維埃共和国臨時政府と称する。

Українськаウクライナ語→Великий похід (кит. 長征, трансліт. 长征, латиніз. Chángzhēng)Long MarchВеликий поход — легендарний похід армії китайських комуністів. Великий похід був загальним виходом комуністів із займаних позицій та підконтрольних територій, об'єднанням окремих комуністичних загонів та закріпленням в Особливому районі зі столицею в Яньані, який контролював Гао Ган.
 彼らは何回も揚子江を渡り、四〇〇〇~五〇〇〇メートルの大雪山を越え、大草原を突破し、広東・湖南・広西・貴州・雲南・西康・四川・甘粛の各省を踏破して、1935年10月陕西省北部に政権を移した。長征開始時の30万人の兵力が、その途上で補充しながらも、終結時には三万人に減っていたことだけをみても、その苦難の並大抵でなかったことがうかがわれる。しかしこの長征によって毛沢東を中心とする党の団結が強められ、党を不屈のものに鍛え上げ、その後の党発展の基礎を築いた。なお毛沢東の中共における指導権が確立されたのは、長征途中の遵義(貴州省)で開かれた中央政治局拡大会議(1935年1月)においてであった。

Русскийロシア語→Конференция Цзуньи ( упрощённый китайский :遵义会议; традиционный китайский :遵義會議; пиньинь : Zūnyì huìyì )Zunyi Conference — собрание Коммунистической партии Китая (КПК) в январе 1935 года во время Великого похода .

  抗日戦争と八路軍 第四軍
 長征途上の1935年8月1日、中共は「抗日救国のために全国に告ぐるの書」(8・1宣言)を発し、中国の全階級・全民族を結集した抗日民族統一戦線の結成を呼び掛けた。抗日民族統一戦線の結成は、1936年12月西安事件が起き、ついで翌1937年7月Zwischenfall an der Marco-Polo-Brücke盧溝橋事件Инцидент у моста Лугоуцяоが勃発するにおよんで、第二次国共合作として実現された。
①Françaisフランス語→Conséquence immédiate de l'incident de Xi'an西安事变Сианьский инцидент, l’accord de Xi'an de décembre 1936, est le traité constituant le deuxième front uni entre les nationalistes et les communistes chinois contre l'empire du Japon第二次国共合作The second cooperation between the Kuomintang and the Communist Party八路军、新四军在中国共产党领导下同国民党军队合作,共同进行抗日战争,这是抗战时期国共合作的主要内容The Eighth Route Army and the New Fourth Army cooperated with the Kuomintang army under the leadership of the Communist Party of China to jointly carry out the Anti-Japanese War. This was the main content of the cooperation between the Kuomintang and the Communist Party during the Anti-Japanese War.
 中共は、①三民主義の実現のために奮闘する、②国民党政権顛覆のためのいっさいの蜂起・赤化政策を停止する、③ソビエト政府を解消し民主制を実施する、④紅軍を国民政府の指揮下に入れて八路軍および新四軍に改編するなど、統一戦線結成に必要な政策転換を行って国民党と合作し、抗日戦争に突入した。
*Русскийロシア語→Три народных принципа (доктрина Саньминь, кит. трад. 三民主義, упр. 三民主义, пиньинь Sān Mín Zhǔyì, палл. сань минь чжуи) The Three Principles of the People(San-min Doctrine, or Tridemism)三民主義, 即民族主義、民权主義和民生主義,又稱“孫文學说”、“國父思想”、“總理遺教”— политическая доктрина, разработанная китайским политиком и философом Сунь Ятсеном.
 抗日戦争は日本軍の急速な進出と国民党軍の敗北をもって始まった。毛沢東は、国民党と協同して日本軍に対して正規戦を行うことを主張する王明を批判し、日本軍と正面から戦うことを避け、もっぱら山間僻地において遊撃戦争を展開する方針を提示した。この方針は、抗日戦争が「敵の戦略的進攻と我の戦略的防御の時期」「敵の戦略的保持と我の反攻準備の時期」「我の戦略的反攻と敵の戦略的退却の時期」の三つの段階を経て発展することを指摘した毛沢東の「持久戦論」(1938年)にその理論的根拠を持っていた。

Françaisフランス語→Wang Ming (王明; pinyin : Wáng Míng), Chen Shaoyu陈绍禹 né le 23 mai 1904 à Jinzhai, Anhui et mort le 27 mars 1974 à Moscou.
 毛沢東の指摘したように、日本軍は第一段階において広大な地域を占領したものの、かえって占領地域の防衛・確保に力を向けざるをえなくなり、戦局は1939年から第二段階へと入った。毛沢東はこの段階の重要性を高く評価し、将来の反攻に備えて革命根拠地の建設・民主政権の確立・民衆の動員と組織化・党および軍の拡大強化・遊撃戦争の強化・経済建設などに努力を傾けた。その結果、華北・華中で共産党の勢力は発展した。
 共産勢力の発展は蔣介石に非常な不安を与え、1941年1月安徽省南部の新四軍が国民党軍に急襲されるという皖南事件が起きた。蔣はさらに1943年胡宗南軍を主力として中共中央が所在する陕西地区を包囲し、日本の降伏までその包囲態勢を解かなかった。国民党のこうした動きは、1941年に開始された日本軍の抗日根拠地に対する攻撃とあいまって、国共関係を悪化させ、共産党に重大な影響を与えた。

The New Fourth Army Incident (Chinese: 新四軍事件), also known as the South Anhui Incident (Chinese: 皖南事變), occurred in China in January 1941 during the Second Sino-Japanese War, during which the Chinese Civil War was in theory suspended, uniting the Communists and Nationalists against the Japanese.

Françaisフランス語→Hu Zongnan (胡宗南, 16 mai 1896 - 14 février 1962) est un général du Kuomintang qui était, avec Chen Cheng et Tang Enbo, l'un des principaux généraux de Tchang Kaï-chek durant la seconde guerre sino-japonaise. Après la retraite des nationalistes à Taïwan en 1949, il devint conseiller de stratégie militaire jusqu'à sa mort en 1962.
 しかし毛沢東は1941年12月太平洋戦争が勃発すると、「総反攻の時期が始まった」として反攻を準備し、財政上の困難を緩和するために生産自給・精兵簡政(軍隊の精鋭化と行政の簡素化)を実施し、翌42年2月には「整風運動」を実施して党の質的強化をはかった。それとともに抗日根拠地は1943年頃から再び拡大し始め、1945年には党員11万、正規軍90万、民兵250万、大小辺区政府18を数えるまでに発展した。

Deutschドイツ語→Die Berichtigungsbewegung, auch bekannt als Yan’an-Berichtigungsbewegung (chinesisch: 延安整風運動 / 延安整风运动; Pinyin: Yán'ān Zhěngfēng Yùndòng)Yan'an Rectification MovementЧжэнфын, von 1942 bis 1945 war die erste ideologische Massenbewegung, die von der Kommunistischen Partei Chinas (KPCh) initiiert wurde.Die Bewegung festigte Mao Zedongs oberste Führung innerhalb der Kommunistischen Partei

Українськаウクライナ語→Громадянська війна в Китаї 國共內戰(另稱中國內戰,英語:Chinese Civil WarChinesischer BürgerkriegГражданская война в КитаеGuerre civile chinoise— серія збройних конфліктів на території Китаю між силами, підконтрольними владі Китайської Республіки та китайськими комуністами в 1927—1950 роках (з перервами).
 国共内戦と人民解放軍の成立
 1945年8月9日、ソ連軍の満州進攻とともに中共軍も満州に進撃した。しかし満州を引き揚げるソ連軍に代わって国民党軍が占領地区接収のため進出してきた結果、1946年7月頃から共産党軍と国民党軍との間で内戦が起こった。抗日戦争の時と同様国共内戦においても、その初期の段階では国民党軍が圧倒的に優勢であり、1947年3月には中共中央の所在する延安が陥落した。
 しかしその間共産党軍は反攻への準備を整えていた。彼らは地域の防衛、とくに都市の確保よりも国民党軍の基本勢力の殲滅を主要目標とした。47年3月24日中共軍は中国人民解放軍と改称された。この頃前後して西北・中原・華東・東北の各野戦軍が編成され、これらの野戦軍は49年1月15日、第一・第二・第三・第四の各野戦軍に改称された。
 1947年6月末、劉伯承Liu Bocheng・鄧小平の指揮する中原野戦軍が黄河を渡ったのに続いて、陳毅Chen Yi・栗裕Su Yuの率いる華東野戦軍は山東省西部から隴海線を越えて江蘇・河南に入った。解放軍は西北・華北・華東・東北でも反攻に転じた。1948年に入ると戦争は解放区内ではなく、国民政府軍の防衛線を突破して、国民政府の支配地区内で行われ、人民解放軍の主力は国民政府支配区に入って新解放区をつくるようになった。揚子江以北の広大な地域が主戦場となった。
 西北では彭徳懐・張宗遜Zhang Zongxunの指揮する西北野戦軍が延安を奪い返し、山東では譚震林Tan Zhenlin・許世友Xu Shiyouの兵団が膠済線・津浦線の沿線を確保して、青島・済南などの都市を除く全省を解放した。東北では林彪・羅栄桓Ronghuan Luoの指揮する東北野戦軍の大規模な冬季攻勢によって、国府軍を長春・瀋陽などに圧迫して孤立させた。華北では楊得志Yang Dezhi・羅瑞卿Luo Ruiqingの兵団および徐向前Xu Xiangqian・周士弟Zhou Shidiの兵団が、孤立して残存する国府軍の拠点を次々に奪い取り、国府軍が占領する大都市を攻撃した。こうして反攻段階に入った一年間に、人民解放軍は152万余の国府軍を撃破し、3700万の人口を持つ広大な地域を解放した。国府軍は365万に減少し、人民解放軍は280万に増大した。
 1948年の9月から12月にかけて、人民解放軍は国府軍と遼瀋(遼陽・瀋陽)戦役、淮海(徐州地区)戦役、平津(北平・天津)戦役を行った。この三つの大会戦で軍事的に圧倒的な優位に立った人民解放軍は、国府軍を包囲してその主力に決定的な打撃を与えた。国府軍はその主力160万を失い、揚子江下流以北は解放された。1949年1月蔣介石は下野して和平交渉を提案し、4月1日から会談が始まったが、決裂した。
*1949年1月21日,在内外交困中,蒋介石发表“引退”文告,宣布由李宗仁“代行总统职权”。但是在蒋介石“下野”之后,国民党内部的斗争依旧没有停歇On January 21, 1949, amid internal and external difficulties, Chiang Kai-shek issued a "retirement" announcement and announced that Li Zongren would "act as president." However, after Chiang Kai-shek "stepped down", the struggle within the Kuomintang still did not stop内外双方からの圧力で苦境に陥った蒋介石は、1949年1月21日に総統を辞任し、副総統の李宗仁が総統代行として中国共産党との和平交渉に臨みました。
 4月20日人民解放軍の第二、第三、第四の各野戦軍は揚子江を渡って江南の各省を次々解放し、また彭徳懐の第一野戦軍は西北に進撃し、1949年の終わりまでに、チベットと台湾を除く中国の全土を解放した。こうして1949年10月1日、北京を首都とする中華人民共和国が誕生した。

          2   農民の軍隊と人民の大海
 農村で都市を包囲する
 毛沢東の指導した中国革命は、敵の力の弱い農村で土地革命を実施して農民を組織し、農民を主力とする遊撃戦争を行い、各地に革命根拠地(解放区)と紅軍を建設し、それらを拡大させるとともに、相互に結び付け、武装した革命根拠地をもって都市を包囲し、最後に都市を奪い取るという方式をとって遂行された。この革命過程では、中国各地に生まれた農民軍・遊撃隊は、離合集散を繰り返しつつ、民兵・地方軍・野戦軍(主力軍)からなる「三結合の武装力体制」を形成して、一つの「毛沢東の軍隊」に成長していったのである。
 その過程でそれらの武装力は、兵力の圧倒的に優勢な敵軍=正規軍との正面での戦闘=正規戦・陣地戦を避け、敵軍を自己の領域に誘い入れた後、自己の兵力を集中して敵軍を各個に包囲殲滅し、力関係が自己の側に有利になったところで決戦を挑んで敵を圧倒するという戦略戦術をとったのである。これを積極防御といい、敵の侵攻を国境で破砕するという正規戦・陣地戦という思想は毛沢東には欠落していた。これらを体系化したのが毛沢東の人民戦争論である。

Русскийロシア語→Затяжная народная война (кит. трад. 人民戰爭, упр. 人民战争) People's warVolkskrieg (Maoismus)Théorie de la guerre populaire— наука о стратегии ведения партизанской войны, разработанная Мао и затем развитая маоистскими партиями.
 遊撃戦争の戦略的意義
 「敵が進めば我は退き、敵が留まれば我は乱し、敵が疲れれば我は打ち、敵が退けば我は進む」-これは毛沢東の遊撃戦争を説明した有名な言葉である。遊撃戦争は毛沢東の軍隊が誕生して以来とり続けられてきた伝統的な戦法である。日本軍が中国大陸の広大な地域を占領しながら、占領地域の防衛・確保に忙殺された理由は、いわゆる点(都市)と線(交通路)しか抑えられず、点と線に囲まれた面(農村)を根拠地として、掃討しても掃討しても次々と湧きでてくる「人民の大海」に対処できなかったところに求められる。
 遊撃戦争とは弱者の強者に対する武器である。毛沢東は「それは立ち遅れた国において、半植民地の大国において、長い期間にわたって人民の武装部隊が武装した敵に打ち勝ち、自己の陣地をつくりあげるために頼らなければならない。従ってまた最もよい闘争形態である」(「『共産党人』発刊のことば」1939年)と意義づけている。
 このように遊撃戦争は毛沢東の戦争において重要な役割を果たしたとはいえ、毛沢東の戦争を遊撃戦争の観点からのみ論じることは正しくない。林彪は毛沢東の人民戦争を説明して次のように論じている。
 「敵味方の力がかけ離れている条件の下で革命武装勢力が強大な敵に打ち勝つには、敵と無理をおして渡り合うべきではない。もし渡り合えば必ず自分がひどい損失を受け、革命に重大な挫折をもたらすからである。遊撃戦争を行ってはじめて全人民の力を十分に動員し、高度に発揮させて敵を相手に闘争を行わせることができ、はじめて戦争のなかで自分を強大に発展させ、敵を消耗・弱化させ、しだいに敵味方の力関係を変え、遊撃戦から運動戦に移行し、最後には敵に完全に打ち勝つことができる」(「人民戦争の勝利万歳」1965年)。

 このことからわかるように、遊撃戦争によって重大な敵を消耗弱化させ、敵は味方の力関係を変えることによって、決戦に打ち勝つ条件がつくりあげられるのである。ここに遊撃戦争の戦略的意義があるのであり、それは毛沢東の「持久戦」の考え方と分ち難く結び付いている。
三結合の武装体制
 毛沢東の軍隊の基本は民兵(農民)であり、正規戦あるいはプロフェッショナル・アーミイという考え方は稀薄である。農民は敵が来れば銃を取って民兵となり、単独にあるいは地方軍・野戦軍(主力軍)と呼応して戦う。他方、軍隊は戦闘任務だけでなく、自ら生産活動を行い、また人民大衆の生産活動を支援し、政治的に彼らに働きかけて軍民の一体化をはかる。軍隊の民衆化・地方化・分散化である。とくに戦争の初期(持久戦の第一段階)あるいは戦局の厳しい状況のもとでは、主力軍は人民大衆のなかに分散して民衆化し地方化するのであり、戦局が有利に展開するようになれば集結して作戦の機動性・統一性を強める。
 抗日戦争中の晋冀魯予辺区(山西省東西部・河南省の黄河以北にまたがる地域)を一例にあげてみよう。ここでは1941年に少なからぬ正規兵団が地方化され、県独立大隊・県基幹隊などの遊撃部隊がしだいに拡充・発展した。野戦軍の人員数を100とすると、遊撃隊を含む地方軍の比率の増大は、40年が50強、41年が77強、42年200弱となった。正規軍は敵の主力をたたき解放区を防衛する。地方兵団は県および分区の範囲で隙に乗じて敵をたたく。民兵はその持ち場を堅く守り、村を防衛し、大衆が敵に襲撃されないようにする。このように三者が互いに呼応し、互いに支援しあいつつ、敏速に機動的に戦闘体系をつくり、根拠地防衛の力を増強する。
地区別にのべるならば、敵の脇腹にあたる地帯では基幹兵団・遊撃隊・民兵が結合し、反掃討闘争を堅持し、既設陣地を固める。鉄道沿線地区つまり遊撃隊の警備する地帯では、敵の蚕食・治安維持反対の闘争を強化する。敵占領地区の人民の間、カイライ軍やカイライ組織の間での工作を強めることによって、敵の統治に打撃を与え、それを瓦解させ、敵占領地区の各階層の敵に対する闘争を結集して、遊撃区に変え、さらに抗日根拠地に変えた。
 このように三結合の武装力体制は、主力軍の分散化・地方化・民衆化によって成立し、主力軍・地方軍・民兵の三つの性格の異なる武装力が相互に協力しつつ、人民戦争が遊撃戦から運動戦、さらに陣地戦・正規戦へと漸次発展してゆく過程で、民兵の地方軍、地方軍の正規軍への発展的転化がなしとげられた。

Deutschドイツ語→Zhou EnlaiЧжоу Эньлай, auch Tschu En Lai oder Chou En-Lai (chinesisch周恩來/周恩来, Pinyin Zhōu Ēnlái, W.-G. Chou Ên-lai; * 5. März 1898 in Huai’an, Provinz Jiangsu; † 8. Januar 1976 in Peking) war ein wichtiger Führer der Kommunistischen Partei Chinas und der Premierminister der Volksrepublik China von 1949 bis zu seinem Tod.

政治工作
 中共軍が劣悪な兵器で近代兵器を装備した日本軍や国民党軍と戦うことができた理由は、中共が毛沢東軍事思想に基づいて指導した政治・思想工作あるいは大衆工作による対敵闘争に求められる。対敵闘争は敵に対する憎しみを扇動して、「兵士に自分たちのために戦争するのであって、他人のために戦争するのではない」(毛沢東「井岡山の闘争」1928年)ことを自覚させた。それは兵士たちの士気をふるいたたせ、戦闘に臨んで苦しみをいとわず、死を恐れず、突撃する時は勇敢に突撃し、守る時はしっかりと守り、「人が数人・数十人・数百人分の働きをなすほどの巨大な戦闘力を生んだ。
 対敵闘争は大衆のなかから総括されたものであるから、それが大衆のなかに戻っていった時、広範な大衆から熱烈に擁護されただけでなく、限りない力となっていった。敵の拠点近くで地雷を埋めたり、道路を破壊したり、電話線を切断したり、政治宣伝をしたりする民兵や大衆の主体的な行動があちこちで見られた。彼らはいろいろと巧妙な方法で敵とわたりあい、闘争が深まれば深まるほど彼らの知恵はより多彩・豊富になった。
 こうした対敵闘争に兵士や大衆を結集させる上で重要な役割を果たした要素は、幹部と兵士、軍隊と人民大衆との間に別け隔てのなかったことである。なによりもまずこの軍隊には階級制度がなかった。そればかりか軍隊内では軍事・政治・経済の面で民主生活を実行する三大民主といわれるものがあった。軍事民主ー訓練では幹部と兵士・兵士と兵士との間の相互教育を実行し、戦闘では中隊の首長の指導の下で兵士に呼び掛けて、いかに敵を攻略するか、どのように戦闘任務を完遂するか討議させる。政治民主ー幹部が兵士を批判するだけでなく、兵士が幹部を批判することを許す。経済民主ー中隊の首長に協力して、給与と炊事を管理する権限を兵士に与える。
 さらにこの軍隊には戦闘・政治工作・生産支援といわれる三大任務があり、幹部は戦闘のあいまに自ら生産活動を行って自給自足をはかったばかりか、農民の生産を積極的に支援して、軍民の一体化をはかった。解放軍が農民大衆との一体化にいかに気を使っていたかをよく表しているのが、別掲の三大規律・八項注意である。

×

非ログインユーザーとして返信する