日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

People's Liberation Army of China☆中国人民解放军☆Народно-освободительная армия Китая/Shigeo Hiramatsu平松 茂雄Сигео Хирамацу(1987)CANADA🍁2023/10/23②


三大規律・八項注意(The Three Rules of Discipline and Eight Points for Attention (Chinese: 三大纪律八项注意; pinyin: Sān dà jìlǜ bā xiàng zhùyì) )
 三大規律Три правила三大纪律: ①命令には敏速に服従するprompt obedience to orders一切行动听指挥②民衆から糸一筋針一本とってはならないno confiscation of people's property不拿群众一针一线③敵や地主からとったものは公のものとするprompt delivery directly to authorities of all items confiscated from enemy一切缴获要归公
 八項注意Восемь пунктов八项注意: ①言葉使いは穏やかにBe polite when speaking说话和气②買い物は公正にBe honest when buying and selling买卖公平③借りたものは返すReturn all borrowed articles借东西要还④壊したものは弁済するPay compensation for everything damaged损坏东西要赔⑤人を殴ったり罵ったりしないDo not hit or swear at others不打人骂人⑥農作物を荒らさないDo not damage crops不损坏庄稼⑦婦人をからかわないDo not harass females不调戏妇女⑧捕虜をいじめないDo not mistreat prisoners
不虐待俘

Deutschドイツ語→Peng Dehuai (chinesisch 彭德懷 / 彭德怀, Pinyin Péng Déhuái, W.-G. P'eng Te-huai; eigentlich Peng Dehua; chin. 彭得华 Péng Déhuá, W.-G. P'eng Te-hua; * 24. Oktober 1898 in Xiangtan, Hunan; † 29. November 1974 in Peking)Пэн Дэхуай war einer der wichtigsten militärischen Führer der chinesischen Volksbefreiungsarmee, unter anderem im Koreakrieg, sowie ab 1954 der erste Verteidigungsminister der Volksrepublik China. Peng Dehuai war der einzige führende Politiker, der offen Kritik an Mao Zedongs Großem Sprung nach vorn übte.国務院副総理、国防部長、党中央委員会副主席、党中央軍事委員会副主席を務めたが、大躍進政策を批判した為に失脚し、最後は癌に侵されながらも治療を拒否されるなど、紅衛兵による吊し上げの中で息を引き取った。
                  二  正規化と革命化との交錯
 1 彭德懷の近代化・正規化路線
 朝鮮戦争と近代的正規軍の誕生
 中共政権の誕生に大きく貢献した人民解放軍は、毛沢東軍事思想というイデオロギーによって高度に組織化され、かつ長期にわたる遊撃戦争・不正規戦を戦ってきたという点では、世界史にほとんど類例を見ない特異な強い軍隊であったが、国防軍としての近代的軍隊に不可欠の近代兵器と近代技術をほとんど欠いていた。この軍隊には空軍も海軍もなかった。陸軍は不正規で、その指揮系統は極度に未分化の状態にあった。装備は規格が一様でなく、かつそのほとんどは旧式のままであった。それゆえ中共が政権を樹立した時最も必要とした要件の一つは、この軍隊を自己の権力を維持することを可能とする近代的国防軍に迅速に改造することであった。
 その課題は、中共政権が誕生してまもなくの1950年に勃発した朝鮮戦争に、同年10月人民志願軍を派遣して参戦し、米国との近代戦争を経験したことによって、一層切実に認識された。この戦争の過程で、中国軍はソ連の援助を受けて近代的な兵器を装備した軍隊に急速に成長したが、他方、中国軍はこの戦争において米軍の圧倒的な火力と航空戦力を経験した。この戦争は、それまで戦って必ず勝ってきた彼らの作戦がほとんど役に立たないことを教えた。そして彼らは近代的な軍隊と対決するには、自己の軍隊を徹底的に改造しなければならないことを知った。
①Українськаウクライナ語→Коре́йська війна́ 1950—1953 років — збройний конфлікт між Корейською народно-демократичною республікою та Корейською республікою, що тривав з 25 червня 1950 року до 27 липня 1953 р.6.25 전쟁(六二五戰爭, 6·25 전쟁) 또는 한국 전쟁(문화어: 조선 전쟁/조국해방전쟁[38](韓國戰爭, 영어: Korean War, 중국어 정체: 韓戰/朝鮮戰爭, 중국어 간체: 韩战/朝鲜战争 , 러시아어: Корейская война)

②Русскийロシア語→Китайские народные добровольцы (кит. трад.中國人民志願軍중국인민지원군, упр.中国人民志愿军The People's Volunteer Army (PVA), пиньинь Zhōngguó Rénmín Zhìyuàn Jūn, палл. Чжунго жэньминь чжиюаньцзюнь, литературно «китайские народные добровольческие войска», сокращённо — КНД)— общепринятое название контингента войск КНР, участвовавшего в 1950—1953 годах в Корейской войне на стороне КНДР.

 1953年7月27日に朝鮮戦争の停戦が実現されると、中国軍の近代的国防軍への改造が朝鮮戦争における中国人民志願軍の司令官であった彭德懷の指導で始められた。それは中央における近代的国家機構の整備と平行して進められ、近代的軍事機構が整えられた。1954年9月、全国人民代表大会が召集されて憲法が制定され、国務院に国防部が創設された。初代国防部長に彭德懷が就任した。
次に国共内戦の過程で設けられた大軍区が廃止され、解放軍総部の統轄する10の一級軍区が設置されて、そこに駐屯していた野戦軍が解体された。野戦軍を構成していた部隊は総部の直接指揮を受けることになった。解放軍総部も改造され、それまでの総参謀部・総政治部に総後勤部・訓練総監部・総幹部部・総軍械部・武装力量監察部が加えられて、八つの部門からなる幕僚機構が設けられた。軍種ー海軍・空軍・防空軍・公安軍、兵種ー砲兵・装甲兵・工兵・鉄道兵などにおいても拡充が行われた。その改革過程で、多くの指導的な軍人が野戦軍から総部や軍種・兵種の幹部として移された。
 近代的軍事制度の整備を論じる場合忘れてはならないのは、義務兵役制度と階級制度の採用である。1955年7月兵役法が採択され、中国軍にはじめて義務兵役制度が導入された。兵役制度については「II 軍事力と軍事戦略」で詳論する。
 近代的な兵器と軍事技術で装備された近代的軍隊は、高度の組織と規律を備えた軍事機構ばかりでなく、現実にそれらの装備や機構を操作し運用する専門的な軍事技術および軍事組織能力を持つ将校団なくしては、これを運用することは難しい。階級制度の採用は、中国軍が近代的軍隊に成長する上で不可欠の要件の一つであった。1955年2月将校服務条例が採択され、中国軍に初めて階級制度が導入された。またそれに関連して肩章・勲章・奨章などの制度、俸給制度が導入された。
 将校団への加入は、中級軍事学校・高級軍事学校およびその他の専門学校を卒業した軍人に限られ、ほかに国防部が開設する特別の訓練班で訓練を受けた下士官が将校になることができる。この要請に応じる目的から、ソ連軍の教育方式を踏襲して、中国軍に軍事学院(1951年1月15日創設)、総高級歩兵学校・装甲兵学院・砲兵学院・工兵学院、海軍軍事学院、空軍軍事学院など100校に近い各種各級の学院・学校からなる軍事教育体系が作り上げられた。これを指導した部門は劉伯承を長とする訓練総務部であった。

Deutschドイツ語→Liu Bocheng (chinesisch 劉伯承 / 刘柏承, Pinyin Liú Bóchéng, W.-G. Liu Po-ch'eng; * 4. Dezember 1892 im Kreis Kai (damals Provinz Sichuan); † 7. Oktober 1986 in Peking) war ein bedeutender kommunistischer Armeeführer während des chinesischen Bürgerkrieges.
 平時態勢下の中国軍では軍事活動の中心は軍事訓練であり、この領域でも当然のことながら近代戦争に相応した訓練への改革が行われた。1955年11月には遼東で大規模な軍事演習が実施されたが、この演習を観閲した彭德懷は「過去の戦争経験に満足することなく、近代軍事科学技術の研鑽に努める」ことを要請した。

 国防工業の建設
 朝鮮戦争の過程でソ連から供与された大量の軍事援助によって、中国軍は一定水準の近代兵器を装備するにいたった。海軍・空軍が創設され、砲兵・装甲兵・工兵が拡充された。なかでも空軍の発展は顕著であり、航空機の保有数では米ソに次いで世界第三位であった。将来における中国の軍事発展のためにとられるべき次の措置は、中国自身による国防工業の建設であった。
 中国における国防工業の建設は、平時における国民経済発展のための長期計画と密接な関係を持って進められた。それは、戦争の初期に必要な数量の兵器と物資を平時において蓄積しておくとともに、国民経済の平時生産を迅速に戦時生産に転換できるように、必要な軍需生産設備を民需生産部門に蓄積しておくことによって、戦争の全期間に必要とされる大量の設備と物資をまかなうとの方針に基づいていた。中国軍の近代化は中国自身の工業化の基礎の上に遂行されることになっていた。
 中国は1953年から第一次五ヵ年計画を開始して長期経済計画に着手した。それによると、三つの五ヵ年計画によって1967年(第三次五ヵ年計画完成時)を目標に中国に独立した工業体系をつくりあげることを構想していた。その詳細なプログラムはわからないが、第二次大戦前のソ連の水準にまで中国の国力を近づけることを目標としていたようである。
 中国の国防工業はこの独立した工業体系の上に築かれることになるが、当時ある軍事指導者は、軍の近代化は1962年(第二次五ヵ年計画完成時)には一応の段階に達し、さらに1967年までに兵器の完全自給体制ができあがることを明らかにした。その内容については不明であるが、毛沢東が同じ頃「そう遠くない将来われわれは多くの飛行機や大砲ばかりでなく、自己の原爆を持つ」(「十大関係論」1956年)と強調しているように、核兵器から通常兵器までを含むものであった。

On the Ten Major Relationships (simplified Chinese: 论十大关系; traditional Chinese: 論十大關係; pinyin: lùn shídà guānxì) is a speech by Mao Zedong which outlines how the People's Republic of China would construct socialism different from the model of development undertaken by the Soviet Union.
 ところで中国軍の近代化が中国自身の国防工業の基礎の上に遂行されるとしても、中国の国防工業を建設する上でソ連の援助と協力は不可欠であった。中国の長期経済発展計画は、ソ連から供与される156項目の近代的大型企業建設を中心に遂行された。これらの項目への投資額は第一次五ヵ年計画の全投資額の半分近くを占め、またその完成後の生産能力は一部の部門(石油関連部門)を除いて50パーセント以上に達する計画であった。そしてそれらの項目がしだいに完成してゆくことによって、中国には鉄鋼工業、石炭・電力などの燃料工業が建設され、その上に近代的な機械工業が発展して大型工作機械・発電設備・採鉱設備・自動車・トラクター・航空機などの重工業が建設される。

 さらにこの長期経済発展計画では、東北の鞍山、華中の武漢、西北の包頭(内蒙古)の鉄鋼コンビナートを中心とする重工業基地の建設に重点が置かれた。後述する毛沢東の三線建設構想がすでにこの時期に実施されていたことがわかるが、この時期に最も重視されたのは包頭であった。包頭は工業立地条件ばかりでなく、国防的見地からも選ばれた。

 内陸建設の方針は、朝鮮戦争で沿岸地域とくに東北の工業基地が米軍の爆撃による破壊の危険にさらされた経験から生まれているが、他方、ソ連の工業基地建設の経験にならっていた。第二次大戦初期ヒットラーの電撃作戦によりソ連のヨーロッパ地域の工業地帯が破壊され占領されたにもかかわらず、ソ連の国防工業力を支えたのは、ソ連が数次の五ヵ年計画で建設したウラルУральский экономический районとクズネツクКузнецкий угольный бассейнの二つの内陸重工業基地であった。中国は武漢Wuhanととくに包頭Baotouの建設がこのソ連の経験にならうものであることを明確にしていた。

①Françaisフランス語→Le Grand Bond en avant (chinois simplifié 大跃进, chinois traditionnel 大躍進, pinyin : Dà yuè jìn)Большой скачокGreat Leap Forward est le nom donné à une politique économique lancée par Mao Zedong et mise en œuvre de 1958 à 1960. Concepteur du Grand Bond en avant, Mao Zedong veut donner une nouvelle orientation politique à la Chine. Irréaliste, ce programme se révèle être un fiasco

②Deutschドイツ語→Die Volkskommune (chinesisch 人民公社, Pinyin rénmín gōngshè)People's communeНародная коммуна war eine Form landwirtschaftlicher Kollektivierung in der Volksrepublik China.
 2 核兵器と人民戦争の二本足
 大躍進と人民公社
 第二次五ヵ年計画初年度にあたる1958年の中国では、生産の大躍進政策が遂行された。第1表はそれを鉄鋼・石炭・綿花・食糧について表示したものである。それによると、同年2月に発表された同年度計画は前年度の生産実績をそれほど上回っていなかったが、半年後の同年8月全面的に修正され、それの二倍の増産目標が掲げられた。この目標は1956年9月に掲示された第二次五ヵ年計画の生産目標を、1958年の一年で達成することを意味したが、さらに同年12月にはこれらの目標が達成されることが明らかにされるとともに、58年の40~50パーセント増の1959年度生産目標が掲げられた。
 こうした生産の大躍進を可能にした原動力は、農村における大衆路線ないし人海戦術であった。それは解放された労働人民こそが社会的生産力の担い手であり、ひとたび解放されれば無限の力を発揮するという毛沢東の考えかたに基づいている。
 大躍進は1957年から翌58年の冬に全国的規模で進められた農民自身による農地水利建設運動に始まる。農民とその家族はスキやスコップをかついで水路や貯水池を掘りにでかけ、夜を日についで働き、夜は灯りをつけて働いた。一日一億人が参加したといわれ、それによって拡大された潅漑面積は建国後の八年間に増えた潅漑面積の総和より多かったと公表されたが、自然の生態を無視した土木工事は自然を破壊し、「三年連続」「歴史始まって以来」の大災害をもたらした。
 土法炉(鉄をつくるために農民がレンガを積み上げて造った小型の溶鉱炉)の建設にも一億人の農民が投入され、同年末までに200万基が造られ、約308万トンの土法鉄が生産された。同年度鉄鋼生産量は1108万トンであるから、土法炉でその30パーセント近くが生産されたことになるが、そのほとんどは品質が悪く役に立たなかった。
*In China, backyard furnaces (土法炼钢)Мала металургія were large and small blast furnaces used by the people of China during the Great Leap Forward (1958–1962). These were constructed in the fields and backyards of communes to further the Great Leap Forward's aims of making China the top steel producer in the world. However, most furnaces were only capable of producing pig iron.
 このように大躍進においては、主としてソ連の経済援助による近代的な大型企業の建設が遂行される一方、全国の農村で農民による前近代的な小規模工場が造られた。これを同時発展または二本足路線という。そしてこうした大規模な労働力を組織する目的から人民公社がつくられた。「政社合一」あるいは「農・工・商・学・兵をもって人民公社とする」という人民公社に関する決議(1958年8月)が示しているように、それはたんなる生産組織だけでなく、政治・文化・軍事など社会のあらゆる機能をも兼ね備えていた。そして毛沢東は人民公社を組織することによって、中国は共産主義社会に到達することができると考えた。
 中共中央軍事委員会拡大会議
 生産の大躍進を要請した最大の要因は、核兵器開発の決定であった。中国が核兵器の開発を決意した時期は1956年であったが、翌57年10月15日にソ連との間に国防の新技術に関する協定が締結され、ソ連が原爆の見本と製造に関する技術資料の供与を約束したところから、日程は具体化した。1958年5月の大躍進会議に続いて、同年5月27日から7月22日まで中共中央軍事委員会拡大会議が開かれ、核兵器の開発が決定された。
 一方この会議では、朝鮮戦争への軍事介入以来彭德懷が進めてきた建軍方針、すなわちソ連の全面的な援助と協力の下にソ連軍をヒナ型として中国軍を近代的な正規軍に改造する建軍方針に対して、「ブルジョア階級の軍事路線」あるいは「教条主義」「奴隷思想」といった批判が加えられ、それに代わってそれとは本質的に異なる毛沢東軍事思想ないし人民戦争論にその理論的根拠を持つ建軍方針が打ち出された。通常戦力の近代化は切り捨てられた。
 こうして先進的な核兵器と前近代的な人民戦争とが結び付いた二本足軍事路線が生まれた。それは中国の有限の資金・資源を近代的国防工業およびそれと関係ある近代的大企業に集中して、核兵器を主体とする一部の近代的兵器の開発・生産・配備を保証するとともに、「星を散りばめたように全国に散在する」人民公社により実現される工業基地と人口の分散によって、核攻撃による潰滅を生き延び、侵略された時には各地域が独自に戦い、人民戦争で敵を消滅させるという毛沢東の戦略構想に基づいていた。
 同年夏頃から急速に全国的規模で推進された民兵運動は、同じ時進行した全国的な人民公社化・農村の工業化(在来型の小規模工場の建設)と密接な関係を持っていた。同年12月に採択された人民公社に関する決議にある「民兵組織には必要に応じて武器を配備し、武器は地方が自分で兵器工場を経営してつくるべきである」との規定は、この関係を示している。
 中共中央軍事委員会拡大会議後、中国軍の金門島砲撃(金门炮战Second Taiwan Strait Crisis第2次台湾海峡危機Второй кризис в Тайваньском проливеによる軍事的緊張を背景に人民公社運動および民兵運動が進展するなかで、ソ連軍をヒナ型に中国軍を近代的正規軍へ改造する彭德懷の軍事路線を「ブルジョア軍事路線」「教条主義」として排斥し、毛沢東軍事路線を定着させるための運動が中国軍のなかで進められた。近代兵器・軍事技術・知識よりも毛沢東軍事思想による人の敢闘精神の発揚による戦闘力の構築が唱えられ、軍の生産支援が強調され、あるいは将校が毎年一定期間中隊で兵士と同じ生活を行う「下連当兵」が実施された。こうして革命時代の「毛沢東の軍隊」が復活した。

Françaisフランス語→Lin Biao ou Lin Piao (chinois :林彪; pinyin :lín biāo; Wade : lin² piao¹)Линь Бяо, est un militaire et un homme politique chinois né le 5 décembre 1907 dans la ville de Huanggang et mort le 13 septembre 1971 dans des circonstances troubles, accusé de complot contre Mao Zedong毛沢東党主席の後継者に指名されるが、1971年9月、政争に敗北してソ連に亡命する途上でモンゴルにおいて搭乗機が墜落・死亡した。

Русскийロシア語→Лушаньский пленум廬山会議, Лушаньская конференция (кит. 庐山会议Conférence de Lu Shan)Konferenz von Lushan廬山會議루산 회의Lushan Conference— восьмой пленум ЦК КПК, прошедший в июле — августе 1959 года, на котором выявились разногласия в руководстве КПК вследствие провала политики Большого скачка. На пленуме часть руководства КПК во главе с министром обороны маршалом Пэн Дэхуаем потребовала прекратить «левацкие эксперименты» в экономике.
 彭德懷の国防部長解任
 1959年7月~8月に開かれた中共中央政治局拡大会議と中共第八期中央委員会第八回全体会議(八期八中全会。以下二つを廬山会議という)で、彭德懷は大躍進・人民公社を批判したため毛沢東の怒りを買い、同年9月17日国防部長を解任された。彼が大躍進・人民公社を批判した理由は、それが現実を無視し、また十分な準備なしに実施され、そのため多くの浪費をもたらし農民の間に強い不満を生んだばかりか、1200万人をこす餓死者を出したことにあった。公表された生産の大躍進は誇張であり偽りであったことが明るみにだされた。しかし彭德懷が大躍進・人民公社に反対した背景には、それが彼の軍事路線に重大な影響を及ぼしたという側面があった。

 大躍進・人民公社によって工農業生産を増大させ、核兵器開発を迅速に推進させる毛沢東の方針は、通常兵力で軍事力の整備を考えている彭德懷の方針とあい入れないものであり、また人民公社・全民武装による人民戦争態勢は、中国軍を近代化・正規化する彭の方針を正面から否定するものであった。そして大躍進・人民公社の行き過ぎの結果として生じた生産の停滞・経済の混乱は、彭德懷の進めている軍事力整備計画に致命的な打撃を与えることになった。さらに深刻な打撃は中ソ関係の悪化であった。
 1956年2月のフルシチョフのスターリン批判以来、中国とソ連の間には戦争と平和の問題について重要な理論上の食い違いが生じていたが、翌57年におけるソ連のICBM(大陸間弾道弾)の保有および中国の核兵器開発の決定は、それを政治的軋轢へと発展させた。
 当時、米国はICBMを保有していなかったから、毛沢東はソ連のICBM保有をもって社会主義陣営の帝国主義陣営に対する優位とみて、ソ連のICBMを政治的威嚇力に使いつつ、世界人民の反帝国主義闘争を鼓舞することを主張した。それに対しフルシチョフは「世界戦争は人類の破滅であり、局地戦争は不可避的に世界戦争に発展するから、米国の報復を招くような軍事行動をとってはならない」ことを説いた。とくに1957年11月に10月革命40年を記念して開かれたモスクワ会議で、毛沢東が原爆によって中国の人口の半分が死んでも半分は生き残ると強調したことは、フルシチョフを刺激した。

中苏交恶(俄語:Советско-китайский расколSino-Soviet split중소 분쟁(中蘇 紛爭) 또는 중소 대립(中蘇 對立)Chinesisch-sowjetisches Zerwürfnis,又称中苏决裂、中苏矛盾,是指冷战期间中華人民共和國和苏维埃社会主义共和国联盟发生的外交、军事关系上的疏远甚至對峙衝突。Françaisフランス語→La rupture sino-soviétique est une période de dégradation des relations, puis de fortes tensions entre l’Union soviétique et la république populaire de Chine de la fin des années 1950 aux années 1980,

 中国に核兵器開発の援助の供与を約束したフルシチョフは、あるいは核非拡散の立場を唱え、あるいは援助と引き換えに核兵器を搭載した中ソ連合艦隊の創設を提案し、あるいは核兵器開発がいかにソ連人民の生活を圧迫したかを説明して、中国に核兵器の開発を断念させようと試みた。
 中ソの政治的軋轢は金門島砲撃により米中間の軍事的緊張が高まった1958年夏から秋にかけて頂点に達したが、フルシチョフは中国を核兵器で積極的に支援しなかった。同年末彼は人民公社を批判したのに続いて、翌年6月20日核兵器開発の援助を約束した国防新技術協定を破棄し、さらに60年6月すべての技術者を中国から引き揚げた。

Polskiポーランド語→Luo Ruiqing罗瑞卿 (ur. 31 maja 1906 w Nanchong w prowincji Syczuan, zm. 3 sierpnia 1978)羅瑞卿 – chiński wojskowy i polityk komunistyczny.  Ukończył Akademię Wojskową Whampoa. W 1926 roku wstąpił do Komunistycznej Partii Chin. Podczas Długiego Marszu był szefem Biura Bezpieczeństwa KC.中共中央書記處書記、國務院副總理、解放軍總參謀長毛沢東の忠実な取り巻きであったが、1966年5月に始まった文化大革命で失脚した。1977年8月の文化大革命終了後に名誉回復するが、直後の1978年8月に死去した。
 3 林彪と羅瑞卿
 国防方針の転換と林彪路線
 大躍進・人民公社政策を進めた結果として、中国は国防政策で重大な局面に立たされた。 
 第一に中国は経済的に破綻し、それを立て直すために長期経済計画(第二次五ヵ年計画)を中断して、経済調整を行なわなければならなくなった。それを実施したのは、のちに文化大革命で実権派として批判されることになる国家主席劉少奇・党総書記鄧小平らであった。第二に、ソ連の経済・技術援助の一方的な打ち切りによって、国防建設の基礎をなすべき経済建設の計画は全面的に崩壊してしまった。ソ連の援助による156項目の企業建設のうち、相当数が工事なかばで停止された。ついで1961年12月、一部を除いてすべての基本建設は停止された。第三に、核兵器を含む軍事援助が打ち切られた。第四に、社会主義世界の世界戦略についての意見の相違から、中国はソ連の核抑止力に依存できなくなった。

Русскийロシア語→Лю Шаоци́ (кит. трад.劉少奇, упр.刘少奇, пиньинь Liú Shàoqí, 24 ноября 1898 — 12 ноября 1969) — китайский революционер, государственный и политический деятель. Один из руководителей Коммунистической партии Китая, председатель КНР (1959—1968).第2代中華人民共和国主席(国家主席)などを務め、中国共産党での序列は毛沢東党主席に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた。
 中国の安全が建国以来最大の危険にさらされている状況の下で、毛沢東は1960年4月22日のレーニン生誕90記念日を捉え、フルシチョフを修正主義と批判して中ソ論争を開始したのに続いて、同年10月中共中央軍事委員会拡大会議を開催した。会議は林彪の主宰で開かれ、「わが国の状況からみて、もし三~五年内に戦争が起きた場合、いま持っている兵器で戦わなければならない」という差し迫った認識の下に、万難を排して核兵器を主体とする一部の最新兵器の開発を改めて決意するとともに、当面の防衛策として毛沢東の人民戦争論に基づく革命的軍隊の建設方針を確認した。
 会議が採択した決議は「長距離兵器が飛躍的に発展した近代的条件の下においても、最終的に問題を解決するのは数千キロメートルにあるのではなく、数十メートルの間の小銃・手榴弾による戦闘、銃剣による刺殺、格闘にある」と規定して、「人の要素・政治思想の要素は戦闘力を形成する諸要素のなかで決定的な要素である」ことを強調した。
 かつてスターリンは核兵器の重視が自己の戦略を否定すること、およびそれの国民に与える不安感・恐怖感から、核兵器開発を国民にひた隠しにして進めた。毛沢東も同じように「原爆はハリコの虎である。見かけは強そうだが、なかみはからっぽである」こと、「戦争の勝敗を決定するのは原爆ではなく人である」ことを執拗に繰り返しながら、核兵器開発に専念し、1964年10月16日原爆の爆発実験に成功した。
 一方、革命的軍隊を建設して装備の劣勢を人の敢闘精神で補うために、軍隊内で毛沢東軍事思想による思想工作・政治工作が進められ、1960年代中葉には「筋金入り第六中隊」「南京のりっぱな第八中隊」といった模範部隊、雷鋒・王杰らの模範的個人英雄が現れた。65年5月22日階級制度が廃止され、中国軍は階級による差別のない革命時代の「毛沢東の軍隊」にもどった。

①雷锋(1940年12月18日—1962年8月15日),原名雷正興,中国人民解放军士兵Lei FengЛэй Фэн(18 December 1940 – 15 August 1962) was a soldier in the People's Liberation Army who was the object of several major propaganda campaigns in China

②王杰(1942年—1965年7月14日),生于山东金乡,1961年8月参加中国人民解放军,被分配到装甲兵驻徐某部工兵连。1962年2月加入中国共产主义青年团。
 三線建設
 1964年末、経済計画を中断し経済調整を実施していた中国が66年から第三次五ヵ年計画を開始することが明らかにされた。ところが第三次五ヵ年計画をどのように進めるかの方針をめぐって政策論争が生まれ、ちょうどその頃生起したフルシチョフの解任(1964年10月)、ベトナム戦争の拡大(1965年2月)が絡んで、激論が闘わされた。
 第三次五ヵ年計画は文化大革命が勃発したため実施されなかったが、1964年5~6月の中共中央工作会議に提出された同計画の初歩的構想によれば、①農業を発展させ、人民の衣食住の問題を基本的に解決する、②国防建設を適切に強化し、先端技術の突破に努力する、③基礎工業を強化するーというものであり、比較的実際に合致した妥当な計画であった。ところが同年12月毛沢東の同意を経て国家計画委員会が関係機関に送付した実施計画は、上述した初歩的構想が内陸建設と戦略部門への配慮を欠いていたので、1965年の計画を作成するにあたり改定されたことが明らかにされた。
 それによると第三次五ヵ年計画で重点とされた基本建設は、攀枝花(四川)・酒泉(甘粛)・重慶を中心とする建設、成都ー昆明線など五本の鉄道幹線の増設、各省・民族自治区・中央直轄市の後方建設などであり、総投資額は1200億元であった。1965年度の国家財政支出が466億3000万元であったから、いかに膨大な投資を内陸建設に注ぎ込もうとしていたかがわかる。
 長期経済計画構想を大きく変革させたのは毛沢東の指示であった。すでに64年の中央工作会議で毛沢東は、「戦争を考慮して第三線基地をつくり、第一、第二線でも軍事工業をつくる」との考えから、「第一、第二、第三線の戦略的配慮と大三線建設の方針を提起」していた。「第一、第二、第三線」とは沿岸・平原・山地(内陸)の三地区をさし、第三線は西南・西北を中心とした内陸地区で、戦略的後方にあたる。
 ついで64年8月の中共中央書記処会議で、内陸建設の問題が討議された。毛沢東は、「帝国主義が侵略戦争を発動する可能性に対して準備しなければならない」と次の提案を行った。現在、工場は大都市と沿岸地区に集中しており、戦争準備に不利である。工場は一を分けて二となし、速やかに内陸に移転すべきである。各省もみな移転し、自身の戦略的後方を建設すべきである。工業・交通部門だけでなく、学校・科学院・建計院・北京大学もみな移転すべきである。成都ー昆明、重慶ー貴陽、昆明ー貴陽の三つの鉄道は緊急に建設しなければならず、レールがなければ、他の鉄道のものを持ってきてもよい。
 毛沢東の提案に基づいて、会議は内陸建設に力を集中し、人力・物力・財力の面で保証を与え、新しい建設項目はいずれも内陸に配慮し、沿海から運べるものは搬送することを決定した。

越南戰爭(越南语:Chiến tranh Việt Nam/戰爭越南베트남 전쟁,英語:Vietnam War;1955年-1975年)Vietnamkrieg,簡稱越戰Guerre du Vietnam,又称越南抗美救国战争、第二次印度支那战争、第二次越南戰爭Українськаウクライナ語→В'єтна́мська війна́ (в'єт. Chiến tranh Việt Nam, англ. Vietnam War) (1959—1975)
 ベトナム戦争をめぐる国防論争
 第三次五ヵ年計画の作成過程で毛沢東が西南の内陸地域の開発および戦略的後方の建設を指示した直接の契機は、米国のベトナム戦争への介入による米国の脅威であった。1964年8月4日、米空母艦載機が北ベトナムの沿岸警備艇を撃沈させたトンキン湾事件(Gulf of Tonkin IncidentSự kiện Vịnh Bắc Bộ东京湾事件が起き、ついで翌65年2月7日から北ベトナムに対する爆撃が開始された。北爆(Operation Rolling ThunderChiến dịch Sấm Rền滚雷行动«Раскаты грома» は次第に目標を北上させた。3月には南ベトナムに米海兵隊が投入され、米国の軍事介入は本格化した。そして7月28日、大統領ジョンソンは南ベトナムへの大量派兵を声明した。
 中国内部では当然のことながらベトナム戦争の拡大にいかに対処するかに関して激論が闘わされた。1965年5月9日のソ連の独ソ戦戦勝記念日に執筆された総参謀長羅瑞卿の論文「ドイツ・ファシストとの戦争に勝利したことを記念して米帝国主義に反対する闘争を最後まで進めよう」と、9月3日に書かれた国防部長林彪の論文「人民戦争の勝利万歳」は、論争を代表するものであった。
 羅瑞卿論文はなによりもまず「他人が自分を犯さなければ自分も他人を犯さない。他人が自分を犯せば自分も必ず犯す。これがわれわれの原則である」とのべて、戦争が中国にまで拡大してくることを避けようとしている。
 つぎに羅瑞卿はスターリンの偉大な功績の一つは、当時の国際的階級闘争の情勢を正しく分析し、当時の世界的規模の主要矛盾と世界人民の最も主要な敵を見つけ出し、全世界のすべての反ファシスト勢力を団結させ、ソ連と各国のプロレタリアートを主力軍とする反ファシスト統一戦線を結成したことであると評価し、ついで現在米国帝国主義が掃滅しようと夢見ているのは一つにつながった10億の人口を持つ、当時のソ連よりも何倍も強大な社会主義陣営であること、中国は偉大なソ連人民・軍隊に崇高な敬意を払い、限りない信頼を寄せていること、中国は米帝国主義という共通の敵との戦いのなかで肩を並べて戦うことーを強調して、ソ連をはじめとする社会主義陣営諸国との共同のベトナム支援を説いた。
 これに対し林彪は、毛沢東の人民戦争の立場から羅瑞卿論文を批判した。羅瑞卿が米国の軍事的脅威が中国にまで拡大することを避けようとしたのに対して、林彪は「敵を引き込んでこそはじめて人民はさまざまな行動をとって作戦に参戦することができ、人民戦争の威力を最大限に発揮できる」「君たちは君たちのやり方で戦え、われわれはわれわれのやり方で戦う」とのべて、自国の国土を戦場と化してでも戦う決意を表明した。林彪論文と毛沢東の三線建設とくに内陸建設とが密接な関係にあったことがわかる。また林彪は広範な国際的統一戦線の結成を呼び掛けたが、その対象はアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの第三世界の人民であり、ソ連はそのなかに含まれていなかった。

Українськаウクライナ語→Культурна революція (1966—1976 рр.) 无产阶级文化大革命Cultural Revolution通称文化大革命Kulturrevolution简称文革«Вели́кая пролета́рская культу́рная револю́ция無產階級文化大革命»문화대혁명Révolution culturelle— масовий рух, початий вождем китайської комуністичної партії Мао Цзедуном, спрямований проти вищих представників середнього класу — державних службовців, артистів і вчених, що були знищені, ув'язнені, принижені або вигнані з країни. Спрямована на «очищення» китайського комунізму, вона була також спробою Мао оновити свою політичну й ідеологічну позицію всередині Китаю. 

 4 文化大革命と中国軍の政治的台頭 

 羅瑞卿の総参謀長解任
 林彪論文が発表された1965年9月、毛沢東は、1960年に呉晗が彭徳懐の国防部長解任を暗に批判して書いた歴史劇「海瑞罷官」を批判せよとの指示をだしたといわれる。それに応えて姚文元は11月10日『上海文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、それは11月30日の『人民日報』に転載された。姚文元の「『海瑞罷官』を評す」は、文化大革命の導火線であった。

①Русскийロシア語→У Хань ( китайский :吴晗; пиньинь : У Хань ; 11 августа 1909 — 11 октября 1969) — китайский историк и политик. У был одним из самых важных историков в развитии современной исторической науки в Китае в 1930-х и 1940-х годах

②Deutschドイツ語→Hai Rui wird seines Amtes enthoben (chinesisch 海瑞罢官, Pinyin Hǎi Ruì bà guān)«Разжалование Хай Жуя» ist ein Theaterstück von Wu Han, das als einer der Ausgangspunkte der Kulturrevolution in China gilt.


Françaisフランス語→La bande des Quatre (chinois simplifié : 四人帮 ; chinois traditionnel : 四人幫 ; pinyin : Sì rén bāng)«Ба́нда четырёх»四人組사인방 est le nom d'un groupe de quatre dirigeants chinois — Jiang Qing, Zhang Chunqiao, Yao Wenyuan et Wang Hongwen — qui sont arrêtés et démis de leurs fonctions en 1976, peu de temps après la mort de Mao Zedong.

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