日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

People's Liberation Army of China☆中国人民解放军☆Народно-освободительная армия Китая/Shigeo Hiramatsu平松 茂雄Сигео Хирамацу(1987)CANADA🍁2023/10/23③


①Русскийロシア語→Цзян Цин (江青, наст, урожд. Ли Шумэн 李淑蒙, 14 марта 1914 года, Чжучэн 诸城 — 14 мая 1991 года, Пекин), известна также по сценическому имени Лань Пин (кит. 蓝苹) — китайская актриса, ставшая в 1938 году женой Мао Цзэдуна и вошедшая в высшие эшелоны власти в Китае②Nederlandsオランダ語→Zhang Chunqiao (Chinees: 張春橋 / 张春桥, Hanyu pinyin: Zhāng Chūnqiáo) (Shandong, 1 februari 1917 - Shanghai, 21 april 2005) was een prominent Chinees politicus, auteur, politiek filosoof en een lid van de Bende van Vier③Yao Wenyuan姚文元 (January 12, 1931 – December 23, 2005) was a Chinese literary critic, politician, and member of the Gang of Four during China's Cultural Revolution④Deutschドイツ語→Wang Hongwen (chinesisch 王洪文, Pinyin Wáng Hóngwén; * 1934/35 in Changchun; † 3. August 1992 in Peking) war ein chinesischer Politiker und ein Shanghaier Rebellenanführer während der Kulturrevolution.
 しかし翌66年2月3日、北京市長彭真らは姚らの動きに対抗して「当面の学術討論に関する報告要綱」(2月要綱)をまとめ、この問題を政治問題ではなく、学術論争の範囲に収めようとした。他方、毛沢東夫人の江青は、2月2日から20日まで上海で人民解放軍部隊の文学・芸術活動に関する座談会を開いた。その記録は、「林彪同志の委託により江青同志が召集した部隊の文芸工作座談会紀要」として整理されたが、そのなかで「社会主義文化大革命」という言葉が初めて使われた。次いで林彪は3月22日付中共軍事革命委員会常務委員会宛書簡で、「文学・芸術戦線には先鋭な階級闘争が存在している」「部隊の文学・芸術活動が政治を先行させ、人の革命化を促す面で重要な役割を果たす」ためにこの紀要の実行を要求した。

Françaisフランス語→Peng Zhen, en chinois 彭真, (né le 12 octobre 1902 à Houma (Shanxi) – mort le 26 avril 1997 à Pékin) est un membre dirigeant du Parti communiste chinois.
 4月18日、『解放軍報』は「毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げ、社会主義文化大革命に積極的に参加しよう」という社説を発表した。社説は「紀要」に依拠して文化戦線に先鋭な階級闘争が存在することを指摘し、思想を解放し、迷信を打破するために革命的・戦闘的・大衆的な文芸批評を提唱した。この社説は「社会主義文化大革命」という言葉を初めて使った公式文献であるという点では、まさに指導的な文献であった。しかもそれが中共の機関紙『人民日報』ではなく、軍の機関紙『解放軍報』に発表されたことは、文化大革命が中共ではなく人民解放軍によって推進されたことを示していた。
 ついで同年5月4日から26日まで中共中央政治局拡大会議が開かれ、「二月要綱」を糾弾するとともに、中央文化革命小組(陳伯達・江青・姚文元ら)を設置し、彭真・羅瑞卿・陸定一・楊尚昆を解任した。羅瑞卿は総参謀長を含む党・政府・軍のすべての職務を解かれた。それより先の1965年11月羅瑞卿は突然逮捕され、12月上海で開かれた中共中央政治常務委員会拡大会議で「政治優先に反対し」「軍をのっとり党に反対した」と攻撃されていた。

Españolスペイン語→Chen Boda陳伯達 (chino: 陈伯达; Wade-Giles: Ch'en Po-ta; Hui'an, 29 de julio de 1904 - Pekín, 20 de septiembre de 1989) fue un periodista, profesor y teórico político comunista.

Češtinaチェコ語→Lu Ting-i陆定一(čínsky pchin-jinem Lù Dìngyī, znaky tradiční 陸定一; 9. června 1906 – 9. května 1996) byl čínský komunistický politik.

Українськаウクライナ語→Ян Шанкунь杨尚昆(спрощ.:楊尚昆; піньїнь: Yáng Shàngkūn; 25 травня 1907 — 14 вересня 1998) — китайський державний і політичний діяч, голова КНР і Компартії, один з «Восьми Безсмертних КПК».
 1966年8月1日から12日まで中共八期11中全会が開催され、文化大革命を全面的に展開する決議が採択されるとともに、最高指導部が大幅に改組され、林彪がただ一人中共副主席として高い地位を与えられた。8月1日は建軍記念日で、5・7指示と呼ばれた毛沢東の林彪宛書簡(1966年5月7日)が公表された。それは軍が革命時期と同じように軍事ばかりでなく、政治工作・経済建設にも参加することを指示する一方、労働者に対しては農業もやり、農民に対しては工業もやり、また敵が来れば武器をとるーといった具合に、すべての人が軍事・政治・生産・文化を学ぶことを指示していた。まさに人民戦争論の誕生であった。
 8月18日文化大革命を祝う大集会が北京で開かれ、『毛沢東語録』をかざした100万人の革命的教師と学生が参加した。次いで紅衛兵による劉・鄧実権派批判が全国に広がり、同年末には党組織は機能が麻痺してしまった。

①Deutschドイツ語→Das Buch Worte des Vorsitzenden Mao Tsetung (chinesisch 毛主席語錄 / 毛主席语录, Pinyin Máo zhǔxí yǔlù)Quotations from Chairman Mao Tse-tung《毛澤東語錄마오 주석 어록》The Little Red Book umfasst Zitate und Veröffentlichungen Mao Zedongs und ist ein wichtiges Referenzwerk für die politische Strömung des Maoismus

②홍위병(중국어 간체자:红卫兵, 정체자:紅衛兵, 병음: Hóng Wèi Bīng, 영어:Red Guards)Хунвейбіни또는 홍위군(紅衛軍)
 三支両軍
 紅衛兵による劉・鄧実権派批判が先鋭化するなかで、1967年1月上海で革命大衆により党委員会が打倒され、いわゆる上海コミューンが成立した。これを契機に文化大革命は奪権闘争の段階に移ったが、その過程で実権派のさまざまな形の抵抗が生まれ、あるいは革命造反派組織の間で反目摩擦が起こり、全国各地で武闘が起き無政府状態が生まれたため、人民解放軍が文化大革命に介入し三支両軍の役割を果たすことになった。三支両軍とは、革命的左派支援・農業支援・工業支援・軍事管制・軍事訓練をさす。

①ドイツ語→Der Januarsturm一月风暴,又称一月革命January StormVolkskommune ShanghaiШанхайская народная коммунаShanghai People's CommuneCommune populaire de Shanghai, offiziell als Januarrevolution bekannt , war ein Staatsstreich in Shanghai , der während der Kulturrevolution vom 5. Januar bis 23. Februar 1967 stattfand②The Shanghai Revolutionary Committee上海市革命委员会Шанхайский революционный комитет was a revolutionary committee that had administered the city of Shanghai, People's Republic of China between 1967 and 1979. was a revolutionary committee that had administered the city of Shanghai, People's Republic of China between 1967 and 1979.
 人民解放軍の介入は1967年1月23日の「人民解放軍が革命的左派大衆を断固支持することについての中共中央・国務院・中央軍事委員会・中央文化革命小組の決定」に始まる。これを契機に軍が中央文化革命小組と並んで文化大革命を指導する重要な機構として登場し、その過程で林彪が軍内でその地位を固めることになった。
 中央文化革命小組は、打倒した党および行政機構に代わる新しい権力機構として、パリ・コミューン型の人民権力を考えていた。それの成立を支援することが軍に期待された役割であった。これに対して葉剣英(Françaisフランス語→Ye Jianying叶剑英 (en chinois : 葉劍英), né le 28 avril 1897 dans le xian de Mei et mort le 22 octobre 1986 à Pékin, est un homme d'État chinois, membre du Parti communiste)・徐向前(Русскийロシア語→Сюй Сянця́нь (кит. упр. 徐向前, пиньинь Xú Xiàngqián; 8 ноября 1901 — 21 сентября 1990) — китайский военный деятель, маршал НОАК)・聶栄臻(Deutschドイツ語→Nie Rongzhen (chinesisch 聶榮臻 / 聂荣臻, Pinyin Niè Róngzhēn) (* 29. Dezember 1899 in Jiangjin; † 14. Mai 1992 in Peking) war ein chinesischer Militärführer und Industriepolitiker)らの古参の軍人たちは、1967年2月毛沢東も出席した政治局員の会議で、「上海コミューンは国家体制に関わる問題を政治局の討議を経ないで、何をしようとしているのか。革命に党の指導・軍隊はいらないというのか」と江青らに詰め寄った。これら古参の軍人は失脚を免れたが「二月逆流」の罪名で批判された。同じ頃60年代を通じて中共中央軍事委員会副主席として林彪・羅瑞卿とともに活動した賀竜(Italianoイタリア語→He Long(cinese semplificato 贺龙, cinese tradizionale 賀龍, pinyin Hè Lóng, Wade-Giles Ho Lung; Sangzhi, 22 marzo 1896 – Pechino, 9 giugno 1969) è stato un generale e politico cinese)が、彭真・羅瑞卿・陸定一・楊尚昆と通じていたとして批判された。こうして古参軍人は林彪系を除いて凋落した。

*The February Countercurrent二月抗争 (Chinese: 二月逆流; pinyin: Èryuè nìliú)Февральское противотечение, also known as the February Adverse Current, refers to the joint efforts by a group of Chinese Communist Party (CCP) veterans to oppose the radicalism at the beginning of the Cultural Revolution.
 文化大革命の混乱・無秩序を最もよく示している出来事は、67年7月に武漢軍管区司令員陳再道が中央に叛旗を翻した武漢事件である。この反乱事件は、奪権闘争の対象となっている地方の実権派と軍区の指導者が密接な関係にあったところから生まれた。もともと、多くの場合、地方の最大の実権派である地方党委員会書記は軍区党書記でもあり、また軍区政治委員を兼任していた。この政治委員は軍区政治委員を兼任していた。この政治委員は軍区司令員と緊密に連携して軍務を遂行しており、両者は切り離せない関係にある。それゆえ地方の実権派に対する奪権闘争が軍区指導者に対する奪権闘争に発展することは、不可避であった。武漢事件はこうした背景の下で起こった。事件は中央から東海艦隊・空挺部隊が派遣され、また周恩来が武漢に出向いて調停し、ようやく鎮圧された。

①Deutschドイツ語→Chen Zaidao陳再道 (chinesisch 陈再道, Pinyin Chén Zàidào; * 24. Januar 1909 in Macheng, Hubei; † 6. April 1993) war ein chinesischer General der Volksbefreiungsarmee und Politiker der Kommunistischen Partei Chinas (KPCh)②Русскийロシア語→Инцидент в УханеThe Wuhan incident (Chinese: 七二零事件; pinyin: Qī èrlíng shìjiàn; lit. 'July 20th Incident') — вооруженный конфликт в китайском городе Ухань в июле 1967 г., в разгар Культурной революции, между двумя противоборствующими группировками, известными как «Миллион героев» и «Главный штаб Уханьских рабочих».七·二〇事件,或称七二〇事件、武汉事件、武汉“七二〇”事件
 新しい権力機構として、省級革命委員会の設立が1967年1月31日の黒竜江省に始まり、軍の強力なイニシアティブによって進められ、68年9月5日の新疆ウイグル自治区をもって完了した。29の省級革命委員会のうち21で軍人が主任の地位を占めた。軍が文化大革命に介入して以後、中央文化革命小組が主張する左派大衆組織による奪権と管理という方針が大きく後退してしまったことがわかる。

 中共第九回全国代表大会
 1968年10月中共八期12中全会で劉少奇を永遠に党から除名し、党内外のすべての職務を解任したのに続いて、翌69年4月1日から24日まで中共第九回大会が開催された。この大会で林彪は政治報告を行い、文化大革命の正当性とその勝利を総括した。彼はただ一人の党副主席に選出され、さらに同大会で新しく採択された党規約で「毛沢東同志の親密な戦友であり、後継者である」と明記された。
 この大会で注目されたのは軍人の進出であった。第九期中央委員会の構成をみると、軍人が中央委員77人、同候補50人を数え、45パーセントにのぼる大きな比重を占め、文化大革命における軍の勢力の増大を示した。総参謀部・総後動部・空軍・海軍など軍の中央各部門の責任者が中央委員になったが、最も顕著な特色は、軍関係者の大多数が地方軍区の指導者であったことである。
 16軍区の司令官および政治委員は福州の政治委員を除き19人が中央委員会のメンバーであった。省軍区の指導者では32人が中央委員会のメンバーであった。中央政治局には21人の委員に対し10人の軍人が入った。葉剣英・劉伯承・朱徳の軍の三人の長老に、林彪および林彪系の海軍第一政治委員の李作鵬(Nederlandsオランダ語→Li Zuopeng (Chinees: 李作鹏) (Ji'an, 24 april 1914 - Peking, 3 januari 2009) was een Chinees generaal van het Volksbevrijdingsleger)、空軍司令官の呉法憲(Wu Faxian (Chinese: 吴法宪; 1915–2004) was a Chinese Communist revolutionary and lieutenant general of the People's Liberation Army)、総後動部長の邱会作(Deutschドイツ語→Qiu Huizuo (chinesisch 邱会作; * 16. April 1914 in Xingguo, Ganzhou, Jiangxi; † 18. Juli 2002 in Peking) war ein chinesischer Politiker der Kommunistischen Partei Chinas (KPCh) und Generalleutnant der Volksbefreiungsarmee)、総参謀長の黄永勝(Huang Yongsheng (simplified Chinese: 黄永胜; traditional Chinese: 黃永勝; pinyin: Huáng Yǒngshèng; 1910–1983) was a general of the China's People's Liberation Army)、さらに三支両軍で力をえた南京軍区司令員の許世友(Русскийロシア語→Сюй Шию (кит. упр. 许世友, пиньинь Xǔ Shìyǒu; 28 февраля 1905, Хубэй — 22 октября 1985, Нанкин) — китайский военачальник и политик, генерал НОАК, влиятельный деятель КПК)、瀋陽軍区司令官の陳錫聯(Françaisフランス語→Chen Xilian (chinois : 陳錫聯), né le 4 janvier 1915 et décédé le 10 juin 1999) est un général de l'Armée populaire de libération chinoise et un membre du Politburo du Comité central)である。

Українськаウクライナ語→Катастрофа Trident під Ундер-Ханом林彪事件Lin Biao incident відбулася 13 вересня 1971 на околицях міста Ундер-Хан, Монгольська Народна Республіка. Літак Hawker Siddeley Trident з бортовим номером 256[1] летів у СРСР, на його борту знаходився міністр національної оборони КНР Лінь Бяо з дружиною та сином.Flugunfall bei Öndörchaan九一三事件亦称林彪事件Катастрофа самолёта Линь Бяо
 5 林彪事件
 珍宝島事件と戦争準備
 中共第九回大会が開かれる一ヶ月前の1969年3月2日、中ソ国境のウスリー江にある珍宝島Дама́нский(黒竜江省Heilongjiang)で、中ソの国境警備隊が武力衝突を起こした。武力衝突は6月新疆のバルルク山西部地区、7月黒竜江Хэйлунцзянの八岔島、8月のテレクチ地区と続いて生起した。

The Sino-Soviet border conflict中苏边界冲突Пограничный конфликт на острове Даманском中ソ国境紛争 was a seven-month undeclared military conflict between the Soviet Union and China in 1969, following the Sino-Soviet split.Conflit frontalier sino-soviétique de 1969Zwischenfall am Ussuri
 それより先の1968年8月、ソ連軍を主体とするワルシャワ条約機構軍が突然チェコスロバキアに侵入するという事件が起きた。この事件は中国に衝撃を与え、この時から中国はソ連を社会帝国主義、すなわち社会主義の旗を掲げた帝国主義と規定していた。中ソの軍事衝突はそうしたなかで生起したが、さらに中国にとって衝撃的であったのは、ソ連が強大な核・通常戦力をもって中国に威圧をかけたことであった(第2表)。

Warsaw Pact invasion of Czechoslovakia華約入侵捷克斯洛伐克華約入侵捷克斯洛伐克Ввод войск в Чехословакию (1968)ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻On 20–21 August 1968, the Czechoslovak Socialist Republic was jointly invaded by four Warsaw Pact countries: the Soviet Union, the Polish People's Republic, the People's Republic of Bulgaria and the Hungarian People's Republic.Invaze vojsk Varšavské smlouvy do ČeskoslovenskaВторгнення військ Варшавського договору до Чехословаччини
 1969年当時、西側で流れた情報によれば、ソ連は6月にモスクワで開催された世界共産党大会で東欧諸国の指導者に対し、「中ソ国境紛争が拡大した場合、ソ連軍は中国の核施設を破壊するための行動をとらざるをえなくなるかもしれない」とのべたという。また8月から9月にかけてソ連の新聞は第二次大戦末の対日作戦を回想する記事・論文を掲載し、中国に暗黙の脅しをかけた。
 こうしたソ連の軍事的脅威に直面して、中国では国をあげて戦争準備が推進された。7月1日『人民日報』は二つの県における食糧備蓄の経験を紹介し、「毛主席の『戦争に備え、災害に備え、人民のために』という戦略方針を実行し、どの人民公社の生産隊も、どの家も、余剰食糧を持つよう奮闘を望む」と呼び掛けて以来、各地で食糧備蓄が推進された。
 食糧備蓄とほぼ同時に地方経済の自給化が開始された。『紅旗』第10号の「中国社会主義工業化の道」という論文は、「工業生産の近距離内での協力関係をつくりあげ、工業製品を地元で完成する能力を高めるよう努めなければならない。もし米帝国主義・社会帝国主義が戦争をわが国に押し付けるならば、その時にはわれわれは多くの頼りになる大小さまざまな工業基地を擁し、いっそう広大な行動の余地を持つことになり、各地区が独自で戦い、難攻不落となり、敵を消滅し、勝利を収めることができる」と論じた。
 8月27日全国的な人民防空指導小組と各省・民族自治区・中央直轄市人民防空指導小組が組織され、大衆的な防空壕堀りが始められた。動員、人口の疎開、核施設・工場の分散などが行われているとの情報が流された。
 上述した毛沢東の「戦争に備え、災害に備え、人民のために」という戦略方針は、1965年の重要会議で提起され、中共八期11中全会のコミュニケに盛り込まれていたから、毛沢東の三線建設と西南建設がようやく具体化し始めたことになる。

 林彪と周恩来
 中ソ国境での一連の武力衝突により、中国は反ソ社会帝国主義および戦争準備一色となったが、そのようななかでソ連との緊張を回避する動きが進行していた。1969年9月11日、北ベトナム大統領故ホーチミンHồ Chí Minhの葬儀に参列したソ連首相コスイギンАлексей Николаевич Косыгинが帰路北京空港で周恩来首相と会談し、10月20日に中ソ国境会談が開催された。これらの措置は周恩来を中心とする国務院のイニシアティブによって行われたが、林彪を中心とする軍部の立場とも一致した。林彪らはソ連の近代的な軍事力に圧倒され、中国軍の迅速な近代化の必要を痛感したが、他方そのためには時間が必要であり、ソ連との一定の緊張緩和を望んだ。
 7月中共軍事委員会弁事組は座談会を開き、「戦争の観点からすべてを観察し、検査し、実行せよ」との林彪の要請に基づき、膨大な国防建設計画を提起した。邱会作ら林彪系の軍人たちは、独立した完全な国防工業体系をつくらなければならない、西洋より西洋化しなければならない、と主張した。
 中国やソ連のような社会主義国家では、国家財政支出に計上されている国防費は人件費・部隊の日常経費などが主体で、兵器・装備の開発制作に関する経費は別の項目(たとえば経済費・科学技術費)に計上されており、総軍事支出を知ることは難しい。しかし国家財政支出に計上されている国防費(98-99頁の第4表)をみただけでも、中ソ国境で武力衝突が生起した1969年から林彪が失脚した1971年までの三年間における中国の国防費は、絶対額でも前年比でも増大している。
 林彪の国防建設計画は、国民経済発展のための長期計画を進める周恩来ら国務院には受け入れられないものであったが、軍と国務院の間には、さらに文化大革命中の軍事管制により、それまで国務院の管轄下にあった国防工業関係の各省(第二~第七機械工業部その他)が中共中央軍事委員会弁事組の管轄下に入っていたという問題があった。中共第九回大会以後の最大の政治的課題の一つは、中国軍の管轄下にあるそれらの行政機構を正常に復帰させることであった。
 林彪と周恩来を対立させたもう一つの問題は、その後の対外政策の展開であった。対ソ関係改善への期待にもかかわらず、ソ連は中国が提案している国境地帯からの兵力引き離しに応ぜず、逆に兵力を集中させた(第2表を参照)。こうした対ソ交渉の行き詰まりに直面して、周恩来は「米ソの結託を裂くことはソ連の侵略的野心に対する重大な打撃である」とする毛沢東の指示により対米関係の改善を始めた。1972年2月アメリカ大統領ニクソンの中国訪問はその具体化であった。それに対して林彪は対ソ関係の悪化を招くような対米関係の改善には積極的ではなかった。

Русскийロシア語→Американский президент Ричард Никсон в феврале 1972 году посетил Китайскую Народную Республику. Это был важный шаг к формализации получивших развитие отношений между США и материковым Китаем. Никсон стал первым президентом США, посетившим Китай.1972 visit by Richard Nixon to China1972年尼克松访华Richard Nixons Besuch in China 1972

 林彪事件
 1971年9月13日、毛沢東を暗殺し武装クーデターを起こす計画を企てた林彪は、失敗してトライデント機で国外逃亡を企てたが、同機がモンゴル人民共和国のウンデルハンに墜落したため死去した。これが林彪事件といわれている出来事である。林彪事件の真相には未だに不明の部分が多いが、その背景には先に指摘した経済建設と国防建設計画および米中関係の改善をめぐる、林彪と周恩来との政治的確執があった。しかしその直接の契機は、国家主席の存廃に関する毛沢東と林彪の政治的衝突であった。
 中共第九回大会が開催された次の政治の重要課題は全国人民代表大会の開催であり、そこでの最大の問題は文化大革命の理念ないし毛沢東思想に基づいた憲法の制定であった。1970年3月中共中央工作会議が開かれ、そこで第四期全国人民代表大会の開催と憲法問題が論議された。毛沢東は国家主席を設置しないことを言明したが、会議終了後の4月林彪は国家主席設置の意見を提起し、毛沢東に国家主席になるよう建議して、毛沢東に拒否された。
 54年憲法では、国家主席は統帥権すなわち中国軍を統率する権限を有していた。文化大革命で劉少奇が毛沢東によって打倒された重要な理由の一つは、彼が1959年4月毛沢東に代わって国家主席に就任し、統帥権を握ったことであった。国家主席廃止という毛沢東の考えはそこから生まれている。林彪が毛沢東の意思に反して国家主席の設置に固執したのは、彼が統帥権に野心を抱いたからである。
 国家主席の問題は1970年9月の九期二中全会でも論議された。林彪は「天才論Mao Zedong genius theory」を展開して毛沢東を「天才」として祭り上げ、自ら国家主席に就こうとした。陳伯達はマルクス・エンゲルス・毛沢東の「天才」についての語録を編纂配布し、国家主席を設置するとした文書を配布した。こうした動きをみた毛沢東は陳伯達を野心家・陰謀家と批判した。
 二中全会以後林彪一派が政治的に後退するなかで、空軍の指導権を委ねられていた林彪の長男林立果は、70年秋空軍を中心にした秘密組織「連合艦隊」を組織し、翌71年3月クーデター計画をつくった。武装計画を意味する中国語の「武起義」の音をもじった「五七一工程紀要」であった。

Русскийロシア語→Линь Лиго (кит. 林立果; 23 декабря 1945 — 13 сентября 1971) — китайский военный, сын маршала Линь Бяо. Руководитель оперативного отдела командования ВВС НОАК. Участник «заговора Линь Бяо» 1971 года. Погиб в авиакатастрофе вместе с родителями при попытке бегства из КНР.毛沢東暗殺計画(五七一工程紀要)を立案、事が露見すると、父母らと共にトライデント機で逃亡、モンゴル人民共和国ヘンテイ県ベルフ村南方付近で墜落死した(林彪事件)。

 6 軍隊の改革と鄧小平
 党の指導権の回復と四人組の台頭
 林彪事件が生起した1971年夏、毛沢東は「軍隊を統一し、改革(中国語は「整頓」)しなければならない」とのべて、「軍隊の改革」を指示した。この毛沢東の指示に基づき、林彪が進めてきた軍事路線は修正主義と非難され、毛沢東軍事路線を定着させる努力がなされた。それは党の軍に対する絶対的指導および戦争における人民大衆の役割の強調に始まり、大衆的な軍事訓練の実施、民兵の建設が進められた。
 1973年8月の中共第10回大会で、林彪反革命集団が正式に断罪されるとともに、中央で軍人勢力が大幅に後退し、軍に対する党の指導権が回復した。第九回大会で中央委員の45パーセントを占めていた軍人は約30パーセントに、中央政治委員21名のうち10名を占めていた軍人は七名に減少し、新旧の党幹部がそれに代わった。この大会では文化大革命における三支両軍で安徽省軍区司令員から総政治部主任に就任した李徳生が、中共中央副主席・中央政治局常務委員に一躍抜擢された。

Françaisフランス語→Li Desheng (chinois : 李德生, 4 mai 1916, 8 mai 2011) est un général chinois de l'Armée populaire de libération. Il est né dans le xian de Xin, de la province du Henan, en Chine, une région maintenant connue comme le « berceau des généraux » pour le grand nombre d'officiers supérieurs militaires nés dans la région.
 中共第10回大会で党の指導権が回復されたといっても、地方では軍人勢力は依然として強大であった。毛沢東は「地方の問題は軍隊にある」とのべたが、29の一級行政区のうち21の地区の党および行政の最高責任者の地位は軍人で占められていた。言い換えれば大軍区あるいは省軍区の司令員の大多数が、同じ省の党委員会第一書記および革命委員会主任を兼任していた。しかも許世友・楊得志・陳錫聯はそれぞれ1954年、58年、59年以来南京・済南・瀋陽の大軍区の司令員であるといったように、彼らの多くは長期にわたってその地方の実力者の地位にあった。1973年末上記三人を含む大軍区司令員の大幅な異動が断行された。のちに鄧小平政権の軍事改革に対する反対勢力の中心人物となる李徳生が瀋陽軍区司令員になったのは、この時である。
 党の指導権が回復されてゆくなかで、のちに四人組として批判された江青を中心とする政治集団は軍に影響力を及ぼそうと試みた。その一人である王洪文は、第10回大会で毛沢東・周恩来に次ぐ第三位の地位に一躍抜擢され、党規約改正報告を行った。彼は軍服を着用しており、彼が軍を指導する重要な地位に就いたことが示唆された。彼は翌74年1月「30歳代前後の若い人たちに大軍区司令員を担当してほしい」と述べた。この希望は実現されなかったが、その直前の73年末断行された大軍区の人事異動で、四人組により瀋陽軍区の副司令員に孫玉国、政治委員に毛遠新が抜擢された。孫玉国は69年の珍宝島事件でソ連軍戦車との近接戦英雄として表彰された守備隊長、毛遠新は毛沢東の甥であった。また四人組は自己の武装力として73年秋頃から都市民兵を建設した。首都労働者指揮部の総指揮は倪志福・上海のそれは王洪文であった。

Mao Yuanxin毛远新 (born 14 February 1941)毛遠新, also known as Li Shi (Chinese: 李实), is a former Chinese politician. As the nephew of Chairman Mao Zedong, he acted as the liaison between Mao and the Communist Party's Central Committee in Mao's ailing years, when he was no longer able to regularly attend political functions.
 四つの近代化と国防の近代化
 1975年1月、10年ぶりに全国人民代表大会が開催された。この大会でようやく憲法が改正された。第一に国家主席が廃止され、「武装力を統率する」権限、すなわち統帥権が中共主席に移譲された。これは「党が鉄砲を指揮する」という毛沢東の原則の憲法化であった。第二に民兵が人民解放軍と並んで中国の武装力を構成する要素とされている。1954年憲法には民兵に関する規定はなかった。第三に人民解放軍の三大任務、すなわち「人民解放軍は永遠に戦闘隊であり、同時に工作隊でもあり、生産隊でもある」という毛沢東の言葉が条文化された。こうしてついに毛沢東軍事思想ないし文化大革命の理念が憲法化されるにいたったが、他方で同じ時期にそれとは違う方向が現われ、憲法化されるまでにいたった毛沢東軍事路線を清算しようとしていた。
 それより先の1973年に、文化大革命で失脚した鄧小平は復活し、さらに75年1月5日総参謀長に就任した。彼は同月25日総参謀部・機関・連隊以上の幹部会議で「軍隊を改革しなければならない」ことを指示し、ついで同年7月の中共中央軍事委員会拡大会議で、軍隊の改革に関する彼の考え方を系統的に説明した。それらの講話で鄧小平は、毛沢東の「軍隊の改革」という同じ言葉を使ってそれとは異質の「軍隊の改革」を語った。鄧は毛沢東の人民戦争戦略にまったく言及しなかったばかりか、兵員の大幅な削減による中国軍の近代的正規軍への全面的な改革を提起した。この改革は、全国人民代表大会で周恩来によって提起された「四つの近代化」における「国防の近代化」と有機的な関係を持っていた。
 これに対して四人組はプロレタリアート独裁理論の学習運動を開始して、中国社会に依然として存在するブルジョア的権利を制限して、社会主義革命を促進しようとした。軍内でも1975年1月総政治部主任になった張春橋により同様の運動が展開され、鄧小平が進めた軍事路線に対して元紅衛兵を中心とする青年幹部・兵士から、修正主義であり「毛主席の軍事路線に反する」との批判が加えられた。「毛沢東以後」に備えて自己の政治的基盤を強化しようと懸命になっていた四人組は、76年1月8日の周恩来の死を契機に、走資派批判を開始し、周・鄧の政治指導体制の下で着実に推進されている社会主義国家建設の長期計画を批判することによって鄧小平の政治的失脚をはかった。同年4月5日天安門事件が起き、鄧小平は失脚した。

In 1972, Zhou was diagnosed with cancer and died four years later in Beijing on January 8, 1976.

Deutschドイツ語→Der Tian’anmen-Zwischenfall fand am 5. April 1976 statt und war eine Trauerkundgebung tausender Chinesen zum Gedenken an den kurz zuvor verstorbenen Zhou Enlai, die politisch interpretiert wurde.四五天安門事件(しごてんあんもんじけん、英: the (first) Tiananmen (Square) Incident in 19761976년 톈안먼 사건、中: 四五运动События на площади Тяньаньмэнь (1976)Інцидент 5 квітня або Тяньаньменський інцидент

September 9, 1976, Beijing, China--Mao Tse-tung, the pre-eminent figure of the Chinese Communist revolution and the leader of his country since 1949, died today at the age of 82.

①Русскийロシア語→Хуа́ Гофэ́н (кит. трад. 華國鋒, упр. 华国锋, пиньинь Huà Guófēng, настоящее имя Су Чжу; 16 февраля 1921 — 20 августа 2008) — государственный деятель Китайской Народной Республики, преемник Мао Цзэдуна на посту лидера Коммунистической партии Китая②↑1977年9月9日の北京、毛沢東主席死後一周年記念日September 9, 1977, Beijing, China、左から鄧小平国務院副総理、華国鋒主席、葉剣英国防部長From left: Vice Premier Deng Xiaoping, President Hua Guofeng, and Defense Minister Ye Jianying(ちなみに朱徳、鄧小平そして葉剣英は客家人ですBy the way, Zhu De, Deng Xiaoping, and Ye Jianying were Hakka)③「閣下Your Mightiness、あの男(鄧小平)をあなどってはいけませんDon't underestimate that man (Deng Xiaoping).100万人の国民党軍を撃破した男ですHe is the man who defeated the Kuomintang army of 1 million people」中ソ論争時、モスクワへ乗り込みソ連共産党きっての理論家スースロフ書記と堂々渡りあった鄧小平について、毛沢東がフルシチョフに語った言葉What Mao Zedong said to Khrushchev about Deng Xiaoping, who entered Moscow and crossed paths with Secretary Suslov, the Soviet Communist Party's foremost theoretician, during the Sino-Soviet dispute.

 華国鋒と鄧小平
 1976年9月9日毛沢東が死去し、その一ヵ月後の10月7日江青・ 張春橋・王洪文・姚文元の四人組が突然逮捕され、当時、中共第一副主席兼国務院総理であった華国鋒が中共中央主席・中共中央軍事委員会主席に就任して、党・政・軍のすべての権力を握るという事態が生起した。この過程で中国軍が重要な役割を果たした。その中心人物は国防部長の葉剣英であった。
 翌76年華国鋒は「筋金入り第六中隊に学ぶ」運動を呼び掛け、中国軍の革命化・近代化を進めた。「筋金入り第六中隊に学ぶ」運動は、1950年代に彭徳懐が進めた「近代化・正規化」の軍事路線を批判し、毛沢東軍事路線を定着させるためにとられた運動の一つである。ついで1978年3月の全国人民代表大会で修正された憲法は、「中共主席が中国の武装化を統率する」という1975年憲法の条文を引きついだばかりか、野戦軍・地方軍・民兵の三結合の武装力体制の採用を新しく規定した。ついで78年春の全軍政治工作会議では、「プロレタリア階級を輿し、ブルジョア階級を滅ぼす」という文化大革命の理念となった継続革命論を具体化したスローガンが提起された。
 さらに1978年3月の第五期全国人民代表大会で華国鋒は、のちに鄧小平から「洋躍進」(1958年の大躍進の西洋版)と批判された西側諸国の援助に全面的に依拠して生産の大躍進を実現する10ヵ年計画(1976~85年)に着手して、中国の富国強兵化をめざした。
 一方、鄧小平は華国鋒を中心とする政治勢力を「すべて派」(華国鋒は毛沢東の決定と指示はすべて守らなければならないとした)と呼び、彼らの立場をマルクス主義とはあいいれないものと批判し、中国軍を二つの「すべて」から解放し、「実事求是」(事実に基づいて真理を求める)を理論的武器に、「新しい歴史的条件」に相応する軍事路線・方針・政策を提起した。

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