日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『Taiwan台湾Тайвань』ーHumanity, history, mentality人間・歴史・心性Человечество, история, менталитетーDai Guohui戴國煇Дай Гохуан《Republic of China中華民国Кита́йская Респу́блика》중화민국 국가三民主义Drei Prinzipien des Volkes(CANADA)2024/01/14⑧


*Españolスペイン語→El Movimiento del 30 de mayo五卅 运动 (pinyin, yùndòng wǔsà, referido al 30 de mayo de 1925)Движение 30 мая五卅 運動5·30 사건 fue un movimiento obrero y antiimperialista de la época de los caudillos militares en China, en la década de 1920. Comenzó cuando agentes de la policía municipal de Shanghái abrió fuego contra manifestantes chinos en la concesión internacional de Shanghái.May 30, 1925 (the Shanghai massacre of 1925).
 元新聞記者および文化人らは、他に啓蒙運動をも狙ってマス・メディアに進出した。日本から接収した新聞、『新生報Taiwan Shin Sheng Daily News』(台湾日日新聞が前身)、『中華日報China Daily News』(台湾新聞の後身)、復刊『台湾民報Taiwan People News』、さらには光復直後に創刊した『人民導報People's Herald』、『内外新聞Domestic and foreign news』、『自由報Free press』などの新聞と『政経報Political and economic information』、『台湾評論Taiwan Review』などの雑誌に身を寄せた。

 陳儀到着
 10月に入って、ようやく「祖国」の姿が台湾に現れた。5日、台湾省行政長官公務および台湾警備総司令部の前進指揮所(先遣隊)が台北において成立した。17日には国府軍第70軍が米艦に分乗し、歓呼の声がこだまするなか基隆に上陸した。24日、二度も到着時間の変更があって歓迎の大群衆をやきもきさせた陳儀長官が松山飛行場に降り立った。
 陳が台湾省長官公署の初代長官を拝命した主な理由は、次の三つが考えられる。
 ①漢族系本省人の大半を占める閩南系人の原郷・福建省の元省主席であったこと。②第二次大戦前の福建省主席在任中、植民地・台湾の視察と台湾研究の企画を主催したことがあること。③福建治政時代に育成した中上流幹部に、日本語、閩南語の熟練者グループがあり、その人脈を活用できたこと。
 陳儀は、魯迅Lu Xunや許寿裳Xu Shoushangと親しかったこともプラスしてのことであろう。国府内の開明官僚を核とした派閥である政学系に属する清廉の士と見られていた。重慶で、台湾接収の長官に任命された時、一般では反対より、良い人が選任されたという評が高かった。というのも、彼は日本の陸軍士官学校を出て、日本人を妻にしている知日派で、福建省主席の任を通じて閩南人(本省人の多数派と同じ言語を話す)の気質がわかっており、訪台経験と台湾に関する調査・研究をも主宰したことがあったからである。
 ただし、南洋華僑の有力者・陳嘉庚Tan Kah Keeたちの閩南系人などは、陳儀の強引な治政に対しては、その福建省主席在任時からチャンスあるごとに、糾弾と批判をした。

*Portuguêsポルトガル語→História da República da China em Taiwan臺灣戰後時期指臺灣歷史Історія Республіки Китай (Тайвань) é a história de Taiwan, que está sob o domínio da República da China, desde 25 de Outubro de 1945, para presentes.History of Taiwan (1945–present)제2차 세계 대전 이후 대만台湾战后时期, 臺灣戰後時期, Táiwān Zhànhòu Shíqī혹은 중화민국 통치 시기의 대만中华民国領台时期, 中華民國領臺時期。
 台湾への新参者
 対岸からいろいろな人が台湾に入ってき始めた。閩南語が通ずるといって一獲千金または処女地での高いポストを狙ってくる閩南人。日本当局に協力したことで、「漢奸」罪に問われる心配がある「満州国Manchukuo」、「汪精衛の南京政府Wang Jingwei Nanjing Nationalist government」、「冀東政権」などの関係者。彼らは日本語が通じて、知り合いがいないのが逆に救いとなり、台湾は身を隠しやすいといっては潜入してきた。事実は、身を隠すどころではなかった。北京官話を武器に、また事情を知らないのを良いチャンスとばかりに、祖国からやってきた「勝利者」のにせ看板を表に出す。台湾庶民をたぶらかす悪行のし放題であった。
 台湾から脱出した抗日分子、「雄飛」して大陸や南洋での日本機関に禄をはんだ元「二等日本国民」、強制的な徴用と徴兵から復員してくる者、実に複雑な背景を持った人々が台湾に向けて、四方八方から転がりこんでくる。
 日本から引き揚げてきた、留学生や留学生OBは、自負心が強いエリート・グループとしてユニークだった。終戦前の台湾青年の留学生はほとんどが日本に限られていた。彼らの心情のしからしむるところであろう。そのうちの一人、東大法学部OBが証言する。
 OB「日本の敗戦と台湾の中国復帰を聞いて、われわれは飛び上がって喜んだ。もう日本人にはふたたび『チャンコロ』なんて言わせないぞと。急いで台湾に帰ろう、台湾総督府を接収するのはわれわれをおいていない。接収して台湾の建設をするんだ、とわれわれ皆が胸を躍らせた」
*「チャンコロChankoro」(蔑称) 中国人(漢民族)に対する俗語(derogatory term) Slang term for Chinese people (Han people)日本帝国が中国に積極的に出兵する明治時代から頻繁に使われるようになったit began to be used frequently from the Meiji period, when the Japanese Empire actively dispatched troops to China. いわゆる「兵隊シナ語」のひとつであるIt is one of the so-called "Soldier Chinese languages."
 戴「ところで、先輩方が見た中国がなんであったか、はっきりしたイメージはあったのでしょうか?」
 OB「今にして考えるのに、われわれは全くの無知だった。蔣介石と国民党は知っていたが、中共についてはうわさ程度、終戦当時、中国は少なくとも、重慶の国府Chongqing Nationalist Governmentと延安の中共Yan'an Chinese Communist Party、それにやがて消え去る運命にあった日本帝国主義のかいらいの『南京政府Nationalist Government of the Republic of China』と『State of Manchuria満州国Empire of Manchuria』、なんと四つの『中国』があった。この客観的事実さえをもまったく知らなかった。
 慈母のぬくもりに飛び込みたい気持ちが先行して胸一杯だった。何も見えなく、気にもならなかった。国府そのものを、久しく慕い続けてきた慈母と、われわれ皆がそう思い込んだ。中国の標準語を話すことも、読むこともできない。ましてや書くことなどできないことをさえ忘れていた。われわれはせいぜいのところ、母の母語である閩南語または客家語を話す程度の台湾人、言葉にとどまらず、意識の面でも植民地支配によって歪められてしまっていた。そして日本帝国主義によって隔離された結果、よくも悪くも中国大陸の人びととは意識の面で、ライフスタイルの上で、ギャップが生じていたことに気づかなかった。われわれ自身の多くが不充分な中国人でしかなかったことを確認できなかったのは全くうかつだった。総督府をさえ接収すればよい、といわんばかりに意気込んで、心だけが高ぶっていた」
 戴「アメリカの準備不足と予定変更で台湾に対する上陸・占領作戦が取り消された代わりにマッカーサーDouglas MacArthurのルソン島占領が先行した。後には、戦況の急進展で、台湾を飛び越して沖縄の大激戦となった。この間の経緯はご存じだったでしょうか」
 OB「そんなことは知らなかった。いや知ろうとする問題意識すら持っていなかった。僕一人ではあるまい。今に至っても、全世界の戦略の構図の中で、台湾の位置を読むことを台湾人はよくしない。自らを位置づけ、自立的創造的思考を試みる台湾人は少ない。スケールが小さく、視野もまた狭いのがわれわれの欠点だ。遅々として進歩がないのは困ったものだね」
 無媒介で中国人に戻り、意気揚々と日本人の後釜のポストを占め、台湾の建設に邁進できると考えたのは、このOB氏だけではなかった。法の形式における光復と、個々人が中国に復帰した後、台湾の建設に主体的にかかわり、自らのあるべき役割を担っていくこととは、まったく次元の違う問題だ。台湾人のエリートの幻想はほどなくして打ち砕かれる。

 2 国府軍の台湾到着
 第70軍
 台湾の表通りは光復を歓迎し、国府軍到着を祝う歓迎一色にぬりつぶされていた。解放感と日本に勝った満足感をないまぜにした雰囲気は、蔣介石のイメージを大いにフレッシュ・アップした。戦勝の象徴的人物として、中共地区以外の民衆は蔣を受け入れており、台湾においてもそうであったことは言うまでもない。
 冷静な内外の分析家は、蔣介石を軍閥割拠時代以来たくみに生き残った最大で最後の軍閥の一人と評価する。彼が他の軍閥と異なる点は、近代的軍事知識をもち、妻の宋美齢を通じてアメリカに深くつながり、妻の一族のKung Hsiang-hsi孔祥煕Dr. H. H. KungTse-vung Soong宋子文T. V. Soongをパイプに財政部のコントロールがある程度可能だったことがあげられている。
 だが、日本に対する国府軍の勝利は形だけで、内実は「惨勝」でしかなかった。第70軍は台湾進駐のために急に編成された、まにあわせの「雑牌軍」(雑兵軍団)でしかなかった。終戦当時の国府軍にして、なおも国家的軍隊、国民党の軍隊としての内実を備えていなかった。国府の軍隊においては、蔣介石の直系とされる黄埔軍官学校系が最も優勢を誇っていた。だが、李宗仁Li Zongren・白崇禧Bai Chongxiの流れをくむ桂系(広西軍)はなお黄埔系に拮抗する力を保っていた。この他に孫立人Sun Li-jen将軍が率いる米軍装備の「第一軍」があり、これはビルマ作戦で日本軍をいためつけたことで有名である。また1936年の西安事件Xi'an Incidentを契機に解体された東北軍(張学良Chang Hsueh-liang軍)を再編した軍隊などが併存していた。

*Françaisフランス語→Sun Li-jen ou Sun Liren (孫立人쑨리런; Hanyu Pinyin : Sūn Lìrén) (8 décembre 1900–19 novembre 1990)字撫民,號仲能,安徽廬州府廬江縣人,中华民国陆军二级上将était un général de l'Armée nationale révolutionnaire chinoise du Kuomintang (KMT) connu notamment pour son implication lors de la guerre sino-japonaise (1937-1945), la guerre du Pacifique et la guerre civile chinoise.
 終戦とともに、中国革命のヘゲモニー争奪をめぐる国共の抗争は著しく表面化し、激化し、軍事面では東北地区(旧満州)と華北地区において争われた。政治・財政・経済面での接収の重点は、南京・上海を擁する揚子江デルタ、重工業地帯の武漢三鎮・紡織業などで重要な天津・青島、それに旧都の北京と香港に隣接する広東などであった。これに対して、台湾はいわば国共抗争の圏外の地で、接収の重点地区には数えられていなかったようだ。事実、国府主流の面々は台湾などどうでもよいと考えていたふしさえある。「雑牌軍」の第70軍の進駐はそれを如実に反映する。陳儀の長官任命も、見方を変えれば、非主流の陳儀を、蔣介石の周辺が体よく台湾に追い払ったといえなくもない。

*Adhesión de Taiwán a la República de China(臺灣光復節)День ретроцессии1945年(民国三十四年)10月25日,中华民国国民政府接管原由大日本帝国统治的台湾与澎湖群岛等地;中华民国政府将此事件称为“台湾光复”,此事件标志着台湾日治时期的结束、战后时期的开始。
 受降式の前後
 1945年10月25日、台北中山堂において受降式が行なわれ、陳儀長官と安藤利吉台湾総督が中・日両国政府を代表して降伏文書に署名した。以来、この日は光復節と名づけられ、国定記念日に制定された。
 受降式の終わった当日の午後、「台湾光復慶祝大会Taiwan Restoration Celebration Meeting」が、大地主で文化協会の右派民族主義者グループの盟主、林献堂Lin Hsien-tangによって主催された。翌日、林は中道から右寄りの台湾士紳らを糾合して「台湾建設協会Taiwan Construction Association」を発足させた。その意図は長官公署の治政の翼賛と自分たちの権益保持とその拡大にあったようだ。歓迎活動の背後には、個人もしくはグループの背景の違いによって、いろいろの思惑が錯綜して、きしみあった。台湾人士紳間の確執は密告あり、相互中傷ありで、目にあまるものがあった。

*Русскийロシア語→Линь Сянь-тан林献堂 (кит. 林獻堂; пиньинь: Линь Сянтан; 22 октября 1881 г. - 8 сентября 1956 г.) был политиком и активистом тайваньского происхождения, основавшим несколько политических организаций и заседавшим в Палате пэров Японии林朝琛、字獻堂,號灌園,臺灣霧峰林家出身的政治運動者、作家及政治人物等。
 受降式の後、街頭は旗の波、獅子舞いの行列、ドラや太鼓でにぎわった。8月15日から10月25日に至る二ヶ月あまりはまだ50万の日本軍が存在したため、台湾総督府がまがりなりにも秩序を維持してきた。受降式の完了で接収が正式に始まり、日本軍は武装解除され、警察権力も解体された。秩序維持の責任と権力は中国側に移行された。

①Українськаウクライナ語→Лу Сінь (кит. 魯迅루쉰/鲁迅Лу Синь, Lǔ Xùn — Лу Сюнь; *25 вересня 1881 — †19 жовтня 1936), справжнє ім'я Чжоу Шужень (кит.: 周树人) — китайський письменник, публіцист та літературознавець. Вважається основоположником сучасної китайської літератури.

*Françaisフランス語→Xu Shoushang (chinois : 許壽裳서수상; 1883-1948)許寿裳Сюй Шушан était un écrivain chinois. Il fut l'un des co-auteurs de l'emblème national des Douze Symboles en 1912字季茀(季黻;季巿;季芾,都同音),號上遂,文史學者、作家、教育家,魯迅、周作人的同學、至交。
 陳儀・沈仲九の実験
 陳儀は日本留学時代から魯迅と許寿裳と親しかった。魯迅はあまりにも有名であるのでここでのべるまでもなかろう。許寿裳は字を季茀といい、浙江紹興の人。日本留学時代(1905-09年)に中国革命同盟会に加入して革命的雑誌『浙江潮』を編集し、この時期に魯迅、陳儀と親交を重ねた。東京高等師範学校を卒業して帰国の後、蔡元培Cai Yuanpeiに招かれて魯迅とともに教育部(日本の文部省に相当)に就職、北京大学などの教授を兼ねた。終戦後、許は陳儀によって台湾大学(台北帝国大学の後身)の校長に内定された。だが国府の教育部は許が魯迅の友人であり、魯迅思想の宣伝者であるとして任用を拒否した。当時の教育部長はC・C(国民党中央調査統計局)の大ボスだった陳立夫Chen Lifuだったから、当然の成り行きともいえよう。許寿裳はやむなく陳儀が創設した台湾省立編訳館館長の任務につき台湾大学中国文学系主任を兼任したが、1948年2月18日夜、台湾大学の官舎で暗殺された。これは白色テロのしわざと内外から大いに糾弾された。
 『浙江潮』の同人といえば、沈仲九Shen Zhongjiu(銘訓)の名が浮かぶ。沈は陳儀の親戚筋で日本留学後、ドイツに再留学して、上海マルクス主義研究会の指導的メンバーであったという。陳儀の福建治政にブレーンとしてかかわり、同期間、行政幹部訓練班を主宰、一方では無政府主義団体を組織して同調者を求めたと伝えられる。沈仲九は陳儀の庇護下で、戦術面では、国民党、中国共産党とは異なる「第三の道」を志した形跡が濃厚だ。沈は、台湾を理想の実験の地と見立て、重慶で「基本的施政方針」三項目を策定した。  
 その三項目とは、①台湾の実情に則した行政制度の樹立、②統一接収の実施、③幣制の安全保持、である。①は日本の旧総督府体制を踏襲する形の長官公署体制を樹立し、行政と軍政の権力を日本の台湾総督同様に掌握しようとするもので、陳儀は台湾省行政長官と台湾省警備総司令を兼ねた。②は日本関係者が残していく財産の「日産」を完全に掌握して、接収の利権をめぐって介入してくる大陸諸勢力を未然に阻止しようとするものであった。③は大陸のインフレの猛威を遮断するため、大陸の浙江財閥系銀行とC・Cの掌握する農民銀行などの台湾進出を禁止しようとするものである。
 沈仲九は表向き「三民主義の実践」と「模範省台湾の建設」を掲げ、実質的には大幅に日本人を留用して着々と体制作りに専念した。専売局の接収と専売制度の続行、輸出入と移出入の独占をはかるための貿易局の新設、計画経済のための統計の整備などである。

 陳・沈体制への反発
 光復への興奮、新しい幕開けへの期待、歓迎の熱情は日に日に冷めていった。インフレの昂進、あいつぐ復員でさらに激化する失業苦、「雑牌軍」の規律の乱れ、接収官僚の横暴と汚職、陳儀・沈仲九体制が自負する高邁な理想と戦略構想とはうらはらに、大陸の䧈習もまた台湾に侵入してきた。台湾人リーダーのマスコミを通じての批判が始まった。接収官憲のあしき所業が糾弾の的になったのは言うまでもない。だが、彼らの怒りがより大きく向けられたのは、陳儀・沈仲九体制の要そのものであった。
 陳儀と沈仲九の諸政策は、台湾人を侮蔑、搾取するものとして、非難と弾劾の的になった。50年の日本支配で、台湾人インテリがもっとも敏感に反発したのが差別待遇であることには、博識で名高い沈仲九も気がつかなかったようだ。浙江財閥とC・Cなどの影響下にあった大陸系マスコミや外省人ジャーナリストも、陳儀一統が台湾で「独立王国」を構築していると弾劾した。彼らもまた台湾をめぐる利権から排除され、いらだっていたからだ。
 法制の上では陳儀は旧台湾総督に相当する権力を手中にしていたが、権力基盤は脆弱で内実がともなわなかった。陳儀は軍も党の実権をも掌握していなかった。国府内での政学系はもともと軍と党、さらには特務機関の「軍統」とC・Cとは一線を画す、近代的政治家と行政官をめざそうと試みたグループだ。加えるに、陳儀の幹部の主流は、沈仲九の影響とその人脈の関係で、福建治政以来、非国民党系の青年党や民主社会党および左傾分子もしくは元共産党員が占めてきた。当然のことながら、台湾でも国民党党部と行政府の不仲は歴然とした事実だった。
 戦争直後の混乱に直面している限り、台湾海峡を利用して大陸経済との関係をいくら遮断し管理する政策を策定したところで、実効をあげるのは容易ではない。「日産」を計画経済の基礎として専売局、貿易局の経営を通じて財政収入を確保し、台湾を模範省たらしめようと企てた意欲はよしとすべきだろう。惜しむらくは、民衆の心を推し量り接収工作という秩序の組み換えを高い見地に立って運営するのに十分な人材が欠如していたのである。
 事態は悪化の一途をたどり、民衆のうらみ、つらみをひき起こす「火種」は確実に播かれていった。

*Deutschドイツ語→Der Zwischenfall vom 28. Februar (chinesisch二二八事件2·28 사건, Pinyin èrèrbā shìjiàn)
Инцидент 228Інцидент 28 лютого, auch 228-Zwischenfall oder 228-Massaker, war ein im Jahr 1947 die ganze Insel Taiwan erfassender Aufstand gegen den KMT-Militärgouverneur Chen Yi (陳儀, Chén Yí). Heute ist der 28. Februar in Taiwan im Gedenken daran ein Friedenstag und zugleich staatlicher Feiertag.le massacre 228
February 28 massacre
 3 2・28事件の悲劇と傷痕
 事件の発端と展開
 事件はまことに些細なことに始まる。1947年2月27日夜、台北市の北郊の大稲埕(現在の延平北路)、夜市でにぎわう「円環」(円公園)の近くの著名な「天馬基房」の店頭でのことだった。専売局のヤミタバコ摘発の警官隊が逃げ遅れた屋台売りの婦人からヤミタバコを押収しようとして、もみあいになった。
 婦人は生活がかかっているので、押収されたタバコと金品を返してもらうべく必死になって警官にとりすがった。これに対して、若い外省人の警官が銃床で彼女を殴打した。事の成り行きを見守っていた群衆が数を増し、民衆の憤懣が極度に先鋭化した。警官は事態危うしと見たのであろう。囲みを解こうとして威嚇のために発砲した。これが民衆の一人を直撃して即死させた。激怒した民衆は警官が逃げ込んだ警察分局に押し掛け、下手人の警官の逮捕と現場での即時銃殺を求めた。
 明けて2月28日、当局からいまだに納得できる回答を得られないということで、民衆のデモ隊は専売局の台北支局に押しかけた。しかし、ここでもまともな応対を受けなかったので、専売品を持ち出し、支局前にあった公用車をひっくり返して焼き払った。
 デモ隊の数は増える一方で、行き先を長官公署に向けて隊列を整えた。これに対抗して恐れをなした衛兵は公署の階上から機関銃を掃射した。このためデモ隊に死傷者が出た。民衆は四散したが、その憤激は頂点に達し、火にガソリンをそそぐ形となり、外省人と見ればリンチを加え、外省人経営の店舗を襲い、狼藉の限りをつくす次第となった。
 一方、台北の放送局を占拠した群衆は、ラジオ放送を通じて事件の経緯を報告すると同時に、抗議行動への総決起をよびかけた。「火種」はすでに播かれていたし、米価の猛烈な騰貴は、まもなく端境期の3-4月に入るという生活不安をさらにあおり、都市部の住民たちを立ち上がらせることとなった。
 「反乱」の波はまたたくまに全台湾に伝播した。外省人と見れば老若男女の別なくリンチを加え官公署と公営機関をも襲い、気炎をあげウサをはらすのだった。
 私は現場に数度出掛け、グロテスクな状況に出くわして面食らったことがある。かつて日本人が台湾人を含む中国人に投げかけた「チャンコロ」という罵声を、本省人が同胞たるべき外省人に向けてどなりちらす。日本の軍刀を振り回し、鉢巻きをして日本の軍歌をわめきちらすものさえいた。私はこうした人心の荒廃ぶりを見てぞっとさせられた。本省人と外省人の識別のために「君が代」を歌わせ、いたいけな外省人の子供に「チャンコロのバカ野郎め」とリンチを加えるに至っては、動乱の中とはいえ、何をいわんやである。リンチを受けた外省人でなくとも心が痛む。希望が幻滅に、純粋な愛国心がふみにじられ、「麗しき島」(フォルモサ)がやがて血塗られた悲劇の島となった。

  国府軍のおごり
 同じ頃、大陸での国共抗争はすでに熱い戦争へと移行していた。国府軍の当局者はアメリカの援助を頼りに、うつろで偽りの「強さ」によって民衆の支持を獲得できると期待していたふしがある。彼らは民衆の心を獲得して政治を革新しようとする意識は金輪際なかったというべきだろう。台湾ももちろん例外ではなかった。
 台湾に入った国府軍の当局者は、歓迎の大群衆の嵐の波にまどわされたのであろうか。それに彼らの多くは台湾だけが中共の強力な地下組織とゲリラ勢力がまだ存在しない「清潔な土地」と見立てていた。彼らを慢心させるだけの客観的な条件が存在していたといえなくもない。少し時間を戻してみよう。
 1946年の秋、蔣介石から陳儀あてに秘密電報が入った。大陸での軍事力補充に台湾進駐軍の大陸移動の可能性を打診してきたのである。陳儀は、ここぞといわんばかりに便乗して「雑牌軍」の大陸引き揚げを承諾した。老新聞記者がこの間の経緯を証言する。
 「接収当初に台湾に入った『第70軍』は45年末に大陸に移動させられた。それに代わる台湾駐留軍の『第62軍』の兵士らもまた烏合の衆で、ろくに訓練も受けないまま台湾に入ってきた。だから軍事規律は乱れ、民衆の怨嗟のまととなっていた。陳儀は台湾警備総司令を形の上で兼ねていたが、実質的な軍事上の権力は掌握していなかった。また、法幣の台湾流通を拒んだ関係から、台湾駐留軍の給与などは一切台湾長官公署側もちだった。したがって『荷物』となっていた『第62軍』の引き揚げは思うつぼと言いたいところだった。
 なんといっても、台湾民衆の祖国復帰への歓迎ぶりと順法精神で得た好印象が、陳儀の台湾治政への自信を強めたのは事実だった。それゆえ陳儀は大規模の台湾駐留軍を必要としなかった。
 2・28事件時の台湾駐留軍は『第21師』所属の『台湾独立団』が唯一の正規軍で、嵐山、嘉義、台中を中心に駐留していた。なお形式の上では『憲兵第四団』が台湾に駐留していたが、内実は福建と台湾の双方をカバーし、二分して駐屯していた。この他に日本軍から接収した武器類の管理・輸送担当の『聯勤(補給)総部台湾供応局』と『輜汽(輜重)第21団』の大隊があった。ほかに日本から接収した高雄と基隆の両要塞の留守連隊と警備総司令部直属の小員数の衛戍部隊があった。以上を合計しても、実戦にたえうるのは3500名ほどで、武器庫ならびに日本軍から接収した軍事施設の管理が主目的の軍隊だったので、決起した民衆の鎮圧に臨機応変に対応するわけにはいかなかった。
 弾圧を弁護するつもりは毛頭ないが、守備軍の手うすを百も承知している警備総司令部側の将兵にすれば、怒り狂った群衆に恐れおののき、発砲することによってくいとめたかったと想像できなくもない。ともあれ、まったく浅はかな挙動で、小さな火花が草原を焼きつくすという結果になり、収拾がつかないほどの事態に進展していった」。

*Zhang Zhizhong张志忠 (1910-1954)張志忠장즈중Чжан Чжичжун, whose real name was Zhang Gang and whose pseudonyms were Yang Chunlin, Lao Wu and Lao Zhong , was a native of Xingang, Chiayi and a member of the Communist Party of China本名张梗,化名杨春霖、老吴、老锺,嘉义新港人,中国共产党党员。
 中央の行動
 当時において、多少なりとも政治経験があって、組織する能力のありそうな反体制グループは、中国共産党(中共)関係者をおいてはなかった。中共当局は事件当時の党の具体的方針と実施した政治的諸行動について、今もって正式の発表をしていない。
 断片的な報道や回顧録などをつなぎあわせて整理するとおよそ次のようになろう。
 中共の地下組織の要員はすでに台湾に入っていた。一年足らずの期間では組織の再建と旧台湾共産党関係者の組織復帰などの活動は十分に展開できるわけがなかった。まさに展開過程において2・28事件が突発的に起こってしまったのであった。党の地下組織は当然のことながら事件の発生を予想していなかったし、そのための組織的な準備もまた行なわなかった。正しくは、そのための条件も力も備わっていなかった、というべきかもしれない。
 台中地区では、3月5日、元台湾共産党幹部の謝雪紅が27部隊を組織して活動した。また嘉義地区では中共支配地区から派遣されて台湾に帰った中共台湾省工作委員会の軍事面での責任者、張志忠Zhang Zhizhong(張梗)が指導した嘉義飛行場襲撃などの軍事行動があった。行動の主体となった人々はいずれも労働者・農民階級の出身ではなく、旧日本軍から復員した失業青年と血気にはやった学生などが、反政府の興奮の渦に乗って、いわば臨時により集まったものでしかなかった。
 台北地区では軍事組織はなく、共産党員と元台湾共産党関係者は「2・28事件処理委員会」(処理委員会、3月2日台北中山堂にて結成)の背後にいて、「進歩的人士」に策を授ける参謀的役割もしくは宣伝工作に従事することがせいぜいのところであった。

 処理委員会
 そもそも処理委員会は当局側が設置を提起したものである。思うに、当局は初め事を早くかつ丸くおさめようとしたのであろう。事態が急激に悪化した後には、時間かせぎが目的だったかもしれない。もっとも早く発足したのは台北市の処理委員会である。メンバーは、当局側代表者、省参議員、参政員、憲法制定国民大会代表などの本省籍の民意代表たちによって構成された。
 政府側の提案でできただけあって、当然のことながら、構成委員の台湾人の考え方や政治的立場は、左から右にわたる雑多なものだった。ただし、左とはいっても正式の中国共産党員は皆無だった。
 冷静にとらえれば、台北市処理委員会をめぐる政府側と反体制側の攻防もしくは駆け引きは次のようになろうか。
 委員会の内部勢力はおよそ三グループからなる。まず第一に当局側、およびそれと癒着していた「半山」グループがあげられる。「半山」とは、抗日戦争中、大陸にいて抗戦に従事し光復後長官公署とともに接収要員として台湾に帰った元本省出身者の概称であり、彼らの多くが「凱旋将軍」を気どり特権を行使し、「日産」を接収して私物化したので悪評を買った。第二は政治改革に熱心な中道左派グループ。第三は中道から右派の保守的大地主と地方の名士グループ。
“Hanzan半山(Mid-level)” refers to people of Taiwanese nationality who lived on the mainland during the Japanese colonial period and returned to Taiwan after liberation.
 処理委員会での第一グループの意図は先にふれた。第二グループは、中共の地下組織が背後にいて、参謀の役割をつとめた。彼らは談判を有利に進めながら民衆の決起したエネルギーを遅ればせながら掌握し、組織しようとしていた。また談判の過程を通じて自らの意図する政治的社会教育をもくろんだ。委員会の「宣伝組」の組長すなわちスポークスマンには、茶業公会理事長で省参議員であった進歩的民主人士王添燈(3月12日に暗殺された)が選ばれていた。第二グループの人々は一方で彼をバックアップし、他方、彼の開明資本家的資質をフルに活用して、合法的闘争を挑んだ。その成果はのちの「処理大網32条」に結実する。

*Deutschドイツ語→Wang Tiandeng王添燈 (8. August 1901 – März 1947)王添灯Ван Тяньденг, Höflichkeitsname Ziwen, war ein taiwanesischer Politiker二二八事件中遭人強行帶走後失蹤,後來遭詢問,因不屈服而遭活活燒死。
 多くの非公式的な証言と状況証拠から、当時の中共の台湾での責任者だった蔡孝乾(Edgar Snowエドガー・スノー埃德加·斯诺の『中共雑記Random Notes On Red China』では蔡孝として登場)は、台中と嘉義の武装組織を一本化し、闘争を有利に進めようとしたようである。嘉義の張志忠は党員だったが、台中の謝雪紅とは光復前からの個人的対立が尾をひき、統合に失敗したまま、事態の推移を見守るほかなかったといわれる。

*Españolスペイン語→Cai Xiaoqian蔡孝乾(1906年12月6日—1982年10月8日,曾化名蔡乾、楊明山、蔡前、陳純真、鄭敏捷、陳石峯、陳啟順、鄭昌華、鄭葆真、老鄭)Цай Сяоцянь fue arrestado y encarcelado por la Oficina Secreta del Ministerio de Defensa de la República de China en 1950. Posteriormente se entregó en prisión y se unió al Kuomintang chino. Fue ascendido a general de división del ejército de la República de China en 1956. 
 結論として言えることは、共産党をはじめとする左派は志こそ高かったが、意気込みのわりには組織の基礎が 脆弱であり、空回りが目立った。ほとんどの幹部が、国府軍の支援師団の台湾到着(3月8日)直後に脱出し、その他は銃殺されるか、入獄するか、地下に潜入するかして、四散する羽目となった。
 第三グループは事態の進展を横目に見ながら、一方では事態の悪化をなんとか防止しようとして、調停の役割を担おうとした。彼らは民主化と台湾の地方自治化は欲したが左派にヘゲモニーをにぎられることを恐れた。植民地時代の抗日運動で張り合った苦い経験があり、左派の目指すところを百も承知していたからだ。

 国府増援軍の弾圧行動
 国府の増援軍の二個師団は3月8日から9日にかけてぞくぞくと基隆に上陸した。決起側の本省人が外省人に向けて働いたリンチ、罵詈雑言、なかんずく日本語によるもしくは日本式の侮蔑的仕打ちは外省人たちの感情をいたく傷つけ、憎悪をかきたてた。それがまた師団将兵にはね返ったのは想像にかたくない。抗日戦争での反日感情がまだ濃厚に残存していた時期だけに、本省人と外省人の間にできた溝は想像を越えて深刻なものとなった。
 鎮圧軍の弾圧行動はたけだしく繰り広げられた。「近親憎悪」が頂点に達し、銃器を通じての凄惨な状況が展開をみた。
 共産党関係者は自らの政治行動を初めから明確な政治改革、さらには大陸での壮烈なヘゲモニー争奪戦の一環として位置づけていたので、身の危険をつとに知っていた。いち早く地下にもぐるか、島外脱出が試みられた。中道から左派に区分できる血の気の多い名士やインテリ層の人々は、時代的状況の制約もあって、いわば中国革命の蚊帳の外にあった。彼らの多くはひたすら素朴な祖国愛に基づき、政治改革の可能性に一縷の希望を託していた。自分たちの事件前後の所業が他者にどう「政治的」に利用されようとしているのか、最後まで気がつかなかったというのが実情であろう。 
 台北市処理委員会が王添燈宣伝組長に起草を託した「2・28事件処理委員会処理大網」は最初は32ヶ条からなっていた。その基調は穏健な事件収拾策と政治改革にあった。彼らが掲げた最高目標は、本省人をより多く登用した台湾での高度の地方自治の実現でしかなかった。
 ところが、討議に入った3月7日の午後の時点で、支援国府軍の台湾到着の噂が広まり、人々は浮き足だった。当局は特務関係者を会場に潜入させ、ドサクサの中、新たに十ヶ条の追加を強引に実現させた。この十ヶ条のうち、「甲、軍事方面」の第五条「警備司令部を撤廃し、軍種の乱用を(未然に防ぐ)と「乙、政治方面」の第29条「本省人の戦犯および漢奸の被疑者で拘禁されている者は、無条件での即時釈放を要求する」が後に弾圧の法的理由に利用されることになる。はめられた「ワナ」であることは明らかだ。
 弾圧されて死傷したものは万にものぼるといわれるが、正確な数字は今もって明らかではない。日本植民地時代以来、活躍していたエリートと名士が少なからず失踪し、暗殺された事実が中上流本省人の心に刻印され今日に至っている。
 2・28事件を語ることも、研究することもタブーだったために、その実態と真相は今なおいっこうに判然としない。弾圧のメカニズムが錯綜した複雑なものであるにもかかわらず、現在、本省の大部分は、自分たちを被害者とだけみなし、加害者は国府・国民党・外省人と決めつけ、単純化して呪詛する。嫌悪の情をあらわにすることさえ少なくない。
 当時の国府も国民党も一枚岩では決してなかった。特務機構の軍統にもC・Cにも台湾人の有力なエージェントがあって、彼らは「火事場泥棒」よろしく事件にかこつけて人々を恐喝し、金品をたかった。事件後に、彼らの多くは経済界の大立て者として、台湾の財界と産業界に君臨した。一部では、自分たちの対日協力をめぐる悪事の露顕の防止に、これぞよき機会といわんばかりに、ライバルの消去に、密告と官憲の手を借りた暗闘と暗殺の事例も少なくなかった。
 ともあれ、公開裁判ではなく、多くが秘密裡の逮捕と暗殺だった。下手人が誰であれ、弾圧の方式と内容のいかんを問わず、悪の元凶のレッテルは、国府・国民党・外省人に貼られる。陳儀はその代表的人物と見なされ、悪名は歴然として人々の記憶に刻みこまれた。
 悲劇の傷痕だけが残り、疼き続ける。そして日本植民地時代の「共犯構造」の従犯者らは、2・28事件を機に、いつのまにか民衆の視野と記憶から巧みに身を隠した。彼らは一転して胸を張り、新しい「共犯構造」のワキ役として、さりげなく再び立ち現れることになる。彼らは自らも本省人だから被害者だと主張するかのようなジェスチャーでふるまう。そして、政府、政党、外省人の区別と次元の違いを意識することが少ない民衆の認識に便乗して、民衆に対して国府・国民党・外省人を巧みに、かくれみのとしてフルに活用する。かくれみのが存在し政治的タブーが持続する限り、彼らは虚構と虚飾の大いなる環境の中で保身の術を磨き、余生を楽しむ。そして彼らの末裔もまた「共犯構造」にどっぷりつかって今日に至っているのが現状だ。

↑1945年9月、重慶で催された宴席にて、抗日戦争勝利の祝杯を交わす毛沢東と蔣介石Mao Zedong and Chiang Kai-shek in Chongqing, China, in September 1945, toasting the victory over Japan.
           V 国府中央の台湾移転と国民党支配の確立
 1 台湾での国共抗争
 大陸での国共抗争
 終戦から中華人民共和国成立に至る国共両陣営の大陸での力関係は、おおよそ次のようなものだった。
 アメリカの全面的な支援を得ていた国府軍は、正規軍が約200万、総兵力は約430万、装備もすぐれていた。なかでも、抗日戦争の勝利を勝ちとった象徴的な人物として蔣介石の人望がそれまでになく高まっていたので、見た目では国府側が圧倒的な優勢を占めているかのようだった。
 それに比べて、中共側は八路軍と新四軍をあわせて約130万人、延安の洞穴を中心にした耐乏生活とわらじが象徴する貧しい装備から、人びとは彼らを劣勢と見たおもむきがあった。勝利に浮かれていた国府軍の油断と間隙をぬって、中共軍は、華北と東北地区へと確実に地歩を固めていった。
 国府は1946年5月5日に重慶から南京に遷都した。6月30日に国共停戦会談が決裂するや、内戦は全面化した。国府側は、なんとしてでも制度面と政治の形式において早急に優勢を占める必要があったのであろうか。同年11月15日に憲法制定国民大会を開き、47年1月1日には中華民国憲法を発布した。続いて、同年11月21日には第一期国民大会代表の選挙、48年1月21日には同じく第一期立法院委員の選挙がそれぞれ行なわれた。

①Apr 8, 2023 —堀江貴文Takafumi Horie 防衛費倍増を中国と台湾の歴史から紐解くUnraveling the doubling of defense spending from the history of China and Taiwan 約4年ぶりの台湾Taiwan for the first time in about 4 years.といっても、たまたまパラオの帰りのトランジットの都合で一泊することになったので入国することにしたのだHowever, I happened to have to spend the night in transit on my way back from Palau, so I decided to enter Taiwan・・・台湾といえばウクライナへのロシア侵攻で、にわかに中国脅威論が頭をもたげてきたSpeaking of Taiwan, with the Russian invasion of Ukraine, the theory of a Chinese threat suddenly reared its head. 
https://note.com/takapon/n/nf21c66d719c8②Feb 12, 2023 —ホリエモンHoriemon「AKB48が出来たのは俺が秋元康に資本の話をしてあげたからAKB48 was created because I talked to Yasushi Akimoto about capital」

[Yoshinori Kobayashi] x [Hiroyuki] parle [Takafumi Horie]①「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろうSi vous répétez un mensonge suffisamment gros et assez souvent, les gens finiront par y croire.嘘によって生じる政治的、経済的、軍事的な結果から人々を保護する国家を維持している限り、あなたは嘘を使うことができるVous pouvez recourir au mensonge tant que vous maintenez un État qui protège les gens des conséquences politiques, économiques et militaires du mensonge.よって、国家のために全ての力を反対意見の抑圧に用いることは極めて重要だIl est donc extrêmement important que la nation utilise tout son pouvoir pour réprimer la dissidence(ヨーゼフ・ゲッベルスJoseph Goebbels)②Jan 4, 2019 —小林よしのりYoshinori Kobayashi わしがAKBに熱狂した理由La raison pour laquelle j'étais si passionné par AKB. わしが夢中になってたのは、理由がある。 飽きてしまったのにも、理由があるIl y a une raison pour laquelle j'étais si obsédé par ça. Il y a une raison pour laquelle je m'ennuie. https://yoshinori-kobayashi.com/17274/

【夜鷹的單戀The Nighthawk's First Love女主角 松井玲奈 訪談篇😊Actress Rena Matsui Interview
https://www.youtube.com/watch?v=H1EQJ8HTmsU😢Рена Мацуї (яп.松井 玲奈마츠이 레나😍Matsui Rena, нар. 27 липня 1991; Тоєхасі, Айті)Рэна Мацуи-是日本女藝人,為女子偶像團體SKE48前成員,曾為Team E隊長,愛知縣丰桥市出身,出生於兵庫縣японська співачка-ідол, колишня учасниця герл-груп SKE48 і Nogizaka46. Спочатку вона приєдналася до підгрупи SKE48 S, але у квітні 2013 року вона стала лідером підгрупи Е. Також брала участь в основному складі SKE48 та брала участь у записі синглів AKB48.https://www.youtube.com/watch?v=K97wse4Kz0Uやわ男とカタ子Soft man and Iron girl軟男與鐵妹子Мягкий мужчина и Железная девушка😢⇔『鉄人28歳Ironman 28 ans』『男のトラ子 女の虎造Mâle Torako Femelle Torazo』😆

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