日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『Taiwan台湾Тайвань』ーHumanity, history, mentality人間・歴史・心性Человечество, история, менталитетーDai Guohui戴國煇Дай Гохуан《Republic of China中華民国Кита́йская Респу́блика》중화민국 국가三民主义Drei Prinzipien des Volkes(CANADA)2024/01/14⑭


 写真にあるように、蔣経国本人の署名は見当らない。正式の署名は副総統李登輝、行政院院長俞国華Yu Kuo-hwa、立法院院長倪文亜Ni Wen-ya、司法院院長林洋港、考試院院長孔德成Kung Te-cheng、監察院院長黄尊秋Huang Tzuen-chiouの六名である。また、一行をあげ、さらには一段下げた形で親族代表として三男の蔣孝勇Chiang Hsiao-yungが付署している。

*蔣孝勇Chiang Hsiao-yung(1948年10月27日—1996年12月22日)Цзян Сяо Юн,字愛悌[1],生于上海,籍貫浙江奉化,蒋经国与蒋方良第三个儿子,也是蒋方良四子女裡的老幺born in Shanghai, transferred to Zhejiang Fenghua, and was the third child of Chiang Fangliang and the third child of Chiang Fangliang, also the old school of Jiang Fangliang's fourth child.
 「遺言」を文面で見る限り、目新しい内容は何もないといってよい。それならば、なんのための「偽作」なのだろうか。そして、誰が「偽作」の中心人物なのか。また、なぜ1月21日の時点で、反体制週刊誌『民進広場』が「偽作」を暴露したのか(リーク説が強い)。「偽作」の中心人物と疑惑をかけられている総統府秘書長沈昌煥Shen Chang-huanの筋からなんら反論、もしくは否認の説が起こっていないのは、また一体全体、何を意味するのだろうか。疑念は尽きない。
 振り返れば、1984年は、国府の内部革新の画期となる年だった。

 蔣経国の総統再選は当然の成り行きとしても、老齢の謝東閔(1907年生まれの「半山」)に代わって、誰が副総統のポストに就くかが注目された。理由は簡単である。蔣は糖尿病を持病に持ち、かなりの重症で、80年代に入ってから数回にわたって手術を受けた。このことで、人びとは彼が1990年まで六年の任期を勤めあげるのを困難視していたからに他ならない。
 任期途中の合法的バトンタッチである限り、副総統がそれを継ぐことは憲法第49条にある通りである。したがって、実権の掌握云々は別問題として、副総統の総統昇格は、十二分に可能性があることは、火を見るよりも明らかであると言っても過言ではない。

 李登輝の選ばれた理由
 李登輝を蔣自身が選んだ理由は、時の台湾政界ではおおよそ次のように観測されていた。
 ①李には息子がいない。伝統的に子息をもたない男性は権力欲が小さく野心をもたないと見られる(中国人社会がなおもこのような思考法から自由でないのは悲しい。事実、ただ一人の子息憲文は、1982年3月に癌で早世した)。
 ②学者上がりで純朴、権謀術策を弄しない好人物と評価された。
 ③選挙の洗礼を受けておらず、李を支持する民衆や派閥の有形で明確な基盤を持たない。彼はいわば透明でクリーン、絶対的権力者にとっては安心してよい存在。
 ④大学生の頃、社会主義思潮の洗礼を受け、農民および勤労者階級への関心を持ち続けていることで、蔣自身のソビエト・シベリア体験と、どこかで接点ができてウマがあったのではなかろうか。
 ⑤読書家で、論理的思考と政情への原理的分析が評価されたのではないか。
 ⑥政界に入ったあと、行動、言動の上のいずれにおいても慎重居士で身辺をきれいにしていたこともプラスとなったのではないか。
 ⑦李は身長180センチ、体重80キロの堂々たる体格をしており、日本とアメリカの両方に留学した経験にもとづいた国際感覚を備えている。彼は病気がちの蔣に代わって外国の賓客の接待もたびたび行ない、テレビ時代の象徴的政治家としてのイメージにおいては、最適の人物とみなされたのであろう。
 台湾政界の観測者たちは以上の理由をあげた上で、72年以来、蔣が自ら政治家李登輝に慎重かつ総合的な観察を加えた上で一切を決めるであろう、とかまびすしく論評するのであった。
 ともあれ、李登輝が台湾史上さらには中国史上初めて、台湾人すなわち台湾省籍者として政界のトップの座に就いたことは、まぎれもない事実となった。

 2 党主席代行の推挙をめぐる攻防と両李体制
 蔣・宋王朝の終焉
 1972年5月、蔣経国が行政院院長に就任した。それ以来、国府・台湾の政治においては権力が実際上徐々に父・介石から唯一の後継者のストロングマンに育ちつつある息子・経国の手に移り、掌握されることとなった。
 制度面での国府は、形式上、総統制の下に行政院(内閣)制がしかれ、上下の関係をなす。だが、実質的に一党専制の政権システムをとっている国府の最高権力機関は、いうまでもなく国民党の中央常務委員会である。その常務委員会を統括し代表するポストを、蔣経国が蔣介石の死後党主席の名においてずっと独占してきた。彼は行政院院長(首相)の任にあっても、総統(78年3月に初当選)の任にあっても、官位の肩書とは無関係に党の最高権力を常に掌握してきた。
 興味深いことに、蔣経国は副総統に李を選んでおきながら、党に副主席のポストを設けなかった。そればかりか、非常事態に伴う主席のポストの後継者選出に関する手続きの明確な取り決めを党規約で定めなかった。生前の彼にはそれらを準備する充分な時間的余裕があったしまた実力があったにもかかわらず、である。
 党政の一元的指導でこれまでやってきた国府台湾の慣例に従えば、新総統の李が88年7月7日に開催の第13回党大会まで、党主席代行に推挙されるのが当然の成り行きである。

 党内革新派と世論の大半が李を擁護する形勢を固めていく中で、ひと波瀾起こった。蔣介石夫人の蔣宋美齢を頭に、介石の秘書・侍従あがりで現在台北故宮博物院院長の秦孝儀Qin Xiaoyi、総統府秘書長の沈昌煥、C・Cの大ボスである陳立夫といった面々が激しく巻き返して来たのである。幾多の紆余曲折を経て、1月27日の党中央常務委員会で李の党主席代行が正式に決定をみた。この数日間の攻防を、人びとは国府台湾内の「小さな無血革命Small bloodless revolution」と呼んでいる。中国近代史上での蔣・宋王朝が、ついに内側から幕を閉じさせられたと見た上での言であろう。

①秦孝儀(1921年2月11日—2007年1月5日)Цинь Сяои,字心波,中華民國學者。湖南省衡山縣吳集鎮桃嶺村人Françaisフランス語→Qin Xiaoyi (11 février 1921 - 5 janvier 2007), nom de courtoisie Xinbo, était un érudit de la République de Chine. Originaire du village de Taoling, ville de Wuji, comté de Hengshan, province du Hunan.

②Русскийロシア語→Шэнь Чан-хуань (кит. 沈昌煥; пиньинь: Шэнь Чанхуан; 16 октября 1913 г. - 2 июля 1998 г.) был тайваньским политиком и дипломатом. Он является министром иностранных дел дольше всех в истории Тайваня: в общей сложности он находился на этом посту более двенадцати лет с 1960 по 1966 год и с 1972 по 1978 год中政策共有29國相繼斷交,而成为任內斷交國数量最多的中华民国外交部長。

 民主化・開放政策の推進
 大局的に見る場合、まずはストロングマン以後の新しい政治的構造をどう組み立てるか。また次に国府台湾の政情と社会の安定を支える最大のファクターたる台湾経済の活力と高度成長ペースのプラス循環をどう維持していくか。これらが、李総統に突き付けられた最も重大な課題としてあげられる。
 第一に政治課題について検討してみよう。今にして思えば、蔣経国が85年12月25日の国民大会代表の年次総会で行なった「総統の後継者問題」についての発言は、本音で重大な意志の表明であった。彼は次のように述べた。
 「総統の後継者問は専制と独裁的国家においてのみ生じる。われわれの立国の基礎は憲法に依拠するものである。したがって次期総統の選出は貴会(国民大会)の代表諸氏が全国国民を代表して投票で決めるものである。もしかしたら、経国の家族の中から次期総統の候補者が出るか否かを問う人がおられるかもしれない。私はそれは出きないし、またありえないと答えておきたい」
 それ以来、蔣経国は「民主憲政」を旗印に、次々と彼なりの民主化政策を打ち出した。87年7月15日零時を期して、40年来の戒厳令を解除した。また外国為替管理の自由化も同時に発足。同じく7月27日、彼は「台湾に住んで40年、私もまたすでに台湾人である」と発言した。11月1日、大陸への親族訪問許可。12月25日、「憲法こそがわれわれの法統」(国府が全中国を代表する正統政権であるという主張の法的根拠)と経国は強調し、中央民意代表機関(立法院、国民大会、監察院)の改革の実施こそが唯一の正しい道であると指摘した。
 1988年1月1日を期して、新聞の創刊と増員の制限令であり、巧妙な言論統制政策の一環であった「報禁」が解除された。これら民主化・開放政策の推進と相前後して、「台湾ラディカルズTaiwan Radicals」を中心とする「民主進歩党」と「工党」といった反体制勢力の対抗的諸行動が平行して展開してきた。民主進歩党(民進党)は86年9月28日に結党宣言を行なった。また「工党」は日本語訳すると労働党となるが、これは87年11月1日に結党・発足した。

①Deutschドイツ語→Die Demokratische Fortschrittspartei (chinesisch 民主進步黨민주진보당, Pinyin Mínzhǔ Jìnbù Dǎng, kurz 民進黨민진당, Mínjìndǎng, englisch Democratic Progressive Party, kurz DPP) ist eine Partei in der Republik China auf Taiwan. Die als Opposition zur Kuomintang gegründete Partei stellte von 2000 bis 2008 mit Chen Shui-bian den Präsidenten der Republik China. Bei den Präsidentschaftswahlen 2008 und 2012 unterlagen die DPP-Kandidaten Hsieh Chang-ting (2008) bzw. Tsai Ing-wen (2012) gegen Ma Ying-jeou von der Kuomintang. Die Präsidentschaftswahlen 2016 und 2020 gewann Tsai dann jedoch mit deutlichem Vorsprung gegenüber den Kandidaten der Kuomintang und Qinmindang簡稱民進黨,是中華民國主要政黨之一,也是中華民國目前的執政黨,在立法院為第二大黨。Демократи́ческая прогресси́вная па́ртия Тайваня台灣民主進步黨Демократична прогресивна партія台湾民主进步党

②台湾工党Taiwan Industrial Party1987年11月,原民主进步党籍立法委员王义雄结合少数信仰社会主义的知识份子,各地工会领袖,以及地方政治人物,正式组织工党。由于当时正值台湾劳工运动方兴未艾之时,工党成立也受到关The Labor Party is a left-wing political party in Taiwan, founded on 29 March 1989 by a striking trade union in Xinpu, Hsinchu County. It is part of the wider labor movement in Taiwan, and advocates for labor reforms and the redistribution of social resources.
 さまざまな抗議運動
 それにもかかわらず、長年の戒厳令と一党専制の政治システムで培われた惰性は大きくじっとりとして重い。多くの民衆は、表向き、物質的生活をエンジョイし、半信半疑で蔣経国の打ち出す「民主憲政」の政治改革と開放政策を静観するのであった。
 その一方で、長年の積弊でつもりつもった「民怨」(民間のウラミツラミが憎悪にまでエスカレートした「恨」)、「民疑」(政治への不信感)、「民虞(政局と生活への先行き不安)は、あまたの街頭デモ、座り込みなどの自力救済活動と抗議運動を引き起こしている。入獄体験を持つ労働者出身の作家、楊青矗Yang Qingchuの集計によると、87年の一年間に起こったデモの回数はなんと大小あわせて1600回に上るという。その内容は、政治運動、社会運動、労働運動、学生運動、反公害運動、婦人解放運動、さらには農民運動と多岐にわたり、実にバラエティに富む。
*杨青矗Yang Qingchu(1940年8月20日—),原名杨和雄,台南市七股区人,台湾乡土文学作家,有“工人作家”之称,曾任中华民国总统府国策顾问。高雄中学附设补校毕业formerly known as Yang Hexiong, was born in Qigu District, Tainan City. He is a Taiwanese native literature writer and is known as a "worker writer". He once served as a national policy adviser to the Presidential Office of the Republic of China. Graduated from the supplementary school attached to Kaohsiung Middle School.
 ラディカルズにとって、逮捕、入獄の弾圧はもはや恐怖の対象ではなくなりつつあり、若者の一部には、逮捕・入獄がむしろ自らの反体制運動における知名度を高め、勲章となることで、過激な行動に打って出る向きさえ現れ始めている。当局側の弾圧がやりにくくなったこと、銃殺などの極刑がほぼなくなったこと、政治思想犯入獄者に対する支援活動が社会的規模で盛んであり、獄中生活もかつてのような厳しいものではなくなったというもろもろの事情が、ラディカルズを勇気づけていると評するかつての政治犯もいる。
 加えて、蔣父子のストロングマン的一党専制政治システムは、経国の死にともなってみるみるうちに弛緩と解体を余儀なくさせられている。新しい時代の幕あけだ。既存の秩序の解体は同時に全住民に危機感をもたらす。これは古今東西の通例であり、台湾政局もまた免れうるものではない。

 国民党内の情勢
 国民党内部の情勢を見よう。最近二年来の民主化諸政策が、結果としてハケ口を反体制側に与え、逆に党内での危機感をいくぶんか和らげることになったと評価できないことはない。また社会主義と、中国との平和統一を標榜するラディカルズの一部が工党、さらには新しく労働党を結成して、労働者と農民とに結びつこうと試み、新し形の勤労者階級を核とする島内反体制運動が始まっている。また、海峡の向こう岸からは中共政権のプレッシャーがひしひしと迫って来る。このような情勢下で、国民党内の関係者らは相互に危機感の顕在化を自律的に抑制しようとしているかのように見うけられる。
 その一環として、陰に陽に、多方面にわたって危機感を克服するための「運動」が試みられる。先ほど述べた蔣宋美齢ら官邸保守派の党主席代行人事をめぐる干渉とそれに対する無血革命は、その一つの現れといえなくもない。
 ともあれ、党内の主流を占める改革派が、ストロングマンに代わる「和」の核となりうる人物を盛り立てて当面の危機を克服する過渡的手当てを試みるのはきわめて当然のこととなろう。その文脈で考える時、李登輝を後継者に選んだ蔣経国は慧眼だったとさえ言えそうだ。
 李は確かにストロングマンとしての条件もカリスマ性もまだ持ち合わせていない。まさにそれがゆえに、「和」の核となる象徴的リーダーとしてのあらゆる条件を逆に持ち合わせる。このパラドックスに、人びとは遅まきながら気づくのであった。先にあげた、李が蔣経国によって副総統に選ばれた諸条件に、あえて加えるものがあるとすれば、次のことだろう。李は一方で客家の出身である父を持ち、他方で閩南出身の母を持つ。こうして客・閩双方の血を引き、本省人の優勢な方言である閩南語を駆使する。彼は一般本省人でもなかなか持ちえない条件を備えていることで、何にもまして本省人民衆の支持を得やすい立場にある。
 あえて言っておこう。もはや李自身が国民党を必要としているのではない。今は、まさに党だけでなく、政・軍・警察・特務の全ての関係者が限りなく彼を「和」の核の人物、リーダーとして必要としているのであり、擁護せざるをえない状況にあるのである。「有容」(寛容で度量が大きい)、「無欲」さらには「謙譲」の姿勢を保持し「無為」で党主席代行、ついで党主席もまたつとめあげることは、さほど困難でないし、そのようにも期待されている。

*Русскийロシア語→Ли Хуа́нь (кит. трад. 李煥리환, упр. 李焕Lee Huan, пиньинь Lǐ Huàn; 24 сентября 1917 — 2 декабря 2010) — тайваньский политический деятель, председатель Исполнительного юаня (1989—1990)中國國民黨的資深黨員,長期受到蔣經國的提拔。涉入國民黨二月政爭,失敗後淡出政壇。
 李煥の課題
 問題はいつに党運営の実権を掌握している中央党秘書長の李煥の腕と姿勢にかかっている。李煥は1916年湖北省漢口の生まれ、抗日戦争末期以来蔣経国の側近にいて、門下生でブレーンの一人でもある。国府の台湾移転以降は経国の右腕として、党務なかんずく組織面で活躍した。77年11月の中壢事件で政治の表舞台を一時離れたものの、84年には教育部長(文部大臣)として入閣し、再び浮上した。87年7月1日、戒厳令解除に伴う難局処理の旗手として、解除直前、秘書長に抜擢された。それ以降、彼は経国の腹心として党務改革さらには政治改革の重い任務を背負って今日に至っている。

 李煥の当面の課題は、過渡期の難局と民主進歩党、工党を中心とする反体制側からの挑戦にいかに対処していくかということにあろう。
 国府台湾の政権に詳しい人なら周知のことだろうが、国民党自体の民間でのイメージはかんばしくない。また、党中央はなおも自らを「革命(的)民主政党」と規定しているが、党の幹部すらも、国民党が党員全体の積極的な支持と参加をかちえているとは見なしていないのが内実である。国民党の実態は、党幹部と「党工」(党務専従者)だけの弛緩した党であり、一般党員からも浮きあがっているといわれている。国民党はまた、戒厳令下の非常事態の動員体制に安住したマンネリ化した旧い体質を根深くかかえこんでいる「悩み多き伝統」の党ともみなされている。
 国民党の中央委員会の構成は台湾社会の客観的諸現実を正確に反映しえていない。特にそれは一般党員なかんずく本省籍の中・下層党員のコンセンサスを体現し、代表していない。こうした宿痾はかなり重症であって、その克服は容易ではなかろう。
 49年以降70年までは、蔣介石・経国体制の絶対的ともいえる強権に依存した、上からの強引なコントロールで、党が運営されてきた。しかし、70年代に入ってからは、政治意識の普遍的な高まりと民衆の幅広い人権をめぐる目覚めにともなって、それまでのやり方は通じなくなり、上意下達にときため食い違いが起こり、離党と反体制運動への参加の例も少なからず起こった。
 蔣経国の死と戒厳令の解除をはじめとするもろもろの政治的・社会的タブーの消失に伴って台湾政局は新たな展開を見せ、人びとを激動の渦に巻き込んでいる。台湾社会のすみずみで、改革への熱い願望とアピール、さらにはそれをめぐるさまざまな思惑が入り組んで、活気がみなぎっている。このエネルギーを誰が、そしてどの党が最もよく結集し、モノにできるかが最大のポイントとなろう。

*反亞泥還我土地運動Die antiasiatische Schlamm-zurück-unser-Land-Bewegung是一起同時涉及礦業不當汙染環境及原住民土地權益之運動。該運動自1990年代開始持續至今,並於1996年成立「反亞泥還我土地自救會」控訴亞泥以不正當、欺瞞的手段使原住民喪失原住民保留地之耕作權,使他們無法進而取得土地所有權(參照台灣省山地保留地管理辦法,詳後述)。惟至今,太魯閣族原住民仍有許多土地無法要回,2017年更是經經濟部准許亞泥礦權可展限20年,而後於2019年7月11日,被台北高等行政法院宣判撤銷許可,判決理由為亞泥未遵守原住民族基本法第21條之「諮商同意參與程序」。
 「民怨」のエネルギー
 こうした情勢の中で四つの大きなデモが起こった。1987年12月25日の列車までストップさせた「中央民意代表の全面的改選」要求のデモ、88年3月16日の米国農産品輸入自由化反対のデモ、5月20日午後から21日早朝にかけて一般民衆と学生までを巻き込み暴動化した農民デモならびに「台湾原住民族『還我土地』運動The Anti-Asian Mud Return Our Land movement聯盟」が呼びかけ、8月25日、台北で敢行された先住系諸民族による「われわれに土地をかえせ」の大デモなどがそうである。これらのデモは規模と内容の上で、新しい質的変化が現れ始めたことを示している。特に、農民を中心に行なわれたデモで反米スローガンが掲げられたことと、先住系諸民族の「抗議の声」が大きくこだましたのは、未だかつてなかったことである。
 おりもおり、台湾原子力委員会核エネルギー研究所Taiwan Atomic Energy Commission Nuclear Energy Research Institute副所長の現役将校(大佐)・張憲義Chang Hsien-yiが国府の原子爆弾開発計画をCIAに密告し、阴历新年旧正月Lunar New Year前後の休暇を巧みに利用してCIAの援助でひそかに渡米するという事件が発生し(詳しくは『朝日新聞』1988年3月14日朝刊)、CIA弾劾の動きもまた盛んになってきている。これはアメリカのドル安・元高の圧力と台米貿易交渉でアメリカ側の横暴な態度がマスコミによって流布されるのにともない、民衆の反米感情が一段と高まっている時のことだけに、注目したい動きである。

*Françaisフランス語→Chang Hsien-yi (en chinois traditionnel : 張憲義), né en 1943, est un scientifique taïwanais. Il est l'un des quatre directeurs adjoint de l'Institut de recherche sur l'énergie nucléaire (en) de Taïwan ayant le grade de colonel avant de faire défection aux États-Unis en 19881. Il transmet à la Central Intelligence Agency et aux autorités américaines des informations sur le programme nucléaire taïwanais et le développement potentiel d'une bombe atomique.

曾參與中山科學研究院的核武研發,但他被美國人勸誘為內諜,將相關情報交給美國政府,在1988年在美國中央情報局(CIA)安排下潛逃至美國並取得美國國籍與證人保護計畫[3];同時根據他提供的情報,美國政府介入台灣核武研發,會同國際原子能總署破壞設備、銷毀文件、沒收核材料,迫使中止接近完成的相關研發。
 40年来の「民怨」の存在は、蔣経国が生前、勇敢にも認めたところである。与党サイドが「民怨」を放置し無策に過ごすようなことがあれば、国民党側の負けは明らかとなろう。また、反体制側が「民怨」をテコとして、憎悪をエネルギーに転化させ変革へふり向けることができれば、たとえ幾多の紆余曲折があったとしても、大変な変動が起こってくるのは必然となろう。なお民主進歩党が、これまでと同様、アメリカ民主主義の賛美一本やりで、やり過ごそうとしても困難があろう。そもそも、いうべきこと、抗議すべき点を、アメリカ向けに行動で示さなければ、民衆に信を失い、唾棄されかねないからである。
 私は近年の蔣経国の民主化と開放政策は、まさに先に述べたような状況の兆しを見てとり、先手をうったものと見て、注目してきた。李煥が、蔣経国が敷いてすでに後戻りがきかなくなっている改革路線を基礎として、党務の自己革新策を積極的に打ち出さざるをえない状況に追い込まれていることは明らかだ。
 李登輝と李煥の両李体制が当面せざるをえない難局は、国民党にとって、台湾移転当初すなわち49年末から50年代初頭に至る間の事情に劣らぬほどのものと言っても過言ではない。中央委員会メンバーの大多数は外省籍ゆえ、その体質改善と人事刷新については、役職面からはもとよりその出自の面からいっても、李煥が積極的に担わなければなるまい。

 李新総統の課題と政治の現実
 本土化と民主化
 党務革新に比べて、李登輝の総統職としての課題は、やや性格が異なる。むしろ党外なかんずく本省籍人士の政治参加への積極的諸要求をどう受け止め、李煥と連携しながら、政治面での本土化と民主化のテンポを速め、それらをどうスムーズに推進していくかに重点があると思われる。
 ここに「本土化」という言葉を用いたが、これと「台湾化」という概念との間には微妙なニュアンスの差異があるということを、お断りしておきたい。一般的にいって台湾化とは台湾・澎湖諸島と本省人に限定した土着化と同義に受け止められがちである。だが、本土化をより論理的につきつめれば、当然、台湾化を包摂した、より広い概念として使われてしかるべきと考えたい。「大陸反攻」が不可能である以上、中央民意代表の台湾地区に限定した全面的改選はもはや避けられるものではない。できるだけ早く、いかに摩擦を少なくして実施するかが、まず本土化の第一の課題となろう。なお、地理的空間としては、当然のことながら台湾・澎湖諸島に加えて金門・馬祖地区が入るべきだろう。また、本土化の対象とすべき住民は上記の全域に居住するあらゆる省籍、さらには少数民族のメンバーを幅広く一括して包み込むべきと考える。それをめぐるコンセンサスの確立が待たれている。
 絶対者の政治的権威が崩れる時、後継者は、当然のことながら、権威の空白の補填の役割を担って立たざるをえない。すでに述べたように、台湾は40年来戒厳令下にあって、あまたの弾圧的諸法規と警備総司令部をはじめとする特務・情報・治安機関などの弾圧機構によって一党専制の政治システムが維持されてきた。その限りにおいて、ほとんどの政治参与はたまた政治指導への参画は、国民党の所与のパイプを通じてのみ可能だった。
 一般民衆のより自由で自発的な政治参与はかなり制限されてきた。なかんずく、国民党の体制に組み入れてもらえないもの、さらにはそれに黙って従わないで異論をとなえるものは、完全に排除された。排除は往々にして不公平でかつ政治的迫害を伴ったがゆえに怨念を積み重ねることになり、はなはだしくは憎悪と化して鬱積する始末であった。

 新総統の課題
 新総統には、累積した「民怨」を解きほぐし、民衆を統合しつつ同時に時代の倫理的要請に応えて、新しい政局にも対応可能な政治的威信の確立が緊急の課題として求められよう。反体制勢力の登場で、言論面と街頭デモをつうじての当局への挑戦は、当分の間激しく続くものと予想される。
 反体制勢力の実際の勢い、挑戦の内容、質のいかんを問わず、新総統を核とする新権力は、自らが拠って立つ政治支配の正統性と合法性を再編する必要に迫られている。国府当局は長年にわたって中共の脅威と非常事態を理由に、自らの「法規」の主なよりどころを台湾移転(1949年末)以前に選出されたまま無改選の国民大会代表、立法院委員および監察院委員で構成された中共民意代表機関、いわゆる「万年国会」に、みずからの体制を正統化する体系的イデオロギーを孫文主義、すなわち三民主義にそれぞれおいて糊塗してきた。
 だが、先の章で述べたように、もはやそれだけでは適応できなくなってきた。よかれあしかれ、蔣経国は台湾地区の一つの時代を体現した人物だ。その彼の死はまさに一つの時代の終わりを告げる。新時代が直面する新しい現実は、無理が重なってきた既存秩序の破綻と解体をいちだんと加速させている。
 国民党の一党専制的政治システムの権威が、いまや存亡の危機に直面していることは明らかである。時代の挑戦を受けて、新総統は党政分離の必然を先取りし、「国民党=政府=国家」の惰性的思考と行動の固定化したパターンから一日も早く自由になることが要請されよう。昨今のマスコミで「万年国会」の改編と多党制による競争的代議政治の着実な実施がアピールされ、焦眉の急の政治的争点として提示されている。
 これに次ぐ政治的争点として、反体制側からあわせて提起されているものに、行政院直轄市の台北と高雄の市民選挙を公選に戻し、さらに、台湾省主席を公選にすることの二つがある。政治参与の全面的開放と自由化への要求の声は高い。
 新総統がいかにして正統性と合法性の再編成を試み、省籍矛盾を超克して台湾地区における暫時的な「国民的統合」、「社会的和解と協調」さらには「政治の前向き的安定」の軌道の敷設に成功できるかに、衆人は注目している。

①2023/03ー【米中喧嘩US-China quarrel】ひろゆきHiroyuki「やられたらやり返すIf I'm hit, I'll hit back」ペロシ氏の台湾訪問は神風?習近平主席の思惑は?Is Pelosi's visit to Taiwan a kamikaze? What are President Xi Jinping's intentions? https://www.youtube.com/watch?v=ntcrx-gqkEI②【基地Base】「台湾侵攻は尖閣有事、つまり日本の戦争だThe invasion of Taiwan is a Senkaku emergency, or a war with Japan」非武装による平和が理想?Is peace through disarmament the ideal?ひろゆき&八重山日報と考える沖縄の在日米軍基地Hiroyuki & Yaeyama Nippo's thoughts on the U.S. military base in Okinawa|《アベマで放送中Broadcasting on Abema
https://www.youtube.com/watch?v=Yphg0gBx8DY③Aug 10, 2022 —始まりは“日清戦争”の恨みIt all started with resentment over the Sino-Japanese War.…台湾危機にひろゆき氏Hiroyuki on the Taiwan crisis「戦争はバイデン政権の得になるWar is a win for the Biden administration」https://times.abema.tv/articles/-/10034720④2024/02ー【スパイvs日本Spy vs Japan】ガチ暴露!Real exposure!台湾総統選の裏Behind the scenes of Taiwan's presidential election…日本メディアの根本問題Fundamental problems of Japanese media【習近平vsバイデンXi Jinping vs Biden】ひろゆき、成田悠輔、後藤達也Hiroyuki, Yusuke Narita, Tatsuya Goto https://www.youtube.com/watch?v=QGFkn1rc7MA⑤Sep 4, 2022 —ひろゆきと竹中平蔵、弱肉強食経済学支持者2人の「言論プロレス」をどう見るかHow do you view the "pro-wrestling" of Hiroyuki and Heizo Takenaka, two supporters of economics of the fittest?本書は、ネットの世界で若者から圧倒的支持を受ける実業家のひろゆき氏と、全世代から嫌われる竹中平蔵氏の「言論プロレス」だThis book is about the "word pro wrestling'' between Mr. Hiroyuki, a businessman who receives overwhelming support from young people in the online world, and Mr. Heizo Takenaka, who is hated by all generations. https://www.moneypost.jp/942823

*呂明賜Lu Ming-Tsu(1964年10月30日—),是台灣知名旅日棒球選手,右投右打,守備位置捕手、外野手
jugador de béisbol en Taipei, Taiwán, lanzador derecho, bateador derecho, receptor en posición defensiva, jardinero
前讀賣巨人隊及前味全龍隊球員及教練。目前為台北市成棒隊總教練。

1988 Yomiuri Giant Le géant asiatique Lu Ming-Tsu HR spécial
En regardant le swing avec 10 circuits en 17 matchs pour les géants, et la puissance a été entièrement libérée, si vous voulez être pointilleux, la trajectoire du swing est-elle un peu trop longue ? Le degré de conquête du Japon devrait-il être le premier à Taiwan dans les temps anciens et modernes ?

①"Appointment in One Second" is the fifth single of Taiwanese female idol group AKB48 Team TP. It was released by Like Music and Universal Music on October 15, 2021. The title song of the same name is the first original song of AKB48 Team TP, with Lin Yuxin as Center (center member)『노기자카에게 역전당했습니다. ~벼랑 끝에 몰린 AKB의 대역습乃木坂に、越されました〜AKB48、色々あってテレ東からの大逆襲!〜Nogizaka has passed ~ AKB48, a big counterattack from TV Tokyo after various things!』は、2021年7月7日(6日深夜)から9月29日(28日深夜)までテレビ東京『バラエ(チー?笑)ティ』枠で放送されていた、AKB48の冠番組AKB48's flagship program that was broadcast on TV Tokyo's "Variety" frame. MCはひろゆきHiroyuki(西村博之Hiroyuki Nishimura)③《大影响家인플루언서》花形スターBlooming Star「’持論’王Roi de 'sa propre théorie'」への質問Question to: あなたは一体何処におられるのですか?😩Where the hell are you?フランスFrance?日本Nippon?(’ガーシー’やらいう輩と同類にしか見えないんですけどVous semblez simplement être dans la même catégorie que « GaaSyy ».)いつでもAnytime「ひろゆき節炸裂!Hiroyuki Bushi(phrase) Explosion!」→「~じゃないかな?Isn't it 」「~辞めて頂けるとIf you could stop it」「きれいごとで言いたければ言えばいいと思うI think if you want to say it neatly, you can say it. でもBut、それでthat's it」(「報告は簡潔に明瞭にReports should be concise and clear」レーニンLenin)云々etcヘラヘラHeraheraうじうじUjiUjiと曖昧ambiguousのらりくらりcircuitous「こういう流れThis is the direction」」「~してないと思うけどねI don't think did that」「’おいら’だけですかね?Is it just 'Oira'(me)?」(「時間だよIt's time「しかし私はまだ自分の意見は述べておりませんBut I haven't expressed my opinion yet」それは関係ないIt doesn't matter」レーニンLenin)だの(こういうのが例のThese are an example(評価が高いHighly rated)【論破refutation】?😩≪日和見主義opportunism投机主义≫ともあれAnyway)『なんでも屋Magasin général』↓

③Nogizaka46 Nanase Nishino Sayuri Matsumura Miona Hori greeted by fans at the airport臺北松山機場Тайбей-Суншань台北松山机场④Françaisフランス語→Miona Hori (堀 未央奈😍, Hori MionaХори Миона), née le 15 octobre 1996 à Gifu, est une chanteuse et actrice japonaise, ancienne membre du groupe Nogizaka46 de 2013 à 20201, et un mannequin régulier pour le magazine de mode ar2021年3月28日自乃木坂46畢業,以演員為活動重心。堀的暱稱是Miona(みおな)和Horichan(堀ちゃん)😊나는 나를 좋아하게 된다我會喜歡上自己的I am Starting to Like Myself》😢







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