日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

《И вновь продолжается бой/The Battle is Going Again》Salvador Sanchez/Wilfredo Gomez/Davey Moore/이동춘李東春『ボクシング特集BOXING SPECIAL』(CANADA)2019-24ー編集版Edited version

*過去の記事群から埋もれている試合を編集し、組み合わせましたEdited and combined hidden matches from past articles お楽しみいただれば幸いでありますI hope you enjoy it.     2024/03/02 Samdi/Saturday Richimond HIll ON, Canada  《Amis du monde世界の友邦たちFriends of the world》Merci Beaucoup/Thank you very much/Muchas gracias/非常感谢你/매우 감사합니다 一路平安☆ 加拿大


(1)、1980年8月22日 WBC世界J・フェザー級タイトルマッチ 王者ウイルフレド・ゴメス(プエルトリコ(世界選手権(74年ハバナ大会)優勝金メダル+ミュンヘン五輪代表(96勝3敗)+29連勝(29KO)無敗1分(デビュー戦)=44勝(42KO)3敗1分)VS挑戦者デリック・ホームズ(ミュンヘン五輪米代表(129勝10敗)+14連勝(10KO)無敗1分=17勝(11KO)3敗1分)ネバダ州ラスベガス
ーアマ時代、ゴメスはホームズに痛恨の初回KO負けを喫している。プロでの再戦、ゴメスが合計8度のダウンを奪い5回TKO勝ち。雪辱を果たした。初回、2回とたびたびホームズの右ストレートがゴメスの顎を打ちぬき、危なかった。その後もホームズは単発のパンチは当てながらも、ゴメスが仇敵を圧倒(13連続KO防衛達成)。ワンサイドとなった試合。けどこの頃のゴメス(かつては絶妙のカウンターパンチャー)はやや強引なファイター・スタイルになっていた。ホームズは引退後、麻薬関連で刑務所暮らし。現在はトレーナーとして更正している。ゴメスは、ロイヤル・小林に15回判定勝ちでタイトルを奪取した韓国の廉東均に挑戦し、初回にダウンを喫しながらも、12回逆転KO勝ち(詰めは見事だった。廉のパンチを外しては、間髪入れずに連打を叩き込む)。2度目の防衛戦において来日。福岡(北九州)で前王者ロイヤル・小林(ミュンヘン五輪代表)を3回にノックアウト(見事な左フックのカウンターを炸裂させ、小林を前のめりに倒す。さらに2度ダウンを追加しKO)。
(2)、1982年3月27日 WBC世界J・フェザー級タイトルマッチ 王者ウイルフレド・ゴメス(34勝(34KO)1敗1分)VS挑戦者ファン・キッド・メサ(メキシコ+37勝(32KO)4敗=45勝(37KO)9敗)ニュージャージー州アトランティックシティ
ーゴメスが6回にメサをストップ。リングサイドではライバルの故サンチェスが観戦。ゴメスは試合前から鋭い視線を送り、睨みつけていた。そして↑のホームズ戦でも同じく、ゴメスの巧妙な反則(ローブロー+連打の中に混ぜる。すぐ上に返すからレフェリーは止めにくい(小泉氏言))はしたたか。ながらも、14連続KO防衛に記録を更新。

*Вильфредо Гомес Ривера (исп. Wilfredo Gómez Rivera; родился 29 октября 1956 года в Пуэрто-Рико) — пуэрто-риканский боксёр-профессионал, выступавший во 2-й легчайшей, полулёгкой и 2-й полугегкой весовых категориях. Чемпион мира во 2-й легчайшей (версия WBC, 1977—1983), полулёгкой (версия WBC, 1984) и 2-й полулёгкой (версия WBA, 1985—1986) весовых категорях.
*Juan Meza (born Jesus Fernández, March 18, 1956 – July 20, 2023), also known for his nickname Kid Meza, was a Mexican professional boxer who was world Super Bantamweight champion. Meza was born in Mexicali, Mexico.



(1)、1983年6月15日 WBC世界J・フェザー級王者決定戦 1位ハイメ・ガルサ(アメリカ+37連勝(35KO)無敗=48勝(44KO)6敗)VS2位ボビー・ベルナ(フィリピン+23勝(12KO)2敗1分=31勝(17KO)6敗1分)カリフォルニア州ロスアンゼルス
ーゴメスが返上したタイトルの決定戦。ガルサが初回にダウンを奪われながらも2回、3度ダウンを奪い返し逆転ノックアウト勝ち。サウスポーのベルナを沈めた。ガルサはなかなか挑戦が実現せず(長らく1位)「無冠の帝王」でもあった(もっと早く王者になれた実力者=「ゴメスよ、クルス(WBA王者)よ、俺と戦え!」といった記事も思い出す)。
(2)、1984年11月3日 WBC世界J・フェザー級タイトルマッチ 王者ハイメ・ガルサ(40連勝(38KO)無敗)VS挑戦者ファン・キッド・メサ(41勝(33KO)5敗)ニューヨーク州キングストン
ー初回、ガルサは2度先制(1度はスリップにされた)のダウンを奪う(しかし度々危ないパンチをもらっていた=防御はやや甘く、あまり器用な選手ではなかった)。ながらも、強打のメサは起死回生。左フックのカウンターを命中させガルサを仰向けにひっくり返す。そのままテンカウント。奇蹟の逆転1回KO勝ち、歓喜の新王者メサ。ガルサは連勝ストップ、初黒星(試合後、コーナーにすわり呆然。痛恨の苦々しい表情を浮かべていた)。そしてこれがガルサ(一発の破壊力なら最強、ゴメス以上だった)、最後の世界戦となってしまう。
(3)、1988年3月24日 世界フェザー級ノンタイトル10回戦 後のWBC世界フェザー級王者マルコス・ビジャサナ(メキシコ+49勝(42KO)6敗2分=55勝(47KO)8敗3分)VSハイメ・ガルサ(47勝(43KO)3敗)カリフォルニア州ロスアンゼルス
ー強豪同士の生き残り戦となったが、ビジャサナがガルサを5回にノックアウト。豪打の応酬は、頑丈さに差が出た結果といえる。タフネスで鳴るビジャサナと対照的に、ガルサは(パンチャーにはありがちな)’グラスジョー’を合わせ持った選手だった。すでに両者とも全盛期は過ぎていたとはいえ、ガルサに往年の勢いはなかった。そして(繰り返しになりますが)あらためて、ボクシングの一敗(しかも(初黒星)初回KO負けでの世界王者喪失)というのは本当に大きい。
*Jaime Garza (* 10. September 1959 in Santa Cruz, Kalifornien, Vereinigte Staaten) ist ein ehemaliger US-amerikanischer Profiboxer. Von Juni 1983 bis November 1984 war er Weltmeister der WBC im Superbantamgewicht.


(1)、1982年7月21日 WBC世界フェザー級タイトルマッチ 王者故サルバドール・サンチェス(メキシコ+43勝(31KO)1敗1分)VS挑戦者アズマー・ネルソン(ガーナ→英連邦・全アフリカ王者(50勝2敗)+13連勝(10KO)無敗=39勝(28KO)6敗2分)ニューヨーク・MSG
ーサンチェスが最終15回にネルソンをストップ。サンチェスのラストファイトとなった(この試合直後に運転していた愛車で、交通事故死(永遠の国民的英雄=享年23歳)。豪腕の’野生児’ネルソンは善戦し、サンチェスを大いに苦しめた。敗れたとはいえこの一戦により、俄然知名度が上がり注目が集まる。
*サルバドル・サンチェス(Salvador Sánchez、1959年1月26日 - 1982年8月12日)は、メキシコのプロボクサー。サンティアゴ・ティアンゲステンコ出身。1970年代中盤から1980年代初頭にかけて活躍した選手。元WBC世界フェザー級王者。世界王者のまま交通事故死した。
(2),1984年12月8日 WBC世界フェザー級タイトルマッチ 王者ウイルフレド・ゴメス(41勝(40KO)1敗1分)VS挑戦者アズマー・ネルソン(19勝(14KO)1敗)プエルトリコ・サンファン
ーネルソンが11回にゴメスをノックアウト、新王者に輝く。展開は一進一退で、ゴメスは巧く戦いながらも、随所でネルソンの強打に脅かされた。フィニッシュは強烈、すさまじいKO劇だった(ゴメスは仰向けに倒される)。加えてゴメスは、すでに全盛期は過ぎていた。ネルソンはこのタイトルを6度(4KO)防衛(この当時は荒々しいスタイルから豪打を放つ、獰猛なファイターだった)。後にWBCJ・ライト級タイトルを奪い、2階級制覇(このタイトルを通算11度(6KO)防衛した=だんだん、技巧派テクニシャンに転じたといえる)。
*Азума Нельсон (англ. Azumah Nelson род. 19 июля 1958) — ганский боксер, выступавший во второй полулёгкой, полулёгкой и лёгкой весовых категориях. Чемпион мира по версии WBC (1984—1990; 1990—1994; 1995— 1997), претендент на чемпионский титул по версии IBF (1990) и IBA (1998).



(1)、1979年10月24日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ15回戦 王者工藤政志(23連勝(12KO)無敗)VS挑戦者アユブ・カルレ(ウガンダ(デンマークに亡命・コペンハーゲンに移住=世界選手権(74年ハバナ大会)優勝金メダル(241勝9敗)+30連勝(17KO)無敗=46勝(23KO)4敗)秋田県立体育館
ーカルレが大差の判定勝ちで工藤を破り、念願の新王者に就いた。待ちに待ったカルレは敵地でのタイトルマッチ、そしてタフな王者工藤が相手とあって大事に戦った。初回からワンサイド(工藤は的確なパンチを浴び、たびたびバランスを崩していた)。KOチャンスはあったながら無理をせず、勝ちに徹したといえる(14回、とうとうダウンを奪った)。’クリンチ戦法’で鳴り、’日本選手キラー’(前王者の輪島功一、柴田賢治(サウスポー・日本王者)が軍門に下っている)だった王者エディ・ガソEddie Gazo(ニカラグア)からタイトルを奪った工藤(元アマレスリング選手)は地元ファンを前に勇姿を飾れなかった(最終回は猛反撃に出たが、4度目の防衛ならず)。これがラストファイトとなった。忘れられない思い出は(他の選手も同じですが)日本ならではの良好な伝統、次々授与される’大型’の「勝利者トロフィー」に驚きながら、嬉しそうに抱いていたカルレとデンマーク人陣営が印象的でした。
*↓の故ムーアも三原からタイトルを奪ったリング上、アメリカ放送の解説陣も「こんな大きなトロフィーは見たことがない(笑)」(故ドクター・ファーディ・パチェコDr. Ferdie Pacheco=スペイン系キューバ人Cuban-American immigrant二世) 「ムーアの人生で最高の瞬間です」と微笑ましく語っていた。帰国後(敵地南アにおける初防衛戦(対ウェアー)が決まっていた)スタジオに呼ばれたムーアも映像をみながら笑顔で「三つ大きなトロフィーを貰った」(「あれ、そのまま(飛行機で)持って帰って来たのか?」)「No, I had to ship itいや、船便にしたよ(笑)。TOO BIG!!(大き過ぎる!!)」とカメラにウィンクしていたあどけない表情のムーアがよみがえる涙。
*Masashi Kudō (jap. 工藤 政志, Kudō Masashi; * 24. August 1951 in Präfektur Akita, Japan) ist ein ehemaliger japanischer Boxer und WBA-Weltmeister.
*Ayub Kalule (født 6. januar 1954 i Kampala, Uganda) er en tidligere bokser og nuværende boksetræner, der i sin professionelle karriere som bokser havde base i Danmark. Som amatør blev han i 1974 verdensmester i letweltervægt og som professionel vandt han i 1979 WBA-verdensmesterskabet i letmellemvægt.
(2)、1982年4月26日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者故デビー・ムーア(モスクワ五輪米代表(96勝6敗)+9連勝(6KO)無敗=18勝(14KO)5敗)VS挑戦者チャーリー・ウェアー(南アフリカ=29勝(26KO)2敗=31勝(28KO)3敗)南アフリカ・ヨハネスブルグ
ームーアが合計5度のダウンを奪い圧勝。5回KO勝ちで初防衛に成功。強打のウェアーはグラスジョーと打たれ脆さを暴露。ボクシングマガジンの紹介欄で「写真ほどハンサムではない」(ホンマにええ男に見えた)と書いてあったのに笑った記憶が鮮明(苦笑)。ムーアは前回の日本に続く、敵地での一戦を難なくノックアウトで乗り切った。
①デビー・ムーア(Davey Moore、1959年6月9日 - 1988年6月2日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区出身。元WBA世界スーパーウェルター級王者・・・1988年4月30日、ゲリー・コーターズと対戦し、6回TKO勝ち。この試合が生涯最後の試合となり、6月2日に事故死した。28歳没Davey Moore (9 June 1959 – 3 June 1988) was an American world junior middleweight champion boxer, the second of two professional champions who shared the name in the second half of the 20th century. Each died around the age of thirty, the first Davey Moore (born 1933) as a result of punishment in a fight, the second in an accident at his home.(同姓同名の故デビー・ムーアも来日し、高山一夫Kazuo Takayama(日本王者)の挑戦を二度にわたり退けた試合(双方判定負け)で馴染みが深い(一戦目は後楽園球場)→②デビー・ムーア(Davey Moore, 1933年11月1日 - 1963年3月23日)は、アメリカ合衆国のプロボクサー。ケンタッキー州レキシントン出身。元世界フェザー級王者・・・1963年3月21日、ドジャー・スタジアムで行われた6度目の防衛戦でシュガー・ラモスSugar Ramos(キューバCuba)と対戦し、10回終了時TKO負けで王座から陥落。この試合でのダメージが原因で2日後の3月23日に死亡した。
(2)、1982年7月17日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者デビー・ムーア(10連勝(7KO)無敗)VS前王者アユブ・カルレ(40勝(19KO)1敗)ニュージャージー州アトランティックシティ
ームーアが苦戦しながらも10回TKO勝ちで2度目の防衛に成功。カルレは王座復帰ならず。前半はサウスポーのカルレが優勢だった。特に3回はボディーから顔面に返す連打を命中させ、ムーアをたじろがせる。ながら徐々に調子が上がってきたムーア。若さでカルレをストップ。カルレは工藤から王座を奪う前は、強すぎるがゆえ(元世界王者やランカー(東洋関連では元東洋王者羽草勉(福岡県出身(北九州ジム)=15勝(6KO)15敗1分)を地元コペンハーゲンで3回TKO+同じく元東洋王者朱虎(韓国+11勝(5KO)3敗1分=工藤に挑戦し判定負け(初黒星→11連勝中)&羽草と12回引き分け、三原に3回KO負け))をデンマークに迎え、2回KO勝ち)をたて続けに連破)挑戦を敬遠されていた「無冠の帝王」時代に峠を越えてしまったよう。35連勝(18KO)を記録し、4度の防衛に成功するがレナード(モントリオール五輪米代表金メダル)に9回TKO負けでタイトルを失う(初黒星)。



(1)、1980年8月2日 WBA世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者アントニオ・セルバンテス(コロンビア=87勝(40KO)10敗3分=通産16度防衛=91勝(42KO)12敗3分)VS挑戦者故アーロン・プライヤー(アメリカ(アマ204勝16敗(モントリオール五輪国内予選決勝でハワード・デービス(金メダル)に負けた)24連勝(22KO)無敗=39勝(35KO)1敗+享年61歳)オハイオ州シンシナティ
ー地元の英雄プライヤーが4回KO勝ちで王座強奪。新旧交代劇。セルバンテスは老いたり。「シンシナティの荒鷹」の異名を持つ新鋭プライヤーの時代が始まった。
*Antonio Cervantes soprannominato "Kid Pambelé" (San Basilio de Palenque, 23 dicembre 1945) è un ex pugile colombiano. Fu Campione del mondo WBA e lineare dei welter junior dal 1972 al 1976 e dal 1977 al 1980.
*Aaron Pryor (Cincinnati, 20 de octubre de 1955 — 9 de octubre de 2016) fue un boxeador profesional estadounidense que llegó a consagrarse campeón mundial de los pesos superligeros y ser considerado campeón lineal de 1983 a 1986.
(2)、1982年11月12日  WBA世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者アーロン・プライヤー(31連勝(29KO)無敗)VS挑戦者WBC世界ライト級王者故アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア(72勝(58KO)5敗=77勝(62KO)8敗+79年(革命勃発Nicaraguan Revolution(全財産没収)、サンディニスタ社会主義政権誕生Frente Sandinista de Liberación Nacional (旧アルゲリョ邸は迎賓館に使われていた)。アメリカに亡命、マイアミ在住+2009年、自殺(冷戦終了後、祖国へ帰国。議員だった=享年57歳))フロリダ州マイアミ オレンジボールスタジアム
ープライヤーが14回TKOでアルゲリョを破る。4階級制覇ならず。アルゲリョ(3度来日)は動きがぎくしゃくしていて、スピードがなかった。プライヤーは中盤から足を使い旋回。ジャブを突いてアウトボクシングに徹する。ながら11回にアルゲリョは右ストレートを何発も命中させ、チャンスをつかむ。連打(絶対左右ボディーブローが組み込まれている)をまとめ、もう一歩まで追い込んだ。13回、再びアルゲリョの豪快な右ストレートが炸裂したが後続打がなく、ノックアウトには至らず。14回、滅多打ちにされストップ負け。とはいえ、↓のように議論と疑惑を呼んだ試合。
*Alexis Argüello Bohórquez (* 19. April 1952 in Managua, Nicaragua; † 1. Juli 2009 ebenda) war ein Weltmeister im Boxen und später nicaraguanischer Politiker.
*ブラックボトル事件Black bottle incident 1982年11月12日、フロリダ州のオレンジボウルでアレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)と対戦し、試合前半はいつも通りのインファイトを挑んだが後半は普段はあまり見せないアウトボクシングに徹し、14回にスタミナが切れてきたアルゲリョに連打を叩き込み失神させ14回TKO勝利を収め、プライヤーは160万ドル、アルゲリョは150万ドルのファイトマネーを稼いだ。しかし、プライヤーのトレーナーのパナマ・ルイスCarlos "Panama" Lewisが試合中に取っていた行動が試合後大きな論争を巻き起こすことになる。13回までプライヤーの劣勢で試合が進みジャッジのスコアカードでも2者がプライヤーの負けと採点していた。ここからプライヤーは14回に逆転TKO勝利を収めるが、13回終了後のインターバル中にパナマ・ルイスが「そのボトルじゃないNot that bottle、俺が混ぜたボトルを寄こせGive me the bottle I mixed it in」とアシスタントセコンドのアーティー・カーリーArtie Curleyに指示を出し黒いボトルを受け取っていた場面を試合を中継したテレビカメラに捉えられていた。この言動からパナマ・ルイスが精神刺激薬Stimulantを混ぜた水をプライヤーに与えたのではないかと疑惑が浮上し、大きな論争が巻き起こった。ルイスとプライヤーは不正行為を行ったことを否定し、カーリーはペパーミントシュナップスPeppermint schnapps(蒸留酒Spirituous liquor)を混ぜた水を使ったのだと語ったが疑惑が晴れることはなかった。なお、2009年に製作されたドキュメンタリー番組の中で、パナマ・ルイスがトレーナーだったボクサーのルイス・レストLuis Restoが、パナマ・ルイスは抗ヒスタミン薬Antihistamineを砕いて混ぜた水をスタミナを強化するために選手に使っていたと証言している。
(3)、1983年9月9日 WBA世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者アーロン・プライヤー(33連勝(31KO)無敗)VS挑戦者元3階級王者アレクシス・アルゲリョ(74勝(60KO)6敗)ネバダ州ラスベガス・シーザーズパレス
ー再戦(アルゲリョのリング入りはよく見返すひとつです)。初顔合わせ同様、初回から乱戦模様、激しい打ち合いとなる。アルゲリョ(必勝を決し「最後の血の一滴まで戦う」と宣言)は前回より調子がよかった(とはいえ、プライヤーの波状攻撃は一層凄みを増した感がある)。たびたび右のカウンターを命中させるがプライヤーの右を受けダウン(前戦のダメージが残っていたのかもしれない)。しかし3回はロープに詰め、右ストレートを繰り返し当てダウン寸前に追い込む(例によってボディーブローも強烈だった)。ながらプライヤーは4回にダウンを追加。こうなってくるとアルゲリョの衰えは顕著で、だんだん劣勢になり、10回連打を浴びダウンしたアルゲリョはそのままテンカウントを聞いた。プライヤーは8連続KO防衛を達成、全盛期だった。


(1)、WBC世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者故センサク・ムアンスリン(タイ+8勝(6KO)1敗(ベラスケス(スペイン)をゴング後のパンチでノックアウトし4回失格負け(再戦は2回KO勝ち=王座奪回)通算7度(4KO)防衛)+元ムエタイ(キック)王者=59勝(55KO)9敗)=14勝(11KO)6敗)VS挑戦者前王者故ぺリコ・フェルナンデス(スペイン(40勝(24KO)4敗10分=87勝(47KO)28敗15分★2016年に死去・享年64歳)タイ
ー再戦となったが、センサクが前王者フェルナンデスに15回判定勝ち。センサクに8回KO負けし、タイトルを奪われたぺリコは雪辱ならず。通算4度目の防衛に成功した。ぺリコは周知のとおり、日本にも馴染みが深い(ローマにて古山との決定戦に勝ち、来日し、期待の新鋭大久保克弘(後にアメリカへ武者修行、キャッツ・大久保のリング名で戦った)を8回にノックアウト)。この一戦以降は負けが込み、キャリアはまだはだ続いたが地元のローカル中堅選手となり、再び世界に挑戦するチャンスはなかった。
*Pedro Fernández Castillejos (Zaragoza;1​ 19 de octubre de 1952-Zaragoza; 11 de noviembre de 2016),2​ más conocido como Perico Fernández, fue un boxeador español campeón mundial en la categoría de pesos ligeros en 1974 y 1975.
(2)、1978年12月30日 WBC世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者故センサク・ムアンスリン(13勝(10KO)1敗)VS挑戦者金相賢(韓国+24勝(16KO)2敗2分=42勝(25KO)4敗3分)韓国・ソウル
ーサウスポー対決。金が13回にセンサクをストップし新王者に就く(2度目の防衛戦は日本で強打の用階政弘(19勝(13KO)5敗)を11回ノックアウト)。センサクの練習嫌い、さらに雑な調整が批判された。とはいえ年齢的な衰えもあり(WBA王者セルバンテスとの統一戦も話題にされた(見たかった一戦)両王者が対面した際の写真も思い出す)、全盛期は過ぎていたと言える。センサクは国際式転向後、3戦目に戴冠。日本選手は誰も敵わなかった(キック時代は玉城良光に内臓破裂の重傷を負わせノックアウト+古山に2勝(7回TKO+15回判定勝ち)・ガッツ・石松を6回KO)。金は3度目の防衛戦において、マンビーに14回KO負けし王座転落。後にプライヤーのWBAタイトルに挑戦したが、3回TKO負け(金のラストファイト)。
*Saensak Muangsurin (thailändisch: แสนศักดิ์ เมืองสุรินทร์; eigentlich: Boonsong Mansri (บุญส่ง มั่นศรี); * 13. August 1950 in Phetchabun, Thailand; † 16. April 2009 in Bangkok, Thailand) ist ein ehemaliger thailändischer Boxer im Halbweltergewicht.
*김상현(金相賢, Sang-Hyun Kim, 1955년 1월 18일 ~ )은 대한민국의 전 권투 선수이다. 전 세계복싱평의회(WBC) 슈퍼라이트급 챔피언이다.



(1)、1983年6月16日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者デビー・ムーア(12連勝(9KO)無敗=3連続KO防衛中)VS挑戦者元2階級王者ロベルト・デュラン(パナマ+76勝(56KO)4敗=103勝(70KO)16敗)ニューヨークMSG
ーデュランが8回KO勝ちで3階級制覇(ムーアの初黒星)。下馬評は勢いに乗る若きムーアが圧倒的に有利だった(デュランはもはや「過去の選手」と見られていた)。ながら蓋を開けてみれば、初回から体格で勝るムーア(WBC王者ハーンズとの統一戦を盛んに提唱していた)を、デュランのうまさが凌駕する展開となる。ムーアの強打はほとんど当らなかった(デュランの防御勘は圧巻)。デュランは正確なパンチを打ち込み、徐々に追い込み、8回に2度ダウンを奪いノックアウト。デュランは大食いで練習嫌い、天才が故の自信過剰は有名だったとはいいつつ、ここ一戦の勝負強さも大したものであった。
*Roberto Durán Samaniego (El Chorrillo, Panamá, 16 de junio de 1951)1​ es un exboxeador panameño, apodado «Mano de Piedra» o «El Cholo». Durán es mundialmente reconocido como el mejor peso ligero (135 libras) de todos los tiempos, y también catalogado ampliamente por cronistas deportivos e historiadores como uno de los mejores libra por libra de toda la historia del boxeo.
(2)、1984年12月10日 世界ランカー対決 J・ミドル級ノンタイトル10回戦 元王者デビー・ムーア(14勝(11KO)1敗)VSルイ・アカリエス(フランス+38勝(21KO)5敗=39勝(21KO)6敗)フランス・パリ
ーアカリエスが9回反則勝ち。優勢だったムーアは(故意か偶然か)ゴング後に右ストレートを叩きこんでしまい(アカリエスは、ロープに背中から倒れこんだ)。失格負け。
(3)、1986年8月24日 IBF世界J・ミドル級タイトルマッチ15回戦 王者故バスター・ドレイトン(アメリカ+29勝(21KO)9敗1分=40勝(28KO)15敗1分★追悼★2022年に死去=享年70歳)VS挑戦者デビー・ムーア(15勝(12KO)2敗)フランス
ー豪打のスイッチヒッタードレイトンが10回に、強敵ムーアをストップ。初防衛に成功した。ムーアは待望の再挑戦実らず、帰り咲きの野望を砕かれた。下馬評は実力者ムーアの勝ちを予想する声が高く(私自身も同じく)、結果に驚いたファンも多かったと思う。ドレイトンは勝ったり負けたりの中堅選手だったが、サウスポーの強豪クリント・ジャクソン(モントリオール五輪米代表)を3回にノックアウトしてから「突如開眼(ボクシングマガジン)」、一気に世界レベルに躍り出た(サントス(プエルトリコ(↑アカリエスに判定勝ち)サウスポー)に判定勝ちでタイトル奪取)。ムーアは不幸な事故死も含め、運に恵まれなかった選手。余談としては私がアメリカについた1987年に買った『リング誌』における記事に「NOW, JUST ANOTHER FACE IN THE CROWD現在は、大衆の中にいるただのひとり(一般人)」とあり、一生懸命「辞書」を引き引き読んだのを懐かしく回想します(東京からメイン州の静かな港町ポートランドへ)。
*Buster Drayton est un boxeur américain né le 2 mars 1952 à Philadelphie, Pennsylvanie et mort le 20 novembre 2022.


(1)、1982年11月20日 世界ランカー対決挑戦者決定戦 J・ミドル級ノンタイトル10回戦 1位故ト二ー・アヤラ(アメリカ(アマ140勝8敗)21連勝(18KO)無敗=31勝(27KO)2敗)VS2位カルロス・エレラ(アルゼンチン+47勝(33KO)6敗=56勝(36KO)11敗2分)アトランティックシティ
ーアヤラが3回、豪快にサウスポーのエレラ(WBC王者サウスポーのホープ(ベニテスに12回KO負けでタイトル喪失)に挑戦=2-1の判定負け)を沈め快勝(左フックのダブルを顎とテンプルに叩き込まれたエレラ(大分後に衰えたベニテスに7回TKO勝ち)は、仰向けに倒れた=痛烈なKO劇)。ムーアへの挑戦が決定「次はお前だ。もうどこにも逃げ場はないぞ」といきまいていた。2人とも故人になってしまったが、是非見てみたかった1戦(ムーアは「あっちでは彼の方が強い、こっちでは俺の方が強い、もう彼の名前は聞き飽きたよ」とぼやいていた)。不祥事が続いたアヤラ。ながらアルコール依存リハビリセンターから退院(インタビューでもアルコール問題を認めていた)。圧倒的な強さを発揮した。しかし、この試合の直後、再び住居不法侵入及び婦女暴行で逮捕されてしまう(懲役35年(30年に減刑)の実刑判決=20歳の天才は、塀の中へ消えた)。
(2)、2000年7月28日 J・ミドル級ノンタイトル10回戦 元IBF王者ヨリボーイ・カンパス(メキシコ+74勝(65KO)4敗=107勝(82KO)17敗3分)VSト二ー・アヤラ(27連勝(24KO)無敗)テキサス州サンアントニオ
ーカンパスが8回TKO勝ち。健闘空しくアヤラは拳を痛め、試合放棄(初黒星)。35歳、模範囚として半分(15年)の刑期を終え仮釈放。その後、再起し5連続KO勝ち。まさかしばらく後にまた、深夜の泥酔状態で住居不法侵入。婦女暴行未遂で逮捕されようとは想像すらできなかった(しかも18歳の被害者女性に、肩をライフル銃で撃たれたあげくの拘束)。短期間の留置及び72時間の奉仕労働のみで仮釈放。再起戦(判定勝ち)では足につけられた「探査装置」(テキサス州内のみでの行動許可+飲酒と夜間外出禁止)を膨らませた惨めな姿で現れた。ホンマ、残念で悲しい限り。その後、4連勝(3KO)1敗(11回TKO負け=ラストファイト)。2004年に再び逮捕(保護観察(執行猶予)違反・無免許・薬物不法所持及び酒気帯び運転・スピード違反(車内に大量の児童ポルノDVD・雑誌も発見された)=懲役10年の実刑判決を受け、刑務所に逆戻り)。2014年に釈放された翌年に死亡(麻薬の過剰摂取・享年52歳)。
*トニー・アヤラ・ジュニア(Tony Ayala, Jr.、1963年2月13日 - 2015年5月12日)は、アメリカの男性元プロボクサー。テキサス州サンアントニオ出身。
*Луис Рамон «Йори Бой» Кампас Медина (исп. Luis Ramón «Yori Boy» Campas Medina); 6 августа 1971, Навохоа, Мексика) — мексиканский боксёр. 


(1)1991年4月19日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 故トミー・モリソン(アメリカ(アマ220勝20敗)26連勝(22KO)無敗=48勝(42KO)3敗1分★追悼★2013年9月に死去、享年44歳)VSユーリ・ボーリン(ソ連(アマ227勝30敗)10勝(6KO)1敗=13勝(8KO)3敗)ニュージャージー州アトランティックシティ
ーホリーフィールドVSフォアマン(ホリーフィールドの判定勝ち)のセミだった試合。’デューク’(男爵)の異名を持つ白人ホープモリソン(スタローン氏の『ロッキー5』で共演=最後、’世紀の一戦?’「路上ケンカ」で師匠にぶっとばされた(笑))。一方「ペレストロイカ」によりアメリカに移住したソ連の元トップアマだったサウスポーボーリン(ラトビア人)。試合は前へ出る強打のモリソンをボーリンが巧さでさばくという展開。前半は圧力をかけるモリソンをいなしては、即座にカウンターを当てるボーリンが優勢。特に3回は出鼻に連打を命中させ、KOチャンスだった。だが徐々にペースをつかんだモリソンは5回、ボディー攻撃でボーリンをストップする。むろんボーリン(元アマエリートらしいきれいなソ連スタイル)を応援していたのでがっかり(苦笑)。なお、モリソンは後にフォアマンとの決定戦で判定勝ち。WBO王者になる(初防衛戦でベント(英黒人)に初回KO負け+ルイス(マッコールに2回KO負け=王座転落)との生き残り戦で6回TKO負け)。96年に来日したこともあった(浦安でKO勝ち)。
*Tommy Morrison (January 2, 1969 – September 1, 2013) was an American professional boxer and mixed martial artist who competed from 1988 to 2009.
(2)1993年1月24日 ヘビー級ノンタイトル10回戦 ブルース・セルドン(アメリカ+24勝(21KO)3敗=40勝(36KO)8敗)VSアレクサンドル・ポポフ(ロシア(アマ戦績不明)11連勝(8KO)無敗1分=12勝(9KO)2敗1分)ニュージャージー州アトランティックシティ
ーセルドンはデビュー以来18連勝(15KO)を記録した期待のホープ。ながらマッコール、ボウ(ともに後の王者)に2連続KO負け。その後6連勝(5KO)。しかしまた元王者タッブスにダウンを奪われ、10回判定負け。その再起戦の相手は、ロシアからアメリカに移住した元トップアマのポポフ。セルドンは2回に2度ダウンを奪い圧倒。鼻の傷から出血がひどいポポフはそのままTKO負け。ポポフは初回、アマ出身らしいまとまったスタイルから左ジャブそしてワンツーを軽快に放っていた。ながらセルドンのジャブは速さ、伸び、迫力ではるかに勝り、実力はセルドンが一枚上だった様子。

*Bruce Samuel Seldon (* 30. Januar 1967 in Atlantic City, New Jersey) ist ein US-amerikanischer Boxer.



(1)、1986年8月23日 WBA世界J・ミドル級(現スーパーウェルター級)タイトルマッチ 王者マイク・マッカラム(アメリカ(アマ240勝10敗=世界選手権(74年ハバナ大会)ジャマイカ代表・モントリオール五輪代表)26連勝(23KO)無敗=49勝(36KO)5敗1分)VS挑戦者ジュリアン・ジャクソン(US・バージン諸島出身+29連勝(27KO)無敗=55勝(49KO)6敗)フロリダ州マイアミ・ビーチ
ー無敗対決はマッカラムが2回TKO勝ちでジャクソンを破った。ジャクソンは初回ゴングと同時に突進(マッカラムはそこへ左フックのカウンターを合わせていた)。強引なパンチを振りまわし肉迫したが、ほとんど有効打はない(とにかく滑らかなマッカラムは、空振りさせてはカウンターを叩き込んでいた)。2回、マッカラムはダウンを奪い、立ち上がったジャクソンを猛攻。そこでストップ。巧さがパワーを封じた試合。そしてこの試合も「トランクス」が同じ「黄色」(マッカラムは「緑」の線、ジャクソンは「赤」)だったのがたまに傷(イチファンの見解)。
*マイク・マッカラム(Mike McCallum、1956年12月7日 - )は、ジャマイカの男性プロボクサー。元世界3階級制覇者(スーパーウェルター級、ミドル級、ライトヘビー級)。
(2)、1989年7月30日 WBA世界J・ミドル級タイトルマッチ 王者ジュリアン・ジャクソン(37勝(35KO)1敗)VS挑戦者テリー・ノリス(アメリカ(アマ291勝4敗)21勝(12KO)2敗=47勝(31KO)9敗)ニュージャージー州アトランティックシティ
ージャクソンが2回、豪快にノリスをノックアウト。初回若きノリス(兄弟ボクサー、兄オーリンはクルーザー級の元世界王者)は切れ味鋭いパンチを叩き込み優勢だった。2回から攻勢に出てきたジャクソンがノリスをロープに詰め、強烈な右フックのカウンターを命中させ、ぐらついたノリスの顎にさらにもう一撃。前のめりに倒れたノリスはそのまま10カウントを聞く。

*Julian Jackson (born September 12, 1960) is a former professional boxer from the U.S. Virgin Islands who competed from 1981 to 1998.
*Terry Norris est un boxeur américain né le 17 juin 1967 à Lubbock, Texas.
(3)1996年11月9日 WBO世界ヘビー級タイトルマッチ 王者ヘンリー・アキワンデ(イギリス(ナイジェリア系)ソウル五輪代表)30勝(19KO)1敗=50勝(30KO)4敗1分)VS挑戦者アレクサンドル・ゾルキン(ロシア(アマ240勝13敗)24勝(17KO)2敗=28勝(19KO)3敗1分) ネバダ州ラスベガス
ーアキワンデが11回にサウスポーのゾルキンをストップ。展開はアキワンデのワンサイド。ゾルキンは3回にスタンディング・ダウンを奪われた挙句、いいところがなかった。タイソンVSホリーフィールド(1=ホリーフィールドの11回TKO勝ち)のセミだったこの試合。ゾルキンは当初、カナダでプロデビューした(その後、アメリカに移住)。「ユーリ・アルバチャコフ(元ソ連アマチーム同僚)は元気でやってるか?Is Yuri Arbachakov (former Soviet amateur team colleague) doing well?」とWOWOW解説の小泉氏に尋ねたそう。

*Генри Акинванде (англ. Henry Akinwande; род. 12 октября 1965, Лондон, Великобритания) — британский боксёр-профессионал нигерийского происхождения.


(1)、1998年10月10日 WBA世界ウェルター級王座決定戦 1位ジェームス・ペイジ(アメリカ+21勝(17KO)3敗=25勝(19KO)5敗)VS2位アンドレイ・ペストラーエフ(ロシア(バルセロナ五輪代表)+21勝(15KO)1敗1NC(故ウィテカーに挑戦)=29勝(19KO)9敗)フランス・パリ
ーペイジが戦慄の2回KOでペストラーエフを沈めた。得意の左フック一発、すさまじいノックアウト劇で新王者に就く。
*James Page (* 1. April 1971 in Pittsburg, Kalifornien, USA) ist ein ehemaliger US-amerikanischer Boxer im Weltergewicht. Er war von 1998 bis 2000 Weltmeister des Verbandes WBA.
(2)、2001年2月17日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ジェームス・ペイジ(25勝(19KO)3敗)VS挑戦者故アンドリュー・ルイス(南米ガイアナ(旧英領)西隣りにスリナム共和国(旧蘭領)ギアナ(仏領)と続く=アマ48勝3敗(バルセロナ五輪代表)+19連勝(18KO)無敗1分=23勝(20KO)4敗2分)ラスベガスMGMグランド
ースイッチヒッターのルイスが3回にダウンを奪い、7回にペイジをしとめた(4度目の防衛に失敗)。ペイジは契約のゴチャゴチャ問題などで2年近いブランクが響いた(すでにタイトルは剥奪されており、この試合は正式には決定戦)。解説の故スチワードも初回から打ちまくられるペイジをみて「この試合は長続きしないだろう。ペイジはスピードがない。スロー過ぎる」と言っていた(ルイスはスピードがあり柔軟(ペイジはパンチは強いがギクシャクと体が固い)、あと「バランス」の差)。’シックス・ヘッズ’(6つの頭)の異名(アマ時代、ルイスに打ちまくられた対戦相手がコーナーで「6つ頭が見える」と言ったのに起因)を持つルイスの快勝(ガイアナ初の世界王者)。悲劇としかいいようないながらルイスは2015年、交通事故により死亡(享年44歳★追悼★)。さらに残念ながらペイジは新人時代、一度窃盗で逮捕され、刑務所暮らしでブランク。この試合後、しばらくしてまた銀行強盗で逮捕。

*Andrew Lewis (ur. 11 grudnia 1970 w Georgetown, zm. 4 maja 2015) – gujański bokser, były mistrz świata wagi półśredniej organizacji WBA.



*1985年3月6日 WBA世界J・バンタム級タイトルマッチ 王者カオサイ・ギャラクシー(タイ+25勝(22KO)1敗=47勝(41KO)1敗+19度防衛(16KO))VS挑戦者故李東春(韓国+20勝(8KO)5敗1分=45勝(26KO)10敗1分)タイ・バンコク
ーカオサイの初防衛戦。李の果敢な攻撃に大苦戦。ずっと劣勢だったながら、7回逆転KO勝ち。しかし最後にカオサイが、ロープ際で放ったノックアウトパンチの左ボディーブローは明らかに「エルボー」です(しかも「意図的」な反則→元キック王者の肘は「鉄筋」みたいなもの)。カウンターとなり、肝臓とアバラの間をえぐられた李はもんどりうって倒れ、キャンバス上で悶絶(その後、再び王者の地元ジャカルタでエリー・ピカル(インドネシア)のIBF王座に挑戦し10回KO負け)。来日したときはすでに全盛期は過ぎていた(不運なボクサーだったと思う)。日本タイトル防衛戦だった折田実戦、後楽園ホールにてライブ観戦しました。故李選手の調子はもうひとつだった(加えて会場は「オーリータッ!」コール一色。孤立した中での奮闘だったのもよみがえる)。初回から豪快なスウィングで折田を圧倒。KOを狙っていたが、倒せなかった(もう晩年、限界だったのかもしれない)위령慰靈(水道橋駅に向かう帰り道、ちょうど前を歩いていて歩道橋の上から「グレート・金山、がんばれよ!」と若いファンに激励され「おお~!」と手を上げていた後姿が忘れられない涙)。カオサイは周知のとおり、兄弟ボクサー。双子の兄カオコー(サウスポー・同じく元ムエタイ王者)はWBAバンタム級王者だった。
*Khaosai Galaxy (Thai: เขาทราย แกแล็คซี่, born, 15 May 1959) is a Thai former professional boxer who competed between 1980 and 1991. He was also a Muay Thai practitioner. He held the WBA super-flyweight title between November 1984 and December 1991.

|Boxing Education Channel| Setsuo Kawamasu vs. Great Kanayama The saddest match
이동춘(李東春, 1963년 3월 8일 ~ 1995년 9월 9일)은 대한민국의 전 권투 선수로, 한국과 일본에서 활동했다. 일본명은 그레이트 가나야마(グレート 金山)이다.

"The Death of a Foreign Boxer'' Great Kanayama (Lee Dong-chun) This film follows the seven years of great Kanayama's struggle to realize his dream despite difficult conditions
グレート 金山(グレート かなやま、1963年3月8日 - 1995年9月9日)は、韓国のプロボクサー。慶尚北道大邱市出身。本名は李 東春(イ・ドンチュン、Dong-Chun Lee)・・・1995年9月5日、川益との2度目の防衛戦で死亡している。

Lee Dong-chun (李東春, March 8, 1963 – September 9, 1995) was a former South Korean boxer who competed in Korea and Japan. His Japanese name is Great Kanayama (グ レ ー ト 金山).


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