日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Отрицание Нанкинской резни⇒よしりん企画社長=小林+皇族竹田(宮気取りの議員殿下?)何某「天皇制」「万世一系」「八紘一宇」They represent the Japanese 'Inchiki&Wagamama' c'est tout!!(嘆息)

PS:「天皇陛下万歳!?」→ひとこと=「くだらん」。「有害無実」「百害あって一利なし」みんな「人類平等」。また「神格の座」からおりていただき「再人間宣言」そして一般人として新たな人生を、そうしてる方も少なからずではないか=例、ドイツ(ホーエンツォレルン王朝)帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世は1918年に退位。オランダに亡命。「庭師」(植物園いじりをしながら余生を送った+82歳の長寿まっとう)となった。年金をもらいながらどこか静かなところで「隠遁」生活。ロシア最後の皇帝(ツァー)ニコライ2世も幽閉中。助命を願い申し出ていた→「ツァーを庭師にするため、革命をやったわけではありませんからな」(ヤルタ会談でスターリンが語った言葉・かつてツァー所有のリヴァディア宮殿(ニコライ2世はここでの「世捨て人」隠遁を希望)にて+トロツキーは自ら検察団長をつとめニコライ2世を戦争犯罪・人権侵害・大虐殺の罪にて起訴・革命人民法廷で裁くつもりでいた。だから中央に断りもなく強行させた処刑に激怒したという)。皇論と新天皇論の矛盾----------小林よしのり----------
わしは昔サヨクだっただが「戦争論」で明確に転向してしまった。(やっぱ「サヨク」じゃったやねおんしゃあ~でもさあ「意味」わかっとるん?なんで「さよく」っていうようになったん(あーたの専門「フランス革命」なんかはどうするん?)過去の『ゴー宣』を見れば、わしの思想の変化が歴然とわかる。言っていることが違っている箇所もわかるように残している。(中略)だが、わしの思想遍歴は、初期の頃からの読者はみんな知っている。わしについてきた読者は一緒に成長してきたのだ。言うことが変わっている点もあろう。わしは「思想」しているのだから!(『WiLL』平成22年8月号)この考え方こそが左翼思想であるということは保守思想のところで、繰り返し述べているが、それはともかくとしても、最低限確認しておかなくてはならないことがある。『天皇論』から『天皇論追撃編』については変化しているのですか?過去の「ゴー宣」から転向していようが構わないが、皇室のことについて論じているときに、「天皇論」と「天皇論追撃編」の記述が矛盾していると、議論が非常にやりにくい。勝手に思想して、成長・転向するのは結構だが、ここだけは、はっきりさせておかなくてはならない。それでは、「天皇論」と「天皇論追撃編」の矛盾について指摘していく。青字が『天皇論』、赤字が『新天皇論』とする。「非科学的だあっ!」「三種の神器なんてただのモノじゃないかーっ!」「なんで見ちゃいけないんだーっ!」「オレが見てやるう!」この世のすべてを合理的に説明できると思ったら大間違いだ。相対性理論でも量子力学でも、宇宙と物質のすべてを解明できていない。人間とて、意識下には得体の知れない欲望が渦巻いている。堕胎にしても、人工授精にしても、「ならぬものは、ならぬ!」というタブーが壊されたときに、まさにそのタブーこそが、人間の知恵であったことを知るだろう。合理主義のおごりに気づく日が来るだろう。「天皇論」(110頁)「なぜ天皇は男系でなければいけないのか?」この質問に対して明確に答えた人は未だ一人もいない。いわゆる「男系絶対主義者」たちは、終いには異口同音に「そうなっているのだ、理屈じゃない!」と言い出すのだ。「新天皇論(223頁)朝鮮は歴代シナ王朝の半属国であった時期が長く、その間はシナ王朝の元号をそのまま使った。(中略)独自の元号を持つということが独立の証だったのであり、日本は元号においても最も早くから、そして一貫して、中華文明から独立した文明を築いていたのである。「天皇論」(83頁)女系天皇公認は、古代から続いていた不完全なシナ文明の最後の頸木を解き放つ画期となる歴史的英断なのである!「新天皇論」(232頁)
サヨクはよく「皇室祭祀令は明治41年に制定されたもので、天皇の祭祀なんて伝統でも何でもない」と言う。
バカバカしいイチャモンだ。皇室祭祀令は古代・中世で展開されてきた祭祀を整備したもので、それまでになかった祭祀を明治に作ったわけではない。「天皇論」(52頁)そもそも古来、日本には皇位継承に関する成文法は存在しなかった。(中略)皇位継承は男系に限るとなどという法が作られたことはなかったのである!わが国で初めて皇位継承のルールが明文化されたのは、明治22年制定の旧皇室典範で、その第1条に「皇統ニシテ男系ノ男子」と規定され、現在の皇室典範にもそのまま受け継がれた。「新天皇論」(241-242頁)万世一系において注目すべき点は、「男系のみによる世襲」で皇位を継承してきたということです。(中略)天照大神の神勅をもとに、その系統をまっすぐ受け継ぐ天皇が代々日本を治めることになった。日本の皇室において「万世一系」は軽視できない、とても重要なことなのです。「天皇論」(57頁)日本の天皇の「男系継承」は、美風として誇るべき「伝統」とは言えない!シナ・朝鮮の家族制度を十分に日本化せず、不完全に模倣した「因習」に過ぎない!「新天皇論」(230頁)過去の女帝は、男系の皇位継承者が幼少のため、即位するには時間がかかる時や、
次の継承者がなかなか決まらない時など、一時の中継ぎとして即位されました。そして役目を終えると、天皇は
男系男子に戻っていったのです。つまり、長い歴史上、「女系天皇」は一度も存在したことがないのです!「天皇論」(211頁)日本の歴史には、8人10代の女帝が存在する。「それらすべては"中継ぎ"の天皇にすぎない」と男系固執論者は言うが、それは明治以降男尊女卑感情から言われ始めた虚構、歴史研究の上ではすでに否定されている。「新天皇論」(257頁)元明天皇はまだ若年だという理由で首皇子への譲位を見送った。そこで代わりに譲位した相手がまた異例だった。自分の娘に譲ったのだ。(中略)母から娘へ継いだのだから、当然女系継承である。「新天皇論」(266-267頁)「人格」は天皇即位の資格ではない!実際に、なかなか人格の怪しい天皇も歴史上存在している。第20代安康天皇は讒言を信じて叔父の大草香皇子を殺し、その妃を皇后に迎えるが・・・その連れ子で6歳の眉輪王に父の仇として殺された。(中略)これらの事実に関しては諸説あるものの、このような記述が「古事記」や「日本書紀」にあるということは、必ずしも人格者が天皇になるわけではないということを古くから公式に認めていたことに他ならない。「天皇論」(179頁)PS:(Sammy)=(中略)支離滅裂意味不明及び難解なおんなじような御託を延々と並べてるに過ぎないので削除しました。興味のある方は氏のページに直接ご訪問なさってじっくりと)
PS:30.占領時代(2):臣籍降下 (2006年7月3日記載)http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-30.html 戦後、GHQの指令によって多くの改革が行われた。その中で、今回は、11宮家の臣籍降下(皇籍離脱)を取り上げる。 現在、皇統の持続を巡って、「男系天皇か女系天皇か」の問題がホットな話題となっているが、この問題の淵源を辿れば、GHQの政策によって、昭和22年(1947年)10月14日付けで行われた「11宮家の臣籍降下(皇籍離脱)」がある。鈴木貫太郎(終戦時の首相)は、11宮家の臣籍降下が検討されている際に、「将来、皇位継承者がいなくなったらどうするか」と心配したそうである。この鈴木の心配が、平成の今日、現実となったわけである。もし、皇太子様と秋篠宮様に男子のお子様が生まれない場合、「男系天皇」を守るために、この11宮家の独身男性を「天皇家の養子」とする、という考えがある。
わしは女性誌のインタビューには、なるべく応じるようにしている。女性誌の皇室記事は毎号、読んでいるし、毎週、日曜朝の2つの皇室番組は欠かさず見ている。皇室ファンの御婦人方は侮れない。あの御婦人方こそが、珠玉の船を浮かべる国民という大海である!『WiLL』(平成22年9月号)しかし昨年(08 年)、天皇陛下が体調を崩されたのを機に宮内庁は再び祭祀の「簡略化」を打ち出した。その内容は入江氏が行った祭祀破壊をそっくり「前例踏襲」するものになっている。「天皇論」(100貢)(※宮内庁長官は羽毛田信吾氏である)羽毛田長官は陛下の信用が非常に厚いという。(中略)羽毛田氏が女系天皇容認の典範改正を進めようとしたのは、陛下の意を汲んでのことだろう。「新天皇論」(中略)
辞書で「詐欺」という用語を引くと、「他人をだまして、金品を奪ったり損害を与えたりすること。
他人を欺いて錯誤に陥れる行為」と書いてあります。このサイトのタイトル「小林よしのりウソ詐欺全集」が、
いよいよ本物になってきたということだろうか。そのとき小林よしのり氏はこう言うのか。
「商売のために描いているが、何か?」(本家ゴーマニズム宣言第14話タイトル)いえいえ、小林さん間違っていますよ!正しくは「他人をだまして、金品をいただいているが、何か?」ということでしょう。
南京大屠杀(日语:南京虐殺事件[3]、南京大虐殺、南京事件,英语:Nanking Massacre, Rape of Nanking)是中国抗日战争初期侵华日军在當時中华民国首都南京犯下的大規模屠殺、強姦以及纵火、抢劫等战争罪行与反人类罪行。日军暴行的高潮从1937年12月13日攻占南京开始持续了6周,直到1938年2月南京的秩序才开始好转。据第二次世界大战结束后远东国际军事法庭和南京军事法庭的有关判决和调查,在大屠杀中有20万以上乃至30万中国平民和战俘被日军杀害,约2万中国妇女遭日军奸淫,南京城的三分之一被日军纵火烧毁。[4][5][6][7]
1945年日本投降后,1947年远东国际军事法庭和南京军事法庭认为南京大屠杀中有超过20万的中国人被日军杀害[4]。在中国,自1947年南京军事法庭审判以来[5],單方面认为约有30万人在大屠杀中遇难[2]。在日本,日本政府承认“发生过杀害非战斗人员和掠夺等行为”,但对遇难人数则暧昧不清[8][9][10]。
『新天皇論』撃墜編                   
はじめに
1都合のいい史料引用による「すり替え論法」
~第10章「女帝・女系継承は平城京で花開いた」についての考察
2「皇統に属する男系の男子」の皇統に女系は含まない
~第11章「皇室典範改正は急がねばならない」についての考察~
3皇室の正統性の有無を一世代の人間が決められるか
~第12章「男系絶対に後退させる同調圧力」についての論評~
4「陛下の大御心は女系容認」という忖度の誤り
~第13章「陛下のご真意を無視できるか?」
第14章「陛下のご意思を忖度してはいけないか?」
第15章「陛下のご真意を察する感性」についての考察~
小林よしのり氏は天皇陛下を恫喝している
~第13章「陛下のご真意を無視できるか?」についての考察~
6愛子殿下と旧宮家との比較は巧みな印象操作
~第16章「リアルな皇統の危機とは何か」についての考察~
7竹田恒泰氏に対する言われ無き批判
~第17章「竹田恒泰の皇籍復帰はありえるか?」についての考察
8傍系の限界など歴史上存在しない
~第18章「継体天皇から傍系の限界を学ぶ」についての考察~
9「皇族降下準則」で旧宮家は自動的に皇籍離脱していたというウソ
~第19章「旧宮家復活なんてあり得るか?」についての考察~
10「側室制度なしに男系継承は不可能」というウソ
~第20章「側室なしの男系継承は不可能である」についての考察~
11「男系継承はシナ宗族制度の影響で、日本の伝統ではない」という詐欺
~第22章「男系継承はシナ宗族制の模倣」についての考察
12古代に女系継承があったという詐欺
~第24章「男系固執は明治以降の男尊女卑感情」
第25章「偉大なる女帝の歴史」についての考察
13日本は神話から一貫して万世一系である
~第26章「ついに神話を否定した男系主義者」についての考察~
14旧皇族に対する調査の真実
~第27章「オカルト化した男系固執教団」についての考察~
15小林よしのり氏が述べる「男系派3つの逃走点について」改めて答える
~第28章「自爆する男系固執主義者たち」についての考察~
16小林よしのり氏の質問に答える
~第29章「渡部昇一氏への回答」について考察する~
17「国体の安定」と「皇位継承の安定」の違いすら理解できないのか
~第30章「櫻井よしこ氏、大原康男氏までもが、なぜ!?」についての考察~
18男系よりも直系などという歴史的事実は存在しない
~第31章「男系よりも直系である」についての考察~(中略)
19権威にひれ伏したゴーマニスト
~第32章「皇統は萬葉一統である」についての考察~
20「渡部昇一氏(~_~;への最終回答」を分析する。「ドイツにはフランスやイタリアで必ず警告されるスリやカッパライが少ない・・・ナチの劣悪遺伝子撲滅(断種)の効力だろう・・http://www.livingroom.ne.jp/d/h003.htmこんなことを平然と公で「博士」を誇る’学者’?が言い放ち。問題にすらならない悲しい「心のふるさと」祖国日本。私にはやはり「遠い」もはや「郷愁」=???わからないのが正直なところ。
「松井大将日誌問題」について (よしりん企画社長が「なかった」論拠にしている’有識者’先生のひとり)
「一時我が将兵により少数の掠奪行為(主として家具などなり)強姦などもありしごとく、多少は止むなき実情なり」。「検証!南京大虐殺の『南京大虐殺否定論9つのウソ』」で、「松根大将日誌」の改竄問題が取り上げられている。「やらせ写真」が肯定派の勇み足だとすれば、「松根大将日誌」は否定派のそれになるようである。南京事件論争にはこの種のいい加減さがつきまとっている。以下、これを見ておくことにする。同書には、第一次資料の改竄とは、何か具体的には書いていないが、
田中正明(イオンド大学教授)や板倉由明は史料改竄の常習犯として有名である。『南京大虐殺否定論13のウソ』によると、田中正明の『松井岩根大将の陣中日誌』では原文を300か所以上も、改竄していたと暴露されたとある。具体的にどのような改竄をしたのであろうか。以下は法律家・ゴマのホームページ内のゴマの独り言・歴史を偽造する馬鹿たちからの引用である。(1)田中正明は、最初、松井石根(南京事件当時の中支那方面軍司令官)の手記である「支那事変日誌抜萃」の以下の記載をもとにして、軍の司令官でさえ南京大虐殺を知らなかった(=そのような事実はなかった)と論じていた。
終戦後暫くして、南京に於て一般人、俘虜、婦女子等に対し、組織的な大規模の虐殺、暴行事件がありたるやに米国内で放送しあるとの情報を聞き、予は驚き、旧部下をして調査せしめたるも、左様な噂は全く虚妄にして、予の在任中は固より、帰還終戦に至る迄、斯くの如き報告及び情報に接せず、上海に於る列国新聞通信員との屡次(るいじ)に亘る会見に於ても之を耳にせず、全くの誣妄(ぶもう)なることを附言す」。
しかし、上記の引用部分は、松井の「支那事変日誌抜萃」には存在しないもので、全くの田中のでっち上げであるしかも、後に田中自身が翻刻した「支那事変日誌抜萃」(「松井石根大将の陣中日誌」収録)にも、上記引用部分は存在しないのである。田中は、「支那事変日誌抜萃」を翻刻した際、以前でっち上げた文章のことを忘れていたのであろう。偽作者なら偽作者らしく、首尾一貫した偽作をしてこそ本物というべきところ、何ともお粗末な話である。
これは史料改竄の一例に過ぎない。さらに史料改竄以外にも、現存している大量の史料を無視したり、文脈を歪曲して引用したりする。このように、すぐにウソだとばれるようなことを平気でする否定論には、そこには何らかの政治的意図が隠されているのかもしれない。『産経新聞』『正論』『諸君!』『SAPIO』などでこれらの否定論が繰り広げられていますこのような新聞・雑誌社を許してはいけない。ぜひとも、これらの企業の息の根を止めるべく買わないようにお願いしたい限りである。なお、小林よしのり『戦争論』というひどい漫画がある。「原作:新しい歴史教科書を作る会/漫画:小林よしのり」という感じでアジア・太平洋戦争を美化・肯定、さらに植民地支配を正当化、南京大虐殺はなかったなどといった根拠のないウソを並び立てています。関西大学講師の上杉聰氏によれば『戦争論』のなかには100か所以上の間違いがあるとのこと。このような漫画がベストセラーになるんですから、世も末です。漫画の影響力ははかりしれないものがあり、そして小林は今でも活字ばなれした読書習慣のない若者を騙しつづけています結論・・・南京大虐殺は洗脳された右翼による戯言である。秦郁彦『昭和史の謎を追う[上]』 【田中正明の松井日記改ざん事件 】
1985年11月24日付の朝日新聞は、翌日付で発表される雑誌『歴史と人物』(1985年冬号)に板倉由明が執筆した「松井石根大将『陣中日誌』改竄の怪」(上の写真)の要点を報道した。陣中日誌の原本は、南京攻略戦の最高指揮官松井大将が記したもので、自衛隊板妻駐屯地資料館に保管されていたのを田中正明が借り出し、走り書きの日記を判読して出版したばかりのところだった。雑誌の編集部は、専門の読解者に手助けしてもらい、同じ原本と対照したうえ、解説を板倉に依頼したものだが、南京虐殺を否定する方向で九百か所以上の削除、加筆、誤記、文章の移動などが行われていることが明らかにされた。 板倉は同じ紙面で「誤読、脱落はありえても、もとの日記に書いていないことを付け加え、それに注釈までしているのではどうしようもない」と評し、田中は「言い逃れになるかも知れないが、体調などの悪条件が重なりミスしたもので、決して虐殺は虚構だという自分の主張に合わせて加筆や削除したのではない。申し訳ない」と釈明した。 本多は、さっそく翌日の紙面で「松井大将が生きていれば、さぞ改ざんを怒り嘆くだろう」と追い討ちをかけ、洞富雄も『赤旗』紙上で「このエセ研究家にあえて一撃を加えた見識に……敬意を表したい」と述べた。さすがの田中も再起不能におちこんだか、と噂されたが、支援者たちに励まされてか再起の日は意外に早かった。一年半後に、(過去ログの場所を紹介しましょうか)田中は『南京事件の総括』(謙光社)を刊行、虐殺派、中間派のライターたちを威勢よくなで切りにしたあと「あとがき」で改ざん事件に言及した。すなわち「そのほとんどは、私の筆耕の誤記や誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものであります」と弁解しつつ「字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果し得た」と自賛したその心臓ぶりには脱帽のほかないが、シロウトばかりでなく学者のなかにも彼を全面支援する人がいるから不思議だ。  
「ゴー宣道場』のデタラメ                       
小林よしのり氏が主催する「ゴー宣道場」の内容が単行本として出版された。
その活動そのものについては、とやかく述べる筋合いではないが、第2章で記されている「皇室を語る弁え」という内容はあまりにデタラメであり、刷り込み、宣伝工作に満ち溢れた内容であったことから、厳しく批判しておかなくてはならないと考え、同著に対する分析をまとめた。

●基本的な事実誤認
まずは基本的な誤りについての指摘からはじめよう。小林よしのり氏はいわゆる旧宮家に対して「今上陛下から二十世以上も離れている」と繰り返し述べている。高森氏は『ゴー宣道場』で、「旧宮家から皇籍を取得してもらうとなると、二十世以上離れていることになります」(95頁)と述べる。これは単純な事実関係の誤認である。今上陛下と旧宮家がつながる共通の祖先は、北朝三代崇光天皇の孫にあたる貞成親王となる。貞成親王は世系第五十八で、今上陛下は世系第七十七となることから、離れているのは正確には十九世である。
小林氏は『新天皇論』(192頁)で
今上陛下と旧宮家がはじめてつながる共通の祖先を、
栄仁親王としているが
おそらく誰かが言い始めたことを検証もせずに鵜呑みにしているから、
同じような間違いを繰り返しているのだろう
栄仁親王は確かに初代の伏見宮であるといえるが、
枝分かれするのは栄仁親王の孫の代からである。こんなことは皇室の系図を確認すれば、誰にでもすぐにわかることだ。
小林氏は漫画家だから仕方がないとしても、高森氏は皇室の歴史の専門家ではなかったのか。
『ゴー宣道場』第2章に記されている基調講演では高森氏は「
本日は皆さんに皇室125代の系図をお配りしましたが、この系図さえろくろく見たことのないような人達が皇室典範はああだこうだと勝手なことばかり言っているのが現状です」(86頁)と述べている。まずはあんたがしっかり見たらどうかと言いたいところだ。
皇室の系図をちゃんと見てれば、栄仁親王で枝分かれしていないことぐらいはすぐにわかる。

ろくろく確認もせずに、小林氏ともども誰かが言ったことを鵜呑みにしているから、こんな基本的なこともわからないのである。これが小林よしのり氏がいう“専門家”の有り様だからどうしようもない。●皇太子不在の問題は女系論と関係なし「皇太子」が空位になってしまうんです。皇位継承順位で言えば皇太子殿下の次は秋篠宮殿下。けれども秋篠宮は、皇太子殿下が即位しても「天皇陛下の子供」ではないですから「皇太子」にはなりません。その時点から、われわれは皇太子がいない時代へ突入するんです。
総司令部は皇室財産を調査し、凍結した上で、莫大な財産税を課税、そしてついに新憲法の公布により、皇室財産のほぼ全てを国庫に収めさせるという大きな計画を立てていたのだ。昭 和21年9月30日、財産税法案が衆議院に提出された。同年3月3日午前零時を調査時期とし、その時点における個人所有の財産について課税するというもの で、10万円未満を免税とし、累進税率が採用された。1500万円を超える財産を所有している場合は最高税率の90%が適用されることになった。
全 体で約43億円の税収が見込まれた。財産税法は昭和21年10月11日に議会で可決され、11月12日に公布、20日に施行された。財産税の申告期日は昭 和22年1月31日とされ、納付期限は申告期日の1か月後とされた。かくして、皇室財産は、約9割が主に物納により国庫に帰属することになったのである。

            「南京大虐殺はなかった」という人へ
                                             -「否定派のウソ」と「事実」- 
                                                                                                                                               
  大谷 猛夫
今、各地で「南京大虐殺はなかった」という人たちが「活発」に声高に叫んでいます。しかし、あったものをなかったということはできません。南京大虐殺否定派の主張のウソと「事実」を示してみます。[1、2]
 否定派のウソ 1
  
「戦後の東京裁判で連合国が日本軍の残虐・非道ぶりを示すためにでっち上げたものである」
「事実」 1937年12月、
南京は中華民国の首都であり、諸外国の公館も存在し、外国の報道機関も存在した。虐殺の報道は世界をかけめぐった。日本の外務省も軍も当時から知っていた。当時の外務省東亜局長石井猪太郎が回顧録でこのことを書いている。だいたい軍が知らないということはあり得ない。
 1937年12月15日以降多くの欧米の特派員が南京の事態を世界中に打電している。とくにイギリスの「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員ティンバリーは1938年8月に「戦争とは何か・・・中国における日本軍の残虐行為」を出版し、日本語訳も中国語訳も出版されている。
日本の外務省はこのティンバリーの上海発の電報を押収し、南京その他で30万人を下らない中国民間人が殺されたと述べていることをワシントンの日本大使館に情報として伝えている。戦後の東京裁判で、はじめて日本が知ったわけではない。
  
そもそも日本政府はこの東京裁判の結果をサンフランシスコ条約で受け入れたのである。つまり日本政府は公式に承認したということである。
 否定派のウソ 2
  
「東京裁判の証拠資料は伝聞ばかりで、直接証拠は何もない。マギー牧師の証言は虐殺をみたのは1件だけだと言っている」
 「事実」 
マギー牧師はけが人や強姦の被害者の救済をしていた。殺害現場に立ち会わなかったのは当然。いわゆるマギーフィルムが殺害現場そのものの映像がないのは当然のことである。もし殺害現場を撮影していたら、日本軍はマギー牧師をそのままにしておかなかっただろう。むしろたくさんの被害者の映像記録を残している。このことの方が重要な証拠となっている。
  
東京裁判でも11人の証人が証言し、南京安全区文書・南京裁判所検案書・慈善団体の埋葬記録・ラーベの書簡・アメリカ大使館の文書・在中国ドイツ外交当局の報告書などが東京裁判で採用された。
 否定派のウソ 3
   
「当時、国際的な批判はこの「事件」についてはなかった」
 「事実」 1937年9月から10月にかけての国際連盟総会は日本軍の中国侵略そのものを非難している。当時日本はすでに国際連盟を脱退し(1931年の柳条湖の事件をめぐっての国際連盟決議を不服として)ていて、国際的な孤立状態にあった。1937年9月というと南京陥落前であったが、南京爆撃を国際連盟の決議は非難している。つまり日本軍の中国侵略そのものを非難しているのである。南京大虐殺というひとつの事件に対する非難がないからと言って国際批判がないというのは当たらない。
ドイツ人ラーベは南京安全区国際委員長として日本軍が占領した
南京に止まり、市民とりわけ女性を日本軍の暴虐から守るために奮闘した。ラーベは1938年2月、帰国命令を受けベルリンに戻った。ラーベはナチス党員であったが、南京での日本軍の残虐行為をヒトラーはじめドイツ政府の指導者に知らせた。そしてヒトラーあての「南京事件・ラーベ報告書」を提出した。
 否定派のウソ 4
 
 「蒋介石も毛沢東も南京のことは問題にしていない」
 「事実」 1938年7月(南京陥落後)<日中戦争1周年>蒋介石は「日本国民に告げる書」で日本軍の放火・略奪・虐殺を非難している。「南京」という名指しはないが、この時点で中国大陸における大規模で集団的な略奪・虐殺は南京以外に考えられない蒋介石はこのことを念頭に書いている。次のように書かれている「・・わが婦女同胞に対する暴行がある。10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一同に並べ強姦してから惨殺した。・・・このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点をとどめるものである・・・」
 毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」で「南京大虐殺は人類に対する犯罪」と述べている。その内容は次の通りである。「・・・9・18に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世のともに知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未嘗有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。・・・」
 否定派のウソ 5
  
「当時の南京の人口は20万人しかなかった。だから30万人も殺せるはずがない」
 「事実」 否定派が20万人というのは南京安全区委員会が1937年12月17日付け文書で「もし市内の日本兵のあいだで直ちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者がでることはさけられないでしょう」と書いてあることによる。しかし、これは南京陥落後の安全区内に非難収容された人にかぎった数であり、南京大虐殺以前の南京市の人口ではない。  南京市は「城区」(市部)と「近郊区」(県部)にわかれる。城区に限っても1937年11月23日(日本軍制圧直前)に南京市政府が作った文書には人口約50万人となっている。さらにこの後、避難民の流入もあり、日本軍に包囲された中国軍の兵士も15万人いた。 戦前、城区の人口は約100万人、近郊区の人口は約130万人という数字がでている。 そもそも30万人殺したか1万人殺したか数が問題なのではない。日本軍の残虐行為があったかなかったかの問題なのである。南京大虐殺の犠牲になった市民・農民・兵士は一人ひとりの個人であり、名前をもった一度だけの人生を生きていた人たちである。
個人の犠牲を考えれば、一万人、四万人、二十万人、三十万人という数の問題はあまり意味をもたない。
 否定派のウソ 6
  「南京虐殺の目撃者はいない」

 「事実」 
全体像をみたものなど誰もいない。しかし1937年12月から翌年はじめにかけて南京城区・郊外で強姦、虐殺、略奪がおこったことは確かである。自分のまわりにおこったできごとを「目撃」して生存している人はたくさんいる。中国では幸存者といい、その目撃証言を大事にし記録している。日本政府を訴えている李秀英さんは日本軍の兵士に強姦されそうになり、全身にたくさんの傷を負った証言をおこなっている。この李さんを「ニセモノ」よばわりする人物が書物をあらわしているが、これも李さんは名誉毀損で提訴している。
 否定派のウソ 7
  
「李秀英さんの証言を読むと食い違いがある。実際に体験したことではない」
 「事実」 南京虐殺を否定する人は李さんの証言を直接聞いている人はほとんどいない。ニセモノだという人たちも伝聞で書いている。60年以上前のことを前後関係も数字もきちんと覚えていることの方が不思議である。何ケ所刺されたかなど「刺された人」が数えているはずもない。全体として李さんが体験したことに真実をみいだすべきである。マギーフィルムにも李さんが病院で治療している映像が収録されている
。ことさら証言の細部にくいちがうことがあるからと言って「南京大虐殺」そのものをなかったことにしようという「よこしまな」意図が働いているとしか言いようがない。
 否定派のウソ 8
  
「百人斬り」というのは捏造記事である」
 「事実」 百人斬ったかどうかが問題なのではない。戦闘で斬ったというのは確かに「ウソ」であるが、それよりひどいことをした。捕虜を斬ったのである。戦闘行為ではなく、降伏してきた無抵抗の中国兵を斬ったというのが事実である。
これ自体とんでもないことである。もちろん南京虐殺を否定したことにはまったくならない。
 否定派のウソ 9

  
「遺体埋葬記録は信用できない。たくさんの人は死んでいない」
 「事実」 紅卍会という宗教団体が埋葬した記録をつくっているが、1937年12月から翌年3月にかけて南京市内で4万体以上の死体を埋葬した記録がある。(正確には40371体)この記録は他のいくつかの記録とも符号していて、信憑性の高いものである。また崇善堂という慈善団体も埋葬の行動をしており、これは11万2266体と記録している。その大半は1938年4月に南京城外で10万5千体を埋葬したとなっている。その時期までに城内の死体埋葬はほぼ終了していた。崇善堂は数千の死体埋葬をすませていた。4月になると気温も上昇し、死体の腐敗もすすむという状況になったので、それまで死体に軽く土をかけただけのものなどが城外に放置されていた。
  
これ以外に日本軍が揚子江に流してしまった遺体などは記録されていないのだから、実態は当然もっと多いことになる。
 否定派のウソ 10
  「とらえた捕虜が暴動をおこしたので、仕方なく発砲した」
 「事実」 1937年12月13日の戦闘で1万8千人の中国兵が無抵抗で捕虜となった。
16日に捕虜収容所内でボヤが発生したが、捕虜の逃亡も銃撃もなかった。この夜、軍命令で揚子江岸の魚雷営で2千人から3千人が試験的に虐殺され、死体はその夜のうちに揚子江に流された。残りの捕虜を翌17日に上元門から約2キロ下流の大湾子で虐殺した。この日の虐殺は大量だったため、薄暗くなるころからはじまった虐殺が18日の明け方まで続いた。そして、死体処理には18・19日の2日間かかった。大量の死体は揚子江に流された。[3]
 否定派のウソ 11
  
「日本軍が殺したのは、民間人のふりをした「便衣兵」であり、投降兵である。正当な戦闘行為である」
 「事実」 南京陥落前に主要な中国軍部隊は蒋介石とともに南京を離れている。南京陥落後に南京に残された中国兵は戦意を喪失しており、ほとんど日本軍への攻撃はなかった。南京陥落直後の南京で撃墜された日本軍機の搭乗員の遺体捜索活動に従事した奥宮正武の記述である。「
便衣兵あるいは便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の上海事変の際はもとより、今回の支那事変の初期にもかなり積極的に日本軍と戦っていた。が、南京陥落直後はそうとはいえなかった。わたしの知る限り、彼らのほとんどは戦意を完全に失って、ただ生きるために軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって彼らを通常いわれているゲリラと同一視することは適当とは思われない。」(「私のみた南京事件」PHP研究所1977年)
  
南京占領後日本軍は「便衣兵の疑いあり」というだけで次々と虐殺した。また投降兵についても軍事裁判などの手続きをせずにどんどん殺害していった。
 否定派のウソ 12
 
 「南京虐殺は日本軍の仕業にみせかけるために中国軍の反日攪乱工作隊がやったことだ」
 「事実」 南京に潜伏した中国軍の兵士がいたのは確かだが、用心深く潜伏していることが重要であって、攪乱するなどという状況になかったことは明白である。こういうこしを発想すること自体「妄想」のたぐいである。
たしかに南京を退却する時の中国軍が脱出・避難のために必要な物資を略奪したり、不法行為を働いた事実もある。しかし、それをはるかにしのぐ進駐してきた日本軍の蛮行があったのである。「ニューヨークタイムズ」のダーディン記者の報告である
。「南京に知勇国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の気持ちは非常に大きく、また南京市政府及び防衛司令部が瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。しかし、日本軍の蛮行がはじまると、この安堵と歓迎の気持ちはたちまち恐怖へと変わっていった。日本への憎しみをいっそう深く人々の心に植え付けた。」(「ニューヨークタイムズ」1938/1/9)
 否定派のウソ 13

  
「南京大虐殺の写真はニセモノばかりである」
 「事実」 日本の軍隊に従軍して写真をとっていた従軍カメラマンはたくさんいた。南京戦では200名をこす新聞記者やカメラマンがいた。しかし、撮影も報道もしていない。厳しい陸軍の検閲があったからである。「左に列挙するものは掲載を許可せず」といい、・・・我が軍に不利なる記事写真・・・というのである。これでは「我が軍に有利な写真しか」載らない。南京安全委員のマッカラムは日記に書いている。「1938年1月8日、難民キャンプの入口に新聞記者がやってきて、ケーキ・りんごを配り、わずかな硬貨を手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじのぼり、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。」
しかし、平站自動車第17中隊の写真班の村瀬守保氏は輸送部隊であったために比較的自由に写真を撮り、検閲もうけなかった。戦後「一兵士が写した戦場の記録」という写真集をだしている。この中には南京大虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。「虐殺された後、薪を積んで油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが
テーマ: 小林よしのり論
ゴーマニズム宣言天皇論追撃編に小林よしのりさんがしつこく旧宮家復活に反対する作品を描いた。前も描いていたが、今回また改めて同じような作品を描いている。最初に敬宮内親王殿下(愛子様のこと。正式にはこう表記すべきなのです。)が学校の運動会でガッツポーズして、今年はもう少女の中にレディーな恥じらいを覗かせているなどと描いているが、今、イジメ問題と国際的に報じられて、海外での皇室の評判を落としていることはこの時点では知らないのだろう。それも、小林氏曰くの天皇陛下の意を受けてしか行動しない筈の宮内庁が発表しなくてもいいようなことを発表したがために。小林氏は女系天皇を誕生させるべきという考えで、旧宮家復活に反対している。まず前も描いた様に旧宮家は伏見宮家の系統で、20世代40親等以上離れていて、600年も離れたバイパス手術を行って、一般大衆を皇族にしようとすることだと書いている。600年も遡っていていいなら、800年遡ってもいいだろう、源氏の子孫だって、平氏、橘氏の子孫だっていいだろう。いっそのこと2600年遡れば国民の中に膨大に居るはずじゃないか。などと描いているが、これが極論なのはお分かりでしょう。じゃあ、何年なら遡っていいのか?(中略)間に養子が入ってると聞いてますから、多分繋がってないと思いますけども。ここから伏見宮家が天皇家とのつながりが薄いために如何に軽く見られていたかというお話が続く。他にあった有栖川宮家や閑院宮家に比べて血のつながりが薄かったなどと書かれているが、他の宮家は後継者がいないために次々と断絶。昭和天皇とその弟が創設した宮家以外は伏見宮系の皇族しかいなくなる。明治維新で、伏見宮第九皇子の能久親王が彰義隊に担がれて一旦朝的になったとか、朝彦親王が公家や武士に担がれて八月十八日の政変で中心人物となり、長州藩などの尊攘派を弾圧した。なんてことが書かれている。
じゃー壬申の乱とか、平治の乱とかどうするんだというお話になる。建武の新政も後醍醐天皇と公家の身勝手で起こした戦乱だという見方もできなくはない。南北朝時代の戦乱なんて天皇家が起こした長い戦乱で、たくさんの人が亡くなっている。能久親王や朝彦親王は後に北白川宮、久邇宮となるが、それを面白く思わなかった明治の元勲が、新たに立てられた宮家は一代限りとし、二代目で華族に臣籍降下しようと企んだ。が、明治天皇が自分の子孫が大正天皇しか居ないために皇位継承に不安を抱いて、宮家の存続を決めた。政府は伏見宮系家族が血縁として遠いので、常に皇族から臣籍降下させようと考えた。能久親王は海外留学中にドイツ貴族の未亡人と婚約を発表したため、明治天皇が親王を帰国させて、謹慎を命じた。後に能久親王は台湾で戦病死する。その死後に側室以外に二人の子供が居たというスキャンダルがあったと描いている。なんか、こういう話をわざわざ暴いて下卑たことをするなぁと思いながら読み続ける。大正天皇には4人のお子さんが誕生したために皇位継承に心配が無くなった。そこで、政府は臣籍降下する規定を加えた。天皇の4世子孫までを華族として、5世以降は臣籍降下させて華族とすることになり、宮家を継承する長男の系統のみ更に4世先まで皇族としたそうだ。ここで、小林さんはよく分からないことを書いている。「これだと20世以上の子孫である伏見宮系皇族は直ちに臣籍降下しなければならない。」伏見宮家他の宮家を継承している男子は長男の系統のみ更に4世先まで皇族の筈だ。法律は事後法ということは無いから、法律が施行されてから適用される。つまり、法律ができてから宮家を継承する子孫が4世まで皇族で居られるから、直ちに臣籍降下にはならない。特別措置もくそも無いのである。
ここで山縣有朋と久邇宮邦彦王の確執のお話になる。昭和天皇と良子女王の結婚内定取り消しのお話だ。
そこで良子女王の父である久邇宮邦彦王が大正天皇の皇妃である貞明皇后に意見書を出した話なんかが書かれている。この話は山縣有朋が悪いのか、久邇宮邦彦王のどっちが悪いかなんて分かった話じゃないのだが、小林よしのり氏は久邇宮邦彦王が圧倒的に悪いように描いている。そして、11宮家が戦後臣籍降下したのはGHQが画策したのでは無くて、昭和天皇から皇籍離脱を申し渡すことになったと描かれている。なんかこのお話は伏見宮系の旧皇族をひたすら貶し、皇籍離脱になって当然かのように描いている。が、事実が本当にそうだったのか、どうも怪しい(中略)ただ、続かないのは困るから、皇室典範は有る程度改定しないといけないでしょうけどね。それと大和民族以外の人間が増えすぎると天皇家は存在意義が無くなって、やがて無くなることでしょうが。いい政治家が出てこないもんかねぇ。戦後の焼け野原から復興するつもりで、一から出直さないとね。
ああ、書き忘れましたが、小林さんはわざとか知らないのかどうか知らないですが、旧皇族はどうしようもない連中だから臣籍降下させられたようなことが描いてありますが、それと皇統を継ぐのは一切関係ありません。
天皇はあくまでも血の繋がりで代々受け継がれていくもので、その時の天皇がいい人とか、悪い人とかは一切関係ありません。小林さんは徳が無い一族が天皇位についてはいけないような描き方をしている。天皇は徳治主義として受け継がれるものでは無い。そうじゃないと、今の天皇陛下の血筋の方に徳が無いから別の一族に天皇位を禅譲するとかいうことになってしまう。神武天皇の直系で男系の男子があくまでも天皇位を継ぐ。それが125代に亘って天皇位が受け継がれていた鉄の掟です。これが破られると天皇の正統性と威厳が失われる。
女系皇族が天皇に付いたとしても、旧皇族の方が正統だとみなす人が多数出れば国が乱れる。それよりも、外国人地方参政権付与や帰化条項の簡略化によって、漢族が多数選挙権を持った場合、憲法が改正されて、天皇が廃止される可能性が高いということの方がよほど心配なのですが。平沼新党も期待したほどでも無さそうだしなぁ。稲田朋美さんに頑張ってもらわないと??(~_~;

フランス語→南京大虐殺否定=Négation du massacre de Nankin
La négation du massacre de Nankin est un point de vue, qui conteste le fait que les forces impériales japonaises ont assassiné des centaines de milliers de soldats et civils chinois durant la seconde guerre sino-japonaise, épisode très controversé dans les relations sino-japonaises. Malgré la popularité du négationnisme au Japon, elle est considérée comme un point de vue négationniste et n'est pas acceptée dans le principal courant universitaire, même dans les universités japonaises. La plupart des historiens acceptent les résultats du tribunal de Tokyo sur l'étendue et la nature des atrocités commises par l'armée impériale japonaise après la bataille de Nankin. Au Japon, toutefois, il existe un débat passionné sur l'étendue et la nature du massacre de Nankin. Parce que la négation du massacre est perçue comme une partie de la réticence globale de la part du Japon à admettre et à s'excuser pour son agression, le débat sur le massacre complique les relations entre le Japon et la Chine1. Les estimations sur le nombre de victimes varient énormément. Plusieurs chercheurs ont accepté le nombre d'approximativement 300 000 morts, qui est devenu emblématique de la tragédie en Chine. Les estimations sur le nombre de morts varient toutefois, notamment avec les négationnistes et les activistes japonais, qui soutiennent parfois que chiffre est trop élevé, ou que les évènements ont été imaginés et n'ont jamais eu lieu2,3. Ces positions révisionnistes sur le nombre de morts sont devenues la base du discours des nationalistes japonais4.
Au Japon, l'opinion publique sur le massacre varie et seulement une minorité nie complètement les atrocités4. Certains journalistes et sociologues japonais, comme Tomio Hora et Katsuichi Honda, ont joué un rôle important dans l'historiographie négationniste dans les décennies qui ont suivi le massacre. Cependant, les opinions négationnistes comme celle de Shudo Higashinakano ont souvent créé la controverse, qui a résonné dans l'ensemble des média, en particulier en Chine et dans d'autres pays d'Asie orientale4,5. Le massacre de 1937 et sa couverture dans les manuels japonais d'histoire affecte également les relations sino-japonaises. 


.南京大虐殺資料の「ユネスコ世界記憶遺産」登録批判に見る、安倍自民党の極右体質
     ―日本が目論む「戦略的対外発信力」とは何なのか―  成澤宗男(ジャーナリスト)
序章
この年の10月から11月にかけて、日本政府・外務省や自民党、右派メディアが一斉に、中国による南京大虐殺関連資料のユネスコ(国際連合教育科学文化機関)世界記憶遺産登録に対して猛烈な抗議の声を上げた。だが、これがどれだけ異常極まる事態であったか、未だに多くの日本人たちが気付いている形跡は乏しい。おそらく近年、日本がこれほどまでに理性と道義を喪失している実態を雄弁に示したケースは稀だろう。
第1章 「30万人」が問題なのか
最初に政府の側から騒ぎ立てたのが、官房長官の菅義偉であった。菅は10月12日に放映されたBSフジ番組で、この登録に対し、拠出金停止もほのめかして「事実をめぐり意見が分かれているのに、一方的に中国側の意向に基づいてユネスコが指定するのはおかしい」と批判。翌13日の記者会見では、中国側の登録が「政治利用」で、ユネスコも「一方的に決めて政治問題にすべきではない」と批判。さらに、中国がユネスコに提出した資料を「本物か検証できないし、政府として文書を見ることもできない」としながら、一方で「(南京で)非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」と、「(中国側が主張しているとする30万人の犠牲者数について)政府として具体的な数の断定は困難だ」と発言した。
この記者会見で、菅が「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」と述べる一方で、「事実をめぐり意見が分かれている」というのは奇異に感じる。では、中国側の「30万人の犠牲者数」という主張が問題なのだろうか。外務省の外務報道官の川村泰久は、「犠牲者数三十万人以上という中国の主張が既成事実となり『負の歴史』の宣伝に利用されかねない」(『東京新聞』10月11日付)と述べたといいうからそうなのだろうが、これも実におかしな理屈だ。
2010年1月31日、「日中有識者による歴史共同研究」の成果である「報告書」が発表された。この「共同研究」は外務省のHPによると「2005年4月の日中外相会談において、町村外務大臣(当時)より日中歴史共同研究を提案、翌5月の日中外相会談において、詳細は事務当局間で議論していくことで一致」したというから、「報告書」は半ば日本政府の公式見解と見なされて良いだろう。そこでは南京大虐殺について、以下のような記述がある。
「日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上……、1947年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」――。
 すると日本側は、「20 万人を上限」とする見解を示していたことになる。繰り返すように「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」と認めたのであれば、「中国側が主張する30万人の犠牲者数」との違いは10万人になる。日本政府・外務省が、自国が認めた「20 万人を上限」とする数字と10万人違っていたことが、ユネスコへの拠出金停止をほのめかすまでに菅が憤るような理由になるのか。
 しかも、「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」にもかかわらず、犠牲者数が仮に「4万人、2万人」であったら、前出の川村は「負の歴史」ではないと考えているのか。中国側が宣伝しようがしまいが、「2万人」もの非戦闘員を殺害したらそれは大変な虐殺行為なのであって、日本人自身が誰よりも真っ先に「負の歴史」として刻むべきだろう。
第2章 「政治利用」という批判の「政治」性
 この程度の理屈すら分からなそうな男が「外務報道官」というから空恐ろしくなるが、そもそも中国側の資料は、「30万人」という犠牲者数を前面に出しているのではない。中国は2014年にも南京大虐殺関連資料を世界記憶遺産に登録申請しているが、その内容(英文)はユネスコのHPに掲載してあるから、菅の「本物か検証できないし、政府として文書を見ることもできない」などという批判は、まったくのデマに過ぎない。HPに掲載された「Documents of Nanjing Massacre」の「Summary」(要約)では、1948年11月4日に下された東京裁判判決に登場する「後になされた評価では、日本軍占領期の最初の6週間に南京やその近郊で殺害された市民や捕虜の全体数は20万人を超える」との一文を、そのまま引用しているだけだ。しかも、「Comparative criteria」(比較の基準)の「People」では、これと同じ表現で「20万人以上」という数字が引用されているが、「少なくとも30万人」という表現も、連合国軍がBC級裁判の一環として設置した南京戦犯裁判軍事法廷の判決の引用という形式を取っている。
 「日中有識者による歴史共同研究」の「報告書」も同様だが、中国側が「三十万人以上」という数字の「主張」にこだわっているのでは毛頭ない。当然だろう。「20 万人を上限」にしようが「少なくとも30万人」だろうが、その歴史上特筆すべき残虐性は何ら変わるものではないからだ。にもかかわらず、自国が「20 万人を上限」とする評価もあり得ると認めながら、「犠牲者数三十万人以上という中国の主張」などという話を捏造し、しかもその数字が「既成事実」になるとして問題視しているのが、この国の主張なのだ。それがどれだけ事実に反しているか、外務当局は知るべきだろう。
 そもそも「政治利用」だとか「政治問題」などと口にすること自体、自身の「政治」性を物語っていよう。ユネスコは1979年、ポーランドの旧アウシュビッツ強制収容所を世界遺産に登録したが、当時のドイツ連邦共和国が「政治」云々と騒ぎ立てただろうか。誰が申請しようが、南京大虐殺関連資料が世界記憶遺産に登録されるのは、南京大虐殺というその空前の「負の歴史」からして何ら不自然ではない。にもかかわらず「政治利用」などという恨みがましい用語が出るのは、それを吐いた者たち自身が、歴史の真実に対して過度に「政治」的に振る舞っているからに他ならない。
 思い起こせば、戦後の歴史教科書は紆余曲折があったが、少なくとも中学校では1984年版、高校日本史では1985年版、小学校では1992年版から全教科書に「南京大虐殺」の記述が存在した。しかし、次のような経過は、今回のユネスコに対する批判を考える上で忘れてはならないだろう。
「自民党は九三年八月に『歴史・検討委員会』を設置し、次のような結論をまとめて九五年八月一五日に発表した。①日本の戦争は侵略戦争ではない、②『慰安婦』や南京事件などの加害は事実ではない、③これらのことを教科書から削除するために新しい教科書のたたかいが必要、④前述①②のような歴史認識を国民に定着させるために、学者を中心とした国民運動を展開する。
これを受けて、九六年夏から、中学校教科書を『自虐・暗黒史観教科書』と攻撃し、教科書から『慰安婦』や南京事件記述を削除せよ、という激しい攻撃がはじまった」(注1)
 よく知られているように、安倍晋三は極右・歴史修正主義者の牙城であるこの「歴史・検討委員会」に委員として加わり、続いて一連のこうした「攻撃」の先頭に立った「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(現日本の前途と歴史教育を考える議員の会)の事務局長を務めた。菅義偉も、後者に所属している。しかも安倍は、南京大虐殺を「捏造」とする一派に与している事実を隠してはいない。 
 名古屋市長の河村たかしが2012年2月20日、「一般市民(へ)のいわゆる虐殺行為はなかった」「南京事件はなかったのではないか」と述べて大問題になった際、「南京の真実国民運動」(代表=渡部昇一)が「広告主催者」となり、同年の『産経新聞』8月3日付と9月24日付に、「私たちは、河村たかし名古屋市長の『南京』発言を支持します!」という意見広告を掲載した。そこで安倍は、「元内閣総理大臣・衆議院議員・自民党」の肩書きで、「呼びかけ人」の筆頭に名を連ねている。つまり河村と同様に、南京大虐殺の否定論者に他ならない。
第3章 啞然とする自民党の歴史認識
安倍政権が今回、これほど「政治」な動きをしたのは、もともとこの一派の大半は南京大虐殺が「事実ではない」と考えているか、あるいは「事第3章 啞然とする自民党の歴史認識
安倍政権が今回、これほど「政治」な動きをしたのは、もともとこの一派の大半は南京大虐殺が「事実ではない」と考えているか、あるいは「事実であって欲しくない」と強く願望しているからこそなのだ。こうした安倍のようなメンタリティの同類が、自民党の「外交・経済連携本部国際情報検討委員会」の委員長である衆議院議員の原田義昭だろう。
 原田は10月2日、同「検討委員会」の会合後、記者団に「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている時にもかかわらず、申請しようとするのは承服できない」(『朝日新聞』電子版10月2日付)と語ったという。
これこそが、安倍政権と自民党の本音に他ならない。この集団によれば、対外的には政府が南京大虐殺の事実を「否定できない」と表明していながらも、あくまでこの事件は本来
「事実ではない」か「事実であって欲しくない」ものであるから、この問題で何か起きると、「今や否定しようとしている時」だと主観的に思い込みたがる。だからこそ、中国のユネスコ登録申請に過度に「政治的」に反応するのであって、それ自体、安倍政権・自民党の歴史修正主義という「政治」的本質の裏返しといえよう。

×

非ログインユーザーとして返信する