日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

L'expression « cirque médiatique »=「暴力マスコミ」(ジャーナリズムとは無縁)の被害者・犠牲者たち(実例挿入)・Trial by media

the Liaison Committee on Human Rights and Mass Media Conduct (JIMPOREN) homepagehttp://www.jca.apc.org/~jimporen/lec02.html
PS:これまで私が語り参考にだしてきたそのものの内容だと同感した。まさに「弱いものいじめ」強いものにこびへつらい「特ダネ」をせしめるためには、加害者だろうが被害者だろうと一般庶民の「人権」など念頭にすらない。「サツまわり」(事件記者)の下積みが評価’されるや「デスク」だ「編集局長」に出世し現場や真実などとは無関係になる。「権力と紙一重」ずら(だけ実際はかけ離れてるのに)を決めこみデカイ顔でやりたい放題。
1、特例、フィリピン・ルパング島で29年ゲリラ戦を続行した小野田少尉(秘密諜報機関中野学校出身(中英に堪能)の現役兵)が帰国した際。ごったがえす空港はともあれ、和歌山県の実家周辺にも報道陣さらに勝る野次馬寄席そのもの。29年ぶり(26年間をともにした小塚一等兵が戦死したのは投降する3年前)少尉が拡声器で
「お願いですから静かにしてください・・・近所の迷惑にもなりますのでお願いします」と懸命に叫んでいたのが印象的だった。氏は一年後、ブラジルに移民してしまった。


                                                    「人権と報道」概論
Ⅰ 報道による人権侵害=報道被害の実態
報道被害には、大きく分けて、①犯人視報道による被害②事件被害者の被害③地域住民の取材報道被害がある。それらの被害は、ひとつの事件で複雑に入り組みながら、ほぼ同時に進行する。ここでは特徴的な事例を取り上げ、それぞれの被害の実態を紹介しよう。
1――犯人視報道による被害
(1) 「ペンは人を殺す凶器に」――松本サリン事件
ある日突然、全く身に覚えのないことで警察に犯人と疑われる。それが新聞、テレビで確定した事実のように大きく報道される。週刊誌やワイドショーは、「犯人の素顔」などと「あること=プライバシー・ないこと=うそ」をおもしろおかしいお話に仕立て上げるまさか、そんなひどいことが、ましてや自分の身に降りかかってくるなんて、とだれもが思っている。松本サリン事件の報道被害者・河野義行さんも、事件翌日の94年6月28日、警察が自宅を家宅捜索し、メディアが自分を犯人視報道するまでは、そう思っていた5人家族のうち、河野さんも含めて4人が入院する被害を受けた河野さん一家。長男が留守を預かる自宅を殺人容疑で家宅捜索した警察は、「捜索で薬品類を押収した」と発表した。テレビはその夜から、新聞は翌29日朝刊から、河野さんを犯人視する大報道を始めた。
《ナゾ急転 隣人が関係/悲劇招いた除草剤作り?住民「これで眠れる」》(朝日)
《調合「間違えた」救急隊に話す/以前から薬品に興味》(毎日)
《住宅の庭で薬物実験?/「あの家が―」周辺住民あ然/原因わかり安ど》(読売)
これを受けた週刊誌は《住民を恐怖の底に叩き込んだ松本毒ガス男》(週刊現代)、《ナゾだらけの私生活》(週刊読売)、《怪奇家系図》(週刊新潮)などと書きたてた。
ーこれらの報道がどんな被害をもたらしたか。事件から2年後の96年6月に開かれた人権と報道・連絡会主催のシンポジウムで、河野さん自身が語った言葉を聞いてほしい。
事件当初2週間の報道で殺人者のレッテルが貼られた。全国民が私を犯人と思った、と思う。何か月間も無言電話や脅迫状が続き、サリンの不眠と真夜中の電話に苦しめられた。いったん疑惑をもたれ、犯人にされたら、個人でそれをはがすのは不可能。警察がウソを言うなんて思いもよらなかった。新聞もウソを書くとは思わなかった。間違えば訂正すると思っていたのに、すぐわかる誤報を1年以上も検証しなかった。記者は、ペンが人を殺す凶器になりうることを自覚してほしい。私はいま、たまたま生きている」
ー報道はいったん犯人扱いを始めると、それに沿った材料だけを集め、「より犯人らしく」描いていく。河野さんの場合は、「以前、薬品会社に勤めていた」「薬品を扱うライセンスを持っている」「薬品を調合する器具を自宅から押収した」といった断片的情報が、ひとつのストーリーにまとめ上げられ、それを読んだ人は犯人だと信じてしまった。
ー裁判で有罪が確定するどころか、逮捕もされていないのに、報道で犯人と信じ込んだ人たちの怒りが報道被害者に向けられる。それは事件の被害者やその家族、近隣に人たちにとどまらず、全国からの脅迫状、嫌がらせ電話となって、河野さん一家を苦しめ続けた。
ーメディアが誤報を訂正したのは、翌年3月に地下鉄サリン事件(★4)が起き、「別の犯人」を大々的に報道始めた後だった。
★4 1995年3月20日朝、東京都内の地下鉄3路線の電車内で毒ガスが発生し、乗客ら11人が死亡、5500人が重軽症。警察はサリンによる無差別殺人事件として捜査、オウム真理教幹部らを殺人罪などで逮捕、起訴した
Trial by media is a phrase popular in the late 20th century and early 21st century to describe the impact of television and newspaper coverage on a person's reputation by creating a widespread perception of guilt or innocence before, or after, a verdict in a court of law. Its first inception was the phrase Trial by Television which found light in the response to the 3 February, 1967 television broadcast of The Frost Programme, host David Frost. The confrontation and Frost's personal adversarial line of questioning of insurance fraudster Emil Savundra led to concern from ITV executives that it might affect Savundra's right to a fair trial.
PS
(2)、元日本陸軍将校高木正雄中尉・朴正𤋮(大統領(東京滞在中だった金大中拉致事件・欧州で活動中の芸術家・音楽家を拉致・誘拐本国へ強制連行・ブタ箱にぶち込み拷問・西独・仏の「国交断絶」も辞さずにびびって釈放。再び彼らは渡欧した)によるでっちあげ犠牲者の徐兄弟(71年・在日僑胞・北朝鮮諜報機関大学浸透事件・残酷で執拗な恫喝と拷問・兄勝氏(全身に大火傷・獄中19年・弟俊植氏17年)が釈放。記者会見で過ぎ去った苦痛の日々、そして息子たちの釈放・無事の帰還を祈りつつ京都で病死した父母を思い涙する氏に向って。下種な根性としか思えない「火傷」に関するぶしつけ。聞くに堪えない無神経。礼儀知らずな質問を連発する大新聞日本人「記者」たち。さらに後日、父母のお墓参りに訪れた際、墓石をぶっ倒して踏み越え。その辺の建造物を蹴り飛ばしてまで「写真撮影」の最適場所確保に大挙して奔走した日本人「記者」群・・・「加害者」の小野田氏と「被害者」の徐氏たちの差は歴然とながらも「アウトレンジ」特ダネ戦術は微塵の変更もなく、かえって悪化していたようにしかみえなかった。
ー「基本的人権」「個人の尊重」なぞはなから頭にない大新聞「広報官製迎合記者」たち・・・「日本人」の’血’をもち日本で育ったひとりとして。再び申し訳ない気持ちでいっぱいです。
(2) 超長期裁判を招いた犯人イメージ――甲山事件
ー河野さんの場合はメディアが誤報を認め、記事を訂正した。しかし、多くの冤罪・報道被害者は、誤報が訂正されないまま、報道で形成された犯人イメージが世間に定着し、それをぬぐうのに長期間の悪戦苦闘を強いられる。
ー1974年に起きた甲山事件は、その典型的ケースだ。無実の罪で逮捕され、犯人視報道によって再逮捕・起訴された山田悦子さんは、無実を晴らすまで25年以上もの間、世間の犯人視という「被告席」に縛りつけられた
74年3月、兵庫県西宮市の知的障害児施設「甲山学園」で園児2人が相次いで浄化槽から水死体で発見された。2児の死は事故とも推定できたが警察は最初から「連続殺人」「内部の犯行」と決めつけて捜査。4月7日に施設職員の山田さんを2人目の男児殺害容疑で逮捕した。メディアはこれを「二児殺しで保母逮捕」と誤報したばかりか、言動不審アリバイなし/捜査そらす演技?葬儀の日、泣いて合掌》(月8日付・毎日)、《暗い青春時代の女/間違いでも主張通す》(4月21日付・読売)などと、
犯人イメージをばらまいた。
ーしかし、もとより何の証拠もなく、山田さんは処分保留で釈放、75年9月、不起訴になったところが翌10月、強烈な犯人視報道で山田さんを犯人と信じ込んだ
男児の遺族が、神戸検察審査会に不起訴処分不服を申し立てた。76年10月、同審査会は「不起訴不当」を議決これもまた、報道で形成された強い犯人イメージの産物だった。
ーこの議決を受け
、神戸地検は78年2月、山田さんを再逮捕し、翌3月に起訴。これが21年余に及ぶ長期裁判の始まりとなった。1審無罪―検察控訴―2審差し戻し判決―被告上告―最高裁上告棄却―差し戻し審1審無罪―検察控訴―同2審無罪……。99年9月29日、大阪高裁が3度目の無罪判決を出して検察が控訴を断念、ようやく裁判は終結した。
ー最初の逮捕から実に25年6か月、山田さんは人生の半分以上を「被疑者・被告」として生きることを強いられた。無罪確定後、山田さんは私との電話で次のように話した。
「事件当時、私を犯人扱いする記事を書いた記者の多くが今、デスクになっています。その人たち自身に自分の書いた記事と事件を検証してほしい」
しかし、その言葉に応え、ジャーナリストとしての責任を果たした記者はいない。
(3) 特ダネ意識が招いた報道冤罪――大分・みどり荘事件
ー問題は、警察情報に依存した犯人視報道だけではない。特ダネ意識に駆られて先走りした犯人視報道で、「報道冤罪」ともいうべき犯罪的報道をしてしまうケースもある。
ー1981年6月27日、大分市内のアパート「みどり荘」で女子短大生が殺される事件が起きた。犯人は深夜、部屋に招き入れられ、被害者と話しをしていることも確認されたため、各紙は「被害者と親しい者の犯行」と捜査本部の見方を伝えた。
ーところが、一人の刑事が被害者の隣室に住む輿掛良一さんに事情聴取。大分合同新聞が30日付夕刊に《「重要参考人」浮かぶ/若い会社員を追及》と報道した。その結果、輿掛さんは勤め先から自宅待機を命じられ、周囲から「疑惑の目」を向けられた。母親も買い物に行けなくなった。この記事に引きずられる形で、捜査の方向は輿掛さんに絞られていく。
翌82年1月14日、警察は輿掛さんを逮捕。当日朝の大分合同は《隣室の男逮捕へ/体毛、血液型が一致》と予告報道、輿掛さんは自宅に殺到した報道陣に囲まれて連行された。
ー取調べで「身に覚えがない」と繰り返す輿掛さんに、刑事は「被害者の部屋からお前の体毛と指紋が出た」とウソをつき、「酔って何も覚えていないことが前にもあっただろう」と「夢遊病状態の犯行」を示唆して自白を迫った。長時間の取り調べ、風邪、睡眠不足、家族への心配と不安で憔悴しきった輿掛さんは、「指紋が出たのなら…」と動揺、「隣室の表のドアから出たことは覚えている」と言ってしまった。
ー新聞・テレビはこれを「全面自供」と報道。大分合同は《輿掛やっと自供/私に間違いない/恋人とけんか…カッと》と、調書にない「犯行動機」まで創作して報じた。
ー自白した、との報道はだれをも犯人と信じ込ませる。弁護人さえ、当初は「自白」を真実と思い込んだ。第10回公判で現場に指紋がなかったことを知り、輿掛さんは否認に転じたが、大分地裁は89年3月、無期懲役の判決。しかし2審では、13人の大弁護団が結成され、輿掛さんの無実を訴える本(★5)も出版されて、支援の輪が大きく広がった。
95年6月、福岡高裁は逆転無罪判決。「自白」の信用性を否定し、真犯人が別に存在することまで示唆する完全無罪判決で、検察も上告を断念した。この時点で、事件はまだ時効を迎えていなかったが、「捜査に誤りはなかった」とする大分県警は再捜査しなかった。
ー3か月後の95年9月、人権と報道・連絡会の定例会で、輿掛さんは「13年半、人生を失ってしまった」と冤罪体験を話した。逮捕当時25歳だった輿掛さんは、青春の大半を独房に閉じ込められた。取り返しのつかない冤罪。その責任の一端は、特ダネ意識に駆られて犯人視報道した新聞にある。だが、輿掛さんに謝罪した新聞社はなかった。(★6)
★5 小林道雄著『夢遊裁判』(講談社、1993年)。小林さんは、控訴審途中から事件と裁判を取材し、捜査と報道、裁判の問題点を克明にリポート、逆転無罪への大きな力になった。96年に『〈冤罪〉のつくり方 大分・女子短大生殺人事件』と改題し、講談社文庫に。
★6 直接の謝罪ではないが、西日本新聞は福岡高裁の判決後、なぜ冤罪が生まれたのかを報道の反省も含めて検証した。さらに事件が時効を迎えた96年6月には、連載企画「時効 それぞれの15年」を掲載し、報道の問題点もリポートした。
*あの「佐世保事件」の被害者・犠牲者はどうだ?「川崎の惨殺事件」は?「沖縄の海兵隊軍属の誘拐暴行殺人事件は?」誰一人少なくてもここ2~3月。一瞬たりとも頭をよぎったことすらないのでは。俺は毎日考えざる負えない。

ーあの佐世保の加害者少女はどんな気持ちで「軍艦島」(*徴用の朝鮮人犠牲者たちが炭鉱堀の強制労働。膨大な犠牲者が出た悪名高き残骸だけの無人島)これすら「優秀」な’ハズ’の日本国民のほとんどがろくにしらない)に度々ひとりで船にのって訪れたんだろう(これも「異常・凶暴な病質者」の煽り一環で「三時に会いましょう」レベルでやられ放送される)。一人で窓際にすわり「景色を眺めていた」彼女の横顔が目に浮かぶ。
ーお父様が自殺してしまったあと。今、医療女子施設に収監中。彼女は何を考えどうやって生きているの。また「犠牲者」側の家族はマイク突きつけ一連の夜討ち朝駆けバカ騒ぎが終わってみれば何が残ったのだろう。最愛の娘を失った避けようのない事実だけ。ではないのか。
ー「フィリピン系」の青年はどうしているだろうか。彼がみせていた写真の笑顔。裏には悲観と荒廃、恐怖の板ばさみにあるように思えた。特に「フィリピン系」だったがゆえ特ネタ絶好のカモにされた。一年後以上の現在、加害者側に残ったのは「残虐青年を野放しにした不埒な両親」被害者側は?台風一過忘れられ。誰も訪れてもこない。同情も支援もなく残ったのは、ただ一点の事実だけ。最愛の息子の命が奪われた。以外に何があろう。「佐世保」や下の沖縄事件と何が異なろう。
ー沖縄の犯人について(彼は「ナカザト」という名前をもつアメリカ国籍ながら混血だ。だからアメリカ側も適当に「個人異常者」の仕業に過ぎないうよう片付けた。日本ももちろんお得意の展開。「被害者」の生い立ち経歴の「涙ぐましい・浪速節調」そして親分に迎合し尻尾フリフリいいかげんに「こきおろし」「個人異常者」にでっちあげてしばらくすれば「雲散霧消」他の何か異なりはあるのか?なんで日米連合軍が沖縄にいて普天間に拡大改編大軍事基地建設を独立先進国であるハズの日本が。「国民」からふんだくった「思いやり寄付予算」で経費から物資揃えまでをまかなわなければいかんのか?
もういうことは、これ以上は何もありません。2016年10月 Sammy
(4) 現在も続く犯人視報道
ー松本サリン事件の誤報を否定できなくなり、その訂正を迫られた95年6~7月、新聞・テレビ各社は、特集や特別番組で自社報道を検証した。
《①警察が主な情報源②情報の裏付けが不十分③他紙にも同様な記事が掲載される中、「大丈夫だろう」との安易な姿勢が記者にあった》(6月6日・毎日)
《一連の報道を振り返ると、予断、思い込み、科学的知識と裏付け取材の不足など多くの反省点が浮かび上がってくる》(7月7日・読売)
《警察の取材を続けている記者は、他社に「抜かれる」ことに対するプレッシャーを常に抱えている。警察の情報にひたすら食らいついていく傾向がある》(7月8日・朝日)
ー十分とは言いがたい「検証」だったが、メディアが紙面や番組で自分たちの報道を「反省」したことは、画期的だった。では、これらの「反省」は、その後の報道に生かされただろうか。残念ながら、松本サリン事件の誤報を生み出した取材・報道の構造=捜査情報に依存した犯人視報道は、その後もほとんど変わっていない。
ー96年5月、米サンディエゴ近郊で起きた日本人大学教授父娘殺害事件(★7)では、夫と娘を凶弾に奪われた女性を標的に「疑惑」報道が繰り広げられた。中でも、共同通信が初報段階で加盟各社に配信した「現地警察が事情聴取」などの誤りだらけの記事は、彼女の事件への関与をにおわせ、「背景に夫婦の不和」「不動産トラブル」「金銭疑惑」などスポーツ紙やワイドショーの興味本位な報道の原因になった。彼女は、夫の追悼式や告別式でもカメラに追われ、家族を失った悲しみに、非情な報道の追い討ちを受けた。
97年8月には、96年秋から97年夏にかけて東京都、埼玉県で続発した通り魔事件について、別件で警視庁に逮捕された男性が「約30件の犯行を自供」「近く再逮捕」などと新聞、テレビで大きく実名・犯人視報道された。(★8)
ーしかし、男性は冤罪を訴え、その後も通り魔事件が発生、「自供」と現場状況の食い違いも出て、警察は再逮捕を断念した。その後の弁護人の調査などで、各紙が報じた「犯行を認める上申書」は、捜査員の誘導で強制された虚偽自白であることが明らかになった。
-2000年3月、北海道恵庭市で起きた「恵庭OL殺人」事件(★9)では、事件の2か月後に逮捕された女性について、《元同僚の女逮捕/容疑否認/男性巡りトラブルも》(5月23日付・読売)などの記事を皮切りに、新聞、テレビ、週刊誌で大々的な犯人視報道が繰り広げられた。週刊誌やワイドショーは、「交際相手を奪われた嫉妬と憎悪から同僚女性を殺害、遺体を焼き捨てた」と、警察の見方に沿ってショッキングに事件を取り上げた。しかし、物証は何もなく、女性は一貫して無実を主張、女性の支援団体が結成されている。公判でも検察は物証を示せず、逆に捜査のずさんさや証拠隠しなど、女性の訴えを裏付ける事実が次々と明るみに出たが、札幌地裁は03年3月、「状況証拠」女性に懲役16年の有罪判決を言い渡した。女性は控訴、04年から札幌高裁で審理が行われている。01年1月に宮城県仙台市で起きた「北陵クリニック事件」(「仙台・筋弛緩剤事件」として報道された事件)も、警察情報を鵜呑みにしたセンセーショナルな犯人視報道が問題になった。
ー1月6日、宮城県警が元准看護士の守大助さんを殺人未遂容疑で逮捕すると、新聞各紙は《背筋凍る“恐怖の点滴”/守容疑者/「容体急変」平然と報告》(1月8日付・読売)などと報道。さらに、《守容疑者が点滴/計20人近く容体急変 うち10人死亡》(同10日付・朝日)など、各紙が競って「被害者」の数を増やし、《「副院長困らせたかった」/守容疑者が供述/給与上がらず不満》(同・毎日)などと「容疑者自供」も報じられた。
ーしかし、この「自供」が警察のすさまじい自白強要の結果であり、数日後には本人が撤回、以後一貫して否認していたことは、弁護団がメディアに抗議するまで報道されなかった。(★10)
7月11日の初公判では被告は起訴事実をすべて否認、弁護団は「事件は病院の医療ミス隠し。被告は病院側に仕組まれた冤罪の被害者」と主張し、その根拠を具体的に指摘した。しかし、仙台地裁は04年3月、守さんに無期懲役に有罪判決。守さんは控訴した。真相は、今も法廷で争われているが、裁判経過はほとんど伝えられていない。この事件の報道については、仙台弁護士会が03年11月、河北新報、朝日、読売、毎日の4社の逮捕後の報道に対して、「プライバシー侵害や犯人視報道による人権侵害があった」として、是正を勧告した。
★7 事件は、教授がアルツハイマー病研究の世界的権威だったこともあり、大きく報道され、日本では共同通信の誤報などによって遺族に対する「疑惑」報道が繰り広げられた。報道被害を受けた女性は97年10月、メディア39社を相手取って名誉毀損などの損害賠償訴訟を起こし、葬儀会場での肖像無断撮影問題などで勝訴している。
★8 8月12日付の各紙朝刊は、東京新聞が1面・社会面トップ、読売と産経が1面4段・社会面トップ、朝日、毎日、日経が社会面トップと、事件報道では最大級ニュースの扱い。8月30日付朝刊の「再逮捕見送り」報道は、社会面で産経と毎日が3段、朝日が2段、読売が1段、東京新聞は「報道せず」だった
★9 2000年3月17日朝、恵庭市の農道で黒焦げの女性の遺体が発見された。警察は同日午後、被害者の同僚女性から事情聴取。警察とメディアによる監視・尾行が続き、約1か月後、6日間に及ぶ任意取り調べ。彼女がその精神的・身体的苦痛を訴えて5月22日に国家賠償訴訟を起こすと、警察は翌日、逮捕した。(詳しくは、「恵庭冤罪事件被害者支援会」のホームページ参照)
★10 この事件では、約2か月後から週刊朝日、週刊ポスト、月刊現代などが捜査への疑問を報道する異例の展開。さらに、6月には被告と弁護団長による共著『僕はやってない!仙台筋弛緩剤点滴混入事件 守大助勾留日記』(明石書店、1400円)が出版された。同書には、自白強要のすさまじさ、虚偽自白に追い込まれる過程がリアルに描かれている。
2――事件被害者の報道被害
ー大事件や事故が起きると、報道陣が被害者の自宅などに殺到し、被害者や家族にカメラ、マイクを突きつけて心境を聞く。それが、心身に傷を負った被害者、家族の死で悲嘆に暮れている遺族にとってどんなに酷いことかは、被害者の立場に立って想像すればすぐわかるはずだしかし、メディアは、そんな被害者取材をやめようとしない。それどころか、90年代後半以降、「集団的過熱取材」が日常化する中で、ますますエスカレートしてきた。
ー被害者の報道被害は、強引な取材によって心を傷つけられるだけではない。「ロス疑惑」報道、松本サリン事件、サンディエゴ事件などのように、被害者なのに「疑惑」の対象にされるケースや、被害者のプライバシーに踏み込んだ興味本位な報道によって世間の好奇の目にさらされ、2次被害を受ける例も少なくない。典型的な事例を2件紹介しよう。
(1) 救急活動を妨げた取材活動――付属池田小事件
ー2001年6月8日午前、大阪府池田市の大阪教育大付属池田小学校に包丁を持った男が侵入、4つの教室などで子どもたちを次々と襲い、1、2年生8人を刺殺、教師2人を含む15人に重軽傷を負わせた。新聞、テレビ各社は、事件発生直後から現場、病院などに大量の取材陣を投入、被害者や駆けつけた家族から取材する一方、ヘリコプターを飛ばして空から現場の状況を撮影、中継放送した。大量の死傷者が出たこの事件では、こうしたメディアの取材が初期の救急活動を妨げ、大きな問題になった。
ー後に刑事裁判に提出された池田消防署の報告書によると、低空で現場上空を旋回する報道各社のヘリコプターは、現場から被害者の状況を伝えて病院の手配を求める消防署の無線連絡を妨害した。また、消防署には被害状況や被害者の搬送先を問い合わせるメディアの電話が殺到し、救急連絡に必要な電話がふさがって、電話回線がパンク状態になった。
ー03年7月に開かれた新聞労連のJTC(ジャーナリスト・トレーニング・センター)記者研修会(★11)で、遺族の1人、Sさんは、次のように話した。
娘は瀕死の状態で玄関まで逃げて倒れた。先生が校庭で人工呼吸をしていると、次々にヘリコプターが飛んできた。先生は救急のヘリだと思ったが、降りてこない。報道のヘリだった娘は救急車の中で力尽きたすぐ下に命を失いつつある娘がいるのに、メディアの人たちは撮影を続けるだけで、助けてくれなかった。ヘリコプターの爆音は、駆けつけた家族に、だれがどの病院に運ばれたか、を伝える学校側の説明も妨げた」
ーSさんによると、家族が搬送先の病院に駆けつけた時も、「わが子の無言の帰宅」の時も、葬儀の日も、いつも報道陣に取り囲まれ、「家族にとっては娘と過ごす最後の大切な時間、心を通わせる最後の機会に、報道陣に心をかき乱された」という。
★11 JTCは、「ジャーナリズムとは何か、新聞記者とは何かを問い直し、新聞社の枠を越えて自立・自律したジャーナリストを養成する」ことを目的に設置された。1993年以来、年に1~2回、全国の若い記者を対象に合宿研修会を開き、「報道される側」の声などを聞いて記者活動のあり方を話し合っている。
(2) 遺族を傷つけた被害者中傷報道――桶川事件
ー99年10月26日、埼玉県桶川市で白昼、女子大学生が刺殺される事件が起きた。被害者は数か月前からストーカー行為に悩まされ、告訴状を出して警察に対処を求めていたにもかかわらず、警察が放置する中で起きた無残な事件だったメディアによる取材攻勢と興味本位な報道は、事件直後から家族を苦しめた。2002年11月に開かれた人権と報道・連絡会のシンポジウムで被害者の父・猪野憲一さんは、その被害体験を次のように話した。
「警察で事情聴取を受け、自宅に帰ると、60~70人の報道陣が家を取り囲んでいた。翌日以降も、朝から深夜まで家の前にマスコミがいて、夜中にドンドンと戸を叩かれる。娘を殺され、つらくて悲しくて、どうしていいかわからない。それなのに、マスコミは『何か話してくれ』と言う。葬儀の時もカメラを向けられ、『何かしゃべって』と言われた」
警察は事件を放置した責任を逃れるために、マスコミに娘を中傷する情報を流した。風俗で働いていたとか、ブランド好きで男からブランド品をもらっていたとか。ワイドショーや女性週刊誌や、そんな話をおもしろおかしく取り上げた。ワイドショーの中には、娘を風俗嬢と決めつけたうえで『どんな教育をしていたのか』と私たちを批判したところもあった。娘を中傷するひどい報道が約3か月も続いた。全く事実無根の情報で、『そんな女の子だから殺されたんだ』というイメージが世間に形作られた。それは3年たった今でも消えない。いくらやめてほしいと頼んでも、娘の写真屋や私の映像が何度も流された。娘は犯人たちに殺され、マスコミに傷つけられて2度殺された」
ーただ、この事件ではメディアの大半が警察に情報操作される中で、捜査のあり方に疑問を持ち、怠慢やミス、被害届の改ざんなどを突き止めて報道したテレビ朝日「ザ・スクープ」など少数のメディアもあった。猪野さんは「それが報道の本来の役割だと思う。私たちは報道で被害を受け、一部だけれど報道に助けられた」と付け加えた。桶川事件報道のように、被害者が中傷され、プライバシー侵害されるケースは、女性が被害者になった場合、しばしば起きている。
97年に起きた「渋谷・女性殺人事件」では、被害女性が有名大学を卒業し、大企業の管理職だったことや、事件の特異性などから、男性週刊誌、夕刊紙、スポーツ紙を中心に、連日被害者のプライバシーを商品化する報道が続いた。中には、「被害者のヌード写真」と称する写真を掲載した週刊誌もあった。あまりにもひどい中傷報道合戦に、被害者の母親は「なにとぞ亡き娘のプライバシーをそっとしておいて下さい。もうこれ以上の辱めをしないでください」と、メディア各社宛に手紙を出した。
被害女性を「ふしだら」に描いたうえで「落ち度」を追及し、事件の責任を被害者に負わせていく。その過程で、被害者に関する性的情報や無責任なうわさを流し、男性読者の興味を煽っていくこんな報道は、男性中心メディアの根強い性差別性を示している。
3――地域住民の取材報道被害
ー90年代後半に入って深刻化したのが、地域ぐるみの取材・報道被害だ。97年5月、神戸・児童殺傷事件(★12)、98年7月、和歌山・毒入りカレー事件(★13)、99年12月、京都・日野小事件(★14)。これらの事件で、メディアは大取材陣を現地に送り込み、被害者や遺族に対する無神経な取材を行う一方、「にわか探偵」となって、犯人探し競争を繰り広げた。
狭い地域に数百人の記者が入り込み、警察の断片的情報を手がかりに、「怪しい人物」を探り歩く。取材と称した聞き込みで、「怪しい人物」のうわさをばらまき、地域住民の間に「あの人が…」といった疑心暗鬼状態を作り出す。毒入りカレー事件では、そうして絞り込んだ「怪しい人物」の自宅を取り囲み、24時間、監視下においた。
「集団的過熱取材」は住民の日常生活に大きな影響を与え、地域住民に「取材報道被害」対策を余儀なくさせた。日野小事件で地区の社会福祉協議会会長としてメディア対策に奔走した上野修さんは、2000年9月の人権と報道・連絡会定例会で、次のように話した。
事件直後から、学校周辺の道路は100台近くの取材陣の車で埋まり、住民の車が通行できなくなった。車はその後も道路を占拠し、エンジン音で住民は夜も眠れなくなった。犯人は少年らしい、との情報が流れると、記者たちは犯人探しを始めた。小学校の卒業アルバムや小中学校の生徒名簿を求めて歩き回り、犯人の心当たりを求めて子どもたちにつきまとう。中にはモノを与えたり、食堂に誘ったりして子どもから情報を取ろうとした記者もいた。何人かの中学生を容疑者扱いし、小学校時代はどうだったか、などと聞いて回る。『あそこの子は』などといううわさも流れた。テレビは、登校する子どもの顔も無差別に撮影した。マスコミ対策で集団登下校に親たちが付き添ったが、その様子も撮影された。私たちが自粛を要請しても聞き入れられず、被害者の通夜や葬儀でも、子どもたちが無遠慮に撮影された。子どもたちは外に出なくなった。メディアは『犯人に脅える子どもたち』と報道した。子どもたちが怖がっていたのは、報道陣のカメラとマイクだった」
★12 1997年5月27日、神戸市内の中学校正門前で小学生男児の頭部が発見され、「酒鬼薔薇聖斗」の署名入り犯行メッセージが見つかった。過熱取材競争が繰り広げられる中、6月28日に14歳の少年逮捕。同年3月に起きた「連続通り魔事件」も少年の犯行とされ、少年審判で「医療少年院送致の保護処分」となった。写真週刊誌「FOCUS」が少年の顔写真を掲載、インターネットでも、写真、実名を載せたホームページが現れた。
★13 1998年7月25日、和歌山市内の住宅街の夏祭り会場でカレーに毒物が混入され、住民4人が死亡、63人がヒ素中毒症状を訴えた。メディアは大量の取材陣を投入、「疑惑」対象とされた夫婦の自宅を24時間取り囲んだ。10月4日、夫婦は別件逮捕され、妻は殺人容疑で再逮捕、起訴された。和歌山地裁は2002年12月、妻に死刑判決。裁判では、過熱報道の中で放送されたテレビの録画が証拠採用され、問題になった。
★14 1999年12月21日、京都市伏見区の日野小学校校庭で、男子児童が首を刺され、死亡した。目撃者の話などから「少年の犯行」との見方が報道され、過熱取材が続いた。2月5日、事情聴取を受けていた男性が捜査員を振り切って逃げる途中、高層階から転落死、捜査は「被疑者死亡」として終わった。
the Liaison Committee on Human Rights and Mass Media Conduct (JIMPOREN) homepage
                 「人権と報道」概論
               Ⅱ 報道の人権侵害は、なぜ起きるのか
1――不当な社会的制裁
ー報道被害をめぐる議論の中には、事件被害者や地域住民の報道被害は気の毒だが、「加害者」の場合は仕方がない、といった主張がある。少年や精神疾患患者が被疑者となった事件では、「被害者に比べ、加害者の人権ばかりが守られている」として、「実名報道」で制裁する動きも強まっている。ここで問われるのが、報道による制裁の是非だ。
ーマスメディアにいったん報道されると、それがいかに誤った情報でも、読者・視聴者はそれを「事実」「真実」と受けとめる。被疑者の場合、その影響は重大だ。大事件では、警察に逮捕されると、名前、住所、年齢、職業から、生い立ち、学歴、家族構成、さらには性格や暮らしぶりまで、プライバシーが根こそぎ報道される。それらの情報は、事件と結び付けて報じられ、「犯人像」として描かれる。
ー容疑が無実であっても、報道で形成された「犯人イメージ」は、裁判の証人、裁判官、時には弁護人にまで「犯人」の予断を与え、冤罪を晴らすうえで大きな障害になる。
ーまた、「有実」の場合も、被告
に不利な心証が裁判官に形成されることがある。報道内容が細部で事実に反していたり、証拠として法廷に提出されなかったりしたものまで「犯人の印象」として残り、「悪質な犯行」として情状判断、量刑に影響を及ぼすからだ。
ー無実・有実にかかわらず、「容疑者」として名前を報道されると、本人だけでなく、家族までも大きな被害を受ける。「犯人の家族」として見る「世間の目」にいたたまれず、転居・転職・転校を余儀なくされたり、子どもがいじめにあったり、中には本人、親が自殺に追い込まれるケース(★15)もある。
ー無実の場合、長い裁判の果てにようやく無罪が確定し、冤罪を晴らしても、なお世間から「疑惑」の眼差しを向けられる例は少なくない。有実の場合、刑期を終えて社会復帰しようとしても、なかなか職を得られず、事件を知る人々の冷たい視線にさらされる。
ーこうした報道被害はすべて、裁判が始まる前にマスメディアが下す「有罪判決」による不当な社会的制裁だ無実の場合はもちろん、有実の場合も、証拠に基づかず、裁判での反証にさらされない報道の一方的な断罪は、一種の私刑=リンチにほかならない。報道する側が「制裁」を否定しても、大量に発信された「犯人視」「悪人視」情報は、結果的に重大な社会的制裁の機能をもってしまう。それは時には報道された人の社会的生命を奪う「死刑」となり、いつまでも続く「無期懲役」刑となっている。
ー「被害者の人権がないがしろにされ、加害者の人権ばかりが守られている」と強調する一部のメディアは、神戸・児童殺傷事件で逮捕された少年の顔写真を掲載(FOCUS)し、98年に起きた堺・通り魔事件では少年の実名・顔写真を載せた(新潮45)。(★16)
しかし、この論理にはいくつもの飛躍やごまかしがある。まず被疑者=加害者とする犯人視。それ自体が、裁判に基づかないリンチ正当化の主張だ。冤罪の可能性もある捜査段階で、「被害者感情」を理由に「実名による制裁」を加えるのは筋違いといえよう。
ーまた、「被害者の人権」をないがしろにしているのも、ほかならぬメディアだ。被害者や家族の了承なしに、被害者の実名や顔写真を掲載し、マイクやカメラを向ける。そうした報道被害を与えておきながら、「被害者に比べて加害者の人権ばかり…」というのは、あまりにも身勝手ではないだろうか。そもそも松本サリン事件の河野さんも、「ロス疑惑」の三浦和義さんも、被害者だった。被疑者の人権と被害者の人権は対立するものではない。どちらも大切に守られなければならない基本的人権である。
★15 1985年8月、岐阜県内の男性が、知人の版画家の「変死」に関して警察の事情聴取を受け、翌日の新聞に「傷害致死の疑いで取り調
べ」と実名報道された。版画家の死は病死だった。犯人視報道された男性は、報道への抗議の遺書を残して自殺した。
★16 高山文彦編著『少年犯罪実名報道』(文春新書、2002年、720円)参照。「新潮45」に少年の実名を載せて堺・通り魔事件ルポを書いた著者の「少年実名報道」に関する主張、ルポをめぐる民事訴訟の判決文などを掲載している。
2――報道被害の原因
ー報道被害は、なぜ起きるのか、なぜ繰り返されるのか、なぜ改められないのか。その原因を考えてみよう。そこには、メディアと犯罪報道の構造的問題がある。
(1) “有罪断定の報理”
ー第1の原因は、犯罪報道が警察・検察の捜査情報に依存して行われ、「逮捕=犯人」を確定した事実のように伝えていることにある。
ー新聞の地域版やテレビのローカルニュースで報じられる窃盗や傷害事件、交通事故などの報道は、警察発表文の丸写しに近い。殺人や誘拐事件などでは記者も現場で独自取材をするが、それも警察発表の真偽を自分の目で確かめるためではなく、捜査情報を補強する方向でしか行われない。警察が捜査を誤ると、自動的に誤報が生ずるのも当然だ。
ー日本では、記者が身柄を拘束された被疑者に面会取材できず、本人の言い分を聞けない。そのことも、警察情報を鵜呑みにした報道の要因になっている。
ーしかも、記事は「警察発表」と「独自取材」の区別が明らかにされず、「捜査当局の調べによると…」として書かれる。情報源や取材過程が読者に示されない。松本サリン事件では、各社ともに東京本社の記者が警察庁幹部から得た「毒ガス発生源は会社員宅」との情報が、あたかも現地警察の公式見解のように大きく報道され、読者・視聴者はそれを信じた。
ー被疑者逮捕は捜査・裁判の一過程であり、容疑・起訴事実も捜査段階の警察・検察の見解にすぎない。被疑者は公正な手続きに基づく公開の裁判で、法と証拠に基づいて有罪が立証され、確定するまでは無罪とみなされる。それが近代刑事訴訟法の大原則「無罪推定の法理」(★17)だ。警察情報を確定した事実のように伝える犯人視報道は、この人権原則に反した“有罪断定の報理”に基づいて行われている。
★17 1789年、フランス革命「人および市民の権利宣言」9条は、「すべての人は、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」と宣言した。また、1948年、国連総会で採択された「世界人権宣言」11条1項は、「有罪の立証があるまでは、無罪と推定される」と規定した。
(2) 犯人探しの特ダネ競争
ー第2の原因は、犯罪報道を「読者・視聴者の関心に応えるため」と称して、大々的に扱う日本のメディアの伝統的体質、そこから生まれた激しい特ダネ競争にある。特ダネ競争の中心は、犯人探し。警察が目星をつけた被疑者を他社より一刻でも早くつかんで「重要参考人浮かぶ」などと報じ、逮捕や連行の瞬間をカメラに収める。それがエスカレートし、和歌山・毒入りカレー事件や、京都・日野小事件のような「集団過熱取材」「地域取材報道被害」も生み出してきた。逮捕後も、「自白」情報や「犯行動機」を競って報じる。そうした情報を得るために、記者たちは日ごろから警察官と親しくし、幹部や捜査員の自宅を「夜討ち朝駆け」(★18)して、どんな断片的な情報でも「もらおう」とする。
ーこうして洩らされた捜査情報は、警察内部で意見の分かれるレベルの不確かなものでも、「特ダネ」として大きく扱われる。あるいは、あまり自信のもてない情報でも「他社が先に書くのでは」と疑心暗鬼に駆られ、「特オチ」(★19)を恐れて見切り発車的に報道する。
ーそうした特ダネ競争意識は、しばしば誤報を生むばかりか、捜査の方向を誤らせ、冤罪を助長する役割を果たす。また、警察による情報操作にも利用される。いわゆる「過激派」や「スパイ事件」などの公安事件では、警察が特定のメディアに「特ダネ」として意図的に情報を洩らし、それに他社が追随するように仕向けて世論を操作することが多い。
18 捜査を終えて帰宅した警察幹部や捜査員の自宅を訪ねたり出勤する捜査員を自宅前でつかまえたりし、役所では聞けない捜査情報を取材する。夜討ちは「夜回り」ともいう。
★19 他社が大きく報道しているのに自社だけ記事がない場合、デスクや担当記者は「特オチ」として社内で非難される。松本サリン事件では、「特オチ」への恐怖が、各社そろっての誤報の一因となった。
(3) 興味本位なセンセーショナリズム

ー第3の原因は、大事件や特異な事件が起きると、集中豪雨のように大量の記事で紙面を埋め尽くし、ニュース番組もその事件一色にしてしまうセンセーショナリズムにある。
まだ事件の真相がほとんどわからず、情報も断片的なものしかない初期段階での集中豪雨型報道は、事件の社会的背景を掘り下げる方向には向かわず、興味本位な方向に流れがちになる。事件を勧善懲悪的に解釈し、わかりやすくドラマ化、物語化、さらには娯楽化していく。ドラマの主役は、被害者と被疑者。被害者や遺族の悲しみを情緒的に伝える一方、被疑者=犯人を前提に、その「残虐性、凶悪性」を強調する。その過程で、被疑者、被害者とも、そのプライバシーが活字にされ、映像化される。
ーセンセーショナリズムの背景には、メディアの商業主義がある。部数競争、視聴率競争のために、事件や関係者のプライバシーを「報道商品化」していく構造だ。事件は一時的に大報道されるが、次の衝撃的な事件が起きれば忘れ去られる。事件の背景を伝え、社会全体の問題として考えていくという報道の使命は、商業主義によって無視されている。
(4) 人権意識の希薄な記者、貧しい記者教育
ー第4の原因として、記者、メディア幹部の人権意識の問題がある。記者の多くは、有名大学を卒業したエリートだ。彼/彼女らは、入社していきなり警察取材を担当させられる。入社後の研修は短期間で、専門的な刑事法や人権式の教育にまでは及んでいない。
ーこのため、警察が違法な別件逮捕や深夜に及ぶ長時間の取り調べ、脅迫的な自白強要など人権侵害の捜査をしていても、それをチェックしようという意識がもてない。それどころか、日ごろから親しくしている捜査員に心情的に近くなり、「しぶとい容疑者」「深夜に及んでやっと自供」「執念の捜査で事件解決」などと書いたりする。メディア幹部には、そうした事件報道で「特ダネ」をものにし、優秀な事件記者と認められた記者が多い。そんな幹部が後輩記者を現場で「教育」する一方、人権問題に敏感な記者は煙たがられ、取材現場から遠ざけられる。こうしたメディアの構造が、人権侵害に無頓着な記者を再生産する悪循環を生み出している。
3――救済されない報道被害
ー報道被害は、一過性の被害にとどまらず、いつまでも被害者を苦しめ続ける。その大きな原因は、メディアがなかなか誤報を訂正しないことにある。報道で奪われた名誉を回復するのに最も有効なのは、誤った報道をしたメディア自身が紙面や番組で誤報を訂正し、謝罪することだ。それでも一度失われた名誉は回復できないが、誤報の発信源がそれを認めることは、被害救済の第一歩になる。ところが、メディアはよほどのことがない限り、自主的に訂正したり、まして被害者に謝罪したりはしない。
松本サリン事件の場合、毒ガスがサリンとわかり、一市民が製造することなど不可能とわかっても、どのメディアも誤報を訂正しようとはしなかった各社が訂正したのは、河野さんがメディア訴訟の意思を示し、しかもメディア自身が「別の犯人」を報道するうえでつじつまが合わなくなったという事情が生まれてからのことだったこうした特別な事情がない限り、報道被害者は何年もの間、報道されっぱなしになる。最初から無実を訴え、1審や2審で無罪判決が出て報道の誤りが明白になっても、検察が上告すれば、最高裁で無罪が確定するまでメディア側は「裁判中」を理由に訂正しない。冤罪事件の裁判は10年も20年もかかることが多いが、その間、報道被害は救済されない。
ー無罪が確定しても、甲山事件や大分・みどり荘事件のように、ほとんどのメディアは、自ら報道を検証して誤報の責任を明らかにし、訂正・謝罪しようとはしない。また、報道被害者から名誉毀損で訴えられ、敗訴した場合ですら、なかなか謝罪しない。裁判に至らない事件の誤報も放置される。逮捕は実名で報道したのに、釈放や不起訴を報道しなかったり、報道被害者が訂正を要求しても「不起訴は灰色」と開き直ったりする。まして、「有実」の場合は、報道の一部に誤りや誇張があっても、報道被害者が「仕方がない」とあきらめ、泣き寝入りを余儀なくされる。
こうして、多くの報道被害者があきらめと沈黙に追いやられてきた。
L'expression « cirque médiatique » (issue de l'anglicisme media circus) est une métaphore qui désigne de manière péjorative un évènement médiatique considéré comme sur-médiatisé par rapport à son importance véritable, une nouvelle où la couverture médiatique est perçue comme hors de proportion, notamment par le nombre de journalistes sur place, la quantité de dépêches et d'émissions produites.
Rarement utilisé en français, on lui préférera les termes de « surmédiatisation », « battage médiatique » ou de « buzz des médias ».
Description et usage[modifier | modifier le code]
Les raisons d'être critique envers les médias sont variées. Cependant, la principale critique est qu'il y a un coût d'opportunité lorsque d'autres nouvelles plus importantes reçoivent moins d'attention du public lorsqu'un cirque médiatique détourne l'attention sur une autre affaire.
Dans la sphère anglophone, la première utilisation de l'expression, selon le dictionnaire d'anglais d'Oxford, fut publiée le 29 juin 1978 dans le Washington Post : « La princesse Grace est encore traumatisée par le souvenir du cirque médiatique de son mariage avec le Prince Rainier en 1956. »
Malgré la déontologie qui impose aux journalistes de sélectionner les informations en fonction de leur importance, dans les faits, « leur tri s'opère de plus en plus en fonction de leur potentiel de captation émotionnelle ». Le cantonnement des discours médiatiques aux seules émotions conduit à « une cacophonie relativiste où tous les événements deviennent interchangeables : attentat terroriste, exploit d'une équipe sportive (…), lancement des soldes » et a pour risque une instrumentalisation politique des émotions (voir par exemple culture de la peur) au détriment de toute tentative d’analyse réelle de la situation1.





私の受けた報道被害
           本多 勝一『週刊金曜日』 1998年 11月27日号 ”報道加害天国・日本 ”より
講談社の月刊誌 『Views』 の去年(1997年)1月号は、大特集記事 「正義を売る商店 株式会社朝日新聞社の正体」 の連載を開始し、その第一回として 「朝日にもあったリクルート汚染」 と報じた。そのまた 「第1章」 として、トップで出ているのが 「リクルートの 『接待旅行』 」 である。
  この特集記事によると、私を含む 「朝日新聞東京本社内」 の 「インフォーマルなスキーグループ」 が 「リクルートの関連会社が経営する岩手県 『安比高原スキー場』 」 で、1987年春に 「ホテル代とリフト代を支払わずに、スキーを楽しんでいた」 ことになっている。
 「インフォーマル」 もなにも、これは全く私的な家族や友人のスキー旅行であって、朝日と無関係なメンバーも加わる 「普通の」 グループである。
  ところがこの雑誌はこのスキー旅行を、かの 「リクルート事件」 と強引に関連させて、私をリクルートに 「汚染」 された記者に仕立てた(注1)。ぜひ原文を読んでいただきたいのだが、この記事はさまざまな歪曲や捏造・改竄をもとに勝手な解釈と説教をしているものの、核心は太字にして右(上述太字赤字)に引用した部分にある。
  すなわち、私はホテル代もリフト代も払わずにタダ泊りをしたタカリ記者にされた。これは記事の中でほかにも 「宿泊費とリフト代は一切支払っていない」 などと書かれ、実に五回ほどくりかえし強調されている。
  だが、これは丸ごと事実無根である。しかも、これに対する私の訂正あるいは反論の要求を講談社側がすべて拒否したので、これは意図的な 「現実の悪意」 (米連邦最高裁)と判断せざるをえなくなった。ジャーナリストにとって、この記事がどれほどひどい名誉毀損になるか、想像しがたい読者もあるかもしれない。だがマスコミならぬジャーナリズムに生きてきた者にとって、タカリ行為をしたなどということは過去の全実績を否定されるに等しい。だから私は、もしこの記事どおりであれば過去の全著作を破棄した上で筆を析る、と公言した(注2)。
  では、宿泊費についての事実はどうだったのか。このときのスキー旅行参加者は、合計で21万2160円のホテル代(リフト券も含む)を支払った。これを宿泊のべ人数で割ると、一人一泊平均1万103円になる。私個人の場合、一家三人(相棒と長女)が一室で二泊しているから合計6万618円に相当する。もちろん往復の列車代は別だ。
  一室三人(ニ食つき)でのこの値段が、もし常軌を逸した異常な安値だというならともかく、シーズンオフ(四月)で、かつ週末を避けた二泊のスキー場の場合、これより安い団体宿泊はいくらでもある。いちいち例をあげるまでもないが、疑問に思われる方は調ペていただきたい。
  (この 「現実の悪意」 記事の筆者は、リクルート関係者がリフトの 「無料券」 を渡したという言葉を引用しているが<注3>、これはリクルート側が社内経理上の処理としてやったことで、コミで支払った私たちにとっては何の関係もないことだ。)
  読者はふしぎに思われるであろう。講談社は、なぜこんな悪意をこめた大虚報・大誤報を大特集でやったのか、と。その直接的背景は、私たちのスキー旅行の翌年にあたる1988年に 「リクルート事件」 の報道が始まったところにある。未公開株譲渡による政界へのワイロは、竹下首相以下多くの閣僚を辞任に追いこむ大疑獄事件となった。この報道で終始リードしたのは 『朝日新聞』 である。そんな朝日を、当のリクルート事件がらみで足をすくうことくらい面白いことはあるまい。
  そこへ、私たちの安比スキー旅行にまつわるガセネタ(虚偽・デマ)をふりまいた朝日社内の 「X氏」 らが存在し、それにひっかかった(または利用した)のが講談社側という構図になる。しかも、このスキー旅行には 「偶然だが、お喋りな連中が面白おかしい話を仕立て上げるのに誂えむきな道具立てがそろっていた」 と、自著 『書かれたらそれまでよ日誌』 (注4)で疋田桂一郎氏が書いている。
  その道具立てのひとつは、疋田氏自身である。 『朝日新聞』 で数々の名記事・名ルポを書き、 「天声人語」 の著者でもあった。その 「有名な」 大記者を含め元社会部長や私などがこのスキー旅行にいたことが、話題性の点で 「道具」 のひとつにされた。
  しかし、いくつかの 「道具立て」 のうち最大のそれは、リクルー卜社長(当時)の江副浩正氏との会食であろう。一泊目の夕食が別室に用意され、それはもちろん普通の夕食(宿泊代の一部)よりも上等だった。このサービスは、私の聞いたかぎりではリクルートコスモス幹部のM氏が 「妻がいつもお世話になっているから」 と設営したのであって、その 「妻」 とは、私たちのスキー仲間たる学芸部のM記者である。そこへ、週末でスキーに来ていた江副社長が出席した。この会食に対しては、のちに私たちが行きつけの居酒屋に江副氏やM氏を招いてお返しをしている。
  すなわち、もともと私たちの仲間たるM記者の夫が、たまたまリクルートの幹部だった。その設営する会食を拒否する理由はない。一種 「ありがた迷惑」 ではあれ、受けざるをえないのが、日本のみならず世界の常識であろう。しかもリクルート事件報道以前のことだ。皆さんの属するグループの仲間の夫から、 「妻が世話になっているから」 と別室に招かれたとき(しかも普通の夕食代は払っているとき)拒否するのが常識ですか。
  こうした 「道具立て」 を、前述のような事実無根の 「現実の悪意」 でまぷした上で、私はタカリ記者・リクルート汚染記者に仕立てられた。
  だが、問題は捏造記事のあとにある。驚いて反論掲載なり訂正なりを求めた私たちに対し、講談社側は徹底的に拒否したのだ。講談社を一定レベル以上のジャーナリズム出版社とみなして正面から対応した私にとって、この悪意丸出しの態度は改めて日本のマスコミや報道被害を根底から問いなおすきっかけになった。つきつめていくと、日本の報道加害が先進国に比べてほとんど無法状態であること、それによる名誉毀損が救済されない社会であること、損害賠償額が安すぎるので無法マスコミの天国であること、などが浮かぴ上ってくる。私は 『Views』 を含めて、この虚報ライターから一度たりとも取材を受けないままに、それ以後も 『現代』 や 『創』 や 『噂の眞相』 で一方的に虚偽・デマを書かれつづけている。
  今や日本社会の重大な病根の一つたるこのテーマは、一報道被害者としてのみならず、ジャーナリストとしても今後の私の追及課題のひとつとなった。この病根は、マスコミや司法を含めた巨大利権集団にからんでい


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