日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

中ソ関係・友好から対立へSino-Soviet Alliance=Conflict・全面戦争への危機+The Russian Revolution and Chinese Communism

内戦の勝利と中華人民共和国の誕生:
ー1949年10月1日、北京の天安門広場には熱狂的に雲集した群衆たちにより活気に満ちあふれていた。毛沢東は他のなだたる指導者たちと天安門の壇上にたち、中華人民共和国の樹立を宣言する。同時に国歌「義勇軍行進曲」が奏でられ、大砲が轟き社会主義新中国の誕生を祝福した。
スターリンと毛沢東:
ー西側資本主義国がスターリンの敗退(ベルリン封鎖の失敗(注)で活力と自信を取り戻しているとき、東で共産主義が勝利したのだ。
ースターリンはこの期に及んでも毛沢東に国民党と和平を結ぶよう勧告していた。中共軍の全面的総攻撃開始の計画をきいたとき、不快をあらわし反対したりもした。スターリンは彼の命令なしに自己の道を歩もうとする革命に対してはすべて猜疑心を抱き不信の念を隠さなかった。
ースターリンは自分の指示に従わないユーゴのチトー(元ソ連亡命組+熱烈なスターリン崇拝者だった)政権を破門し、国交を断絶する。このときに北京でははるかに強大で危険な異端が頂点を極めた。スターリンの妨害にも関わらず毛沢東率いる共産党が政権を獲得したのだ。
ーそして抗日戦争から国共内戦にいたるまでの長い年月、毛沢東の軍隊はソビエトの援助を一度たりとも受けたことがなかった(これに関しては近年、新事実が判明し異論も紛糾しています)。さらに対日参戦し満州から朝鮮を瞬く間に席巻したソ連軍は中国東北部(日本は旧満州と北朝鮮を「重工業」地帯にしていた)を「征服国」のごとく扱い。「戦利品」として工場設備や各種社会施設だけでなく鉄道、線路なども解体して持ち去った。また「旅順」「大連」港を事実上’租界地’とし権益にとどめてしまう。
ー50年にモスクワを訪問した毛沢東とスターリンの会談は、そのように確執と火種にあふれ交渉は難航した。周恩来が到着してようやく「中ソ友好条約」が連結され、ソ連は軍事・経済援助とともに旅順、大連と戦利品の返還を約束した。
ーまたスターリンは48年にモスクワを訪れたユーゴ代表団に「われわれもまちがいをおかした。われわれは中国の反乱がみこみがないこと、中国の同志が蒋介石との共存を求め、蒋の国民党政権に参加して共産軍を解体すべきであることを率直に述べた・・・かれらは今みる通り、蒋介石軍を攻撃しつつある。つまり、われわれは中国についてはまちがっていたことが証明された」と語ったらしい。
ーくわえて中国外務省ソ連東欧局長として50年の中ソ交渉に関わった通訳の伍修権によれば、革命の勝利が間近に迫った49年7月に劉少奇が建国問題を話し合うためにモスクワに行ったとき、スターリンは「われわれは(中国革命に)干渉しすぎた。諸君を妨げたことについて遺憾である」と述べたという。
ーだが中国革命の勝利後も、スターリンは中国への不安や不信を持ち続けていた。それがぬぐわれるのは、中国が朝鮮戦争に参戦してからである。毛沢東は49年7月1日、有名な「人民民主主義独裁について」と題する演説の中で、新中国がソ連陣営にくみすることをはっきりと宣言した。
ー毛は「「きみたちは一方にかたよっている」まったくそのとおりだ・・・中国人民は帝国主義の側にかたよるか、社会主義の側にかたよるかのどっちかであり、絶対に例外はない。ふたまたをかけてはだめで、第三の道はない」と宣言する。(注)ベルリン封鎖(ベルリンふうさ、ドイツ語: Berlin Blockade)は、第二次世界大戦終結後の1948年6月、ソビエト連邦政府が西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件である。冷戦初期を象徴する出来事である・・・封鎖解除=空輸作戦の成功が明白となり、さすがのソ連もベルリン封鎖の失敗を認めざるを得なくなった。こうして1949年5月12日に封鎖は解除された。ドイツでは、この空輸作戦を称し「ベルリンへの空の架け橋」(Berliner Luftbrücke) といった。テンペルホーフ空港の脇には「空の架け橋広場」(Platz der Luftbrücke) が造られ、空輸作戦の記念碑が建てられている。これと同様の記念碑は、輸送機の出発地となったラインマインにも造られた。封鎖解除後も空輸作戦は西ベルリン市民の生活の安定のためにしばらく続けられ、公式には1949年9月30日に終了した。1948年6月26日からの総飛行回数は278,228回、空輸物資量は2,326,406 tに達した。空輸作戦で航空機の飛行した距離の総合計は、地球から太陽まで届くほどにもなった。+ドイツ語→Als Berlin-Blockade (Erste Berlin-Krise) wird die Blockade West-Berlins durch die Sowjetunion vom 24. Juni 1948 bis 12. Mai 1949 bezeichnet.[1] Als Folge dieser Blockade konnten die Westalliierten West-Berlin, das als Enklave in der Sowjetischen Besatzungszone (SBZ) lag, nicht mehr über die Land- und Wasserverbindungen versorgen. Die Blockade war Druckmittel der sowjetischen Seite mit dem Ziel, über West-Berlin schließlich Deutschland in das eigene wirtschaftliche und politische System einzuordnen,[2][3][4] entsprach einer Monate zuvor entwickelten Strategie der sowjetischen Seite und kann als „erste Schlacht des Kalten Krieges“ verstanden werdenロシア語⇒Блокада Западного Берлина, также в советской историографии Первый Берлинский кризис (24 июня 1948[1] — 11 мая 1949) — блокада Советским Союзом железнодорожных и автомобильных путей западных союзников в западные секторы Берлина, находящиеся под их контролем. Один из первых кризисов холодной войны.
蜜月と友好の時代:
1950年から「ソ連に学べ」をスローガンに、あらゆる分野でソ連のものが導入された。人民政治協商会議で毛沢東は、
「ソ連に学ばなければならない。われわれは偉大な国家建設を進めなければならない。われわれの当面の仕事は苦しく。経験はたりない。真剣にソ連の進んだ経験を学ばなければいけない・・・全国でソ連に学ぶキャンペーンを起して国家を建設しなければならない」。と延べ続けて中共中央が「幹部理論教育についての指示」を出し、ソ連、スターリンの社会主義理論の学習を幹部党員に義務づけた。

向ソ一辺倒の新中国:
冷戦が構造化するなかで生まれた新中国の外交の基本は「向ソ一辺倒」であり、当然、対日関係もその枠内にあった。建国直前の1949年7月、共産党ナンバー2の劉少奇が訪ソした。劉少奇・スターリン間で、国際共産主義運動についてはある種の分業の約束ができ、中国は日本も含むアジアでの解放闘争を積極的に支援することとなった。各地で武装闘争が巻き起こり、それを支援した中国と現地のアジア諸国政府とは当然きびしく敵対した。
ー毛沢東が訪ソして1950年2月に結ばれた中ソ友好同盟相互援助条約第一条では、「日本および日本と結託するその他の国」が敵国として想定されていた。もちろん主要敵は実は「日本と結託する」米国である。
ー当時毛沢東をはじめ中国のリーダーには、戦後の平和がいつまで続くかわからないという不安と脅威感が強かった。1949年12月、毛沢東と会見したスターリンが「日本はまだ自力で立てず、米国も戦争を恐れているから、当面の脅威はない。誰も中国と戦おうとは考えていない。まさか金日成が中国に侵攻するわけでもあるまい」と毛沢東をなだめているのが興味深い。半年後、その金日成が発動した朝鮮の内戦で米中対決が決定的になった(毛里和子「日中関係」岩波新書・2004年)
朝鮮戦争(1950-1953年)・政治・軍事観点から
ーまず戦後の朝鮮半島。南はアメリカの直轄軍政に置かれていた(しかしアメリカは朝鮮のことなどまったく無知で。関心も薄かった)。そしておしるし程度しか軍事援助を与えず韓国軍は惰弱であった(李承晩の蛮勇を憂慮し、強力な軍隊を持たせれば「北進統一」(李のスローガン)侵攻にのりだしかねないと危惧)。一方、北はふんだんにソ連軍が各種兵器を残しさらに軍事援助を惜しまず強力な「人民軍」(北朝鮮軍はこう呼ばれる)が鍛えあげられていた(+追加資料(ウィキぺディア)⇒信託統治=朝鮮半島(旧日本領)。1945年の終戦後実施されたモスクワ三国外相会議で出された声明において、アメリカ・ソ連・イギリス・中国で分割の上最長5年間の信託統治を行うことが適当であるとされた。ところが、歪曲報道が行われたこともあり現地住民が信託統治に猛烈に反対。信託統治の形に拠らないアメリカ・ソ連による分割占領が行われることとなった。1948年、アメリカ占領地は大韓民国として、ソ連占領地は朝鮮民主主義人民共和国として事実上分離独立した)。
ーそしてソ連は独ソ戦に勝利したとはいえ、多大な犠牲を払い国土も民衆も憔悴し疲弊しきっていた。だから新たな戦争は望んでいなかったことは確かだ。また中国もおなじである。対日戦は「惨勝」に過ぎず(日本を占領したわけでもなく。ただ追いだしただけ)。しかし戦後の「冷戦構造」は「平和」を許さず新たな戦争がはじまってしまう(以下ウィキぺディア「朝鮮戦争」より↓)
金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請したが、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と答えてきた。当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていた。
ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めていた。毛沢東主席と数名の最高幹部は参戦を主張していたが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。
1.中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
2.長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
3.1949年10月1日の中華人民共和国建国後も、「大陸反攻」を唱える中国国民党の蒋介石総統による「台湾国民政府」の支配下に置かれた台湾の「解放」や、チベットの「解放」など、「国内問題」の解決を優先すべき
しかし、10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を特使の朴憲永から受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦を決意した。 アメリカとの全面衝突を防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することとした。「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の総司令官は第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員林彪の予定であったが、林彪は病気を理由に辞退し、代わりに彭徳懐が総司令官に指名された

ー50年6月25日の早朝、北朝鮮軍の奇襲により戦端が開かれた(金日成の提唱「南朝鮮の解放」)。ソ連製の各種兵器で武装された圧倒的な軍事力で快進撃。たちまち韓国軍と少数のアメリカ軍を半島南端東部。釜山周辺の狭い地域に追いつめ。このまま金日成政権による統一がなされるかに思われた。
ーここでアメリカが軍事介入。国連決議で「北朝鮮」を’侵略国’と規定。安保理事の一国(米英仏ソ中の5カ国からなる)であるソ連(中華人民共和国が承認されないのに抗議。ボイコット=欠席中)は「拒否権」を発動せず「棄権」した。マッカーサーは仁川上陸作戦を敢行し伸びきった人民軍の補給・兵站線の真っ只中に突入する。分断された北朝鮮軍は算を乱して敗走。ここで中国の周恩来首相はスイス(中立国)公使を通じて「アメリカ帝国主義による新たなアジア侵略」と非難し「韓国軍だけが38度線を越えるなら介入しないが、国連軍(アメリカ軍)が北上してきた場合は介入せずにはいられない」と声明を発する。
ー50年10月25日小規模な遭遇戦があったが(第一次戦役)、マッカーサーは中国の軍事介入を過小評価し、38度線を越えたちまち中朝国境まで進撃してきた。中国は人民志願軍を派遣して朝鮮戦争に参戦した。人民志願軍とはいえ、実際には正規軍であった。参戦理由は、北朝鮮の金日成政権の瓦解を阻止すること、および国連軍が中朝国境の鴨緑江にまで迫り中国の安全が脅かされたことであった。中国軍はこの戦争を毛沢東の人民戦争論で戦った。
ーマッカーサーは楽観視し11月24日、戦争を終結させ「クリスマスを米本土で」という見通しの下にさらに攻撃を続ける。朝鮮の北部山岳地帯に潜んでいた中国軍部隊は夜陰に乗じて国連軍の間隙をぬって背後に進出し、国連軍を包囲分断した。
ーしかし朝鮮人民軍がソ連の重火器の援護の下で、T-34戦車を先頭に南下したのに対し、中国軍は国共内戦で国府軍から捕獲した米国製兵器から旧日本軍の火器にいたるまで多種多様の旧式火器で武装していたにすぎなかった。けれども国連軍は総崩れとなって、38度線にまで押し戻された。マッカーサーは「われわれは、全く新しい戦争に直面している」とのべた(第二次戦役+ここでマッカーサーは原爆の使用を主張。結局、当初は合意していたトルーマンにより罷免された=後任司令官はリッジウェイ大将)。
ー総崩れとなって撤退する国連軍に再編の余裕を与えることなく殲滅する目的で、中国軍は12月31日攻撃を再開して38度線を突破し南進した(第三次戦役・ここからソ連の大々的な軍事援助がはじまる。当時最新鋭のジェット戦闘機ミグー15はじめ戦車、重火器など大量に享受した。ただしこれは「無償」ではなく後の「対立」にも影響する)。
ー51年1月4日にはソウルを占領。国連軍は37度線まで撤退し、韓国の三分の一が失われる。毛沢東の人民戦争戦略・戦術の正しさは再び証明された。このまま国連軍を海に追い落とし中国主導の下に朝鮮半島の統一を実現できるかにみえた。
ーしかし退却した国連軍は中国軍の補給線が長くのび継戦能力の限界が現れたところをみきわめて反攻に転じ、3月15日ソウルを奪還。38度線以北に中国軍を押し返した(第四次戦役)。4月22日中国軍は攻撃を開始し、国連軍を38度線南方に圧迫する。中国軍はさらに5月15日再度総攻撃をしかけたが、国連軍は猛烈な砲爆撃でこの攻勢を食い止め、4月下旬には中国軍を再び38度線以北へ押し返した(第五次戦役)。
ー第四次、第五次戦役で中国軍は米軍の近代的軍事力をはじめて経験した。歩兵・戦車・砲兵・空軍の間の協力は驚くほど緊密であった。また広範囲にわたって重火器を使用したのみならず、軽自動火器・ロケット砲・無反動砲もよく調整して配備されていた。航空機・戦車はもとより、重砲による支援もなく、迫撃砲の援護だけで人海戦術を繰り返す中国軍の戦法は、回を重ねるとともに国連軍に理解されるようになった。
ー国連軍は中国軍の攻撃に対して、周到に注意深く選定した防衛陣地に撤退し、敵の攻撃が停止したら後続・増援部隊がこないうちに攻撃する作戦を繰り返す。第五次戦役以後戦線はほぼ現在の軍事境界線に沿って膠着。最新科学の成果を投入した米軍の物量作戦に中国軍が対抗できたのは、人海戦術により軍事境界線に沿って構築された地下陣地であった。戦争の後半中国軍はこの陣地によって戦線を膠着させ、戦術的反撃作戦を行い、国連軍との間に一進一退の死闘を続けた。それによって1951年7月にはじまった停戦交渉で中国側が国連軍側に対等に交渉することを可能にした。停戦は53年7月27日に実現された。
ー戦争に投入された中国軍の総兵力について中国側は発表していない。約30個軍が参戦し、その兵力は述べ500万人とみられている。兵力がピークに達した1951年から52年にかけては、100万人の中国兵が北朝鮮の山や野を埋め尽くした。中国軍は休戦が実現した翌年の9月から撤退をはじめ、58年10月に完了した。総数は50万人であったから、停戦時点にこれだけの中国軍がいたことになる。
ーこの戦争の過程で、中国軍はソ連の援助を受け近代的な兵器を装備した軍隊に急速に成長したが、他方、中国軍はこの戦争において米軍の圧倒的な火力と航空戦力を経験した。この戦争は、それまで戦って必ず勝ってきた彼等の作戦がほとんど役に立たないことを教えた。中国はソ連の軍事技術だけでなく士官学校や将校育成制度なども導入。国防相彭徳懐の主導で人民解放軍を近代的「正規軍」「国防軍」へ徹底的に改善する試みがはじまる。しかし「大躍進政策」の大失敗からはじまる権力闘争(「反右派闘争」「走資派」)そして「文化大革命」により階級制度も廃止され、中国軍は元の「毛沢東の軍隊」に戻ってしまった。*参考文献:「中国人民解放軍」(平松茂雄・岩波新書)
ソ連に学べ:ソ連の援助
ー第一次五ヵ年計画期(1953-57年)から60年代はじめにかけて、中国は社会主義建設の進め方の面でも、物質面でもソ連からたくさんのものを得た。中国にとってただひとつの、そして頼りになる大先輩だったのである。
ーだが「ソ連に学べ」キャンペーンは次のような行き過ぎさえ生んだ。ソ連のものはなんでもいれようという教条主義を、58年3月になって毛沢東はこう皮肉っている、
「教条主義はとくに重工業および計画化の面にあらわれた。われわれにはよくわからないし、経験もまったくなく、よそのものをもちこむほかはかった。統計作業はほとんどソ連のものをひきうつした・・・衛生面もそうである。おかげで私は3年間たまごが食べられなかったし、にわとりのスープが飲めなかった。ソ連でたまごとにわとりのスープを摂ってはいけないと書いた論文がでたからである。あとになって摂ってもいいといわれた。論文の内容が正しかろうが、正しくなかろうが、中国人はなんでもソ連のいうことを聞き、それを守ったのだ」(毛沢東思想万歳)。
ーしかし中国の第一次五ヵ年計画は、ソ連と切ってもきれない関係がある。全体のプロジェクトのうち三分の一がソ連からの全面援助ででき、また重工業中心の発展戦略や、計画や物資配給制度もソ連のものをそのままもってきたからである。
スターリンの死と対決へ:
1953年、独裁者スターリンは死んだ。後継者抗争をへて後任者にはフルシチョフが就いた。56年、有名な「スターリン批判」を行い世界に衝撃を与えた。スターリンを「暴君」として神格の座から引きづりおろしたのだ。
ー毛沢東はこのフルシチョフの「白黒論」に反対し、スターリンの功績を「7分善3分悪」(中国古来の「中庸」(公正)にマルクス主義を結合させた考え)で批判した。むろんスターリンに類似点が多い「独裁者」である毛が自分の地位への波及を案じての一面があったのも否定できない。ともあれ「スターリン主義」の評価と「イデオロギー的」な相違が生まれた。これが友好から対決への序曲となる。

フルシチョフとソ連の戦略的展望:
ーフルシチョフは29年の独裁支配の間、2度しか国外に出なかったスターリン(43年のイラン・テヘラン会談と45年のドイツ・ポツダムのみ)とちがい11年の統治時代、アメリカも含め「56回」(来日はせず)も世界各国へおもむいた。積極的に外から「学ぼう」という姿勢があったのも間違いない。
ーそれに平行して57年後半から、新戦略としてアメリカとの平和共存をめざして精力的に動きはじめた。ソ連の軍事的優位と同盟国との関係を強めるため55年には「ワルシャワ条約機構」を樹立。さらに57年8月、アメリカに先駆けて大陸間弾道弾(ICBM)実験及び10月には世界最初の人工衛星打ち上げを成功させる。
ー自信をつけたフルシチョフに対して毛沢東も「東風が西風を圧する」と喜び、一連の「新技術」の成果と優位をアメリカへの強みとして利用することをフルシチョフに薦めた。
ー57年8月には「国防新技術協定」が結ばれ。ソ連政府は中国へ原子力工業、そして核兵器開発のため原爆のサンプルと技術提供を約束した。しかし一方で「原爆がおとされても中国人の半分は生き残る」といった発言が「雪解け」「平和外交」を目差していたフルシチョフを刺激したといわれる。結局ソ連は「核開発」には協力しなかった。
ーともあれソ連は中国との集団安全保障体制をさぐり、中国は自国の軍事力強化を急ぎソ連の援助をもとめた。55年のワルシャワ条約機構会議に参加した当時の国防大臣彭徳懐にフルシチョフは
「ワルシャワ条約機構ヨーロッパだけでなく、アジアに対してのものでもある。どんな方式で中国とワルシャワ条約を結びつけるかを考えてほしい。中ソ間には同盟条約があり、いったん事があればそれを実行してもいいし、それとワルシャワ条約を結びつけてもいいし、同盟条約を発展させることを考えてもよい」と期待を述べたという。けれども彭徳懐は、中国はまだ台湾を解放していないし、朝鮮情勢も不安定でアメリカの脅威にさらされているから、同盟条約の強化よりも、中国の海軍・空軍の増強、とくに先端技術面で援助してほしい、と頼んだ。
援助打ち切り・技術者総引き揚げ:
ーソ連が提唱した「集団防衛体制」(中国内にソ連の軍事基地も提供)を中国は拒否した。さまざな軋轢が生まれ。方針にも食い違いが顕著になってくる。58年頃から毛沢東は、ソ連モデルとはちがう中国式の社会主義戦略をさぐり、対ソ自立を目論みはじめていた。
ー亀裂が決定的となったのは59年6月、ソ連は突然「国防新技術についての協定」を破棄し中国の原爆開発への技術資材提供を拒否した。同年、フルシチョフは北京を訪問したがこれが最後になる。両国の関係は冷え切っていた。
ー1960年、フルシチョフは「中ソ同盟条約」を反故にする。軍事・経済援助を全面的に停止し、中国で仕事をしていたソ連人専門家、技術者や軍事顧問団1390人の総引き揚げを決行する。つづいて343の契約書と補充書を破棄し、257項目の科学技術協力項目を廃止し、貿易でも中国に制限と差別政策をとった。
ーこれにより建設中途の工業プロジェクトや施設はすべて中断され。軍事面でも新兵器の開発はおろか部品の交換さえできなくなる。「同盟」は表向きだけとなり事実上の「国交断絶」時代を迎える。論争から対決の時代へ入っていく。
64年のフルシチョフ失脚とソ連新指導部:
ー皮肉にもフルシチョフが追放されたその日、中国は独自の力で「原爆実験」に成功した。そしてソ連の新指導部に関係改善の兆しを認め。交渉をはじめる。しかしこれは画餅に帰する。
ー64年11月7日、モスクワ・クレムリン宮殿での革命記念日リセプションに招待された代表は周恩来と賀竜であった。通訳の伍修権によればマリノフスキー国防相が賀竜に「われわれはフルシチョフをおっぱらった。あなた方もわれわれにならってそろそろ毛沢東を引きずりおろしたらどうだろうか。そうすればわれわれはうまくいくのに」と発言。賀竜は「あなた方の党とわが党は事情がまったくちがう」と抗議した。周恩来はブレジネフに直接発言の撤回を求める。ブレジネフは「酒のうえのことだから忘れるように」とお茶をにごしたが中国側は納得せず。結局ブレジネフが謝ってことなきをえたが。肝心の「友好回復」は失敗に終わったことになる。その後、「文化大革命」により両国の緊張は高まり69年の軍事衝突から全面戦争への危機すら生じるまで悪化した。89年のゴルバチョフ・鄧小平会談まで国交正常化は持ち越す。

69年・軍事衝突・国境紛争:
ー中ソ国境は全長約7500キロメートルに達する。この長い国境線には、黒竜江(アムール河)・ウスリー江および新彊の各地に未画定な箇所が多数ある。中ソ関係が友好的な時代には国境問題は表面化しなかったが、1960年代に入り中ソ対立が激化するとともに小規模な紛争がしばしば起きるようになった。
ー1969年3月2日、ウスリー江にある珍宝島(ダマンスキー島)に中国国境守備隊一個大隊が進出した。調査に訪れた一個小隊のソ連国境警備隊は奇襲攻撃され、不意を突かれたソ連軍が敗退するという事件が起きた。ソ連側は計画的な待ち伏せと非難し、ブレジネフは断固たる処置を下命する。
ー3月15日、中国軍の連隊規模の歩兵とこれを支援する砲兵・迫撃砲などの部隊が、ソ連軍のワナにはまって珍宝島に進出し、ソ連軍の圧倒的な火力戦法の洗礼を受けた。ロケット砲による連射は中国領内7キロ以上の範囲にわたり猛烈な勢いで撃ち込まれた。ソ連側の60人に対し、中国側は1000人近くを失った。
ー軍事衝突は7月8日、黒竜江の八盆島(ゴルジスキー島)でも起きたが、ソ連軍の近代的軍事力は8月西部国境の新彊で十分に示された。8月13日新彊ウイグル自治区裕民県のテレチクチクで、ヘリコプター2機と戦車、装甲車数十台および武装部隊数百人からなるソ連軍と自動小銃・機関銃・迫撃砲しかもたない中国国境守備隊が戦闘をまじえ、中国軍の完敗に終わる。
ー事件後の9月19日、ソ連共産党機関紙「プラウダ」はノモンハン事件30周年を記念する論文を掲載し「ノモンハンの戦闘で日本軍がソ連軍により敗走させられた事実は、ソ連に対し悪意と憎悪に満ちた乱暴な攻撃を仕掛けてきた毛沢東主義の冒険者たちに対する警告である」と書いた。
ー3月15日の第二次珍宝島事件でソ連軍の近代的火力を経験した中国軍は、新彊では同軍の装甲機動力を経験した。この一連の国境紛争による軍事衝突は国防相林彪を先頭とする中国軍の指導者たちに、毛沢東の人民戦争論ではソ連軍と戦えないこと、ソ連軍と戦うためには中国軍を近代的な軍隊に徹底的に改造しなければならないことを認識させた。これが71年の「林彪事件」を発生させたともいわれている(毛沢東暗殺を頂点としたクーデター未遂・まだ真相は謎に包まれたまま・林彪は発覚後ソ連に逃亡を試みたがトライデント機がモンゴルのウンデルハンに墜落し死亡)。
「全面戦争」への準備:
ーもはや余談は許されない。とくに68年、ソ連軍がチェコスロバキア「プラハの春」弾圧のため軍事介入したのを弾劾した中国指導部。ソ連を「社会帝国主義」(社会主義を名乗った侵略帝国)と酷評しつづいて一連の軍事衝突で全面戦争の脅威は現実になりつつあった。
ー危うく69年のホーチミンベトナム主席の葬儀に参列したコスイギン首相が北京に立ち寄り、周恩来首相と会談。表面的には一応和解したとされた。しかし中国側は第二次大戦中のソ連の戦術(奥地への軍事設備・工場・施設疎開)に学び、「核戦争」に備えた(1994年、それらの「核シェルター」は「クラブ」(ディスコ)に変わってるという記事をニューヨークタイムスで読み感慨が深かったものです(苦笑)。
失効した同盟条約:
ー1976年は新中国の元勲たちが相次いで世を去った。1月に周恩来、7月に朱徳そして9月に毛沢東が死んだ。66年にきっておとされた「文化大革命」の混乱は極地に達し、終焉を迎える。毛沢東夫人江青はじめいわゆる「四人組」が一ヵ月後に逮捕された。後継者とみなされていた華 国鋒が軍の長老葉剣英を動かし先手をとったのだ。
ーしかし新指導部は後に鄧小平に「すべて派」(毛沢東のいうことはすべて正しい)と酷評され、華 国鋒は文化大革命の継続を宣言。けれど鄧小平は76年中に流刑地から中央に戻っていた。
ー1979年、ソ連と中国の関係は再び、暗雲が立ち込める。中ソ同盟条約延長を中国側が断念したところからはじまる。72年のニクソン訪中、76年の日中国交正常化により「ソ連封じ込め」外交戦略が展開されていた。「条約」は50年2月14日ににモスクワで調印され、4月11日に批准されたがすでに「紙の上」だけの存在になっていたのはすでに触れた。条約は30年期限、一年前にどちらか一方が申し入れないかぎり自動的に更新される前提だった。中国新指導部は条約を終了させた。
ブレジネフ政権末期の中ソ交渉:
ーけれど「無条約」状態になりながらも中国は関係改善をよびかける。両者とも「対立」は本意ではなく「利害は一致」するはずだった。ソ連側も中ソ会談開催に関しグロムイコ外相が合意の一報を送る。79年9月27日より中ソ交渉がモスクワで始まった。
ーところがソ連軍のアフガニスタンへの軍事介入がこの交渉に終止符を打ってしまう。中国はソ連の「覇権主義」を弾劾し、関係修復への見通しは白紙に化してしまった。
ーさらなる悪化が危惧された中ソ関係がもう一度動き出したのは82年3月24日のブレジネフ書記長によるタシケント演説からである。ブレジネフは中国が社会主義であることを改めて確認し、台湾に対する中国の主権を自明するとともに「存在する国境問題についての交渉をいつでも継続する用意があり」また「すべての前提条件なしに、相互利益の尊重、内政不干渉、互恵にもとづいて、また第三国に損失を与えることなしに、ソ中関係の改善についての措置を取り決める用意がある」と声明をだした。
ーこれを受けて中国側も同年9月の党大会で胡耀邦総書記は「ソ連の指導者がたびたび中国との関係を改善したいと表明していることに留意している」とはじめ「重要なのは言葉ではなく、行動である。もしソ連当局が中国との関係を改善したいという誠意をもち、わが国への脅威をとり除く実際的措置をとるなら、中ソ両国の関係は正常化に向かう可能性がある」と発言。さらに近代化の目標、工農生産額の「四倍増」を具体的に提起。つづけて西側にかたよっていた外交政策を「自主独立」と「全方位」に軌道修正することを発表する。
ーちょうどアメリカではタカ派のレーガンが大統領となり親台湾政策で肩入れをしだしたので、中米関係にも悪影響を及ぼしていた。
ゴルバチョフの登場と新思考外交:
また明日にでも☆
ソ連革命と中国革命:ドイッチャーの見解
ドイッチャーはこうはじめる「中国革命は、ある意味では、ロシア革命の子どもである。こういうと、一部の中国学者たちは激しく反対することをわたくしはしっている・・・それらが生まれてきた社会の諸条件のうちに、一番深い根をもっていることはあきらかである。このことは強調する必要がある。ことに最近まで西側では、中国共産主義を、なにかしらロシアの傀儡といったものとしてあつかう習慣にはっていたのでなおさらそうである」
「・・・中国に対するロシア革命の影響は、ロシア革命にたいする西ヨーロッパの影響よりも、比較にならないほどいっそう直接で、より強力であった。ロシア革命は、中国革命が行き詰まっているときに勝利した。中国人が1911年に満州王朝を打倒したとき、かれらはかれらの民族問題を、純ブルジョア革命によって解決しようと企てた。その企ては失敗した。中国は共和国を宣言した。しかし、社会的、政治的大問題は未解決のままのこされた。問題はまもなく悪化した。中国は諸外国への依存に、ますます深く踏み込んでいった。軍閥と買弁は、国をばらばらに引き裂いた。貧困で、抑圧されていた農民は、かれらの生活条件を変えたり、改善したりすることができるチャンスはすこしもなかった。純ブルジョア革命は、その無力を実証した。その指導者たる孫逸仙(孫文)ほど、このことを意識していたものはなかった」(ドイッチャー・ロシア革命五十年)
カラハン宣言の衝撃:
1919年7月外務次官カラハン(後にスターリンにより処刑された)次のような声明を公表する(カラハン宣言)。
「ソビエト政府は、中国満州その他の地方から奪い取ったツアー政府の行ったすべての侵略を否認する・・・ソビエト政府は、東支鉄道、鉱山、山林、金についての利権、およびその他の利権の一切いかなる代償もなしに中国人民に返還するものである・・・ソビエト政府は1900年の義和団暴動の賠償金を中国から受け取ることを拒否する」。
この布告は中国だけでなく全世界の植民地支配にあえいでいる民衆に画期的な希望を与えた。中国の全国各界連合会は
「ただいま、ロシア労農政府の通告に接し、喜びにたえません。・・・ロシアの通告を読むと、正義人道にかなった主張がよく言葉の上に現れております。およそ世界の人民で正義人道を愛するものなら、賛成しないわけにはまいりません。われわれはまた中国人民が一部の頑迷な官僚や軍人以外、すべてのロシア人民と手をにぎることを願っていると確信しております」とモスクワに祝辞の電報を送った。残念ながらこの宣言はすぐに反故になってしまう。レーニンは病み、スターリン主義は「一国社会主義」「ソビエトの権益第一」に政策を転換してしまったのだ。
ドイッチャーはこう論ずる
「それまでマルクス主義は、中国ではほとんどなんの影響力ももっていなかった。フェビアン的、メソジスト的社会主義の、ばらばらの思想がすこしばかり、上海、広東、北京のインテリゲンチャのところへちょろちょろつたわってきていた。しかし「共産党宣言」は、最初に発表されてから73年後の1921年になって、はじめて中国語であらわれた。先進工業諸国の階級闘争に専心していた西欧マルクス主義は、半植民地的農民国の急進的インテリゲンチアの琴線にはほとんど触れなかった。中国人がかれらのマルクス主義をうけいれたのは、ロシア人からであり、ロシア版によってであった。E・H・カー氏が氏の大「ソ連史」で指摘しているように、東洋の諸国民にすぐあてはまるマルクス主義的行動綱領を、歴史上はじめて定式化したのはレーニンであった、かれは、農民の問題に対するナロードニキ的感受性をもっていたのと、反帝国主義の重要性を完全に独創的理解していたため、そうすることができたのである」。
ロシア革命の衝撃:初期の指導者たち
19世紀半ばから20世紀のはじめまでのロシアと中国は、紛争と策略、そして侵略にいろどられていたが、ロシア革命はそうした関係を一変させた。陳独秀や毛沢東といっしょに1921年に中国共産党を創設した李大釗(27年、北京のソ連大使館に突入した北洋軍閥の張作霖軍によって捕えられ、処刑された)は、いち早くロシア革命にひきつけられた一人である。かれは、1918年に「フランス革命とロシア革命の比較論」「ボルシェビズムの勝利」を書いて10月革命の世界史的意味を中国の知識人に訴えた。かれはいう。「フランス革命はたんにフランス人の人心が変わった現れであるばかりでなく、19世紀の世界人類の普遍的心理が変わったことを示した。1917年のロシア革命は、たんにロシア人心の変化のきざしであるだけではない。じつに20世紀世界人類の心のなかにめざめた共通の精神である」(「ボルシェビズムの勝利」)。
ーロシア革命後、いち早くモスクワに行き、新しいロシア事情を伝えたのは文学者贔秋白である。かれは「申報」の記者として1921年から24年にかけてモスクワに滞在し、「飢えた郷紀行ー新ロシア遊記」「赤都心史」を書いた。「飢えざる郷から飢えた郷へ」の旅の中で「中国とロシア両国人民の接近は、日本人およびその他のヨーロッパ人が中国をムチで追い立てるのと比べて、確かにうまくいっている」とそのときの心情を故国に書き送っている。
ー李大釗も贔秋白も20年代に中国革命のリーダーになった、彼らはロシアに革命のふるさと、心のふるさとを描いた。ただ、きわめて観念的ではあったが。そして袴田茂樹氏によればソビエト・ロシアの指導者の中国、中国人にたいする認識について「’中国を知らなかった’ことにおいては、レーニンもトロツキーもスターリンも変わりはなかった・・・ソビエト人にとって、中国の特殊性は、もっぱら克服すべき対象、あるいはせいぜい好奇心の対象でしかなかった」(「中ソ対立」その基礎・歴史・理論)。ロシア側もまったく「抽象的」で「観念的」な’知識’まがいに過ぎなかったといえよう。

孫文・ヨッフェ会談・「中ソ共同宣言」
ーカラハン宣言以後、一時中国人の多くがソビエト・ロシアに親近感を持つようになる。1924年には、こうした雰囲気がまだ残っていたなかで、北京の軍閥政府はソビエト・ロシアを承認した。ただし、カラハン宣言で表明された利権の放棄や国境の画定はすぐに立ち消えになってしまった。
ー1920年代はじめ、共産主義者はボルシェビズム、マルクス・レーニン主義というイデオロギーから観念的に新しいロシアに接近した。彼らにとってはソビエトのすべてが太陽だった。だが孫文は違った。かれは、自分がえがく中国の変革プランのために、ソビエト・ロシアのあるものを選択的に利用しようとしていた。
ー孫文はロシア革命の成功をソ連が「強力な軍隊」を所持していたからと考えていた。黄哺軍官学校が設立され蒋介石が校長となる。そして孫文は民族・民権・民生という、「三民主義」(現在も中華民国(台湾)国歌である)の新しい中国を思い描いていた。中国の近代化のため、中国を平等にあつかい、援助してくれる強国がソビエト・ロシアであった。
ーソビエト政府は、北京の軍閥政府と外交交渉を続け、他方共産党を強力に支援するかたわら、南の実力者孫文にアプローチしてきた。
ー1922年夏、ヨッフェ(後にスターリンの迫害を受け自殺)がソビエト政府の全権代表として孫文と接触を始め、翌23年1月に孫文・ヨッフェの共同宣言を出すまでになった。ただしこの「宣言」は事実上破綻する。孫文は、カラハン宣言の完全実施を強く求めるとともに、共産主義の組織やソビエト制度は中国には移入できないと明確に主張し、ヨッフェにもそれを認めさせている(委任された権限の範囲を越えた独断専行の「越権行為」)。
ーこうして孫文は、ソ連の援助で、共産党との連合、国民党の改組、そして革命軍の建設を進めることができた。国民党はいまや中国で最大の政治勢力となった。孫文の指示で蒋介石が軍事研修のためにソ連に行ったのは1923年夏のことである。
ーだが孫文の夢はかなわず、ソ連との連合も実らなかった。25年孫文は北京で病死。その後中国は再び分裂と内戦の時代を迎え、27年には反共の蒋介石政府がソ連との国交を断ってしまう(毛里和子「中国とソ連」岩波新書より)。
コミンテルンと「中国革命」:
中国革命が、すでにレーニン時代のおわりごろからはじまる発展によって準備されてきた重大な危機にはいったのは、ほぼこのころであった。ボルシェビキは、植民地や半植民地民族の反帝国主義運動は、ヨーロッパのプロレタリア革命のための主要な「戦略的予備軍」をなすものだと信じて、ずっとはやくからこれに注目してきた。
ー1920年、コミンテルンは西欧共産主義と東洋の解放運動との同盟を宣言した。だが、それは原則を宣言しただけで、それ以上には出なかった。同盟の形態とか、それを促進させる手段については、なにも決定していなかった。コミンテルンは、アジア諸民族の独立闘争が、歴史的にはヨーロッパのブルジョア革命に相当することをみとめた。そして、農民を、ある点まではそれらの諸民族のブルジョアジーをさえ、労働階級の同盟軍としてみとめた。
ーだが、レーニン主義的コミンテルンは、アジア自体における反帝国主義運動と、社会主義のための闘争との関係、つまり自国の「反帝国主義的」ブルジョアジーにたいする中国共産党やインド共産党の態度を、まだはっきり規定しようとはしなかった。
ーこれらの問題を解決するには、まだ早すぎたのである。十月革命が東洋に与えた衝撃は、まだあまりにも新しくて、その力と深さは、まだ評価することができなかった。アジアの最も重要な国々でも、共産党はやっと結成しはじめているところだった。
ー労働階級は数的に弱く、政治的伝統を欠いていた。ブルジョア的反帝国主義でさえ、まだ形成段階にあった。1921年になって、はじめて中国共産党は、小さな宣伝家的サークルをもとにして、第一回大会をひらいた。だが、中国共産党が大会をひらいて、網領の決定と組織づくりにとりかかるいなや、さっそくモスクワは、国民党との友好関係をもとめるよう勧告し始めた。
ー国民党は、当時頂天にたっしていた孫逸仙(孫文)の道徳的権威にひたっていた。孫逸仙自身は、西欧帝国主義にたいして、自分の権力を強化してくれるだろうと考えて、ロシアとの協定を熱心に望んでいた。彼はその漠然とした「無階級的」な、ポピュリスト的社会主義の立場で、中国共産党とも協力する用意があった。ただし、彼らが彼の指導権を無条件で受け入れて、国民党を支持するならばである。
ー彼はレーニンの政府との友好協定に署名したが、自分の条件で中国共産党を協力させることは、それよりむずかしかった(ドイッチャー・トロツキー「武力なき予言者」)。
「ボルシェヴィズムは、西と東の両方に向かっていた。すでにみてきたように、西欧に眼を向け、西欧における社会主義の展望をかんがえていたレーニンは、民族国家は社会主義的変化をやるための基盤としては、あまりにも狭すぎる、と主張した。1924年まで、共産主義インターナショナルの重大な宣言はみな、社会主義ヨーロッパ合衆国の呼びかけをもっておわっていた。だが、東洋では事情がちがっていた。東洋の諸国民はまだ、半封建的地方独立主義、部族的族長主義、階級主義、軍閥などによって分断された。工業前的、それどころかブルジョア前的時代に生きていた。西欧にとっては、過去の偉大な業績である民族国家が、すでに進歩の障害となっていたとすれば、東洋の諸国民にとっては、この業績はまだ未来のことであって、進歩の本質的条件であった。しかし、西欧では近代的民族国家はブルジョア革命の所産であったが、東洋では、それを達成するためには、その革命をふみ越えてすすまなければならなかった。これこそ、1920年代のはじめにモスクワがひろめた偉大な新しい教訓であった。それにしてもモスクワは、中国革命にせよ、他の東洋のどの革命にせよ、それを純民族的革命とは見ないで、国際的過程の一部としてみた」。

トロツキーと中国革命:
ー1924年のレーニン死後、コミンテルンの指導は事実上スターリンとブハーリンによってまかなわれていた。彼らは国民党を準加盟国として共産主義インターナショナルに加盟させ。執行部は蒋介石(ソ連留学経験あり)を名誉委員に選んだりもした。スターリンは終始一貫「国民党」だけを承認し中国共産党の独自行動を一切許さず。それは内戦で毛沢東が勝利する瞬間まで変わらなかった。
ー当時のトロツキーは職務を解かれ閑職に左遷されていた。そして26年、コミンテルン指導部(スターリンとブハーリン)への批判を開始した。政治局に向かって革命の今の段階の支配的特徴として、中国における労働者の運動と共産主義を指摘した。なぜ党はすくなくとも上海や漢口のような主要な工業中心地でソビエトを選出せよと、労働者によびかけないのか?党はなぜ農業革命を激励しないのか?なぜ党は反乱せる労働者と農民の、最も緊密な協力態勢を確立しようと努力しなのか?これだけが、すでに反革命的軍事クーデターの危険に直面している革命を救うことができるであろう」と主張した。けどスターリン主義のコミンテルンを動かすことはできなかった。
ーしかしつづけて彼は中国における決定的な問題は「国民党がさらに発展することである」という趣旨の「コミュニストインターナショナル」(コミンテルン)誌の社説に反対を表明した。これこそまさしく決定的な問題ではない、と彼はこたえた。くわえて「国民党は、革命を勝利に導くことはできない。労働者と農民は、緊急に評議会に組織されなければならない」そして「われわれは国民党指導部の行動にたいする責任の影すらとりたいとは考えない。そしてわれわれは、コミンテルンがこの責任を拒否することを切に勧告する。我々は直接中国の農民にむかっていう。もしも諸君が諸君自身の独立のソビエトを組織しないで、国民党の指導者たちにしたがうなら、彼らは必ず諸君を裏切るだろう・・・蒋介石と十倍も統一して、労働者と農民に対抗するだろう」
ー果たしてトロツキーの予言どおりスターリンとブハーリンの「国民党に従え」という厳命により自ら武装解除した上海の共産党員と労働者、赤衛軍は27年。上海に入城した蒋介石の「白色テロ」クーデター(注)により虐殺されてしまう。
(注)上海クーデター(シャンハイクーデター)は、1927年4月12日に中華民国において、北伐に呼応し第三次上海暴動を引き起こした武装労働者糾察隊が、右派国民革命軍による武装解除の命に応じず抵抗を試みたため、革命軍から武力行使を受けた事件およびその武力行使に対して抗議のためのデモを行った労働者・市民に対し革命軍が発砲・虐殺し、国民党左派・共産党系労働組合の解散を命じ総工会の建物を占拠した事件。四・一二事件とも言う。中国国民党は「清党」と称する一方、中国共産党は「四・一二反革命政変」、「四・一二惨案」と称す。検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者が死傷したスペイン語⇒La matanza de Shanghái de 1927 fue un acontecimiento que tuvo lugar en la urbe china homónima en abril de 1927 en el que la derecha del Kuomintang, encabezada por Chiang Kai-shek, desbarató violentamente a sus rivales de la izquierda del partido y a los comunistas.+ イタリア語→Il massacro di Shanghai fu un attacco avvenuto il 12 aprile 1927 nell'omonima città cinese, portato avanti dalle truppe dell'Esercito Rivoluzionario Nazionale e membri delle Triadi cinesi, contro il Partito Comunista Cinese (PCC), le sue forze e i suoi militanti civili. Questo fu uno degli eventi principali che determinarono la rottura tra il Kuomintang (KMT), ovvero il partito nazionalista cinese, e il PCC, e segnò l'inizio della guerra civile cinese. Con questo attacco ai suoi alleati comunisti, la fazione del KMT guidata da Chiang Kai-shek, purgò il partito dei suoi elementi di sinistra e impedì qualsiasi presa di potere da parte dei comunisti nella Repubblica di Cina[1]. Il Kuomintang designò questo avvenimento come "purga del partito" (清黨S), mentre il partito comunista cinese utilizza il titolo di "colpo di forza reazionario del 12 aprile" (四·一二反革命政变S) o "massacro del 12 aprile" (四·一二慘案S). 四一二事件,是中国国民党“清党”第一期中的标志性事件[1];1927年4月12日,蒋中正領導國民黨右派黨員,在上海青帮的幫助下,大規模逮捕、殺戮中共黨員并取締蘇聯顧問,中国共产党称此事件為四一二反革命政变[2]
革命の敗北・蒋介石と国民政府:
ドイッチャーの見解を再び、
「1920年代の革命の運命は、まことに悲劇的であった。革命は、敗北したばかりではなかった。敗北するまえに、レーニン主義が出口をしめしてくれたばかりの、純ブルジョア革命の袋小路へまた追いかえされてしまっていたのである。スターリンとかれの仲間たち、中国におけるかれの手先たちが、革命をそこへ追い返したのである(中略)スターリンの政策は、中国革命は純ブルジョア的な目的をもたなければならない。そしてそれはいわゆる市民ブロックを基礎にすべきである、という考えを中心にしていたということである。事実上、モスクワは不承不承の中国共産党員に強制して、国民党の指揮と規律に無条件で服させ、蒋介石を国民的指導者とし、英雄としてうけいれさせ、農民反乱を鼓舞することを控えさせ、最後に、1927年、諸都市の反乱労働者を武装解除させた。このようにして、アジアにおける最初の、勝利的プロレタリア反乱、上海コミューンは弾圧された。共産党員と反乱労働者の大量大虐殺と革命の総潰乱がこれにつづいた」
陳独秀と毛沢東:
ー共産党は、陳独秀(トロツキーを支持し親交があった)に指導されていた。陳独秀はアジアにおけるマルクス主義の知的パイオニアのひとりであり、中国におけるその最初の偉大な宣伝家であり、毛沢東が出現するまでは、中国革命のいちばん目立った大人物であった。彼は毛沢東に比べて、戦術家、実際的指導者、組織者としては劣っていたが、思想家として、理論家としては、彼より優れていたように考えられる。
ー陳独秀は、西欧の列強が中国で持っていた特権に反対する大運動の創始者であった。陳独秀が教授を務めていた北京大学に発したこの運動は、非常に強大なものとなり、その圧力におされて中国政府は、それらの特権を容認するヴェルサイユ条約に署名することを拒否した。
ーマルクス主義宣伝家サークルが発展して、共産党を結成するまでになったのは、大部分陳独秀の影響によるものだった。彼は党が創立された瞬間から、1927年の遅くまで、革命のあらゆる決定的段階を通して、中国共産党の争う余地のない指導者であった。彼はモスクワから受けた政治的勧告を、はじめから不安の目でみていた。彼は共産党が国民党と協力する必要は認めたが、あまりに緊密な同盟をむすぶと、共産主義それ自体の独自性を確立するのがむずかしくなると恐れていた。
ー党が国民党と一緒に前進する前に、まず自分の足で立つことを望んだ。ところが、モスクワは、彼にそうした躊躇を許さず、執拗に強要した。毛沢東はこれと同じような状況でも、モスクワの勧告にちっとも反対しないで、いつもこれを受け入れるようなふりをし、それからモスクワとの真の分裂を挑発することなしに、その勧告を無視し、自分自身の考えで行動した。
ーところが、陳独秀には、この毛沢東の性格の力もなければ、ずるさもなかった。陳独秀は真っ正直で、おだやか。自信を欠いていた。これらの性質が彼を悲劇的な人物にした。彼はあらゆる段階で、モスクワの政策に対する反対を率直に述べた。しかし、それをどこまでも固守しなかった。押し切られると、コミンテルンの権威に屈指、自分の一層優れた知識に背いて、モスクワの政策を実行した。
対立の始まり[編集]
1956年2月、ソ連共産党第20回党大会で、ニキータ・フルシチョフがスターリン批判、平和共存路線採択、東欧各地で動揺。これを契機に中華人民共和国とソ連の間でイデオロギー論争が生じる。10月にハンガリー革命。
1957年10月、モスクワでロシア革命40周年記念式典開催、中国共産党中央委員会主席毛沢東2度目の訪ソ、モスクワ大学で講演「東風は西風を圧す」を語り暗にフルシチョフの平和共存政策を批判。
1958年7月、ソ連共産党中央委員会第一書記フルシチョフ訪中、毛沢東との会談で中ソ共同艦隊等の提案をするも毛沢東拒否。
1959年6月、ソ連が原爆供与に関する中ソ間の国防用新技術協定を破棄。同年10月、フルシチョフが北京訪問し、毛沢東と会談するも意見不一致の為共同声明出ず。
1960年4月、人民日報及び紅旗が共同論説「レーニン主義万歳」発表。中ソ論争が表面化し、同年6月、ソ連共産党指導部は中華人民共和国に派遣していた技術専門家をひきあげる。同年11月、モスクワで81カ国共産党会議開催、中華人民共和国とソ連の間で意見調整、妥協的なモスクワ宣言発表。
1961年7月、朝鮮民主主義人民共和国が中華人民共和国と中朝友好協力相互援助条約、ソ連と軍事同盟を締結。
1961年10月、フルシチョフ、第22回ソ連共産党大会においてアルバニアを非難。周恩来、アルバニアを擁護してフルシチョフを批判、中途で帰国。
1962年10月、中印国境紛争が発生。この際、ソ連がインドに武器援助を行う。
1962年、平和共存に関する中ソ論争。キューバ危機に際して、中華人民共和国はソ連を「冒険主義」「敗北主義」「大国主義」として非難。この頃、中ソ対立は西側にも公然のものとなった。
1963年7月、ソ連と中華人民共和国の共産党会談が成果ないまま終了、対立は一層拡大。(第三国からは、聾者同士の対談と言われた)
 会談以降、毛沢東はフルシチョフを似非共産主義者と罵倒し、修正主義に対しては終わりなき闘争を表明。
1964年10月、中華人民共和国が初の原子爆弾実験に成功。同月フルシチョフ失脚。中国共産党はこれを歓迎し、11月に周恩来を団長とする大型代表団をモスクワに送り、レオニード・ブレジネフ、アレクセイ・コスイギンらソ連指導部と会談するも関係改善ならず、以降対立は深刻化し国家関係もほとんど断絶状態になる。
1965年、アメリカ軍がベトナム戦争に介入。
1966年- 中華人民共和国、文化大革命の時代に。同年8月、中華人民共和国がソ連を「社会帝国主義」と批判する。同年10月7日には、ソ連政府、中華人民共和国の在ソ全留学生の休学を決定。留学生らに対し、同年10月中にソ連を退去するよう命令。
1967年1月、欧州から中華人民共和国へ帰国途中の留学生が、赤の広場に向かい、レーニンの墓前に献花、黙祷ののち、「毛沢東語録」を朗読。ソ連当局に阻止された。同年2月、ソ連当局が、モスクワにある中華人民共和国大使館を襲撃。文化大革命の写真などが展示されているガラスケースを破壊し、大使館員に暴行を加えたとされる。
1968年8月、チェコスロバキアでプラハの春。ソ連を中心としたワルシャワ条約機構(WTO)軍はチェコスロバキアに侵入し、ドプチェク等を逮捕するなどして鎮圧した。周恩来は「ソ連の裏切り者たちは、強盗集団になりはてた」とソ連共産党を非難。
軍事的対立と米中接近[編集]
1969年3月に国境問題をめぐってウスリー江のダマンスキー島(中華人民共和国側の呼称は珍宝島)で大規模な軍事衝突が発生し(珍宝島事件)、中ソ国境紛争が勃発する。8月にも新疆ウイグル自治区で衝突した。 同8月末、ソ連が中国の核施設を攻撃した際、アメリカが取る対応について非公式に打診してきたとアメリカCIAがマスコミに明かす[1]。直後、ソ連共産党の機関誌「プラウダ」が中国を非難、間接的に中国への核攻撃を示唆した。これに対して毛沢東は中国全土に整備を命じ、核シェルターの建設を命じた[2]。また、北京に指導者が集中していると核攻撃で全滅する可能性があるといい、指導層に地方分散を命じた。
同年9月、ベトナムのホー・チ・ミン主席葬儀の帰途にソ連のコスイギン首相が北京で周恩来総理と会談。北京空港で国境問題を含めた両国関係について話し合うものの前向きな結論は全く出なかった。
同年10月、十大元帥の一人である外交部長の陳毅は周恩来総理に、米ソの矛盾を利用し米中関係を打開することを提案[3]。毛沢東はこの提案を受け入れ、米中関係の正常化がはじまる。なおこれらの戦略変換は極秘裏で進められ、1971年のキッシンジャー訪中が公表されるまで、中国は表面的には米ソ双方を非難し続けた[4]。また同月、北京で中ソ国境会談がコスイギン・周恩来会談を受けて開催され、会談の結果、武力行使は沈静化する。
1972年2月、ニクソン大統領の中国訪問を契機に、1970年代に中華人民共和国とアメリカ合衆国が接近し、1979年に米中国交正常化が成立するとともに、中華人民共和国とソビエト連邦の対立が再び深刻になる。
1970年3月、カンボジアでアメリカの支援を受けたロン・ノル将軍がクメール共和国を樹立し、ノロドム・シアヌーク国王を追放。シハヌークは中華人民共和国へ亡命。同1970年4月に、アメリカ軍・南ベトナム軍がカンボジア国境を侵犯(カンボジア内戦始まり)。同1970年7月9日からヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に訪中し、7月16日に米中両国がこれを発表、世界を震撼させる。 日本は、アメリカ合衆国に梯子を外された頭越し外交による屈辱と、米中両国への対抗心から、翌1972年に日中国交正常化を実現させ、中華民国(台湾)と国交断絶になる[5]。
1971年10月、第26回国際連合総会にてアルバニア決議採択を受け、中華人民共和国が国際連合に加盟。中華民国が脱退する。
1972年2月、共和党のアメリカ合衆国大統領ニクソンが中華人民共和国を訪問(ニクソン大統領の中国訪問)。
1973年、アメリカ軍がベトナムから完全撤退。ラオス内戦終結。
1975年4月30日、サイゴン陥落しベトナム共和国(南ベトナム)崩壊、ベトナム戦争終結。カンボジアでクメール・ルージュがプノンペンを占領、クメール共和国が崩壊。5月、ラオスが完全な共産主義国家となる(パテート・ラーオ)。
1976年1月、カンボジアで、中国共産党の支援を受けた民主カンボジア成立。
1976年7月2日、ベトナム社会主義共和国成立。
1976年9月9日、毛沢東が死去。
1977年、華国鋒体制を確立。文化大革命の終結を宣言。
1978年1月、ベトナムとカンボジアの国境紛争が激化し、国交断絶。6月、ベトナムがコメコン加盟。11月、ソ連・ベトナム友好協力条約調印。
1979年1月、米中国交樹立。ソ連共産党が支援したベトナム軍がカンボジアに侵攻しクメール・ルージュを打倒、民主カンボジアが崩壊(カンボジア・ベトナム戦争)。
1979年2月、ベトナムによるカンボジア侵攻の報復として、中国人民解放軍がベトナムを攻撃し、中越戦争が勃発。同年4月には、中華人民共和国は中ソ友好同盟相互援助条約を破棄。12月、ソビエト・アフガン戦争(1988年終結)
1980年代、米ソ冷戦がデタントの時代から再び激しい対立の時代へ。
関係好転とソ連崩壊[編集]
1981年6月、中華人民共和国が鄧小平・胡耀邦体制になり、ソビエト連邦との関係を好転させる方向へ向かい始める。
1985年3月には、ソ連でゴルバチョフが書記長に就任し、翌1986年、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)の路線を打ち出した。1989年5月に、ゴルバチョフ書記長は中華人民共和国を訪問し、国家関係の正常化を盛り込んだ中ソ共同コミュニケを発表したが、その直後の6月4日に天安門事件が発生する。
同年6月から12月にかけて東欧革命勃発。12月3日にはマルタ会談(米ソ首脳会談)が行われ、冷戦終結を宣言した。
1991年3月、ワルシャワ条約機構軍事機構廃止。1991年6月、コメコン解散。7月、ワルシャワ条約機構正式解散。8月、ソ連クーデター。12月、ソ連崩壊。
中ソ対立と東側諸国・各国共産党[編集]
中ソ対立と東側諸国 赤=ソビエト連邦およびソビエト連邦に与した東側諸国(第三世界の諸国を含む) 黄色=中華人民共和国および中華人民共和国に与した東側諸国(アルバニア社会主義人民共和国と民主カンボジア) 黒=ソビエト連邦と中華人民共和国の両者にもつかなかった東側諸国(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と北朝鮮とソマリア)
中ソ対立が、東側諸国内部の関係に及ぼした影響を一枚の地図に図示するならば右図のようになるが、実際には各国の立場は微妙なニュアンスと時代ごとの変化を含んでいる。以下、代表的な国を例示する。
アルバニア社会主義人民共和国(地図上では「黄色」に分類)
中ソ対立では中華人民共和国と友好し、ソビエト連邦と敵対。1971年にはアルバニア決議を出して、中華民国を国際連合から追放させる。1976年の毛沢東の死後は中華人民共和国とも敵対し、孤立。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(地図上では「黒」に分類)
1948年、コミンフォルムを除名処分。非同盟諸国の有力国家となる。ルーマニア社会主義共和国(地図上では「赤」に分類)
ワルシャワ条約機構や経済相互援助会議に加盟するが、1968年のプラハの春では、ワルシャワ条約機構軍の軍事介入を非難するなど、ソビエト連邦とは距離を取り西側に接近。一方、1971年にニコラエ・チャウシェスクが中華人民共和国を訪問、1978年には華国鋒がルーマニア社会主義共和国を訪問するなど、中華人民共和国とも一定の外交関係を有していた。朝鮮民主主義人民共和国(地図上では「黒」に分類)
金日成統治下の北朝鮮は、ソビエト連邦と中華人民共和国の双方と等距離の友好外交。ベトナム社会主義共和国(地図上では「赤」に分類)
ベトナム戦争では、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)が、ソビエト連邦と中華人民共和国の両国から双方から援助を受けた。しかし、ベトナム戦争が終結し、1976年に南北ベトナムが統一されると(ベトナム社会主義共和国の成立)、1979年のカンボジア侵攻と中越戦争で中華人民共和国と敵対し、1979年以後は中華人民共和国との領土紛争が起こって敵対する一方、ソビエト連邦との友好は維持された。ソビエト連邦崩壊後の現在でも、ベトナム社会主義共和国と中華人民共和国は冷戦状態にある。カンボジア(地図上では「黄色」に分類)
ポル・ポト政権(民主カンボジア)は親中共。ヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)は親ソ連。キューバ(地図上では「赤」に分類)
アメリカ合衆国との対立によりソビエト連邦に接近。中華人民共和国とは友好も敵対もせず。しかし、1966年に「カストロ首相、中共を激しく非難」という記事が毎日新聞に大きく掲載されていることなどから、やはり当時はキューバもソビエト連邦に与しており、中華人民共和国との関係は悪かった。

















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