日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Matsudaira Nobuyasu=Okazaki en la Provincia de Mikawa /마쓰다이라/도쿠가와 노부야스+父親是松平元康(德川家康)長男岡崎三郎信康について・諸説あり

こんばんは、
ちょっとまた方向がかわって「日本史」に及んでしまいました(苦笑)、私は「戦国時代」いわゆる「安土桃山時代」はあくまでも「趣味」の分野として小さい頃から親しんできた。ですので名だたる「歴史小説家」たちの「国民文学史観」にも多数ふれて現在に達しています。そしてこの家康嫡男信康についてもいいように「改竄」「捏造」が横行していますので。私が調べた範囲内ながら、明日にでも↓を取り入れながら検証したいと考えていますのでまたよろしくお願いしますね☆
明日は朝早いので寝ることにします。おやすみなさい。サム リッチモンド・ヒル カナダ 2016・9
オランダ語→Matsudaira Nobuyasu (松平信康; 13 april 1559 — 5 oktober 1579) was de oudste zoon van Tokugawa Ieyasu. Zijn tsūshō ("geboortenaam") was Jirōsaburō (次郎三郎). Hij stond ook wel bekend onder de naam Okazaki Saburō (岡崎 三郎) omdat hij in 1570 heer werd van kasteel Okazaki. Omdat hij een zoon was van Tokugawa Ieyasu wordt Nobuyasu retrospectief vaak Tokugawa Nobuyasu (徳川 信康) genoemd. スペイン語→生涯(背景)=Biografía[editar]Nobuyasu fue el primer hijo de Ieyasu(信康は家康の嫡男). Su madre era la sobrina de Imagawa Yoshimoto(今川義元), Tsukiyama(築山(母=義元の姪).Como un niño Nobuyasu fue enviado a la capital Imagawa de Sumpu(今川領首都駿府), situada en la provincia de Suruga (駿河領(州)に位置した)actual Prefectura de Shizuoka(現静岡県) como rehén. Más tarde fue nombrado encargado del Castillo Okazaki en la Provincia de Mikawa (三河領(州)岡崎城)actual Prefectura de Aichi(現愛知県), el lugar de nacimiento de su padre, y tomó parte en la batalla de Nagashino en 1575(1575年長篠の戦い=長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦+ウクライナ語⇒Битва при Наґашіно[2] (яп. 【長篠の戦い】, ながしののたたかい) — битва, що відбулася 29 червня 1575 року на рівнині Шітара поблизу замку Наґашіно, де союзні сили Оди Нобунаґи і Токуґави Ієясу вщент розбили армію роду Такеди Кацуйорі.). Varios años (多年)más tarde, era(世紀) sospechoso de traición por Oda Nobunaga(織田信長への反逆) y se le confinó a Ohama y luego a Futamata(二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)10月16日から12月19日にかけて行われた武田信玄軍と徳川家康軍による遠江北部の二俣城攻防戦であるフランス語→二俣城包囲戦Siège de Futamata=La forteresse de Futamata est le premier objectif de Takeda Shingen lors de sa campagne contre Tokugawa Ieyasu. En 1572, il laisse le siège de Futamata aux mains de son fils et héritier Takeda Katsuyori(後継者武田勝頼).), antes de recibir la orden de cometer suicidio de su padre en 1579(1579年に自決), que actuaba sobre los deseos de Oda Nobunaga(織田信長), a pesar de que Nobunaga había casado a su hija Tokuhime (信長長女徳姫1559-1636) con Nobuyasu(信康の正妻).Nobuyasu no se cree que haya sido una figura popular(信康は人気がなかった) en su tiempo, como su fallecimiento podría atestiguar (en particular, la supuestamente indiferencia personal de Sakai Tadatsugu(酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている+ロシア語→Сакаи Тадацугу (1527 — 17 декабря 1596) — крупный японский военачальник периода Сэнгоку, 5-й глава рода Сакаи. Вместе с Ии Наомаса, Сакикабара Ясумаса и Хонда Тадакацу входил в число так называемых «Четырёх Небесных Королей» Токугава Иэясу.) hacia Nobuyasu le llevó a no refutar (信康を弁護(論破)しなかった)la sospecha). A pesar de ello, se dice que Tokugawa Ieyasu lamenta profundamente el papel que desempeñó en su muerte.
松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。
Matsudaira Nobuyasu (松平 信康?, 13 April 1559 – 5 October 1579) was the eldest son of Tokugawa Ieyasu. His tsūshō ("common name") was Jirōsaburō (次郎三郎?). He was called also "Okazaki Saburō" (岡崎 三郎?), because he had become the lord of Okazaki Castle (岡崎城?) in 1570. Because he was a son of Tokugawa Ieyasu, he is often referred to, retroactively, as Tokugawa Nobuyasu (徳川 信康?).마쓰다이라/도쿠가와 노부야스(일본어: 松平/徳川 信康 まつだいら/とくがわ のぶやす, 1559년 4월 13일 - 1579년 10월 5일)는 센고쿠 시대부터 아즈치모모야마 시대까지의 무장으로, 에도 막부(江戸幕府) 초대 쇼군인 도쿠가와 이에야스(徳川家康)의 적장자이다. 어머니는 세키구치 지카나가(関口義広)의 딸이자 이마가와 요시모토(今川義元)의 조카딸인 세나(瀬名, 쓰키야마도노築山殿)이다. 안쇼 마쓰다이라가(安祥松平家)의 7대 당주로 후일 마쓰다이라 종가의 거성인 오카자키 성(岡崎城)의 성주가 되면서 조부 마쓰다이라 히로타다(松平広忠)의 별칭이기도 했던 오카자키 사부로(岡崎三郎)라는 이름을 물려받아 사용하기도 하였다. 오다 노부나가(織田信長)의 딸 도쿠히메(德姫)와 혼인하였으나 후일 오다 노부나가의 명령으로 자결하였다.
Biography[edit]
Nobuyasu was Ieyasu's first son(信康は家康の長男). His mother was Imagawa Yoshimoto's niece(母は今川義元の姪), Lady Tsukiyama(築山御前).As a child Nobuyasu was sent to the Imagawa capital of Sunpu(少年信康は今川首都駿府に送られた), located in Suruga Province (駿河領(州)modern-day Shizuoka Prefecture(現静岡県) as a hostage(人質として). Later he was named keeper of Okazaki Castle in Mikawa Province (後の岡崎城主に任命されたmodern-day Aichi Prefecture(現愛知県), the birthplace of his father(父の出身地(生誕地), and took part in the Battle of Nagashino in 1575(1575年の長篠の戦いに参陣). Several years later he was suspected of treachery by Oda Nobunaga(数年後、信康は信長への反逆嫌疑) and(加えて) was confined to Ohama and then Futamata(それから二俣城に幽閉された), before receiving an order to commit suicide from his father in 1579(1579年、父家康から自決命令が出る前), who was acting on Oda Nobunaga's wishes(信長の望みを受諾), despite Nobunaga having married his daughter Tokuhime (信長の長女徳姫が信康の正妻であるのにも関らず1559-1636) to Nobuyasu.Nobuyasu is not believed to have been a popular figure in his time(当時は信康は人気がある人物ではなかった), as his demise might attest(彼の消滅に証明されたよう). (In particular(特に), supposedly Sakai Tadatsugu's own personal disregard for Nobuyasu(酒井忠次の信康に対する個人的嫌悪) led him to not refute the suspicion(嫌疑について弁護(論破)しなかった).) Despite this, it is said that Tokugawa Ieyasu deeply regretted the part he played in his son's death(ながらも、家康は信康の死に関して演じた役割を深く後悔(遺憾)した).
現在では一般的には松平信康と表記されるが、父の家康は信康の元服以前の永禄9年(1566年)に既に徳川に改姓しているため、生前は徳川信康と名乗っていたということになる。しかし、江戸時代に入ってから江戸幕府が「徳川」姓は将軍家と御三家のみに限るという方針をとったため、信康は死後になって「松平信康」に格下げされたという[2]。
生涯[編集]
永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立する。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を、父・家康から「康」の字をそれぞれ与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる[3]。信康は若い頃から勇猛果敢で、天正元年(1573年)に初陣する[3]。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは徳川軍の一手の大将として参加し[4]、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江横須賀の戦いで退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったと伝わる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。天正7年(1579年)8月3日、家康が岡崎城を訪れ、翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移された。その後、信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられた。享年21(満20歳没)。信康の首は一度信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮に葬られた。なお、ほぼ同時期に松平家忠をはじめとした徳川家臣たちが「信康に内通しない」という起請文を書かされている。
信康自刃事件について[編集]
信康の切腹については『三河物語』の記述が詳しい。それによると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた[注釈 1]。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の平岩親吉は、責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし家康は、徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、そのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し、信康の処断を決断した。8月29日、まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城(浜松市天竜区)にいた信康に切腹を命じた。介錯人は服部正成だったが、正成は主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、検死役の天方道綱が代わって介錯にあたった。
松平信康1559年4月13日-1579年10月5日)是日本戰國時代至安土桃山時代武將。父親是松平元康(德川家康)。母親是關口義廣的女兒築山殿(今川義元的姪女)。妻子是織田信長長女德姬,生有登久姬(小笠原秀政正室)與熊姬(本多忠政室)。因為擔任松平宗家的居城岡崎城的城主,因此與祖父同被稱為岡崎三郎。別稱次郎三郎。
不少史書記載為德川信康,理由是進入江戶時代後,江戶幕府許可將軍家和御三家都以「德川」為姓,以後表記再被統一,而信康則以德川家康的嫡男身份而稱「德川信康」。
信康と築山殿の不行状と疑問[編集]
信康や築山殿の乱暴不行状については『松平記』『三河後風土記』の両書がくわしい。この一方大久保彦左衛門の『三河物語』には優れた武勇や、孝心を称賛する内容となっており人格に対する否定的な記述ではない。信康については、気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺した。「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張している。鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。これに対して信康は後日、お詫びをしている。徳姫が産んだ子が二人とも女子だったので腹を立て夫婦の仲が冷え切った。というものである。また、『当代記』にも、信康は家臣に対し無常・非道な行いがあったとしている。だが、これらの行動はあまりにも理不尽なために、単なる中傷として解釈されることもある[5]。築山殿については、「家康が今川方を裏切り織田方に付いたため、父が詰め腹を切らさせられたことを恨み、家康をひどく憎んでいた。そして減敬という唐人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、密かに武田氏に通じた」というものである。これらのうち、特に減敬のエピソードについては築山殿を貶める中傷であるともいわれる[5]。
通説への疑問[編集]
徳姫との不仲は松平家忠の『家忠日記』によると事実のようだ[6]が、不仲や不行状というだけで信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問である[7]。また、家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○○の中なおしニ」と破損しており、信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠、久松俊勝、松平康元)であるとの説も提示されている[8]。また「御母様(=築山殿)」の可能性もあるし、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もある[8]。於大に関しては天正3年(1575年)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、信康との仲が険悪になっていた可能性がある[8]。ちなみに数正は後年に徳川家から出奔している[8](橋場日月の説)。また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、このような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は窺えないし、徳川政権成立後に、事件の発端となった徳姫に対して、家康が2,000石の領地を与えている理由もよく分かっていない(実際に所領を給与したのは徳姫の義弟にあたる松平忠吉)[9]。さらに、築山殿がいかに家康の正室といえども、武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問である。しかも、信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。それにも関わらず、家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解である[9]。また、『三河物語』では、信康を庇わなかった酒井忠次は「知らないと言えばいいのに」と家康に嘆かれ、他の家臣達に憎まれたとされているが、その後も徳川家の重臣の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっている[10]。家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていない[9]とする説があるが、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立し信康の菩提寺に指定し、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などが建設しており、「信康山長安院清瀧寺」と号させている。また各所に墓所を建立してるので、これは誤りである。(#墓所・祭祀も参照)
父子不仲説[編集]
このため近年では、家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになった。『三河物語』では信長は「(信康)切腹させよ」と答えているが、『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめているもの)や『当代記』[注釈 2]では、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、また家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。また信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。これは家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということのようである[12]。また『家忠日記』によると、事件が起きる前年の天正6年(1578年)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている[13]。さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことが伺える[14]。
また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」[15]とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせる。また信康の異母弟・松平忠輝は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残している。
「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。
「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」(『藩翰譜』)。
この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが伺える。
ただ家康は晩年になって「父子の仲平ならざりし」とこの時の事件について後悔している[16]。
派閥抗争説[編集]
作家の典厩五郎は、この時期の徳川家は、常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(織田家との)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部正成に暗殺された疑いがあるとして、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えている。また信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電(逃亡)する者が続出し、派閥抗争の末の粛清や懲罰があったと唱えている[注釈 3]歴史研究家の谷口克広も典厩の説を支持し、岡崎衆は家康への不満か家康の旗本に対する反発から信康を担いでクーデターを起こすことを企み、築山殿もそれに関係していたのではないかと推測している[17]。
その他・家臣団との対立[編集]
村岡素一郎が説いた徳川家康の影武者説では、徳川家康と松平元康を別人として、家康と信康との親子関係を否定している。信康の成人後、家康が信康に家督を譲渡する誓約がなされていたが、家康に実子が生まれたため、家康により信康の排除が行われたと、著書「史疑徳川家康事蹟」で村岡は主張している。
詳細は「徳川家康の影武者説」を参照
信康は勇猛なためか横暴な面があり、家臣の松平親宅は「御若気の儀これあり候につき、毎度御諌め申し上げ候えども」信康により追放されている(『寛政重修諸家譜』)。また信康は同母の妹である亀姫が武田信玄没後に徳川に寝返ったにすぎない奥平信昌の正室になる(つまり義弟になる)事に「敵方の者を聟にはなかなか成し難し」と強硬に反対した(『三河東海記』)話もあるなど、信康と家臣団の間で軋轢が生まれていた面も伺わせる。
人物・逸話[編集]
『徳川実紀』によると、天正3年、家康が小山城攻めを諦めて撤退する際、信康は殿軍を務めてこれを成功させ、家康から大いに褒められたという。また、関ヶ原の戦いで秀忠が遅参した時、家康は「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったという[3]。なお、関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の21年目の命日であった(『武辺雑談』)。
武勇に優れた武将で、以下の逸話が伝わっている。 ある戦で武田軍相手に殿軍を務めて一歩も引かず、家康は「まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と驚嘆した(『大川三志』)。
勝頼の本陣間近まで共一人を連れて物見を行ない、家康に決戦を進言した勇猛さを見せつけた(『松平物語』)。
信康が話すのは戦のことばかり、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったという(『三河物語』)。
信長は信康を恐れていたという(『寛元聞書』)。
冷遇されている異母弟の於義丸(秀康)を信康は不憫に思い、父・家康との対面を果たさせる[18]など、弟思いな面があった。
信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したが、服部正成の介錯で自刃したという。この時、正成が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死役の天方道綱(山城守)が代わって介錯したとの話も残る。道綱は家康が嘆き悲しむのを見て畏れ出家したと言われる(『柏崎物語』)。
信康の切腹には殉死者[注釈 4]を出すほどの人望があった。
ある日、幸若舞を忠世・忠次と共に見た時、主のために自分の子の首を差し出す場面を見て落涙した家康が「両者あれを見ろ」と言い、それに対し両者が恐縮したという(『東武談叢』)。
後年、酒井忠次が嫡男・家次の所領が少ないことに対する不満を家康に訴え出たところ、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返されたという逸話が残っている』(『東武談叢』)。
関ヶ原の戦いの前夜に、信康の孫娘と小西行長の嫡男・兵庫頭の婚約が、家康から行長に持ちかけられている。この孫娘は、親等では福島正則の養子正之と結婚した満天姫とほぼ等しく、家康の血を引くという点ではより近い血縁といえる。婿として国主大名の嫡子が選ばれていることは、信康の血統が重視されていた証拠といえる。また信康の家臣のうち、主だった者には交代寄合に任じられている者もおり、家康の信康に対する信任が伺える。

Matsudaira Nobuyasu (松平 信康?), 13 avril 1559 - 5 octobre 1579, est le fils ainé de Tokugawa Ieyasu. Son tsūshō (« nom habituel ») est Jirōsaburō (次郎三郎?). Il est aussi appelé Okazaki Saburō (岡崎 三郎?), parce qu'il est devenu seigneur du château d'Okazaki (岡崎城?) en 1570. Parce qu'il est le fils de Tokugawa Ieyasu, il est souvent appelé, rétrospectivement, Tokugawa Nobuyasu (徳川 信康?).
Biographie[modifier | modifier le code]
Nobuyasu est le premier fils de Ieyasu. Sa mère est dame Tsukiyama, nièce d'Imagawa Yoshimoto.Enfant, Nobuyasu est envoyé comme otage à Imagawa, capitale du domaine de Sunpu, situé dans la province de Suruga (actuelle préfecture de Shizuoka). Plus tard, il est nommé gardien du château d'Okazaki dans la province de Mikawa (actuelle préfecture d'Aichi), lieu de naissance de son père et prend part à la bataille de Nagashino en 1575. Plusieurs années plus tard, il est suspecté de trahison par Oda Nobunaga et retenu à Ohama puis à Futamata, avant de recevoir de son père - qui agit pour complaire à Oda Nobunaga - en 1579 l'ordre de se suicider, bien que Nobunaga a marié sa fille Tokuhime (1559-1636) à Nobuyasu.Nobuyasu n'est apparemment pas un personnage populaire en son temps, comme peut le laisser penser sa disparition. (En particulier, l'indifférence personnelle de Sakai Tadatsugu pour Nobuyasu le prévient de réfuter les soupçons de trahison). Malgré cela, il semble que Tokugawa Ieyasu a profondément regretté le rôle qu'il a joué dans la mort de son fils.
生平[编辑]
在永祿2年(1559年)3月6日於駿府城出生,家中嫡長子。作為今川氏的人質,幼年在駿府度過,不過在桶狹間之戰後,德川軍以俘虜鵜殿氏長和鵜殿氏次交換,竹千代前往岡崎城居住。永祿5年(1562年),家康和織田信長的清洲同盟成立。在永祿10年(1567年)5月與信長的女兒德姬結婚,兩人都是9歲並以夫婦的形式在岡崎城生活。同年6月家康把居城移往濱松城,把岡崎城讓給竹千代。在7月元服時,從信長接受偏諱「信」字並改名為信康。元龜元年(1570年)正式成為岡崎城的城主。信康自小就勇猛果敢,初陣在天正元年(1573年)完成。在天正3年(1575年)的長篠之戰中以大將身份參戰,之後在與武田氏的戰鬥中獲得軍功,在戰鬥中受到注目。特別在天正5年(1577年)8月的遠江横須賀之戰中的退卻戰中擔任殿軍,令武田軍不能越過大井川。率領岡崎眾輔助家康。天正7年(1579年)8月3日,家康到訪岡崎城,翌日信康離開岡崎城並被移至大濱城。之後信康被移至遠江的堀江城、二俁城,在9月15日被家康命令切腹。享年21歲。
信康切腹的事件在『三河物語』中有詳細的記述。根據此書記載,信長的女兒德姬和跟今川氏有關係的築山殿不和,與信康的關係都相當差,天正7年(1579年),德姬向父親信長寫了12項事情的信書,並拜託德川家重臣酒井忠次作為使者送信給信長。信中包括了自己與信康不和及築山殿與武田勝賴内通的事情。信長質問使者忠次,忠次完全沒有庇護信康並確認書信所寫的是事實。結果,信長要求家康讓信康切腹。在德川家中反對把信康處死的人有很多,甚至有家臣主張破棄與信長的同盟關係。信康的傅役平岩親吉想負上責任,要求把自己的首級送給信長。但是家康判斷形勢後,認為這些小手段不能平息信長的怒火,於是決定處決信康。8月29日,首先是築山殿被護送前往二俣城(守將是大久保忠世)途中,在佐鳴湖湖畔被德川家家臣岡本時仲和野中重政殺死。之後的9月15日,事件發生以來一直被幽禁在二俣城的信康被命令切腹。介錯是服部正成,但是正成無法向主子揮刀,最後由負責檢死的天方道綱介錯。享年21歲。關於這次切腹事件的原由有諸多說法,包括父子不和、家中派系鬥爭、與家臣團對立等。
人物[编辑]
家康對信康死非常悲傷,關原之戰時三男秀忠遲到未能參戰時,家康說了「信康還在的話一定不會如此」(信康がいればこんな思いをしなくて済んだ)。
酒井忠次因為嫡男家次的所領太少,於是向家康提出不滿,反被家康諷刺「你也會疼愛自己的兒子啊?」(お前も我が子が可愛いか)。還有一次,與忠次父子一起觀賞幸若舞時,看到為了主公而獻出自己兒子首級的場面時落淚,家康說「你們看看啊」(両者あれを見ろ),當場令忠次父子非常恐懼。對於被冷遇的異母弟結城秀康表示憐憫,與父親家康不同,顯示出重感情的一面。在切腹後有殉死者(在濱松市的清瀧寺中有殉死家臣吉良於初(初之丞)的墳墓)出現,因此應該頗有人望。在大久保忠教的『三河物語』中形容,信康說的總是戰爭話題,經常去騎馬和獵鷹,被描繪為典型的武者。『德川實紀』中如此評價信康「東照公(家康)的公子們中,岡崎三郎君(信康)、越前黄門(結城秀康)、薩摩中將(松平忠吉)等人,都繼承了父親勇武的稟性,他們的軍事雄略在世間中都是十分傑出」(東照公の公達あまたおはしましける中に、岡崎三郎君はじめ、越前黄門、薩摩中将等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に)。在『三河物語』中記述「沒有這樣的殿下(信康)」(これほどの殿はなし)「上下萬民都發出聲音,沒有不悲傷的」(上下万民、声を引て、悲しまざるはなし)。信康是武勇優秀的人,在與武田軍對陣時擔任殿軍並寸步不讓,家康亦對此驚嘆並說「真是勇將。即使勝賴引十萬士兵來對陣都無需驚慌」(まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず)(『大川三志』)。而且還在劣勢時向家康進言與勝賴決戰(『松平物語』)。如此勇猛的信康亦有溫柔的一面,在知道異母弟弟秀康被家康討厭,在邀請家康前來岡崎城後,把秀康抱到家康的膝上,令秀康被家康承認為兒子(『貞享松平越前守書上』)。
信康切腹之謎[编辑]
出自《三河物語》有一說法為:信長見信康儀表不凡,唯恐自家地位不保,故意捏造信函逼迫家康除掉嫡長子。但此說漸不被採信,因為在另一本史書《松平記》中則是提及:「讓其(信康)自殺之事,在天正七年八月朔日向信長報告了。若信長也因此而震怒的話,則任由他的意思來決定了。」這就是完全相反的記載了,將織田信長由主導者,改為被通知者的角色。此外所謂家中權力爭奪說,則是《三河物語》強調了酒井忠次在信康之死的責任問題,歸咎給酒井忠次未有效替信康辯護或加罪於信康,但在流傳下來的《信光明寺文書》則收錄了家康寫與織田信長側近堀秀政的書信中表明:「此次派左衛門督(忠次)(向信長)報告之事,得到信長的懇切回應,實不勝感謝,而有關三郎不自重之事,已在去(八月)四日把他趕出岡崎城了。可見在信康之死一事中,真正起作用的主導者還是德川家康本人。至於何以德川家的父子相爭會演變至不死不休的局面,則有兩個不同說法,其一為武田內應說,此乃延續過去織田信長主導論的理由,雖然當時德川家中確有零星與武田家內通情事,但就信康本人來說並無實據。另外就是比較陰謀論的家康追放說,由於德川家長期支援織田家的戰事,對三河造成很大的經濟壓力。因此以石川數正為首的三河派的重臣打算擁立信康繼任,才招致德川家康反撲。此說亦無實證,只是從事後三河重臣大量變動進行推測。整體而言,信康之死的起因仍是未知數。ポルトガル語→Matsudaira Nobuyasu (松平 信康? 13 de abril de 1559 – 5 de outubro de 1579) foi o filho mais velho de Tokugawa Ieyasu. O seu tsūshō ("nome comum") era Jirōsaburō (次郎三郎?). Nobuyasu era também conhecido por Okazaki Saburō (冈崎三郎?), uma vez que havia se tornado o senhor do Castelo de Okazaki (冈崎城) em 1570. Por ter sido filho de Tokugawa Ieyasu, é normalmente chamado de Nobuyasu Tokugawa (徳川信康?). フランス語→生涯(背景)=Biographie[modifier | modifier le code]Nobuyasu est le premier fils de Ieyasu. Sa mère est dame Tsukiyama, nièce d'Imagawa Yoshimoto.Enfant, Nobuyasu est envoyé comme otage à Imagawa, capitale du domaine de Sunpu, situé dans la province de Suruga (actuelle préfecture de Shizuoka). Plus tard, il est nommé gardien du château d'Okazaki dans la province de Mikawa (actuelle préfecture d'Aichi), lieu de naissance de son père et prend part à la bataille de Nagashino en 1575. Plusieurs années plus tard, il est suspecté de trahison par Oda Nobunaga et retenu à Ohama puis à Futamata, avant de recevoir de son père - qui agit pour complaire à Oda Nobunaga - en 1579 l'ordre de se suicider, bien que Nobunaga a marié sa fille Tokuhime (1559-1636) à Nobuyasu.Nobuyasu n'est apparemment pas un personnage populaire en son temps, comme peut le laisser penser sa disparition. (En particulier, l'indifférence personnelle de Sakai Tadatsugu pour Nobuyasu le prévient de réfuter les soupçons de trahison). Malgré cela, il semble que Tokugawa Ieyasu a profondément regretté le rôle qu'il a joué dans la mort de son fils.







×

非ログインユーザーとして返信する