日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

「昭和維新」と軍国主義・15年戦争・Sino Japanese War・柳条湖から盧溝橋・さらに大きな戦争へ

軍人たちは権力を目差す・日本のファシズム・「昭和維新」:(日本の歴史・家永三郎)
ー1921(大正10)年10月27日、ドイツ西部の森の温泉地バーデンバーデンに、いずれも30代後半の働き盛りの3人の日本陸軍の軍人が集まっていた。その3人とはスイス駐在武官の永田鉄山少佐・ソ連駐在武官の小畑敏四郎少佐・欧米派遣中の岡村寧次少佐である。いずれも陸軍士官学校第16期生の「同期の桜」で、しかも3人とも、軍人のエリート養成所である陸軍大学校(陸大)の卒業生たちであった。3人はそこで何を話し合ったか。そのひとつは日本の陸軍を、第一次世界大戦のような近代戦に合わせて改革すること。もうひとつは薩長軍閥によって独占されていた陸軍のリーダーを実力主義で選ぶようにすることであった。
ーこの「バーデンバーデンの密約」こそ、後の昭和の軍国主義のひとつの出発点であり、軍人による政治の支配の第1歩であった。その後、こうした目的を持つ軍人の会が、次々に生まれた(二葉会・無名会・一夕会)。これらの軍人たちはみな陸大の卒業生であり昇進も早く、外国での生活の経験もあった。むろん彼らも一般の将校と同じように、隊長として部下の兵士を指揮したが、やがて呼び戻されて陸軍省や参謀本部に勤め日本の陸軍を実際に動かす実力を身につけていった。それで彼らのことをよく幕僚層という。15年戦争の歴史、日本の軍国主義の歴史は、これらの人々を抜きにして語ることは出来ない。
「桜会」と3月事件・10月事件・軍人と右翼の共謀:
3月事件
ーこれはロンドン条約をめぐる浜口内閣の混乱を切っ掛けに、時の陸相宇垣一成大将を首相とする軍人内閣(軍部政権)を作ろうとした無血クーデターの計画である。このとき桜会(中佐以下・現役将校のみとした軍人会)の橋本欣五郎(A級戦犯・終身刑・南京戦に参加・放火と虐殺を指揮した部隊長)らは右翼組織「行地社」所長の大川周明(A級戦犯容疑者)に指導され、軍人と右翼がはっきり結んでいた。
ー計画は社会大衆党右派の指導の下に、1万人の労働者のデモで議会を取り囲み浜口内閣を総辞職に追いつめ、元老の西園寺公望公爵に強要して宇垣内閣を作ろうというものであった。しかし労働者は2,3千人しか集まらず、肝心の宇垣陸相も軍隊の使用を求められると、計画からおりてしまった。橋本から大川一派に渡った爆弾300個は使わずじまいになった。この3月事件では、クーデターの資金が参謀本部から出た国家の金でまかなわれた。また直前まで、陸軍省の大臣・次官・局長・課長のほとんどが参加していた。
ーつまりそれは、国家予算を使って一官庁である陸軍省や参謀本部が企てた政府転覆計画であった。これは、下からの民衆運動を成功させて権力を握ったナチス・ドイツやファッション・イタリアとの大きな違いであった。
10月事件
ー3月事件の無血クーデターと同じことを、今度は血を流してやろうというのが10月事件である。主役はやはり桜会の橋本中佐らと「行地社」の大川周明であった。今度は陸軍が近衛師団から機関銃隊を含む11個中隊、海軍が後に有名となる霞ヶ浦航空隊から爆撃機13機を用意する。そして10月21日を目差しその日、首相官邸で閣議中の若槻首相はじめ全大臣を斬殺した後、警視庁・陸軍省・参謀本部を包囲し占領するという目論みであった。その上で日露戦争の英雄で元帥の東郷平八郎を担ぎ出して、天皇に新しい内閣のメンバーを承知させようとしていた。
ーこの10月事件は3月事件と違って、計画から陸軍大臣・次官・局長クラスは除かれていた。また約20万円(現在の2億円ほど)の資金も、藤田勇という政界の黒幕が出資した。そのためであろうか情報が漏れ、橋本ら幹部は軍の警察である憲兵隊に決行の数日前に検挙された。しかし陸軍の彼らに対する処分は、海岸や温泉地の旅館に収容して酒を飲んだり、松茸ご飯の弁当を食べたりするのを黙認するというものであった。主犯の橋本への罰ですら、重謹慎25日であった。ちょうどこれと前後して、同じ桜会のメンバーが握っている関東軍が、満州事変を起したのである。10月事件と満州事変は日本の内と外での、軍人たちの国家乗っ取り運動であった。
クーデター成功後の新内閣閣僚名簿
首相・陸相荒木貞夫中将(A級戦犯・終身刑)内相・橋本欣五郎中佐 外相・建川美次少将 蔵相・大川周明法学博士 海相・小林省三郎少将 警視総監・長勇少佐(南京陥落後、避難民に機関銃の一斉射撃を強要した悪質指揮官・沖縄戦で自決)
血盟団事件と5・15事件・政党政治の終わり:
ー3月事件と10月事件は、新聞には載らなかった。多くの国民がそれを知ったのは、15年のちの敗戦後であった。しかし軍人たちの間でも、このクーデターのやり方について反対の声が上がっていた。ことに庶民の出入り出来ないような高級料亭で、明治維新の時の倒幕派武士を気取って政治を語る大川周明たちのやり方(その金は、陸軍の費用や資本家の寄付だった)には、より若い潔癖な軍人たちあるいは、同じような右翼の活動家から、そんなことで本当の国家改造が出来るか、という声が起った。
ー1932(昭和7)年2月9日、小沼正という青年が、民政党の幹部井上準之助を射殺した。ついで3月5日、菱沼五郎という青年が、三井合名理事長の団琢磨を射殺した。この2つの事件の調べから背後に井上日召という、日蓮宗の僧を指導者とする右翼青年の組織である血盟団があって、「1人1殺主義」によって政界や財界の巨頭を倒そうとしていたことが分かった。そして暗殺に使用された拳銃が、海軍の軍人から渡されたことも分かった。この血盟団事件以後、大会社の社長たちは防弾チョッキを着込んだり「生命保険」といって、右翼に今までより以上に金を援助したりするようになった。そしてこの事件がまださめやらない頃、5・15事件が起った。
ー1932年5月15日、日曜日の夕方、古賀清志・三上卓・中村義雄の3人の海軍中尉に指揮された軍人たち6人は、陸軍士官学校生徒12人とともに、東京の首相官邸を襲った。そして、その時の政友会内閣首相犬養毅をピストルで撃って重傷を負わせた。78歳の老首相は、その日の深夜に死んだ。政党内閣の打倒を目指し「我々はまず破壊を考えた」(古賀の法廷陳述)というこの事件も、陰に大川周明・橘孝三郎という右翼の指導者がいた。特にピストル5挺・弾丸125発・資金6000円はその頃、満鉄の資金で作られた東亜経済調査局の刑事長であった大川周明から出されていた。
ーこれらの事件は「陰謀」と「暴力」がまかりとおるこの頃の日本の暗黒面を現した出来事として国民の心に、複雑な感情を呼び起した。犬養首相が殺され内閣が倒されたので、天皇から次の首相の推薦を頼まれた時の元老西園寺公望はただちに上京し、新首相に海軍の老将である斉藤実大将を推した。こうして1924(大正13)年以来続いてきた「憲政の常道」としての議院内閣制の原則は、その幕をおろした。わずか8年の歴史であった。
’柳条湖事件’の始まりは関東軍の完全な演出だった:(聯合艦隊・日米開戦編・世界文化社)
ー昭和6年9月18日午後10時20分頃、満州の中心都市奉天(現在の瀋陽、当時の人口35万人、日本人居留民2万3000人)の東北地方7・5キロの地点、柳条湖において、満鉄の線路が爆破された。なお従来の歴史書などで柳条湖は「柳条溝」と記述されたが、日中の歴史学者により「柳条湖」が正しい地名だと確定された。爆破地点は、中国の国民政府から東北辺防軍司令官に任命された満州の有力財閥、張学良の本拠北大営(当時兵力6800人)の西南角からわずか500メートルの場所だった。
ー爆破したのは日本軍、すなわち奉天独立守備隊歩兵第2大隊第3中隊の河本末守中尉と6名の部下だった。爆破は小規模で、枕木が2本破損した程度でレールが切断されることもなく、まもなくやってきた急行列車がそのまま通過した。だがその間に、日中の’戦闘’は始まっていた。爆発音に驚いて北大営から飛び出してきた中国兵を、北大営の北方4キロの文官屯で夜間演習をすると称して北大営に近づいてきていた第2中隊の本隊が、射撃したからである。当時、日本所有の満鉄の沿線には日本の軍隊が駐留して鉄道の警備に当たることが認められていたから、奉天市内には関東軍(兵力1万500.司令部は旅順)の第2師団第29連隊、奉天独立守備隊などが駐屯していた。
ーこの夜、かねてから爆破計画に参画していた奉天独立守備隊第2大隊第3中隊長川島正大尉は、夜間演習を行うと称して105名の部下を率いて文官屯に出動し、一方、やはり爆破計画に参画した同中隊の河本中尉の別働隊が、柳条湖に密行し爆破を実行したのである。川島大尉から独立守備隊と第29連隊の司令部に報告が行くと、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐(A級戦犯・絞首刑)が、連隊と独立守備隊に北大営と奉天城の攻略を命令。すると柳条湖の戦闘開始から、1時間もたたぬ午後11時ごろより、かねてこの日のために内地からひそかに奉天独立守備隊の兵営内に運び込まれ、北大営に照準があわせてあった24センチ榴弾2門が殷々たる砲声を響かせて砲撃を開始。
ー北大営は翌19日午前4時ごろ陥落し、奉天城も張学良が不抵抗撤退を指示したから、同日午後には日本軍に占領された。これが、以後朝鮮や内地から増援部隊を得た日本軍が、半年の間に熱河省を除く全満州を占領することになる満州事変の始まりだった。発火点となった’柳条湖事件’は、まさに関東軍の仕業だった。だが関東軍は「支那軍が満洲鉄道を爆破し、攻撃してきたので応戦した」と強弁。日本の国民は敗戦後の東京裁判で柳条湖事件の計画者たちが告発されるまで、「仕掛けてきたのは支那軍」と信じていた(日本政府は昭和5年10月に中国の正式呼称を従来の「支那」から「中華民国」へと改めたが、一般はまだ「支那」が用いられた。
ー計画者たちと関東軍高級参謀板垣大佐、同作戦参謀石原莞爾中佐、奉天特務機関花谷少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らだった。
ーさらに陸軍中央でも陸軍省軍務局軍事課長永田鉄山大佐、参謀本部第1部長建川義次少将をはじめとする有力者多数が、有形無形に応援していた。そして政党も、その年1月衆議院本会議で政友会の松岡洋右が幣原喜重郎外相に対する代表質問で用いた「満蒙(満洲と蒙古。蒙古は現在の中国内モンゴル自治区)は日本も生命線」なる言葉が流行語となったように、’満蒙熱’に浮かされていた。満蒙は日清・日露の戦争以来日本が「20億の国ど(国費)、1万の生霊(兵士の生命)という犠牲を払って権益を得た土地であるとして、国民の間にもまた領有への渇望があったのである。
東北軍閥張作霖爆殺・関東軍の暴走急速化:
ー満州事変はこのような下地の上に起きた。だから、時の若槻礼次郎内閣が戦火の拡大を阻止しようとしても、できなかった。かつて陸軍は大正デモクラシーの時代には、軍縮で師団数を減らされ、肩身を狭くして小さくなっていた。だが昭和3年6月に関東軍高級参謀河本大作大佐が、満州を地盤とする軍閥張作霖(張学良の父)を列車爆破によって暗殺した事件を機として、陸軍は急速に自己主張を強め、特に佐官クラスの幕僚将校が政治的策動に奔りはじめた。張作霖爆殺は、それを機として関東軍を出動させ、全満州を占領する戦いを引き起こそうとしたものだった。
ーだが爆殺後に関東軍を出動させるべく中央への根回しをしていなかったことと、張作霖の息子張学良が自重して戦闘行為を起さなかったために、戦いは不発に終わった。しかし、その後遺症は極めて大きかった。事件の犯人は関東軍の河本大佐だと判明し、外国ではそのように報道され、国内でも政界や陸軍では周知の事実になった。それにもかかわらず、陸軍出身の田中義一首相は、陸軍の反対に押されて事件を公表せず、闇に葬り、また河本大佐を予備役編入(退職させる)という行政処分ですませた陸軍の甘い処置を認めてしまった。
ーこれで味を占めて陸軍の態度が大きくなり、以後は陸軍に対して政府の統制が利かなくなったのである。さらに昭和5年4月にロンドン海軍軍縮条約が締結された直後に、補助艦トン数比率が対英米7割との内容に不満を抱いた関東軍令部が、「戦力を決めるのは天皇の統帥大権であり政府が決めることは許されない」と主張し、条約の批准阻止を図った。結局、条約は批准されたものの、軍は、天皇の権威を借りて政府の介入を許さず、自己の思いのまま行動する名目として「統帥権」なる強力な武器を手に入れたのである。
ー陸軍内ではもはや上層部が佐官クラス幕僚の政治的策動を制止できなくなった。そのような佐官クラス幕僚の暴走の最先端が、関東軍参謀の板垣・石原コンビだった。特に満州事変は独自の’世界最終戦争論’を持つ石原莞爾が描いたシナリオによって進行し、全満州占領が実現した。
リットン調査団・国際連盟脱退・上海事変と満州国の建国:
ー中国国民政府の蒋介石は国際連盟に対して、「満州事変は日本の侵略行為」、と訴え、国際連盟はリットン調査団を派遣する。日本と中国で現地調査した調査団は、「満州事変」は日本の侵略行為、と断定する報告書を提出。昭和8年2月、国際連盟総会の決議は圧倒的多数で報告書を承認し、日本がつくった満州国を否認した。此れに対し、松岡洋右代表は抗議して退場し、間もなく政府は連盟脱退を通告する。
ー昭和7年1月18日、日本人僧侶殺害をきっかけとして上海で日中両軍の戦闘が開始された。いわゆる第一次上海事変である。だが、このきっかけをつくったのは、またしても関東軍による謀略であった。そして、関東軍は清朝最後の皇帝・溥儀をかつぎだし、世界の目が上海に向けられている隙をねらって、3月1日に満州国の建国宣言を行わせた。
ーアメリカなど列強は、事変は日本軍の関東軍がやったものだとの情報をいち早くつかんでいた。北平(北京)駐在の米国大使ジョンソンは9月22日、本国のH・L・スチムソン国務長官に対し、9・18事件(満州事変)は「明らかに長期にわたり計画され、もっとも注意深く組織的に実行された日本の侵略行為である」と打電した。たが当時の大統領H・C・フーバーも国務長官スチムソンも、前任の浜口内閣以来外相を歴任して中国不介入政策を続けてきた’第2次幣原外交’(幣原喜重郎)に望みを託していた。スチムソンは柳条湖事件翌日の記者会見でも「上官の命令に服さない兵士による騒乱は、軍事行動とは異なる」と語り、若槻首相と幣原外相の事件不拡大の努力を邪魔しないようにと気づかいをしていた。
一方、中国は張学良が不抵抗主義を採って満州南西の錦州に退いたが、蒋介石の国民党軍も中国共産党軍と死闘を展開中で、日本軍と戦う余裕がなかった。そこで国民政府は折からスイスのジュネーブの国際連盟事務局本部で開かれていた総会と理事会に、柳条湖事件を提訴した。日本は国際連盟加盟46カ国中で英、仏、独、伊と共に常任理事国となっていたが、中国も9月14日の総会で非常任理事国に選出されていた(非常任理事国は9カ国で毎年3ヶ国ずつ改選)。
ー中国の施肇基代表(駐英大使)が熱弁をふるって日本の’侵略’を訴えたのに対し、日本の芳沢謙吉代表は、日本軍の出動は治安維持のためであり、その目的を達したらすぐに撤兵すると釈明した。英国をはじめとする列強理事国は日本に対して宥和的態度をとり、両国がすみやかに事態収拾に当たることを要望するにとどまった。だが10月18日に関東軍は偵察機など11機により錦州を爆撃した。石原莞爾中佐みずから操縦して視察し、25キロ爆弾75発を投下、死者16人・負傷者20人を出したこの爆撃は、戦術的な効果を狙ったものではなかった。
ーこのような軍事行動の拡大により幣原外相の立場をなくし、同時に若槻内閣や軍中央が、関東軍の全満州制圧という方針に同調せざるを得ないように追い込むのが、錦州爆撃であった。関東軍首脳と板垣、石原ら幕僚はすでに柳条湖事件直後の9月22日に、満州を日本が実質的に’指導’する独立国家とする基本方針を決めており、以後の一方的な戦線拡大はすべてその方針から 出た行動であった。
ー錦州爆撃により国際連盟の雰囲気は日本に対して一気に悪化した。米のスチムソン国務長官は激怒し、出淵勝次駐米大使を呼んで言った。「日本軍の飛行機は満鉄沿線100数マイルも離れた錦州を爆撃し、無辜の市民を殺害した。これは驚くべき出来事で、日本政府の方針が出先軍隊に徹底しているのかと疑がわざるを得ない」。また日本軍の行動は中国の領土と行政の保全尊重を約束した9カ国条約(大正10年のワシントン海軍軍縮会議で締結)に違反することも指摘した。
ー国際連盟は10月15日開催の理事会で、連盟末加盟の米を、理事会オブザーバーとして招く案を13対1(反対1は日本)で可決。しかしスチムソンはまだ慎重で、ジュネーブのギルバート米国代表の連盟理事会出席を制限し、日本を必要以上に刺激しないようにと気を配った。理事会は10月24日に、日本軍は11月16日までに満州から撤退せよとの勧告案を13対1(反対は日本)で可決。世界中が息を呑んで満州を注視した。だが関東軍の戦線拡大はやまなかった。11月19日には北満州チチハルを占領。国際連盟の日本代表は連盟が満州に調査委員会を派遣する案を出す(12月10日可決)など、必死で国際世論をなだめた。だがその3日後には若槻内閣が閣内不一致で総辞職し、幣原外相も辞職して、’幣原外交’も終焉、スチムソンはもはや日本政府は満州の日本軍をコントロールできないと見定めた。
ー案の定、翌昭和7年1月3日には、日本軍はついに満州における張学良の最後の拠点である錦州まで占領。張学良は戦わず華北へ撤退した。国際連盟では日本に好意的だったドラモンド事務総長が、「日本は恥を知らぬのか。日本の武士道はどこにある」と、杉村陽太郎事務次長に語った。この段階になると米国務省ではキャッスル次官、ホーンべック極東課長らが対日経済制裁発動の可能性も検討し、日米経済断交は日本にとっては決定的なダメージを与えるが、米側にはほとんど影響はないとの結論を得た。スチムソンはフーバー大統領に経済制裁の検討を進言したが、フーバーは賛成しなかった。
ースチムソンは日本に対して軍事占領下に結ばれた条約は、一切承認しないと通告する’スチムソン・ドクトリン’を発表したが、これには英仏が同調せず、空振りに終わった。特に英国は中国に対して日本と同種の権益を持つ立場から、日本に対して同情的だった。だがこの間に関東軍は、謀略を用いて満州から列国の注意をそらせ、事変直後からの計画であった「満州国」の独立を果たしてしまった。関東軍高級参謀板垣大佐が上海の公使館付武官補佐田中隆吉少佐に2万円の資金を渡し、無頼の中国人を雇って日本人僧侶を襲撃させる事件を起した(昭和7年1月18日)のを機に、海軍陸戦隊が国民党軍と戦い、やがて内地から出兵した陸軍も戦闘に加わる上海事変に発展したのである。
国際的孤立と華北分離工作:
ー列国の目が上海に集まっているうちに関東軍は3月1日、やはり謀略を用いて天津から脱出させ、満州へ連れて来ていた旧清国の廃帝溥儀を執政として擁立し、満州国独立を宣言させたのだった。国際連盟加盟の列国も米国も満州国は日本の安全な’傀儡国家’だとして認めなかった。国際連盟が満州の調査に派遣したリットン調査団が昭和3年10月に出した報告書も、満州国を認めず日本の満州支配を厳しく批判するものだった。日本は国際連盟で反論したが、翌年8年1月の日本軍の山海関占領と熱河攻撃は国際連盟の空気を硬化させた。
ーついに2月24日の総会で報告書が賛成42対反対1(日本)で採択され、日本代表松岡洋右は抗議して退場した。翌3月に日本は正式に国際連盟を脱退、’世界の孤児’となった。アメリカでは前年秋の大統領選挙でフーバーを破って当選したF・D・ルーズベルトが、この年3月に正式に大統領に就任し、スチムソン以下の強硬論者にして原則論者であるC・ハルを国務長官に登用した。アメリカと、ファシズムに傾斜する日本とは、このときから妥協のない平行軌道を走り始めたのである。
ー帝政ドイツの歴史学者であるトライチケ(1834-96)はこんな警告をしている。「軍隊は国家元首の真思に無条件に服従するべき定められたものであるから、いささかも軍隊独自の意思をもつことはない。もし軍隊が独自の意思を持つとしたら、すべての政治的安定が失われてしまう。およそ討論し党派に分裂した軍隊ほど恐るべき害毒はほかに考えられない」
ーだからこそ英、米に代表される民主主義先進国ではシビリアン・コントロール(文民政府)を貫徹し、政治が軍事を完全支配して軍隊に「独自の意思」を持たせない体制ができあがっている(現在の日本もそのはずだが)。ところが戦前の日本では、1931(昭和6)年の満州事変を機に、それまでにも少しずつ「独自の意思」を育てていた軍隊が、一気に政府のコントロールから遺脱して「すべての政治的安定」を破壊してしまった。その軍隊の暴走が、日中戦争から太平洋戦争へと日本を迷走・破滅させる「恐るべき害毒」となって、国民はもとよりアジアの民衆を塗炭の苦しみに追い込むのである。
ー関東軍は1932年3月「満州国」建設に成功した後も、常に満州・中国の国境である万里の長城より南、すなわち中国領内への進出を狙い、蠢動した。それは満州に隣接する中国華北地方を日本の実質的な支配下に組み入れることにより、満州国内での反日武力闘争に浸透する中国共産党の勢力を阻止するとの名目に基づく動きだった。1933年4月10日にはじまる関東軍の華北侵入は、北平(北京)城外まで迫った時点の5月末日、関東軍参謀副長・岡村寧次少将と中国東北軍事委員会分会総参議・熊斌中将との間で、5月10日に塘沽停戦協定が結ばれたことで終わった。
ーこの協定は万里の長城以南に非武装地帯を設け、中国軍の撤退を確認後に日本軍も撤退し、以後の治安維持は中国の警察が担当するというものである。中国国民政府の大幅な譲歩を示すこの協定によって、満州事変以来の日本軍の軍事行動は一応の区切りを見た。ところが今度は満州にいる関東軍ではなく、中国の国内にいる日本の支那駐屯軍が蠢動をはじめた。中国では清朝末期の1900年に起きた義和団の乱で英・米など8カ国が出兵して北京を占領して以来、清朝との議定書により8カ国は北京から天津を経て海港までつなぐ交通網の警備を理由として、若干数の軍隊を駐屯させる権利を得ていた。
ー日本の支那駐屯軍は天津に軍司令部を置き、約1700名の兵力を持っていた。この支那駐屯軍が1935年から36年にかけて、関東軍の協力を得て華北5省(河北・山東・山西・チャハル・綏遠)を中国から切り離し、第2の「満州国」化しようとする華北分離工作に乗り出したのである。35年5月2日、天津の日本租界で親日的新聞社の社長が暗殺された事件を捉えて、支那駐屯軍(司令官・梅津美治郎中将(A級戦犯・終身刑))が国民政府の華北責任者である中国軍事委員会北平分会長の何応欽を脅迫し、6月10日に梅津・何応欽協定を結んだ。これは河北省から国民党行政機関の撤退を求め、北京と天津を実質的に非武装化する協定だった。
ー以後、同年6月下旬には関東軍奉天特務機関長・土肥原賢二少将(A級戦犯・絞首刑)がチャハル省首席代理・秦徳純との間で、チャハル省北西部から中国軍を撤退させる土肥原・秦徳純協定を締結。12月下旬には関東軍の後押しで、中国軍が入れぬ区域である冀東(河北省東部)に親日派の国民党幹部・殷除耕を首席とする「冀東防共自治委員会」なる傀儡政権を樹立し、国民党政府からの離脱を宣言させた。また1936年11月には、これは失敗に終わったが、関東軍の謀略により組織され、内蒙古の独立を主張する部隊が綏遠省に進出し、中国軍に敗れる綏遠事件も起している。
ーかつて満州事変を起した当時の関東軍はわずか1万人余りの部隊だったし、華北分離工作に乗り出した支那駐屯軍もわずか1700余名(1936年に中国に無断で5000名に増加)にすぎなかった。そのような少数の部隊でも軍隊が政府の統制を遺脱して「独自の意思」を持つと、政治的外交的に見れば途方もない’悪事’をしでかすということが、よく分かる。だからこそ歴史家トライチケが「軍隊はいささかでも独自の意思を持ってはならない」と警告したのである。
盧溝橋事件と日中全面戦争の開始・拡大する戦線:
ー日本軍の華北分離工作は中国国民に激しい反発を引き起こし、学生の抗日デモや日本製品不買などの広範な反日運動が広がった。中国の国民政府は中国共産党と戦う一方で、日本軍を相手にしなければならなくなった苦しさから、前記のような各種協定を結ぶなど譲歩を続けてきたが、いまや国民の反日意識の高まりに伴って、中国軍も次第に戦意を高めつつあった。そういうところへ起ったのが、1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件であった。
ー同日夜10時過ぎ、北京城の南西約6キロ、永定河にかかる古い橋、盧溝橋の近くで夜間演習をしていた支那駐屯軍の第3大隊第8中隊の、仮設敵の軽機関銃が演習用の空砲弾を発射したところ、中隊に向けて実弾が3発飛んできた。この区域には中国軍の駐屯地もあり、第3大隊が演習していた背後の永定河の堤防にも、中国軍が陣地を築いていた。そんなところで反日感情が高まった時期に演習をするという点に、日本軍の奢りがあった。3発の実弾の銃声に驚いた中隊長が点呼した際に兵士がひとり行方不明だったことが、中隊長の上部への報告を重大なものにした(兵士は用便で点呼に遅れただけで、20分後に復帰)。
ー3発の実弾を放ったのが誰であったかは、いまだに謎である。日本軍の謀略説、中国軍説、中国共産党説と、いろいろあるが確定できない。この3発の銃声が日中戦争の発端となった。中隊の報告を受けた支那駐屯軍の上部が応援部隊を出動させ、周囲の中国軍を攻撃してついに戦闘がはじまったのである。陸軍から事件の報告を受けた近衛内閣は、当初は事件不拡大で一致していた。だが陸軍中央(陸軍省と参謀本部)では中堅幹部のなかに、この事件を機として中国軍を一撃して屈服させ、華北分離や反日運動の終息を実現しようと考える積極・強硬派が、上層部を突き上げて関東軍の応援出兵や内地からの派兵を主張した。
ーその反面、中国で戦争になれば満州国の背後からソ連が出てくることを恐れて不拡大を主張する参謀本部第1部長石原莞爾少将らもいた。だが積極・強硬派は、ソ連がこの前月6月の乾岔子島事件(ソ・満国境黒竜江の中洲での国境紛争)を日本に譲る形で終結したことから、ソ連に日本軍の背後を衝く意思なしと判断できるとして、ついに不拡大派を圧倒した。たしかにソ連はスターリンによる赤軍の大粛清が進行中で、満州で日本に戦争を仕掛ける余裕はなかった。陸軍大臣杉山元大将は、「便所のドア」(押したほうに開く)と渾名されたほど、容易に部下の意見に動かされる人物だった。近衛文麿首相(戦後服毒自殺)は軍部テロを異常なほどに恐れて、軍部迎合の姿勢を取っていた。
ー広田弘毅外相(A級戦犯・絞首刑)は満州事変以来外務省を翻弄し続けてきた陸軍の大陸での暴走ぶりに、半ばあきらめの姿勢だった。7月11日に現地で一度は休戦協定が結ばれたのに、陸軍中央の拡大派の勢いを押さえ切れずに派兵に至ったのは、近衛や広田に毅然たる不拡大の意見がなかったからだった。そんな状況の中でほとんどひとりで反対を唱えたのが、海軍大臣・米内光政大将だった。当時海軍省は大臣・米内、次官・山本五十六中将、軍務局長豊田副武中将とも事件不拡大で完全に一致し、軍令部も含めて部内統制に問題はなかった。その海軍を背景として米内は「陸軍派兵は全面的対支作戦の動機になる」「派兵すれば事件は拡大し1,2ヶ月で中支にまで波及する」「第二の満州事変にすることは絶対にしない」などと主張し、閣議でも陸軍部内の突き上げで派兵派となった杉山陸相に厳しく迫った。
ーだが結局、「北京、天津の居留民(計1万2000人)保護」という錦の御門の前に、渋々ながら第1次派兵(関東軍から2旅団、朝鮮軍から1師団)と第2次派兵(内地から3個師団)に同意せざるを得なかった。これが7月28日には華北の日本軍の総攻撃が始まった。
第二次上海事変(共同租界地での事件)と侵略戦争・泥沼化:
ーそして8月に入ると、米内も拡大派へと変貌する。それは戦火が華中の上海に飛び火したことが切っ掛けだった。上海は海軍の縄張りだった。海軍は1932年に起きた上海事変以後も、華中の沿岸に第3艦隊を常駐させ、上海には共同租界を警備する特別陸戦隊(2500名)を置いていた。それが8月9日に陸戦隊の大山勇中尉と水兵19名が共同租界外で中国の保安隊に射殺された事件を機に、8月13日には陸戦隊は上海の12万の中国軍と交戦状態に入った。
ー海軍はそれまでの不拡大の姿勢を捨て、陸軍にも華中への派兵を求め、8月12日には動員規模30万人に上る第3次派兵が決定。米内は華中までの事件拡大を望まぬ陸軍に対して、「いまや不拡大主義は消滅した」「南京くらいまで攻略して模様を見ては」とまで言って、大規模派兵を強く主張した。良識派・米内も、海軍の縄張り内での居留民保護の名目と、苦戦を続ける陸戦隊を救わねばならぬという、軍人としての本能には勝てなかったのである。中国側国民政府は当初は抗日戦の発動に消極的だったが、7月28日の日本軍華北総攻撃開始により、徹底抗戦の決意を固めた。
ー蒋介石はもはや満州事変のときのように国際連盟には頼らず、国内では共産党と休戦して共同で日本軍に当たる「国共合作」の作戦をとり、国際的には英・米・ソなどに経済・軍事の援助を求める方策を取った。アメリカはすでに7月中旬から日本軍の行動を非難する声明を発表し、10月にはルーズベルト大統領が日本の行動を認めないとする不承認主義を取ると声明した。その一方で国民政府に対する経済援助を開始。だが米だけではなく西欧先進諸国の目は、前年7月に始まったスペイン内乱(フランコ将軍に率いられた軍部がスペイン共和国政府に反乱を起す)の展開の方へ引きつけられ、盧溝橋事件の前々月に起きたスペイン・ゲルニカ市の爆撃(フランコ軍支援のドイツ空軍の無差別爆撃で市民死傷者2000余人)に憤激していた。
ーその間に中国の日本軍は次々と戦線を拡大し、開戦後1年半のうちに上海、南京、徐州、漢口など主要都市を占領し、国民政府は中国奥地の四川省重慶に首都を移した。日本軍はずでに上海での交戦開始直後から、海軍航空部隊が台湾や長崎県大村の基地からの渡洋爆撃を行い、世界を驚かせていたが、以後は陸軍機も加わり各都市への爆撃を続けていた。それが1939年5月からは脚の長い海軍機が重慶や成都など奥地の都市まで爆撃を始めた。このような日本軍の無差別爆撃は国際世論の強い反発を引き起こしたが、もはや米内や山本五十六などの海軍’良識派’にも、国際世論に配慮するまでの余裕はなくなっていた。
ー1939年7月26日、ついにアメリカは突如として日米通商条約の廃棄を通告してきた。原油、精鋼、機械類、飛行機材料、屑鉄など、軍需物資の半分以上をアメリカからの輸入に頼っている日本にとって、通告から1年後に実施となるこの条約の廃棄は痛烈な大打撃であった。日本は軍部も政府も、中国との戦いがこんな大戦争となるとは思っていなかった。当初は「支那軍は弱いから、一撃すれば屈服して言うことを聞かせられる」と甘く考えていた。だが装備の劣る中国軍は日本軍と徹底的には戦わず、退却して奥地に逃げる戦略を取ったから、日本軍は都市は占領しても肝心の中国軍を補足殲滅することができず、国民政府の戦意を喪失させることはできなかった。
ー日本は中国に宣戦布告して正式な戦争にすると中立国から物資輸入が不可能となることを恐れて、最後まで「支那事変」の名称を変えなかったが、1939年末の時点で中国に85万人(26師団、1騎兵旅団、20混成旅団)を派兵している大戦争になっていたのである。同年9月、ヨーロッパでドイツ軍がポーランドに侵入して第二次世界大戦が勃発。ドイツの尻馬に乗る日本に対するアメリカの反発は、さらにエスカレートすることになる。
綏遠事件と西安事件・第二次国共合作:
・・・川越・張群会談で中国側が強く固執した要求は、冀東政府の解消と綏東省偽軍の解散であった。ところで、「綏東偽軍」の偽軍とは、関東軍の傀儡部隊の意味であるが、それは関東軍側からみると、次の3つの部隊から成り立っていた。その第1は先に見たような熱河作戦の時期から養成してきた李守信軍であり、第2は国民政府からの自治を要求して35年頃から関東軍に近づいた内蒙古の王族・徳王の部隊であった。関東軍側はこの両者を合わせ、徳王を中心として内蒙の支配を拡大することを企てるのであり、そのために新たな軍事力として36年7月以後、内蒙古特務機関長田中隆吉中佐が中心となり、無頼の徒や旧軍閥を集めて王英を長とする雑軍をつくりあげた。
ーこれが偽軍の第3の部隊となるのであるが、田中はこれらを集めて徳王傘下の内蒙軍とし、11月14日、王英軍を先頭として、綏遠省に進攻したのであった。しかし同省主席傅作義の指揮する中国軍はこの進攻をはねかえすとともに、23日には進んで内蒙軍の拠点・百霊廟を占領するに至っている。この間、中国国内では綏遠情勢に大きな関心が寄せられており11月に入ると、各界救国連合会の指導する綏遠援助の運動が展開され、傅作義軍勝利のニュースは中国民衆を熱狂させたのであった。しかし10月から陝西省の中共軍に対してあらためて第6次討伐作戦を開始していた蒋介石は、11月17日には太原に飛び、傅作義軍激励の通電を発したものの、他方では中共討伐戦の督励につとめていた。
ーこうした蒋介石の立場からみると中共軍と実質的に停戦して討伐を実行しない張学良・楊虎城らは大きな障害であり蒋介石は11月4日、自ら西安におもむいて中共軍への攻撃を厳命した。これに対して12月12日早朝、張傘下の一隊は蒋を逮捕・監禁しその夜、張学良・楊虎城は全国に通電し、蒋介石の生命を保証するとともに他党派をいれた南京政府の改組、内戦の停止、愛国的指導者の釈放、集会・結社の自由の保証など8項目の要求を発表した。この西安事件の突発ニュースは世界的に大きな衝撃を与えた。南京ではただちに強硬派によって張学良攻撃が準備され、一方西安では8項目を受けいれない蒋介石を処刑すべきとの意見も強まっていた。
ーしかし張学良から招かれて西安に入った共産党幹部周恩来は、蒋を説得しつつ平和的解決に奔走しついに蒋介石を南京に向けて帰還させることに成功した。このとき、蒋は何の文書も残さなかったが、内戦は事実上停止されることとなった。
どくまで続くぬかるみぞ・戦線の拡大・戦火は華中に飛び火:日本の歴史・家永三郎)
ー1937(昭和12)年8月13日、戦いの火は上海に燃え移った。日本政府は、国内にいた陸軍2個師団を中国におくることを決めた。慎重だった天皇もついに、「もうこうなったらやむを得んだろうな。軍令部もそう思っているのだろう。かくなりては、外交にておさむることはむずかしい」という感想を、侍従武官にもらしたという。
ー8月15日、日本海軍の渡洋爆撃機は上海・南京を空襲した。同じ日、蒋介石は、対日抗戦のための全国総動員令を発し、自ら陸・海・空3軍の総司令に就任した。それから、ちょうど8年目の8月14日まで、日本と中国は戦っていたのである。
ー上海においての、中国軍の反抗は激烈を極めた。9月から10月にかけて日本軍は、次第に兵力を増やし作戦目標を国民政府の首都南京において猛攻を加えた。しかし30個師団の中国軍は頑強に戦い続けて、戦況は停滞した。この間、日本軍は早くも弾薬不足に苦しんだ。またソ連方面の兵力を温存するために、兵力の出し惜しみをした。小出しに増兵するというへたな方法を取ったので、軍のいう一撃で叩くという早期解決の道は、おのずと閉ざされてしまった。
ーこれに対して中国側は、8月中にすでに、中ソ不可侵条約に調印し、中国共産党の紅軍を国民革命軍第八路軍(軍長は朱徳・人民解放軍の元勲)に改めて国共合作を大きく前進させた。さらに9月に入って、蒋介石が中国共産党の政治的地位を認める談話を発表するなど、政治と作戦の一致が進められた。11月までに華北での戦いはほぼ終わり、日本軍は北京・天津をはじめとして、主要な都市と鉄道を占領した。後は中国共産党と八路軍がゲリラ戦を繰り広げ、広い農村に解放区を作り抗日根拠地がつくられた。一方、3ヶ月にわたる中国軍の抵抗が続いた華中では11月5日、上海戦線を後から突くために上海南方の杭州湾に、柳川平助陸軍中将を司令官とする3・5個師団の第10軍を上陸させた。「日軍百万上陸杭州湾」のアドバルーンをあげながら、上海の中国軍を囲む態勢をとった。
ーこのため11月11日から、中国軍は南京に向って大撤退をはじめた。上海派遣軍と第10軍を合わせた中支方面軍(司令官は松井石根陸軍大将・A級戦犯・絞首刑)は、これを追って激しい追撃戦に移った。東京の陸軍参謀本部は参謀次長多田駿中将を中心に、これを止めようとした。しかし結局、現地軍に押され南京占領の命令を出した。このため折から進められようとしていた平和工作(駐華ドイツ大使トラウマンを通じて、蒋介石に話を持ち込んだのでトラウマン工作という)は、南京攻撃が進むにつれて日本側の条件が重くなり、結局ご破算となった。第2のそして、8年間を通じて最大の平和へのチャンスは失われた。
ー12月13日、中支方面軍は南京を占領した。中山城の城壁には日の丸が翻った。そして南京大虐殺を引き起こす。中国民衆は怒りに燃え、すでに揚子江中流の漢口(いまの武漢)に移っていた国民政府は早くも11月20日には、次の首都を奥地の重慶にすると宣言し、徹底的な反抗の姿勢を示した。戦いの第1年はこうして暮れた。2万人以上の死者を含む約7万人の死傷者を出した。しかし戦いは、いつ終わるかわからなくなった。そうした中で、1938年がやってきた。この年1月16日、日本政府は5日前の御前会議の決定に基づき、先に平和交渉の仲介者となった駐華ドイツ大使のトラウマンを通じて国民政府に対して、平和交渉の打ち切りを通告した。
ー同時に近衛首相は「国民政府(蒋介石政権)を対手とせず」という、重大声明を発表した。それは普通の国交断絶より強いもので、これによって支那事変の平和的な解決の道はほとんど完全に閉ざされた。日中両国の大使はそれぞれ引き揚げ、日中両国の間の正式な外交ルートは断ち切られた。
ー1938年の冬が過ぎると、日本軍の攻撃は活発となり戦線はさらに拡大した。とくに天津より浦口(南京の対岸)に向う津浦線にそって展開している北支那方面軍第2軍では、その前面に中国軍が増大してきているとして、それに一撃を加えることを主張していた。蒋介石は交通の要衝である徐州防衛のため精鋭といわれた湯恩伯軍を投入していた。結局参謀本部も、決して深追いはしないという第2軍の言を信じてこの作戦を認可したが、このことは、戦面不拡大方針が崩れ出す切っ掛けとなるものであった。38年3月13日、第2軍は第5・第10の両師団に作戦開始を命じたが、南下した先頭部隊は3月15日頃から徐州前面の台児荘付近で有力な中国軍の反撃を受けて苦戦し、4月6日には後退を余儀なくされた。

ーこの台児荘の戦闘を中国側は大勝利と宣伝したが、大本営は蒋介石直系の主力部隊が前面に出て来たと考え、4月7日には、決定してから2ヶ月にもならない戦面不拡大方針を完全に放棄し、北支那派遣軍に対して、徐州攻略を命じた。徐州は済南と南京のほぼ中間、海州から中国大陸を東西に横断して西安に至る隴海線と津浦線が交わっている要衝であり、この作戦は華北と華中の占領地をつなげ、臨時政府と維新政府を握手させることをも目的とするものであった。徐州作戦は4月18日、北からの第2軍の前進が開始され5月初旬には、徐州の東側を第5師団が、北から西側にかけて第10、第16師団が南下し、これに呼応して中支那派遣軍の第3、第6、第13師団が南から西側にかけて北上するという大包囲の体制がつくられた。
ーしかしこの作戦を察知した中国側は、包囲線が完成する前に退却戦術をとり5月19日、日本軍の先頭が徐州に到着したときには、すでに徐州には中国軍の姿はなかった。結局この作戦は華北と華中の占領地をつなげたものの、中国軍主力を殲滅するという目的を達することはできなかった。日本軍は8月から10月にかけて華中の揚子江中流にある武漢3鎮(漢口・武昌・漢陽)と華南の中心である広東(今の広州)を占領し、ついで10月27日には武漢3鎮を占領した。これによって中国の海岸部・平野部の都市は、ほとんど日本軍に占領された。中国は都市・鉄道・工場地帯を失ったばかりでなく、海上交通は断ち切られ国家としては、ばらばらに分断された。
ーしかし国民政府はかねての予定通り、山に囲まれた四川盆地の重慶に籠り、徹底抗戦の態勢を変えなかった。その後日本軍はすでに占領した地域を保つことを主とし、新しい大攻勢を余りしなくなった。これに対して中国側ーことに中国共産党と八路軍は大都市周辺、鉄道の沿線、平野部などで、ゲリラ戦・遊撃戦を行った。またその背後にある山岳地帯・湖沼地帯・平野部には、抗日軍兵士と農民の結びついた根拠地をつくって抵抗を続けた。かなり広大な農村地区が都市なしに自給自足できる、つまり経済的に独立できるという、中国社会の性格は根拠地を育てるのに適していた。
ーそれが長期抵抗あるいは持久戦の土台となった。中国共産党の指導者とくに、河南省の農村に生まれた毛沢東はそういう中国の社会によく合った抗日戦の指導をしたのである。中でも代表的な根拠地は、「晋冀祭辺区」である。ここでは1939年現在で、河北・山西・チャハルの3省74県と人口千数百万を指導し国・共2党を中心とした行政委員会のもと、18歳から50歳までの民衆を、男女平等に「人民抗日自衛軍」に編成した。民衆に信頼される辺区銀行をつくり、厳しい抗日闘争を繰り広げた。
ーそれは抗日民族統一戦線のモデル地区ともいうべきものであった。こうして日本軍は、いわゆる「点と線」(都市と鉄道)のみを占領し広く大きな「面」(農村)は中国民族の自治が打ち立てられているという状況が成立した。この状況は1945年の日本敗北の日まで、基本的には変わることがなかった。そしてさらに成長し発展して、ついに大都市に及び後の中華人民共和国の土台となって行くのである。また1935(昭和10)年頃、関東軍参謀だった河辺虎四郎中佐は中国はかわりつつあるという民間人の意見を聞いた。
ーそこでこれを関東軍参謀副長であった板垣征四郎少将に伝えた。ところがただちに、「支那はいぜん、支那である。若い者の中には、一部そういうことをいう者もいるが、その点は一局部的な観察である。きみの聞かれているほど、深刻には進んでおらぬ」という答えが返ってきた。中国と戦う以上、中国人及び中国のことを、誰よりもよく研究していなくてはならないはずの作戦担当の軍人ですら、明治以来の「チャンコロ」という中国人観を捨て去ることができなかったのである。

「国家総動員」体制の成立・戦時体制強化:
ー近代戦争は、総力戦であるといわれている。国家の全経済力・全生産力が戦いを演ずるのであって、単に軍隊と軍隊がぶつかり合うのではないからである。「国民政府を対手とせず」の声明によって、支那事変が、すぐに終わる見込みはなくなってしまった。そのことは、政府にとって長期戦に備える必要を起させた。そこで政府は、国家の全経済力をその手につかみ、いつでもそれを総動員できるような仕組みを必要とした。
ーこうした必要から生みだされたのが「国家総動員法」である。それは日本の経済の仕組みを、すべて戦争のための経済に改造してしまおうとする法律であった。「国家総動員法」は、1938(昭和13)年1月にその要綱が発表された、そして前年の12月から開かれた第73帝国議会にかけられ、約2ヶ月の審議をへて1938年3月24日に貴族院を通過し成立した。その公布は4月1日であった。
ーこの法の基本目的は、第1条に示されている。国家総動員とは「戦時(戦時二準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム)=際シ、国防目的達成ノタメ、国ノ全力ヲ最モ有効二発揮セシムルヨウ人民及ビ物的資源ヲ統制運用スル」というのである。ここでいう人的資源とは、国民の労働力を指し、戦争のための工業や運輸通信の仕事に、国民を徴用できると決められていた。このために民間工場の労働者を徴用して陸海軍の工場にうつしたり、一般の民間工場の労働者を、兵器生産の民間工場にうつしたりすることは、政府の権限とされた。それはナチスドイツの祖国補助勤務法のような法律によく似ていた。
ー次に物的資源とは、武器弾薬はいうに及ばず、戦場に送るべき衣料品・食料品ー木綿のシャツやビズケット・チョコレート類もこれに入ってしまうーをはじめ、薬品・医療器具・船・飛行機・自動車・馬・建設材料・石炭・石油・電力・鉄鋼などにわたった。政府は、これらのものを自由に使用または収用できる権限を持つことになった。
ー従って、それは資本主義の大原則である経済活動の自由を殺し、政府・陸海軍部と巨大な資本の結合体が、日本経済を全面的に支配する仕組みをもたらすものであった。その点では、この法が成立したすぐ後には、三井のリーダー池田成彰が、近衛内閣に入ったことは、日本の財閥がみずからこの結合体に参加したことを示す重要な事実である。こうして国家総動員法は成立した。そしてやがてはじまる第2次世界大戦は、ドイツはむろんイタリアで、フランス、イギリスで、つまり敵味方を問わず、それぞれの国家総動員の仕組みを生み出させた。

日本軍の戦略爆撃強化・重慶政府封鎖作戦:(第二次世界大戦全戦線ガイド・青木茂)
ー中国軍は武漢へ入り、そこで約4ヶ月間日本軍の攻撃を食い止めた。そして10月27日に武漢が陥落すると「大後方」と呼ばれた重慶へ退却して行った。これを追って日本軍はさらに西へと兵を進めたが、中国奥地に進むにつれて次第に地形は険しくなり、中国軍の抵抗は激しくなっていった。日本軍は爆撃の強化を決め、陸軍は新型の97式重爆の不足からイタリアのファイアットBR20爆撃機を購入した。これに対し、中国側はソ連やアメリカの義勇兵パイロットの応援を受け、空でも激しく抵抗した。
ー日本軍は重慶に拠った蒋介石の中国軍を攻めあぐねた。重慶は大巴山脈の背後にある要害の地である上に、揚子江の河幅が狭くなっていて、大きな船をそこまで通すことができなかった。また、それまでの戦いで日本軍は兵力・補給とも全力を出し切っていた。そこで重慶などの中国奥地の都市を無差別爆撃によって破壊し、国民党政府の交戦意欲を奪うことが考えられた。当初、主として海軍が中型の攻撃機によって蘭州や重慶を爆撃した。その後、武漢に航空基地を設けたが、1938年12月25日から開始された爆撃は、翌年1月に霧のため一旦休止し、さほど大きな戦果を上げられなかった。
ー特に重慶については、夏を除いて霧に閉ざされていて目標を視認できなかったのがその原因であった。霧の晴れた翌1939年5月3日と4日に行われた重慶に対する爆撃では、焼夷弾が使われ大打撃を与えた。この時点では、中国は爆撃に対する準備を全くといっていいほどしていなかったのである。しかしそれでも爆撃によって中国の民衆の士気を挫くことはできなかった。その後の重慶に対する空襲は再び霧の季節がやってくる10月7日まで続き、死者5000人、負傷者4000人を出した。

揺れ動く戦争指導・「東亜新秩序」声明:(日中戦争・古屋哲夫)
ー武漢・広東両作戦が終了した38年11月の段階は、日本の戦争指導者たちが、戦争の全面化以来もっとも楽観的な見通しを持ち得た時期であったように思われる。例えばこの時期の大本営の情報判断は、戦略的にはすでに「抗日支那政権を破砕し得たるもの」とし、「今後は政略的進攻を行い有終の美を発揮すべき段階」に入ると述べている。つまり蒋介石政権はもはや軍事的にとるに足らぬ存在になったとし、従って今後は蒋介石政権を分裂・屈伏させるような政治工作と、日本軍の制圧した中原に新中央政府を樹立する工作とが、戦争解決のための重要な柱になるというわけであった。
ーそしてこうした楽観的判断が軍部だけのものでないことは、11月3日の政府声明でも明らかであった。この声明は、いわゆる東亜新秩序声明であり、さきにみたように斉藤隆夫のいわゆる反軍演説がとりあげたものでもあったが、当時の日本側ではこの声明の重点は、1月の「国民政府を対手とせず」とする立場を改め、国民政府をも相手にすることを明らかにした点にあると考えられていた。内容は「日満支3国」の「互助連環の関係」を軸とした「国際正義の確立」「共同防共の達成」「新文化の創造」「経済結合も実現」でもあるとする。そして日本が中国に望んでいるのは、この新秩序建設の任務を分担することであり国民政府をも相手とすることを認めたのであった。
ーたしかに「対手とせず」声明を失敗と認めた近衛首相はその修正を望んでおり、5月から6月にかけての内閣改造も、その狙いのひとつは、この声明の直接の責任者である杉山元陸相と広田弘毅外相を更迭することであった。そして宇垣一成を外相に板垣征四郎を陸相に迎えた改造内閣では、近衛首相は5相会議(首相・陸・海・大蔵の5相)を常設のものとして、事変解決策を検討するという積極的姿勢を示した。しかし5相会議をリードしたのは板垣陸相であり彼は蒋介石政権が屈伏して和平を求めてきた場合には、日本が作ろうとしている「新支那中央政権」に統合することを主張しているが、それはすでに「対手とせず」声明の基礎である「支那事変処理根本方針」(1月11日の御前会議決定)に含まれている考え方であった。
ー5相会議の方針が御前会議決定のこの部分を押し出すことで、「対手とせず」の印象をうすめるという程度のものであったことは7月8日の会議で、「支那中央政府屈伏の認定条件」を「1、合流若しくは新中央政権に参加すること 2、右に伴う旧国民政府の改称改組 3、抗日容共政策の放棄及び親日満防共政策の採用 4、蒋介石の下野」の4項目にまとめられていることからもうかがうことができる。つまり「対手とする」といっても「屈伏」した後で傀儡中央政権への参加を認めるという程度のことであり、宇垣外相が行政院長孔祥熙との間に試みた和平工作も、実質的にこのような「屈伏」を要求してたちまちのうちに挫折してしまったのであった。
ー新秩序の声明もこのような屈伏を求めるものであることは、新秩序参加の条件が、屈伏認定の4条件と実質的にほぼ同様であることからも明らかであろう。従って新秩序声明の新しさは「屈伏」を求めないで交渉の相手をするという点にではなく、「屈伏」を要求しながらそれを「新秩序建設への参加」という、あたかも対等であるかのようなベールで包み込んだという点にみられるのであった。そしてそのためにはそれまでの、まず国民政府とは別の「新興政権」を作り国民政府がそこに合流することを求めるという、既成の傀儡政権を優位においた方式をやめて、新中央政権の樹立に国民政府の参加を認めるのだという点を強調したのであった。
ー確かにそれはこれまでの華北の臨時政府を中央政府に育成してゆくという方針の転換を意味しているが、そうした転換が生まれたのは武漢作戦後に国民政府の分裂が起こるのではないか、との期待からであった。7月15日の5相会議では漢口陥落後、蒋政権に「分裂・改組」の動きが起こるかどうかを見定めるまでは、臨時政府・維新政府などによる新中央政権の樹立は行わない、との方針を決定している。それはすでに始まっていた汪兆銘(44年末、名古屋の病院で死去)につながる和平工作を意識したものであるが、その発展に呼応した東亜新秩序声明は、それまで進めてきたはずの臨時政府の中央政府化による事変の収拾という戦争構想があまり有効でないことを告白するものでもあった。
汪兆銘工作・南京に傀儡政府の樹立:
ー東亜新秩序声明が「対手とせず」声明を修正したといっても、それは蒋介石を相手にするところまでいっていたわけではなかった。その狙いは国民党副総裁の汪兆銘を動かして国民政府を分裂させることであり、この工作は周仏海(国民党中央宣伝部長・戦後漢奸・戦犯として逮捕され死刑判決を受けた=無期懲役に減刑され48年、南京の獄中で病死)らの国民政府和平派と陸軍の影佐禎昭大佐・今井武夫中佐らの間で進められて来たものであった。7月にはすでに外交部亜州司長高宗武(40年、汪兆銘と決別して香港に逃亡。後にアメリカに亡命し、94年まで存命)が密かに来日して板垣陸相や多田参謀次長らと会談しており、さらに10月に入ると重慶でも汪兆銘が「和平救国」を公然と唱えるようになっていた。
ーそしてこの間、汪兆銘との和平条件として「日支新関係調整方針」の作成が進められており、その交渉を促進するために発表されたのが、東亜新秩序声明であった。新秩序声明の発表に続いて11月20日には、上海で前記の影佐、今井と、中国側高宗武、梅思平(戦後の46年、漢奸として処刑された)との間に「日華協議記録」をそれについての諒解事項が調印され、また汪兆銘側の行動計画ももたらされて、交渉は一挙に具体化することになった。「協議記録」は新秩序建設への条件として、
1、日華防共協定の締結と防共のための日本軍の駐屯
2、中国による満州国の承認
3、日本人の中国内地における居住・営業の自由、日本の有する治外法権の撤廃(租界の返還をも考慮)
4、経済合作における日本の優先権の承認
5、日本は居留民の損害を補償は要求するが、戦費の賠償は要求しない
6、協約以外の日本軍は、平和回復後即時撤退を開始し、2年以内に完全に撤兵を完了する
という6条件を規定し日本政府がこの条件を発表すれば、汪兆銘側は蒋介石と絶縁して日華提携ならびに反共政策を声明し、機を見て新政府を樹立することを約したものであった。
ー汪側の計画によると汪が重慶から昆明を経てハノイへ脱出し反蒋声明を発表すれば、まず雲南軍が反蒋独立し、ついで四川軍が呼応するはずであり、やがてそれらの日本軍の未占領地域に新政府を樹立する、そして広東の日本軍を撤兵させて、広東・広西をも新政府の地盤に加えてゆくというのであった。それはまさに国民政府をその支配地域ごと分裂させるものであり、日本側もこの計画に大きな期待をかけながらも、それがどれだけ実現するか危ぶんだものであろう。
ー12月18日、汪兆銘が重慶を脱出、昆明ですでに5日に先着していた周仏海と合流して、20日ハノイに到着すると近衛首相は22日、それに呼応する政府声明を発表した(なお、「対手とせず」声明は第1次近衛声明、東亜新秩序声明は第2次近衛声明、この声明は第3次近衛声明とも呼ばれている)。この声明は先の「協議記録」の内容を説明しているものであるが、日本軍の撤兵問題に触れていない点が特徴であった。汪もこの点を不満とし29日の、日本との和平に応ずべきことを重慶の国民党中央と蒋介石に呼びかけた声明において、全日本軍隊の普遍かつ迅速な撤退の必要を強調していた。
ーもし汪兆銘側が予定していた日本軍未占領地域での新政権樹立という構想が実現されたとしたら、或いは、日本側のこのような方針に大きな影響を与えたであろうが、汪兆銘の呼びかけに対しては、雲南や四川が動かなかったばかりでなく、年が明けた39年3月21日には腹心の曾仲鳴が暗殺され、自らも4月25日、ハノイを脱出するという有様では、日本の政策を変更させることなど不可能であったというべきであろう。汪兆銘一行は上海を経て、5月31日海軍機で横須賀に到着、6月10日から平沼騏一郎首相(A級戦犯・終身刑・39年1月5日、近衛に代わり首相就任)をはじめ、陸・海・外務・大蔵の諸大臣や近衛前首相と会談しているが、このときすでに日本側は6月6日の5相会議で、汪を、臨時政府や維新政府、或いは土肥原中将らが引出そうとしていた呉佩孚らと並ぶ、新中央政府の構成分子の一員とする方針を決定していた。
ー国民革命に敗北して隠退している旧軍閥の呉佩孚に働きかけるところなど、日本側の認識の古さを示すものであるが、汪側でさえ傀儡とみていた臨時、維新両政府との合作は、汪にとって屈辱的なことに違いなかった。しかし汪が政治活動を続けようとすれば、日本の路線に乗る他なかったであろう。汪兆銘は6月15日平沼内閣に、中国の主権を尊重するように求める要望書を提出したが省みられることなく、結局9月19日には南京で臨時・維新両政府の首脳・王克敏(戦後の45年12月、漢奸として逮捕。投獄され同月中に、刑務所内で病死)・梁鴻志(46年、銃殺刑死)と会談して合作の姿勢を示さざる得ず、また11月1日からの上海での会談で、日本側からはじめて先の「方針」にさらに幾つかの要求が加えられた「日支関係調整方針」を突きつけられて驚く、といった有様であった。
ー1940(昭和15)年3月30日、汪兆銘を首班とする新中央政府がようやく南京で成立した。汪らはあくまで国民党の正統を継ぐと称し、政府成立の式典も国民政府の重慶からの帰還であるとして、還都式と名づけていた。しかし東亜新秩序声明から汪政権の樹立に至るこの企てが、日中戦争の解決に何ら役立たなかったことは、このとき裏面では陸軍が、桐工作と名づけた、重慶政府との直接和平工作に血道をあげていたことからも明らかであろう。この工作は国民党幹部の宋子文の弟・宋子良と称する男を仲介として、重慶政府との和平を約束したものであり、一時は汪政権の成立を延期させてまで、この成立に期待をかけたものであった。
ーしかし宋子良は特務機関が扮したニセモノであり、この工作は結局、中国側特務機関の謀略に翻弄されただけで、40年9月には打切られている。ともあれ、汪政権樹立の時期に、中国側の謀略にかけられて、桐工作に狂奔していることは、まさに、日本の戦争指導の動揺を象徴するものに他ならなかった。
より大きな戦争のなかへ・南寧作戦と中国軍の冬季大反攻:
ーヨーロッパで第二次大戦が開始された直後の9月23日、大本営はこれまでの北支那方面軍・中支那派遣軍の2本立ての体制を改め、中支那派遣軍司令部を廃止して、中国大陸の全陸軍を統合する「支那派遣軍総司令部」を南京に新設することとした。この措置はすでに述べたような、臨時政府・維新政府を吸収する形で進められている汪政権樹立工作に対応して、日本側の作戦指導を一元化する意味を持つものであったが、もはや汪政権を成立させてみたところで、それで日中戦争が解決されるものでないことは、日本側でも明らかであった。
ー支那派遣軍への最初の命令には、「大本営は支那事変の迅速なる処理を企図す、之が為、敵継戦企図の破砕に努むると共に、速に情勢の変化に応ずる対第3国戦備を補強す」と述べられているが、この時期には作戦の主要な関心が、「援蒋ルート遮断」に向けられていたことは前述したとおりである。そしてこの観点から支那派遣軍設置後の最初の大作戦として、占領したばかりの海南島を基地とする南寧作戦が計画されたのであり、この作戦は先の野村・グルー会談を不調に終わらせるひとつの原因となったともみられた。
ー当時日本側では香港・広東ルートを遮断した後では、仏印を通ずるものが援蒋ルートの最大のものと捉えていた。すなわちハイフォン港から陸揚げされた物資は、ハノイを経て昆明に至る雲南鉄道と、ハノイから分かれる鉄道で国境まで行き、そこから自動車で南寧に出る2つのルートによって重慶政権側に渡っているというのである。そしてこの物資は、主としてアメリカからの輸出品であった。南寧作戦はまずこの南寧ルートを切断すると同時に、航空基地を設けて、雲南鉄道など奥地への爆撃を加えることを意図したものであり、大本営はさらに仏印への直接の働きかけも考慮していた。使用兵力は第5師団と台湾混成旅団であり、両兵団は海南島三亜港に集結した後、11月15日より上陸を開始し、24日には南寧を占領、一部兵力をもって仏印国境、竜州方面に向わせた。
ーところが12月17日になって、中国軍は大規模な反撃に転じ先頭部隊を完全に包囲された日本軍は、25日ようやくその救出に成功したものの、多大の損害を蒙って後退を余儀なくされた。日本側は広東にある第21軍より増援部隊を送り40年2月になって、中国軍を撃退しているが、この強力な中国軍の攻撃は、11月30日に蒋介石が命令した冬季大攻勢の一環であった。中国軍は北は内蒙古の包頭から南は南寧に至るまで、ほぼ全戦線で攻勢に転じており、南寧をはじめ多くの戦線で日本軍は苦戦を強いられ、燕湖ー九江間では一時揚子江航行が遮断されるという事態も起こっていた。
ー特に激しい攻撃が行われたのは、武漢を中心とした第11軍(司令官・岡村寧次中将)に対してであり、もしこの方面の中国軍が、南寧作戦への反撃に裂かれなかったならば、第11軍は大変な危機に陥ったであろうとみられている。同軍の報告書には、「敵未だ健在の感を深くす」と記していた。この冬季大攻勢は、日本軍が武漢作戦以来、中原での攻撃的な大作戦を行わずにいた1年の間に、国民政府の立て直しが進み、その戦意も決して衰えていないことを示すものであり、それは言い換えれば、日本側のいう持久戦体制など到底実現しえないことを意味するものであった。実際5、6月にはこの国民政府中央軍に一撃を加えるため、より奥地の宣昌への進攻が行われているし、8月には今度は115団(連隊)40万の中共軍が華北全般にわたって一斉に蜂起した。
ーいわゆる「百団大戦」が展開され以後、治安維持のためにも、より大きな兵力が必要とされるに至っている。
ー結局中国大陸における兵力削減という持久戦構想の眼目はほとんど実現できずに終わったのであった。
ドイツの快進撃と新秩序構想・世界の再分割案:
ーこのような日中戦争を正面から解決する見通しは立たず、アメリカとの関係も悪化するばかりという状況の中で、この2つの問題に同時に対処できる方策として取り上げられたのが、東南アジア問題でありヨーロッパにおいてドイツが電撃的勝利を収めると、それは一挙に戦争政策の中心に押し上げられることになった。すでに野村・グルー会談が不調に終わった直後1939年12月28日に、陸・海・外3相が署名した「対外施策方針要綱」には「南方を含む東亜新秩序」という新しい問題が出されていた。
ーそれは「事変解決」のための新秩序は、南方まで含まなくては成り立たなくなったということであろう。ここで出されている南方政策の構想は仏印における援蒋行為の停止と、蘭印からの重要物資の獲得とを軸とし、その中間にある当時の東南アジア唯一の独立国タイと提携してゆくというものであった。蘭印への関心はいうまでもなく、アメリカに代る戦略物資の獲得先としてであるが、この関心が強まるに従って、仏印への関心も北の重慶向きから、南の蘭印向きへと転換されてゆくのであった。そしてその切っ掛けとなったのは、これら植民地本国の敗北であった。
ー開戦以来のヨーロッパ戦線の停滞は40年4月9日のドイツ軍のデンマーク、ノルウェー進攻で破られ、ついで5月10日、ドイツ軍機甲部隊は中立を唱えていたオランダ、ベルギー、ルクセンブルグから一気にフランスになだれ込んでいった。蘭印の本国ではオランダ政府は、13日イギリスに亡命、オランダ軍は15日、5日間の抵抗で降伏したし、仏印の本国フランスでは、6月14日パリを占領され、16日にはペタン内閣は休戦を申し入れている。ドイツ軍の勝利は「電撃的」と評され、イギリス本土への上陸作戦が行われるのは、時間の問題とみられた。そしてそれは、それらの敗戦国の植民地の多い東南アジア進出の好機と考えられたのであった。
ー5月18日、陸軍省と参謀本部の間で、昭和15年末になっても重慶政府が屈伏しない場合には、中国戦線の収縮を計るという、38年秋と同様の発想による方針が決定されているが、その時と異なるのは2年前には対ソ戦準備が目的であったのに対して、ここでは東南アジアへの武力行使が考えられ始めていることであった。しかもこの時、ドイツの勝利に酔った日本の戦争指導者の眼には、国際情勢は世界再分割の方向に動いていると見えてきているのであり、そこから日中戦争も東南アジア問題も、この世界再分割の動きに加わることによってその中で解決してゆこうとする考え方が生まれてくるのであった。
ー軍部はこのような方策の国策化を準備しつつ、新体制運動に乗り出してきた近衛文麿を担ぎ上げて政治の雰囲気までも転換させたのであった。1940年7月22日に成立した第2次近衛内閣は26日の閣議で「基本国策要網」、翌27日の大本営・政府連絡会議で「世界情勢の推移に伴う時局処理要網」と相次いで軍部が用意していた国策案を決定して行った。このうち「基本国策要網」は「八紘一宇」、「肇国の大精神」などの神がかり的観念を持ち出し、先の「南方を含む新秩序」を改めて、「大東亜新秩序」の建設を説いているのであるが、同時に今や世界は「数個の国家群の生成発展を基調とする方向」に大転換しようとしているとして、大東亜新秩序もこの中に位置づけている点を特徴とするものであった。
ーこの大東亜新秩序はすぐ松岡洋右外相によって、「大東亜共栄圏」といい直され、日本の支配性を隠すこの表現が一般的スローガンとされるに至るのであるが、しかし新秩序の方が、ここでの問題の性格を端的にあらわしていたと思われる。つまり大東亜新秩序とは、単に東亜新秩序を南に拡大するというだけではなくドイツ、イタリアの侵略をも新秩序建設という点で共通するものと捉え、さらにこの日独伊の新秩序にソ連をも協力させて世界新秩序をつくりだそうというのであった。
ー先の「時局処理要網」が「速に独伊との政治的結果を強化し、対ソ国交の飛躍的調整を図る」と述べているのは、そのような方向を目差すものであった。それは松岡外相のもとに、9月27日の日独伊三国同盟の締結に至るのであるが、そこでの松岡の構想は第二次大戦後の世界は「東亜・ソ連・欧州・米州の4大分野」に分かれるとし、独伊の生存圏としてヨーロッパ、アフリカを認める代わりに日本はアジアを獲得する、中間にあるソ連にはペルシャ湾方面に進出させ、場合によってはインドをその生存圏と認めることもありうる、そしてアメリカには、南北アメリカを与えてこうした再分割に介入させないようにする、というわけであった。
ー主要な敵はかつてのソ連からイギリスへと完全に転換されていた。三国同盟において、大東亜と欧州新秩序の建設を相互に承認・援助する約束を独伊からとりつけた松岡が翌41年4月、日ソ中立条約を成立させたのはこのような構想によるものだった。この構想からいえば蒋介石政権は、ヨーロッパからアジアに至る新秩序の中に閉じこめられ窒息死するはずであった。従って日中戦争を解決するためには、この新秩序を作り出せばよいということになるわけであり、日中戦争は現状のまま凍結して戦争政策の方向は東南アジアへの進出に向けられることになるのであった。
対米英開戦と中国侵略戦争・援蒋ルート遮断:
ー日本の指導者たちは、それ自体では解決できなくなった日中戦争を、世界大戦の一環としての太平洋戦争という、ひとまわり大きな戦争によって解決しようとしたのであり、従って太平洋戦争に突入したときには、日中戦争に対する独自な積極的な解決策は全く考えられていなかった。開戦直前の12月3日、大本営が支那派遣軍総司令官に与えた任務は「敵封鎖を強化し、敵継戦企図の破推衰亡に任ずべし」というものでありそれは、太平洋戦争における香港及びビルマの占領によって援蒋ルートを切断したうえで中国大陸の占領地域全体で封鎖体制を強化すれば、重慶政府の方から和平を言い出してくる、という考えに基づくものであったであろう。
ーこの「対敵封鎖」政策は具体的には、日本軍の占領地域に「遮断線を構成」して敵側への物資の流れを「禁絶」してしまおうというのであるが、同時に占領地における重要資源の開発・取得と、日本軍の「現地自活」体制の強化の必要をも強調するものであった。たしかに援蒋ルート切断を基礎とした封鎖政策は、重慶側の戦争能力に大きな打撃を与えた。しかし同時にこの封鎖を強化するためには、封鎖線に配置されている日本軍の「自活」用物資を確保し、さらには援蒋ルートを切断した太平洋戦争を維持するための物資を獲得し、日本に持ち去らなければならなかった。
ーそしてこの掠奪的支配は、当然占領地を疲弊させ共産軍の浸透を許し日本軍の戦争能力をも低下させることになるはずであった。つまり中国戦線における封鎖政策は結局、日本軍のための物資の獲得と治安の維持をいかにして達成するかという問題に行きついてしまうのであり、その効果は援蒋ルート切断を補完する補助的なもの以上には期待しがたいものであった。
ーところで41年12月25日の香港占領、42年のビルマ占領によって日本軍は援蒋ルート切断に成功したのであったが、しかしそれによって国民政府が屈伏しなかったのは蒋介石もまた、日中戦争の解決を太平洋戦争の方に任せてしまったからであった。国民政府代表は42年1月1日米・英・ソ3国代表とともにホワイトハウスでの「連合国共同宣言」に参加し、中国は連合国の一翼を形成することになったが、しかし蒋介石は、外からの援助を断たれた状態のものでは、自らの軍事力を温存し米英が日本に勝利するのを待つ、という態度をとったのであった。
ー太平洋開戦後、国民政府軍は39年から40年にかけての冬季大攻勢のような積極的な攻撃をしかけては来なくなった。日中戦争が再び主題となってくるのは日本がその外側に築き上げた対米英戦線ー日本側のいい方で言えば、大東亜共栄圏が突破された時であった。1945年1月、北ビルマの日本軍が撃破されビルマ・ルートが再開された時には、日中戦争における日本の敗北は決定的なものとなっていた。アメリカの軍需物質は大量に中国に輸送され始め、中国軍も最新の装備とアメリカ式訓練によって改編されていった。
ー制空権はすでに中国大陸に進出してきたアメリカ空軍の手中にあり、日本軍は航空基地破壊のための進攻作戦を繰り返さなけれはならなくなっていた。しかしビルマ・ルート再開後には、日本軍はこうした作戦にはっきりと敗北するようになってきた。例えば1945年4月の老河口(湖北省西部)、芷江(湖南省西南部)飛行場への攻撃作戦では日本軍は大打撃を蒙っておりとくに芷江作戦では戦死1万5000名、戦傷5万名という潰滅的打撃をうけて敗走したのであった。
ー日中戦争がこのまま続いていたら、日本軍が態勢を立て直した中国軍に撃破されたであろうことは、この両作戦からみても明らかであった。しかし事態がそこまで進展する前に、日本の戦争指導者は原爆で本土を直撃され、ソ連参戦という新たな衝撃を受けて降伏してしまった。日中戦争を解決するために、その外側で太平洋戦争をはじめたという順序を逆にたどるとすると、太平洋戦争の決着の次に日中戦争の決着をつけてはじめて戦争が終わるということになるわけであるが、日本の地理的な位置の故に日中戦争の決戦なしに、戦争全体を終わらせることが可能になったのであった。
ーそしてこのことから、日本の戦後がもっぱら太平洋戦争の戦後のとして、日中戦争を忘れさせるような形で展開される条件が生まれてくるのであった。戦後の日本の出発点を性格づける条件としては少なくとも、実質的なアメリカの単独占領、冷戦体制、中国における国共内戦は、中国の側にも日本の戦後に介入する余裕を失わせるものであった。つまり日本は中国と隔離された形で、戦後をはじめたということになろう。しかも国共内戦で日中戦争の相手であった蒋介石が敗北し、台湾に逃れるという事態になるとアメリカに仲介された日中関係は、日中戦争をどう清算すべきかという観点からではなくて、台湾と北京のいずれを選ぶかという点から出発することを余儀なくされたのであった。
大陸打通作戦と四川攻略・蒋政権打倒案:(レイテ戦記・大岡昇平)
ー二ミッツの艦隊がサイパン島から硫黄島、小笠原諸島を伝って直接本土を窺う可能性が生じた。米海軍作戦部長(日本の軍令部総長に当る)キング元帥は、この案の提唱者で、ニューギニアで多数のGIの生命を犠牲にすることはない、日本本土は艦隊で封鎖すれば屈伏させることが出来ると主張した。少なくともフィリピンを通り越して、台湾に上陸し、日本本土と南方資源を遮断すれば十分である。台湾はB29の基地として使える、といった。
ー台湾上陸案にはもうひとつの慮りがあった。当時中国戦線で日本軍の「大陸打通作戦」が進行していた。衝陽、桂林にあるB25基地をつぶし、万一比島、台湾の海上輸送路が失われた場合、大陸に南方との連絡路を確保するというのである。作戦は飛行場の永続的占領も、路線打通にも成功しなかったが、40万の大軍が一時、長沙、衝陽等の要地を攻略し、重慶の蒋介石に打撃を与えた。蒋は共産軍との抗争に疲れており、対日抗戦を投げ出す惧れが生じていた。中国にある100万の日本軍が太平洋戦線に投入されては一大事である。これはフィリピン解放よりも重大である・・・。
ー宮崎中将は本土防衛計画も、総軍には決戦放棄と映った。出撃防衛が日本の陸海軍の伝統的戦略である。日本本土は土地狭隘で決戦に適しないといった。しかしこの主張にも、外地軍のエゴイズムと自己肥大が含まれているのである。宮崎中将は米軍の次の上陸地点を硫黄島、台湾、沖縄に想定し、総合航空作戦計画の作成を細田中佐に命ずる。しかし大本営は総軍のほかに、もうひとつ面倒な外地軍、支那派遣軍をかかえていた。折柄軍参謀長以下東京に飛来して、四川攻略、蒋政権打倒の大作戦を具申していた。
ー米軍が次に台湾に来攻する場合、中国本土に上陸する可能性が生じる。大本営としては、それに備えて在支軍を南に向けなければならないのだが、現地ではその危険があるなら、両面作戦を強いられる前に、四川作戦を実施して、各個撃破すべきである、と出来もしないことを主張する。宮崎中将は米軍のルソン島上陸の後、四川攻略なんて大作戦をやる余裕はいまの日本にはないのだ、ということを支那派遣軍に納得させることが出来た。
帝国海軍の対米開戦への見透し・「わが国力の許す所ならず」:(戦争責任・家永三郎)
ー・・・対米戦では「国力」「資財」の面で勝てない、開戦を阻止すべきである、という強い意見があったことが注目される。結局、海軍は開戦に同意したのであるが、開戦の決定に与る地位にはなかったものの、対米戦では勝てないという予見を立てた公的機関が存在した事実が紹介されている。総力戦研究所に各官庁の官使と若干の民間機関からの出向者とから成る研究生が、それぞれ閣僚のメンバーとなって模擬政府を組織し、米国と開戦した場合の軍需生産力、共栄圏内の物資交流、経済力動員、その他の多岐にわたる方面についての方策を研究討議する「総力戦机上演習実施計画」を40余日にわたって行った後、1941(昭和16)年8月23日に出された討議は、
ーたとい南方の資源を抑えても、これが本国に届かなければ意味がない。日本の造船能力と海上で輸送船が沈められる消耗量とを相殺すれば、3年間で約3分の2は失われ、石油備蓄は底をつく、経済面だけからいっても、対米戦は「わが国力の許す所ならず、との見解有力にして、閣議の一致を見るに至らず」、内閣総辞職、ということであったという。これは猪瀬直樹が「総力戦研究所’模擬内閣’の日米戦必敗の予測」のサブタイトルを付した著作「昭和16年夏の敗戦」に、多くの史料を収集して紹介した新事実であるが、政府の公的機関で行われた日米戦の見通しにおいて、具体的な経済力の検討を上でこのような結論が出たにもかかわらず、国家の最高機関が全然これを無視して開戦の道を選んだ事実も、記憶されてよいであろう。
ーさらにまた国力に関する統計や客観的な世界情勢を正確に知る方法を全て奪われていた一般国民の間にも、具体的な数字上の根拠までは知らないながらも、平素から蓄積してきた見解や大局的見地からの直観に基づいて、日米開戦が日本の破滅に終わることを予見していた人士も少なくなかった。対米英開戦直後に緒戦の戦果による興奮がうずまいているなかで、東京帝国大学の教官食堂で「これで日本丸も沈没ですかね」と私語した元同学総長小野塚喜平次や、開戦当日「人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ」と詠んだ同学教授南原繁のような知識人のほかに、平凡な無名の国民の間にも、直覚的に「非常識な事を始めて了った」と、悲劇の到来を予想した人びとは、決して1人や2人に留まらなかったのである。
ー戦争責任を考えるために対米戦争の「勝算」の有無について、今ここで問題にしているのは勝算がないのに開戦して敗戦となったから責任があるという視角からではないということを、念のために明確にさせておきたい。そうでないと、勝算さえあれば開戦してもよかったのかという誤解を招く恐れがあるからである。勝算の有無が問題なのは、勝算がないということは敗戦の公算が高いことを意味し、敗戦の公算の高い戦争で多くの戦死傷者を出すのは国民の生命・身体を無意味に喪失・傷害させるにとどまらず、さらに敗戦の場合にどのような甚大な被害が一般国民にまで及ぶかという重大な問題につながっている。
ーそのような結果の到来を考慮することなしに開戦を決定した責任を、今ここで問題としているのである。その場合、敗戦となればどのような状況に陥るかについて、つとに対米戦争が具体的な現実的課題となっていなかった時点において、ほとんど実際に生じたと同様の事態を的確に予測していた民間人が存在した事実は、あらゆる機密資料を把握して日本の国力を知悉していたはずの国家最高首脳部にそれと同一水準の予見可能性を期待することの決して酷でないゆえんを裏書するもんといわなければならない。それは退役海軍大佐水野広徳の言論活動である。
ー水野は早くも1929(昭和4)年11月8日の「朝日新聞」紙上に池崎忠孝著「米国怖るるに足らず」の書評を載せ、池崎の日米戦争についての手放しの楽観論に対してきびしい批判を加え、次のように述べていた。
「著者は、(中略)世界が日本を如何に見て居るかといふ点については全く無関心である。そして又万一英国が米国に加勢し英米束になってくるとも日本は断じて負けないと著者は勇敢に頑張つて居る。その自信と自大の強さに鷲歎する。日米戦争の過程については私はかく考へる。日本は必ずフィリピンおよびガムを占領するであらう。然しこれがためには相当大なる犠牲を予期せねばなるまい。米国艦隊はハワイに進出するであらう。
そこで日米主力艦隊は西太平洋をはさんで対じの姿勢となり、専ら巡洋艦や航空機をもつてする敵地威かく襲撃が相互に行われるであらう。東京とサンフランシスコとが空中攻撃の第一目標である。この時もし勝を急いで米国艦隊がフィリピンの奪還を謀つたり、日本艦隊がハワイ攻略を企てたりしたなら、手を出した方が失敗するであらう。
かくて西太平洋の海上権を握れる日本と、東太平洋および大西洋の海上権を握れる米国との持久戦となるのが日米戦争の進むべき常勢である。しかしこの場合著者は、軍費の乱出と国民のせうさうとにより米国の方がばづ屈するといつて居る。日米戦争勝敗の関やくは実にここにある。(中略)戦争が工業化し機械化し、経済化したる現代においても著者は尚経済力を無視して、「米国怖るるに足らず」、「白人種束になつて来い」と豪語して居る。私は著者と同じく米国の海軍力を左程恐れる者でない。しかし著者と反対に米国の経済力を侮るべからずとなす者である。
ひつやうずるに、対米対欧貿易の全部を喪失するも尚かつ日本が3年5年の持久戦に耐へ得るや否やの問題である。もしこれに耐へ得るならば、兵戦においては5対3の海軍比率(ワシントン軍縮条約による米日主力艦の保有トン数比率ー家永)を敢て憂ふるに足りない。もしこれに耐へ得ぬならばフィリピン、ガムの一時的占領何を意味するものぞだ。最愛の人の児をふかの食と堀の埋草とになしたに過ぎない。この最後の問題は私が評するよりも賢明なる読者の判断に譲ることが正しいであらう」。
ー15年戦争に入る2年前の、日米2国間だけの戦争という、相当に異なる前提に立っての予測であるにもかかわらず、末尾の部分の終極的予測にいたっては、ほとんど実際に日米戦争のたどった経過と一致しているのは、驚嘆に値するところでなかろうか。1932(昭和7)年10月すでに「満州国」が発足して後に著わされた同じく水野の「打開か破滅か・興亡の此一戦」は、小説の形をかりているだけに、一層具体的に日米戦争がたどるであろう経過を評述している。
退役海軍大佐の展望・仮想日米戦:
ー本書は発行と同時に発売禁止となり、翌11月「満州国」関係の部分を大幅に伏字とし、著名を「日米興亡の一戦」と改めた改訂版を発行、この方は無事一般に市販された。日米未来戦の部分は、発禁本も合法本もほとんど同一であるが、水野の描く日米戦の重要部分を 出してみよう。戦争の進行とともに国民は物資の窮乏に苦しみ、やがて米空軍の東京空襲によって東京は焦土と化し死体累々の凄惨な光景が現出する。細部までが実際と一致しているわけでないのはもちろんながら、大筋において実際の日米戦争のたどった成り行きをほとんどそのまま予見していると言ってもよい。
1、はじめに生活窮乏化の描写
「日本は、軍艦と、飛行機と、弾薬兵器と の他各種の軍需品製造工場を除くの外、一切の生産工場は全面的に煙突の火を絶つに至った。石油燃料は政府の統制下に置かれ、軍用以外の自動車は全く街から影を潜め、タイヤのないガラガラ人力車が、返り咲の時を得顔に、銀座の真中にのぼつて居る。(中略)国内にあり余るものは、生糸と、絹布と、陶磁器と、玩具と、水産物と、満州からの輸入の豆と豆粕ばかりである。
当然に起らねばならぬ物資の欠乏と、物価の騰貴と、国民生活の窮乏!斯くて失業者の続出と、物価の騰斯とに依り、一般国民の生活は日に益々窮迫を告げ、財界は軍需関係の一部成金の外は、不況のドン底に依り、或は生活難の為めに一家を挙げて自殺する者、破産の為め発狂する者など、日に の数を増し、乞食物貰ひは全市に満ち、押売強請は到る処に横行し、欧州戦争当時に於ける露国や独逸の国情に近似するものがある。
かかる苦難の中にも、国民は軍部の唱ふる「最後の勝利」の唯一言を信頼して空腹に愛国心の拍車を加へ、歯を喰いしばつて戦勝の日を待つて居る。併しそれは何時まで続くものやら。
2、次に東京空襲の描写
敵機は海水と川の光を道しるべに、第二、第三の線を突破して、幾機かは最終の本防衛線を潜つた。東京本防衛の探照灯は点ぜられ、高角砲や機関銃が弾丸を吐き始めた。(中略)敵の幾機かは遂に東京の上空に進んだ。瓦斯弾と焼夷弾とは随所に投ぜられた。瓦斯マスクの用意なき市民は忽ち瓦斯に犯され、群を成して斃れた。敵機来襲ありてより僅に一時間あまりである。
火災は先づ市の東と南とに起つた。やがて北にも、西にも、火の手は三十ヶ所、五十ヶ所に及んだ。避難民雑踏の為めに消防ポンプも走れない。先ほどから吹き起った南東の風は、火を見て益々猛り狂ふて居る。満天を焦がす猛炎、全都を包む烈火。物の焼ける音、人の叫ぶ声、建物の倒れる響。(中略)火災は二昼夜継続し、焼くべきものを焼き尽くしたる後、自然に消滅した。跡は唯灰の町、焦土の町、死骸の町である。(中略)
人間の焼ける臭気が風に連れて鼻を打つ。満目荒涼焼野が原、唯宮城の松の緑のみが沙漠の中のオーシスの如く、色も袁へずに残つて居るばかりである」。
水野は最後に登場人物に叫ばせている。
「一体誰が戦争を始めたちや/子供と妻とを生かして返せ/(中略)何たる醜態ぞ!/なんたる残虐ぞ!/何たる悲哀ぞ!/ああ恐るべき戦争の損害!/ああ憎むべき戦魔の毒手!/(以下略)
ー右の描写は、若干の部分を書き変えれば、まさに対米戦争のため日本国民が現実にこうむった被害の実現そのままといってよいであろう。たといかつては優秀な海軍将校であったとはいえ、すでに退職した1民間人として、機密情報を入手できたはずのない水野が、これだけ日米戦争の到達すべき結末を予見できたことを考えるとき、国政の最高責任者たちが、勝算のない、換言すれば敗戦の公算が高いと知ってあえて開戦を強行したのは、敗戦の場合に国民を上記のような悲惨な状況につき落とすことについても予見できたにもかかわらず、なおそれを回避する義務を怠ったとの非難から免れる道がないとせざるを得ない。
ーもし予見できなかったのが真相とすれば、重大な過失とすべく、予見できたのに国民にその被害を受忍させようとしたのが真相だとすれば、故意ないし未必の故意があったとされてもやむを得ないであろう。

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