日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆After 1868☆, The Imperial Japan⇔Series of Invasion=日本現代史「シベリア出兵」「枢軸同盟」「千島問題」(北方領土)「靖国神社と’英霊’」Unknown History

これは以前も紹介しましたが、まず「正確」には伝わっていない日本現代史上の大事件です。せいぜい1918年、「シベリア出兵」これだけで事足りるものにされている。ロシア革命後の内戦勃発にあたり、日本も列強の「干渉軍」に加わりウラジオストックから上陸した。日本軍は極東ロシア、シベリアに4年間いすわり、戦費10億円を投じた介入式侵略の戦争となる。
ーさらに日本軍と行動をともにした「連合国」。その一員としてわが「カナダ」もシベリアに侵入した。
序文:なぜ日本はシベリア出兵を行ったのか?(西原和海「ロシア革命の謎」・1991年)
帝政ロシアが革命によって倒れ、政権の空白状態にあったシベリアを、チェコ軍救出の名目のもとに要地を占領していた日本軍。アメリカの抗議を無視し、7万に及ぶ兵員を派遣して、救出の目的達成後も残留し続けた日本軍の思惑とは?
軽視されていた出兵の実態:
ーどういうわけか、シベリア出兵の実態については、今日、一般に知られるところがあまりに少ない。その前の日露戦争や、そのあとの満州事変などに比べ、この歴史的意義は、ほとんど軽視されているといってよい。おそらく「出兵」という言葉からくるイメージがそうさせるのだろうが、何やら、お隣の革命を胡乱に思った日本軍が、おせっかいにもホイホイ海を渡り、「過激派」(ボルシェヴィキ)の連中に少々スゴミを利かせ、いいかげん疲れたところで兵を戻したーとまあ、こういった程度の理解ではあるまいか。しかしこれは、れっきとした「戦争」だったのだ。なるほど、このシベリア戦争は、日清・日露戦争や、日中15年戦争、対米英戦争などとは異なり、いわば日本の国運を賭けるほどの、死にもの狂いの戦いとはいえなかった。
ー日本にとっては、政治的にも軍事的にも、十分に余裕のある戦争だった。それだけに、なお一層タチが悪かったのである。つまり、革命ロシアの混乱に乗じての、まるで火事場泥棒的な侵略戦争だった。極東ロシア(東シベリア=バイカル州・アムール州・沿海州)を土足で踏みにじる日本兵士に抗したのは、ボルシェヴィキのパルチザンであり、彼らと一体化したロシア住民たちだった。それは、一体、どんな戦争であったのか。
非道のシベリア戦線:
ー1兵士としてシベリア戦争に参加した松尾勝蔵という人物が、「シベリア出征日記」(1978年)という、すばらしい記録を残している。松尾は、日本軍の第一陣として出兵した第12師団麾下の小倉14連隊に属し、1918(大正7)年8月、ウラジオストックに上陸。まもなく、ウスリー鉄道とアムール鉄道沿いに、パルチザンと戦いながら、各地を転々とした。彼の日記には、この戦争の実態がどんなものであったか、実に素直に語られているのだ。翌2月12日のこと、松尾の属する中隊は、インケンチェフカという村(アムール州)に逃走したパルチザン部隊を殲滅するよう命令を受けた。
ー2日前、このパルチザンに日本軍が手痛くやられていたので、その弔い合戦という意味あいもあった。払暁、日本軍は村落に突入する。そのときの模様を、松尾の日記から少し引用してみよう(原文は旧かな)。「硝子を打割り、扉を破り、家に侵入、敵か土民かの見境はつかぬ。手当たり次第撃ち殺す。突殺の阿修羅となった。前もって女子供、土民を害すなと注意されてはいたものの、敵にして正規兵はごく少数、多くは土民に武器を持たしたもの、武器を捨てれば土民に早変わりという有様にて、兵か土民かの見分けの付こうはずはない。片っ端から殺して行く」。
ーこの村に対するジュノサイド作戦が始まったのだ。「・・・ほかの兵はどうしているかと後を振り返って見ると、矢張り同様に暴れている。硝子を打割る音ジャリーガラガラ、扉を破る音バリバリ、キッキッ言う奴を突き殺す。殺された妻が泣き叫ぶ。拝む奴を突き倒して行く。敵のいた家には火をつける。豚の焼死ぬ声ギャギャギャ、屋根の焼落ちる音ドターッ、焼ける風音ゴーゴー、もののはぜる音ポンポンパチパチ。馬が走る、女が髪を振り乱して逃惑う様、悲惨な光景これ以上はあるまい」。
たちまち、各所に死体の山が築かれた。
「・・・地下堂の蓋を開いた。此処にもごろごろ折重なって隠れている。例の如くボンボーン(銃声)とやると、敵は慌てて上に上り、土下座して拝む奴を戸外へ連れ出した。外には木下少尉や特務曹長等が血刀を提げて俺達の連れて来るのを待っている。道に座らせておいて一刀の下に首を斬りおとす。・・・ただ1打で首がころりと落ち、首根より血 が噴水のように飛去り出た」。このような日本軍の蛮行は、右に限ったことではなかった。これと同じ月、ユフタ(アムール州)において、日本軍の大隊がパルチザンの要撃にあい、全滅させられたが、やはり、その弔い合戦として、日本軍は、ユフタとバーロフの2つの村で大虐殺をやっている。
ー程度の差こそあれ、この種の非道は、シベリア各地で見られたに違いない。そのやり口は、あたかも15年戦争における、中国大陸での天皇の軍隊の悪逆ぶりを彷彿とさせる。その意味でシベリアの戦場は、日中戦争の予行演習みたいなものであった。ただ、松尾一等卒の行為については、ここで多少の弁護をしておく必要があるだろう。彼は日記の中で、自分の犯した暴行を、決してとくとくと語っているわけではない。右に引用した文章に続いて、日本軍のあり方に疑問を呈し、自らの深い反省をも記しているのだ。あのような状況下での一般兵士が、いかに異常な戦場心理に陥り、いかに残酷になれるかということを、彼は、赤裸々に書きつづった。
ー日記の公判によって、かつての自分の恥部をさらけ出してみせた、彼の真率さと勇気は、大いにたたえられねばなるまい。松尾はまた、そもそも日本軍の「過激派」討伐がひどいため、かえってパルチザンの抵抗が強まり、その結果、さらに日本軍の暴行がエスカレートしていくという、両者の間の憎悪の悪循環についても指摘を行っている。実際、この構想が極限に至ったところで、あの有名な「尼港事件」も発生したのである。尼港とは、アムール河口沿いの二コラエフスクという町のことで、1920年3月、その地の日本守備隊と日本人居留民とが、パルチザンとの戦闘によって全滅し、捕虜となった者たちも、やがて全員が虐殺された。この事件に対応して、日本は樺太を保障占領し、ますますこの戦争の局面を拡大させたのだった。
ーしかし、結局のところ、日本軍がシベリアで治安を維持できたのは、戦略上重要な都市や村落、鉄道などに限られ、これは、いわば点と線との確保にしか過ぎなかった。しかも、鉄道軌条や鉄橋はたえずパルチザンの手で破壊され、まったく修理に追いつく暇もなかった。このあたりも、後の日中戦争時、八路軍のゲリラ活動に攪乱され続けた日本軍の状態とよく似ている。日本軍の軍靴は、およそ4年2ヶ月にも及んで、ロシアの土地と住民を蹂躙した。そして、これほどに長期にわたりながら、日本が得た戦果というものは何ひとつなかった。いたずらに人命と戦費とを損耗させただけであった。兵士たちの中には、なぜ自分たちが「過激派」と闘わなくてはならないのか、その理由を見出せないままの者も少なくなかったという。
一体、日本はなぜ、シベリアへ派兵するようになったのか。その目的とするところは何だったのか。
連合国列強の構想:
ー日本政府が、シベリア出兵に関る宣言を明らかにしたのは1918年8月2日のことだった。そして、早くもその10日後、陸軍第12師団がウラジオストックに上陸する。こと、ここに至るまでの政治的プロセスには、第一次世界大戦とロシア革命をめぐる、連合国列強のさまざまな思惑が交 しているため、今、その筋道をたどっていくのは、なかなか容易ではない。前述の宣言文では、出兵の主要な理由として、シベリアにおけるチェコスロバキア軍に対する支援という点が強調されているが、このチェコ軍問題がまた、きわめて複雑な様相を呈していることもあるからだ。いささか大まかになるが、以下、簡単に見ておくと・・・。
ー10月革命のあとまもなく1917年12月15日は、ボルシェヴィキ政権はドイツとの間に休戦協定を結んだ(講和条約調印は翌年3月3日)。この事態に困惑したのが、西部戦線でドイツに苦戦を強いられていたフランスやイギリスである。東部戦線からのロシアの脱落は、連合国側にとって手痛いダメージとなるだろう。そこで英仏両国は、南ロシアの反ボルシェヴィキ勢力への支援工作を協定するとともに、アメリカや日本に対しては、極東ロシアへの軍事的干渉を要請したのだった。英仏両国がいうには、いずれドイツの勢力が極東にまで及ぶおそれのあること、また、ウラジオストックに集積されている軍需物資を、ソビエト政府がドイツに供与する危惧もあることなどから、これを未然に防止するためには、どうしても日米の出兵が望ましかった。
ーさらには、日米の軍事力をシベリア鉄道沿いに西進させることによって、新たな東部戦線が形成されるという期待も強かったのである。だが、日米両国とも、当初は英仏の要請に対し、消極的な回答しか与えなかった。アメリカ政府は、「出兵によってロシア国民の反感を買えば、かえってドイツを利することになるだろう」と述べた。日本政府(寺内正毅内閣)においては、本野一郎(外相)や後藤新平(内相)などがシベリア干渉に積極的であり、出兵自重論者の原敬(政友会総裁)や牧野伸顕などと対立していた。この時点ではまだ、後者の方がかろうじて優勢を保っていたのである。たとえば原敬は、この出兵によって、日本が大戦に深入りしてしまうことを警戒していたし、日本の大陸進出は軍事的にではなく、経済的であらねばならないと考えていた。
ーそうこうするうちに、先に述べたチェコスロヴァキア軍の動向が、大きな問題として連合国間に浮上してくる。第一次大戦以前、チェコとスロヴァキアの両民族は永らくオーストリアの 属下にあった。大戦が始まると、彼らはロシアとの戦争に動員されたが、多くの兵士たちが自主的に投降し、ロシア軍の俘虜となった。オーストリアからの民族解放を願う、これらの俘虜たちは、やがてチェコスロヴァキア軍として編成され、東部戦線の一翼をになうことになる。ところが、ソビエト政府とドイツとの休戦協定なのである。ロシアにおけるチェコ独立運動の指導者マサリク(在パリ)は、フランス政府と協議の結果、チェコ軍をウラジオストック経由で海路、フランスに転送し、西部戦線に投入することにした。ソビエト政府も、チェコ軍のシベリア鉄道利用による東進を承認した。
一方、当時、ロシア領内にはドイツ・オーストリア軍の俘虜部隊があった。この独墺俘虜とチェコ軍との対立から、両者の間に武力衝突が生じることもあった。また、地方ソビエトの中には、チェコ軍がシベリアの反革命グループと結託するのではないかと警戒し、彼らの東進を阻もうとする動きも見られた。そしてまた、ドイツからの強い要請があって、ソビエト政府は、チェコ軍に武装解除を命令したのだった。チェコ軍はこれを拒否する。そのため、シベリア鉄道沿いの各地で、ボルシェヴィキとチェコ軍との武力闘争が展開することとなった。1918年5月から6月にかけての時期である。チェコ軍の総勢は4万から5万、あるいはそれ以上だったともいわれる。
ーフランスとイギリスは、シベリア鉄道沿線に停滞したチェコ軍を見て、再び日米両国に対し、出兵による干渉を熱心に訴えた。「チェコ軍救援」という目的が立っての上であるからには、日米ともにこれに同意することになる。この時点では、日本政府内の出兵反対論者も積極派に妥協するようになっていた。アメリカの出兵宣言は、日本に1日遅れての8月19日である。日米両政府は、出兵に踏み切るに当り、両国の軍事的規模について、何度も事前協議を重ねていた。そこで決定していたのは、アメリカの兵力を7000、日本を12000とするものだった。アメリカは、シベリアにおける日本の勢力伸長に警戒を抱いていた。しかし驚くべきことに、日本軍は、出兵後わずか2ヶ月あまりの10月末、7万2千もの兵員をシベリアに送り込んだ。
一体、日本陸軍は何を考えていたのか。いかなる思惑があっての、このような大量出兵であったのか。
日本軍の傀儡政権擁立工作:
ー先にも記したように、日本軍のウラジオストック上陸の第1陣は小倉の第12師団だった。アメリカとの合意では、干渉軍はウラジオストック内に留まることになっていたのだが、日本軍はそんな約束など、あっさり反故にしてしまった。12師団は、上陸後、1,2ヶ月のうちに、ウスリー、アムール両鉄道沿いに兵を進め、ニコリスク、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスクなどの主要都市を次々に占領していった。12師団の行動と前後して、名古屋の第3師団と旭川の第7師団とが、北満州及びザバイカル州方面に出動し、満州里(中国とロシアの国境)からチタまでを制圧した。こうして日本軍の勝手なやり方に対して、アメリカが怒らないわけはない。日本政府に激しい抗議をよこしてきたが、政府は軍部を抑えることはできなかった。
ー「統帥権に容喙するな」というわけだった。統帥権の乱用によって、軍部が満州事変を起こし、昭和の泥沼戦争を演出していったのは周知のとおり。軍部の横暴の兆しは、すでにシベリア出兵の時点で明らかだったともいえる。チェコ軍救援の問題に関していえば、日本軍は、出兵のおよそ2ヶ月後、チェコ軍との連絡に成功したのだから、もはや所期の目的を果たしたことになる。チェコ軍が実際にウラジオストック港から引揚を完了したのは、2年後(1920年)の9月初めだった。従って日本軍は、遅くともこの頃には、シベリアから撤退すべきだった。ところが、それから1年以上も、まだこの地にいすわり続けるのだ。
ーこのように見ていくと、「チェコ軍救援」という出兵目的は、日本軍にとって、単なる名目に過ぎなかったことが明らかである。軍部の真の目的はまったく別のところにあった。日露戦争以来、ロシアは、日本にとって仮想敵国であった。その帝政ロシアが革命によって倒れ、シベリア地方は政権の空白状態に置かれた。日本軍部にとって、この事態は、大陸進出のまたとない好機と考えられた。そして、この地域に親日的な傀儡国家をでっちあげようと構想したのである。その傀儡国家は、次なる仮想敵国ソビエト・ロシアとの間の軍事的緩衝となるだろうし、この土地が日本にもたらす利権も大いに期待できそうだ。
ー10月革命の後、シベリア地方には少なからぬ反ボルシェヴィキ政権が乱立した。西部シベリアのオムスクを拠点としたのは、元黒海艦隊長官コルチャック(逮捕され処刑)の政権だった。満州里では、ザバイカル・コサックのアタマン(頭領)であるセミョーノフ(敗北後、日本に亡命。中国、満州で反ボルシェヴィキ活動を行う。46年、赤軍に逮捕され処刑)が旗揚げをした。北満のハルピンに拠るのが、元東支鉄道長官のホルヴァートだった。その他、ウスリー・コサックの頭領カルムイコフや、元陸軍大佐のオルロフなども反革命軍を組織していた。これら反革命の野心家たちは、多かれ少なかれ日本軍の支援をあてにしていたが、なかでも日本軍からの傀儡役として特に目をかけられたのが、セミョーノフとホルヴァートの2人だった。彼らに対する日本軍部の行動は、実に機敏だった(荒木貞夫大佐が総指揮)。10月革命まもない時期に、軍部はいち早く彼らと接触をはかり、軍事的・財政的援助を約束していた。
ーつまり軍部は、正式な出兵宣言のずっと以前から、ソビエト・ロシアへの干渉を開始していたわけである。日本軍による傀儡政権樹立工作は、結局、いずれの場合にも失敗に終わった。どの人物を傀儡の本命に推すかについて、軍部の中での対立や競合があったし、傀儡同士の政治的反目も強かったからである。それに何よりも、これらの傀儡たちは、ロシア民衆の支持を、ほとんど得ることができなかったからだ。しつこいようだが、日本軍のこうした傀儡政権構想もまた、昭和の時代に繰り返されることになる。関東軍の手になる満州国のでっちあげと、皇帝溥儀の擁立工作がそれである。
ー1922年10月25日、日本軍はシベリアからの撤退を完了した。ウラジオストック港を離れる日本兵士を見送るロシア人たちの眼には、激しい怒りと憎しみの光がみなぎっていたという。日本軍は完全に敗戦したのである。
参考文献「シベリア出兵の史的研究」(新泉社)他
日本海軍の親ドイツ派とナチス・ドイツ外交戦略:(綾瀬厚・世界文化社)
ー明治近代国家の成立と同時に、日本は多くのドイツ人を技術者や軍制改革の指導者として招聘した歴史を持ち、大日本帝国憲法制定にあたっては、帝政ドイツの憲法を倣うなど、緊密な関係を保っていた。また、明治から昭和の時代を通じて近代国家を支えた陸軍軍人、医学者、法律家の多くがドイツに留学し、その進んだ技術や学問を日本に取り入れ、国家発展の原動力となったのである。だが、日清戦争で日本が獲得した遼東半島を、いわゆるロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉(1895年)によって清国に返還を余儀なくされ、その3国にドイツが参加していたことから、日独の外交関係は大きなひずみを生み出すことになる。
優先された日英・日露・日米関係:
ー第一次世界大戦において日本はドイツを敵国とし、イギリス・フランス・アメリカなどの連合国側に立って大戦に参加した。連合国の勝利の結果として、中国におけるドイツの租借地であった威海衛や南洋群島を獲得すると、日独関係は一段と険悪なものとなっていた。こうした不幸な歴史は、日独両政府及び日独国民の友好関係の構築を、ほとんど絶望的なものとしていたのである。確かに、フランス式編成からドイツ式編成に切り替えてから、一貫してドイツ陸軍を模範としてきた陸軍軍人やドイツ国家学の影響を受ける法律学者や政治学者をはじめ、ドイツに親近感を抱くエリート集団は少なくなかったが、三国干渉から始まる不幸な日独関係ゆえに、外交路線として親ドイツ路線が浮上する機会は1930年代に入るまで見出されないままであった。
ーふりかえってみれば、明治・大正期の日本の外交戦略は、1902(明治40)年に締結された日英同盟(1922年廃棄)と、1907(明治35)年に締結された日露協商(1917年廃棄)の2つによって代表される。事実、日露戦争は、当時南下政策を志向するロシアを日英両国共通の敵国とし、そのイギリスの財政的支援を受けてはじめて可能な戦争であったし、日本が朝鮮を併合し、本格的な植民地保有国となっていく背景に、イギリスの暗黙の支持があったのである。一方の日露協定にしても、ロシア革命によって頓挫するものの、日本は日露戦争以後、日露再戦の危機回避、植民地朝鮮の経営と中国における権益確保策の推進のために不可欠とする認識を強く抱き続けていたのである。加えて、イギリス・フランス・アメリカを牽制するためにも、ロシアとの友好関係の維持・推進は国益の発展のため不可欠との外交認識が存在した。
ーロシアについていえば、確かにロシア革命を機に日本もシベリアの各地に誕生したソビエト政権を潰す目的をもって、シベリア干渉戦争に加わった。そして1918(大正7)年にシベリアに向けて出兵を開始し、撤退する1925(大正14)年まで、約7万5000名に達する大兵力を派遣した。この機会に日本とソビエト新政権との関係は一時途絶したが、干渉戦争終了後から1938(昭和13)年の張鼓峰事件で日ソ両軍が軍事衝突し、再び関係が悪化するまで、国内における反ソ・反共の感情が強く存在する一方で、外交関係は概して良好であった。さらに、イギリスとの関係にしても1921(大正10)年に開催されたワシントン軍縮会議によって日英同盟の廃棄が決定し、さらに日本の中国への権益獲得の行動が抑制されはしたものの、そのことが国内にあっても直ちに反英感情が高まったわけではなかった。
ーというより、日英同盟の廃棄後も日英関係は、イギリスとの経済関係の維持の必要性からも、またイギリスの事実上の同盟国アメリカとの関係促進という観点からも、日米外交においてイギリスとの外交関係は、極めて重要課題として認識されていたのである。
転機となった国際連盟からの脱退:
ーこのような明治国家成立以降における日本の外交路線の展開において、日本とドイツが接近する理由は希薄であり、むしろ対立か相互に無視するという状態が一貫して続いていたのである。その日独関係に大きな転機が訪れるのは、日本とドイツの相次ぐ国際連盟からの脱退であった。ここに両国の接近の可能性が生じてくる。それは、1931(昭和6)年9月18日、関東軍により引き起こされた満州事変を転機とする。日本への国際世論の批判と、国際連盟から派遣されたリットン調査団による日本の自衛権発動の弁明が否認され、さらに1933(昭和8)年2月に開催された国際連盟総会で、リットン調査団の報告書が圧倒的多数により承認されたことから、翌3月、外務大臣内田康哉は、国際連盟事務総長ドラモンドに国際連盟脱退を通告した。PS:リットン調査団の報告は以下、
1、関東軍の行動は自衛行動とは認められない。
2、「満州国」は独立運動の結果とは認められない。
3、中国人は「満州国」を認めていない。
ー日本が、イギリスやロシアとの外交関係を維持していくうえでの媒介役割を担っていた国際連盟を脱退したことは、日本の一連の中国侵略行動そのもの以上に、欧米諸国の対日認識を改めさせる結果となり、日本は国際連盟という媒介機関を自ら放棄することで、国際的には孤立化の道を選択することになったのである。一方、1932(昭和7)年7月、ヒトラー率いるナチス党が選挙によって第2党に躍進し、翌年1月にヒトラーが政権を掌握するや、先の第一次世界大戦に敗北して以来、軍備制限の条件撤廃を一方的に要求し、本格的な再軍備を強行するに至った。このドイツの再軍備宣言は、ドイツの宿敵であり、ドイツの強大化を脅威とする隣国フランスを刺激するところとなった。独仏両国の関係悪化がヨーロッパ大陸の、ひいては全世界の不安定要因を形成するものとの観点から、国際連盟は関係改善のために努力を重ねた。しかしながら、実際にはフランス寄りの姿勢を基本的には崩さなかった国際連盟に強い不信と不満を抱いたドイツは、日本と同じく1932年の10月に脱退した。
ヒトラーの「わが闘争」が示したドイツの日本評価:
ードイツは国際連盟から脱退し、再軍備への道を強行することで、ヨーロッパにおける覇権争奪に事実上名のりをあげたものの、それは同時に孤立化への道でもあった。奇しくも1933年に国際連盟を脱退した日本とドイツは、ここにそれまで希薄であった外交関係の見直しを、実に孤立化からの脱却を目的として迫られることになったのである。孤立化の回避と、欧米諸列強との対抗軸の形成というふたつの議題の克服を目的として、特に第一次世界大戦以降においても、見るべき外交関係も文化交流も皆無に等しかった日独両国が急接近していくことになる。
ーヒトラーは「わが闘争」のなかで、日本の文化は「月光文化」だと断じている。つまり、日本の文化と呼ばれるもののなかで、日本が自ら創造した文化は皆無に等しく、そこで強いて文化と呼べるものは所詮は、ヨーロッパの文化に照らし出されてはじめて光を放つことのできる文化に過ぎないとした。日本民族は「文化創造能力」が欠如しているのだと断じているのである。日本と同盟を結ぼうとしているドイツの最高指導者が、ドイツ国民の必読書とされた書物のなかで日本の文化水準を低位に見積もったことは、ドイツ人の対日観に計り知れない影響を与えた。
ー事実、当時にあって日本とドイツは人的文化的交流も希薄であり、ヒトラー政権のブレーンと呼ばれる人々のなかにも日本への理解と共感を抱く人物は皆無に等しかった。それでも敢えて挙げるならば地政学者で、「大日本」(1913年刊)や「地理的発展における日本帝国」(1921年刊)を著したカール・ハウスホーファー(1896-1946年)くらいである。ハウスホーファーは、アメリカ・イギリス・フランスというドイツの対抗国との関係からベルリン・モスクワ・東京枢軸の構築を提唱した。ヒトラーの外交ブレーンのひとりで、後に外務大臣に就任するリッベンドロップも、確かに日本問題についてはハウスホーファーからの情報を頼りにしていたが、ハウスホーファー自身がヒトラー政権内で有力な位置を占めたわけでも、また対日外交に重要な役割を演じたのでもなかった。
ドイツ外交における日本の位置:
ーそうした経緯がありながらも、孤立化の回避と欧米の対抗軸形成を痛感したドイツ外交は、国連脱退と同時に、ドイツを盟主とする形で同盟相手国を早急に確保する外交の新展開を用意することになる。日本とドイツの関係は外交はいうに及ばず、経済的文化的諸領域において、それまで然したる交流はなかったものの、客観的に見れば共通する側面が全くないわけではなかった。それは両国とも1870年代において産業革命を経験し、先進欧米資本主義諸国に追いつくために強引なまでの国家主導の資本主義の発展を図り、遅れて植民地保有国の戦列に加わった。しかし、本来が不十分な資本力ゆえに植民地経営も海外市場の開発も立ち遅れた。特に日本の場合は、近代工業国家として体裁を急速に整えていくための資本や技術が不足していたために、イギリスやアメリカへの依存を余儀なくされていた。
ーそこから、対アジア覇権主義の表出と、その反面で欧米先進資本主義国への依存という二重帝国主義国家として発展の道を選択せざるを得ず、それが国内の外交方針の動揺や外交路線をめぐる諸勢力の対立と抗争に結集していくのである。ドイツの場合は、日本に比較すれば資本力と技術力において恵まれてはいたものの、それでもイギリスやアメリカとの対抗において立ち遅れ否めず、また狭隘な植民地・市場ゆえに常に資本主義の発展に一定の制約を受けねばならなかった。それが、ドイツ国内においては反英・反米・反仏感情として蓄積され、ドイツ・ナショナリズムとなって立ち現れていった。そうしたドイツ国民の感情を巧く政治的エネルギーとして表出され、政権獲得に成功したのがヒトラーでもあったのである。
ーこのような状況の進展のなかで、ドイツは対日接近政策を具体的に採用するに至る。この政策は、1940(昭和15)年9月の日独伊三国軍事同盟に帰結する。
防共協定締結から三国軍事同盟へ:
ードイツではヒトラーが政権掌握に成功してから、国会放火事件などでドイツ共産党を非合法化するなど、敵対する国内勢力をことごとく一掃し、国会で全権委任法を成立させて、ヒトラーが独裁的な権限を握った。そして、国際連盟を脱退の後、ドイツは1935(昭和10)年10月に、エチオピアに侵攻し、後発の資本主義国家として本格的な植民地保有国家となり、同時に英仏を中心に国際世論から厳しい批判に晒されていたイタリアとの関係強化に乗り出した。具体的には、1936年10月、ローマ・ベルリン枢軸が結成されたが、これもエチオピア侵攻で国際的な孤立化に陥っていたイタリアと、スペイン内戦(1936年7月開始)への干渉を本格化し、一段と国際批判を浴びていたドイツとが急接近した結果であった。
ーこのローマ・ベルリン枢軸に、アジア方面におけるイギリス・フランスを牽制し、それに社会主義ソ連を中立状態に置くか、場合によっては自らの陣営に引き入れるためにも、ドイツは日本との連携強化を模索していた。その第一弾が、1936年11月に締結された日独防共協定(反コミンテルン協定)であった。協定締結に奔走したのは、ドイツ側かナチス党の外交部長格であったリッベントロップと、日本側がドイツ大使館武官大島浩陸軍少将であった。大島少将は、リッベントロップと接触するうちにナチズムに心酔し、強烈な反共意識を抱くようになる。大島は当時日本陸軍向けの軍用機売り込みに活躍していた、ハインケル航空会社のハックを通じて、ドイツに防共協定の締結を打診していたが、1935年10月になって、リッベントロップから日本陸軍に意向の問い合わせが行われた。これを受けて、参謀本部から派遣された参謀本部第2部(情報)ドイツ班長の若松只一中佐とリッベントロップとの会談で、ドイツ側は同年夏に開催されたコミンテルン(共産主義インターナショナル(第3インター))第7回の決議が日独に脅威を与える内容であるとの情報判断を示し、早急に反コミンテルン協定の締結を提案した。両国の交渉は、1936年2月に起きた日本陸軍の反乱事件である2・26事件で一時滞り、日本側の交渉の主体が陸軍から外務省に移りはしたが、日本陸軍の強い影響の下、広田弘毅内閣の有田八郎外務大臣の責任で進められ、11月25日に調印となった。日独防共協定は、コミンテルンに対して相互防衛措置の協議を取り決めたものだが、秘密付属協定で、協定に違反する条約はソ連と一切締結しないことを確認するものでもあった。
ーつまり、まず国際共産主義運動への対抗軸の形成という目的のもと、国際的孤立を深めていた日独両国が接近したのである。これは1935年11月のエチオピア侵攻以来、やはり国際的な孤立状況に置かれていたイタリアも参加し、同国は翌12年には日本とドイツを追う形で国際連盟を脱退した。そして、日独伊防共協定を軍事同盟に発展させる企画が、まずドイツ側から提案される。その締結は、1937年11月にヒトラーがドイツ国防軍や外務省の幹部を提案して会議を開き、その場で英仏を中軸とする国際秩序(=ベルサイユ体制)の打破を強調し、旧連合国に対抗可能な軍事力が整えられた現状を確認したうえで、まずはヨーロッパのドイツ化、即ちドイツに隣接する諸国家への侵略行動を開始するに 至る。
ーこの際、ヒトラーはドイツが新ヨーロッパ秩序の形成に向った場合の最大の障壁をイギリスと見ており、対英政策がドイツの当面の外交軍事目標を達成するうえでの最大の懸案と認識していた。そこでヒトラーは、イギリスの対独制裁行動を背後から牽制する役割を日本に求めようとしたのである。そのためには、日独伊防共協定を軍事同盟にまで発展させ、日独伊の枢軸の強化が前提条件と考えていた。こうしたヒトラーの意向を受けたリッベントロップ(当時ドイツ駐英大使)は、1938年1月、大島少将に三国同盟締結の提案を行った。ドイツの対日接近政策は、翌2月にヒトラーが国防軍を完全に統制下に置き、さらに外務大臣に腹心のリッベントロップを据えた時点から拍車がかけられていた。
ー即ち、同年4月にリッベントロップは、駐日ドイツ大使に大使館付武官であったオットー少将を就任させ、日本側との直接交渉役を担わせることにしたのである。リッベントロップ外相はオットー大使を通じて、日本を同盟関係に引き入れるため、それまでドイツ外務省が踏襲してきた親中国政策を放棄させ、1938年2月に「満州国」を承認、4月には中国向けの武器・戦争資材の輸出禁止措置の断行、さらにドイツ軍事顧問団の引き揚げ、ドイツ駐華大使の召還など、一連の対日外交の展開で日本への懐柔政策を強めていた。これと併行して、ドイツはイタリアにも同盟参加を呼びかけてはいた。しかし、エチオピア併合を承認するなど、宥和外交を展開していたイギリスの外交姿勢に逡巡していたイタリアも、アルバニア併合の思惑もあって三国同盟参加の意思を強めていた。
ー日本国内では、ドイツの対日接近政策を受けて、これを膠着化しつつあった日中戦争の打開の機会と捉え、陸・海軍省及び外務省では三国同盟締結に積極的な姿勢を採ろうとしていた。同盟は、1940(昭和15)年9月に締結されたが、そこまでに至る経緯は実に紆余曲折を繰り返すことになった。基本的な問題は、ドイツが日本にイギリスの牽制を同盟の主要な柱とする構想を持っていたのに対し、日本政府はドイツには対ソ同盟を、イタリアには対英牽制を期待することを骨子とする同盟を企図したが、ここで早くも日独の構想の齟齬をきたし、その調整に手間取る結果となった。
ー次いで、ドイツは日本に同盟の対象国をソ連に限定せず「第三国」とし、この場合の「第三国」にイギリスとフランスを含むとする案を示した。近衛文麿内閣の宇垣一成外務大臣は、日本政府の立場としてあくまで対ソ限定とし、英米を当面敵視する性格のものでないことをドイツに伝えようとしたが、陸軍はソ連のみならず、イギリスとフランスにも対象に含む同盟の締結を希望する旨を強硬に主張し、独自の外交ルートを通じて、ドイツに同調する線で宇垣外相の意向を無視する交渉を進展させようとした。近衛内閣ではついに結論が出ず、次の平沼騏一郎内閣で決着がつけられることになった。
三国同盟締結問題と海軍の立場:
ー確かに日独伊三国軍事同盟の締結まで、一貫して主導権を握り続けたのは日本側では陸軍であったが、従来の研究や軍事同盟の締結には、反対か慎重論が多勢を占めていたと思われた日本海軍も、一部の者を除けば、この反英的性格を色濃く持った同盟締結に積極的であった。実はこの海軍の立場が最終的には、陸海軍および外務省が一致して締結に邁進した大きな背景となっていたのである。日独伊三国同盟締結が問題として浮上した時の海軍首脳は、海軍省が米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、軍令部が伏見宮博恭王軍令部総長、古賀峯一軍令部次長である。
ーこれらの首脳たちは無条件でドイツ側の構想する軍事同盟には反対の姿勢を当初示していたことは確かだが、それはドイツ主導の軍事同盟がイギリスとの対立関係を先鋭化させ、ひいては日本海軍の第1仮想敵国であるアメリカを過剰に刺激することを脅威したためである。いわば、状況判断として政治的配慮を優先し、英米に対して表向けの顔としてそのような姿勢を採用していたに過ぎないと言える。実際には海軍省内にしても軍令部内にしても、満州事変以降においては、早晩生じるであろうイギリスとの対立激化から戦争勃発に備えて、中国広東省や海南島での基地獲得のための南進政策の積極的な採用が目立っていたのである。
ー海軍首脳の公式見解とは別に海軍内で実験を振っていた中堅軍事官僚たちは、実はほとんどがドイツとの無条件同盟締結に合意する意向を固めていくのである。これら海軍内中堅幹部たちが、ドイツが提案する同盟案に最初に接したのは、1938年8月、ドイツから帰国した参謀本部付の笠原幸雄少将が、ドイツ側の提案を海軍省と軍令部の首脳に説明してからということになっているが、実際には既に海軍も独自に駐独日本大使館付海軍武官小島秀雄少将がドイツ側の意向を知らされており、同盟締結への関心は高まっていた。ところで参謀本部の笠原少将が、8月7日に海軍首脳が一堂に会した席上でドイツ側の同盟趣旨を説明したのを受けて、海軍事務当局は「自動的参戦」の回避、イタリアの加入による同盟対象国のイギリス・フランスへの拡大を条件に同盟締結に賛成の立場を採ろうとしていたのである。
ーこの時の海軍内は、同盟に反対の意向を崩そうとしなかった古賀峯一軍令部次長、結局は条件付き賛成の態度を見せることになる米内光政海相、最初から積極的な同盟締結支持であった海軍中堅幹部ら、必ずしも一枚岩ではなかった。だが、ヒトラーが政権を掌握する頃から、同盟締結問題が浮上してきた1938(昭和13)年頃にかけて、’親ドイツ派’とも称されるべき中堅幹部の存在が目立って登場してくる。彼らは同盟締結問題の主導権を握り、さらには海軍独自の対中国政策の実行や日米開戦決定過程への重大な関りを演じていくことになるのである。
海軍内’親ドイツ派’の登場と役割:
ー海軍内において、ドイツのヒトラー政権の暗黙のうちに支持する勢力が登場してくるのは、やはり同盟締結問題が本格的に浮上してきた1936年頃とみてよい。当時、海軍省臨時調査課長であった高木惚吉大佐は、1940年7月27日付の「帝国の近情と海軍の立場」と題した報告書の中で、ヨーロッパでは当たらしい時代の幕開けの象徴としてイタリアやドイツで起きたファシズムへの関心を赤裸々に記し、民主主義や自由を標榜する先進諸国主義の欧米秩序の崩壊を、大胆に示していた。それで日本は、特にドイツの思想や文化を倣い、英米両国への過剰な依存体制を見直し、ドイツ・イタリアとの枢軸関係を強化することで、アジアにおけるファシズム国家として主導権を握る絶好の機会とみていたのである。
ー高木はファシズムの時代潮流こそ、これからの新秩序形成の鍵であるとし、それは英米主導の旧秩序を解体する力と捉えていたのである。海軍内の’親ドイツ派’にほぼ共通するこうした考えが生み出されるには、より具体的な歴史的背景が横たわってもいる。それは満州事変までも遡るが、陸軍の主導下に進められていた中国東北部への侵攻作戦の「成功」に、海軍は深刻な焦燥感を募らせることになる。つまり、陸軍に対抗して海軍独自のプレゼンスを示さないと、海軍予算の削減や国内における影響力低下を招きかねないというものであった。そこで海軍は満州事変の翌年に、「満州」と違い、英米資本の利害が錯 する上海で事変を引き起こし、ここに軍事圧力をかけることで日本財界の支持を確保しようとした。
ーさらに高木は報告書の中で、「今日帝国が経済的に英米勢力に依存する実状あるを以て之と出来得べくんば国交を調整したきの希望を持つは已むを得ざるが然し日本が或いは大陸に或いは海洋に発展して世界新秩序の建設に乗り出す以上刻々の具体的現象は兎も角として大勢は英米との衝突が避くる態わざる必然の趨勢であるのと同様である」と言い切っていたのである。すなわち、当面は英米との関係を悪化させるのは可能な限り避けるべきだとしながらも、世界新秩序の確立という目標のためには英米との戦争は「必然」とした。ここでいう世界新秩序とは、具体的には英仏米の利権争奪を前提としつつ、中国や東南アジア地域での日本の覇権確立を意味した。そしてこのような新秩序を確立するためにこそ、ドイツやイタリアとの同盟関係を構築し、対英仏米の強力な対抗軸を早期に形成するとしたのである。
ーこの高木に象徴される姿勢は、当時の海軍中堅層幹部にはほぼ共通するものであり、彼らをして’親ドイツ派’と称することができよう。ただ、この’親ドイツ派’と対抗するような勢力、例えば’親英米派’のようなグループが存在して、両派が海軍内で主導権争いを演じたというわけではない。もちろん、同盟締結問題が浮上した折り、一貫して同盟に反対の姿勢を見せていた古賀峯一軍令部次長のような首脳や中堅幹部が存在したことは確かだが、それは所詮締結時期や条約の内容、それにドイツとの連携強化による陸軍の政治軍事指導における主導権強化への警戒心から出たものであって、海軍全体がここに来て対英米戦争を回避し、ドイツやイタリアの陣営に距離を置こうとするものではなかった。
ーその意味で言えば、同盟締結問題が浮上した時期においては、すでに海軍内では、ここでいう’親ドイツ派’が主要な役割を演じていくまでになっており、それゆえ同盟締結までには若干の紆余曲折があったとしても、最終的には海軍も日独伊三国軍事同盟に将来の日本、そして海軍の発展の機会を求めようとしたのである。海軍が最終的に日独伊三国軍事同盟の締結に賛成したのは、これら’親ドイツ派’が、結局のところ海軍内の主導権を握ったことによる。それで、いうならば海軍全体がほぼ’親ドイツ派’で占められ、文字通りドイツ寄りの政策を採用するに至る理由は、従来から懸念であった陸海軍の主導権争いに終止符を打ち、陸海軍が共同して時局に対応していくためにも、無条件で同盟締結を急ぐ陸軍との共同歩調が不可欠と判断したからである。
ー’親ドイツ派’の一致する目標は、結局のところ英米中心を打破して日本がアジアの盟主となり、大東亜共栄圏のスローガンのもとに、この地を日本資本主義の独占的市場にすることであった。その目的達成においては海軍とて陸軍と同様であり、日本資本主義の発展の基礎を軍事力で開拓していくことが陸海軍の使命である以上、海軍がドイツ・イタリアとの同盟関係に反対することは実際には不可能であったし、むしろこれを積極的に支持していくことで陸軍と同様に中軸としての役割を果たしえたのである。こうした姿勢が、’親ドイツ派’を不可避的に生み出したのであり、その意味で’親ドイツ派’の登場は、当時の海軍が置かれた、もっといえば陸軍も含めた日本が置かれた客観的状況の必然的な成り行きでもあった。
ーつまり、日独防共協定締結により、英米秩序に対抗する新秩序のなかに自らの発展の余地を、軍事力によって見出そうとすれば、ドイツやイタリアとの同盟関係の形成しか選択肢がなかったのである。そのような極めて限られた選択肢しか残されていない状況に自らを追い込んでいったのは、何よりも軍事力にって経済的利益の拡大を志向し続けた近代日本資本主義の、大いなる過ちの結果であった。
ソ連の対日参戦と米ソ関係・「千島問題」(北方領土)の発祥:(藤村信「ヤルタ・戦後史の起点」90・岩波)
ースターリンは、敵の味方であるが正面の敵ではない日本との戦争がソ連市民の人気を呼ばないことを知っていました(PS:著者は「ですます」語調なので改めます。故藤村氏(本名熊田享)は在欧州50年以上のジャーナリスト。2006年、パリで死去。サム)。
ーそれにも関らず新しい冒険を約束したのは、彼自身が「対日戦争はすぐ終わるであろう」と語ったように、リスクは少ないと踏んでいたからである。本土上陸作戦において日本軍の狂気の抵抗を予測するアメリカと比べれば、満州と華北の占領を最初の主目標とするスターリンの負担はまずまずといえるだろう。これに反してルーズベルトとチャーチルは極東で長期にわたる犠牲多き戦闘も見通しを抱いていた。1944年9月の第2回ケベック米英首脳会議における合同参謀本部の想定は、日本を降伏させるためにはドイツの敗北後18ヶ月を予測し、本土上陸作戦において約100万人の死傷者を見積もっていた。それらは政治的要素の介入をぬきにした純粋に軍事的な想定ではあるが、2人の首脳はこの想定に立った彼らの政治的経略をたずさえてヤルタにやってきた。
ーヤルタの段階すなわち1945年1月22日の時点においてアメリカ軍参謀部が定めた対日作戦計画によると、次の時間表が用意されていた。現時点(1945年1月)においてはフィリピン作戦(ルソン、ミンドロ、レイテ諸島の平定)を継続する。硫黄島作戦は2月19日から、沖縄および琉球諸島への展開は4月1日から8月の間とする。ヨーロッパからの兵力移動計画が確定されるまでの間、九州、本州上陸作戦を1945-46年冬に予定して計画をすすめる。
ー1943年から45年にかけてアメリカはヨーロッパ戦争の解決を優先させながら、同時に太平洋の「飛び石作戦」に成功して、日本軍の占領した主要な島々を奪回した。マッカーサー将軍の軍隊はマニラに入り、フィリピンの大部分を掌握した。二ミッツ提督の海軍はマーシャル、サイパン、グアム諸島を陥れて、硫黄島と沖縄作戦を準備した。沖縄を奪いとれば、そこからアメリカ空軍は九州から東京に至る地域を爆撃範囲におさめることができる。東シナ海の制空権を握ってインドネシアから日本へ送られる原料の輸送を麻痺させることができた。アジア大陸における日本の軍事支配も崩れつつあり、英国は徐々にビルマを奪回し(ここではまたしても「辻政信大佐」が最後の’蛮勇’をふるった)、中国では反攻が開始されていた。
ーしかし、日本軍はインドシナ(仏印)、インドネシア、中国大陸沿岸地域を十分に支配しており、海空軍を失ったとはいえ、本土には約400万の陸上兵力を配置して、徴兵適齢者の90%が召集され、青年男子は根こそぎ動員され、上陸作戦に備えて捨て身の防衛訓練がほどこされていた。ルーズベルトはアメリカが太平洋戦略の主導権を握ることについてチャーチルからの了解をとる。大統領の最大関心事はボーイズ(アメリカ将兵)の犠牲を最小限にとどめて早い勝利を勝ち取ることだったといえよう。彼がソ連の対日参戦を期待したのは、アメリカ軍部の勧告を容れた戦略の一部であるとともに、彼自身の内面からのモラル的欲求でもあった。このモラル的欲求は、スターリンの熱望にも関らず、なかなかヨーロッパに第二線を開くことのできなかった、ケナンの表現によれば「負い目」のコンプレックスとも久しきにわたって結びつき、重なりあっていた。
ーヤルタの段階になって、すでにノルマンディ上陸作戦の成功にかかわらず、ルーズベルトはこの種のコンプレックスから十分に解放されなかった様子がみてとれる。千島の問題については、1944年の冬、スターリンがシベリア沿海州にアメリカの爆撃機基地を認めたときから、にわかに具体化した。スターリンはアメリカが千島を軍事的に掌握するならばソ連の参戦は一層たやすくなることを告げた。そこで1944年冬からアメリカ参謀本部のなかで千島作戦の可能性について集中的な検討が進められて、結局1945年内は無理であるという結論が出た。アメリカ参謀本部が1月23日、ヤルタへ出発しようとするルーズベルトにあてた「覚書」によれば、千島作戦はオホーツク海を経由してシベリア沿海州とサハリンの港に至る補給路の確保を目的とすることを明らかにしている。
1、シベリア沿海州に建設の予定とされるアメリカ爆撃機基地の補給はシベリア鉄道経由では間に合わないから北西太平洋を通過しなければならない。このためには北千島の日本軍を無力化させて千島列島北方の海峡の安全な通過を確保することが必要になる。しかし、千島作戦の開始は南方における沖縄から本土を目指す作戦の努力を分散させて、集中的な戦闘能力を弱める恐れがある。しかも、ヨーロッパ戦局の不安定な動向と北西太平洋におけるアメリカ軍の資材装備の不足を考慮すると、北千島における水陸両用作戦の展開は1945年内は不可能である。
2、日ソ間の戦争がはじまれば、日本はウラジオストック港を封鎖するであろうから、ソ連軍の対日戦略が北西太平洋補給路にどの程度まで依存しなければならないかをヤルタ会談で相談しなければならない。しかし、アメリカの北西太平洋千島作戦の開始については現段階では何ごとも約束することはできない・・・」(「ヤルタ文書」)。
ー従って、アメリカ軍部がヤルタにおいてソ連とスターリンに期待する当面の戦略の分担とは、
1、満州における日本軍を打ち破る。
2、シベリア沿海州(ないしはカムチャッカ)からするアメリカ空軍の日本本土爆撃作戦に協力する。
3、日本と東南アジアとの間の海上輸送を妨害する。
の3点にあった。千島と南樺太を抱懐するオホーツク海(北西太平洋)作戦はあくる年、つまり1946年の段階に来る戦略だった。
ーおそらくはこの千島作戦計画の検討に触発されて、国務省調査部領土小委員会が起草した千島とサハリン南半部(南樺太)に関する2つの覚書が「ヤルタ文書」に収められている。「千島諸島」はジョージ・ブリクスリーが起草して1944年12月28日の日付けだった。「南樺太」はヒュー・ボートンの文章で1945年1月10日である。ブレイクスリーもボートンも「知日派」として知られる大学教授、そして代表的な極東問題専門家で、早く1942年の頃から戦後対日政策の研究と立案に積極的に参加してきた。ブレイクスリーは極東班の活動を組織した草分けとして人々から敬愛されている長老で、国務省に設けられた「極東問題に関する部局間地域委員会」の委員長に任命された。
ーここで用意された計画をもとにして国務省上層からなる「戦後政策委員会」がアジア政策を立案する。コロンビア大学のボートン教授はサンソム卿の門下で、「徳川時代の百姓一揆」と「1931年以降の日本」の著者であることは知られている。簡潔にしるされた2つの報告は千島と南樺太2つの地域がヤルタ会談の課題となることを認識して起草されてあって、今日からかえりみて実に興味のある内容を含んでいる。はじめにボートン教授の書いた「南樺太」を紹介すると、南樺太の将来をどのように処理するかという問題の提起に出発して、歴史と現状そして勧告案が簡明にしるされてある。
ー南樺太の人口41万5千人(1940年)のうち99・4%は日本人であって、その経済は本土の経済に統合されており、日本における石炭生産高の7%、パルプ・製紙の16%、材木14%を生産する。南樺太は将来、ソ連戦略にとって重要性をおびるであろうから、ソ連はカイロ宣言を持ち出して、この地の領有権を請求するかもしれない。ソ連の請求はポーツマス条約(東海岸NH州・偶然にも車で1時間北に2年住んでいました。いずれ☆)廃棄の自動的な応用であって、1905年以前、この地はロシア帝国領土の一部であったから、ソ連への引渡しを必ずしも征服、併合の範囲にいれることはできない。しかし、カイロ宣言にしるされた「領土不拡大」の原則と、「暴力と貪欲によって略取した領土の返還」の原則との適用については、この場合不明瞭である。そこでボートン氏は、ソ連が対日参戦の必要条件ないしは報償として南樺太の返還を請求してきた場合、南樺太を将来の国連の信託統治下におき、信託統治の権利をソ連にゆだねることを提案してはどうかと勧告した。
「旧日本領」の歴史・南樺太と千島列島:
ーブレイクスリーによると(それはおそらく当時のアメリカ極東専門家の一致した認識であったと思われる)千島諸島は北海道から東北方カムチャッカ半島へいたる人口の疎らな47の火山島のひとつながりであって、総面積約3944マイル、常時の人口は全部日本人で1万7550人(1940年)。日本は1800年頃から南千島諸島を所有し、カムチャッカ半島から北千島へ南下したロシア帝国は1854年(下田条約)、これら千島諸島における日本の権利を承認した。1875年(樺太ー千島交換条約)、樺太全島はロシア領、千島全島は日本領と交換の条約がむすばれ、千島全域は北海道庁の管轄下に入った。千島の経済的重要性はもっぱら漁業で、それは日本人の食生活および輸出産業の重要な要素をなしている。
ーブレイクスリーはそこで千島列島を3つの地域に分けた。南千島は北海道東部の先端から択捉島まで、ここは1800年以来明らかに日本領土だった島々で、千島全人口の90%が住んでいる。中千島はウルップ島から北方へ375マイルの地域の島々で、その大部分は無人島で経済的価値をほとんどもたない。しかし、戦略的にはオホーツク海の出入口として重要で、シムシル島の港湾は作戦基地として開発することができる。北千島はパラムシル、シムシュ、アライトの3島からなって、漁業及び空海軍基地として重要である。北千島周辺の漁業のみで、全千島漁業生産高の77%(1938年)をあげている。地理的には北千島3島はカムチャッカ半島の延長である。
ー日本はここにあげた諸理由から南千島の請求権を強く主張するであろうが、ソ連も軍事的な動機から北千島3島の請求を主張するかもしれない。ソ連は北、中および南千島までも要求するかもしれない。北、中千島の保有はオホーツク海への通路を保障する。ソ連の南千島請求を正当づける要素はほとんど皆無で、南千島をソ連に引き渡せば、将来の日本にとって永久的な解決とは承認しがたいような状況が発生するであろう。歴史的、民族的に日本のものであった島々と漁業水域を日本から奪い去ることになるであろう。南千島が(軍事的に)強化されれば日本に対する継続的な脅威を形成するであろう。
ーそしてブレイクスリーは3つの勧告案をもって結ぶ。
1、南千島を日本領土にとどめ、日本全土に適用される武装解除の原則に従属せしめる。
2、北及び中千島は国連の信託統治下に置き(当初の案は、解放後の朝鮮半島もおなじだった)、ソ連を信託国に委任する。
3、北千島海域における日本の漁業権を考慮する。
ーこのように極東専門家の長老ブレイクスリーの分析と展望は感嘆するばかりに明確だ。2人の専門家の覚書を通じて共通するところは、リベラルな事実認識の精神に立って、民族の自立と経済的考慮から日本の伝統的権益についても擁護すべきものと擁護しようとつとめている態度である。それは日本の南千島4島における歴史的請求権、ソ連の北千島における影響力を認める姿勢にも現れているであろう。当時のワシントンにあって、日本を擁護するものは天皇と取引するいかがわしい異端者であるとみなされた時代と環境にあって、かかるリベラルな認識は驚くばかりのことだ。そして2人の報告者はいずれもソ連に信託国の委任を主張しながら、米ソ関係の将来についてはかなり警戒的な気配がよみとれる。
ーブレイクスリーは、アメリカが千島において唯一の信託国になったり、唯一の基地保有者になることは、将来ソ連と困難が発生した場合、危険に身をさらすも同然であるから、ソ連が千島に基地を設けた場合、アメリカその他の連合諸国の共同使用を認めさせたほうがよいと述べた。当時のこれらのアメリカの極東専門家たちが、国後、択捉、色丹、歯舞の4島を南千島と略称して、つまり地理的名称としての千島列島のなかに数えいれていた事実を指摘しておこう。サンフランシスコ条約で千島全島の放棄を承認した日本は、それ以後、「4つの島々は日本固有の領土であったから千島諸島には含まれない」という苦しい論理を発見し、「北方領土」という、世界の世論にアピールするには説得力の弱い、概念の不明確な言葉をつくりだして、4つの島々の返還を求める運動をしている。
スターリンの北海道北半分占領要請:
ーしかしながらこれも矛盾した用語であって、「固有の領土」というからには千島の全島を含まなければならない。先頃(1985年5月)ワシントンで公表された「アメリカの外交関係・1952-54年・中国・日本編」によると、終戦の直後、ソ連の千島進駐にあたってマッカーサー元帥が占領地域の分担を画定するために北海道と千島水域諸島との間に分界線を引いたとき、歯舞諸島を含む南千島4島はソ連軍占領地域に入っていたという事実が発見された(共同ワシントン電、1985)占拠について1度たりともソ連に抗議を持ち出さなかった真実の理由は、ここにあった。アメリカは終戦のさいにスターリンが要求してきた北海道北半分(釧路と留萌を結ぶ線の以北)の占領の要求を拒絶したが、南千島をソ連占領地域のなかの西限として認めたことになる。これらの混乱はヤルタにおける粗雑な取引に起因していた。
ーさらに付け加えるならば、ブレイクスリーとボートンの「覚書」は明らかにヤルタ会談のために準備されたにもかかわらず、2つながらヤルタ会議準備資料集のなかに挿入されなかったとし、ルーズベルトがこれらの文脈に目をとおした様子はない。「ヤルタ文書」の注記も「2つの覚書が大統領の参考に供せられた様子はない」と、述べていた。ルーズベルトが千島を語るとき、南樺太と同様に大雑把に一様に扱って、列島の北、中、南の分類について深く思い及ばなかった原因のひとつは、そこにもあるだろう。少なくともヤルタでは、「千島はソ連に引き渡される」といいながら、千島諸島を地理的、民族的、歴史的に分類し、考察する試みはひとつも行われなかった。
ーヤルタにおける千島の一括取引は、当然ながらソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥はカムチャッカ地区司令官に対して、8月25日までに北千島3島(シムシュ、バラムシル、オネコタン島)の占領を命令した。最北端シムシュ島の日本軍守備隊は武装を解除して降伏の準備を進めていたのに、数日前までは友軍ないし同盟軍とみなしていたソ連軍の攻撃をうけて、やむなく応戦し、戦闘は8月20日まで続く。ソ連軍がウルップ島に上陸したのは8月31日で、ソ連船は上陸に先立つ数日間、島のまわりを回航しながら、島内にアメリカ軍が上陸しているかどうかをうかがって警戒的だった。ソ連の太平洋艦隊司令官に同伴した日本軍参謀によれば、ソ連司令官は南千島4島を、日本が降伏文書に調印した翌日の9月3日までに占領した。
ー南千島を占領したのはサハリン方面からきた日本系ソ連軍将兵たちであった(竹前栄治「GHQ]岩波)。おそらく当初は北と中千島の占領のみを考えていたソ連軍は千島列島を島づたいに南下する段階になって混乱が生じて、マッカーサーと進駐の分界線を話し合わなければならなくなったのであろう。さきのマッカーサー・ラインの線引きが証明するように、千島進駐の具体的な決定はヤルタではなくして、ちょうど朝鮮半島の米ソ進駐地域を分かつ38度線のように、終戦の混乱期に、おそらくは大急ぎで暫定的な形で取り決められたはずだ。ルーズベルトの個人外交、ことに戦後アジアにかかわる決定はヤルタにおいて危ういものをはらんでいた。大統領の決定は国務省の責任者のみならず極東問題専門家の意見と存在を文字通りに無視して行われ、それはカイロとテヘランの両会談では幸いにもことなきを得たが、ヤルタではとりかえしのつかない失策と過誤の危険をはらんだあやうい賭けの要素をおびてしまったといえる。
靖国と’霊’問題・道ならぬ道(キリスト教徒の元軍医):(野田正彰(赤十字病院精神科部長)「戦争と罪責」94・岩波)
敢えて1人で立つ:
ー医師はいつも、自分たちは患者のために働いており、政治と戦争とは基本的に無関係であるという倫理的安全地帯を確保している。湯浅謙さんのように、軍医として生体解剖にたずさわった人ですら、敗戦後、中国人も優れた日本医師の腕を求めていると思い、実際、中国人に診察を乞われるうちに、戦時に何をしてきたか忘れてしまっていた。ましてや、直接人を殺すことのなかった軍医は、ひたすら病める者を治療しただけだと弁明することができる。意味なく死んでいく負傷兵、無念の思いで死んでいく病兵の前で、彼は強い無力感を抱く。ほとんどの軍医が見たこと、知り得たことを忘却し、戦争時に感じた無力感をさらに強ばった弁明によって防御したとき、その無力感に向きあって生きようとしたひとりの医師がいた。
ー1969年8月15日、靖国神社の社務所のそばに「靖国法案反対」と胸に書いたゼッケンをつけ、ひとりで「遺族だから反対する!戦争は偉業ではない」というビラをくばっている男性(当時55歳)の姿があった。1942年1月に入隊し、翌43年3月より北支軍の軍医として石家荘病院に配属され、同年10月より敗戦まで北京第1陸軍病院に勤務した小川武満さんである。彼は北京陸軍監獄の軍医を兼務し、敵前逃亡などの罪に問われて軍法会議にかけられる多くの日本兵を診察した。敗戦の混乱期には、現地除隊を願い出て北京に残り、今度は戦犯として投獄された日本人のための医療にたずさわった。
ーその日、彼はあえてひとりで立っていた。どんな攻撃が加えられるかわからないが、命を縣けて靖国神社の境内に立っていた。靖国神社法案に反対する皆と一緒ではなく、死を見届けた多くの将兵の意志を背負って、ひとりで、戦没者を英霊にすりかえ、戦争を偉業とみなす総ての人々に訴えなければならないと決めていた。彼の心は20数年の歳月をこえて、癒されることなく死んでいった兵士たちの心の傷と共鳴しあっていた。
ー靖国神社は1959年と66年にB・C級戦犯刑死者・獄死者を合祀。一方自民党は1959年に宗教法人間題特別委員会を作り、靖国神社国家保護や伊勢神宮の非宗教法人化に取り組み、69年6月30日には、初めて靖国神社法案を議員提案により国会提出(審議未了)していた。それに先立ち、小川武満さんは「キリスト者遺族の会通信」(1969年5月16日付)に次のように書いていた。

ー「戦後24年も経過した今日、キリスト教遺族の会を結成しなければならない理由はなんでしょうか?直接の動機は、靖国神社国家管理法案が今国会に上程されようとしていたからです。日本遺族会が千四百万人の署名を集めて、圧力団体として、この法案成立のために動いている時に、遺族の中にも信仰の立場から靖国法案に反対であることを宣言する必要を痛感したからです。このように、追いつめられた受身の立場で結成されたキリスト者遺族の会は、この会の出発に当って、歴史を支配し給う主の御前に、今日まで24時間、キリスト者遺族として、戦争責任を自らの告白の課題として積極的に取組まなかった怠慢の罪を深く悔い改めねばなりません。
・・・靖国法案では、戦死者を英霊として美化しています。私は2人の弟を戦争で失い、私自身も戦死を覚悟して遺書を書きました。また軍医として戦争栄養失調症でミイラのようになって死んでいく人々を見守り、敵前逃亡兵の銃殺を見、戦場を逃避するための戦争ヒステリー患者や、自殺者や発狂者を見て、戦争の現実がどんなに悲惨な非人間的なものであるかを実感しております。それゆえに「再び英霊を出すな!!」「再び戦争の悲劇をくり返すな!!」と叫ばざるを得ません(中略)・・・キリスト者遺族の会の国家権力に対する政治的な闘いは、同時に「キリストの教会につかえる」ことであります。なぜなら、キリストの主権に仕える者のみが真にこの世の権威と闘う勇気と力が与えられるからです。
キリストの教会は、どんな時代にも、教会の首であり、世界の主でいますキリストの主権を明確に告白するものです。「カイザルは王である」とするローマ帝国の総督ビラトに対して、「上からたまわらねければ何の権威もない」と告げ、「わたしは王である」と宣言せられた主イエス・キリストに仕える信仰告白の闘いとして、この闘いを通じて教会に仕える者です。
この意味で、キリスト者遺族の会は、キリストの教会に根ざし、主にある一致を与えられ、共に進んで行きたいと祈っております」。
ーこの文章には医師としての心の傷と、キリスト者としての反省の2つが述べられている。この2つは、戦後を生きる小川さんの変らぬ課題であり、またこの2つは中国での医師伝道を志して東京日本神学校と満州医科大学を卒業した青年・小川武満に加えられた時代の試練でもあった。
多くの死に直面して:
ー小川さんは、戦争栄養失調で死んでいく兵士を見守り、敵前逃亡兵の銃殺に立会い、戦争ヒステリー患者や自殺者を見てきたと書いている。彼の心は、非人間的行為に耐えられなかった兵士たちの精神的外傷を直視することによって、傷ついた。それでも医師であった小川さんは自らの心の傷から逃げるのではなく、さらに国民党政権から戦犯として処刑されていく日本将兵の死に立ち会った。衆を侍まず3日間、靖国神社に立ち続けた小川さんは、現場に立ち続けてきたひとりの戦争体験者としてひとりひとりの戦争体験者にビラを手渡したかったのである。本当の戦争体験者なら、後方にいて戦争を国際情勢の成り行きとして考えるような者でないのなら、「戦没者を英霊としてはならない」というビラの一句は、戦没者の遺志であることをわかってくれるであろう。そう思いながら、小川さんは処刑された兵士の遺書を頭のなかで読み直していた。
ー北京戦犯拘留所で小川医師が支えた戦犯死刑囚、高具勝(憲兵准尉、39歳)、高橋鍼雄(華北通信電話大興県分所長、39歳)、黒沢嘉隆(憲兵曹長、31歳)の3人は連名でこう書き残した。
「銃殺刑を前に遠く祖国の皆さんに訴う。靖国は侵略戦争を反省各国にお詫びする神社にして下さい。「英霊」「勲章」は拒否します。戦争で日本軍は大変悪いことをした。私たちに殺された中国人遺族の皆様に申訳ない。「聖戦」ではなく侵略であります。天皇陛下も侵略を各国にお詫びして下さい。お詫びは恥ではなく、日本の良心です。日本はかつてのドイツにならぬよう、2度と武器を持たないで下さい。国民党蒋介石軍の戦犯処刑の実体を帰国者から知って下さい。岡村寧次総司令官などの戦争責任者や、石井細菌戦部隊こそ厳重に処罰して下さい。吾身をつねり、殺される立場になって、その痛さを知りました。朝鮮民族の伊藤博文に対する憎しみも日本に対する怒りもわかりました。祖国日本の平和と良心は民族の反省なくしては得られません。私達は日本軍の罪を背負って銃殺されて行きます」(註・岡村寧次大将は支那派遣軍総司令官・戦犯として法廷に立ったが蒋介石と裏取引で免除。国共内戦にやぶれた蒋が台湾に軍事顧問として招待。厚遇された)。
黒沢は奇蹟的に脱獄に成功したが、高具、高橋の2人は北京の南、天橋刑場で処刑され、小川さんが遺体を引き取ったのだった(毛沢東政権の戦犯裁判では「死刑」「無期懲役」をひとりも出さず)。
ー小川さんは、戦争で死んでいった者が英霊とされることを拒否し、生き残った者が戦死者を英霊と呼ぶ 難を問題にしている。死んでいく者には生きるための打算はなく、限界状況における生と死の意味付けに真直ぐ向っている。だが、生き残った者には戦死者の霊さえ世俗的に利用しようとする打算が隠されている。その打算が、次の戦死者を準備する思想となる。「あなたが本当の戦争体験者なら、靖国法案に反対してください」そう語りかけながら、小川さんは終戦記念日の靖国神社に立ち続けた。小川さんのビラを受け取った人は、初め何も言わない。次第に彼の周りを取り囲み、群になってから、怒鳴り始めた。「なんてことを言うんだ」「英霊を冒涜するのか」これらの怒声に、小川さんは答え続ける。右翼もやってきて、凄む。鹿児島県出身という右翼に、小川さんは話しかけた。
ー「あなたは西郷さんを知っているか。西郷さんは靖国神社に祀られているのか。僕は西郷隆盛を良いか悪いかとか言うのではない。しかし、この神社は天皇のために戦死した者を選択して、戦犯者であれ誰もかも英霊として祀っている。そして戦争を肯定している」「右翼なら、場合によって人を殺すだろう。僕を殺そうとしに来たのかもしれない。僕は戦争で何度も遺書を書いた。いずれは死ぬんだ。しかし、死んでいった人のためにも、僕は命をかけてでも反対しなければならないと思っている。だから、ここに立っているんだ。よく考えてから、ものを言え」。
ー小川武満さんは、その後、靖国神社法案の提出の動きがあるたびに、デモに加わり、靖国神社での座り込みを行ってきた。1984年1月5日、中曽根康弘(元海軍主計少佐)は現職首相として戦後初めて靖国神社に年頭参拝。翌85年8月15日、中曽根首相は「戦後政治の総決算」を主張して、内閣総理大臣の資格で初めて靖国公式参拝を行った。この時、雨のなかを進む中曽根首相一行の前に小川さんは飛び出し、両手を広げて抗議の意志を示している。1969年3月に結成された「キリスト者遺族の会」の委員長、さらに86年7月7日、盧溝橋事件の日を記念して結成された「平和遺族会全国連絡会」の代表世話人として、小川さんは戦没将兵英霊化に反対してきた。
ーただし、小川さんは戦後一貫して戦争のことを考えてきたわけではない。北京で処刑される日本人将兵を支援し、48年末に帰国して以降、戦争時のことを思い出すのはしばらく嫌だった。クリスチャンとして、神と国家と戦争については考え続けたが、中国侵略のあの戦争については多くを語りたくなかった。人はあまりにも凄惨な体験、倫理的に到底受け入れ難い体験を忘れようとする。だが、忘れようといかに努めても、心的外傷となった体験は、その人の人生における位置付けを求めて浮かびあがってくる。中国で出来なかった医療伝道に日本の僻地で打ち込んできた小川さんだったが、靖国神社法案は彼の体験抑圧を許さなかったのである。
ー小川さんは、戦争を阻止できなかった過去を過去のこととせず、過去をどう生かすか、考えなければならないと思った。靖国神社法案に反対する行為に命をかけよう、と決めたのだった。そして、満州で育ち、満州医科大学を卒業し、軍医として戦争を体験していった過去をもう一度、想起することによって、自分はその時代に生きていたからよく分かっているという思い込みが、いかに主観的で間違いの多い誤認だったか、気付いていったという。今、83歳、軍医として戦争に精神を押し潰されていく兵士を看取った者の心の痛恨と、キリスト者としての戦争責任の告白を聞いていこう。
「第一線」の子:
ー小川武満さんは1913年1月、旅順で生まれている。兄弟は兄と姉、弟2人。父は九州帝大医学部を卒業後、陸軍軍医となり、奉天(現・瀋陽)赤十字病院の院長(陸軍大佐)を長く務め、その後、宇治山田赤十字病院や大阪赤十字病院の院長(陸軍少将)になっている。そのため武満さんは、父が欧米留学中の2年間、仙台の小学校に通った外、成人するまで中国・奉天に育った。武満の名のとおり、軍人の子であり、満州の子である。兄は大学を卒業して満鉄調査部に入社、戦争でビルマに送られ、敗戦後に栄養失調状態で死亡。上の弟は43年夏に入営、45年8月に牡丹江陸軍病院で病死。下の弟も激戦地フィリピンで45年(月日不詳)に死亡している。戦争に生き、戦争に死んだ家族であった。
ー幼少時の思い出は、やはり軍人の子として始まる。銃剣をつけた日本兵に守られながら、赤十字病院長の官舎から城外の日本人街区にあった幼稚園に通った。城門では中国兵が監視していた。3月10日の陸軍記念日(日本軍は会戦の後、奉天を占領した)日露戦争の奉天会戦の模擬戦をさせられた。お手玉大の砂袋をぶつけあい、当った部位で「戦死」「腕は使えぬ」「足をやられた」といった判定が下される。女の子が看護婦となり、少年兵をタンカに乗せて連れて行く。日本軍7万、ロシア軍9万の戦死者を出したという奉天会戦。ちょっと掘れば戦死者の骨が出てくる同じ場所で、子供たちは軍旗を奪いあう訓練を受けたのである。
ー忠霊塔の前を通る時は、必ず敬礼する。学校に入ると、御真影(宮内省から各学校に下付された天皇・皇后の写真)の前で敬礼する。こうして体で天皇崇拝を覚えさせた上、校長から「教育勅語」にもとづく修身教育を叩き込まれた。中学生になると実弾射撃をふくむ軍事教練があった。必須科目として柔道か剣道を選ばされ、17、8歳になれば1人前の兵士としていつでも使えるように鍛えられた。内地と違い、そこは外地の第1線であった。
ー1928年(昭和3)、張作霖爆殺事件が起ったとき、小川さんは中学生になっていた。窓ガラスが爆音でビリビリと響いた。外に飛び出し、鉄道現場(皇姑屯)へ駆けつけようとしたが、警戒線がはられ近付けなかった(なお、爆殺の謀略を仕組んだ関東軍高級参謀河本大作大佐は停職処分の微罪で退役、後に太原に移って山西産業社長となり、湯浅謙さんたちを戦後の中国に引き止めた人物である)。治安も悪かった。夕刻になると馬賊が現れ、両替店を襲ったりした。警察に追い詰められた馬賊が、日露戦争記念碑の建っている大広場まで逃げてくる。そこは赤十字病院の官舎の近くであり、小川少年が赤レンガの塀の陰から見ていると、撃ちあいが始まる。馬賊が1人殺され、2人殺され、次々と殺されていく。ある時は、逃げた馬賊が家の近くに潜んでいるということで、家の周囲を警察に取り囲まれたりした。
ーこのような情況で、在留日本人はやはり日本軍や日本の警察に守ってもらうことを求めた。派兵増強を求めるデモ行進も行われた。奉天の北、柳条湖で満州事変(1931年9月18日)が起きたとき、小川さんは満州医科大学予科に入学していた。反日感情も強く、軍隊は「匪賊討伐」といって市外に出ていく。それでは日本人街の守備が心配なため、学生が動員され、銃をもって警備につかされた。中国人は貧しく、奉天城内の路上で行き倒れの死体がよく見られた。阿片中毒、結核、伝染病、栄養失調で死んでいった。とりわけ零下20から30度になる冬には、凍死者が続出した。そのため、盗みを行って監獄へ入るほうが命を守る手段とさえ考えられた。運河の水が氾濫したり、逆に水不足になったりしたため、奉天付近の農村はしばしば飢饉にみまわれた。
ー口べらしのため、子供を籠へ入れて城内に売りにくる農民もいた。死んだ幼児は野原に投げ捨てられ、野犬が食いちぎっていた。小川武満さんは優等生であり、よく先生の言うことを聞く軍国少年、愛国少年だったが、経済的にも知的にもとりわけ恵まれた家庭に育ち、正義感の強い、思い遣りの深い子供でもあった。彼は、官舎の近くの大広場にたむろする浮浪児に関心を持ち、仲良しとなった。両親を失った子供たちは仲間同士助け合って生きていた。ロシア革命から逃れてきたロシア人の孤児も混っていた。彼らは各所の残飯を集め、皆で持ち寄ってドラム缶に入れ、ぐつぐつと煮て食べた。一緒に食べる小川少年は、最高のご馳走に思えた。そんな少年の成長を見守る精神的余裕が、両親にはあった。
ー毎日、広場の浮浪児たちと遊ぶ小川さんは、彼らの逞しく自由な生き方と素朴な友情に引きつけられた。それは、強ばった日本人の子供にないものだった。修身の時間に、大きくなったら何になりたいか、書かされたことがある。小川さんは、「蒙古の草原で、大牧場主となりたい。お嫁さんは日本人、蒙古人、中国人、朝鮮人、ロシア人で、沢山の混血の子供たちと楽しい村を作りたい」と書いて、皆に笑われた。流行した「馬賊の歌」や浮浪児たちに学んだ自由への憧れと、聞きかじりの「五族協和」論(1912年、中華民国によって主張された。漢族、満州族、蒙古族、回族、チベット族、の協同による「五族協和」を日本に都合よく摩り替えたスローガン)が、少年の夢に混ざり合っていた。
ーまた、張作霖は第8夫人、張宗昌(奉天系の軍閥)は第25夫人まで持っているという話を聞いていた。軍国少年として「一旦緊急アレバ義勇公二奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(教育勅語)に痺れる大和魂を持ち、日本を盟主とする五族協和のイデオロギーを身につけた小川武満さんは、成長するにしたがい、奉天市街の現実と自分が生きようとする理念との隔たりに気ずくようになる。
ー例えば、中国人の少年に「今日は僕が車夫になろう」といって、車を1日牽いたことがあった。渡り鳥の研究で野山を駆け巡っていた彼は、足に自信があった。中国人の車夫の服を着て、日本人を乗せて走る。散々乗り回した男は、1銭も払わないで車を降りる 。小川少年がカネを要求すると、突然殴りかかってきた。これが「八紘一宇」「五族協和」の実態だった 。人さまざま、卑劣な人間もいればそうでない人間もいる。そう彼は割り切ろうとしたが、日々の現実は痛ましいものだった。満州医科大学に入学した夏休み、理論武装のために、宇治山田で行われた「希望社」の学徒連盟幹部講習会にも参加した。伊勢神宮に参拝し、一身を清めて天照大神の前に救国の聖学を必ず果たす」と誓った。希望社は後藤静香の指導する皇室中心の愛国倫理運動である。当時、修養団、報徳会など右翼倫理運動団体が盛んに講習会を開いていた。
ーこうした心身ともに天皇制イデオロギーを習得した小川さんには、思考の上での矛盾はなかった。「日露戦争で日本がロシアを叩かなければ、ロシアが満州をすべて支配したであろう。朝鮮も支配したであろう。それを、日本が代って阻止した。中国は行き倒れも多く、馬賊は横行し、社会は乱れている。威張っているのは軍閥であり、軍閥と軍閥の戦で民衆が犠牲になっている。蒋介石の北伐といっても、何もできはしない。中国人は秩序を作ることが出来ない。中国人や朝鮮人は民族主義は持っていても、外敵と戦う力がない。日本人の使命は秩序のないところに新しい秩序を作ることにある」。
ーこう大陸進出を理論化しても、満州事変後の社会の緊張に同調するのは難しかった。日本人街守備のため、在郷軍人と共に学生も歩哨に立ったのだが、夜、誰かが近付くと「誰か!誰か!誰か!」と3度誰何して、答えがなければ発砲する。闇の中、いつ襲われるかもしれないという不安。敵はまずこちらの武器を奪いに来る。まず命を取ってから中に入る。そう考えれば考えるほど、緊張してくる、こうして夜になるとあちこちで銃声が響き、通りかかった中国人が殺されていた。そのなかには、小川さんが人力車を借りた車夫もいた。やりきれなかった。自分は何のために歩哨に立ったのだろうか。
ー警備につくとき、小川さんは両親に宛てて遺書を認めていた。私は今、在満日本人のため、中国東4省の民衆のため、また東洋の平和を願い、世界の平和を愛するため、微力ながら銃を取って立つことになりました。もちろん、私はよろこんで死ぬつもりです。私の死を知ったら、どうかよろこんで下さい。決して私は無駄に死んだのではないのです」あの遺書は嘘を書いていた。「中国東4省の民衆のため」と言って、実は中国人を殺す側のひとりになっている。「大義ヲ八紘二宣揚シ輿ヲ一宇タラシムル」「各其ノ所所得シメル」、つまり秩序のないところに新しい秩序を作るといっても、結局、弱い人間、慣れない人間が先に発砲し、人を殺しているだけだ。武器を持って平和を守るという理念が現実に何を引きおこすのか、小川青年ははっきりと知っていたのだった。
ー同じように、多くの中国人が各所で射殺されていった。満州事変で攻撃目標となった張学良の軍隊のいた北大営は、日本軍に占領された。その付近を通る農民や労働者たちは、警備兵によって射殺された。「無断で通行する者は射殺する」と日本軍の立て札が立てられていた。日本兵は命令に従っただけだった。だが、中国農民にとって、そこは昨日まで歩いていた道だった。1人殺せば、百人の敵ができる。愛国学生運動の幹部であった小川さんの理論は、満州事変の現実の中で脆くも崩れていった。
ーあけて32年1月8日、天皇は「満州事変二関シ関東軍二賜リタル勅語」で関東軍将兵を励ました。「満州二於イテ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ果断迅速寡克ク衆ヲ制シ速二之ヲ蔓討セリ爾来難苦ヲ凌キ祁寒二堪ヘ各地二蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ克ク警備ノ任ヲ完ウシ・・・、勇戦力闘ヲ以テ其禍根ヲ抜キテ皇軍ノ威武ヲ中外二宣揚セリ朕深ク忠烈ヲ嘉ス・・・」。匪賊の掃蕩とは何を意味するか、体で知った小川青年は国粋主義を捨て、この勅語にもはや眩惑されることはなかった。
彷徨:
ー小川武満さんは、それからキリスト教や禅宗の門を叩いた。父親の小川勇さんは、倫理や宗教に造詣の深い人である。旧制5高のときに、ふと洗礼を受けたこともあった。日本のキリスト教会の指導者、植村正久や海老名弾正に議論をしに行ったこともある。賀川豊彦が伝道で奉天に来ると、いつも小川家に泊まっていた。後に、キリスト教も仏教も神道も前じ詰めれば真理へ至る道だと力説し、神道の改革を主張する神道宣揚会を作ったりしている。軍医の高官であり、また一言居士だった。こんな父の影響もあったのか、小川さんは日本基督教会(奉天)の林三喜雄牧師を訪ね、「理想と現実の矛盾をどう克服すればいいのか」と問うた。若い林牧師は、人間の罪とキリストによる贖罪について話してくれたが、よくわからなかった。
ー五族協和を求めてきた自分が罪人であるとは、どうしても認められなかった。それでも「神を信じていくしかない」と決断し、32年の隆誕祭に洗礼を受けた。ひたむきな小川さんは、洗礼を受けた以上、理想的なクリスチャンになろうとした。林牧師の説教を総てノートにとり、朝と夕の礼拝も欠かさず出席した。だが、闇雲の没頭は1年も続かなかった。というのも、教会にはほとんど出てこない信徒や長老をみると、教会への不信が募ったからである。神からの脱出をはかろうと試み、曹洞宗の寺で座禅を組んだこともある。老師が「天地を引っくり返してみよ」と言えば、咄嗟にごろっとひっくり返る。「手を用いないでこれを取れ」と言われれば、さっと手で取る。言葉にとらわれず、真髄をつかむ。修行三昧の日々を送り、1年ぐらいして「空の境地」の禅問答に合格した。
ーだが、「それでいい」と老師に言われると、がっかりした。こんなのが空の境地か、と。同時に、高僧から言われた。「物にとらわれない境地をもって、仏の道に進みなさい」という教えを、我執に囚われずキリストの内に生きることに振り替えた。あの長老は教会に出てこない。あの先輩はこの点が尊敬できないといったこだわりを捨てた。空の境地をもって聖書の言葉に立ち返ろうと思って、教会に帰ったとき、聖餐式があった。その時の信仰体験を次のように語る。
ー「自ら省みて、聖餐にあずかる資格がないのではないかと躊躇していると、3度拒んだペテロにイエスが「なお、愛するか」と言われた聖書の個所が浮かんできて、こんな自分のために自分の肉を裂き、血を流して下さったキリストの臨在を感じ、聖餐は実に恵みの聖典であることが実感として迫り、涙ながらに聖餐にあずかったのであった(「地鳴り」小川武満、キリスト新聞社、95年)。つまり禅の修行がキリストへの信仰を飛躍させた。神道、右翼愛国主義への失望からキリスト教へ、さらに禅宗を迂回してキリスト教へ、満州の宏獏とした大地と戦争の時代は、青年に一途な思想形成の道を用意したのであった。
道を見出す:
ーこの頃、小川さんは友人の父、江藤敏夫(奉天図書館長)が書いた「満州生活30年・奉天の聖者クリスティの思い出」を読んだ。当時、大陸の日本人は、中国人クリスチャンを宣教師に経済的にたかる寄生虫ぐらいに思っていた。だがクリスティ(スコットランドの医師で牧師)は30年かけて、希望に燃える中国人を創っていた。医師になるなら、クリスチャンになるなら、クリスティのように生きたい、そう小川さんは本を読んで感動した。アフリカでの医療伝道に生きたシュバイツァーの伝記、あるいはクリスチャンの植物学の先生から聞いた、ドイツでのてんかん児童のための福祉運動の話も、彼は鼓舞した。北ドイツのビーレフェルトの町にあるベーテルでは、ボーデンシュヴィング牧師を中心に、てんかんや知能障害の児童のための福祉村が作られつつあった。
ー真直ぐに構えて直進することを好む小川さんは、自分の生きる方向が中国での医療伝道にあると定めると、その後の計画に迷いはなかった。彼は洗礼を受けて3年後、満州医科大学2年になった時点で、医大を中退し、東京日本神学校予科3年に編入することに決めた。基礎医学の勉強が終わり臨床医学に進む前に、神学を学ばなければならない。時局から見て、医大を卒業すればすぐ召集されて牧師になれない。また、医学のなかで最も欠けているのは神学である。神学を学ぶことによって、本当の医師になれる、と考えたのだった。もちろん、父親は頑強に反対した。求道に関心の高い父は、息子が牧師になることに反対できない。それで、
ー「もう2年すれば医師になれる。今、中退したら再入学できないかもしれないぞ。神学校に行くのは、お前が決めた道だから賛成する。ただ、医師になってからでも遅くはない」と、実際には断念させようとした。最後には「お前は頭がおかしい。精神科医に診てもらえ」とまで言い出した。友人たちも反対した。大学のYMCA活動などを熱心にやっていた小川さんが居なくなることを嫌った。しかし、小川武満さんは父親に遺書を書いた。2度目の遺書である。満州事変後の遺書は五族協和のためのものだったが、今度は神からの呼び出しに応じる遺書だった。
ー「私よりも父母兄弟を愛するものは私にふさわしからず」という聖書の言葉を枕に、「国から召集令状が来た時、国のお召しとあらば戦争に行く。まして神の国の召しがあったとき、その召しに応じるのが献身です。それでもお父さんの意志に反して行くのですから、親子の縁はこれで切ります」と書き置きした。ただし、本だけもって東京・角の日本神学校の寮に移った息子へ、父は「そこまで決心したのなら許す」と電報を打ってきたのであった。
止揚と呼ばれる詭弁:
ー4年間の神学校での生活の間にも、日本は軍国主義に突き進んでいく。36年の雪の日の朝、2・26事件を知った。翌37年7月7日には盧溝橋事件、そして8月15日には日中全面戦争へ突入。共産党員の検挙が続き、38年、国家総動員法が成立し、戦争国家が出来上がっていった。このような時期にあって、教会と国家の関係をどう論理化するか、それは神学生の最大の課題であった。すでに、第一次世界大戦になぜ教会の指導者たちは荷担したのか、という問いに発したカール・バルトの「危機の神学」はよく知られていた。バルトはそこで、ルターに始まる宗教と国家の分離、政治を宗教的・倫理的な監視から解放された自律的世界と認めることによって、国家の不正を許す思想を批判していた。バルトへの反批判も伝わっていた。そこでは、我国ではいかに考えるべきか。
ー神学生たちの注目の中で出版されたのが、神学校教授・熊野義孝の「終末論と歴史哲学」(1933年9月)だった(なお、バルトの「今日の神学的実存」-ナチの働きかけによる教会改革など、きわめて多様な形をとって現れてくる時代の誘惑に抵抗しなければ、神学的実存は失われるーも同年10月に出ている)。小川さんも神学校に入り、熊野教授を尊敬し、この本を何度も読んだ。そこには、こう書かれていた。
ー「教会はもとより政治的形態を探ることが不可能であるが、同時に決して無政府主義の加担者ではないのである。国家をしてその機能を正常に発揮せしめ国際間の平和を保障し、人類の連帯的道義心を喚起するためには、教会はその所在を認容し保護するところの国家に対して忠誠と勤労とを惜しまぬであらう。教会と国家との関係は弁証法的に把握されねばならぬ」「教会は不断に十字架を背負ふものである。其故に万一国家が罪悪を犯す場合には教会はその苦痛を一層おほく味ふことによって国家的正義の恢復に奉仕する。かくて教会は此世界に於ける創造の秩序の担当者でなければんらない。かつては自然法概念によって人道主義的な国際法が基礎づけられたのであるが、この自然法的な思想はなほ其根底に超自然的な創造の秩序を仮定したと観られるのが適当である。むしろ自然法の名称を去つて之を聖なる意志にまで基礎づけんばならぬ。この意志の代弁者として教会は各自の民族とその文化とのために奉仕することが可能である」(「終末論と歴史哲学」第4章)。
ーここには、戦中、戦後にかけての日本的知識人の思考がよく表れている。国家権力が国民精神の総動員に向けて、検閲を強化するとき、天皇制国家の悪に対して毅然として反対するか、沈黙するか、検問すれすれの発言を行いやがて弾圧されていくか、3つの内ひとつを選ぶしかなかったはずである。だが、多くの日本的知識人は、明確に対立するものを弁証法の呪文によって曖昧にし、「高い次元に立って把握する」とか、「一気に把握する」と称した。いかなる状況においても、まず知識指導者であろうという意志が、すべて先立って彼らにはあった。この文章も空虚な言葉の羅列であり、あえて強者の側に与しようとする者に特有な思考の弛緩がある。教会と国家との関係は弁証法関係にあるといい、教会は国家の罪悪の苦痛を一層多く味わうことによって国家正義の恢復に奉仕するといい、自然法の彼方には超自然的な聖なる意志があり、超自然の意志の代弁者として教会は日本民族のために奉仕しなければならないと、日本的知識人による日本的知識人むきの詭弁を存分に使っている。
ー教会は決して創造の秩序の担当者ではない。教会は神の言葉を信じ、服従するところである。にもかかわらず、国家を神による創造の秩序とみなし、天皇の地位も、権力者の地位もその秩序のひとつと主張している。民族も、国家も、そこに起る事件も、創造の秩序をもたらす神の許しがなければ生まれないというわけだ。この論理は、中国侵略を聖戦と呼ぶ一歩手前で言葉を飲み、読者に「そうだ、聖戦だったのだ」と納得させようとしている。戦争は悪には違いないが、神の支配する秩序にあって、その秩序が乱されるとき、秩序回復のために行われる聖戦があるとされる。
ーこの論理が燃えあがると、さらに「殉国即殉教」という言葉まで出てくる。甘い観念の自家中毒なしに人は生きられないのだろうか、と私は「終末論と歴史哲学」の文章を読んで思う。
死ぬための論理:
ー小川青年は高級軍医の家庭に育ち頑固ではあるが、権威に対して比較的従順であった。それでも日本プロテスタント神学の最高峰とみなされた熊野教授の説に、違和感を持った。彼がクリスチャンになったのは、満州事変後、五族協和のために命を捧げると遺書まで書きながら、怯えから中国人を射殺する日本人の側に立っている自分に気付いたからであった。しかし、「国家が罪悪を犯す場合には、教会はその苦痛を一層おほく味ふことによつて国家的正義の恢復に奉仕する」というレトリックは、戦時体制下、いかに自分の死を意味付けるかに直面していた青年には、魅力的な言葉でもあった。熊野教授は神学生に言った。
ー「君たち、こんな時代に戦争に反対し、右翼に歯向かうのは、狂犬に向って突き進んでいくようなものだ。噛みつかれたら終わりです。こんな時には、神学の勉強を静かにやっていればいいのです」だが、神学生には勉強は許されていなかった。熊野教授は神学の洋書を読んでいられたが、学生たちには卒業と同時に戦争が待っていた。小川さんは、熊野教授の言辞に「どこか違う」と思いながら、なお、「万一国家が罪悪を犯す場合には、教会はその苦痛を一層おほく味ふことによつて国家的正義の恢復に奉仕する」を「キリスト者は国民の誰よりも多く苦痛を味わうことによって信仰に生きる」と読み替えたのであった。
ーそれは後の特攻隊員が、無意味な作戦で死んでいく兵士が、罪を着せられて殺されていく戦犯将兵が、自分の死にせめてもの意味を見出そうとした、小さな論理ではあった。日本的知識人の大論理から、死んでいく青年がやっと引き出した小論理であった。小川さんが日本新学校に学んでいたとき、無教会派の矢内原忠雄は、はっきりと戦争を弾劾していたが、プロテスタント正統派の熊野教授に強く感化された神学生の知るところではなかった。矢内原忠雄は、1937年10月の藤井武記念講演会で次のように語っている。よく引用される言説ではあるが、日本キリスト教の罪を考えるとき、欠かせることのできないものなので、再録しておこう。
ー「わが日本の国においても、キリスト教は信用を失いました。あるいは、失わんとしているのであります。キリスト教の権威と共に、日本国の理想は滅びんとしております。否、滅びました。私は詳しく述べません。しかし、日本人の凡てが、ことに日本人の中の心ある者が、ことに日本人の中のキリスト教徒は、今ひとつの問題に対して彼の態度の決定を迫られております。態度の決定を要求せられているのであります。これについて2,3のことを考えてみる。あるいはいわく、キリスト教は宗教である。政治の問題は政治家に任せたのである。政治家の定めたことに従って行く、と。これがひとつの答案であります。ひとつの態度であります。政治批判、この世の問題についての批判から遊離する。かく遊離することによってキリスト教を守ろうとする態度であります。
ーしかし、キリストが言われているのに、汝らは地の塩である。塩もしその味を失ったなら何をもって塩付けるのであるか。現実の社会の不義を批判しない者は、味のない塩であります。自分を守らんとすることによって、自分を失っているのであります。政治の運動に従事しないということと、政治を批判することとは、おのずから別であります。批判は正義の声であります。第2の答案に曰く、日本の国が支那を撃つのは聖書の示す教えである。神の命である、なんとなれば、支那はおのれの罪によって審かれているのである。日本はこれを審く神の怒りの杖である。だから日本の支那を撃つのは神の御用にあずかっているのである。
ー明白に私は申しますけれども、かかる聖書の解釈が神の名によって立つところの教会、その信者によって唱えられているというのは何事であるか!現実国家の命令には国民として服従いたします。服従しなければなりません。しかし、現実国家の言うところを、ことごとく、道徳的に信仰的にしかも聖書的に弁護するというならば、キリスト教の存在の価値はないのであります。神に審かれたるユダの国よりも、おのれを驕ぶってユダを撃ったアッスリヤの罪の方が、さらに大きいのである・・・わかりますか!アッスリヤの罪は、ユダの罪よりもまだ大きい。・・・自ら怖れなければならない」。
ー小川武満さんは、こうして1939年、神学校を卒業し、満州医科大学の編入試験を受け、再び奉天に単身帰っていった。すでに中国での医療伝道の可能性はほとんどなくなっていた。それでもなお、少しは中国人の医療に役立ちたいという思いがあった。4年間、神学校に行った小川さんは26歳。理系の大学生は27歳まで徴兵が免除されていたが、最終学年の本科4年で徴兵検査となる。その時は、神学校の友人たちと同じく、一兵卒として苦痛を一層多く味わおうと決めていた。
心を病む病兵たち・「教会はその苦痛を誰よりもおおく・・・」:
ー小川武満さんは東京日本神学校を卒業し、故郷・奉天に帰ってきた。父親は満州事変の少し前に伊勢の赤十字病院に転勤し、兄弟も彼の地には残っていなかった。それでも武満さんの故郷は満州だった。周囲に合わせて生きる日本内地の生き方ではなく、広漠たる大地で自分の考えを持っておおらかに生きる、そんな大陸の生き方が好きだった。自分は満州の人であり、内地の日本人と同じでないと思っていた。だが、自分は誰なのか、大陸を故郷とする日本人とは何者なのかは、よくわかっていなかった。植民地で生まれ育った者は、屈折した民族アイデンティティーを持つ、中国人と同じ自然環境に育ち、風土への愛着も強いのだが、摂取した文化は違っている。そのため、心情の祖国と理念の祖国に引き裂かれている。
ー現地の人の眼に映る私と、こうありたいと思う私とが違っている。しかし彼らは、この植民地育ちの自我の を深く認識する力はなかった。日本人が指導者になって五族を協和するという植民地イデオロギーによって、自我の は塗り籠められていた。あくまで医療伝道の志を捨てず、小川さんは奉天に残り、満州医科大学に再入学した。この医学生時代、北野政次教授より「現地猿を使った発疹チフス予防ワクチンの開発実験」の講義を受けている。北野は731部隊で石井四郎に次ぐ位置にあり、当時、軍医大佐であったが、勅命により満州医大の微生物学教室の教授(1936-42年)となっていた。
ー後に、北野は731部隊長(少将)となる。北野教授は柔和な顔で黒板に図を書き、臓器の病変がこのように見られ、体温がこのように下がり死亡した、と説明した。小川さんは「満州に現地猿がいるかな」といぶかったが、それが中国人やロシア人を使った人体実験であり、行われた場所が医大の微生物学教室と解剖室であったことは、もとより気付かなかった(北野政次は39年2月、13人の中国人に発疹チフスを感染させ、その後に生体解剖を行った知見にもとづき、発疹チフス予防ワクチンに関する論文を発表している)。さらに、40年、満州国の首都・新京(現・長春)でベストの大流行があり、防疫のために医大の医師や医学生が動員させられた。これも石井部隊長の指揮によるペスト防疫作戦であったことを小川さんが知るのは、戦後20数年がすぎてからのことである)。
ー今になって振り返ると、侵略戦争と結びついた医学教育でなかったか、疑問に思うことは少なくない。日本軍が軍医のために生体解剖をしているという噂は、1935年、基礎医学を学んでいれた頃、すでに聞いていた。法医学の実習では、銃剣で刺殺された中国人の死体をよく見た。病理学や生理学教室には、凍傷で死んだ人の下肢や輪切り標本が置いてあった。すべてが虐殺や生体解剖後の人体であったかどうか、わからないが、疑わしい。また、多くの博士論文が中国人の犠牲において作られていったのではないか、と今にして思う。小川さんは、「その時代に生きていたから、よくわかっているとは決していえない。かえって、よくわかっていないことが多い。後に、あれがそうだったのか、と気付くことは少なくない」と反省する。神学校を卒業した青年が医療伝道のために学んだ臨床医学、悲しいことにその医学の一部は生体解剖からもたらされた知識であったのである。
ー学部4年生になったとき、すでに小川武満さんは27歳。理系大学生でも徴兵検査の延期はできない年齢になっていた。「第1乙」で合格となった。甲種と第1乙は現役入営しなければならない。だが、「軍も軍医を必要としている。後1年だから勉強して医者になれ」と検査官に言われ、入営は延期された。その年の12月8日、真珠湾攻撃。「大東亜戦争」となり、結局、12月で繰上げ卒業となった。多くの級友は軍医として志願していった。志願すれば、湯浅謙(元軍医少佐)さんがそうであったように、3ヶ月の研修の後、軍医中尉になる。だが小川さんは初心どおり初年兵(二等兵)として徴兵される道を選んだ。心の中には、熊野義孝教授の言葉、「万一国家が罪悪を犯す場合、教会はその苦痛を誰よりもおおく味わうことによって、国家的正義の回復に奉仕する」の彼なりの解釈があった。
ー医大時代、級友から何度となくクリスチャンをやめるように言われた。卒業のとき、「大東亜クリス会」と呼ぶ宴が開かれた。そこで志願を拒否する小川さんは、皆に「君はいい男だが、ただひとつ残念なのはキリスト教徒であることだ。この際、やめちまえ」とさんざんいわれた。小川さんは、「今にわかる時がくる。これは私の選んだ道、私の信じた道なんだから、誰が何と言ってもやめられない」と答えるしかなかった。同じ会話は、軍隊に入ってから、何度繰り返されたかわからない。
ー1942年1月、小川武満さんは、敵前上陸部隊である福山西部63部隊(広島県)に入隊した。この部隊は、南方戦線で戦死していく兵士を補充するための混成部隊であった。3ヶ月間は一歩も営外に出られず、死にもの狂いの訓練を受け、殴られっぱなしだった。夜間に行軍し、翌日、炎天下で戦闘訓練を続ける。完全装備の初年兵は熱射病になり、なかにはひきつけを起して死亡する者も出る。弱い兵は戦場に出る前に死んでおく方が邪魔にならなくてすむ、兵隊は部品であり、替りはいくらでもある、そういう訓練だった。「軍人勅論」、「戦陣訓」「作戦要務令」も一字一句暗記させられる。

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