日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Мики́та Сергі́йович Хрущо́в☭Кремль☆フルシチョフのクレムリン⇔The Death of Stalin独裁者の死The Rise and Fall of Nikita Khrushchev権力掌握から失脚そして隠遁へ/Ричмонд-Хилл🍁(Онтарио)2017


①ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(ロシア語: Ники́та Серге́евич Хрущёв、ウクライナ語: Мики́та Сергі́йович Хрущо́в、ムィクィータ・セルヒーヨヴィチ・フルシチョーウ、ラテン文字表記の例:Nikita Sergeyevich Khrushchev、1894年4月17日 - 1971年9月11日)は、ソビエト連邦の政治家。ソ連共産党中央委第一書記、閣僚会議議長(首相)の職にあって、11年間に渡って同国の最高指導者であった。民族的にはウクライナ人である②左からグロムイコ外相、アンドロポフ中央委員会国際局局長(前ハンガリー駐在ソ連大使)、フルシチョフ首相(党第一書記)、シェレスト政治局員候補(ウクライナ共産党第一書記)(通訳をひとり置いて)カーダール(ハンガリー首相)書記長と続く。

*ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフ(ロシア語: Георгий Максимилианович Маленков、ラテン文字表記:Georgy Maximilianovich Malenkov、1902年1月13日(ユリウス暦では1月8日) - 1988年1月14日)は、ソビエト連邦の政治家。ヨシフ・スターリンの重要な側近であり、スターリン死後は閣僚会議議長(首相)として、ニキータ・フルシチョフらと共にソ連の政治に影響力を発揮した。閣僚会議副議長(副首相)、発電所大臣などを歴任。党内では書記局員、政治局員、政治局員候補を務めた。
スターリンからフルシチョフへ(木村明生『クレムリン権力のドラマ』朝日選書・青山学院大学教授・85年)
マレンコフ指導部の発足
’レーニンの後継者’であり、共産党書記長、首相、ソ連軍最高総司令官、大元帥であり、’共産党とソ連人民の指導者にして教師’という巨大な地位を独り占めしていたスターリンの後継者として、3月6日、ゲオルギー・マクシミリアノヴィッチ・マレンコフが選ばれた。すなわち閣僚会議、党中央委員会、最高会議幹部会の異例の合同会議で、マレンコフが閣僚会議議長(首相)のほかに、党においては中央委幹部会(後の政治局)と書記局の筆頭メンバーに任命されたのである。スターリンが党と政府において占めていた地位は、マレンコフがほぼ包括的に継承したことになる。
ただし、党書記長のポストは置かれず、マレンコフをはじめベリヤ、モロトフ、ヴォロシーロフ、フルシチョフ、ブルガーニン、カガノヴィッチ、ミコヤン、ベルヴーヒン、 サブーロフの10人の中央委幹部会員による集団指導の色彩を強めた。また政府では、ベリヤ、モロトフ、カガノヴィッチ、ブルガーニンの4人が第一副首相として、マレンコフを補佐することになった。当時、事実上の力関係ではマレンコフ、ベリヤ、モロトフの三頭政治だったといえよう。
*マクシム・ザハーロヴィチ・サブーロフ(ロシア語: Максим Захарович Сабуров、ラテン文字表記の例:Maksim Zakharovich Saburov、1900年2月2日 – 1977年3月24日)は、ソビエト連邦の政治家、技師、財政家。ソ連国家計画委員会(ゴスプラン)議長、第一副首相を歴任した。1957年に反党グループ事件で反フルシチョフ派に加わり失脚した。

*ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(ロシア語: Лавре́нтий Па́влович Бе́рия、グルジア語: ლავრენტი ბერია、ラテン文字表記の例:Lavrentij Pavlovich Berija、ラヴリェーンチイ・パーヴラヴィチュ・ビェーリヤ、1899年3月29日 - 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。閣僚会議副議長、内務人民委員、内務大臣、閣僚会議第一副議長などを歴任した。
ベリヤの野心
独裁者亡きあと、内務省(内務人民委員部の後身)を握り、強力な秘密警察と国内軍(内務省管下の治安維持部隊)を手中にしていたベリヤは、最高権力への野心を燃やしていた。彼は秘密警察を使って、マレンコフ以下すべての党要人の動静を監視できる立場にあった。モスクワ市内に駐屯する武装部隊は、彼の指揮下にある国内軍のジェルジンスキー自動車化歩兵師団だけであった(国防省下のソ連軍は、モスクワに1番近いカンテミール戦車師団でも約80キロ南西のナロホニンスクに司令部をおいている)。クレムリン構内とその周辺の警備は、秘密警察の専管であった。ベリヤは決意さえすれば、いつでもクーデターができたのである。
しかもベリヤは、スターリンが別荘で死んだ瞬間からその野心を隠そうともしなかった人物である。
「スターリンが死んだとたんに、ベリヤは晴れやかになった。彼は気分を一新し、すっかり活気づいた。露骨な言い方をすれば、彼はスターリンの遺体がまだ棺に納められてもいないうちに、その枕もとで開店祝いをやっていたのである。ベリヤは長いあいだ待ちに待っていた瞬間がついに到来したと確信した。・・・車をよび、われわれを別荘に置き去りにしたまま町に向って走り去ってゆく彼の顔からは、そういう勝ち誇った思い上がりがありありと読み取れた」。-スターリンがモスクワ郊外の別荘で死んだ夜のベリヤを、フルシチョフはこう回想している。問題はいつベリヤが行動を起すか、であった。マレンコフやフルシチョフらクレムリンの首脳は、ベリヤの動きに目を離さなかった。
ベリヤ粛清
1953年7月のある日、ソ連軍参謀本部は、ベリヤ指揮下の国内軍の1個ないし2個師団が、演習の名目でモスクワに近づいていることをキャッチした(国内軍部隊は、通常のソ連軍の監視の任務をも兼ねて、ソ連軍の各軍管区ごとに師団ないし旅団規模で駐留している)。急報によって、ベリヤと、旅行中のカガノヴィッチを除く党幹部会員全員がひそかに協議して、ベリヤの逮捕、解任を決めた。フルシチョフは、歴史的なベリヤ逮捕の経緯を次のように述べている。
「ベリヤからその地位を剥奪することを正式に決めたあと、だれが実際に彼を拘禁するかという問題が生じた。幹部会の護衛官たちはベリヤのいいなりだった。彼の配下のチェカー員(秘密警察員)は、会議のあいだ隣の部屋で待機しており、ベリヤが命令を下せば容易にわれわれ全部を逮捕することができたし、隔離してしまうこともできた。クレムリンにはかなり大勢の武装警備兵がいたので、われわれはまったく手も足もでなくなることだろう。そこでわれわれは軍部の助けを求めることに決めた。われわれは防空司令官(モスクワ防空管区司令官が正式名称)モスカレンコ、ジューコフ元帥ら全部で11名の元帥および大将を獲得することができた。
その当時、すべての軍人はクレムリンに入るに際して武器の点検を受けていたので、同志ブルガーニン(国防相)に指示して、元帥および大将たちが銃を持ったまま入れるように手配させた。会議が開かれているあいだ、モスカレンコのグループは別室にいて呼び出しを待つ手はずになっていた・・・」。
われわれは閣僚会議幹部会の会合を招集する手配をしたが、中央委員会のメンバーも招いた。マレンコフが開会を宣するとすぐに、あらかじめ打ち合わせてあった通り、私が議長マレンコフに発言を求め、ベリヤの問題を検討することを提案した。ベリヤは私の右にすわっていたが、飛び上がって私の手をつかむと、顔に驚きの表情を浮かべ、じっと私を見て、いった。「どうしたんだ、二キータ?君はいったい何をいっているんだ?」私はいった・・・。
「ベリヤの活動を見てきた結果として、私は彼が共産主義者ではないという印象を抱くに至った。彼は野心家で、利己的な理由から党にもぐりこんだのである。彼の傲慢さにはがまんがならない・・・」。前もって打ち合わせておいた通り、私は、ベリヤを閣僚会議議長代理(副首相)、内務相、および彼が保持している他のすべての公職から解任すべきであると提案した。マレンコフは気が動転していた。いま思い出すと、彼は私の動議を評決にかけもしなかった。彼は隣の部屋で待機している将軍たちに合図を送る秘密のボタンを押した。ジューコフが最初にあらわれた。つづいてモスカレンコとほかの者たちが入ってきた。マレンコフは消え入るような声で、同志ジューコフにいった。
「ソ連閣僚会議議長として、私は、告発に対する取調べを行うためベリヤを拘禁することを求める」。「手をあげろ」とジューコフがベリヤに命令した。モスカレンコとほかの者たちは、ベリヤの動きに備えて、拳銃のケースの尾錠をはずした。ベリヤはただちに閣僚会議の建物のマレンコフの執務室の隣で、武装警備兵の監視下におかれた。・・・ベリヤは防空司令官モスカレンコの手にゆだねるということで意見の一致をみた。モスカレンコは部下を使ってベリヤを自分の本部の掩壕に移した」。都心のサドーヴォエ・カリツォー(環状道路)とゲルツェン通りが交差する角にあるベリヤの邸は、軍の戦車隊に包囲されていた。
その年の12月、ベリヤは反逆罪で非公開裁判にかけられ、処刑された。「ベリヤは、党とその指導部、ソビエト政府にさからって、内務省の諸機関を利用しようと試みた。ベリヤは、党中央委員会とソ連邦閣僚会議とが内務省の問題に干渉することを許さず、個人的に彼に忠実な党活動家を内務省諸機関に登用し、内務省を党や政府の上に置こうとし、党と国家の権力を掌握しようとした。・・・この政治的冒険主義者は長い間、不法を働き、誠実な党活動家に対する虚偽の告発をでっちあげ、野蛮なやり口で彼らを処刑していたことが明らかにされた」と、公式の共産党史は述べている。

フルシチョフ、第一書記に
スターリンが死んだ直後、二キータ・フルシチョフは党中央委幹部会員・書記だったが、政府にはポストを持たず、モスクワ市党委員会第一書記をかねていた。全体としてみた場合、クレムリン首脳のなかでの序列は5番目以下といったところであった。しかし、党と政府の第一人者だったマレンコフは、わずか9日で、スターリンから受け継いだ遺産のうち、もっとも貴重なものを手放した。彼は3月14日、党書記局の筆頭書記をやめ、同月21日、フルシチョフが「党中央委書記局の仕事に専念するため」モスクワ市党第一書記の兼務をはずされて、筆頭書記になったのである。マレンコフは依然、幹部会の筆頭会員であったが、書記局に足場を失った。フルシチョフがマレンコフに代わって書記局を握ったのである。
フルシチョフは精力的な政治活動をはじめた。ベリヤ粛清の推進力はフルシチョフであった。8月の党中央委員会総会で彼は正式に「共産党中央委員会第一書記」という称号を与えられた。スターリンのような「書記長」ではないが、他の書記たちよりも一段と高い地位についたわけで、彼は次第に党の実権を手中に収めていった。ソ連の政治権力は共産党が握っている。その意思決定の中枢は中央委員会であり、さらには政治局であるが、党務の執行の権限は書記局にある。ソ連の政治では「書記局を制する者がクレムリンを制する」のである。ベリヤ粛清のあと、書記長の長たるフルシチョフの勢力は日ごとに高まり、マレンコフ首相と拮抗する形となった。
「指導要員の選抜、配置」が書記局の権限であることを利用して、フルシチョフは着々と自分の腹心を要所要所に配置して、反対者を遠ざけていった。のちに彼の後継者になったレオ二ード・イリイッチ・ブレジネフが書記に任命されたのは1956年だった。

フルシチョフの権力集中
ころあいをみて、フルシチョフはマレンコフを首相の座から追い落とす準備を進めた。彼は、ベリヤ追放のときに手を組んだモスカレンコ元帥(その後モスクワ軍管区司令官)ともしばしば話し合って、万一の場合の軍隊の支持をとりつけておいた。

マレンコフ追い落とし
1955年1月末、党中央委員会総会が開かれ、1955年度の国家予算案を討議した。首相であるマレンコフの報告に対してフルシチョフとその同志たちは、激しい攻撃を加えた。マレンコフの起算した予算案は却下され、重工業をより重視した新しい予算案をあらためて提案するよう指示された。これはマレンコフ首相に対する不信任決議に等しいものである。しかしフルシチョフは、ここでおおっぴらにマレンコフ辞任問題を持ち出すようなことはしなかった。もし党中央委員会や最高会議で票決ということになれば、マレンコフがまだ保持している声望からみて、意外な結果になるかもしれなかったからである。フルシチョフは緊密な仲間になっていたブルガーニン第一副首相と相談して、マレンコフに辞任を交渉することにした。
交渉役にはミコヤン(アルメニア人)がなり、巧みにマレンコフに’円満な辞職’を説得した。マレンコフは辞職に同意した。しかし、引き続き党中央委員会幹部会員としておくというフルシチョフの約束が彼に与えられていた。マレンコフは1955年2月8日、開幕間近い第4回最高会議第2会期に自分の解任を要請する書簡を送った。そのなかで彼は「私の要請は、政府の指導を強める必要についての実務的な考量と、豊かな国家活動の経験を有する他の同志を首相の地位につけることが合目的的であることからなされたものである。私は首相として省あるいは経済機関を直接十分には指導できなかった。農業に不満足な事態が惹き起こされたのは私の責任である」と自己批判した。
党を基盤としたフルシチョフの勢力にマレンコフが押し切られた形である。しかし、マレンコフは党での地位とともに内閣でも副首相兼発電所相としてとどまり、その勢力はなお残されていた。マレンコフに代わって、フルシチョフの腹心ブルガーニンが首相に任命された。フルシチョフ=ブルガーニン同盟(BK)時代が始まったのである。1956年1月の党の人事異動でフルシチョフは、ゴーリキー、スターリングラード、スヴェルドロフスク、イルクーツクなど重要な党支部の書記をいれかえて、全面的に信頼できる人物をすえた。モスクワ、レニングラード、ウクライナの3大地域の書記はすでにフルシチョフ派で固められていた。これらの3大地域からは、党大会のときの代議員の約75%を選出するので、もはやフルシチョフの党における勢力はゆるぎないものとなった。
ーこのような地固めののち、1956年2月、’レーニン死後もっとも重要な大会’といわれる第20回党大会が開かれた。この党大会でフルシチョフは、公式の中央委員会活動報告のほかに、痛烈なスターリン批判の秘密報告をやってのけた。スターリンが自分の権力におぼれて、多くの有能な党員、軍人たちに疑いの目を向け’人民の敵’という名目で粛清してしまったことを実名をあげて非難したのである。このスターリン批判は、6月4日になってアメリカ国務省がその内容をすっぱ抜いて発表し、世界的なセンセーションを巻き起こした。フルシチョフはすでにかつての’無 の人’スターリンの権威に挑戦するほどの力をつけていたのである。

反党グループの粉砕
一方、フルシチョフに首相の地位を追われたマレンコフは、モロトフやカガノヴィッチなど党の長老と連絡をとりながら、ひそかに反フルシチョフ同盟をつくりつつあった。1957年6月末、党中央委員会幹部会は、フルシチョフが打ち出していた経済行政の地方分権化の問題と、軽工業重視の政策について批判的な意見に傾いていた。スターリン時代以来の古参政治家カガノヴィッチは、絶望的な表情をたたえてソ連重工業の衰退ぶりをぶちまくり、前首相のマレンコフと、スターリン時代に首相の経験をもつ大物モロトフとは、農業の危機を声を大にして訴えた。
幹部会員の大多数がその意見に耳を傾け始めた。フルシチョフ政策の弁護を試みたのは、ミコヤン、スースロフら少数でしかなかった。ついにフルシチョフ第一書記の解任が多数決で採択された。しかし、フルシチョフは屈しなかった。「わが輩を解任できるのは中央委員会総会だけだ」とうそぶいて、即座に第一書記の権限に基づいて中央委員会総会の招集にとりかかった。フルシチョフは問題を中央委総会に持ち込めば’逆転勝ち’ができると確信していた。フルシチョフはすでに4年間にわたって地方党組織を自派で固めていたからである。中央委員会の招集には、軍隊も協力した。ジューコフ国防相の命令で、空軍の超高速ジェット機が広大なソ連の各地から、中央委員たちを続々とモスクワに運んできた。
あわただしく開かれた中央委員会総会は、はたしてフルシチョフの確信通り、幹部会のフルシチョフ解任の提案を否決してしまったばかりか、マレンコフ、モロトフ、カガノヴィッチらは’反党グループ’の烙印をおされて幹部会と中央委員会から追放されてしまったのである。

*ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(ロシア語: Вячесла́в Миха́йлович Мо́лотов、ラテン文字表記の例:Vyacheslav Mikhailovich Molotov、1890年3月9日(ユリウス暦では2月25日) - 1986年11月8日[1])は、ソビエト連邦の政治家、革命家。人民委員会議議長(首相)、外務人民委員、外務大臣(外相)を歴任した。第二次世界大戦前後の時代を通じてヨシフ・スターリンの片腕としてソビエト連邦の外交を主導した。

*ラーザリ・モイセーエヴィチ・カガノーヴィチ(ロシア語: Лазарь Моисеевич Каганович、1893年11月22日 - 1991年7月25日)は、ソビエト連邦の政治家、官僚。ウクライナ共産党第一書記、ソビエト連邦運輸人民委員(ロシア語版)(運輸大臣)、閣僚会議第一副議長(副首相)を歴任した。また、ヨシフ・スターリンの側近を務めていた。

ジューコフ国防相の追放
’反党グループ’の陰謀をきわどいところで処理したフルシチョフは、自分の信じる政策をどしどし推し進めようとした。だが、彼はまだ政府にポストを持っていなかった。ブルガーニンが首相にとどまっており、ソ連の政治は、依然党のフルシチョフと政府のブルガーニンの’両頭政治’であった。しかも’反党グループ事件’のとき、彼を強力に支持したジューコフ国防相の声望は、フルシチョフをしのぐものがあった。ジューコフは第2次大戦の勇将であり、ベルリンを攻略した英雄として、ソ連国内ではスターリンさえその声望をねたんだといわれる。
1957年7月14日、海軍記念日の祝典に出席のためレニングラードを訪問したジューコフ元帥に対する歓迎ぶりは、同じ年の5月にフィンランド訪問の途中に同市を通過したフルシチョフに対する歓迎よりもはるかに熱狂的であった。しかも、ジューコフ元帥は生粋の軍人らしく、軍隊における指揮権の一元化を強く主張して、軍隊に対する共産党の指導、軍隊内部での党組織の自主的な活動を抑えようとしていた。軍に対する党のお目付け役であるソ連陸海軍政治総本部長ジョルトフ大将は、有名無実の存在にされつつあった。これは、ソ連の歴史的伝統に対する抵抗と党指導者の目には映った。フルシチョフは党幹部会と書記局から突き上げられた。
ジューコフ元帥のユーゴ、アルバニア訪問旅行中をねらって、党中央委員会総会は1957年10月、ジューコフの党中央委員、同幹部会員、国防相からの解任を決めた。元帥は帰国した途端、空港で解任を告げられたのだった。第2次大戦の英雄をもってしても、党の権威をおかすことはできなかった。フルシチョフはジューコフ解任後、ソ連軍内の党組織の大会で次のように演説したのである。「問題はしごく簡単である。同志諸君、諸君はこんなことわざを知っているだろうー’ニワトリ小屋にオンドリが2羽いると、太陽はいつ昇ってよいか分からない’?・・・われわれはいま、すばらしい社会主義の日の出を待っている。ニワトリ小屋にはオンドリ1羽だけ入れておこうではないか」。

*ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフ(ロシア語: Георгий Константинович Жуков, ラテン文字転写: Georgy Konstantinovich Zhukov、1896年12月1日 - 1974年6月18日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人。ソ連邦元帥まで昇進した。ニキータ・フルシチョフの時代に第2代国防大臣を務めた。

ブルガーニンの失脚・首相を兼任
一方、1957年6月の中央委幹部会で、マレンコフがフルシチョフを攻撃したときのブルガーニンの態度はかなりあいまいなものであった。中央委員会総会の幕切れのころには、フルシチョフ支持に傾いたのは事実だが、その支持ぶりは、はなはだ煮え切らないものであった。最初からフルシチョフを支持して、その勝利を実現させた強硬論者たちとフルシチョフは、ブルガーニン追放を決意した。1957年夏に行われたフルシチョフの東ドイツ訪問には、それまで海外旅行のコンビであったブルガーニンが同行しなかった。彼は東ベルリン滞在中に、ブルガーニン首相を伴わなかった理由を聞かれた。
フルシチョフは微笑を浮かべてこう答えた。「ロシアの小諺をお話しましょう。ふたりの猟師が森へクマ狩りに出かけました。一服しようと草地をみつけて足をとめたところが、ひとりはこの間を利用してくだものをとりにゆきました。そのとき、突然大きなクマがあらわれて、残っていたほうの猟師に襲いかかりました。猟師は仲間に助けを求めましたが、目先のよくきく仲間は聞こえないふりをしたほうがよいと思いました。ところが、襲われたほうの猟師がオノでもって、うまくクマに一撃を加えたのを見てとると、彼は瀕死の野獣にとどめを刺しにかけつけたのです。これからふたりの猟師の仲が以前のようではなくなったのです」。
翌1958年3月27日、第5回最高会議第1会期でブルガーニンは首相を辞任し、フルシチョフが党第一書記と首相の地位を兼任した。かつてのスターリンと同じくフルシチョフは、2つの最高ポストを手中に収めた。

*ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン(ロシア語: Николай Александрович Булганин、ラテン文字転写:Nikolai Aleksandrovich Bulganin、1895年6月11日 - 1975年2月24日)は、ソビエト連邦の政治家。党政治局員、軍事人民委員、閣僚会議第一副議長、国防大臣を歴任し、ニキータ・フルシチョフ時代前期に閣僚会議議長(首相)を務めた。
1961年10月、第22回党大会で(首脳はみな軍服姿。フルシチョフ中将を軸に横に並んで座り、左隣にヴォロシーロフ元帥、右隣にマリノフスキー元帥、その隣にブレジネフ中将。後ろに背広を着た文官たちスースロフ党書記、コスイギン第一副首相、グロムイコ外相そしてアンドロポフ党書記局員など)、ジューコフ元帥の後任、マリノフスキー国防相は、その演説の中でフルシチョフをソ連軍の最高総司令官と呼んだ。続いて11月18日付のソ連国防省機関紙「赤い星」でも、地上軍ロケット装備に関するワレンツォフ砲兵上級元帥の談話のなかに「ソ連軍最高総司令官フルシチョフ同志」が登場した。フルシチョフはかつてスターリンが占めていた軍の最高ポストをも手中にしたのである。もっとも軍の階級からいえば、スターリンはソ連邦大元帥(ゲネラリシムス)だったのに、フルシチョフは陸軍中将にすぎなかったが・・・。
*ロディオン・ヤーコヴレヴィチ・マリノフスキー(ロシア語: Родион Яковлевич Малиновский、ラテン文字転写の例:Rodion Jakovlevič Malinovskij、1898年11月23日 - 1967年3月31日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人。最終階級はソ連邦元帥。陸軍総司令官、フルシチョフ、ブレジネフの時代に国防大臣を歴任した。

フルシチョフからブレジネフへ
1964年10月。この年の4月に70歳を迎えたフルシチョフは、黒海沿岸の保養地ピツンダの別荘で、休暇を楽しんでいた。この年は6月の北欧訪問、夏のソ連国内の農業視察旅行、9月のチェコスロバキア訪問と、旅行につぐ旅行の連続だった。モスクワの下町では、こんなアネクドート(政治風刺の小諺)がささやかれていた。「映画館で、珍しい記録映画やっているよ」「なんだい」「フルシチョフ一家のソ連滞在’2週間’というやつさ」。またこうもいわれていた。「レーニンはマルクシスト、スターリンはテロリスト、そしてフルシチョフはツーリスト」。フルシチョフにとって、ビツンダでの休暇は久しぶりの静養であり、かねて秋に予定されていた農業問題に関する党中央委員会総会の構想を練るための日々でもあった。
このとき、日本から藤山愛一郎代議士(元外相)がおとずれて、フルシチョフと会談している。藤山氏はそのときの思い出をこう書き残している。「フルシチョフ首相の別荘はソーチの町から車で1時間、海に面した松林の中にあった。体操の道具がいろいろ備えてあるジムナジアムや総ガラス張りの屋内プールがあった。’私は毎日2回ずつ泳ぐんだ’といって彼がボタンを押すと、ブールの四方のドアがスーッと開く。それがまたボタンで閉じるという豪勢なプールだった。フルシチョフ首相は庭に出て私とバトミントンを楽しんだりした・・・」(「政治わが道」-清宮龍『ブレジネフのアパート』80年)。
*Deutschドイツ語⇒Fujiyama Aiichirō (jap. 藤山 愛一郎; * 22. Mai 1897 in Tokio, Präfektur Tokio(東京都出身); † 2. Februar 1985) war ein japanischer Politiker (LDP, Fujiyama-Faktion) und Geschäftsmann.
裃をぬいでリラックスした人間フルシチョフの一面はほほえましい。この総会で、またまた得意の長広舌をふるいお気に入りの娘婿アレクセイ・アジュベイ(当時、『イズベスチア』編集長、党中央委員)を、農業担当の中央委員会書記にするつもりだった。ただ、フルシチョフの秘書や側近といえる人間が誰も周辺におらず、彼が別荘の庭のあずまやでただ1人で原稿に手をいれていた姿が気になった、と藤山氏の随員は語っている。
モスクワでひそかにフルシチョフ打倒の陰謀がすすめられているとは、彼自身、夢にも考えなかった。明るい陽ざしの下、穏やかな日が過ぎていた。

不穏な動き
10月11日、モスクワ・スターラヤ広場4番地のソ連共産党中央委員会ビルの前は黒塗りのジル(政治局員クラス用の最高級車)やチャイカ(中央委員クラスの高級車)の出入が目立った。日曜日だというのに・・・。一部の俊敏な西側記者は’ただならぬこと’が起りつつあるのではないかと神経をとがらせた。10月12日、世界最初の3人乗り宇宙船「ウォスホート」が打ち上げられて、モスクワ市民の目は宇宙にそそがれていた。ビツンダの別荘でフルシチョフは上機嫌だった。無線電話で宇宙飛行士を呼び出して、お祝いの言葉を述べた。そばにはモスクワからやって来たミコヤン最高会議幹部会議長がいた。
フルシチョフは、「自分こそ宇宙開発の父である」といわんばかりにしゃべり、ミコヤンになかなか受話器を渡そうとせず、ミコヤンがまじめなあいさつを終えるか終えないかにまた受話器を取り返そうとした。ミコヤンはこのときすでに、この傍若無人な男を追放する計画を腹に収めていたのである。フルシチョフの別荘には、アジュベイのほか’フルシチョフ路線’の宣伝に大きな役割を果たしていたラジオ・テレビ国家委員会議長(閣僚)のハルラモフもいっしょにいた。この2人と並ぶフルシチョフの’参謀’であるサチュコフ『プラウダ』編集長はパリ訪問中だった。フルシチョフ側近の誰も、モスクワの時ならぬ動きに気づいていなかった。

*アナスタス・イヴァノヴィチ・ミコヤン(アルメニア語: Անաստաս Հովհաննեսի Միկոյան、ロシア語: Анастас Иванович Микоян、ラテン文字転写の例:Anastas Ivanovich Mikoyan英語: [miːkoʊˈjɑːn]、アナスタース・イヴァーナヴィチ・ミカイァーン、1895年11月25日 - 1978年10月21日)は、ソビエト連邦の政治家、革命家。アルメニア人である。商工人民委員(貿易大臣、ru:Министерство торговли СССР)・第一副首相・最高会議幹部会議長(在任期間は1964年7月15日から1965年12月9日)を歴任した。ヨシフ・スターリンからニキータ・フルシチョフの時代をしたたかに生き延びた、希有なオールド・ボリシェヴィキとして知られる。弟にMiG戦闘機の設計者のアーテムがいる。
幹部会への喚問
10月13日、フルシチョフは別荘で、ガストン・パレウスキ・フランス科学相と、昼食をともにするはずだった。フルシチョフの昼食会は、’6時間にわたる’といわれるほど豪勢なものだったが、フルシチョフは「ウォスホート歓迎会があるので、モスクワに帰らなければならない」とわびて、会見はごく短時間で打切られた。ウィスホートは、この日の朝着陸していた。しかし、ほんとうはフルシチョフはウォスホート歓迎会出席のためではなく、党中央委幹部会(政治局)の会議に呼び寄せられたのである。スターリン時代の党書記であり、幹部会の長老でもあるミハイル・スースロフ書記が電話してきて、幹部会への出席を求めたのだ。
フルシチョフは言葉につまり、「私はいま休暇中だ。君は私抜きでものを決めてもよい」と答えたが、スースロフは承服しなかった。やむなくフルシチョフも同意して、飛行機で約2時間後に、モスクワに着いた。幹部会のメンバーはすでに、フルシチョフ解任の線を打出していたが、当のフルシチョフを迎えて’決定’として採択することが必要だったのである。党中央委の組織・党活動部門を担当していたブレジネフ書記、コスイギン第一副首相をはじめ11人の党幹部会員全員が集まり、フルシチョフの地位に関する討議が行われた。議長席にはミコヤン最高会議幹部会議長(一説にはスースロフ書記)が座ったといわれる。幹部会員たちは、次々と立って11年間にわたるフルシチョフ治政の欠陥を指摘した。
内政面では農業政策の失敗、党の機構を農業と工業に2分して混乱を起したこと、文学や芸術に対する態度があやふやだったことなどが批判された。外交面では、キューバにミサイルを持ち込んで米国をおどそうとしたが、強硬な反撃にあうとすぐに撤去してソ連の威信を傷つけたこと、中国との対立を悪化させて共産陣営の団結を壊したことなどが攻撃された。さらに外交機関を無視して娘婿のアジュベイを重用し、何度も個人的特使として西側諸国との重要交渉に当らせるなどの’縁者びいき’や、自分の思いつきを党の政策に押しつけようとする’集団指導制の無視’、さらにフルシチョフが国連総会そのほか公開の席で、しばしば演じた粗野な言動など、その政治的’作風’もヤリ玉に上がったといわれる。
フルシチョフ解任動議が出され、多数で可決された。フルシチョフは激怒して抗議した。そして1957年、マレンコフ、モロトフ一派が彼を解任しようとしたとき、逆転して彼らを’反党グループ’として葬った例の戦術に訴えた・・・「私は中央委員会総会の招集を要請する」。
運命の中央委総会
10月14日。この日の『プラウダ』、『イズベスチヤ』にはフルシチョフの名がどこにも出ていなかった。いままで紙面に現れない日のなかった’同志フルシチョフ’という名前が・・・。モスクワのテレビ、ラジオからも彼の名は消えた。午後、伝統にしたがって、クレムリン内スヴェルドロフ・ホールで党中央委員会総会が開かれた。前日の幹部会の結論に基づいて、党内きっての理論家スースロフ書記が立って、29項目の’罪状’(1964年10月30日、モスクワ発AP電)を挙げて「フルシチョフ同志は退陣すべきである」と報告した。この報告は4時間にわたったといわれる。フルシチョフも自ら立って、自己弁護の長広舌をふるった。
「諸君が攻撃している人物は、スターリン主義を根絶したではないか。消費財の増産に努力して、国民にソ連史上最大の物資的贈物をしたではないか。ウォスホートの成功にみるような、宇宙開発における輝かしい成果を挙げたではないか・・・」。フルシチョフが10年間にわたって、中央委員会のなかに培った’人脈’も無視できなかった。フルシチョフ支持の中央委員たちは土壇場での逆転をねらって、全力をふりしぼった。「諸君たちは、フルシチョフ同志によって中央委員に昇進できたのではないか。フルシチョフ同志のもとに結集しよう」。
こうしてフルシチョフの党第一書記の地位をめぐる攻防戦は夜更けまで、8時間にわたって統けられた。投票が行われた。結果は満場一致ではなかったが、多数決でフルシチョフの党第一書記からの解任とレオ二ード・ブレジネフ新党第一書記の選出が決まった。世界はまだ知らなかった。

首相解任
10月15日。最高会議幹部会が開かれ、ミコヤンが議長席に着いた。幹部会員全員が満場一致でフルシチョフの首相からの解任に賛成した。ただし、フルシチョフ自身の希望を容れて、解任の理由は「高齢と健康悪化のため」とされた。自発的引退であるかのような形式がとられたのである。幹部会は新首相に、コスイギン第一副首相の昇格を決めた。この日午前11時、フルシチョフが黒塗りの専用車に乗って、スパスキエ門からクレムリンに入るのがみられたというが、それ以来、彼のあのずんぐりした愛敬のある姿はクレムリンから消え去った。同じの日の昼、クレムリンで開かれたドルチコス・キューバ大統領の歓迎レセプションには、ミコヤンが出席した。フルシチョフはもう姿を見せなかった。フルシチョフ解任の噂は急速に市内に広がっていたが、夕刊紙『イズベスチア』は夕方になっても発行されない。
問い合わせの電話に編集局員は「もうしばらくお待ちください」と繰り返すだけであった。
その夜10時30分、赤の広場の入口近くにあるホテル・モスクワの正面に掲げられていたフルシチョフの肖像画は、いつの間にか取り外されていた。午後11時40分、モスクワ放送は沈黙した。10月16日、午前零時5分、沈黙を破ったモスクワ放送は、フルシチョフ解任を公表し、タス通信のテレタイプは全世界に向って、この大ニュースを伝えた。だが、ソ連国民の大多数は、明け方5時の放送で、11年間にわたる指導者だった二キータ・セルゲーヴィッチ・フルシチョフ退陣の公式発表を知らされた。モスクワの町には冷たいみぞれが降りしきっていた。フルシチョフの時代が終わり、ブレジネフの時代が幕を開けたのである。

隠棲(木村明生『ソ連共産党書記長』講談社現代新書・87年)
失脚したフルシチョフは、長い党歴に免じて’個人年金受領者’の身分をあたえられた。クレムリンにも近いモスクワ市内グラノフスキー通りの高官用マンションがわりあてられた。皮肉にも、フルシチョフがかつて追放したモロトフら’反党グループ’の大物たちと同じマンションである。昔の政敵たちと顔をあわすことを嫌ったのか、フルシチョフはほとんどこの市内の住宅で暮すことなく、もっぱら郊外の国有別荘で余生をおくった。別荘はモスクワから西へ30キロはなれたモスクワ川とイストフ川の合流点、ペトロヴォ・ダーリ二ー村にあった。
「私はいま、モスクワの郊外で隠者のような生活を送っている。だれともほとんどつきあっていない。つきあっているのは、他人から私を守るもの、つまり私が他人に近づかぬようにするものたちだけである。私の周囲の人々は、ほとんどの時間を、私が他人に近づかぬことに費やしいるらしい」(『フルシチョフ回想録』1972年)。いかにも孤独な隔離生活を余儀なくされていたようにみえるが、これには少々誇張があるようだ。たしかに、ソ連の最高機密に10年余もたずさわってきた人物として、当局の監視の目は光っていたが、それは必要最小限のものだったらしい。
西側の情報によれば、監視役をかねた護衛官が別荘の敷地内の別棟に配置されてはいたが、フルシチョフとその妻二ーナ・ペトローヴナのすむ母屋にはいりこみはしなかった。フルシチョフは敷地内の庭で1人歩きすることを認められていたし、ときには塀の隙間をすりぬけて、近くの森のなかやモスクワ川の土手を散歩することもあった。こんなときには、同じ年金生活者仲間や土地の農夫、近くの労働者サナトリウムに滞在中のレジャー客などと談笑している。彼らと一緒に写真をとることも少なくなかった。モスクワに出ることは滅多になかったが、選挙のときなど、モスクワの居住区の投票所に出向く際には’政府さしまわしのリムジンに護衛官と同乗した。
モスクワにいる親戚や友人たちをたずねることもできた。そんなときの監視はよりゆるやかだった。一方、家族や親友が別荘にフルシチョフをたずねることは自由だったという。

*セルゲイ・ニキーティチ・フルシチョフ(ロシア語: Серrей Никитич Хрущёв, ラテン文字転写: Sergei Nikitich Khrushchev、1935年7月2日 - 2020年6月18日[1])は、ソビエト連邦モスクワ出身で、アメリカ合衆国在住の科学者、歴史学者(ニキータ・フルシチョフの次男)。1991年にソビエト連邦の崩壊を機にアメリカに移住し、ハーバード大学客員研究員を経て、1996年からブラウン大学ワトソン国際関係研究所上級研究員。1999年に妻とともにアメリカに帰化しロシア系アメリカ人となった。著書も多いほか、多くの大学や研究機関などで公演を行っていた。
二冊目の回想録
別荘での生活が比較的自由なものだったとしても、10年以上もソ連に君臨して、全世界にむかって行動し、発言してきた男にとって、田舎にひきこもっての沈黙の生活はつらかったであろう。「わずかながら埋め合わせできることの1つは、在職中の歳月を振り返る自由であった。過去、現在の出来事について意見を聞かれると、長々と思い出にふけり、しかもそれを楽しんでいるようすだった。家族や友人は、元気を取り戻して語る彼の話に聞き入るばかりではなかった。質問で刺激し、1967年にはテープに話を吹き込ませるまでにいたった。その後4年間、1971年9月に死去するまで、フルシチョフは思い出を記録した」(『フルシチョフ最後の遺言』)ー米国のジャーナリスト、ジェロルド・L・シュクターはこう書いている。
テープに吹き込まれたフルシチョフの回想は、のちに米国の出版社、リトル・ブラウン社の手にわたり、整理されて’Khrushchev Remembers'(邦訳「フルシチョフ回想録」1972年)と'Khruschev Remembers:The Last Testament'(邦訳『フルシチョフ最後の遺言』1975年)の2巻として各国で出版され、話題をよんだ。前者がまず1970年末に米国で公表されたあと、フルシチョフは党中央委付属党統制委員会議長のぺリシェ政治局員によびだされ、警告をうけたが、その後もテープ吹込みを続けたという。1971年9月、持病の心臓病が悪化して、モスクワ市内のクレムリン病院に入院し、同月11日、77歳で波乱にみちた生涯をとじた。2番目の回想録は死後3年をへてでの発表は、思いもよらぬ’宮廷クーデター’で失脚させられたフルシチョフの、せめてもの弁明であり、抵抗でもあったろう。あのおしゃべり好きな、ロシア人のいうボルトゥン(饒舌家)のフルシチョフが、沈黙のまま隠遁の余生をまっとうするはずはなかったのである。
党内基盤の強化
このようなクレムリンの新陣営が発足した当初は、ブレジネフ第一書記が比較的名前を知られていない地味な存在だったのに対し、内政でも外交でも、スターリン時代の1938年以来長い閣僚経験を持つ行政官コスイギンの活躍が目立った。西側ジャーナリズムは、両氏の”連立政権”とみて「ブレジネフ・コスイギン政権」と呼んだものである。著者(木村明生)はモスクワ特派員時代、新政権がフルシチョフの”戦略ロケット万能”から、地上軍、海軍を含めた”各軍種の均衡のとれた総合戦力”を重視する軍事路線に転換しつつあるという記事を送ったとき、「ブレジネフ政権」という言葉を使ったら、東京のデスクで「コスイギン政権」と訂正された記憶がある。それほどブレジネフ第一書記の影は薄かったのだ。
コスイギン首相は当初、内政では工業を担当し、1965年9月の党中央委総会では、利潤方式に基づく「経済改革」の導入を主張する報告を行い、以後「経済改革」推進の主役を演じた。外交では、華やかな対西側外交や意欲的な対第三世界外交の中心的存在であった。ジョンソン米大統領とのグラスボロ会談(67年6月)や印パ紛争を調停したタシケント会談(66年1月)は、ソ連外交の主柱としてコスイギンを国際的に印象づけた。一方、当時のブレジネフは、内政では地味な農業を担当し、ほぼ10年にわたったフルシチョフ農政の”後遺症”を癒すのに苦慮していた。外交面では主として、フルシチョフ時代にタガのゆるんだ社会主義陣営の内部固めに専念して、広く国際舞台で脚光を浴びることはなかった。しかも新指導部発足の当初から65年12月までは、スターリン時代以来の老練政治家ミコヤンが”後見役”として控え、その後は党歴、年齢においてブレジネフよりも先輩のニコライ・ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長が、無視できない実力者として存在していた。「ブレジネフ・コスイギン」にミコヤンさらにはポドゴルヌイを加えて「トロイカ」体制と呼ばれた所以である。

*(1964年、「10月革命」47周年のため、モスクワに招かれた中国代表団の通訳を務めた伍修権の回想)
11月7日のレセプションで、マリノフスキー国防相が賀龍(元帥)に、「われわれはフルシチョフを追っ払った。あなた方もわれわれにならって毛沢東をひきずりおろしたらどうだろうか。そうすればわれわれはうまくいくのに」といった。賀龍は「あなた方の党とわが党では事情がまったくちがう」と憤然とし、すぐ周恩来(首相)に伝えた。周恩来がブレジネフにマリノフスキーの話はまったく挑発だと抗議すると、ブレジネフは「酒の上のことなので気にしないでほしい」ととりなした。だが周は承知せず、結局ブレジネフが謝っておさまった、という
(ブレジネフ新指導部との交渉実らず帰国した周恩来(中央)と賀龍(左端)を迎える朱徳(党中央委員会副主席)毛沢東(中央委員会主席)劉少奇(国家主席)の写真が載っている↓)。
*Kazuko Mori毛里 和子 (Mouri Kazuko, January 19, 1940-東京都出身) is a Japanese political scientist (Chinese politics and diplomacy, international relations in East Asia).

非フルシチョフ化とネオ・スターリ二ズム
フルシチョフに代って、ブレジネフが党の指導者になり、次第に権力を固めながらソ連を統治してゆく過程で、その統治スタイルにはおのずからブレジネフの特色がにじみ出てきた。1982年11月10日に急死するまで、最高指導者の座にあること18年。彼は’ブレジネフ主義’ともいうべき統治方式を作り上げた。大づかみにいって、前任者フルシチョフの時代が「非スターリン化」「集中から分散へ」の時代だったとすれば、ブレジネフ時代の特色は「非フルシチョフ化」「分散から集中へ」の動きにある。ここに「分散」というのは、党と国家の権力の分立、党組織の工業、農業部門別への分割、党中堅幹部の定期的交代制、経済指導の地方分権、連邦警察権力の縮小などに象徴される一連の傾向を指し、「集中」はその反対の流れをいうのである。
もちろんフルシチョフ時代にも、とくにその中期以後には党第一書記と首相の兼任、党と国家の統制機関の統合(党・国家統制委員会の創設)などにみられる「集中」への逆流も起った。ブレジネフ時代に入ってからも、とくにその初期には、同一人物による党と政府首班兼職の排除、党・国家統制委員会の廃止(党中央委付属の統制委員会と最高会議の人民統制委員会とに分離)、企業の自主性を拡大する’経済改革’の導入など、むしろ「分派」とみられる動きもあった。しかし、全体としてフルシチョフ時代とブレジネフ時代を比べるとき、とくにこの2つをスターリン時代(極端な「集中」の時代)を 介して比べてみるとき、フルシチョフ時代の特徴を「分散」、ブレジネフ時代、とくにその後半のそれを「集中」として捉えることができるのではあるまいか。
そして、ブレジネフ時代の「集中」が、「非スターリン化」を推進したフルシチョフに対する批判と、それと表裏をなしたスターリンの部分的復権のなかで進められたために、西側では「非フルシチョフ化」→「再スターリン化」とみる見方も生まれた。しかし、ブレジネフ時代はフルシチョフ10年の「非スターリン化」の時期をくぐっており、スターリン時代とは国際環境も大きく変わっている。いま形成されつつあるブレジネフ主義は、古いスターリ二ズムの再生ではなく、それと共感する側面を持ちつつ、次元を異にしたものといわなねばなるまい。強いていうならネオ・スターリ二ズムであろう。

4回の党大会
ブレジネフは全部で4回の党大会を主宰している。フルシチョフ解任後1年半たって開かれた第23回党大会(66年)、「トロイカ」体制のなかでブレジネフの優位が目立ってきた1970年代の初めの第24回党大会(72年)、ブレジネフの確立した指導権のもとに開かれた第25回(76年)と第26回(81年)の両大会である。これらの党大会の回数を重ねるごとに、ブレジネフ主義はより明確な形をとって浮かび上がってきたのである。総じて第23回大会は、フルシチョフの平和共存路線や利潤方式による新経済政策の継承はうたいながらも、その政治指導スタイルの批判の上に立って「非フルシチョフ化」を打ち出した。
党規約の改正によって党の機構と体質の改革が行われ、新中央委員の選出では、フルシチョフ系の人物が排除される一方、フルシチョフによって左遷、格下げされていた有能な活動家が復活した。第24回大会は、ようやく強まりつつあったブレジネフの主導権を背景に、利潤方式による経済改革に代って、精神的刺激や管理方式の改善、技術革新を重視した新しい経済路線を打ち出し、イデオロギー引き締めを強調した。党内では、党員証の書き換えを通じて’粛党’をはかることを決めた。第25回大会は、前大会の路線を引継ぎ、ブレジネフ主義を一層きわだたせた。新しい第10次5ヵ年計画(1976-80年)は、前回の第9次計画と異なり、重工業部門(生産財生産部門)の成長率優先に転じ、軍事力強化の意図をうかがわせた。
第26回大会は、経済成長の鈍化のなかで、再び消費材生産優先の第11次5ヵ年計画(1981-5年)を策定するとともに、1961年に採択された党網領を改訂することを決めた。

クレムリンのブレジネフ(ソ連共産党書記長)
15個の赤いボタン
執務机の小さな脇机には、電話装置がくみこまれていて、50個あまりも白い通話ボタンがついている。「いちばん上のボタンを押すと、すぐにどの政治局員とでも話ができる。下の方のは中央委員会の書記につながるボタン。そのほかのは国家計画委員会(ゴスプラン)や地方の基幹企業の責任者とつながっている。残念ながら、今日はもう遅いんで、押しても、だれもおらんだろう」と、ブレジネフ書記長は西側記者たちに語っている。どうして書記長の執務室がクレムリンにあって、党中央委員会の古い建物のなかにおかれていないのか、という質問にブレジネフは、言い訳でもするように「レーニン以来の古いしきたりにしたがって、政治局の会議はクレムリンのなかでだけ開くことになっている。私は中央委の古い建物のなかにも執務室を持っているよ」とこたえた。
そして、そのことを証明するために、白いボタンの1つをおして、もったいぶって「いいかい。もう1つの私の執務室と電話でどんな話をするか、いまご覧に入れよう」といった。相手は力強い声で応答した。「(ワルシャワから)戻ったところだ。テレビで私を見たかね」とたずねると、スピーカーが「テレビのあなたは素敵でした」とどなった。「ところで、ボンの様子はどうかね」「いくつかの報告がございます」という声がスピーカーからながれた。ブレジネフは、通話の相手が秘密を要する内容にふれかねないのが心配になったのか、急いで割ってはいった。「報告なんて、いつでもあるさ。私はいま『シュテルン』誌の記者諸君とここで話しているところだ。ドイツ人はまた進撃中かね」「いえ、進撃してはおりません」「そうか、よろしい。じゃ、また」書記長が笑ってたちあがったとき、同誌の記者たちは、電話装置のわきに、クリーム色の樹脂ガラスの覆いがあるのに気づいた。その下に電話の受話器のような赤い影がみえた。
「これが、かの有名な’赤い電話’なんですか」ブレジネフは、記者たちを見わたしてから、すこしためらって、一緒に部屋にいた補佐官たちに目をやった。もう1度2の足をふむ様子をみせたが、ブレジネフは樹脂ガラスの覆いをもちあげた。1つは灰色で、もう1つは消防車のような赤色だ。そのわきに、赤いボタンが約15個ついている。「この回線はどこにつながっているんですか」「私は知らない。まるで見当もつかん」ブレジネフは急いで覆いを元通りにおろすと、執務机からはなれた。記者たちは「この赤いボタンはワルシャワ条約加盟国の党首に直通しているのだ」と『シュテルン』誌に書いている(ワルシャワ条約加盟国はソ連以外では6カ国しかない。15個のボタンは多すぎるようだが・・・)。
執務室の1番奥の壁に、戸棚がはめこんである。扉のガラスには薄いカーテンがぴったりはってある。ブレジネフ書記長はこの戸棚に歩み寄ると、にやにやしながら「これは私の秘密の戸棚なんだ」といって、扉をあけた。なかには書物も書類もしまっていない。その代わりに、もう1つ部屋があった、と同誌は書いている。狭い部屋で、書記長のプライベートな休憩室にあてられているのだという。置かれた調度はベッドが1つ、数脚のエナメルをぬったひじ掛けイス、小さな円テーブル、それに化粧台である。「これがクレムリンにある私の全財産だ」とブレジネフは笑ったという。激務につかれたとき、ブレジネフはこの’隠し部屋’に逃避して、しばしの眠りと休息をとったらしい。



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