日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

History of China & Japan・「学校」で教わらない日中現代史/China A Century of Revolution

中国現代史・産業革命、資本主義と帝国主義の勃興・半植民地化:(中国現代史・岩村・野原)
ー19世紀の70年代以後資本主義世界には、きわめて大きな変化があらわれた。自由競争は、小企業がしだいに大企業に合併、集中される結果を招き、少数の大企業が、それぞれの産業部門で、たがいに協定してその部門を独占するに至った。大企業は、そのころ行なわれた工業技術上の変革(電気エネルギーの工業化、化学工業の発達、鋼鉄の大量製造法の発明など)を自由に利用して、この集中、独占の過程を促進した。トラストやカルテルやシンジケートなどが生まれ、独占のために激しい競争がおこった。
ーそれにつれて企業に融資する大銀行の役割が増大して産業を支配し、またそれと結びついて、金融独占資本を成立させた。独占資本は生産力をかつてみないほど発達させ、国民の購買力をこえて商品が生産され過剰となった。資本の蓄積も巨額に達した。しかし過剰な商品や資本は、国民生活の水準をひきあげるためには用いられなかった。独占資本家は外国市場を求めて、過剰な富の賄賂を広げることに熱中した。1890年代以後は、とくに資本の輸出がいちじるしくなった。
ー植民地や半植民地では、賃銀も原料もやすいので、一層高い利潤が約束されていたからである。さらに世界市場では各国独占資本相互の競争は、国際カルテルなどの協定組織を生んだが、それにも関らず絶えず激化していった。各国政府は独占資本家の意志のもとに、自国工業に対する原料資源と販売市場を独占的に確保しようとし、また資本輸出のために有利な条件を得ようとして、植民地や半植民地の争奪に血まなこになった。ことに1880年代以後はアメリカ、ドイツが工業製品の上でイギリス、フランスに追いつき、植民地争奪戦はますます激化した。
ー19世紀の末には世界は資本主義列強のあいだで、ほとんど完全に分割されてしまった。アフリカからアジアにかけて、資本主義国家の侵入を受けない地域はもはや、どこにもなかった。ビルマはイギリスに、インドシナはフランスに占領されてしまった。どうやら独立を維持した日本は、その後急速に資本主義国家へ成長し、非常に早くから植民地の獲得を企てていた。日本の資本主義は封建的搾取制度を強く残していたために、国内市場が狭く、また食料や原料の生産も十分に行われなかった。こういう事情がますます日本を弱い隣国の侵略にかりたてた。
ー沖縄に対する清朝宗主権の否認(1873年)、台湾侵略(1874年)についで、清朝と戦って、朝鮮に対するその宗主権を奪い大陸侵略への第一歩を踏み出した。
日清・日露戦争・日英同盟・さらなる侵略と半植民地化:
ー日清戦争は、やがて列強が中国で自分の勢力範囲を築くために争い合う切っ掛けとなった。1898年にスペインからフィリピンを強奪したアメリカも、フィリピンを基地として中国分割競争に割り込んできた。日本は朝鮮・満州にたいする野心を深め、ロシアとの鋭い対立を招いた。ロシアはすでに清朝から満州に対する利権を獲得し、朝鮮へ侵略の手を伸ばしていた。この頃、反ロシア政策をとっていた英米は、日本の野心を支持した。1902年には日英同盟が結ばれた。1905年の日露戦争は中国の領土を戦場として戦われ、中国を犠牲にして日本に勝利の獲物を与えた。
ーロシアは日本の朝鮮に対する保護権を認め、樺太南部を割譲するとともに、東清鉄道の南武線や遼東半島の租借権をゆずった。日本の強大化は、まもなく日米の間に矛盾を生み出した。ニューヨークの銀行団や鉄道王ハリマンのさしがねで、アメリカの政府は日露の講和前後にかけて南満州鉄道の買収のために、日清両政府に働きかけた。だが日本はアメリカの勢力が朝鮮・満州などに入ることに反対した。1907年以後、度々更新された日露協定は、アメリカを目標とするものであった。20世紀の初めからは植民地の再分割をめぐって、列強の対立はさらに強まり、その結果1914-18年の世界大戦となって爆発した。
ーだが戦争とともに革命の時代もはじまった。帝国主義時代に入ると労働者階級の生活水準に対する資本の攻勢が激しくなり、労資間の対立がますます激化して労働者階級を革命へ導いた。同時に帝国主義の圧迫は、植民地や半植民地の民族解放運動を成長させた。まずアジアで日露戦争や1905年のロシア革命(第一次)の影響を受け、イラン(1906年)、トルコ(1908年)、中国(1911年)に一連の民主的な革命がおこって、外国勢力の支持する専制政治を攻撃した。「アジアのめざめと、ヨーロッパの先進プロレタリアートの権力獲得の開始とは、20世紀の初めにひらかれた全世界史の新しい時期をしるしている」(レーニン「アジアのめざめ」)。
ーこの時代になって中国の半植民地化していく姿は、貿易の面にも深刻に刻まれていた。19世紀の末には、入超額がそれまでの平均入超額の3倍から5倍に達した。綿製品がアヘンにかわって輸入品の首位を占め、石油、砂糖、染料などの日用雑貨がそれについだ。輸出では生糸、綿花、大豆などが主な輸出品となった。農業国であるのに、食糧(米穀)輸入が目立って増えた。中国は完全に外国工業製品の販売市場と原料供給地にかわりつつあった。この傾向は年とともに強まった。
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中国は国家ではない?日本の認識・ひとつになっていく中国:(家永三郎「日本の歴史」)
ー満州事変の前後を通じて日本の指導者の間に、一貫して流れていた中国に対する見方は、中国は「組織なき国家」であり「軍閥混戦の支那」であるというものであった。もっとはっきりいうならば、日本の政治家・軍人・外交官の多くは、中国を国家として認めていなかった。そしてそういう見方は、例えば満州事変の後の国際連盟での論戦でも、日本の代表によって堂々と主張されている。「中国は組織なき国家である。だから日本が実力のない中国政府に代って、社会の秩序を守ってやるのだ」と。
ーもちろんこういう見方は幾つかの理由があった。例えば第1に国民党の南京政府は、1928(昭和3)年から1934(昭和9)年までの6年間に、12回延べ3028日の内戦をしている。そのため軍事費の支出は国家財政の92%に達していた。また第2に、中国の鉄道の90%は外国からの借入金によって建設されている。そのため南京政府鉄道部は、その収益の2分の1を借入金の利子返済に取られていた。こうしたことは一面では確かに、中国が本当の独立国であるかどうかを疑わせるものであったかもしれない。
ーアメリカの優れた新聞記者E・スノウは、満州事変を「鬼ごっこ」と呼び、日本の満州攻撃に対して、中国が統一国家にふさわしい組織的な抗戦をしなかった事実を指しているとみていい。そしてそういう見方の底には、中国人は「チャンコロ」で弱い民族であるという、日本人一般の見方が流れていた。日本人のほとんどは指導者を含めてその中国が15年の戦争に耐えぬき、2回も首都を奪われながら抗戦を続けようとはまったく予想できなかった。
ーしかし1930年代に入ると中国には新しい動きが目立ってきた。その動きはすでに張学良地方政権による満鉄包囲計画に現れた。また1932(昭和7)年の上海事変における兵士・学生・労働者の大抵抗にも現れていた。そして1930年代半ばには、その動きがさらに注目すべきものになっていた。この動きに目をとめた人々は少数ながら日本人の中にもいて、「中国はむかしの中国ではない」という「支那再認識」論が主張されていた。しかしその主張は、日中戦争の大勢を食い止める力にはならなかった。
ー中国における新しい動きとは何か。それは簡単に言うなら、中国を本当の統一国家として、近代国家として作り上げていく動きである。そしてその歴史を解く鍵になるのは貨幣改革と西安事変である。貨幣改革は1935(昭和10)年11月4日から実施された。これまで中国には色々な銀行が入り乱れて、様々な通貨を発行していた。それはちょうど1882(明治15)年の日本銀行設立の前の日本に似ていて、近代国家としては、極めて都合の悪いものであった。そこで国民政府はイギリスの全面的な援助を受けて、大掛かりな通貨の改革を行った。1935年11月から、政府銀行券の発行権を、中央・中国・交通の3大銀行に集中した。
国民革命と日本・満州権益と関東軍:(古屋哲夫「日中戦争」・京都大学教授)
張作霖へ保境安民を期待:
ーロシア革命で日露協約のパートナー・帝政ロシアを失い、ワシントン会議における太平洋方面に関する4カ国条約の成立によって日英同盟を廃棄され孤立した日本は、もはや21ヶ条要求にみられるような、露骨な権益要求をもちだすことは不可能になっていた。そして第一次大戦後には、そうした情勢の変化に対応して、いわゆる中国本部の問題については列国と協調しながら、満蒙問題はこれと切り離して独自の関係を維持しようとする、新たな方式が編み出されてきた。それは中国が軍閥割拠のありさまとなり、満州に張作霖軍閥が形成されてきたという条件を基礎とするものであり、関東軍が独自の政治勢力に成長してくるのも、この新たな方式を基礎としてのことであった。
ー21ヶ条問題が一段落したのち、第一次大戦中の日本の対中国政策は、いわゆる西原借赦によって段祺瑞政権を援助した「援段政策」の名をもって知られているが、段祺瑞政権とは結局のところ地方の軍隊を掌握している督軍らの連合体にほかならず、その強化をはかるためには支柱となる督軍の力を強めねばならなかった。そして援段政策は、その支柱としての張作霖の力を強める結果をもたらしたのであった。第一次大戦のはじまったときまだ奉天の1師長にすぎなかった張作霖は、援段政策のもとで成長し大戦が終結したときには、満州全体の支配者(東3省巡間使)にのしあがっていたのであり、その間に関東軍との関係も急速に強化されてったとみられる。
ーこのように一方で張作霖軍閥の形成を促した大戦中の日本の対日中国政策は、しかし他方では五四運動に代表されるような21ヶ条条約の破棄・山東権益の返還を叫ぶ反日的民族運動を中国民衆のなかに拡めることとなったのであり、中国における大衆運動は常に反日的性格を含むことが予想されるような事態を招いたのであった。しかもそれは民族自決主義の世界的風潮を背景としながら、ロシア革命や朝鮮独立運動と相呼応するような様相を示していた。このような情勢に対して日本政府はシベリア出兵によってロシア革命に対抗し、3・1運動の武力弾圧や間島出兵によるその根拠地の討伐などによって、朝鮮独立運動を消滅させようとしたが、それは満州をロシア・中国本部・朝鮮という3方から睨む拠点とすることを意味した。
ーつまり満州を反革命的・親日的に安定させることによって、日本に向う革命運動・民族運動の波動を断ち切ろうというわけであり、従って張作霖軍閥にそのような役割を期待するものであった。そして1921(大正10)年5月の閣議では張作霖が「東3省の内政及び軍備を整理充実し牢固なる勢力を此の地方に確立する」ことに対しては、列国との協調の範囲内で直接間接の援助を与えるとの方針が決定された。しかし同時にそれは張作霖個人を援助するということではなく、「張と同様の地位に立つ者」を援助することだとの限定がつけられ、また張が「中央政界に野心を遂ぐる」ための行動は援助しないとの方針も示されていた。日本の援助をうけた張作霖が中国中央に進出することは、中国本部に対する列国協調を破棄し、また中央の混乱を満州に持ち込むことになると考えられた。
ーこの中央から離れて満州の支配を安定・確立せよ、という要求はやがて「保境安民」という言葉で表現されるようになるのであるが、それが中国から分離された満州というイメージを生み出すことは必然であった。
満州治安維持要求の展開:
ーしかしこの要求は、張作霖の側からみれば、うけいれがたいものと考えられたはずである。すでにのべたように、彼の支配の基礎となる軍事力は、段祺瑞支援という中央政界とのかかわりによって強化されたのであり、また彼の満州での勢威も、「東3省巡間使」の地位を獲得したような、中央での勢力に支えられたものであった。より直接的な面でいっても、彼の軍隊は、満州だけで養うには過大であり、中央に進出した新たな支配地域を獲得したり、中央政府からの軍事の支給もうけたりすることが必要だったと考えられるのである。従って、張作霖は日本側の説得を無視して、たえず中央進出を試みるのであり、安徽派(段祺瑞・段芝貴・徐樹錚ら)、直隷派(曹錕・呉佩孚ら)などの北方軍閥との間に抗争を繰り返すのであった。
ー孫文らの南方派はまだこれら北方軍閥の抗争に介入するだけの力を持たなかった。そして奉天派と呼ばれた張作霖軍閥は、1920年の安直戦争では直隷派の勝利に加担して中央での発言力を強化したが、次の22年の第1次奉直戦争では、呉佩孚軍に敗北して関外に退き東3省独立を宣言するに至っている。このときは呉佩孚もそれ以上に進撃せずに停戦が成立しているが、しかしこうした事態を前にして、もし戦乱が満州に波及する場合には、どのようにして治安を維持するのか、という問題が日本側現地機関から提起されてくることになった。さきの国際協調を破らない範囲での張作霖援助という閣議決定は、直接には中国に統一政府が成立するまで中国に対する武器輸出を行わないという19年4月の北京での列国外交団決議を尊重し、張作霖に対する軍事援助を行わないことを意味するものであった。
ーそして軍事援助が行われなくてもすむように、張作霖を中央政界に関与させるなというのであった。しかし現実に張作霖の行動を制御することができないとすれば、閣議決定の範囲の援助では援助の意味をなさないのではないかとの判断が生ずるのも当然であった。そして奉天軍敗走の可能性が強く感じられるようになると、武器供与の如き段階をこえて、「自衛」の名目のもとに一挙に日本軍隊の出動によって治安を維持するという構想が生み出されてくるのであった。それに用うべき軍隊は、「関東軍」としてまさに現場に存在していた。このような情勢のもとで1924年2月から「対支政策網領」の作成が、外務・大蔵・陸軍・海軍の4省間で進められたが、この過程で陸軍側は満蒙問題についてとくに積極的な案を提出しており、その結果5月にできあがった成案では陸軍側の主張が大幅に取り入れられ、満蒙については中ソ国交回復に対抗して北満進出をめざすことという新たな目標が立てられるとともに、次のような一項が設けられたことは重要であった。
ーすなわち「満蒙に於ける秩序の維持」は日本の同地域に対する利害関係、「朝鮮の統治上」とくに重要視している問題であり、従って「自衛上必要と認むる場合には機宜の措置」をとる、というのである。いわば中・朝・ソをにらむ戦略基地としてとらえられた「満蒙」の秩序維持は、ついに「自衛」にかかわる問題とされるにいたったのであった。そして第二次世界大戦がおこり、直隷軍が南満州進攻の姿勢を示すと24年10月、日本軍政府は満蒙地方には数十万の日本人が居住し日本の投資も莫大であり、「帝国自身の康寧、懸りて同地方の治安秩序に在する所赤頗る多し」として、日本の権利利益を十分に尊重・保全することを求めた覚書を両軍に交付するにいあったのである。
ーここには「自衛」の言葉は使われていないが、満蒙の治安秩序に「帝国の康寧」がかかわっている、との見解を公式に対外的に発表した重大な覚書であった。そしてこの覚書がはじめての外相に就任して間もないあの幣原喜重郎外相のもとで作成されることは、注目しておいてよいことであろう。「保境安民」的対張作霖政策から満蒙治安維持政策への展開は、まさに第一次大戦後のいわゆる国際協調政策のもとで並行的に進められてきたものであり、それだけ根の深いものといわねばなるまい。
国民党と北伐:
ー中国国民革命は国民党が1924年1月「連ソ容共」の方針を決定し、ソ連との友好的関係に立ち、共産党員の入党を認めるという形での国共合作をすすめて以来、新しい展開を示し始めた。同党は25年7月には広東で国民政府を成立させたが、同時に黄埔軍官学校の設立を軸とする国民革命軍の建設に務め26年7月には、広東から旧軍閥を打倒するための「北伐」戦争を開始することとなった。このとき国民革命軍総司令の地位についたのが、かつて軍官学校校長であった蒋介石であり以後、北伐の進展とともに、彼の名は日本国民の間にもしだいに大きく報ぜられることとなるのであった。
ー北伐は地主・土豪勢力を打倒する闘争と結合して予想外の早さで進展し、10月には武昌、12月には南昌・九江を占領、26年には南京、上海への進撃態勢を整えるに至った。さらに翌27年1月となると北伐軍は漢口・九江のイギリス租界を占領し、翌月にはその返還を認めさせるなど、利権回収・不平等条約廃棄の要求を具体化する方向を明らかにした。そしてそれにつづいて27年3月、北伐軍の南京占領に際して、領事館襲撃事件がおこると日本国内には国民革命を警戒し、あるいは敵視する見方がしだいに拡がってくるのであった。
ーこれまでの軍閥抗争とちがって国民革命は、土地改革などの社会変革により大衆の組織化を進めながら同時にその上に立って、利権回収などの民族主義的要求を実現しようとする新しい勢力でありしかも、それが軍事力をもって押しよせてくるとなると日本の権益はどうなるのか、という不安が日本の政治を動かし始めたのであった。すでにさきに述べた郭松齢事件に際しても、関東軍には郭を国民革命に通ずるものとして排除しようとする空気が濃厚であったが、そうした国民革命に対して何らかの積極的な対策を打出すべきだとする要求は南京事件の翌月、27年4月の若槻礼次郎内閣から田中義一内閣への政変をうながす1国にまで膨張してきたのであった.

幣原外交と田中外交:
ー田中義一首相は自ら外相を兼任し、ここから「田中外交」という呼び方が生まれるのであるが、その特徴は組閣翌月の山東出兵によって早くも明らかになった。日本で若槻内閣から田中内閣への政変がおこなわれていたちょうど同じ頃、中国では蒋介石が反共クーデターによって南京政府を樹立し、国民政府は反共の南京政府と、国共合作を維持する武漢政府(首班汪精衛(汪兆銘))とに分裂するという新たな事態がおこっていた。しかし両派は相互に対立しつつ、なお共に北伐を続行するという複雑な事態が生じたのであった。そして南京政府軍が徐州に迫ってくると田中内閣は、山東省に居住する日本人を保護するとの名目で出兵に踏み切ったのであった。
ーそれは当時「現地保護」(日本人が居住している現地まで日本軍を送り込んで保護する」と呼ばれたやり方であり、それまでの幣原外交とちがう田中外交の特色を示すものとしてとられた。つまり直接には幣原喜重郎が外相だったら軍隊を現地送るより、在留日本人の方を安全な場所まで引揚させたにちがいないと考えられたのである。しかし両者の違いはたんに居住民保護の方法というだけの問題ではなく、国民革命全体にどう対応するのかという問題にまで及ぶものであった。すなわち幣原外交の場合には、国民革命によって中国が統一されることは動かし難い勢いであるとみて、むしろその統一の勢いを支持しながらその性格を日本にとって望ましい方向に導くことを主眼として政策が進められていた。
ー具体的には蒋介石の反共政策を支持して国共を分裂させ、国民革命を反共派が主導するものとすれば、そこでは日本の満蒙権益を認めさせることも可能になる、というのが幣原の構想であったように思われるのである。もちろん反共派の共産派に対する勝利は、田中外交にとっても望ましいことにちがいなかった。しかし田中外交の場合にはその反共派が主導権を握ったにしても国民革命軍という軍隊によって、満蒙が外から占領されることを拒否する、という点に政策の最重点をおくものであった。組閣直後のすばやい山東出兵は、このような軍事的発想を物語るものといえよう。
関東軍の満蒙分離論:
ーこのときの山東出兵(第1次)は徐州付近で蒋介石軍の敗北により北伐が中止されたため、9月には撤兵しているが、この出兵の間に田中内閣は朝鮮・中国駐在の外交官・軍人などを召集して東方会議を開き、対中国政策についての意見を求めて新しい政策構想を打出そうとしていた。ここで注目されるのはこの会議を前にして、すでに関東軍司令部が「東3省」(熱河特別区域を含む)に「長官を置き自治を宣布せしむ」との方針を決定していたことである。6月1日付のこの文書をみるとこの自治長官のもとに財政・軍事顧問を置き、新しい鉄道協約を結び土地の開墾、鉱山の採掘、牧畜及び諸工業などを「日支共存共栄を趣旨」として実現してゆく、といった構想が述べられている。
ーそれは満蒙を国民革命から切り離して、日本の特殊利益地域にしてゆくことを企てるものであった。そしてさらに注目すべきことは、これらの要求を中国の中央政府に対してではなく、張作霖に対して要求し張作霖がこれに応じないならば張を倒し、「帝国(日本)の認むる適任者を推挙して東3省長官とし本要求を遂行せしむ」としている点であろう。それは中国中央政府を無視して、満蒙に傀儡政権を立てて切り離してしまおうとするものであり、中国に対して戦争を仕掛けるのと同じ意味を持つものというほかはない。まさに関東軍は、侵略政策の尖兵の地位に立ちあらわれてきたのであった。
田中外相の内外人安住論:
ーこの関東軍の意見書が、東方会議でどのようにとりあげられたかは明らかでないがこの会議の最終日(27年7月7日)に田中外相が示した「対支政策網領」も、満蒙分離を企てている点では関東軍と同様であった。この「網領」は中国本部に対する政策と満蒙に対する政策とを、異なるものとして打出してきた点が特徴であった。すなわち中国本部に対しては、列国と協調して穏健派による統一政府の形成を支援する方向が示されているが、満蒙については同地方を「内外人安住の地たらしむること」が日本の「責務」であり、万一動乱が満蒙に波及する場合には「適当の措置に出づるの覚悟」がなければならないとするものであった。そしてこの「適当の措置」が関東軍による軍事的対応となるであろうことは、すでに郭松齢の前例がある以上、当然に予想されることろであった。
ーさきの関東軍意見書の「日支共存共栄」はここでは「内外人安住の地」におきかえられているが、その力点が「日本人の」繁栄・安住という点におかれていることは明らかであろう。そしてそれは満蒙を「安住の地」たらしめるためには、張作霖打倒も辞さないという方向にも発展しうるものであった。つまりこの「内外人安住」論は、たんなる治安維持をめざしたものではなかった。「対支政策網領」は、8項目から成るものであったが、その第7、とくに「本項は公表せざること」と指定された項目では、「東3省人の政情安定」は「東3省人自身の努力に待つ」のが「最善の方策」であり、日本政府は「満蒙に於ける我特殊地位を尊重し、真面目に同地方の政情安定」に努力する「3省有力者」を支持するとの方針が述べられているのである。この「東3省人による東3省政権」の構想が、要するに中国本部の政治勢力の排除をめざすものであることは、もはや繰り返すまでもないことであろう。
ーそしてこのような関東軍と田中外交を結ぶ「満蒙分離」の方向は、北伐再開とともに、より明白な姿をとってあらわれてくるのであった。
済南事件と膺懲一撃論:
ー徐州での敗戦後、蒋介石は一時下野したがこの間、武漢政府(上海白色テロ後、蒋介石の党籍を剥奪し除名(のちに和解)・スターリンやブハーリンが支持していた)でも国共両党は分裂、分離した共産軍が南昌暴動(コミンテルンの指令・真正面から国民党軍へ「正規戦」・惨敗)をおこして南下すると、武漢と南京との妥協がすすめられ、27年9月には南京に統一した国民政府を設定することが決定された。そして翌28年2月、蒋は再び国民革命軍総司令に復し、共産党との合作の代りに、馮玉祥・閻錫山・李宗仁らの旧軍閥と合作する形で、北伐を再開したのであった。
ーこれに対して田中内閣は、再び出兵措置に踏み切り(第2次山東出兵)、第6師団を青島から済南に進出させた。日本先遣部隊が済南に入ったのは4月26日であったが、5月1日には国民革命も済南に到着、この両軍の接触から5月3日午前9時すぎには小競り合いがはじまり、たちまちのうちに済南城外の商埠地全体にわたる戦闘に発展した。事件の発端についての日中双方の主張はかみ合っていないが以後の、日本側の戦争政策の展開という観点からみると、この衝突そのものよりも日本軍がそれを理由として、本格的な軍事作戦としての済南城攻撃を実施していることをより重視しなくてはならないであろう。
ーすなわち5月3日の衝突に対して、中国側は停戦を命じるとともに軍隊を日本軍から引き離して北上させる措置をとっており、衝突そのものはほぼ3日夜には収捨され、4日中には事態は平静に帰したのであるが、参謀本部は「国軍の威信を顕揚」するため「断乎たる処置」をとる必要があると判断し、現場の第6師団側もこれに呼応して、「支那問題解決に一歩進むる、南方に対し断然たる膺懲の挙に出づる好機なりと信ず」との意見を具申している。つまりこの機会に中国側にこらしめの一撃を加え、日本軍に反抗するような気運をうちくだいておこうというわけであるがしかもこの際、参謀本部はこのような措置は、政策に左右されない「軍の問題」であるとし、現地に対しても「現場に於て軍事的見地の下に軍権の手に於て解決する様」指示したのであった。
ーそしてこのような観点に立って、5月9日から11日にかけての済南城攻撃作戦が改めて実施されたのだった。ここに登場してきた膺懲一撃論と現地解決の思想とはまさに、さきにみた盧溝橋事件における拡大の構造の、先駆をなすものということができる。
ついに、張作霖を殺す:
ーしかし済南攻撃も、北伐の進行をとどめることはできなかった。この時期に国民革命軍に対抗していたのは、張作霖が総司令となり、孫伝芳、張宗昌を副司令とした安国軍であったが、済南事件のころには、その敗勢は動かし難いものとなっており、日本側の関心は、北伐が満蒙に及んだ場合にどう対処するかという点に向けらていった。そしてここでは、すでにその態度を固めていた関東軍が、政策の方向をリードしようとする動きを示しはじめていた。
ー関東軍は、まず4月20日、張作霖の軍隊が満蒙に向けて敗走してくる場合には、関東軍の主力を山海関または錦州付近にまで進出させ、どちらの軍隊の進入をも許さずに武装解除しなければならない、との意見を具申し、さらに済南事件前日の5月2日には、この機会に「張作霖を頭首とせる現東3省政権を排し、帝国の要望に応ずる新政権を擁立し、諸政府をして支那中央政府に対し独立を宣せしむること緊要なり」と主張するに至っている。第一次大戦から張作霖軍閥を育成・支援してきた日本の軍部のなかから、今度はその張作霖を打倒しようとする動きがあらわれてきたのであった。
ーつまり中国の中央政界に乗り出しては敗北を繰り返し、しかもその間に、日本側が満鉄並行線と抗議するような鉄道建設に乗り出したり、日本の利権要求に抵抗するようになってきた張作霖に、もはやこれ以上期待できない、というのが関東軍の言い分であったと思われる。そして関東軍は、この時点で、満州事変を企てたといいかえることもできよう。田中内閣も5月16日には、張作霖と南京政府の双方に対して、満州治安維持のために適当にして有効な措置をとるとの警告を発するとともに、秩序を乱した軍隊が敗走する場合や、戦闘そのものが持ち込まれる場合には、武装解除するとの方針を決めた。関東軍側は政府も自分達の考えに同調していると考え、主力を奉天に集中して出兵体制を整えた。
ーしかしこの時、田中外相は関東軍とちがって、張作霖をまだ利用価値があると考えており、外交ルートを通ずる説得によって、張の軍隊を秩序立った形で満州に撤退させるとともに国民革命軍に満蒙への追撃をあきらめさせようとする方向に動いていた。そしてこの構想の見通しがつくとともに、関東軍への出勤命令は発動されることなく終わることとなった。反面、この間いらだちながら出動命令を待ち続けた関東軍のなかには不満が高まっており、それは高級参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件をひきおこすことになった。すなわち河本は工兵を使って鉄道に爆弾を仕掛け、6月4日日本側の説得に従って、北京から引き揚げてきた張作霖が乗っている列車を爆破して、張を殺害してしまったのであった。

戦艦「大和」と「零戦」・重工業日本の成立:(家永三郎「日本の歴史7巻」)
ー1937(昭和12)年頃、西日本では奇妙な噂話が伝わっていた。それは漁村や網や網に使うシュロ縄(温暖な地に野生するシュロで作った縄)がこの頃、急に足りなくなって困るという話であった。あんなものがなぜなくなったのだろうという疑問が、漁業関係者の口にのぼっていた。テレビの怪獣ドラマになれた現代の子供たちなら、シュロ縄を食べる怪獣がどこかにいるのだと、推理を働かせたかもしれない。その話をしていた漁業関係者がもし1937年以降のある日、九州の西の端の長崎港か瀬戸内海にのぞむ呉港に行ったとしたら、それを見て一目でシュロ縄不足の原因をみつけたであろう。
ーしかし当時の大人たちなら誰でもその発見については口をつぐみ、故郷の海辺の村に帰ってから、そっと村の連中に話したに違いない。「あれじゃあ、シュロ縄がなくなるのもあたりまえだ」と。そしてもし1970年代の子供たちがそれを見たら、もっと素直に「あっ!カーテン怪獣だ」とでも叫んだに違いない。それは本当に、カーテンの縄の連のお化けであった。シュロ縄は空高くぶらさがり、ドックの大クレーンを隠していた。長崎ではそのカーテンの高さは地上70メートルに近く、その頃の東京のデパートの役2倍に近かった。その総延長は2710キロメートル、東京と長崎を往復して、また京都に行くほどあった。
一体何があるのだろう。そこが呉海軍工廠と三菱重工業長崎造船所のドックであることは、皆知っていた。だから何か途方もない巨大な軍艦が製造されているらしいということは、容易に想像できた。しかし山の上から見ている者は、逆に望遠鏡で監視されているという噂が伝わり、みんはは黙った。軍隊の警察である憲兵隊の恐ろしさは、誰もが知っていたからだ。そのシュロ縄のカーテンの陰で造られていたもの、それは日本海軍がアメリカとの戦争を想定してつくりつつあった巨大な戦艦であった。後の「大和」と「武蔵」である。
零戦の誕生・こんな飛行機が設計できるか:
ー同じ頃、つまり1937年の秋、名古屋市南部の伊勢湾岸の埋め立て地にある、三菱重工業名古屋航空機製造所の3階屋上では、東京帝国大学工学部を卒業して10年、いまや働きざかりの青年技師が頭を抱え込んでいた。その技師の名は堀越二郎、彼の頭の中では先日、海軍から来たばかりの「昭和12年試作発令」の「艦上戦闘機計画要求書」の数字が、ぐるぐる回転していたことであろう。その要求データは航空母艦から飛び立つ戦闘機に対して、余りに厳しすぎた。それはその頃、世界の強国が持つどの艦上戦闘機より高い性能を求めるものであった。
ーこのうち、どれかひとつならいい。それを全部みたせというのは、オリンピックの十種競技で5000メートル競走の世界記録を大幅に破り、フェンシングで世界最強となり、その他の種目でもその専門の選手が出した世界記録に近いものを出すという要求に似ていると、堀越技師は思った。しかし軍の要求は絶対だ。日中戦争の初期、日本海軍の爆撃機は九州の基地から飛び立って、東シナ海を越え南京あるいは上海に渡洋爆撃を展開した。この時、甘い予想により戦闘機の守りなしに行ったため、予想以上に優秀な中国空軍の戦闘機に迎え撃たれ、多くの損害を出した。そこで急いで96式戦闘機を参加させ、やっと南京上空を制圧したのであった。
ー戦闘機によって空の主導権を握ることの大切さがはっきりした以上、なんとしてでもこの要求を満たした飛行機は完成させなければならない。ようやく冷え込みが厳しくなった夜道を家に急ぎながら、堀越技師は憂鬱になっていた。こんな飛行機が出来るだろうかー。
「原爆」はなぜ投下されたか・目的をめぐる謎:
ーアメリカは、なぜ日本に原爆を投下したのか。この問いに対して戦争終了後、アメリカが出した回答は、こうである。1946(昭和21)年に、K=T=コムプトン博士は次のような文章を発表した。「私は、原子爆弾の使用がアメリカ人と日本人の数十万、いや、おそらく数百万の生命を救ったという強い信念を持つにいたった。原子爆弾を使用しなかったとすれば、戦争はなお多くの日数を要したことは、疑う余地がないのである」と。そして原爆投下の最終決定者であったトルーマン大統領は、このコムプトンに手紙でその説明が、公平な情勢分析であり、「あなたの論文に示された結論」と「私が到達した結論」とは、本質的に同一であると書き送った。
ーこのアメリカの説明は、次の2点のことを含んでいる。
1、原爆を投下すれば日本は負けるだろう。
2、原爆を投下しなければ日米戦争はさらに続き、数百万の人間が死ぬであろう。
だから、広島、長崎の30万人以上の死者は、その数百万の人間の生命を救った尊い犠牲者である。このアメリカ式説明は、果たして正しいのか。もう少し考えてみたい。このことについてもっと突っ込んだ叙述をしているのは、1947(昭和22)年2月に発表されたH=スチムソン(元在中国米軍総司令官)の文章である。彼はあの8月の日に、アメリカの陸軍長官であった。彼は「日本を打ち破るためのアメリカ軍の7月現在(1945年ー昭和20)の戦略は、原子爆弾の使用を含んでいなかった。当時はまだ、原爆実験がすんでいなかったのである。だから我々の計画は夏から初秋にかけて海上及び空中封鎖の強化と、猛烈な空襲を行った後、11月1日に九州南端の島に上陸する予定であった。そしてこれに続いて、1946年春に本州(九十九里浜か)へ上陸するはずだった。この作戦計画を最後までやることになったとすると大きな戦闘が、1946年後半まで続くと我々は予想していた。
このような作戦はアメリカ軍だけでも、100万人以上の戦死者・戦傷者を出すだろうと私は知らされていた」と書いている。
ーすでにわずか3ヶ月の沖縄の地上戦で、どれほどの死者が出ているかを知っている者にとっては、この説明は強い説得力をもっているようにみえた。しかし、ちょっと待って欲しい。というのは、この説明には1948(昭和23)年にイギリスの物理学者で、ノーベル賞受賞者であるブラケットが明らかにしている2つの重要なことが、故意か偶然か抜け落ちている。それは
1、1945年8月以降(ドイツ敗北の3ヵ月後)にソ連が対日参戦し満州に進入すれば、日本軍は北方から決定的な打撃を受けるだろうということである。
2、もし日本本土への作戦開始が11月ならば、なぜそれまで、「海上及び空中の封鎖の強化と猛烈な空襲」をして、それでもなお日本が降伏せず「100万以上の死傷者」が出る危険を犯さねばならないと判断してから、原爆の投下を決定しなかったのか。
ということである。つまりアメリカ側のいう「数百万の生命」を救うという説は、原爆投下がソ連の対日参戦前で、8月上旬であることの理由を説明していないのである。そうならばアメリカが急いで、8月上旬に原爆投下をしなければならない理由は何なのかということになる。その理由が「数百万の生命」を救うことではないらしいことは、次の「アメリカ戦略爆撃調査団報告」の中にある調査団の到達した意見をみると、ほぼ明らかになる。それは「たとえ原子爆弾が投下されなかったとしても、たとえソ連が参戦しなかったとしても、日本は1945年12月31日以前に必ず降伏したであろう」としている。
ーつまり日本の降伏は、スチムソンのいう「海上及び空中封鎖の強化と猛烈な空襲」のみで可能だったということである。そうなると、話はなおさらおかしくなってくる。この点については、1946年6月に発表されたアメリカの優れたジャーナリストであるN=カズンズと、T=フィンレンターの推定が、重要な点を指摘している。「もし原爆投下の目的が、ソ連の参戦以前に日本を叩き潰すことにあったとすれば、ないしは少なくともその目的が、日本の崩壊前のソ連参戦を名ばかりの参戦にとどめることにあったとすれば・・・」と。私たちはこの点に気付いたとき、今まで見えなかった問題が、暗い闇から光を放ってゆっくりと浮かび上がってくるように思える。
投下の真相・陰惨な背景:
ーつまり1945年8月8日までにソ連が対日戦争を開始し、それによって日本が大打撃を受けるであろうことを、よく知っていたアメリカはなんとしても、それ以前に日本に決定的な打撃を与えアメリカが日本を敗北させたという形を作り上げて置きたかったということである。だから言い換えるならば、原爆は日本を降伏させることより、日本に対する占領権をアメリカが独占しようとするために使用された武器といえるのである。カズンズとフィンレンターの表現によれば「ドイツやイタリアで我々が経験したような、日本占領権をめぐる争い」のために使用されたことになり、ブラッケットはもっと簡単に、こう結論している。
ー「広島と長崎とに、原子爆弾を急いで投下したということは、その政治的目的が全て完全に達せられたという意味では、決定的な成功であった。アメリカの日本管理(日本占領)は完全であり、ソ連との権限争いはまったく存在しなかった」と。このアメリカの政治的判断の決定的な成功によって、人々の判断は狂わされた。例えば対日戦争のベテランであったアメリカ空軍司令官シェンノートのいうような「ソ連の対日戦争参加が戦争終結を進めた決定的要素であり、たとえ原子爆弾が投下されなくても事態は同じであったろう」という意見は、霞んだ少数意見となった。また例えば後に公表された「木戸幸一日記」によると、日本の支配層が受けたショックと動揺の大きさでは、原爆投下よりソ連参戦の方が大きかったという。
ーしかしこの事実も、日本の占領統治をどの国が行うかという歴史の分かれ道に、影響を持つことはできなかった。もう、多くの言葉はいらないだろう。アメリカが原爆を投下した真の理由は、「原爆」をソ連の対日参戦予定日以前に投下すること、それ自体であった。30万をこえる広島・長崎の死者は「数百万の生命」を救うためにではなく、ソ連軍が日本の占領軍として入ってくることに対する、血まみれの「防波堤」であった。

柳条湖事件から15年戦争への責任者たち:
ー15年戦争の発端となった柳条湖事件の責任者は、きわめて明白であって、その謀略の企図と実行に自己の意志に基づいて参加した陸軍将校の全員があげられる。関東軍参謀石原莞爾・同板垣征四郎・同花谷正が企図の中心人物であり、実行に当ったのは張学良軍事顧問今田新太郎・独立守備隊中隊長川島正・同中隊長河本末守らであり、またあらかじめ企図にあずかりただちに朝鮮軍の越境出動をとりはからった朝鮮軍参謀神田正種をも逸すことができない。彼らの行為は、陸軍刑法第35条「司令官外国二対シ故ナク戦闘ヲ開始シタルトキハ死刑二処ス」同第37条「司令官権外ノ事二於テ己ムコトヲ得ザル理由ナクシテ壇二軍隊ヲ進退シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ7年以上ノ禁錮二処ス」という罰条に該当するところの、国内法に照らしても疑いを容れる余地のない犯罪行為であった。
ー彼らの謀略が成功して満州占領から傀儡政権「満州国」を造り出したにとどまらず、熱河省・東部内蒙古・冀東地区へとつぎつぎに侵略の手をのばし、ついに盧溝橋事件をきっかけとして中国との全面戦争にまでエスカレートしたのであるから、それ以後15年にわたる戦争の根源は偏に彼らの謀略に起因するものというほかなく、その責任はもっとも重いとしなければならないであろう。ただし柳条湖事件の時点では、謀略不法開戦の犯罪人たちを支援する中央の同志がいたとしても、関東軍司令官本庄繁は事前に謀略を知らされていなかったし、中央でも不拡大方針が一応とられていたのであるから、もし内閣・参謀本部があくまで関東軍の暴走を阻止する決意をもって断固たる態度を貫いたならば、満州の半永久的占領までいたらずにすませる可能性もあったはずである。
ーしたがって、当初は不拡大方針をとりながらもその貫徹を放棄した中央最高首脳部の責任は、謀略犯罪人たちの責任とやや別の意味ではあるが、きわめて重いといわなければならぬ。ことに、謀略を拡大させるに与って大きな力となった朝鮮軍司令官林銃十郎が、関東軍の増援依頼に応じ独断で朝鮮軍所属部隊を満州に越境出動させた壇権の措置について、参謀総長さえ侍従武官長に対し「自ら朝鮮軍司令官の独断出兵は妥当を欠く嫌ありとの所見を述べたる所、武官長見る所を1にするの意を表明」した事実によってうかがわれるとおり、中央の陸軍首脳部等も決して林を全面的に支持していたのではなく、「政府は朝鮮軍司令官の独断処置を大権干犯と見做し民政党之を以て反陸軍の用に供すべく準備中なりとの情報ありしを以て、明日(9月22日)の閣議に関する悲観的判断濃厚なりしが故に、結局(陸軍)大臣、(参謀)総長の辞職問題をも討究するの必要を生じ、悲壮なる決意の下に各種の準備を行へり」という状況であったのに、内閣総理大臣若槻礼次郎は、閣議に先だつ陸軍省軍務局長との面会の席上「朝鮮軍の事に関し、既に出動せる以上致し方なきにあらずやとの意を洩」し、閣議においても、「朝鮮軍の出動に関しては、閣議の全員不賛成を唱ふるものな」く、
「1、既に出動せるものなるを以て閣僚全員事実を認む。2、右事実を認めたる以上、之に要する経費を支出す、を議決し」、首相から上奏することになったという。若槻内閣は、護憲3派内閣以来形成された「憲政の常道」により衆議院に基礎をもつ政党内閣であって、外務大臣幣原喜重郎は、「幣原外交」として名高い、非武力平和外交の推進者であった。






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