日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

《貧困なるザ「我が国」精神》泡沫世代데카당스(Décadence)퇴폐파(頹廢派)Генерация пузыря버블 세대『短編ルポ集』Satoshi Kamata鎌田 慧/Katsuichi Honda本多 勝一⑦

①Deutschドイツ語→Der Flughafen Tokio-Narita (jap. 成田国際空港 Narita Kokusai Kūkō, dt. „Internationaler Flughafen Narita“; offiziell Narita International Airport, ehemals New Tokyo International Airport; IATA Flughafen-Code: NRT, ICAO Flughafen-Code: RJAA) ist einer der internationalen Flughäfen von Tokio②Українськаウクライナ語→Нарі́та (яп. 成田市, なりたし, МФА: [naɾʲita ɕi̥]) — місто в Японії, в префектурі Тіба.
                  居直り強盗のリクツ         鎌田慧
わたしは「成田空港」反対派のひとりである。何故か、といえば、政府のやり方に反対だからである。
そもそも、「成田」への位置決定は、まったくいいかげんなものだった。それまでは隣の「富里」地区が予定されていたのだが、農地を奪われる、との農民たちの激しい反対運動に遭って、急遽、成田(三里塚・芝山地区)に変えられた。これは「緊急着陸」といわれ、当時から「ボタンのかけ違い」と指摘されてきた。この「ボタンのかけ違い」は、開港時の福永運輸大臣でさえ認めたものだった。
①Русскийロシア語⇒Томисато (яп. 富里市 Томисато-си) — город в Японии, находящийся в префектуре Тиба
②Kenji Fukunaga (福永 健司, Fukunaga Kenji(滋賀県出身), 5 August 1910 – 31 May 1988) was a Japanese politician who was Chief Cabinet Secretary on four separate occasions, and, as well as serving in various other cabinet positions, was also appointed as Speaker of the House of Representatives of Japan.

富里で拒否された政府は、とにかく「成田」でがんばることにした。一種のメンツである。このころすでに、羽田沖の拡張をすれば解決する見通しもあったのだが、空港建設は土建屋の工事費をふやし、関連産業におこぼれを多くする。当然、自民党の政治家たちにとっての利権の源となる。どうぜ、国のカネを使うだけのことだからである。
こうして、成田に空港が押しつけられた。寝耳に水の決定だった。1966年の年末のことである。もちろん、三里塚、芝山の農民たちも、富里の農民たちが反対したように激しい憤りとともに反対した。長いあいだ苦しんできた開拓も、ちょうど軌道に乗りはじめていた。誰がどんな権利があって、畑を踏みにじることができるのか。
三里塚、芝山の農民たちの抵抗は、国の強権にたいする異議申し立てだった。一言の挨拶もなく、いきなり「出ていけ」というのにカチンときたのである。「民主主義の世の中にそんなことは許されない」。それが自民党支持者がほとんどを占めていた農民たちの反発のはじまりだった。
わたしが三里塚の農民たちの抵抗を支持するのは、そのことによっている。つまり、国家の理不尽な暴力に抵抗するのは、人間としての義務であり、民主主義はそれを保証することである。
それから22年たった。「開港」してからでさえ、10年である。それでも、まだしぶとく反対闘争はつづいている。政府のやり方は反省されることなく、相変わらず武装した機動隊を盾にしたままである。
わたしは「成田空港」反対派のひとりである。あまり大きな声ではいえなのだが、それでもナリタをなんどか使っている。反対でも空港を使う、というのは矛盾である。しかし、使ったから反対する権利はない、という理屈には、断固喰いつくつもりである。その理由に負けて、反対運動から遠ざかっていくひとがいる。そうならないためにも、利用しかつ反対する論理を固めなければならない。
それでも、はじめの海外旅行は大阪空港を使った。そのつぎは、羽田から中華航空で東南アジアに出た。団体旅行のときには、ひとりだけ大阪や羽田から飛びたつのは難しい。団体なのに別行動、という変則的なものになるからである。
最初に成田空港にいったときは、さすがに気がとがめてちいさくなっていた。運動以外で成田に行くなど考えたこともなかったからである。いまでもおなじ気持で慣れることはない。誰かに会わなければいいが、と顔を伏せて歩く。離陸するときなどは、顔見知りの農民の頭を踏みつけていくみたいで、こころ穏やかでない。
二年ほど前、中国に出発するとき、空港ちかくのホテルに泊った。早朝の出発で自宅からでは間に合わないからである。ところが、その便は欠航となった。一日一便だから、次の日の朝まで待たなくてはならない。というわけで、ナリタに二泊することになった。このときは、どこにもでず丸一日、ホテルで寝ていた。精神衛生上、これは最悪だった。
かつて、フェンスのむこう側の田園地帯をわたしは駆けまわり、ホテルにちかい労働合宿所で何日も暮らしていた。それがいまや人目に触れないために狭い個室に潜んでいる。あたかも囚人のように。なんとバカらしいことであろうか。
都心から66キロもあって不便だ。横風用滑走路もなくて危ない。民家がちかく騒音が激しい、など「欠陥空港」を訴えて開港前、空港反対運動を全面化しようと数十万部の新聞やビラを発行していた。
それらの問題点は開港してもなんら解決されず、矛盾はますます深まり、いつ事故が発生してもおかしくない状況になっている。
朝早く家を出ても、早朝便に間に合わず、ホテルに一泊するなどは、利権のツケが利用者にまわされていることを示している。まして、足止めされて二日も泊らなければならない国際空港なんて言語道断である。
さらに、利用者は税金を払っているのに、ひとり2000円もの「空港使用料」<注>を払わされる。無計画で高い空港をつくったからである。運賃以外に世界一バカ高い使用料をとって、公団はズサンさが生んだ赤字を埋め合わせしている。
いままた政府は「第二期工事」を急いでいる。第二滑走路がないから危険だ、と宣伝している。他人の家に勝手にはいりこんできて、「ドス」(強制収用)をふりまわし、反対を押し切って開港しておいて、こんどは「第二期工事」の予定地にいる農民が反対しているから、空港が危ないなどといいだすのは、「居直り強盗」のリクツである。開港するときも、政府はやはりおなじ論理を使っていた。羽田が過密で、パンク寸前、いつ事故が発生するかわからない。だからナリタが必要だ、といっていたのだった。
これらは、いまや予定地に住み、農業をつづけている八戸、21・4ヘクタールを押しつぶそう、という情報操作である。勝手に空港をつくって、こんどはお前らは邪魔だ、出ていかなければ強制収用だ、というのだが、これは暴力団を派遣してまで、欲しい用地を取ろうという地上げ屋とおなじ行動である。
政府がこれまでやってきたのは、説得ではなく、逮捕と暴力だった。いうことをきかない奴には、ガス弾を打ちこみ、逮捕する。マルコスや全斗煥がやったことが、三里塚では公然とやられていた。それはいまもつづいているし、これからもつづけられようとしている。
①Tagalogタガログ語→Si Ferdinand Emmanuel Edralin Marcosフェルディナンド・エドラリン・マルコス (11 Setyembre 1917 – 28 Setyembre 1989)Фердина́нд Ма́ркос ay isang politiko, abogado, diktador, at magnanakaw na naging ika-10 Pangulo ng Republika ng Pilipinas mula 30 Disyembre 1965 – 25 Pebrero 1986②全 斗煥(チョン・ドゥファンChun Doo-hwan、朝: 전두환、日本語読み: ぜん とかん、1931年3月6日(陰暦1月18日) - 2021年11月23日)Чон Ду Хванは、韓国の軍人、政治家。
ガス弾の直撃で青年が殺されても、政府の責任が追及されたことはない。日本の強権はなんとうまく国民をだましていることであろう。そして日本人はなんとだまされるフリをするのがうまいのであろう。それでも、ほかの国のひとたちよりも、自分のほうが上等にできていると思いこんでいるんだから、度しがたい。(88年8月)
<注>①成田空港では、空港をご利用になるお客様から旅客サービス施設使用料(PSFC)と旅客保安サービス料(PSSC)をいただいておりますAt Narita Airport, passenger service facility usage fees (PSFC) and passenger security service fees (PSSC) are charged by passengers using the airport.大人 (満12才以上)Adult (12 years old and over)2,660円小人 (満2才以上)Dwarf (2 years old and over)1,600円②これに関しては、かつてザ「我が国」(主にカナダ在住)Big Man Japan大日本人Der Große Japanerたち(大抵『El emperador y el general日本のいちばん長い日El día más largo de Japón』『영원의 제로永遠の0The Eternal Zero 』といった映画群に心躍らせ(家に帰れば有料『NHK Cosmomedia AmericaテレビジャパンTV Japan』ばっかり見ている)『ゴーマニズム宣言Gōmanism Manifesto』『醜い韓国人Ugly Koreans』『坂の上の雲Тучи над холмами』愛読、同調者「未来志向Tourné vers le futur」に不満をもらせば(他多くのことと同じく)「聞く人をまちがえたよ(ドラマ『電車男』)」「葵の御門」(「無礼者!ええ~い、控えい!」)よろしく「そう’決まっている’んだから」(内実、経緯と矛盾なぞ無関係)と冷やかに一蹴されるのが常だった。「国際化」どころか意外に「翼賛」「迎合一本槍」「’おかみ’(わし?)を恐れよ!」「保守的」「偏狭・排他」「プチ・ナショナリズム(強い日本)」「日本人なんだから日本が大好きだ」「異をたてると損をする(「日本人めだか社会論」本多勝一氏)」「事なかれ主義」「ほれ、世間には’長いものに巻かれろ’という言葉もあるではないか(と豊臣秀吉が真田昌幸にいったそうな)」(故司馬史観氏(「国民(歴史)小説家」元『産経新聞』記者)『城塞』(新潮文庫)中巻)「へへ、’出る杭は打たれる’っちゅうやっちゃ(「ローンズ・エバラ」社長)」(マンガ『代紋TAKE2』第六巻)「既成事実への屈服(「無責任体系」故丸山眞男氏)「(特に’よそ(外)’には)’一致団結’するの好きだからね(「安楽への全体主義」故藤田省三氏)「’島国根性’をそのまま持参」(むしろ’悪(退)化’している場合も多い)お決まりの「英語’ペラペラ’」二言目には「’英語’環境(通常は’日本語’?→「カナダ」なのに?)’英語’(「世界語」?)上達」?⇔(その癖ちっとも勉強せず(ニュースも見れなければ(滞在’何十年’?(’語学’以前に(’横文字’(ラテン・アルファベット)言語なら全部’英語’にしか見えない?)’発想’自体が貧困。幼稚で歪んでいる)年数は無関係です)新聞・書籍・雑誌等を読むなど論外)ろくにできない)「金太郎飴」式?傾向が少なくない苦笑(あまり’私的’「脱線」は慎むようにしていますが参考までに)2022/06/12 Canada Sammy

①Jul 13, 2021 —「日本人は自分を騙す天才The Japanese are geniuses who deceive themselves」とはかつての駐日大使だったグルーの弁。その思考はwishful thinkingであり、自分の非を認めず、極度の視野狭窄。加害者が被害者ヅラをし責任転嫁は当り前is Grew's speech, a former ambassador to Japan. His thinking is wishful thinking, not admitting his fault, and extreme tunnel vision. It is natural for the perpetrator to wig the victim and pass on the responsibility②Русскийロシア語⇒Джозеф Кларк Грю ジョセフ・クラーク・グルー(англ. Joseph Clark Grew; 27 мая 1880 — 25 мая 1965) — американский дипломат③Jun 4, 2020 — 「国民の民度のレベルが違うからBecause the level of people's degree is different」「コロナ死者が少ない日本は民度が高いJapan with few corona deaths has a high degree of people」日本は「民度」が高いから新型コロナの死者が少ない、他国は民度が低いから死者が多いJapan has a high "people's degree" so there are few deaths in the new Corona, and other countries have a low people's degree therefore, more deaths(Таро Асо麻生太郎아소 다로Tarō Asō自由民主党副総裁Liberal Democratic Party Vice President)④May 17, 2021 —【強面?お茶目?かっこいい?Strong face? mischievous? cool? 】何故か人気爆発の麻生太郎氏まとめSummary of Mr. Taro Aso of popularity explosion for some reason

↑①Mar 27, 2018 —「ゴーマンかましてよかですか?Darf ich arrogant(goman) sprechen?」23年ぶり『週刊SPA!』に『ゴーマニズム宣言』の連載が復活!Zum ersten Mal seit 23 Jahren [Wöchentliches SPA! ], Die Fortsetzung von "Gomanism Declaration" ist zurück!≪国民(時事評論)マンガNational (Kommentar zum Zeitgeschehen) Manga≫②Aug 30, 2017 —Japans stellvertretender Premierminister muss sich entschuldigen, nachdem er gesagt hat, Adolf Hitler habe „richtige Motive“/Japan's Deputy PM forced to apologise after saying Adolf Hitler had 'right motives'③~♪Die Fahne hoch!旗を高く掲げよ!Schon (Bald) flattern Hitlerfahnen über allen Straßen (über Barrikaden)既に(間もなく)ヒトラーの旗が全ての道(全てのバリケード)の上にはためくDie Knechtschaft dauert Nur noch kurze Zeit!奴隷状態が続くのも、後もう少しだ! ~Vorwärts! Vorwärts!進め!進め!Unsere Fahne flattert uns voran旗は僕等の先頭に翻るWir marschieren für HitlerヒトラーのためDurch Nacht und durch Not闇夜も苦難も乗り越えて~♪  2022/06/12 Dimanche/Sunday קנדה加拿大Дракон怒羅権Oсама             
①「国際的とは決して外国語をうまく話したり、外国の習慣を身につけたりすることではない。それはむしろ国際性というよりも植民地性に近いことがある。国際性とは、基本的には異民族や異文化に対する理解があることであるBeing international does not mean speaking a foreign language well or adopting foreign customs. It is rather closer to colonialism than to internationalism. Internationality basically means having an understanding of different ethnic groups and different cultures」②「侵略とか差別思想は、世界で自分たちだけが高級あるいは優秀だとする選民意識から始まる。ナチ・ドイツはまさにそうだったが、日本の戦時中の教育もそうだった。私自身、小学校ではそのような教育を受けた。これはそれぞれの民族が民族的誇りを持つこととはまったく異なるAggressive and discriminatory thoughts begin with the consciousness of the chosen people, who think that they are the only ones in the world who are high class or excellent. Nazi Germany did just that, but so did Japan's wartime education. I myself received such an education in elementary school. This is completely different from each ethnicity having ethnic pride」③「世界の主な国で、日本ほど異民族と接する機会の少ない国は珍しいと思う。ヨーロッパやアジア諸国はもちろん、アメリカは一つの国内に多数の異民族が混じっている。日本にもアイヌ民族のような先住民族がいるし、また在日韓国人・朝鮮人といったかなりの人口の異民族もある。しかしながらその割合は少なく、しかもそれらの異民族は差別されてきたために、一般の日本人には「見えても見えない」存在とされているAmong the major countries in the world, I think it is rare to find a country that has as few opportunities to come into contact with people of different races as Japan does. Not to mention European and Asian countries, America has a large number of different ethnic groups in one country. Japan also has indigenous peoples like the Ainu, and there are also a large population of different ethnic groups such as Koreans living in Japan. However, the percentage is small, and because they have been discriminated against, they are considered to be invisible to ordinary Japanese people④「このような非国際性が、第二次大戦後の同じ敗戦国だったドイツやイタリアと日本との違いにも現れてくる。戦争犯罪や侵略について西ドイツも東ドイツも教科書にはっきり記述し、再び同じ過ちを犯すことを教育によって防ごうとしている。これこそが国際性の教育なのであるThis kind of non-internationality also appears in the difference between Japan and Germany and Italy, which were the same defeated countries after World War II. Both West and East Germany clearly describe war crimes and aggression in their textbooks and try to prevent them from making the same mistakes again through education. This is what international education is all about(本多勝一Katsuichi Honda「『学者』について学者たちに問うAsk scholars about "scholars"」 『潮Ushio』1987年9月号~11月号)。

Françaisフランス語→La langue officielle du Japon est de facto le japonais. La société japonaise est linguistiquement très uniforme avec 98,2 % de la population ayant le japonais pour langue maternelle. Les 1,8 % restants étant constitués principalement de populations d’immigrants venus de Corée (700 000 personnes) et de Chine (350 000 personnes), ainsi que de Vietnamiens, de Brésiliens, d’Américains (80 000 personnes), d’Européens (40 000 personnes). Il existe quelques variations dialectales sur les îles Ryūkyū, appelées langues ryūkyū, la plus connue étant l’okinawaïen. L’aïnou de Hokkaidō est toujours parlé à l’intérieur de la communauté du peuple autochtone mais reste néanmoins en voie de disparition (quelque 300 locuteurs).

                                                 何をもって「国語の乱れ」とするのか       本多勝一
9月27日に発表された日本語に関する世論調査(総理府)は、さまざまな基本的問題をはらんでいる。しかもこれは「昨年9月に発足した第19期国語審議会の審議資料とするため」(『毎日新聞』9月28日)の世論調査だというのだから、日本語についての政策にかかわり、私たちの文化としての言葉にいやでも影響する問題たらざるをえない。
*총리부(일본어: 総理府)Prime Minister's Office는 일본의 내각총리대신 스스로가 분담하면서 관리하는 사무를 담당하는 일본의 행정기관이었다.대일본제국 헌법 아래에서는 내각소속부국(部局)이라고 불렸으며, 과도기에는 총리청(일본어: 総理庁)이 되었다. 1949년에 총리부라는 이름으로 신설되었다. 
たとえば現在の日本語が「乱れている」と考える人は約75%にも達するという(同紙)。私もまた「乱れている」とは思うものの、その内実が75%の人々とどの程度一致するかは極めて疑問である。内実については回答(複数回答)の多い順に並べると(四捨五入)、①話し方(72%)②敬語のつかい方(67%)③あいさつの言葉(52%)の三者が各50%以上で圧倒的に多い。
しかし私にとってはこれら三者は「日本語の乱れ」と言えるほどのものではない。つまりこれらは「躾けの問題」に属することであって、言語文化の問題と基本的に別次元である。言語文化にかかわるものとしては、せいぜい④新語・流行語・外国語のつかい方(8%)くらいではなかろうか。これには設問の仕方そのものにも問題があるだろう。
最大の「問題」は、「乱れとは何か」である。たとえば⑤発音やアクセント(17%)という項目があるが、アクセントが違うことを「乱れ」という場合、具体的にはどういうことなのか。
私の郷里・伊那谷(Shinshu信州Nagano)では、雲をク、蜘蛛をモ(太字にアクセント)と言う。しかし東京弁はどちらもモと言い。両者を区別しない。べつにおくに自慢というわけではないが、区別するほうが論理的であり、したがってわかりやすい。(ついでながら「論理的」ということは「わかりやすい」こととほとんど同義語に近いほど、わかりやすいための必須条件なのだが、案外これが認識されていない。)しかしどちらが「正しい」かは、言語文化としては別の問題にもならず、したがってどちらにしても「乱れている」ことにはならぬ。
ところが、もしどちらかを一方的に「標準語」にして、その方が「正しい」とする「国語政策」を定めたとすると、他方は「正しくない」ことになり、したがって「乱れて」いることになる。この場合「もし」ではなくて、実際に東京弁を一方的に「正しい」としたために、伊那弁としての論理的な「ク」は「乱れている」ことになってしまうのだ。何という一方的な差別、言語ファシズムであろうか。
実は「乱れている」とする人々の内実には、この種のものが圧倒的に多いのである。だからこそ日本語を「美しく豊かにするための心がけ」(複数回答)という設問に対して「相手や場面にふさわしい言葉づかいを身につける」という回答(57%)が最も多いことにもなるのであろう。「相手にふさわしい」とはどういうことか。これが「年寄りに敬意を表する」といった程度ならともかく、たとえば第一人称の呼び方となると、「俺」という言葉は「失礼」だろうか。これも伊那弁であれば男は「俺」以外に何もないので、いわゆる目上であろうが目下であろうが、すべて俺だけである。(女はすべて「わし」だけである。=注1)これが東北地方Регіон Тохокуともなれば男女をとわずオレだけになるから、もっと無差別であろう。その意味では、これはフランス語のjeやドイツ語のIchやエスペラント語のmiや中国語のやイニュイ(エスキモー)語のuwanga等と同じく階級・全階層に公平である。だから「俺」だけで育った私は、あの「僕」「ボク」という言葉が実に卑屈で下品でいやらしくきこえるので、どうしても口にできない<注2>。しかしオレと言うと、私たち伊那谷の言語文化では全く公平な「美しい日本語」であるにもかかわらず、東京弁だと「乱れている」か、少なくとも生意気ととられるのだ。(本当は文章でも俺と書きたいが、そこまでは自己主張しないでがまんしている。実は自己主張ではなく、単に自分の言語文化に正直なだけなのだが。)
したがって日本語を「美しく」などと設問しても、実態は日本の主流たる東京弁や関西弁を基準とするモノサシで考えているにすぎないことが、圧倒的に多いのではなかろうか。さらに「豊かにする」となると、総理府や文部省はむしろ逆のことを考えている可能性がある。つまり信州であれ東北地方であれ長州Chōshūであれ飛騨Хидаであれ、全く言うまでもないことながら、そこで話されてきた言葉はすべて日本語だ。これらの中には、東京弁や関西弁ではどうしても言いあらわせない微妙な言葉がたくさんある。全日本のこのような日本語(地域語とか生活語とか言えようが、方言とは呼びたくない=注3)をすべてとり入れたら、日本語は今よりはるかに豊かになるであろう。ところが「乱れている」と主張する人々の内実はこれとは逆に、こうした豊かな日本語を排除して、せまい東京弁などをもって「正しい」とし、あとは「乱れた」言葉の範疇に含めているのではなかろうか。文部省も総理府も、こうした差別的で帝国主義的な日本語観をもって、この種の世論調査の設問をつくっている恐れはないだろうか。意図的ではないにしても無意識あるいは無知なままに。
このことは、同じ世論調査を報じた同日の『朝日新聞』をみても、政府や「識者」にそんな意識などないらしいことがわかる。すなわち、「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」といった「ら抜き言葉」で話したり書いたりすることについて、文化庁国語課は「従来は文法上誤った用法とされてきた」(同紙)と言っている。つまり「ら抜き」が「乱れた言葉」なのだ。
嘆息とともに怒りさえ覚えるこの感覚。そもそも「ら抜き」とは何だ。私(いや俺)に言わせれば「見れる」こそ正しいのであって、「見られる」などは「ら入り言葉」として乱れた欠陥品である。なぜか。
再びわが伊那弁の日本語で説明しよう。「見られる」と「見れる」は全く別の言葉であって、モとクが異なるように両者は厳密に区別されている。つまり「見られる」は受け身であって可能の意味はなく、「見れる」は可能だけであって受け身の意味はない。ところが東京弁<注4>の「見られる」は、受け身と可能の双方を意味するから区別がつかず、それだけあいまいであり、区別のためには前後の文脈で考えるほかはない。「ボクは見られる」だけで、可能か受け身かを区別することはできないのだ。しかし伊那弁だと「オレは見られる」とすれば受け身だけ。「オレは見れる」なら可能だけを意味する。なんと論理的日本語ではなかろうか<注5>。いったいどちらが「乱れて」いるのか。
この「論理的日本語」は、伊那弁だけでは決してない。この「ら抜き」が「気にならない人」に地域差があって、「Хоккайдо北海道chemin de la Mer du NordХокурику (регион)北陸地方Region Nordlandで70%を越えたのに対し、関東地方では50%を切る」(同紙)のである。当たり前だ。「ら入り」の方が「乱れて」いて気になる地域では「ら抜き」が正しいのだから。俺なんかも可能のとき「見られる」などと言ったクツバッコイ(こそばゆい・くすぐったい)感じがして恥ずかしいくらいだ。文化庁や総理府はこんな背景についてさえ無知なのだろうか。この記事にもこうした背景の反映はなく、談話としては「文部省の国語審議会委員で歌人」の次のような言葉がある。
「ら抜き言葉が気にならない人が、これほど多いとは思わなかった。(中略)文法があって日本語が作られたのではなく、日本語を観察して作ったのが文法であり、変わっていくのは自然の流れです。」
このような論評では、一方的かつ差別的な「正しい文法」が強引に決められていて、それが変化してゆくという中央集権的・帝国主義的価値観の裏返しにすぎず、「ら抜き」など一地域語にすぎぬという相対的認識が全く欠如している。
こういう人々が国語審議会委員として政策決定にかかわるのだから、日本語を真の意味で「豊かにする」ことなど、当分はおぼつかないと覚悟をきめなければなるまい。その「当分」の間に、豊かな地域語・生活語はお年寄りの減少に比例してどんどんほろぼされてゆく。
日本語を「乱れている」とみる人々のかなり多くが、単に言語帝国主義的「標準語」価値観に犯された結果にすぎないことをご理解していただけただろうか。この価値観をもっと極端にした場合を考えると、これはわかりやすいだろう。
現在の世界における言語帝国主義的役割は、おそらくイギリス語が最もはたしている(とっても、この一地域語が通ずる世界は多くの日本人が想像するほど広くはない)が、これをもし「世界語」といった誤った価値観によって強引に「標準語」に定めたらどうなるか。まずこの一民族語たるイギリス語(より正確にはイングランド語)で育った人々は、何の苦労もなく母語<注6>がそのまま世界共通語としての「標準語」になって実にラクチンだ。ところがそんな言語環境にない圧倒的多数の人々はこれを苦労して学習しなければならず、そのために生涯の限られた時間のかなりのパーセントを費し、しかも他民族語の学習能力には(何の分野もそうだが)個人差があるため得意・不得意の差ができ、しかもこれ(イングランド語)が母語(日本人なら多くは日本語)よりも”高級”だといった誤った価値観にとらわれているために、そんな”世界語”を話せる者がエライと思いこまされ、普及するにつれて母語が軽蔑され、ついには「日本語など乱れた言葉だ」という”常識”がまかりとおることになる。このような巨大な不公平、言語文化破壊をもたらす民族的不幸を防止するところにこそ、エスペラント運動のような中立的国際語の意味があるのだが、こうした真の国際語に対する認識はまだあまりにも低い。

①Esperantoエスペラント語→La Esperanto-movadoエスペラント運動Esperanto-BewegungMouvement espéranto phone estas socia movado por disvastigi Esperanton en la tuta mondo. La tradicia celo estas la fina venko, do la stato, ke la plimulto de la homoj (aŭ de la edukitaj homoj, de la legipovuloj) parolu Esperanton kiel sian duan lingvon por povi interkompreniĝi kun ĉiu alia. Ĉar la Esperanta lingvokomunumo ne povas kalkuli je laŭgeneracia transdono garantianta ĝian daŭron, la Esperanto-movado aperas kiel provo stabiligi tiun komunumon varbante por la lingvo kaj instigante okupiĝadi pri ĝi②エスペラント (Esperanto) Эсперанто에스페란토Есперантоとは、ルドヴィコ・ザメンホフとその弟子(協力者)が考案・整備した人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、国際補助語としてはもっとも世界的に認知され、普及の成果を収めた言語となっている。
「極端にした場合」とさきに述べて右のような例を出したのだが、実はこのような現象は空想次元のものでは全くない。たとえばフィリピンの「上流階級」や「中流意識」層では、すでに他民族のイギリス語が日常的に使われ、母語たるタガログ語は「下賤な言葉」「下層階級の言葉」とされている<注7>。ひとつの言語がほろびるのに100年とかからぬ例はいくらでもあった。日本語がタガログ語のように「下賤」で「乱れた」言語にされれば、滅びる一歩手前であろう。

*タガログ語(タガログごТагальский языкTagalog [tɐˈɡaːloɡ])타갈로그어(Wikang Tagalog)Тагальська моваは、フィリピンの言語の一つ。タガル語とも言う。フィリピンのうち首都マニラを含むルソン島南部を中心に用いられている言語で、英語とともにフィリピンの公用語として採用されている。オーストロネシア語族に属する。
ところが、まさに日本語を「それ自体の中に自己を組織する原理をもっている言語ではない」という最大級の軽蔑をもって断じた日本人「哲学者」がいる。言語についてのごく初歩的知識さえ欠いたこの「学者」は、かつてパリ大学で日本語を教えていたという森有正氏である<注8>。およそ「自己を組織する原理」をもたぬ言語など世界に存在しないのだが、この馬鹿馬鹿しい「見識」からすれば、日本語などは「乱れている」どころか「人間の言語じゃない」ことになろう。
①パリ大学(パリだいがく、仏:Université de Paris)は、かつてフランス共和国のパリに存在した公立大学②Françaisフランス語→Mori Arimasa (森 有正(東京都出身), 1911-1976) est un philosophe, écrivain et universitaire japonais francophone, né à Tokyo et mort à Paris, où il a enseigné la langue et la culture japonaises à l'Institut national des langues et civilisations orientales.
似た例をもうひとつあげる。評論家の清水幾太郎氏は、自著『論文の書き方』(岩波新書)のなかで「特殊な語順を初めとする日本語の特色」といった位置づけ、つまり西欧語を「標準」とする価値観によって日本語を特殊化し、「陰気な気分になって」いる。実は日本語と同じ語順など世界にいくらでもあるのだが、これもまた西欧語のモノサシによってそれ以外を「乱れた」言語とする植民地的発想である。日本語を滅ぼすのは、このような誤った価値観によって洗脳されたニセ知識人たちではなかろうか。
*Ikutarō Shimizu (清水 幾太郎, Shimizu Ikutarō(東京都出身), 9 July 1907 – 10 August 1988) was a Japanese sociologist, cultural critic, and prominent public intellectual.
「乱れ」について俺自身も自戒すべき失敗の体験があった。今から12年前になるが、鼻濁音について『朝日新聞』のコラムでとりあげたことがある(1980年4月14日夕刊「不連続線」)。たとえばウグイスの「グ」を、非鼻音の濁音(「学校」のガのような、音声記号の〔g〕にあたる。以下太字で表す)で「ウイス」と発音する例がテレビのアナウンサーにもみられることを嘆き、これは鼻濁音〔u〕によるウグイスが「少なくとも日本語の規範」であって、ウイスは「汚い発音」として退けられてきたはず」と書いてしまったのだ!
たちまちにして相反する二つの投書をいただいた。まず賛意のそれで驚いたことに、鼻濁音〔u〕を「美しい発音」として日本語の規範とし、そのため非鼻音〔g〕を排していく運動体があることを知った。会報のようなパンフレットを発行している。もちろんこの会にとってはウイスは「乱れた」発音である。
では批判の投書はどうか。これは非鼻音を常とする地域(西日本に多い)出身の人からの手紙だが、「ウグイス」(鼻濁音)などという発音をきくと、まるでバイドクにかかって鼻が腐り落ちそうな末期患者を連想するという。つまりこの地域の感覚ではウグイスこそ美しい日本語であって、ウイスは汚くて「乱れた」日本語なのだ。
なるほど、発音においても(当然ながら)言語帝国主義的な誤った「標準語」価値観があり、俺自身それに犯されていたのである。このバイドク連想に衝撃をうけた俺は、同じコラムで次のような訂正文を出した(同年12月22日夕刊)。
ーこのコラムに私が書いた、4月14日付「ウグイスとウグイス」で、非鼻音の濁音【g】を「日本語の規範としては汚い発音として退けられてきた」と書きましたが、国の政策としてのこの事実に誤りはないとしても、「汚い」かどうかは趣味・慣習の主観的問題です。これに私自身同調するかのように書いた点は訂正し、「汚い発音として」を削除します。
右にさらにつけ加えるなら、これを「国の政策」とすることが大きな誤りなのだ。たしかに必要悪としての共通語(「標準語」ではない)は、意思疎通の手段として認めざるをえないだろう。それはしかし①必要最小限にとどめるべきであって、たとえば発音(例、鼻濁音)やアクセント(例、モかクか)にまで規範をつくるべきではなく、また②共通語を「高級」だとするような誤った価値観を押しつけてはならない。国語審議会の諸君よ。日本語を破壊しないよう、この二点にもくれぐれ注意されたい。
共通語にまつわる害悪は、しかしながらあまりにもひどかったため、これまでに消されてしまった「豊かな日本語」は死屍累累たるものがある。かつて朝鮮を侵略した日本は、朝鮮語を滅ぼすために「国語政策」として苛酷な言語弾圧を加えた。琉球についても似たようなことがあった。そして日本各地域の豊かな生活語に対しても、本質的には似た政策がとられた。現代においてその弾圧政策にかわるのが、NHKをはじめとするテレビ・ラジオ放送である。これが「豊かな日本語」追放の決定打となった。
あまりにもひどいこの文化破壊マスメディアに対してバランスをとるために、国語審議会やNHKに提言したい。共通語は必要悪であって、高級どころかむしろ軽蔑すべき言葉であることを日常的に教育すること。テレビ・ラジオ番組でもっと地域の生活語を「高級な日本語」としてとりあげ、たとえばニュースでも地方版はすべてその地元の日本語で放送すること。
俺も自分の文章に「豊かな日本語」のひとつたる伊那弁を今後ますますとり入れることにしよう。
総理府による「日本語に関する世論調査」にもどる。「乱れている」と考える75%もの人々の内実は、その圧倒的多数が「日本語の乱れ」というよりも「躾けの乱れ」を言っているにすぎないことを、この項の冒頭で書いた。しかし「私もまた『乱れている』と思うものの、その内実」はそのような躾けの問題とは異なるであろうことにも触れた。では俺の考える「乱れ」とは何か。
世論調査のグラフ(次のページ)の分類でいえば、それはたとえば「新語・流行語」とか「外来語・外国語のつかい方」に属することかもしれないが、より正確には「植民地的発想による日本語破壊」ともいうべき現象である。実例で証明しよう。
新幹線で関西にゆくべく、東京駅ホームの弁当売り場へはいった。和食・洋食いろんな製品が選べるようになっている。選んだものをお盆にのせて会計係に出す。このお盆が入口に重ねてあって、横に「トレーをご利用下さい」と書かれている。
トレー。何だこれは。要するにお盆じゃないか。トレーだなんて、こんな野蛮な新造語は俺の父母にも妹にも通じないだろう。「盆」という正確・的確な日本語を追放して、他民族語(それもカンボジア語やアイヌ語やバスク語ではなくて言語帝国主義のイギリス語)にとりかえてしまった。
①クメールKhmer語(クメールごКхмерский языкភាសាខ្មែរ크메르어Кхмерська моваは、オーストロアジア語族のモン・クメール語派に属する言語②バスクBasque語(バスクごBaskische SpracheeuskaraБаскский языкは、スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。スペインのバスク州全域とナバラ州の一部ではスペイン語とともに公用語とされている。
こういう例が実に多いのだ。的確な日本語があるのに、わざと追放して侵略者の言葉を歓迎する植民地根性・家畜人ヤブー根性・奴隷根性・誇りなき民族。だから俺は植民地言葉を「家畜語」と命名した<注9>。よく俺はいうのだが、敬愛する民族派右翼の諸君よ。諸君と俺は、はたしてどちらが「右」だろうか。民族文化の根幹たる言語の破壊に対して、諸君はなぜもっと怒らぬのか。諸君が右翼なら、俺は超右翼になってしまうではないか。

*Deutschドイツ語→Als politische Rechte右翼(うよく、英:right-wing, rightist, the RightПравые wird ein Teil des politischen Spektrums bezeichnet. Sie geht von einer Ungleichheit der Menschen aus und befürwortet oder akzeptiert daher eine gesellschaftliche HierarchieDroite (politique)우익(右翼) 또는 우파(右派)Праві (політика)
最近の家畜語で著しい例をあげるなら、崩壊した「バブル経済Economic bubble」であろう。バブルとは何だバブルとは。日本語のアブクと比べてみられよ。これは「的確な日本語」どころか、バブルよりもはるかに正確にことの性格を表現している。すでに「アブク銭」という伝統的言葉があるように、単なるアブク(泡=バブル)よりも経済用語としてぴたりであろう。そんないい日本語を追放して家畜語を使うこの家畜人ヤブーども。それに何の思慮もなく追従・追認するだけのマスメディアの記者たち。例外的主流はいるのだろうが、もう救いようのない植民地化の進行である。

単語が家畜化しても、助詞だの語順だのといった日本語の根幹が変らなければ大丈夫という説もあるが、ラジオの歌番組ではすでにフィリピンなみにイギリス語放送を日本人向けにやっている例が出はじめているところをみれば、これも怪しくなってきた。
映画の題名には、イギリス語をそのまま、単語ではなしに「イギリス語の根幹」全部がそのまま使われるようになっている。『イヤー・オブ・ザ・ドラゴンYear of the Dragon』だとか『アンダー・ファイアUnder Fire』だとか、ごく最近の例に『ダンス・ウィズ・ウルブスDances with Wolves』があるが、これなども家畜人化のいちじるしい例であろう。原作ではダンバー中尉にコマンチ人(コマンチ民族=注10)がつけた名前だから、もともとコマンチ語のはずだ。翻訳の文章も映画にちなんで同じ題名になっているが、本文中では「狼と踊る」と訳されている。当然であろう。
①コマンチェ族(コマンチ族코만치족Команчі (індіанці)とも言う、Comanche)は、歴史的にコマンチェリアと呼ばれる範囲に住んでいたインディアン部族である。その範囲は、現在のニューメキシコ州東部、コロラド州南部、カンザス州南部、オクラホマ州全域、テキサス州の北部と南部の大部分にわたる②Русскийロシア語⇒Кома́нчский языкコマンチェ語(команче; англ. Comanche language; ком. Nʉmʉ tekwapʉ) — язык племени команчей, относится к центральной группе нумийской ветви юто-астекской семьи, близок шошонскому языку (команчи отделились от шошонов около 1700 года, с появлением у индейцев лошади) и языку панаминт.
もし固有名詞としてそのまま使うとすれば、それはコマンチ語のままでなければならぬ。それを日本語に訳すとすれば、当然日本語「狼と踊る」でなければならない。ところが映画の題名は、言語でも日本語でもない植民地語、日本人にとっての家畜語たるイギリス語にしてしまったのだ。
だから俺は映画につていの論評を書くとき、こうした家畜語は勝手に日本語題名に変更して発表してきた。『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』は『竜の魔窟』、『ラスト・エンペラーThe Last Emperor』は『最後の皇帝』、『プラトーンPlatoon』は『第二小隊』というように。いかに作品名であろうと、映画会社の家畜人化政策にのるわけにはいかない。
おことわりしておくが、このような俺の主張は国粋主義(排外愛国主義=家畜語だとショービニズムChauvinismか)とは無縁である。それはこれまでに書いてきた俺の諸論考によって明らかであろうが、このあたりが右翼と”超右翼”の分岐点になるのかもしれない。
映画の題名を家畜語にしはじめたのは最近だが、他の世界ではもっと早くから家畜語化が進んでいた。自動車産業はもちろん、釣りのような日本伝統の世界があった分野でさえもそうなってしまった。さらに色彩の世界のような、日本でこそ特に発達していた微妙な色名、驚くべき多彩な色名が、どんどん家畜語化してしまい、小学生のクレヨンの色さえもそうなっているのを見て俺は絶句した。そんなにも日本語(日本文化)を絶滅させたいのですか。
月刊誌『潮』11月号で、梅棹忠夫氏(国立民族学博物館長)は「耳で聞いて分かる日本語を創る」ことを提案しておられる。これは実に、以上まで述べてきた日本語の「乱れ」を救う対策のひとつとしても重要な作業として、俺自身も考えてきた。それは以下のような意味においてである。
*Esperantoエスペラント語→UMESAO Tadao (梅棹忠夫(京都府出身), 23-a de junio 1920 -3-a de julio 2010) estis sciencisto pri etnografio kaj etnologio, japana esperantisto.
官僚も含めて明治人の偉かった部分は、さまざまな外来語(オランダ語Nederlands・イギリス語・フランス語Français・ドイツ語Deutsch等)を、なんとかして日本語に訳したことである。これが民衆の平和的知識の近代化にどれほど貢献したかは計り知れないものがある。だが、このとき実は現在まで禍根をひきずることになる失敗も犯した。それは、翻訳にさいして漢語に頼ったことだ。たしかに便利だったには違いない。意味を漢字にあてはめればいいのだから。日本語から中国語になった例も多い。しかしそのおかげで、日本語の中の膨大な同音異義語(ホモフォンHomophone)を創りだした。これが中国語やベトナム語なら、四声だの六声だのによる声調の変化で区別できるが、日本語だとたとえば「公正」も「厚生」「校正」「後世」「恒星」「構成」等も区別できず。耳できいただけでは分からぬ言葉が大量生産された。
*ベトナム語Вьетнамский язык(ベトナムごVietnamesische Sprache、越: tiếng Việt/㗂越)または越南語(えつなんご)Vietnamienは、ベトナム社会主義共和国の総人口のおよそ 87% を占めるキン族の母語であり、ベトナムの公用語である。
もし当時、これをヤマトコトバとか「訓」による翻訳、つまり本来の日本語に訳すことにつとめていたら、耳できいてもわかる日本語になっていただろう。そこで問題となるのが日本語の造語力だが、これを追及してゆくと、この論考の冒頭で述べたような誤った「国語の乱れ」観にぶつかることになる。豊かな日本語が、「乱れた」言葉としてどれほど虐殺され、消されてしまい、今げんに追放されつつあることだろうか。すでにお気づきのように、俺は生活語(いわゆる方言)のことを言っているのだ。

①訓読みBegriffs-Lesung(くんよみКунйомі훈독(訓讀)lecture sémantiqueобычное прочтениеとは、日本語において、個々の漢字をその意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって読む読み方が定着したもの。一般にひらがなで表記される②Deutschドイツ語→On-Lesung (deutsch Klang-Lesung, jap. 音読み, on-yomi)일본 한자음(日本漢字音)Онйомі ist ein Begriff aus der japanischen Schrift und bezeichnet eine Klasse von Aussprachemöglichkeiten für die in Japan verwendeten chinesischen Schriftzeichen (Kanji), die sich an den Klang des entsprechenden chinesischen Wortes anlehnt; daher auch die Bezeichnung sinojapanische Lesung.
かねて主張してきたように<注11>、日本には「日本語」の辞書がまだない。よくある国語辞典の類は、単に「標準語辞書」にすぎず、あんなものは豊かな日本語の山からすれば何分の一だか何十分の一の貧弱な量であろう。方言辞典の類にしても、日本語として活用してゆくようにはつくられていない。
もし本来の日本語をすべて活用できたら、耳できいてわかる日本語のためにどれほど貢献することだろうか。藤原与一博士(方言学)などはそうした日本語辞書のために奮闘しておられるが<注12>、たとえば諸橋漢和を完成させた大修書店のような志ある出版社は現れぬものか。「国語の乱れ」が、いかに誤った価値観に犯された結果としての批判であるかを論じてきたが、この誤れる価値観は言葉だけの問題ではないであろう。

①Lietuviųリトアニア語→Dialektologija (gr. διάλεκτος 'kalba, dialektas'; ir -λογία, -logijaДиалектологияDialectology) Dialektologie방언학(方言學)DialectologieДіалектологія– sociolingvistikos mokslo sritis, kuri tiria tarmes. Dialektologijoje tiriami kalbos skirtumai, pagrįsti geografiniu pasiskirstymu ir su juo susijusiomis kalbos ypatybėmis. Dialektologija tiria tarmių skirtumus tarp bendrosios prokalbės②Українськаウクライナ語→Великий китайсько-японський словник (яп. 大漢和辞典, だいかんわじてんБольшой китайско-японский словарь, дай канва дзітен) 諸橋轍次. — 東京: 大修館書店— 《대한화사전》大漢和辭典 найбільший у світі японський словник китайської ієрогліфіки видавництва Тайсюкан.The Dai Kan-Wa Jiten  "The Great Chinese–Japanese Dictionary"
<注1>ただしNHKテレビなどの悪影響で、最近はオレ・ワシ以外の卑屈語もとくに若い層に現れてきたらしい。
<注2>拙著『貧困なる精神・第5集』収録の「『ワイン』や『ぼく』に鳥肌が立つ」で詳述。
<注3>「生活語」は藤井与一博士の提唱による。
<注4>東京弁は江戸弁とは異なり、いわゆる標準語として人造的要素が入っている。この「見られる」にしても、東京でも話し言葉はもともと受け身だけであって、可能は「見れる」だったという見方がある。
*江戸言葉에도말(えどЕ́доことばМова)または江戸弁(えどЭдоべんDialect)は、東京Tokyo都23区中心部(旧江戸Edo )の内、江戸城より東側の町人地であった下町発祥の日本語の方言である。江戸なまり、江戸語、下町言葉(したまちことば)と呼ばれることもある。武家地であった山の手発祥の方言である山の手言葉と共にTokyo dialect東京方言Токийский диалектを構成する。話芸や文芸でも使用され、時代劇や江戸落語などでよく聴かれるのは江戸っ子の「べらんめえ調(べらんめえ口調)」である。
<注5>ここで伊那弁を「論理的」としたのはもちろん冗談であって、単に東京弁中心主義がひどすぎる現実に対するバランス上の”気配り”にすぎない。
<注6>母語は自分が生まれ育った環境の言語だが、それは決して「母国語」とは限らない。たとえばイニュイᐃᓄᐃᑦ−民族(エスキモーᐃᓄᐃᑦ)の母語はイニュイ語だが、カナダのイニュイにとっての母国語はカナダの「標準語」としてのイギリス語(州によってはフランス語)に、不本意であってもならざるをえない。だから母語と母国語とはときに敵対関係にもなる。
①イヌイットИнуиты (Inuit)이누이트Інуїтиは、カナダ北部などの氷雪地帯に住む先住民族のEskimoエスキモーЭскимосы에스키모系諸民族の1つで、人種的にはMongoloidモンゴロイドМонголоидная расаである②イヌクティトゥット語Инуктитут([ɪˈnʊktɪtʊt]英:Inuktitut 原語表記:ᐃᓄᒃᑎᑐᑦ이누크티투트어Інуктитутおよび東部カナダイヌクティトゥット語は、カナダのエスキモーЕскімоси系民族のイヌイットにより広範に話される言語である。言語名の意味は inuk + -titut 「人のように・らしく」 。カナダ先住民文字で記す言語の一つ。
<注7>タガログ語がフィリピン内部での一現地語にすぎない点はここでは一応別に措く。またフィリピンのこうした状況については拙著『貧困なる精神・第13集』(すずさわ書店)収録の「ライシャワー教授の「国際語」」などでも論じた。
*エドウィン・オールドファザー・ライシャワー(英語: Edwin Oldfather Reischauer, 1910年10月15日 - 1990年9月1日)Эдвин Олдфатер Райшауэрは、アメリカ合衆国の外交官、東洋史研究者、ハーバード大学教授。
<注8>森有正氏と清水幾太郎氏のこの誤りについては拙著『日本語の作文技術』(朝日文庫)で詳述した。

<注9>「家畜語」は沼正三氏の『家畜人ヤブー』からの造語。拙著『貧困なる精神・第15集』(すずさわ書店)収録の「家畜人用語辞典のこころみ」で詳述した。
<注10>映画での舞台はコマンチ人ではなく、スー人に変えられている。
*スー族(スーぞくСиу (народ)Sioux [suː]수족Сіу (народ)は、アメリカ合衆国北部中西部に先住するインディアン部族である。その中の最大部族・ダコタ族、ラコタ族、およびナコタ族の総称。勇猛果敢、しばしば白人と戦い、1876年にはカスター将軍の部隊を全滅させたことは、よく知られている。
<注11>拙著『貧困なる精神・B集』(朝日新聞社)収録の「日本には日本語の辞書が存在しない」など。

<注12>拙著『貧困なる精神・第18集』(すずさわ書店)収録の「日本語類語大辞典の編集を」および『貧困なる精神・B集』(朝日新聞社)収録の「真の日本語大辞典への一里塚たる藤井与一博士の『瀬戸内海方言辞典』」。(『サンデー毎日』1992年10月18日・25日・11月1日号)

*Românăルーマニア語→Japoneza (日本語, nihongo ► pronunţie ► ) sau nipona, este principala limbă vorbită și scrisă în Japonia. Japoneza prezintă asemănări sintactice cu limbile altaice, și posibile influențe de vocabular și morfologie din limbile malaio-polineziene. Pe durata ultimelor aproximativ 15 secole, în urma contactului cultural cu China, un număr important de cuvinte au pătruns în limba japoneză, împreună cu scrierea ideografică. În afară de caracterele chinezești (numite în japoneză „kanji”), japoneza folosește în prezent și „hiragana”, „katakana” (două silabare fonetice paralele, de câte aproximativ 50 de simboluri fiecare), și ocazional „rōmaji” (caractere latine).

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