日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『資本主義ロシアー模索と混乱』中澤孝之/Capitalist russia-Groping and confusion Takayuki Nakazawa/Капиталистическая Россия Нащупывание и путаница Такаюки Наказава⑦


*アナトリー・イヴァノヴィチ・ルキヤノフ(アナトーリイ・イヴァーナヴィチュ・ルキヤーナフ、ロシア語: Анатолий Иванович Лукьянов, ラテン文字転写: Anatoly Ivanovich Lukyanov、1930年5月7日 - 2019年1月9日)は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家、法学博士。

*ワシリー・スタロドゥプツェフ(ヴァシーリー・スタロドゥプツェフ、ロシア語: Василий Александрович Стародубцев, Wassily Starodubtsev, Vasilij Aleksandrovic Starodobcev, 1931年12月25日 - 2011年12月30日)は、ソ連及びロシアの政治家。ゴルバチョフ時代末期の保守派によるソ連8月クーデターの首謀者の一人。ソ連農民同盟議長として、国家非常事態委員会に参加した。

*ソ連8月クーデター1991 Soviet coup d'état attemptPutsch de MoscouソれんはちがつクーデターAugustputsch in Moskau、ロシア語: Августовский путчСерпневий путчは、新連邦条約の締結を翌日に控えた1991年8月19日に、ソビエト連邦のモスクワで発生したクーデターである。
欧米情報機関とのつながり
この91年夏のクーデター騒ぎに関連して、エリツィン回想録『エリツィンの手記Воспоминания о Ельцине』を含めてロシア側の資料には書かれていない新しい事実を二つ紹介しておきたい。一つは、モスクワ駐在の英情報機関MI6(国外担当)工作員が、「KGBのアルファ部隊が最高会議ビルの攻撃を計画中」との情報を入手、メージャーJohn Major首相がこれをエリツィンに緊急の重要情報として提供したというのである。これによってエリツィンはKGBや保守派に先手を打つことができた。このエピソードは、パーク元MI6次官が、ハードDouglas Hurd外相の了解を得て、93年11月22日放映のBBCテレビ番組のなかで明らかにした。
①秘密情報部(ひみつじょうほうぶ«Секре́тная разве́дывательная слу́жба МИД Великобритании», (СИС / МИ-6)、英語:Secret Intelligence Service、SIS)は、イギリスの情報機関の1つ。MI6の通称が広く知られている②アルファ部隊(アルファぶたいAlpha GroupАльфа)とは、ソ連KGBおよびロシア連邦保安庁の特殊部隊。任務は、テロ対策、人質解放、輸送手段、国家施設の奪取と関連した過激派対策といったロシア国内のみでの活動である。
もう一つは、5月発売の米月刊誌『アトランティックThe Atlantic magazine』掲載の米国の著名なジャーナリスト、セイモア・ハーシュSeymour Hersh氏の記事のなかで初めて明るみにされた。これによると、クーデターの始まった8月18日、米国家安全保障局(NSA)がクリュチコフ(KGB議長)とヤゾフ(国防相)の通信を傍受、暗号を解読した。ブッシュGeorge Herbert Walker Bush大統領がこれをエリツィンに伝達、保守派制圧に大いに貢献したという。当時はまだ、ソ連軍幹部のうちクーデター派と反クーデター派の区別がつかなかったが、この暗号解読で色分けがはっきりし、エリツィンを勝利に導く決定的な要素となったのである。米側はこの情報提供で暗号解読の事実がソ連側に知れることを恐れた。当時米政府とNSAはこの問題をめぐってもめたそうだ。しかし、ブッシュはあえて提供に踏み切ったという。また、米政府は内政干渉の批判をさけるために、この事実を長い間極秘にしていた。
*アメリカ国家安全保障局(アメリカこっかあんぜんほしょうきょくАгентство национальной безопасности、英語: National Security Agency:NSA)は、アメリカ国防総省の情報機関である。
いずれも、ゴルバチョフの新思考外交によって、欧米との関係が緊密化した当時の事情を物語るエピソードであるが、エリツィンが英国や情報機関の助けを借りた事実は興味深い。

*ドミトリー・ティモフェヴィッチ・ヤゾフ(ロシア語:Дми́трий Тимофе́евич Я́зов、ラテン文字表記の例:Dmitri Timofeyevich Yazov、1924年11月8日 - 2020年2月25日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家。ゴルバチョフの時代に国防大臣を務めた。最後に任命されたソ連邦元帥である。
*ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ・クリュチコフ(ロシア語:Владимир Александрович Крючков、ラテン文字転写の例:Vladimir Aleksandrovich Kryuchkov、1924年2月29日 - 2007年11月23日)は、ソビエト連邦の政治家、チェキスト。ミハイル・ゴルバチョフ時代にソ連国家保安委員会(KGB)議長。上級大将。ソ連8月クーデターの首謀者のひとり。

*A constitutional referendumВсенародное голосование по Конституции России was held in Russia on 12 December 1993. The new constitution was approved by 58.4% of voters, and came into force on 25 December.
4 新憲法をめぐる疑惑
政治的ダイナマイト
93年10月騒乱から二ヶ月しかたたない時点で、新議会選挙と同時に、新憲法採択の賛否を問う国民投票が実施された。10月15日に、「新憲法を問う国民投票を12月12日実施する」との大統領令が公布され、新憲法草案は11月10日に公表された。ロシアの有識者の話では、騒乱後それほど時間がたっていなかったので、投票所に行かなかった市民が多かったという。しかし、武力鎮圧に成功したエリツィンは、憲法採択に自らの全政治生命をかけた。エリツィンとその周辺は「憲法が採択されねば、ロシアに内乱が起きる」と国民を脅すことまであえてした。「憲法の保証人は、法律でもなく、裁判所でもなく、エリツィンである」「ニコライ(二世)以上の権限をエリツィンに与えた憲法だ」「この憲法は血に汚れたものだ」-著名な映画監督スタニスラフ・ゴボルーヒンはこう断言した。多数の死傷者を出した10月騒乱が新憲法への道を開いたからだ。選挙戦中だったこともあり、民主党員の同監督は、エリツィンに名指しで非難された。
本書では新憲法の詳細には立ち入らない。「エリツィン憲法」といわれるほどの大統領権限(特に議会に対する)の格段の強化、大統領解任や憲法改正をむつかしくした「硬直憲法」、大統領令乱発の権限拡大などの点がすでに指摘されている。ここでは一般には比較的触れられていない、それも基本的な問題点をいくつか挙げてみたい。

国民投票の不正疑惑
第一は、国民投票にまつわる疑惑である。「国民投票は実際は、成立していなかった」というショッキングな事実が明らかにされたので、公式発表では、有権者の54・8%の投票によって国民投票は成立し、有効投票の58・4%の賛成は新憲法が採択されたことになっている(これは全有権者のわずか31%の賛成にすぎない)。ところが94年5月4日付けの『イズベスチヤ』紙によると、実際の投票率は、有権者の過半数に達しなかったというのだ。これは大統領付属の特別委員会が下した結論である。調査報告作成の責任者アレクサンドル・ソビヤニン氏によると、国民投票に参加したのは、有権者1億620万人のうち4900万人。つまり国民投票成立条件である五割を割り込む46・1%と、公表の数字を大きく下回ったのであった。この投票率の低さは政治的無関心の現れと言える。93年4月の国民投票では約64%であった。エリツィンはあえて、国民投票法を曲げて、有権者の過半数ではなく投票者の過半数の賛成があれば案件は採択されると、バーを低くした。にもかかわらず、そもそも投票率が過半数に達せず、国民投票そのものが無効だったとすれば、おおごとである。新憲法も、議会も、12月以降の数々の大統領令や政令などすべてが効力を失うことになるからだ。それに、日本を含む国際選挙監視団が監視し、大きな不正はなかったことになっている。同紙は「この数字は政治的なダイナマイトである」と書いた。
この調査は大統領付属の組織が行なったものである。いい加減な結果を出すはずはあるまい。実は、同委員会は共産党やジリノフスキーの自由民主党の支持票に不正があったことも指摘しているのだ。むしろ、この事実を探るのが同委員会の本来の目的ではなかったかと思われるのである。同紙によれば、地区段階では350万票、管区段階で570票の不正があった。不正のやり口には三つあって、第一は選挙用紙の破棄と行政側による候補者選択の強制、第二は、地区選挙管理委員会と地方行政の段階での新しいタイプのごまかし、つまり選挙人届け数の人為的水増しと特定候補の得票数の上積みである。第三は、選挙管理委員会による計算のミスと改ざん、報告書によれば、第一のごまかしで、自民党は600万票も余分に獲得した。ロシア共産党は180万票、農業党は170万票、「ロシアの女性」は約100万票、「統一と合意」は約50万票、「ヤブリンスキー連合」は20万票近く、それぞれ儲けた。しかし、エリツィン与党といわれる「ロシアの選択」はおよそ200万票足りなかった。同紙は報告書を引用して、地方での選挙不正の具体例を詳しく挙げている。
①Women of Russia (Russian: Женщины России, Zhenshchiny Rossii, ZhR) was a political bloc in Russia②ロシアの統一と合意党(Партия российского единства и согласия、ПРЕСParty of Russian Unity and Accordは、ロシアの政党。1992年創設。
この記事はもちろん、ロシア政界に大きな波紋を投げかけた。ニコライ・リャポフ選管委員長は、小さな不正はあったかもしれないが、過半数を下回ったという投票率に関しては、「根拠がない」と強く否定した。リャポフは91年以来、当時のロシア共和国のエリツィン大統領の下で、最高会議の共和国会議議長や最高会議副議長を務め、エリツィンとは親しい関係にある。エリツィンもこの調査結果に恐らく驚愕したにちがいない。『イズベスチヤ』紙の記事が出ると、フィラトフ大統領府長官はソビヤニン・グループが仕事に使っていたモスクワ郊外の大統領府別荘からグループを退去させ、立ち入り禁止にしてしまった。ソビヤニンの話では、運営当局は選挙終了後二ヶ月以上も資料を引き渡してくれなかったそうだ。彼は調査結果の一部が公表された後、政府関係者との接触を断ち切られたという。
議会も早速、投票率の大量不正疑惑の解明に乗り出したが、「そうした事実はなかった」という結論に達している。これは予想された通りである。よしんば、ソビヤニン調査が事実であったとしても、新憲法体制を根底から覆すことはエリツィンにとって到底容認できない。「事実なし」とあくまで突っ張るしかないのだ。そして、議会でも、不正が有利に働いた保守派政党は、選挙無効を言い出すはずがない。不正によって不利な得票結果だった「ロシアの選択」が新憲法体制を守るために我慢さえすれば、収まりがつくのである。したがって、ロシアのノメンクラトゥーラ資本主義化が進めば進むぼど、エリツィンにとって幸いなことに、「政治的ダイナマイト」は不発のままに終わる可能性が大きくなるであろう。
反映されない国民の声
第二に、公表の投票率や支持率を認めたとしても、新憲法に賛成したのは、前述のように、全有権者のわずか31%であったという事実がある。賛成票を投じた有権者にしても、憲法の最終草案が発表されてわずか一ヵ月後の国民投票で、どれだけこの長文の新憲法の中身に納得して投票したのであろうか。代案もなく、議会で論議もされずに(もっとも憲法停止と議会解散のため、新議会の選挙そのものが、それを規定する新憲法の採択と同時に行われるという奇妙な格好となっていたのだが、いきなりダーДар(イエス)かニエットНиет(ノー)かを国民に迫ったやりかたは、平時においては到底民主的とは言えない。敗戦後の日本国憲法制定の場合とは、状況が全く異なるのだ。文明国であれば、これは国民を侮辱したことになるであろう。

①イデル=ウラル(タタール語: Идел-Урал, ラテン表記: İdel-Ural, ロシア語: Идель-Урал)とは東ヨーロッパの歴史的地域の名のひとつ。現在のロシアの一部で、ヨーロッパ・ロシア東部のテュルク系民族の多く住む地をあらわす②イデル=ウラル国(İdel-Ural Ştatıإِديل-اٗورال ئۈلكەسىٰ) Idel-Ural RepublicИдел-Урал өлкәсеは、20世紀初頭に存在したタタール人の共和国Урало-Волжский штат。首都はカザン。この国家はロシア内戦の混乱の中でのタタール人、バシキール人、チュヴァシ人の同盟であった。まれにカザン・ハン国の再興運動と見られる。ロシアやシベリア出身のムスリムの議会が1917年12月12日に宣言した。"イデル・ウラル"はタタール語で"ヴォルガ・ウラル"を意味している。わずか約1年で消滅した短命国家であった。
各共和国との権力分担の不明瞭
第三に、93年7月12日に憲法協議会で採択された草案にあった「共和国の主権条項」が、10月騒乱後の独断的な修正で削除されたことだ。92年3月調印の連邦条約は、有効性をたもっているが、これでもはや有名無実になってしまった。形式的には、連邦行政主体を平等に扱うということで、予算・税制面での共和国との格差に異を唱え、「共和国への格上げ」を求めていた自治共和国や地方、州(93年10月、スベルドロフスク州がウラル共和国を宣言した)へ歩み寄った形となったが、中央権力と地方行政主体との権力分担は不明瞭である。
ロシア連邦とタタールスタン共和国の国家権力機関の管轄事項の分割と相互の権限委譲に関する条約が、94年2月15日クレムリンで、エリツィン大統領とシャイミエフ・タタールスタン大統領の間で調印された。タタールスタンは12月選挙と国民投票をボイコットするなど独立志向の強い共和国である。シャフライ民族問題・地域政策相によると、この条約は三年がかりで作成されたという。シャイミエフは2月20日インタファックス通信とのインタビューで、「条約は良識に基づいた貴重な妥協の文書である。世界に例のないもので、連邦条約の枠を出て、国家間条約の性格をもつものである」「タタールスタンはロシア経済の非中心化を支持する意向である」と言明した。エリツィンはまた8月3日、ウラル南部の産油地帯に位置するバシコルスタン共和国のラヒモフ大統領とも分権協定を結んだ。

*ミンチメル・シャリーポヴィッチ・シャイミーエフ(Минтиме́р Шари́пович Шайми́ев, Mintimer Sharipovich Shaimiev, タタール語: Mintimer Şärip ulı Şäymiev, 1937年1月20日 - )は、ロシア連邦タタールスタン共和国の政治家。同共和国の初代大統領を務め、老練な政治手腕の持ち主と評された。

*モルタザ・グバイドゥロヴィチ・ラヒモフ(ロシア語: Муртаза Губайдуллович Рахимов, バシキール語: Мортаза Ғөбәйҙулла улы Рәхимов, 1934年2月7日 - )Murtaza Gubaydullovich Rakhimovは、バシコルトスタン共和国の政治家。同国の初代大統領。4選(1993年、1998年、2003年、2006年)され、約17年間に渡って同共和国の大統領を務めた。
これらは、地方の遠心傾向に歯止めをかけ、地方権限の増大を抑える一つの方法であろうが、こうした動きと憲法との関係が判然としないのである。ウラルのペルミ州議会は、八月に共和国との格差解消を要求し、社会的合意条約調印の取り消しを勧告した。このように、資源の豊富な極東やシベリヤの地方構成体も、今後同じような分離協定を中央に要求する傾向が強まると予測される。そうした地方の圧力をどう抑えるのか。タタールスタンとバシコルトスタンだけを例外とするわけにはいかないであろう。
これらの共和国はその後、グルジアから分離独立を宣言しているアブハジアと、モスクワの承認なしにそれぞれ協定を結んで、独立性の幅を広げた。アブハジアはロシア連邦にとっては外国である。「これらの協定は、まるでロシア連邦が存在しないかのように作成された。連邦当局が感知しないうちにこうした協定や条約が調印されてはならない」(94年8月26日シャフライ副首相の発言)という意見は当然であろう。また、エリツィンは8月26日、『トルード』紙とのインタビューで、「地方と中央との権限をめぐる悪評高い闘争の時期は終わったことに満足している。ロシアの諸地方にはある程度の安定がもたらされ、地方と中央との対立は終わった」と語っているが、果たしてそう言い切れるだろうか。シャフライも指摘している通り、とりわけ極北、極東地方の経済、社会情勢は悪化しており、「安定している」とはとても言えない。とくに、91年11月にロシア連邦からの分離、独立を宣言したチェチェン共和国の場合、ドゥダエフ大統領派と反大統領派とが血で血を洗っている。従来の不介入方針を撤回したエリツィンは94年11月29日声明を発表し、「流血阻止のためにあらゆる力と手段を使う」と述べて、停戦を条件に同共和国への非常事態導入と軍事力介入を警告した。ロシアがチェチェンと全面対決すれば、北カフカス地域にとどまらず、全土的なすべてのイスラム勢力との泥沼の内戦、市民を巻き込んだ無差別なテロの激増に発展する恐れがある。

①アブハジア(アブハズ語: Аҧсны́ Apsny [apʰsˈnɨ]、グルジア語: აფხაზეთი Apkhazeti [ɑpʰxɑzɛtʰi]、ロシア語: Абха́зия Abkhа́ziya ロシア語発音: [ɐpˈxazʲɪjə]、英語: Abkhazia)は、コーカサスの一地域。国際的にはジョージア(グルジア)の一部とされている。ジョージア(グルジア)はアブハジア自治共和国(グルジア語: აფხაზეთის ავტონომიური რესპუბლიკა、Autonomous Republic of Abkhazia)として自国に属すると主張しているが、事実上、アブハジア共和国(アブハズ語: Аҧсны АҳәынҭқарраRepublic of Abkhazia)として独立状態にある。その独立は国際的には認知されていなかったが、2008年8月26日にロシアが承認を発表した。首都は共和国/自治共和国ともにスフミ(Sukhumi、グルジア語: სოხუმი、アブハズ語: Аҟәа (Aqwa)、ロシア語: Сухум②アブハジア自治共和国(アブハジアじちきょうわこく、グルジア語: აფხაზეთის ავტონომიური რესპუბლიკა)は、ジョージア国内の自治共和国。ジョージアの最西端に位置し黒海の北岸に面する。この地域は1990年代初頭から“アブハジア共和国”として事実上の独立状態にある。

*チェチェン共和国Нохчийн РеспубликаЧеченская РеспубликаチェチェンきょうわこくChechen Republic)は、北カフカース(北コーカサス)地方の北東部に位置するロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国。設立は1991年で首都はグロズヌイ。北カフカースの先住民族のひとつのチェチェン人が住民の多数を占める。

独裁者の憲法
第四に、新憲法を極右ジリノフスキーの自民党が積極的に支持したという事実である。エリツィンの後に大統領のポストを狙っているジリノフスキーは、「この憲法は自分のために作られた」と豪語している。憲法は本来、だれが大統領になっても、民主主義が守られ、独裁国家にはならないとの保証でなければなるまい。ナチスNazi・ヒトラーHitlerになぞらえている狂信的政治家にとって都合のいい憲法が、果たして民主的憲法と言い得るであろうか。それも、手続き上、憲法改正がかなりむつかしいとなれば、一部専門家の間で期待されている「過渡的な憲法」の性格はもたず、恒久的な憲法となろう。
今後、どのような大統領でも、「憲法、人と市民の権利および自由の保証人」(第四章第80条)になり得るとは限るまい。それに何をもって「憲法の保証人」たり得るのか、論理的な説明は憲法の中に一切書かれていない。日本の憲法では、裁判所が「憲法の番人」である。多くのロシア法研究者も指摘しているが、急ごしらえのエリツィン憲法はさまざまな重大な問題を包含しているのである。

5 野党の指導者たち
93年12月の議会選挙で起こった「ジリノフスキー旋風」は世界中にロシアへの注意と警戒心を呼び覚ました。極右政党、ロシア自由民主党を率いるジリノフスキーは、ナチス・ヒトラーばりのショービニズム的な言辞を弄し、その破天荒な行動は各地で騒ぎを撒き散らした。ジリノフスキーについては別に一冊の本を書き上げられるほどの材料があるが、すでに彼自身書いたとされる自伝的な書物も出版されているので、ここではエリツィンおよび、次期大統領選挙との関連で触れてみたい。
「ロシア政権にとってタクシーとしての自民党」-『モスクワ・ニュース』紙94年第27号はこのような見出しで、自由民主党は果たして野党なのかどうか問いかけている。ジリノフスキーと当時の大統領報道官のコスチコフが笑顔で立ち話をしている写真を載せているのも面白い。同紙も指摘しているが、事実、自民党は、10月騒乱、憲法協議会の設立、憲法に関する国民投票、新議会での予算案審議、社会的合意条約の調印、そして組織犯罪撲滅に関する大統領令といった「重要な転機」の際に、常にエリツィン政権を支持してきたのである。
同紙は言う。「下院全会派のうち、組織犯罪撲滅に関する大統領令に唯一賛成したのは、自由民主党であった。歴史の転機というべき重要事件の際の自民党の立場は、常に政府側にあった。同党が野党と言うのであれば、どこの国の政権もこのような野党をもちたいであろう」と。
また逆に、自民党の掲げた選挙公約が少しずつエリツィン政権によって実行に移されつつある。セルビア人勢力を助けるためのボスニアへのロシア兵派遣をジリノフスキーが呼びかけた後、少したって、「モスクワの外交政策は”青年の声変わり”の時期をうまく乗り越えて、自信に満ちた低音で話し出した」(同紙)、そして「南方への最後の躍進(ジリノフスキーの自伝のタイトル)は目に見える輪郭を取り始めた、と同紙は続ける。ザカフカスЗакавказьеへのロシア軍の復帰、インド、シリアとの武器供与交渉の再開、「悪名高い」イラクに向ける視線の柔軟な変化などである。「ロシアのエスタブリッシュメントのなかでも最も反ジリノフスキーの立場をとる」コズイレフ外相の最近の動きのなかにすら、全欧安保協力会議(CSCE)Conference on Security and Co-operation in Europeストックホルム外相会議において、西側外交官も驚くような、大国主義的な調子を打ち出したストックホルム発言のように、ジリノフスキーのテーゼを思い出させるのであると、同紙は述べている。
自民党は議会選挙で、10月騒乱後に活動を禁止された本物の野党、国民救国戦線の支持票の多くをあつめて、多数の議員を議会に送り込むことに成功した。『論拠と事実』紙94年第四号によると、下院450議席のうち、自民党は63議席を獲得した。全体の14・0%で、ロシアの選択(76議席、16・8%)、新地域政策(67議席、14・9%)に次ぐ勢力である。自民党躍進の背景には、ロシア国民の改革疲れ、政治離れ、生活苦、貧富の格差拡大や犯罪の激増への不満、大国国民としての自信喪失などもあるようだ。
そして、『モスクワ・ニュース』紙は、自民党が議会内で10月騒乱後の変則的な事態の合法化に向けてエリツィン政権に力を貸したことを強調している。また、「すば抜けて資金の豊富な、そしてスキャンダラスな自民党党員がいなければ、ロシアのエスタブリッシュメントは多くの場合、民主的な目的に忠実であることを世界に信じさせることはむつかしかったであろう」と同紙は皮肉交じりに書いた。
さらに、ジリノフスキーの言動を、かつてのイタリア政界の一大スキャンダルと重ね合わせる、反ファシズムとして有名だった国営石油会社ENIのエンリコ・マッティ社長が、ネオファシストに選挙資金を出していた事実が発覚したことがあった。当時、米国メジャーと激しい市場争奪戦を繰り広げていた彼は記者団の質問に「私は目的地に着くまで、タクシーに乗っただけだ」と冷たく言い放ったという。そこで、同紙は、エリツィン政権はどの目的地に着くまで「自民党という名のタクシー(つまりジリノフスキー・タクシー)に乗り続けるつもりなのか、と問いかけている。私の考えでは、エリツィンは最後までこのタクシーから降りないどころか、いつかは自らがドライバーとなる可能性も排除できないように思われる。
ジリノフスキーは次期大統領選挙に立候補すると明言している。しかし、同じく出馬を計画している保守派ルツコイの恩赦釈放で、ジリノフスキー支持の票が分かれるのではないかと見られている。また、その傍若無人な態度により、党内には亀裂が生じてもいるようだ。ジリノフスキーに対する国民の関心も次第に小さくなっているとも伝えられる。

次期大統領の候補者たち
次期大統領選については、96年6月に予定通り行われるのか、それもルイプキン下院議長やフィラトフ大統領府長官の発言のように、大統領選挙と議会選挙を同時に行うのか、あるいはシュメイコ上院議長の主張するように二年延期するのか(エリツィンの意を体した観測気球と見られている)、全く流動的である。エリツィンは94年10月4日の記者会見で、「大統領選挙の延期には反対だ」と明言したが、同時選挙の是非や自分自身の出馬については言及しなかった。エリツィンは1931年2月1日生まれだから、96年6月の時点で65歳、エリツィン自身は健康が許す限り、再出馬を意図していると見られる。また、自ら出馬するか、だれかを後継に指名するかというエリツィンの態度決定は、反エリツィン側が有力な候補者で一本化できるかどうかにもかかってくるであろう。周知のように、エリツィンは自らの政党をもたない。このことも、問題を不透明にしている。いわゆる改革派ないしは中道派でエリツィンに代わる人物としては、チェルノムイルジン(首相)、ルシコフ(モスクワ市長)、シャフライ(「統一と合意」のリーダー)、スココフ(前国家安全保障会議事務局長)や前述のヤブリンスキーなどの名前が挙がっているが、だれが本命かは分からない。また、ゴルバチョフのペレストロイカの設計者といわれたアレクサンドル・ヤコブレフ(連邦テレビ・ラジオ放送庁長官)が社会民主主義勢力の連合を画策しているが、これも次の大統領選挙をにらんでの動きであるようだ。
*アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフ(ロシア語: Александр Николаевич Яковлев, ラテン文字転写: Aleksandr Nikolaevich Yakovlev、1923年12月2日 - 2005年10月18日)は、ソビエト連邦およびロシアの政治家、歴史学者。ミハイル・ゴルバチョフの側近として、ペレストロイカを推進した。重厚な風貌と歴史に対する真摯な姿勢で知られる。ボリス・エリツィンБори́с Е́льцинは、著書『告白』で、ヤコヴレフについて「きわめて賢明で、健全で、誰よりも先見の明がある政治家an extremely wise, sound and far-sighted politician」と評価している。

ロシア共産党の新しい動き
ここで注目すべきは、反エリツィン派の最有力政党、ジュガノフ率いるロシア共産党の動向である。ロシア最大の組織政党だからだ。下院では一割の45議席を占めるにすぎないが、農業党(ルイプキン下院議員議長の所属党)など保守会派との連携が可能で、議会内で有力な政党のひとつであり、民族色が濃いのが特徴である。党員数は94年末現在で、55万人以上、2万以上の初級党組織をもつと自称している。これが事実だとすれば、党員数はほかの政党全部を合わせた数の二倍である。同党の強みは地方党組織がほぼ完成されていることだ。その長であるジュガノフという人物はなかなか侮れない。94年3月に故ニクソンRichard Nixon元米国大統領が訪露した際に、ジリノフスキー、ルツコイの外にこのジュガノフと会っているのも、故なしとしないと言えよう。
ロシア共産党はその名称に似ず、明確に社会民主主義を標榜している。旧共産党系だからといって必ずしも守旧派とは言えない。マルクス・レーニン主義Марксизм-ленинизмを放棄し、ゴルバチョフ以前の旧ソ連共産党の主張した「一党独裁」とか「階級独裁」とか「中央計画経済」といった基本テーゼとは無縁であると主張する。ロシア共産党は常ひごろ「愛国主義勢力の結集こそが国を危機から救う」とアピールし、国民の愛国心に訴えかけている。変革に取り残された社会的不満層の代弁者となりつつある。ジュガノフ自身、94年4月に、ジャーナリスト訪露代表団に対して、「ソ連共産党は国家、政府と一体化して真実の判断権、国民の指導権、国家財産の所有を独占していた。ロシア共産党はそうした立場はとらない。法治国家の構築、国際法に基づく人権の尊重を目指し、私有財産を含め多様な所有形態を認める」と、私有財産や土地所有への支持を表明するとともに、「スウェーデンあるいはオーストリア型の社会民主路線をとる」とマルクス・レーニン主義の事実上の放棄の方針を明らかにし、「私たちは社会的正義と愛国主義の政党である」と繰り返し強調した。次の中央、地方議会の選挙では、急進改革路線への不満票がこの新生共産党に流れる可能性もあるし、次期大統領候補選びでは主導権を握るかもしれない。
*社会民主主義(しゃかいみんしゅしゅぎСоциал-демократия、英語: Social democracy、ドイツ語: Sozialdemokratie、フランス語: Social-démocratie、略称: SocDem)とは、資本主義経済のもたらす格差や貧困などを解消するために唱えられた社会主義思想の一つ。
『論拠と事実』紙94年第26号所蔵のインタビューで、ジュガノフ党首は、「われわれは過去を見直し、多くの政策を変更した結果、党員数は55万人となった。党員の平均年齢は10歳若返った。共産主義運動の多党化がいわれるが、ロシアにはジュガノフ党とアンピーロフ党しかない。それにアンピーロフ党はいくつかの都市にわずかな党員しかもっていない。アンドレーエワ、クリュチコフは組織そのものをもっていないので、政党とはいえない。(エリツィン憲法に対する疑問について)通常どこの国でも国民投票での三分の二以上の賛成を成立要件としているのに、わが国では、51%の賛成票で採択された。この憲法が残り49%を拘束する力をもてるのであろうか。われわれが団結すれば、下院450人のうち、230人、問題によっては270人の支持者をあつめることができる。わが国にはエリツィン、チェルノムイルジン、コズイレフ、およびマスコミの四つの政治的中心があるが、いずれも事態打開の能力がない。このため、私は農業党、共産党、社会党、工業党、民族資本家による左翼中道連合を結成する必要があると思う」と意気軒昂だ。

*ニーナ・アレクサンドロヴナ・アンドレエヴァ(ロシア語: Нина Александровна Андреева、1938 年 10 月 12 日 – 2020 年 7 月 24 日) Nina Alexandrovna Andreyevaは、ソビエトとロシアの化学者、教師、作家、政治活動家、社会評論家。
ジュガノフはさらに続ける。ロシアではマフィアのみが権力をもち、大統領権力はクレムリンの外に及ばない。わが国では権力、国家、文化、教育、治安、環境、情報などすべての分野で崩壊が進んでいる。私はこの15ヶ月間にカリーニングラードКалининградから極東まで25地域を見て回ったが、これほどの貧困者の多さは、第二次世界大戦後の尾リョールで見ただけだ。大学はまさに崩壊寸前で、モスクワでは小学校や保育園が100余りのカジノに変わっている。過去の貴重な遺産を大事にしない。それどころか、例えば、プーシキンПушкин、ショーロホフШолохов、ドストエフスキーДостое́вскийといった昔の偉大な作家たちに対する攻撃はかつて例を見ないほどの激しさである。モスクワには毎週2000丁の銃が外部から持ち込まれている。街頭犯罪と戦うためには、好むと好まざるとにかかわらず、住民によるパトロール制を導入しなければならない。公務員の所得申告と商業活動制限について、何らかの措置をとるべきである。(経済について)この広大なロシアに市場経済を持ち込むことは不可能である。領土の67%は極北にあり、そこではすべて基礎条件が異なっている。特にエネルギー原料、基礎素材、交通の分野では別々の価格体系が必要である。
ジュガノフは「ロシアのブラザウスカス(Lietuvos komunistų partija(LKP)旧リトアニア共産党Коммунистическая партия Литвы(КПЛ)第一書記で、現在同国の指導者)」になるのではないかとの見方が寝強い。ブラザウスカスは新生リトアニアの大統領選挙で、人民戦線「サユジス」のランズベルギスを破った。旧共産党系ながら、現実的でリベラルな考えの持ち主であり、もはや共産主義者とは呼べなくなっている。

①アルギルダス・ミーコラス・ブラザウスカス(リトアニア語: Algirdas Mykolas Brazauskas、1932年9月22日 - 2010年6月26日)А́льгирдас Ми́колас Браза́ускас は、リトアニアの政治家。首相や大統領を務めた②サユディス(リトアニア語: Sąjūdis、言語発音: [ˈsâːjuːdʲɪs])Саюдисは、1980年代後半から、1990年代初めにかけて、当時ソビエト連邦の支配下にあったリトアニアの独立運動を指導した政治組織。

②ヴィータウタス・ランズベルギス(リトアニア語: Vytautas Landsbergis、1932年10月18日 - )Ви́таутас Ви́таутович Ла́ндсбергисは、リトアニアの政治家。リトアニア独立革命を指導。リトアニアの独立回復後は最高会議議長として同国の国家元首となった。音楽学者でもある。
9月30日、チェルノムイルジン首相はこのジュガノフと会談しており、エリツィン側近のシュメイコ上院議長は10月になって、共産党入閣支持の発言をしている。エリツィンは反大統領派切り崩しのために共産党の取り込みを図ろうとしているようだ。
大統領選挙をめぐっては、遅くとも、議会選挙が予定されている95年末まで、この議会選との関連で、各政党、各派さまざまな駆け引きが展開されるであろう。94年11月現在、改革派のエリツィン離れが急速に進んでいるといわれる。かつて有力な側近だったブルブリス氏(元国務長官)はエリツィンの名誉ある退陣を勧告し、同じくポルトラーニン氏(元副首相兼情報相)も記者会見で、エリツィンについて「ロシア社会の中でプラスの役割を果たしていない。彼が民主主義者であるとは思わない」と言い切るまでになった。エリツィンの支持基盤が割れつつある。エリツィンが再出馬するかどうかは微妙である。またどの候補が有利かは、その時の経済状況にもかなり左右されよう、経済混乱が、とりわけ地方の住民の生活を圧迫し続けるならば、エリツィンが立候補しても、ウクライナのクラフチュクやベラルーシのシュシケビッチのような運命が彼を待ち受けているにちがいない。

Gennady Eduardovich Burbulisゲンナージー・エドゥアールドヴィチ・ブールブリス (Russian: Генна́дий Эдуа́рдович Бу́рбулис; 4 August 1945 – 19 June 2022) was a Russian politician.

*ミハイル・ニキフォロヴィチ・ポルトラーニン(Михаил Никифорович ПолторанинMikhail Nikiforovich Poltoranin、1939年11月22日 - )は、ソビエト連邦およびロシアの政治家、ジャーナリスト。ボリス・エリツィンの初期の側近のひとり。

第五章 大国主義外交の矛盾
1 エリツィンの軌道修正 
大国主義への転換
ペレストロイカ時代、新思考外交が展開された。ゴルバチョフ・シェワルナゼ外交とも呼ばれた。今のロシアの場合、エリツィン・コズイレフ外交である。

*Eduard Ambrosis dze Shevardnadzeエドゥアルド・シェワルナゼエドゥアルド・シェワルナゼ (Georgian: ედუარდ ამბროსის ძე შევარდნაძე, romanized: Eduard Ambrosis dze Shevardnadze; 25 January 1928 – 7 July 2014)Эдуа́рд Амвро́сиевич Шевардна́дзе was a Soviet and Georgian politician and diplomat who governed Georgia for several non-consecutive periods from 1972 until his resignation in 2003 and also served as the final Soviet Minister of Foreign Affairs from 1985 to 1990.
エリツィン・コズイレフ外交は当初、新思考外交を引き継ぎ、「西側協調外交」を推進していた。対米、対独関係の発展に力が入れられた。エリツィンはとりわけブッシュ、クリントン米、コールHelmut Kohl独各大統領との個人的な信頼関係をもつことを最優先課題とした。コズイレフは普遍的な価値観、国際政治の道具としての武力外交の否定、軍事力より国民福祉重視などを口にしていた。ところが、93年12月の議会選挙による急進改革派の敗北と極右ジリノフスキーの登場で、外交路線の軌道修正が目立つようになった。「大国主義外交」への転換である。「反西側に転じたというのではない。西側に対して、従来のようなナイーブな信頼関係をもたなくなった。さめた目でみるようになったということだ」とロシア外務省外交研究所のバザーノフ所長は語る(『東洋経済』誌10月1日号)。ロシア民族主義の高まりという国内政治情勢の変化が、エリツィン外交路線の変更を促した。それは一般的に、ロシアの国益擁護を前面に打ち出した「大国主義外交」と呼ばれるものだ。コズイレフは94年1月18日のロシア在外大使会議で、「ロシアは旧ソ連諸国での軍駐留を継続し、ロシアの国益を守る必要がある」と強調し、ロシア軍を完全撤退させるつもりのない駐留国として、EestiエストニアЭстония、ラトビアを挙げた。バルト諸国が直ちに反発したのは言うまでもない。バルト三国の首相は19日にラトビアのユルマラ(ユールマラ(JūrmalaЮрмалаは、ラトビア共和国の都市。ラトビアの代表的な観光地・保養地である)に集まり、コズイレフ発言を非難するとともに、三国の対露国境警備強化、バルト平和維持部隊の創設を決める合意文書に調印した。
このコズイレフは、前章でも触れたように92年12月半ば、StockholmストックホルムСтокгольмでの全欧安保協力会議(CSCE)外相会議における演説で、「われわれは国益を守るため必要な一方的措置を取る権利を確保する」と冷戦時代に逆戻りするかのような爆弾発言をし、場内をあぜんとさせた前歴をもつ。しかも後で全面撤回するという醜態を演じた。エリツィン指導部の置かれた危機的状況を世界にアピールし、西側の支持獲得を目指すために編み出した「Лечение шокомショック療法Shock Treatment」だったと弁明したが、内政を外交にもちだすとは普通の国の外相としては想像もつかない非常識な言動で、西側ではこんな不真面目な外相は失格、即、引責辞任か解任であろう。ロシアの最高会議がコズイレフ解任をエリツィンに強く要求したのは当然であった。

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