日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

殺生丸☆Japanese aircraft carrier Shinano・大和型三番艦・空母「信濃」沈没の真相について(未完成試験航海・呉軍港へ向け=坊ノ岬・遠州灘沖(静岡県)

こんにちは☆ 
相変わらずいろいろ四方八方忙しく動き回る頭はどうにもこうにも(苦笑)。「運動」すると気分がいいです☆今日はむし暑いですけど。秋風にそよぐ紅葉の音と風景は悪くありません。これからちょっとひとっ走りしてきます(^_-☆ 2016/10
はじめに:
ーかつて娘といっしょにみた「アニメ」の数々。「犬夜叉」は好きでした。ただ私にとっては「殺生丸」(いつもひとり。孤独。子どもにはやさしい)が魅力あります。だからいつも参照に使わせていただいている(笑)。




戦艦「信濃」:
この名前を聞いたことがある方は多いと思いますがいかがでしょう?いろいろ諸説入り乱れているのは「一般向け百科事典」(ウィキ)の情報もばかになりません。


ーあらためて最近口癖の「21世紀・最先端技術に感謝」ばかり(笑)。私は小学校の頃は「戦記図鑑」ばかり読んでいました。その中でもこの空母「信濃」はいろいろな面で印象深かった。


ーまず「沈没」に関して。ある「図画」(絵画・コミック式)では「艦首」から沈み。投げ出された水兵たちが泳いでいる後ろに艦尾だけみえる(大和型空母三番艦「信濃」の最後+当初は「戦艦」として着工したが、「航空機時代」の到来により急遽「空母」に変更された*)。もうひとつは「右舷」(魚雷4本命中)から「遠州灘に今沈む・悲劇のヒロイン信濃」=「悲劇のヒロイン」といったのはとりあえずおき。


ー「小説」をもとにした「映画」なども作られているのかな?ともあれ「沈没」は悲しい事情があったのは↓で語られています。わたしは「戦勝」(景気いい勝いくさ)より「敗戦」(負けた戦闘)に目が行く「悲観」「屈折」した人間なんでしょうね(これだけは幼少時代から変わらず(苦笑)。


そんなこんなではじめていきますのでよろしく☆ サム カナダ


信濃(しなのは、日本海軍の航空母艦[1]。建造中の大和型戦艦3番艦(110号艦)を戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更したものである[28][29]。 艦名は旧国名の信濃国から採られた。1944年(昭和19年)11月下旬、未完成のまま回航中に米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃により、一度も実戦に投入されることなく沈没した[30]。1961年にアメリカ海軍最後の通常動力推進空母キティホーク(満載 83,301t)が登場するまでは史上最大の排水量を持つ空母だった[31]。

Japanese aircraft carrier Shinano

From Wikipedia, the free encyclopedia
Shinano (信濃?), was an aircraft carrier built by the Imperial Japanese Navy (IJN) during World War II, the largest such built up to that time. Laid down in May 1940 as the third of the Yamato-class battleships, Shinano's partially complete hull was ordered to be converted to a carrier following Japan's disastrous loss of four fleet carriers at the Battle of Midway in mid-1942. Her conversion was still not finished in November 1944 when she was ordered to sail from the Yokosuka Naval Arsenal to Kure Naval Base to complete fitting out and transfer a load of 50 Yokosuka MXY7 Ohka rocket-propelled kamikaze flying bombs. Hastily dispatched, she had an inexperienced crew and serious design and construction flaws, lacked adequate pumps and fire-control systems, and did not even carry a single carrier aircraft. She was sunk en route, 10 days after commissioning, on 29 November 1944, by four torpedoes from the U.S. Navy submarine Archerfish. Over a thousand sailors and civilians were rescued and 1,435 were lost, including her captain. She remains the largest warship ever sunk by a submarine.
Post-war analysis of the sinking[edit]
Post-war analysis by the U.S. Naval Technical Mission to Japan noted that Shinano had serious design flaws. Specifically, the joint between the waterline armor belt on the upper hull and the anti-torpedo bulge on the underwater portion was poorly designed, a trait shared by the Yamato-class battleships; Archerfish's torpedoes all exploded along this joint. The force of the torpedo explosions also dislodged an I-beam in one of the boiler rooms which punched a hole into another boiler room. In addition, the failure to test for water-tightness in each compartment played a role as potential leaks could not be found and patched before Shinano put to sea.[37] The executive officer blamed the large amount of water that entered the ship on the failure to air-test the compartments for leaks. He reported hearing air rushing through gaps in the water-tight doors just minutes after the last torpedo hit—a sign that seawater was rapidly entering the ship, proving the doors were unseaworthy.[38]Commissioning and sinking[edit]


44年以降の海域(制海・制空権)について:


ー「近年」の欧米(英語放送)「Ducumentary」の豊富さはすごいです。Youtubeで見放題。「信濃」についてもあるので後で見てみます。


ー当時日本海域は「港」(近辺)まで米軍潜水艦だろうが魚雷艇。「装甲艇」とが何でも「出入り自由」状態でした(房総半島、「東京湾」海上まで入り込んだ「潜水艇」の証言多数)。日本軍の「特攻機」(旧式戦闘機)では「B-29」が飛んでいる高度まで上昇できず(各種米空軍たちの「インタビュー」が含まれてます)


ーまた「討伐」「警備」する「船舶」(掃海艇・海防艦・駆逐艦など)が不足していた。「輸送船」はすでに「南方資源」地から「本国」に届かず。「遮断」されてました(44年・サイパン島陥落(B-29の航続距離に入った)44年末、「レイテ島決戦」(レイテ湾を失い。南方と「遮断」されてしまいました)の敗退)。


ーあとはアメリカ軍の「空襲」問題でしょう。日本の都市は国際条約が禁止している「無防備都市」の無差別爆撃。悲劇的に瓦礫の山と焼け野原。戦闘機も昼間から侵入し電車・列車・逃げ惑う市民に「機銃掃射」を加えた。もはや「空の守り」は皆無に等しい(日本軍の「高射砲」(特に旧式)はあまり届かない)。「戦う側」(日本軍将兵)にしても悲しい話がたくさんでした。


Departure from Yokosuka[edit]


On 19 November 1944, Shinano was formally commissioned at Yokosuka, having spent the previous two weeks fitting out and performing sea trials.[20] Worried about her safety after a U.S. reconnaissance bomber fly-over,[20] the Navy General Staff ordered Shinano to depart for Kure by no later than 28 November, where the remainder of her fitting-out would take place. Abe asked for a delay in the sailing date[21] as the majority of her watertight doors had yet to be installed, the compartment air tests had not been conducted, and many holes in the compartment bulkheads for electrical cables, ventilation ducts and pipes had not been sealed. Importantly, fire mains and bailing systems lacked pumps and were inoperable; even though most of the crew had sea-going experience,[22] they lacked training in the portable pumps on board.[23] The escorting destroyers, Isokaze, Yukikaze and Hamakaze, had just returned from the Battle of Leyte Gulf and required more than three days to conduct repairs and to allow their crews to recuperate.[24]Abe's request was denied, and Shinano departed as scheduled with the escorting destroyers at 18:00 on 28 November. Abe commanded a crew of 2,175 officers and men. Also on board were 300 shipyard workers and 40 civilian employees. Watertight doors and hatches were left open for ease of access to machinery spaces, as were some manholes in the double and triple-bottomed hull.[25] Abe preferred a daylight passage, since it would have allowed him extra time to train his crew and given the destroyer crews time to rest. However, he was forced to make a nighttime run when he learned the Navy General Staff could not provide air support.[21] Shinano carried six Shinyo suicide boats, and 50 Ohka suicide flying bombs;[20] her other aircraft were not planned to come aboard until later. Her orders were to go to Kure, where she would complete fitting out and then deliver the kamikaze craft to the Philippines and Okinawa. Traveling at an average speed of 20 knots (37 km/h; 23 mph), she needed sixteen hours to cover the 300 miles (480 km) to Kure. As a measure of how important Shinano was to the naval command, Abe was slated for promotion to rear admiral once its fitting out was complete.[26]

信濃號航空母艦日语:信濃,假名:しなの,平文式羅馬字:Shinano)是大日本帝國海軍於第二次世界大戰時期建造的一艘航空母艦,為二次大戰裡艦體最大、排水量最重的航空母艦,在完成長達五年斷斷續續的建造工作後,首次出航僅17小時即被美國海軍的「射水魚號」潛艇所擊沉。「信濃號」原作為「大和級」戰艦的三號艦進行建造,暫定名為「110號艦」。隨著日軍在太平洋的戰事告急,帝國海軍對航空母艦的需求大為提高,故因應戰爭需求,將尚未完成的「110號艦」改造成航空母艦,正式命名為「信濃號」,源自日本古代令制國之一的「信濃國」。由於日軍在1944年6月馬里亞納海戰的失敗中損失了三艘主力航艦,故加速了「信濃號」的建造進度。「信濃號」擁有「大和級」的戰艦級別堅固船體,超出一般航空母艦的標準,同時它也受到「大鳳號」的影響,鋪上了相當厚實的裝甲保護飛行甲板。「信濃號」於1944年11月在未完成的情況下投入服役,隨後自橫須賀海軍工廠移至吴海军工厂完成裝修,但被回航中的美軍潛艇攻擊而擊沉,包含艦長阿部俊雄大佐在內共1,435名水兵和民間工作者陣亡,為目前下水的航空母艦服役時間最短、也是至今被潛艇擊沉的最大排水量軍艦[4]。信濃號的排水量噸位,一直到1961年美國海軍的傳統動力航空母艦「小鷹號」服役才將其超越[5]。


アーチャーフィッシュの攻撃[編集]
「アーチャーフィッシュ」襲撃時点の日本軍護衛陣形には諸説あり、「先頭に雪風、中央に信濃、右に浜風、左に磯風」という浜風水雷長説や、「磯風が先頭、右に浜風、左に雪風」という雪風砲術長説、「浜風が先頭、右に雪風、左に磯風」という雪風水雷長説がある[233]。この混乱は之字運動をする関係で時刻によって駆逐艦の位置が常に変化しているためであり、外洋ではおおむね17駆司令駆逐艦「浜風」が先頭を航行していたという[234]。11月29日午前3時13分、浜名湖南方176kmにてアーチャーフィッシュは魚雷6本を発射した[235]。日本側はアーチャーフィッシュの存在には気付いており、午前3時5分には「信濃」が第17駆逐隊に潜水艦警報を発し[236]、第17駆逐隊も潜水艦と思われる電波を傍受したが、位置の特定はできていなかった[237]。潜航状態(潜望鏡発射)、1,400ヤード(約1,280m)の距離から発射された魚雷は、調停深度水面下10フィート(約3m)で6本[238]。3本ずつ角度をずらせる150%射法発射された[239]。これは最初の3本の破孔に次の魚雷が飛び込むことを期待したと、アーチャーフィッシュのエンライト艦長は手記に記載している。また魚雷は重量物が水線よりも上に集中している不安定な空母を転覆させるために、命中深度を通常より浅く設定して発射された[240]。午前3時16-17分、魚雷4本が信濃右舷に命中[241]。アーチャーフィッシュは6本命中を主張[242]。命中深度を浅く設定された魚雷は、信濃右舷後部のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中し、ガソリン貯蔵用空タンク、右舷外側機械室付近、3番罐室即時満水、亀裂で隣の1番罐室・7番罐室に浸水、空気圧縮機室が被害を受けた[243]。最初の報告では、後部冷却機室、機関科兵員室、注排水指揮所近辺、第一発電機室などに浸水、右舷6度傾斜というものである[244]。第三海上護衛隊司令部で被害無線を傍受。命中後、一時13度傾斜したが、左舷注水により右傾斜9度に回復した[158]。「信濃」は速力を落とさず、傾斜しながら20ノットで現場から退避したため、アーチャーフィッシュは北西に向かう「信濃」を追撃することは出来なかった[245]。随伴駆逐艦から爆雷も投下されたが、アーチャーフィッシュは約15分間、爆発14回を記録し、脅威にはならなかった[246]。「信濃」は3時30分に信号で被雷したことを告げた[247]。3
時45分、アーチャーフィッシュは巨大な爆発音が20分続くのを聴音し、沈没する大型艦艇の爆発だと判断した
[248]。6時14分に潜望鏡をあげ、洋上に何もない事を確認[248]。それから
4時間後、謎の大爆発音を聴音した[248]。


沈没[編集]


書類上、「信濃」は軍艦籍に入って完成艦として扱われているが、
実際は建造中の未完成艦だった。通路にはケーブル類が多数放置されており、防水ハッチを閉められなかった[249]。防水ハッチを閉める訓練すら、軍令部が工期を急がせたため行ったことがなかった[250]。かろうじて閉めることが出来た防水ハッチも、隙間から空気が漏れている[251]。
さらに大和型戦艦の艦内は迷路同然で、慣熟するのに1年では無理とされる
[249]。乗艦して
数ヶ月程度の者では、自分の現在位置すら把握できない
[252][158]。それでも、応急員達は注排水指揮所からの指令によって反対側への注水作業を実行した。少なくとも3,000tの注水実行が報告され、傾斜は若干回復した[253]。しかし、注水開閉弁が故障してそれ以上の注水が不可能となる[253]。 ただちに潮岬方面に向かったが[254]、浸水は止まらず、次第に傾斜が増大して速力も低下する[255]。沢本中尉によれば、13度に傾斜した時点で主ボイラーを止めてしまったため電気や蒸気が使えなくなり、やむを得ず手動ポンプで排水作業を実施した[158]。戦闘詳報では「午前5時30分、速力11ノット」と記録している[256]。機関科兵の回想では午前5時ごろに右舷タービンが停止[257]。午前5-6時、復水器が使用できなくなりボイラー給水用の真水が欠乏したため、午前8時前には洋上で完全に停止するに至った[258]。海上護衛総司令部では信濃被雷を受けて大阪警備府や各地港湾部に曳船の手配をはじめたが、関西地方から信濃被雷地点まで180海里(約330km)もあり、すぐに到着できる状況ではなかった[259]。「信濃」は随伴2隻(雪風、浜風)に対し「傾斜のため運転不能」と発信、曳航を命じた[260][261]。海水を使用してボイラーを炊くことも検討されたが、一度海水を使うと補修に多大な手間がかかることより見送られた[262]。艦前部にある予備真水タンクはパイプが切断されており、役にたたなかった[263]。阿部艦長は工廠関係者を飛行甲板にあげるよう命じたが、「工廠関係者飛行甲板」(「工廠の工員、上甲板」とも)の命令が伝令により「総員飛行甲板(総員上甲板)」となり、艦内は混乱した[264][265]。一方、この命令誤認のため艦底にいた応急作業員や機関科兵が脱出できたという一面もある[266]。午前7時45分、信濃は駆逐艦2隻(磯風、浜風)に曳航のため接近せよとの手旗信号をおくった[267]。浜風(司令駆逐艦)は2隻(浜風、磯風)で曳航すると通信[268]。阿部(信濃艦長)自ら信濃の艦首で作業を監督したが、駆逐艦2隻では浸水して沈下した巨艦を曳航することができずワイヤが切れてしまった。そこで駆逐艦の後部高角砲塔にワイヤをグルグル巻きにして再度曳航を試みたが、またもワイヤが加重に耐えれず切断してしまい、曳航は断念されるに至った[269][270]。午前8時の時点で上甲板が水で洗われており、乗組員は格納庫甲板の排水に駆りだされた[271]。午前8時30分、注排水指揮所が水没し、稲田文雄大尉ら9名が水死した[272]。注排水指揮所の全滅と曳航作業が失敗した事で、喪失は確定した[273]。9時32分、御真影(昭和天皇の写真)をカッターに移し、まだロープで結ばれていた「浜風」に移そうとしたが[274][275]、悪天候のためカッターは信濃右舷バルジに乗り上げて転覆した[276]。 10時25分、傾斜35度に達し、軍艦旗降下[277]。10時27分、総員退去用意[278]。10時37分、総員退去令[279]。この時の艦長命令は「各自自由に行動せよ」だったという幹部士官の証言がある[280]。荒木勲(信濃通信長)や安間孝正(信濃軍医長)によれば、阿部(信濃艦長)は退艦命令を出すことを逡巡しており、横手克己(信濃砲術長)が「艦長! 総員退艦はまだですか」と進言したため、阿部艦長は退艦を発令したという[281]。10時57分[282](55分説あり)、潮岬沖南東48kmの地点で転覆し[282]、艦尾から沈没した[283]。「信濃」の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。出港してからわずか17時間であった[284]。攻撃そのものでは殆ど死傷者を出さなかったにもかかわらず、総員退去の命令が艦内放送装置が使えず巨大な艦内に伝わらなかったり、飛行甲板のエレベーター穴に吸い込まれたり、低温の海での漂流と強い波浪により[285]、多数の乗組員が行方不明となった[286]。沈没する艦体に多数の兵がしがみついていたのも目撃されている[287]。阿部(信濃艦長)は艦首で総員退去命令を出したあと[288][285]、「信濃」と運命を共にした[287]。中村馨(信濃航海長)や、総員退艦を進言した横手砲術長も「信濃」と共に沈んだ[281]。一方、
爆薬や燃料を搭載していない特攻兵器"桜花"が海面に浮かび、多くの乗組員が掴っている光景が救助作業中の「浜風」から目撃された[289]。戦後、武田が開発者の1人に会って桜花が人命救助に役立ったことを話すと、技術者は複雑な表情を浮かべたという[289]。 生存者は準士官以上55名、下士官兵993名、工員32名[290]。戦死者は「信濃会」の調査によると791名(工員28名、軍属11名を含む)[291]。建造中の110号艦(信濃)から逃亡したのち行方不明となった脱走兵2名も含まれている[292]。信濃御真影は浜風(駆逐艦長前川万衛中佐、海兵52期)に奉安された[293][290]。対空ロケット砲装備のため呉で待機していた技術者達は、入港した第17駆逐隊から「信濃」の沈没を知らされ、海軍の終焉を実感している[294]。沈没点は北緯33度06分、東経136度46分とされる[285]。現場の深度は6,000 - 7,000mと深い。「信濃」の探索は実施されておらず、正確な沈没位置は確定されていない。信濃沈没の報告を受けた昭和天皇は「惜しいことをした」と述べたという[295]。1945年(昭和20年) 4月7日、坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」と第二水雷戦隊の5隻(矢矧、磯風、浜風、霞、朝霜)が沈没、駆逐艦「涼月」も大破、帝国海軍が決行した最後の大型水上艦による攻撃となった。それにともない、沈没した2隻(大和、信濃)および空母「葛城」(健在)は第一航空戦隊から除かれる事になる[296]。4月20日、第二艦隊および第一航空戦隊は解隊された[297]。 8月31日、戦艦4隻(山城、武藏、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[10]。


沈没の原因[編集]

建造の練度不足のため十分な防水作業も出来ず、艦搭乗員も内部に精通したものが皆無だった[298]。配属されてから長い者で数ヶ月という状態では、被弾後に対しても突然の事態に混乱し、右往左往するばかりで、満足に応急処置すら実行できない状況であった。空母翔鶴運用長として珊瑚海海戦や南太平洋海戦で同艦の応急措置に奔走した福地周夫大佐(信濃砲術長横手克己大佐とは、海軍兵学校第52期の同期生)は、翔鶴処女航海(竣工昭和16年8月8日、初航海8月23日)と信濃処女航海を対比[299]。竣工直後の「翔鶴」でも乗員の訓練は不充分で、防水扉の閉鎖方法すらわからず、仮に魚雷が命中していれば「当時の翔鶴なら沈んだだろう」と評している[299]。大和内務科士官として艦内防御を担当した士官も、竣工時の大和艦底マンホールには不具合点が約500ヶ所(ボルトやパッキン不備、脱落、緊締不良、ボルト穴開け違い等)があり、時間をかけて順次改善していったと回想[300]。信濃沈没について、艦底マンホールに多数の欠陥があったと推定している[300]。また傾斜によって左舷の注排水弁が海中から上がってしまい、追加の注水が出来なかったという推論もなされている[301]。これには反対意見もある。その注排水についても、出港前に傾斜復元テストは行われず、また電源がどの程度の震動で故障するかも不明だった[302]。実際に排水ポンプは故障で作動しなくなっている[254]。突貫工事による影響で、ねじ山が根元まで切られていないボルトや2cmも隙間の空く防水ハッチ[303]、右舷艦尾に命中した魚雷の衝撃で艦首部分の甲板リベットから浸水する[304]、さらに隔壁の気密検査が未実施など、

竣工とは名ばかりの未完成艦であり、艦長の判断以前に魚雷命中の時点で沈没が確定されていたといってよい惨状だった
[305]。エンライト艦長の判断(魚雷の深度を約3メートルと浅くし、水線近くを浸水させることで重心点の高い空母の転覆を狙った)が適確で、信濃側の不具合に乗じる結果となった[306]。呉工廠造船部長として大和型戦艦1番艦「大和」の進水・艤装時を監督した庭田尚三(海軍技術中将)は、横須賀海軍工廠が気水密試験を省略したことについて「かような試験は手を抜こうと思えばできないことではないが、当事者として見れば責任上良心的にどうしてもそのような無責任な気持ちにはならないものだ」「このような地味な縁の下の力持ちのような試験作業は実に困難であっても、完璧を期さなくては現場技術者としての資格はないと私は信ずるのであります」と回想している[307]。「大和」も1942年(昭和17年)6月15日竣工を予定していたが、艦政本部からの要請で竣工を1941年(昭和16年)12月16日に早めた経緯がある[308]。牧野茂(大和型戦艦設計者)の話によると、「
大和型戦艦は1本目の魚雷命中で戦列を離れず、2本目でも戦闘力を持続し、3本目では沈没することなく基地に帰投可能」という方針で浸水計算がなされており4本目については十分な検討がなされていなかったと
述べている[309]。乗組員の訓練不足と慣熟不足、未完成艦だったことを考慮しつつ、牧野によれば「信濃の沈没責任全てが防水工事の不備にもとづくものであると断定するには忍びない」としている[309]。当時、海上護衛総司令部参謀を務めていた大井篤大佐は「火の用心はあまりしないで、消防士が悪いから丸焼けにされたとうらみを言っているように聞こえて仕様がなかった。根本的には航海計画が悪かったのだそれは敵の潜水艦およびその魚雷の威をあなどったことからきていたのだ(原文ママ)」と述べている[310]。軍事評論家の伊藤正徳の話によると、敵潜出没海面に3隻の駆逐艦の護衛をつけただけの夜間航海計画を立案した軍令部の責任が大きいと指摘している[311]。雪風下士官の豊田義雄は、護衛駆逐艦側の問題として、第17駆逐隊司令駆逐艦(浦風)の沈没と駆逐隊司令の戦死により指揮系統が混乱しており、各艦や「信濃」との連携が十分ではなかったと回想した[312]。12月28日、東京で三川軍一中将のもと信濃の沈没原因を調査するための『S事件調査委員会』が開かれた[313]。「信濃」は事故ではなく敵の攻撃を受けて沈没したため、建前上は査問ではなく調査の形がとられたが、委員会に出席した信濃の生存者は彼らを詰問する軍令部や工廠関係者に対し「脆い艦を作った造船関係、気密試験も省略させて出港させた軍令部、駆逐艦3隻だけの護衛で出港させた上層部」に対する怒りを抑えられなかったという[314]。会議の結果、責任を問われる当事者が多すぎたため、表立った処分を受けた者は誰もいなかった[315]。S事件の報告は『工廠工事の粗漏、水密試不施行等及缶乗員の復元に対する不徹底等』
だったという[316]。


追記:日本の航空機(軍用機)略述:


ー陸軍は戦闘機「隼」最新は「疾風」、いろいろ各種形も性能も雑多でたくさんあります「飛燕」「震洋」「雷電」などなど。山本五十六がブーゲンビル(ソロモン諸島)で帰らぬ人となったのは大型攻撃機「一式陸攻」(7人乗り)。新任の「古賀長官」は二式飛行艇(にしきひこうてい)は、大日本帝国海軍の飛行艇)で行方不明(殉職)。


ー海軍は「ゼロ戦」と「柴電改」「ゼロ」もいろいろな形旧型と新型(あまり詳しくない☆)。


ー「連合艦隊」(海軍航空隊)はマリアナ沖海戦から新型艦上爆撃機「彗星」攻撃機「天山」を投入(ベテランで優秀な操縦士は「珊瑚海海戦」「ミッドウエイ」で全滅していた。「マリアナの七面鳥撃ち」(アメリカの新型弾頭「VT信官」に太刀打ちできなかった。艦上機500喪失・連合艦隊は背骨を折られた)。


ー「信濃」は新編成の艦隊新型空母「葛城」(戦後まで残った)「天城」(呉軍港で停泊中撃沈)「雲龍」(フィリピン海上で沈没)の「旗艦」になるはずでした。


Attacked


At 20:48, the American submarine Archerfish, commanded by Commander Joseph F. Enright, picked up Shinano and her escorts on her radar and pursued them on a parallel course. Over an hour and a half earlier, Shinano had detected the submarine's radar.[27] Normally, Shinano would have been able to outrun Archerfish, but the zig-zagging movement of the carrier and her escorts—intended to avoid submarine attack—inadvertently turned the task group back into the sub's path on several occasions. At 22:45, the carrier's lookouts spotted Archerfish on the surface and Isokaze broke formation, against orders, to investigate. Abe ordered the destroyer to return to the formation without attacking because he believed that the submarine was part of an American wolfpack and that Archerfish was being used as a decoy to lure away one of the escorts to allow the rest of the pack a clear shot at Shinano. He ordered his ships to turn away from the submarine with the expectation of outrunning it, counting on his 2-knot (3.7 km/h; 2.3 mph) margin of speed over the submarine. Around 23:22, the carrier was forced to reduce speed to 18 knots (33 km/h; 21 mph), the same speed as Archerfish, to prevent damage to the propeller shaft when a bearing overheated.[28] At 02:56 on 29 November, Shinano turned to the southwest and headed straight for Archerfish. Eight minutes later, Archerfish turned east and submerged in preparation to attack. Enright ordered his torpedoes set for a depth of 10 feet (3.0 m) in case they ran deeper than set; he also intended to increase the chances of capsizing the ship by punching holes higher up in the hull. A few minutes later, she turned south, exposing her entire side to Archerfish—a nearly ideal firing situation for a submarine. The escorting destroyer on that side passed right over Archerfish without detecting her. At 03:15 Archerfish fired six torpedoes before diving to 400 feet (121.9 m) to escape a depth charge attack from the escorts.[29]Four struck the Shinano, at an average depth of 4.27 meters (14 ft 0 in).[25] The first hit towards the stern, flooding refrigerated storage compartments and one of the empty aviation gasoline storage tanks, and killing many of the sleeping engineering personnel in the compartments above. The second hit the compartment where the starboard outboard propeller shaft entered the hull and flooded the outboard engine room. The third hit further forward, flooding the No. 3 boiler room and killing every man on watch. Structural failures caused the two adjacent boiler rooms to flood as well. The fourth flooded the starboard air compressor room, adjacent anti-aircraft gun magazines, and the No. 2 damage-control station, and ruptured the adjacent oil tank.[30]
Though severe, the damage to Shinano was at first judged to be manageable.[20] The crew were confident in the ship's armor and strength, which translated into lax initial efforts to save the ship.[25] This overconfidence extended to Abe. He doubted the sub's torpedoes could inflict serious damage, since he was well aware that American torpedoes were inferior to Japanese torpedoes in both potency and accuracy. He ordered the carrier to maintain its maximum speed even after the last torpedo hit.[31] The resultant extensive flooding caused the carrier to list 10 degrees to starboard within a few minutes. Despite the crew pumping 3,000 long tons (3,000 t) of water into the port bilges, the list increased to 13 degrees.[32] When it became apparent the damage was more severe than first thought, Abe ordered a change of course towards Shiono Point. Progressively increasing flooding increased the list to 15 degrees by 03:30. Fifty minutes later, Abe ordered the empty port outboard tanks to be counter-flooded, reducing the list to 12 degrees for a brief time. After 05:00 he ordered the civilian workers to be transferred to the escorts as they were impeding the crew in their duties.[33]


Sinking


A half-hour later, Shinano was making 10 knots with a 13 degree list. At 06:00 her list had increased to 20 degrees after the starboard boiler room flooded, at which point the valves of the port trimming tanks rose above the waterline and became ineffective. The engines shut down for lack of steam around 07:00, and Abe ordered all of the propulsion compartments evacuated an hour later. He then ordered the three outboard port boiler rooms flooded in a futile attempt to reduce the carrier's list. He also ordered Hamakaze and Isokaze to take her in tow. However, the two destroyers only displaced 5,000 metric tons (4,900 long tons) between them, about one-fourteenth of Shinano's displacement and not nearly enough to overcome her deadweight. The first tow cables snapped under the strain and the second attempt was aborted for fear of injury to the crews if they snapped again. The ship lost all power around 09:00 and was now listing over 20 degrees. At 10:18, Abe gave the order to abandon ship; by this time Shinano had a list of 30 degrees. As she heeled, her flight deck touched the water, which flowed into the open elevator well, sucking many swimming sailors back into the ship as she sank. A large exhaust vent below the flight deck also sucked many other sailors into the ship as it submerged.[34]At 10:57 Shinano finally capsized and sank stern-first at coordinates 32°07′N 137°04′ECoordinates: 32°07′N 137°04′E), 65 miles (105 km) from the nearest land, in approximately 4,000 meters (13,000 ft) of water, taking 1,435 officers, men and civilians to their deaths. The dead included Abe and both of his navigators, who chose to go down with the ship. Rescued were 55 officers and 993 petty officers and enlisted men, plus 32 civilians for a total of 1,080 survivors.[20] After their rescue, the survivors were isolated on the island of Mitsuko-jima until January 1945 to suppress the news of the carrier's loss.[35] The carrier was formally struck from the Naval Register on 31 August.[20]
US Naval Intelligence did not initially believe Enright's claim to have sunk a carrier. Shinano's construction had not been detected through decoded radio messages or other means, and the American analysts believed that they had located all of Japan's surviving carriers. Enright was eventually credited with sinking a 28,000-long-ton (28,000 t) Hayatake (Hiyō-class) carrier by the acting commander of the Pacific Fleet's submarine force on the basis of a drawing Enright submitted depicting the ship he had attacked. The Americans only learned about the existence of Shinano after the war; following this


飛行甲板[编辑]


大和級戰艦設計最大艦寬為39公尺,艦上設置的飛行甲板的最大寬度為40公尺[37][38],也些有原艦員稱艦寬為50公尺[39]。飛行甲板為20公釐厚的DS鋼板再鋪設75公釐的NVNC甲板而成[40],裝甲部分的長度約210公尺、寬度約30公尺,和下部的機庫大小相同[38][41]。為了承受巨大的重量,「110號艦」的梁柱採箱型設計,有著14公釐厚的鋼鐵支撐著[42][37][38]。日軍的航空母艦中,最早將飛行甲板裝甲化的是「大鳳號」,該艦有部分飛行甲板為木質,而與其相對地,「110號艦」使用的是帶有锯末的水泥製甲板[41][2]。由於記取了中途島之戰的教訓,日軍在艦載機存放燃油的地方變更為飛行甲板,與日軍之前的航空母艦不同,放置炸彈和魚雷的地方也改為飛行甲板,成了
炸彈與魚雷升降梯不會通過機庫而直接送到飛行甲板的構造[43]。設置於裝甲板前後的艦載磯升降梯也和飛行甲板一樣為75公釐的NVNC甲板,前部昇降機(長15公尺,寬14公尺)的重量達180噸,位於第1主砲塔處、後部昇降機(長13公尺,寬13公尺)則為110噸,位於第3主砲塔處[40][38][41]。

機庫[编辑]

儘管「110號艦」全艦長達266公尺,卻只有一層為機庫[37][41]。當「110號艦」重新開工時,其艦身中央的施工進度已進展到中甲板附近[21]。倘若要建成多層機庫,「110號艦」船體重心會被抬高,再加上飛行甲板上裝有厚裝甲板,船體會變得不安定,為了避免造成問題,必須減輕上部構造的重量,因此只好僅建一層機庫[44]。大和級戰艦的上甲板在一號砲塔的附近有向下的斜坡,在二號砲塔的附近有向上的斜坡,這被稱為「大和坡」,為了設置艦載機的機庫,日軍還要將表面修整為水平[37][45]。包括對110號艦設計影響極深的「大鳳號」在內,日本幾乎所有的航空母艦都是密閉式機庫,「110號艦」則不同,於整備攻擊機處的前方約125公尺處為開放式機庫,以散發在受攻擊發生火災時發生的熱風,以及可投棄炸彈和魚雷[46][47]。為了讓「110號艦」可在夜間燈火管制時也能在開放式前部機庫進行飛機整備工作,該處設有帆布製的遮光幕,可以在內部開燈照明[47]。不過,開放式機庫的開放部分只有長度超過10公尺的開口部片舷各一處,實際上無法將飛機扔入海中[47]。收容戰鬥機的庫房為後部83公尺長之處,使用著特殊鋼板保護著,側壁也有25公釐之厚,為密閉式形態 [40]。「110號艦」在火災對策上頗為用心,設有可在機庫內每一處噴射的泡沫滅火裝置,以及在防御區劃內還有三處獨立的消防泵,在機庫側壁的幾個地方也設有指揮防禦的管制指揮所[47]。有資料稱飛機機庫內裝有舊式電燈和螢光燈,而船員居住區則只有螢光燈[48]。


艦載機[编辑]


當時預定搭載新型艦載戰鬥機「烈風」18架、艦載攻擊機「流星」18架、高速偵察機「彩雲」6架、另備用5架,共合計47架[3][49],而航空本部則是計畫搭載「烈風」25架(備用1架)、「流星」25架(備用1架)、「彩雲」7架(備用0架)[2],另外還可在甲板搭上1架「烈風」、7架「流星」、7架「彩雲」[2]。後來依照1944年10月19日航空本部的《航空母艦與艦載機關係報告資料》(空母及搭載艦関係報告資料),改為24架「烈風」24機(備用1架)、17架「流星」(備用1架)、7架「彩雲」(備用0架)[50]。不過後來烈風不被採用為艦載戰鬥機,改為搭載「紫電改」的艦載機型(見下述)。另外,「110號艦」的炸彈、魚雷、航空燃料的搭載預定量比「翔鶴級」、「大鳳級」、「雲龍級」要來得少,約為800公斤及500公斤炸彈90枚、250公斤炸彈468枚、60公斤炸彈468枚、九一式450公釐航空魚雷數枚,並考慮作為「中程基地航空母艦」來使用[49][50]。另外也有著機庫配置72架、甲板放置13架艦載機的說法[39]。

兵器[编辑]

計劃在舷側配置八九式127公厘高射炮8座16門(左右各弦4座)、九六式25毫米高射機炮141門(單裝、連裝、三連裝合計)、120公釐28連裝火箭砲12座作為對空火力[51][3]。出港時雖並未搭載火箭砲[52][53],但據志賀淑雄少佐(「110號艦」飛行長)和神谷武久(工人)的證言表示「110號艦」當時有配置其他兵器[54][55]。逃脫時,也

有人目擊在高射砲甲板上的高射砲彈在轉動[56]。

Construction[modifier | modifier le code]

Les Japonais ayant tiré les leçons du désastre de Midway donnèrent priorité au blindage durant la conversion du Shinano ; le pont d'envol, notamment, était recouvert de 17 000 tonnes d'acier et prévu pour résister à l'impact de bombes de 1 000 livres.Le Shinano était conçu pour être utilisé en soutien d'une flotte de porte-avions, grâce à ses vastes ateliers et ses réservoirs de carburant. Au début du projet, il ne devait pas posséder d'appareils propres. Toutefois, il finit par recevoir un hangar pour ses propres avions, mais le nombre de ceux-ci resta assez limité, n'atteignant que 47.De silhouette, il était semblable au Taiho, avec un îlot sur la droite englobant la cheminée inclinée vers l'extérieur. Sa grande largeur, plus de 36 m, avait une incidence sur sa vitesse, dans la mesure où, avec un appareil moteur de 150 000 CV, il ne filait qu'à 27 nœuds, soit 6 de moins que le Taiho à puissance égale. Le pont d'envol faisait 256 m sur 40 m et s'étendait de l'étrave à l’extrême arrière, sa structure faisant partie intégrante de la coque. Il possédait deux ascenseurs dans l'axe. Les chaudières et l'appareil moteur étaient ceux prévus pour le bâtiment lors de sa conception comme cuirassé2.La conversion du Shinano fut tenue secrète (les Américains ne découvrant qu'après la guerre l'existence du porte-avions géant (l’Archerfish fut d'abord crédité de la perte d'un porte-avions non identifié de 28 000 tonnes).
La perte du Shinano[modifier | modifier le code]
Le Shinano fut coulé le 29 novembre 1944 par un chapelet de quatre torpilles sur les six tirées en éventail à courte distance, en plongée périscopique, malgré la faible profondeur et la protection de trois destroyers, par le sous-marin américain USS Archerfish (sous le commandement du commander Joseph F. Enright), alors qu'il se rendait de Yokosuka à Kure ; le système de compartimentation de la coque n'avait pas été testé.Le Shinano n'avait pris la mer que depuis quelques heures à peine lorsqu'il fut repéré par l’Archerfish avant que le contact soit perdu, puis rétabli environ 10 heures plus tard. Le Shinano fut touché à 3 h 17 par les torpilles américaines mais continua sa route. À 6 h 0, l'inondation de la salle des machines était complète et le Shinano s'arrêta. Il sombra à 11 heures du matin, après 20 heures de mer seulement, emportant avec lui une bonne partie de son équipage, qui s'était rassemblé sur le pont d'envol pour assister au naufrage, en hommage au navire, au Japon et à l'empereur.Les survivants racontèrent qu'il fut impossible de maîtriser la montée des eaux dans le bâtiment, les rivets des compartiments étanches cédant les uns après les autres. Il semble d'autre part que le porte-avions avait un défaut de conception entre la coque épaisse anti-torpilles et le blindage aérien ; c'est précisément là que les torpilles de l’Archerfish, réglées pour frapper juste au-dessous de la surface, ont touché le géant, lui infligeant des dommages irréparables.Le Shinano demeure encore à ce jour le plus grand bâtiment de guerre à avoir été coulé par un sous-marin.

艦體與防護作業[编辑]


由於「110號艦」本為大和級的戰艦,因此在基礎設計上就具有超過航空母艦標準的防禦力,當該艦作為航艦重新設計時設定防護性能,舷側水線防禦要可承受自10,000公尺處發射而來的200公釐砲彈,水平防禦方面則是要能承受自4,000公尺高投下的800公斤炸彈的轟炸[17][57]。最早的設計方案是飛行甲板必須承受敵機以俯衝轟炸方式投下的800公斤炸彈,但由於增加甲板重量和製造能力等原因,變更標準為飛行甲板可承受500公斤炸彈的俯衝轟炸[17]。為了滿足這些要求,機庫天井處鋪設了20公釐DS鋼板和14公釐DS鋼板保護著。
在從大和型戰艦變更為航空母艦來設計時,「110號艦」的水線上側舷裝甲由410公釐減為200公釐,變成對付巡洋艦等級的裝甲[58]。主砲彈藥庫則直接改放航艦存放的高射砲彈、機砲砲彈、機槍子彈、炸彈和魚雷[37][59]。在主結構區域前後的重油罐部分還另外増設了飛機用燃油儲存庫[44],由於這地方本來就沒有裝設裝甲板保護,因此油罐除了原有的25公釐厚度外,還在上面裝了被解體的姊妹艦「111號艦」彈藥庫底部的80公釐裝甲板來補強[42][44]。原先計劃在油罐附近設置一塊中空區域來存放2,000噸的水,但因為吸取了「大鳳號」的教訓,改為填充混凝土[60]。艦底方面,為對應磁性水雷和艦底引爆的魚雷威脅,從自「大和號」和「武藏號」兩艦原設計的二重底部強化為三重底部[12]。「110號艦」並未裝設砲塔,也無戰艦級別的裝甲,艦體重量變輕,吃水上升了一公尺,和「大和號」相比,船腹的上端高度降低了一公尺[58]。而就在這個時間點之後不久,對本艦設計有強烈影響的「大鳳號」於1944年6月的馬里亞納海戰中被美軍潛水艦僅僅一枚魚雷就擊沉了,給日本海軍的相關人士們極大的震撼[61]。「大鳳號」的沉沒原因在於被魚雷命中後飛機燃油漏到了艦內,在6小時後引發大爆炸和火災。因此作為應急對策,「110號艦」的工作人員趕緊在幾天內將水線下的船腹與飛機燃油儲存罐附近再灌上混凝土固定[62][52][63]。最後公試常態排水量由初期計劃的62,000噸上升到68,000噸,使得變更船腹位置一舉變得毫無意義,海軍技術大佐牧野茂即批評稱其為「多此一舉」[58]。由於從飛行甲板到彈藥庫都用了重裝甲強化,「110號艦」的船殼重量和「大和號」相比增加了1,900噸、防禦重量增加了2,800噸、索具重量增加了1,200噸,合計共增加5,900噸,工數(工人數與工作時數相乘)也從由35萬增至40萬,施工量大為増加[40]。由於艦體內部巨大和極為複雜,「大和級」戰艦的内部被戲稱為「地下街」[64]。「110號艦」雖說是以航艦的身份來建造,但它也和「大和級」戰艦有著同樣的船體,曾有乘員在艦內迷路半天[65],甚至是工人要找到自己的負責區域就極其疲憊的傳聞






×

非ログインユーザーとして返信する