日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★La Imperiestro de Japanio★『戦争を教えて下さい』침략 범죄(侵略 犯罪)Агресія「天皇陛下万歳?」코바야시 요시노리「よしりん企画Projet Yoshirin」社長『J'aime les fleurs de cerisier - la montée du petit nationalisme japonais』 ≪わしズムВасидзуму≫ぷち・ナショナリズム「無邪気?」な若者たちへの贈物「悲話集」(CANADA🍁)2019/08

『戦争を教えて下さいー「満州」編』(ビデオ作品)          本多勝一
―戦争の風景を議論の余地なく教えてくれるー
『週刊金曜日』編集部の年末企画として、編集委員(6人)による「年末年始に見るならこの作品―編集委員オススメのビデオ」(2000年12月22日号)が特集された。この類の注文は苦手だが、とりあえずこの一篇を選んだ。年末年始と関係はない。1940年といえば、日米開戦の前年にあたる。俺は信州・伊那谷小学校3年生(8歳)だった。村の青少年が「満州開拓」に集団で出発するのを、小学校の体操場で歓送したことが、この頃からよくあった。その「満蒙開拓青少年義勇軍」の壮行会で斉唱した歌を今も覚えている。-「われらは若き義勇軍/祖国のためと鍬とりて/第二の祖国うちたてむ・・・」寒さのきびしい「満州」(中国・東北地方)は、寒い地方の者が適しているという政策だったらしく、信州も主たる動因対象地域であった。その1940年に、やはり信州から満州へ「義勇軍」として送り出された16歳の少女がいた。『戦争を教えて下さい』全3巻(監督・中村稔・製作・庄幸司郎)のビデオのひとつ「「満州」編」前半は、この少女・高山すみ子さんの回想録である。
現地で結婚した夫は、敗戦直前の1945年8月4日に現地召集された。形見に時計を残して去る。3歳の幼い長男が石の上にのって小さな手をふり、父親を見送った姿が、2人の子と夫との最後の別れとなった。そして8月9日のソ連機空襲。麦刈り中のところへ全員集合命令。雨の中を、防衛軍もないまま、ほとんどが老幼婦女子で逃亡生活へ。ソ連兵はもちろん、復讐心に燃える住民や武装強盗などからの襲撃におびえつつ、途中からは小集団に分散して、草やクラゲを食い、泥水を飲み、着物は破れおち、みんな下痢になって赤ん坊はたれ流し、傷口には蛆がわき、幼児が泣くと発見を恐れる者が「たたき殺せ」とどなり、地獄絵図の中で東方に手を合わせて祈る声に「天皇陛下」など絶無、「お父ちゃ、お母ちゃ」だった。
2週間後の8月24日、集団自決命令。まずは子どもを殺す(高山さんの語りは声涙ともに下り、苦渋に耐え難くなる)、3歳の子には「のんの(神)さんになるんだからね」と言いきかせると、喜んで信じたまま、背後から銃殺される。飛び散る頭蓋や血潮。まだ話もできぬ下の長女は「兎でも死ぬように」息絶えた。最愛の子2人を殺してしまった母親は気絶する。正気にかえると、集団自決の死体群の中にいた。わが子の死体に蛆がわいている。
親切な地元民に高山さんが助けられたのは、そのあとだった。当時を検証した末の高山さんの結論は、
天皇に責任がないなどという妄言への怒りだ。あの子たちも天皇に殺されたに等しい、と。高山さんがわが子を失う場面には、俺も自分の子たちの幼な顔とダブって、あとで思い出すだけでも泣けてしまう。
「満州編」の後年たる鈴木則子さんの体験にも集団自決寸前の様子があるが、もともと「開拓」が、実は地元農民を追い出しての入植だった事実も明らかにされる。「沖縄編」も「韓国編」も、戦争(日本の侵略)の具体的風景を、議論などの余地なく「教えて」くれる。
小林よしのり等の洗脳された気の毒な無知男は別としても、その世代の無邪気な若者にもぜひ見てほしい。図書館に備えてもらうのもよい。
『戦争を教えて下さい・満州編』1996年「影書房」=「沖縄編」「韓国編」を合わせた3巻セットで2万4000円、分売は1巻8000円。沖縄編は1万円。東京都北区中里3-4-5-101電話03-5907-6755。
『週刊金曜日』2000年12月22日(『本多勝一の戦争論』(「侵略」をとらえる目・新日本出版社・2003年・P、87~89)
『戦争責任』(家永三郎(岩波書店)1984年)第3章 日本国家の責任はどのような点にあるか
1944(昭和19)年夏、米軍が日本人住民の多数居住しているサイパン島を攻略したとき、多くの日本人婦女子が北端のマルヒ岬の断崖から投身するなどの集団自決をとげた。その状況を取材した米従軍記者ロバート・シャーロッドの報告を『毎日新聞』1944年8月20日が「青史に サイパン邦人の最期」という見出しでストックホルム特派員発報道として詳細に紹介しているが、シャーロッドの報告を単行本にまとめた『サイパン』(中野五郎訳)を見ると、日本の新聞には記されていなかった次のような一節を見出すのである。
「この岩石重畳たるマルヒ岬の一帯に四散して立てこもっていた日本兵たちは、降伏することを回避するためには、どんな極端な行動をとることもあえて辞さないのみならず、軍人以外の在留邦人が降伏しないようにするためにあらゆる努力をしたのであった。海兵部隊は、いまわれわれの立っている断崖のちょうど、下方にある一つの洞窟のなかより1名の日本軍の狙撃兵をたたきだそうとくわだてていた。(中略)そのあいだに、この日本兵は別の仕事をしたのだ。彼は、あきらかに父親と母親とその4人の子供たちと見られる日本人の一団が岩上に立って、打ちそろって投身自殺をはかろうとしながら、たしかにその覚悟がにぶって 巡しているのを発見したのであった。するとこの日本軍の狙撃兵は、この一団に狙いをつけた。そしてまず最初に、父親を背後より一発で射ち殺して、岩上より海中へ転落させた。ついで彼の恐るべき第二弾は母親に命中した。彼女は苦しそうに岩上を三十ツイートも身体を引きずるように這っていった。それから彼女は鮮血にまみれながらのた打ちまわった。かくて狙撃兵は、いよいよ残る子供たちを狙って狙撃するところであったろうが、この日本人の母親はにわかに立ちあがって岩の上をかけだして、子供たちを射程外に連れさった」。
山内武夫『怯兵記 サイパン投降兵の手記』には、洞窟内に敗残の日本兵の一群と非戦闘員住民の一群との隠れていたときに生じたできごとの目撃談が書きとめられている。
「洞窟のなかには10名前後の避難民がいた。ほとんどが女だった。赤ん坊の泣き声がしきりにしていた。食うや食わずで水もない一ヶ月の恐怖にみちた逃避生活で乳が出なくなり、痩せ衰えた赤ん坊はせっつくように母乳を求めていたのだ。(中略)そのとき・・・「赤ん坊を泣かせるなっ!敵がそこにおるんだぞ。どうしても泣きやまぬ奴はこの洞窟を出ろ!ここにいたい者は、すぐに泣きやませろ!」下士官が有無を言わせぬ口調でそう命令したのである。女たちが必死になって赤ん坊をあやしはじめた。赤ん坊は泣きやまない。「兵隊さん、お願いです。乳が出ないんですよ・・・泣かせないようにしますから、ここに置いてください」下士官は居丈高に言った。「俺たちは戦闘しとるんだぞ。邪魔になる奴はここに置いとくわけにはいかん。嫌なら出ていくんだ」私は成り行きを見守っていた。赤ん坊はなおもあちこちでピーピー泣いている。下士官が怒鳴った。「俺が命令する。赤ん坊は殺せ!戦闘に邪魔になる者は一人たりともここにいることを許さん。赤ん坊はすぐ殺せ!命令だ!」洞窟内に恐怖と絶望の空気が波立ちはじめた。取巻きの兵隊たちが「命令」を実行しかかっている気配がしていた。「やめて!・・・わたしがやりますから・・・」兵隊が手にかけるまえにとうとう一人の母親が決心して自分で赤ん坊の首を絞めた模様である。すると一人の母親が赤ん坊を連れて洞窟の出口に進み、下士官にむかって涙声で言っているのが聞こえた。「赤ん坊を殺すくらいなら、弾丸に当たって死んだ方がましです。私は出ていきます。どうせ私たちは死ねばよいんでしょう・・・」私は息を呑んで、その恨みをこめた母親の声が洞窟の外に出ていくのを聞いた。洞窟のなかに赤ん坊の泣き声は消え、母親たちのすすり泣きの声と、「坊や、許してね。お母さんもすぐあとから行きますからね・・・」という呟やきが聞こえた」。
これとそっくり同じような事態が、1945(昭和20)年3月にアメリカ軍が沖縄に上陸した激烈な戦闘の展開された沖縄本島南部のいたるところで現出したことは、『沖縄県史9 沖縄戦記録1』『同10 沖縄戦記録2』『那覇市史戦時記録資料篇第2巻中の6』所収の県民の体験談のいたるところで語られているとおりである。一例をあげる(『沖縄県史』所収大城永善談話)。

「子供の父親は、来て半時間ばかり経つと、壕をさがしに行くから、この長男を見て頂戴ね、といって出て行ったが、夜中になっても来ない、夕方出て行った人がですね。それで子供は、泣くわけですよ。お父さんよう、お父さんよう、と呼び叫びながら泣くんですね。それで田野兵長から命令が下ったのです。この子供を殺しなさいといって、命令を受けたのはわたしです。うちはですね、聞かん振りをしたんです。わたしが聞かん振りをするものだから、今度は玉本衛生兵に、これを押しつけたんです。この衛生兵は(中略)他府県出身者で、沖縄県人ではありませんでした。命令を受けたので、この玉本衛生兵が、階段へ斜に寝かしてそのままやったんです。やったら1回目は呼吸も止って、死んでいると思ったのに、起きて泣いたんです。またも締めたですよ首を。締めたら物も言わないで、2回目の時は目をキョロキョロさせている。3回目やったんです。そしたら3回目には完全に死んでいました」。
非戦闘員住民が米軍に投降するようになると、日本軍は投降して生命を全うしようとした日本人の虐殺を始めた。『潮流時報』73号掲載安仁屋政昭「沖縄における日本軍の残虐行為」には、島袋ツルの次のような談話が紹介されている。
「5月12日の真夜中、十数人の日本兵がやってきて、私たちをたたきおこし浜べに集めました。集まった30名ばかりの避難民を砂浜に座らせ、「オマエらはこれでも日本人か、アメリカの捕虜になって恥ずかしくないのか!」といったようなことをわめきたてました。私は信子と文子を右わきに座らせ、政子を抱き、幸子を左ひざにかかえるようにして座っていました。(中略)14,5人の兵隊の中から「用意はできたか」というどなり声がきこえました。「そして、1,2,3」というかけ声とともに手りゅう弾が私たちの中に投げこまれたのでした。その一発で信子と文子は即死しました。信子はわき腹を裂かれ、はらわたがあふれ出ていました。そのあと、もう一発投げこまれたということですが、私の記憶にはありません。一瞬にして地獄と化したさまは、この世のものとも思えませんでした。(中略)浜べに集められた住民は、いわゆる避難民ばかりで、浦添村、那覇市、読谷村の人たちです。私の内間部落の人もいました。伊波カメさんは娘さんを殺され、金城よし子さんは重傷を負いのちに病院で死にました。私たちを虐殺する直前に、私たちのリーダーと目された男のかた2人が殺されています。(中略)2人は読谷村出身の人で、村会議員だったようです。この人は、渡野喜屋部落に入る手前の道ばたで、一本松にしばりつけて胸を数ヶ所も銃剣で突きさされ、刺し殺されました。あとでその一本松のところへ行ってみましたが、おびただしい血のあとが残っていました」。
日本軍は、沖縄県民を準植民地住民視し、蔑視と不信の目で見ていた。多くの住民がスパイ容疑で日本軍に殺されたのは、日本軍将士の胸裡にそのような根深い偏見が潜んでいたからである。朝鮮人と結婚した県民女性とその子たちに対する虐殺は、朝鮮人への蔑視・不信と重なり合って生じた惨劇である。日本が降伏して5日もあとの8月20日、沖縄本島で沖縄女性と結婚し久米島に移住していた谷川昇(日本名)一家の虐殺事件は、日本軍による沖縄県民虐殺事件のなかでも、もっとも残忍な一例であろう。大島幸夫『沖縄の日本軍 久米島虐殺の記録』には次のように記されている。
「谷川昇(50歳)、妻ウタ(37歳、本名美津)、長男一男(10歳、国民学校4年)、長女綾子(7歳)、2男次夫(5歳)、2女八重子(2歳)、幼児(生後数ヶ月で未入籍) ウタさんは再婚であり、一男君は連れ子だった。(中略)何人かの目撃者がいた。その証言によれば、ウタさんは恐怖にふるえながら「私はスパイはしてませんよ」「私の弟も軍人ですよ」と懸命に日本兵に訴えた。それでも、日本兵が殺意をむき出しにすると、「子供だけでも助けて下さい」と必死だった。(中略)どんな訴えも、殺人集団には通じなかった。ウタさんは、背後から首筋を斬り込まれた。激しい悲鳴。帯が切られ、ウタさんは背中からひきはがされた乳吞子にも、容赦なく凶刃が襲いかかった。そして、泣き叫びながら逃げようとした一男君の頭にもー。無抵抗な母子3人のなぶり殺しであった。(中略)谷川さん父子は宇鳥島の知人宅に身を寄せ、その防空壕に隠れたが、まもなく日本兵の追手にかぎつけられ、引きずり出された。数人の「殺し屋」たちが谷川さんの手足をしばりあげた。首にはロープをかけた。そして、生きた状態のまま海岸まで数百メートルも引きずって行った。島鳥海岸に着いたとき、谷川さんはすでに息絶えていた。目撃者の1人糸数重光さんの話は鬼気せまる。「旧盆入りで、こうこうと明るい月夜の晩だったですよ。村民に変装した日本兵が10人くらいで砂浜へ谷川さんの死体を捨てたのです。そのうち、兵隊の1人が小さな子供を抱えてきて死体のそばに投げ落としたと思ったら、死体にとりすがってワアワア泣く。その子供に銃剣を浴びせたんですよ。何回も何回もトドメを刺すように切りきざんでいました。私はもう恐ろしくて膝がガクガクして・・・日本軍に死体の処理を命じられた私たち警防団員は、泣きながら海岸に穴を掘って埋めたのです。子供の断末魔の悲鳴がいまも耳に残るようで・・・本当にかわいそうだったですね」。日本兵は、はじめ「見せしめだ、ほっておけ」と言い放ったそうである。そのあとで、糸数さんら居合わせた警防団の青年たちに「死体の始末をしろ」と命じたのだ。残りの幼い姉妹2人は逃げるあてもなく、自宅裏で呆然としていた。虐殺の魔手はここにものびた。「母ちゃんのところへ連れて行ってやろう」-殺し屋は言葉たくみに、泣きじゃくる姉妹を宇山里方面の松林に拉致し、惨殺してしまった。姉妹の死体は、数人の女子青年団員によって発見された。首に縄が巻かれ、死体は並んでコモをかぶせられていたという。こうして、谷川さん一家7人の壮絶な虐殺は完遂された」。
日本軍が非戦闘員同胞の生命など塵芥同然と考えていたからこそ、このような残虐行為を平然としておこなったのであった。左の体験談は、軍の同胞に対する意識をよく物語っている。
「島尻から球部隊の兵隊がやって来ました。それで、隊長でしょうね、日本刀をさげていましたから、指揮しているのであったでしょうが、「お前たちはこの壕から出ろ」といいました。(中略)「わたしたちは子供もこんなにいるんですから、壕はたくさんありますから外に考えて下さい」といったんですね。そうしたら、「君たちはみんな死んでもいい、兵隊は1人でも死んだらどうするか、君たちの戦争ではないか、きかなければ殺すぞ」といって、日本刀を抜いてわたしを殺そうと構えていたんですよ。それで、「ああ、そうですか」といって、わたしたちはみんな出ました」(『沖縄県史9』所収城間英吉談話」)。
このようにして壕から追い立てられ、敵弾雨飛の渦中に死んでいった人たちがどれくらいいたであろうか、直接手を下したのでなくても、日本軍に殺されたと同然といってよかろう。日本軍は住民から食糧を強奪し、女性を姦淫した。
「父の友人は、(中略)すでに米軍の補給基地になっていた羽地や名護でイモを手に入れ、家族が待っている山の中の避難小屋へ急いでいる道中、「友軍」に呼び止められた。「お前らが持っているものが食料であることはわかっている。われわれはこれから敵陣に斬り込みを決行するつもりであるが、腹が減ってはいくさにならん。食料を置いていけ」とのっけからすごんで殺気さえ感じられたという。そこで父の友人が、(中略)「小屋で家族が待っているから」といって、半分ずつ分け合うことを提案した。ところが「軍人にさからうとどういうことになるか、わかっているのか」と銃を構えたり、軍刀を抜き差しするので、食料は断念せざるを得なかった。そして泣くに泣けぬ気持ちでその場を立ち去ろうとすると、こんどは「持っているくわを置いていけ」といわれた。(中略)避難民にとって、くわは食料獲得の貴重な道具であるばかりか、食料を求めて山から山への移動を余儀なくするさいの避難小屋づくりに欠かせないものであった。「こればかりはかんべんしてください」と懇願したが、つかつかと寄ってきた「友軍」たちは、(中略)強引にくわを取り上げようとした。(中略)父の友人の必死の抵抗が余りにも強く「友軍」たちを圧倒しそうな勢いになったところ、もうひとりが銃声一発、胸部を姦通し、さらに倒れかかるところを日本刀で斬りつけたという(『那覇市史戦時記録』所収平良亀之助手記)。「細川護貞日記」1944年12月16日条に沖縄視察から帰ってきた人の視察談として、沖縄の日本軍が「島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は恥辱せらる等、恰も占領地に在るが如く振舞」をしているとの記述が見えるが、米軍上陸以前すでにそのようであったのであるから、地上戦闘開始後の住民に対する残虐行為の連発も、怪しむに足るまい。沖縄県非戦闘員の死者総数について、同県沖縄資料編集所の大城将保氏から私信で示教されたところによると、公式の調査のおこなわれたことがなく、正確な数字は不明で、推定にすぎないが、現在では県生活福祉部『沖縄の福祉』所載の「(本土兵・沖縄県出身軍人軍属を除いた住民の)戦闘参加者55、246、一般市民(推定)37,754」という数字によるほかない、とのことであるが、正確な数は確認できないにしても、10万内外の非戦闘員が戦火のなかで死んだことは、ほぼ認めてよいであろう。(196頁―203頁)
日本軍の占領地にも多数の非戦闘員日本人が移住・滞在しており、敗戦により敵軍または現地住民の攻撃を受け、あるいは逃避行のなかで、または抑留生活を続ける間に、殺されたり自決したり飢餓・病気で死んだりした死者数は莫大な数を算する。フィリピンで生じたこの種の悲劇の一例として『婦人画報』1948年4月号所載益富鷲子の「孤児を育てて「愛隣園」における南方引揚戦災孤児の生活記録」に見える一哀話をあげておこう。マニラでガラス商を営み幸福な生活を営んでいた一家族が戦争のためにどのような悲惨な運命をたどることになったか、ただ‘1人生還した12歳ぐらいの少年の綴った作文の一節である。
「村長さんから山ににげる様にいってきたので、お父さんは車をつくりました。(中略)ぼくは、馬のたづなをひき、お父さんとお母さんが車をおします。6つの妹は、車にのせて、9つの妹は、ついてきました。(中略)毎晩々々車をひっぱってあるきました。坂にきたときに馬があるかないのでむりにおすと、大きな石にぶつかつて、車がこはれました。(中略)ある時、5人で山をあがつてゐますと、急に雨がふつてきました。(中略)坂をおりると、そこのみちは、用のみちです。そのみちは、石がいつぱいあつて、あるきにくいみちです。ころんだり雨にぬれて、ビシヨぬれになりました。あんまり雨がひどくふつたので、川の水がふえて渡れなくなりましたので、しかたなく川のへりにもうふをはつて、そこにやすみました。そこにゐるあひだに、お母さんがかつけになるし、お父さんはけつべんをしましたので、先に行くことが出きなくなりました。(中略)ひるごろお父さんが、はらがいたいといつたので、川かみにいた、へいたいさんのところへおくすりをもらひに行きました。すると、しばらくたつて見ると、もうお父さんは、かたくなつて、死んでいました。(中略)お母さんが、もう一晩いつしょにねて、あしたの朝早くへいたいさんに川へながしてもらふことにしました。(中略)川へながしたあと、お母さんが、お父さんのしやしんをだして、もうお父さんとあへないから、このしやしんをだいじにしなさいといひました。その晩、又、ひどい雨がふつてきて、みんなきものやなんか、ながされてしまひました。(中略)あくる日のおひる、お母さんがなくなりました。そのときに妹が、もうお母さんはなんにもいはないから死んだといつたので、見ると、ほんとに、もうそのときには、お母さんは死んでいました。(中略)そのうちにお母さんのしがいもくさくなりましたので、ひつこしをしようといつたのですが、6つの妹は、どうしても、お母さんから、はなれないといひます。9つの妹は、いこうといひますので、しかたなくお母さんに、白いもうふをかけて、2人でひつこしをしました。しばらくたつて見ると、もう妹とお母さんは、きものをきたままで、白骨になつて、かみのけもなく目もなく、目には、穴があいていて白骨になつていました。(中略)へいたいさんが、山からおりていきますので、ぼくたちも、2人でいきました。そのときには、いもうとは、たつこともできないので、いぬのやうにはつてあるきましたが、とちゆうまでくると、もうあるけないといひました。けれど、ついておいでといひましたが、いやだといつてきませんでしたので、しかたなくぼく1人でいきました。妹はにいちゃんとよんでいましたが、1人でいきました」。
もっとも大量の犠牲者を出したのは、「満州国」居住の日本人であった。ことに開拓農民として「国策」にそって移住してきた人々、開拓青少年義勇軍隊員として学校教師の強い勧誘を受けて入植した青少年たちは、ソ「満」国境に近い地域の開拓村で農業にはげんでいたが、万一の場合に護ってくれると信じていた「無敵」関東軍は、彼らを置き去りにして後退し、彼らは知らないうちに軍から棄てられて、ソ連軍の進撃とかねて日本人の圧制への怒りをたぎらせていた現地住民の蜂起との前に身をさらさねばならなかったのである。南方戦線へ兵力を 出されて弱体化した関東軍に対し、大本営は1944(昭和19)年9月19日の命令により、「満州の大部を放棄し」「南満北鮮にわたる山地帯を確保して持久を策する」新作戦要領を与え、さらに1945年8月ソ連が対日宣戦布告をおこなったのに対し、10日関東軍に対し「来攻スル敵ヲ随所二撃破シテ朝鮮ヲ保衛スベシ」との命令を発した。こうして関東軍の防衛線は、前年すでに「通化・臨江付近を中心とする鴨緑江両岸の山地帯」まで後退する方針に転換していたが、ついに「満州領域は放棄」ということにたちいたったのである。このような後退に先立って「国境付近の居留民を引揚げることは軍の企図を暴露し、ひいてはソ連進攻の誘い水となる虞があ」り、かつ「満州国原住民に対して動揺を及ぼすことが懸念され」たために、すべては極秘の裡に進められ、何も知らぬ辺地の開拓日本農民団は国家から見棄てられた形となって、悲惨な運命を迎える結果となったのであった(以上『戦史叢書 関東軍(2)』)。
『読売新聞』1948年4月30日には、「小山銀座開拓団の最後」と題し、東京都品川区荏原小山町武蔵小山の商店街の人々1079名が渡満入拓したが、そのほとんど全員がふたたび祖国の土をふむことのなかったことを伝え、「私は関東軍首脳部の無責任を一生呪うであろう」という言葉から始まる、唯一人の帰国者足立守三(当時56歳)の記録を掲載している。
「いままでは善良だと思っていたその住民がまるで手のひらをかえすように敵になった。(中略)不安の夜があけた。明るくなると急に元気が出て南方白城子へ向って脱出してはということになった。駄馬車十台がととのえられ病人と荷物をのせ800名の婦女子を真中に前後を70余人の男子で警戒した。(中略)日が暮れて谷間に到着した。せせらぎの音が一日中水を飲まなかった人々の思慮を忘れさせ、最も地の利の悪い小川へ人々が競ってかけおりたとき、折から雲間を出た月の光に照準を合せ、暴徒の一団が一斉射撃を加えて来た。死んだのは2,3人であったが、それが肉親であったことを知ったとき、その家族が服毒し、ここで8人を失った。(中略)午後2時ごろソ連機が1機超低空でかすめたと思うと、呼応するように付近の高地から小銃弾が飛んで来た。といままで親切だった部落民がこれまた手に手にえものをとって襲いかかってきた。ふと東方の山麓の草原に数台のソ連戦車がジーッとこちらをにらんで停っているのが見えた。戦車そのものはわれわれになんの手出しもしなかった。しかし暴民によって殺されて行くわれわれの姿を見守っているのだ。いまはこれまでと誰もが思った。恐怖心は消え去って憤怒だけがもりあがって来た。婦女子を真中に円陣を作った。17,8の少年が数人、荷車から馬をきり離すとそれに乗って暴民の中に躍り込んで行った。戸田、長谷川、中村いずれも60を超えた老人が棒切れをもってこれまた暴徒の群へ、私もその1人であったが、背後に異常な叫び声を聞いてふりかえった。夜叉の如き形相の女たちがあっちでもこっちでも我子の首をしめ我子の胸をつき刺しているではないか。夜になった。生き残った数名たちは期せずして集まって来た。男のかん声や叫び声もいまは不思議に静まりかえって、月の光の中に死体だけが転がっていた。私の妻と娘は相抱いて服毒自殺をとげていた。山崎団長も妻子をすでに失っていた。「私は家族の側で死にたい」、老団長はそういい、私に愛用のパイプをくれると、毒をあおった」。
かろうじて故国へ帰ることができたのものの、永久に回復できない肉体の障害を背負って戦後の生活を歩まねばならぬ人々もいた。『朝日新聞』1948年9月13日には、失明の身となって引揚げてきた13歳の少女船木玲子の苦難を報道している。
「満州の黒河で終戦となり、大工だったおとうさんは病気で倒れ、おかあさんも間もなくわたしと妹まき(11)を残して亡くなってしまった。それから50歳ぐらいの日本人のおばさんに連れられ、南へ南へ遠い長い旅でした。歩きつかれると妹は泣いたが、「おかあさんのお国へ帰るのよ」と励まし合って歩いたの。(中略)昨今の冬やっと奉天に来たとき、おばさんは「お金がないから」と奉天砂山町のチャンピン(菓子)屋へわたしを売ったの。3千円のお札がおばさんに渡るのをわたしはじっと見ていた。チャンピン屋はわたしをロバのかわりに買ったのよ。わたしはそれから大きい大豆うすを押しました。わたしはそのころまだ11歳だったので、うすの柄に小さい身体をつけてもびくともしないの。そこでわたしはその柄になわをつけ肩からかけて地をはうように朝から晩までグルグル回った。はじめは目が回った。支那服も破けた。重いのでハダシになってなわをひっぱった。(中略)食事は大豆のかすを食べたの。1年もいたがわたしはとてもやせたし元気がなくなってきた。それに去年の春に目がだんだん見えなくなってきたの。そして今年の冬にはもう石うすの上にのっている大豆さえ見えなくなってしまった。空のうすをひいていると主人がしかってわたしを町へ捨てたの。わたしの目はもう昼がなくなって夜ばかりになってなにも見えない。地べたに倒れて「おかあさん」と泣いていたの。2日目ぐらいだった。「おや日本の子だ」、こういって日本人の岡という女の人がわたしを拾ってくれた」(P,210-212)
第2節 ソ連の戦争責任
(中略)戦争責任の究明を、特に当時の敵国であった国についておこなうときには、真に相手側に反論の余地のない事項につきおこなわなければならない。本書の著述の目的は、第7章に述べるとおり、過去の批判的考察を通じて悲劇の再来の阻止、世界平和の確立のためになされるのであるから、疑問の余地の大きい理由を以てする非難は、生産的でないばかりか有害きわまると考えるのである。ソ連の対日責任は、日ソ中立条約違反とか南千島の「不法占領」などに求めるべきではなく、対日開戦後におけるソ連軍の在満日本人非戦闘員に対する残虐行為とソ連の日本軍将兵多数の長期抑留とに求めるのが相当である。ソ連軍が「満州国」に進撃して以来、関東軍に遺棄されて保護者を失った在満日本人非戦闘員に対して殺害・掠奪・暴行などを加え、特に多くの女性を強姦したのは、おびただしい体験者の証言があって、公知の事実と言ってよい。同じく満州に進撃してきた第八路軍の軍紀がきわめて厳正であったために、そのあざやかな対照がいっそう深く日本人に印象づけられたのであった。例によって、具体的描写をふくむ典型例のみを紹介する。愛知人権連合『人権のひろば』連載(第三章第2節二1ですでに引用)の佐藤とし子『わが子への遺書 引揚者の記録』から。満州で敗戦を迎えた筆者の克明なノートを基に活字化された文章である。
「8月26日ともなれば、傍若無人に闊歩しては部屋部屋に青い目をギョロつかせ、人々を物色して連れ去ろうとするので、若い娘は顔に炭や灰を塗り、髪を切り、なるべく黒っぽい衣服を身につけ、赤ちゃんを借りて負んぶしたりしてソ連兵の目を避ける工夫をするが、どうして娘とわかるのかしら、帯ヒモを切って赤ちゃんをほうり投げて娘を引きたてる。拳銃をつきつけて嫌応なしに連れ去る憎らしさ、情けなさ・・・。この部屋に娘が2人いた。やっと16歳の芳子は2度も引っ張られて行った。娘だから恐怖して死にもの狂いの抵抗をする。しかし同室のものたちはかばうどころか、反対に「目をつけられたのは運が悪いのだから仕方ないでしょう。どうせ振り切れるものではないのだから行きなさい。行かなければ皆が迷惑するから」と無情なことを云い出す。人のいい芳子の母親はただオロオロして見ているばかり。暫くして帰ってきた娘は、ワッと畳に打ち伏していつまでも泣いている。泣きじゃくりになるまで・・・。当時25歳の私は若い方なので、腹立たしくても口の出しようもなく、娘なみに戦々競々として、どうして隠れようかとおびえていた。(中略)夜でも懐中電灯を照らしてはコツコツと靴音をさせてやってきて「マダム、ダバイ、ダバイ」とぬかす。(中略)なにか異様な、一種変った響きが伝わってきた。だんだんそれがハッキリしてくる。もう自分の身が不安になる。子供のうめき声、呻き声、「助けて」の声も混っているようだ。(中略)断末魔の叫びもだいぶ落ちついてきたころ、2,3人のソ連兵が懐中電灯の光の尾を振り廻して一つ一つの部屋を調べ、何やらしゃべりながら通りすぎた。きけばその部屋で昼間連れ去られようとする娘を、殴られてもどうされても構わず一心にかばう母親に業を煮やしたソ連兵が、娘をつき飛ばしその場で、衆人の目の前で母親に暴行したそうだ。その野獣行為・・・。精根つき果てたその部屋に幸か不幸か青酸カリを持ち出した人があり、一定畳づつ皆に配り、残りはつぎの部屋へ、またつぎの部屋へ・・・。そうして二部屋で40人ばかりの人が苦しみ悶え、死にきれぬものはお互いに頚動脈や手首の静脈を切って部屋中を血に彩り、のたうちまわって、人と人、人と荷物が重なりあって死んでしまった」。
いまひとつ、『凍土からの声 外地引揚者の実体験記』所収山村文子「将校の訓示」に関東軍を見た」から。
「一ばんこわかったのはソ連兵である。濁った目をした五分刈り頭のソ連兵が、軍靴で人々をところかまわず蹴りあげ、うむを言わさず時計、万年筆を取りあげた。5つも6つも腕につけた時計を見せびらかし、ひとり悦にいるのを見た。ダワイと大声で身につけている品まではぎとった。女性を狙って毎夜のように難民収容所に押しかけてきた。娘さんが泣き叫びながら、大男のソ連兵にかつがれては行方知れずになった」。
このあとに八路軍の将兵の行動の記述があって、ソ連兵とのコントラストをきわだたせている。
「八路軍兵士は私達を使役に使う時、必ず代償を払い、また人間として扱った。ある日、幹部と思われる1人の八路兵に声をかけられた。「どこから来ましたか」「子供は」「今どうして暮していますか」と、矢継ぎ早やにしかも丁寧な質問。「お子さんはかわいそうなことをしましたね。中国も大きな犠牲を払いましたが、あなた方も犠牲者です。これからはあなたの国も、私の国も大きく変るでしょう」と。その人の目も、同行の少年兵の目も生き生きと美しかった」(P339-342)
(中略)国家に自国の過去のあやまちに率直な反省を加えるのを期待することの困難が、ソ連に対してばかりでなく日本に対してもいかにむつかしかったか、教科書検定において私たち日本人自らが切実に体験したところであるけれど、国家のレベルではなく、人民のレベルにあっては、必ずしもそうではない。すでに本章第1節で見たとおり、アメリカの市民の間では、少数ながら原爆投下への自己批判が現われているのであるが、それと同じような事実を告げる次の記録は、まことに感動的である。
「私はこの夏、シベリアのブラーツク市に数日泊まった。仲間数人と歩いていると、1人の労働者がよろよろと近づき、私がつかまった。やりとりの末、いうところは次のようであるらしいとわかった。「私は元飛行士で、あなたたちの軍隊を襲撃した。アメリカとの約束で仕方がなかったんだ。許してくれ。このおれがわびていることを、日本の皆さんに伝えてくれ。頼む!」しまいには涙声。私の約束に、彼は握手を求めて、またよろよろと去っていった。28年前、私は満州にいた。頭上を機が飛びかった。その中に彼がいたのかもしれない。(中略)君との約束を今果す。」(『朝日』1973年8月23日反町孝治投書「涙でわびたソ連労働者」)
23日付の「涙でわびたソ連の労働者」に感動した。私もかつて満州で鉄道従業員であった関係上、ソ連占領下でソ連の人たちと付き合った。日本に引き揚げるため、家族のいる新京に旅立つ際、ソ連の人が私のために送別の会食会を開いてくれた。席上、1人のソ連人が私の手をとり「私個人の考えだが、われわれは日本人に申し訳ないと思っている。国と国との間では個人の力ではどうしようもないのだ。戦争という異常心理の下では、いまわしいトラブルは私共の力では防げなかった。わかってくれ」と声をつまられてあいさつした。私は彼の手を握り返し泣いた」(『朝日』1973年8月29日佐藤農夫雄投書「われわれもソ連、中国に人にわびる」)
あとの投書者は、前の投書者の体験と自己の体験とを重ねあわせ、「われわれは日本人として心から反省し、あなた方ソ連の人や中国の人たちにわびなければならない」と文を結んでいる。日本国憲法が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、戦争の放棄と戦力の不保持とを決意したのは、かような「民」のレベルでの「信頼」関係の累積・発展に期待をかける意志の表明であって、「諸国家の公正と信義」を妄信する意味と読んではならないと確信する。地の塩ともいうべき良心の持ち主は、国境と人権とを越えて世界のいずこにも見出し得るという事実を知ることは、あまりにも非人間的な状況にみたされた世界であるだけに、私たちにとりいっそう大きな救いとなるのである(344-345ページ)

第1節 米国の戦争責任
(中略)米国の日本に対する戦争責任として、無差別大量虐殺に比べれば規模ははるかに小さいけれど、米軍の占領後に米軍将兵が日本人非戦闘員に加えた暴行・殺人、特に女性強姦の頻発をあげておかなければならない。『沖縄県史 沖縄戦記録』には、その種の事件の証言が散見するが、今「記録2」所載喜屋原カナの談話を例示として引用しておく。

「アメリカ兵3人が近づいてきて、私達が、パーキ(カゴ)に入れておいてあった砂糖をのぞき込んで勝手にとって食べ(中略)、突然、若い娘だけを引っ張り出して、小さな丘の方へ引っ立てていきました。(中略)アメリカ兵3人のうち、「1人が上半身はだかになって、銃は持ったまま娘を追いかけ回して、つかまえては、また歩けと背をついて、娘が逃げだすと、また銃を置いて追いかけ回して、つかまえるということをくりかえしておりました。(中略)その娘は、「アヤーヨ、アヤーヨ(お母さん、お母さん!)と泣き叫びながら、逃げまわっておりました(中略)。突然「ズドーン」という鉄砲の音がしたので、(中略)夕暮れまでみんな隠れて(中略)。それから娘の様子をみにいくと、こめかみをうたれており、片方のこめかみは大きな穴があいて、弾が出ていなかったのか、もう一方のこめかみは大きくふくれあがっていました。そして大量の血を枕にしてねていました。(中略)沢山の人たちと一緒に歩いているのに、アメリカ兵は、若い娘をその中からみつけると強かんするので、私は、自分と従姉でゆき、私の娘は絶対に行かせませんでした」。
日本の降伏によってアメリカ軍が占領のため日本本土に進駐してきたとき、戦闘終了後の平和進駐であったにもかかわらず、女性を襲って強姦したり、また、日本人一般が最低の生活水準にあえいでいたにもかかわらず、金品の掠奪・強盗をはたらいたりした。1946(昭和21)年4月4日、東京大森のN病院が米兵の集団に襲われた。
「大病室(16人?はいってた。みんな女ばかりだった)からK子(患者)ほか23人がねまきに丹前を羽織っただけの姿でとびだしたとき、アメリカ兵の一団が「ホ!ホ!」と叫びながら突進してくるのがみえた。彼等は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちのふとんを剥ぎとり、その上にのりかかった。村塚セツさん(29・神奈川)の、2日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、1人の兵隊に床に蹴落とされて死んだ。安らかな病室は一瞬にして眼を掩うばかりの地獄と化してしまった。(この病室にはいったアメリカ兵はみんなで9人ばかりだった。)1人の婦人が隅の電話器へとびつこうとしたが、その前にアメリカ兵が拳銃で射ってそれをこわした。(中略)一方、看護婦さんの寄宿舎の裏口からも15、6人(20人以上いたというひともある)のアメリカ兵が侵入してきた。廊下の方からも15,6人やってきたので、彼女たちはどっちへも逃げられなくなった。彼女たちは大声で「助けて!助けて!」と叫びながらそこらにあるものを片っぱしから投げつけて彼等を近寄らせまいとしたが、ここでも拳銃が威力を発揮した。彼女たちはひとりまたひとりと抱きかかえられ、裸にされ、仰向けにころがされた。10分もたたないうちに彼女たちはひとりのこらずアメリカ兵の下になってしまった。ミスN病院のM子などは続けさまに7人の兵隊に犯され、気絶した。(M子のおぼえてるだけで7人である。あるいは6人だったかもしれない、という。)彼等はおよそ1時間ちかくも病院じゅうを荒しまわった。彼等の総数は200人とか300人とかいう説もあるが、おそらく3台のトラックに乗れただけの数ー50人前後ーというのが正確にちかいであろう。60人ほどの婦人患者のうち臨月の婦人や重症者をのぞく40数人が凌辱され、看護婦は17人が全部凌辱され、ほかに15人及至20人の付添婦・雑役婦などが凌辱された。また男の患者が2人、拳銃弾で軽傷を負った(五島勉編『続日本の貞操』)P327-330)
(中略)たとい現在ではまだ少数であっても、アメリカ人の間に原爆投下の罪を自覚した人々が少しずつ増加している事実をも知っておく必要があろう。あのような人々との国籍・人種の相違を超えた連帯のみが、将来における核戦争を防止するためのいちばん大切な手がかりとなるからである。ヴェトナム戦争に反対するアメリカ人の運動が高まっていくなかで、デモのプラカードに「ノーモア ヒロシマ」の文字が掲げられ、それが「ノーモア ウォー」につながっていった(『読売』69年8月7日夕刊など)。原爆の惨禍をなまなましく示す写真などの展示に接した人々は、はじめて原爆の恐ろしさを知った。「真珠湾はどうした。バターン死の行進はどうした」という、あいからずの反応も絶えない一方、「アメリカ人であることが恥しい」というすなおな感想も出てきた(『朝日』70年6月25日「ノート2冊にぎっしり ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展」)。タツツ大学準教授秋葉忠利の企画により日本に来てヒロシマ・長崎の被爆者と語り合った体験を帰国後記事にしたジャーナリストのレポートに対し、「ユダヤ人は、ドイツ人があのホロコーストを正当化することを許さないように、日本人も、ヒロシマ・ナガサキが正当化されることを許さない。歴史自身も決して許すことはないだろう」という感想も寄せられたという(『毎日』81年8月29日「米国人に原爆惨禍知らせる」=『戦争責任』326ページ)。
中国人強制連行の訴訟 本多勝一
30歳代以下の若い世代には「劉連仁」という中国人の名をご存じない人が多いと思う。いや中高年の世代でも分からない人が多いかもしれないが、次のような内容を知れば「ああ、あの人か」と思いあたる人も少なくないはずだ。今から47年前の1958年2月9日、北海道の山中で穴にかくれていた”人間”が猟師に発見された。どす黒い顔で泥まみれ、裂けたズボンは縄でくくられ、1尺半もの髪が2本編まれ、凍傷でふくれたり膿が出たり・・・。これが劉連仁さんであった。1944年に強制連行で日本に来て、炭鉱でひどい強制労働をさせられた。翌45年7月に脱走する。日本敗戦の直前だった。以後、猟師に発見されるまでの苦難の逃亡生活は、『穴にかくれて14年』(欧陽文杉著、三好一訳・三省堂または新読書社)として刊行されている。
中国人強制連行・劉連仁裁判勝利実行委員会によれば、日本に強制連行された中国人は3万8935人、奴隷労働の事業所は135カ所、日本への移送中に船内で564人が死んだ。そして劉連仁さん自身も、2000年9月2日に87歳で亡くなったが、日本の侵略による被害を一身に体現した劉さんは、死ぬ前の1996年3月、日本政府への抗議声明とともに反省と謝罪・補償を求めて東京地裁に提訴した。
中国人強制連行について私が『朝日新聞』で発表したのは1971年(ルポ『中国の旅』=現在は朝日文庫または『本多勝一集』第14巻)だが、若い世代にはこうした事実を知らない層がふえているだろう。いま中国の若者らによる反日的動きが伝えられているが、中国侵略にかかわるA級戦犯等が「祀られ」ている靖国神社を「総理大臣」が参拝するようでは、反日の動きも当然である。来月の午前10時から午後4時半まで、この強制連行事件の東京第2次訴訟控訴審が東京高裁101号大法廷で開かれる。強制連行の被害者・劉清嶺さんと張学仁さんが出廷するほか、龍谷大学の田中宏教授も証人尋問に立つ。前記の実行委員会は、長い開廷中の一部だけでも傍聴を歓迎している。『週刊金曜日』2005年10月28日(『本多勝一の戦争論』P,85~86)

横井庄一と劉連仁(本多勝一『殺される側の論理』(朝日文庫)1984年)
ーグアム島のジャングルに28年間かくれていた横井庄一さんが現われたとき、最初に連想した類似の事件は、中国人の劉連仁さんであった。だが、中国人の劉連仁さんのことを周辺の人々に話すと、何のことかまったく知らない場合が多かった。多くの日本人が連想したのは、同じグアム島で16年目に出てきた伊藤さんと皆川さんだった。類似の人物としてとりあげられたなかでも異色な例は、『朝日新聞』2月5日、6日(1972年)のJ=R=トウィーウィードさん(白井健策特派員発)であろう。このアメリカ人は、同じグアム島のジャングルに、横井さんとは逆の立場で、米軍上陸までの2年7ヶ月間をかくれていた。この記事はおもしろかった。
ーだが、すべてのマスコミ・ミニコミに目を通したわけではむろんないけれど、今これを書いている2月7日現在、劉連仁さんにふれた例はひとつも知らない(注)。
ー1944年9月のある日、中国山東省の農民だった劉さんは、朝食後畑に出ようとしたところを、日本軍の労工狩りにつかまった。門司に上陸して、送られた先は北海道雨竜郡沼田村の炭鉱(明治鉱業)だ。地獄の労働で、次々死んでゆく仲間。あくる1945年7月、日本敗戦の直前に、仲間と5人で脱走した。他の4人はまもなくつかまった。以来、1958(昭和33)年2月までの13年間というもの1人で北海道の山中を逃げつづけ、人里に出ずに穴にかくれつづけたのだ。南方の島と違って、厳寒と雪の季節が長い北海道の山中で13年生きたことが、いかに驚異の事実かは説明を要すまい。
ー戦後13年たって現れた劉さんは、歓迎どころかスパイの疑いさえかけられた。それが晴れても、マスコミの扱いは冷たかった。横井さんの28年とこの13年の差の問題ではない。(伊藤さんらは16年だったが騒がれた。)横井さんも劉さんも軍国主義の犠牲者だが、劉さんのほうが問題ははるかに深刻だ。なぜ劉さんが騒がれず、多くの日本人が知らないでいるか。この現実を、よく考えてみたい。
(『週刊朝日』1972年2月1日号) (注)43ページ、その後、この一文が発表された時点以前に『石油化学新聞』というミニコミ(1月31日号)のコラム(袖出記)で、横井さんと関連して劉連仁さんが思い出されていることを知った。
強制連行の記録ー日本に連れてこられた70万人ー(『日本の歴史』(家永三郎))
うさぎ狩り作戦
1944(昭和19)9月のある日、中華民国山東(シャントン)省高密草泊村の農民、劉連仁(リュウリェンレン)は、村の西はずれの家の葬式にでかけた。妊娠している妻に送られて家をでて、朝のいなか道をしばらく歩いていくと、とつぜん「とまれ!」という声がとんできた。そこには、小銃をかまえた兵士が3人立っていた。日本軍に協力させられていた汪兆銘政府の軍隊(日本と戦う中国人たちは、かれらを傀儡軍とよんでいた)であった。劉は、にげきれず、縄でしばられて、連行されていった。同じような目にあっている近郷の農民たちとだんだんまとめられ、やがて80人ほどになった。暗くなったころ、高密駅に着き、日本人合作社に入れられた。村から女たちがきて、日本兵に父や夫をかえしてくれと哀願したが、日本兵は、小銃の根元のほうで彼女たちをなぐり、おいかえした。翌日、みなは高密駅から列車に乗せられドイツがきずいた近代都市の青島(チンタオ)につれていかれた。青島では、海のみえる競馬場のなかに建てられた収容所に入れられた。華北労工協会の経営するその収容所のまわりには、高圧電流をとおした有刺鉄線がはりめぐらされていた。連行された中国人は、800人ほどいた。数日後、カーキ色の軍服をきせられて中国軍の捕虜にしたてられたかれらは貨物船の底代船倉につめこまれ、ひどい船よいに苦しみながら、おそろしい「東洋鬼」の国へ、輸送されていった。それは、劉連仁にとって、それから15年にわたってつづく苦しみの日のはじまりであった。船では、黒くて小さなとうもろこし粉のむしパンがくばられたが、とてものどをとおりそうになかった。これが「うさぎ狩り」作戦である。
中国人労働者内地移入計画
1942(昭和17)年、ときの東条内閣は、「華人労務者内地移入二関スル件」を閣議で決め、40歳以下の「心身健全ナル」男子を内地(日本全土)に移入し、労働力のたりない「鉱山、荷役オヨビ工業雑役」にあてることとした。また、その促進を決めた1944(昭和19)年の次官会議決定では、中国人労務者の供出とあっせんの指導にあたるものとして、日本軍・日本大使館・汪兆銘政府・華北政務委員会を定めた。その結果、たとえば、山東半島では、半島のつけ根から、10メートルおきぐらいにならんだ日本兵が「労工狩り」・「人間狩り」をしつつ半島をおしのぼる作戦がとられた。1943(昭和18)年のことである。軍から師団・部隊への命令には、こうあったという。
①17~45歳までの男子は、すべて逮捕すべし。
②断髪の女性は逮捕すべし。
③にげる者、反抗する者は射殺すべし。
狩りだされた中国人は、済南(チーナン)・青島・北京・徐州(シェイチュウ)の収容所に入れられ、貨物船に乗せられて、門司港・下関港に送られていった。その総数は、4万1762人という。
北国への「旅」
劉連仁らは、6日間の船旅ののち、北九州の門司港に着き、うち200人が選抜されて、3日間の汽車と船の旅ののち、北海道に連行され、北海道雨竜郡沼田村にある明治鉱業の昭和鉱業所に到着した。そこには、800人ちかい中国人と朝鮮人が連行されてきて、炭鉱に送りこまれ、石炭をほらされていた。北海道の寒さのなかで、かれらは、防寒具もなく、裏地のないひとえの服だけをあたえられ、食べるものといえば、1日の食料が小麦粉1・5袋(30kgたらず)、これを200人でわけて食べなければならなかった。しかたがないから、その粉に雑草・りんごのかす・どんぐりの粉・おがくずまでまぜて、1人あたりちゃわん1ぱいのかゆをつくってすすった。そこで、かれらは、炊事のたびごとに、「腹がへる!腹がへる!」と声をそろえてどなりつづけ、小麦粉をふやし、かゆ3回をかゆ2回・むしパン1回にあらためさせた。むろん、そのむしパンは、100グラムたらずのパン1個にすぎなかったけれど(1977年のいま、町で売っているふつうのあんパンは、1個約80kgほどである)・・・。それで、石炭をほれというのだ。いちおう、10時間交代ということになってはいたが、ほらなければならないノルマがあり、9人で炭車50車分(12・5トン)をほらなければ、あがらせてはくれない。かれらは、はだかで入坑し、安全燈をたよりに、なれない電気ドリルで石炭をほりつづける。しばらくすると、炭塵でからだは真黒になり、人の見分けがつかなくなってくる。大きなからだをもち、そのうえ力が強く、ドリルの使い方のコツをやがておぼえた劉連仁ですら、現場監督の日本人に、2日にあげずなぐられた。そして、さまざまな死者がでた。体力がなくて、よく働けない者は、なぐり殺された。「牛馬におとる食物」に苦しんだ者は、はげしい空腹に目がくらみ、ころんだままおきあがれず、そのまま死んだ。くずれた坑道の中で土におしつぶされた者は、顔が真赤にはれあがり、とびだした目の白眼に炭塵がこぶりつき、歯をむきだして死んでいた。ひたいのカンテラのあかりは、まだ光っていた。そうした日々がいく日がつづいた。長くつらい冬が終わり、春がきて、劉連仁らがここに連行されてきてから9ヶ月がたっていた。そのころ、中国人がにげだすのをふせぐために電流をとおした鉄条網(有刺鉄線の網)をはる工事が進められており、そのためのくい打ちが終わっていた。そのまえににげよう、日本人は日本は島だからにげられないというがそれはうそだ、あるいは東3省(満州)と地つづきかもしれない。とにかく運を天にまかせてやってみよう、何人かがそう考えていた。1945(昭和20)年7月のある夜、月もなく星もない晩の午後9時すぎ、たまたま開いていた戸にたすけられて、劉連仁はにげた。ぐうぜんに、その夜、ほかに4人がいっしょになった。便所のためからくみとり用のみぞにでて、にげることに成功した。5人は、およそ西北の方向に見当をつけて、歩きつづけた。雨にうたれ、風にふきさらされ、眠るときは交代で見はり番をつけた。食物はといえば、野生のにらとか山白菜とか、いちどなどは毒きのこを食べて、もうれつなげりに苦しんだ。やがて、おそろしい北国の冬がやってきた。みなほら穴をほって、そこにうずくまらなければならなかった。むろん、5人は、日本の敗戦を知らなかった。
アリランの歌(朝鮮人のばあい)
強制連行は、朝鮮人にたいしても行われた。そこでは、これまでの朝鮮人にたいする非人間的な差別の「総しあげ」ともいうべきしうちがくりかえされた。強制連行は、表面では、ソウルにある朝鮮総督府から地方行政の単位をとおして行われる募集のかたちをとっていた。これらの役所には、募集のポスターがはられ、「日給2円70銭」とか「2年間で2000円たまる」という宣伝もたくみに行われた。しかし、日米戦争がはじまると、そのやりかたは、あの「うさぎ狩り」にちかくなり、労務係がとつぜん男手のある家の寝こみをおそい、トラックに積みこんで、北海道あるいは九州の炭鉱に送りこむこともはじまった。また、夜おそく京城の町かどで警察につかまり、そのまま列車にのせられて、日本内地向けの船がでる釜山(プサン)港に送られるという例さえあった。ある朝鮮人は、からになった弁当箱をもっただけで、京城・釜山・北海道の炭鉱と連行されていった・・・。連行されたさきの鉱山では、明治以来、日本の鉱山でつづいていたタコ部屋(飯場の労働者管理の方法。暴力団ややくざの力で逃亡・反抗をふせぎ、さまざまの借金でしばって、ひどい労働を強いるやり方)がいっそうひどく行われ、それに、現場監督などをする日本人の朝鮮人にたいするむきだしの差別が結びついて、この世の地獄をつくりだした。宿舎は、日本人・朝鮮人・中国人がそれぞれ区別された。ほとんど独身の朝鮮人労働者は、たとえば30畳じきバラックに20人から40人というように、1人あたり1畳前後でおしこまれた。天井からしたたる雪のしずく、ぶよぶよになった畳、鉄格子のはまった窓、外をまわっている数頭のシェパード、人いきれとストーブによるごみ箱のような悪臭、それは「ぶた箱」という日本語がぴったりする住居だった。食生活は、大豆とか大根の葉とかにんじんとかをまぜて丸い壁についたにぎりこぶし大のつき飯ーこれは刑務所と同じだーと実のない味噌汁。これで、朝4時におこされ、洗面・点呼・食事ののち、坑内電車で入坑し、平均して、12時間ぐらい働かされる。朝鮮人は、班や隊に編成され、「照国一郎」とか「赤城二郎」とかいう氏名をつけられ、のみこみが遅かったり炭車が脱線したり、能率が上がらなかったりすると、顔が紫いろにはれあがるほどなぐられたり、腰がぬけるほどけられたりした。朝鮮人とりしまりのためには、警察や下士官あがりの日本人が多く採用されていた。つかれきった人々のなかには、夕食のときに居眠りしてしまい、ちゃわんを落としたりする者もいた・・・。それでいて、賃金は、日本人労働者の約半分、そして「2000円の貯金」とか「1年契約」とかいう約束は、ほとんどまもられなかった。そして、逃亡者が続出した。なぐる・ける・食事禁止。そのほかのあらゆるリンチと拷問にもかかわらず、朝鮮人は逃亡した。駅や列車に警戒員をおいたが、あまり効果はなかった。
穴にかくれて14年ー劉連仁の戦後 
劉連仁たちは、雪のほら穴で「冬眠」し、日本人の山狩りにあい、北海道じゅうをにげまわった。そのあいだに、仲間はつかまったり、ゆくえ知れずになったりして、やがて、劉連仁1人になった。1人になったかれは、だんだんに穴づくりのこつをおぼえ、人目につかず、水の出ないほら穴をほれるようになった。やかん・マッチ・ブリキかん・女ものの服・バリカン・のこぎり・かさーそして、山にはいって6年目には、皮のオーバーをみつけた(それはアメリカ軍兵士のものだった!)。しかし、ランプ用の石油と袋入りの米5キログラムをみつけたのは、山にはいって13年目だった。1958(昭和33)年2月9日、ひとりの日本人猟師が劉連仁のほら穴をみつけ、警察の派出所に通報した。劉連仁は必死ににげようとしたが、スキーをはいた警察官に追いつかれ、つかまえられた。そして、日本が敗北してから13年たっていることをはじめて知らされた。1958年4月15日、劉連仁は、日本船・白山丸で華北の塘沽(タンクー)につき、14年ぶりにその祖国に帰った。あの日、23歳だった妻の趙玉蘭(チャオユイラン)は、37歳になっており、劉連仁じしんは、46歳になっていた。そして、強制連行の日、妻のからだのなかにあった新しい生命は、14歳の少年に成長していた。-こうして1つのたたかいが終わった。  

*Liu Lianren (simplified Chinese: 刘连仁; traditional Chinese: 劉連仁; 1913 – September 2, 2000) was a Chinese war slave in Japan during World War II. Born in Gaomi, Shandong, Republic of China, Liu was sent to Japan to work as a slave labourer after the Japanese invasion of China. In July 1945, Liu escaped from a Hokkaido coal mine (Meiji Mining Company) and lived in the mountains for 13 years before being found by locals in February 1958. He realized the war was over and requested to be returned to China. In March 1996 Liu and his family sued the Japanese government for compensation as the Meiji Mining Company no longer existed. In a 2001 ruling, the Tokyo District Court upheld his suit in the first instance and ordered the Japanese government to compensate him for approximately US$160,000. The Japanese government filed an appeal which overturned the previous ruling, citing there is no provision for compensation under international and pre-war Japanese law. The Japanese government claimed that Liu had no proof of forced transport or forced labor.
劉連仁沒有看到勝訴這天,我死不瞑目!ー我一生最大的遺憾是沒有看到勝訴的這一天,我死不瞑目! ——二戰勞工劉連仁1996年3月25日,劉連仁在日本友人幫助下向日本政府提起訴訟。歷時5年24次開庭,2001年7月12日,東京地方法院作出一審判決,以“戰后得知劉連仁逃走,卻怠慢了救濟的義務”為由,認定日本政府的行為屬不法行為,責成日本政府向劉連仁的合法繼承人支付2000萬日元的賠償金,但也沒有認定日本政府對強擄負有責任。(《文匯報》) 2005年06月24日16:45 http://opinion.people.com.cn/BIG5/40570/3495602.html
劉連仁裁判にたいする国側の控訴に抗議する
日本中国友好協会理事長      長尾光之
 7月12日東京地裁は、中国から強制連行され、過酷な労働に耐えかねて逃走し、13年間北海道の山野で逃亡生活を送った劉連仁さんが、日本政府の戦争責任の明確化と戦後補償を要求した裁判にたいし、請求額通りの2千万円を下まわらない賠償を行うとともに、従来20年で賠償請求権がなくなるとされていた「除斥期間」については適用を制限するという画期的な判決を下しました。 しかし、国側は23日、判決を不服として東京高裁に控訴しました。その理由は「国に劉さんを保護する義務はない」、除斥期間についても、判決が「国の重大な不法行為に著しく反する」とした点についても「正義公平の理念に反しているとは言えない」というもので、今回の判決の評価すべき積極的な側面とまったく対立するものとなっています。 わたくしたちは、日本政府の戦争責任を明確にする運動を長年にわたってくりひろげてきました。そのなかでも今回の劉連仁さんの裁判にたいしては署名運動や傍聴活動を幅広く展開してきました。日本中国友好協会は今回の国側の控訴に対して、強く抗議するとともに、今後とも劉連仁さんの裁判支援をはじめとする「不再戦」「平和擁護」の活動を多くの人々とともに進めて行く決意です。
https://www.jcfa-net.gr.jp/kenkai/2001/010723ks.html
①According to the Korean historians, approximately 670,000 Koreans, were conscripted into labor from 1944 to 1945 by the National Mobilization Law. About 670,000 of them were taken to Japan, where about 60,000 died between 1939 and 1945 due mostly to exhaustion or poor working conditions. . . According to the United States House of Representatives House Resolution 121, as many as 200,000 "comfort women" mostly from Korea and China, and some other countries and territories such as the Philippines, Taiwan, Burma, the Dutch East Indies, Netherlands, and Australia were forced into sexual slavery during World War II to satisfy Japanese Imperial Army and Navy members.②According to a joint study by historians including Zhifen Ju, Mitsuyoshi Himeta, Toru Kubo and Mark Peattie, more than 10 million Chinese civilians were mobilized by the Kōa-in (East Asia Development Board) for forced labour③According to the Japanese military's own record, nearly 25% of 140,000 Allied POWs died while interned in Japanese prison camps where they were forced to work (U.S. POWs died at a rate of 27%). More than 100,000 civilians and POWs died in the construction of the Burma Railway. The U.S. Library of Congress estimates that in Java, between 4 and 10 million romusha (Japanese: "manual laborer"), were forced to work by the Japanese military. About 270,000 of these Javanese laborers were sent to the Outer Islands and other Japanese-held areas in South East Asia. Only 52,000 were repatriated to Java

①It's self-tortured小林よしのりYoshinori Kobayashi, 竹内義和Yoshikazu Takeuchi, 日本の戦争冤罪研究センターResearch Center for Japanese War False Charges [著Author]②時浦兼Ken Tokiura自称the self-proclaimed 「日本の戦争冤罪研究センター所長Director of the Research Center for Japanese War False Accusation」→「よしりん企画Yoshirin Kikaku」イチの博識である's (NO. 1)one of the most knowledgeable③「不誠実な人間には、世の中に自分とは違う人格があることがわからないA dishonest person doesn't understand that there is another personality in the world. 自分に似せて世の中を見るSee the world in their own likeness. 自分が改竄など平気でやるインチキ人間なものだから、他人もどうせそんなものだと思っているThey're fake people who don't mind falsifying, so they think others are like that anyway」(本多勝一Katsuichi Honda『貧困なる精神』B集、86年)

①2020/01/30ー反日種族主義の象徴「慰安婦」のすべてがわかる! On y voit tout sur le symbole du tribalisme anti-japonais, les "femmes de réconfort" ! つねに日韓間で燻り続ける慰安婦問題La question des femmes de réconfort continue de couver entre le Japon et la Corée du Sud. そもそも創られたこの争点に日本人はいつまで振り回されねばならないのかCombien de temps les Japonais devront-ils être influencés par cette question controversée qui a été créée en premier lieu ?日本人が反日になってどうする!Que font les Japonais lorsqu'ils deviennent anti-japonais?

②2021/02/13ー漫画家・小林よしのり氏が日韓関係を斬るLe caricaturiste Kobayashi Yoshinori sape les relations nippo-coréennes 「弱い政権がポピュリズムに走るUne administration faible se heurte au populisme」「韓国はもうどうにもならないくらいおかしくなっちゃってるLa Corée est devenue si folle qu'on ne peut plus l'aider」「なにをやったってダメPeu importe ce que nous faisons韓国は国是が反日なんだよねLa Corée du Sud La politique nationale est anti-japonaise, n'est-ce pas ?子供の時からずっと反日感情を叩き込まれてLe sentiment anti-japonais m'a été inculqué depuis que je suis enfant、教育からテレビ番組まで全部、反日に染まってるet tout, de l'éducation aux programmes télévisés, est entaché de sentiment anti-japonais.」「結局のところ、日本が土下座して謝って、無限に賠償するっていうやり方でしか、韓国は納得しないんだろうねEn fin de compte, la Corée du Sud ne sera satisfaite que de la méthode du Japon s'agenouillant, s'excusant et compensant à l'infini」③Shūdō Higashinakano東中野 修道He is a professor of intellectual history at Asia University東京地裁の裁判は2007年11月2日判決が出て、東中野の敗訴となったLe jugement du tribunal de district de Tokyo a été rendu le 2 novembre 2007 et Higashinakano a perdu l'affaire「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難くL'interprétation de l'accusé Higashinakano du matériel source n'est guère raisonnable、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではないet il n'est pas exagéré de dire qu'il n'est pas digne d'être le résultat d'une recherche universitaire.」漫画家小林よしのりおよび時浦兼からはLes artistes mangas Yoshinori Kobayashi et Ken Tokiura l'ont décrit comme「最新の研究として一番信用でき、徹底して資料に当たっているle plus fiable des dernières recherches, et c'est une référence approfondie」と評されている←

↑↓⇔これこそ「もうどうにもならないくらいおかしくなっちゃってる」「なにをやったってダメ」?自分勝手、厚顔無恥、幼稚及び傍若無人selfish, shameless, childish and arrogant「進め一億火の玉だAllez-y, 100 millions de boules de feu」(戦中のスローガンslogan pendant la Seconde Guerre mondiale=この時代と何も変わっていないRien n'a changé depuis cette époque)都合が悪いことはすべて「相手」「他の人間」のせいにしてしまうEverything that is inconvenient is blamed on "the other person" or "other people"(自らの側がやられたことだけは(総国民一体となり)猛烈に抗議するThe only thing that has been done to one's own side (all citizens united) protests ferociously)そして何か「災害」(「自業自得」な面もある)をこうむれば、外部から同情してもらい支援を受けるのは当り前だと考えているAnd if you suffer some kind of "disaster" (sometimes these are "self-inflicted"), you think that it is natural to receive sympathy and support from the outside.いつでも「被害者」always a victim. ここまで頽廃、堕落している民族(人間たち)「野蛮な国barbarian country」(本多勝一Katsuichi Honda氏)というのも前代未聞(史上初)なのでは?Isn't it unprecedented (first time in history) that a race (humans) is so degraded and depraved?しかも自分たちは他よりも「優秀」だと思っているAnd you think you're "better" than others「優生思想Eugenic thought」こういうのが「我が国」にとっての’国際化’なんでしょうか?Is this what 'internationalization' is for 'our country'? これでいて「世界の一員」だと認められるのは当然だと信じて疑わないのであれば、しょうがないですねIf you don't doubt that it's natural to be recognized as a "member of the world", it can't be helped<「西欧社会には自己批判の文化的伝統があるWestern societies have a cultural tradition of self-criticism」(故late藤田省三Shozo Fujita氏)>『Let History Judge歴史の審判К суду истории』『Sombre Dimanche暗い日曜日Gloomy Sunday』2022/08/28 ☆Dragon怒羅権Osama加拿大Canada→대일본인(大日本人)Dai Nippon-jin≪Isolement international国際的孤立international isolation≫『わしズムВасизм⇔ファシズムФашизм』Островное государство島国根性insular spirit「Le Japon périra bientôt日本はやがて滅びるJapan will soon perish」Are the Japanese Risking Extinction?『Route vers l'enfer地獄への道Road to Hell』

④Crimes de guerre du Japon Shōwa일본의 전쟁 범죄日本の戦争犯罪日军战争罪行≪Meurtres de masse≫Selon R. J. Rummel, professeur de sciences politiques à l’Université de Hawaii, entre 1937 et 1945, les Japonais ont « tué entre 3 et 10 millions de personnes, vraisemblablement 6 millions de Chinois, d’Indonésiens, de Coréens, de Philippins et d’Indochinois entre autres, y compris des prisonniers de guerre occidentaux. Ce « démocide », selon son expression, était dû à une stratégie politique et militaire en faillite morale, à une opportunité et des habitudes militaires ainsi qu’à la culture militaire. » Rummel soutient que, pour la seule Chine, les conséquences directes de l’invasion furent qu’entre 1937 et 1945 approximativement 3,9 millions de Chinois, essentiellement des civils, furent directement exterminés par les politiques du régime shôwa et 10,2 millions de civils périrent des causes indirectes liées à l'invasion. L’évènement le plus connu de cette période est celui du massacre de Nankin survenu en 1937-38 lorsque, selon les investigations du Tribunal militaire international pour l'Extrême-Orient, l’armée japonaise a massacré 260 000 civils et prisonniers de guerre. Herbert P. Bix, citant les travaux de Mitsuyoshi Himeta et Akira Fujiwara, estime que la Politique des Trois Tout (三光作戦, Sankō Sakusen?, « tue tout, brûle tout, pille tout »), une stratégie de la terre brûlée utilisée par l'armée impériale japonaise en Chine entre 1942 et 1945 et approuvée par Hirohito lui-même, fut responsable de la mort de 2,7 millions de civils chinois. Parmi les crimes de guerre commis en Chine, on peut citer le massacre de Changjiao dans le Hunan : entre le 9 et le 12 mai 1943, plus de 30 000 civils furent massacrés par un corps expéditionnaire japonais dirigé par le général Shunroku Hata.

【参考資料Reference materials】①Русскийロシア語⇒Похищения японцев агентами КНДР (яп.北朝鮮による日本人拉致조선민주주의인민공화국의 일본인 납치Кита-Тё:сэн ни ёру нихондзин рати)Deutschドイツ語→Die Entführungen japanischer Staatsbürger durch die Demokratische Volksrepublik Korea – in Japan meist kurz als Rachi Mondai (拉致問題, „Entführungsproblem“ bzw. „Entführungsfrage“)
②「日本国外とくにアジアの国々において、日本における一連の歴史改竄行為や小泉首相の靖国参拝などのために、いつまで経っても対日感情が改善しない。そのため、日本はアジア諸国との真の友好関係を築けず、世界に真の友とも言うべき国が存在せず、「ご主人」たるアメリカに追従するしか外交の選択がないのであるOutside of Japan, particularly in Asian countries, sentiment toward Japan has not improved due to a series of acts of falsification of history in Japan and Prime Minister Koizumi's visit to Yasukuni Shrine. Unable to build a true friendly relationship, there is no country in the world that can be called a true friend, and the only diplomatic choice is to follow the United States, the "master"
③「・・・北朝鮮の国家犯罪に、日本が国を挙げて怒りの声を上げるのは当然である。だが、私たちの国もかつて、強制連行で肉親の間を裂き、民族差別による虐殺など、かの国の人たちにひどい仕打ちをしてきた加害者であり、その清算もまともに果さないままでいるのだ。自分が殴ったことには口をつぐみ、相手が殴ったことだけをとがめていると言えなくもない。いつの時代でも、どこの国でも、指導者たちは国家や国民のためという言葉を軽々しく口にする。しかし、彼らの思惑に振り回されて犠牲になるのは常に、加害者・被害者の別を超えて、つつましく実直に生きている普通の人たちであることを、この事件を通じて改めて思うIt is natural for Japan to raise a voice of anger against North Korea's state crime. However, our country was once also a perpetrator of cruel treatment to the people of that country, such as the separation of relatives through forced recruitment and genocide due to ethnic discrimination, and the settlement has not been properly completed. I'm in. It can be said that he keeps his mouth shut when he hits himself and only blames the other for hitting him. At any time and in any country, leaders lightly use the words "for the sake of the nation and the people." However, through this incident, I am reminded once again that the victims of their motives are always ordinary people who live modestly and honestly, beyond the distinction between perpetrators and victims」(2002年12月30日『朝日新聞』の投書欄におけるA氏(77歳)
December 30, 2002 Mr. A (77 years old) in the letter column of "Asahi Shimbun")
④「多くの日本国民は拉致事件について、「事実を認め、謝罪し、賠償する」ことを求めているのではないか。中国人がいわゆる戦後補償問題、とくに強制連行・強制労働で要求していることはこの拉致事件と同じことである。一部の日本人は日本の行為は戦争中であったことを免責の理由としているが、被害者にとってはなんの弁解にもならないIt seems that many Japanese people are demanding that they "recognise the facts, apologize, and compensate" for the abductions. What the Chinese are demanding in the so-called post-war compensation issue, especially in forced recruitment and forced labor, is the same as in this abduction case. Some Japanese claim that Japan's actions were during the war, but this is no excuse for the victims」
⑤「小泉首相はまた、拉致問題についても正常化交渉で取り上げたことを説明した。しかし中韓両首相からは拉致問題への言及は一切無かったPrime Minister Koizumi also explained that the abduction issue had been taken up in the normalization talks. However, there was no mention of the abduction issue from the Chinese and South Korean prime ministers」(2002年11月5日『朝日新聞』カンボジアのプノンペンで行われた日韓中首脳会談についてNovember 5, 2002 Asahi Shimbun About the Japan-ROK-China summit held in Phnom Penh, Cambodia)『南京大虐殺改竄派の敗北Massacre de Nanjing Défaite du groupe de falsification historique』


×

非ログインユーザーとして返信する